2013年6月の地平線通信

■6月の地平線通信・410号のフロント(1ページ目にある巻頭記事)

地平線通信表紙

6月 12日。昨夜からの細い雨が降りしきっている。台風3号は太平洋側を中心に明日にかけてかなりの雨を降らせるという。空梅雨が心配されはじめていた農業にはありがたい話だが、西日本各地や日本海側では最高気温30数度の猛暑。気温の激変は要注意であろう。

◆こういう日は朝からサラダに限る。きょうは、特別メニュー。といっても、レタス、きゅうり、そして私のサラダメニューとしては初めての「小松菜」を大雑把に切って盛り、カラカラに揚げたベーコンを盛って軽くドレッシングをまぶすだけ。小松菜は、きのう都内の特産地から買って来たばかりなのだが、シャキシャキと歯ごたえがあり、茎の部分が甘い感じでおいしい(この取り合わせだときゅうりは要らなかったな)。

◆先月号の通信12ページに小さく「はみ出し通信」が載っている。《丸山純+長野亮之介のコンビが、「江戸川区の都市農業」をテーマにした企画展示を手がけています。花や小松菜の生産農家を取材した長野画伯のイラストが、大きく引き延ばされて会場を飾るそうです》という内容。そうだ、ときのう11日、都営新宿線の最寄り駅曙橋から17駅目の篠崎駅に行ってみた。

◆駅に直結した「しのざき文化プラザ」3階の企画展示ギャラリーに一歩入ると、入り口に地平線イラストレーター、長野亮之介画伯の「えどがわ農力図鑑」の題字とともに鮮やかなイラスト。一瞬にして、おなじみ感に包まれる。会場いっぱいに、画伯のカラフルなイラストが広がっているのだ。全体制作は、もちろん丸山純。体調万全とは言えないのに、徹夜に近い状態を続けながら制作にあたっていた、その成果が目の前に広がっている。

◆いきさつは知らないが、長野・丸山コンビが江戸川区の農業とこれほど真っ正面から取り組んでいたとは、新鮮な驚きだ。画伯が描いたイラストは19点。花の家族と小松菜の家族のふたつのストーリーで構成されている。子どもたちにカメラを渡して撮ってもらう、ご存知「デジカメ教室」はじめ丸山純がパキスタンの奥地、カラーシャ族の村でやってきた手法をここでも活かした、と丸山本人は言っていた。ただし、せっかくの内容なのに、平日の昼ということもあって、入りは今少し。皆さん、我らの2人の作品です。是非見に行ってください。会場は、都営新宿線篠崎駅の真上。7月15日までやっている。なお、小松菜は、江戸川区小松川付近で、ククタチナ(茎立ち菜)を品種改良して栽培され始めたといわれ、まさにご当地特産野菜なのであった。

◆関野吉晴監修になる「グレートジャーニー展」は9日に終わった。最終日も行ってみたが、相当な混雑であまりゆっくりは見ていられなかった。「キッチン好き」のおとなとして、あの会場にあったいくつかの「メニュー」をメモすることが6回目の見学の主目的だった。たとえば、インカの祭事定食「クイの丸焼き」だ。材料は、クイ3匹 にんにくひとかけ コリアンダー 油大さじ3 岩塩少々。調理法はイラストつきなのでわかりやすい。クイとは、テンジクネズミ、またはモルモットのことである。

◆東京新聞の文化欄でも取り上げられた「探検家・関野吉晴のパンツ」も相変わらず人気だった。1978年、初めてヤノマミ族に出会った時、言われた。「お前はパンツを3枚も持っているがオレには1枚もない。沢山持っているならどうしてくれないのか」。1枚を残してパンツをあげたドクドル、帰る時、「あんたは、弓矢を沢山持っているのにどうして僕にくれないのか」というと、なんと40本もの立派な矢が集まった、という。「たくさん持っている人は分け与える」が、そのコーナーの標題だ。展示品に、ヤノマミの矢とチェックの関野のパンツ。

◆縄文号も撤去される。なんかもったいない。で、考えた。あの舟をつくった若者たちの熱気を、地平線会議の場でもう一度テーマにできないか。ムサビOB、OGたちも快諾してくれ、そのうち5人が6月6日夜、荒木町の我が家に集まった。縄文号ができるまで、いろいろな役割を果たした若者たち。

◆こういう時、私の役割は議論を引っ張ることではない。できるだけおいしく量がある食事を用意することだ。まあ、そんなにレパートリーがあるわけではなく、この夜は、野菜を豪快に使うご存知エモカレーにした。ゴーヤ、オクラ、セロリ、タマネギ、茄子、ピーマン、ニンジン、ウリ、リンゴ、ニンニク、赤唐辛子。それにひき肉。3.11のボランティア活動でもそうだったが、私ができるのは飯作りの助手ぐらいなのだ。ただし、野菜も肉も自分でつくったものはひとつもない。小松菜だって150円で買ったものだ。何かひとつは自分で食べ物を育てる。それが私へのメッセージであろう。(江本嘉伸


先月の報告会から

※(コメジルシ)のプライド

山田和也

2013年5月24日  新宿区スポーツセンター

■前回の国立科学博物館での関野吉晴さんの報告会に続いて、“グレートジャーニー”のディレクター、“プージェー”の映画監督として地平線ではお馴染みの山田和也さんが登場。96年の“神戸の震災の記録”以来2回目となる今回は、還暦を目前に「35年間見聞きしてきたテレビの世界を通して、自分史としてテレビ史を綴れたら……」という前説と共に幕が開く……。あれ?会場の向きが逆…!?と皆さん驚かれたことでしょう。実はプロジェクターが新調され、今回は会場背面の壁一面に映像をより大きく映し出してみようという実験的試みなのでした。さてはて、どんな映像とお話が飛び出してくるのでしょうか……!

◆山田さんがテレビ業界に入る経緯には、農大探検部出身でその活動に由来するところが大きい。当時憧れていた植村直己さんは垂直の世界から北極圏に探検の舞台を移し、日大隊もグリーンランドに入るなど、北極点を目指す向きがあり、山田さんも「実は後輩と共に北極圏を狙ってました」とカミングアウト。農大探検部の方針“一番になるよりも、人のやっていないことをやる”に乗っ取り、犬ぞり以外の方法論を模索しながら知床半島の冬期一周を果たしている。しかしながら、この時からテレビの世界へ歩みゆく山田さんの運命の歯車は静かに回り始めていたようだ。ロンドンから帰国した農大探検部OBの国岡宣行さんに地球の砂漠化について説かれ、強い影響を受けた山田さんは「北半球をやってる場合ではない」と半ば強制的にアジア・アフリカへと目を向けるのであった……。

◆76年10月〜77年1月にインド・ガンジス川全流降下を仲間と共に5人で敢行。持参したゴムボートは税関を通らず、現地の漁船を使って1200kmの聖流を下る。夜盗対策として目立たないようにしていた為にネパール人と間違われ、石を投げられる差別を肌身で感じながらも、ゴールとしていたベンガル湾に浮かぶサガール島に辿り着くと、そこはヒンズー教大祭の真っ只中であった。自分達にとっては探検ごっこの川下りであったのだが、地元新聞には「仏教の国から来た偉大なる大巡礼者“5 Japanese(7人の侍になぞらえて)”」との大きな見出しがついた。ガンジス川全流降下は世界初であったことに加えて、ヒンズー教の人々にとってのあらゆる聖地を巡る聖なる旅路であったのだ。そのため弱冠22才の山田青年は各地で聖者扱いを受けることになる(頭を垂れる人々に息を吹きかけ祝福していたのだそう!?)。

◆翌年にはインド・チベット文化圏のラダックの越冬に挑戦する。中印紛争の影響で長い間立ち入り禁止だったのだが、1974年に解禁したばかりの状況、世界中のジャーナリストが祭礼の多い冬季の滞在を試みたが、通常の3か月ビザでは足りない。欧米勢がことごとく追い出されてゆくなかで、アジア人の山田さんは喋らなければ大丈夫。峠が閉まるまで潜伏出来れば成功となるのだが、すんでのところで警官に見つかってしまい敢えなく追い出されてしまう。しかし、ラダック滞在中に撮った写真で(怪しい)月刊誌“Mr.ダンディ”の連載が決まり、それが日本テレビの目に留まることに……。

◆晴れて日本テレビのラダック越冬ドキュメンタリー番組にADとして参加することとなった山田さん。ディレクターは先に登場した国岡さん、プロデューサーは日大隊の北極点取材も担当していた岩下莞爾さん、カメラマンは同じく北極点取材の中村進さん。奇遇なご縁で自分をテレビの世界に引っ張ってくれたお三方を生涯の恩師と語る。このラダック取材から、山田さんのドキュメンタリー制作の基盤が築かれてゆく。78年10月からの半年間で30分番組を2本。今のテレビのスピードではあり得ない数字だ。一週間のうち4日を調査取材、3日を撮影に充ててゆく。山田さんが最初にやったのは、チベット暦を太陽暦に直すことと、対象の村の家族構成や穀物及び家畜の確認といった探検部の活動にも準ずるような調査で、それらの下地を作ってから取材に入るという手法は当時は当たり前だったという。

◆お話はテレビドュメンタリー史の流れにも触れてゆく。60年代当時、日本テレビはドキュメンタリーの梁山泊と呼ばれ、62〜68年「ノンフィクション劇場」は検証的手法のNHKに対して、人間くさい劇的な瞬間を切り取るといったユニークで世界的にも初めての手法を確立していた。中心人物であった牛山純一さんの貢献は大きく、65年「ベトナム海兵大隊戦記」は、あまりにも反米的との理由で三部作中一部しか放送されずも国際的に評価された幻の作品。66年に打ち出した“すばらしい世界旅行”シリーズは24年間の長寿番組となった。その番組の企画書を山田さんは読み上げる。

◆『明治以来、日本は欧米先進国をお手本に科学技術や精神文明の導入に励み、文化交流にも努めてきた。しかし、地球上には欧米以外の多彩な文化圏があって、それぞれ異なった生活様式や価値観に立って生きている。人口においても地域の広がりにおいても、非ヨーロッパ世界のほうが大きいのである。しかし、日本自体がその一部である“非ヨーロッパ世界”についてこれまで十分なテレビ報道がなされているとは考えられない。戦争や事件がニュースとして報道されることはあっても、地域民衆の日常の生活や感情が紹介されることはまずない。だが、こうした生活背景や価値観への認識なしに、戦争や事件の意味は理解できないのではないか』

◆この企画意図は、当時のテレビ屋の心意気を表している。「今こんなことを言うテレビマンは一人もいないし、いたら笑い者になってしまう。“ものづくりに真摯な日本”があった」と山田さんは少し寂しそうに語った。

◆80年。業界1〜2年のADで後先どうなるかわからなかった山田さんは、飛び級狙いでアメリカへ。映画学科に通う傍ら、日系のプロダクションで仕事をするうちに、建て前的にディレクターになってしまい(注…ディレクター=演出、AD=演出の為の物理的なサポート)、83年に帰国。日本テレビの契約ディレクターとなる。80年代に入ると、テレビ業界は様変わりしてゆく。その背景には、それまで特別であった海外旅行が一般的になり、海外を見る目が養われていったことが挙げられる。“ディスカバー・ジャパン”といった日本を振り返るような傾向と共にいわゆる“ヒューマン・ドキュメンタリー”というジャンルが定着。特別な人ではなく、ごくあたり前な人々の日常ドラマのなかに価値を見いだしてゆくというものであった。

◆現在の山田さんはアウトドアのイメージが強いが、30代はヒューマン系で評価されていた。第一作から2〜3年で10作程参加しているフジテレビ“日本ストリート物語”のなかから“浪花てんのじ芸人横丁”が流れる。ラダックとは対象的に制作の時間はなく、台本なしのぶっつけ本番。路地で出会ったおばちゃんから、下町の人情味溢れた芸人さんに辿り着く。スピーディーな感じが心地よく、素敵な人達がぞろぞろ出てくる。この瞬間的な繋がりの連鎖と、カメラと住人とのやり取りは「もの凄く面白かった」と山田さんは振り返る。そんな作り手が楽しいこの番組は、実際、視聴率はよろしくなかったそうだ。しかしそこにこそ作り手のプライドがあったという逸話が今回の報告会の表題となっている。

◆当時、視聴率は1%以下の場合、計測不能の※%と表示されていた。「どうだった?」と聞かれ「※でした。」と答えると「そうか、良かったな。」と返って来たという。「“テレビ屋の香り”があったのは80年代半ばまで。」と山田さん。テレビがメディアとして新参介入してから、歴代のテレビ屋達は2〜3期までは“凄いヤクザ”だったのだそうだ。「背広は腕を通すんじゃない。羽織るもんだ。」とか「ボーナスは必ずキャッシュで」など、肩で風を切り、どこか斜に構えているような人々のエピソードが小噺のようで、会場が笑いに包まれる。彼らは全て自分達で作り出してきた。映画館に70回も通い詰め、1000カット近くある映画丸々一本分のカット表を書き上げ「大体カット割りなんて、映画みりゃわかるよ。」と言い放つ。2番目には「うちは中小企業だからな。」との大企業への対抗心もあったのだろう。こちらが視聴率を気にするような素振りを見せれば「リーマンみたいな事を言ってんじゃねえ。金が儲けたいの?」という具合に、視聴率よりも、何を言いたいのかという質の高さを求める「※%」を誇りにしたテレビ屋達の姿があった。

◆バブル期に入り、日本テレビの資本金は会社設立時(52年)の2億5000万から70億8000万(85年)に。利潤追求傾向が加速し、旧型のテレビ屋は追い出されてゆく。山田さんが「最後のヤクザな番組」と位置づけて紹介したのは88年“チョモランマ頂上からの生中継”だ。発案者は岩下さん。チョモランマ(エベレスト)のネパール側とチベット側、双方から同時に頂上を目指す日本・中国・ネパール3国合同登山隊に同行、その様子を生中継しようという世界初の試み。馬鹿でかいパラボラアンテナと特注の電源車まで用意し、40名の大規模なテレビ取材陣を結成。構想3年、巨額の予算を動かしての、日本テレビの社運を懸けた挑戦である。岩下さんは放送日を5/5と決定。もし登れなかったら……、晴れなかったら……と考えると目も当てられないが、岩下さんは辞表を懐に入れて出発したのだそうだ。

◆山田さんはロー・ラでその時を迎える。ギリギリまでかかっていた霧が晴れ、遂に頂上からの映像がベースキャンプへと届いた瞬間……、「ヤッター!!!」歓喜の声と拍手が沸き起こり、皆が泣いている。世界で一番高いところからの360度の大パノラマが見事に生中継され、息絶え絶えながらも興奮の入り混じった中村さんの実況に、全国のお茶の間はどれほど釘付けになったことだろう。“やったもん勝ち”といった底抜けに純粋で子供のような遊び心と冒険的パワーが、テレビを支え、人を動かし、紛れもない想像を超えた感動を生み出している。中村さんは、下山が大変ななか頂上の石を持ち帰り、それを焼き付けたぐい呑みを感謝の手紙と共にスタッフ一同に贈ったという。

◆当時のフジテレビのキャッチコピーに“テレビは夢工場だ”とあったが、「確かにこの頃は私達は夢を実現していた。」と語り切ったところで前半が終了。「テレビ屋ですから……」進行表を片手に、映像サポートの本所さん(山田さんの奥様)と連携しながら、20時きっかりに終わる辺りがお見事である。会場を見渡すと、沢山の来場者のなかには“プージェー”の翻訳を担当した三羽宏子ちゃんのニューカマーベイビーをはじめ、多くの子供達の姿が目立っていたのも印象的。

◆後半のスタートと共に時代は90年代に突入。バブルは崩壊し、視聴率が株価と直結するシステムに「悲劇ですね。」と話す山田さんは、テレビ東京35周年大型記念番組“ココシリ・奥チベットの青く透明な大地”に参加。探検家スウェン・ヘディン以来、探検隊が入ったのは100年ぶり。生き物を拒絶するかのように厳かな自然の世界と、そこに生きる遊牧民の姿がとても対照的で、より迫力を増して観るものに迫ってくる。

◆2000年を迎えると、不況到来で予算は減少。ドキュメンタリー番組は民放からどんどん姿を消し、受信料経営のNHKでさえ、視聴率を意識して民放チックな形態へと変化していった。そんな渦中に“グレートジャーニー”は放映された。ご存知、関野吉晴さんの人類起源からの拡散ルートを辿るフジテレビのドキュメンタリー番組である。1993年に始まり、本編の足掛け10年間に加えて続編の足掛け5年間。「どうしてやり続けることが出来たんですか?」当時関野さんの夢に賛同し実現に導いたプロデューサーに山田さんが尋ねると「簡単だ。とにかく上には一切報告しないこと。少なくとも事前には相談してはいけない。」という至極シンプルな回答だったことを明かした。

◆NHK“世界自然遺産を行く・ビクトリアの滝”ではNHK側より終始自然遺産から目を離さないようにとのルールを受けるが、「環境ビデオでは面白くない」と山田さんは自然のスケールや厳しさを測る物差しとしてスタッフを画面上に登場させ、自然に挑戦してゆくという手法を試みる。世界一高い500mもの水煙が上がるその滝の滝壺にカメラが迫ると、そこでは滝は霧状になっており、水煙は跳ね返りの水圧に因るものではないと判る。今度は風圧を調べる為、上昇気流に乗せてカメラを付けた気球を飛ばしてみると、50m地点に下降気流があることを発見する……。この作品がその年のNHKハイビジョン特集年間賞を受賞。カメラが自然のからくりを解明しようと愚直に突っ込んでゆく姿勢が評価されたのだ。

◆そしてこうした手法はその後のドキュメンタリー制作に定着してゆくこととなる。このような硬派な作品が受賞したことを受けて、山田さんは原点返りの気運が高まっていると感じたと話す。現在のテレビは方向性を見失っているのではないか。テレビジョンの原点とは、“テレ(遠く)+ビジョン(視点)=見えないものを見せること”とアメリカで最初に教わった。半年をかけて30分番組を2本制作する下積みも、それを見極める為の時間だったのかもしれない。“とにかく現場に行き、普通の人には見られないものを撮ってくること”そんな直球にこだわり続けてきた山田さんの揺るぎない姿勢が、本質的で新しい手法を生み出す結果へと繋がっていた。

◆テレビに限界を感じたディレクター達は、自主制作記録映画の世界へと進出してゆく。山田さんの手掛けた映画作品の中から“障害者イズム”という作品が紹介された。元々はテレビ企画として、障害者の自立を半年間追ったものであったが、短い時間制限のなかで無理やり放送することに疑問を感じ、主人公達が自立出来るまでの7年間を追いかけて制作された記録映画だ。共に時間を育んでこそ捉えることの出来る感覚。障害を持たない者からは近くて遠い、障害者の日常のなかにある視点や心情が、臨場感を持って綿密に描き出されていた。

◆時代背景とともに語られるテレビ史は探検記のようで、新しい世界を旅するようにドキュメンタリーの世界を切り開いてきた人達の姿は、気概に満ちていて逞しかった。同時に、視聴率優先があたり前になってしまっているこの時代にはどうしても違和感を覚えてしまう。山田さんのお話と作品を通じて、何よりも心に残るのは、純度の高いドキュメンタリーには純粋な感動があるということ。この純度を薄めないことが如何に大切なことかという物凄く根本的で明白なことだった。山田さんのアングルは、グローバルとローカルを同時に捉えながらも、いつもどこかに冒険的要素が潜んでいる。二次会で山田さんは「やりたくない仕事はしたことがない」と言い切った。「“何とかするor降りる”でやって来られたのは幸せ」とも。あれだけ激動のテレビの世界で揉まれながら、如何なる状況下でも繰り出され続けてきた直球は筋金入りだ。洗練されていながらズッシリと重い。なおかつ直球勝負は観戦している側にとっても最高に気持ち良い。ドキュメンタリー界の名手として、これからも後世に残る名作を作り続けて欲しいと心より願っている。(車谷建太


報告者のひとこと

来月はトレーニングと称して登山三昧です

■報告会の翌日から始まった「puujee/プージェー」のアンコール上映も好評のうちに終了。関野吉晴さんが舞台挨拶に来てくださった日は満席でした。

 宣伝もしていないのにこれだけの動員ができたのは、地平線会議の皆様が応援してくださったおかげです。現在、日本映画大学でドキュメンタリー実習を担当しています。将来性がないことが分かっているのに映画・テレビの世界に飛び込んでくる若者を抱きしめたくなるほど愛おしく感じています。(本当に抱きしめたら、セクハラ、パワハラですが)

◆映画のほうは「障害者イズム」続編の撮影を本所が中心になって緩やかに始めています。テレビはNHKの「冒険者たち」と「グレートネイチャー」の企画が進行中。それを口実に来月はトレーニングと称して登山三昧です。信濃又河内沢、谷川岳烏帽子岩、剱岳チンネ……毎週山に行けます!!!(山田和也


【先月の発送請負人】

■地平線通信409号は、5月15日印刷封入作業を終え、翌16日メール便に託しました。印刷、折り、封入の仕事に馳せ参じてくれたのは、以下の皆さんです。ありがとうございました。100%ボランティアのこういう汗かき仕事が長く地平線会議を支えてくれている、と、いつも感謝しています。
 加藤千晶 森井祐介 福田晴子 村田忠彦 三五千恵子 黒木道世 安東浩正 江本嘉伸 石原玲 杉山貴章


地平線ポストから

最初は展示品はカヌーだけだった。そこから「この星に生き残る物語」を模索するヒント、考える契機を観客に持ってもらう展覧会にすることになった
 ──3か月の特別展を終えて──

  関野 吉晴

 上野の国立科学博物館で開かれていた特別展「グレートジャーニー 人類の旅 この星に生き残るための“物語。”」が今月9日に終わった。総入場数は17万9千人で科博の特別展の入場者数としては多くないが、大阪の国立民族学博物館の1年間の総入場者数に匹敵する。

 科博の監修者に言わせると、インカ展やマヤ展などではその展覧会の目玉と打ち出したミイラや仮面などを見て、他の展示品は見ないで、20分か30分で出ていく観覧者も多いという。それに対して今回の展覧会では、たっぷり時間を掛けてパネルの文字、映像を熱心に観て、読んでくれる観客が多かった。リピーターが多いのも今回の展覧会の特徴だった。見た人たちの評価も高く科学博物館的には成功だったと言う。

 また今回の入場者の特徴は若い人や若い家族連れが多かったことだ。若い父または母がパネルや映像を子供たちと一緒に見て説明しているのを見ていると展覧会をやって本当に良かったと思った。

 展覧会開催のおかげで様々な副産物も生まれた。開催同時企画として、ポレポレ東中野で、3月下旬から4月にかけて「プージェー」と「僕らのカヌーが出来るまで」が上映された。そのうえ5月から6月にかけてアンコール上映が行われ、多くの人たちに見てもらえた。

 科博内でも、かつて多くの科学者たちが講演をしてきた重厚な講堂で地平線報告会が行われた。また講堂での私の講演、様々な人との対談、縄文号上でのギャラリートーク、トール・ヘイエルダールJrとの対談なども行われた。

 最初は展示品はカヌーだけだった。そこから「この星に生き残る物語」を模索するヒント、考える契機を観客に持ってもらう展覧会にすることになった。その準備に1年半かかった。グレートジャーニーを行っている時と同じように、監修者の馬場悠夫さん、篠田謙一さん他、多くの人たちの協力でこの展示会をいいものにしてもらえた。地平線会議の皆さん他、協力していただいた皆さんにも深く感謝いたします。

通信5月号に触発されて、グレートジャーニー展に間に合いました!!

■6月7日午後、関野さんの最後のギャラリートークに合わせて上野の国立科学博物館に出かけました。テレビでも何度か見ていたグレートジャーニー。宇都宮から愛犬を残しやっとでかけたのですが、会場の壮大さに圧倒されました。大きな写真パネルが目に飛び込み、たくさんのメッセージが溢れていました。様々な気候風土がひとびとと交わっての人間讃歌。地球上での争い事がいかに無意味かも伝わって来ます。大型スクリーンに映し出された連綿とつづく命のバトン。家族、そして別れ、感謝……。胸に迫るものがありました。

◆ギャラリートークが始まる6時前から縄文号の前は身動きできないほど大勢の人が関野さんの現れるのを待っていました。すでにその横で縄文号の石垣島までの命がけの航海を見た後だったので、どんな勇ましいお話しをされるのかと思っていましたが、関野さんは実に穏やかに淡々と縄文号を作った経緯や航海の事、これまでの冒険の事をお話しされ、その後の質問にも丁寧に応えておられました。4月の地平線報告会をこの会場で関野さんを報告者として企画したのは快挙でしたね。それに応じられた関野さんも長年の地平線の同士だと感じました。

◆通信5月号にはグレートジャーニー展の記事が感動と共に掲載されていて、今回私が一大決心して出かけたのもこれに触発されてのことでした。その中に新しいお名前を見つけました。早稲田大学の福田晴子さん、そして友人に誘われて初めて参加されたと言う横川さん。グレートジャーニー展の感動と地平線会議を知った喜びが伝わって来ます。これからも地平線でこのような若い方、初参加の方々が出会い、育って行くのだろうなと思いました。江本さんこれからもお元気でしっかり見守ってください。(宇都宮 原典子

展示の終盤、3Dプロジェクションシアター「Life is a Journey」では、展示のあと、映像から「生きること」「命をつなぐこと」を感じて、何か胸に込み上げてくるものがあった

■2月の新月の夜。私は関野ゼミの後輩・竹村東代子と結婚した。結婚というのは人生に於ける一つの節目だ。これを良い機会に、田舎に置いてあった古いアルバムを母に頼んで送ってもらった。そして自分が生まれてからの記録を振り返ってみた。

アルバムの中には、親戚や父に見守られながら、瀬戸内の海であそぶ、乳児の頃の私がいた。写真の側に、母の字で「昭和54年8月 豊人8ヶ月 桂が浜で」とあった。当時、私は汗疹がひどかったらしい。「汗疹には海水が効く」という祖母の言葉を聞き、両親は私を海に連れて行ったそうだ。

◆そんな写真を見ていたらハッとした。そうだ、1979年8月。丁度その頃、東京で地平線会議が発足したのだった。それまで別々の事象だと考えていた、「自分の存在」と「地平線会議の発足」がパッと繋がった。一枚の写真というのは不思議なものだ。自分の記憶には無いのに、「確かにその時は存在したのだ」という感覚を、今の自分に伝えてくれる。自分が育った時間とほぼ同じ時間。地平線会議は探検家、冒険家、登山家、そして多くの旅人を受け入れ、また世の中に送り出してきた。

◆今日9日と昨日8日、改めて国立科学博物館の「グレートジャーニー展」を観てきた。4月の地平線報告会が科博で行われた時、時間の都合で展覧会場を足早に駆け抜けたような感じだった。だから展覧会終了前に改めてじっくり観たいと思い、最終日と前日の二日間、連続で観てきたのだ。

◆展示で人類拡散の歴史と関野さんの旅の記録を振り返りながら、改めていろいろな事を思った。現代文明の真ん中に暮らす自分にとって、対極的な生活。同時に理想郷のようにも思えた。例えば、ウィンチリ村の藁の吊り橋は年に1回、村人が力を結集して作られる。橋作り自体がお祭りの様で、きっと村人にとって年一度の楽しみなのだろうと思った。すでに、近くには鉄橋が架かっているという。しかし、村人は人々が協力して作るという習慣と吊り橋作りの技術を継承して行くために、現在でも毎年橋を作り続けているという。文明の象徴のように強くて頑丈な鉄橋。それに対して、毎年架け替えが必要な藁の吊り橋は人と人との繋がりを象徴している様で対照的だと思った。

◆どんなに合理化が進んでも、人と人との繋がりが大切だなぁと思っている時だったので、藁の吊り橋の展示は胸に響いた。そして、縄文カヌーも、好奇心で集まってきた人々が一緒に力を合わせて作った。そのことを思い返すと、関野さんが旅で感じてきた事をプロジェクトに反映させたのだろうと改めて思った。

◆展示の終盤、3Dプロジェクションシアター「Life is a Journey」では、展示のあと、映像から「生きること」「命をつなぐこと」を感じて、何か胸に込み上げてくるものがあった。人類の壮大な旅の中で、「自然は人に恵みをもたらし、時に試練を与える。それでも人は前進する。しかし、人はひとりでは生きられない。人は出会い、恋をする。そして新しい命を生み出す。家族。親は子を守り、生きる力を伝えていく」そうして個々の物語りを紡ぐ。

◆私自身、10月頃には父親になる予定だ。だから、ついつい自分の境遇と重ね合わせて観てしまった。父親になったら、どんな「生きる力」を子に伝えることができるだろうか。私たち夫婦は登山が好きなので山の素晴らしさは伝えたいと思う。山のどこまでも続いていくような、空の広さ。山を歩き回ったあと、喉を潤す沢の水の美味さ。山頂を目指し、それを共有する仲間の素晴らしさ。汗をかくことの気持ちよさ、夏山の心地よい風、雪山で風に吹かれた夜の恐さ、自然が教えてくれる多くのことを一緒に感じたいと思う。

◆そして同時に親として子を守るために、子を担いで歩くくらいの強さは常に維持し続けたいと思う。できれば、妻も背負って歩けるくらいになりたいけれど、自分にはちょっと厳しそうだ。だから、二人で力を合わせて、お互いを補いながら家族を築きたいと思う。そうすることで、人類の壮大な旅の、未来の小さな物語を、一緒に紡いでいきたいと思うのだ。(山本豊人 6月9日)


■映画「僕らのカヌーができるまで」は、ポレポレ座に足を運んで見ている。あの「縄文号」の実物もムサビのキャンパスまで見に行っている。関野吉晴さんの「グレートジャーニ展」は大いに気になる催しだったが、時間がとれず、4月、5月は駆けつけられなかった。しかし、地平線通信5月号の皆さんの書き込みを読んで、「これは行くしかない!」と決意。閉幕3日前に間に合いました。

◆入口にあった足跡化石は、出口でアファール猿人家族の歩く姿になっていた。自然に寄り添い暮らす人々の家は、「セキノ不動産」の扱い物件に。私たちのモノサシで見せてくれたのでグッと身近なものに感じた。素晴らしいの一言につきます! それともう一つ。ギャラリートークまで時間があったので「日本館」に行ってみたんです。由緒ある素晴らしい雰囲気の建物で、4月にはここで地平線報告会をやったのか、とほんとうに羨ましくなりました。関野さん、皆さん、おめでとうございます!(北海道・掛須美奈子

緑の魔境

  宮本千晴

 関野の「グレートジャーニー 人類の旅」を見せてもらった。舟や舟を造った道具の方は前に武蔵美で見せてもらっていたから、三人のご先祖さまの姿が一番記憶に残ったが、それよりも強く記憶に残ったのは、関野がほんとうは一番見せたかったという、持ってくることができなかったイースター島のモアイ像のことだった。はじめて知った話ではないのに、関野の舌足らずなことばを通して聞くと、あたかもそこに展示されていたかのように、寒々として鮮やかな絵となって記憶された。なるほどそういうことか。関野はいまそこまで来たのか、そうしたレベルの話をいまはじめて口にする気になったんだ、と。

 もう60を越えたという関野吉晴を関野と呼び捨てにするのは自分でも少々とまどいがある。しかし歳の差はいつまで経っても同じだ。わたしの頭の中の関野はいつまで経ってもはじめて会った19歳の関野なのだ。そのとき関野は『あるくみるきく』の冒頭ページにあった「私の旅」シリーズの原稿を持っていた。実際には関野の主張で「漂流──アマゾンのインディオ部落をたずねて」という標題になったが、私の頭の中では「緑の魔境」という文として記憶されている。「緑の魔境」という常套句を強く否定した内容であり、私はアマゾンなんてまるで知らないにもかかわらず関野の知的な体験を一番端的に現していると感じていたからである。

 文字数の限られた原稿であったし、当時はまだ学生だったから、どうしても概念的・観念的なことばで語らざるをえない内容だったが、なんとか「解説」ではなく「体験」や「観察」として語ってほしくて、書き直しを要求したことを覚えている。

 その次印象に残っているのは、2回目くらいの地平線賞を選んだときだ。関野はすでに編入した横浜市大の医学部を出て、アマゾン流域に通っていた。探検に出かけた土地で住民の治療ができるようになるために医者になる。生涯を掛けて探検をやりつづけるつもりなんだということだ。その姿勢と覚悟に脱帽した。

 関野は寡黙だった。いま何をやってるのと聞いても、にこっとして黄金郷を探してます、などという以上のことはあまりしゃべらない。代わりに次々と写真集を見せてくれるようになった。写真はどんどん美しくなった。美しいけど、ちゃんと写っていた。それにしてもよく通いつづけることができるものだ。もう素人ではないのだ。関野が少し遠い世界に行ってしまったと、少々寂しくもあった。

 しかしそんな気遣いは無用だった。私が目にしたかぎり、関野は徹底的に正直であろうとしつづけた気がする。自分自身で見、体験したことしか、それにもとづいて考えたことしか語らないと決めていたように思う。変な言い方だけど、あれほどの探検歴を重ねていたにもかかわらず、19歳の探検家であったときと変わらぬ探検家であった。だから、いまいちかっこ悪い。たとえばグレートジャーニー、なんで自転車なんか使うんだ。でもあれは、まず行ってみたいが先にあって、これならできるだろうを選んだだけだ。依然として素人だったのだ。依然として「地平線」だったのだ。

 それから、教え子たちを巻き込んだ砂鉄集めからはじまる航海だ。これにも部分的には「なんで自転車?」が入るのだが、結局それは問題ではない。若者たちに対するなによりすばらしい教育の方法だ。自分の命だけでなく若者たちの命まで賭ける。なみなみならぬ勇気を要求される。そして結果が示すように、若者たちが一緒だったからよかったのだ。勇気だけでなく敬服するしかない叡知があった。某山田監督がいつぞや「関野さんがすごいと思うのは、たとえばカヤックが問題だと分かると、次のときまでにはちゃんとこなせるように自分を鍛え上げているんですよ」と言っていたが、まさにそれだ。関野はちゃんと準備していた。

 だから「われわれはこれからいったい何処へ行くのか、人類はこの先生き残ることができるのか、生き残れるとしたら、どんな社会や生き方を目指していけばいいのか」と言いだしたことに耳をそばだてる。ほう、寡黙な関野が、探検家の関野がいよいよしゃべるのかと。

 この問い自体は珍しくない。またこの問いの出発点であるわれわれ自身の本性や人間社会のどうしようもなさと病状も多くの人が自覚している。そしてこの問いに答えようとして途方に暮れている。そうでなければ教条主義的で結局は救いようのない答えが性懲りもなく提出されている。まったく反対の角度から模索されている個人的・良心的な見本となる答えと実践だって少なくない。でも多くはほんとにそれが答えなのかしらと思って見ているだけの人だ。私自身も含めて。

 しかしもう誰もが正面からこの問いに答えてみなければすまない時期にきている。それが関野の口を開かせた感触なのだろう。長い長い旅の中で見つけた、人間はこのように自分たちを律してきた、人間はこのように美しくもなれるというたくさんのヒントも語っている。ちょうど「地平線」の旅人たちそれぞれの発見と同様に。だがそれは非常に重要な、信用できる、勇気づけられるヒントではあっても、まだ答えという訳ではない。

 それでも関野が言うように、世界は異常で、このような世界を改善して、生き延びていく物語を造っていかなければならない。

たった1週間の帰国。犬たちが私の帰りをあんなに喜んでくれて……

■カナダ・ホワイトホースから、こんにちは! 最近日照時間がかなり長いので、暮らしがとても楽です。うちの周りの野草もみるみるうちに育って来ました。こちらでは雑草のヤナギラン(食べると美味しいですよ)や、ジェイコブス(日本でボレアレと言うそうです?多分)やルピンの花ももうすぐ見られそうです。

◆実は、先日ちょっぴり帰国していました。東京では江本さんの所で御厄介になりました。ビールを沢山ありがとうございました! ところで、江本さんのはまっていた三陸鉄道の高校生ドラマはクドカン作品と知りびっくりしました。クドカンを高評価するあたり、江本さん若いなぁ、てか江本さん若い女の子が好きだなぁ、と思った次第です(冗談ですから!でも事実ですから!!)。

◆たった一週間程度の帰国だったのであっという間にユーコンに戻ってきたのですが、犬たちがみんなあまりにも私の帰りを喜んでくれたので、本当に帰ってきたんだな、って気分でした。子犬の育ちも早いです。もう大きな体で飛び回っています。子犬と最初は一緒にフリーで走っていましたが、スピードもスタミナもケタ違いすぎてとても追いつけず、私はバギーを使用してます。夜中でも明るいので、夜勤明けに走ります。朝晩寒いですが、日中はかなり夏です。そんなわけで、寝てばかりいる抜け毛だらけの子供らと短い夏を楽しみます。そして8月からトレーニング開始です。東京でお世話になった皆様、どうもありがとうございました。(ホワイトホース住人 本多有香

酔っぱらいが「島をバカにしてるのか!」と怒鳴り、家から槍を持ち出し襲って来ました! これから北上します

■山辺です。いま座間味島にいます。サンゴ礁と色とりどりの魚の群れ。竜宮城はここにありましたよ! この旅も1年になりますが、初めて何も気にせず、のんびり過ごしています。沖縄離島巡り。行きたい島は数知れず。言い出したらキリがないので、座間味を最後に北海道目指し北上しようと思います。結局9つの島しか行けませんでした。

◆最初に目指したのが与那国島。とりあえず日本最西端を制覇したかった。続いて日本最南端の波照間島へ。大阪から歩いて1年。やっと最南端に立てる! 「日本最南端の碑」が見えた時、いままでの苦労が甦り感無量。あと5m!すると「すみませーん」。振り返ると警察官。「ここで!? 日本最南端で職務質問ですか??」。「甲冑来た人がいる」と通報されたようです。泣ける。この旅を象徴していますよ。

◆しかし一番強烈だったのが鳩間島。甲冑着て歩いていると、港にいた酔っ払いがいきなり「なんだその格好は!」「島をバカにしてるのか!」と怒鳴り、家から槍を持ち出し襲って来ました!「なんだこの島は!?」ホントに戦国時代に来た気がして笑えた。さらに、別の島民が現れ「脱げ!脱げ!」と僕につかみかかり、甲冑を脱がそうとするので「アンタのしてることは暴力だ!」と一喝すると、おとなしくなり帰ってゆきました。

◆その後、怖くなったのか宿まで謝罪に来て泡盛をおごってくれました。その人が言うには「ここは神の島だから変な格好は止めて欲しかっただけ」とのことですが、宿の人が「神の島とか言ってる本人が、昼間っから酔っ払ってるんじゃねぇ」と言うように、話も聞かず、いきなり槍で襲うのは犯罪になるので控えた方がいいと思いました。

◆島旅。ほとんどの人が「沖縄の人は優しい」と言います。しかしそれは観光客に対する「もてなし」しか受けてないから当然であって、沖縄に限らず世界中ドコ行っても、イイ人とワルイ人がいると思います。1年歩くと、そう感じます。こんな小さな島ですら、周囲から厄介者扱いされる人がいるんだから、東京で変な事件が起こるのも当然なのかも。僕の場合、甲冑なんか着て目立ってるから、人にガーガー言われるのはしょうがない。最初から人に理解されるとは思っていませんし。しかしこれが僕の趣味! 気の合う人とは仲良くし、イヤな人は華麗にスルー。蹴られて文句言われようが、遊びまわって天下統一してやりますよ! 江本さん、東京に着いたら「北京」の餃子をご馳走してください(笑)ではまた。(山辺剣

「バリケードだらけになった町でペットレスキューしています」

■地平線のみなさん、ご無沙汰しています。冬の間は東南アジアツーリングで日本を3か月半も留守にしたので、この2か月間は福島のペットレスキューをちょっと頑張っていました。ペットレスキューは警戒区域(20km圏)の再編に振り回されています。昨年4月に南相馬市小高区がほぼ全域、昨年8月に楢葉町が全域、この春に富岡町、浪江町の一部が、つい先日は双葉町のごく一部が「避難指示解除準備区域」、「居住制限区域」となり、住民はもちろん、原則として誰でも立ち入りができるようになりました(浪江町は有人ゲートから出入りします。車のナンバーを控えられるだけ)。

◆一方、少なくとも5年間は帰還できない「帰還困難区域」(大ざっぱにくくると、双葉町と大熊町の大部分、浪江町の山側、富岡町の北側)は、住民でさえも1ヶ月に1度の一時帰宅(申請は随時)しかできません。私たちはその住民の一時帰宅に同行させていただいて活動していますが、以前は警戒区域の中は自由に動けたのに、現在は無人のバリゲードがどんどん造られていてまるで迷路のような状況です。たとえば、同じ帰還困難区域で隣接しているのに、富岡町から大熊町に行くのに無人ゲートがあり(監視カメラ付き)大回りしなくてはなりません。そのゲートがどんどん新設されているのです。

◆昨日(6月9日)は大熊町の国道6号線沿いの民家や商店の入口なども軒並みバリケードで囲われていました。先週はなかったのに。ただ、再編前と比べると緊張感が少なくなりました。帰還困難区域や居住制限区域のゲートで立ち入りチェックするのは警察から民間の警備会社に代わって対応が優しくなりました。また、見回りのパトカーの数も以前に比べてかなり減り、職質を受けることもまったくなくなりました。

◆無人の町に生きる命は確実に少なくなっています。昨年末に5羽残っていたダチョウは餓死、または研究用(?)で連れていかれて全滅。放浪牛はごく少なくなりましたが、まだいます。一部は安全な牧場でなんとか命を繋いでいます。イノシシやイノブタは住宅街にもときどき出没。タヌキ、ハクビシン、このごろはキジの雄がたくさんいて、人間を見てもすぐには逃げません。行動範囲の広い犬は、ほとんどは保護されたか、食べものを求めて人間の住むエリアに移動したのかまったく見ませんが、猫はまだ潜んでいます。震災後に生まれたものも多いですが、2年以上経った今でも、もと飼い猫が見つかることも少なからずあり、あきらめずに探している飼い主さんもまだいるし、レスキューボランティアも少数精鋭で活動しています。今度どうなるかわからないのでみんな必死です。捕獲器を使っても、限られた時間、しかも昼間だけの立ち入りではなかなか難しいのです。それでも昨日は猫を1匹、双葉町から連れて帰ることができました。

◆ペットレスキューはこんな状況ですが、警戒区域が解除されたばかりの富岡町、浪江町の現状を、福島に関心のある人にはぜひ見てもらいたいと思っています。3.11のあの日から、時が止まったままの惨状がまだ、見られます。「死の町」へも入れます。一方、楢葉町は除染業者がものすごくたくさん入っていて、スーパーも開業しました。黒い袋が大量に並ぶ光景も、やっぱり一種異様です。(滝野沢優子 天栄村村民)

「帰還の意思が徐々に削がれている」帰還

■本日6月9日、自宅のある楢葉町、隣の富岡町へバイクで状況を見に行ってきました。初夏の柔らかい日差し、海も穏やかで、本当に心和む自然は震災前と何ら変わらないのですが、住民の姿は殆ど見かけませんでした。楢葉町は昨年8月に警戒区域から避難指示解除準備区域へ再編成された後、現在は除染作業が重点的に行われており、日中は除染業者の車で町は混雑しています。

◆多くの業者、作業者が入り一気に進めていますので、あまり良くない話も耳に入ってきます。瓦屋根が壊された、脚立・一輪車を無断で使われ放置された、等々です。先月には町内のスーパーが再オープンしました。お弁当・お惣菜・カップラーメン・飲物等の食料品から簡単な日用品まで購入出来るようになり、大分便利になりました。徐々にではありますが、復興への道を歩みつつあります。

◆富岡町は今年3月25日に警戒区域が再編されたのですが、町全域の8割以上は自由に立入りが出来ない「帰還困難区域」、「居住制限区域」のため、道の至る所がバリケードで塞がれています。同じ地区なのに道路を挟んで帰れる・帰れない区域が分断されてしまっているのです。

◆震災から2年以上の時間が経過し「帰還の意思が徐々に削がれている」という新聞報道を多く目にするようになりました。区域が再編されたといっても、復旧作業すら入れていないのが実情です。津波で被害を受けた常磐線の「富岡駅」は駅舎が無くなり、土台のみが無残な姿のまま残っています。ここは高校時代に毎日電車で通った駅。その姿を目の前にして呆然としてしまい、言葉が出てきません。これら町の姿を見て、戻れたとしても生活基盤が全く無くなった状態で、どう生活を立て直していけばいいのか、今回警戒区域に指定されたエリア全域は大きな課題に直面しています。(渡辺哲

2児のママ、子連れで地平線報告会に突撃す!
──私の「グレートジャーニー to 新宿区スポーツセンター」

■映画『puujee』でお世話になった(編注:三羽さんはモンゴル語の達人。『puujee』の日本語字幕を担当した)、山田和也監督の報告会。気持としてはかなり行きたい。しかし、やんちゃざかりの二歳児(女)と、乳飲み子の0歳児(男)連れで行くのは無茶で無謀だろう。山田監督にも会いたいし、江本さんにも会いたい。地平線の仲間の方々にも会いたいし、あの空間に身を置きたい。

◆でも、行き帰り、金曜夜の池袋の人ごみをベビーカーと抱っこ紐で通る憂鬱さと、帰りの時間が遅めになることを考えると二の足を踏む。こどものお風呂が遅くなるし、ご飯はどうするか? だいいち、子連れで行ってもそれほど話も聞けないだろう。迷惑かけるし……「母親は常識的でなければ」という強迫観念が私を制止しようとする。あれこれ悩んだ。背中を押してくれたのは大学時代の友人だった。

◆彼女はソフトにかつ根気よく、誘ってくれた。ならば、とにかく行ってみるか、と路線図を確認。すると副都心線を使えば自宅最寄りから一本、しかも数駅で会場に近い西早稲田とつながっていることを発見した。これは、行くしかない。行けということなのだろう、とほぼ気持ちが固まったところで、江本さんから電話着信。この流れだともしや、明日報告会に来ない?という電話かも、とかけ直す。子連れで大変なので、是非来なさいよ、とは言わないまでも、私も関係ある監督の報告会を前に、もしかして来れない?と、こちらを気にかけてくれてのことだった。この諸々のタイミングはやはり私を報告会へ導いているのだと確信し、出陣決定。

◆当日は15時頃に新宿スポーツセンターに到着。報告会でなるべく暴れないようにと、娘を公園内でめいっぱい遊ばせた。散歩していた犬と戯れたり、花の小道を走り回ったり、かくれんぼしたり。17時半になり、そろそろ中に入って報告会準備組の皆さんに会いに行こうとすると、娘はまだ遊び足りない、と裸足で薄暗闇へ脱走。

◆彼女を捕獲して、どうにか説得した文句は「江本さんのワンワンに会える、かもよ」。以前お宅にお邪魔した際、麦丸が疲れ果てるくらい追い回して遊んだのを覚えているのか、娘は承諾。ようやく逃亡劇を終え、会場に入る頃には18時半に近付いていた。ワンワンに会える、などと言ってしまったものの、会場に麦丸が来るわけはない。かもよ、と厳密には断定はしていないが、そんな姑息な魂胆を知らない娘は「わんわん、わんわんどこ?」と言っている。

◆どう釈明しようかと考えていると、江本さんが麦丸をリュックに入れて撮った写真を見せてくれた。こ、これは、なんという幸運! 写真とはいえ、一応ワンワンに会えた、ということにできる。「ね? ワンワンに会えたでしょ〜」と、私は苦しまぎれの釈明をする。こうして娘の気も一応済んだところでいよいよ、報告会開始。娘は自分も聴講者のひとり、と言わんばかりに、私の膝の上も隣の席も拒否し、別の机で自分の席を確保。

◆私はいつ娘が暴れ出すか、息子がもぞもぞし出すか、と内心ヒヤヒヤ。なんとか話の本題の一部だけでも聞きたい、と気が急く。最初の15分くらいは、お菓子などを渡しながらどうにか騒がずに居られ、「視聴率

※印」の部分まではなんとか聞くことが出来た。が、お菓子の効力もすぐに薄れ、娘は「さんぽいく?」と言いだし、何度か途中退場と再入場を繰り返した。粛々と報告会が行なわれている中、階下のコンビニで私と娘はお菓子を買うか買わないかをめぐり、バトルも勃発。娘は大泣き、私は半泣き(買うつもりのないお菓子が、娘との取り合いで破損し買うはめになった)の騒ぎ。

◆そんなこんなで結局休憩時間までスポーツセンター内にはおり、会いたかった方々とも一目会って言葉を交わすことが出来、帰路に就いた。帰りの電車は予想より混雑していた。夜8時台の帰宅ラッシュの人々の中で明らかに場違いな、ベビーカーと抱っこで子連れの私。

◆最小限に縮こまっていても荷物があちこちに当たり、我々の存在が車内を狭くしているのを全身で感じる。文字通り、肩身が狭い。自分たちの占拠している体積が申し訳ない。スモールライトがあれば小さくなってしまいたい。あと数駅の辛抱。降車駅に着くと、不覚にも、思っていた方と反対側の扉が開いた。

◆扉までの1メートルあまり。それがなんと遠いことか。降りるためにベビーカーを引っ張り、急いで、かつ、人にあてないよう扉の方へ進んでいると「扉が閉まります」と車内アナウンス。乗客の中にかろうじてできた空間の中を「すみません、おります、すみません、おります」を繰り返し進む。焦りのあまり、何人かの人の足先をベビーカーで踏んでしまいながら、なんとか降車。

◆萎縮し過ぎて、床しか見られなかった。子連れで夜の電車乗るなよ、とか、これだから最近の母親は、と思われているかもしれない。ネガティブな想像で頭を一杯にしながら電車を降りた瞬間、男の人がドアを閉まらないように手で押さえてくれているのが視界の端に見えた。頭を地面につけてお礼を言いたい気持だった。

◆今回の旅は、まともな母親なら決行しないだろう。無謀なことをするくせに、人目が気になる性分の私は、ご近所に知られるのも恐れていた。夫にも言わずに決行した。でも、予想より帰りが遅くなった。携帯の電池も切れていて、帰宅時間をメールで確認することもできなかった。私の帰宅前に夫が帰っていたらどうしよう。怒られるか、あきれられるか。暗闇の中ベビーカーを走らせ、まだ家が暗いことに安堵し、ご近所さんにばれないように静かにそそくさと家に入る。門限を破った女子学生のよう。携帯を充電するとメール着信。普段はもっと帰宅が遅い夫が、その日に限って間もなく帰ってくることが判明。やはり、たった今帰ったとは言いづらく、荷物を片付け、秒速で部屋着に着替え、ずっと家に居た雰囲気を演出した(結局翌日打ち明けたが、笑)。

◆無謀で無茶な私の「グレートジャーニーto新宿区スポーツセンター」。育児の合間の気分転換、と表現するには、ドタバタすぎる子連れ旅。山田監督の報告自体ほとんど聴けなかったけれど、一歩踏み出して見えてくることは沢山ある。社会のこと、自分のこと、子供のこと、関わる人々のこと。普段はヘタすると家の中だけ、散歩に出てようやく半径1キロ位の行動範囲。かつては毎月のように、海を越えて働いていた生活とは一変した現在の暮らし。家から数駅の西早稲田までの行程が今では大きな旅となった。

◆子連れでの行動は人様に迷惑をかけることばかりだ。それでも、気配を消さずに新しい場所へ出ていくことで、自分は身の処し方を学び、人々は世の中に迷惑で面倒な存在もいることを認識してくれるだろう。子供が産まれて、「標準的」や「常識的」であることが妙に気になるようになってしまった。しかしやはり私は「育児中」を理由に世界から孤立したくない。「お子様向け」の中に埋没したくない。そのちょっと厄介な気持ちがいつも心の中にある。報告会に参加された皆様、お騒がせ致しました。今後ともどうぞよろしくお願いします。

★追伸:6月9日、『グレートジャーニー 人類の旅』最終日に行ってきました! 子連れは難しいかなとこれまで躊躇していましたが、ついに最終日と知り、行かずにはいられませんでした(関野さんのパンツがどうしても見たかったのもあり)。子供は夫に託しました。世界を旅する関野さんの旅。自分にとっては程遠い、憧れのもの、と思って展示を観はじめましたが、観終わる頃には、自分もグレートジャーニーの当事者なのだな、と思いました。観に行けて良かった!(三羽宏子


[通信費をありがとうございました]

■先月の通信でお知らせした以後、通信費(1年2000円です)を払ってくださった方々は、次の皆さん方です。ありがとうございました。時に記載漏れありますので、その場合は必ず、江本あてにお知らせください。アドレスは最終ページにあります。
津川芳己/水落公明(「いつも地平線通信お送り頂きありがとうございます。引き続きよろしくお願いします」)/黄金井直子(4000円「2年分通信費」)/天野賢一/山崎ふみえ(3000円)/鈴木敦史/瀧村利恵/梶光一(10000円「いつも楽しく読ませていただいています。ありがとうございます。通信費をしばらくお払いしていなかったので、まとめてお送りします」)


「流し虫」の襲来に脅える夜
──屋久島便り

■屋久島に住んで1か月半が過ぎました。最近は休日に山へヤクシマシャクナゲを見に行ったり、出勤前に海で朝ご飯をたべたりと、のんびり島ライフを楽しんでいます。でも、いいことばかりではありません。今の季節、屋久島では「流し虫」なる虫が大発生するのです。風流な名前ですが、その正体はイエシロアリの羽アリ。梅雨のことを島では流しと言い、この時期に出る虫という意味です。夜の7時、8時くらいに一斉に出るので「七時虫」「八時虫」とも呼ばれます。

◆1センチちょっとの体に2センチ程の羽を持つこの虫は、雨がやんでむわ〜っと蒸し暑い夜に竜巻のような大群で押し寄せ、家に入り込み、羽を落としてカップルになり、朝まで床中を這いずりまわります(書いていてぞわっとする!)。島民は、流し虫が来る日はいち早く察知して家中の灯りを消し、ろうそくの火を囲みながら夜を静かに過ごすそう。島東部に位置する我が家では5月末にまだ50匹ほどが出ただけですが、あたたかい南部の集落はすでに3回大群に襲われたとの情報です。

◆私は虫は大丈夫な方だけれど、気持ちわるいのはいやだし、掃除が面倒くさい。ということで、いよいよ来るか!?と毎日ドキドキです。他の虫や鳥、カエルなどの生き物にとってはごちそうが来るお祭りだし、木を食べてくれるのも自然界では大切な役割ですよね。でもやっぱり、いやだあ〜。

◆話は変わって、人間関係については会いたい人とは自然と出会えているような気がします。自然や農業に関心のある人、同じ時期に移住して来た人などなど。そんな仲間たちと、今日まで1泊で隣の口永良部島へ行ってきました。屋久島の北西12キロに位置する、人口150人の小さな火山島。活火山のある島の東部は火山活動で、西部は隆起でできたという成り立ちの異なる2つの島がくっついた、ひょうたん形をしています。停電になるくらいの大雨に見舞われて大幅に予定を変更しましたが、屋久島の花崗岩でできた白い山道とはまた違う黒い山道を歩けてとてもよかった。地球の上に立つ自分が、とても小さく感じられました。それに、帰ってきてから何だか屋久島がすごい都会に思えています(笑)。(新垣亜美 屋久島住人)

ローツェは、いい山だった。なんというか透明な感じのする山だった。あのローツェ・クーロワールという、垂直の煙突のような通路を最初に発見したのは誰なのか。
──「ローツェ登頂日記」──

石川直樹

 ぼくは3月29日からおよそ二ヶ月間、ローツェ(標高8516m)に登るため、ネパールに滞在していた。一ヶ月以上におよぶ長い高所順応の末、天候を見計らって、5月13日にベースキャンプ(以下BC)を出発し、第二キャンプ、第三キャンプ、第四キャンプを経て、5月17日にローツェの頂に立つことができた。登頂前日から頂上にいたるまでの日記を以下に記す。

 

5月16日(第三キャンプ/7300m→第四キャンプ/7900m)

 C3を出発したのは何時だったか忘れた。早朝に出るはずだったが、風がおさまらないので、きちんと日が昇ってから出発した。

 ローツェフェイス最上部に入る。C3から真上に直登していくと左上のほうにイエローバンドと呼ばれる地層が見える。イエローバンドを越える岩場は「ジュネバスパー」と名付けられており、そこにアクセスするためには、ローツェフェイスを左のほうへトラバースしなければならない。このあたりで行列ができる。

 遅い登山者に合わせていたら寒いし、時間の無駄である。C3からの直登とトラバースで20人近い登山者を追い抜いた。ジュネバスパーに入ると、雪がなくなって岩の上を歩かねばならず、極めて歩きにくい。岩場が終わるとまた雪面に入り、そこからエベレストのサウスコルへ向かって最後のトラバースが始まり、その途中にジャンクションがある。ジャンクションを直進すればサウスコルへ行くし、上に向かうロープにそって直登すると、ローツェの最終キャンプ、第四キャンプに到着する。二年前、ぼくはこのジャンクションを曲がらずに直進してサウスコルに到達し、エベレストのC4で一泊して翌早朝、エベレストに登頂した。2011年5月20日のことである。

 今回はジャンクションを右折し、ローツェのC4へ向かう。ジャンクションからがに股でひたすら直登し、ついにローツェのC4にたどり着いた。AC(アドベンチャーコンサルタンツ)のノースフェイスのテントがあり、ぼくたちはそのテントを使わせてもらうことになっている。

 HIMEXが常備するTOREAD社のテントよりもかなり大きく感じるテントだった。アイゼンを外し、ハーネスを外し、登山靴を脱ぎ、テントの半分を自分の居場所として整理する。その後は、ひたすら水作り。ぼくがかなり気を遣って水を作ったとしても、砂利やダウンの羽毛や、その他いろいろなゴミが入る。見るからにまずそうなお湯だが、ティーパックを入れて目をつぶって飲む。白湯はなかなか飲めないので、とにかく味をつける。

 その合間に、干し納豆、くるみ、チョコレートなどを食べまくる。まだ食欲があるのは調子がいい証拠だ。お茶も無理して、飲む。

 今日も18時頃に就寝。いよいよ明日は頂上だ。

 

 5月17日(第四キャンプ/7900m→ローツェ頂上/8516m→第二キャンプ/6400m)

 5月17日午前10時12分、標高8516メートルのローツェの登頂に成功した。シェルパのプラ・ツェテン(プラ君)と二人で頂に立った。プラ君は、昨秋、マナスルの頂に一緒に立った若いシェルパである。

 ぼくたちは、その日の朝7時にローツェのキャンプ4(標高7900m)を出発した。当初は深夜3時頃の出発を予定していたが、風が強く、その日は時間が経てば経つほど風が弱まるとの予報があり、出発を日の出後に遅らせたのだ。

 ガイドのスーザンとラクパ、オランダ人のレネとタシ、Sさんとギャルツェン、そしてぼくとプラ君という組み合わせで4組が同時にキャンプ4を出発したが、ぼくはロケットのように飛び出し、プラ君と二人で、ずっと先頭を切って登った。この日、誰一人としてぼくたち二人の前に出ることはなかった。

 C4は急な斜面の中腹にある。雪をカッティングして畳数畳ほどの平面を作ってそこにテントを設営している。だからC4のテントを出るとそこは斜面の只中で、ロープで体を確保していない状態で転びでもしたら、ローツェフェイスを真っ逆さまということになる。

 テントを出てすぐに直登がはじまる。風が駆け下ったり、駆け上ったりする急斜面を登っていくと、ローツェフェイスの端にある岩場に出る。そこを真横にトラバースしていくと、ローツェ・クーロワールの入口が見えてくる。

 とにかく風が強い日だった。この日、エベレストの登頂者は出たのだろうか。この日の天候では、ローツェはエベレストほど風の影響を受けないので、かろうじてアタックに入ることができたわけだが、エベレストの登頂者がこの日にどれほど出たのかは不明だ。もし登頂できたとしても、おそらくわずか数名ではないか。ともかく、目出し帽とサングラスの隙間にも、刺すような風が吹き付ける。細かい氷や砂利が飛んできて、痛い。強い風が斜面に「吹く」というよりは、四方から「滑り降りる」感じだ。

 胸には、熱湯のほうじ茶を入れた500ミリリットルのナルジンを入れていたし、3つのカイロを腹や胸に貼り付けていたので寒くはなかった(これはデジカメの電池を長持ちさせるための策でもある)。朝食はおしるこを食べ、くるみだとか干し納豆だとか干しマンゴーを頬張ってきたので、カロリーが体を暖かく保ってくれている。

 岩場を右に、真横にトラバース後、ローツェ・クーロワールの入口から、今度はクーロワールを真上に直登していく。これが噂に聞いていたローツェ・クーロワールか、と思った。両側を岩に囲まれたせまい通路である。

 クーロワールを少し上がったところで、先行していた他隊の三人を追い抜かした。どこの隊だったのだろう。とにかく弱い三人で、深夜に出発したと思われるのだが、やたらと遅かった。この日、出会ったのはこの三人のみで、エベレストのように渋滞に遭遇することもなければ、他人の尻を見て登る必要もない、極めてすがすがしい登山となった。

 ローツェ・クーロワールはすぐに終わるものだと思い込んでいた。しかし、それは違った。果てしなく長いクーロワールで、頂上に向かって一直線に向かう煙突のようなものだった。人一人が通れるような隙間から学校の廊下ほどの広さまで、狭くなったり広くなったりしながらクーロワールは続いた。雪は少なく、砂利や岩が、小川のせせらぎのように音もなく流れ落ちてくる。下に仲間がいるわけだから、大きな岩を落とさないように注意しながら登った。手で握れるような小さな岩でも、平気でヘルメットを割る。気を付けなければならない。

 雪が凍って玉砂利のようになった状態、あれをなんというのだろう。見たことのない雪の形、すなわち白い玉砂利のような雪氷が所々にたまっていて、踏みつけると、これもまた音もなく流れていく。沢登りをしているような感覚だが、流れ落ちてくるのが水ではなく、雪や氷や砂利や岩で、そうした小さなものたちのせせらぎをスローモーションで見ているかのようだった。

 ぼくはほとんど止まらなかった。クーロワールの中で、1分も止まっていなかったと思う。数歩登っては数秒止まるのを繰り返して、とにかく煙突の先の光を目指した。後ろにはプラ君しか見えない。プラ君は、ぼくが三人を追い抜かすと、同じように彼も三人追い抜かしてきたし、ぼくが少し立ち止まっていると、きちんと距離を詰めてきた。彼はマナスルのときに比べると、だいぶ頼もしくなった。

 煙突は長かった。ここを越えると出口か、と思うとそうではなく、まだ通路が続く。その繰り返しの後、ようやく頂上らしき岩の塊が見えてきた。「あれか」と思うと同時に、岩の中ほど、右横にオレンジ色の何かが見えた。昔の登山隊がデポした酸素ボンベとかだろうか。まったく仕方ないなあ。ちゃんと持って帰れよ。などとそのときは思った。

 頂上の岩に少しずつ近づいていくと、そのオレンジ色の何かがモノではないことがわかった。人、だった。岩に座るようにして、腕をだらりと伸ばし、頭を横に傾けている。それが遺体だとわかったとき、愕然とした。「……」

 ぼくは、無言でプラ君を振り返った。プラ君も無言でうなずく。後でビリーに聞いたところによると、それは去年亡くなったポーランド人の遺体だった。頂上からわずか20メートルほど下である。

 ロープは無情にも、その遺体のすぐ左横を通って、頂上へとのびている。ぼくは遺体と対面せざるをえなかった。その人の肌からは水気が失われ、顔の表面はプラスチックのようになっていた。口が少し開いている。マウンテンハードウェアのダウンスーツはまだ新品同様で、装備はぼくたちと同じようなものである。なぜここまで来て、彼は動けなくなったのか。頂に立った後なのか前なのか……。

 「頂上に行ってきます」と遺体に手を合わせ、岩場を登っていく。ジグザグに登っていけばもっと楽だと思われるのだが、昔のちぎれかけたフィックスロープも、今年のフィックスロープも直登を示している。垂直とは言わないが、あまりに壁になっているので、本当にここをこのまま登るのか」とプラ君にジェスチャーすると、彼は「そうだ」と言う。なので、とにかく、力を振り絞って無理矢理登った。

 頂上付近には雪があった。二本の足で立てるような場所ではなく、座るように頂上に到着した。午前10時過ぎ。C4からわずか3時間ちょっとで登り切ったことになる。プラ君と握手をして、無線でBCに連絡を入れる。雲より高いところにいるので、空に雲は当然なかったが、とにかく風が強くて、ちょっと油断するとまずいことになる。

 頂上に座ると右手にエベレストが見える。まったく見たことのなかったエベレストの姿がそこにあった。バルコニーも南峰も頂上もここからは見える。思った以上に鋭角な三角形をしていた。二年前に立ったあの頂を、ぼくは今、その隣から眺めている。ヒマラヤを、エベレストを知るための旅が、この瞬間ついに完結することになった。ぼくは頂上で写真を何枚か撮り、プラ君を撮ったり撮ってもらったりした。突風が四方から吹き付けてきて危険なので、数分滞在した後、すぐに下山にとりかかる。この頂上からアームラップで下る自信がなかった。斜度が急すぎる。しかも岩場だ。ぼくはATCを使って懸垂下降に入った。頭は働いているので、手順を間違えることはない。懸垂下降をしていくと、右手に再び遺体が見えてきた。遺体の左横を通過した。しかし、なんでここに置き去りになっているのか。クレバスに落としたり、ソリで引きずり落としたりしないのか。そんなことを考えながら、ゆっくり下降した。

 アームラップで下れるようになってから、ローツェ・クーロワールを、スーザンとラクパ組が登ってくるのが見えた。次にレネとタシ組、そしてさらにだいぶ下ってから、追い抜かした3人組がいて、そしてその後をSさんとギャルツェン組が登ってくる。

 スーザン組が4時間ちょっと、レネ組が4時間半、Sさんが6時間以上かけて頂上に立っている。酸素ボンベはC3で眠るときから使用した。それにしても、C4から頂上まで3時間ちょっとという時間はあまりにも早く、BCに帰ってから「アイスフォールを越える時間とローツェ登頂と同じ時間かよ(もっと早くアイスフォールを抜けろよ、という意味)」とか「頂上にきれいな女の子でもいたんだろ」などとみんなにからかわれた。このスピードに何だかんだでついてきてくれたプラ君にも感謝せねばならない。

 

5月19日(BCにて)

 とにもかくにも、HIMEXローツェ隊4人は全員登頂成功。3人はその日中にC2に帰り着き、翌18日にBC帰還。Sさんのみ、登頂後にC2まで一気に戻って来ることができず、C3で一泊。翌18日にC2に戻り、本日19日午前にBCまで戻ってくる予定だ。

 隊長のラッセル・ブライスは常々言っている。大切なのは登頂ではない。五体満足でBCに帰ってくることだ、と。「たとえ登頂できても凍傷で指を失ったりすれば、その遠征は失敗である」と今回も出発前にはっきり述べていた。そうしたことを含め、あらゆる意味で、今回のHIMEXローツェ遠征は成功したと言える。

 ローツェは、いい山だった。なんというか透明な感じのする山だった。あのローツェ・クーロワールという、垂直の煙突のような通路を最初に発見したのは誰なのか。その登攀の歴史にも興味を持ち始めている。なんだかエベレストよりも好きになりそうだ。


あとがき

■5月の地平線報告会では、元気な子どもたちの声が聞こえた。7人のお子さんが来ていたらしい。親は気が気ではなかったかもしれないが、私はとてもいい、と感じている。地平線会議を30数年も続けていると若い娘もいつか母親になり、少しずつ足が遠のく。子を持つ母親はなかなか地平線報告会には参加できない。それでいいのか。そのことがずっと気になっている。これからも「子連れ歓迎」を強く宣言しておきます。

◆石川直樹君のローツェ登頂記、迫力ある貴重な読み物だった。そうか、最後のクーロアールはあのような感じなのか、と。そして、彼ほんとに強かった。あんなスピードで登れたのだ。ちなみに、ローツェは「ロー(南)ツェ(峰)」というチベット語から来た山名でエベレストの南に位置する「南峰」の意味。

◆フロントページの題字とこのページのイラストでおわかりのように、今号は若い才能の登場です。アメリカかどこか懐かしの地を訪ねて彷徨っているらしい長野亮之介画伯に代わり、ムサビで日本画を専攻した竹村東代子さん。28日の地平線報告会にも登場してもらいますが、その前、この16日の日曜日には山本豊人君との結婚式が控えている。モーレツに大変、多忙な時期にありがとう。

◆老いる、ということはその過程が難しい。三浦雄一郎さんはまさにそのことに抗って80才で3度目のエベレスト登頂を見事にやりとげた。ただ、政府が音頭を取って進めている「三浦雄一郎記念日本冒険家大賞」、植村直己冒険賞との違いなどじっくり見据え、クールに実行してほしい。(江本嘉伸)


■今月の地平線報告会の案内(絵と文:長野亮之介)
地平線通信裏表紙

カヌーをつくった僕らと2000日

  • 6月28日(金) 18:30〜21:00 500円
  • 於:新宿スポーツセンター2F

新グレートジャーニー最終章、インドネシアから日本へ渡ってきたカヌーは私達、武蔵野美術大学関野ゼミ卒業生たちの膨大な時間と気づきの結晶でした。単位をもらえない自由参加のゼミに卒業制作前の時間、仕事の合間の時間、将来のための大切な時間をつぎこんだのはなぜなのか?

そもそも関野ゼミとは、カヌープロジェクトとは? 一人一人にとっての始まりとおわりはいつだったのか…。その後の生活に気づきは生かされているのか、その後の人生をどう変えたのか?

航海の終了から2年。プロジェクトの始まりから2000日。国立科学博物館グレートジャーニー展が終わった今、それぞれの想いを語ります。


地平線通信 410号
制作:地平線通信制作室/編集長:江本嘉伸/レイアウト:森井祐介/イラスト:長野亮之介/編集制作スタッフ:丸山純 武田力 中島菊代 大西夏奈子 落合大祐 加藤千晶
印刷:地平線印刷局榎町分室
地平線Webサイト:http://www.chiheisen.net/


発行:2013年6月12日 地平線会議
〒160-0007 東京都新宿区荒木町3-23-201 江本嘉伸方


地平線ポスト宛先
pea03131@nifty.ne.jp
Fax 03-3359-7907 (江本)


◆通信費(2000円)払い込みは郵便振替(料金が120円かかります)、または報告会の受付でどうぞ。
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議


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