9月11日朝。ただいまの室温、クーラーなしで27℃。麦丸がはぁはぁせずに寝ているのを見て安心する。ついに「猛暑日」は去った……かな?
◆IOC総会での2020年東京オリンピック開催決定の瞬間をテレビ中継で見た。私は、1964年の東京オリンピックを知っているが、どのようにして決まったのか、当時は関心もなかったし、知らなかった。今回はテレビを持たない多くの地平線仲間(実は、意外に多い)を代表する気分で見届けてやろう、と思ったのだ。
◆皆さん、なかなかの表現力で感心した。でも、なんというか、あの独特の居心地の悪さは何なのだろう。プレゼンというもの、自分こそ最高だ、私たちはこんな素晴らしい文化を持っている、と表現力を競うのだが、どうにも嘘っぽい感があって、むずむずする。
◆私は「五輪浮かれ狂想曲」を見たくない気持ちがあるのと、二代にわたる東京都知事の思考方法、雰囲気を好まないので、実はなかば「落選」を期待していた。3.11が起きてたかだか2年半ではないか。忘れません、と言いながら皆ゆっくり遠ざかっているではないか。オリンピックが開けなくともエネルギーを費やす場所はいくらでもあるではないか。そんな気持ちをこめて。
◆とはいえ、高円宮久子妃殿下のスピーチには、感動した。2002年の国際山岳年(私が日本委員会事務局長をつとめた)、信州大学で開かれた「ライチョウと山岳環境に関する国際シンポジウム」に出席された際、お話しさせてもらったが、飾り気のない笑顔と言葉が印象に残るお人柄だった。アスリートたちの熱血も、それなりに美しかった。
◆安倍首相は、「状況は完全にコントロールされている。まったく心配ない」と、福島第一の汚染水漏れについて言い切った。ほんとうか? 今後長くつきまとうであろう、この「汚染水、全く心配ありません宣言」が福島はじめ被災地の人々にとってプラスに働くことだけ今は願う。そして、すでに始まっている経済的効果だけが論じられがちな「騒ぎ」はこれからもクールに見ていたい。
◆オリンピック種目にレスリングが残ったことには、個人的な感慨がある。1964年春、駆け出しの記者になり、前橋で自転車に乗って交番や駐在所まわりをしていた私はもともと「オリンピック要員」として採用されたようだ。秋には新米の身で本社に招集され、オリンピック取材団に組み入れられた。受け持たされたのがレスリングである。ソ連東欧圏が強く、ロシア語が必要だから、ということだった。
◆銀座のはずれにあったうす汚れた旅館に泊まり込み、毎日車で駒沢のオリンピック公園総合運動場体育館に運動部の専門記者と通った。六本木の上空がコンクリートで覆われている風景が信じられなかった。こういうのは発展とは言わないのではないか、と感じたのである。新幹線、東京モノレール、首都高速、環七はじめ当時の自慢の多くは、効率的だが、同時に日本的な何かをつぶしていった、と感じている。
◆いまでは国民栄誉賞をもらった吉田沙保里らの活躍で有名種目だが、女子がレスリング競技に参加するようになったのは、つい最近、2004年のアテネ五輪からである。当時の会場は汗が飛び散る男の格闘技の世界。そんな中で日本のレスリング陣は5つもの金メダルを獲り、地味ながら、東京オリンピックで一番活躍した種目となった(この時、日本が獲得した金メダルの総計は16個だった)。
◆代々木の選手村にも時に取材に行った。恥ずかしい話だが、豪華メニューと伝えられた食堂が最大の関心事だった。栄養失調的成長期を過ごした者の性(さが)なのだろう。何とかチャンスはないか、とうろうろしたが、ついに一度も試食どころか、食堂に立ち入りもできなかった。今でも「選手村」というとおいしい匂いが脳内に漂ってくる。
◆振り返って、東京オリンピックが決定したのは私が大学生になった1959年である。決定してからの忘れられない出来事の中に、「徹夜でチケットを買う」アルバイトがあった。山岳部の先輩から頼まれた仕事で、いまの国立競技場の周囲に1日寝袋にくるまって長い行列を待ち、チケットを買う仕事。当時としては破格の「1万円」がもらえた。
◆なんだかんだ言いながら、オリンピック讃歌のような文章になったが、いいものは良く、悪いものは悪いのである。そして、急浮上しつつある「7年後」という概念。選手で言えば、いま12、3才の少年、少女が、活躍の中心になると言われている。今から7年後、あなたは何才? 私は? 地平線会議は?(江本嘉伸)
■「ゴヨートオイソギデナイ方、いらして下さいねー。あー書きにくいこと」。前号の地平線通信に載っていた報告会のお知らせは、こう結ばれていた。なぜって報告者本人が書(描)いていたから。そう、今月は、地平線会議のイラストを一手に引き受ける「画伯」こと長野亮之介さんが報告者なのだ!
◆ある時は山できこり、またある時は浜比嘉島でハーリー。那覇マラソンを毎年走り、和太鼓も叩く。さあ、その正体は? って、もちろん長野さんなのだけど、活動が多岐にわたり過ぎていて混乱しちゃう……。最初に報告者となったのは、学生の時にやったユーコン川のイカダ下り。その旅の続きで辿り着いたモンタナと32年ぶりの再訪が、今回の内容だという。若かりし頃と現在の長野さんがいっぺんに語られるとなれば、長野さんが長野さんである所以が判るかも。楽しみにしていたのはもちろん私だけでなく、会場にはたくさんの人が集まった。
◆ほぼ定刻、まずは司会の丸山純さんが、長野さんの最近の絵を紹介する。名コンビのお二人が関わった仕事、しのざき文化プラザ(江戸川区)の企画展示、「江戸川農力図鑑」のものだ。花農家や小松菜農家に取材してその仕事風景を描いた絵が白い壁に映し出されると、わっと、場が華やいだ。長野さんは、「いつも裏方だから、久しぶりに前でしゃべると緊張する」と、照れくさそう。毎月のお知らせを描く時、報告者となる人に「記録ではなくあなたがどんな人間なのかを知りたいんだ」と話してきた。だから自分も、まずは「どんな人間か」から始めなければ。そう言って、生い立ちから話し始めた。
◆畑の中でランニングシャツに半ズボンの少年の写真が。長野さんは、東京タワーが完成した昭和33年生まれ。まだまだ田舎な東京都保谷町(現西東京市)で、洟を垂らして遊びながら育ったという。中学2年の時、畑正憲(ムツゴロウ)さんのエッセイを読んで獣医に憧れ、国立大学でただひとつ獣医学部のあった北海道大学へ。けれど野に山に呑み会に、遊んでばかりで勉強をせず、一般教養から希望していた獣医学部へ進めなかった。同期生に「農学部の林学科なら山歩きが仕事だからいいんじゃない?」と誘われたので、「じゃあ、いいか」と林学を学ぶことに。「不思議と挫折感はなかったんですよね」と、首をかしげる。「思いつきで生きている人間なので」、そんな言葉も口を付いた。ユーコン川を下ったのも探検部の友達との呑みの席で、ふと「アラスカに行きたいね」という話になったから。当時、氷河が崩落する場面が出てくるCMがあり、長野さんの頭の中では、氷河=アラスカと連想されたのだ。
◆当時は円安で1ドル240円。バイトでお金を貯めながら情報を集めた(地平線会議へコンタクトも)。リサーチの結果、全長3300メートルの大河ユーコン川を下ることに決め、ユーコン最初の一滴からベーリング海まで、カヌーとイカダで下る構想が固まった(あれ、氷河はどこに?)。4人で、はるばる日本から2艘のカヌーを持って行くが、旅が始まる前に、キャンプ場で1艘が盗まれてしまう。残ったカヌーをボッカして、一週間がかりでチルクート峠を越えユーコン川最上流に臨んだものの、予想以上の急流だ。じゃんけんで勝った2人がカヌーで下ることにし、負けた長野さん達が歩いて下流へ移動すると、荷物がぷかぷか流れてきた。スタート直後に沈してしまったカヌーは、ぼろぼろに。結局、ホワイトホースで新聞広告を出して買いなおすことになった。
◆ホワイトホースで停滞している間に1人が離脱後、3人でカヌーに乗って急流を越え、600キロ進んだドーソンの街でいよいよイカダに乗りたいが、作り方が判らず弱っていると、ある日、支流からドイツ人の学生達が自作のイカダに乗ってやってきた。「沈みそうだからもういらない」と言うので、「くれ!」「沈むぞ?」「いいからくれ!」ともらい、底に流木を縛り付け補強。だましだましのイカダ旅を3か月続け、ベーリング海まで10キロの、最後に飛行場がある村をゴールにした。
◆もっと詳しく聞きたくなって、危ない危ない。今回の本題は「モンタナ」なのだった。解散後も一人で旅を続けることにした長野さんは、一日数台しか車の通らないアラスカ・ハイウェイに沿ってヒッチハイクをしながら、アメリカ本土を目指していたところ、10数台目にモンタナ在住のハーブ・ドールさんという、アラスカと本土を行き来する行商人に拾われた。「行く当てがないなら家に来るか?」。モンタナがどんなところか知らなかったが、林学科に決めた時みたいに「じゃあ、行ってみようかな」。連れて行ってもらうことにした。
◆カナダと国境を接したモンタナ州は日本より少し大きい面積があり、人口は100万人(1ヘクタールに2.5人しかいない)。州になったのは41番目と遅く、19世紀の終わりまでインディアン国家が点在する、(アメリカ人から見ると)西部開拓の最前線だった。しばらく居候していると、またまた「牧場に友達がいるけど行くか?」「じゃあ、行ってみようかな」。ハーブ・ドールさんに連れられ、長野さんの「心の故郷」となるコックス家に巡り逢ったのだった。
◆彼らは、門から家まで2キロあるような広大な土地に住み、馬で牛を追う「開拓時代」のような生活をしている。「それがショックで、面白くて……」。一旦は移動してメキシコなどへ。西海岸で仕事を探したが見つからず、お金もなくなり旅の終わりが見えてきた頃、「最後にまた行ってみたいな」と、再びコックス家に。無一文で行った長野さんだが大歓迎され、シアトルまでの交通費を稼げるよう、主人のロバートの計らいで、1日10ドルで働かせてもらうことになった。
◆馬に乗って、草地から草地へ牛を追う。築100年の建物の屋根を日がな一日剥がし、トタンに張り替える。ビーバーを撃ちに行く。奥さんのオードリーが「チキン料理を作ってあげる」と、斧で鶏の首をバンバン切ると、頭なしで鳥がそこらを走り回る。話をしている長野さんの顔が、見るからに、にこにこしている! ユーコン川を下ったことよりも、コックス家の人達と寝食を共にしてその生活を目の当たりにしたことの方が、印象に残った。経験ないことばかりで、いっぱいいっぱいの3週間だったという。
◆帰国してからは、大学を復学して卒業。淳子さんと26歳で結婚。その後、イラストレーターの看板を掲げて今までやってきた。旅した国は多く、インド、中国、チベット、ヨーロッパ、モンゴルなどなど……。モンゴルといえば、イラストだけでは食えない状態の中、江本さん率いる「日本モンゴル合同ゴルバンゴル学術調査」隊にコックとして参加(お給料も出たらしい)させてもらったのは有難かった、と長野さん。モンゴルとモンタナは、乾燥した気候で雨が降らない。二つの国の風景はよく似ていると思ったそうだ。
◆さて、今年32年ぶりのモンタナ再訪は、何がきっかけとなったのだろう。ロバートの息子のマーディがパソコンを持ち、やりとりが容易になったこと。ロバートが70代になり、「会えるうちに」という思いもあった。長野さんは5月、飛行機(9時間)でシアトルへ、そこから電車(20時間)に乗り、モンタナのチヌークという町へ向かった。駅での感動の再会では、みんなに「全然変わんないね」と言われたという。
◆当時17歳だったマーディは、独立して一人で牧場をやっている、49歳の太っちょのおじさんになっていた。今回の一か月の滞在前半は、彼の家に居候生活。俯瞰写真が映されたが、半径100メートル以上あるスプリンクラーが回った跡があるなど、距離の感覚がおかしくなってしまう広さだった。ロバートやマーディは、仔牛を出産させ、平均8ヶ月齢までを育てて出荷する「生産酪農家」で、ロバートは800頭、マーディは400頭の牛(仔牛も入れて)を飼っている。彼らはまた、牛を飼うための飼料(アルファルファやコーンなど)を作る農民でもある。
◆四駆のバギー2台と馬1頭で牛を追っている動画が映される。32年前と一番の違いは、調教に時間のかかる馬のかわりに、手軽なバギーが活躍していたこと。ただ、コックス家の人達(特に娘達)はみな馬が大好きで、牛追いでも馬を使い、バレル(ドラム缶)レースという馬のレースに毎週出ている人が多いという。また馬だけでなく、犬も牧場の仕事に欠かせない大切な相棒だ。人間の声一つで止まったり動いたり、牛を追いたてている。
◆商品である子牛を、管理をするため焼印を押す様子を撮った動画もあった。一頭一頭、キャフ・テーブル(身動きを封じる箱)に入れ、コテを押し付ける。子どもたちもせっせと手伝う。昔ながらのやり方の家では、「も〜も〜」と暴れる子牛をがっちり押さえつけて焼印を押し、去勢のため雄の睾丸を小さなハンドナイフで切り取る。それを彼らは「マウンテンオイスター」とジョークで呼び、中には焼いて食べる人もいるそうだ。
◆マーディの娘のブリトニーは10歳。夏休み中だったが学校を見せてもらうと、生徒数7人に比べて椅子が多い。公民館的な役割も持ち、教会としても使われているからだ。ほかに、長野さんが毎週日曜日に一緒に連れて行かれたという町の教会の写真も。チヌークは人口1200人の小さな町で、週一度の礼拝がコミュニケーションの場ともなり、教会のおかげで地域の共同体が保たれていると感じたという。
◆32年前にたくさんお世話になった、ロバートのことも少し。彼が丘の上に立っている写真があって、そこから見渡す限り全てが、牧場なのだそうだ。面積当たり養える牛の量は少なく裕福なわけではないというが、こういったスケールで生きるというのはどんな感覚なのだろう。彼は、17歳から長女を授かる21歳まで、全米各地を転々として賞金稼ぎするロデオライダーだった。現在の写真と当時(50数年前)の白黒写真が投影されると、一人の人間の歴史というものを感じさせられる。その中に32年前の出会いも刻まれているし、新たに今回の再会も加えられるのだろう。
◆長野さんは着いてすぐ、マーディに言われたそうだ。「まだ日本語で1〜10まで数えられるよ。おまえが昔、教えてくれただろ」と。今回、昔の話が詳しくできたのは、記憶力の悪い長野さんに代わって、コックス家のみんなが当時のことを話してくれたからなのだという。32年前はコックス家の住む地域にはテレビの電波が通らなかったが、今は見ることができる。けれど、彼らのヒーローはいまだ、ジョン・ウェイン。マーディはテレビを持たず、ビデオで昔の西部劇映画を繰り返し観ているそうだ。「テレビもインターネットもあり、情報が入る中でも、生活を変えないでいられるのはなぜだろう?」、会場みんなの疑問をくみ取り、江本さんが尋ねた。アメリカは歴史の浅い国で、4代遡ればルーツが判る。コックス家(ほかのモンタナの人達にも)には、曾曾爺さんがどうやってモンタナに来て開拓、定住したか、という一家の歴史をまとめた本がある。だから、誇りがある。「遅れている」と考えるよりも「ここまで来た」という「フロンティア」の感覚なのではないか、と長野さん。
◆今回の再訪で長野さんは、20代のモンタナの旅に、以後の旅も、来し方も、影響されていたのだと再確認したそうだ。また、いままで地平線会議であまり取り上げられることのなかったアメリカだが、地域ごとに全然違う文化や歴史感を持っていると感じたという。「アメリカは広い。また行ってみたい」と言う長野さんは、とても楽しそうだった。行き当たりばったりだけど、いつも長野さんは長野さんで、どこか揺るぎない。モンタナだけでなく、これまで同じように色んな場所に友達を作ってきたんだろうな。あっちにこっちに、忙しいんだろうな。長野さんの多面的魅力に、しみじみ合点がいった気がした報告会だった。「言いそびれたことは?」二次会で伺ったら、「(ふらふらしている)自分みたいになっちゃいけない」と、謙遜されていたけど。なりたくたって、誰もなれないと思う……。(加藤千晶)
■「帰って来たカウボーイ」報告会を聞きに来て下さったみなさま、ありがとうございました。報告会場の裏方で時には進行役でマイクを握ることもあり、会場の雰囲気には馴れているつもりでした。でも、いざ報告当時者になると、けっこう緊張している自分を発見してびっくり。わずか一ヶ月間の旅からの報告でしたが、話してみると想定以上に時間が足りず、思っていた事の半分くらいしか話せませんでした。
◆前半にはモンタナに至るアラスカの旅をお話ししたのですが、81年に地平線会議で報告して以来、ほとんど思い出す事もなかった旅の記憶がよみがえり、つい話が長くなってしまいました。僕は恐ろしく記憶力が悪いこともあり、過去を振り返るのは苦手なのですが、振り返ってみれば若い時の自分の考えを思い出し、今との違いが面白かったりします。振り返って生まれる思いもあるんですね。
◆今回の旅は出発前から「帰ったら話してもらうよ」と江本さんに釘を刺され、プレッシャーを感じていました。というのも、僕の旅は全く計画性がなく、旧友のCOXファミリーに32年ぶりに再会する事以外には、どこで、何日泊まって、何をするのか、全く白紙だったからです。アメリカの入管でも「そんな古い友人に会ってどうするんだ?」と聞かれました。
◆地平線会議の皆様に興味を持って頂けるようなお話ができたかどうかはわかりませんが、結果的にはエモ・プレッシャーにとても感謝してます。地平線報告会と言う「場」を意識する事で「伝える」という気持ちを持続でき、日々起こる事の記録に努められました。現地では日記の他、一日一枚はなにがしかスケッチを描きました。一家に居候して仕事を手伝いつつ、気になる事はすぐに尋ねてメモし、写真を撮っていると、記録する行為が互いの共同作業になっていきます。
◆牧柵修理の仕事が毎日続いても、繰り返し写真を撮り、質問をする。最初は「こんな事が面白いの?」という目をしていた彼らの方から「じゃあ、これ知ってる?」と新たな話題が。情報の共有、伝達が楽しみの一つになって来るのを感じました。こんなこと、ちゃんと旅をしている人には当たり前なんでしょうけど、その場限りで何も残らない、海辺の足跡のような旅をしてきた僕には新鮮でした。
◆今でもジョン・ウェインをヒーローと仰ぎ、教会を中心とした地域コミュニティに生きるCOX家とその仲間達の牧童人生は、現代アメリカのスタンダードな生活とはずいぶんかけ離れているかもしれません。でも僕にとっては彼らがアメリカ人のコア・イメージです。同様に彼らにとっては僕が日本人の代表像になってるのかもしれませんね。縁は本当に不思議です。今回の旅の最後の夜、世話になった当主のロバートが、「また来いよな。オマエは俺の人生を照らしてくれるんだよなー」と何気なく言いました。密かに感動しました。取材のような面もあったこの旅の余韻か、帰国後に西部開拓の歴史を調べ、ますますモンタナに興味が増しています。(長野亮之介)
■先月の通信でお知らせした以後、通信費(1年2000円です)を払ってくださった方々は、以下の皆さんです。数年分をまとめてくださった方もいます。万一、記載漏れがありましたら、必ず江本宛てにお知らせください。アドレスは、最終ページにあります。振込の際、通信の感想などひとこと書いてくださるのは大歓迎です。
櫻井恭比古/中嶋敦子(6000円)/日野和子/長塚進吉/横内宏美/高橋千鶴子/坂本貴男(10000円 皆さんの力強い活動をいつも興味深く読ませてもらっています。5年分の通信費です)/ 津川芳己(5月に続いて!)/北村昌之(10000円 ごぶさたばかりでスミマセン。メコンの本をまだやっています。そのうち出版されると思います)/秋元修一/湯浅千佳/永田真知子
■9月3日から7日まで4泊5日で北朝鮮へ行ってきました。韓国・仁川経由で中国・瀋陽へ飛び、そこからバスで国境の町丹東へ移動、そこから列車で北朝鮮、平壌に4泊して飛行機で中国・瀋陽に戻る、という行程です。しょっぱなから大韓航空が機体不具合で成田へ引き返すというハプニングもありましたが、なんとか無事に北朝鮮の旅を終え、中国まで戻ってくることができました。
◆北朝鮮では、もちろん全行程ガイド同行のツアーです。日本の旅行会社は高いので、中国の旅行会社に手配をお願いしました(中国発着4泊5日で16万円)。私の一番キライなタイプの旅ですが、それでも、「今の北朝鮮を見ておかなくては」と強く思ったのです。近い将来、南と統一されたら、きっとすぐに変わってしまうだろう北朝鮮を知っておきたい、見ておきたかったのです。社会主義国のほとんどが変貌した現在、北朝鮮はある意味で秘境といえる存在だと思うのです。
◆今いる中国だって、私が最初に来た1985年当時は直行便がなくて香港経由で行かなくてはならなかったし、戦前の日本にタイムスリップしたかのような、混沌とした世界でした。あのころと比べて、現在の中国は(見かけだけは)日本以上に発展していて、旅行者を悩ませた「ニイハオトイレ」も、都市部ではまったく見かけません。
◆たった4泊5日(実質3日間)、自由行動がまったくない、ガイド2名に付き添われての旅なので表面的なものしか見ていないし、予備知識もほとんどなかったのですが、日本で報道されているような、「飢えた人々が雑草を採って生きながらえている」、という悲惨な光景はどこにもなかったし、中国国境も韓国国境も、ものものしい雰囲気はありませんでした。
◆大学まで教育費は無料、医療も無料、家賃も無料。引っ越しも自由だし、治安もいいし、街にはゴミひとつ落ちていないし、地下鉄もちゃんと走っているし、ビアホールもありました。ガイドさんたちも明るい人でいろんな話も聞けて、緊張する場面もなく、楽しく過ごすことができました。ただし、情報規制はしっかりされていて、ネットはまったく繋がらないし、TVも自国の放送しか見られないそうです(同じホテルでも、外国人の泊る部屋はCNNなども見られますが、北朝鮮の人が泊る場合は制限しているとのこと)。
◆識者の方には怒られそうですが、正直な感想として、北朝鮮での生活も、それなりに悪くないのかもしれないという気もしました。体制的なことは別にして、こんな暮らしがあってもいいんじゃないかと。なんだか、ブラジルの日系人農場、弓場農場をほうふつとさせました(弓場農場は原始共産主義の集団農場)。日本人旅行者は本当に少なくて、朝鮮国際旅行社の日本語部門は赤字だそうですが、欧米人や中国人旅行者は大勢来ていました。外貨もユーロや中国元での支払いがメインで、日本円だと断わられるところもありました。
◆蛇足ですが、北朝鮮は美人の宝庫でもありました。けっこう気さくに写真撮影に応じてくれましたよ。もうひとつ蛇足ですが、滞在中、犬はたったの4匹しか見かけませんでした(飼い犬3、軍用犬1)。猫はゼロ。犬肉は普通に食べられていて、食用犬牧場もあるとか(涙)。中国からはソウルへ飛び、今度は南側からも北朝鮮国境の板門店を見てきます。詳しいレポートはホームページ「ぽこけん」のブログでUPしていますので、興味のある方はぜひ見てください。(中国・瀋陽にて。滝野沢優子)
■ウランバートルから草原に出た夜、遊牧民たちとアルヒを飲んでいたらいつのまにか寝てしまいました。午前3時のアラームで目が覚めてゲルの外に出ると、チリのように広がる星空にぽつぽつと流れ星。ペルセウス流星群のピークです。流れても消えない星は人工衛星。2、3、4...こんなに宇宙空間に浮かんでいるんですね!
◆昼間は家の主のホヤガさんから大人しい馬をお借りして、川をじゃぶじゃぶ渡り、草原を駆け、花咲く山の斜面を越えて遠出しました。馬は筋肉のかたまり。特に腰のあたりは後光のようにエネルギーがみなぎっている気がします。夕方、放牧していた馬と羊と山羊を追い立てて家まで一緒に帰りました。血気盛んな馬はすぐ後ろ足を蹴り上げて他の馬を挑発するので、ホヤガさんに何度も怒られていました。
◆この家には10人の幼い孫が帰省中でしたが、2歳の女の子だけがホヤガさんから溺愛され、おじいちゃんの膝の上を独占していました。みんなすごく可愛いのに、なぜ? 私には不思議でしたが、ちゃんと理由がありました。3年前にホヤガさんの母親が他界したとき、火葬する前に、ホヤガさんは遺体の右腕に黒い点を1つペンで描いたそうです。その直後にこの女の子が生まれ、彼女の右腕の同じ箇所にほくろがあるのをホヤガさんは見逃しませんでした。「この子は母の生まれ変わりなんだ。だからとても大切にしているんだよ」。田舎でも街でも、こうした「信仰」が日常生活と一体になっています。
◆草原まで運転手を務めてくれた青年は、本業がシャーマンです。道中で別のモンゴル人が彼に相談を持ちかけていました。「本当は僕もシャーマンになりたいんです。昔から霊感があって、シャーマンの知人からもやるべきだと言われて……」。あとで聞いたら、「一番の夢だけど修行がすごく大変で、今は家族もいるからできるかどうか不安なんだ」と葛藤を打ち明けてくれました。
◆ウランバートルに戻ると、12年前にゴビアルタイ山脈でお世話になったツェデンバルさんとナンセルマーさん夫妻が来ていて、嬉しい再会をしました。ナンセルマーさんは韓国風の猫目メイクとポニーテールで外見がアイドルっぽくなり、昔のイメージとだいぶ違いましたが、ひょうきんで豪快な性格は相変わらずでした。モンゴルは面白い国です。大陸の性質なのか、人々には底抜けの明るさがあり、考えをはっきり主張します。困っている人に手を差し伸べようとする大らかな優しさには、いつも助けられています。
◆彼らはIT機器の活用が上手くて、人手や知恵が必要になると、友達から配偶者の兄弟親戚にまで次々と携帯電話やチャットで連絡をとり、必ず解決手段を見つけます。ITに偏らず、生身の人間とのコミュニケーションにも長けているのでうらやましい限りです。人口はたったの300万人弱ですが、街中そして国中に人脈が広がっています。 帰国の便が成田に着くと、初めて来日したモンゴル人一家が「この暑さじゃ生きていけないよお」とうなだれていました。私も同感で、蒸ししゅうまいになったようでした……。
◆ゆるゆると元の生活に戻りつつありますが、東京でもモンゴル人と知り合う機会が急に増えました。先日は都内の某ホテルにモンゴル人のグループがいたので、話しかけて輪に入れていただきました。つい嬉しくなって、目上の人に言ってはいけないスラング「ウソでしょ馬! ヒヒーン」を何度も口にしてしまいました。帰り際に連絡先を交換したら、民主党議員や元大臣の方々で、一瞬血の気がひきました。
◆今年1月に続いてふたたびモンゴルを訪れた最大の理由は、核廃棄物処分場建設計画のことが気になっているからです。人類の「トイレなきマンション」に、待望のトイレができたら? 関野吉晴さんが4月の報告会でお話されていた、イースター島の顛末を思い出します。モンゴルへ発つ前、福島第一原発の20キロ圏内に行ってきました。完全に時が止まっていました。人類と核との接点が地球上に少しずつ増えていきます。冬か春になる頃、厚着をしてまたモンゴルへ行きたいです。(大西夏奈子)
■山辺です。いまは熊本県の大矢野島にいます。天草の入り口。天草五橋の一号橋を渡った先にある島です。これから牛深まで、天草を周遊しようとした矢先に台風が発生。天草四郎メモリアルホールの向かいにある物産館で日々を過ごしています。台風のまま通り過ぎればいいものを、温帯低気圧なんぞに化けて九州に居座ってホント憎たらしいです。
◆今年の熊本は、38度とかありえへんほど暑いです。日差しが痛い。アスファルトが熱い。靴を履いてても足が熱くてたまりません。さらにダンプやトレーラーの排気で熱された国道は、50度近いと感じます。水は5リットル積んでますが全然足りません。夜も暑く全然寝れません。よくまあ毎日、甲冑積んだ台車を押して歩いてるものです。
◆こうやって歩いていると、昔の日本人の旅を感じます。身を焼く暑さにうなだれ、木陰で休み休み歩く夏。台風に足止めされ、時間とお金が浪費されイライラしていると「江戸の庶民も、大井川が増水して渡れないとき、こういう感じだったのかなー」なんて思います。暑さ寒さ、雨、風、台風。現代だと余程のことがないかぎり、車で移動して旅の目的を達せますが、歩きだとそうは行きません。
◆だいたい、その日の体調次第で進む距離が変わるため、ほとんど思い通りに行きません。腹は減るし喉は渇く。歩ける距離ごとに宿場があった昔と違い、いまは車が基準のため、なんも無いトコはホントなんもなく、カラスの群れなんか見たら「死期近し」なんて考えてしまいます。よく「今はコンビニがあるから楽ね」と言われますが、バイクや自転車ならそうでしょう。しかし歩きの場合、峠のドライブインや町の商店が点在していた昭和の方が旅しやすかった気がします。
◆今は物騒な世の中なので、流れ歩いているとケーサツ呼ばれたりしますし……。その反面、歩いていると地元の人から食べ物をもらったり、駅や公園で休んでいると話しかけられたりもします。江戸の庶民もこうやって歩いていたんだろうなぁ。車や交通機関を使ったり、グループでいると、地元の人のことなど考えず旅行する現代。こうやって交流し話を聞けるのはラッキーです。九州、特に南九州の人は優しく親切です。ツラい事の方が多いけど、止めずに歩いてるってことは、この旅にまだ魅力があるからでしょう。もしくは社会から逃げているだけか。もうちょい頑張ります。(9月1日 甲冑旅人 山辺剣)
■江本さんにお電話をいただき、「『2013年の夏』というテーマで書かない?」と問いかけられて思い浮かんだのは、「ぐちゃぐちゃな夏」。話をしながらテーマを考えてはみたけれど、やっぱりぐちゃぐちゃ。地平線通信のような貴重なメディアに自分のことをつらつら書くのは憚られますが、今の私の頭の中の状態は、私にとって大問題です。
◆5月13日に朝日新聞夕刊の「凄腕つとめ人」(編注:開発した極地用の防寒着を手にした岩野さんの大きなカラー写真とともに「零下61度の経験、提案に説得力」の見出しの長文の記事で、仕事の内容、東日本大震災でのボランティア活動などが紹介された)というコーナーに取り上げていただいてから、何かがちょっと変わりました。メディアに出ると、一時的には講演依頼が増えたりするのは今までもあったことだし、今回も、「一過性のものだ、この波を乗り越えたらまた平穏な日々が来るはず」と思ってはいるのですが……。「凄腕つとめ人」の後、少しして、「Wikipediaに載ってるよ」と同僚が教えてくれました。Wikipediaは誰でも自由に編集できる百科事典だから、内容の信頼性においては私自身も疑いの目を持ちつつ眺めるツールです。そういう意味で、ここに載ったからどうなのさという気持ちがある反面、多くの人たちが利用しているのも事実です。
◆ただ、他に載っている人たちと肩を並べるような自分であるとは到底思えない。大手メディアに取り上げられるとこんなことになっちゃうんだ、おそろしいなあ。社会的地位の高い人が集まっている社交クラブの「学識経験者や名士の講演会」に呼ばれることも今までだったらありませんでした。先日は、南極ではなく、防災をテーマに、大和郡山市自治連合会の研修会に講師として呼ばれました。「東日本大震災から学んだこと」というテーマで、自治会長さんたちに向けて話をしました。逆に私が研修を受けたいくらいなのに。
◆この研修会に呼んでいただいたきっかけは、私が主人公として描かれた学研の絵本(「語りつぎお話絵本3月11日 第6巻 助け合う人々」)を、自分で大和郡山市立図書館に「置いてください」と頼みに行ったことだったので、このお話をいただけたことはうれしかったです。また、「防災」は、今自分が真剣に向き合いたいテーマなので、研修会の講師という高いハードルをいただいたことで、とても勉強になりました。余談ですが、この秋には「防災士」の研修を受けます。
◆自分はこれまでと何も変わらないのに、たったひとつの記事をきっかけに、自分が思っている自分と、社会の片隅で扱われる自分が乖離すると、とても困惑します。自分で自分に垣根を設けているのかとも思いますが、やっぱり付き合ったことのない人たちと付き合うことも、ステータスの違う人に向かって話すことも、簡単ではないです。偉い人、偉く見える人は、庶民からみたらやっぱり畏れ多いです。人前に出ていくことは、今だって、相当の覚悟と諦めを持ってしてようやく行っていることです。
◆私は本当は、庶民ワールドから少しも抜け出したくなんてないんだと思います。家で畑をしているのがいちばん幸せなんですもの。困惑の夏が終わろうとしていますが、錯乱の秋に突入でしょうか。どこかでふっと、心構えなのか、考え方なのか、切り替え方なのか、何でもいいですが、ヒントが降りてこないかなあと願っています。以上、あまりに個人的な問題で、貴重な地平線通信のスペースを無駄にするようであれば他の人のを載せてください。地平線の原稿を書こうという気にさせていただくだけで大変ありがたいです。地平線通信に載っても載らなくても、自分のこの時期の記録が残りますから。
◆地平線で被災地の報告をさせていただいたときも、先日大和郡山の研修会で話したときも、自分の活動記録をひっぱりだしてきて整理しました。そういうとき、記録しておくことがいかに大切か、あらためて実感させられます。記録することの大切さを教えてくれたのは地平線会議です。普段からなるべく記録するように心がけていますが、同じ記録の中でも、「通信の原稿を書く」という取り組みは、特別な意味があります。上に書いたように、載っても載らなくても、です。
◆他の場所に書こうとは思わないことや、書いたところで相手にされないこともここでは書いてみようと思うし、内容も、ここでだったらつっこんだことも書いていいのかなって思います。それでいて日記ではありませんし。うまくいえませんが、わたしは地平線のことを勝手に寺子屋と思っています。いつもありがとうございます。そして今後ともよろしくお願いします。(岩野祥子)
1050円 8月23日発行。内容紹介は「サブカル実用と絵本が溶け合う摩訶不思議本」となっていました。キャッチフレーズは「布団で寝ている場合じゃないョ!」です。説明に困るかんじの本です。ダメダメのじゅくんがのじゅく先生に野宿を勧められ、小さな大冒険=野宿をします。(上)と付いていますが、(中)や(下)の予定はありません。出せたらいいなーという希望的(上)です。出せたらいいなあ……。(著者本人)
■静岡県富士宮市の表富士グリーンキャンプ場、午前6時。チェレステグリーンのビアンキに乗ったリンポ・ヤクが、先にどうぞという仕草をしたのに「あなたが先だ」と答えると、彼はそのままペダルを漕ぎ出した。富士山スカイラインは二合目から始まる登山区間へ向かって上り坂が続く。彼の後ろ姿を撮る間もなく、MTBで追いかける私との間がどんどん開いて行く。
◆自転車で世界一周をしているチベット人が欧州から来日するとの連絡があったのが8月11日日曜日。なんと明日には成田に着くという。チベット人と一口に言っても千差万別で、いままでもバイクで世界一周している金持ちチベット人や、気難しい映画作家チベット人なんかが来日して、あれは何だったんだろうと後から疑問に思うことが少なからずあった。今回は在日チベット人コミュニティーが中心になって受け入れするというので、8月14日に都内で行われた「講演会」には物見遊山で彼の話を聞きに行った。
◆ところが。リンポ・ヤク(41)は米国在住のチベット人。今年3月10日にミネソタ州の自宅を出発してベルギーのブリュッセルから欧州ツアーへ。13か国150都市以上を巡り、各都市でチベット支援者のバックアップを受けて、市長や政治家などに面会、メッセージをもらう旅を続けてきたという。彼の話は非常に大ざっぱに15分で終わってしまい、あとは質問してください、と世話役のRさん。「出身地と子どもの頃の話を聞かせてほしい」と私が質問したのが地雷を踏んでしまった。
◆「私はアムド(チベット北東部)で育ちました。叔父や父にビジネスを教わってラサで働いていました。友人たちとダライ・ラマ法王の法話などをネパールでCDにして持ち込み、ラサで売っていました。ある日叔父に『公安がおまえに目を付けた。いますぐチベットを出るんだ』と言われ、ネパールに逃げ、その後米国に移住しました。私の家族はまだチベット本土にいますが、連絡は取れず、思い出すと...」。彼は泣き出した。しまった。彼がチベットの現状を訴えて、世界中を回っているというのは、相当に本気だった。
◆チベット本土では自由やダライ・ラマ法王の帰還を求める抗議が散発し、この4年間で124人が焼身自殺をはかっている。焼身抗議は特にリンポ・ヤクの故郷、アバで集中して起きており、現状解決のための国際的介入を求めるアピールは彼にとって身近で切実なことだったのだ。3週間の来日中の予定を教えてくれ、という質問には、Rさんが答えた。「リンポ・ヤクさんは、皆さんが行ったほうがいいというところがあれば、どこでも行くと言っています。この場で皆さんに話し合って決めたいのです」...。どっひゃー。さすがチベット人、まったくノープランで日本に来ていたのだった。
◆結局この日は、その週の土曜日17日に都内を出発すること、8月31日には横浜から都内まで在日チベット人の若者たちと一緒に走って日本ツアーのゴールとすることだけが決まった。土曜日の朝、みんなに見送られて新宿東口を出発。この日は17号線を高崎まで走る予定で、私も道案内がてら戸田橋までついて行った。高崎ではさっそくトラブル発生。サイクルウェアのポケットに入れておいた財布をいつの間にか落としてしまい、週末で外貨が両替できないので、公園で野宿。翌朝はラジオ体操の音で目覚め、彼のことを説明する急ごしらえの日本語リーフレットを体操の人たちに手渡すと、何人もがお金をくれたという。その後、18号を上田、長野へ。善光寺で2泊して地元紙の取材を受けた後、19号を松本、名古屋へと向かい、ここでも新聞社めぐり。
◆東京で待っている私は毎日ドキドキの日々が続いた。29日は浜松から富士宮市まで走ることになっていたのが、なかなか「富士宮市到着」の連絡がない。やきもきしていたところに携帯が鳴った。表富士グリーンキャンプ場の親切なスタッフからだった。ここで一泊して、明日は富士山山頂に登るという。まずい。ここで登山のために1日取られると、予定通りゴールできなくなる。31日夜には今度こそ講演会にすべく、会場を予約してしまっている。富士登山だけは止めないと、と私はその夜、急いで富士宮に向かったのだった。
◆早朝にキャンプ場でリンポ・ヤクと合流。一緒に新五合目まで自転車で上がって、山頂断念を説得するつもりで走り始めた。夜中の曇り空は次第に晴れてきた。富士山スカイラインの登山区間はマイカー規制中で、新五合目にはバスか自転車ぐらいでしか行けないのだ。西臼塚の駐車場で休憩している彼に追いついたが、そこからまた引き離された。二合目の登山区間入口に彼の姿はなかった。規制区間を見張っている警備員に聞くと、だいぶ前に上がって行ったという。まずい。このまま山頂まで先に行かれては困る。MTBでは追いつけないのがわかったので、私はバスに乗り換えて新五合目に先回りすることにした。
◆が、考えてみれば「皆さんにおまかせする」と最初からおまかせモードだったリンポ・ヤクが、自分から「富士山に登る」と言い出したのだから、これは余程の決心なのではあるまいか。登山の時間を作るために、昨夜も市街に泊まるのではなく、キャンプ場まで上がってきたのではないか。無計画に見えて、実は周到に考えた結果なのではないか。中国支配下のチベット本土では禁じられているチベット旗を、パリのエッフェル塔前で広げてアピールしてみせたように、日本を象徴する富士山頂でもアピールしたいのではないか。
◆キャンプ場から3時間と見込んでいたスカイラインの登山区間を、たった2時間で彼は上がってきてしまった。恐ろしい脚力である。地図を広げ、きょう中に山頂まで行き、明日朝には新五合目から走行再開する、絶対に間に合わせると意気込む彼を、私にはもう停められなかった。寡黙で、常に落ち着いていた彼が、山頂まで2時間で行けるぜ、と異常なテンションで吼えている。ここまで乗ってきたビアンキの前輪を外すと、それを手に持ったまま彼は山頂へ向かって登って行った。彼が育ったチベットは、ここよりもずっと標高が高い。ひょっとしていままでが「低山病」で、いまの彼が本来の姿なのだろうか?
◆結局、彼はその日のうちに新五合目まで下り、翌日夜には横浜に着いてスケジュールに間に合わせた。8月31日には東京・渋谷にゴールし、日本ツアーを終えて、現在は台湾を走っている。彼のようなチベット人本来の自由奔放さが、国を失う原因になったのだと言う人もいる。亡命チベット人の中にも、それを戒めて同胞を批判する人がいる。だからといって律儀に暮らしていればすぐに国を取り戻せるというものでもない。いつか自分たちの国に戻れる日のために、彼らのアイデンティティは大事にしてほしいと思う。この困った奔放さもその一部なのだと思うしかない。(落合大祐)
■今年の2月に横須賀でイチゴ狩りに行った時、すぐ近くに三浦富士の登山口があり、山好きの私はすぐ興味を持ったのだが、しまった! 車で行ったので、スカートにサンダルという恰好だった。雨の後でぬかるみもひどそう…。ってことで、あっさり断念、と同時に突然閃いた。これから日本の○○富士をかたっぱしから登ろう、と。もちろん、過去登った○○富士はノーカウントだ。
◆やっぱり最初は本家の富士山。過去5回登り、6回目になる今回は、今まで登ったことのない御殿場ルートをチョイスして、前夜より登山口でテント泊し、8月6日に日帰りで登ってきた。朝4時スタート。平日のせいか、他に登山客はいない。30分ほどしてようやく数人と出会う。7合目くらいからまあまあの人がいたが、世界遺産になったことで大渋滞と聞いていたのに、それとはほど遠くマイペースで歩けた。下山時も、ほとんんど人はいなく、拍子抜けだった。しかし、マイナーな御殿場ルートは、一般人の私には結構ハードだった。休憩や頂上のお鉢巡りも含めて約13時間かかった。最後の2時間は本降りの雨の中を黙々と歩き、駐車場に戻って着のみ着のまま(登山の恰好のまま)バイクに跨がり、家まで約2時間の走行。帰宅後、風呂のありがたみが身にしみた。
◆8月13日から26日は、富士山北海道編。バイクで自走して青森から函館に渡り、函館近くの釜谷富士(237m)を目指したが、地元の人に、そこは道がないし熊もいるから登れませんよと言われて、素直に断念。次に駒ヶ岳(渡島富士 1131m)にサクッと登り、今回のメインの利尻富士(1721m)を目指して一気に北上、と気合い満々だったのだが、今年の北海道は、異常に雨が多かった。しかも、洪水が起こるレベルのものも少なくないし、雷も多い。北海道にいる間、ほぼ毎日カッパを着ていた。
◆私は別の場所にいて難を逃れたが、往復で通った八雲町では町は洪水になったり倒木により電車不通という事態も発生した。長万部町も私が来る数日前に町が洪水になったと聞いた。北上中も無理せずに、途中、町営の無料のログハウスで2連泊して悪天候をやり過ごしたことも。その夜中は、雷雨によりもの凄い大荒れで、テントじゃなくて大正解だった。雨は、走行中にポツポツ降って来たと思うと、すぐに土砂降りに変わり、視界も悪く、スピードも出せない。バイクだと、雷も落ちたらどうしよう、とドッキドキ。豪雨の時は、バイパスでは路肩に何台も車が停車していたり、脇の川(たぶん普段は小川レベル)が溢れて道が川になりかけているところもあったり。
◆幸い天候の読みがあたり、利尻富士は晴れ&霧の嬉しい登頂! 実は利尻は約20年前に悪天候のため、9合目くらいで断念していた。私はもちろん登山の恰好だったが、装備がイマイチのライダー達も一緒に登り、9合目の彼らのキツそうな様子を見て、これは無理しちゃダメだ、と引き返したのだ。そのリベンジもやっと果たせて嬉しさ倍増だった。
◆その後は南下して、美瑛富士(1888m)を十勝岳と美瑛岳とのループトラックで登頂、最後は室蘭の母恋富士(162m)で締めくくった。母恋富士登頂は地元でも馴染みが薄く、散歩中の親子連れには「たぶん、登れると思いますけど」と言われ、登り口(「ふるさとの森」と書かれ、母恋富士とは記述なし)のすぐ近くの民家で尋ねたら「山頂まで道があるかしら?」と奥さんに言われた。しかし、旦那さんが「行けるはずですよ」と。結果、15分で登れた。北海道の富士は17あるらしいので、続きはまた来年以降。日本の富士もきちんと調べてはいないが、300ほどあるようで、まだまだこれからだ。
◆本州に戻り、岩手の紫波の辺りの一般道を通ったら、流木などが道端にあり、最近、脇の川が溢れて洪水になったと一目でわかった。北海道だけじゃなく、同時期、東北も豪雨の被害があったのだ。また、帰宅して翌日だったか、TVで苫小牧の町中が洪水になっている様子を観た。私が去っても、北海道の悪天候は続いているようだった。(旅する主婦ライダーもんがぁ〜さとみ/古山里美)
■長野亮之介さんの報告会、予告を聞いたときからわくわくして待っていました。なぜなら私自身が、長野さんが心の故郷とおっしゃる牧場を擁するモンタナ州の、となりのとなりにあるオレゴン州に住んでいたことがあり、懐かしい風景と似たものが見られるかもしれないと思ったからです。
◆でもそこはやっぱりひろーいアメリカのこと。となりのとなりといっても一昼夜車を走らせてやっとたどり着くような、日本で言ったら東京から鹿児島に行くよりまだ距離があるようなところです。当然気候も環境も違い、パッと見て似てる!と思うことはあまりありませんでした。似ていないところがまた面白く、それに加えて生まれ育った牧場に根付いて暮らす前時代的ファミリーに思いをはせたりして、2時間半があっという間に過ぎていきました。
◆私がオレゴンに住んでいたのは、19歳(1989年)から約5年間です。初めの2年はユージーンという町のコミュニティーカレッジ(2年制の大学のこと)に住み、残りはコーバリスという町に移りオレゴン州立大学(4年制)に編入しました。「アパレルマーチャンダイジング」が専攻です。似ているところと言えば、オレゴンにも牧場はふんだんにあり、広い牧草地に水を撒く巨大スプリンクラーや、刈り取った牧草をロールしてドラム缶の形にまとめた「ヘイスタック」とよばれるものなどは、20年前の記憶が鮮明によみがえるくらいそっくりな風景でした。
◆当時私は町の学生だったので、牧場運営の内部にまで入り込むということはありませんでした。牧牛犬や馬を使って牛を誘導するところまでは想像できても、そのあとの焼き印を押すところで「!」、雄牛の去勢に至っては「?!」。衝撃の余り声を失いました。あの、タマタマ切除用のナイフ、もっと切れ味のいいものにするとか剃刀を使うとか、改善の余地はないのでしょうか……?
◆長野さんの旅は終始一貫行き当たりばったりで、この適当さは真似しようとしてもできるものではなく、長野さんの本有的な才能のようなものなのだなぁと思いました。そして報告会が終わってみれば、見せていただいた写真やお話に入り込み、私もふわふわと長野さんの周りを浮遊しながら旅をしてきたような心地になっていました。
◆そしてそして、そのあとは初参加の二次会@北京。江本さん一押しの餃子がほんとうに美味しく、判で押したように毎月通う理由がわかりました。今回の報告者の長野さんとも、報告会とは違った距離感でお話しすることができてよかったです。娘の幼稚園の夏休みが終わるのでしばらく二次会には行けませんが、次の機会をどうやって作ろうかと頭をひねってみます。(瀧本千穂子)
■加藤千晶さんのニッポン放送出演は、千晶さんらしさが出ていて、ふんわりほんわかしていて良かったから、新刊応援のためにも一行書きたかったけど、すんません(>_<)ただパーソナリティの上柳昌彦さんが、盛んに「法令は遵守して野宿している」みたいに言ってるのが公共の電波って大変なのね〜って思ってしまいました(笑)。千晶さんに「雰囲気出てて良かったよ〜」って伝えて下さい!
◆東京オリンピック決まりましたね! 安倍首相の「汚染水は完全にブロックされています !!将来にわたって健康問題はありません!」。おいおいどこまでいっちゃう?とドン引きだったけど、高円宮久子様の英語とフランス語のスピーチは素敵でした! あの雰囲気! オーラ! 普段あまり意識しない皇族というものを再認識してしまった。右翼じゃないけど……おっかけになりそう(笑)。そのあとのパラリンピアン佐藤真海さんも素敵でしたね〜。(青木明美)
■1984年12月「台湾、ヤミ族とのふれあい」(報告者・高野久恵氏)で衝撃的な絵師デビューを果たした、地平線会議の至宝イラストレーター、長野画伯の個展が前回に続き、静かで愛らしい、明治公園近くの「カバ空間」で開かれます。毎月の地平線通信で巻頭の題字(なんと毎号変わる! しかもほぼ判読不明)、最終ページの予告イラスト、を描き続けて間もなく30年、無償なのに信じがたい誠実な仕事ぶりを地平線仲間は見逃すわけにはいきません。遠くの方も是非口実をつくって駆けつけてください。画伯は毎日会場に顔を出す予定ですが、念のためブログ(moheji-do.com/sozoro/)で確認を。
会場:ギャラリーヒッポ
渋谷区神宮前2-21-15
03-3408-7091
(JR千駄ヶ谷駅から徒歩8分)
期間:9月27日(金)〜10月6日(日)
<10月1日(火)は定休日>
時間 11:00〜19:00(日曜日は〜17:00)
■2020年のオリンピック開催地決定のニュースは、「ウソでしょ!」の一言だった。事前の会見で、各国記者から浴びせられた汚染水についての質問は、まさに世界中の不安を代弁していた。が、それとは裏腹の結果。長野五輪当時、誘致運動の内実に詳しい人物から、「IOCの委員も、しょせんはオリンピックゴロ」と聞いた覚えがある。恐らく今でも、選考に際しては様々なバイアスが働くに違いない。
◆「東京でやる必要があるの?」「イスタンブールで開いて欲しい」周囲の誰と話しても、大半、いや全員が同様の意見だった。なので、「おい、号外が16ページだぞ」の江本さん情報にも驚いた。前知事の妄想に始まり、腹心が引き継いだに過ぎないイベントを、本当に日本中が待望していたのか。フクイチの事故報道と同じく、これも大手メディアが政府の提灯持ちを務めただけじゃないの? ヒネクレ者の私は、首を捻るばかりだ。
◆今回、日本政府は「東京は安全」と言い放つ一方で、「震災からの復興と再生」を掲げて世界の情に訴えた。毎度のことながら、論点を巧みにすり替える姑息さには呆れる。また、吹っ飛んだ原発に被せた目隠しよろしく、国の無為無策に泣いている被災地の現実を、華やかなオリンピックで覆い隠すあざとさも不愉快だ。
◆けれど、百歩譲って、もしそのテーマが本心であるなら、こう主張すべきだったと思う。「国がこのような状態なので、今回の立候補は取り下げる。そして原発事故の完全な収束に国力を挙げて取り組み、地球環境への汚染拡散を食い止める。それが完了した暁、できれば東京五輪から100年後の2064年に、世界中からの支援に感謝を込めてオリンピックを開きたい。その時はよろしくお願いする」と。もちろん、100年では済まず、200年、300年後の可能性もあるが。[画伯の報告会に行けず、悔しい思いのミスターX(こと、久島弘)]
◆お久しぶりですが、お元気ですか? 長野さんの報告会よかったみたいですね! 貴重な30年前の写真も見たかった〜。今月もまた気になるテーマで、毎月月末にはそちらに帰りたくなります。10月末には行けるかな。
◆こちらは、相変わらずな感じでやっています。今日は急にお休みになり、めずらしく泳ぎにも行かずにのんびりしていました。台風の影響はほとんどなかったです。午後から温泉(すご〜く泉質がよくて、肌がつるつるに! 200円です)に入って、図書室で本を借りて、海のそばで読んで……よい1日でした。
◆昨夜は島に遊びに来ている友人と一緒に、シタールと詩の朗読会へ行ってきました。詩人のナーガさん、山尾三省さんと深い関わりがあった方です。屋久島でもだんだんと人のつながりができています。もとをたどれば、地平線からつながったご縁が多いですよ。
◆島にきて、移住者から強く感じるのは、みんな自分のテリトリーがあるということ。人との助け合いも大切にしながら、でも1人1人が誰にも踏み込まれたくない自分の領域をしっかり持っている感じです。強い個性が集まっています。私みたいなのが、ひょろひょろと手伝えるようなことって少ないです。ちゃんと力がある人同士が、お互いにメリットのあるように関わり合いながら生きてます。人付きあいということで言えば「人は最終的には1人だ」ということで都会でも同じなのでしょうが、ここでは強烈に感じます。
◆とにかく、みんな強い。それは特別目立つ活動をしている人だけではなく、普通に働いて(働いていない人もいますが)暮らしている人でも強いです。みんな、この島に住みたくて住んでいるからなのかもしれません。生まれた土地を離れ、意思を持って「ここで暮らす」ということをやっている、というだけで何か1本芯がとおっているのでしょうね。自分は強いとは到底思えないけど……。でも、屋久島に住みたくても様々な事情で住めない人がいる中で、いまここにいられる私は間違いなく幸せです。いよいよ9月。田舎で暮らして行きたい、というなんとなくのイメージをもうちょっと具体的にして、現実的に動きだそうと思います。(屋久島 新垣亜美)
■こんにちは。先日はお久しぶりでした。月遅れになってしまいましたが、前々回の報告会のことです。本当に久々の登場だった石川直樹さんの話が聞けるチャンス、ということで、7月19日の報告会へ行きました。2時間以上かけて、報告者の話をじっくり聞くことができる貴重な機会ですものね。久し振りの石川さんの話は、特に後半はどんどん溢れ出すような印象でした。
◆当日に聞いた話はほんとうに多岐にわたっていて、出来ることなら全部忘れたくないのですが、残念ながら、日に日に記憶は薄れていくタチです。少しでもと、メモを取ってみました。その一部はこのようなものです。
◆「エベレスト下りでローツェがずっとみえている」「ローツェからエベレストをみたくなって、ローツェに登ろうと下山中に決めた」「もっとすごいものを見れるんじゃないか」「写真には見えているものしかうつらない」「クレバスぼこぼこ」「高所順応のために2〜3日滞在するといろいろ(朝日など)撮れる」「ゼリー食べすぎ」「数千円の通信費」「氷の通り路を登っていく」「6000mと8000mで体を使い果たす感が違い、8000mにしか感じられない」……。
◆通信8月号の詳細なレポートを読ませてもらい、私のツッコミまで混在している走り書きメモを見ながら、貪欲になってゆくその対象が生き方を表すのだ、と感じます。(寺本和子 愛知県あま市 以前はお台場ぐるぐるねこチームの常連)
■東京に住んで11年になる。自分史の中では和歌山の19年に次ぐ長さになった。3番目は学生時代を過ごした京都、4番目は神戸。その二つを合わせると10年。「それでそれ以外はどこにいたの?」と聞かれたら、多すぎて「あちこち」としかいいようがない。この「あちこち」というのを人に説明しするのはかなり難しく「いやあ、その、旅行してたんです」としかいいようがない。
◆バイクで海外を走っていたころは旅行が生活の真ん中にあり、日本は資金稼ぎのためにいただけだ。だから住むところは安ければよく、いつでも動けるように荷物は極力増やさないようにしていた。布団がかさばることすら嫌で、半年ぐらい寝袋で寝ていたことさえある。テレビが壊れたときは、まあなくてもいいか、としばらくそのままだったが、風呂の帰りにマンションの前に出された粗大ゴミにきれいなテレビを見つけ、ためしに持ち帰ると3か月ぐらいは見ることができた。
◆そんな半分野宿のような生活をしていても本だけは増え続け、地震が来たら本の下敷きになりそうになる。危険を感じるぐらいになると仕方ないので、時々、大胆に処分する。今回もかなり「えいっ」と減らした。残ったのは本当に残したいと思った本だけ。雑誌「野宿野郎」&かとうちあきさんの本は全巻残った。残った本は大きく分けると4種類。1、自分が書いた記事が掲載されているモノ。2、もう2度と手に入らないモノ。3、思い出の絡まっているモノ。4、単純に好きなモノ。「野宿野郎」はモロに4で、実用的な意味合いではなく、感性の近さで残った。テーマにあげている「旅・野宿・馬鹿」。特にバカの部分が単純に好きなのだ。
◆もう慣れたけど、かとうさんの第一印象は強烈だった。彼女が「野宿」という言葉のイメージをことごとく裏切るからだ。野宿が心底好きな、若い脱力系女子が世の中にいるということは、普通はなかなか想像できない。だからかネット上にあふれる彼女のインタビュー記事の多くは、はじめ僕が彼女に質問したように「野宿の定義はなんなのだ?」と自分が理解できる「カタ」にはめようとしている。
◆ところが彼女はそうやすやすとは世間の安心する「カタ」にははまってくれない。「なんでしょうね〜」とフワリとかわしたかと思うと、高校生のときに野宿しながら徒歩で日本縦断しました、と、軽く言ったりして、こちらを混乱させる。徒歩日本縦断なんて相当な「熱さ」がないとできないはずで、達成したら自慢したくなると思うのだが、彼女が自慢話をするのは聞いたことがない。野宿につながるもののすべては「好き」の延長線上にある自然ななりゆきという感じなのか、まるで力みがない。
◆それにしても最初に野宿ありきの考え方は、最初に旅ありき、と考える自分とは順番が逆だ。だからか彼女を理屈で理解しようとすると難解なアートのように分からなくなる。でも野宿という非日常の場で起こる緊張感のある出会いとか、予想外のハプニングが面白い、というのなら納得できる。そんなこんなは「野宿もん」(徳間書店)に詳しく書かれている。僕は彼女の本の中では、これが好きだ。
◆「野宿もん」は冒頭から地平線会議関係者のOさんの誕生日に野宿する話から始まる。かとうさんはOさんの身の上話をひたすら聞いて、なんかいいところを探してあげようとするのだが、Oさんの身の上話は一晩かけても、生まれてから中学生ぐらいなったころまでしか進まず、この調子だと現在にたどり着くまで、あと何回誕生日野宿すればよいのかとかとうさんは思う。
◆またあるときはお遍路をしている困ったエセ行者と同行する。エセ行者のおじさんは次々と困ったトラブルを引き起こし、傍らにいる彼女は、ふりかかるトラブルをボクサーのように際どい間合いで避け続けている。それでも彼女はおじさんを怒りも突き放しもせず、最後にはおじさんが「自称・行者のおじさん」として、これからも、なんだかんだとやっていけますように、四国という土地が、おじさんがそのままで在れる場所でありますように、と心の中で祈るのだ。まるで観音さまとか菩薩さまのようだ。
◆巻末のあたりに、自分も自分のままで認めてほしい、というニュアンスの文面がある。ある意味同類の僕にはそのへんは痛いほどわかる。べつに人が何を好きになろうと、それはその人の自由だ。さて最新本、「あたらしい野宿(上)」である。実は地平線の2次会で本人から、今度はこどもでも読める野宿の絵本を出す、という話は聞いていた。聞いてはいたが、そんな無茶な設定の本とはいかなるものなのか、想像できずにいた。
◆8月の報告会で手に入ったので、さっそく読んでみる。筋は、のじゅくん、という小学生がドラエモンみたいな寝袋型ロボットに野宿のいろいろを教えられ成長するハウツー本。野宿にまつわるマイナス要素をひとつひとつ、かとうさんにしか表現できないノリで強引にプラスに転じていく。特に「ヤンキー」に関係するネタは、身近に観察し続けてきた加藤さんならではの愛にあふれていて、なんとも面白い。のじゅくん、には、酒豪のお母さん、失業中のお父さん、家出中のお姉さん、がいて、ゲストとして「くらやみ」中野純さん。「のぐそ」伊沢正名さん。「野宿めし」「たき火」シェルパ斎藤さんが先生として登場する。なんか人脈が豪華だ。
◆ただ今までの本と違うのが、言葉の強さで、特にかとうさんの分身みたいなお姉さんの言葉には、かとうさんの本音がでているようで、ドキリとさせられる。この本には高校生のころから「野宿一筋10数年」誰に何を言われようとも(勝手な想像だけど)好きで在り続けた自信があふれている気がする。がんばれ、かとうさん。いつかは野宿御殿だ。なんだそりゃ。(坪井伸吾)
■突然ですが、草地や土手などに生えているユリ科の多年草「ノビル」をご存知でしょうか。ノビルのおいしさを教えてくれたのは、宮古島の女性たちでした。3年ほど前、宮古島で郷土食を見直す野外料理教室を見学する機会があり、その会は周囲で食べられる植物を摘むことからスタート。そのときの食材のひとつがノビルだったのです。
◆エシャロットを長く伸ばしたようなニラに似た香り豊かなノビルが食べられるとはそれまで知らず、伊豆の家の庭では“雑草”として必死に引き抜いていたので、そのときごちそうになった「ノビルと煮干の味噌焼き」は衝撃的。食べやすい長さに切ったノビルと煮干しをオリーブ油で炒め、味噌とみりんと黒糖で味つけするだけなのですが、なんとも滋味深く。ごはんにも酒の肴にも合うので、以来、繰り返し作っています。
◆その料理教室では、ノビルだけでなく「オオバコは利尿剤になるのよー」とか「長命草(ボタンボウフウ)は殺菌効果があるから刺身などのツマにいいのよ」「胃が弱っているときはやはりヨモギよね」と説明してくれながら、それらの野草を摘む女性たちの姿が印象に残りました。そしてこの夏、沖縄各地で暮らしに寄り添う薬草の活用法について聞いてまわる機会がありました。未病のために、また薬代わりに植物を利用する知恵の伝承者は、沖縄でも少なくなりつつあります。
◆十数名の人を訪ね、夏バテ予防にはこれ、擦り傷にはこれ、解熱にはこれ、とそれぞれの家庭で伝わる知恵を教えてもらったが、なかでもインパクトが強かったのが、2008年に沖縄・浜比嘉島で開催された「ちへいせん・あしびなー」でもお世話になった長濱多美子さん。おばあさんからの知恵を受け継ぎながら、現代のマンション生活に無理のないかたちで取り入れている多美子さんは、「沖縄の雑草は8割が食べられるから、2割の食べられない草を覚えておくとよいのよ」と言いながら、こちらの質問に応じて次々に薬草や野菜の乾燥&冷凍ストックを見せてくれました。
◆薬草や野菜は旬のときに大量に入手してお茶にしたり、漬け物にしたり、いつでも使えるようにストックしているとのこと。ゴーヤーひとつとっても、緑の実はすりおろしてジュース用に冷凍してストック、タネはローストして保存し、おやつ代わりにポリポリ(脂肪燃焼効果があるらしい!)、ワタはてんぷらにと捨てるところなく利用しています。ヘアートニックもアロエとシークヮーサーを泡盛に漬けた自家製……と多美子さんの自然な暮らしぶりに、私たち取材陣はすっかりノックアウトされたのでした。
◆「薬草の取材でしたが、訪ねた人の多くが日々の食事をおろそかにしがちな現代に危機感を募らせていたのも印象的。「手間をかけないことが美徳のように語られる現代の家庭で育つ子どもたちは料理に興味をもつだろうか?」「食べるために働くのに、仕事が忙しいからちゃんとした食事ができないって本末転倒じゃない?」「昔の女性は“家族が何を食べたいか”を聞いて作るのではなく、家族の様子を見ながら“今必要とされる料理”を考えて用意していたのよ」と。人は食べ物から命をもらっていて、体と心はつながっているのだというメッセージが心に残る取材でした。
◆調理師学校の先生からは、知り合いの中国人の留学生が、野菜を買うお金がないからと、沖縄の道端で野草を摘んでしのいでいたという話も聞きました。中国ではどの野草が食べられるかを学校で教わるのだとか。食べられる野草を知っていることは、旅先ではもちろん、生きていく上でのお守りになりますね。
◆先日発売された、かとうちあきさんの新刊『あたらしい野宿(上)』(亜紀書房)にも、「じぶんで調達できる食べ物たち」の紹介がありました。一読して、ちあきちゃんが力を注ぎ、時間をかけて丁寧に作ったことがよくわかるこの本、素晴らしいですね。たくさんのイラストとともに紹介される実用的なアドバイスの数々や絶妙な力の抜き加減も大きな魅力ですが、ちあきちゃんからの温かいメッセージが随所に散りばめられている!
◆いつもくよくよしている「のじゅくん」という男の子と、のじゅくんに野宿の仕方を通して、人としてのあり方や他人とのかかわり方をアドバイスする「のじゅくせんせい」との物語を通して、ちあきちゃんは現代に生きる人たちへ励ましのメッセージを送っているのだなあと思いました。宮崎駿さんが引退会見で、アニメーション作りでは一貫して「子どもたちに、この世の中は生きるに値するんだということを伝えたかった」と語っていましたが、ちあきちゃんの新刊からも同じことを感じたのでした。まわりに気を配りながら、しなやかに自分らしく楽しんで生きよと応援されているようでした。
◆ということで、結婚後、報告会へあまり参加できておらず、ごぶさたしがちですが、毎月、通信を通していろいろな刺激をいただいています。仕事は続けていますし、元気にしています。皆さん、今後ともどうぞよろしくお願いいたします。(日野和子)
■みなさ〜ん、お元気ですか。今年の夏は猛暑&豪雨の連続でしたが、みなさんはいかがお過ごしでしたか。カソリの「2013年夏の東北」は6月11日に始まり、8月13日に終わりました。その第1弾目は「福島一周」(6月11日〜6月17日)で、スズキの250ccバイク、ビッグボーイを走らせ、浜通り→中通り→会津と福島県を反時計回りで一周しました。7日間での全走行距離は1851キロでした。
◆浜通りでは、東京電力福島第一原子力発電所の爆発事故で分断された国道と県道のすべてを走り、どこが通行止め地点になっているのかを確認してきました。一番の幹線の国道6号は南側はいわき市から広野町、楢葉町と通って富岡町に入り、富岡消防署の交差点まで通行できるようになっていました。北側は南相馬市から浪江町に入り、双葉町との境まで行けます。浪江町内はすさまじい状況で、国道6号と交差する道はすべて一般車両は通行止めで入口で封鎖されていました。
◆しかし分断された浜通りのかなりの地域に自由に行けるようになったのは何ともうれしいことで、差し込んできた光を感じるような思いがしました。それを象徴するのが阿武隈山麓を通る県道35号でした。いわき市から広野町、楢葉町と通って富岡町に入ると、さらに大熊町との町境を越え、大熊町の中ほどのゲートまで行けるようになっていました。バイクに乗りながら、「おい、おい、ほんとかよ、これって!」と、驚きの声を上げたほどです。各地の放射線量が大幅に低下しているのがその理由ですが、2013年の夏の時点で一歩も入れないのは双葉町だけになりました。
◆阿武隈山地を東西に横断するルートですが、国道288号は田村市と大熊町の境、県道253号は葛尾村と浪江町の境、県道50号は葛尾村と浪江町の境、国道459号は二本松市と浪江町の境、国道114号は川俣町と浪江町の境が通行止め地点になっています。南北縦貫の国道399号は葛尾村と浪江町の境の登館峠が通行止め地点になりました。この国道399号は東京電力福島第一原子力発電所の爆発事故以降、高濃度の放射線量にもかかわらず、まったく問題なく通り抜けられたルートなのです。
◆登館峠を下った津島地区では何度となくバイクを止め、「これが日本一の放射線!」などといって思いっきり深呼吸したものです、放射線量が極めて高い頃は通行可で、低くなった今頃になって通行止めにするというのは、もう笑い話のようなものです。南相馬市から浪江町に入るルートは国道6号を除けば、県道34号、県道120号、県道255号、県道391号と、すべての県道が浪江町との境が通行止め地点になったままです。まるで浪江町をぐるりととり囲むような包囲網が築き上げられたかのような感があります。
◆第2弾目は「東北一周」(6月27日〜7月12日)です。スズキの250ccバイク、GSR250で16日間、5224キロを走りました。反時計回りでの東北一周でした。地平線通信の4月号では「3・11から2年後の東北を行く」と題して東北太平洋岸南端の鵜ノ子岬(福島)から尻屋崎(青森)までの現状をお伝えしましたが、それから4ヵ月後に、大津波発生から8度目になる「鵜ノ子岬→尻屋崎」を走りました。そのわずか4ヵ月の間で、福島県最北の新地町は劇的に変わっていました。
◆3月の時点では大津波によって壊滅状態になった海岸一帯では、何ら復興の芽を見ることができませんでした。それが7月の時点では、海岸地帯に次々とピラミッドを半切にしたような土盛りをした造成地ができているのです。まるで日本中からダンプカーが集まってきたかのようなすごさで、北海道ナンバーや鳥取ナンバーなどの県外ナンバーのダンプカーが動きまわっていました。千葉県ナンバーの真っ白な新車のダンプ数台が勢ぞろいしている光景も見ました。宮城県側に入った山元町の海岸一帯でも、「国交省 海岸工事」のゼッケンをつけたおびただしい数のダンプカーが走りまわっていました。
◆地平線会議の報告会で、大津波の被害を生々しく語ってくれた相沢さん親子の閖上(宮城県名取市)は、その反対に復興が遅々として進んでいないようでした。住民のみなさんの気持ちがなかなかまとまらないのが大きな理由のようです。名取川河口の閖上は震災前まではにぎわった漁港で、「閖上朝市」で知られていました。高さ20メートル超の大津波に襲われた閖上はまるで絨毯爆撃をくらったかのようで、町は全壊し、ここだけで1000人近い犠牲者を出しています。
◆瓦礫はすでに撤去され、町跡には何も残っていません。港近くの日和山に登り、無人の広野と化した閖上を一望するのでした。日和山というのは日和待ちの船乗りが日和見をするために登る港近くの小山のことで、東北では酒田や石巻の日和山がよく知られています。日和山があるということは、閖上も古くから栄えた港町だったことを証明しているのです。
◆もともと「日和山富士」とか「閖上富士」といわれた日和山には、日和山富士主姫神社がまつられていました。大津波は日和山をも飲み込んだので、日和山富士主姫神社は流され、日和山から600メートルほど北にあった閖上湊神社も流されました。この両神社は閖上のみなさんにとっては心の故郷。ということで日和山に両神社の2本の神籬が立てられたのです。そこに今回、新しく両神社の祠が建てられました。木の香がまだプンプン漂ってくるような祠でした。
◆石巻漁港も復興が大きく遅れたところですが、ここへきて一気に復興が進んでいます。漁港の岸壁が修復され、仮設の魚市場ができ、なんともうれしいことに市場食堂の「斎太郎食堂」も営業を再開していました。瓦礫が散乱し、荒れ放題だった漁港の周辺には、次々に水産加工の工場が完成しています。同じ石巻市内では、悲劇の大川小学校の校舎はまだ残っていましたが、生徒全員が助かった奇跡の相川小学校の校舎はすでに取り壊されていました。
◆雄勝の公民館の屋根に乗り上げた大型バスはすでに撤去されていましたが、その公民館も取り壊され、跡形も残っていません。雄勝湾奥の雄勝の町はまったく見捨てられたかのようで、復興のカケラも見られませんでした。気仙沼に乗り上げた大型漁船「第18共徳丸」(330トン)は保存か撤去かで大もめにもめましたが、結局、船主の意向通り、撤去されることになりました。大津波のシンボル的な「爪痕」は次々に消え去り、今ではもうほとんど残っていないのが現状です。
◆岩手県に入ると、陸前高田の復元された「奇跡の一本松」には大勢の観光客が押し寄せていました。ここも残す残さないで町を二分する議論が起きましたが、この現状を見ると、「残ってよかった!」とぼくは思うのでした。大船渡の漁港には見違えるほどの活気が戻っていました。漁港に隣接した観光施設も完成に近づいていました。
◆釜石市の鵜住居は同市最大の被災地です。ここだけで1000人もの犠牲者を出しています。悲劇だったのは、津波の避難訓練に使われていた鵜住居地区防災センターに避難した200人近い人たちが亡くなったことです。廃墟と化した町並みの中にポツンと残っている防災センターは取り壊されることになりました。
◆釜石市の鵜住居から峠の短いトンネルを抜けると大槌町です。ここでは、地震発生時、町役場前で防災会議を開いた当時の町長や町役場の職員40人が亡くなるなど1300人が犠牲になっています。町役場はまだ残っていますが、「平成三陸大津波」のメモリアルとして残そうという意見と、「もう見るのもいやだ、すぐに撤去して欲しい」という意見に割れ、ここでも町を二分しました。その結果、一部を残すことに決まったとのことです。
◆町としては広島の「原爆ドーム」をイメージしているようです。大槌の町中には1344人の犠牲者を悼む「慰霊1344広場」ができていました。そんな大槌町の北隣りが山田町です。ここも大津波に襲われて大きな被害を受け、700人以上の犠牲者が出ています。鵜住居、大槌、山田と、三陸海岸のこの狭いエリアだけで何と3000人以上もの多くの命が奪われているのです。想像を絶する数字です。鵜住居から山田まではわずか20キロ。バイクで走れば30分もかからない距離なのです。
◆宮城県の気仙沼から青森県の八戸までの三陸海岸が「三陸復興国立公園」になりました。それを祝って新しい国立公園の看板があちこちに立ち始めています。宮古では宮古漁港の一角にある道の駅「みやこ」の「シートピアなあど」が7月6日にオープンしました。巨大防潮堤4本のうち2本が破壊され、町が全壊した田老では季節外れの鯉のぼりを上げている人たちがいました。ところがそれは鯉のぼりではなく、「鮭のぼり」でした。田老はかつては東北でも一番、サケの遡上するところだったといいます。田老の復興の願い、想いをサケにたくした「「さけ幟り」の会のみなさん方でした。
◆第3弾目は「林道編・東北一周」(8月7日〜8月13日)です。スズキの250ccバイク、ビッグボーイで7日間、2602キロを走りました。「東京〜青森」間を林道経由で往復したのですが、往路編では10本の林道、復路編では9本の林道を走りました。19本の林道のダート距離の合計は303.2キロになりました。お洒落な街乗りバイクで定評のあるビッグボーイですが、20キロ超、30キロ超のロングダートをものともせずに走ってくれたのです。
◆「林道編・東北一周」では大雨に泣かされました。空が抜け落ちるかのような豪雨をついて林道を走っていると、いいようのない不安にかられてしまいますが、無事に走り抜けられてほんとうにホッとしています。この豪雨で岩手県内では東北道(花巻〜紫波間)が通行止めになりました。そのときの東北道沿いの一般道(県道13号)の大渋滞は、それはすさまじいものでした。秋田県内では大河、米代川が大氾濫し、流域は一面水浸しになりました。田沢湖の東側、国道341号沿いの先達の集落は大規模な土石流に見舞われ、何人もの方々が亡くなりました。国道はまったく普通に走れましたが、そのすぐ脇の先達の集落は自衛隊や警察、消防の車両で埋め尽くされ、騒然としていました。
◆このようなカソリの「2013年夏の東北行」でしたが、30日間で9681キロを走りました。東日本大震災2年目の「鵜ノ子岬〜尻屋崎往復」(3月8日〜3月18日)の3670キロを合わせると、全走行距離は1万3351キロになります。10月には再度、「福島一周」を走りますので、最終的には1万5000キロ超になります。そのあとは46年ぶりとなる「アフリカ大陸縦断」に旅立ちます。「アフリカ大陸縦断」は我が旅人生の原点なのです。(賀曽利隆)
■地平線通信412号(8月号)は、8月14日に印刷、封入作業を終え、翌15日メール便で発送しました。作業に馳せ参じてくれたのは、以下の皆さんです。ありがとうございました。猛暑の中、来てくれたこと心底ありがたかったです。
武田力 森井祐介 岡朝子 三五千恵子 前田庄司 加藤千晶 坂出英俊 江本嘉伸 石原玲 杉山貴章 落合大祐
■「防災の日」の9月1日、モンベル品川店で「東日本大震災と防潮堤計画 未来の海辺になにを残すか」という集まりが開かれた。公益財団法人日本自然保護協会とNPO法人「森は海の恋人」の共催。第1部「対談(畠山重篤、長沼毅)」 第2部「防潮堤徹底講座(九州大学大学院准教授、清野聡子)」第3部「若い世代の主張」というラインアップだった。
◆詳しいレポートする紙数はないが、防潮堤という巨大な人工構造物で海岸線を固めてしまおうという考えがいかに誤っているか、さまざまな事例で話された。会場には250人が詰めかけ補助椅子を追加して座るという熱気だった。
◆気仙沼市鹿折(ししおり)に巨体をさらしていた乗り上げ船「第18共徳丸」の解体作業がついに始まった。市側は震災遺構として保存を考えたが、市民の7割が反対した、と聞く。南三陸町の防災庁舎も取り壊しが決まっているとされ、いずれ被災地は津波の跡形もない、平穏な姿に戻るのだろう。
◆「うしろの車両のドアが開きません。お降りの際は前の車両の一番前のドアからお降りください」。この夏、富山地鉄の素朴な電車に2回乗る機会があった。無人駅が多く、試しに降りてみると、まさに野宿野郎にうってつけの駅舎。地方鉄道駅舎泊の旅、意外にいいかも。あ、皆とっくにやってる?
◆河田真智子写真集「生きる喜び」是非手にしてみてください。とはいえ、書店販売ではないので、詳しくは27日の報告会場で。おだやかな文章と写真。美しい一冊です。(江本嘉伸)
島とショーガイとフクシマ
「少数派を切り捨てると、表面的にはうまくいっているように見えるのよねー」と言うのは島旅作家で写真家の河田真智子さん(60)。34才の時に授かった一人娘の夏帆(なつほ)さんは、生後すぐの病で重度の知的身体的障害を負いました。「娘が5才の時に車イスの彼女を連れて奄美大島に行ったの。それまでの3倍ゆっくり動かなきゃならないけど夏帆のおかげで出会える人も増え、見えるものも3倍増えたね」と真智子さん。 一方で障害者をとり巻く社会の厳しい現実や差別にも直面してきました。そんな時、真智子さんが思い出すのはマーシャル諸島の絶海の孤島、キリです。水爆実験のためにビキニ環礁の生まれ島から強制移住させられた島民は社会から見えないところに切り捨てられたのです。「フクシマも同じに感じるけど、障害者の現場も相当ブラックよー」。 今月は河田さんに夏帆さんと歩いてきた26年の旅から見えてきたことを語って頂きます。 |
地平線通信 413号
制作:地平線通信制作室/編集長:江本嘉伸/レイアウト:森井祐介/イラスト:長野亮之介/編集制作スタッフ:丸山純 武田力 中島菊代 大西夏奈子 落合大祐 加藤千晶
印刷:地平線印刷局榎町分室
地平線Webサイト:http://www.chiheisen.net/
発行:2013年9月11日 地平線会議
〒160-0007 東京都新宿区荒木町3-23-201 江本嘉伸方
地平線ポスト宛先
pea03131@nifty.ne.jp
Fax 03-3359-7907 (江本)
◆通信費(2000円)払い込みは郵便振替(料金が120円かかります)、または報告会の受付でどうぞ。
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議
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