8月14日。先月の通信も「猛暑」のことから書き出したが、今月はそれが強調された。41℃という日本の史上最高気温が、ついにおととい記録されたのだ。それもあの四万十市で。「ドライヤーで吹き付けられている感じ」らしい。早くも「日本一暑い町」として地元は売り込みを始めたとか。熊谷がくやしがっているだろう。
◆四万十といえば、農大探検部の超元気な学生時代から知っているあの山田高司がいる。南米三大河川をカヌーでたどり、アフリカで植林活動を長く続け、最後に故郷四万十に帰って山仕事や自然学校の仕事をしている。四万十川を源流から太平洋まで196キロをくだる旅も、山田高司と仲間たちのおかげで、故原健次さんたちと2回も参加できた。(太平洋の岸辺にたどり着いたところで波にやられて見事に「沈」、メガネを流されたその瞬間の間抜けな表情がウェブサイトに載ってしまった。汗)早速、9ページに最新状況を書いてもらった。
◆世界水泳に次いで陸上世界選手権、そして甲子園の高校野球、今夜のサッカー・ウルグアイ戦、など猛暑の夏の割に多彩なスポーツの季節だ。競技スポーツに縁はないのだが、なぜか実況中継されるアスリートたちの戦いぶりには深夜でも真剣に見入ってしまう。昨夜は断然、イシンバエワだ。
◆2004年アテネ五輪、08年北京五輪で2連覇し、09年に女性世界記録「5メートル06」をマークしたロシアの女王。31才。1年前のロンドン五輪では銅メダルに終わり、つい最近も引退が取りざたされたばかりだったが、4メートル87をただひとりクリヤー、ロンドン金メダルのアメリカのジェニファー・サーらを押さえて見事優勝した。その瞬間の喜びようはすごかった。美しい女王があんなにはしゃぐのか、と思うほどの爆発ぶり。5メートル07の世界新挑戦は成功しなかったが、祭りにふさわしい風景だった。
◆棒高跳びは「pole vault」と言う。主として手をついて、または長い棒を用いて跳躍する、ことで、もともと川や垣根を長い棒を用いて飛び越える技くらべから生まれたスポーツ。年寄の世代にとっては1964年の東京オリンピックでの“死闘”が語りぐさだ。
◆18人のボールター(ジャンパーとは言わない)が一人ずつ脱落し、競技開始4時間あまり経って最後にアメリカのフレッド・ハンセン、西ドイツ(当時は東西ドイツに分かれていた)のヴォルフガング・ラインハルトの2人が残った。この2人がさらに5時間半もの死闘を続け、結局、5メートル10をクリヤーしたハンセンが9時間に及んだ長い戦いを制した。
◆刺激を受けやすいたちなので、昨夜、といってもきょう午前零時過ぎ、レイアウトを引き受けてくれている森井祐介さん宅へジョギングで出かけた。昼間森井さんが我が家に自転車で届けてくれたこの通信のゲラに赤を入れ、返しに行ったのだ。30℃は下回っていたが、年寄りが真夜中に走って倒れたりしたら何を言われるかわからないので、思い切りゆっくりペース。意外に快適な深夜ジョギングだった。が……。
◆帰路、大久保通りを横断するところで、わ、わ、わ!と急ブレーキ。なんと、イタチかハクビシンかヌートリアか、なんだかわからない野生の生き物を発見してしまったのだ。相手はこちらを見て、次の瞬間、つ、つ、と道路を横断して暗闇に消えた。すぐ追っかけたが、敵の動きは素早かった。一体、あんな見事な生き物がどうしてこんな都心に? 考え出すとナゾは深まるばかり。今月は、明日15日の終戦記念日についての考察を粛々と述べる予定だったが、イシンバエバと、このいたちもどきの出現に圧倒されてしまい、後日に延期。
◆フェイスブックをうまく使えないでいる私に時に親切な何人かの友が大事な情報を教えてくれる。たとえば、オーストラリアにいるシール・エミコさんが最近、プロフィール写真を変更したこと。のぞいてびっくり。おーおー、いつの間にこんな可愛いわんこがいるのか!早速、感想を書くとすぐメールあり。「江本さん、そうなんです♪ 近況です♪♪むぎちゃん兄弟みたいなマルチーズのオリバーくんがうちにやってきました!!」と。確かに写真は麦丸に目のあたりがよく似ていて可愛い。
◆エミコさん、体調さすがに万全とは言えず、最近は落ち込み気味だったようだ。それがわんこの出現で変わった。「足の麻痺と腰(骨盤尾てい骨切除)の痛みで手術から1年たっても車イスと杖の生活。薬も効かなくなり、心と体と魂のバランス崩して笑顔が消えかけたときオリバー君がきてくれてました。脳疾患とてんかん持ちというアニマルシェルター出身の子ですが気が優しくてかわいくて、ん〜もうかわいくてかわいくてしかたがない…。(笑)。生きる活力が再び湧いてきましたよ〜!ワンコサイコー! 今とっても幸せです」聞いて私も幸せになった。オリバー、エミコとともにあれ!(江本嘉伸)
■今回の報告者は、2011年春から今春にかけて、エベレスト、マナスル、ローツェというヒマラヤの8000m峰に次々と登頂した石川直樹さん。久しぶりに登場した石川さんは、日に焼けてくっきりとした表情で、相変わらずのすらっとした体型に白いTシャツ姿。「先月も来ました」みたいな感じでフラッと現れると、すっと会場の空気に馴染んだ。今月も後ろの壁いっぱいに写真や映像を映し出しての報告だ。
【2001春エベレスト】
◆石川さんのヒマラヤ通いのきっかけとなったのは、2001年春のエベレスト遠征だ。その頃、北極から南極までを人力で踏破した「Pole to Pole」の旅を終え、7大陸最高峰のうち6座を既に登頂していた石川さんは、最後の1座のエベレストに登るべくラッセル・ブライス氏の率いる国際公募登山隊、ヒマラヤン・エクスペリエンス隊(以下、HIMEX隊)に初参加した。当時はチベット側からのアプローチ。映像には、いまより少しだけあどけない表情の石川さんとジョカンやロンボク寺の風景から、登山の安全を祈願するプジャの様子、荷を運ぶヤク、ABCからC1、C2、C3を経て頂上へ向かう様子が次々と映る。
◆なかでも驚かされたのは、先に登頂した仲間のフランス人スノーボーダー、マルコ・シフレディが頂上直下から滑降するシーンだ。頂上に向かって何人もの登山者が列をなす脇で、少し滑っては休息を挟みながら、しかし確実に滑り降りるマルコの姿!! 「このときの彼は本当にすごかった。神憑っていた」と石川さん。地平線報告会で初めて流される貴重な映像だった。石川さんによると、マルコはこの際、6400mのABCまで無事に滑り終えたけれど、ボードをシェルパに担がせたと批判を受けたために数年後に再挑戦し、そのまま行方不明になってしまったという。
◆マルコを見送ってから石川さんも頂上へ。当時の表情を見ると、高度障害のために顔がむくんでいて辛そう。「長かった。やっと着きました」と息を切らせてコメントしている。
【2011春エベレスト】
◆そして2011年春、石川さんは10年ぶりに今度はネパール側からエベレストの頂きに立った。石川さんはこの2度のエベレスト遠征を振り返り、「2001年当時のラッセルはマッチョで厳しいタクティクスを敷いていた」と話す。当時は高度順応のためにチベット側のABCに2週間以上も滞在しており、「頭がガンガンして眠れず、すごく辛かった」と言う。その後、中国の規制でチベット側からの登山が困難になったためHIMEX隊はネパール側に拠点を移し、現在は6200mほどのロブチェピークに登って順応するようになった。その手順は、まず一回ピークに登ってすぐに下り、少し時間を空けてから再びピークに登って2泊ほどして戻る行程だ。2001年は標高7900mで寝るときから初めて使用していた酸素ボンベも、いまは7300mで寝るときから使っている。登頂までのタクティクスはより効率的になった印象があるという。
◆この「再びのエベレスト」に私は当初、意外な印象を受けた。だって、石川さんはマッチョな登山家タイプではないし、この10年間に写真家として物書きとして新たな地平を切り開き続けてきたように思えるのに「なんでまた?」って。だけど、エベレストに関しては旅の記録を写真集などにまとめていなかったからというのが動機だったようだ。
◆「どうにかしてまとめたいが、10年前の登山についてまとめても仕方ないし、写真フィルムのタイプやフォーマットも、いま使っているものとは違う。じゃあもう一回行くしかないでしょ、っていうことで行くことにした」そうして“いまでしょ!?”的に登ってみたら、また違う思いが沸き上がってきたのだそう。
◆「エベレストの頂上から最終キャンプのサウスコルに下るまでずっとローツェが見えていたんです。ああ、なんかすげえ山だなと思いながら下っていて、あっちの山からエベレストを見たらどう見えるんだろうと思った。チベット側からもネパール側からも見たけど、同じくらいの高さのローツェから見たらけっこう面白いんじゃないかと。自分の中に区切りをつけるために登っていたので、ここで区切ってもよかったが、もっとしつこく撮ったり取材したりしたほうがいいんじゃねーかと思って、下山している最中にローツェに行くことを決めた」
◆そう語って石川さんが映し出したのは、“影エベレスト”の写真だ。薄紫から薄い桃色のグラデーションに染まる明け方の空。その下の雲海に、正三角形にも近い、きりっとしたエベレストの影がうつる。そのときにエベレストの頂上付近にいた者だけが見ることのできる幻のような風景で、ほんの少しの気象条件が違ったら、体力的な余裕がなかったら決して撮れない奇跡的な一枚だ。
◆「こういう景色を見るとすごくびっくりするし、酸欠でフワフワした中でこういう風景を見て痺れたというか、スッゲーなこれ、という感覚になって、それが忘れられない。もうちょっといろんなことを見られるんじゃないかという思いもあった」
【2012春ローツェ】
◆ところが、そうして挑んだ2012年春のローツェは最悪のコンディションだった。圧倒的に雪が少なく、落石が多い。そのため、荷揚げするシェルパにけが人が続出し、ラッセルとシェルパ、登山者メンバーで話し合った結果、登山隊はローツェから撤退することに決めた。予定より早く終わってしまった遠征に石川さんは「欲求不満になって」、ダージリンやムスタンを旅する一方、その秋のマナスル遠征に参加することを決意する。
◆「あくまでもエベレストをいろんな角度から撮りたい、知りたいという気持ちでやっていたプロジェクトだったので、エベレストから少し離れているマナスルに登るつもりは元々なかったが、ダージリンやムスタンを訪れるうちに、もっと違うヒマラヤの山を知りたいと思った。しかも『ローツェは途中で撤退してしまったから割引でいいよ』なんてラッセルに言われて、『そっかー』と思ってマナスルに行くことにした」この軽やかさ。端から見ると、「ハッピーマンデーでビール半額だから飲みに行こうぜ」って誘われたときくらいのノリで石川さんはヒマラヤに出かけていく。
【2012秋マナスル】
◆2012年秋のマナスル遠征の記録は、ヘリコプターでサマ村に入る映像から。粗末なあばら屋にカゴを背負って歩く女性、マニ車を回す女性たち、夕日に染まるマナスルのぴょこっと突き出したピーク、タルチョがはためくBCには荷を入れた青いドラム缶、テント内の白い枕、真っ赤なゼリーとキッチンテントにかけられた柱時計……。そんな中に、バレーボールをするシェルパの映像があった。片方は揃いの灰色のユニフォーム、もう一方は黄色を身につけ、かけ声とともにボールが左右のコートを行き来する。ここが街中ならば、なんの変哲もないバレーボールの風景だが、実はコートが作られているのは標高4800mのBC。そこでフツーにバレーボールをしていること自体が驚異的だ。
◆「登山者はみな血眼になって頂を目指して命がけで気合いをもっていくが、サポートするシェルパは気負いなく山に入っている。BCに着いた直後なんて僕はヘロヘロで動く気力もないのに、シェルパたちは延々試合をしている。さらに荷揚げやルート工作をして下りてきてからバレーをするシェルパたちを見ながら僕は、これなんだなとすごく思った。こいつら本当にかっこいいなと思う」
◆自分がヒマラヤに通うのは山の頂きに立ちたいというよりシェルパに興味があるからなのだ、と石川さんは言う。だからなのだろうか、頂上の映像を見るといつもあっさりとしたコメントしかしていない。「頂上に着きました。さっさと帰ります」「いま頂上にいます。これから帰ります」「頂上にいます。これから下ります」……。もちろん、だらだらと滞在していては生死に関わってくるという事情があるのだろうが、登頂が一番の目的ではない石川さんにとって、そこは旅の中のひとつのシーンにすぎないという部分もあるのではないかと感じた。
◆マナスルの映像は、頂上アタックへ向けてC1、C2、C3へと歩を進めていく。その最中の、青い空とキラキラ光る雪面、綿菓子のような雲海に山々の頂きがぽこぽこと飛び出す様。その絶景。石川さんの視線を追体験するように、私たちもすっかりその眼福にあずかった。
◆そして、世界がピンクに染まる明け方に頂上アタックを開始。下から見えているマナスルの“認定ピーク”とされるところに立ち、さらに少し高いところにあるという“本当のピーク”に立った。その「認定」から「ほんまもん」までの道のりがまた、ちょっとすごかった。撮影する角度のせいなのだろうか、脇の切り立った斜面は70、80度の傾斜にも見え、細く、踏み固められていない雪の稜線は見ているだけでハラハラする危うさを孕んでいる。そして、立つこともできないくらいの狭くもろい頂上で、頭上に輝く太陽の、これ以上ないくらいの光の強さ。今回の報告会ではこれらの映像と、なんといっても写真の強さが際立って、それらを見られただけでも来て得をしたなと思った人が多かったと思う。
◆ちなみに、石川さんはこの10年ほど、プラウベルマキナという中判のカメラを撮影に使っているそう。二次会で見せてもらったその無骨なカメラは、手にしてみると思ったよりもずっと大きくて重かった。レンズ部分が折り畳める蛇腹式のレンジファインダーというやつで、ファインダーを覗き込んで二重の像を手動で重ねてピントを合わせるのだけど、高所でこれを何十回、何百回もやっているのかと思うと、ちょっと途方もない気持ちになる。息をするだけでもしんどいような高所にごついカメラを担いでいって、懐に何本もしのばせたフィルムをときどき交換しつつ撮影を続ける。もちろんそのために行っているのだろうけど、尋常でない精神力を要求されるはずだ。
【2013春ローツェ】
◆この春、石川さんは再びローツェを目指した。3月末にカトマンズを出発し、ルクラからヒマラヤ街道へ。その道中の写真の中に、クムジュン村の近くにある「クンブー・クライミングスクール」の外観があった。かつては見よう見まねで習得していた登山技術を教えるシェルパのための学校だといい、実際にアイスクライミングの練習をしている生徒たちの姿も。また、登山中の写真の中には、アイスホールに梯子をかけたりメンテナンスしたりする“アイスホールドクター”たちや、エベレストに20回近くも登頂しているというHIMEX隊随一のシェルパ、プルバ・タシやキッチン担当シェルパの写真もあった。石川さんはいつかプルバにロングインタビューをしたいと話していて、きっと近い将来に公募隊を支えるシェルパたちの物語が紡がれるであろうことも楽しみだ。
◆さて、登山隊はプジャを行い、BCからC1、C2へ。ローツェとエベレスト登山ではC2まで同じ道筋を辿り、その先のローツェフェイスの途中で行き先が分かれるそうだ。その後、C3を経て標高8000mくらいの最終キャンプ(C4)。ここから撮った写真の中のエベレストは威厳たっぷりの山だった。群青色よりも青いヒマラヤの空に大きな黒い山肌。堂々としたその表情は簡単には人を寄せ付けない雰囲気なんだけど、でも、でも、やっぱり……かっこいい! 今回、いろんな時間帯にいろんな角度から撮ったエベレストの写真を見せてもらったけれど、本当にそれぞれに違った表情を見せてくれた。
◆ところで、やや余談めくが、このC4やエベレストの最終キャンプであるサウスコルは、石川さんにとって「全然落ち着けない嫌な場所」なんだそう。「みんな、なりふり構わない。トイレとかも普通は隠してやるが、女性でもお尻丸出しでしていたりする。自分のことだけに必死になっちゃって、人間のいろんなものがむき出しになっちゃっている恐ろしい場所。一刻も早く登るか下りるかしたい」
◆そう語る石川さんは、まだ余裕があったのだろう。そういえば、2回目のエベレストからマナスル、ローツェの登頂前のどの映像を見てもすっきりとした顔で、高所順応がうまくいっていたことを伺わせる。ローツェにしてもエベレストにしても石川さんが特に重要視しているのが順応で、「ノーマルルートで高所順応がきちんとできていれば、ほとんど誰でも登れると思う」とさえ話す。
◆最後はローツェ・クーロワールと呼ばれるところだ。左右が岩の壁のようになっていて、それが頂上まで続いているという。場所によって広くなったり狭くなったりする、その溝の部分を歩いていく。「短いかなと思ったら長くて、クーロワールの(頂上側の)出口から風が来ていた。その風に雪の欠片が混じっていて光って見える。風の入り口に行こうと思って立つとまた違う入り口があって、風の入り口を求めてずっと行くような感じでした。僕はなんか無心になっていて、ほとんど写真も撮らずに頂上間近に来てしまった。取り憑かれたみたいに進んでいた。あの感覚は言葉で説明しにくいが楽しかった、すごく」
◆言葉から満足感がにじみ出るようだ。この数年のヒマラヤ登山を通して、きっと8000m峰でしか味わえない恍惚や充足感を経験したのだろうと想像する。また、石川さんはこんな風にも言っている。「ヒマラヤでは体を使い果たすような感覚があって、それが独特だなあと思います。エベレストもマナスルもローツェも空っぽになる感じがあった。明日動くために食事をし、早く深く呼吸をすることを心がけて体のメンテナンスをしながら行く。これだけ意識的に呼吸したり食事をしたりすることは普段はなくて、2カ月くらいして登って帰ってくると体が生まれ変わるような感覚があって、ちょっとやみつきになってしまうようなところがあるんです」
◆10月には再びヒマラヤに赴き、アマダブラム(標高約6800m)遠征に参加するそうだ。エベレストを見るための旅は完結したはずなのに、「ヒマラヤは本当に面白い」と目を輝かせて次の登山の計画をする石川さんは、すっかりヒマラヤ中毒になっているか、何かに取り憑かれているみたいだ。なんだか、ちょっと羨ましい。ともあれ、そうして歩き、突き進んだ先の高みから石川さんだけが見ることのできた景色を、また私たちに見せてほしいと思う。(菊地由美子)
久々に地平線会議で話をした。15年以上前、学生時代にはじめて報告会に参加して以来、何度か話をさせてもらったが、あの頃から地平線会議は何も変わっていない。いつものように、バタバタと映像の準備をし、入口付近では物販の準備がのんびりと進む。開始時刻のだいぶ前からいらっしゃる方もいれば、始まってからやってくる人もいて、気付けば後ろのほうまで人がいた。
ぼくのホームページで告知を行ったのが、報告会前日の夜22時過ぎというあまりにも遅すぎる時間だったことにも関わらず、本当にたくさんの人が駆けつけてくれた。中には大分から来てくれた方もいて、ありがたい。見慣れた顔が点在していて、懐かしい。
報告会の様子は、菊地由美子さんが軽やかな筆致で書いてくれたとおりだ。これ以上でもこれ以下でもなく、ぼくが付け加えることは何もないほどに、まとまっている。報告会の後は皆でぞろぞろと夜の早稲田界隈を歩き、駅前の「北京」で二次会をして、野宿野郎たちに見送られながら、解散。いやはや、徹頭徹尾、何も変わっていなかった。
このどっしりとした存在感には、目を見張るばかりである。次に地平線会議で話せるような旅ができるのは、いつになるだろう。みなさん、ありがとうございました。
■411回の報告会に出席した。「エベレストを隣の山から同じ目線でちゃんと撮りたいんです。誰もが知った気になっている既存のイメージを写真でひっぺがしたい」、「昔とはずいぶん変わってきたシェルパ族の今の姿を記録するのも同じ発想かな」という石川氏の狙いに関して興味津々だったし、そして何よりも『欲望の天嶮』という強烈なタイトルが胸にグッサリ刺さってしまったからだ。山は高ければ高いほど聖地とみなされ、人々の崇敬の念を集めるけれど、最高峰ゆえに世界中の人間の“カルマ(業)”を引き寄せてしまうのも、「チョモランマ」の、そして「サガルマータ」の、いやあえて言わば世界に冠たる「エベレスト」の宿命なのだろう。
◆勤め先からの遅れ気味の参加だったため既に報告会は始まっていた。出席名簿に記入していると、背後からゴウゴウと吹きつける風の音に紛れて上気した男の声が聞こえてくる。思わず振り向くと白い壁を引き裂く青い閃光──。虚空を疾駆する気流、真白に照り映える雪氷、黒々とした重厚な岩壁、それぞれの匂いや空気感まで伝わってきそうな映像に、思わず魅入ってしまった。
◆どの写真も映像も石川氏しかモノにできない貴重なものばかりだったが、中でも個人的に感じ入ってしまったのが「この道の先を右に行けば『ローツェ』、左に進めば『エベレスト』の山頂」という分岐ルートのショット。自分は山に関してはド素人だから、世界にはこんなに凄い“ビジョン” =天界への道があるものなのか、と素直に感銘を受けてしまった。率直に「この場所に立ちたい!」と。
◆僕はキリマンジャロには登ったことはあるけれど(ドラムセット一式という“お荷物”付きだったが〈笑い〉)、8千メートルを越える世界がどういうものかは、もう想像の埒外だ。そんな高峰に通暁している石川氏でさえシャッターを押し忘れてしまうような奇跡の光景との出会いもあったという。そうした純粋なリアリティーの積み重ねを昇華させたビジョンの数々を我々に届けてくれることが石川氏の真骨頂だろう。
◆変化を遂げつつあるヒマラヤ登山の現状も伝わってきた。確かに現地の受け入れ体制も整い、登山のノウハウが高度にシステム化され、装備も驚くほど進化している。そのため石川氏は「高度順応さえ順調なら誰でもエベレスト登頂は可能になった」と言っていた。以前に聞いたことがあるのだが、山屋さん達の間では「宝珠は龍が護っている」と言われるそうだ。
◆宝珠は山頂、龍は頂を目指す登山者を見舞う雪崩や、アイスフォール・クレバスなどで起こる事故といった自然の脅威の象徴だ。条件的に普遍化することでさらに多くの挑戦者を惹きつけることになったヒマラヤの山嶺だが、そこにはまだまだ強大な龍たちが潜んでいることを写真と映像が雄弁に物語っていたと思う。そんな龍たちを呼び覚ますのが、人間の邪まで独善的な欲望やカルマではないことを切に祈る。
◆「“水平”から“垂直”までいろいろな旅をしてきましたが、8千メートル峰の登山は全身の体力を使い果たす快感があるんです」(石川氏)。こんな言葉を聞いてしまうと、やるせなく胸の奧が騒いでしまう。僕は探検家や冒険家になりたいと思ったことはなかったけれど、悪ガキの頃から昭和の高度成長期にどんどんゴチャゴチャしていく街並の地平線を見つめながら、「あの向こう側にはきっと見たこともない世界があるんだろうな」といつも憧れていた。
◆でも一日中自転車を駆っても、夕暮れに路に迷うばかりで“すごい世界”には辿り着けなかった。歳を喰っていっぱしになってからも、世間様並みの分別と落ち着きが足りなかったおかげで、幸いにも見たかった“すごい世界”の幾つかに出会うことができた。しかし身体機能が自分の思うにまかせなくなってしまった今、水平、垂直、遠方、近傍に関わりなく“ここではない、どこかへ”行こうと欲する遙々とした「意志の力」が、まだオレの胸には宿っているのか。会場の壁面に次々と映し出される刺激的なビジョンを強く睨めつけ、興奮でかすかに震え始めた両膝をギュッと握り締めながら、そんなことを想い続けていた。
[追伸]今回寄稿をすすめてくれた江本御大の指示で近況を一筆。この6月から勤め人、始めました。真っ当な会社員になったのはほぼ人生初(笑い)。もうやりたい仕事が自分で作れなくなったし、何より他人様の御都合に振り回されるフリー稼業ではこの先身体が持たないな、と判断したのが主な理由。悲しいけどこれ現実なのよね。おかげで早寝早起きの健康的な生活を送っております。五十路の就活は苦労が予想されたものの、あっけなく決まってしまって拍子抜けでした。勤務先は新宿三井ビルでしたが、デカイ本社の堅っ苦しい雰囲気と通勤地獄に嫌気がさし、実戦部隊(府中の事業所)への転属を出願。仕事は商品解説書やパンフレットの編集制作のはずだったんですけど、実際にはDTPソフトを使ったグラフィック・デザイン! 自分は元々編集者で、Gデザインのキャリアはからっきし無し。一般の人にはこの職能の違いが分からんのですよねぇ。とりあえずいろいろこなす便利屋として重宝がられてはいる模様。しかし一部上場企業のパンフやWEBサイトのビジュアルデザインを視覚障害者が担当するなんて「冗談ではない!」と思うのだけれど……。(三五康司 杉並区)
★三五君は、長野亮之介画伯不在の折、しばしばピンチヒッターをやってくれた“地平線影武者イラストレーター”。27才だった1989年4月の地平線報告会で「アフリカンブラザーズの大冒険」としてドラマーの野中悟空さんとキリマンジャロのてっぺんでドラムを叩いた体験を語った。3年前、脳出血で倒れ、左半身麻痺、視覚障害の身ながら、新たな仕事に挑戦していた。(E)
■8月6日からウランバートルに来ています。昼間の気温は20度前後、朝晩は10度以下。今日11日はだいぶ涼しくなり、空も高くなりました。もう秋です。標高1300メートルの強い日差しには、目に痛いくらいの派手な色が似合います。街行く人達の蛍光色の洋服、建物の原色。オレンジ、ピンク、イエロー、ブルー、グリーン、鮮やかな色が街中にあふれていて夏空によく映える。それだけでなんだかもう血が騒ぎます!
◆メインストリートの平和大通りはきれいに舗装され、歩道には草木や花が植えられていて驚きました。スフバータル広場にも、花で作った巨大なおまんじゅうのオブジェがどんと飾られていて斬新!と思いましたが、よく見たらゲルの形でした。
◆こちらでは今まで知り合ったモンゴル人達と連日会っています。郊外のゲル地区に住む若い家族。アメリカ外資系企業で働き、中心部の高級マンションに住む家族。モンゴル西端の田舎から出てきて「成功を夢見て事業の失敗を重ねてる。でも絶対的な自信がある!」と野心むき出しの青年。遊牧民やマンホールアダルトとも会う予定です。
◆嬉しいことに、モンゴル人と一緒にいると「儀式」によく出くわします。昨日は子どもの断髪式に参加させてもらい、数え年で3歳になった男の子の髪にハサミを入れました。生涯一度の重要な日で、男の子も女の子も丸坊主になります。嬉しくないことに、スリにもよく出くわします。後ろからそっと近づいて、リュックを背中から引きはがそうとするから気が抜けません。昔と違うのは、スリの身なりがきれいなこと。ぱっと見てもそうだとわかりませんが、現行犯でケリを入れます。
◆元旦ぶりに会った友達のターニャは、3人目の赤ちゃんが生まれていました。赤ちゃんは「 暴れなくて安全だし、温かいし、手足の骨がまっすぐになるから」と布でぴっちりくるまれ、のり巻きみたいになって寝ています。起きている時はおしゃぶり代わりに羊のしっぽを口にくわえて、ちゅぱちゅぱしています。どちらもモンゴルの伝統だそうです。
◆今回ターニャに頼まれて、日本から色々な品物を運んできました。折りたたみ式ベビーベッド、赤ちゃん用耳体温計、粉ミルク、両親用の大きな靴など。Amazonの激安セールを見つけて以来、「日本製のものがモンゴルより安く買える」とターニャが燃えています。
◆旦那さんのハグワからも頼まれものがありました。ロッドエンドという車の部品、アディダスのジャージ上下、ヘッドライト、遮光サングラス。日本人主催の「ラリーモンゴリア2013」に参戦するためです。仲間と骨組みから手作りした車で、3500キロを8日間かけて駆け抜けると張り切っていました。
◆ところが一昨日の試験走行中、彼の車が壊れてしまいました。ハグワは顔面に、同乗者は背中に大けがを負い、泣く泣く出場を辞退 。「来年また頑張る! 」と話しています。
◆私が知っているモンゴル人男性達は熱狂的な車好きばかりです。運転がすごく上手だけど、走りっぷりは超荒っぽい。酒を飲んでもガンガン乗る。彼らのハンドルさばきを見ているとだんだん手綱に見えてきて、この人達にとっては「車=馬」なのかと気づきました。
◆馬といえば、国をあげての大イベントがありました。9日に民族衣装を着た騎馬隊11000人が馬に乗って草原を4キロをパレードし、10日には子どもが乗った3000頭が18キロを大競馬で全力疾走。速すぎてテレビ中継が追いつかないくらいでした。かっこよすぎました! ちなみに26人の子が落馬したものの、大事には至らなかったそうでほっとしました。
◆この壮大な遊びのスポンサーは、6月に再選を果たしたばかりのエルベクドルジ大統領。目的はギネス記録樹立です。参加者達はモンゴル全土21県から集まり、イベント終了後には馬とともに地元に散り散り帰っていきました。国民の216人に1人が参加したなんて、若者が人口7割を占める国のダイナミックなパワーを見せられた感じです。貴重な現場を見ることができて感動しましたが、ギネス記録ねらいのこの企画には一部で批判もあるみたいです。
◆明日から私も草原に出ます。夜はますます冷えこんできました。日本の最高気温とモンゴルの最低気温を足して2で割れたらいいのになあ!です。みなさんいい夏をお過ごしください!(大西夏奈子)
■今年の夏は、全国的におかしな天気のようですね。雨の島・屋久島では、7月はじめの早い梅雨明けから3週間も雨が降りませんでした。いつも水には困らない登山道でも、小屋の水が涸れてしまった所があります。畑の作物の出来もよくなく、このままでは節水令がでるかもしれないそうです。
◆最近はよく海へ行きます。潜ると体を包む海水がとても心地よく、時間を忘れてしまいます。海の中には魚やイカがたくさんいて、さらに目をこらすと、体長数ミリのエビやヤドカリ、小さい不思議な生き物でいっぱいです。ふと無数のプランクトンの存在に気づき、海が生命のはじまりだったことを感じます。森の中でも小さな虫や微生物、菌類などのことが気になり、木の呼吸などの聞こえないくらい小さな音にも意識を向けながら歩くようになりました。まわりの空間と一体になっていく感覚。自分の存在の小ささ。たくさんの生き物がバランスをとって生きているこの世界のことを思うと、改めて、人間の都合で自然に手を加えることへの疑問がわいてきます。
◆昨年6月まで滞在した南三陸町志津川では、高さ8メートルの防潮堤が計画されているそうです。内側の元市街地には10メートルの盛り土をするとのこと。生態系への影響も心配ですが、人々にとって海が日常から遠い存在になってしまうことは、本当に津波対策になるのでしょうか。防潮堤ができたとしても、人々が海への感謝の心と恐れの心を持てるようであってほしいです。
◆夜明けがどんどん遅くなっているし、もう稲刈りも終わりました。朝晩はとても涼しく、コオロギが出始めています。屋久島の夏、あっという間に駆け抜けてしまいそうです。(屋久島発・新垣亜美)
■すっかりご無沙汰しています。私は今、久しぶりのパキスタンに山登りに来ています。今日は一山登って下山してきて、憩いの地フンザにて2日間の休養中。パソコン借りて、久しぶりにメールを見ていました。角幡さんの『アグルーカの行方』、賞とったんですねー。素晴らしい。今日は私は、『世界最悪の旅』(チェリー・ガラード)を読んでいました。冒険読み物は、歳をとってもワクワクさせてくれますよね。
◆2013年夏、ナンガパルバットでの登山家殺害事件が起きて、パキスタン遠征出発間際だった私達は、外務省からも直々に自粛要請(という程きつくはなかったけれど、本当に行くのか?という連絡)をもらったりして、協議を重ねたのですが、楽天的で刹那的に(?)生きている私としては、「今」行きたいこと、やりたいこと、は「今」を逃したらその冒険的要素や実行意義が半減すると思っているので、やっぱり「行く」という結論でした。
◆罪無き、カラコルムの山麓に住む人々にもやっぱり会いたかったし。今が駄目で未来(来年とか)が大丈夫だなんていう保証も無いし。最初に目指すのは、『白きたおやかな峰』(北杜夫)ディラン峰(7266m)。小説の中で、あの高みでいったい何が起きたのだろう?何故に、頂上直下で皆敗退したのだろう?どんな景色を見たのだろう?そんなにも雪は深かったのか?氷は硬かったのか?想像が膨らむ、あの山の頂へ行ってきました。
◆心が折れそうになるくらい、セラック地帯(西面)のルートファインディングに右往左往させられ、更に心が折れそうになるくらい、長い長い西稜の登高と、最後に出てきた氷壁。それでも素晴らしい景色を満喫してきました! 地球の芸術ってやっぱり素晴らしい。そして、生きてるって素晴らしい。今は無事に下山してきて、フンザの谷(=ナウシカの「谷の風」)の風に心を和ませているところ。
◆この後、本命のシスパーレ峰(7611m)南西面に向かいます。それでは、日本も暑中の事と思いお見舞い申し上げます。体調崩さぬようご自愛ください。(谷口けい@Hunza, Pakistan 8月9日)
■久しぶりに活動が続く夏となっています。7月20日から28日までは、夫とジャワ島をレンタルバイクでツーリング。直前に詰め込み勉強をしたインドネシア語と英語で現地の人たちと意思疎通。ナシ・ゴレン(エスニック味の炒め飯)はほぼ毎日堪能。バイクでの移動は、交通量が半端なく多い中、みな追い抜き追い越しのオンパレードで、まるでレースをしているような感覚でしたよ。
◆8月6日は単独で御殿場ルート往復の富士登山。今回で6度目の登頂です。世界遺産になり、どれだけ大渋滞かと戦々恐々していたら、平日のこのルートは、ほとんど登山客がいなく、マイペースで楽しく登ることができました。朝4時出発、お鉢巡りもしっかりして夕方4時半に下山(最後の2時間は本降りの雨)し、山用カッパを着たそのままの恰好で、疲れた身体にむち打って、増々激しくなった大雨の中をバイクに跨がって帰宅。久しぶりにエネルギーを使い切った一日でした。
◆富士山を皮切りに、日本の○○富士をこれからは意識して登ろうと今年の初めにひらめいたので、8月13日からは約2週間の予定で北海道ソロツーリングに出かけますが、利尻富士登山も一つの目的です。(旅する主婦ライダーもんがぁ〜さとみ 古山里美)
■今年も青森のねぶた祭り(8月2日〜7日)に行ってきました。気づけばもう7年目。こんなにはまっちゃうとは、って不思議な心持ちです。青森観光もせず、キャンプ場で明け方までぐだぐだ呑んでから寝て、昼は体力温存で極力だらだら、夜はねぶたで跳ねる!という行動を飽きることなく繰り返している、ここ数年……。
◆祭り期間中は無料のキャンプ場ができるので、全国から毎年来るねぶた好きや、旅行途中の旅人が集まってきます。日陰になるお気に入りの場所で昼寝をしていると、20代前半のチャリダー達がたむろっては「旅の終え時は」「旅で受けた親切をどう返せばいいか」なんて会話をしているので、盗み聞いては、にやにやしちゃいました。
◆と、キャンプ場の雰囲気もいいのだけれど、なによりねぶたが楽しいんですー。誰でも跳人の衣装さえ着れば、好きなねぶたに参加ができるので、わたしは「わたしたちのねぶた」というねぶたで跳ねています。そこは、跳ねるのが大好きな、スポンサー会社の社員の方と、年季の入った地元の方が半々といった感じの、こじんまりとした地元密着型のねぶた。「今年も宜しく!」って云い合い、ひたすら跳ねて、「また来年!」と別れる。その繰り返しで、馴染みの顔も増えてきました。
◆最初に会った頃は小学生だった男の子が中学生になって持久力がつき、今年はとうとう跳ね負かされ、時の流れにしみじみ。「ここに来るとみんながいてほっとする」なんて、ぼそっと云ったおじさんがいて、みんなに自分が含まれていたことが、ちょっと嬉しかったです。集う人達のあいだでも、あうんの呼吸ができてきて、誰かが本気で跳ね始めると、呼応してさざ波のようにあっちでもこっちでもみんな跳ね始める、そんな心地よい場になってきました。
◆今年は初めて、運行が終わった後のねぶた小屋での打ち上げにお邪魔させてもらい、そこで今更ながらお名前を知った方も。でも、名前より上位に「跳ねる姿」があるのは変わりません。それぞれに跳ねる時の癖(というか魅力)があるので、「その人=跳ね方」という認識で、名前で呼ぶのが、へんな感じなんです。
◆音楽や(団体)スポーツをやっている人は違うのだろうけれど、じぶんは通常、言葉ばかりに頼って生活し、人と対しているような気がします。お囃子と一体となって跳ねることもそうだけれど、跳ね合うことで他人とコミュニケーションを取れるという感覚、「言葉なんかいらない!」って思えることが、年に一度の貴重な体験になっているのかも。いまはだいぶ跳ねられるようになったけど、毎年、地元の人達をじっと見て真似てきました。その癖が抜けていないのか、祭りが終わっても、いまだ目をつぶるとお囃子が聴こえ、あの人やこの人の跳ねる姿がはっきりと瞼に浮かんでくる。脳内がどうなっちゃったのか、心配な感じです。
◆と、恒例の「夏休み」を満喫してきたのですが、介護の仕事(一人暮らしの障碍者の方の自立支援)を5月に辞め、わたしの休みはまだしばらく続きます。勤め始めた時は数年で辞め旅行に出ようと思っていたのに、居心地が良くって、気づいたらうっかり10年も働いていました。利用者さん(障碍者の方)のお宅には、大学の時からアルバイトで入っていたので、合計13年。毎日のように見ていた顔を見られなくなり、寂しくなるかと思いきや、薄情にも、決まった時間に働かなくていい状態に浮かれまくりです。いままでだって、さんざん好き勝手、遊んでいたというのに……。
◆体調がいまいちで6、7月は抑え目だったので、これからが本番! 久しぶりに徒歩での野宿旅行がしたいなあと思っています。うう、長々とすみません……。さらに、宣伝もさせてください……。お盆明けくらいに『あたらしい野宿(上)』(亜紀書房)という本が発売されるので、どうかどうか、宜しくお願い致します。たった96ページの本なのに、完成まで1年近くかかっちゃいました。
◆なにをするにも予想以上に時間が必要で、己ののろさに、なんだかなーとへこむことも多々あるのですが、時間をかけて積み重ねていく面白さもあるし、だらだらのんびり、やって行こうと思います。(加藤千晶)
■先月の通信でお知らせした以後、通信費(1年2000円です)を払ってくださった方々は、以下の方々です。数年分をまとめてくださった方もいます。万一、記載漏れがありましたら、必ず江本宛てにお知らせください。アドレスは、最終ページにあります。振込の際、通信の感想などひとこと書いてくださるのは大歓迎です。
■桑原まゆみ/菊地由美子/日下部千里/寺本和子(6000円「3年分として」)/神長幹雄(10000円)/石原卓也/中村易世/山本和弥(10000円) /黒木道世/斉藤日和/坪井伸吾(10000円)/鰐淵渉/長瀬まさえ/松原英俊(ご無沙汰ばかりですみません。今夏もヒグマやクマゲラを追って大雪山に向かいます)/金谷眞理子(いつも読み応えたっぷりの通信ありがとうございます。昨夏の被災地ツアーから早くも1年、いまだ自分にできることは何か模索中です)/藤木安子/波多美稚子(原ご夫妻からご縁をいただきました。地平線通信412号からお送り頂けたら嬉しいです)
■「おーい、四万十が全国最高気温だと、ニュースで流れたぞ。どうだ。」と江本さんから電話があったのが、8月10日正午過ぎ。「では、これで5日連続全国最高気温ですね。いつもなら、子供の声の絶えない近くの公園も通りも日中人影はないですね。知り合いのおばちゃんは、これから生きていけるろうか。と本気で言ってました。」
◆翌11日の高知新聞によると40.7度、高知県観測史上最高、全国観測史上4位。四万十ドラゴンランを一緒にやった宮崎聖(生まれも育ちも四万十川辺)を訪ね話す。「川の水が煮えよう。魚もぜんぜんおらん。水温の低い支流か川底でじっとしようがやろ。」
◆四万十川の魚を調べている専門家の話では、15年前四万十川に生息する魚種は130種くらいだった。4年前に200種に。気水域の水温が冬でも高く、増えたのはほとんどが気水域の亜熱帯性の魚。7月10日の梅雨開け以降、猛暑日(35度以上)は22日に。
◆この高温の原因を高知気象台の専門家は、南洋(インド洋、南シナ海)が異常高温、その影響でチベット高気圧が日本列島にまで張り出し、太平洋高気圧と四国上空でぶつかって高温が続くと分析。山陰や東北では、「今までに経験したことのない豪雨」が降り、四万十では雨なく、記録破りの猛暑。気象学者の予測「温暖化が進むと気候が極端になる。」が現実になってきたのか?
◆話は古くなるが1990年代前半の5年間アフリカチャドで植林活動をした。活動地は当時の世界最高気温観測地点(リビア・チャド国境)に近く、雨期前の5、6月は日陰で50度以上、日向の土上の温度は60度超え。風が吹くとサウナの中で高温のドライヤーをかけられるようで、「頼む、風吹くな。」と言っていた。
◆雨期前のこの時期が苗木作りの真っ最中。休むわけもいかず、すぐ近くの反政府軍の情報収集も忘れ水やりをしていたことが、今は信じられない。20年間(1985年から2004年)アフリカに通い延べ10年以上暮らしたので、体が順化していてあの暑さの中でも動けたのだろう。日本は四季があるので、夏だけの暑さは、チャドでの暑さに匹敵する。
◆「情報で重要なのは2つ。命を守る情報と人を元気にする情報。あとはどうでもいい。」と当時エチオピアで、盟友高野秀行に話したことがある。私は昔から人と話したり、考え事をしている時、無意識にコーラ瓶に指をつっこむおかしな癖があり、この時も話に熱中するあまり、コーラの瓶に指を突っ込み、抜けなくて焦りまくった。確かバスの中まで瓶を抱えて乗り込み、最後は石鹸水を流し込んで抜いた、と記憶する。「コーラの瓶にやたら指を突っ込むのは危険、その可笑しさは人を元気にする。」(高野著「怪しいシンドバッド」集英社文庫あとがき)。
◆環境の情報は命に関わるけれど、人を元気にしないものが多く慎重になる。エコを語る人は「清く正しく美しく」自然を美化する傾向があって、堅苦しい。「濁り邪で醜い」部分もまた自然。人がかってに決める「清濁正邪美醜」は自然の循環の中にただあるだけ。両方合わせのみ、楽しむ遊びゴコロが要る。と思うけれど、難しいなあ、が今の立ち位置。 (四万十住人 山田高司)
[追伸](1)
11日も四万十市は40度越えです。通りから消えた人(の一部)は川(四万十川支流)と海にいました。私も毎日子供たちを連れて海川に行ってます。水辺の風はこの高温でも涼しさがあるのです。クーラーのない昔は老若男女川に行き行水し、涼をとっていたことを思い出しました。
[追伸](2)
12日午後ついに日本観測史上最高の41度を記録しました。一昨日、四万十市西土佐総合支所長は高知新聞記者のインタビューに「暑いのは、うんざりやけんど、どうせなら、日本記録になってほしい。新しい観光名物につかえるけん。」と希望と冗談まじりに答えてましたので、今日は苦笑しているでしょう。しかし、尋常な暑さではありません。84歳の父も「こればあ暑いがは、初めてじゃ。」と、うなっています。
[追伸](3)
実は、12日の四万十市の日本最高気温41度記録は江本さんの電話で知りました。テレビは寝たきりの母の部屋にあるのですが、28度以上になると母が汗をかくので室温調整には気をつかっています。ここ数日、あまりの高温でテレビをつけるとその熱でクーラー最低温度16度に設定していても室温28度を超えるので、昼間はテレビは観ていません。それで、江本さんから電話で聞くまで日本最高気温になったことを知らなかったというわけです。まったく「今までに経験したことのない猛暑」です。
■地平線通信411号(2013年7月号)は、10日に印刷、封入作業を終え、翌11日クロネコメール便として発送しました。書いてくれた人に感謝するとともに、毎回報告会の受付や印刷、発送の地味な仕事に駆けつけてくれる世話人の皆さんにはありがとう、を申し上げます。今回、発送作業に汗をかいてくれた方々は、以下の皆さんです。
森井祐介 車谷建太 岡朝子 村田忠彦 前田庄司 福田晴子 江本嘉伸 杉山貴章 石原玲
■酷暑の毎日ですね、お見舞い申し上げます。沖縄も今年は異常な晴天続きでまったく雨が降っていません。台風も来ません。去年台風が来すぎたからでしょうかね。畑の冬瓜やゴーヤはドライフラワーになりつつあり、地面は地割れがしています。ヤギたちは暑くて放牧に出かけてもすぐに帰ってきて日陰でぜーぜーしています。
◆さて、毎年恒例だった比嘉ハーリー大会は、今年はありませんでした。地平線ダチョウスターズの皆さんも期待していて下さったのですが、いい日程がなくて流れてしまいました。その代わりと言ってはなんですが、7月31日〜8月1日に行われた豊年祭は、平日にもかかわらず盛り上がりました。伝統の東西分かれての綱ひきと女たちの踊りウスデーク(臼太鼓:盆踊りみたいなものかな)をはじめ、区民の余興、子供たちのパーランクー(エイサー)など、連日練習を重ね、島のおじいおばあの大喝采を浴びました。
◆そして豊年祭が終わると、休む間もなく今度はエイサーの練習が始まりました。旧盆に向けて毎晩練習にみんな集まっています。特に子供たちは元気で、おおっぴらに夜遊びができるのが楽しいんでしょうね、皆勤賞です。みんなで本番の8月21日に向けてがんばっています。
◆豊年祭の話題に戻りますが、浜比嘉島の豊年祭は旧暦6月24日、25日と決まっていて、今年は平日にあたったものですからさあどうしよう、ということになりました。年々人口が減っていく過疎の上に、今年は喪中で祭りに出られないという人が重なり、さらに平日という三重苦。島在住者だけでは祭りの準備やら綱の引き手、踊り手、三線弾きが足りないことが予想されました。
◆急きょ公民館では島出身の本島在住者に祭りの案内を郵送したり、なるべくみんなで親戚友人に声かけしてもらいました。そうして迎えた祭り当日。ふたを開けてみたらウスデークの踊り手は着物が足りなくなるほど人が集まり、ホッと胸をなでおろしました。でも綱の引手は少なかったですねえ。これから年々難しくなっていくことは確かです。
◆「もうウスデークは東西を合併したほうが いい」とか、「旧暦にこだわらず週末開催にしたほうがいい」とかいう声も年々高まってきています。先日、合併派の人と激論した私は「簡単に合併合併というけどさー、一度合併したらもう二度と元には戻せないんだよ。昔からの伝統がそこで消えちゃうんだよ」と声を荒げてしまいました。
◆でも「伝統を重んじてなくなってしまうより、少々形を変えても残したほうがいいじゃないか」という意見も確かに一理あります。うーん、難しい。東西が分かれているからこそ競争意識が出て張り合い、盛り上がる。合併したら逆に人任せにしてしまってだめになるのではないか、という人もいて、私も同感なのですが。ともあれ一生懸命な島の子供たちには本当に救われています。
◆島から学校がなくなって1年半。子供たちは相変わらず元気です。普段はスクールバスで連れて行かれちゃうから島で子供たちの姿を見かける機会がだいぶ減ってしまったけれど、夏休みに入ってからは、変わらない子供たちの素直で元気でこ生意気な様子にほっとしています。なんとかして今の形でこの子たちに引き継ぎたいと強く思うのです。
◆伝統文化の継承はもう一切学校に期待できない今、私たち島のおとなが頑張らなくてはいけないのだ、との思いを強くする今年の豊年祭でした。さあ、旧盆までは気が抜けない日々が続きます。21日の夜はどうぞ比嘉に遊びにお越しください。エイサーの夜のお月様は、それはもう、きれいなんですから。(浜比嘉島発 外間晴美)
★追伸★
(「東西とは、比嘉の集落内のことですよね?」との編集長の質問に答えて)私のうちの前の道路は本来川があり暗きょになっているのですが、その川をはさんで東・西になっています。うちはひがしです。お向かいの吉本さんはにしです。ウスデークも、東、西がそれぞれ違う唄、違う踊りなんです。着物の帯や鉢巻の色も違います。ちなみにエイサーも昔は東、西と分かれていて、東西張り合って切磋琢磨してきたんだそうですが、コンクールに出るために合併させたんだそうです。したがって、合併するということは、東、西それぞれの歌と踊りをあわせて別のものを作り出すことになります。)
■7月26日から8月4日までフィンランドのヘルシンキに行ってきました。妻が妊娠後期に入ったため、彼女の旅をサポートするための同行です。今回、ぼくにとっては受動的な旅でした。しかし、現地に行くことで森とフィンランド人の関係など、学ぶことが多々ありました。
◆妻は普段からキノコをテーマに、切り絵やイラストなどの作品を創作しています。北欧の人々は森の幸としてキノコをよく食べるそうで、フィンランドの森には100種類以上の食用キノコが存在すると言われています。妻曰く「キノコの本場」と言うことで、ヘルシンキからヌークシオ国立公園へ行き、森と湖の周辺を散策しながら、様々な種類のキノコ観察、ブルーベリー摘みを行いました。
◆日本の急峻な山と比較すると、フィンランドの森の地形は高低差が少ないため、万人向けの自然といった印象でした。広大な森には、多くのフィンランド人が来ていました。長靴で3人の子どもを連れたお父さん、一人で散策し焚き火で料理をしている中年の女性、デートの若いカップル、 キャンプ道具一式を担いで、愛犬と一緒に森に入っていく若者等など。幅広い層の人が森を訪れていて、この国の人にとって「森は共有の財産」という思いが伝わってきました。
◆また、森の道の途中には、薪小屋があり、小屋の斧で薪を割って、無料で必要なだけ薪を使う仕組みになっていました。森の中には一部禁止エリアもありましたが、基本的には自由に焚き火やキャンプを楽しめるようです。一方日本の場合、一般登山道を使う登山では、幕場以外でのキャンプや自由な焚き火は原則禁止されています。今回の旅では自然を楽しむ人々の裾野の広さ、また国立公園の在り方の違いも実感しました。次回はキャンプや釣りの道具を担いで、子どもと一緒に訪れてみたいと思っています。(山本豊人 妻は竹村東代子さん)
■最高気温が40度を超すところが続出した8月11日の日曜日、仕事場は、グループのお客様でほぼ満席の状態になりました。冷房はできるかぎり低くしておいたつもりですが、温度はビル全体で調整するため、皆さんの「もっと冷房をきかして」という要望にはそえなかったというのが実情でした。具体的に25度とか、30度とかいう調整ができないのです。それでも、「外にくらべればちょっとは涼しいよ」ということでした。
◆私の仕事場は、「新宿囲碁センター」、いわゆる「碁席」です。「碁席」とは、碁の好きな人あるいは碁を打ちたい人がひとりで行き、ちょうど良い相手を得て、碁を楽しむところです。暑い時には涼しいところでゆっくりと碁が打てるということになるのです。私はそこで皆さんの力を見て相手を選んだり、初心の方の指導をします。いわゆる「席亭」です。
◆場所は新宿駅の南口から歩いて2、3分、交通至便という表現がピッタリの甲州街道に面したビルの10階、置いてある碁盤は30面余、おおよそ6、70人ほど入れる、まあまあの大きさの「碁席」です。普段は12時開店、午後9時閉店ですが、お客様が帰られるとその時点で閉店します。
◆私の出番は日曜、月曜、火曜。水曜はお休み。木曜、金曜は教室の講師を勤めるため、午後から顔をだします。土曜は忙しいのでお手伝い。というわけでほとんどの時間を囲碁センターで過ごします。
◆最近、月の前半の土曜、日曜が割と忙しくなりましたが、後半は平日を含めて割とお客様の少ないことが多いです。私自身はそのほうがゆっくりできてよいのですが、今年はやたら暑い日が続くものですから、涼みに来られるお客さんも結構おられます。
◆午後5時近くになると、喉が渇くとやらで、皆さんソワソワして、早々にお帰りになります。碁席のお茶よりも泡の出るお茶が欲しいというので、5時すぎには空になってしまいます。でも、夜間の教室というのがあり、帰るわけにはいかないのであります。というわけで、帰宅は10時近くになります。
◆最近は、江本さんから貰った電動アシスト自転車で通勤しています。所要時間は20分。大変ラクチンですから、自転車は電動アシストにしましょう。地平線の仲間には入れてもらえそうもありませんが、とても助かっています。(森井祐介 地平線通信レイアウト局長)
■今年4月から第2期としてはじまった「鮭Tプロジェクト」。長野画伯に描いてもらった鮭Tは2年5か月が過ぎ、1期は8600枚以上販売し460万円の寄付を届けた。さすがに震災から時間も経ち、2011年とは違って被災地からの距離と比例してか、ここ長野では普段の暑い夏がやってきただけだ。それでも、7月8日(月)には支援先の大槌中学校鈴木校長先生が長野市を訪れ「大槌中学校の今・子ども達は未来の設計者」と題し被災した学校の正常化や子ども達のケアについて話をしてくれた。
◆講演会の詳細は割愛するが、嬉しいことに鮭Tを着た大勢の仲間が裏方でボランティアをしてくれたのだ。あの「雨ニモマケズ傘をさした変な鮭」が未だに長野のボラさんを繋げているのだ。(http://saket311.naganoblog.jp/e1304701.html)
◆この夏鮭Tプロジェクトは、4月から11月までの第2土曜日長野市善光寺境内の「善光寺びんずる市」に鮭Tを出店している。暑い日差しの中、ピンクのテントに「大槌町支援Tシャツ」と看板を出して販売している。以前大槌を訪れた人、東北に親戚がある人、地元の人が声をかけ、お土産に買って行ってくれる。「大槌の為にありがとう」「ご苦労様」って皆、気持ちはあるのだ。ただ何をしたらいいのか、何が自分にできるのか、忙しい日常に追われゆっくりと被災地を考える、想像することができない、そんな気がする。
◆7月末までの販売枚数、鮭Tシャツ478枚、キッズ・バック・手ぬぐいなど関係グッズを含め879枚(インターネットでも販売しております。http://saketshop.cart.fc2.com/)。販売した見知らぬ人からメッセージや励ましの言葉をかけてもらえると本当に嬉しい。被災地の為にやりはじめた活動が多くの人達の共感や応援を得ていることに、やりがいや生きがいを感じている。
◆鮭Tシャツのおかげで、地平線会議が身近な存在となったことも嬉しい。地平線通信は高卒の自分が噂にしか知らなかった懐かしい名前、ナミブ砂漠に逝った国岡宣行さん、サヘルで植林していた山田高司さんはじめそうそうたる顔ぶれを近づけてくれ、夢中で生きていた井戸掘り時代を思い出させてくれた(注参照)。パスポートはとっくに切れたけれども、地平線通信を購読するのは海外で冒険しているようだ。412号の通信を出し、毎月報告会を続けている地平線会議、そして皆を惹きつけてやまぬ江本さんに敬意を表します。(村田憲明 長野市)
[注]村田さんは1990年26才の時、青年海外協力隊員としてペルーで小学校作りに参加、その後、故中田正一氏の創始した「風の学校」で井戸掘り技術を学び、アフリカのセネガルで5年、井戸掘りボランティアとして活躍した。(E)
■先日の地平線会議ではお世話になりました。大分県から参加した湯浅千佳と申します。お会いできたのも何かのご縁だと嬉しく思っています。初参加ということで、少しばかり感想を書かせていただきますね。
◆参加のきっかけは石川さんのブログで、直接ローツェの報告を聞きたかったし、ご本人にお会いしたいのもありましたが、“旅好きを通り越した、とんでもなくマニアックな人”がたくさんいるという会の存在自体にも興味を惹かれました。私は単なる旅行好きで、そんな自分の価値観に衝撃が欲しかったのと、石川さん含め、自らの情熱をつらぬいて生きている人たちに出会ってみたかったのです。
◆保険関係の仕事のかたわら、私は京都造形芸術大学通信教育部ランドスケープデザイン科に学生として在籍しています。年に数度、スクーリング受講のため京都か東京へ行くんですが、先月はたまたま東京の学舎で受講しました。偶然にも、翌日からの東京行きの予定と開催日時がピッタリだったので、こんな機会は滅多にないと、迷わず参加を決めました。
◆当初、若いバックパッカーや未知なる世界を夢見る学生たちが多いのかと思っていましたが、会場に入ると思いのほかご年配の方が多く(失礼ながら)、ちょっと面食らった印象でした。同時に、それぞれ面白い人生経験を積んできた方々が集まっているに違いないと興味をそそられました。
◆石川さんは終始リラックスされている様子で、時間もたっぷりボリュームがあるため、報告者の“他では出せない本音の部分”の話が聞けるのは、長年続いているこの会ならでは、のことでしょう。しかしながら、本当に本音の話が聞けるのは二次会かもしれません。ビール片手にテーブルを囲んで滅多に触れることの出来ないディープな生談話! 最高です。時間の都合上長居できなかったのが残念です。もっと皆さんの話を色々聞いてみたかったです。
◆「北京」の料理もボリュームがあり美味しかった。自分がしたいけどできないこと、見たいけど見られないものがあります。それを語ることの出来る方々と接点を持てる貴重な場所でした。若者ももっと来たらいいのに。九州支部はないのでしょうか(笑)また機会を見つけて顔を出そうと思います。その際は宜しくお願いいたします。(湯浅千佳 大分県久重町)
■先日はありがとうございました。わたしが地平線会議に参加するようになって2年が経ちましたが、仕事の都合で聞きに行った回数は数えるくらいです。でも、行ける時は入院中でも松葉杖ついてフラフラ行った事があります。あの時は痛くて行くのもきつかったですがそのくらい実は地平線が好きなんです!
◆地平線会議では、本を読んで伝わってくるものとはまた違う何かがあります。それは直接本人から伝わる情熱!って言うとかっこいいかもしれませんが、わたしが感じるのはそういう熱いものではなく、もっとまったりして割りに普通……で身近に報告者を感じるとこが好きなんです。
◆それって、きっとテレビだとすごく遠くてかっこよくて……って壁が有るけど、ある意味作られたものだったのかもしれないですね。直接会う・直接感じる・直接体験する大切さを改めて考えさせてもらいました。いつも行くといろんな出会いがあります。今回は仕事がたまたま休みだったので聞きに行けました。
◆「今回の報告者は石川直樹さん。写真家なんだー、ローツェに登ったんだ、すごーい。このお話聞きたいな〜」くらいな気持ちで出かけました。(どっかで名前聞いたような……とも思いましたが、よくあるお名前かなくらいで……)。報告会が始まり、素敵なショートビデオ見て一旦休憩。休憩中に後に並んでいた石川さんの本を眺めていると、一冊の見たことある本が!! 『最後の冒険家』。
◆この本読みました! あれっ?、この人って……世界最年少で7大陸最高峰登頂したあの人!!!って、休憩中に気づきました。自分が読んだ本の作者はちゃんと覚えておかないとだめですね。まさか作者に会えると思わなくて……。まさかこんなすごい人に会えると思わなくて……。これも地平線会議の醍醐味ですかね!
◆“奇遇”で聞くことが出来た石川さんのお話はためになりました。高所の呼吸法(去年の富士山登山で必要でした)や、冷え性の私には指先の血の流し方など……実際の極寒体験者の貴重なお話でした。この日、石川さんの本が増えました。すごく読みやすかったのでもう読んで息子に渡しました。本当は山のお話もあるので子どもにも聞かせたかったのですが、翌日部活の大会があるため早く休みたいとの事でした。
◆どこか知らないところに行く事だけが冒険じゃないですものね。わたしも仕事上の冒険の最中にいます。ここ2年ほど、この役職(郵便局長)にたどり着くまでサラリーマンとして人生最大の冒険をしていました。今もなったはなったでスタート地点に立っただけです。でもいつか、この立場が板に付いてきた時や、余裕が出来たときに、冒険が出来るように先人の知恵をつけたいと思ってまた報告会聞きに行きます。今年の夏は気温や天気の変動が激しいですが、どうかお体をご自愛してください。(日下部千里)
■残暑お見舞い申し上げます。地平線通信7月号の青木明美さん、黒澤聡子さんの記事を大変嬉しく読ませて頂きました。おそるおそる書いて出した『私のグレートジャーニーto新宿スポーツセンター』。ちょっとした箸休め的コラムのつもりが勢い余って文字数もけっこうなボリュームになってしまいました。にも関わらず、まずは読んで下さったことがありがたいです。こんなにリアクションが頂けたことも驚きでした。
◆そして激励と共感の力強いメッセージ。黒澤さんの文章にあった“モヤモヤポイントは自分の好きなこと(のために子どもに無理をさせる点)”には深くうなずきました。私の言いたかったことを見事に言葉にしてもらえた!という感じです。さらに私はモヤモヤしてる自分にもモヤモヤします。好きなことなら堂々とやればいいのに、とも思うからです。常に葛藤がありますね。
◆保育園の整備などが進むと働かない母親が怠け者と思われそう、というのもなるほどと思いました。私自身、四年近くの育休を経て来年仕事に戻る予定ですが、周りのママさんが先に次々と仕事復帰して行くのを見ていると、焦りに似たようなそわそわした気持ちになります。育児に専念てのもけっこう大変なんですよ〜!とアピールしたくなってしまうこともあります。
◆青木さんの書かれたように、育児はいつか終わる、終わってみれば寂しくもある、という言葉はずっしり重いと同時に、扉の向こうの世界にもまた行けるんだ、ということを明確に示してもらえた感じです。報告会に参加したのち、こうして通信上でコミュニケーションできたり、行動がもたらすものって本当に大きくて貴重だなと今回実感しました。ありがとうございました!(三羽宏子)
地平線通信のゴッドファーザー江本様
地平線通信を通しての、皆様の内外の(内心の、その表れとしての行動の)ご報告、“美しい”と思って拝読させていただいています。長期間ランナーの江本さんはじめ皆さんに乾杯!です。
私は小、中、高、大と女子私学に通い、トコロテン式受験未験者、卒業後は“ヨイトコロに永久就職”との“母の責任あるオススメ”に、「?」と、ぼんやり感じながらも、20才になると振袖のお見合い写真を撮るという無自覚な青春時代を過ごしました。そういう私にとって、地平線会議の方々の内面、外面に向う旅はまぶしく感じられます。ごく私的にはシール・エミコさんご夫妻のいのちがけのご報告に胸が熱くなりました。時に思い起こして祈りの気持ちになります。
参院選自民圧勝……。政治音痴の私ですが、経済優先の無情さに「この国どうなっちゃうの?」とガックリきました。色なく、音なく、臭いなく、便利有効の名が巻き散らした放射能。悪魔みたい、と。希望を奪い、希望なき避難生活の方々への無情な反応みたいで、悲しいです。
でも、でも、でもそんな状況の中だからこそそのことを批判する方々も出現なさり、希望の灯となっている。地平線会議の方々もそうだと思うのです。そして、夫の斉藤実もそのつつましい批判勢力の人だった、とあらためて想い、慕い直しています。彼は2000年を迎える半年前に逝きましたけど、彼の太平洋漂流実験50日の体験記も半世紀前の話になりました。今改めて読み直しますと、彼の漁民の方々への愛が迫ってきます。これって、人類愛と呼ばれているものなのか、と。
没後14年、私の中で偶像化された面もあるでしょうが、漂流実験後、入院先でいただいたC型肝炎に悩まされながらも、愛のために、勇気をもって戦い抜いた男、と思い起こされます。
漂流実験を前に“恐ろしい”と悩んでいた最中のお正月、亡き母が彼の夢に現れ、「世のため、人のためにおやりなさい」と応援なさり、ふっきれて勇気もいただいたそうですが(この言葉、まだ死語にはなっていないのですね。よかったー)。 多分臨終の床の中で、私は臨終とも思わず、彼はその後立ち上がり、数歩歩いて息絶えました、弁慶みたいに。「ああ、面白かった、恩に着るぜ」と苦しそうでもなく普通に言いました。その彼の本が初出版から40年もたって絶版となることが決まったので、新たに刷っていただきました。
いま、私の手元に届いたこの本を是非、地平線会議の優しい皆様にあらためてお読みいただきますよう、人間好き、自然好き、犬好きの江本さんを通してお願い、献上させてください。
最後に子育て中の若いお母さんに一言、おばあちゃんより。
いつか必ず、世の中に尽くす実りの時が来ますから、外で働く時も来ますから、喜びと共に、重荷でもある子育ての時を経てその時が来ますから、事情を複雑にしないで、単純に子連れ時代を奮戦なさりますように。
皆様の世のため、人のためのお働きを心から祈りつつ。
(斉藤宏子 実さんの残した原稿用紙をひっぱり出して書きました)
★ ★ ★ ★ ★
★斉藤実さんは、海水でどれくらい生き延びられるか、自らを実験台に太平洋漂流を敢行したことで知られる希有な冒険家。1981年11月27日、「へのかっぱ号の漂流実験」というテーマで第25回の地平線報告会の報告者として登場してもらった。宮城県気仙沼や岩手県山田港など(いずれも3.11大津波の被災地!)で漁船遭難の悲惨な実態を取材し続けた映像ジャーナリストである斉藤さんは漁船員の遺された妻や子どもたちの深い悲しみを目撃し、海難で死に至るケースに「飲用水不足」があることに気づく。
◆海難に遭い救命いかだで海に漂流する船乗りにとって、最大の不安は、飲み水が十分確保できないことだ。「海水は薄めても飲むな」という海鉄則に斉藤さんは、疑問を持った。「真水2海水1」の割合なら、大丈夫なのではないか、というのが、医師の協力を得た斉藤さんの仮説だった。そして、自分が実際に漂流してそのことを確かめよう、と壮絶な実験漂流を試みたのだ。
◆1966年に第一次漂流を開始し、試行錯誤の上、1975年、サイパンから沖縄をめざし単独で行なった4回目の漂流実験の記録が、宏子夫人が地平線会議に贈りたい、と言ってくださったこの本『太平洋実験漂流50日』(童心社)である。全長4.1メートル、幅2.3メートル、深さ60センチ。斉藤さんがいのちを託した「へのかっぱII世号」は、ゴムボートのゴムの部分をベニヤ板、空気の部分を発泡スチロールでかためた手作りの漂流いかだ。
◆魚を釣りながらの、意外にのんびりした漂流生活が一か月続いたあと、台風につかまり、なんと「風速60メートル」という暴風雨に巻き込まれた。「へのかっぱ号」は転覆し、斉藤さんは裏返しになったボートの艇尾の鉄輪に命綱を結びつけてしがみついた。その内容は、この本に詳細に記録されている。読んでいて思わず力が入る、地平線仲間には必読の書だ。
◆5度目の漂流を計画していたが、肝臓を悪くして実行できず、交通安全をテーマにした記録映画の製作にあたっておられた。素顔の斉藤さんは優しい人だった。遅い結婚だったが、宏子夫人とは信頼しあっていて、秩父に移ってからは、2人で喫茶店「へのかっぱ」を開き、子供たちを集めて紙芝居を見せたりしていた。1999年11月22日逝去。まだ68才だった。なお、ヨットの冒険で植村直己冒険賞を受賞した斉藤さんは同姓同名の別人である。(E)
■「こまめに」という言葉が多用される夏です。熱中症を防ぐためこまめに水分を、というふうに使われる。「適切な」という形容詞も連日叫ばれている。「夜間も適切な冷房を」というふうに。熱中症による死があちこちから伝えられ、「これまで経験しなかった大量の」猛烈な雨量による災害も頻繁に起きた。森羅万象、大きく何かが動いているのかもしれない。
◆森井祐介さんは囲碁5段格のセンセイ。ほぼ休みなしに囲碁センターで仕事をし、毎月のこの時期になると、通信制作に専念してくれる。私のところにしょっちゅう来ているので、麦丸は森井さんの足音が近づくとすぐわかり、大騒ぎする。309号からずっとやってきて、手がけた通信は、もう100号を越えた。ほんとうに感謝しています。
◆斉藤宏子さんからの申し出、ありがたくお受けします。皆さんも『太平洋漂流実験50日』、必ず一度は読んでおいてください。この通信を読んでいて、希望する方は江本宛て、メールでお知らせを。送料は頂くつもりですがどのようにしたらもっとも簡便か考えてみます。このこと、今月の報告会でも説明するつもりです。
◆今月の長野亮之介報告会、楽しみにしてください。22才の亮之介青年の青春の肖像を見るだけで価値あり、と思いますよ。それから、今月の原稿にありましたが、皆さん、できれば二次会も参加してね。報告者へのお礼の気持ちもありますが、楽しいから、実際。(江本嘉伸)
帰ってきたカウボーイ
|
地平線通信 412号
制作:地平線通信制作室/編集長:江本嘉伸/レイアウト:森井祐介/イラスト:長野亮之介/編集制作スタッフ:丸山純 武田力 中島菊代 大西夏奈子 落合大祐 加藤千晶
印刷:地平線印刷局榎町分室
地平線Webサイト:http://www.chiheisen.net/
発行:2013年8月14日 地平線会議
〒160-0007 東京都新宿区荒木町3-23-201 江本嘉伸方
地平線ポスト宛先
pea03131@nifty.ne.jp
Fax 03-3359-7907 (江本)
◆通信費(2000円)払い込みは郵便振替(料金が120円かかります)、または報告会の受付でどうぞ。
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議
|
|
|
|