2013年11月の地平線通信

11月の地平線通信・415号のフロント(1ページ目にある巻頭記事)

地平線通信表紙

11月13日。東京の朝の最低気温は6.4℃。きのうに続いて冷たい朝だ。東北北日本は大雪が降り続き、青森では積雪72センチ。早くも除雪の仕事が課題に。「きっぱりと冬が来た」で始まる高村光太郎の詩を思い出す。小学校高学年の教科書で初めて読んだが「冬よ 僕に来い」という言いまわしが少年には新鮮、かつ強烈で、自分が書き手になった気分でうっとりしたのを覚えている。以下、光太郎の詩。

◆「きっぱりと冬が来た 八つ手の白い花も消え 公孫樹の木も箒(ほうき)になった きりきりともみ込むような冬が来た 人にいやがられる冬 草木に背かれ、虫類に逃げられる冬が来た 冬よ 僕に来い、僕に来い 僕は冬の力、冬は僕の餌食だ しみ透れ、つきぬけ 火事を出せ、雪で埋めろ 刃物のような冬が来た」

◆昭和29(1954)年の今日11月13日は、「手袋初日」だった、と朝の情報番組が伝えていた。当時は「生活季節観測」というのが気象庁で行われていて、手袋初着用とかこたつを初めて出す日とか、火鉢とか、夏の蚊帳とか、使われる初日と終日を観測していたそうだ。そういう季節感のまっただ中にいたはずの私自身は、そう言えばそうだったかな、という程度の記憶だが、確かに冬支度を「いつ」するか、は毎年の大事な決断ではあった。

◆気象庁が取り入れていたこの「生活季節観測」、昭和29年に始まり、39年には取りやめになった、と聞く。電気や石油を熱源とする暖房装置がゆっくり進出しはじめたためであろう。39年といえば、東京オリンピックの年。前にも書いたが、オリンピックをきっかけに「進撃の発展」はしたかもしれないが、日本本来の文化、価値観を支えていたあまりにも多くの大切なものを切り捨ててきたことを、忘れるまい。

◆今朝の朝日新聞は「原発『即ゼロ』首相に迫る」と、日本記者クラブでの前日の小泉元首相の会見の模様を一面トップで伝えた。「首相」とは現首相の安倍さんのことだ。東京新聞も「原発『即ゼロに』 小泉氏、首相に決断促す」と同じく一面トップ扱い。両紙とも2面にもこの会見の反響などにかなりのスペースを割き、反原発の姿勢を鮮明にした。これに対して読売新聞は「虎雄容疑者買収主導か 徳田議員、自民離党へ」と、徳洲会の選挙違反事件を一面トップで扱い、小泉さんの発言は「小泉氏原発『即ゼロ』がいい」と4面(内政面)に三段見出しで扱うにとどめた。

◆以下、にわか仕込みの知識を含めて続ける。人口500万人のフィンランド(4基の原発がある)の南西部、ボスニア湾に面したオルキルオト島にオルキルオト原子力発電所がある。1979年10月(地平線会議発足直後だ)に営業運転を開始した。1994年になって「国内の全ての核廃棄物をフィンランドで処分する」方針が国家によって決まり、オルキルオトは2000年にフィンランドで使われた核燃料の長期地下貯蔵設備として選ばれた。この設備はフィンランド語で「洞穴」を意味する「オンカロ」と名づけられ、オルキルオト発電所から数マイルの花崗岩の岩盤に建設された。

◆小泉元首相がことし8月訪れたのは、放射性廃棄物を地下400メートルに埋め、10万年保存するというこのオンカロである。原発推進派の専門家が同行してのツァーだったようだが、現場を見て元首相は「原発すぐやめるしかない」と思い決めたらしい。連れて行った業界の人はなんだ、なんだと思っただろうが、元総理の頭には「ビビッ」と何かがひらめいたのだろう。

◆地平線通信にこういう話を書いてどうする、とは思わないでほしい。探検と冒険も旅もすべては世界の動き、国際政治、経済と実は深く、密に関わり合っている。人間は、ひとりでは何もできないことを3.11は教えてくれたではないか。小泉元首相がぶちあげたことは、彼の真のねらいがどこにあるかは別にして、いま日本だけでなく、世界にとって最も切実な問題であることは確かだ。

◆朝日、毎日、東京の反原発三紙に対して読売、産経の2紙が原発擁護にまわるのが昨今の風潮だが、実は、空気は必ずどこかで変わる。大きなのは「世論」というやつだが、それは多くの場合、少数の個人の発信から始まる。いま、この瞬間こそ吠えるに値する、と見抜いた元首相のしたたかさは見習うべきだろう。

◆月曜まで信州に行っていたこともあり、急激な寒波はこたえた。麦丸に上田市の量販店でセーターを買ってやったら、案外似合うので驚いた。わんこに洋服は要らないよ、とずっと考えていたから。11月12日を「2013年麦セーター初日」」と、記録しておく。(江本嘉伸


先月の報告会から

ちょっとアフリカでお務め暮らし

小林有人 竹林紀恵

2013年10月25日  新宿区スポーツセンター

■今回の報告者は、JICA青年海外協力隊でアフリカはブルキナファソに駐在した小林有人(こばやし ありと)さん(31)と竹林紀恵(たけばやし のりえ)さん(27)のカップル。小林さんは現在もODAの仕事に携わり、中央アフリカのコンゴ民主共和国と日本を行き来している。ブルキナファソ? コンゴ民主共和国? 聞き慣れない国、遠いアフリカ。そこにはどんな暮らしがあるのか。賛否両論ある青年海外協力隊やODAの事業。日本の若者は現場で何を感じたのか。会場は迫る台風をも怖れぬ人々で埋まった。いつもの新宿区スポーツセンター大会議室は、机と椅子が一新して新鮮な雰囲気だ。お二人にとっては初めての地平線会議で初めての登壇。そして筆者の私は今回初めてのレポート担当で、緊張気味。新・新・新尽くしの報告会である。

◆小林さんはアフリカ常連のわりに色白で、スマートな黒縁メガネに白襟のシャツ。一見するとIT企業のエリートエンジニアといった容貌だ。一方、竹林さんは元気と笑顔いっぱいの太陽を感じる女性で、BGMにアフリカの歌が聞こえてきそう。前半は、小林さんの自己紹介からスタートした。

◆静岡出身の小林さんは、大学進学を機に東京へ。理工学部の経営システム工学科から大学院まで進み、修士課程では金融工学分野を扱った(やっぱり理系だったか!)。修士論文のテーマは「区分線形型収益率モデルを考慮した年金ALMの最適化問題について」。<クブンセイケイガタs○△×☆……!?> しかし金融の勉強の末に小林さんが感じたのは、「お金持ちの役にしか立たない」ということ。

◆その頃から、日本語教師、数学科講師などいろいろなボランティアを始めた。一番長く続いたのが、今も顔を出している森林ボランティアだ。その後、森林ボランティアの経験を活かして青年海外協力隊に応募し、2008年9月からブルキナファソへ。同国が要請した職種は「村落開発普及員」で、具体的には「森林管理グループの支援」という内容だった。特殊技術を持たない者でも応募しやすかったので競争率は意外に高かった、という。帰国後の2011年からは社団法人日本森林技術協会に所属し、主にODAに関する森林調査の技術移転の仕事をしている。

◆続いてはブルキナファソとコンゴ民主共和国の概要紹介。西アフリカの内陸国ブルキナファソは砂漠に近く、面積は日本の約3分の2、人口は約1700万人。フランス領の時代を経て、1987年からはコンパオレ大統領の政権が続いている。マリに近い北部は治安が悪化しているものの、全体としては多民族間に争いも少なく、穏やかな国だという。

◆中央アフリカに位置するコンゴ民主共和国(旧ザイール。お隣のコンゴ共和国とは別の国です)は面積が日本の約9倍、人口約6700万人。旧ベルギー領で、フランス語を公用語とする。広大な大地をコンゴ川が渡り、雨が多く、アマゾンやインドネシアと並ぶ森林地帯だ。目下気になるニュースとしては、世界遺産にも登録されるビルンガ国立公園で石油が発見されて騒然となり、WWFが開発を食い止めようとしている。資源多き土地らしく、広島と長崎の原爆のウランはコンゴ産だとか。近年は反政府武装勢力との戦闘の影響で、政情が混乱状況にある。

◆ブルキナファソに関するニュースでは、アフリカのサッカー大会で準優勝した時の選手インタビューが非常にブルキナファソ人らしい、と小林さん。要は決勝で負けたわけだが、選手は何ともない調子で「たいしたことじゃないよ、また来年来ます」とサラリ。小林さんは、この感覚が「日本人じゃないな、と。こういうのが好きです」と笑う。そして、「なぜアフリカに惹かれるのか」という問いがいくつかのエピソードで明かされていった。

◆ある時、小林さんがコンゴの同僚に出張費の支払いが来週でもよいか尋ねると、同僚は「鳥小屋の中の鶏より、口の中の卵」と訴えた。日本で言えば「明日の百より今日の五十」、逃げ回る鶏より今すぐ手に入る卵がよい、との意だ。鶏と聞いて小林さんはブロイラーを想像したため、すぐ手に入るじゃないか、と最初は訳が分からなかったが、説明してもらって納得できたという。

◆また、ブルキナファソでは、食堂に入ると食事中の客によく“You are invited(あなたは招待されています)”と呼びかけられた。「知らない人の食事を私が食べるのか? お金は払うのか?」と謎だったが、生活するうちに、一緒に食べましょうと言うのが一種の社交辞令的な習慣らしいと分かってきた。食堂で誘われて食べたことはないが、道端で知り合いが小さな鍋を囲んでいるところに行きあうと、本当に食べる場合もある。そういう土地柄だった。

◆道端でトウモロコシなど買って職場に行っても、食べようとすると「一人で食べるのか」と怒られる。一人目に会った人に半分、二人目に会った人にはそのまた半分、三人目に会った人にはさらにその半分を渡すのだ。それでは自分の分がなくなってしまうではないか。しかし彼らは、「ここでは何か得たらみんなで分けるんだ。それは私の喜びだ」という。取り分が減ってお腹がすくだろう、本当に喜びなのか?と問うと、そうだ、と答える。小林さんも、「そういうものか、と思えてきた」。

◆コンゴでは、森林研修の際、森の伝統的な所有者である村長に挨拶に行くことがあった。お酒を贈る習慣だというが、仕事なのでお酒では領収書が切れない。さてどうするか。贈らなければ、突然ヘビに襲われる、ハチに襲われる、昨日まで何ともなかった車が突然壊れる、といった具合に「呪われる」ため、たとえ大統領でも用意しなくてはならないという。小林さんがポケットマネーで買ってきて差し出すと、そのお酒は儀式として大地に少々捧げられたが、残りは村長が全部飲んでしまったらしい。次の日、酔っぱらった村長に「もう一本くれ」とせがまれた。断ると「呪われる」ので、「なるべく村長に会わないようにした(笑)」という。

◆ぽつり、ぽつりと語りながら小林さんは、「結局、いまだによく分からないので、アフリカに通っているのかな」と結論。たとえば、民主化について。ブルキナファソの友人に「アラブの春」に関する印象を聞かれ、小林さんは「春というくらいだから良いのでは」と答えた。しかし友人は、「あれは最悪だ」。カダフィ大佐を特別擁護しているわけではなさそうだが、「民主主義だけが唯一の方法ではない。それ以外の方法もある」と。振り返るとその語気には、騒乱の背後に欧米の利権があったと見るニュアンスも含まれているようだった。小林さんは、「初めて聞いた視点だったので、どういうふうに考えたらいいのかな、というのは今も心に残っている。引き続き考えてみたい」。

◆会場では、コンゴでの森林伐採現場の写真も多数紹介された。材木は国内での消費も多少あるが、お金になる高品質のものはヨーロッパに運ばれる。衣装材(化粧材)が主な用途で、樹齢60〜80年くらいの木が切られるようだ。最近は中国にも大量に輸出されているという。交通路としては川が発達しており、フェリーやタンカーで丸太や木炭が運搬される。川は庶民にとっても重要な足で、漁で生計を立てる人々も多い。

◆そんな中で一枚、腰まで水に浸かって満面の笑みを浮かべる小林さんの写真に目を引かれた。事務作業が多い現職だが時にはフィールドワークがあり、森からの帰りにみんなでわいわい水たまりを歩いて渡ることになったのだという。道中「どうしても水が避けられなかった」と言うが、クールな理系姿はいずこ、溌剌と輝く小林さんの童心に返ったような笑顔を見るなり、こっちが彼の正体か!?と気付かされたのだった。

◆休憩時間には、「私達は映像や言葉で伝えることはできるけれども、匂いを伝えることはできない。だからみなさんに匂いを一切れずつお渡ししたい」という竹林さんから、ブルキナファソ産ドライマンゴーが振る舞われた。濃厚な、うっとりするほど甘い香り。後半は、そんなマンゴーが繁る大地での衣食住や女性達を紹介する竹林紀恵さんのお話だ。竹林さんいわく、全世界に派遣されている協力隊のうち7割は「すごくまじめに目的に向かって活動している人」。1割は「ちょっと引きこもってしまっている人」。残りは「あまり活動せずうろうろしている人」。竹林さんは、活動しつつも村を「うろうろ」していることが多かったという。

◆暮らしぶりを見ると、竹林さんの住まいはコンクリート造りだったが、村の家の多くは藁吹きの屋根。どんぐりの頭のようにぽこっととれる屋根の中は、穀物倉庫になっている。村人はイスラム教徒とキリスト教徒が半々で、一夫多妻のイスラム教徒の家庭では、妻達は各々丸い家、夫は一人で四角い家に住むのが、この村の昔ながらの家族形態。ブルキナファソには60以上の民族が暮らすといわれ、家の形はさまざまだ。

◆商店を覗くと、小鳥やネズミを打つためのパチンコ、油などを量り売りする秤、自転車の修理道具などが並ぶ。いわゆる貧困層向けのBOP(Base Of Pyramid)。ビジネスの動きが盛んで、その日使う分だけを買えるように小分けした袋も多い。町の通りには携帯電話の充電屋さんがある。地元の人の多くがケータイを持っているが、家に電気がないので、一回50円で充電するのだ。かけることはできない、受信専用のケータイだという。

◆竹林さんは、そうしたブルキナファソ暮らしで三人の女性に出会った。一人目は、親友と呼べる仲になった同年代のアワさん(27歳)。コーヒーショップで働く彼女の楽しみは、雑穀の地酒「ドロ」をこっそり仕事中に飲むことだ。お給料は月2000円で、支払われない月もあるので生活は苦しい。恋人であるその店のオーナーと、単身者向け住宅で同棲している。もとはイスラム教徒だったが、キリスト教徒の恋人に合わせて改宗した。両親は遠い町にいて、お父さんは一番新しい奥さんと暮らしているが、「私にはお母さんがいっぱいいるのよ」とアワさん。竹林さんは柔軟な宗教観や家族観を感じたようだ。やがてアワさんはガソリンスタンドでも働き始めた。お給料は月6000円だ。

◆二人目は、竹林さんのお向かいに住む、4人の子どものお母さん。フランス語はまったく通じなかったので、竹林さんの現地語の練習相手だった。彼女は夫が出稼ぎ先で亡くなったと聞くと、その弟と再婚した。また、ある朝6時に村から20km離れた先で「薪を拾いに行く」という彼女に会ったが、たくさんの薪を積んで帰ってきたのは夜中の1時。違法伐採を取り締る環境省の役人に見つからないよう、早朝出て夜中に帰るのだという。竹林さんいわく、「強いお母さん」。

◆三人目は、竹林さんのフランス語の家庭教師。本業は小学校の先生で、一クラス100人を超える授業が朝7時半から始まり、夜6時に帰宅後は翌日の授業の指導案をみっちり書き上げねばならない上、二人の子どももいて、多忙な彼女である。実家は、お父さんが大学教授で自家用車もある裕福な御宅。彼女の両親とはまったく面識がなかった竹林さんだが、一人で会いに行くと、温かく歓迎されたそうだ。

◆ブルキナファソでは3月8日の「世界女性の日」が祝日となっている。女性はお揃いの服を着け、その日ばかりは男性が料理を作り、女性は公の場でお酒を飲むことができる。女性対男性の試合で絶対女性が勝つサッカーイベントや合同結婚式などが催され、盛大に祝われるという。歴史や政治の舞台に現れる機会の少ない女性達の生き様は、報告会ならではの情報といえよう。

◆さて、次にスライドに映し出されたのは、お皿に山盛りの芋虫。協力隊では「男性隊員はみるみる痩せ、女性隊員はどんどん太る」と言われるそうだが、竹林さんも現地の食に目がなかった。芋虫の味わいは、「コクがあります。エビみたいです」。サンドイッチの具になるのだとか......。「太った原因の一つ」という白インゲン豆の粉を練って揚げた「サモサ」は、「ほくほくしておいしい」。日本でも強烈に食べたくなるという。

◆インゲン豆とお米を炊いたお赤飯のような「ベンガ」は、油をたっぷりかけて塩をまぶして食べる。ピーナッツのお団子や、豚の丸焼きも美味。飲み物では、地酒の「ドロ」や、粟・ショウガ・水・たっぷりの砂糖で作るカルピスのような味の「ゾムコム」。赤いハイビスカスのジュースやオレンジ色のバオバブジュースもよく飲んだ。日本でハイビスカスジュースの再現を試みたところ、「これでもかというくらい」砂糖を入れないと現地の味にならず、どんなに砂糖を摂取していたのか思い知ったという。

◆市場の屋台には、「こんなのも食べられるのか」と驚く「その辺の草」が積まれ、興味津々だった竹林さん。「ブルキナファソの食事はすごく手が込んでいる」と語る。「収穫から食べるところまで全部見えるというのが、日本と違う。トウモロコシをとって、粉にして、練って、食べて。お肉も野菜もすべて目に見えた。日本のスーパーでは、お肉がパックに入って足だけ並べて売られている。違和感を持った」。

◆アフリカといっても村々によって食文化はまったく異なる。ブルキナファソの主食はトウモロコシ粉を練ったもの、コンゴの主食はキャッサバ粉のお団子「フウフウ」。それに漬けるソースはアフリカ原産オクラのソースをはじめ、多種多様。自生の地域食材を使う風景にもよく出会った。「村の食生活ってその地域の特性が見えてきて、すごく面白い」。食べ歩きから風土に親しんだ竹林さんである。

◆そうして過ごした任地で、竹林さんは東日本大震災を知った。この時、ブルキナファソの人々は「あなた達の問題は私達の問題です。あなた達の苦しみは私達の苦しみです。あなた達のために祈ります......」とメッセージをくれた。そのメッセージを白い紙に大書して村人たちが竹林さんと並んだ写真が会場に映し出される。彼らはトウモロコシや喜びだけでなく、悲しみも分け合うのだ、と竹林さんは強く感じた、という。

◆報告会の締め括りは、コンゴでの結婚式の映像。陽気なブラスバンドに合わせて、新郎新婦への贈り物が次々と踊りながら担ぎ出される。マットレスが担がれ、電子レンジが担がれ、コンロ、扇風機、椅子、テーブル、テレビ、冷蔵庫、ソファが踊り出てフィニッシュ。愉快な式であった。

◆ブルキナファソでは2008年頃は約60人の協力隊員が活動していたが、軍が大統領に銃を向けるという一時的な混乱が起こり、全員強制退去させられた。竹林さんもその一人だ。友人達に挨拶する間もなかったという。政府の管理下に置かれる隊員には行動にも制約がある。巷では、協力隊の活動は適切な援助になっていないとの批判も聞く。しかし小林さんも竹林さんも、「行ってよかった」と即答。この日会場では5歳の柚妃ちゃん(ゆづき。5月号通信にあった、ガンで亡くなった江本さんの岳友のお孫さん)から、「村に子どもはいますか」と可愛い質問があった。映像で映し出された 村の風景を見て同じ年頃の子たちがどう暮らしているのか気になったそうだ。自分と同じ年頃の人達が何を考え、どう暮らしているのか。会って、見て、何かを感じて帰ってくる。今回の報告で、協力隊の活動の意義はそこにあるのではないかと思った。(福田晴子 早稲田大学院生 文化人類学専攻)


報告後記

なにかあったときに最後に生き残るのは彼らだな、と思った。

■アフリカは憧れだった。でも行ってみたら、彼らも普通の人間だった、と思う。アフリカにも普通の人たちが住んでいて、かれらだって、本当に本当に本当に優しいけれど、ズルはするし、お腹は空く、お金だって実際のところ必要(額は日本人と全然違うかもしれないけれど)、そんなところはどの世界の人たちとも同じ、でもCAN2013(サッカーアフリカカップ)の決勝で負けてc'est pas grave(たいしたことないよ)って言葉が出る底なしのサバアレ感(ca va aller、なんとかなるよ)。ドーハの悲劇のときに、最後の最後で一点入れられた日本人は、「タイシタコトナイヨ、また次来るさ」、ととても言えないだろうな、と思いつつ、それを聞いたとき、これがアフリカだ、と思って嬉しくなった。

◆結局アフリカは憧れであり続けるのだけれど、少しずつ自分の日常にもなりつつあるし、仕事と生活をアフリカでする上で、アフリカが自分の日常にならないと、そこでの生活のストレスはものすごいものになってしまう。アフリカについて東日本大震災のときに思ったのは、なにかあったときに最後に生き残るのは彼らだな、と思った。ものすごい少エネルギー社会だから。

◆なにか見つけたいのだけれど、まだ見つかってなくて、いまのところ見てきたもの聞いてきたこと知っていることの整理を試みたけれど、ひっちゃかめっちゃかで、結局、報告後記もひっちゃかめっちゃかでごめんなさい。と思っていたところ、地平線レポートがなんと美しくまとまっていることか、福田さんの文章力に感服でした。福田さん、地平線のみなさま、お越しのみなさま、まことにありがとうございました。(小林有人

どうやら10年以上も前にブルキナファソに出会っていたらしい……

■ブルキナファソ、ニジェール、ガボン。青年海外協力隊に応募しようと決め、新卒、実務経験なしの私が選べたのはこの三国。「人がやさしい」の言葉に惹かれ、第一希望にしたのは、ブルキナファソだった。協力隊の一員として過ごした2年間は、自分がブルキナファソに居る意味と常に葛藤していたように思う。そこに居るだけで意味がある、と確信を持てたのは3.11のとき。本当に沢山の村人に、知っている人からも知らない人からも声をかけられ、励まされた。「額ではなく心です」と現地の赤十字社の呼びかけのもとに最貧国と言われるブルキナファソから集まったたくさんの寄付。この言葉や思いを日本に届けなければ、そう思った。

◆2年間のブルキナ滞在後半、南部のティエベレという村を訪れた。カッセーナという人たちが住むその家には壁面に象徴的な絵が描かれている。その家を見た瞬間、はっ! とした。愛知県にある野外民族博物館リトルワールドには、ブルキナファソの家としてカッセーナの住居が実物大で展示されている。それは、遠足で訪れた中学時代の私が一番気に入った家だった。帰国後、実家に眠っていたアルバムの中に、その家と自分が写る写真をみつけた。どうやら10年以上も前にブルキナファソに出会っていたらしい。運命だったのかな、なんて思いながら、これからもずっと日本とアフリカを繋ぐことに関わっていたい。(竹林紀恵


★ガボンから2年ぶり帰りました★

■皆様おひさしぶりです。2年間アフリカにいて、10月に日本へ帰ってきました。アフリカでは青年海外協力隊の農業隊員として、アフリカ西海岸の赤道直下にある、ガボンで働いていました。ガボンは、10月の報告者、小林有人さんが活動しているコンゴ民主共和国の隣の隣にある国です。報告の中にあったもう一つの国、ブルキナファソへは行く機会がありませんでしたが、その隣のベナンには行きました。報告を聞いていて、私も知っている物事や、知らないこと、懐かしいことなど、いろいろ出てきました。

◆アフリカと一口に言っても広く、国によって環境も文化も違います。それどころか一つの国の中でも地域によって随分違ったりします。その一方で、やっぱりアフリカだなあ、という共通点があるのも確かです。中でも西アフリカの旧フランス植民地は、フランス語以外にも宗主国の影響で共通するものが多くあります。私自身は、あまり協力隊らしくない場所で、ちっともアフリカらしくない活動をしてきたのですが、改めて、青年海外協力隊では、いろんな人がいろんな所でいろんな事をやっているんだなあ、と思いました。(松澤亮


【先月の発送請負人】

■地平線通信10月号(414号)9日印刷、封入を終え、翌10日、クロネコメール便で発送しました(作業の後、荒木町の家までタクシーで運び、翌日係の人に取りにきてもらう)。汗をかいてくれたのは、以下の方々です。
岡朝子 森井祐介 松澤亮 村田忠彦 福田晴子 前田庄司 杉山貴章 江本嘉伸 石原玲 落合大祐 加藤千晶
 最後の1人は「餃子の北京」からの参加ですが、毎月住所ラベルを印刷して届ける、大事な仕事をしてくれています。松澤君はガボンでの青年海外協力隊の仕事を終えて1週間前の10月2日に帰国したばかり。ご苦労さま。松澤君の帰国祝いを兼ねて「北京」で楽しく打ち上げをやりました。


■『地平線カレンダー2014・蒙大拿慕景』、11月の報告会にお目見え!■

■恒例の「地平線カレンダー」、2014年分を現在制作中ですが、この分だとなんとか11月の地平線報告会に間に合いそうです! 今回のタイトルは『蒙大拿慕景──Montana Sketch』。この5月から6月にかけて長野画伯が滞在した、モンタナ州の風景を描いたスケッチをカレンダーにしました。先日の「ソゾロアルキ展」でも展示されて、人気を集めていました。

◆判型は例年と同じA5判横・7枚組み。頒布価格は1部あたり500円。送料は6部まで80円、12部まで160円の見込み(紙の厚さ次第で変更になる可能性あり)。今年分は早々と完売してしまいましたので、申し込みはお早めにどうぞ。地平線のウェブサイト(http://www.chiheisen.net/)か、葉書(〒167-0021 東京都杉並区井草3-14-14-505 武田方「地平線会議・プロダクトハウス」宛)で申し込んでください。

◆お支払いはカレンダーの到着後に、郵便振替でお願いします。いきなりご送金いただくのではなく、かならず先にウェブサイトや葉書で申し込んでください。(丸山 純


地平線ポストから

あるチュクチ族の徒歩旅行者との出会い私はミーシャのおかげで、自分も世界も信じることができた。ミーシャのようなヤツが世界中にいると知ることは、私にとって「世界は信じるに足る」ということそのものなのだ

■服部文祥です。極東ロシアの北極圏ツンドラ(チュコト自治管区)を旅してきました。久しぶりに面白い経験ができたのでちょっと報告します。その旅は私の企画ではありません。NHK BSの「グレートサミッツ」に続く番組として、山にこだわらない大自然の探検や冒険を紹介する番組が企画され、そのための取材として5月報告者の山田和也ディレクターに誘われて行ったものです。

◆世の中には未開の地などもはや存在しません。知られていない場所があったとしても、アクセスが少々悪いか、政治的に行きにくいか、といった程度です。ロシア極東の地もまさにそんな場所です。モスクワにとって、極東は国境と認識されているようで、テレビカメラが入ったら、それはかなり珍しいということでした。私がこの話に乗ったのもその程度の興味からです。

◆極東ロシアといえばデルスー・ウザーラ、北極圏といえばフリチョフ・ナンセン。どちらも恋い焦がれるように憧れた、私のスーパースターです。本格的に登山を始めて四半世紀、憧れの二人と似たような環境で活動する機会が向こうから降ってきた、しめしめという感じでした。ただ番組を作るには説得力?のあるストーリーが必要です。実は極東の北極圏、チュコト半島の真ん中に350万年前に隕石が落っこちてできあがった湖があります。湖の名前はエル・ギギトギン。あまりロマンチックな響きではなく、言いにくいので、私もなかなかその名前を覚えることができませんでした。

◆湖ができあがった後に地球は氷河期を迎え、その湖は凍り付きます。ただ、隕石湖は生成過程の関係で深いため(現在の深さ約200m)、深部までは凍らず、湖に棲んでいた魚は底の方で生き残り、独自の進化を遂げることになりました(以上科学的な推測)。その湖には28年前にロシア科学アカデミーによって新種と認定された2種類のトラウトが生息しています(論文ではイワナとなっている)。湖の底で暮らすように進化したため人目につきにくかったことが、新種として発見された理由です。

◆日ごろサバイバル登山などと称して、イワナを食べながら山を歩いている服部に、同じスタイルでツンドラを旅させて、隕石湖エル・ギギトギンまで歩かせ、その上で幻の新種トラウトを釣り上げさせ、食べさせようというのが、山田さんの考えた深い深ーいシナリオでした(いいのか!NHK)。正直なところ私は出発前から新種のトラウトは釣れないだろうと考えていました。湖の底で動物性のプランクトンを食べているトラウトを釣るなら、ボートとサビキ(特殊な仕掛け)が必要です。日頃私が日本で行っている渓流釣りとは全然違います。釣りはそんなに甘いものではありません。

◆新種の釣りは最初からあきらめ半分で、ともかくこれまで払ってきた受信料分楽しめばいいや、くらいのつもりでツンドラに出向きました。ところがそこに神様は粋な計らいを用意してくれていました。ツンドラの平原のど真ん中で、チュクチ族(極東ロシアのイヌイット)の徒歩旅行者に出会ったのです(テレビ的仕込み無し。全くの偶然です)。名前をミーシャといい、日頃は仲間とトナカイの遊牧をしているということでした。テントは?と聞くと、持っているといいます。食料はと聞いたら鉄砲を指さしました(これにはしびれました)。

◆燃料は?という問いには「ドラワー(薪)」と答えます。事前情報で、サンクトペテルブルグのコーディネーターは「ツンドラを焚き火だけで旅するのは死を意味する。サバイバル登山なんかできない」といっていたのですが、大嘘だったわけです。ミーシャに「暇なら、いっしょに歩いてエル・ギギトギン湖に行かない?」と聞いてみました。「面白そうだなあ、いいよ」ととぼけた返答が返ってきました。ロシア人のコーディネーターは、モンゴロイドの現地人を突然仲間に加えることに強く難色を示していましたが、もちろん無視です。私は、日頃目指すスタイルで実際に旅をしているチュクチ族といっしょに過ごす機会を得たのです。

◆ミーシャといっしょにツンドラ徒歩旅行を始めて3日目のことでした。川の対岸をカリブー(野性のトナカイ)の小さな群れが歩いていました。遠くの丘には大きな群れが白と茶色の細かい点々となって確認できます。ミーシャが私のほうを振り向きました。目をランランと輝やかし「ここに泊まるなら、野生のカリブーが撃てる」と言い、「絶対だ」と強調しました。「獲物に絶対はないぞ」というと、ミーシャは双眼鏡で状況を確認し、大丈夫だと頷きました。「川を渡れたら仕留められる」

◆ミーシャの狙いは対岸にいる群れではなく、その奥に見えている小さな群れのようでした。顔つきから狩りの段取りができあがっていることが伺えました。私にもピンと来ました。対岸の狭い川岸はカリブーの通り道になっているのです。そこで待ち伏せできれば、結果は見えています。ミーシャは鉄砲だけを持って川に入っていきました。だが、流れの真ん中あたりで流されそうになり、こちらに戻って来きました。そのスキに、狙いの小さな群れは対岸を抜けていきました。だがミーシャはあわてず、浅瀬を探して対岸に渡り、次の群れを待ち伏せすべく草原に身を隠しました。

◆NHKからネタバレになるような話はするなとクギを刺されています。ミーシャとの旅は本当に特別でした。狩りにしろ、釣りにしろ、焚き火にしろ、移動にしろ、ミーシャが何をしようとしているのか、ミーシャが持っている技術や知識がどれだけ高く、それを身につけるのがどんなに大変で、どのような価値があるのか。手前味噌かもしれませんが私は、自分が誰よりも正確にミーシャを評価できている手応えがありました。そのことはミーシャにも伝わっていたと思います。

◆そして「ミーシャのことがわかる!」という実感は同時に、これまで自分が釣りをしたり、狩りをしたりしながら山旅を続けてきたことを強く肯定していました。それは「私は間違えていない。ちょっと遠回りしているかもしれないけど、目指す深みに向かって確かに進んでいる」という実感でもありました。大げさに言うと私はミーシャのおかげで、自分も世界も信じることができたのです。ミーシャのようなヤツが世界中にいると知ることは、私にとって「世界は信じるに足る」ということそのものです。それは自分を肯定することでもあり、その瞬間がこのような形で訪れたことが、驚きであり、喜びであり、涙がにじんでしまうほどの感激でした。旅はやっぱりすばらしい。

◆なんだかわからないですね。私もよくわかりません。この旅のようすは2014年1月2日の20時からNHK BSで放送されます。よかったら見て下さい。私の感激を映像にできるのか、山田さんのお手並み拝見です。そういえばミーシャが「冬に自転車で旅してきたアントンというアホな日本人がいた」と言っていました。(服部文祥

そこには破天荒で「こいつは何者だ!オモシレージャン!」そんな自分が描かれていた。

■8月、国内外合わせて通算100カ所目の空撮を笠岡諸島で終えた。それを機にカナダのユーコン川へと向かった、9月のことだった。カメラとモーターパラグライダーは持たず、ザックひとつの一人旅。目的はこの10年培ってきた空撮のノウハウをそのまま北の大地に持ち込み、再び自分一人で活動できるのか。もう一つは、原野に入り込む手段をカヌーに拘らず、より広域にわたる空の旅を狙い、船外機を用いることを視野に入れていた。カヌーの親分のような船に船外機を装備し、旅で得るモノと失うモノは何か。そのことを確かめに出発した。

◆実際に船外機を借り、ユーコン川をホワイトホースからカーマックスまでの320キロを9日間、一人でテスト航下した。エンジンの回転時間は52時間、156リットルのガソリンを使い必要なデータを集めた。具体的には運転の習得から積載能力の確認、巡航および遡航時の燃費計測や異なる馬力での航行性能の確認、船上でのエンジンの差し替えなど、細かなところまで書くと切りがない。こんなことはユーザーにnetで聞けばわかるじゃん、と言われそうだが本人にしてみるとこの乗物を一人で使いこなせるか、そしてこの体制で空の旅が可能なのかを知ることがポイントだった。

◆テストにしては費用負担が大きかったが不確定要素はあらかた消え、問題が洗い出された形で旅は終わった。本格的な北の旅は2003年に行ったマッケンジー川漕飛行(第291回報告)まで遡る。それから10年が経ち、その間、空撮の仕事をこなしつつも北への思いは常にくすぶっていた。いつか爆発するものと思っていたが、気がつけば言い訳に埋もれ、それは憧れにかわっていた。そのシケタ心に火が付いたのは今年の5月。「人生の棚卸し」と題し荷物整理で仕事部屋をドカドカかき回していると、偶然、以前自分が書いたマッケンジー川漕飛行の記事が出て来た。

◆そこには破天荒で「こいつは何者だ!オモシレージャン!」そんな自分が描かれていた。「この続きはどうなってるの?」体が熱くなるのを感じていた。10年前はこんなに楽しいことやっていた。なぜそれを放りだしたままにしているのか……。体は固まり、この10年の日々が脳裏を駆け巡った。そして目が覚めた。「これからは、本当にやりたいことをやっていこう」と。今度の旅はやり残したマッケンジーを含め、北の大地全域を視野に入れている。空の旅をしたいのだ。スタンスは変わらない。「旅した大地を空から望む」これに尽きる。何年かかるか分からない旅になる。

◆今、手持ちの軍資金は無いに等しい。しかし好きなことをやるのなら何とかするしかない、楽観視している。これからの人生はやりたいことを軸に生活を回せるよう思考を改め、精一杯やる覚悟である。本気で旅し、本気で働く。旅は2014年の夏にはどんな形であれスタートさせたい。現在、2003年から10年に渡り撮りためた映像のDVDを制作中である。タイトルは「多胡光純作品集(仮)」。多胡のwebsiteで年内発売。その後、写真集も視野に入れている。これを機に天空の旅人、最初の10年に区切りを付け次の10年に向かいたい。また連絡入れます。(Air Photographer 多胡光純 39歳になりました)

無粋に町中を闊歩していた軍人が姿を消したかわりに、バルコルの入り口には漏れなく関所が設けられた。金属探知機とX線検査装置……。ひろみの2年ぶりラサ報告

■2年ぶりのラサはすっかり“おしゃれな都会”になっていた。そこここに背の高いビルが立ち並び、色とりどりの車が立体交差を走り抜け、街のはずれには大観覧車やジェットコースターを備えた遊園地がオープンしていた。そして、何と言ってもバルコル。通路の半分くらいを占めていた露店が一掃されスカスカなくらいに広々としている。

◆夜なお明るく通りを照らす街灯にはチベット文字のタシデレが施され、石壁に囲われていた唐蕃会盟碑がすっきりとその全身を現し、いやはやなんとも“洗練された旧市街”が出来上がっていた。都会でおしゃれなのは見た目だけではない。各家庭にはセントラルヒーティングの為のガス管が設置され、新疆から天然ガスが送られてくる。どんどん増えつつある交通量に対処する為に、主要な道路には歩道橋が出来た。

◆チベットの外から見れば単なる“破壊”にしか見えない変化も、内から見ればまた違うものが見えてくる。そして、洗練されたのは街の風貌だけではない。“保安管理”もかなり洗練されたようだ。無粋に町中を闊歩していた軍人が姿を消したかわりに、バルコルの入り口には漏れなく関所が設けられた。金属探知機とX線検査装置である。バルコルを回るにも、ヂョカンの前で五体倒地をするにも、ただ通り過ぎたいだけの時でも、いつでもいちいち空港のセキュリティさながらのチェックを受けなければならないのだ。

◆もちろんチベット人はそんなことではへこたれず、関所があろうと荷物検査をされようと、朝に夕にバルコルを回り、ヂョカンの前で五体倒地をする。日の良い日には、モウモウとサン(香木の一種)が炊かれヂョカンの前は真っ白になる(余談だけれど、バルコル内に一時全く見かけなくなった“自由な犬”が数頭いて、じゃらけたりくつろいだりしていて心和んだ)。今の“チベット”を一番楽しんでいるのは漢人旅行者かもしれない。“同じ国”なのに異国情緒が味わえる異郷へとこぞってやってくる。

◆彼らは“美しい風景”に入り込んだ自分達をカメラに収めるのに夢中だ。最近は徒歩でチベットを旅する若者が増えているらしい。彼らは自分の旅の様子を逐一SNSで報告し、旅費の多寡を競い合う(もちろん金額が少ない方が勝ちである)。それに引き替え、チベットの主人公たるチベット人には移動の自由が無い。自治区以外に居住地があるチベット人が自治区に入るには入域許可証が必要で、通常だと1か月間しかいられない。そればかりか、出入りの際には事細かく厳しく調べられるらしい。先日の天安門で起きた事件を受けて、チベット自治区でも更なる締め付け強化策が発表された。おしゃれな都会は光と影のコントラストが強すぎて目がくらむ。(横内ひろみ

★屋久島便り★
屋久島に来た理由の1つに「自分にできる具体的なことを1つでも増やしたい」という思いがありました。東日本大震災ボランティアを終えて地元に帰ってきたときにも、強く感じていたことです。そして、実現した「火のある生活」……

■朝晩はフリースを着るくらい寒くなってきた屋久島ですが、道脇に咲いているハイビスカスやフヨウの大きな花が、一気に気分を南国モードにしてくれます。島に来て半年が経ち、11月初めにガイド会社での仕事が終わりました。冬の間はJAの農作業バイトに行く予定です。観光客(登山客)の少ない冬の間、山のガイドさんたちも副業としてやっている人が多い仕事です。

◆今はみかんの木の芽切りの季節。名産である「ぽんかん」の収穫が12月、「たんかん」の収穫が2月、3月にあります。特にたんかんはすごくおいしいです。小ぶりで、ぎゅっと味が詰まっていて。島民はたんかん100%の絞り汁をストッカーで冷凍保存し、夏の農作業時に飲んだりします。4年前くらいの夏に歩いて島を旅していたとき、通りすがりのおばちゃんに凍ったたんかんジュースをもらい、生き返ったのを覚えています。

◆事務の仕事を辞める事になったとき、友人達がいろいろと次の仕事の情報を持って来てくれたのは本当にありがたかったです。小学校教員、学校司書、健康食品会社の事務(たまに島外からのお客さんを山に案内するという……)、博物館のアテンダントなど。家も探していると言ったら「マンゴー泥棒の見張りをする小屋」とか、「大きい犬小屋(と呼ばれている、八畳一間の家。山水なので夏は水が涸れる)」などの話がありました。先日知り合った女性のガイドさんは、テントで2年間暮らしながらガイドをやっていたとのこと。長年住んでいる移住者はタフです。そして変わり者(笑)!

◆冬の間はアルバイトをしながら、やりたいことを小さなことでも実際にやってみるつもりです。屋久島に来た理由の1つに「自分にできる具体的なことを1つでも増やしたい」という思いがありました。東日本大震災ボランティアを終えて地元に帰ってきたときにも、強く感じていたことです。たとえば火のある生活。つい4日前、庭に自分で焚き火サイトを作りました。土を少し掘ってまわりに石を並べた簡単なものです。海で流木を拾ってきて火をおこし、お湯を沸かしてお茶を飲む。友人たちも火のまわりに集まってきて、大家さん家族もやってきて、いい空間になりました。

◆屋久島にきてよかったと思います。うまく言えないけれど、自分に対して素直になれている気がして。自然のありのままの良さに毎日のように触れていると、自分の気持ちも大切にできるようになりました。その上で、こんどは周りの人たちにどう還元できるかとか、どう食べていくかとか……。課題は多くありますが、できることから頑張っていこうと思います。ここに居させてもらっていることに、それを許してもらっていることに、本当に感謝しています。(新垣亜美

共同湯に身を沈めると、何とも言えない幸福感・安堵感に包まれた……。全身ずぶぬれ、ドロドログチャグチャ伊南川100キロ遠足(とおあし)完走記

■先月の10/26(土)、第4回目となる「伊南川100kmウルトラ遠足」に今年も参加してきました。海宝道義さん主催の「遠足(とおあし)シリーズ」で地平線メンバーでもある酒井富美さんが事務局を務められている福島県内屈指のウルトラマラソン。私自身、同県民として震災前から毎年参加しており、とても思い入れのある大会です。今回は過去最高の410人のエントリーがあり(出走者は322人)、震災後益々盛り上がってきている感があり、嬉しい限りです。

◆さて、大会ですが例年程の冷え込みは無かったものの、台風の影響による冷たい雨との戦いとなりました。早朝5時のスタート直後は小降りでしたがなかなか止まず、体が温まりません。30km過ぎから沼山街道(トレッキングコース)は一部“川”状態で靴もドロドロ・グチャグチャです。全身ずぶ濡れ状態で標高1700mの沼山峠(約35km)に辿り着くと雨がミゾレに……。例年周囲の山々の素晴らしい紅葉を眺めながら走るのが楽しみなのですが、今回はその余裕も無い程の寒さ。次第に手先の感覚が無くなり、ザックのバックルは外せず、ペットボトルのキャップも開けられず、おまけに解けたシューズの紐も結べなくなってしまいました(結局、約10km程は、紐が解けた状態で走ってました)。

◆檜枝岐(約60km)に戻ってきた頃にようやく雨が止み、ホッと一息ついたところで、今コース屈指の難所である小繋峠までの約12kmの登りが体に堪えます……。ヨタつく体でようやく峠を越え木賊温泉(約80km)を過ぎると、地平線の大先輩でもある河村安彦さん宅にてエイドを頂きました。毎回暖かい豚汁を振舞われ、腹の底から力が漲ってきます。ここでは何故か「三輪先生の一番弟子の人?」と数人の女性サポーターからの声援(?)を頂き、ラスト20kmを快走!

◆そして、17時前に伊南小学校に無事フィニッシュ出来ました。ゴールでは海宝さん、富美さんに出迎えられがっちり握手。毎回一番嬉しい瞬間です。(タイム:11時間42分 順位:11位/322人)今回は悪天候の影響の為か、完走率が54%とかなり厳しかったようです。走った後、木賊温泉の共同湯に身を沈めると、何とも言えない幸福感・安堵感に包まれました。ホッと一言「助かった〜〜」。

◆翌朝再び共同湯で体を休めていると、河村さんと三輪さんが来られ、楽しい湯の中談義の一時を過ごしました。「こんな厳しいコースは誰が作ったのでしょうね?」と三輪さんに話しましたら、「私です……」とのご返事。三輪さん、来年は一緒に走りましょうね!

◆ところで、震災から2年8か月が経過しますが、福島第一原発は汚染水問題をはじめ、依然予断を許さない状況が続いています。我が故郷の楢葉町は来年4月に町としていつ帰るか、帰町宣言を出す予定です。戻って生活を立て直すのか、避難先で生活基盤を固めるのか、その決断をしなければいけない時期にきています。いまは東電からの補償が1人あたり月10万円出ている(私も頂いている)のでそれを支えにしている家族も少なくないです。

◆正直なところ、震災前の住環境を取り戻すことは厳しいと思いますが、一人でも多くの住民の気持ちが明るくなるような、こういった県内を盛り上げるイベントへは今後も積極的に参加していきたいと思っています。勿論、来年も伊南川100km走ります! 全国の地平線メンバーの方々、ご一緒に“走”で福島を東北を盛り上げていきましょう!!(福島県楢葉町 渡辺哲

 天涯孤独というものになって、「ウサオ」がこんなにも大事な存在になった日々。

■11月に入りました。月山、鳥海山の高いところの雪は、もう根雪になったようで、晴れた日には白く輝いて見えます。平地でも朝晩の気温は一桁で、断熱構造でない実家では、ヒーターをつけないと寒くていられない季節になりました。

◆9月18日に父が亡くなり、間もなく2か月になろうとしています。平成15年に祖父、18年に母(あの時は遠路お出でくださり、ありがとうございました)、21年に兄と祖母。とうとう父も逝ってしまい、天涯孤独というものになってしまったようです。これから老朽化した実家を片付けたり、いずれは処分しなければならないのかと思うとかなり寂しいですが、父がいなくなったこと自体は、直後は悲しかったものの、もともと離れて暮らしていたので、それほど寂しくはありません。なんとなくどこか違う場所で元気にしているような気がしてしまうものです。

◆父が生きがいをもって楽しく暮らせるようにと飼わせたウサギが、現在私の毎日を幸せなものにしてくれています。留守がちなので、生き物を飼わないようにしていたのですが、母が亡くなって一人暮らしになった父が、毎日の暮らしに張りあいがあるようにと買い与えたら、うさこ、うさこと、とてもかわいがって、うさこがいるから毎日楽しい、全然さみしくないと喜んでいました。しかし、昨年6月に骨折で一か月入院することになり、急きょ、私が預かることに。退院後も施設で暮らしてもらうことになり、ウサギはそのまま私が飼うことになったのです。

◆父はずっと、「うさこ」と呼んでいましたが、途中でオスとわかったために、私は「ウサオ」と呼んでいます。私が在宅時は、夜寝る時以外は部屋に放していますが、つんでれというやつで、自分が甘えたいときだけ撫でろ、撫でろ、とつきまとい、一人でぽーとしていたい時は離れたところにいて、呼んでも無視です。

◆ウサオは、手のひらに乗るくらい小さいのをペットショップで買い、その時はわからなかったのですが、ひと月ほどして実家に行ったら右後足が脱臼したままみたいな感じで変形。動くけれど関節が完全にはずれていて耳をかこうとしても届きません。そのうち、右前足が右側に倒れ、次いで左前足も右(内)側に倒れ、まともな足は左後足だけになってしまいましたが、いたって元気で走り回り、ジャンプもできます。ただ、前足が右に倒れているため、慌てて走り出そうとすると空回りすることが多く、どだだだだだーっとすごい音をたてて、スライディングしてきます。

◆ご飯を食べたり、トイレで用を足した後に、私のいるほうに走って来ようとして、いきなり空回りしてぶっ飛んでくるのが、なんとも不憫でかわいいです。耳を倒して足で掻こうとしても、右足は不自由で全然耳に届かないので、かわりに掻いてあげます。おしっこは完全にトイレにしてくれるのに、うんこはトイレにしてくれる時と、トイレの外(近くには行く)にばらまいてくれる時とまちまちで、毎日うんこ拾いに追われています(笑)あらあら、またばらまいてくれて……と50粒くらい拾ったのに、ちょっと目を離したすきにまた30粒とか。

◆なぜか出した後に走って来ようとするので、空回りしてその場で回転してうんこをばらまいてしまうようです。うちの愛すべきうんこ製造マシン。生き物がいると、泊りがけで出かけるのは一泊まで。二泊以上しなければならない仕事の時は預けないといけませんが、幸い、県北部や秋田の現場には実家から通えることが多いので、そういうときはウサオは住み慣れた実家の茶の間で留守番です。来週は実家から通いの現場があるので、そろそろウサオのためにこたつを出そうと思います。こたつ布団の内側を穴だらけにされるの覚悟で。

◆今は、父も母の元に逝き、私が責任を持って世話をする対象はウサオだけになってしまいました。父が寂しくないようにと買ったウサギが、今は私を癒してくれる最高の存在になっています。以前のように遠くの現場(おもに環境調査の仕事です)が終わったら寄り道しながら帰るとか、泊りがけでふらりとどこかに出かけることはできなくなりましたが、自分を待っている存在があるということはいいものですね。たまに仕事の都合で友人宅に預けてくると、もうその晩にウサオレス症候群でさみしくてたまらなくなってしまうのが難点です。

◆ウサオの死ぬほどかわいかった子どものころの写真を添付しますので、かわいさに悶絶してくださいね。(月山依存症のあかねずみこと 網谷由美子 可愛らしいウサオの写真とともに。確かに悶絶しました。=E)

名勝・嵐山台風被害報告、メンヒ登頂、そして「登山案内 『続 一等三角点全国ガイド』の発刊のおしらせ

■「地平線通信」は、毎月新鮮な情報満載で発行されているのに、京都から9月の台風18号の報告を今頃になって書かせてもらいます。先日は伊豆大島で大きな台風被害もあったのに、あえて1か月遅れの報告をさせてください。

◆9月16日。京都の観光地スポットでも一際有名な、名勝「嵐山」が台風18号の豪雨で大被害。桂川に架かる渡月橋は、氾濫した濁流が橋の上を流れる。今にも橋全部を押し流しそうな逼迫した状況を、テレビが全国実況放送。私が住む京都市西京区は橋の南に位置して、全国初の《大雨特別警報》が出され避難指示が出る。

◆16日朝。東京の江本さんから「大槻さん大丈夫ですか」と電話が入る。無事を確認すると、大変だろうが、10月号に台風のこと書いてもらえないかな、と。いつもタイムリーな報告を考えている元新聞記者の江本さんからのリクエストである。しかし、スイスのメンヒから帰って、その後片付けや一等三角点研究會の例会やら、それに加えて「全国一等三角点ガイド 500m未満」の出版校正など大忙しの日々。少し時間をください、と頼み込む。11月にはガイド本の発刊も予定しているのでPRも兼ねて11月号に一緒にしたい、とわがままな返事をする。

◆アルプスの名峰が連なる素晴らしい展望が望めるスイスのグリンデルワルト。アイガー(3970m)、ユングフラウ(4158.2m)にはさまれ、その真ん中に位置するメンヒ(4107m)に9月4日に登頂してきた。最後の登りはおそろしく狭い頂稜が約40〜50センチ幅、長さ300mほど、その両サイドが目もくらむように急こう配で雪壁が落ち込んでいる。最初の1歩が踏み出せないくらい。20歳の元旦に、伯耆大山を縦走した時のことを思い出した。とにかく、一歩一歩慎重に進む。ガイドのルックと二人の前にも後ろにも誰もいない。二人の世界ではあるが、気分的には周囲をゆっくりと見渡す余裕はない。この頂稜に何分かかったかわからないが、最後の一歩、強く踏み締め一段高いメンヒの山頂ピークに立ったのだ。

◆嵐山に戻る。16日9時ごろには雨も風も止み空は少し明るくなり落ち着いたが、桂川は茶色に濁った水は勢を増すばかり。愛犬スタンダードプードルを連れて桂川の堤防を歩く。毎朝、犬の散歩道にしている河川敷の自転車ロードは水没、あまりにも水量の多いのに驚く。桂川は1950年ジェーン台風以来の大水である。その時私は8歳で堤防が決壊し大水になったことを覚えている。

◆私の家は嵐山まで2kmほど。あくる日、犬と渡月橋を渡り中ノ島へ。今まで見たこともない嵐山の風景の変わりように驚く。景色が一変している。渡月橋の橋げたには大量のごみに流木が絡みついている。中ノ島はと言えば、ベンチなど跡形もなく、綺麗に敷き詰められていた砂利はどこにもない。基礎のコンクリートまで露出して無惨な姿。中ノ島に建つ茶店に料亭は全部床上浸水である。屋内のものが外へ山積に放り出され、これまた無惨な姿。有名な橋のたもとの旅館「渡月亭」は玄関と地下に浸水しこれまた大変な状況であった。

◆ところが、である。さすが京都。復旧工事の早いこと。3〜4日もすれば、中ノ島や各茶店に料亭は早々と復旧させて営業。観光客も元通り多くの人が渡月橋を渡っている。市内の地下鉄も1部で浸水したが4日目には開通。ただ、京都府全域では福知山市と舞鶴市は少し復旧に時間がかかった。今回の台風で、京都市は避難指示を出した。10万9千世帯、26万8千人と多くの人達に。嵐山では死者はなかったが、26号の伊豆大島は大変多くの尊い命が奪われた。亡くなられた方に心からお悔やみを申し上げたい。天災の少ない京都市内ではあるが、今年は久しく台風の嵐の中に入り込んだ年であった。

◆最後に本題です。私が代表を務める一等三角点研究會から、この11月中旬に「登山案内 続 一等三角点全国ガイド 500m」未満の本を出版する。平成23年に500m以上のガイド本を出したが、これで全国の一等三角点976点を全部紹介することが出来た。今般発刊する内容は、低いからとは侮れない。探索の楽しみのある内容の本である。おそらくこの本は、どこの組織も書けないだろうし、発刊もできないだろうと自負している。ぜひ、皆さん手に取ってみてください。ナカニシヤ出版刊 1800円+税です。(京都市 大槻雅弘 一等三角点研究會会長)

★大槻さんは、日本山岳会元会長の斎藤惇生さんの縁で親しくさせてもらっている。1942年生まれ、京都市交通局の幹部として多忙な仕事をこなしながら、好きな山登り、とくに地元京都周辺の山々の開拓に精進、一等三角点を愛した今西錦司さんの志を継ぎ、2007年、「一等三角点研究会」の会長となった。2011年には同志たちと「登山案内 『一等三角点全国ガイド』」を出版、そのユニークな試みに注目が集まっている。2005年12月号の地平線通信フロントに、愛宕山ほか京都の山々の案内人として登場している。(E)

《通信費をありがとうございました》

■先月の通信でお知らせした以後、通信費(1年2000円です)を払ってくださった方々は、以下の皆さんです。数年分をまとめてくださった方もいます。万一、記載漏れがありましたら、必ず江本宛てにお知らせください。アドレスは、最終ページにあります。振込の際、通信の感想などひとこと書いてくださるのは大歓迎です。

■野口英夫(4000円 2年分)/高世仁/村松裕子/菅沼進/大西浩(10000円 刺激を頂いています。大変読み応えがあります。これからも楽しみにしておりますのでよろしくお願いいたします。地平線会議の活動費として役立ててください)


あとがき

■寒くなると北極やモンゴルの冬を思い出す。とりわけことしは先月の地平線通信で荻田泰永さんが書いた「北極点無補給単独徒歩到達計画」のことが頭から離れない。荻田いわく「2000年代になってから、リードを迂回せずにドライスーツを着て泳いで渡ることで、最短距離で直進していくという手法がとられるようになった」というくだりに衝撃を受けたのだ。しまった。とうにそういう時代になっていたのか。

◆これまでどれだけの挑戦者が乱氷と薄氷に悩まされてきたことか。それが「ドライスーツの登場で所要日数を抑えられるために『無補給』での北極点挑戦も一般的となっていった」というではないか。荻田君の『北極男』(講談社刊)16日発売のようです。私はアマゾンで予約購入しましたよ。皆さんも買って応援しよう。

◆長い間、マチュピチュを「マチャピチュ」と書いて来たのではないか、と恐怖とともに反省している。今月の報告会のことでペルーの白根全とメールしていて指摘され、あっ、とのけぞった。うへへえ、あんなに有名な地名を書き間違えていたのか、と。馬齢を重ねて、あちこちミスもあると思うが、そういう場合は、どうか率直に指摘してくだされ。嬉しいから。

◆服部文祥君の末尾の一行に関して、さきほどマチュピチュ旅から帰国したばかりの安東浩正君に電話。「サーシャって知ってる?」と。「いろいろな人に会ったから、すぐには思い出せない。でも会う人が少ない地域だから、会ってる、と思いますよ」だって。服部君に詳しく聞いてみたい。(江本嘉伸


■今月の地平線報告会の案内(絵と文:長野亮之介)
地平線通信裏表紙

ふしぎのまちぴちゅ

  • 11月22日(金) 18:30〜21:00 500円
  • 於:新宿スポーツセンター2F

「マチュピチュって、地球上でオレがほぼ唯一住んでみたい場所なのよ」と言うのは白根全さん。カーニバル評論家として南米をはじめ世界中を旅する全さんが惚れこみ50回以上も訪れているのがペルー、インカ帝国の代表的な遺跡、マチュピチュです。標高2430mの屋根に築かれたこの空中都市は、石積みの神殿や、皇帝や貴族の住居が計画的に配された高度な都市でした。

環太平洋火山地帯の地震多発地域にもかかわらず、柱もない建物が崩れもせず500年以上も残っている秘密は、現代の建築工学もびっくりの独特な耐震構造にありました。

今月は、滞在中のチリ南部チロエ島から報告会のために一時帰国する白根さんと、謎に満ちたふしぎ都市マチュピチュのヒミツに迫ります。乞御期待!


地平線通信 415号
制作:地平線通信制作室/編集長:江本嘉伸/レイアウト:森井祐介/イラスト:長野亮之介/編集制作スタッフ:丸山純 武田力 中島菊代 大西夏奈子 落合大祐 加藤千晶
印刷:地平線印刷局榎町分室
地平線Webサイト:http://www.chiheisen.net/


発行:2013年11月13日 地平線会議
〒160-0007 東京都新宿区荒木町3-23-201 江本嘉伸方


地平線ポスト宛先
pea03131@nifty.ne.jp
Fax 03-3359-7907 (江本)


◆通信費(2000円)払い込みは郵便振替(料金が120円かかります)、または報告会の受付でどうぞ。
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議


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