7月10日。東京の午後3時の気温は37度。きのうまで3日連続で「猛暑日」だったが、ついに4日連続、しかもことしの最高気温となった。気象庁は、07年4月1日、予報用語の改正を行い、日最高気温が35℃以上の日のことを「猛暑日」と制定した。新聞などでは「酷暑」という表現もよく使われていたが、まったく同じ意味。「予報用語」としては「猛暑日」に決めた、ということだけ知っておこう。
◆ところで、あなたはどのくらいの気温を知っていますか? 私は摂氏64度という異常な高温を異様な環境の中で体験したことがある。都心から南に1200キロの硫黄島。地下に縦横に掘り進められた地下壕に入った時のことだ。狭い房の一角に「危険」という表示とともに温度計がぶら下がっていた。そっとその一角に入ってみた途端、熱い!という感覚とともにすべての毛穴から一気に汗が噴き出た。温度計は64度を示していた。
◆栗林忠道大将率いる22000の日本軍は地下20mに司令部を建設、坑道によって前線各種の施設を結んだ。何百、何千メートルにも掘り進められた土の部屋を拠点に兵士たちは戦ったが、11万の米軍の上陸にはなすすべもなかった。地下壕の一部には、今なおさまざまの転がっていた食器、調理器具。こんな場所に若い兵士たちは篭城し、死んで行ったのか、と、ただただ呆然とするばかりだった。なんという戦いを私たちの国はやったのか……。
◆涼しい話もしよう。硫黄島(長年「いおうじま」と表音されていたが、2007年、「いおうとう」が正しい呼び方だとする小笠原村議会の決議以後、国土地理院発行の地図でも「いおうとう」に統一されている)に飛んだのは、水中撮影のためだった。付近の海域に眠ったままの米駆逐艦の撮影をする目的だったのである。深い、青い海。沈潜に巣食う多種多様な魚たち。それは、硫黄島の戦いとは異次元の美しい水の世界だった。
◆潜水取材を覚えたばかりの当時、夜の東京湾にもぐり、沈船に群れる魚群を追ったり、三宅島に繁殖したオニヒトデの駆逐の模様など、海に潜って記事を書く仕事を意欲的にやった時期がある。危険と隣り合わせだが、水の中の世界は「未知」に溢れて魅力的なのだった。後年にはチベットの黄河源流の標高4000メートルの湖に潜り、「うろこのない魚」さがしに必死になったりもした。
◆海でなくてもいい。日本中が猛暑、酷暑の中にいるようだが、少し高みに登れば、涼しげなところがある。週末の7月6日朝、そんなひとつ、雑穀谷のゲレンデにいた。富山地鉄の立山駅から車で15分、称名川近くの花崗岩の岩場だ。この時期、国立登山研修所が主催する登山研修があり、その2日目に実地に岩場でクライミングを教わる現場に立ち会わせてもらったのだ。
◆経験の浅い若い登山者たちが、ヒマラヤやアルプスで鍛え抜いたベテラン講師にクライミング・ギアの扱い方、防御の姿勢の取り方、など文字通り手取り、足取り教えてもらっている。その真剣なやりとりを見ていてなんという贅沢か、と思う。これは、まさに今の日本人ひとりひとりが会得しておきたいほどの「いのちの技術」なのである。
◆立山駅から歩いてすぐのところに、その「独立行政法人日本スポーツ振興センター 国立登山研修所」がある。1967年に開所した当時は「文部省登山研修所」の名だったが、2009年4月独立行政法人に移管されたのを機にいまの名となった。日本のスポーツ施設で「国立」を掲げるものはほかにないそうである。
◆剣沢に「前進基地」を持ち、毎年多くの若い登山リーダーを育ててきた。私も数回、剣の現場を訪ね、そこでの熱気を知っている。今回は、研修所を支える「専門調査委員会」という組織の会合に出席するためだったが、やあやあ、という懐かしい出会いも多く、自分が山屋のはしくれであることを実感する。そして、私はごく自然に感じた、以下のことを会合で強調した。
◆3.11以後、こういう場所が日本に存在していることがいかに大事か、を痛感する。それは、ここが「いのち」の問題と正面から向き合っているからだ。とりわけ学校の先生や親たちは、できるだけ多く自然のそばに自分も子どもたちも身を置くようにしてほしい。そうすれば子どもたちは大事な何かをを学ぶだろう。3.11を海の災害としてだけとらえないように、「山の民」にとっても貴重な教訓だったことを若い世代に伝えよう。
◆帰路、懐かしい高山に出た。冬の滝谷を目指した学生時代は、毎年ここから穂高に入ったのだが、最後は山の相棒の鳥山稔と2人で立山から穂高まで4日で抜けて高山に出た時以来だから27年ぶりになる。立山といい、剣といい、いろいろな意味で懐かしい場所との再会だった。(江本嘉伸)
■今日の主役は、東京・小平市にある武蔵野美術大学(通称ムサビ)の卒業生たち。新グレートジャーニー最終章・海上ルート、別名『黒潮カヌープロジェクト』で様々な役割を担当した5名に登場してもらう。プロジェクト開始当時から追いかけてきた地平線会議ではおなじみの話だが、航海の終了から2年がたった今、あの経験は若者たちにどのような変化をもたらしたのか? 改めて話を聞いてみたい。彼らと同年代の私は興味津々だった。
◆はじめに、概要として記録映画『僕らのカヌーができるまで』の数カットが流された。旅のコンセプトは「自然から直接ものをとってきて利用する」。2008年5月の九十九里浜での砂鉄集めにはじまり、製鉄のようす、できた工具で木を切り倒し丸木舟をくりぬいていく過程などがテンポ良く紹介される。航海に使う2艘の船が完成したのは2009年1月末。約9か月間という短い準備期間の中で、彼らは鉄の他にも「縄」班、「食」班などに別れ、航海に使用するものをできる限り自分たちで作ろうとした。
◆進行役の鈴木純一君によって、報告会は3部構成で進められた。第1部ではプロジェクト開始前について、関野さんがムサビに来る前年の2001年に油絵科に入学した木田沙都紀さんが回想した。彼女が大学2年生になった4月、ムサビ全体がざわついていた。「グレートジャーニーがムサビに来るらしい!」。関野さんとの出会いから6年後、木田さんはプロジェクト全体のマネージメントと映画のプロデューサー、そしてインドネシアにいる関野さんと学生をむすぶ役割を担当した。多くの人の間で葛藤もあったことだろう。それでも何とか計画を進められたのは、プロジェクト以前から行なわれていた関野ゼミでのつながりが大きかったという。
◆毎週火・木曜日の放課後に行なわれていた関野ゼミでは、農業や食、自然の話を中心に世の中について考えることが多かった。時には遠足として品川と場へ見学に行ったり、大学構内で羊や豚の丸焼きを作ったことも。窯作りから始めるこの取り組みは、今もムサビで続けられている。関野さんの周りに集まる人たちは、なんとなく泥くさい。土にさわることや、畑仕事や自然が好きだったり。ただモノを作るだけではなく、大学の外にも面白い事があるという考えの人たちだ。
◆現在は中学校の美術教師をしている木田さん。「関野さんの学生との関わり方を見て、自分が好きな事を人に伝えたり巻き込んだりする事がとても魅力的に見えました。大好きな美術を人と共有できるのはすごく楽しい。これからも美術をとおして人と関わっていきたいです」。“良い師とは、良い師がいる人のこと”という意味の中国のことわざを思い出した。木田さんなら、出会いの素晴らしさを子どもたちに伝える事ができると思う。
◆第2部では縄班を担当した2名の女性が登場した。リーダーを務めた村井(当時は田中)里子さんは2008年に工芸工業学科テキスタイル専攻(布を織ったり染めたりすること)を卒業、現在は一児の母。もう1人の竹村東代子さんは2008年に日本画学科を卒業。プロジェクトの記録広報冊子『結』の編集と、縄班、鉄班に参加した。今はフリーでイラストやデザインの仕事をしており、先に開催されたグレートジャーニー展のパネル(レシピ風でユニークでした)も作成した。
◆大学入学当初から、村井さんは学生たちの作品制作に対する姿勢に違和感を持っていた。素材を買って作品を作ることを当たり前とすら思わず、全く無意識でいることにひっかかっていたのだという。草で糸を作るなど個人的に素材研究をしていた村井さんは、プロジェクトの話を聞いてリーダーに名乗りでた。一方で竹村さんが専攻していた日本画では、いつも自分たちで絵の具を作っていた。岩石の粉とにかわ(動物の皮などを煮て得るコラーゲン)を手で混ぜて調整していく。「岩の質などによって出来上がりが変わり、色を重ねても比重が軽いものが上に出て来たりして……。日本画を始めてから、ものって何でできているんだろうと日常的に考えるようになった」。
◆企画段階では航海中に着る服(!)や帆も作る予定だったが、時間の都合で縄のみを作ることに。最も時間を費やしたのは調査。麻、葛、シュロ、赤苧(あかそ)、苧麻(からむし)、シナ、麦など使用できそうな植物ごとに担当者を決め、実際に縄を作っている団体や農家などを訪ね歩いた。最終的にインドネシアの漁師に選んでもらい、素材はシュロに決定。竹村さんは、現在もシュロ縄を作り続けている京都の保津川下りの船頭の元を訪ねた。縄は櫂と船を結びつける部分に使われている。水に強いとか耐久性がいいといった長所があるが、「船頭さんたちは櫂を漕ぐときのギーッ、ギーッという音がいい、これがないとやる気しないと言っていて、面白いなあと思いました」。なるほど〜と、なんだか理屈で説明されるよりも納得してしまう話だ。
◆縄作りの話にも実感がこもっていた。皮の網目状の繊維をきれいに揃えて束にする。板に釘を打ち付けた「繊維取り機」でひっかいて細かいゴミをとり、きれいな繊維にしてよっていく。パミオというインドネシアの道具を使ってやるが、一回目のひねりがまず大変。繊維をつなげていくとき、ちょっとでも手を離したらすぐもどって縄ではなくなってしまう。1回よりをかけたものを、どうにかそのままにして、2本目をあわせていく。3本あわせて1本の縄になる。手間のかかる作業だ。船に使う縄を全部作りたかったが、限られた時間内で完成したのは80メートル。それを船の重要な部分、帆を操作する箇所などに使ってもらった。足掛け3年にわたる航海中、縄は切れたらより直して使用した。その強度はインドネシア人クルーにも好評だったという。
◆9か月の活動を振り返ってみる。村井さんは、それまでとは作品制作の仕方が違ったと言う。作品は教室やアトリエで作るが、縄の場合は、歩きながらも使える草を探したり、使わせてもらえるシュロがないかとカバンの中に常に鎌が入っていたりした。日常生活の中に縄作りがあったのだ。日々の暮らしとモノ作りとの関係に影響を受けた村井さんは、卒業後、農業の仕事に携わっている。また、竹村さんは縄の見方が変わったという。「縄文土器に縄の模様をつけた理由は諸説あるが、古代の人がこのただの繊維からできたとは思えない強度とか、よりを逆にかけることで固定される事とかに力を感じたのでは」。モノがあふれる現代で、そのありがたみやすごさが本当にわかる若者は少ないだろうと思う。
◆第3部は2008年〜2011年のインドネシアでの話。鈴木純一君は2009年、視覚伝達デザイン学科を卒業。砂鉄集めのほか縄班や食班にも参加し、映画ではインドネシアで船を造るシーンの撮影と共同監督を担当した。現在はフリーでデザインの仕事をしている。佐藤洋平君は2007年、油絵学科卒業。クルーとして船作りと足掛け3年の航海をやり遂げた。佐藤君は子どもの頃からテレビに出ている「冒険家」に対してマイナスイメージを持っていたが、実際に関野さんと話すと面白く、大学2年の頃から研究室に通うようになったという。卒業してからも就職せずに興味を持っていた船を追って沖縄等に出かけていた所、2007年の秋に関野さんからプロジェクトに誘われた。在学中に民俗学に関心を持った(ムサビには宮本常一さんがいた影響で民俗学の系統がある)こともあり、船作りをとおして色んな土地に住んでいる人の考え方などを知りたいと参加を決めた。
◆2008年5月に砂鉄集めがスタートし、7月に鉄器が完成。その月にはインドネシアのスラウェシ島へ行くというハードスケジュール。インドネシア西海岸に住むマンダール人という船作りや帆走技術に長けている人たちと共に船を造った。森の船大工と呼んでいた木こりたちの技術は高く、斧1本で薄皮をはぐように木を削ることができる。「よく仏師の方が、木の中に仏様が居てそれを出してあげる感覚で木を削るというけれど、それを見ている感覚でした。最後は手出しできなかった」。
◆縄文号と名付けられた丸木舟のほか、マンダール人の伝統的な技術で作ることにしたパクール号は、木釘を打ち込んで板をつないで作った。木釘には木質の固い黒檀やドロンといった種類の木を使う。「僕たちの船は20種類くらいの植物からできている。固い材の利用法とか、腕木の接合部はねばりのある豆科の植物の根だったり、植物の使い方のすごさには感心した。向こうの人は木を宝物だと思っていると思う」。
◆トータル2か月間のジャングル滞在の様子も面白かった。家は高床式。家の前にある川はトイレ、お風呂、洗濯場を兼ねている。飲料用には砂地に穴を掘って濾したものを沸かして使った。仕事帰りに歩くヤシの並木道も、雰囲気があっていい。カヌーに適した木を探すのも大変だったが、ドリルやチェーンソーを使わないでやってくれる船大工を捜すのにも2か月程かかった。また、関野さんが用事で日本に帰り、卒業生3名だけで暮らしていたときに現地のもめごとにも巻き込まれた。極度の緊張状態だったが、こういう経験を通して彼らはだんだん逞しくなっていったと関野さんは言う。佐藤君らの乗船が正式に決まったのは、航海開始よりたった2週間程前とのこと。命がかかっているだけあり慎重だ。ちなみに現役学生の参加ははじめからダメだったという。
◆船づくりには日本の若者が約200人、インドネシア人も100人ほどが参加した。船は2009年の1月末に完成し、4月に出航。船の上で食事して、排泄して、お風呂に入って(水浴び)、寝て……自分の家が移動している感覚だという。安定性もよく、天気がよくて追い風がある日は寝ていればいい。ただ、縄文号とパクール号の速度に大きな差があったため、2隻のスピード調整が面倒くさい航海になった。全長7メートルの縄文号の速度は、11メートルのパクール号の半分くらいしかなかった。佐藤君は、船作りについて知識不足だったと言うが、それでも何とか航海できるレベルの船になったのが、マンダール人のすごい所。木の腐っているところを修理する技術や、進みにくい船でも何とか日本まで辿り着く航海術。縄文号は舵の調整などの操作がとても疲れるが、それを続けるのは日本人だけでは無理だった。海が荒れたときはマンダール人キャプテンに頼らざるを得なかった。「彼らの技術はすごかった」。
◆そんな佐藤君には、心残りな出来事がある。航海を終えたあと、インドネシア人クルーたちに日本を案内した。新幹線のスピードに驚いたキャプテンが「日本人はすごいスピードの乗り物を作ったけれど、自分たちは船しか作れなかった」と言った。佐藤君は「そうじゃないよ」と言いたかったが、語学力が足りなくてうまく伝えられなかった。8月に久々にインドネシアへ行くという佐藤君、今度は自分の想いを伝えられるように頑張れ!
◆今回報告した5人の他にも、プロジェクトに関わった1人1人にそれぞれの気づきがあったと思う。泥くさく失敗したり遠回りしながら、仲間と共にゴールを果たした経験は人生の宝だ。当時の話を改めて聞くことで再発見もたくさんあったが、もっともっと「今」の話も聞いてみたかった気もする。
◆ちょっと驚いたのは、すでに教師や親として子どもたちに何かを伝える立場になっているメンバーが出て来ていること。「10年、20年という長いスパンで気づきを活かせればいい」という関野さんのお話があったが、ゆっくり、でも時間は確実に進んでいるのだ。やっぱり、おちおちはしていられない。若者自身も、目の前の結果を急がずに、でも自分の歩む道を見定めたり、時には寄り道したり、外の世界に挑戦していくことが大切なのだと感じた。
◆私自身、この4月から屋久島暮らしをはじめて、当たり前のことを考えられるようになった気がする。たとえば島のスーパーでは家庭用のアリの駆除剤が山ほど売られているが、アリは掃除屋だからそんなに敏感になる必要もないのでは、とか。私たちも自然の一部として、環境に謙虚に溶け込んで行く心を持ちたい。目の前にあるものを丁寧に見る力と心の余裕が欲しい。
★若者たちの奮闘ぶりは、2008年7月の地平線通信にも載っています。改めてご覧あれ。(梅雨が明け、快晴の屋久島より 新垣亜美)
■先月の報告会に来ていただいた皆様、ありがとうございました。ここ数年はご無沙汰していましたが、学生の頃に地平線に通っていたこともあり、自分が報告者になることは感慨深いものでした。後から気付きましたが、緊張の為か何回か間違った発言をしてしまってすみません。(一応この場を借りて訂正しておきます。パクールに使用した木釘の材料の一つは黒檀と言ってしまいましたが、正しくはテツボクです。最後に引用したジャレド・ダイアモンド氏の著作は「銃・鉄・病原菌」ではなく「銃・病原菌・鉄」です。)
◆報告会でも話しましたが、8月にはインドネシアのスラウェシ島を再訪する予定でいます。一緒に航海したマンダール人達の住む西スラウェシ州では、断食月を終えるとサンデックという漁船のレースが始まり、縄文号のキャプテンのグスマン達も参加するため、それを観戦しに行くのが主な目的です。レースの規模は大きく、スタート地点の西スラウェシ州の州都マムジュからゴールの南スラウェシ州のマカッサルまで、300kmを超える距離を50艘程の舟が10日間かけて南下します。キャプテン達のいるチームは強豪で、一度レースを見に来いと言われていたのですが、なかなか日程が合わず、やっと今夏向かえることになりました。
◆サンデックは縄文号と同じくフロートが二つあるダブルアウトリガーの舟で、10m程の白く美しい流線型の船体と大きな三角帆を持つのが特徴です。今春亡くなられた東南アジア研究者の村井吉敬氏は著作の中でサンデックに触れ、「こんなきれいな漁船は、世界中探してもあまりないだろう」と記しています。海のグレートジャーニーの航海でもマレーシアやフィリピンの沿岸沿いに各地の漁船を沢山見てきましたが、自分もマンダールのサンデックが一番機能美に優れていると感じました。
◆装飾に凝った舟はありましたが、船体のフォルム自体が洗練されたものは少なかったように思います。マンダールの海岸沿いを歩いても汚れた舟はほとんどなく、手入れも行き届いていて、舟への愛着も他の民族とは異なるように見えました。しかし、かつては飛び魚漁などにサンデックはよく使われていましたが、エンジン船の導入により一時期廃れかけていました。それを危惧したマンダール人ジャーナリストのリドワン氏とドイツ人学者のホルスト氏の働きかけにより1995年よりサンデックレースが開催されるようになりました。
◆マンダールに今でも見事な帆走や造船技術が残っているのはこのレースによるものも大きいでしょう。これは沖縄のサバニレースによるサバニの復活と話は似ているかもしれません。海のグレートジャーニーの航海が成功したのも彼らの様々な技術があってこそでした。昨年からこの大会はリドワン達の手を離れ、政府主導になっているようです。最近ではレース用に船体はより細く、帆はより大きく改良され、風が良ければ最大30ノット(時速50km程度)で帆走することも可能になりました。
◆2008年に初めてマンダールを訪ねた時、リドワン氏にサンデックに乗船させてもらったことがありますが、そのスピードには驚きました。帆が大型化したため、強風時には舟の転覆を防ぐ為に、風上側のアウトリガーに人が乗ってバランスをとりながら帆走します。それを体験させてもらった時に自分は何回も落水して海パンが脱げました。アウトリガーの竹が水の抵抗のないようにつるつるに磨きあげられている上に、あまりのスピードで振り落とされるのです。サンデックレースは賞金のかかった大会でもあり、チームへの参加は難しいですが、練習中には乗せてもらうつもりです。
◆今日(7月5日)、グスマンから携帯にメールが入っていたので久々に電話したのですが、自分も地元のプレ大会には参加できるかもしれないとのことで、少し期待もしています。彼は飛び魚の卵漁から帰ってきたばかりらしく、何百キロも穫れたと自慢していました。インドネシアの漁師と簡単に連絡が取れるのも不思議な時代だと思いますが、きっと数年の内に彼らの子供達はfacebookなども始めるのでしょう。
◆もう一つ、マンダールへ向かう目的としては船造りに関わってくれた人達に改めて話を聞くこともあります。縄を作ってくれたカサルディンさんというランベ村の老人をはじめ、ここ数年でお世話になった方が何人か亡くなりました。平均寿命の短いインドネシアでは70歳を越える方はあまり多くありません。今回の訪問が最後に会う機会になる人も少なくないはずです。今のうちに彼らに聞いておくべきことは何なのかと考えています。
◆あと、関野さんが名付けたクルーのダニエルの息子、Yoshiharu君に会うのも楽しみですね! 2011年の航海直前に生まれた子なので、だいぶ大きくなっていることでしょう。先日、ダニエルにも電話で様子を聞きましたが、名付け親に似たのか、かなりやんちゃに育っているようです。一ヶ月程の滞在ですが、帰国したら地平線通信にも報告できれば、と思います。ただ、筆無精なのでお約束はできません(笑)(海のグレートジャーニー・クルー 佐藤洋平)
■あなたと道具との距離を考えてみる。例えば、ホームセンターで木製の柄が付いた金槌を買うとする。所要時間15分、1280円の買い物。これが、あなたとその道具の距離である。距離といっても、物差しや地図で分かるような距離ではない。金槌を形成している素材が存在していた場所から、あなたの手元までのことである。言い換えれば、これがあなたと自然の距離である。どんな道具も食べ物も、それらの素材は自然界に存在していたものである(道具や食べ物の素材と、自分の関係性を実感として得ること。それは、映画「僕らのカヌーができるまで」及び、「黒潮カヌープロジェクト」のテーマの一つだった)。
◆金槌の金属部は、中国で採掘された鉄鉱石が加工されたもの。木製の柄は、マレーシアの森で伐採されて、人の手か機械によって加工されたもの。例え、○○産と書かれていても、金槌の素材たちがどこから来たのか、それを知ることは簡単ではない。また、どのくらいの時間と労力がかかっているのかを知ることはもっと難しい。大量生産が当たり前の現代では、製造過程が公開されることはあまり無い。
◆見せる意味が無いとか、危機管理、衛生管理のためという理由もあるが、見られると困るという理由もある。食に関する大量生産の現場では、「食欲を害するため」という理由で公開しない生産現場がある。映画『フード・インク』(Food, Inc.)(ロバート・ケナー監督 2008年)」では、アメリカの某食肉生産加工業者の悲惨な生産現場のことが語られている。
◆ある養鶏場では、大量の鶏肉を出荷するために、沢山の薬を与え続けながら暗黒で鳥を飼育する。暗闇の中で静かにエサを食べ続け、肥満状態となった鳥は、自分の体重に絶えきれず骨折をする。その農場は、内部を公開することを雇い主の会社から禁止されている。現代の不透明な生産システムの中では、人が自然との距離を知ることが難しい。
◆人が自然との距離感を失えば失う程、間違いに気づくチャンスを失っていく。また、人は自然からのものを得て生きている以上、自然を信頼しなければならない。しかし、自分たちが起こした事故により、信頼することができなくなってしまった。2011年3月、福島第一原子力発電所事故。広島に投下された原爆168発分に相当する放射能物質が、東日本を汚染した。
◆現在、東日本で安全と言える場所は無い。茨城、栃木、千葉、東京の一部の場所でも、レントゲン室(放射能管理区域)と同等の放射線量があるらしい。これは、先日聞きに行った小出裕章さん(京都大学原子炉実験所助教)の講演会の中で語られた東日本の汚染状況だ。神奈川県の保育園が主催した講演会だった。参加した父母に向けた小出さんからのメッセージが印象深かった。
◆「子供たちが被曝することは絶対に避けなければいけないが、子供たちから個性が無くなってしまうことはもっと避けたいことです。ここで言う個性とは、子供が遊びによって見つける、好みやその子らしさのことです。雨を恐れ、土を恐れ、海を恐れ、遊ぶことを制限された子供たちは、個性を見つけることができません。それは、被曝することよりも恐ろしいことです。その人らしい生き方をさせてあげて下さい。人生において、その子が知るべき価値のあるものがあるならば、迷わず優先してあげて下さい」
◆矛盾を噛み締め、苦しそうに語っていた。この土地に生きる子供たちは、もう自然を信頼することができないかもしれない。そして、自然との距離感も得ることが難しくなる。間違いに気づくにはまず、その理由を知らなければいけない。あなたとモノの間、あなたと自然の間には沢山の学びと気づきがある。「あなたのそれは何処からきましたか?」(7月7日 鈴木純一)
■2008年6月から2010年6月までの約2年間、私は黒潮カヌープロジェクトの総合マネジメントと、映画のプロデューサーを担当してきた。私の役目は、プロジェクトをスムーズに進行させること。自分の意思はさておき、全体の調和のために動く毎日だった。
◆ちょうどポレポレ東中野での上映が2週間後に迫った2010年4月のある日、武蔵美で映画のチケットを売りさばいていた最中に、実家の母から父の死の知らせを受けた。それ以降、私は死について深く考えることになった。ポレポレでの上映が終了し、石垣島に2艇のカヌーが到着した後、映画製作チームは自主上映をするための活動を始めたが、私は参加を見送ることに決めた。その頃の私は、父の死によって、今まで漠然と過ごしていた日々の時間が実は有限なものだったことを実感し、自分が持っている残りの時間をしっかりと生きていかなくてはいけないと考えていた。
◆現在私は、女子校で美術の教員をしている。「美術を手段に他者と繋がる」という自分の理想に少し近づくことができたかなと思う。黒潮カヌープロジェクトを通して得たことが、これからの私にどんな影響を与えるのかは分からないけれど、本当に自分が好きなことを、地に足付けてじっくりやっていこうと思っている。(木田沙都紀 「黒潮カヌープロジェクト」 マネジメント 「僕らのカヌーができるまで」 プロデューサー)
■大学を出てから毎日めまぐるしく、特に就職(農場)してから出産するまでは突っ走った感じだったので、グレートジャーニー展の開催に伴う関連本『海のグレートジャーニーと若者たち 4700キロの気づきの旅』のインタビューと今回の報告会は、この数年の自分を振り返る良い機会でした。
◆美大卒業後2年間、山形で農業。そして身ごもり、東京西部に戻ってきて、今は都市にぽっかりと残る田園風景の中、小さな畑を世話しながら、農的イベントを企画しています。子育てをしながら。素材にこだわって制作していたら、流れで土に意識が向いていました。それで、美大から農場に制作の場を移しました。
◆ここの畑もそうですが、東京の田畑はどんどん減少していて絶滅寸前。畑の持ち主に高齢者が多く、1人亡くなるごとに相続で農地が売却されるからです。小平の自宅の隣の広大な畑も地主さんが亡くなって、最近は毎日測量の人が来てます。地主さんは体力的理由で営農できず、たまにトラクターで耕耘して、草が生えるのを防いでいるだけだった、茶色い土だけの農地。
◆何も育てずに、畑を荒らしておく(=草ぼうぼうにしておく)と、農地とは認められず宅地並みの課税になるという変な法律があるのです。ここも、どこにでもあるような建売の住宅になってしまうのかと思うと悲しいし、腹が立ちます。
◆子供はいま1歳半です。子供を産んだら母になって、「家庭に入る」という言葉もありますが、私もまだ子供のようです。まだ、知らない世界を見てみたいし、「何かおもしろいことやりたいなー」っていつも思っています。幸い夫もいるので、家族3人(増えるかもしれないけど)おもしろく歩いていきたい。(村井里子)
■黒潮カヌープロジェクトに参加し、自然からとってきたものから自分たちでモノをつくることを経験したあと、私は再就職して会社員になりました。就職したのはスリッパの会社で、100円ショップやホームセンターの安いスリッパから雑貨屋さんやデパートの2、3000円のルームシューズまで日本全国に流通しているあらゆる室内履きを製造・販売しています。
◆工場は中国にあり、中国各地で手作業で縫製され日本に輸入された商品が日本の隅々まで流通していきます。ほとんどの工場に空調は無く、埃っぽく、接着剤の石油系の匂いが充満している中で子供が遊んでいたりしました。安価なものは下請けに出されて刑務所で生産されることもあるそうです。3年間企画担当として働き日本で企画した商品がどのように大量生産され流通されていくのかを目の当たりにすることができました。
◆おそらく私たちが今なにげなく買っている日常雑貨のほとんどが、このように生産・流通されているのでしょう。モノを手にするための二通りのプロセスを経験し、作っている人は私たちを知らず、私たちも彼らやその土地のことも知ろうともしない。そういうモノに囲まれて生きているのは、実はとても特殊な状況だと感じました。
◆10月に私と、同じくこのプロジェクトに参加した山本豊人の子どもが生まれる予定です。関野さんがよく言っていた「50年後も生きてる人たちに体験させたかった」という言葉の意味を思います。この子の生きる時代はどんな時代になるのか予想もつきませんが、私たちが体験したこと、気づいたことを少しでも伝え、体験させてあげられたらと思います。関野さんのように。(竹村東代子)
■船作りのコンセプトは「自然から素材を自分でとってきて自分で作る」だった。本来はインドネシアにある古代の船を再現したかったが、熱帯なので有機物は全部腐ってしまい残っていなかったので、船の時代性よりも作り方を追求するためにこのようなコンセプトにした。
◆今回の旅に若者を誘ったのは、色んな事に気づいてほしかったから。気づいてる事に気づいてほしかった。気づきが身に付くのはこれからで、それが活かされるかどうかは、たぶん10年くらいみないとわからない。最近の社会の評価の仕方は非常に短くて、会社では1年とか半年で評価がされてしまう。もうちょっと若者たちを長い目で、10年とか20年とかで評価してもらいたい。
◆僕はあまり責任感が無いと言われる。人をあおっておいて、じゃああとは好きにやれよって。それは、人は役割を与えるとそのとおりやると思っているから。能力を発揮するのは、たとえば明治維新なんかも、20代の若者たちが国を背負って動いた。もしあの人たちが100年前に生まれていたら、たぶん農業をやっていただけで、国を動かすことはしなかったはず。そういう「役割を与えられたからやっちゃった」というようなことは、多分多いのではと思う。
◆アマゾンでの子育もそうだった。何も教えない。少なくとも手取り足取りということはしない。1歳、2歳の子がナイフをいじっていて、当然ケガもする。親は手をださない。切れるんだってことをけがをして学ぶ。それにより観察力が鋭くなる。手取り足取り教えてしまうと、それ以上のことはできない。
◆人は役割を与えればやる。夢は自分で切り開いていくもの、僕はきっかけを与えるだけで、無責任な方がいい。たぶんこれからも人をまきこんで無責任に生きて行くと思います。若者たちの10年後、20年後を期待しています。(文責 新垣亜美)
■前を行く馬を追って、僕の乗る馬も斜面を登りはじめた。逞しい筋肉の動きに合わせ、鞍の上に立ち上がるようにして坂を登り切ると視界がパッと開ける。それまで谷間に沿って歩いていたので地形がよく分からなかったが、斜面の上は「マイルズ・ビュート」という丘の裾野が作る、広々とした台地だった。なだらかな片斜面の緑の草原を、黒いアンガス牛たちがゆっくりと一方向に移動していく。遠くの斜面を歩く牛達はゴマを散らしたほどに小さく見える。
◆200頭ほどもいるのだろうか、広がった群れの最後尾から四駆のバギーを駆って大きくジグザグに動きながら牛を追っているのはロバートとダスティだ。バギーの動きに連動してボーダーコリーのキューティーも牛の間を駆け回って仕事中。そしてここまで馬のルートを先導してくれたトワイラも牛追いを始めていた。僕もゆっくりと群れの後尾について牛を追い始める。32年前の秋、23才の僕はここで同じように馬に乗って牛を追っていた。「ここ」はアメリカ北西部のモンタナ州ブレイン郡ベアパウ山にあるコックス家の広大な牧場だ。当時僕がこの場所にたどり着いたのは全くの偶然だった。
◆1981年の5月から8月末まで、アラスカのユーコン川3300キロをイカダで下った。旅のあと、4か月間川の上で生活を共にした友人二人とアンカレッジで別れ、一人ヒッチハイクでアメリカ本土を目指した。全然予定していなかった行動だったが、在籍していた大学は3年を終えたところで休学していたし、日本に戻る航空券は一年のオープンチケット。ユーコンの川旅はとても消化しきれないほど盛りだくさんだったが、僕はまだ旅を続けたかった。探検部でもなく、技術も経験も無い青二才は初めての海外体験で少しだけ旅の自信がついたのかもしれない。
◆十数台の車を乗り継いでアラスカハイウェイを南下した。道中で最後に拾ってくれたオジサンが、コックス家の友人だったのだ。ハーブ・ドールと言う可愛らしい響きの名前とはうらはらに、大きくて、クマのようにモッソリした初老の男性だった。当時はアラスカで薬草や毛皮などを仕入れては本土で商売をしていたようだが、時には教師をしたり、大工仕事をしたりと、何でもする自由人だったようだ。
◆旅のあても無い僕は彼の故郷モンタナまでついていき、たまたまコックス家に遊びにいったのだった。家族だけで牧場を経営するコックス家に僕が興味を持ったのは「馬」がきっかけだった。乗馬の経験も無いのに、何故か馬に惹かれていた。子供の頃に大好きだった西部劇の影響なのだろうか。馬の美しさもさることながら、人と意を通じる賢さも魅力だし、エコロジカルな移動手段としても素敵だと信じていた。エコロジストかぶれだった僕は、石油をがぶ飲みして排気ガスをまき散らす車を悪徳と断じていた。そういいつつヒッチハイクをする自己矛盾を説明できないまま。
◆コックス家の当主ロバートは当時40代前半のジョーク好きなおじさん。長年のカウボーイ暮らしで足は鞍の形にガニ股になっていた。妻のオードリーとの間に四人の子供がいたが、上の女の子二人、トワイラとヴィネイはすでに嫁いで家を出ており、17才の長男マーディーと13才の三女スターラの二人が家にいた。彼らの住む家は、郡の道路に面した牧場の入り口から、さらに1キロ以上も奥まった大草原の一軒家。
◆その辺りでは極めて珍しい東洋人の僕にも分け隔てなく接してくれる気さくな一家に居心地の良さを感じた僕は、その後グレイハウンド・バスに乗ってメキシコまで旅に出た後、どうしても忘れられずにモンタナに戻った。もう10月に入っていて、草原を吹きすさぶ風が痛いほど寒く、ヒッチハイクを乞う親指サインを立てるのが辛かった。
◆この再訪までに持ち金をあらかた使い果たしていた僕は、コックス家で2週間ほど働かせてもらうことになったのだ。その2週間は、ユーコンの旅にも勝るくらいに刺激的な時間だった。遊びではなく仕事として、初めての乗馬を体験した。スターラに乗り方を教わって股がったアングロアラブ種のサンダーという馬は、子牛が群れから外れると自主的に追いかけて群れに戻す。僕は何が起きているのかも分からず、落ちないように鞍にしがみついていた。
◆一日が終わると股関節が痛くてガニ股で歩いたが、カウボーイになった証のように思えて、満足感に浸った。それから32年。あの山あいの牧場を再訪したいと切望しながら、他の地域にばかり出かけてきた。いつしかベアパウ山は幻の故郷となり、年に一度交わすクリスマスカードだけが故郷とのつながりを保証する微かな絆のように感じて来たのだが、願いが叶う時は案外ひょっこりと訪れる。今は独立して牧場を経営している長男のマーディから、今年になってeメールが使えるようになったと連絡がきた。IT音痴の彼なので交わす文面も短かく、10日に一度くらいしか連絡が無いが、手紙よりは時間差がない。
◆この機会にと思い立ち、5月から6月の1か月間コックス家に居候をした。ロバートは陽気なじい様になり、今も現役で牧場を経営している。かつてプロのロデオ選手だったマッチョな面影は残っているが、きびきびと動くことは出来なくなっていた。マーディは離婚した妻との間に10才の一人娘ブリトニーがいる。週の半分をブリトニーと一緒に過ごすのが楽しみだ。
◆現代のカウボーイ達は馬に代えて四駆バギーを駆る場面が多くなったが、牛とのつきあいを中心に絶えざる野良仕事を重ねる暮らしの本筋は変わっていない。この時期は仔牛に焼き印を押し、牧場の柵を補修し、牧草地の水路管理などで毎日が過ぎていく。インディアン居留地が多い地域でもあり、様々な社会問題もあるが、都市部とは時間の流れが違うアメリカ西部酪農地帯の牧童見習い生活は、考えさせられる事の多い刺激的な時間をくれた。(長野亮之介)
■こんにちは(^_^)。ご無沙汰してます青木明美です。なんだかメールしたくなったので……。通信の三羽宏子さんの報告会突撃記を読んで、数年前の自分と重ね合わせて「わかるぅ!!」と超共感とともに、あーそんな日々ももう終わってしまったなぁと。
◆私も2004に長男、2006に長女を授かり、報告会に行こうと思ったら、入念な準備と作戦が必要な時期がありました。2004年〜2006年当時、最寄り駅にはエレベーターやエスカレーターはなく、オムツや着替えを入れたパンパンのママバッグを背負い、下の娘を抱っこして、畳んだベビーカーを肩にかけ、歩みもおぼつかない息子の手を引き、汗だくで階段を上り、やっとこさ東京行きの電車に乗る。
◆座れればベビーカーを畳んだままでいいのですが、運悪く座れなかったりすると、ベビーカーにお兄ちゃんを乗せてなるべく邪魔にならないようにと身も細る思いでした。どうかこのまま一気に東京までと祈る気持ちの母の心をよそに、オムツからは黄金色の香りが……。あ〜オムツ替え用の台がトイレにある大きな駅までなんとか泣き出さないでおくれ……願いも虚しく……耳をつんざく泣き声が……回りからは同情と迷惑の入り混じったような視線……。
◆降ります、降りますよ〜。やれやれまだ横浜にも着いてないのに途中下車(-o-;)早めに出て来たけど、何時に着けるんだろう(>_<)途中の乗り換えでは、階段でサラッとベビーカーを持ってくれるサラリーマンがいたりして「さすが東京!」と思う事もありつつ、田舎に比べればバリアフリーになっているよ、たしかに……。でもちょびっとの階段のための迂回スロープはとんでもない長さだったり、やっと見つけたエレベーターで地上に出ると、ここはいったいどこなの?みたいな事も。「本当にこれが先進国ニッポンの世に言うバリアフリーなの?」と子を持って初めて知った現実もありました。
◆まぁ時は流れ今はエレベーターやオムツ替え台の無い駅なんて無いし、バスや電車でもベビーカーを畳まないのが常識になったけれど。なんて事を懐かしく思い出しつつ、それも過ぎてしまえば、本当にあっという間でした。下の娘が小一になり、子連れ移動にオムツも着替えもいらないし、N天堂様の魔法の小箱(またの名をDS)を与えさえすれば目的地まで無言で集中する子供達(それもどうかとはおもうけど‥苦笑)親について来てくれなくなる日も、すぐそこへ来ているのを感じます。
◆私も母親3年生くらいまで、世界からの孤立感を感じたし、お子様向けに埋没したくなかった。でも子育ては終わりが来る、期限付だから。子供がいなければ味わえない経験や醍醐味もあります。みんな迷惑をかけて大人になってます。みんな通った道だから。頑張って三羽さん!!
◆息子のサッカーの試合が荒天中止になったGW前の4月の日曜日、天からのプレゼントだぁ!! と子供達を連れて科博へ行って来ました。荒天だったので通常の日曜日よりはすいている感じで割と見やすかったです。小さいうちから折に触れ、美術館や博物館を連れて歩き、財布が痛いなぁと思いながらも毎回、子供達の理解の助けになればと、各々に必ずイヤホンガイドを借りていました。イヤホンガイドを半分も聞かずにあきちゃったり、美術館で突然走り出したり、さわるなと言うものをさわっちゃったり、親はまったく身を入れて見られない日々でした。
◆今回、小学生になった子供達はイヤホンガイドを傾聴しながら順路を進み、隅々まで見ていました。私と言えば3DのLife is Journeyでは、なんでか涙がこみ上げてしまいました。涙腺がゆるむのは年ですね(笑)またメールします(^_^)ジメジメしますが、お元気で!(青木明美)
■この前の、三羽さんの子連れ参加記、仰天しました。がんばりましたね!と、握手をしたい気持ちになりました。私はもうすぐ2歳になる娘と、11月に出産予定の2人目がお腹にいて、昼間はともかく、夜の外出は、とても頑張れません。娘もそうですが、私も夜は早々に寝てしまう日々です。3月からずっとつわりで、四六時中、車酔いした感じが続いていました。だけど娘は元気爆発で、外遊びが大好き。一人目の妊娠の時は、自分の体と生活の変化に戸惑い、情緒不安定になりがちでしたが、二人目の今は、ただただ体力勝負です。
◆ようやく体調が落ち着いてきて、通信を読む気力を取り戻したところで三羽さんの記事です。子連れでの夜間外出は、お子さんに対してだけでなく、世間や旦那さんへの何となしの心苦しさがある感じ、共感しました。実際に、いつ乗っても、電車内での子連れへの目線は厳しいです。それに、「お母さんなのに自分の好きなことのために、子どもに無理させるというのはどうなのよ」という気持ちが、私の中にはあります。
◆理由が仕事とかじゃなくて、自分の好きなこと、というのがモヤモヤしてしまうポイントです。勝手に行動範囲を狭めている気もするけど、自分を納得させる理由がまだ見つかりません。この前の地平線に書かれていましたが、地平線の女性陣にも、子持ちが増えてきましたね。仕事を続けている人も、辞めた人もいると思います。でも、そのどちらの立場でいることも簡単なことではないです。
◆政治家は保育園を増やそうと頑張っています。保育園が増えると選択肢が広がるので助かりますが、そうなると、働かない母親は怠け者のように思われるかもしれないですね。私は、本音は週の半分くらい本業の日本語教師の仕事をしたいです。1週間フルで働くことは、今は望まないです。
◆妊娠中からずっと、こつこつ子どもを育ててきて、まだ自分がしたいことも言えない、他の誰よりも「お母さん大好き」の小さい子を、他人に預けて働くっていうのは、精神的に楽なことじゃないと思います。日本にはお手伝いさん文化もないし、手作り料理万歳だし、イクメンばかりじゃないし、働いているお母さんは、本当に、心身ともに大変です。尊敬します。
◆カツカツでも、今は旦那のおかげで家族分は賄えているので、私は子育てに専念できます。20代の自分が知ったら驚愕しそうですが。でも、毎日、楽かというと、そうでもないです。お母さんに休みはないし、子どもはイヤイヤイヤー!と自己主張の嵐だし。でも、人生で子育てに集中する期間があるのも面白いと思って、今の生活を楽しんでいます。ありがたいことです。
◆つわりが治まってから、日に何分かでも、本を読んでいます。最近、負傷した風間深志さんを皆さんが応援してつくった『鉄馬のドン・キホーテ』と、本多有香さんの『うちのわんこは世界一!』を読み返しました。そのうち、子どもと話せるようになったら、「お母さんは、昔、あれして、これして、どこ行ったんだよー」という話だけでなく、「今は、これ頑張ってて、将来は、これしたいんだよー」という話のできるようになろうと思いました。2人目が生まれる前に、昼間、地平線があれば参加したいです。また皆さんにお会いできる日を楽しみにしています。(黒澤(後田)聡子)
■ご無沙汰しています。お元気ですか。今日の地平線報告会は、縄文号の若者たちが大集合ですね。聴きにいきたいところですが、残念ながら今日は予定があるので行けません。しかし、先週の土曜日、東北芸術工科大学(東北文化研究センター)で『僕らのカヌーができるまで』の上映会&関野さんのトークがあり、それにはしっかり参加しましたよ。こちらでは「海のグレートジャーニー」の写真展も開催されました(6/12〜本日まで)が、今回の企画は現在東北文化研究センターの所長をしている田口洋美さんの企みであることは明白です。
◆実は、国立科学博物館の「グレートジャーニー展」にも2回行きました。本当は科博で開催された地平線報告会にも行きたかったのですが、その日は外せない用事が入っていて行けませんでした。2回とも日曜日だったためか、老若男女たくさんの人が熱心に展示をみていたのが印象的でした。
◆個人的には、帆を張った縄文号を見られたことがよかったですね。ムサビに展示された時に実物を見て(触って)いますが、帆を張った状態は今回が初めて。やはり迫力がありました。今日は『僕ら……』の若者たちがたくさん参加するので、多くの人で賑わうことと思います。関野さんはじめ、皆さまによろしくお伝えください。
◆10月には「山形国際ドキュメンタリー映画祭2013」が開催されます。今回もインターナショナル・コンペティションの選考に関わりましたが、1000本を超える応募作品から映画祭で上映される15本も先日決定しました。今回も多彩なラインナップですが、注目されるのはコンペに東日本大震災をテーマにした作品『なみのこえ』が入ったことですね。被災地の映像はほとんど入らず、被災者の対話による「こえ」で構成された映画です。映画祭または別の機会にでもぜひご覧ください。http://www.yidff.jp/2013/program/13p1.html
◆いよいよ夏本番ですね。江本さんもお体に気をつけて、暑い夏を乗り切ってください。またお会いできる日を楽しみにしています。(山形県酒田市 飯野昭司 6月28日 報告会当日)
■梅雨が明けて、本格的な夏の到来。今年はまだ報告会に参加していない……。地平線通信が届くと複雑な気持ちになります。通信に書いていらっしゃる方々も、お顔を知らない方が多くなりました。5月の地平線通信に興味深い文を見つけました。これまでも旅に関わる幾つかのイベントに参加された経験のある福田晴子さんが地平線報告会の印象について短く触れていらっしゃいました。
◆《世界一周や旅に憧れる若者達のイベントでは「自分」が重要なキーワードであり、年頃のためか、自分の人生、自分探し、自分の殻を破りたい、成長といったフレーズがよく聞かれます。地平線会議では、旅先の文化、歴史、自然、政治、民族などの詳細や現状の説明が繰り広げられ、「自分」の話はほぼ皆無。情熱をもって語られているのは、何かを追究している自分についてではなく、追究している対象についてです。「外向き思考」だ、と思いました。
◆驚きました。世の中はそんなことになっていたのか。旅って自分探しをするための道具として考えられているの? 福田さんの文の主旨ではない部分でしたが、心に留まりました。会ったこともない方に、刺激を受け共感を覚えて、いつか会えることを夢想するのが、通信を読む楽しみのひとつですね。
◆ところで、自分自身を顧みても、自分探しの旅なんてしたつもりはなく。けれど、周りからはそんなふうに見えていた時期もあったかもしれません。さかのぼること18年前の1995年夏。北海道から広島までを、平和と反核を願いながらリレー形式で走る、「セイクリッドラン(大地といのちを癒すためのランニング)」が行われました。ネイティブアメリカンの活動家デニス・バンクスも来日しました。
◆利尻島から走りだす本隊の他に、福島から北へ走り、青森県六ヶ所村で本隊を迎えるブランチランも企画されました。福島の友人から誘われ、参加。すでに走り出していたブランチランに、途中で合流しました。聖なるトーチを掲げて2キロくらいずつ交代で走って走って走って。六ヶ所村に入るあたりの風景が懐かしい。キャンプもしたけど、最後は福島に戻り、ランのメンバーの家に泊めてもらうことに。武藤類子さんという女性のお宅でした。
◆おっとり優しい方で、たくさん話したわけでものないのに、大切なことを伝えてもらったと感じました。当時、養護学校に勤務されていた類子さん。「こんな仕事があるんだぁ」と思ったことをはっきり覚えています。思考は現実化するというけれど、今、地元で特別支援学校に勤めることになったのは、そんなところからきているのかもしれません。うん?これって自分探し?
◆話は現在に戻って。6月末、その武藤類子さんに高山で再会しました!! うわぁ〜奇跡だ!! 類子さんは、セイクリッドランの数年後、教師を辞めて、福島県三春町で電力も自給自足する喫茶店を経営。「ハイロアクション福島」の活動もされていました。でも、原発震災ですべてが汚染。そして、閉店。2011年9月の「さようなら原発集会」での、福島県代表としてのスピーチは、ご存知の方も多いと思います。現在は、福島原発告訴団団長として、全国各地で講演もされています。
◆その日は、図書館のホールを借りて、「放射能について知ろう!の会」という学習会を企画していました。2月に「福島の今」と題し、原発被災者の方のお話を聴く会。3月は「原発と地震」についてのDVDを観る会。今回は「放射能ってどこがこわいの?」というDVDを観て、放射能を排出する食べ物についての情報交換会の予定でした。ところが前日に、長野県上田市の友人から「福島原発告訴団団長を連れていくから。学習会で話してもらおうよ」と連絡が。上田市で講演会があり、そのあと、無理無理、来てくださったのです。
◆この日に学習会を設定していたから、ちょうどいい場所と少人数だけれど参加者も用意できました。ほんとにうれしい偶然でした。類子さんの切実なお話を高山の方々に聴いてもらえて、本当によかったと思いました。18年前の一泊を、類子さんも覚えていてくださったことに感激でした。興味をもって行動することが、未来に繋がっていくのだと、実感!
◆そして、この土曜日も急展開! 嬉しい驚きがありました。江本さんが高山へ! 数日前、「週末、高山へ行くからよろしくね」と、突然の電話。えっ、そんな急に。嬉しいけど困る。慌てて宿を予約し、せっかくだから美味しいお店も、と準備万端。高山は山国だけれど、富山湾から120キロほど。魚料理が自慢のお店がたくさんあります。今回も、そんな一軒へ。トレーに乗った何種類もの魚の説明を受けて、調理方法も自分で選ぶ贅沢なところ。
◆お酒はもちろん飛騨の地酒。繁華街からは離れているけれど、地元民でいつもいっぱい。ここはどこだっけ? 江本さんが隣でニコニコ飲んでいる。うっかりすると、四谷や新宿と錯覚しそう。地平線会議に顔を出すようになって、もう20余年。でも、江本さんとこんな風にお話できる機会は、そうそうあるものじゃない。おだてられたり、叱咤されたり。親の介護話にまで話は及んで。
◆カウンターで焼き魚や刺身を食べていたら、カレーの香りが漂ってきて。まかない料理の準備が始まりました。黙っていられないのは江本さん。「ねぇねぇ、そのカレー何が入っているの? 私は毎日のように野菜たっぷりのカレーを作ってるんだよ」。お店の方から「カレー屋さんなんですか」なんて質問されて。魚料理がメインの店だけあって、貝柱を必ず入れているとのこと。肉は、余ったものを。食べさせてとは決して言わない江本さんの強い視線のおかげで、まかないカレーまで味わうことができました。さすがに美味しかった。ああ、でも恥ずかしくてもう行けないかも……。(江本さんと一緒に久しぶりに朝市を堪能した 高山市 中畑朋子)
■こんにちは。サッカーワールドカップの前哨戦であるコンフェデレーションカップに参戦した日本代表は3連敗で終わりました。事前インタビューで本田選手は優勝を狙うと発言していたので、口先だけとの批判もあります。しかし12年前の日韓W杯前年に開かれたコンフェデ杯で日本は準優勝しているから、優勝を狙うのは当然のことですよね。
◆皆さん、お忘れと思うので少し解説しますと、あの時の準決勝の相手はオーストラリア。今はアジアの連盟に加盟していますが、オセアニア代表でした。横浜国際競技場で土砂降りの中で行なわれ、中田英寿のフリーキックが決勝点になり、見事、決勝進出を果たしました。クールな中田がゴールが決まった瞬間ガッツポーズをとったのが印象に残っています。
◆決勝の相手はフランスでした。ところが決勝戦当日は、中田の所属するASローマのリーグ最終戦が重なってしまった。リーグ優勝の場にいることを優先した中田は、なんとイタリアに戻ってしまいトルシエ監督が激怒したことはいまも語り草です。一方で共催国の韓国はコンフェデ杯では惨敗しましたが、翌年の本大会では4位となり、すっかり1年前の結果など忘れ去られてしまいました。ということは、来年開かれるW杯もまだまだ期待できそうです。ザッケローニ監督には、これからの1年間で良いチームに作り上げてくれと祈るばかりです。
◆さて、私事について少し。皆さんにはお話ししていませんでしたが、勤務先の希望退職に応募し4月から無職となりました。そのおかげで、今回は朝の4時からであろうとTV中継を心置きなく楽しめました。見ていて前回の南アフリカとは異なり、さすがはサッカー王国のブラジルだけあり、普段から観戦している人たちで会場が満員になっており、とても良い雰囲気が伝わって来ました。来年はブラジルへ観戦に行くぞと決意したいところですが、何せぷーたろうの身。1年先の予定を簡単に立てることが出来ないのが辛いところです。
◆サッカーにも並々ならぬ関心をお持ちの編集長(確かヴァンフォーレ甲府を応援とか)に免じて、J2の話題をひとつ書かせてもらいます。20年前のJリーグ開幕当時、大阪に住んでいたので私はガンバを草創期から見続けている古参サポーターのひとりで、もちろん「年間シート」も持っています。そのガンバが、日本代表や元代表が多数所属し、得点数が最も多いチームにもかかわらず昨年はJ2に降格してしまいました。
◆降格したからこそ、今シーズンは動員数でサポーターの質が試されます。しかし、ホームの試合は観客が半減すると思っていたのが、あまり減っていません。これは誇れることです。さらにアウェイの競技場がみな満員になるという現象が起きています。8月4日開催のファジアーノ岡山戦のチケットも即日完売しました。発売日を事前に確認していたのでアウェイ席を購入できましたが、アウェイの地でガンバの試合を見るにはかなりの努力が必要だと実感しました。
◆今まで強豪チームがJ2に降格することはあっても、ここまで動員力のあるチームはなかった。ガンバ大阪は「J2活性化の救世主」になったのです。その勢いに私も学びたい、と思います。
★追伸 4月には山形へ行ってきました。飯野さんの案内でおいしいものをたくさん食べ、試合にも勝たせてもらい大満足のアウェイ観戦旅行となりました。(岸本佳則 大阪市)
地平線通信410号(2013年6月号)は6月12日に印刷、封入し、13日メール便で発送しました。印刷、封入、発送作業に参加くださったのは、以下の皆さんです。ありがとうございました。
車谷建太 岡朝子 森井祐介 加藤千晶 福田晴子 久島弘 山本豊人 江本嘉伸 杉山貴章 中山郁子
昨日、今日と久々に沢登りに行ってきた。奥秩父の聞いたこともなかった小さな沢を登り、途中で二時間ほど釣りを楽しみ、たき火をたいて岩魚を焼き、せせらぎの音を聞きながら横になり、翌日、これまた聞いたこともなかった秘峰と評判の二千メートルぐらいの山に登頂し、反対側の沢を下りて秩父湖に着いた。ヒッチハイクをして通りがかりの建設会社の人の車に三峰口駅まで乗せてもらい、西武線に乗り換えてレッドアロー号の座席に座った頃、江本さんから電話があり、「1ページ開けて待ってるよ」と言われて、ああ地平線通信を頼まれていたのだったと思い出してこの原稿を書いている。
なんということもない小さな沢旅だったが、私にとっては何だかとても新鮮だった。学生の時に奥多摩の海沢で初遡行の洗礼を受けて以来、沢の泥臭い、そして次にどんな淵やら滝やらが出てくるのかよく分からない探検的な魅力に取りつかれ、以前は随分と沢に通い詰めた。
剱沢大滝も登ったし、屋久島の宮之浦川と小楊枝川を単独で遡下降したこともあった。わざわざ梅雨時期の増水した沢を登りに南アルプスに毎年足を運んだこともあったし、東北や紀州にも何度か行った。
しかし三年半ほど前にチベットのツアンポー峡谷を探検してから、すっかり沢登りとは縁遠くなってしまった。ツアンポーで泥の中を這いつくばり、固い灌木をかき分け、イバラを乗り越え、燃えにくい木で毎日2時間以上かけて火を熾し、ずぶ濡れになって寒い日を過ごし、空腹に身悶える……といった日々を24日間ほど過ごした結果、さすがに「緑の魔境」系の山登りはしばらくいいやとうんざりしてしまったのだ。
それからというもの、岩登りのアプローチのために2度行ったのと、あまりの猛暑に耐えかねて水浴び目的で行った合計3度をのぞき、沢にはまったく足を運ばなかった。行きたいとも思わなかった。沢に行きましょうよと誘われることもないではなかったが、沢は汚いからあんまり行きたくないんだよとか言って断っていた。それに最近は北極探検が主たる活動になったこともあり、夏はそのトレーニングでボッカ訓練をしなくてはならず、それもあって沢から足が遠のいていた。
ところが、あれだけ一時期敬遠していた沢が、最近は行きたくてムズムズしてきた。理由は簡単。このところ極地にばかり通っているせいで、沢というか、日本の山や森が持つ温かい自然が懐かしくて仕方がなくなってきたのである。
極地は、それはそれで大変魅力的な地域であるが、どちらかというと寒くて、風が痛くて、過酷で、死がそこにあるように感じさせる厳格な自然である。日本の自然のように生命感やエネルギーが躍動する雰囲気は一切ない。虫もいなければ魚もいない。いや魚はうようよいるのだが、雪と氷に支配された冬や夏は、いる感じが全然与えられない。
もちろんマイナスイオンも皆無である。その反動で突然沢に行きたくなったのだと思う。とにかく水をじゃぶじゃぶかき分け、魚を釣って、焚き火をして、その辺でごろんと眠りたいと無性に恋しくなって、いてもたっても居られなくなったのだ。そういうわけで強引に二日間の時間を作りだし、本当に山に行くの? という妻の北極の風のように冷たい視線を跳ねのけ、西武線の電車に飛び乗った。
今回登った沢はザイルも必要がないような歩くだけの沢だった。一応、昔からの習慣でヘルメットとハーネスは装着していたが、それがいかにも大げさに感じられ、つい一人で恥ずかしくなるような沢である。だがとても楽しかった。昔は5級とか6級というルートのグレーディングばかりが気になり、突破困難なゴルジュがあるかとか、登りごたえのある滝があるかということばかりを気にしていたが、今は沢にそういう困難さはまったく求めていない。その沢の魅力を分かろうとする心の余裕ができたのかもしれない。
今、私がやりたい沢登りは漂泊沢登りとでもいうべきものだ。2週間とか20日間とか長い日数に最低限必要な食料をザックに詰めこみ、南アルプスなり北アルプスなりの大きな山塊を無目的に練り歩く、というか練り登る。その際、重要なことは目的地を定めないことだ。はじめのルートだけ決めておき、あとは地図を見て、その日の気分と天候の状態で、この支流を登って、向こうの沢を下りてみよっか、といった具合に適当に漂泊する。
雨が降ったら停滞し、体の調子がよければガンガン登る。地図以外には情報を持たないので、その沢がどんな沢なのかは行ってみなければわからない。
実はこの漂泊系の行動は、沢だけではなく、極地でもやりたいと考えている。漂泊系極地探検である。目的地を設定すると、どうしてもそこに到達することにばかり目が向いてしまうため、精神的に自然にどっぷりと浸かれない。登山だとか探検を長く続けているうち、最近私はそのように考えるようになってきた。行為がどこかスポーツ的になってしまい、旅的でなくなってしまうのだ。
そもそも登山にしろ極地探検にしろ、なぜそんなことをやるかというと、行為そのものに伴うプロセスが重要なわけで、実はゴールにさして価値があるわけではない。山でさえ頂上が必要なのか私は疑わしいと思っている。だったらそのプロセスを大事にしようということで、去年からは冬の北極をGPSを使わずに六分儀で旅をしている(宣伝になりますが、この旅に関しては近々、文藝春秋社の「オール読物」で連載が始まります)。
とはいえ北極圏では村の数も限られており、しかも何百キロと離れているので、どんなに漂泊系にしたいと思っても、最終的にはどうしてもどこかの村に到達しなければならない。その極地では実現の難しい完璧な漂泊、美しい漂泊をいつか沢でやりたいのだ。「奥の細道」ならぬ「奥の細沢」だ(と書くと、ちょろちょろとした小さな流れを想像してしまい、あまり面白そうではない)。
今年は仕事が立て込んでしまい、実現は難しそうだ。来年も夏にちょっとした計画を考えており、無理だろう。となると再来年以降となるかもしれないが、必ずいつか実行したい。そのためにも今年は黙々と空いた時間に釣りの技術でも磨こうかと思っている。
■先月の通信でお知らせした以後、通信費(1年2000円です)を払ってくださった方々は、以下の通りです。3年分、5年分をまとめてくださる方も少なくなく、感謝しています。万一、記載漏れがありましたら、必ず江本宛てにお知らせください。アドレスは、最終ページにあります。
土谷千恵子(8000円)/小関琢磨(10000円)/村井龍一(6000円)/又吉健次郎(5000円)/海宝道義・静恵(10000円)/豊田真美(8000円「毎月興味深く拝読しています。通信費を送信します。たぶん2012年からの分で2015年までです。よろしくお願いします」)/大塚覚(10000円 「5年分の通信費です」)/吉岡嶺二(3000円「7月7日 イスタンブールのボスポラス海峡を渡ってきます」)/藤本亘
■6月28日、江本さんに誘われて初めて地平線会議に行った。ほんの2か月前までその存在すら知らなかった地平線会議に私が参加したのは、あることがきっかけだった。
◆「あること」とは、私の父の死(注:5月号13ページ参照)である。地平線通信に江本さんが幾度か父との山行などを書いてくださっていたので、ご存知の方もあるかもしれない。私の父は「神戸在住のタフなT」こと、鳥山稔である。父は、一般的な“おじいちゃん”をはるかに凌ぐ体力で、北、南アルプス縦走やペルーの最高峰ワスカラン南峰登頂などをやってのけた。
◆その一方で、家の庭で100種以上のバラを咲かせてイングリッシュガーデンを作ったり、パソコンを自前で組み立てたり、英語とスペイン語を自由に操ったり……、と興味の対象は多方面にわたっていた。私に娘が生まれてからは、神戸近郊の山々に一緒に登ったり、家の外壁に作ったクライミングウォールでトレーニングさせたり、ということにも力を入れていた。
◆地平線会議を知らなかったのと同様、父の死まで江本さんという人も知らなかった。最期の瞬間を共に看取り、そのあとのセレモニーを一緒に作り上げていく過程で、僭越ながら江本さんと私が同じ感覚を持っていることをひしひしと感じた。皆まで言わなくてもすべて分かってもらえる。その心地よさから、電話で話したりお宅に行ったり、ということが始まった。
◆そんな中で、江本さんは私の抱えるストレスに気付いてくれた。何かをしたいが幼児を抱えたただの主婦に何ができるのか分からず、家の中でくすぶっていた私を外の世界に連れ出してくれた。6年前に結婚するまで、私は文字通り「外」にいた。バイヤーという仕事柄、年の数か月は海外に出向いて働き、週末は宝塚の自宅から方向のみを決めて気の向くまま愛車を走らせ、気に入った景色があれば車を停め、服のまま渓流に飛び込んだり冬の日本海に飛び込んだり……。
◆好きなことだけをやっていた生活から一転、結婚を機に何処にも行けず誰とも話せない、内に押し込められた生活に変わってしまった。父の死と江本さんとの出会い。その二つによって私の中のやる気に火が付いた。そうだ、私だって北八ヶ岳にも南アルプスにも登った。父の作ったロードレーサーで大山(だいせん)も走った。父が私に経験させてくれたことをこのまま埋もれさせてしまってはいけない、と思い始めた。
◆地平線会議への参加は、私が再び外の世界へ出る最初の一歩になった。様々なことに体当たりでチャレンジし続ける頑強な人たちから刺激を受けて、私が二歩目を踏み出すのはもうすぐだ。この夏、4歳の娘を連れて八ヶ岳に登ってきます!(瀧本千穂子 八王子市在住)
■猛暑の中、411番目の地平線通信をお届けします。今回は、やや短めに(12ページぐらいか)、と思っていたが、読ませるもの多く、結果的に14ページになった。
◆5月号の三羽宏子さんの原稿への反響がいくつか(電話でも)あって、良かった、と感じている。先月もここで書いたように、子育てや仕事で自由に動けない時はあっていいのであって、そういう時でも地平線報告会や地平線通信を遠く感じないでくださいね、となんとなく私は言いたいわけ。といっても、気持ちはわかりますよ。
◆6月末、RQ災害教育センターが企画した「見る、感じる、対話する 東北2つの被災地から未来を見つめる旅」というツアーに参加した。気仙沼小泉地区で地元の阿部正人さんが集団高台移転、防潮堤建設計画など話してくれたが、とりわけ防潮堤の無意味な大げさぶりがわかりやすく聞けた。住民を守るとの名目で巨大なコンクリートの構築物を作ってくれるのだから、なかなか反対しにくい雰囲気があるのだろう。しかし、本気でそれが必要だ、と考えている人はそんなに多くはないのだろう。
◆夜のミーティングには3月の報告者、佐藤徳郎さんもきてくださった。。お元気そうだったが、地元南三陸町中瀬地区の高台移転計画は、かなり難航しているようだった。このこと別の機会にしっかりお伝えします。
◆高山駅前の案内所に「飛騨高山ぶらり散策マップ」というのがあった。便利な地図なので重宝したが、驚いたのは、英語以外に、スペイン語、フランス語、ドイツ語、中国語、韓国語、タイ語版がそれぞれあることだった。そう言えば朝市にも外国のツーリストが目立った。高山はとうに、立派な国際観光町なのでした。(江本嘉伸)
欲望の天嶮
「エベレストって、欲望が渦巻いてる特殊な山なんですよ。名声とか征服欲とか、昔からいろんな欲望の対象になって磁石みたいに人をひきつけてきた。しかし一方では聖地として崇められてもきた。決して孤高の山じゃないんです。その二面性が面白いなあ」というのは写真家の石川直樹さん(36)。'01年にチベット側からエベレストに登頂し、10年後の'11年にネパールから登頂。どちらも公募登山隊で登り、2度目には登山をサポートするシェルパ族の文化に魅せられました。 以来、'12年にはマナスル、'13年にはローツェ登頂と、ヒマラヤ界隈に通い続けています。「エベレストを隣の山から同じ目線でちゃんと撮りたいんです。そういう写真がありそうでないんですよ。誰もが知った気になってる既存のイメージを、写真でひっぺがしたい。ラクな登山と思われてる『公募登山隊』が果たしてきた役割を伝えたり、昔とはずいぶん変わってきたシェルパ族の今の姿を記録するのも同じ発想かな」と石川さん。 今月は石川さんにエベレストの新たな魅力について語って頂きます。 |
地平線通信 411号
制作:地平線通信制作室/編集長:江本嘉伸/レイアウト:森井祐介/イラスト:長野亮之介/編集制作スタッフ:丸山純 武田力 中島菊代 大西夏奈子 落合大祐 加藤千晶
印刷:地平線印刷局榎町分室
地平線Webサイト:http://www.chiheisen.net/
発行:2013年7月10日 地平線会議
〒160-0007 東京都新宿区荒木町3-23-201 江本嘉伸方
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Fax 03-3359-7907 (江本)
◆通信費(2000円)払い込みは郵便振替(料金が120円かかります)、または報告会の受付でどうぞ。
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議
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