2013年12月の地平線通信

12月の地平線通信・416号のフロント(1ページ目にある巻頭記事)

地平線通信表紙

12月11日。気分的にはひんやりだが、おだやかな日。もちろん麦丸にセーターを着せるほどではない。きのう10日、ロシアのプーチン大統領が「2014年に北極圏に軍を配備し、この地域での国益と軍事的安定を確保する」と明らかにした。ロシア国防省の拡大会議での発言で、「安全保障上だけでなく、北極圏における権益保護の舵を握る必要がある」とも。

◆カナダ側も北極圏の権益については、独自の主張をしていて、今後大きな問題になるだろう。北極圏の権益争いは、遠い時代からのテーマでもあるが、近年は「海氷の後退」で天然資源が入手しやすい状況になったため、実利がさらに露骨にからむのであろう。

◆そんな中で「無補給・単独・徒歩」での日本人初の北極点到達をめざす荻田泰永君、来年2月にも出発する、とのことだ。彼の記者会見が6日、都内であったので顔を出してみた。出版大手の講談社から初の著書『北極男』を出したばかり。淡々といつもの口調の計画説明にいくつかユニークな点があった。

◆私自身は1978年、1980年はカナダから、1988年はソ連から北極圏を取材し、この年には極点に立ったこともある。暗夜も白夜も体験、もちろん筋肉を使ったのはほんの一部で、おもに飛行機やヘリで飛び回らせてもらっただけだ。その時北極は氷がしっかりしていれば安心、とつくづく感じたのを覚えている。別な言い方をすると気温が氷点下30℃以下でないと安心できないのだ。植村直己さんはじめ冒険者たちも常に安定した氷を求めて前進していたものだ。

◆今は、氷がゆるみリード(開氷面)が大きくなってきたら、遠回りせずファルトボートなどを使って「海を利用する」発想が主流らしい。荻田君はドライスーツを用意して短距離なら海を泳ぐことも考慮に入れている、という。軽量のファルトボートを工夫して氷上では曵き、海では漕ぐ、という使い方も。36才の「北極バカ」(角幡唯介の命名)は、挑戦の社会的な意義については「自分がやりたいからやるだけ」と謙遜するが、北極圏が大国の勢力争いの舞台となっている時期、生身の人間が何を見、体験するのか注目したい。

◆ところで、25年前、北極点取材がたいしたお金もかけずにできたのは、ジャーナリストであったのと、ロシア語が話せたからだ。当時ソ連にはゴルバチョフが登場して「ペレストロイカ(建て直し)」政策が大きく動き出していた。その象徴としてソ連の極地冒険家(ポリャールニクと言う)がカナダの冒険家に呼びかけて両国合同の初の北極点横断を企画、実行したのである。

◆極点に到達した際、盛大なセレモニーが計画され、モスクワ駐在の西側のジャーナリストも何人か招かれた。たまたま冬のモンゴル草原にいた私にその情報が入り、もちろん即座に手を挙げたわけだ。「植村直己さんを知っている」ことも大きかった。図々しくなった私は植村さんの人柄やカナダからの北極圏の体験を自慢げに話した気がする。

◆外語大でロシア語を専攻はしたが、実は山岳部生活に明け暮れていたのでろくに語学の勉強をしていなかった。2年に進級する際、専攻科目のロシア語で「不可」(当時の成績表にはっきりそう書かれた)をもらい、もう1年繰り返す羽目に。それが社会主義モンゴルに通いはじめるようになり、当時インテリたちは普通にロシア語を話すので急激に学んでいった、というのが実際である。

◆今でもまあまあ普通の会話はできる。しかし、実は相当いい加減な覚え方をしたため、ロシア語ができる、と言っていいものかどうか、自信がなかった。そんな時、去年の春、近くの大学の「公開講座」をすすめられたのである。うむうむ。基礎から学び直すべき、と考えて一応「中級」、と思ったが、面接してくれたのがロシア人女性でいきなり30分以上、いろいろ話してしまった。結果は「上級」。

◆1クールが17日間。毎週木曜日には緊張する90分の授業が待っている。時間中はロシア語以外話せない。日本人と結婚されている先生もひとことも日本語を口にしない。教科書からの出題をどんどん当てられるので、予習しないでは教室に行くことができない。わあ、こんなガチガチ時間は半世紀ぶりだよ! 教室での私の名は「ウラジーミル」、先生はウラジーミルの愛称の「ヴォロージャ」と呼ぶ。

◆思いもかけなかったロシア語学習の緊張。旅でしか私はロシアを知らないのに、生徒たちはモスクワやサンクトペテルブルグで留学したり、数年勤務したロシア語の達人ばかり。そんな日々がもう3クール。明日12日は、ことし最後の授業じゃ!!(江本嘉伸


先月の報告会から

ふしぎのまちゅぴちゅ

白根全

2013年11月22日  新宿区スポーツセンター

■本日のテーマは、数ある世界遺産の中でも、人気ダントツのマチュピチュ。そして、案内人は白根全さん。全さんといえば、肩書きの「カーニバル評論家」を始め、誰もやらないことを追っている人、の印象が強い。今回のテーマを意外に感じた人は多いはず。私も、「11月はマチャピチュだ」と江本さんから聞いたとき、ツユ疑わずに「そういう無名の凄い遺跡があるんだな」と思い込んだ。(これはネパールの名峰『マチャプチャレ』とのヤマ屋的?勘違い、と後に判明)

◆「全さんについて語ればキリがない。その彼が50回も通い、『世界中色々行っている中で、唯一住んでみたいところ』がマチュピチュです」。 そんな丸山さんの紹介に続く彼の開口一番は、「地平線会議始まって以来、喋りながら寝ちゃう報告者になるかも」だった。一昨日帰国したばかりで、まだ時差ボケ中。地平線マチュピチュツアーは、ガイドさんの睡魔宣言でのスタートとなった。

◆マチュピチュには、一切の文献記録がないという。インカ文明が文字を持たなかったからだ。そのため未だに解らない事だらけ。いろんな人がいろんな説を唱えるが、マユツバ、見てきたようなウソばかりなんだとか。「その典型がこの写真」と映し出されたのは、遺跡背後に聳える、あのワイナピチュの絵葉書。それを縦にすると、あら不思議、巨大な岩山の凹凸が見事な古代人の横顔になる。「マチュピチュを築いた第9代皇帝パチャクティの横顔で、冬至の日没の光で現れる」というこの写真、全さんの判定は、「フォトショップ使い過ぎだろ」の一言だった。

◆『猿でも解る、5分間のアンデス文明の背景』のスライドで、ペルーの自然や地理をおさらいした後、本日のメインの1つ、シクラの講義が始まった。『シクラ』とは、太平洋岸のインカ遺跡の下、壁の内側から多量に出土する、大きな石を詰めたネットのこと。その用途を、考古学者は「中に石を詰め込んで遠くから運ぶ運搬用」と説明していた。けれど、発掘が進むにつれて俵状で軽く500kg、大きいと2000kgのものまで出てくる。もはや簡単に動かせる目方ではない。すると、今度は『儀礼だ』と主張する。

◆実は全さん、大学を出た後の2年間、縄文中期、4500年前あたりから古墳時代までの発掘現場で穴掘り調査をやっていたという。そこで痛感したのが、考古学の「実証科学であって人文系でもある、微妙な立ち位置」だった。「『儀礼』は実に上手い逃げ道で、そう言うと、そっから先がなくなってしまう。そうではなく、建築工学などの実証科学で実験し、同じデータで同じ結果が出れば、学問的にもスッキリするワケです」

◆シクラは、ネットの大きさ、積み方、サイズなどが様々な上に、繊維自体も捻ったもの、真っ直ぐなもの、三つ編み、二つ編み、カギ編みと、色々なテクニックが駆使されている。そこで、モデル化したシクラを使い、実際にどういう機能を果たしていたのか、筑波にある建築研究所で振動台実験を行った。3段積みシクラの上に建物替わりの1トンの鉄板を載せて揺らすと、1回あたり軽く百万円かかる。それを、シクラの有る無しなど条件を変え、十数回繰り返した結果、「上部構造の揺れが半減する」という免震効果が証明されたのだ。

◆私も、よく似た構図の話を聞いたことがある。それは、古墳内で見つかる小さな土粒を、考古学者が「儀式用に古代人が作ったもの」と考えて、長年『擬似米』の名称で呼んでいたところ、後にコガネムシの糞であることが判った、というものだ。この時のキーワードも『儀礼』、それを引っくり返したのは昆虫の専門家だった。

◆全さんは、「ナスカの地上絵『宇宙人説』は、一種のアパルトヘイトだ」と指摘する。そして、「そんな難しいことが昔の人に出来る筈ないから、宇宙人がやった、ではなく、目の前に残されたものから解明するのが科学的態度」と強調する。何もかも儀礼に結びつける姿勢もまた、一種のアパルトヘイトに違いない。

◆もちろん古代インカ人は、実験でシクラの効果を知ったわけではない。経験則的に使い始めたが、そもそもは魚網だったという。「当時すでに綿が栽培されており、それで網を作った。ウキ用のヒョウタン、錘の石も出ていて、定置網漁が行われていました」。ここでは、食物の7割以上が、魚介類やクジラ、アザラシなどの海洋性動物だったという。

◆優れた耐震性を誇るシクラにも弱点があった。「『神殿更新』といって、神殿は何十年単位で公共事業的に造り直しました。前のものを壊して空いたスペースにシクラを詰め込み、その上に更に大きな神殿を造るんですが、それを繰り返してシクラが積み重なってゆくと、ある高さで逆に壊れ易くなってしまいます」 その結果、1000年くらい続いた後に、シクラの技術は徐々に廃れてゆく。

◆ここで、全さんが「マチュピチュまでの5000年を5分で片づけます」と宣言。駆け足での、各地の遺跡巡りが始まった。約4000年前、素人目にも稚拙な石積みのコトシュ遺跡。次のチャビン文化になると、『布積み』や建物の角を強化する『算木積み』が現れる。「日本の築城技術では、安土城を造った『穴太衆(あのうしゅう)』と呼ばれる石工の技術集団が有名です。ようやく西暦1600年前後になって、日本でも様々な石積み技術が発達しますが、それがアンデスでは3000年も前にありました」

◆ピキリャクタというクスコ近くの遺跡では、ほぼ自然のままの石を上手く組み合わせる『野面(のづら)積み』にご対面。「この発展形が『打ち込み接(はぎ)』。石材同士の接合面を増してピッタリ組み合わせ、接点を増やすことで安定させています。さらにそれを発展させたのが『切り込み接(はぎ)』で、石同士を完全に整形して密着・安定させる、インカ時代の石組みの造りです」

◆「石自体の並べ方、積み方、角の処理の仕方にも、『谷積み』や『亀甲積み』など色々あります。重力を分散させたり、摩擦係数を最大にして建物を安定させたり、角の石をサンドイッチ構造にして倒壊を防ぐとか、石工の専門家集団が様々な工夫を凝らしました」目を閉じて聴けば現代建築の技術解説、顔を上げ、スライドだけ見詰めると、みんな似たり寄ったりの古代の遺跡。そのギャップが面白い。

◆石同士の密着技法が山岳地帯に多いのに対して、シクラは主に乾燥した海岸地方で使われた。湿度の高い山では、植物繊維のネットが腐ってしまうためだ。シクラが免震なら、密着法は耐震。ナスカ近くのカワチ遺跡では、植物繊維を下に敷いた『滑り免震』という技術もあるという。

◆一帯は地形も自然も多様な土地ゆえ、帝国による征服以前、各地に多彩な文化が栄えていた。シカン遺跡もその1つ。石壁巡りの後に見る金銀細工はひときわ眩かった。が、「インカは黄金帝国として有名ですけど、ここのお宝をパクったのがインカ帝国」なんだとか。また、「B級マイナー酔っぱらい文化」と全さんが呼ぶチャンカイ遺跡からは、酒杯を手にした人物像の酒器が続々と見つかっている。その土器の顔も、ポリネシア系にアジア系、コーカソイドにギリシャ風と、世界中の人種が勢揃い。「いろんな人たちが、ジョン万次郎みたいに辿り着いていたのではないか」。そう推理する彼によると、コロンブスも、「『新大陸を発見した』と言うより、『新大陸に来て、初めてヨーロッパに帰った人』」が正しい位置付けであるという。

◆アンデスは、我々の食卓に欠かせない、様々な農作物の原産地だ。ジャガイモ、ピーナッツ、トウガラシ、トウモロコシ……。また、それぞれのバリエーションが凄い。「ジャガイモだけで3500種類。味から使い途から全部違う」のだそうだ。「これは皮剥くのが大変で、現地名を『嫁泣かせ』と言います。しかも、これらをチューニョというフリーズドライ加工にすると、何十年でも保存でき、穀物と同じように扱えます」

◆それら豊富な品種の蔭には、科学的な品種改良があった。「これはモライの遺跡です。円形劇場だという説が濃厚だったんですが、実は農業試験場でした」「下と上で深さ100m以上の差があるので、霜の降り方、風の当たり方、陽の射し方も違う。耐寒品種とたくさん取れる品種を掛け合わせたりといった品種改良を、ここでやっていた」「花粉分析でも作物の花粉が沢山出ており、実際にその周りでは、一つの畑の中で、ジャガイモをざっと15〜20種くらい植えています。病気で一つの種類がダメになっても多くは残る、という理詰めの栽培です」。驚愕の事実の数々……。『メンデルの法則』なんて、インカ人はとっくの昔に知っていたに違いない。

◆野生動物の家畜化も、遥か6000年前から始まっていた。ラクダ科で高品質の毛が取れるアルパカは、運搬にも使え、1頭で30〜35kg、30頭のキャラバンを組むと約1トンの荷物を運べたという。これに小型のリャマとモルモットの一種のクイを併せた3種類が、アンデスでの家畜だった。

◆全長4万kmのネットワークを誇ったインカ帝国の道は、それ以前、2000年、3000年も前から建設が進んでいた。「これは、私が運んできてグレートジャーニー展でぶら下げた、7mの縮小版の本物です」と映し出された吊り橋は、インカ道で現存する唯一のものだという。絶壁中腹の引っ掻きキズのようなインカトレイルといい、我々の道路のイメージからすると心細いが、徒歩やアルパカキャラバンには、これで充分だったのだろう。

◆インカ道というハードの整備を全土で進める一方で、帝国はソフトの統一も果たした。スペイン人が『ケチュア語』と呼んだルナ・シミ語の公用語化だ。現在のペルーでも、スペイン語、アイマラ語と並び、ケチュア語が公用語に使われているという。「徳川幕府時代に『お国替え』というのがありました。インカ帝国も、言葉を共通にすることで、敵対している部族を武力で征服するより『言うこと聞くと良いことあるよ』と、お国替えで勢力を広げていきました」

◆こうしてインカ帝国が急速に発展を遂げたのが、9代目皇帝パチャクティの時代、首都はクスコ。という訳で、ようやく我々もクスコに到着した。『12角の石』や『14角の石』に見られる、頂点に達した石組み技術の数々。裏の丘に残る要塞兼神殿・サクサイワマンでは、高さ3〜4m、推定300トンを超える石が組まれ、その隙間にはカミソリの刃1枚入らないという。「鉄も機械も使わず、これらをインカの人は手だけで削りました。それでガチガチ叩いて……」と回ってきたのは、小さな握り拳大の、ズシリと重い隕鉄だった。摩滅によるのだろう見事な丸みを眺めていると、その膨大な年月と労働量に言葉も出ない。

◆この後も、脳外科手術の頭蓋骨や目玉付きミイラ、1000m近い崖の上の秘境遺跡ワクラプカラ、と全さんのサービス精神が発揮され、ようやくマチュピチュに辿り着いたのは、ツアー終了時刻の30分前だった。ここでも、話の中心は土木や建築だ。「全部の面で石の組み方が違いますが、ここは鹿島建設、こっちは竹中工務店みたいに、別々の職人集団が造ったのかも」「石を割るときは、石ノミで開けた穴に木のクサビを打ち込み、水をかける。すると木が膨張して、石の面に沿ってパコッと割れた」

◆遺跡内の名所旧跡を巡りながら、そんな説明が続く。しかし、ひとたび『石』を離れると、全さんが語るマチュピチュは、ナマナマしくてヒト臭く、どこか軽くてミーハー的だ。発見秘話や、それに纏わる人間ドラマ、いまでは観光客が列を成すという現実……。が、そんな思いも、彼が苦労して撮ったであろう写真を目にした途端、掻き消えた。東西南北の山から眺める『空中都市』は、狭い痩せ尾根の下から階段状に石垣を積み上げ、人工的に作り出した平地の上に築かれた、正真正銘の『天空の城』だった。全さんによると、「アンデス文明とは南米ペルーの太平洋岸に5000年前から栄えた古代諸文明の総体で、その最後に登場する、ある意味での集大成がインカ帝国」だという。まさしくマチュピチュは、いまの一瞬など超越し、5000年の時間の頂に浮かんでいた。

◆「『何か判りたい』と思ったら、本を読む、良く知っているヤツに話を聞く。そして現場に立って見る=旅をする。これ以外に方法はないと思います」。そんな言葉で地平線マチュピチュツアーを締めた全さん。「そういうのを纏めたのが、この本でございます」と、最後は10月に出たばかりの自著をPR。その、会場片隅に置かれた『マチュピチュをまもる アンデス文明5000年の知恵』の好調な売れ行きが、本日の案内人に対する、参加者の満足度を物語っていた。

◆短い質疑応答のメインは、いま話題のペルー料理。「大帝国が発達したところは、みなメシが美味い」「料理は腕が2割に素材が8割。これだけ食材豊富でマズいワケがない!」「世界で『一番予約が取れない』レストランのオーナーが、店を閉めてペルーに入り浸っている」……。睡魔はどうした!?の勢いの全さんが熱く語る、聞き手には『絵に描いた餅』話の連発に、「もういいよ」と江本さん。そして、「じゃあ、(質問)最後の一人」の丸山さんの声も遮って、「もう二次会、行こ行こ」とダメ押し。「ペルー飯で、江本さん怒り狂ってます。全さん、眠い中、本当に有り難うございました」。丸山さんのシメに会場が沸き、マチュピチュを基点に5000年の時空を駆け巡った報告会は、そのままお開きとなった。[記録係:ミスターX]


報告者のひとこと

◆時差ボケ報告者のよけいなひとこと◆

■喋りながらふっと意識が遠ざかり、幽体離脱状態のまま話し続けること数回? 地平線報告会初であろう、話しながら寝てしまった前代未聞の報告者にならずに済んで、まずはめでたしという今日この頃。実はこのお原稿も、今年4回目となるペルー行きの機内で書いて、乗り継ぎ中に送れば間に合うか、などという不埒な段取りとなっております。

◆とはいえ、テープ起こしを読んでみると、それなりに真っ当な内容なのはスバラしいっ! 無意識でも辻褄が合う程度の話ができるぐらい、脳細胞の中にネタが染み込んでいる証左ではなかろうか。この10年ほど、建築学者や工学系の専門家と一緒に活動することが多く、あらゆる機会に今までもやもやしていたアンデスの遺構とその造りに関する疑問をぶつけてきた。30年以上、旅しかしてこなかったような自分でも、やはり目線を鍛えることで何かしら見えてくるものがある。現実に目の前に残されたものから何が言えるのか、その限界を極める旅を続けてきたような気がしている。

◆環太平洋火山帯の地図を見るまでもなく、太平洋に面した首都は東京とペルーのリマ市だけ。地震や津波に襲われれば、犠牲者は数十万単位と言われている。被害を10分の1に減らす防災プロジェクトも、来年から本格的にスタートする予定だ。遺跡巡りやグルメ探究もやめられないが、人的被害の最小化を目指す壮大な計画は、新しい双方向モデルを提示できそうで後には引けない。邪魔する奴は藁人形に五寸釘! てなわけで、報告会にお越しいただいたお暇な方々に、ひたすら多謝多謝でございます!(ZZz-全@アトランタのトランジット・ラウンジ)


【先月の発送請負人】

■地平線通信415号は11月13日に印刷、14日メール便で発送しました。忙しい時期と思うのに、13人もの皆さんが駆けつけてくれたのは嬉しかった。ひとりひとりにお願いしているわけでもないのに、こういう「裏方仕事」に黙って人が集まってくれることこそ、地平線を支えるエネルギーだと思う。来てくれたのは以下の皆さんです。
松澤亮 車谷建太 森井祐介 岡朝子 久島弘 安東浩正 石原玲 山本豊人 福田晴子 前田庄司 江本嘉伸 黒木道世 杉山貴章
 ◆安東君はペルーのマチュピチュ旅(ガイドの仕事)から帰ったばかり。報告会当日はいないのでせめて、と来てくれた。今回は車谷、松澤の強力コンビが印刷仕事を引き受けてくれたこともあり、意外に早く仕事は進み、「発送仕切り役」として頑張ってくれる杉山貴章君が来た頃は、ほぼ終了。そのまま二次会の「北京」へ。で、最初の乾杯は、11月11日に入籍をしたそのたかしょー君の結婚に対して捧げられました。お相手は、3年あまり付き合ってきた歯科衛生士の女性だそうです。おめでとう。


マチュピチュの美しさ、先人たちが、高い技術力とをもってここまで優れた建造物を作り上げたことにはただただ瞠目

■今年亡くなった父が最後に行った国がペルーでした。昨年6,768mのワスカラン南峰に登頂し、当時3歳だった私の娘の柚妃(ゆずき)に父が写真を見せながら話をしているうちに、娘はすっかりペルー贔屓になってしまいました。白根全さんの報告会は、ペルーという国をもっと知りたいという思いもあり、私も娘もとても楽しみにしていました。

◆報告会で初めてマチュピチュの写真をきちんと見ました。ワイナピチュを向こうに臨んで尾根の上に伸びるマチュピチュ遺跡は、今までに見たどんな種類の景色とも違う美しさでした。緑の草地に並ぶ石の建造物と周りの険しい山々が見事に調和し、さらにそれらが霧に浮かぶ様のなんと美しいことか! この目で見られる日が来ることを願わずにはいられませんでした。

◆遺跡建造物の細部を見ると、一部の隙もない精緻な石組みの技術にまず驚き、そしてここまで石の形と積み方にこだわるのは、見た目の美しさではなく耐震性を追求した執念の賜物なのだと知りました。現代のような道具や重機のない時代に、宇宙人などではない確かに存在した遥か昔の人々が、経験値と高い技術力とをもってここまで優れた建造物を作り上げたことにはただただ瞠目するばかりです。しかしその頑丈な建物が消えるよりも先に建物の主(あるじ)が不在になってしまったことを、インカの人々はどう感じるのだろうかと思いました。

◆実は、報告会開始前に私が地平線カレンダーの封入作業を手伝っているあいだ、娘は会議室のイスを全部ひっくり返すという作業(注)をひとり黙々とやり続け、がんばり過ぎたせいか報告会の後半にきて眠気に負けてしまい、あとで残念そうにしていました。でも白根さんの書かれた子供向け(といっても内容は本格的)のマチュピチュを解説した本も入手できたし、初めての北京の餃子もたらふく食べられたし、とても満足&満腹な報告会だった、ということです。

◆そして報告会から2週間たった今日も変わらず、「ゆずちゃんの一番行きたい国はー?」と聞くと、「ペルー!」と元気よく答えています。(瀧本千穂子

★注:地平線報告会では、ここ数か月、写真や動画をスクリーンを使わず会場の大会議室後方の壁に大きく映写するようにしている。このため、冒頭、会場全体の椅子をひっくりかえす作業が欠かせない。瀧本さんの父親は、この春ガンで逝った江本の山の親友。(E)

さすが全さん、写真も文章もすばらしい

■『たくさんのふしぎ』をお送りいただき、ありがとうございました! 読むことをあきらめかけていたので、本当にうれしいです。マチュピチュの神秘さだけでなく、地震に備えた構造にまで触れているのを興味深く読ませていただきました。さすが全さん、写真も文章もすばらしいですね。報告会を聴きに行けなかったのが残念です。

◆裏表紙がナスカの地上絵でしたが、山形大学には「ナスカ研究所」(ペルー)があり、新たな地上絵の発見や研究を行っています。マチュピチュも地上絵もアンデス文明の遺産ですが、まさに“たくさんのふしぎ”に満ちていますね。いつか行ってみたい場所のひとつですが、はたして行けるかな??

◆地平線報告会にときどき来ているカメラマンの渋谷典子さんが『映画の人びと 女性カメラマンの映画撮影現場体験記』を出版しました。渋谷さんは同じ酒田出身で、何年か前の報告会の時に声をかけていただいて以来のお付き合いです。映画撮影現場のスチール・カメラマンとして体験したことを綴った回想記ですが、渋谷さんならではの味のある文章で、一気に読みました。高倉健さんや吉永小百合さんなどの、映画では観られないスナップ写真もいい感じでしたよ。

◆昨日は月山の麓にある肘折温泉に泊まってきました。志津温泉とはちょうど月山の反対側にあたり、こちらも名だたる豪雪地帯です。毎年2月に開催される「地面出し競争」にあかねずみさん(山形在住の網谷由美子さんのこと)たちと参加していますが、今年はなんと3位に入賞し、来年のシード権を獲得しています。雪はなかなか厄介ですが、それを楽しみに変えて遊んでしまおう!という肘折の人たちの魅力と温泉の心地よさに惹かれて、ときどき通っています。……と長くなってしまいましたが、あらためて感謝いたします。どうもありがとうございました。(山形県酒田市 飯野昭司


<冒険フォーラムの記録「冒険の伝説・未来」ようやく刊行>

 2011年5月15日、「3.11」のわずか2か月後にお茶の水の明大アカデミーホールで1000人の聴衆が参加して「日本冒険フォーラム」が催された。兵庫県豊岡市の植村直己冒険館の主催で、サバイバル登山家の服部文祥、植村直己の後輩の登山家でフランスのピオレ・ドールを受賞した天野和明、山形の鷹匠・松原英俊、アフリカ縦横断のリヤカー旅人・永瀬忠志の行動者たち、ゲストとして登山好きで知られる俳優の市毛良枝さんが参加して挑戦する心をテーマに語った。その際刊行を約束したフォーラムの記録が、大幅に遅れ、この11月末、ようやく「冒険の伝説・未来」のタイトルで出来上がった。時間は経ち過ぎたが、あの日の熱気がよみがえる内容。A4版・70ページ。部数が限られているので多人数には送れません。当日参加した方で是非、という方はでお知らせを。


地平線ポストから

あの「エコたわし」“希望の大使”と命名される。
11月25日、ケネディ駐日米大使が中瀬町に!

■RQ「女性支援チーム」の仲間たちでつくったのが私たちNPO法人ウィメンズアイ(略称WE)です。暴走してメンズアイを忘れることがないよう(?)江本さんにも理事をお願いしウォッチしていただいています。

 米国政府と米日カウンシルが主導する「トモダチ・イニシアチブ」によるNPOスタディツアーにWE代表・石本めぐみちゃんが参加したご縁から、大使着任後初の被災地訪問でWEの活動の現場に足を運んでくださいました。大使をお迎えしたのは、佐藤徳郎区長の南三陸町志津川中瀬町地区仮設。地区の二次避難所が登米の鱒淵小学校にできたころからの長いおつきあいです。タコをはじめとする海の生物エコたわし「編んだもんだら」が生まれたのもここでした。

 めぐみちゃんの進行のもと集会所の大きなテーブルを囲んで、大使ご夫妻、中瀬のお母さんがた5人、佐藤区長で30分以上に渡って震災の時の体験や、編み物のことなどについて温かい雰囲気の中で深いお話ができました。区長が中瀬町地区での被害の実情を話すとき、小さく息をのんだ大使の目の色が変わったのがわかりました。 

 後日、大使はスピーチの折りに両手に中瀬町のお母さんが編んだミニタコとミニマンボウを持って「希望の大使」と呼んでくださったのです! 中瀬町のみなさんも、南三陸町のみなさんもこの訪問を心から喜んでくださいました。こんなにスゴイことが起こるなんて、めぐみちゃんのパワーはやっぱりミラクルなんです。(塩本美紀 WE副代表)

まさか、あのケネディー大使が来てくださるとは……。
そして、ようやく動き出す高台移転

■中瀬の仮設住宅に移り住んで2年4か月。まさか着任されたばかりのキャロライン・ケネディ米大使が私たちの仮設を訪ねてくれるとは思いもしませんでした。今回のことは、つないでくれた石本めぐみさんにただ感謝、感謝です。

 狭い集会所にはわずかの人しか入れなかったのですが、雨の降る中、外で100人ほどの住民がずっと見守ってくれていたんです。4時半ぐらいに集まって大使がお帰りになった後も含めて2時間ぐらい。皆、緊張したけれど、ほんとうに嬉しかったです。

 つくづく人のつながりのありがたさを感じます。鱒淵小に仮住まいさせてもらってガッキー(新垣亜美さんのこと)はじめRQの皆さん、そのほかほんとうに大勢の方々に支援してもらい、津波の被災という悲しい出来事はありましたが、3.11がなければ出会えなかった皆さんと知り合えたことをありがたく思っています。

 仮設からの移転ですが、新年1月にようやく高台移転地の基盤整備が着工する見通しです。そこに建設される4階建てと予定されている町営住宅には、中瀬の45世帯が居住を希望していて、ほかに一戸建てを希望している30世帯の人たちの家が随時建てられる計画です。ただ、新しい場所に家が完成して移れるのは3年後です。現在ここには220人がいますが、うち70才以上の人が51人。全員無事健康のままで移れる保証はないのが気がかりです。

 でも、ケネディ大使のおかげで、ここの婦人たちがつくるエコたわしが最近人気のようで、本当に良かった。皆さんもまた来てください。(佐藤徳郎談 中瀬町区長 2013年3月報告者 文責:江本)

■ケネディ大使を中瀬町に招く原動力となった石本めぐみさん、元気になってほんとうに良かった。2012年3月、浜比嘉島の小学校の閉校式で彼女と会った時の驚きを忘れない。地平線通信393号(2012年4月号)のフロントを是非読み返してほしい。◆《広瀬さんの隣にもうひとり知った顔があった。RQ女性支援センターを立ち上げ、中心的な仕事をしてきた石本めぐみさん。文字通り夜も寝ずに頑張り続け、ついに体調を崩して長期の休養に入っていた。どこにいるのか親しい友人である亜美さんですら知らなかったが「とにかくあたたかい所にいたくて」、ひとり沖縄に滞在し、回復をはかっていたのだそうだ》。◆あれから1年半。快復しためぐみさんは、仲間たちとRQウーマンを「WE(ウィメンズ・アイ)」の新しい名で本格スタートさせ、被災地のおばさんたちやシングルマザーたちを励まし、時にはアメリカまで飛んで……。その行動力が結果として中瀬の人たちを大緊張させる出来事に結びついた。(E)

福島原発被災地におけるペットレスキューの現状 
過疎の村、葛尾村は除染作業員で大賑わい

1信(12月7日) この1年半、アジアの国々をバイクツーリングで旅していますが、日本に戻っているときは、週1ペースで福島のペットレスキュー活動に参加しています。主に被災地に残された猫(犬はもうほとんど見かけません)のために給餌(決まったポイントがあります)し、瘠せていたり弱った猫や子猫は保護、帰還困難区域の場合は基本的にすべて連れ帰ります。

◆現在、最前線でそうした活動をしているのは、ほぼ個人ボランティアです。大きな愛護団体などはとっくに福島でのレスキューからは撤退しています。もう福島のこと、まして動物のことなどニュースにならないのであまりメリットもないのだろうと思います。個人ボランティアはガソリン代など交通費だけでなく、フードも寄付で賄えないときは自腹で買って毎週、福島に通っています。

◆自宅で30〜40匹も保護している人もいます。状態の悪い猫も多く、医療費もバカになりません。みんな仕事をしながらなので時間がなく広報する余裕がないため、資金的、体力的にもギリギリです。もし、寄付する余裕のある方は、ぜひ個人ボランティアにお願いします。大きな団体よりも効率的に使ってくれます。

◆私は不定期にしか活動できない状況ながら、被災地の地理に詳しく自分の車もあって比較的自由に動けるので、いろいろな方のサポートとして動いています。そのため、浪江、双葉、大熊、富岡町の帰還困難区域のほか、全村避難の葛尾村へも入って給餌レスキューをします。

◆葛尾村は福島第1原発から30km圏内にあり、一部に「帰還困難区域」もありますが、ほとんどは「避難指示解除準備区域」です。住民の多くが牧畜業や農業を営んでいたという点で飯舘村と同じ状況ですが、飯舘村ほど知名度がないためか、動物ボランティアもあまり入っていません。私たちは、住民の協力のもと、この村に残されている犬や猫にTNR(捕獲して不妊手術を施し、同じ場所に放すこと。Trap Newter Returnの略)を実施し、その後は定期的にフードを運んでいます。

◆現在、この葛尾村では除染作業が盛んに行われています。表土を剥ぎ取り、落ち葉を集めて黒い袋に詰めたり、民家の屋根を洗浄したり、という作業です。村の全人口2000人弱に対し、12月2日の除染作業員は2893名。村の人口以上の作業員が入っていることになります。もともと閑散としていた村なのに、現在はあちこちで作業員が働いていて交通量も増え、なんだか活気があるように見えます。

◆その作業員のために、村には震災前にはなかったジュースの自動販売機が随所に置かれるようになりました。また、除染作業員たちが作業を終える午後4〜5時には村に1か所しかない信号のある交差点に車が集中するため、村史上初の交通渋滞が起こっています。除染作業は雪が降るまで続き、春になったら再開するそうですが、慢性的に不足しているようで、新聞の折り込み広告にも除染作業員募集の文字が踊ります。日給は場所によって差があり、葛尾村の場合、15500円と出ていました。宿舎もあるので、興味のある人はいかがですか?

2信(12月8日) 浪江の避難指示解除準備区域に行ってきました。昨日、別のメンバーが仕掛けた捕獲器2台のうち、1台に猫さんが入ってくれていました。明日、そのメンバー、埼玉のM.Sさんのもとに運びます。1人で40匹以上も抱えてくれている方です。申し訳ないです。

◆M.Sさんのところは安心ですが、中には猫を保護してもケージに入れっぱなしのところもあって、そんなところに保護されるよりは、浪江や富岡の解除区域なら無人の町とはいえ定期的にフードは届くし、自由のある暮らしのほうがよかったんじゃないかって思っています。保護すべきか否か、難しいです。

◆ところで、浪江町の場合、解除準備区域とはいえ、富岡町と違って誰でも自由に入れるわけではなく、現在は町に許可証を申請します(町ごとに対応が違うんです)。許可証を取れば帰還困難区域の津島地区を通って行けます。津島地区、相変わらず高線量で、本日行っ民家の雨どいの下で400μシーベルト/時ありました。2年前は1000μシーベルト/時だったので、かなり下がったとはいえますが。

◆浪江の避難指示解除準備区域は、現在、動物レスキューに尽力している住民の方が行政に働きかけてくれていて、町の許可のある給餌ポイントもあり、協力獣医さんが避妊去勢手術やワクチンなどを無料でやってくれていて、TNRを進めています。富岡でもそんな動きが始まっています。私たちのような部外者ではなく、住民が声を上げるのが効果的なようです。(福島県天栄村住民 滝野沢優子


続「登山案内 一等三角点全国ガイド」発刊さる!

地平線通信に時折寄稿する大槻雅弘さん(京都在住)が会長をつとめる「一等三角點研究會」編。「山頂」ではなく「三角点」にこだわった山登りの発想がユニークで、本編(前著)が「標高500メートル以上の山の三角点」を対象としていたのに対し、続編の本書は「500メートル以下」としているのが面白い。三角点までの登山道案内は本邦初公開、という。ナカニシヤ出版。1800円+税(E)


忘れたいこと、忘れてはならないこと
――学生たちと岩手の被災地を訪ねて考えた

■「東北でボランティア活動をしたい」という学生がいた。さっそく旧RQ(市民災害救援センター)関係者に教示を乞い、学生たちは何度か現地へ下見に出かけた。学内でボランティアツアー・参加希望者を募ったところ、40人ばかりの手が挙がった。そこで11月中旬の4日間だったが、大船渡、釜石、宮古方面に出かけ、現在の様子を見るとともに、わずかばかりの活動を行ったという次第。自分は大学当局にかけ合い、バス代などの工面した関係上これに同行させてもらったのだ。

◆あれからもう2年と8か月がたつ。陸前高田には日本有数の美しい松林と白い砂浜があったが、今は見る影もなく、巨大な堤防工事が始まっている。底辺が50メートル、高さ12.5メートル、長さが2キロ。これができるまで市街地の再建などは後回し、ということだった。そこら中をダンプカーが走り、パワーショベルがアームを振り回している。三陸地方のどこへ行っても、流された町や村の再興などはまだまだである。ガレキこそ片付けられてはいるものの、更地が広がっているだけだ。大船渡だけでもまだ37か所に仮設住宅があり、およそ3000人もがそこで暮らしている。

◆大船渡の社会福祉協議会に行くと、泥濘の中から回収されたものなど、たくさんの写真洗浄作業が続けられていた。11月現在「洗浄済み写真44万6780枚、返却済み写真枚数40万711枚」という表示。担当者は「着の身着のままでようやく生き延びた方々にとって、こうした作業により手元に戻ってきた写真が、残された唯一の財産なのです」と語った。粛然とする。一口に写真といっても、撮られた時代、使用されたフィルム、あるいはカメラによって洗浄のしかたも一様ではないらしい。お手伝いする学生たちの顔つきが締まった。

◆ツアー募集段階では「行ってもどうせロクなことなんかできない」というシニカルな反応や、「きれいに塗った爪が汚れちゃうからヤなんだよね」などという能天気な女子まで現れ、主催学生たちは鼻白んだ。そこで、どこかで読んだ「あなたがたのすることのほとんどは無意味であるが、それでもしなくてはならない。そうしたことをするのは、世界を変えるためではなく、世界によって自分が変えられないようにするためである」というガンディーを引用、ハチドリの一滴の寓話も動員して気合いを入れてもらった。行政の手が行き届かない草刈り、水につかったままになっていた倉庫の掻きだしなどもさせてもらったが、やはりRQを引っ張った広瀬敏通さんがいう、「災害教育」以外の何物でもない。

◆大船渡ガイドの会の森るり子さんの案内で半日、陸前高田まで出かけた。震災後の各地の様子を見せてもらったのである。かつての松原のところに行くと、「高田松原・道の駅」というコンクリートの外壁だけの残骸がぽつんと立っていて、近くに慰霊碑が出来ていた。周辺は先に書いたような巨大堤防工事が進行中。森さんは「住民から、こんなものは不要の声が高いのに、中央でいったん決められたことは、そんなこと一切お構いなしなんです」と、憮然の面もちである。辺りを見回してもここに街があったなどとは到底想像もできない、更地が広がっているのみだった。工事現場の中に、ひょろりとした例の一本松が保存されている。防潮・防風林の再生より、何はともあれ巨大堤防なのである。

◆学生たちと食材を買い込み、仮設住宅の集会所にお邪魔した。ご当地風「ひっつみ汁」をつくり、そこにお住いの方々に食べていただきながら、震災当時のお話を伺ってみようという企画である。日曜日だったが、どういうわけか参加してくれたのは年配のご婦人のみだった。そのうちのある方が、震災当日の映像をビデオで映してくれた。あまりのすさまじさに、学生たちは声もない。参加してくれた方々からは「忘れたい」という声と、「忘れられてしまうのが怖い」という声があった。皆さんが朗らかで元気なのだが、全員が心のなかに二律背反の、辛い記憶を抱えている。

◆教員の避難判断ミスで子供たちが全滅した学校と、全員が無事だった学校がある。忘れてはならないとはいうものの、人間の記憶など全くあてにならない。あの広島の原爆ドーム保存にも、数年にわたる議論・説得があったという。ドームは今や人類共通の財産として保存され、世界中に原爆の恐ろしさをアピールし続けている。おそらくアウシュヴィッツも、あまたの戦争文学も同様であろう。

◆だが、宮本常一の著作にある『津波・高波』や、吉村昭の『三陸海岸大津波』でさえ、すでに手に取る人はまれだ。だとすれば、たとえば気仙沼市街中央に押し上げられたあの貨物船とか、ビル屋上のバス等々は「東北大震災・大津波記念遺跡群」としてでも、各地で一括保存されるべきではなかったか。子供たちに対する視覚的インパクトはもとより、忘れやすい大人たちへの教訓のためにこそだ。枯れた1本の松ではセンチメンタルに過ぎる。それより日本の原風景ともいうべき白砂青松、7万本の松原はどうした。ご婦人たちとのひっつみ汁を囲んだあと、東京へ帰るバスの中で、静かな沖の水平線を眺めながらそんなことを考えた。(小林天心 亜細亜大学教授)

吉里吉里のカフェ、復興工事のため閉店

◆「人の縁は消えない」という大きな見出しと共に、大槌町吉里吉里地区で営む友人夫妻(ノリシゲ&リア)のカフェの記事が11月30日付の東京新聞の夕刊一面を飾った。以前、通信388号で津波で流された実家跡にがれきの廃材で作ったカフェをオープンしたいきさつを書かせて頂いたが、この度11月30日をもって国道の新設工事のため閉店する事になったのだ。

◆それまで東京で音楽活動をしていた彼らは震災後、「このままでは吉里吉里に人が居なくなってしまう」との想い一つで移住を決め、その年の10月に新設家屋建設禁止が決まった区画に、半ば強引にカフェAPE(アイヌ語で「灯」の意味)をオープンさせた。この2年間、彼らは水道の通らない山側の畑のプレハブ小屋から店に通い続け、目の前のお客さんを大切に温かい料理でもてなした。どんなに遅くなっても最後のお客さんが帰るまで店を開けた。やがてモンゴルゲルが寄贈され、それはあたかも草原に佇む民家のようで、小さな灯は次第に地元の灯へと変わっていった。

◆午後にまったりと飲むコーヒーの香りや、酒と笑顔に酔いしれる音楽の宴。そんな愛おしい時間のなかで、町内外から集まる人たちの交流が生まれていった。友人夫妻はこの店の役目を果たし切ったと少しホッとした様子で、新たな次のステージを見据えている。

◆町の復興計画は地区毎に異なり、吉里吉里地区は8メートルの盛り土の上に国道を通すが、隣の浪板地区は盛り土をせずに海水浴場を観光地として残すのだそう。来春にはその浪板地区に新しいカフェが再開され、住居も新築する予定だ。さらにグレードアップした地元に愛される店になるに違いない。まずは二人に「おつかれさま」と声をかけてあげたい。(車谷建太

川内村で、川内選手と走った3キロ。自衛隊の歌姫の力強い歌声に涙も

■福島・いわきの渡辺哲です。今日は川内村へ行ってきました。復興イベント「かわうちドンドン村づくり」の一環としてマラソン大会があり、ゲストとして公務員ランナーの川内優輝選手が来られたのです。苗字が同じ「川内(かわうち)」ということで、遠藤村長がイベントへの参加を打診したところ、快く引き受けて頂けたとのことです。

◆私自身、彼には「市民ランナーとして実業団ランナーに挑み続ける反骨さ」をヒシヒシと感じており、大ファンなのです。川内選手と3km程一緒に走らさせて頂きましたが、とても元気が出た気がしましたよ。イベントの後半は、海上自衛隊の歌姫「三宅由佳莉」さんのコンサートです。透き通るほどの歌声で体育館は静まりかえり、ときに力強い歌声に涙が流れてきました。そして、会場の全体で「ふるさと」を大合唱。隣に座った村のお婆さんも涙ながらに歌っていました。

◆今日の川内村は小雪が舞うほどの寒さでしたが、心も体もホッコリとしたひとときを過ごすことができました。帰りには、津波で大きな被害を受けた「久之浜」に立ち寄ってきましたが、家屋の土台を撤去する作業が始まっていました。少しずつではありますが、復興に向けて歩みが進んでいます!(渡辺哲 いまや地平線最強のランナー)

★屋久島便り★冬の仕事は農作業で、今は「ぽんかんちぎり」の最盛期

■11月末、屋久島の中心部に連なる標高2000m近い山々には20cmほど雪が積もっています。里地ではハイビスカスや遅咲きのヒマワリが咲いていて、日本の北から南までの自然がこの小さな島にぎゅっと集まっています。

◆秋冬になると、急に移住者同士の交流が活発になってきました。みんな夏は観光業で忙しいので、落ち着いてきたこの時期から自分たちの時間をゆっくり持てるようです。食や音楽をテーマにしたイベントや、農作業の交流会。先日は20名の仲間と一緒に麦を蒔き、麦踏みもしました。

◆少し話はそれますが、12月はじめ、1週間ほど実家の埼玉に帰省しました。入院中の祖父に会うのが一番の目的で、家族や友達に会ったりと大切な時間を過ごしました。家族と離れてしまう申し訳なさ、それでもやりたいことをしたいという想い、その間でいつも複雑な気持ちでいます。でも今回の帰省では祖母から昔麦を育てていた話を聞けたり、野菜の種を分けてもらったことで、今自分がやっていることが間違っていなかったような気持ちになれました。

◆屋久島に帰ると私の冬の仕事は農作業で、今は「ぽんかんちぎり」の最盛期です。木々の濃い緑にぽんかんの鮮やかなオレンジ色。その向こうには山々と海が見え、気持ちのいい環境です。2mくらいの梯子を使い、木の形によっては枝に登りながら収穫することもあります。ベテランのおばちゃんは島育ちの60歳代。子どもの頃いつも木登りしていたというだけあって、ぴょんぴょんと身軽に木の上で作業します。だいだいの木の鋭いトゲで貝をほじって食べたことなど、ここでも自然の中での暮らしの話がたくさん聞けます。

◆毎日6時、10時、12時、15時、17時、21時に、農作業の休憩時間などを知らせるチャイムが島中で鳴ります。雨が降ったらお休み。天候に左右される仕事は不安定と言えばそうですが、人の体に優しくていいなあと思います。(新垣亜美

息子が通信の表紙を食べて破り、江本さんの文章が真っ二つです。長女、長男と二人分続けて取った育休、約3年10か月。4月からいよいよ職場復帰!

■地平線通信415号の山本豊人さんのお便りを深く共感しながらとても興味深く読みました。男性でも、自分の赤ちゃんを前にして、成長が喜ばしい反面、ちょっぴり寂しいとか、その小さいけれど大きな力(山本さんが『赤ちゃんは大きな自然』と表現されたようなもの)にただただ圧倒されるような瞬間があるとは驚きでした。

◆男性とはそういう話をしたことがないだけなのかもしれません。ちなみに私の夫も昨年の第二子出産後に育休を二か月取りました(我が夫ながら、なかなかの度胸です)。家族4人の濃密な二か月間を過ごしました。“イクメン”とか“イクジイ”、という言葉も今はあるようだけれど、実務的な育児そのものだけでなく、命の生々しさを感じられる瞬間が、母親以外の育児従事者の人々にも沢山あると良いなと思います。

◆私の近況はと言えば、やはりこの一年は育児しかしていませんでした。今の自分を語れ、と言われても育児のことしか話せません。100%、いや120%育児の2013年でした。寝ても覚めても育児。今これを書いている間も、寝たはずの長男の泣き声で寝室に行き、再度寝かせて少し書いたところで、今度は長女が「ママー!」と泣きながら呼び……。仕方なく暗い寝室にパソコンを持ち込み、子供が起きたら対応しながら通信を書いています。子供は母親が自分以外の何かに夢中になる空気を敏感に察知するようです。傍らに置いてある地平線通信415号は息子が表紙を食べて破り、江本さんの文章が真っ二つです……(江本さんごめんなさい)。

◆そんな育児漬けの毎日も、あと残すところ3か月ちょっと、四月からはいよいよ、職場復帰の予定です。長女・長男と二人分続けて取った育休、約3年10か月。子供が3歳の年度末まで休める制度自体も出来たばかりで、これほど長く休んだ人は今の会社で私が初めてではないかと思います。残業、出張など仕事漬けだった日々とは一転し、職種も変わってゼロからのスタートでしょう。私くらいの年(34歳)だと、未婚、あるいは子供がいない友達はマネージャークラスの職位に就いていたり、フリーでバリバリ働いていたり、その姿はとてもまぶしく、うらやましく感じることもあります。

◆でももし自分がその立場だったら、子供がいる人がうらやましかったかもしれません。「ないものねだりなのかもね」今日会った独身のキャリアウーマンの女友達と話しました。来年の今頃、もし通信の記事を書くことがあれば何を書いているだろう……? 今の育児漬けの日々を、ちょっとばかり懐かしく思っているかもしれません。(三羽宏子

国民栄誉賞を受賞した素敵な野球選手2名から一字ずつもらって、命名した長男と2才の長女でてんやわんや。高田馬場がブラジルほど遠く感じられる日々です

■先日は、お電話をいただき、ありがとうございました。実家にも、使われていない母のPCがあることを思い出し、引っ張り出してみました。11月1日には長男・茂秀(しげひで)が生まれ、てんやわんやの毎日です。

◆実は、今回の出産は生まれる前から大変だったのです。9月に激痛に襲われ、早産の危険があるとかで半月ほど入院しました。退院後も自宅安静といわれ、家事もできず、横になるだけの日々でした。2歳になる和花(のどか)は、9月から実家に預けっぱなし。娘と旦那と実家の両親には、本当に迷惑をかけました。

◆おかげさまで、苦労の末に生まれた子は元気です。今年、国民栄誉賞を受賞した素敵な野球選手2名から一字ずつもらって、命名しました。昼間は2か月の空白を埋めようと娘がくっついて離れず、夜は夜で、昼間以上におっぱいを飲む赤ん坊に手を焼き、あっという間に1日が過ぎていきます。高齢出産の私はぐったりですよ。しかし、母ちゃんはがんばるしかない!ですね。

◆全さんの報告会、魅力的ですが、高田馬場がブラジルほど遠く感じられます。通信を楽しみに待つことにします。皆さんに、どうぞよろしくお伝えください。(黒澤(後田)聡子元ブラジル・レシフェ日本語教師)


《通信費をありがとうございました》

■先月の通信でお知らせした以後、通信費(1年2000円です)を払ってくださった方々は、以下の皆さんです。数年分をまとめてくださった方もいます。万一、記載漏れがありました(実は先月も1件ありました。すいません)ら、必ず江本宛てにお知らせください。アドレスは、最終ページにあります。振込の際、通信の感想などひとこと書いてくださるのは大歓迎です。

鈴木公江/田部井淳子(10000円 本当にご無沙汰しております。いつも地平線通信送っていただき、ありがとうございます。送料分同封します。手足しびれですごい字ですが、山も登ってます。どうぞよろしく)/亀山晃一(4000円)/金井重/木下聡/山池信義/斉藤孝昭/風間深志(5000円 事務所を大宮から渋谷に移転して頑張っています。それにしても、延々続く地平線会議!)/向晶子/小山田美智子


地平線カレンダー。今回の絵は、亮之介さんの新たな魅力が溢れていますね。描かれた風景の向こう側に広がる草原までも見えてくるようです。

■一年ぶりの報告会。本当におもしろかった。白根全さんのお話、素晴しかったです。実は、全さんファンです。久しぶりの方々にもお会いできました。みなさんと少しずつお話しているうちに、あっという間に時間が過ぎて……充実の夜でした。

◆今回も、報告会がいくつかの出会いに繋がりました。編集者の中村易世さんが配っていらした国際有機農業映画祭のチラシ。そこには高山で一週間後に上映を予定していた「福島 六ヶ所 未来への伝言」と、島田恵監督のトークショーの情報が。東京滞在を延ばして会場の法政大学へ。思いがけず監督とお会いし、お話ができました。映画祭に辿りつけた不思議。11月30日の高山での上映会には、映画に登場されていた郡山の稲作農家の中村和夫さんに来ていただき、現在の状況を伺いました。

◆さらに、報告会で向後紀代美さんから教えて頂いた国立科学博物館企画展「砂漠を生き抜く」へも出掛けました。向後元彦さんや宮本千晴さんによる、様々な視点からの砂漠のマングローブにまつわる貴重なお話を聞くことができました。専門的なのに、素人にもよくわかるお話! ちなみに、私の地平線初体験は向後紀代美さんの報告会でした。

◆滞在中は長野家にお世話になりました。亮之介さんには会えなかったけど、早々と地平線カレンダーが手に入って満足満足。今回の絵は、亮之介さんの新たな魅力が溢れていますね。描かれた風景の向こう側に広がる草原までも見えてくるようです。報告会は、身も心もリフレッシュできます! ありがとうございました!(すっかり冬の飛騨高山より 中畑朋子


『地平線カレンダー2014・蒙大拿慕景』、残部僅少!!

■すでにお知らせしたように、タイトルは『蒙大拿慕景──Montana Sketch』。ことし5月から6月にかけて長野画伯が滞在した、モンタナ州の風景を描いたスケッチです。A5判横・7枚組み。頒布価格は1部あたり500円。

申し込みは地平線のウェブサイト(http://www.chiheisen.net/)か、葉書(〒167-0021 東京都杉並区井草3-14-14-505 武田方「地平線会議・プロダクトハウス」宛)で申し込んでください。

◆お支払いはカレンダーの到着後に、郵便振替でお願いします。いきなりご送金いただくのではなく、かならず先にウェブサイトや葉書で申し込んでください。

★なお、11月22日の報告会当日、カレンダーの封入作業に参じてくれたのは、以下の皆さんです。ありがとうございました。

瀧本千穂子 瀧本柚妃 掛須美奈子 古山里美 古山隆行 八木和美 久島弘 緒方敏明 石原玲 加藤千晶 丸山純


「森の娘」

■海宝道義さんの「さくら道ウルトラマラソン」を応援していて、363回報告者、原健次さんと偶然出会った。そんな自然な出会いが好きだ。しかし彼の偉大さを知る前に訃報を聞いた。その後、不思議な縁で繋がった奥様の典子さんが「地平線通信」を送ってくれた。それは平凡な生活に喝を入れられたような内容だった。「今を一生懸命、生きろ」と、声が聞こえた。特に心に残ったのが、幼児を抱えて大変そうな若いママの姿だ。あの時の私に似てる。

◆名古屋から富山に嫁ぎ子供を育てる事は思いの外、大変な事だった。地元の神社で、子供の成長を願い「お稚児さん」という祭事に参加した時の事。家族は仕事、私1人で2歳、5歳の息子を連れて行った。慣れない着物姿で2人の着物を着せ、袴を穿かせ、薄化粧を施し行列に並んだ。待ち時間がどんどん長くなり子供達は飽きてしまい、やがて頭に被っていた烏帽子を投げ捨て「もう帰ろうよ。お家に帰ろう」と言いだした。

◆必死に宥める私を、夫婦で来ていた家族が冷やかな眼で射る。一人の子供に何人もの大人が付き添う家族が笑っていた。2時間ほどの事であったが、35人をまとめられた幼稚園教諭だった私は、たった2人の子供に途方に暮れた。その日の写真には、はだけた着物姿の子供達と、どうしていいのか不安一杯の私が写っていた。まるで霧の中にいるようで出口が見えない。

◆そんな私に光をくれたのが「森の娘」と題された、チベットの美しい少女の写真である。肌や髪の様子から自然の厳しさが伝わる。未来を見つめる瞳に引き込まれた。穏やかな口元は「幸せは心の中にあるんだよ」と、いつも教えてくれた。どれほどその美しさに元気を貰ったことか。こんな力を感じる写真は稀だ。辛い時はいつもその少女を見て発奮した。時期が来ると霧はあっという間に晴れた。

◆最近「森の娘」のカメラマンが江本嘉伸氏と知り、本当にビックリした。25年かかって解ったこんな素敵な事は、ワインのように味わい深い。(富山県 波多美稚子

★「森の娘」は、江本著「鏡の国のランニング」(窓社)の扉の前に使われている写真。東チベット・ポミ(波密)の森の村で出会った笑顔の少女。

声援の中で不思議と透明な存在になっていくような感覚があった。母親でも妻でもライターでもなくて、“ゼッケン番号24974のランナー”という記号としての自分。

■12月1日に開催されたNAHAマラソンに参加し、無事に完走した。フルマラソンは初めて、しかも出産後初の長距離だったので、制限時間(6時間15分)内のゴールを目標にしていたが、記録は5時間21分(実質)と、自分としては上出来の結果。強い日差しと沿道の温かい声援が印象的な大会だった。

◆大会当日は朝から雲一つない晴天。日中の最高気温は21度の予報だった。規定の8時20分にはブロックごとに分かれたスタート前の整列地点へ。私のゼッケン番号は24974番で、エントリーした約31000人がAからJまでに分けられた最後のJブロックだ。9時ちょうどにスタートの号砲。しかし、Jブロックは全く動き出さない。そのまま数分間その場に佇んで、やっとゾロゾロと歩き出し、スタートラインを跨いだときには号砲から既に20分が経過。整列地点に立ってからは1時間が経過しており、このときには早くも微妙な尿意を感じ始めていた。

◆走り始めてすぐに汗が滲み、右足の太ももに少しだけ違和感も出始める。実は前日、長野亮之介さんと軽いジョギング中に与儀公園で派手に転倒して大きな青アザをいくつも作ってしまったのだ。公園内でおじいたちが卓を囲んで囲碁や将棋をしているのを見て、アジアの街角やエルサレムの旧市街地でもこんな風景を見たなあとぼんやりしていたら、地面の凸凹に躓き、子ども顔負けの見事な転び方をしてしまった。たぶん上から見たらアルファベットの“I”の字になっていたはず。幸い膝を痛めることはなかったので、苦笑しつつ、長距離に耐えられるかと不安に思っていた。

◆10キロ地点で1時間12分。予定通りのゆっくりペースだ。なぜフルマラソンを走ることにしたのか。周囲に何度も聞かれたが、正直言って自分でもうまく説明できなかった。娘(3歳8か月)を出産後、ガクンと体力が落ちたと感じたのが走り始めたきっかけ。出産までに12キロ増えた体重は、授乳するうちにあっという間にマイナスになり、仕事の締め切り前の徹夜ができなくなった。それでも無理をすれば、後で必ず熱を出した。これはマズイ、というのが一番の動機。

◆しかし、逸る気持ちとは裏腹に、当日まで思うようにトレーニングが積めなかった。猛暑や秋の台風のため、また風邪をひいたため度々練習を休んだ。なにより大前提として、誰かが娘の面倒を見てくれないと自由にランニングもできないのだった。でも、だからこそ、とにかくマラソンに出ると決めてしまうことが大事だという気がした。周りの予定まで管理して、かける迷惑の隅々まで気遣っていたら、たぶんいつまでも出られない。母親だから仕方ないよなと気持ちを抑えて諦めはじめたら、次々といろんなことを諦めなければいけなくなる気がした。

◆沿道からは絶えず楽器による演奏や声援がランナーに向けられている。那覇まで一緒に来た夫と娘は、マラソンの応援は退屈だと言って水族館に出かけた。そんな個別のランナーが抱える事情を沿道は知らないし、私も他のランナーのことは知らない。無名の自分に向けられた大きな声援の中で不思議と透明な存在になっていくような感覚があった。母親でも妻でもライターでもなくて、“ゼッケン番号24974のランナー”という記号としての自分。いろんな役割を脱ぎ捨てることのできる42.195キロという束の間の旅。

◆練習で走った最長距離の20キロに差し掛かった。その少し手前の沿道でバンドを引き連れた山崎努似のおじいが「島人ぬ宝」を熱唱していたので、余裕をかまして「イーヤーサーサー」と合いの手を入れると、そのすぐ先から長く急な上り坂。ここはスイスイ上って、遠くの目映い海を拝んだ。太ももの違和感はいつの間にかなくなった。

◆20キロ地点で2時間26分、そのまま30キロ地点で3時間42分。ノロノロランニングではあるが、“産後初の自分”には妥当なペース。予想通り、33キロくらいから徐々に苦しく感じはじめ、36キロ付近では「もう嫌だ、二度と走るまい」という気分に。ちなみに、30キロまでは止まる気にならなかったので、スタート前に感じた微妙な尿意は未だ健在だったが、この時点でトイレのために立ち止まったらもう二度と走り出せない気がして、結局、最初から最後まで尿意と仲良く並走するハメになった。

◆40キロ地点で5時間01分。足の感覚がなくなってついに歩き出した。じりじりした日差しが痛い。目の前がクラクラする。けれど、500メートルくらい歩いたところで「まてよ、たかがあと2キロじゃないか」と思い直して、また走り出した。市街地に入って沿道の声援が再び大きくなっていて、「頑張れ」の声に背中を押されたという部分も大きい。一般の人が自前で差し出してくれるバナナや黒糖、チョコ、みかんなどの様々なエイドも本当にありがたく、文字通りエネルギーとなった。

◆そして、スタートから5時間21分後、ゴールラインを踏んだ。ゴール前のスタジアムに入ったら、なんだか胸がいっぱいになってしまった。全然趣味じゃないけど、気分は日本テレビの24時間テレビでゴール間近にしたランナー。ZARDの「負けないで」が頭の中に流れ出し、有森裕子さんが「自分で自分を誉めてあげて」と言っている。もう一度言うが、全然趣味じゃあない。完走証を見ると順位は10788位。ゼッケン番号は24974番なので、単純計算で約14000番順位を上げたことになる。実際に走った人数はエントリー数より少ないことを考慮しても、たぶん1万人くらい抜いたのだろう。こんな経験はなかなか出来ない。スタートが下位だったおかげで得した気分だ。そして、42.195キロはもう既知になってしまった。私はもう「初マラソン」を経験することができない。そう思うと、ちょっぴり寂しい気持ちもする。

◆それにしても全身が痛かった。数えるほどしか履いていない靴下には穴がいくつも開いていたし、その夜中、寝返りを打とうとするたびに全身の筋肉に激痛が走り、呻きながら何度も目覚めた。そんな自分の不甲斐なさ、あまりのクタクタさ加減にちょっと笑い、ちょっと心地良くもあった。もともとは出産前の体力を取り戻すためのランニング道だった。だが、「よくやったねぇ」という周囲の半分呆れ顔の反応を見て、体力以上のものを取り戻せたのではないかと思った。母親になったからって無意味でバカみたいに見える挑戦を続けたっていいし、心身がボロボロになるような経験もたまには必要よね。そんな宣言にもなった42.195キロの旅だった。(菊地由美子

帰ってきたインディ・ジョーンズ

■サイクリストにして辺境案内人の安東です。さきほどアルゼンチンから戻ってきました。地平線報告会には日本にいれば顔を出すけど、あちこち地球の端っこに出かけるからなかなか報告を聞きに行けない。先月の白根全さんのマチュピチュ報告も、行きたくても行けなかった報告会だ。

◆その報告会の一週間ほど前に、ぼくはマチュピチュへのインカ古道を案内して帰国してきた。一般的観光客は列車で麓の村まで行き、バスでジグザグ坂道を登って天空都市マチュピチュを訪れる。遺跡もきれいに整備された箱庭みたいで大変な人混みだ。中庭で飼われるリャマが観光客に愛想を振りまく。すっかり観光地だ。古代のロマンを求めるには、ちょいとにぎやかすぎる。

◆どうせならインカ古道を歩いてマチュピチュに到達するといい。インカ帝国の首都クスコから100キロほど。石畳のトレールは落ちたら大変なほど急峻で、4300mの峠もあり高山病対策が必要だ。ルートにはいくつもインカの遺跡が転がっていて、気分はインディ・ジョーンズだ。そもそも古道そのものが偉大なる遺跡なのだ。

◆100キロも歩けないって? インカ帝国には車輪も馬もなかったから、皇帝だってクスコからずっと歩いたんだぜ。おみこしだったかもしれないけど、けっこう急な石階段も多いので、多少は歩いただろうよ。まあ今では前半は道路になっているから、後半だけ歩けばいいかな。ぼくが案内するのも3泊4日の40キロだ。宿泊はテントのみ。急な坂道を登って本来の入り口の「太陽の門」に着くと、突然眼下に空中都市が広がるんだ。この感動はバスで行ってはわからないよ。

◆遺跡もなんだが、ぼくはその発見者に興味がある。間接的に安東の人生に甚大な影響を与えた人物なのだ。考古学者ハイラム・ビンガム。あの映画インディ・ジョーンズの実在モデルである。

◆アメリカのエール大学で教鞭をとるビンガムが、インカの謎を解くために深い密林へ足を踏み入れ、アンデスの険しい斜面を登ったのは今から100年前のことだ。現地の農民の案内で小高い尾根に達し、忽然と姿をあらわすその巨大な遺跡を前に、あまりの感動に呆然と立ち尽くしたという。400年もの間、歴史の舞台から忘れ去られていたのだ。いいね!遺跡には時空を超えたロマンがある。そこには探検の要素がある。

◆ぼくの今の旅人生に影響を与えた3人の人物の1人がインディ・ジョーンズなのだ。大学では専攻を考古学にするか機械工学にするか迷ったものだ。結局はロボットを開発し宇宙飛行士にもなるには機械工学を選んだのだけど、マチュピチュみたいに周辺に未発見の遺跡がごろごろと眠る所にくると、考古学がよかったなと思ったりする。今でもぼくは遺跡フリークなんだ。今年訪問して感動した遺跡だと、スリランカのシギリヤ遺跡と、ミャンマーの古都バガンかな。どっちもお勧めだ。

◆白根全さんはカーニバル評論家でもある。世間ではリオのカーニバルこそ世界一のお祭りとされる。しかし地平線諸氏にも多い青森ねぶたフリークにとって、青森ねぶたこそ世界最大だ。26台の大型山車に数万人のハネトの参加する青森のほうが規模も大きいはずだ。ネブタvsカーニバル。カーニバル専門家の全さんは、ぼくの宿敵でもある。ためしにリオのカーニバルで画像を検索すると、出てくる写真はどれもこれもダイナマイトバディ炸裂の過激なおねえさんばかりだ。山車なんて写真の端に追いやられている。これでは祭りの動機が不純ではないか。

◆青森ねぶたこそは無頼の旅人にふさわしい。しかし正しい評価のため、実際にこの目でその過激なおねえさんを、ではなくてリオのカーニバルを見に行かねばなるまい。その上で正しい判断を下すのだ。そこでアコンカグアに遠征するにあたり、カーニバルにあわせて2月下旬とした。どちらが世界一なのか。さあ、全さん!勝負だ!

◆お祭り時は宿はいっぱい。そこで先月の報告会で全さんに野宿ポイントを聞きたかったのだが、ぼくはパタゴニアに行ってしまっていた。でもチリの現地ガイドが、リオにはきれいなビーチがあると教えてくれた。なるほど、それはいい! 夜は一晩中お祭りで、昼はビーチでうたた寝野宿。最高じゃないか。

◆インカ古道もそうだけど、ヒマラヤトレッキングなどでも、顧客十数人分のテントや荷物や食料を運ぶと、ポーターなど現地スタッフは20人くらいになる。最終日にはちょっとしたセレモニーをやって、お酒が入ったり、焚き火を囲んで歌とか踊りでもりあがる。そんな時に青森ねぶたのラッセラーは万国共通でうけることがわかってきた。ハネトは威勢がいいし簡単なので現地人もいっしょに跳ねられるのだ。今年もブータンやモンゴルなどでラッセラーを響かせてきた。今週末からはタンザニアに行くので、アフリカ人を巻き込んでラッセラーしてみよう。やっぱり世界一は青森ねぶたでしょう。

◆えっ!人生に影響を受けた3人の、残りの2人は誰かだって?それはですね、あの冒険家植村直己と、かつて一世を風靡した水曜スペシャル川口浩探検隊の隊長です。地球には未だに解明されていない謎が残されている!というセリフで始まるTV番組。小学生心に世界の驚異に痺れながら見てましたね。川口浩を語ると1ページを要するのでまた今度。

◆人は多かれ少なかれ他人の生き様を人生の参考にする。地平線会議には面白い人生がたくさん転がっている。さて、あなたに影響を与えた旅人ってだれでしょう?(安東浩正・辺境案内人)


あとがき

■3.11の被災地の仮設住宅では、一戸一戸が狭く、どこも「集会室」または「集会所」が貴重な交流の場となっている。南三陸町中瀬町の「集会所」は、新垣亜美さんに連れられて何度もお邪魔し、泊めてもらったこともある、なじみ深い場所だ。佐藤徳郎区長と会うのもいつもこの部屋だ。

◆なので、ケネディ大使とそのご一行があの狭い部屋でどう座ったか、おばさんたちと語り合ったのか、雰囲気を想像することはできた。十分話し合ってはあったけど、いざあのケネディ大使を目の前にすると皆さんガチガチになってしまい、事前のうちあわせもどこへやら……、と石本めぐみさんはメールでユーモラスに伝えていた。でも、ほんとにいい空気が流れたらしい。ご苦労様でした。

◆東京外国語大学山岳会の集まりで地平線通信を読んでくれているスペイン語の先輩に「ほんとうにマチュピチュをマチャピチュと思ってたの?」と叱られてしまった。久島君がレポートの冒頭でフォローしてくれたように、確かにネパール・アンナプルナ山群の秀峰「マチャプチャレ(「魚の尾」の意味)」と混同していたようだ。もう言わないでね。

◆なお、先月号のあとがきに「サーシャ」とあるのは「ミーシャ」のまちがいでした。

◆2013年もありがとうございました。新しい年の地平線通信用に、皆さんの「ひとこと」をお待ちします。通信の感想でも、新年の抱負でも何でもいいです。1人300字以内で。宛先は江本まで、原則メールで。1月11日締め切りとします。(江本嘉伸


■今月の地平線報告会の案内(絵と文:長野亮之介)
地平線通信裏表紙

チュコトのサムライ

  • 12月27日(金) 18:30〜21:00 500円
  • 於:新宿スポーツセンター2F

「国籍も言葉も風土も全然違うのに、彼のやろうとしていることや考え方の筋道が“わかる”んですよ。自然と向きあうときのベクトルが同じだから!」と言うのは服部文祥さん。釣りや銃による狩猟技術を持ち、文明の利器を極力廃した長期山行を実践するサバイバル登山家です。

この秋、極東ロシア北端チュコト自治管区を旅していた服部さんが、偶然出会ったチュコト人が、冒頭の文に登場する“彼”、ミーシャでした。トナカイ遊牧を生業としているミーシャは、読書好きのインテリで日本の情報にも通じた親日派。そして自然の中で生きる術に長けた天然のサバイバーでした。

一目で通じるものを感じた服部さんの要請で共にした9日間の旅は、まるで分身のようなミーシャの知慧に学ぶ日々でした。今月は服部さんが経験した思いがけぬ一期一会の出会いの旅のお話です。


地平線通信 416号
制作:地平線通信制作室/編集長:江本嘉伸/レイアウト:森井祐介/イラスト:長野亮之介/編集制作スタッフ:丸山純 武田力 中島菊代 大西夏奈子 落合大祐 加藤千晶
印刷:地平線印刷局榎町分室
地平線Webサイト:http://www.chiheisen.net/


発行:2013年12月11日 地平線会議
〒160-0007 東京都新宿区荒木町3-23-201 江本嘉伸方


地平線ポスト宛先
pea03131@nifty.ne.jp
Fax 03-3359-7907 (江本)


◆通信費(2000円)払い込みは郵便振替(料金が120円かかります)、または報告会の受付でどうぞ。
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議


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