10月9日。台風24号は午前9時、温帯低気圧に変わったが、局地的には激しい雨が降り、それとは反対に30℃を上回る「夏日」が各地で記録されている。ことしの秋は、穏やかというわけにはいかないようだ。
◆この1週間、「ひねり王子」のことが話題になっている。ベルギーのアントワープでの世界選手権・床運動で見事金メダルを獲った、体操の白井健三選手、17才。床運動「F難度」の「後方伸身宙返り4回ひねり」に「シライ」という名がつけられた。すごいと思うのは、あれほどの大技なのに、大舞台でも「まったく緊張しない」、という発言だ。傲慢ではなく、むしろ控えめで自然。幼い時からトランポリンで培ってきた自然な自信なのだろう。
◆「中学時代の苦手課目」に、エースの内村航平ともども「体育」をあげていることが私には面白かった。2人とも野球やサッカーなど「球技」が苦手だったのだそうだ。わかる、わかる、と言うとぶっとばされそうだが、はるか昔、ほんの少し似た体験をしたことがある。中学時代、サッカーも草野球も超へぼだったが、マット上の体操は意外にも得意だった。とりわけ「空転」、いわゆる“とんぼがえり”はうまかった。
◆ある時、体育の教師に呼び出され、「団体徒手」という種目のメンバーになれ、と言われた。「体操部」というのはなかったから、即席チームを作り、補欠のような立場で組み入れられた、と記憶する。ともかく5人チームの中に入って訓練をし、その結果、県大会でにわか仕込みにしてはまあまあの、3位に入賞した。40才になってはじめたマラソン(皇居周辺の小さな大会で優勝したことがある)を除いて、スポーツで賞をもらったのは、これだけである。
◆演技の一番最後に「シライ」、つまり4回転ひねりをやることは、42.195キロをほぼ走り終えて最後にもう一度スパートをかけるようなものだ、と昼のテレビの解説者は言っていたが、白井選手の強みは、筋肉がつき過ぎていない、細身の体形にある、という。空中で何回も自然にひねるには、あまりがっしりし過ぎてもいけないらしい。「オールラウンダー」になることを当面の目的とし、「リオは挑戦 東京はエース」と色紙に書いた17才。その落ち着き払った、それなのに初々しいたたずまいを見ると、日本の未来、なかなかだ、と思う。
◆そういうあざやかな少年が後世あらわれるとも知らず、私の17才は、冴えなかった。あの当時、夏は、やはり暑かった。もちろん、クーラーなどないからだ。私たち受験生はよく横浜の山下公園近くのアメリカ文化センターへ“涼みに”出かけた。とりわけ一室だけクーラーが2つもある部屋があり、ある日、そこで友人と長い時間話し込んでいて館を追い出されてしまった。その当日、1958年8月27日の日記。「2時45分頃、そこを抜け出して映画を見に行ってしまった。冷房装置がとても恋しかったので」安い映画館も涼みの場であった。
◆「楢山節考、という映画だった。何よりも現実離れした異様な画面に心をひかれた」と嘉伸少年の日記は続く。「山奥の孤立した村。そこには因習や迷信が幅をきかせ、独自の厳しい規律がある。70才になった老人は楢山に捨てに行かれる。白骨が散らばる山。そこにひとりでおかれるのだ」
◆この齢で丈夫な歯は恥ずかしい、と石臼に歯を打ち付ける母、彼女を背負って山に捨てに行く息子。日記を書いた当時、私は自分が70才を越える老人になるとは思ってもいなかっただろう。17才の身が映像を美しくとらえ、感動している。「映画から感じたものは、何よりもそんな現実離れした社会へのあこがれのようなものだった。その村の規律がどうとか、人々がどうとかいうものではない。さびしい、深い山に周囲をかこまれた、それだけの社会の存在という事、その事が僕の心を強くひきつける。映画の音楽も三味線と笛だけで印象深いものだった」
◆10月は私の誕生月だ。どこから知ったか、当日「おめでとうございますメール」を何人かからいただいた。王貞治大センセイらと同期生、幸い、元気ではあるが、とうに楢山に運ばれるべき爺いだ。おめでとう、を言う側もだんだん辛くなるのではないか。
◆どんな人間にも、何才になっても、役割はある、と考えているが、地平線会議のような活動をしていると、いささかでもパイオニアワークにふれていたい、と希う。それは、以前少し書いたと思うが、「年齢を重ねて見えるものの発見」である。100才でエベレスト、というのではなく、多様、多層な時代の激写の試み、と今は表現しておこう。(江本嘉伸)
■今回の報告者は、9月1日に写真集『生きる喜び』を自費出版した河田真智子さん。河田さんは島旅の達人としておなじみだが、この写真集は重い脳障害を持って生まれて来た娘の夏帆ちゃんの成長の記録をまとめたもの。河田さんは写真集のスライドを映しながら、島と障害児、さらには原発事故の話も織り交ぜて、夏帆ちゃんとの25年間といまの思いを語ってくれた。
◆まずは、夏帆ちゃんが生まれる以前の話。河田さんと島の出会いは大学1年生の春休み、鹿児島県の沖永良部島への旅だ。島の農家に10日ほど泊めてもらい、帰りに港に見送りに来てくれた方の言葉が印象に残ったという。「人の一生の中には、自分ではどうしようもできないくらい辛いときがあるものだ。そんなときがあったら、あなたもこの島に帰って来なさい。帰るふるさとがあるということはありがたいものだ」と。「また、おいで」と言われて次の夏に島を再訪すると、「本当に来た」と驚かれた。再再訪したときには、その言葉が「おかえり」に変わった。「それがきっかけで島に繰り返し通うようになりました。そうして大学の頃にはいろんな島に行って、いろんな人と触れ合って、島の素顔を伝える仕事をしたいと思うようになりました」。
◆25歳のときに、島の愛好会「ぐるーぷ・あいらんだあ」を立ち上げた。その際、作家の島尾敏雄氏の息子さんに、こうアドバイスされたという。「あなたは善かれと思って島の人と関わろうとしているだろうし、若い女の人が熱意を持って訪れれば島の人は温かく迎えてくれるでしょう。でも、やり始めたことをあなたの気分で辞めてしまったら、それは余計なおせっかいかもしれない」。では、途中で投げ出したと言われない年月はどれくらいなのだろうか。そう考え、木が大きく育つ年月と同じくらいの30年間は会を続けようと心に決めた。
◆34歳で一人娘の夏帆ちゃんを出産。写真集の最初のページは、出産直後に分娩台の上から撮影したモノクロ写真だ。その当時、生まれたばかりの赤ちゃんの写真を撮るのが流行っていて、河田さんもそんな他愛のない幸せな瞬間を写すつもりだったそう。ところが、予定日から1週間ほど早く生まれた娘は、すぐには産声をあげなかった。医師たちが隣の処置室に連れて行って取り囲み、足の裏を刺激したりしているようだが、なかなか泣き声は聞こえてこない。1分……、2分……、声が上がるまでの時間を心の中で数えると5分ほどあった。仮死状態で生まれた娘は保育器に入れられ、その日のうちに別の病院に救急搬送。後に「点頭てんかん」と診断され、重度の心身障害が残るだろうと医師に告げられた。
◆その娘、夏帆ちゃんは生後8カ月までを病院で過ごした。この頃の病状はというと、「脳から異常な電波が来ることで、右向きに手を伸ばし、体をひねり、足を突っ張るという発作を起こす」ということで、「ベビーカーにじっと座れないというのがまず苦労した」と河田さん。リハビリを行うことで、こうした体の緊張を解くそうで、写真集にはリハビリ後にふっと力が抜けた一瞬の、あどけない表情の夏帆ちゃんの写真があった。
◆1歳を過ぎてから、初めて家族旅行に出かけた。行き先は「地続きで、何かあったらすぐに帰って来られる場所」ということで、御殿場を選んだ。さらに、1歳8カ月で河田さんの心のふるさとの沖永良部島へ。この旅への思いを河田さんはこんな風に話した。「(島に通い始めて)最初の頃は、島の人からは若くて自由だから来るんだろうけど、結婚したら、子どもが生まれたら、きっと来られないよね。『あいらんだあ』という会もどのくらい続くんだろうね、と見られていたかもしれない。でも、だからこそ、子どもを島に連れて行きたいと思った」。
◆はたして、一家が島に降り立つと、空港まで島の人が何人も迎えに来ていた。移動手段がなかったら困るだろうと心配して来てくれていたのだ。友人の一人は夏帆ちゃんを抱っこしようと手を差し伸べ、「なっちゃん、帰って来られてよかったね」と語りかけた。河田さんは、「そのときやっと私と島との付き合いも本物というか、同じ目線でつき合っていけるのかなと感じた」と言う。“自分の子どもが歩けなくても連れて来たじゃないか。河田は結構本気じゃないか。頑張っているぞ”。そんな風に見てもらえるようになったと感じたそうだ。
◆夏帆ちゃんが5歳のときには、母子2人きりで奄美大島と加計呂麻島に出かけた。「障害児を育てていると、とにかく全てが人の力を借りて生きていかなければならない。『すみません』と『ありがとうございます』っていうのを一体、何回言うのだろうかというくらい。子どもが生まれた途端、頭を下げ、頭を下げて生きてきて、だんだん自分に腹が立って来て、私一人でも連れて行けるっていうのを、いつかやりたかった」。そう思い立って、夏帆ちゃんの体重15キロ、車いす15キロ、荷物15キロ、計45キロを一人でかついで1週間の旅へ。島の人には「肩肘張らないで。人脈という手足もあるよ」と言われた。結局、全く知らない島の人にたくさん助けられながら旅は進み、「なんだか吹っ切れたような感じの南の島だった」と河田さんは振り返る。
◆この話には程度の差こそあれ、少し思い当たるところがあった。子どもを乗せたベビーカーは街中のちょっとした段差につまずくし、地下鉄の長い階段なんか一人では途方に暮れてしまう。毎日『すみません』と『ありがとう』を何遍となく繰り返し、見知らぬ人の手をも借りることを覚える。そうして、自分が一身に子どもの生命を背負っているかのような気負いを手放す、通過儀礼のような経験。この世の中はこんなにも健康で身軽な大人の基準でできているのだと知り、世界を別の角度から眺める想像力を身につけるのもこんな瞬間だ。
◆だけど、夏帆ちゃんの日常には、そんな甘っちょろい母にはとても想像に及ばない困難がたくさんあっただろうと思う。それを窺わせる一連の写真群もあった。例えば、眼が見えていて追視できるか鏡を使って確認するテストや、トレーニングによって覚えた物を飲み込む能力(=嚥下)に問題がないか検査したときの様子、開口器をつけて口の中にゴムのテントを張ってする歯の治療、成長に合わせて何度も作り直してきた「親子の断面図」のような特注の車いす。大阪のリハビリセンターに“単独”入院したときには、90日のうち50日ほどを河田さんが別室で付き添った。高校卒業後だろうか、河田さんにとっては義理の父にあたる、“おじいちゃん”と夏帆ちゃんが手をつなぐ微笑ましい写真には、「実のところ、おじいちゃんが孫に触ったのはこれが初めて」という事情があった。それから、食事がうまく飲み込めなくなって胃にチューブを通すために腹部を切開した手術あとの痛々しい写真も。
◆そんな“記録”写真の合間にあってほっとしたのは、七五三、卒業式、成人式などの子どもの節目を写した“記念”写真や「元気でいてくれますように」と桜の花びらを降り注ぐ父子の花見写真。それに、私がとても好ましく思ったのは、河田さんが仕事をする日の夏帆ちゃんとお父さん(旦那さん)の日常風景を切り取った写真だ。布団に横たわり「やや放っておかれている感じ」の夏帆ちゃん。お父さんはその手前でパソコンの画面を見やりながら自分のワイシャツにアイロンを掛けている。そんな二人に送り出されながら、河田さんはずっと仕事を続けてきたのだと思うと、とても印象的だった。だって、その裏には続けることの苦労も、もちろんあったはず。
◆女性の人生には好きなことを辞めるタイミングが何度もあって、なかでも子どもの存在は相当に説得力のある理由だ。自分を犠牲にして子に尽くす母親の姿は美化して語られやすいのだ。それでも、周囲に言葉を尽くして理解や協力をとりつけ、いろんなことに心を配りながら好きなことを続けていく。子がいることを何かをあきらめる理由にしない。その子が重い障害を抱えていたとしたって、自分の人生をあきらめない。そんな姿に、後輩ママの私はとても勇気づけられる。
◆後半、今度はコメントなしの静かな中で、再びスライドを映し出した。あえて劇的にしないで淡々と並べたという写真について、河田さんは「見る人の心の中にどんなベースがあるかで受け取り方が違っていい」と言った。25年の物語を聞いたあとに改めて見た一連の写真の中の夏帆ちゃんは、あるときはとても透明で無垢なように、あるときには表情豊かに語りかけてくる眼差しであるように私には見えた。それ以上に、河田さんの「愛おしい、愛おしい」という気持ちが積み重なっていくのがよくわかるような、母子の歴史を見た気がした。
◆さて。「ここからが難しいところなんですが」という前置きで河田さんが語り出したのは、写真のさらに裏側の話。そう、今回の話のタイトルは、「島とショーガイとフクシマ」なのだった。河田さんは冒頭から、「障害を持って生きてきたことは、島の抱える大変さ、あるいは原発事故で自分の故郷を追われた人たちの大変さと共通するものがあるように思えてならない」と話していた。わかるようで、完全にはわからない。わかるのは、その立場に置かれていない自分には理解しきれない部分があるのだろうということ。河田さんは、「自分がいざハンデのある子を抱えてみたら、人に言えない、言おうとしても理解されないことがたくさんある」と語った。
◆例えば、夏帆ちゃんはこれまで、車いすの転倒や食べ物の誤嚥などの事故をいくつも経験してきたという。事故に遭うこと自体は防げない部分もあるが、そこに嘘があったとしたら、そのことで自分の子の運命が変わっていくとしたら……。そんなとき、取材者である河田真智子さんの取るべき行動はある意味では分かりやすく単純。だが、障害児の母である本名・榊原真智子さんの思いはもう少し複雑で、「その両者の間で板挟みになることがある」と河田さんは漏らした。「角をたてないほうが上手くいくという障害児の母の思いと、嘘はよくない、うちの子に起きたことが次の子、あるいは夏帆にもう一度起こるかもしれないから、ちゃんと言わなくてはという葛藤になる。その折り合いが難しくて困る」
◆そんな局面に立たされた河田さんが思い出す島がある。太平洋に浮かぶ島国、マーシャル諸島のキリ島。1954年にアメリカがビキニ環礁で行った水爆実験に伴い、強制移住させられた人々が住む島だ。「人間関係をうまくしておいた方が夏帆を預かってもらえる。預かってもらえないと島にいけない。でも、自分は島で何を見て来たのか。ビキニを追われて監獄のような小さな島に閉じ込められて、その後の健康状態をチェックされている人たちを訪ねた河田真智子は、榊原真智子という一人の母親として現実に屈していいのか。自分の中で河田と榊原が闘う。闘うと吐き気と頭痛でヘトヘトになり、介護ができなくなる。どこか相談に乗ってくれるところはないかと探すが、その度に挫折したりする」
◆榊原と河田の闘い。板挟み。河田さんはそんな葛藤を何度も口にした。とてもアクティブなイメージの河田さんだけれど、今回ばかりは母親として迷い、揺らぐ表情を私たちの前に見せた。そして、現在の夏帆ちゃんが直面している問題。それは、首に人工的な穴を開ける「気管切開」の手術をするかどうかの決断を迫られていることだ。河田さんによれば、「恐らく、まだしなくてもいいのではないかという状況」。だが、医師が手術を勧める背景には現在の医療体制が充分でないという現状がある。
◆脳障害を診る医師のうち8割は小児科に属していて成人した夏帆ちゃんも小児科にかかるが、小児科の病棟はいつも患者でいっぱいだ。そのため、何かあったときに救急で運ばれても入院できなかったり、たらい回しにされたりするかもしれない状態だという。事実、これまでにも、入院時に複数の病棟を転々とし、慣れない看護師が担当してトラブルが起こっては病状が悪化することがあったそうだ。気管切開には空気を通りやすくし、手間と技術のいる痰を取りやすくするというメリットがある。つまり、将来の安全を取るために早めに処置する策だというのだ。
◆生後のトレーニングで口から食事をとれるようになった夏帆ちゃんは、思春期を過ぎて誤嚥が増え、現在は再びチューブで栄養をとるようになっている。それに加えて今度は首に穴を開けるというのでは、どんどん生きる状況が厳しくなっていくようではないか。しかも、気管を切開するということは、声が出せなくなるということをも意味する。医師の言うとおりに、そこまでする必要が本当にあるのか。何か改善する策はないのか。そう、一人であがいているのだという。「なぜ一人かというと、もはやみんなであがくほど問題は簡単ではなくなっていて、そのうちにそれぞれの人が亡くなって、あがく人がいなくなる。障害のある子が大人になっている状態にたくさんの社会の問題が凝縮してやって来ている」。
◆いまの社会構造、医療体制の中では切開したほうが安全だと頭では理解できる。だけど、言葉を持たない夏帆ちゃんのコミュニケーションの主体は声。苦しいとか、痰が詰まっているとか、親に来てほしいとか、いろんなことを声で伝えることができているのだ。その声を失う決断をなんとか回避できないのか。河田さんがあちこちに相談してみて分かった究極の解決策。それは、親が寝ないで24時間付き添うこと。そんな解決策しかない、それが現実だった。
◆「声を出せなくても生きていることが大事だからと夏帆に言い聞かせようとするが、一方で社会の状況がこんな風だから切開しなくてはいけないというのは、言葉を持たない夏帆に対して申し訳なく、親の力不足だと思う。この一年、あらゆるところに相談してきたが、できればそのことには触れてほしくないという反応をされるのがいまの社会の状況。なぜなら、みんなそれなりに亡くなっていくので、あまりにも少数派の問題になっている。ビキニを追われた人が住んでいる島の状況と同じではないか」。
◆いままさに難しい決断に迫られている最中の河田さんは、取材者として、親として揺れる思いをそのままに話を締めくくった。「私は島にずっと関わって来て、何かを伝える仕事をしている者として、何をどう伝えれば言葉を持たない夏帆に代わって発言できるのかということをいつも考えている。いままでは障害の重い子を育てていても、あまり挫折感がなかったが、今回初めて早めの気管切開がいいのかと迷いながらいるところです」(菊地由美子)
重い障害をもって生まれてきた娘の夏帆(なつほ)の25年間の写真記録集『生きる喜び』をテーマに話をさせていただきました。
夏帆が生まれて半年、治療は難しく、脳障害を専門する病院へ、お見舞いに来てくれた江本さんの言葉を思い出します。
「真智子さんは病気ではないから」と言われたのです。入院する娘に24時間付き添いをしている私に、何か仕事をもってこられたように思います。
島にかかわる仕事してきた私は娘が生まれるまでに3冊の本を上梓して、順風満帆だったのです。でも、娘の障害はあまりに重く、仕事は断念せざる得ないと思っていました。
でも、私は病気ではないから、娘の病気を理由に自分の志を断念したら、懸命に生きる娘に申し訳ない……と、江本さんのことばで気づきました。
それから、娘が26歳になった今年まで、娘の体調に合わせて、島と関わる仕事をしてきました。
夏帆は22歳の時の誤嚥性肺炎を引き金に胃に穴を開けて直接栄養をとる胃ろうでの食事になりました。そして今、首に穴を開けて呼吸の手助けをする「気管切開」を勧められています。「気管切開」を考えることは死生観を考えることにもつながる難しいテーマです。
そして、18歳以上の脳障害者が入院できる病棟がないため、病院をたらいまわしになったり、他の病棟に居候するなどの課題にも直面しています。慣れない他の病棟への居候では事故も起こりやすいのです。
緊急時に備えて、早めの気管切開をした方が安全ではないか? と主治医は考えてくれたのだと思います。
昨日の診察ではいよいよ、入院日程を提案されるものと思い、夫も決死の覚悟で臨みました。ところが主治医から、なかなか「気管切開」の言葉が出ません。夏帆は目をくりくりとして、先生のお話をよく聞き、ニコニコしています。そして、ゴホンと咳をして痰を切り(咳出反応OK)、さらに、これをゴクンと飲み込みました(嚥下状態良好)。「元気」をちゃんと自分でパフォーマンスしています。
今、気管切開の話はひとまず据え置きです。理由の一つは、夏帆が元気で気管切開の緊急性がないこと。もう一つは、予定入院であっても、3週間の入院ベッドが、かかりつけの科で確保できない様子です。
震災以降、娘を取り巻く福祉、医療関係は目に見えて厳しくなってきました。(島も障害も福島も同じです)
報告の後半は、私自身が消化できてない混迷のままを話しました。事故や医療過誤の可能性を背景にした話であったため、具体的に語れないところを菊地さんが、よくまとめてくださいました。ありがとうございます。
『生きる喜び』はどこにあるのか?
「生きる喜びは、誰かのために存在することのなかにあります。何もできなくても、誰かのために存在すること、それは、つきつめれば、死んでしまった後にも誰かの心のなかに存在することに、生きる喜びは息吹いています。
生と死の間を行ったり来たりしている夏帆の瞬間を写真は捕えます。ある日、写真を撮っても、夏帆の形が写らなくなる日が来るかもしれません。それでも私は、夏帆が生きることと死ぬことをかけて、伝えようとしたことを撮り続けていきたいと思っています。」(河田真智子写真集『生きる喜び』より)
写真集は1部1200円+送料160円
また、島の図書館、被災地の学校図書室などへの寄贈分の用意があります。運んでくださる方を募集中です。
■地平線通信413号(2013年9月号)は9月11日に印刷、封入仕事を終え、翌12日メール便で発送しました。発送作業は、榎町地域センター3階の調理室で毎月、行なっています。今回は、たまには調理室の機能を活用すべし、と皆さんが仕事している間にエモカレー、サラダをつくり、いつもの餃子の「北京」に行かないで間に合わせました。こわごわ食べた人もいたかもしれないが、ともかく野菜たっぷりのカレー。初めての人にも好評でよかった。そして、デザートには、原典子さんが送ってくれたご存知手作りケーキが。いつものチーズケーキ、フルーツケーキに加えてこの日は新たに「レモンパイ」が登場する豪華さでした。大事に平等に分け、頂きました。原さん、今回もありがとうございました。作業に汗かいてくれた方々は以下の皆さんです。
森井祐介 岡朝子 加藤千晶 江本嘉伸 関根皓博 三五千恵子 杉山貴章 前田庄司 石原玲 福田晴子
■ごぶさたしています。またまた通信発行の時期ですね。毎月毎月すごいなぁ、本当に。今号も楽しみにしています! 河田真智子さんの「生きる喜び」の報告会、すばらしかったです。また、このあと地平線通信で報告者がどんな報告をしてくれるかも楽しみです。自分が聞くのと、同じものを別の人が書いたレポートを読むのとはまた味わいが異なり、2度おいしいかんじです。
◆今回は半分終了するような時間にしか到着できそうになく、でも時折地平線通信に登場する河田さんの文章に魅かれるところがあり、「やっぱり本人の肉声を聞かなければ」と思って伺ったのでした。期待通りの内容でした。『無我夢中で育てた日々を大変だとか、辛いと思ったことはないのです。それ以上に、一日一日「可愛い、可愛い」と愛が重なってゆくからです』という河田さんの言葉に感動しました。
◆持ち帰った写真集を見た私の母は、私以上に共感したようでした。「写真とおなじくらい言葉も大事」と語っていた河田さんの言葉通り、写真集の巻末のわずか7ページの文章も河田さんの経験と思いが凝縮されて見事でした。終了後の会場での秘密っぽい宴企画もとてもよかったです。そのまま会場にピザやら飲み物が運びこまれ、恒例の原さんのケーキ他差し入れが振舞われ……あたたかな最高のお祝いになりましたね。(三好直子)
■一番の印象は、河田さんの表情の明るさだった。何を話していてもニコニコと笑顔だ。この方は地顔が笑顔なのか。幸せそうだった。深刻になればなれる現実の淵に沈まず、目を前に据えて水面を歩むようだった。あたたかな光に包まれ、富士山の前で抱き上げられ、あるいは「幸あれ」と満開の桜の洗礼を受ける夏帆さんの写真には、「愛されていいなあ」という思いばかりが湧いた。夏帆さんは、お父さんと、お母さんと、先生やみんなに見守られていた。障がいがあるからかわいそう、どころか、うらやましさが募る。涙が溢れた。どの写真も、「生まれてきてくれてありがとう」と言っていた。
◆配布資料の冒頭には、「生きるという旅→いかに生きるか」とあった。大胆なテーマだ。ドキッとする。写真集を見ながら思う。「生きる喜び」を人に与えられることが、人として生きる喜びなのかもしれない。先日、宮崎駿監督を追ったドキュメンタリー番組の中で、監督が何度も「力を尽くして生きているか」と問いかけていた。精一杯、一生懸命生きているか、と。この夏公開された映画『風立ちぬ』のコピーは、「生きねば。」だ。夏帆さんも、お母さんも、お父さんも、ためらいなく答えられそうだった。さて、私は。
◆これまで訪れた地平線報告会では、冒険家や登山家ゆえだろうか、前提として死がいつもそこにあるような語りを感じることがあった。それは淡々とした死で、誰もがいつかいなくなるのは当然で、無念ではあっても、来たところへ還っていくことは、繰り返される宇宙の摂理である……といった達観が含まれているような気がした。私にとって死は泥臭く認め難いものに思われたので、少し驚きもした。夏帆さんとご家族においても、生と死は隣り合わせだったのだろう。しかし、それゆえにどちらも、より粘り強く、持久的で、唯一絶対の個、かけがえのない個人に密着したものだと感じた。
◆かつて大学の「生命政治」という授業で、出生前診断が可能となり障がいを持つ子を産む、産まないという選択が起きる現代においてあなたの考えを述べよ、という試験問題があった。障がいで不幸となるか幸福となるか、生まれてみなければわからない、産む前に勝手に判断できない、と答えた。夏帆さん一家はこの考えを支えてくれるように思う。しかし目下、人手不足の医療体制による課題にも直面しているという。改善が待ち遠しい。苦しみを告げながらも、やはり河田さんの顔は明るさを失っていなかった。(福田晴子 早稲田大学院生 文化人類学専攻)
■河田真智子さんの報告会を聴かせていただきました。通信の中でしか知らなかった河田さんでしたが、会場に入り席に着くと夏帆さんのお顔が大きく表紙になった写真集「生きる喜び」が目に飛び込んできました。どの席にも用意されたその写真集を、お話しが始まる前に目を通してくださいという案内がありました。日常のひとこまひとこまが愛にあふれていました。巻末には河田さんの夏帆さんへの想いや、母として写真家としてのさまざまな葛藤までが素直に語られていました。こんな重いテーマを今から話されようとしている河田さんは、と会場を見渡せばごく自然体の素敵な女性。
◆報告会が始まりました。どの親も元気に生まれることを願うわが子夏帆さんの出産時の異常を知った河田さんの衝撃が痛いほど伝わってきました。しかし現実と真摯に向かい合い、夏帆さんにできる限りの生の喜びを感じてほしいというご夫妻の愛、家族を取り巻くさまざまな環境と問題がひとことひとこと胸に響いて来ました。たくさんの問題提起もありました。もっと実情を知ってほしいというメッセージでもありました。
◆私は同じ脳障害をもって生まれた従兄のことを思い出していました。父親は戦死、母親もまもなく私の父の実家である婚家を出て祖父母に育てられていました。立つことができず、いざりながら奇声を発しながら幼い私たちを追いかけてくる彼を当時のわたしたちは怖がって逃げていました。そういう彼を祖父は抱いたりおんぶしたりしてとてもかわいがっていました。学校にも行けず友達と遊ぶこともできず、孤独な短い生涯だった彼を当時の私たちは何も理解しようともしなかったことが胸を痛くしました。
◆報告会のサプライズにと、午前中必着の宅急便でケーキを送らせていただいていました。河田さんの報告会が終り、会場が彼女への感謝の場となりました。江本さんが手配してくださったたくさんのピザと並んで私のケーキたちも皆さんの笑顔の中にありました。河田さん、そして地平線の皆さんありがとうございました。なかなか報告会には出席できませんが、またケーキで参加させていただきます。(宇都宮在住 原典子)
■南会津に長く暮らしていると、「村内放送」は欠かせない。町内のおしらせ、事故などの情報が各家庭に随時入るからだ。9月16日(月)の朝9時過ぎにも、お知らせが入った。外は大雨。母屋の脇にある作業場兼事務室にいた私には、聞き取れなかった。前日の豊年まつりで、村の仮装盆踊りにショッキングピンクのサリーを纏って初めて参加、私たちのチームが銀賞で4万円もの賞金を頂いたことで終了後の乾杯も盛り上がり、二日酔い気味だったせいもある。
◆が、母屋で村内放送を聴いた姑さんからの内線電話(隣の建物に通じる内線)で、はっ、と目が覚めた。「ヤナで水難事故があったらしいぞ、村の人らしいぞ!」と。えっ!? もしかして、ふみまささんたち...? ヤナ場は、私の家、民宿「田吾作」から下流に100メートル、民宿二階の客間から見える程の近くにある。3年前の新潟福島豪雨で壊れてしまい、この夏に漁協の伊南支部で作り直したばかりだ。その中心で活動していたのが、渡部文政さん(以下、文政さん)。前日の豊年まつりでは、私たちが仮装したサリー姿の婦人会を、最後まで笑顔で一眼レフのデジカメで撮ってくれて、終了後も出店で久しぶりに会話して楽しい時間を過ごした。川で起きたことは、それから10時間後の出来事だった。
◆長く町役場職員として働いた文政さんは、合併した南会津町伊南総合支所長をやり終えて退職。その後も地域のために、とくに伊南川の鮎の良さを全国に広めたい、いい鮎を育てたいという思いで夏は殆ど毎日ヤナ場を確認にいったり、川を眺めながら歩いたり、素潜りで鮎の数を調査したりと、精力的に活動されていた。事故のあった16日も早朝4時ごろから、増水してしまう前にヤナ場を守ろう、と7人の組合員らとゴミ取りなどの作業に取り組んでいたところだった。(ここからはうちのじいちゃんが最後まで流木につかまっていて助かった人から聴いた話です)。「そろそろ水が増えそうだから上がろう!」ということで、一人がヤナ場から岸に上がった途端、ヤナが崩れ、鉄砲水のような波のような水が襲ってきて、4人が川に流された。すぐに1人は岸に這い上がり。もう1人は1キロ下流の土建業者資材置き場の裏にたどりついた。
◆文政さんと、もう1人は100メートルくらい下流まで2人で1本の流木につかまって流れていったが、青柳橋という橋の下で文政さんは木から離れてしまった。流木につかまっていたもう1人は激流の中、4キロくらい下流まで流され、少しだけ水が浅くなっている場所がわかり、足がつきそうだったので、力を振り絞って岸まで歩いていくことができ、自力で脱出。土手にあがり民家まで歩き、そこで電話を借りて、自宅に助かっていることを連絡。その時、自宅の奥様は事故があったことを知らず、何かの間違いと勘違いして、旦那からの電話を何度か切っていたらしい。
◆私の友人知人から連絡が入った10時ごろには、4人のうち3人は助かったとわかっていた。その頃には、村の消防団も消防署も含めた90人で捜索が始まっており、途中まで文政さんと同じ流木につかまって流れて助かった人も、すぐに現場検証のためヤナ場に急行。お昼のNHKでは、もう伊南川の事故の様子が流れていて、現場のすぐ近くにいながらもテレビのニュースにくぎ付けになった。激流の中、1日目の捜索は夕方まで続いたが凄い濁流のため打ち切りに。17日も早朝からヘリコプターで上空からの捜索が始まり、消防団は弁当持ちで日が暮れる前まで伊南川のヤナ場から下流域を探し続けたが、2日目も打ち切りに。ただ2日目にはヤナ場から20キロくらい下流で文政さんの長靴らしい靴は発見されていた。
◆18日(事故から3日目)も7時半ごろ息子を保育所に送っていたら、役場の前には続々と消防団の人たちが集まってきていた。心の中で『とにかく見つかって欲しい……』そう願っていた。3日目の早朝、ヤナ場から50Km近く下流の伊南川と只見川の合流するあたりの穏やかな流れの川に変わった中洲で文政さんは、散歩している地元住民に発見された。本人確認に少し時間はかかったが、消防団はそのまま役場で待機し、文政さんと確認できた時点で解散となった。
◆初めて文政さんに出逢ったのは、かれこれ20年になる。大学卒業後、1年間滞在したオーストラリアから帰国し、沖縄西表島でのヘルパーを終え、実家の徳島から職探しのために上京した。東京のNPOのボランティアスタッフとして「まきひろいフェスタ」というイベントに参加した時。当時伊南村教育委員会とNPOが共催で村の秋を満喫するという企画で村内外から100人以上が集まり、首都圏からのスタッフとして私も参加した。
◆村からのスタッフも大勢いる中で、文政さんはキノコ採りの先生として関わり、今でも覚えているのは紅葉の山の中へ老若男女を連れていき、天然ナメコを籠いっぱいに採ってきた姿。収穫したキノコをゴザの上にてんこ盛りにしていたことを思い出す。その体験がきっかけとなり、私は東京のNPO(エコクラブ:現在はエコプラス)スタッフとして約6年関わり、それから1年半後(1995年)主宰の高野孝子さんを通して地平線会議(初めて参加した報告会は現在、伊南川100kmウルトラ遠足の代表としてお世話になっている海宝道義さんでした)と出逢ったのだ。
◆伊南村へ移住するきっかけは色々なことがあった。ともかく1999年10月、初めて伊南を訪れてからちょうど6年後に伊南村で役場の臨時職員として働きながら一人暮らしが始まった。その時、私の隣の席で企画振興課長として働いていたのが文政さん。13年前、「地平線報告会in伊南川」を開催した時は、何十年も使われていなかった国の重要文化財、「大桃の舞台」を活用しよう、と大きな挑戦をした。30年使われていなかった舞台を使用するということで、地元の人にどのように本気でやりたいと思ってもらえるか、が一番大変だった気がする。
◆これだけの素晴らしい舞台がなぜ使われていなかったのか? 他の地域から役者を呼べなかったこと、歌舞伎以外の活用について思い当たらなかったこと、舞台を再活用する熱意が薄れていたことなど、当時聴いた話をうっすら覚えている。地平線の江本さんも、国重要文化財を復活させるイベントを実施するにあたり、伊南に来て打ち合わせをし、村の人たちと会い、何度も電話で会話しながら(特に文政さんとの会話を重ねながら)記念すべき250回目の報告会の準備を進めた。村内外から300人以上もの人が集まった村で初めてのことを、江本さんと共に文政さんは中核となって支えてくれた。
◆13年まえの地平線報告会開催がきっかけとなり、現在も8月上旬に他の地区から役者を呼び歌舞伎のイベントは続いている。企画振興課は土日も祝日もイベントや村の行事で働くことも多く、年末年始やお正月もスキー場の手伝いに行くなど2年半働いていた間、多くの時間を課長、職員と過ごし、山間の村の暮らしにつて多様なことを学ばせてもらった。一度、伊南村を離れ栃木に移住したが、その後再び2003年に伊南に。一度村を離れた存在でしたが、文政さんは再会するたび、いつも嬉しそうに山や川の話をしてくれた。実は川魚は食べない文政さんなのだが「俺は川魚は喰えねぁけど、川遊びは好きなんだよな〜」と小さい頃、銛をもって川魚を捕っていたことなどを良く語ってくれた。
◆事故から6日後、発見された日から3日後に地元の葬祭場で葬儀が行われた。これまで関わってきた人々が村内外から200人近く参列。この村で生まれ、村で育ち、村で働き、村のために活動してきた文政さんは、県内外の多様な人と真剣に関わってきたということが、集まった顔ぶれで改めてわかった。地元の川と山が何よりも大好きだった文政さんには、この地域で生きていくために大切なことを沢山教えてもらった。本当にありがとうございました。心よりご冥福をお祈り申し上げます。(酒井富美)
■月曜日の残業中、電話が鳴っているのに気が付いて、しばらく地平線報告会に行っていない申し訳なさ半分で、思わず電話を取ってしまったのが、失敗の始まり。江本さんの新聞記者の勘か(野生の勘という方が適切か)節目を迎えた私に「やぁさきちゃん! 元気ですか?」なんて声が聞こえてきた。今日も残業中なのに、近況書いて〜って依頼……私の野生の勘が鈍っている証拠でしょうか。
◆10月1日は私にとって骨肉腫の抗がん剤治療の前半戦を終え、人工膝関節の手術をしたまさに『身体障害者』になった日。スキーやら自転車やらの激しい運動に耐えてまだ壊れずに生活を送れている日々に心の中で感謝する日なのだが、その10月1日に新たな節目を迎えたことを江本さんの野生の勘に察知された!
◆今年30歳という年頃のオンナノコにとっては大きな壁を突き破ってしまうのを期に、独り身としては老後も不安だし、いいかげん親に頼りっぱなしでフラフラ定職につかないのも如何なものかと思い、とある地方公務員の試験を受けたところ、受かってしまったのだ! 高校受験の時も、大学受験の時も『奇跡』だの『伝説』だのと言われてきた私。またしても運を引き寄せてみせました。今風にいうと、じぇじぇじぇ〜〜〜!かな?!
◆4月に入庁して、条件付採用(仮免許)から正式採用になったのが、10月1日。ずーーーっとスポーツをしてきた私にとって、とんでもなく似合わない、「政策局」なんて部署に在籍して色んな法律や条例、規程と向き合っています。もう仕事を辞めない限り放浪なんて、尺取り虫方式でしかできませんが、今のところ仕事は楽しいです。
◆それから、30歳になった節目と、定職について安定した収入が見込めるようになった記念に、1か月分の給料並の塩沢紬を誂えました。紬なら50歳でも60歳でも一生着られるので、病に負けず、長く着られるといいなぁと思っています。今度江本家に押しかける際にお披露目しますね。何か運動は?と言われれば11月4日に鈴鹿サーキットで、自転車の8時間耐久レースがあり、職場の有志でチームができたので参加してきます。3年程前に4時間耐久レースには出た経験がありますが、8時間なんて未知の世界。現在、週1程度ですが再び自転車にまたがっています。東京オリンピック・パラリンピックも決定したことですし、何か私も出場できる種目を模索してみようかと、妄想だけは先走っています。(今利紗紀 2009年12月「ハンディキャップチャリダーズ ゴーゴー豪州」報告者)
■急に雨風が強くなってきました。台風24号が来ています。屋久島と鹿児島を結ぶ船や飛行機は、昨日のうちに今日の便の欠航が決まりました。登山バスは運休、登山道や県道も一部通行止めです。放送では、家や農作物の台風対策を呼びかけています。台風騒動なんて、もうすっかり秋ですね。庭には小さなコオロギがいて、それを食べにカナヘビの子どもがちょろちょろやってくるようになりました。散歩中の犬の体に花粉や草の実がたくさんくっつくので、「いい運び屋してるねえ〜」と笑っちゃいます。
◆屋久島に来て5か月半、流れに乗ってやってきたこの島で、様々な出会いがありました。その中で島生まれの方は、職場のガイドさん一家と、3代にわたってトビウオ船に乗ってきた漁師さん、工事業者さんくらい。あとはみんな移住者です。70歳位になる大家さんも戦後に沖縄に近い与論島から移住してきた方で、沖縄三線がとても上手です。
◆知り合った人たちの職業はいろいろです。山のガイド、大工、カフェ経営、デザイナー、写真家、ダイバー、美容師、料理人、保育士、老人ホームの栄養士、看護師、学校の支援員、学校司書、観光協会や博物館の受付案内、環境教育施設の研修生、山道具レンタルの受付、HPの作成、ヨガインストラクター……。以前求人広告の会社にいて様々な職場を取材していたからか、つい人の仕事が気になってしまいます。島は仕事がないとよくいわれますが、選ばなければ色々あって、食べてはいけます。移住者に女性が目立つのは、女性の方が働き口の選択肢が多い(ちょっとしたパート仕事が多い)のと、あとはやはり収入は多くはないので、技術職以外の男性が来るには勇気が必要なのかもしれません。
◆「働く」のは「生きるため」ですが、それは単純に食べていくため、お金のためだけではないはずです。自分にできることで他者や社会と繋がれる場でもある。働いた成果は、次に自分を育ててくれるものとして返って来る。少しでも自分の芯に近いところで仕事ができたらいいなあと思います。
◆話はそれますが、東北では仙台近辺に建て売り住宅が増えていて、沿岸部の仮設住宅から引っ越して来る方も多いそう。
◆ハウスメーカーはいいお金にはなるし、それで助かる人もいるのだけれど……本当にそれでいいのか、複雑な気持ちです。故郷を離れたくない人を応援できるアイディアに力を注げないものか。経済優先の世の中では、知らず知らずのうちに人の気持ちや「本当はこうだったらいいのに」という願いが押し殺されているように感じます。
◆話はもどって、私と同時期の移住者では、自然農をやるためや絵を描くために来た人もいます。友達の畑は、手伝いに行くと背筋がしゃんとなるような畑。耕作放棄地の草を鎌で刈り、きっちりと直線で溝を掘り、ピンセットで種を1粒1粒大切に植えています。魚が大好きで数年前に移住してきた女性は、漁師さんと一緒にカジキ漁に出ていました。餌のアジをつけた浮きの見張り役として。みんな、とってもいい顔をしています。
◆先日お会いしたガラス工芸作家さんの目は、はっとするくらいすてきでした。火の中でオレンジ色にとろけるガラスをじっと見つめてきた、まなざしの強さ。人が人生で何をどれだけ見てきたのかは、目に宿るのだと思いました。同じ景色を見たり経験しても、そこから何を得るかは人それぞれです。自分なりに心をひらいて目の前のものごとを受け入れて行く、そうやって人生はゆっくり、自然と方向付けられてゆく気がします。だからこそ、自分の腹の底の声を聞いてあげることは大切です。
◆その点、屋久島はなかなか濃い人が集まる島なので、瞑想やドラムサークル、スウェットロッジ、踊り等といった自分の気持ちに向き合う場、自分と自然とのつながりを意識的に感じられる機会がよくあります。友人づてやスーパーに貼ってあるポスターで、そんな場の情報が本当に手軽に入ってきます。私は「自然は暮らしの中で感じられればいい」と思っていましたが、たまにこのような場に参加するといい刺激になり、案外いいものだなあ〜と思いました。
◆自分の心の奥深くに潜っていくようなそれは、海に潜る身体感覚とつながります。同じ場を共有している人にもそれぞれ深い部分があるのだと思うと、よけいに自分も他人も愛おしくなります。離島ですが、この島にいると自分に必要なものが向こうからやってきてくれるようなかんじがします。ちょっと辛いことがあったとき、普段あまりお会いすることのない近所のおばちゃんがトビウオのすり身を持って来てくれて「頑張るのよ」と言い残して去っていったり……。屋久島は、生きてくのにほんとうに面白い所です。(屋久島発 新垣亜美)
■先月の通信でお知らせした以後、通信費(1年2000円です)を払ってくださった方々は、以下の皆さんです。数年分をまとめてくださった方もいます。万一、記載漏れがありましたら、必ず江本宛てにお知らせください。アドレスは、最終ページにあります。振込の際、通信の感想などひとこと書いてくださるのは大歓迎です。
西牧結華(4000円)/金子浩(10000円)/川野好文/三羽八重子(10000円 現在「望」は日本におりません。母、八重子が毎号楽しみに待っております)/大嶋亮太/嶋洋太郎/島田利嗣/原典子 /剣持愛子/原田美由樹/永井マス子/★10000円カンパ 河田真智子(9月27日)
■初めて告白するが、その昔マチュピチュ遺跡のなかで一夜を過ごしたことがある。世界遺産の人気投票で常時ダントツトップの人気を保持している、超有名観光地の現在ではとても考えられないことだ。毛沢東主義を標榜する「ペルーのポルポト派」と呼ばれた超過激極左軍事組織PCP
−SL(ペルー共産党センデロ・ルミノソ派)によるテロの嵐が吹き荒れた時代だった。やみくもな暴力が農村部から都市へと全国をじわじわ支配し、いつ自動車爆弾に巻き込まれるか、どこから軍隊や警察に撃たれるか、人々の表情は暗く歪んでいた。
◆首都リマには夜間外出禁止令が出され、深夜1時から6時まで許可なく通りを歩いていると即逮捕、怪しい動きを見せれば警告無しに銃撃される、という状況。しょっちゅう送電線が爆破され、街の広場には処刑された密告者の死体がぶら下げられた。知り合いのJICA専門家に脅迫状や暗殺予告が3回出され、4回目には実際に射殺されるという陰惨なテロ事件もあった。自分でも実際に身の危険を感じたり、危うくかわしたこと度々だった。
◆マチュピチュの管理体制も乱れた状態で、テレビ番組の取材で遺跡に隣接する唯一のホテルに連泊しながら撮影していた際、顔見知りの門番がこっそりゲートを開けてくれたのだった。夜の無人のマチュピチュは、声も出せないほどの星々が天空を埋め尽くすなか、ひっそりと静まり返っていた。神秘的とか荘厳とかいう言葉を拒絶する、圧倒的な異次元空間の佇まいを見せていた。大気圏外に直結した、すさまじいまでの存在感だった。@エジプト、ギーザのクフ王ピラミッド頂上とともに、我が野宿歴に輝く一夜である。
◆以来30有余年、ペルーは今やまったく別の国に生まれ変わり、超バブル状態の経済発展を見せている。昔のハチャメチャな時代のペルーを知る向きには、もはや普通の国になってしまってオモシロクないと言われることすらあるようだ。確かに物価はどんどん上昇し、人々の歩く速度がそれに比例して早くなってきている。マチュピチュ遺跡に隣接するホテル・サンクチュアリーロッジはオリエント・エクスプレス社が買収。今や1泊8万円だかの超高級セレブ向けに変身しているが、2年先まで予約でいっぱいだとか。テロ全盛時代には「もう売るものはマチュピチュしかない」、と売却民営化の噂まであったのが懐かしい。
◆といっても、遺跡自体が変わったわけではない。ハイラム・ビンガムによる「発見」100周年を経て、その後の発掘調査や資料精査で新たな事実も浮かびあがってきているが、その神秘的な佇まいは以前のまま。相変わらず、見てきたようないい加減な解釈や物言いがまかり通っているのも同様で、聞いているとイライラしてくる。てなわけで、実際に目の前に見えている事実からどのようなことが言えるか、という立ち位置で、子供向けのマチュピチュ本を企画した。
◆以来2年間、書き直し16回、写真選び5カ月という大苦戦の末、この度ようやく福音館書店の月刊誌たくさんのふしぎ10月号「マチュピチュをまもる――アンデス文明5000年の知恵」が刊行の運びとなった。いやはや、ガキンちょを騙すのは楽ではない。というより、子供だからと侮ると大変なことになる。墓穴掘りまくり、破綻しっぱなしだったが、内容的には地震や耐震建築をテーマにした工学系の学術論文がベース。高度な内容を小学校高学年の子供にも理解できるように伝えるため、一緒にプロジェクトを進めてきた耐震工学の専門家を案内役にマチュピチュの謎を探る、という内容になった。
◆というところで、来週から今年3回目のペルー、マチュピチュ行きとなる。美食大国ペルー・グルメの真髄を探る取材がメインだが、アンデスの地母神パチャママと大地の神アプーにこの本を捧げ、マチュピチュの謎に一歩近づけた幸運を感謝せねばなるまい。カーニバル評論家 ZZz−全
■昨日はわざわざどうもありがとうございます。「山岳」の書評、読みました。あんなに丁寧に書いてくれて、感激です。しかも二冊を紹介しながら、僕の冒険時の心理面にまで立ち入ってくれて。
◆今年は11月にグリーンランドのカナック、シオラパルクに行く予定です。去年からGPSではなく天測で極夜の北極を探検することをテーマに旅してます。今回はタマヤが「角幡特製六分儀」を製作してくれて、天測は改善されそうです。来年冬にグリーンランドからカナダに渡ったエルズミアを南下してレゾリュートまで行きたいなあと考えています。3か月ぐらいかかるでしょうか。
◆3か月間、誰にも会わず、極夜の世界を旅したら何が見えるのか。今年は冬に海峡がどうなっているのか偵察するのと、冬はダウンが全然使えないので、毛皮の服が手に入らないか見に行くのが目的です。とりあえず書評の御礼の連絡でした。(角幡唯介)
(注:「山岳」は日本山岳会の年報。2013年版で「アグルーカの行方」「探検家36歳の憂鬱」の2作を江本が書評した。「昨日」とは「アグルーカ」が講談社のノンフィクション賞授賞式があった9月30日のこと)
■2000年からの北極通いも13年を迎え、これまでに北極圏へ足を運んだ回数も12回になった。思えば、飽きもせずひたすら北極のみに突き進み、南に目を向ければこれまでに地球上で行ったことのある最南端は、今年の春まで高知県どまりだった(夏に石垣島に行ったことで記録更新)。そんな私もおかげさまで、11月中旬に講談社から「北極男」というタイトルで本を出版させていただけることとなった。
◆本の内容は、これまでの僕の北極行を全部ではないが、あらかたを網羅するかたちで紹介している。大学中退後にアウトドア経験も海外旅行経験もゼロの状態で、いきなりカナダ北極圏レゾリュートから北磁極までを大場満郎さんに率いられたど素人集団の一員として700km歩き、2001年にはレゾリュートで河野兵市さんと出会った。3週間を一緒に過ごさせてもらったあとの河野さんの遭難死。2002年にはレゾリュートからグリスフィヨルドまでの500kmを初めての単独行。
◆2003年、カナダ北極圏ビクトリア島ケンブリッジベイでの多くの出会いがあった。2004年は小嶋一男さんとのグリーンランド内陸氷床2000km犬ぞり縦断行。2007年にはレゾリュートからケンブリッジベイへの1000kmを単独挑戦中にテント内で出火、大火傷を負い救助され、2010年の北磁極単独行。2011年の角幡唯介とのフランクリン隊を追いかける1600km行。2012年に挑戦した北極点無補給単独徒歩の顛末と途中撤退。
◆そこまでを要点をかいつまみながら、時系列的に書いている。本を書くことは、これまでにやってきたことをあらためて振り返って、その時々を思い出すとても良い機会だった。あとは出版されたらいかに売るか! 出すからには一冊でも多く売りたいと思っている。
◆そんな「北極男」がいま目指している最大目標は、昨年2012年に挑戦するも途中撤退となった「北極点無補給単独徒歩」の達成だ。来年2014年3月の再挑戦を目指している。現在の北極海は、90年代以前とは別世界とも言えるほどの環境変化が起きている。海氷は以前よりも薄く、割れやすく、流動的になることで多くの乱氷帯を形成し、また多くのリード(割れ目)を作り出す。2000年代になってから、リードを迂回せずにドライスーツを着て泳いで渡ることで、最短距離で直進していくという手法がとられるようになった。
◆ドライスーツの登場で所要日数を抑えられるために「無補給」での北極点挑戦も一般的となっていった。しかし近年、幅10km長さ数百km単位のアマゾン川のような巨大リードが頻発するようになっており、北極点を目指す大きな障害となっている。ドライスーツは長距離を泳いでいくことはできないため、新たな海を渡る手段が必要になっている。かつてはカヌーを引っ張って歩く者もいたが、大きなカヌーやカヤックは乱氷帯での進行が極めて遅くなる。ゴムボートではマイナス50℃に達する寒冷地での強度的な心配がある。環境変化の激しい北極海では、水陸両用で戦略を考えないと北極点に達するのが非常に難しくなっているのが現状だ。
◆僕は、曵いて歩くソリがボートにも使える「水陸両用ソリ」を開発するべきだと考えている。未だに世界で「これを待っていた!」というデザインのソリには出会っていない。無いなら自分で作るしかない。オリジナルソリで21世紀型北極点挑戦スタイルを形成するつもりだ。北極点挑戦にはスタートとゴールでの飛行機によるピックアップに高額なチャーター料が必要となり、概算予算は1600万円となっている。当面は、資金の工面が最大の問題であるが、なんにせよ「過去最難関の状況」である現在の北極海において、過去2人しか成功例のない「北極点無補給単独徒歩」を達成をできるのは、自分であると確信している。(荻田泰永)
http://www.rq-center.jp/news/1244#usermessage19a
期間:2013年10月19日(土)〜10月20日(日)
訪問地:宮城県栗原市(荒砥沢ダム、駒ノ湯温泉、栗駒耕栄地区)
オプションとして、10/18(金)に、気仙沼市方面の沿岸部に行きます。同行ご希望の方は、申込み時にお知らせください。
定員:15名(最小催行5名)
参加費:18,000円(ガイド料、保険料、宿泊費、食費)
現地までの交通費、滞在中の飲代等は含みません。
コーディネーター:佐々木豊志、塚原俊也
主催:RQ災害教育センター 共催:くりこま高原自然学校 協力:日本エコツーリズムセンター
内容:沿岸部と内陸、2 つの被災地をめぐる旅シリーズ第4弾。
今回は、2008年に岩手・宮城内陸地震で被災した荒砥沢ダム、駒ノ湯温泉、栗原市栗駒耕栄地区を訪問します。国内最大規模の地すべりが起こった荒砥沢ダム。ここは山体崩壊の跡に希少な地形が現れ、「荒砥沢ダムの上流崩壊地」として日本の地質百選に選定されました。栗駒耕栄地区で甚大な被害を受けた駒ノ湯温泉は、2012年に足湯からの再出発が始まり、「くりこま高原自然学校」は、森林を活用した本格的なエコビレッジに向けて活動が再開しました。
ブナやナナカマドなど樹木が色づき、燃えるような紅葉の美しいくりこま高原で、「災害」とは何か、災害に強い社会とはどんな姿をしているのか、現場を見て、感じて私たちの未来を見つめてみましょう。当日は満月。夜には、くりこま高原自然学校代表の佐々木豊志さん主宰の「満月の夜の豊志塾」も開催されます。
参考(駒ノ湯温泉復活へ 足湯からのスタート)
スケジュール:内容は天候、その他の事情により変更になる場合があります。
10/19(土)11:00くりこま高原駅集合
〜栗原市〜(昼食)〜くりこま高原自然学校(レクチャー)〜温泉〜夜:満月の夜の豊志塾〜(泊)
10/20(日)駒の湯温泉
〜荒砥沢ダム〜(昼食)〜リフレクション〜くりこま高原駅解散(16:00頃)
申込:http://www.rq-center.jp/news/1244#usermessage19a
お問い合わせ:090-6065-2264 締切:10/14(月)
10/18(金)の予定は、震災当時小泉公民館(気仙沼市)職員だった菊川博さんから、避難所運営に関することをヒアリングさせていただくことが決まっている。陸前高田で防潮堤建設が始まったそうなので、そちらまで足を伸ばす可能性もあります。また、気仙沼階上、祝崎でジオパークに選定されたそうですので、ついでにそちらにも立ち寄りつつ、小泉(中島)海岸の防潮堤予定地に立ってみようと思います。18日にご参加の方は、参加費に実費相当(約10,000円前後)が追加となります。どうぞよろしくお願いします。(八木和美 RQ災害教育センター事務局長)
■鹿内善三さんを初めて知ったのは2002年。雑誌に掲載された「定年退職した青森の中学校教諭が全寮制の漁師養成学校に入学し、10代の若者と一緒に学ぶ」という記事だった。その後いつだったのかよく思い出せないが、地平線の集まりで三輪さんから直接鹿内さんを紹介された。なぜ、この二人が知り合いかというと、鹿内さんの娘さんの嫁ぎ先が、三輪さんのサッカーチームの同僚の息子さんだった関係なんだそうだ。さらに僕が知らなかっただけで、鹿内さんは地平線の創設時から手書きのハガキ通信を受け取っていた地平線関係者でもあった。
◆三輪さんの紹介を受けてからは毎年、タコが取れるんです。ログハウスもあるんです、来ませんか、と狩猟本能をそそる年賀状が青森から届くようになった。そして昨年秋、「MORIJIN(森人)」というテレビ番組に出たので見てください、とメールが来る。森人はタイトルからしたら山の番組のはずなのに、鹿内さん編は海でタコを取るシーンから始まり、海の夕日を見下ろすシーンで終わっている。画面の中で鹿内さんは「保水力のあるブナの森を切ってしまってから、川の水と、枯葉に含まれていた養分が減り、海の魚も減ってしまった。だからブナ林を再生しようと植林しています」と穏やかに語っていた。見ていて、ああ、いつかこの人の話を聞いてみたい、と思った。
◆とはいえ鹿内さん(先生)について僕は何も知らない。年賀状が届くから遊びに行ってもいい、という論理は飛躍がありすぎだ。と、ウジウジ悩んでいたが、思い切ってメールしてみたら「いつでも大歓迎です」とスカッとした返事が。そこで9月の始めの休みを使い白神山地岩崎村に行ってみることにした。秋田と青森をつなぐ五能線の十二湖駅で先生は待っていてくれた。十二湖は白神山地観光の拠点の駅のようで、ドカドカと団体客が下り、駅前のバスに乗って、どこかに向かう……。今回は先生の話が聞ければ十分で、実は目的地について、あまり調べていなかった。
◆先生のログハウスは駅から車で3分ほどの場所にある。美しく手入れされていて、このままペンションとして営業できそうな建物だ。バックをおろすとすぐ「あの屋根のところにスズメバチの巣があったんですよ。もう少し大きくなるまで待って、ハチの子捕ろうと思ってたんですけど、坪井さんが来るっていうんで、役所から宇宙服みたいな防護服借りてきて取っちゃった。ハチのほうは焼酎につけるといいダシでるんですよ」と先生はハチが浮いたビンを差し出す。凄いな、この人。スズメバチと共存もできるし、利用もできるんだ。もうこれだけでも、青森まで来た値打ちは十分にある。
◆「荷物をおいたら、タコとりにいきましょう」。速い! 駅に迎えに来てもらってから、今回の目玉であるタコ籠漁まで、もう辿りついてしまった。タコ籠が仕掛けられているのは、十二湖駅の少し北にある漁港。ログハウスからは車で5分ほどだ。見覚えのあるテレビに映っていた堤防を歩き、一つ目の籠を上げる。中には魚のアラとカニの甲羅が入っている。「あっ、くそっ、やられてる」先生が悔しそうにいう。どうも籠の中で食物連鎖が起こったらしい。魚のアラを食べにカニが入り、カニを狙ってタコが入る。ところがタコはなぜか上手に籠から逃げていた。
◆続いて2つの籠をあげるが今日の収穫はゼロ。先生はすごく残念そうだが、こっちはタコ籠とは自分が子どもの頃に仕掛けていたカニ網と似たようなものと分かり、十分に収穫あり。堤防にはアオリイカを狙う釣り師が二人と、なんとなく釣りに来たカップルがいた。一応自分の釣り竿は持ってきたので偵察してみるが、海はクサフグが異常に発生していて、これじゃフグしか釣れそうにない。「じゃあ帰って、坪井さんの話の準備しましょうか」先生に何の手みやげも思いつかなかったので、ミニ講演会しましょうか、と、提案をしていたのだ。
◆日が暮れる頃になるとバラバラと人が集まってくる。白神山地のガイドさん、森林組合の方、アユ釣り師、このログハウスを作った職人さん。いずれも岩崎村で育った本物の自然のプロだ。そのせいか東京で話している時とは反応が違う。普段なら「なるほどなぁ」と驚いてもらえる場面でも「うん、そりゃそうなるだろうな」と、実体験に照らし合わせて導き出される答を各自が持ち合わせているようだ。僕は僕なりに体験の中から、答を見つけてきたつもりだが、それでもそれは生活に根差した重厚さはない。例えるなら日曜大工のようなものだな、と感じる。
◆酔いが回ると話は白神山地の秘密の核心、マイタケのありか。になるのだが、どの沢のどのあたり、という話は土地勘のない人間には、さっぱり分からず、なおかつすでに津軽弁は全開だ。ただマイタケがいかに宝であるのかだけはヒシヒシと伝わってくる。後日、先生の息子さんが、マイタケのありか、は兄弟でも殴り合いになるほどの究極の秘密で、あの夜は今一番それを知っているガイドのOOさんの情報を、みんな聞きだそうとしていたんですよ。と楽しそうに教えてくれた。
◆宴会の翌朝、先生の生活リズムが分からないので、寝床で聞き耳を立てていると隣の部屋で目覚めた音がする。「おはようございます」と扉をあけると「タコとりにいきましょう」という返事で、顔を洗うまもなく、5分でまた昨日の堤防に。籠をあげると今日は入っている、今季初のヤナギダコ。大喜びの先生にタコはその場で堤防に叩きつけられて、頭をひっくり返して内臓を抜かれる。そのまま家にとって帰すと奥さんが素早く茹でる。朝起きてから、ログハウスの朝ごはんにタコの刺身がならぶまで、わずか1時間。昨日の宴会の残りの山菜、キノコ、とお隣さんの田んぼで収穫されたお米。宴会の残りのビール。午前7時、ビール以外はすべて産地が目に見える究極の朝ごはんのできあがり。
◆翌朝、タコ籠には大量のクサフグ。きのうの夕方、先生が「これもエサにいれましょう」と、ご近所さんからいただいたサザエのしっぽを籠にいれたせいだった。「それ、すべて魚籠に入れてください」えっ、クサフグを食べるのか……。僕は原則釣った魚は食べる主義。海外でも釣った魚も片っ端から食べてはきた。とはいえさすがにクサフグを食べようと思ったことは一度もない。これは津軽地方の食習慣なのか? それとも漁師だけのもの? 通りがかった他の釣り師が、それどうするの? と怪訝な顔した様子からしたら、津軽地方の食でもないようだ。かなり怖いけど、居候としては、ここは食べるしかない。
◆「フグはこうやって頭の後ろあたりにナイフを入れるんです。そしてひっくり返して腹側を上にして内臓を取る。あとは引っ張れば皮は剥けます。ヒレにも毒があるから切って、背骨をとって三枚におろして出来上がり、簡単でしょ。そこの軍手とって一緒にやってください」いいのか? 素人が触って大丈夫なのか? 確かに理屈では危険部位さえ取り除けば大丈夫だ。とはいえ実際に自分でさばくと、やはり微妙に身に内臓がへばりついてくる。本当にこれでいいのだろうか、と、頭にくっ付いた内臓と皮は別のボールに捨てる。フグの生命力は凄くて、その状態になってもすぐには死なず「元に戻せ!」とグーグー鳴いている。
◆顔にたかった蚊をたたき、ゾクッとする。軍手についていたフグの内臓が顔についている。5歳の孫娘あかねちゃんが「おはよう」と嬉しそうに近寄って来て「アー、怒ってるねー」と切り取られたフグの頭をいきなりつつく。「うわぁー、やめろ!」と叫びたくなるが、先生は「あかねー、触っちゃダメだよ」とニコニコと言うだけ。フグ毒って、いったい何なんだ? 夜、数日前に先生がさばいて軒下に干したフグを、レンジでチンして酒のつまみにする。なるほど、自分で自信を持って捌けるのなら、これを捨てるなんてとんでもない。特に一口サイズの小物は味が濃くて絶品だ。
◆ずいぶん前になるが、町のグルメな友達が海辺で死んでいるサバを見て「これアジですか?サバですか?」と聞いた。あれほど味にこだわる人が、料理そのものにしか興味がないのか、と、かなりショックだった。でもそんなこと言えるのは自分が魚を好きだからであって、他の食材では、旬どころか、本来どんな場所に生えたり、住んだりしているのかも知らない。白神山地に生えていたトリカブトも「これおいしいんですよ」と言われたら、きっと食べてしまう。結局3泊4日で、白神山地に入ってのウワバミソウ(ミズ)取り。磯場で海に入ってのタコ突き。磯の貝取り。田んぼの収穫。海辺の温泉。そして観光。一観光客として訪れただけではまず見られない、分からないところまで案内していただけた。思い切って行ってよかった。先生、みなさん、ありがとうございました。
◆帰宅して翌日、岩崎村からまずは大量のミズが届き、続いて海産物の詰め合わせが届いた。タコ、ハタハタ、と取り出して行くとフグ、と書かれたビニール袋が出てくる。それはあのとき自分がさばいたフグだった。実はフグについては、あまりにも衝撃が強かったので、帰ってからすぐにネットで調べていた。フグ毒テトロドキシンの毒性は青酸カリの850倍でサリンと同等。神経毒で人の場合は1〜2ミリグラムで致死量。300度以上に加熱しても分解されず、解毒方法はない。当たると食後20分ぐらいで唇にしびれがでる。クサフグはフグの中でも最強の毒魚……。やっぱり、あの扱いじゃマズイのでは、と思わざるえない検索結果だった。
◆そのフグがここにある。しかも困ったことに、今は余計な知識まで手にいれてしまった。袋から取り出してみると、干物の一部には取りきれなかった内臓が赤黒く乾燥してついている。うーーーん。食べても大丈夫だから送ってくれたはずだよな。
―自然界にあるものを自分でとって「食べる」ということは、本来こういうリスクを含んでいるのだ。
―消費期限でしか食品の安全性を計れないほど本能が鈍ったら生き物として失格だ。
―そうだ。アマゾンイカダ下りしていた時、食い物がなくなれば腐った肉でも食べていた。仲間は2人いたが、胃の強さは個人差があり、誰かが食べて大丈夫だから、自分も大丈夫という方程式は成り立たず、肉の腐り具合と自分の体のどちらが強いかを「病院はない」状況の中で、各自で判断していた。
―そもそも海外で釣って食べていた魚は、何を基準に安全としていたのか?
フグの身をにらみ、過去の引出までひっぱりだして考えた結論は「食べるべし」。
念のためこびり付いた内臓の破片らしき部分は指でちぎって捨て、結局一人で全部食べてしまった。
10分……20分……30分。大丈夫でした。先生を疑ったわけじゃないですよ。自分で作ったから信用できなかっただけです。もちろん、他の食材はおいしくいただきました。そしてフグ毒について考えたおかげで、食について考える機会もいただきました。(坪井伸吾)
■地平線通信でもご案内頂いた、長野亮之介個展「ソゾロアルキ展」は、9/27〜10/6の会期を無事終了しました。地平線会議の皆様にもたくさんおいで頂きました。ありがとうございました。御蔭様で定休日を除く9日間で240名ほどの方にご来場頂きました。
◆まとまった個展は今回で3回目です。開催に当たっては、いつもながら丸山純さんに多大なアドバイスと労力を提供して頂きました。”丸山さんの個展を長野が手伝った”と地平線仲間の武田力さんにからかわれましたが、あながち冗談でもないなと思います。それほど御尽力頂きました。また江本さんにもなにかと後方支援をして頂き、大いに力づけられました。地平線仲間の暖かい気持ちには本当に感謝しています。
◆今回は8月に報告した米国モンタナ州の牧場で描いたスケッチの展示に比重を大きく置きました。今まであまり人前に発表していないタッチの絵ですが、意外なほど好反応があり、これまで以上にいろいろ考えさせられた個展でした。地平線通信に毎月描き続けているイラストをはじめ、僕の画業(大げさ)は地平線会議の人脈に支えられていると改めて実感します。今後ともよろしくお願いします。(長野亮之介)
■午前1時50分、長野亮之介画伯から緊急メール。「長野です。今月報告者の小林君がつかまりません。昨日夜電話したら都合が悪く、今日の約束だったのですが、何度かけてもケイタイに出ません。」タイヘンだ。予告イラストは通信の目玉だ。必死に小林有人君にメールすると、翌朝つかまった。「すいません、約束していた時間に眠り込んでしまいました」。やれやれ間に合った。
◆午前1時56分、荻田泰永君からメール。「遅くなりました。昨夜の電話、出れずにスイマセンでした。地平線通信用に書いてみました。いかがでしょうか?」おいおい、もう今日、印刷だよ。電話にも出ないし、もうほかの原稿で埋めるしかないか、と手当してしまったよ。でも、新たに本を出すというし、原稿の内容はいい。何よりも「ドライスーツ着用」の北極点挑戦の話は、新鮮だ。そんなわけできょう未明までにこの通信の原稿の全容が定まった。森井さん、画伯、書き手の皆さん、ご苦労様でした。
◆13年前、伊南村(現南会津町)大桃地区で、行なった250回記念の地平線報告会。「川」をテーマに、森田靖郎、賀曽利隆、山田高司、そして地元のサンショウウオ獲り名人、星寛さんたちに語ってもらった。酒井富美さんが書いている通り、当時企画振興課長だった渡部文政さんは、この企画の陰の立役者として私には忘れられない人である。地平線会議の名で弔電を打ち、花を捧げさせて頂いた。ご冥福を祈ります。(江本嘉伸)
ちょっとアフリカでお務め暮らし
「現地での三種の神器はケータイ、バイク、テレビですね−。でも3つ持ってる人は少ないかな。ケータイ持っててもプリペイドカードが買えなくて唯のアクセサリーになってる場合も多いな」というのは小林有人(ありと)さん(31)。学生時代に森林ボランティアをしていたことがきっかけで、教員をやめて青年海外協力隊に応募しました。 '08〜'10と2年間西アフリカのブルキナファソに駐在。帰国後、林業系の社団法人に入社し、主にODAプロジェクトに関わり、現在は中央アフリカのコンゴ民主共和国に年の半分くらい通っています。「森林測量の人材育成に携ってますけど、文化慣習の違いや国民性の違いにいつもびっくり。面白いけど、イラつくことも多いです」。 今月は小林さんにアフリカでの暮らしぶりと、日本の関わり方の実際の姿など、興味深いエピソードを話して頂きます。 ブルキナ時代の同僚でパートナーの竹林紀恵さんにも加わって頂き、女性の目線から見たアフリカも話して頂きます! |
地平線通信 414号
制作:地平線通信制作室/編集長:江本嘉伸/レイアウト:森井祐介/イラスト:長野亮之介/編集制作スタッフ:丸山純 武田力 中島菊代 大西夏奈子 落合大祐 加藤千晶
印刷:地平線印刷局榎町分室
地平線Webサイト:http://www.chiheisen.net/
発行:2013年10月9日 地平線会議
〒160-0007 東京都新宿区荒木町3-23-201 江本嘉伸方
地平線ポスト宛先
pea03131@nifty.ne.jp
Fax 03-3359-7907 (江本)
◆通信費(2000円)払い込みは郵便振替(料金が120円かかります)、または報告会の受付でどうぞ。
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議
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