2014年4月の地平線通信

4月の地平線通信・420号のフロント(1ページ目にある巻頭記事)

地平線通信表紙

4月9日。都内の午後3時の気温は、21℃。大阪市内のホテルで午後1時から始まった、STAP細胞をめぐる小保方晴子さんの記者会見は、延々2時間半を超えている。詰めかけた記者、カメラマンを前に、30才の学者は意外に堂々として見えた。「未熟なミスがあったことはお詫びするが、悪意をもって論文を仕上げたわけではない。」「STAP現象は、何度も確認された事実です。私は200回は見ている」正面を向き、自分の不備を詫びながらも、しっかり言い切った。

◆こんな記者会見が行われる時代になったのだ、とテレビ画面を見ながら、感慨があった。質問する側も相当のレベルを持っていないと、対応できない。STAPとは、「Stimulus-Triggerd Acquistion of Pluripotency(刺激惹起性多能性獲得) 」の略。この際、意味はパスするが、今後、再生医療等への貢献の可能性大、と期待された論文の発表直後から、さまざまな疑問が噴出。理研は「改ざん」「ねつ造」と決めつけ、今日の異例の反論会見となった。

◆「改ざん」「ねつ造」は、インターネット時代に一挙に拡大した概念だ。ほんものより立派に見せる、という技術は、ここ30年、相当進化した、と思う。「コピペは、やるな」と大学などで学生たちに論文指導しているらしいが、そうは言っても、ついつい、というのはあるだろう。

◆数年前、大学探検部の学生からある計画書をもらった。探検するエリアの概念図や国情など実によくできていたのだが、確認のため一度ネットで調べてみたら計画書のかなりの部分がインターネットからのコピーそのままであるとわかりげんなりしてしまった。文章まで自分のものではないのだ。

◆小保方さん問題とは違う次元のことだが、自分の文章を書けない、自分の流儀を持てない人はごまんといる。コピべでない創造的な行動として「登山」があったが、近年はクライミングにしても簡単ではないことは、このたび逡巡しつつ植村直己冒険賞をもらうことにした田中幹也の文章(6ページ)にずばり書かれている。

◆何十年前の話になるが、登山専門誌の『岳人』の巻末には、毎号登攀速報が載っていた。北穂滝谷や北岳バットレス、剣岳などの第一線の登攀は、当事者たちによってこの速報欄に書き込まれ、ライバルたちを刺激しあっていた。私自身、真っ先にこの欄を読む時代があった。当時はまだ壁ルートの「初登攀争い」が行われており、大学山岳部も一線で気を吐いていた。

◆この新年に800号を数えたその『岳人』がモンベルにそっくり引き継がれる、というニュースには衝撃を受けた。「中日新聞東京本社は2日、月刊登山専門誌『岳人』の発行を、9月号から登山用品メーカー「モンベル」(大阪市)の傘下の会社が引き継ぐと発表した。中日新聞は商標権も無償でモンベル側に譲渡する。(以下略)」(4月3日中日新聞)。

◆2006年、『山と溪谷』誌が「わずか4500万円で」ITやデザインを主力とするインプレス社に売却された時もショックだったが、『岳人』は、盤石の中日新聞が出しているのだから大丈夫だろう、と大方は思っていた。それが、突然の経営移譲、それもモンベルに、である。

◆どういう事態なのか。辰野勇会長に今日9時過ぎ、電話で聞いた。いったいなぜ?「一言で言えば、しのびない、という思いやね。山と溪谷だったら引き受けないと思う。岳人はなくすわけにはいかない」。8月号で「休刊」とすることは決まっていて挨拶を受けたが、おそらく「廃刊」になるだろう、と考えた。アイガー北壁の登攀で知られる辰野さんも岳人の記録欄を目指して岩を攀じるクライマーだった。

◆ただ、山の雑誌の編集は簡単ではない。「そこはよくわかってます。あらためて岳人、山と溪谷を見直してみたが、やたらに山ガールを持ち上げたり、何か編集者がぶれている、という感じだね。表紙にもそういうものがあらわれている」。ページ数は減らして読みごたえのあるものにしたい。山の世界の文春、ナショナルジオグラフィックを目指す。表紙は毎号、畦地梅太郎の作品でやりたい、と。健闘を祈る。

◆3月末日、桜につられてアラスカから突然吉川謙二がやって来たのは嬉しい驚きだった。ちょうど20年になる。1994年6月2日、北極海の永久凍土を調査するため3人の仲間と鉄製ヨット「ホキマイ号」で苫小牧港を発った吉川(当時30才)は以後、アラスカに住みつき、大学で教えながら壮大なスケールで研究を続けている。我が家に泊まったついでに原稿を強制した(8ページ)。

◆4月の報告会、また本多有香がやって来る。間もなく出来上がる本の中で彼女の個性的な26匹の犬たちに会えますよ。是非、一冊を手元に。(江本嘉伸


先月の報告会から

宙(そら)の原理

猪熊隆之

2013年3月22日  新宿区スポーツセンター

■中央大学山岳部監督で気象予報士の猪熊隆之さん。ヒマラヤでの登山歴、山雑誌で目にする山岳気象の専門家としての記事。名前のイメージと肩書き、そして地平線通信に描かれた長野さんのイラストから、私は猪熊さんのことを、雪山をイノシシのようにラッセルで前進していく、熊のように屈強な山男だと、勝手に想像していた。報告会で登壇した猪熊さんは「ネクタイ姿のアスリート」という印象の人だった。

◆はじめに猪熊さんが気象予報士として、これまでに携わってきた仕事を、映像を交えながら紹介した。最初に「NHK世界の名峰 グレートサミッツ 世界最高峰エベレストに挑む」の一部を上映した。これは取材スタッフがエベレストに登頂し、山頂からの風景を大型カメラを使ってハイビジョン撮影するものだった。山頂から撮影するために、登頂日は最高に良い条件が求められた。日本にいる猪熊さんが、気象データや天気図、衛星写真やジェット気流の動きなどをもとに、エベレスト山頂の天気予報を行い、現地撮影隊に届けた。

◆猪熊さんの天気予報には、ヒマラヤに挑んだ登山家としての経歴も生きている。エベレストにはローツェフェースという急な雪壁があり、そこは降雪のあと雪崩れやすく、雪が予測される時には前進を避けたい。猪熊さん自身が、これまでの登山経験から、現場の雰囲気やルート上の地形などを把握した上で、総合的にアタック開始日をアドバイスする。

◆この撮影隊は「山頂からの絶景を良い気象条件で撮影する」という課題があり、猪熊さんも「この予報は絶対外せない」という、強烈なプレッシャーがあった。とはいえ、撮影隊はプロだから番組作りに必要な映像は撮ってくるだろう。生還することが何よりも大事だから、最終的に無事下山できれば、天気予報の意味はある、と気持ちを整理した。はたして、エベレスト山頂は、1年に幾度とない最高の天気に恵まれ、世界ではじめての高精細なハイビジョン撮影に成功した。深く青い空と遠望の白い峰々、山頂で歓喜する撮影隊の光景が報告会場に広がった。これは猪熊さんにとって、思い出深い予報の一つという。

◆続いて、猪熊さんの親友で、プロ登山家の竹内洋岳さんの映像。ヒマラヤ8000m峰14座の一つ、ダウラギリの映像が流れた。ベースキャンプのテント内に竹内さんが「いのちゃん」と名付けた、てるてる坊主がぶら下がっていた。竹内さんは毎回遠征のときにてるてる坊主を作っているそうだ。猪熊さんは竹内さんの登山を天気予報の側面から支えている。日本での気象データや天気図による予報を行い、現地実況を交えて、予報を修正していく。天気予報は「竹内さんと一緒に作っている感覚」で、 実況を交えることで予報精度は格段にアップするという。 アタックに最適な日程は随時変更され、好天が予測されるアタック開始日に対して、竹内さんは体調を完璧に整えていくそうだ。「そこが本当にすごい」と猪熊さん。結果、竹内さんは14座無酸素登頂を見事成し遂げた。

◆映像に続いて、天気予報技術についての講義が始まった。ホワイトボードに説明内容を板書しながら進めていく。気象予報士の受験予備校で講師をしていた猪熊さんは、初心者にも分り易く説明してくれた。 現代の天気予報についての説明。「数値予報」と呼ばれ、気象庁が発表する気温、雲量、湿度等のデータをもとに天気と関連づけていくもの。気象と地形は密接に関係しており、地形を想像しながら天気予報を進める。

◆とくにヒマラヤでは日本に比べて気象や地形の情報が少ないため、コンピュータによる天気予報が外れやすい。ヒマラヤの高度では、山頂付近の大気は乾燥していることが多い。登頂には雪よりも風の影響が大きく、ジェット気流が弱まっている時に登るのが望ましい。 大気の安定度、ジェット気流の動き、地形などを柔軟かつ総合的に想像しながら、最適な登頂予定日を割り出す。コンピュータによる気象予報が発達した現代においても、人が行なう意味は、そこにあるのではないか、と猪熊さんは言う。

◆一方で国内の山岳気象予報は、主に登山ツアーやスキー場、交通で活用されているという。登山ツアーではツアー客の安全のために利用され、悪天候でも登頂を望むツアー客に対して、ガイドリーダーの説得力ある判断材料に繋がっているそうだ。そして交通では、例えば立山黒部アルペンルートの除雪作業や運行などで活用されている。猪熊さんの山岳気象予報は、山に近いところで生活を営む人々の、毎日のくらしにも生きているのだ。

◆後半は、猪熊さんの山との出逢い、そして大怪我と病気の壮絶な体験談となった。猪熊さんの生い立ちが、スライドを交えて紹介された。子どもの頃は地図が好きで、小学1年生の時には世界地図をそらで描けた。地図を見ながら、空想の都市や町を図上に描くのも好きだった。特に河川が好きで、蛇行する曲線の上を、自由に空想しながら旅し、鉛筆で都市を描き上げた。高学年になると地図に加えて天気にも興味が湧いていった。

◆家族旅行では新潟から群馬に入った瞬間、トンネルを抜けた車窓の景色が大きく変化したことに衝撃を受けた。それが天気に興味を持つきっかけになったのかもしれない、と猪熊さんは言う。 次々にスライドは進む。会場いっぱいに鮮やかな色彩が広がった。それは 猪熊さんが中学生の頃に想像して描いた気温分布図。北陸地方から関東周辺の手描き地図の上に、色鉛筆のグラデーションが格子状に並ぶ。色とりどりの緻密な図は印象派絵画のようで、とても美しいものだった。

◆気象に没頭する中学時代を経て、高校時代は辛いことから逃げる日々。高校では午後の授業をサボってパチンコ。友だちに攻略を教わり、勝ったお金で遊んだ。その瞬間は楽しいけれど、3年間が終わると何も残らなかった、という高校生活。卒業後はアルバイトをしながら浪人して中央大学に入学した。このままでは「何もできない大人になってしまう」という気持ちがあった。体力も精神力も弱い自分を、鍛えられる部活を探した。大学からでも始めやすく、山を眺めるのも好きだったため、山岳部に入部した。

◆「山を始めてから、生きることがすごく楽しくなった」と猪熊さん。この言葉を聞いた瞬間、ダイレクトに心を打った。鳥肌が立った。これほどストレートで強い言葉があるだろうか? 入部当初は、胃腸を壊して体重40kg台前半。挑んだ谷川岳新人合宿では、土合駅の460段の階段で足が吊ってしまうほど、弱かった。それでも1日1日と辛い日を乗りこえた。さらに夏山合宿の3週間を乗り切ると自信も少しずつ付いた。自分の弱さを自覚して、人よりも多くのトレーニングを積み重ねた。

◆当初は一番弱かったが、3年生の頃には部内で1、2番を争うほど強い部員になった。山が楽しくて仕方が無かった大学3年生の冬、富士山で突風にあおられて滑落。命は助かったが、自分では動けず、厳冬の富士山頂付近で25時間のビバーク。それは途方もなく長い時間に感じられたという。翌日の昼にようやく仲間に救助され、病院へ。診察した医師も「これはひどい」と言ってしまうほどの重傷だった。

◆左足首の骨が粉々になり、それが肉を突き破って外に出た状態の開放性粉砕骨折。大量の血液が登山靴の中で凍り付いて、酷い凍傷だった。凍傷の影響で麻酔が使えないまま、緊急手術。その2週間後、根本的に治療するため、10時間に及ぶ大手術。この時も呼吸困難と出血多量で後半は麻酔が使えず、術中は痛みで意識を失っては目を覚ますことを繰り返し、この世のものとは思えないほどの壮絶な手術だった。手術は成功し、リハビリを経て2年後には再び山へ。この時のブランクが、猪熊さんの山への情熱に火をつけた。その後はチベットの未踏峰登頂、ヒマラヤ高所登山の面白さにも目覚めた。「私は順調にものごとが進んでいる時に、何かが起こるんです」と猪熊さんはいう。

◆1999年の秋、猪熊さんはシシャパンマ南西壁とチョー・オユーに挑戦する予定だった。高所順応で富士山頂に泊るなど、準備を進めた。しかし、下山しても全く食欲がなく、体調に異変を感じた。徐々に悪化、ついにベットから身体を起こせなくなった。検査を受けた病院からの電話で、急性肝炎と告げられる。すぐに自分で救急車を呼び、即入院。命の危険を告げられるも、数か月の入院の末、急性肝炎は治った。その後も、40歳までに登る山の目標を定め、登山中心の生活を送っていた。ヒマラヤに向けた心肺機能向上のトレーニングとして、トライアスロンに取り組んでいた、ある日、いつものように走り終えると足が異常に腫れていた。富士山の事故から12年、まさかの慢性骨髄炎発症だった。

◆3日間で仕事を引き継ぎ即入院。数か月の治療で退院はできたが、常に再発の恐怖がつきまとった。 骨髄炎を抱えての生活は、登山どころか日常生活も不自由な状態に。山には登れなくなり、山に関わることも辛くなった。部屋に貼っていた山の写真をはがし、山道具も売り、山と距離を置くようになった。15年以上続けていた山岳部のコーチも辞めようと思い、決意して挑んだコーチ会。しかし、山の仲間との心地よい時間に、命湧くような山での感動を思い出した。

◆それまでは、自分の限界を伸ばすことが、山の喜びだった。登山前の恐怖心と登攀した後の充足感があるからこそ、実感として普段の自分が貴重に思えた。だから自分が登れなくなったら、終わりだと思っていた。しかし、仲間との対話で、「山には登れなくなっても、山と関わることはできる」と思うようになった。自分なりの答えとして気象予報士になることを決意した。そう決めた時、骨髄炎の絶望のなかに希望の光を見いだした。

◆骨髄炎の治療として、高気圧酸素療法を受けた時のこと。偶然にも治療室内で竹内洋岳さんと再会する。猪熊さんが山の天気予報を考えていることを伝えると、「それじゃあ、僕の山の天気予報をしてよ」という言葉を受けた。それまでは国内での山岳天気予報を考えていたが、目標はヒマラヤへと広がった。 予備校に通い、病気と闘いながら気象予報士試験に一年で合格した。

◆どこの病院に行っても「完治は無理」と言われる中で、猪熊さんは骨髄炎の治療を諦めかけていた。登山家の小西浩文さんに「いくつ病院回ったんだ? そんなんで諦めていいのか」と言われたことがきっかけで、改めて治療法を探すことに。イリザロフ法という治療法を知り、診察を受けた。その結果、猪熊さんには適用できなかった。しかし、病院の医師は継続的に他の治療法を模索してくれた。そして同じ病院の世界トップレベルの技術を持つ医師に、検査、手術をしてもらえる事になった。14時間の大手術後、麻酔から覚めて1週間は拷問のような痛みと闘った。大手術は無事成功。奇跡的に再び走ったり、山に行くこともできるようになった。そして大好きな温泉にも入れるようになった。今は山岳天気予報など目標にしてきたことを次々と実現できているという。

◆「先輩方の前で、人生の教訓を話すのは恐縮なですが」と、猪熊さんは続けた。春は必ず来るように「辛いことは続かない」。人間は辛いことがあっても、忘れるようにできている。手術で経験した強烈な痛みは、辛かった記憶はあるが、痛み自体を今は思い出せない。人生では必ず困難や壁にぶつかるけど、それは新しい可能性を拓くチャンスなんだと思える。

◆現状に満足している時は、それを維持しようとして成長できない。困難にぶつかって、初めて自分なりの生き方を真剣に考えるようになる。 絶望的な骨髄炎の治療の中で、「自分の人生はそういうものなんだ」と一度は諦めかけた。しかし「自分には病気になった理由がある」と考えるに至った。人と「違う」ことは、その人が存在する最大の理由だと思った。その人だけの「何か」が絶対にある。悪いことの裏側には良いことが隠されている。

◆恐いけれど、勇気を持って一歩を踏み出せば、山と同じく景色が変わり、「新しい何か」が見えてくる。骨髄炎になって、初めて猪熊さんは気象予報士になろう、と思った。多くの山の人達に支えられて、今の猪熊さんがある。「山の人達は同じような苦労を知っているからこそ、無条件でいろんなことを応援してくれるんだと思う」。

◆骨髄炎になる前は、自分が主人公として登山することにしか興味が無かった。しかし、病気になり、気象予報士になり、はじめて登頂者を裏方で支えることの素晴らしさを知った。そして山の見方も全く変わった。以前は、岩や雪のようにアドレナリンが湧き出るような山にしか興味が無かったが、今は森や鳥のさえずり花のすばらしさにも興味が湧いている。「新しい人生の楽しみを教えてくれたのは、苦しかったけど骨髄炎のおかげなんだと思う」と猪熊さんは言う。

◆富士山での大怪我や慢性骨髄炎があったからこそ、楽しい人生だと思える。だから、たとえ慢性骨髄炎が再発したとしても、また別の何かを見つけるかもしれない。会場は猪熊さんの言葉に圧倒されていった。私はメモを取る手も動かせなかった。猪熊さんの話は加速度的に迫力を増し、言葉は力強い魂となって、次々と胸に飛び込んできた。「いろんなことがあるからこそ、人生は楽しいんだ」壮絶な辛さを何度も乗り越えたからこそ存在する、山との新しい関わり。猪熊さんの熱い言葉には、山や出逢った人々への思いが、 ずっしりと詰まっていた。(山本豊人


《お詫び》

 先月号の地平線通信で福田晴子さんが書いてくれた報告会レポートで編集部ミスがありました。

◆冒頭、2ページの1行目に「7回目(これ、確認します。もっとやったのでは?)」との意味不明のコメントが入ってしまいましたが、削除します。

◆2ページ右下の最後「差別ならまだ分かる、まだ」で切れてしまっています。
 これは、「差別ならまだ分かる、まだ許せる」とあるべきでした。「分かる、まだ許せる」が抜けています。今後気をつけます。福田さん、賀曽利さん、ごめんなさい。


報告者のひとこと

とても爽やかな気持に

 「好きなことを話してください。」「原稿は用意しないでください。」江本さんからこう言われたときには、正直とまどいました。そういう講演会はこれまでになかったので。

 終わったとき、とても爽やかな気持ちになりました。こんなに気持ちよく話せたのははじめてでした。ご来場いただいた皆様との不思議な一体感を感じました。ありがとうございました。

 いよいよ、あと2週間でヒマラヤに出発です。初めて、ヒマラヤを訪れたとき、飛行機の上から見たカトマンズの町に衝撃を受けました。「茶色の世界!」そして、その地に降り立ったとき、その衝撃はさらに大きくなりました。沢山のポーターに囲まれて恐怖感を覚えたことが今は懐かしく思い出されます。

 最後に行ったヒマラヤから早9年。パスポートもとっくに切れて取り直し。なんか海外旅行1年生の気分です。どう変わっているのだろうか? 友人は元気だろうか? とても楽しみな気持ちと、足の持病は高所でどう影響するのだろうか? いい予報が出せるだろうか? 不安もあります。登山もそうですが、不安がない登山は面白くありません。今回も緊張感を保ちながら、楽しく仕事をしたいと思っています。何より、ずっとやりたかった現場での予報ですから。行ってきます!(猪熊隆之


東京での初・地平線報告会。猪熊さんに出会えたことが私にとってどんなに大きなことだったか……

■地平線通信の読者になって約3年。大阪在住のため、一昨年の夏に南相馬報告会に参加したのだけが唯一の地平線ナマ体験で、東京での報告会に参加したことはありませんでした。が、このたび、めでたく報告会デビューを果たすことができました!

◆フリーライターという職業柄、全国に出向く割には東京での仕事は存外に少ないのですが、今回はドンピシャリ。28日と29日に都内で取材仕事が入ったのです。しかも、28日の取材場所は新宿。これはもう地平線の神サマが降りてきたとばかり、取材後、報告会会場に馳せ参じました。

◆15分ほど遅れて到着すると、すでに席は8割方埋まっており、空いていたのは最前列。畏れ多くも猪熊さんの目の前に陣取る形に。ちょうど猪熊さんが関わったNHK「グレートサミッツ」のVTRが終わったところで、その後、ハナシは山岳気象予報の仕組みや仕事のしかたなどについての説明に移りました。

◆高校、大学とワンゲル部だったわりには気象の知識が乏しい私には、それなりに興味深いお話でした。ですが、正直に言えば、「山岳気象予報のハナシ」にさほど興味を持って参加したわけではありません。どちらかと言えば、「報告会に初参加すること」がモチベーションの大半を占めていたのであり、失礼を承知でさらに告白すれば、「あーどうせなら来月の報告者である本多有香さんのハナシが聴きたかったなあ」などと内心思っていたのです(猪熊さん、ゴメンナサイ!)。

◆ところが、ところがです。気象予報のハナシが一段落したあと、猪熊さんが山岳気象予報の仕事を始めるまでの来し方をとうとうと語り始めるや、私の両眼は大きく見開かれ、空腹は吹き飛び、持病の腰痛も意識の外へと逃げていきました。「山に出会ってから自分は変わった」という猪熊さんの、その変わりようの凄まじさ。痛いこと、辛いことが超苦手なへなちょこ野郎の私には、聴いているだけで冷や汗が出てきそうな苦境に何度も遭い、それでも逃げずに前に進み続ける姿は、まるで修行僧のように思えました。「高校生までは、とにかく嫌なことから逃げてばかりいた」という彼の、どこにそんな力が秘められていたのでしょう。

◆「どんなにつらいことも決してずっとは続かない」「苦しみや失敗からは必ず得られることがある」「病気になったからこそ今の自分がある」……。どこかしらで聞いたことのあるような言葉の一つひとつが、これほど重みと実感を伴って胸に迫ってきたことはありませんでした。

◆猪熊さんの壮絶な人生とは比ぶべくもありませんが、私もここ数年、ちょっとした試練が続いてきました。離婚、元夫の余命宣告、父の看取り、母の介護。昨年末に母がグループホームに入所し、ようやく山を越えたところです。つらい時、折に触れて胸の中でつぶやいてきた言葉は、「この苦しみが、いつか人の役に立つ時が来る」でした。

◆猪熊さんはまさに、自らの苦境を受け入れ、そんな自分が人のためにできることを実行に移した人。今ようやく動き始めたばかりの私には、まだまだ何ができるのか何をすべきなのか定かではありません。でも、この時期に猪熊さんに出会えたことは、きっと何らかの形で今後、私の背中を押してくれることと思います。地平線通信の読者でよかった。報告会に参加してよかった。2次会でウワサの「北京」に行き、皆さんと交流ができたのもうれしかった……。江本さん、猪熊さん、そして地平線会議を愛する皆様、どうもありがとうございました。(金谷眞理子 大阪府)


すばらしかったです、猪熊隆之さん。感動しました。その不屈に

■富士山滑落から生還するのに実に20年かかった……感じ。幼少のころからの自分自身とピッタリ繋がってるのも感動しました。新しいルートを模索してパイオニアワークとして山にかえってきた。実に想像的・創造的なお話しでした。

◆猪熊さんが、子どものころに描かれていた「空想の町」の絵のことを二次会で聞いてみました。山の上の方に町があるとか、川が好きで川に沿って町があるとか。なんと、絵は「実家にまだあるかもしれない」とのこと。なんだか描きまくってた様子。きっといくつかは、残っているだろう。いつの日にか「ぜひぜひ、見たい」と想いを伝えました。ほんとうに見れたらめちゃくちゃ嬉しい。(緒方敏明


短  信

豊岡市の植村直己冒険館館長に再着任しました

■4月1日付けで植村直己冒険館に館長として再び勤めることとなりました。2011年5月に東京(明治大学)で開催した「日本冒険フォーラム」では、江本さんをはじめ地平線会議の多くの方々にお力添えをいただき感謝にたえません。現在、第2回目を計画しているところです。どうか今回もこれまで以上にご相談に乗って頂けますよう。(吉谷義奉 よしたに・よしとも)


最初に思ったのは「辞退」だった。
━━植村直己冒険賞受賞の知らせを受けて

■素直によろこべなかった。植村直己冒険賞の受賞の知らせを聞いて、最初に思ったのは「辞退」だった。辞退の理由は2つある。自分のやっていることが冒険であれ自己実現であれ、大衆に受け入れられてしまったらオシマイと前々から思っていた。ほんとうに先鋭的だったり独創的だったりする行動は、たいていなにがなんだかさっぱりわからないで片づけられる。

◆芸術の世界で「落選おめでとう」というシニカルなコメントを聞いたことがある。冗談半分だが、真実をついている。究極なまでに独創的な世界は、多くの大衆は受けつけない。大衆が好むのはほどほどの過激さでありほどほどの独創性。裏を返せば受賞したということは、自分の行動が後退しはじめたともいえる。

◆辞退したい、と思うもうひとつの理由に、植村直己の行動にさして共感をおぼえないことがある。植村直己の登山は突出したレベルとはいいがたい。五大陸最高峰登頂は、今やお金で買える夢。このあたりは登山史をすこし調べればわかる。たとえば植村直己がエベレストに登頂した翌年の1971年、サラグラール(7184m)西壁初登という記録がある。エベレストより遥かに厳しい氷雪をまとった急峻な岩山。当時最先鋭クライマーといわれた古川正博らが登っている。山名もクライマー名も、大半の人にとっては聞いたことがないカタカナと名前だろう。

◆「山高きが故に貴からず」ということわざではくくりきれぬほど、登山というものは数値で還元しきれない。高度に専門的なものは大衆の目にピンとこない。植村直己の登山は、大衆が理解できる範囲で最高レベルの登山ともいえる。「植ちゃんの人柄はサイコーだけれど、世間は彼のことほめすぎだよ」とはそれなりのクライマーがささやいている。

◆植村直己は人柄が良すぎたために、損な役柄を押しつけられたのと引き換えに無理やりスターにされてしまった。そう言ったら登山界の長老たちから袋叩きに遭うだろうか。ひょっとしたら一人くらいは、オマエよく言ってくれたとなるかもしれない。故人を酷評してスミマセン。

◆いっぽうで受賞の知らせを聞いて、ヤッター、というよろこびの気持ちもあった。審査において、結果よりも過程に目をつけてくれたことがなによりも嬉しかった。結果だけでは測れない価値観がたくさんある。判定で負けたけれど良い試合だったというのは、多くの観衆を感動させる。

◆冒険の世界では、参加賞に近い勲章がたくさんある。最近は言った者勝ちになっている。表現だか誇張だか嘘八百だか。派手なパフォーマンスがいつのまにか困難な行動にすり変わっている。ウソも千回つけば事実に昇格しちゃう。これじゃあクレームの世界と五十歩百歩。三度の飯よりも山が好きならぬ三度の飯よりもホラ吹きが好きという登山家は意外に多い。

◆真に困難な課題は、そう簡単に解決しない。時間とお金だけでなく命まですり減らしても実現しないのが、真に困難な課題なのだ。成功といっても、低いハードルを乗り越えても価値はうすい。失敗といえども、高いハードルに全力であたるならば行動そのものに価値があろう。

◆今回の受賞は、表には出ないけれど真摯に困難を追求する人たち、若くして志半ばで果てた人たち、そうした人たち皆でもらった栄誉だと解釈している。たまたま自分が、地を這う群れの代表になっただけ。そうしたさまざまな背景が、最終的に受賞を受け入れることになった。

◆さて今回の受賞はやはりひとつのターニングポイント。すでに大衆に受け入れられた厳冬カナダは、チャレンジではなくなった。自分の冒険の規準は、中途ハンパに勉強した人や中途ハンパな経験しか積んでいない人に「危ないから止めたほうがよい」といわれたときにゴー・サインを出す。1995年以来20年間つづいた厳冬カナダのエクスペディションは、冒険賞受賞がきっかけで、以後の計画をいっさい放擲することになった。

◆カナダの雄大な自然やホスピタリティーあふれる土地の人たちはあいかわらず好きだ。カナダとはこれからも末永くつき合っていきたい。たとえば自然条件の厳しくない季節にふらっと訪れる。目的はない。気の向くままに街に滞在する。ぼんやりと目の前の光景をただ眺める。南の島へ気分をリセットしにゆく感覚に似ているかもしれない。集中していると見逃してしまうものがある。肩の力を抜いてはじめて見えてくるものがある。これまで20年間のカナダの旅では見過ごしてきてしまったものが見えてくる気がする。そんな旅をいま思い描いている。

◆飽くなき冒険はこれからもつづく。厳冬カナダの次なる舞台としてイメージしているエリアがある。カナダにくらべるとスケールは格段にちいさい。そして地味な土地柄だ。でもマイナーすぎるところに魅かれる。きっと厳冬カナダにはなかったなにかがそこにはあるはずだ。すでに想像力のなかで世界がふくらみはじめている。

◆というわけで受賞の知らせが届いてから、受け入れるまでひたすら悩んだ。真の芸術家・緒方敏明に何度も相談した。植村直己の軌跡を再確認しようと図書館に足を運んだものの、気がついたら太宰治の生涯を読みふけっていた。賞というものは行動に対する偶然の結果であって目的ではない。挫折、絶望、断念というたくさんの影が重なりあって、栄誉という一筋の光を浮かびあがらせている。

◆ちいさな結果に一喜一憂しない器の大きな人たちが一人二人と壇上から降り、栄誉という道を快く他人に譲ることによって、はじめて賞というものは成り立つ。賞とは強い(器の大きな)者に贈られるのだろうか、それとも弱い(器のちいさい)者に贈られるのだろうか。しばらくは熟考することになりそうだ。受賞をすなおに喜べなくてスミマセン!!(田中幹也

★田中幹也さんの植村直己冒険賞受賞は、3月18日、都内で記者発表された。授賞式は6月7日、植村直己の故郷、兵庫県豊岡市で行われる。

ベトナムが寒いって、どうして誰も教えてくれなかったのー! “カブ”で省エネアジア旅

■2012年6月の韓国を皮切りに、台湾、タイ、カンボジア、ラオス、インドネシアと断続的に行っている東南アジアツーリング、2013年12月〜2014年3月にかけては、ベトナム縦断&マレー半島縦断を達成しました。どちらも使用バイクはタイ製のカブ。現地の人が普段の足として乗っているバイクなら簡単に安く買えるというのが理由ですが、なんといっても50〜60km/リットルという、燃費の良さが大きな魅力です。ガソリンの値段って、産油国じゃなければ日本とあんまり変わらなくて現地の物価からするとかなり高いんです。

◆ベトナムではホーチミンシティのバイク屋で中古バイクが簡単に買えました。メーターが壊れていて走行距離不明の中古のHONDA・WAVE110cc(タイ製カブ)が350USドル。程度はそれなりでしたが調子が悪くてもバイク修理屋はあちこちにあって、その場で修理してくれるし、値段も安いので便利で安心です。何しろ、ベトナムはバイク天国。車よりもバイクの数が圧倒的に多いので集落には必ず修理屋さんもあるしガソリンも売っています。メカがわからないからとバイク旅を躊躇している人にもオススメできます。私も工具を持たずに1か月半、なんとかなりました。

◆ベトナム縦断といえば北海道ローカルのTV番組「水曜どうでしょう?」で大泉洋が1週間でハノイからホーチミンまでバイクで走ったことで一部の旅人には有名ですが、はっきり言って、彼らが走った国道1号線は交通量も多くて景色も単調、一番つまらない道でした。内陸部のホーチミンルートのほうが断然面白いし、メコンデルタでは車が通れない細い道もたくさんあり、小型バイクならではの機動性を生かした旅ができます。

◆ところで、ベトナムってけっこう寒いんですね。北回帰線より南なので暖かいイメージがあったし、同緯度のカンボジアやタイは暑かったので同じくらいと思ってたのですが、半袖で走れたのはメコンデルタだけ。あとはずっと寒くて天気も悪く、ビーチで泳ぐなんてとてもムリ(裸でビーチにいたのはロシア人だけ)。現地で長袖下着を調達して乗り切りました。ベトナム人もダウンジャケットを着ているし、北部のサパではなんと雪まで降ってびっくり。どうしてベトナムが寒いって誰も教えてくれなかったのー!

◆第2弾はタイからシンガポールまでのマレー半島縦断です。ベトナムからラオスへバイクでの国境越えができなかったので、ハノイでバイクを売ってタイへ飛び、昨年新車で買って預かってもらっていたホンダ・DREAM110cc(カブ)に乗り換え、今度はシンガポールを目指す旅でした(タイ北部、ラオス、カンボジアは昨年3か月間かけて旅しました)。マレーシア、シンガポールへの国境越えもスムーズで、帰りは鉄道でバイクごと一気にチェンマイまで移動するという裏技で日程を短縮できました。

◆旅の様子は、夫のけんいちが毎日ブログに書いていたので、ぜひ見てくださいね。http://pocoken.com/?page_id=22

 それにしても、東南アジアとひとくちで言っても国によってかなり違うんですね。陸路で国境越えをするとその変化を目の当たりにできて面白いですよ。バックパッカーとは一味違う、カブでの東南アジアツーリング、近年はオヤジ世代にも人気で、タイ在住の日本人を中心に流行っているようです。

◆というわけで、東南アジアツーリングを無事に終えて3月19日に帰国しましたが、帰国後1週間で実家の父が肝臓がんの再発で他界、その後はやや認知症気味となってしまった母親のケアなどに追われる日々です。福島にもあまり戻れない状況ですが、ひと段落したらペットレスキューボランティアにも復帰したいし、しばらくは日本でできる範囲のことをガンバリマス。(滝野沢優子

日本滞在25時間トランジットでついに花見ができました!
━━吉川謙二、永久凍土の観測網作りに極地を奔走中!!

■花見、夜桜、桜吹雪……。この時期になると、いつも頭をよぎるけどなかなか日本に来るチャンスを逃し、もう10年、いやそれ以上経ってしまった。理由の一つに、春は、北極で暮らす者にとって特別な時期だからだ。1日の昼の時間も長くなった上、透き通る青空、移動に楽などこへでも行ける雪原、おまけにまだ蚊は本格的に出てこない、今まで重たいボーリング機材を運びだすのにこの上ない時を逃したくなかった。

◆アラスカへヨットで出かけて20年。その他の季節がどうあれ、この春の青空だけのためにアラスカで暮らしていたとしても満足できる、そんな素晴らしい季節だ。ただ、今年はちょっと状況が違った。昨年からシベリアで暮らしていて、家族の居るアラスカに行くとき、日本はちょうどそのトランジット位置にあるのだ!

◆早速桜の開花予報をみるといいタイミングだった。南極隊のときの副隊長だった松原(尚之)に連絡して、花見幹事になってもらい、やっと念願がかなった。21年前に南極出発前に隊で花見をした時のように、人影まばらな飯田橋界隈で25時間の東京トランジットを十分楽しめた。3次会で江本さんに会い、「近況を地平線通信に是非!」ということになり、今こうしてコンピューターに向かっているのである。

◆最近の10年、私はアラスカの集落を中心に永久凍土の観測網を作ってきた。これは、学術的データーの収得だけでなく、地域住民の気候、凍土理解と記録を将来、環境が大きく変わったときのため、我々の世代がどうだったか? スナップショット的な(タイムカプセル的な) 本“permafrost in our time”を刊行するためである。詳しい説明はここではしないが、要はなるべく多くの村でボーリングをして、同じ計測設置をして、学校でトンネルマンのビデオを流すという楽しい企画である。

◆北極のいろいろなところ、できればすべての村を訪ねてみたい私としては最高のプロジェクトと言える。移動手段は、車、ボート、飛行機、スノーモビルから動物曳き橇に至るまで何でもありの効率重視の出歩きだ。アラスカには約200の村があり、それも5年あまりで、数回ずつ、すべてを訪ね歩いた。アラスカのあとカナダへ進出し、特に昨年はスノーモビルでアラスカからバフィン島のイカルイットまで主に北西航路沿い6000kmあまりの村を訪ね歩いた。

◆途中ケンブリッジベイでは、角幡唯介君の天測実験旅行の豪快談を耳にすることができた。現地のポリスマンもこんなすごい男はみたことないと絶賛していた。そして今、北米大陸の集落もほぼ終わり、最近はシベリアへと重点地域がシフトしてきている。ただ、ロシアは西側諸国のように楽でないので、手間がかかる。ロシアでは予定の2倍の予算と3倍の時間がかかると、よく研究者の中で言われているが、全くその通り、いやもっとかもしれない。

◆おまけに常に公式文書、スタンプがないと仕事ができないので、効率がすこぶる悪い。結局最良の打開策として、去年からアメリカ政府の支援でヤクーツクのロシア北東連邦大学の客員教授という立場になった。これでロシアでの活動がアラスカ大学のよそ者ではなく、公に連邦大学の国内プロジェクトとして機能し、私はそのためにシベリアのあらゆるところに比較的簡単に出かけられるという寸法である。

◆そんな訳で現在、オビ、エニセイデルタのヤマール地域、バイカル周辺の少数民族、サハリン北部、ヤクート(サハ共和国)全域、チュコットカの村で穴堀り作戦を展開している。あと数年で、ほぼすべてのシベリアの地域に設置が終わる予定だ。最終的にはロシア語版で“permafrost in our time”の刊行、シベリアで配布し、現在進行中のその他の永久凍土のある地域、国の情報をひとまとめにした最終版の準備をしている。

◆これにはアラスカ、カナダ、ロシア、グリーンランド、スカンジナビア、中国(チベット、天山、東北部)、モンゴル、日本それにハワイ(マウナケア)、タンザニア(キリマンジャロ)、メキシコ、ペルーからアルゼンチン、チリのアンデス山岳永久凍土もふくまれる。というわけで、近年は熱帯の山に出かけたり、北米をスノーモビルで走ったり、シベリアの冬道(ジムニキ)をランドクルーザーで走ったりという楽しい毎日です。

◆この冬シベリアでは、おかげで人生の中でも印象深い冬になった。連日−50℃台のなか、コリマ川流域まで原野、凍った川を走った。日本から持っていったガソリン車のランドクルーザー80を使ったのだけど、フロントガラスを含めすべての窓を二重ガラスにしたり、ロシアヤクーツク式寒冷仕様に改造した。フェアバンクスの冬も寒いけれどヤクーツク式寒冷仕様のような本気の車の改造はなく、大変参考になった。

◆また、寒ければ寒いほど、森が美しく見えるのが不思議だった。この夏は、アルタイ方面とまたカムチャッカ方面に出かける予定をしている。ただ、このプロジェクトはデーター回収も含め2、3度は再訪しなくてはならないので、時間と根気(とお金)がかかるので、ちょっとゆっくりとはしていられないのが残念だ。(アラスカ・フェアバンクス住人 吉川謙二

非暴力、平和に徹する学生たち
━━台北で“ひまわり学生運動”の現場に立って感じたこと

■3月30日。台北の総統府にほど近い駅に降り立った時に目にした光景を、僕は一生忘れることはないだろう。道という道、目の届く全ての視界の限りが、黒い服を装った台湾全国から集まった人で埋め尽くされている……。三味線を手に、唄のある風景を求めて足繁く通い続けてきたこの島国で、まさかこのような場面に遭遇するとは思いもよらない事だった。

◆3月中旬、僕は台湾南東部に浮かぶ蘭嶼にいた。そこはタオ族という伝統的なトビウオ漁を今も受け継ぐ海人の島で、僕は5年振りの台湾一人旅を計画し、彼らと海に潜ったり酒を呑み交わす日々を送っていた。ある日、ふと見た食堂のテレビから衝撃的な映像が流れてきた。3月17日に台湾与党が中国との“サービス貿易協定(昨年6月に馬英九総統が国民はおろか首相にまで知らせずに秘密条約として調印)”を強行可決したことを受け、協定撤回を求めた約200名の学生が立法院(台湾の国会)を占拠したのである。

◆馬総統が「台湾の国益の為」と主張するこの協定は、金融、通信をはじめ多分野にわたり中国に有利な不平等条約で、大資本に金が流れることで中小企業が9割を占める台湾国民にとって大打撃になるばかりか、いずれは経済植民地化が進み言論の自由を奪われた香港のように、中国に台湾が呑み込まれるという多くの台湾人が最も望まない未来へと急速に拍車をかける可能性が大きい。今回の前代未聞の立法院占拠には、民主的なプロセスを無視した台湾の既存政党への不信感に加え、発効を急ぐ中国への警戒感が大きく作用している背景があった。

◆はじめ、僕は事態が理解できないまま孤立していた。日本のメディアからは現場の緊迫した有力な情報は得られず、YouTubeの動画は中国側に次々と削除されていった。ある日を境にFacebook上の台湾の友人達のプロフィール写真が真っ黒なブランク画面に変わったことに愕然とした。後に運動を支持する意思の表明とわかったが、彼らの悲痛な叫びが僕にも伝わった。やがて、この状況を世界中の人々に知ってもらおうと、学生達がインターネットを駆使して各国語に翻訳した情報を拡散、おかげで、僕もこれらの状況や台湾人の心情を把握する事が出来た。

◆連日、冷たい雨の日も夜を徹して大勢の学生達は立法院前に座り込み、馬総統との直接対話を要求していたが、23日の記者会見で馬総統が全く理解を示さなかったために、学生達は占拠を拡大するべく行政院(台湾の内閣)に突入しようとして警官隊と衝突。武力が行使されれば一夜にして民主主義が崩壊しかねない一触即発の状況に、多くの友人達は眠れぬ夜を過ごしていた(1947年の二二八事件ではデモをきっかけに多くの死者を出し、その後40年間戒厳令が発令された過去がある)。

◆翌日の新聞は多数のけが人と逮捕者を出した、警官隊と放水車による強制排除の様子を6ページにわたって伝えていた。立法院前には何万人もの賛同者が毎日集まるようになり、その民衆のなかで唄っている陳明章さん(5年前に運命的なご縁があり、今では本当の家族のような存在)の姿もあった。「このまま旅を続けていていいのだろうか?」しかし、いま自分が台北に戻ったところで何も出来ない。そんなもどかしい気持ちを抱えながらも陳さん一家の安否を確認しつつ、僕は予定通り集落を巡り自分の旅を遂行した。

◆そして3月30日。立法院占拠から2週間、「暗闇の台湾に陽光を!!」学生達の叫びは多くの国民の心を揺らし“ひまわり学生運動”と命名され、この日50万人デモが展開された。これほどの群集を見たことがない僕は一歩も動けなかった。陳さんから一輪のひまわりを受け取った。黒い服を身にまとった無数の群衆のなかで皆が手にしているひまわりは希望の光の象徴だった。

◆これまで学生達が徹底してきた非暴力で平和的な姿勢が引き継がれ、辺りは整然としていて混乱した様子は全く伺えない。これだけ大規模で民主的で秩序のとれたデモが、世界にいままであっただろうか。それでも政府関係の建物には全てバリケードが張り巡らされ、その奥で盾と棍棒を持った警官隊が整列する。皆の強く輝く眼差しやシュプレヒコールを体中で感じながら、街中が一丸となった凄まじい熱気のなかを僕もゆっくりと歩いた。

◆二二八事件を経て、台湾の先人達が努力の末にようやく勝ち取った民主主義である。それを守ろうとする意識の高さは、日本の比ではないだろう。どんなにリスクがあろうとも一歩も譲らず、自分達を信じ、勇敢に行動する台湾の若者達は、僕の目にも台湾人の誇りだと映った。

◆4月7日現在、今もなお立法院内に立て籠もっている学生達は1日も帰宅することなく占拠を続けている。今後台湾がどうなるのか、見通しはたっていない。陳さん一家はいつものように日本に戻る僕を見送ってくれた。今回の旅で感じたことは余りにも大きく、正直心の整理がつかないでいるが、それらのことはこれからの自分の人生にとって大切なものとなるに違いない。今はただ、台湾の国民が台湾の未来を守りぬけるよう、心から願っている。(車谷建太 津軽三味線奏者)

広野町から楢葉町に入った瞬間、除染作業で出た土壌・廃棄物を入れたあの黒い袋が、一気に視界に広がった

■東日本大震災から3年経った被災地を訪れた。寒い時期にボランティア作業をするのは依頼者へも負担をかけることを去年までに学んだので、今年の冬はおとなしくしていた。震災から3年経ち、作業依頼も減っているし、東北へ行くペースを今年は3カ月に1度くらいにしようと思っている。そんなわけで、春を感じ始める3月末に東北行きを計画した。定点観測のように、これまで見てきた東北を見続けたいと思う。

◆そしてなるべく、まだ見ていない人を連れて行きたい。今回はふたりの友人が同行した。東北に通い続けることで、「自分が今後どうしていくか」ということが、大きなテーマとなってきている。被災地のこと、原発のこと、日本という国のこと。一市民に過ぎないくせに、おこがましくもそういうことばかり考えてしまう。もともとこんな性格ではなかったけれど、こんな風になったことには大好きな南極が影響しているので、諦めて明るく悩むことにしている。

◆明るく悩みながら日々思うことは、仲間がほしいということ。閉塞感にあふれたこの時代に、現実から目をそむけず、希望を失わずに生きるために今の自分にできることは、つながりを広げ、同志を増やすことのような気がしている。そんなわけで、被災地を一緒に見てくれる人は貴重な存在なのだ。

◆今回、宮城と福島、両エリアを見て感じたのは、地域ごとの復興スピードの差がますます大きくなっていることだ。福島では、住宅基礎や家の門が残されたまま草が生い茂っている場所がいまだに多く、被災したままの家屋も、宮城より数が多い。居住制限区域の町が町ごと放置されているのはまだわかるが、居住可能区域で手が付けられていない状況は宮城ではもうほとんどない。日本は地方自治が弱いと言うけれど、こういう部分では地方自治を実感する。

◆大熊町と富岡町の除染作業についてもそうで、福島第一に近い方がきれいになっていることは、景色だけを見ていると違和感があるが、町境を意識すれば簡単に理解できる。楢葉町、富岡町、大熊町の3町だけでも除染作業の進捗状況が目に見えるほど違っていた。

◆福島は、楢葉町出身の渡辺哲さんに案内してもらった。「帰還困難区域」「居住制限区域」の現状もさることながら、楢葉町の景色が強烈な印象として残った。広野町から楢葉町に入った瞬間、除染作業で出た土壌・廃棄物を入れたあの黒い袋が、一気に視界に広がるのだ。これまで何度か訪れたことのある南相馬では、少なくともこの黒い袋は目につかないようにしてあったが、ここ楢葉では隠そうともしていない。堂々とそこら中に積み上げてあり、「だってしょうがないでしょ」と言わんばかりだった。

◆高台から見下ろすと、黒い袋が海の方からじわじわとはびこっていく様子が見てとれた。Google Mapの航空写真で、このあたりはそのうちに黒い町になるのではないか、そんなことまで考えてしまった。楢葉町は今年5月に帰町の判断をするそうだ。例え居住制限が解除されても子どものいる家庭は帰って来られないだろう。ただ、この景色に慣れさせられていくだろうとも思った。今回、初めてこの景色を見たから驚いたし怒りさえ覚えたけれど、次にここへ来るときには今回ほどは驚かない。南相馬で小高の町を見た時がそうだった。そうやって、慣れてはいけないことにも人は慣れていってしまう。

◆私の行きつけのエリア、宮城県東松島市は、復興が順調に進んでいる地域だと思う。順調と言っても、東名・野蒜地区には、いまだに日用品や食料品を買えるお店も病院もない。鉄道も運休したままで、住民の暮らし向きがよくなっているわけではない。東松島市では、野蒜駅、野蒜小、浜市小、かんぽの宿の保存が決まった。そして野蒜駅の1階に、ようやくコンビニが入ることになった。

◆高台移転地造成のための巨大ベルトコンベアは、山の上から東名運河の南まで高架でつながり、今年1月から稼働している。4トンダンプで運べば10年かかるところ、ベルトコンベアなら1年半で終わるそうだ。工事は急ピッチで進められてはいるが、それでもあと3年はかかる。当初、高台への移転を希望していた住民も、あと3年は待てないと言って高台移転を取りやめたりしている。

◆住民は、下の町の復興についても考えてほしいと行政に訴えているが、鉄道も、学校や商業施設も高台に集まる。計画と現実がクロスしても修正できないのは日本の政治のよくないところだ。一方、市の中心部に近い、平野部の集団公営住宅では、5か所で4月1日から入居が始まった。東松島市でも当初は地域ごとの集団移転が検討されたが、最終的には市内のどこでも希望してよいことになった。そのため、集団移転先では、見ず知らずの人たちといきなり隣組を作ることになる。

◆ようやく仮設での暮らしが終わり落ち着くかと思えばそうではなく、いろいろな問題がこれから出てくるだろうと社協の人が話していた。仮設から出ることで家賃の支払いが始まり、経済的な負担も増える。環境の変化や近所づきあいに順応できず孤独死や自殺が増える心配もあるそうだ。

◆被災地に通うことで自分の役割について考えるようになった。南極観測隊として国の代表という立場で仕事をした経験が、自分の人生の転機になったと思うが、そこから被災地支援につながり、被災地はいいけど自分の足元はどうなの?という疑問から、去年、防災士の資格をとった。一方、シーカヤックで海を漕ぐうちに、山口県での上関原発建設問題が他人事ではなくなった。仲間がスラップ訴訟で中国電力から訴えられていることもある。これらのことが全てつながっていることが、行動していく中で本当によく理解できるようになってきた。関わり続ける中で、責任のようなものも感じている。自分がすべきことは何かをしっかり考えつつ、日本の将来、地球の未来にちゃんと向き合っていきたい。(岩野祥子

不死身の冒険者、賀曽利隆さんご一行“遭難”顛末

■3月20日午後、寒いお彼岸を迎えた伊南の我が家(民宿「田吾作」)に、都内の雑誌社から連絡ありました。

◆「明日空いていますか?」。お彼岸の中日で他のお客様は受けていなかったので、お断りするか、と一旦考えましたが、先方から「賀曽利隆さんの取材で、南会津にお勧めの宿があるということで……」と、賀曽利さんの名前が出た瞬間、これは!ということで、姑さんの了承も得て予約を受けました。20日(木)は周辺の道路の雪も解けていてバイクでも大丈夫だと思ったので……

◆当日21日は、朝は少し雪が降っていたものの、午後には道路も大丈夫そうでした。午後3時ごろ元気な賀曽利さんからの電話をばあちゃんが受け「6時ごろには、田吾作に到着できると思います!」とのこと。それから2時間後、夕飯の配膳をしていたら、電話が入りました。もしかして賀曽利さん?の直感は当り、受話器の向こうに、緊迫している賀曽利さんが。

◆「富美さん、実は今、駒止峠の入り口の下で警察の方にお世話になっているんです……」電波が悪くて、最初は聞き取れない。聞き直してみると、「富美さんに今回はどうしても助けてもらわなければいけない状況になっているんです。富美さんの家のトラックにバイクを乗せることが出来ますか? トラックで峠まで来ることはできますか?あっ、とりあえず、もう一度警察の方と相談して連絡します……」

◆途中まで雪はなくて、午後5時ごろから旧隣町の田島町の針生地区までは大丈夫だったらしいのですが、集落を越えて峠にさしかかるところあたりから、路面凍結のため、雑誌社の2台のバイクが動かなくなってしまったとのこと。坂道の途中でバイクを押すことも大変な状況の時に、地元の警察官が献身的に助けてくれていたようです。

◆15分後、2回目の電話。「富美さん、2台のバイクはスキー場入り口の空き地に置いて行くことにしました。私のバイクは何とか走れそうなので自力で向かってみます。とりあえず二人を迎えにスキー場入口まで来てもらえますか?」。私は他のお客様もいたこともあって、主人と息子が迎えに行きました。1時間近く経ち、ようやく田吾作に雑誌社の2名は到着しました。が、先に出たはずの主役がいません!「あれ?賀曽利さんは?」と5人で顔を見合わせました。

◆実は、賀曽利さん、峠のトンネルの中で転倒し、バイクを起こすことも押すこともできない状況の中で、あるご夫婦に助けられていたのです。しかも、そのまま雪の中、何とかバイクを押していたら、一度助けてくれたそのご夫婦は心配して峠を降りた場所からUターンして戻ってきてくれたのだそうです。

◆結局「このまま凍結した峠を下っていくことは無理だ!」という結論になり、賀曽利さん、途中のスノーシェッドの脇のスペースに大切なバイクを置いてご夫婦の車で田吾作に向かったのですが、雪のせいで少し迷ってしまい、遅れて到着しました。

◆ありがたいご夫婦に、みんなで何度も何度も頭を下げてお礼を伝え、賀曽利さんはすぐさま部屋に荷物を置いて「富美さん! 本当に今回は完全にお世話になりますので、よろしくお願いしますよ?! で、すぐ赤岩温泉に連れていってもらっていいですか?」ということで、家から5分の源泉かけ流しの温泉へ直行しました。その後は、我が家のばあちゃんの手料理と地酒で乾杯!! 私たち夫婦も夕食に混ぜてもらいながら、今回の劇的な旅の話で夜遅くまで盛り上がりました。

◆次の日は、前日の吹雪が嘘のように晴れました! 朝食後、賀曽利さんが愛する地酒「花泉」の酒蔵へ酒造りを見学に行き、その足で、峠に置き去りにされた賀曽利さんの愛車と、スキー場の入り口に置き去りにされた編集者の2台のバイクまでお見送りしました。3台とも無事、発見されましたが、編集者の1台のエンジンがなかなかかからず3人で汗をかきながらキックを何度も繰り返しながらようやく「ブルン、ブルン……」とエンジンがかかり拍手喝采!

◆今でも、電話の中の緊張した賀曽利さんの声が忘れられません。不死身の賀曽利隆伝説に関われたことに感謝です。賀曽利さん、ぜひまた南会津に来てくださいね(^O^)(残雪も少しずつしまってきた伊南川から。酒井富美

勉強になった! よく歩いた! 地震が怖かった!
━━5才の娘と南三陸へ5泊6日の旅

■地平線通信418号に、マンモス防潮堤について自分があまりにも無知で恥ずかしいと書いたのですが、その後自分なりに読んだり調べたりしてみて、やっぱり千葉拓さんの「伊里前の海」をこの目で見たいと思うようになりました。思い立ったらすぐ行動という性分なので、娘の幼稚園が春休みに入った今がチャンスと思い4泊5日の旅を計画しました。

◆計画とはいっても、「全行程普通電車で行く(電車14本を乗り継ぎ14時間かかります)」「ずっと歌津に泊まって伊里前あたりを拠点にうろうろする」という、いたってシンプルなものです。とにかく、南三陸を知ること、知るためには見ること、見るためには歩くこと。これを胸に母娘の二人旅が始まりました。

◆私の娘、柚妃(ゆずき)は5歳ですがとにかくよく歩きます。今回泊まった民宿から最寄りの店まで往復40分はもちろん、最寄りの駅までの往復2時間もへっちゃらな様子で楽しそうに歩いていました。道端の発見(フキノトウ、貯水池に棲む金魚、たくさんの不法投棄されたごみなど)、そして遠望の伊里前の海や入り江など、目に入るものすべてを好奇心いっぱいに見てしゃべってあっという間に到着。ただし歩行者用のスペースが極端に狭い国道で、復興のために働くダンプカーが15秒に1台通るような危険な道路なので親としてはヒヤヒヤし通しでしたが。

◆柚妃にとって特に楽しかったこと。一つ目は拓さんの作業場でめかぶの出荷を手伝ったこと。わかめの根元あたりの茎とめかぶの間に専用の道具をあてがってスーッとなぞると、茎とめかぶがあっという間に分離します。これが気持ちいい! スーッ、スーッとめかぶを取るごとにスカッとした気分になれるので大人も子供も病み付きになります。娘も時間を忘れて没頭して、終了時間になってももっと手伝いたくて作業場から引き離すのに苦労しました。その後気を取り直して拓さんの長女あやねちゃん(3歳)と海辺で泥んこ遊びをして子供同士盛り上がっていました。

◆もうひとつは民宿のおばちゃんの畑仕事を手伝ったこと。柚妃がおばちゃんから依頼されたのは、何十本も立ててある支柱を抜くことと、雑草を抜くこと。これも手を休めることなく何時間も手伝い、手伝っている間はおしゃべりもノンストップで我が家の内情を暴露しまくっていました。夕方雨が降り始めてお手伝いは終わりだよ、と言ってもまだまだやめたくなくて畑から引き離すのにこれまた苦労しました。

◆そして楽しかったことその3。夢の一両電車に乗れたこと。BRT(後述)を乗り継いで「盛(さかり)駅」から岩手県の「吉浜駅」まで往復1時間の距離を三陸鉄道(通称さんてつ)南リアス線に乗りました。一両だけの電車を写真で見ていつか乗ってみたいと夢が膨らんでいたところに、突如現れたさんてつの一両電車に大喜びの大興奮で、ふなっしーの三倍ぐらいぴょんぴょん飛び跳ねていました。

◆今回の旅ではほとんどの電車がワンマンで扉も自分で開閉するようになっているのですが、さんてつも同じでした。運転席がオープンなので、張り付いて見ている娘に運転士さんがあれこれ話しをしてくれて、東京にはないおもしろい経験でした。

◆先述のBRTというのはよくこんなのを思いついたなぁと感心した輸送システムなのですが、もともとあった単線のJR気仙沼線や大船渡線が震災の影響で電車を走らせることができなくなったところの線路を取り去って舗装し、JRが運行するBRTというバス専用道路にしたものです。これなら渋滞もないし一般車両との接触事故などもないし、橋が流されたところなどがあって線路だったら分断せざるを得ない個所でもそこだけ一般道に迂回すればつなげて運行できるのです。

◆BRTの車体もそうですが、震災後の復興の街を明るくしようというのがそこかしこに見て取れました。山を削ったり土を盛ったりダンプカーや重機が走り回ったり、とかくくすみがちな風景を明るくしようと、駅舎の外壁をピンクと白の大きな桜のモチーフで彩ったり、建物の壁にも色とりどりの花の絵を描いたり、BRTも真っ赤な車体に宮城県の様々なゆるキャラをあしらってありました。おにぎりと伊達正宗が合体した「むすび丸」、クチバシカジカという魚のキャラクター「クチ坊」、三陸特産のホヤを頭にかぶりサンマの剣を持った「ホヤぼーや」、陸前高田の女の子「たかたのゆめちゃん」などなど。

◆しかし楽しいことばかりではありませんでした。帰る予定にしていた前日、南米チリにおける大地震による津波が太平洋側に到達するかもしれないというニュースがありました。予告通り真夜中の3時にサイレンが鳴り響き津波注意報を知らせる防災アナウンスが大音量で聞こえてきました。朝起きてもテレビは津波に関するニュースばかりで、海辺を走るBRTは注意報が解除されるまで運転を見合わせるとのこと。交通手段を絶たれてしまい、テレビを見ながら解除を今か今かと待つばかりでした。

◆そんな時に、何の前触れもなく突然震度4の地震に見舞われました。3.11を東京で体験した娘は当時2歳で記憶はあやふやなはずですが、津波と地震が合わさった途端あの日がフラッシュバックしたようでした。窓ガラスがガタガタ鳴った瞬間、滅多に泣かない子が「こわいー!こわいー!」と火がついたように泣き叫びました。夕方6時にようやく津波注意報が解除されましたが、もう帰途につくことはできない時刻だったので宿のご好意でもう一泊することになりました。

◆拓さんに作業場の裏にある海を見せてもらった時、海岸線に沿って黒い土嚢が隙間なく並べられているのを見ました。二段に積んであり高さは大人の目線ぐらいです。140センチぐらいだと思いますが、これがマンモス防潮堤の建設予定地だと聞き、想像力を働かせてみました。そこに高さ15メートル、幅80メートルもの巨大建造物が立ちはだかる様子を感じてみました。そこに生活する者ではない私が軽はずみに批判したり意見を言ったりするのは憚られる問題です。だからこそ地元の人たち全員が拓さんの言っていたような様々な弊害についてもよく考える機会を十分に持てることを切に願います。

◆伊里前の海は、いわゆる美しい海ではありませんでした。言うなれば、「地元の海」という感じです。愛でるでもなく遊ぶでもない、ただそこにある海、そして生活の場としての海です。五日間を歌津という町で過ごし、海や山の空気を味わい、おちびちゃんたち、中学生たち、子供のお母さん、おばあちゃん、駅員さんや運転士さんなどたくさんの人とふれあい、頼りない二人旅を助けてもらい、私はもう本当に歌津が好きになりました。柚妃は宿のおばちゃんに来年も来るねと約束したそうです。(瀧本千穂子

動き出した小学校跡地利用、島は若者に人気上昇中

■江本さんお元気ですか? こちらは毎日忙しくも充実した毎日を過ごしております。忙しいといってもただ牧場でやぎたちといると時間があっという間に過ぎるので(笑)。そして今年も「海の文化資料館」嘱託職員を更新し、土日祝日は資料館勤務です。

◆さて4月になり浜比嘉のまわりでもいろんな動きがありました。まず比嘉小学校ですが、跡地利用が動きました。というか、市がいつまでたっても動かないので前の区長平識勇さんが動き、自分が理事をしているNPO(障害者自立支援施設)が使うことにどうやらなったようです。彼等は校舎や運動場の掃除や草刈りをすこしずつ始めていて、先日はやぎたちを引き連れて校庭に行ったらみんな仰天! 面白かったです。自然学校や青年の家にするのが私の望みではありましたが、避難場所として必要なときに区民が使えるしこのまま幽霊屋敷にされる心配はひとまずなくなりそうです。あとは浜中学校の跡地利用が気になるところです。

◆そして私の環境もいろいろ変わりました。まずはのぼるのお父さんが昨年軽い脳出血で倒れ、今は病院に入り元気にリハビリ中。無人の実家(古民家)は傷みが激しく取り壊しも検討されましたが、鎌田くんの知人が直しながら住みたいというので貸して、3月から住み始めました。まだ20歳代の若者カップルです。浜比嘉島は最近人気があり、私が知る限り4組の若い家族が移住してきています。貸家さえあればまだまだ住みたがっているひとはいるようですので学校が潰される前になんとかできてたらなあとつくづく思います。

◆あと、あしびなーや写真展で大変お世話になった「海の文化資料館」の前田一舟さんが異動になりました。先日前田さんの膨大な荷物の中に、なんと雑誌「望星」が30冊以上積まれているのを発見! 2006〜08年あたりの古本でしたので、思わず「もしかして捨てるつもりなら下さい」と言ったら「捨てません」。おーこれが噂の「望星」かー! と拝見しましたが、それにしても前田さんが「望星」読者だったとは!

◆表紙は長野亮之介、編集者は岡村隆、発行人は街道憲久! 執筆者は久島弘、丸山純、松原英俊や樫田秀樹などをはじめ、各界の有名人も! すご〜い本だ! 上司が前田さんでなくなるのは不安ではありますが、今後もいろいろと地域おこしのことなど相談に乗って頂くつもりです。

◆さてうちの牧場は2〜3月に出産ラッシュで今年も子やぎがたくさん生まれました。今は飛び跳ねたり走り回ったりにぎやかです。そうそう鎌田くん夫妻には昨年秋、待望の赤ちゃん(人間の)が生まれました。かわゆい女の子です。名前は千麦です。ではまた遊びにお越しくださいね。(消費税が上がってもあまり関係ない浜比嘉島の外間晴美より)


【先月の発送請負人】

■地平線通信419号は、3月12日夜封入作業を終え、13日荒木町からメール便で発送しました。作業を終えた後、全員で「餃子の北京」に行き、餃子やカレーラーメンや杏仁豆腐を、わいわい言いながら味わいました。来てくれたのは、以下の方々です。村松さんは浜比嘉島などでご存知の人も多いと思います。昨年大阪から埼玉県へ引っ越し、キリマンジャロ登山などで懇意にしてきた山田淳さんの山道具レンタル会社で仕事をしています。
森井祐介 松澤亮 加藤千晶 石原玲 福田晴子 杉山貴章 村松直美 江本嘉伸 山本豊人


本多有香さんの本『犬と、走る』、間もなく完成!!

■地平線通信419号でお伝えしたように、そして今月の長野亮之介画伯の告知イラストでも紹介しているように、カナダ・ホワイトホース在住のマッシャー、本多有香さんの本が間もなく完成します。タイトルは『犬と、走る』。学生時代、カナダへの旅で犬ぞりレースを知り、強烈に惹かれます。いったんは就職するが、犬ぞりの魅力を忘れられず、ついには仕事を捨ててまったくの知識もつてもないまま、カナダへ。

◆カナダ、そしてアラスカでマッシャーの助手「ドッグハンドラー」になって、修行を重ねた有香さん、ホワイトホースの森の中に土地を借り、カナダの永住権を取得。念願の自分の犬舎を持って、数々の試練の末、2012年、ユーコン・クエスト1600キロを日本女性として初めて完走しました。そこに至る経過は、何度かの地平線報告会で語ってもらいました。

◆地平線会議では2012年5月に本多有香さんと犬たちの支援のために『うちのわんこは世界一!』(2500円。収益は全額本多さんに寄付される)を制作、頒布していますが、今回の本が1部でも多く売れれば、本多有香チームの支援になる、と考え、ご本人に来てもらい、報告会と出版お祝い会を25日に行います。

 場所がいつもの新宿区スポーツセンターではありませんので、ここでも告知します。(E)

案内図

■地平線報告会

  18:00〜20:00 参加1人500円
  場所 新宿区榎町地域センター
  〒162-0042 東京都新宿区早稲田町85
  ※地下鉄「早稲田駅」1番出口から徒歩7分

■出版祝いビールパーティー

  20:30〜
  参加費1人3500円ぐらい(飲み放題の予定)
  場所 中華料理店「北京」
  〒162-0042 東京都新宿区早稲田町74
  地下鉄「早稲田駅」1番出口から徒歩1分

★『犬と、走る』は、集英社インターナショナル刊。四六判ハードカバー 272ページ カラー口絵8ページ 定価は1800円+税 (正確には1944円となりますが、地平線報告会当日は、犬の食事代カンパを含める意味で2000円でお頒けしたいと思います。どうかご了解ください)目次は、以下の通りです。

  第1章 イーハトーブからの旅立ち
  第2章 「ドッグハンドラー」になった
  第3章 「ユーコン・クエスト」の衝撃
  第4章 おんぼろ自転車で雪のアラスカへ
  第5章 過酷なハンドラー修業
  第6章 理想と現実
  第7章 浮浪者たちとの教会ディナー
  第8章 「セーラムラン」を完走する
  第9章 永住権ほしさの結婚騒動
  第10章 猛吹雪のクエスト初挑戦顛末
  第11章 再挑戦で起きた取り返しのつかない出来事
  第12章 癒されたオーストラリア出稼ぎ旅
  第13章 クエスト復帰を決意
  第14章 私がリーダーで這って登ったイーグルサミット
  第15章 念願のカナダ永住権取得と犬舎
  第16章 ついにクエスト1600キロを完走する


今月の窓

地平線会議の面白さと「妻フィルター」

■4月になり、消費税が17年ぶりに増税された。財源確保のための扶養控除・配偶者控除の廃止なども検討されており、家計の負担がますます増えることが予想される。その一方で、働きたい親が安心して子どもを預けられる施設は十分に整っておらず、待機児童解消を求める嘆願書が次々に出されている。

◆そんな折に、世界を33周も旅した某バイク王が、これまで一度も生活費を入れたことがないのだという話を耳にした。家計を預かる主婦としては聞き捨てならない台詞である。住宅ローンや教育費はもっていたのだという言い分はこの際聞かないことにする。しかし、考えてみれば、どうやって生活しているのか分からない人がたくさんいるのが地平線会議の面白さでもあった。

◆地平線会議に関わり始めてから10年以上が経つ。この間、学生→フリーター→会社員→主婦→フリーランスと様々な立場から地平線会議を眺めてきた。立場が変われば見方も変わるものである。学生時代の「こんな大人たちがいるのか!?」という純粋な驚きから、サラリーマンとして自由な旅を羨望する眼差しを経て、最近ではやっかいなことに“妻目線”あるいは“母目線”というのが加わってしまった。これが地平線会議的な思想としばしば対立する。

◆長期間旅に出ている人に妻子がいるのだと知れば、何で生計を立てているかなどということはもとより、「その間に家族はどうしていたのだ? 妻は? 子どもは?」とソワソワしてしまう。夫が留守の間に起こる、日常の様々な出来事をリアルに想像し、妻たちはそれをどのように消化してきたのだろうかと考えてしまう。そして子どもたちは、と。

◆素晴らしく刺激的な話を聞きながらも、そんな疑問が脳内の一定のメモリを常にくってしまい、100%没頭できない。「妻フィルター」が目の前にかかり、取り除けないのである。(もちろん、妻のほうが留守をする話でも同じなのだけど、そういう話はあまり聞かない。そして様々なフィルターの中でも「妻フィルター」ほどやっかいで恐ろしいものはないと、我が夫は首が折れんばかりに首肯する)。

◆そんなことを考えて、最近では「家で待つ妻のほうがよっぽど偉大なのでは?」と思うこともある。だって、夫にやり遂げたいことがあったように、妻にだって何かあったはずなのだ。あるいは、自分の思いを押しとどめて夫に尽くした部分もあったのではないか。妻たちは自分の人生とどう折り合いをつけていたのか。物語では旅立つものばかりが主人公として注目され、残されたものにスポットライトが当たることはない。だけど物語は、もう一つの世界でもひっそり止まることなく進行している。そちらの物語はめったに語られることがないだけに、何やら甘美な匂いまでも帯びて、より強く好奇心を刺激するのだ。

◆ある妻は極地から寄せられる手紙を読み、夫と同じ風景を思い描いていたのかもしれない。またある妻は、遠洋漁船に乗る夫を見送るあの海女のように、今生の別れを覚悟して仏壇に写真を飾っていたかもしれない。そしてある妻は、「亭主元気で留守がいい」とばかりに、自立した生活を淡々と過ごしていたのかもしれない(実際はこのケースが多い予感がする)。どんな地平線を描くのでもいい。妻たちの物語を知りたいと思う。(菊地由美子


【通信費とカンパをありがとうございました】

めてくださった方もいます。万一、記載漏れがありましたら、必ず江本宛てにお知らせください。アドレスは、最終ページにあります。振込の際、通信の感想などひとこと書いてくださるのは大歓迎です

★実は、当方のミスで先月号のこの欄でお名前が消えたまま言葉だけ掲載してしまった方がいます。お詫びして以下に再掲させて頂きます。尾上昇(10000円 ご無沙汰しています。地平線通信毎号一字一句大事に楽しんで、読んでいます。素晴らしい内容と思います。「山の日」制定、お陰様で実現目前です。前日本山岳会会長)尾上さん、失礼しました。そしてありがとうございました。

のがたくさんありますが、河田真智子さんや南三陸の千葉拓さんのお話など、聞いてみたかったです。通信では、巻頭の江本さんのエッセイともつぶやきとも言える文章が魅力的です)。/西嶋錬太郎/藤原謙二/石田昭子(毎月、通信が届くのが楽しみです)/小林天心(10000円)/小村壽子(10000円)/金谷真理子 /高野政雄/河田真智子/新野彰典/北村敏/村松直美(10000円)

★このほかに、2月19日以降、3月10日までの間に7000円を振り込んでくださった方がいます。なぜか氏名の記録が消えてしまっています。お気づきの方はどうかご一報ください。


あとがき

■吉川謙二というスケールの大きな探検家がアラスカ、ロシアで活躍していることには、喝を入れられるような思いがある。もともと北大大学院生の時、「アンタークティックウォーク・南極点探検隊」を組織し、仲間2人と南極点まで67日かけて徒歩で到達。その際もカロリーの高い「吉川ビスケット」を考案するなどし、行動学者の面目を発揮していた。

◆その直後に仕掛けた北極海永久凍土調査計画。「ホキマイ(マオリの言葉で「帰って来る」の意味)号」は、無事アラスカに到達、ポイントバローで越冬して永久凍土の調査を続行、吉川君自身はついにはアラスカに住み着いてしまった。この2年はロシアに入り浸りらしいが、たまに、近況を書いてほしい、とお願いしておく。

◆今月からコラム「窓」を開いた。トップバッターを菊地由美子さんにお願いしたが、いろいろな人に登場してもらいたい。本音、ユーモア、少し辛口、ほんわかした話など、月によっていかようにもあっていい、と思う。ただし、当方の独断で勝手に「窓」に使う場合もあるし、一般原稿として扱うこともあります。字数は「1500字程度」としておきます。

◆今月の報告会の会場は、実は本を含めていっさいの売買が禁止されている。本多有香さんの本の販売は、従ってお祝い会場の「北京」でやる予定です。ご協力お願いします。(江本嘉伸


■今月の地平線報告会の案内(絵と文:長野亮之介)
地平線通信裏表紙

イヌゾリラーの至福

  • 4月25日(金) 18:00〜20:00 500円
  • 於:新宿区榎町地域センター4F多目的ホール
  •  《会場はいつもと違う場所なのでご注意!!》

「マッシャー(犬ゾリの御者)が、いかに人生を賭してレースに挑んでいるかを知ると、涙なくしては見られないですよ」と言うのはカメラマンの佐藤日出夫さん(50)。'93年、何気なく観戦した世界最長の犬ゾリレース、アイディタロッドで日本人マッシャー舟津圭三さんと知り合って以来、毎年のようにアラスカを訪れ、ライフワークとしてレースの撮影をしています。

'06年からは、やはりアラスカで行われるユーコンクエストレースに参戦している本多有香さんを友人としてサポート。こちらはコース長1600kmとアイディタロッドの1800km超より短いものの、世界一過酷といわれる犬ゾリレースです。仔犬を育て、チームを作りあげるところから始まる犬ゾリレースにドップリとハマった有香さん、一昨年、4度目の参戦で見事ゴールを果たしました。

今月は佐藤さんと有香さんに犬ゾリの魅力をたっぷりと語って頂きます。お聴き逃しなく!


地平線通信 420号
制作:地平線通信制作室/編集長:江本嘉伸/レイアウト:森井祐介/イラスト:長野亮之介/編集制作スタッフ:丸山純 武田力 中島菊代 大西夏奈子 落合大祐 加藤千晶
印刷:地平線印刷局榎町分室
地平線Webサイト:http://www.chiheisen.net/


発行:2014年4月9日 地平線会議
〒160-0007 東京都新宿区荒木町3-23-201 江本嘉伸方


地平線ポスト宛先
pea03131@nifty.ne.jp
Fax 03-3359-7907 (江本)


◆通信費(2000円)払い込みは郵便振替(料金が120円かかります)、または報告会の受付でどうぞ。
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議


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