2013年5月の地平線通信

■3月の地平線通信・409号のフロント(1ページ目にある巻頭記事)

地平線通信表紙

5月15日。きのうは各地で30度を越す真夏日となり、一気に夏の気配が強まってきた。今年も冷房をどう使うか、が飲み屋や犬仲間の話題となる季節の到来である。

◆何度も書いてきたが、5月はエベレストの季節だ。80才の登頂をめざす三浦雄一郎さんの隊は、天候待ちで登頂は20日以降になりそうだが、ここに来てまたまた「80才越え」をめざすネパール人男性が現れた。ミン・バハドゥール・シェルチャンさん。2008年5月に76歳でエベレスト登頂に成功。当時、75歳での最高齢記録を目指していた三浦さんの記録達成を阻んだ人だ。5月中に81歳で挑み、記録更新を狙っているという。

◆エドモンド・ヒラリーとテンジン・ノルゲイの初登頂(1953年5月29日)から60年となることしのエベレストでは、シェルパと欧州の登山家の乱闘事件が話題となった。今日のエベレストは、シェルパたちの「ルート工作」(ルート上にロープを張り渡して登山者の安全を確保すること)が当たり前になっているが,スイスとイタリアの著名な2人のクライマーがこれを無視して強引に進もうとしたことがきっかけと伝えられる。正確なことはわからないが、石川直樹君のブログなどの情報を総合すると、シェルパたちのルート工作中に2人は追い越して上部から落とした氷塊でシェルパが負傷したことが引き金となり、一時は相当険悪な場面になったようだ。

◆世界第4位の高峰、ローツェを目指す石川君は、順調にいけばきょう15日にC3(7300m)からC4(8000m)に入り、明日16日、8511メートルの山頂を目指すはずだ。17日には何らかの情報が入るだろう。

◆それにしても4月26日、上野の国立科学博物館の講堂をお借りして開いた関野吉晴さんの地平線報告会、しみじみと、深々と心に刻まれるものだった。地平線会議の歴史にまさに新たな1ページが開かれた、と感じている。こういう試みを可能にしてくれた博物館の好意に感謝するとともに、「グレートジャーニー・人類の旅」開催中に是非地平線報告会をやりたい、という私の強い希望を受け、「科博講堂での地平線」をアレンジしてくれた関野本人の配慮に心からありがとう、を言います。

◆国立科学博物館は1877(明治10)年に設立された、日本で最も歴史のある博物館だ。その由緒ある場所で「特別展」として、つまり通常の「企画展」よりはるかに広いスペースを使ってグレートジャーニー展を3か月もやるという。よし、会期中に必ず関野吉晴報告会をやろう、その際、必ず「特別展」を見てきてほしい、と参加者にお願いしよう、そう考えたのは3月の開会直後だったか。

◆その時は、博物館内でできるとは考えもせず、いつもの新宿区スポーツセンターで、と思っていた。しかし、展示の現場はなんとしても見てきてほしい。地平線報告会は原則第4金曜日と決めている。関野さんに相談したら会期中、金曜日には必ず18時から「ギャラリートーク」というのをやることになっている、という。むむむ。報告会は、それを聞くことにするか。

◆砂鉄集めから鉄の道具を作り、道具から材料まですべて手作りのカヌー「縄文号」の実物が、展示場のコーナーに飾られている。「ギャラリートーク」は、その舟を観客が取り巻くようにして囲み、関野氏が舟の上に立って話をする。背景の映像画面には、実際のカヌー作りから航海の様子が。それだけで十分な現場だ。何よりも舟が美しい!!

◆だが、ほかの観客が大勢いる中で地平線らしいことはやりにくいよなあ。思案していると「講堂が使えそうです」と素晴らしいアイデアが本人から出てきたのである。よし、素晴らしい、やらせてもらおう! ただちに地平線会議の仲間たちと相談して10数人のチームをつくった。

◆国立科学博物館の特別展は「地球館」の中での催しだ。講堂へはいったんそこから出て、常設展をやっている「日本館」の2階に移動する必要がある。一般客が詰めかけるであろう当日、どう誘導できるのか。1週間前におもだったスタッフが現場に集合し、博物館側のご協力のもと、26日当日の細かな作戦を立てた。誘導用の案内イラスト、場内で配るパンフなども用意した。博物館側が全面的に協力してくれたのは、ありがたかった。

◆当日になった。地平線スタッフが集合時間とした17時には、担当の福井彰さんだけでなく、監修者のひとりである篠田謙一先生(国立科学博物館人類研究部人類史研究グループ長)も通用口に待たれていて会場まで案内してくれ、恐縮した。ありがたかった。心配していた混乱もなく、19時きっかり講堂での報告会がスタート。天井が高くて、音響が良くて、歴史の質感が漂う会場だった。そこで関野兄は、いい話をしてくれた。

◆ことしのゴールデン・ウィーク。私自身はその大半は、大事な用件で神戸にいた。その顛末は13ページに。(江本嘉伸


先月の報告会から

未来のヒント

関野吉晴

2013年4月26日  国立科学博物館日本館2階講堂

■桜の木がさわやかな新緑に包まれた上野の国立科学博物館。現在開催中の「特別展 グレートジャーニー人類の旅」が連日来場者でにぎわうこの場所で、4月26日、関野吉晴さんの地平線報告会が行われた。

◆国の施設で報告会を運営するには、撤収時間や料金体系など、所定の規則をきちんと守らなくてはならない。そのため事前に招集された地平線スタッフが下見や打合せを重ね、関野さんや博物館の方々のご協力をいただいて、イレギュラーな報告会の準備を進めていった。

◆当日の流れはこうだ。参加者はまず「地球館」のGJ展をまわり、「縄文号」前でギャラリートークを聞いてから、報告会会場の「日本館」2階講堂へ移動する。展示では、ゆるやかにコースが設けられた巨大なワンフロアを歩きながら、関野さんの旅路を追体験するように展示物を見られるのが楽しい。

◆コースの後半、インドネシアから石垣島まで航海した「縄文号」が窮屈そうにおさまっている部屋がある。18時。船の甲板に関野さんが立ち、毎週金曜日恒例のギャラリートークがスタート。通常は19時まで続くが、この日は特別に20分早く切り上げられた。このあと急いで講堂へ向かう。迷路のような館内では、迷わないよう、「地平線会議」の腕章をつけた案内役の地平線スタッフが道を教えてくれた。

◆講堂は、ひんやりと清々しい空気が満ちていて、見上げるほど天井が高く、いるだけで心地よい。舞台まわりの深い焦げ茶色の木は、歴史的建造物であることを感じさせる重厚感だ。110名余の席がまたたく間に埋まり、19時5分前、舞台上に関野さんが登場した。

◆「なぜ、ここでGJ展をすることになったのか?」。関野さんと博物館の縁は、博物館人類研究部と共同研究をしたことから始まる。旅で出会った人たちに採取させてもらった頬の粘膜で、ミトコンドリアDNAの遺伝子解析をしていたのだという。

◆GJ展は監修者が3人いる。関野さんと、分子人類学専門で古人骨のDNA解析をしている人類研究部人類研究グループ長の篠田謙一さん、形態人類学が専門で骨から人類起源を調べている博物館名誉研究員の馬場悠男さんだ。

◆2011年、日本へ到着した「縄文号」「パクール号」の展示場所を探していた関野さんが、遺伝子解析をお願いする篠田さんに相談したところ、「うちでやろう。船だけ飾るのはもったいない、GJ全部の展覧会をやりましょう」ということになった。

◆フジテレビと朝日新聞社の協賛が決まり、規模が大きい「特別展」として開催が確定したのが2011年夏。「私はモノは集めていないけれど、膨大な映像と写真がある。それをどうやって見せるのか。なにを展示するかではなく、なにを伝えるのかが大事」。関係者と月2回集まり、展示の総論を議論した。

◆篠田さんと馬場さんは、研究を通して、人類史の「なぜ」を追求し続けてきた。関野さんは、地球上に約3000いる民族のうち、とくに伝統文化を残している人々と長くつきあってきた。「どちらの場合も目的は、現在と未来のため」。猿学者はサルが好きだから研究に没頭しているのではない。彼らを比較対象とすることで、人間社会の特徴や人間性の成り立ちを発見し、私たち人類がこれからどう歩いていくのかを探求しているのだという。

◆関野さんの愛読書『熱帯雨林の生態学』(ジョン・C・クリッチャー著 どうぶつ社)のなかで、もし宇宙から宇宙人が来て上空から地球の牧畜民を見たら、家畜が主人で、人間はその奴隷としてせっせと世話しているように映るだろう、と書かれているそう。「日本社会、ひいては世界文明の未来を考えるためには、我々と違う世界観や価値観を持つ人たちの視点から考えるのがいい」と関野さん。

◆「イースター島からモアイ像を持ってきて展示したかったけれど、この計画は失敗しちゃった」。失敗の原因は持ち出し許可が得られなかったためだが、そもそもなぜモアイ像なのか。「イースター島が歩んだ道が、地球が歩みつつある道と重なる。モアイ像は文明崩壊の象徴」

◆猿人、原人、旧人を経て、私たち70億人の共通先祖であるホモサピエンスが20万年前にアフリカで生まれ、世界中に散らばっていったGJ。その「最後」が、イースター島やハワイ島などポリネシアに到達した人々だった。「最後」と呼ぶ理由は、農耕と航海術の新しい時代がここから始まるから。

◆最初のGJは、シベリアやアラスカ、南米最南端まで到達した、狩猟採集段階で移動した人々。彼らは1人では生活できず家族を作り、一家族では住めないので50〜60人のグループを形成した。その人数で狩猟採集をして生きていくには、沖縄本島ほどの広さがないとだめで、180平方キロ(利尻島の面積に近い)のイースター島では狭すぎる。

◆1万年前にイースター島へわたった人々は、もともと台湾や中国南部にいて農耕を営んでいた。ところが漢民族の祖先にあたる人々が南下してきて、突き出され、イースター島にたどり着いた、という説が有力らしい。

◆彼らは島にイモを持ちこんで育て、新たな暮らしを始めた。すると時間をもてあまし、祭壇やモアイ像作りに励むように。やがて人口が増えて複数の部族に分かれ、部族間でモアイ像作りを熱狂的に競い出す。勝つためには巨石を早く運べるコロが必要になり、大量の木を切っていくが、「このままいくとやばいんじゃないか、と彼らは気づいていたはず。でもやめられなかった」

◆豊かな森に恵まれていた島からついに木が消えた。周囲に助けを求めたくても、一番近い島まで2000キロも離れた絶海の孤島。「まさに地球の現状。食料やエネルギー資源が有限だとわかっていながら、私たちは使うのをやめられない。火星には誰もいないし、地球外には救いを求められない」

◆人類が拡散していくときに適応困難だった4つの地域がある。熱帯雨林、極北、乾燥地の砂漠、高地。新しいフロンティアに行って滅びた人もいるが、そこで生き残れた人はパイオニアだ。「創意工夫をして、住めば都にしてしまった」。GJ展では、さまざまな民族固有の衣食住や生活様式のようすが具体的な展示物と文章で解説され、人類がどのように極限の土地に適応できたのか知ることができる。

◆人間と動物を分ける大きな特徴のひとつは「移動」。かつて関野さんは、好奇心や向上心が、新天地への移動に人を突き動かす最大の原動力だと考えていた。しかし今では、「弱い人が生きのびるために、仕方なく移動せざるを得なかったんだと思う」。豊かな場所には人口が集中する。増えすぎると弱い人がはじき出され、移動へ追いこまれる。

◆「日本はその典型。弱い人が集まってきて、行き止まりでこれ以上東に行けなかった。弱い人たちが混血してできたのが日本人」。同様なのがイギリス。ただし興味深いことに、弱いままで終わらないことが多いという。「善し悪しは別として、追い出した人をやっつけようと、日本はアジアを、イギリスは世界制覇を試みたときもある」

◆「日本人」というグループが成立した過程として、はじめに縄文人が、そのあとで渡来人がやって来て、縄文人を北と南に追いやりながら混血を進めた「二重構造説」が現在の定説。「新宿区で誕生する新生児の4人に1人は両親のどちらかが外国人。人が活発に出入りする歴史は現代でも続いている」

◆人類が獲得した性質として、一番大きな業績であり、人類をほかの動物と異なる存在にしているものはなにか。関野さんの答えは「直立二足歩行」と「家族」。二足歩行によって広域で多くの食べ物を探索できるようになった。あまった両手で大量のモノを運び、道具を作り、文化も生まれた。

◆家族や共同体を形成するのは人間だけで、サルやゴリラは家族を作らない。安全な森で生活する彼らは、5年に1回出産すればよい。チンパンジーのオスは交尾を終えるとメスのもとから消え、母親だけで子育てする。

◆ところが気候変動で森がサバンナに変わり、敵から襲われる危険性が高まると、必然的に子どもを産む回数が増えた。女だけでは複数の子どもを同時に育てられず、男が加わって家族のかたちに。さらに敵が近づきにくいよう自分たちを大きく見せるため、そして近親婚を避ける目的で、家族が群れて共同体になった。

◆GJ展の最初の展示物は、頭上にそびえ立つラエトリ遺跡の足跡化石。中央アフリカ東部に位置するタンザニアのラエトリ遺跡は、関野さんが足かけ10年を費やしたGJのゴールに選んだ場所だ。360万年前のこの化石の発見が人類祖先の直立二足歩行を実証し、研究の結果、2人の大人と1人の子どもが連なって歩いていたことも判明。つまり、この時代に、夫婦や家族とみなせる関係があったという暗示になった。

◆最後の展示物は、その足跡化石の主たちを想像し、科学とアートを融合して作った猿人家族の模型。家族構成は、父親、妊娠中の母親、彼らの幼い子ども。火山灰が降り積もる荒涼とした大地を、安全な場所を求め、父親を先頭にさまよい歩いているという場面設定だ。

◆「それからも人類はいろいろな業績を積み重ね、ついには自分たちの環境まで壊すようになった」。では、これからどうすればいいのか。展示コンセプトについて、関野さんは監修者やデザイナーたちと何度も意見を交わす。「具体的な答えを示すのではなく、データを出してみなさんに楽しんでいただき、個人個人で考えてもらえるものにしたかった」。5月上旬時点で、GJ展の来場者は10万人を超えたという。

◆この先人類はどこへ行くのか、この地球上で生き残れるのか。4月の新刊『人類滅亡を避ける道 関野吉晴対論集』(東海教育研究所)では、人類未来の「処方箋」について、異なる分野の賢者9人に関野さんが問いかけている。編集は、地平線会議発起人の1人である岡村隆さん。知恵の宝庫のような一冊のなかで、作家の船戸与一さんが「闇の消滅」について話していたのが、関野さんは印象的だったそう。

◆船戸さんは語る。「現代は『暗闇』というものが地上から失われていく時代。加えてITが社会からも『闇』なるものを奪っていく。ところがこれまでの人間の歴史を考えると、夜の闇こそが『恐れ』といった感覚とともに人間の想像力や創造力を育み、人の心をつなぎ、状況を動かす母胎となってきたともいえる。まずは闇というものがないと、人間は『物語』を紡げなくなる」と。(一部抜粋、一部要約)

◆関野さんはいう。「私たちは1人ひとり、死ぬまで物語を紡いでいかなくてはいけない。その人生という物語の総体が、人類の歴史になっていく。たとえ闇がなくなっても、紡ぎ続けなければならない。それをどうするのか考えてもらいたくて、この展示をやったわけです」

◆音響もよく部屋のすみずみまでクリアに声が響く講堂で、もっとお話を聞いていたかったが、20時10分前に報告会を終了。定刻20時には完全撤収。2次会参加者は、野外にある巨大なシロナガスクジラ模型の下に集合し、上野駅近くの居酒屋で盛り上がった。たくさんの貴重な体験の余韻が、今も続いている。

◆ところで、イースター島はその後どうなったのだろう。少し調べてみると、1万人(諸説あり)にまで膨れ上がった人口爆発の結果、島は深刻な食糧危機に陥ったらしい。ところが船を作る木も残らず、島脱出はおろか、漁すらできない事態に。人々は食糧をめぐり争い、食人も行われ、人口は600人ほどに激減。文化を失って、石器時代の生活に戻ったという。

◆GJ展は6月9日まで。関野さんが投げかけるこの壮大な問いについて、私たちみんなが答え探しに参加するべきときなのだと思う。(大西夏奈子


報告者のひとこと

一番大切なことは当たり前なことだ

━━科学博物館での講演を終えて━━

関野吉晴

 ゴールのタンザニア、ラエトリに着いた時、インタビューを受けた。インタビュアーは学生時代から40年間付き合いのある探検仲間だった故坂野皓氏だった。寡黙な私をよく知っていて、自然に私の口から何かがついて出てくるのを待っているようだった。しばらくして私は言葉を探しだした。

 「やっぱり、大事なのは、当たり前なことなんですよね」

 この言葉を発すると、一番最初に思い浮かんだのはロシアで出会った、81歳の一人のポーランド人老人と交流した時のことだ。

 ロシアのコリマ街道で、かつて強制収容所に収容されながらも生還した、ウラジミル・ロマナビッチ・フリストゥックさんと会った。81歳とは思えないほどかくしゃくとしていて、私のインタビューにも快く応じてくれた。

 ウラジミルさんは、ポーランドの空軍兵士だった20歳の時、ソ連の官憲によって逮捕された。取り調べという名目で約1年半も拘留された。結局、まともな裁判は1度も開かれないまま、スパイ罪の汚名を着せられ、シベリアの強制収容所に送られた。

 かつてポーランド空軍にいた時期に、アリーナという女性と結婚し、1人娘ももうけていた。しかし、戦争中に奥さんは病死し、祖母に預けられていた娘もやはり病気で死んだという。同じ空軍の兵士だった兄も戦死し、すべての肉親を失くした時、ウラジミルさんはもうこれ以上失うものはないと諦めたという。

 1949年、ようやく強制収容所から解放された。青空が目に飛び込んできた。空気がとてもおいしく、雲の形もいつもとは違うように見え、収容所の内と外では、世界がまったく違ったという。

 その後20年近く経ってから、ウラジミルさんは、現在の夫人であるエカテリーナ・イェゴラナさん(62歳)と一緒に暮らし始めた。ウラジミルさん夫妻は2人とも年金生活者で、十分ではないが、家と畑を持つ老夫婦が慎ましく生きていた。

 逃げるように祖国を離れ、妻子とも別れ、強制収容所に入れられるという辛い経験を持ちながらも、カトリック教徒のウラジミルさんは「自分は幸運だった」という。

 ドイツ軍に撃たれて太股に傷を負ったが、弾が骨まで達しなかったので助かった、ドイツ軍の捕虜になっても、なんとか脱出できた、強制収容所で金山の採掘をさせられることもなく、軽労働ですんだ、解放されてからも良い仕事に就き、新しい妻ともめぐり会えた、きっと神様が自分を守ってくれたに違いないと思っている。

 「私はラッキーだった」と言っているウラジミルさんだが、私にはラッキーだけでなく、ハッピーに見えた。夫人とのつつましくもむつまじい暮しに満足し、ふくよかで、ゆったりとした顔をしている。何故幸福そうに見えるのか考えてみた。

 彼は人生で最も大切な20代、30代、40代を強制収容所ですごした。家族と一緒に暮らすことができる。友達や仲間と自由に会える。好きなことを言える。好きなところに行けて、好きなところに住める。こういったことは多くの人にとっては当たり前のことだろう。

 私たちは病気になって初めて健康であることのありがたみが分かる。山道で水がなくなり、水に出会った時の水のうまさは何とも言えない。この時、当たり前だったと思ってきた水の有難味がよく分かる。

 ウラジミルさんは長い間、そうした当たり前のことができずに生きてきた。当たり前のことが、本当に大切であることを、身をもって経験してきた。そのため当たり前のことがいかに大切であるかを誰よりも身に染みて知っている。今それをかみしめ、味わって生きている。そのためウラジミルさんはとても満ち足りて、幸福そうに見えたのではないだろうか。

 以前、日本人の友人がアメリカのレッドパワーの運動家に手紙を出した。レッドパワーは北米で生まれた先住民の権利回復運動だ。過酷な環境に居留地を押しやられた北米先住民の、後からやってきて大きな顔をしている人たちへの蜂起だ。

 この時レッドパワーのリーダーは、

「私たちにして欲しいことは特にありません。あなたたちの大地を慈しんでください。それが私たちを支援することになります」

 と答えた。アメリカインディアンらしい回答だ。大地という言葉には土のほかに水、大気も含んでいる。もちろん人類の普遍的な権利人権も含んでいる。他人のそれを守る、あるいは権利獲得を支援するのではなく、自分の権利を守る。侵されていたら回復するように努める。土、水、大気が汚されていないのが当たり前なので、汚されてきたら回復するように努める。あくまで自分の住んでいる土地で。

 私はラエトリのゴールに着くまでに世界中の辺境を歩いてきた。五千日近くになる。しかし外国ばかり歩いていて、自分の慈しむべき足元を見てこなかったことに気付いた。生まれたところ、住んでいるところがどんなところなのか。日本について外国で質問されるが正確に伝えられずにいた。

 アフリカを出て、日本列島にやって来た人類の足跡を辿りたいと思い2004年から始めたのが新グレートジャーニーだ。日本列島には四万年前の後期旧石器時代から、様々なところから人類が入って来た。その中で主要なルートを歩いた。シベリアサハリン北海道の北方ルート。ヒマラヤの山麓から一度インドシナに入り、その後北上する。中国、朝鮮半島を経て日本列島に至るルート。最後がインドネシアからマレーシア、フィリピン、台湾を経由して日本列島に至る海上ルート。2011年6月ゴールの石垣島に着いて8年間の新グレートジャーニーは終わったが、やはり最終的に辿りついた結論は同じだった。一番大切なことは当たり前なことだ。


おかげさまで、またまたアンコール上映、決まる!!

■『puujee/プージェー』とグレートジャーニー探検家・関野吉晴さんの手作りカヌー「縄文号」製作を追ったドキュメンタリー『僕らのカヌーができるまで』アンコール上映が決まりました。どうか劇場までお出かけください。

国立科学博物館【特別展】<グレートジャーニー 人類の旅>との連動イベント

『puujee/プージェー』&『僕らのカヌーができるまで』共同上映

5/25(土)〜5/31(金)
 10:30〜『カヌー』/13:00〜『puujee/プージェー』/15:30〜『カヌー』
6/1(土)〜6/7(金)
 10:30〜『puujee/プージェー』/18:10〜『カヌー』

◆『プージェー』上映後スピーチ:
5月25日(土)山田和也(監督)・26日(日)関野吉晴
6月1日(土)山田和也(監督)2日(日)山田和也(監督)
◆山田監督のスピーチでは、日本が進めようとしているモンゴルへの原発輸出について話します。

劇場:ポレポレ東中野 
http://www.mmjp.or.jp/pole2/
◎一般1400円/大・専1200円/シニア・高・中1000円/小700円
◎2作品共通2回券:2000円(2作品共通して利用可能。別日の鑑賞でも、2人で1作品鑑賞でもOK)
◎国立科学博物館「グレートジャーニー」展のチケット半券ご提示で200円引き(2回券・シニアは除く)
山田和也
【先月の発送請負人】

■地平線通信408号は4月10日、印刷作業を終え、11日メール便に託しました。 今回は、14ページの本体に加えて、関野吉晴監修の「グレートジャーニー 人類の旅」の豪華パンフを同封したのでA4サイズのビニール封筒にしました。印刷、発送に汗をかいてくれたのは、以下の方々です。ひとつ多くなった作業、ありがとうございました。
  森井祐介 車谷建太 村田忠彦 黒木道世 関根皓博 江本嘉伸 石原玲 杉山貴章


地平線ポストから

関野吉晴さんは、タイ人が見れば「あなたはゾウの目をしている」と言っただろうと思われるような方でした

■「旅について学びたい」、いつもそう言い回っている私に、「それならこれに興味あるんじゃないか」といって友人が紹介してくれたのが、地平線会議でした。ホームページで確認すると、著名人や突き抜けた実績を持つ、錚々たるメンバーがずらり。正直ギョッとしましたが、誰でも自由に参加できるようなので、2013年2月の報告会におそるおそる足を運んでみました。

◆アカデミックで落ち着いた雰囲気だな、というのが第一印象です。最近は若者を中心に「世界一周」が一つの流行のようになっていて、学生団体や旅行会社などによって旅をテーマにしたイベントがあれこれと開催されています。いくつか見に行ったところ、大々的な宣伝を打ち、音響や照明で盛り上げるお祭り的なものが多いようでした。一方、新宿区スポーツセンター会議室での地平線報告会には、派手な演出はありません。かといって堅苦しさもありません。企業協賛や商業主義、売名行為とは無縁の独立した運営であるらしいことに、信頼を感じました。

◆また、地平線会議は、「自分」ではなく、あくまでも旅先の「相手」や「場所」が興味の中心であることも、他とは違う点でした。世界一周や旅に憧れる若者達のイベントでは「自分」が重要なキーワードであり、年頃のためか、自分の人生、自分探し、自分の殻を破りたい、成長といったフレーズがよく聞かれます。地平線会議では、旅先の文化、歴史、自然、政治、民族などの詳細や現状の説明が繰り広げられ、「自分」の話はほぼ皆無。情熱をもって語られているのは、何かを追究している自分についてではなく、追究している対象についてです。「外向き思考」だ、と思いました。

◆二度目に訪れた報告会が、4月の関野吉晴氏の回でした。会場は東京・上野にある国立科学博物館内の講堂。「グレートジャーニー 人類の旅」の展示と連動した企画であり、もともと地平線会議のどなたとも面識のない一般人の私にもグッと間口が広がった気がしました。重厚で立派な講堂に入ると、気分がおごそかに高揚します。報告会の価値はこの講堂にふさわしいものですし、地平線に蓄積されている経験や知識の「宝」を展示によって大勢の人と共有できるので、これからも博物館ともっと協働できるとよいと思います。

◆初めて実際に拝見した関野氏は、穏やかな表情、話し方で、タイ人が見れば「あなたはゾウの目をしている」と言っただろうと思われるような方でした。ハードな旅に挑むだけあってすこぶる健康そうで、自然とともに生きているためか、日焼けした笑顔からは風通しのよさそうな心身を感じました。

◆お話の中で印象深かった点が二つ。一つは、人類で最初に旅に出たのは弱い人々であった、ということです。居住地が人口過剰になると、弱い人々が追い出される。追い出された人々が新天地を探してやむなく旅立つ。旅立った人々はほとんど死に絶えたが、一部が生き残り、世界へ散って行った、と。人類が旅に出たのは好奇心や向上心からでもあるが、それ以前に人口過剰と弱者が要因だった、というのは現代の旅人たちを考える上でも面白い視点でした。

◆もう一つは、「闇」のことです。闇が人の想像力を育てた。闇があるからこそ人はその向こうに希望を見た。しかし現代文明は昼夜問わず明るさをもたらし、闇を奪ってしまった。闇の力が失われていく時代だ、と。関野氏は、旅の中では漆黒の闇を何度も経験したといいます。

◆私は現在、旅の経験から気づきや学びを得る「旅学」をテーマとし、社会人学生として大学院で文化人類学を勉強しています。私が考える「旅学」とは、観光産業によってどう利益を得るかを研究する「観光学」とは異なり、旅を産業や単なる娯楽ではなく学びの側面から捉える試みで、1)旅の文化や歴史を学ぶ、2)旅人としての責任や危機管理を学ぶ、3)旅を通した「持続可能な発展のための教育」(Education for Sustainable Development=ESD)、という3つを柱としています。

◆人類学の基礎から始めたばかりで知らないことだらけですが、関野氏の展示と報告会はまさに、人類学、旅と学びの関わり、そして「持続可能な暮らしとは何か」を考えさせてくれるものでした。まだ二回しか参加していないものの、地平線会議は流行や時代、年代を超えて受け継がれる「旅学」そのものではないか、という気がしているところです。(福田晴子 早稲田大学大学院文学研究科文化人類学コース修士課程2年)


[通信費をありがとうございました]

■先月の通信でお知らせした以後、通信費(1年2000円です)を払ってくださった方々は、次の皆さん方です。ありがとうございました。時に記載漏れありますので、その場合は必ず、江本あてにお知らせください。アドレスは最終ページにあります。
石田昭子/小河原章行/一柳百/藤田光明(4000円)/前田良子/小石和男/長澤法隆/稲垣美希/横田武男/北村敏/松本敦子/江口浩寿(10000円)/村田憲明/馬杉裕子/立田景子


九十九里浜で野宿して大量の砂鉄を集めたり、たたら製鉄で夜通しふいごを踏んだりした。関野さんのグレートジャーニーの小さな一部に関われたことは、人生の宝だ

■国立科学博物館での関野吉晴さんの報告会。グレートジャーニーの集大成ともいえる報告会なのに、少し遅れて上野に駆け付けた。特別展のチケット売り場を通り過ぎると、地平線会議の腕章を付けた武田さんと杉山さんがいた。二人が会場の入り口を案内してくれた。展覧会場を進むと、あちらこちらに運営スタッフの方々が。展示を観て回ったあと、講堂で今回の特別展について関野さんの報告会が行われた。

◆展覧会はフジテレビと一緒に企画しているだけあり、五感を駆使して楽しませる展示だった。展示会場では、入り口すぐの壁にアファール猿人の足跡化石の立体模型。同時に、化石の等高線図が床に描かれている。足跡を立体で観て、大きさや寸法を線図で理解する。足跡に歩幅を合わせるように、自分の足を運びながら「足跡をこんな風に表現することができるのか」と展示の方法に感心してしまった。

◆私はムサビ学生時代は時々関野さんの講義を聞きに行く程度だった。ある時、文化人類学の講義のあと、悶々とした若気の至りで「どうして医者になったのですか?」とストレートな質問をぶつけたことがある。関野さんは「それは旅を続けたかったからだよ」と。それでも腑に落ちない顔をしている私に、「それに食って行かなきゃいけないしね」と答えが返ってきた。当然の答えに、妙に納得してしまった。グレートジャーニーという、スケールの大きな夢を実現してきた人でも、日々の生活の事は考えて来たのだと。

◆やりたい事と卒業後の生活、この二つにどう折り合いを付けるのか。企業への安易な就職をなぜか「負け」と考えていた私だったが、「食い扶持としての仕事も大切なのだ」と思うようになった。卒業後の夏、地平線会議で当時ムサビ2年生だった佐藤洋平と知り合い、今度は仕事をしながら関野ゼミに参加するようになった。墨田区の豚のなめし革職人の人たちの話を聞きに行ったり、品川の芝浦と場の職人の話を聞いたり、関野さんが育った地区を見つめ直す過程だった。

◆しばらくして、日本人の来た道を辿る旅が始まり、朝鮮半島からのルート、シベリアからサハリン経由で北海道へのルート、そして南方からのルートへと至った。縄文カヌーを作る行程では、多くの学生や卒業生が参加し、九十九里浜で野宿して大量の砂鉄を集めたり、たたら製鉄で夜通しふいごを踏んだりした。奈良県の刀匠、河内さんの工房を訪ねて、火の粉飛び散る刀鍛冶の現場も見学させてもらった。

◆たたら製鉄は炭と空気を炉に送り続け、炎の色を頼りに長時間1500度以上という高温を保つ必要がある。鉄は青銅に比べて融点が高い。昔の技術では高温を保つ事が難しかったことを考えると、鉄作りの過程を通じて人類史の一部を追体験する様だった。私は日頃から製造業に携わり、モノづくりを生業にしている。普段何気なく使う「鉄」という素材も、昔からの技術と知識の集積の上に成り立っている事を身を以て体験する事ができた。

◆今回の報告会では、関野さんのグレートジャーニーを振り返りつつ、私自身もその大きな旅の小さな一部に関わり、その過程でいろんな事を感じ、学んだなぁと改めて思った。それを自分自身の成長とともに思い返すと、その一つひとつの体験は人生の大切な宝のようなものであり、関野さんの旅に関わった人々の、それぞれの心の中に、確かに存在しているのだと思う。(山本豊人

人は手でものをつくらなくなると傲慢になるのだと感じました

■アフリカからスタートした人類の旅が、これだけ多様な場所に適応しながら広がり、これだけ多様な暮らし方を生み出し、その背後に実に豊かな喜怒哀楽がある……人類の壮大な物語の中に浸って、わくわくした思いで展示をめぐりました。食を見ても、家を見ても、道具を見ても、おしゃれを見ても、そのバリーエーションの豊かさに眼をみはり、この人類の連綿としたつながりの物語の中に私もいると感じると、なんだか力が湧いてくるのでした。

◆中でも縄文号の関野さんと若者たちの取り組みは圧巻でした。わずか5kgの鉄をつくるために、磁石をもって砂浜にへばりついて120kgもの砂鉄を集め、それを鉄に精製するには3トンもの松材を燃やさなくてはならず、普段当たり前に使っている道具の価値と無駄を思いました。人は手でものをつくらなくなると傲慢になるのだと感じました。「もっと手をつかえ、もっと自分の足で歩け」そんなメッセージを受け取りました。

◆ちょうど熊野古道を歩いてきたところです。一日歩き詰めで汗だくで風呂では自分の汗で塩味がしました。道々でボランティアが草を抜き、古道が道であり続けるよう手入れをしてくれていました。道が途切れないようにするには、そういう働きが必要なのですね。人類の道と重なりました。(三好直子

地平線会議にとっても科学博物館にとっても、転機になるような企画だった ━━ グレートジャーニー展と由緒ある講堂での地平線報告会

■恐竜大好き人間にとって上野の科学博物館はあこがれの聖地だ。子どもを連れ孫を連れ、何べん通ったことか。博物館を見ればその国のレベルが分かる。ロンドンの大英博物館などはその最たるもの。日本の科学博物館も最近はひけを取らない。

◆この科学博物館で「グレートジャーニー展」が行われるということは大変なニュースだった。オープニングの案内をもらった時には「これは歴史的な意味を持つ展示だ!」と思い、関野さんと孫の写真を撮ってもらおうと博物館に行った。関野さんは不在だったのでポスター前で写真を撮った。それでも子どもらにはきっと強烈な印象が残るだろう。……親ばかの希望的展望。

◆ちょっと驚いたのは、目玉が「インドネシアから航海してきた手造りの船だけ!」、というほどのシンプルな展示。通常の特別展では「大発見!」がいくつも並ぶものだが、今回のメイン展示(?)は関野さん自身の船の前での語りだった。それがなければふつうの写真展と変わりなく、科学博物館でやる意義はない。「もの」を展示することが得意な博物館としては戸惑ったかもしれない。しかし仲間たちで作り、航海してきた船の前で語る関野さんの「人類の旅」の話には迫力がある。これは新しい試みだったと思う。

◆さらに地平線会議はそれを後押しして、由緒ある講堂を使って関野さんに語ってもらう試みをした。この講堂では多くの著名な科学者が語っている。今回のグレートジャーニー展のメインは関野吉晴という人物の行動そのものと感じた江本さんは、「ダーウィンと大英博物館」とおなじぐらいに「関野吉晴と国立科学博物館」を演出しようと思ったのだろう。

◆地平線関連の人だけでなく、多くの方々が参加した。地平線会議にとっても科学博物館にとっても、新しい転機になるような企画だったと思っている。準備に汗かいた地平線の若者たち、こんな歴史的な企画に参加できたことは幸せだったよなあ。私も参加したかった!

◆ところで5月10日、出雲大社の60年遷宮を体感したくて出雲に行ってきた。いま出雲には大国主さんが仮殿から新装なった本殿に戻るのを祝うために多くの神さまや人々が集まっている。「おいおい現実的なグレートジャーニーの話から、実体のない神さまか」と言われるかもしれない。しかし出雲にくると「三瓶山を杭にして出雲大社の土地を新羅から引っ張ってきた」という国引き物語が現実的に感じられる。

◆関野さんが語る「我々はどこから来て、どこへ行こうとしているのか」というテーマは、方法は違うが、それぞれの人にとって大テーマだ。私は今、「神さま」をとおして自分たちの起源を考える旅をあらたに始めている。地平線会議のいいところは、聞いた話から刺激うけ、新たな行動を起こすこと。年をとってほぼ隠居の身だが、今回はいい刺激を受けました。(三輪主彦

デートに使うカップルでも楽しめるそういう工夫が随所にされている。そんな工夫のひとつに、関野さんのパンツが……

■来月55歳になる。地平線とかかわって30年以上の月日が流れた。この文章を書くにあたって振り返って初めて意識する。江本さんから「それなりに静かに長く地平線を見てきた泉さんの視点でいいから感想を書いてみて」と電話をいただいた。明日までに、という言葉にこれは断れないんだなと、またこの機会を楽しんで、というお言葉にこうやって地平線通信は歴史をつくってきたのだなと感じ入った。確かに静かに長くそれなりにかかわってきたんだなとあらためて思う。

◆初めて地平線会議に顔を出したのは、大学中退して塾で働き出した頃だろうか……どういうきっかけだったのかももう思い出せないのだが、南米に憧れていた私にとって関野さんは神様みたいな人だった。数年後まだ若かりし私は、めでたく計画的に失業して、保険給付中に一年間の沖縄八重山に行く際には、ザックの中に地平線年報を数冊押し込んで行った。

◆その年報は鳩間島で出会った17歳の旅人に衝撃を与え、年報と物々交換で彼から譲り受けた一人用テントが、その後の私の西表探検等でとても役立った。沖縄から戻ってまた南米に向けて働こうと広げた新聞の小さな求人に日本観光文化研究所(観文研)の文字を見つける。観文研が発行している「あるくみるきく」の読者であった私は何が何でも採用してもらわなければと飛び付いたわけである。

◆それからは観文研のお姉さんとして地平線にも顔を出すようになる。江本さん、関野さん、賀曽利さんはじめ地平線の創設メンバーといえる方々は観文研の同人でもあり、あむかす旅本の書き手でもあったので、大変ゆかいな職場であった。もちろん給料はおそろしく安いので南米の資金のために昼間観文研で楽しく働き、夜は銀座や六本木で働いた。刺激的な日々であった。

◆そんな生活を30歳まで続けていくうちに南米への思いやこだわりは形を変えて、休みのたびに日本の各地に旅に出るように。その後、当時地平線報告会の会場であった赤坂のアジア会館のロビーで夫になる人に出会う。彼の赴任地であるタイのバンコクで暮らしながら、乳飲み子抱えて周辺アジア諸国に出かけた。その乳飲み子は21歳になった。一昨年は地平線の女川ボランティアに参加させていただきお世話になった。

◆こう振り返ると、地平線は私の人生にそれなりどころではなくて深くかかわっているのだ。だから言われていた文字数をここまででだいぶ使ってしまった。すいません。「地平線と私」ではなくて、グレートジャーニー展の感想でした。

◆神田での仕事を早めに切り上げて、午後4時半過ぎに上野国立科学博物館到着。入り口で懐かしい金井重さん(金井さんは観文研あむかす旅本の最後の書き手)とばったり会う。お互いにマイペースで観たいのでまた後でね、と(当然金井さんのほうがどんどん前に行く)。関野さんの毎週金曜のトークの時間にあわせた来場者も多かったのか、大変な混雑、盛況ぶりであった。

◆比較的空いているところからじっくり観ていくと、そんなつもりじゃなかったのに若いカップルの会話をずーっと聞くことになってしまった。展示をいちゃいちゃしながら楽しんでいるのが微笑ましい。デートに使うカップルでも楽しめるそういう工夫が随所にされている。

◆そんな工夫のひとつ、関野さんのパンツが展示されていたのもリアリティがあってよかったと思ったが、探検界の玉三郎の異名を持っていたシャイな関野さんにしては意外な気もしたので、「あれは誰のアイデアですか?」と二次会のときに伺ったら、「僕のアイデアじゃないものは一つもありません」ときっぱり。おう、そうでした。関野吉晴監修でした。

◆短期間の準備に寝る間も惜しんで取り組まれたことだろう。関野さんの目を通してだからこそ、見えてくるものがある。素直に危機が伝わってくる。縄文号の後ろの通路のパネルを読むのだけでもかなりの時間がかかった。『人類滅亡を避ける道』を読んで、もう1回行きたいと思っている。50年後も生きる若者と一緒に、自分の足で歩いて、目で見て、耳で聞いて、様々な気づきを共有したいという関野さん。50年後は生きていない年齢になったからこそ、私も共有して感じたいと強く思う。

◆展示会場から地平線会議の会場になった講堂までの誘導も実にスマートで、的確な場所に地平線腕章をつけた案内が立って下さり、頭が下がった。「この会議は誰でも参加していいのですか?」と係りに尋ねている人がいたが、この日初めて地平線会議に参加した方も複数いたのではないだろうか。これぞ、地平線の底力。地平線は不滅です!(高世泉

砂鉄から鉄斧を作り、木をくりぬき、丸木舟を帆走させるあの「縄文号」は圧巻でした

■「グレートジャーニー」に関してはテレビで見たのが最初で、その後数年毎に流される映像を見続けてきました。関野さんが自転車や犬ぞり、時には自分の体で荷を曳いて雪原を歩く映像など今でも目に焼き付いています。その関野さんの話を直接伺えるというすばらしい機会を与えて下さった三好直子さん(と江本さん)に感謝、感謝です。しかも地平線会議に全く関係ない者なのに二次会に参加し、関野さんの素顔に接することができ、最高の喜びでした。

◆「地平線の彼方に何があるか」が冒険の始まりであり、関野さんの話を聞きながら、今すぐにでも舟に乗って大海を旅したくなりました。様々な日常の出来事に押しつぶされて冒険心が薄れていた時だったので、あのワクワクした緊張感とあらゆるものに対する優しさを取り戻したいと思いました。特に砂鉄から鉄斧を作り、木をくりぬき、丸木舟を帆走させるあの「縄文号」は圧巻でした。

◆関野さんは静かで、哀しさを超越した優しさにあふれているように見えました。多くの人と出会い、多くの別れもあり、辛さもあったことと思いますが、それらを乗り越えた優しさを感じました。「人は何処から来て、何処に行くのか」を知ることで、「私たちはどうあるいて行くのか」を考えられると思います。人間は弱いものが生き延びてきて世界に広がって行ったと思うと、弱い者の真の強さや絆があることの強さを感じます。

◆どの様な厳しい環境にあってもおしゃれや色彩を楽しむ力があることがわかりました。むしろ今の自分の方がおしゃれ心を失っているようで、もっと楽しみたいと思いました。対談集「人類滅亡を避ける道」を読み始めたばかりですが、最初の山折哲雄さんとの対話の中で「移動する。歩く。旅する……」と言う個所があります。そうだ、私が今精神的に滞っているのは旅に出ていないからなのだ、と気がついた次第です。

◆夏は自由に山旅を続けていましたが、冬の間は冬眠のごとく凝り固まっていたところに次々とアクシデントが続き、ますます固まった気持ちになっていた気がします。それに気付かせてくれました。「そうだ気ままな旅に出よう」と思うだけで、心が解放されます。

◆人類がどこへ行くのか、地球滅亡への道を止められるのか、私は希望を持つほどは楽観していません。でも、もし多くの人が、人類のたどってきた足跡を知り、かけがえのない生命をつなげてきた歴史を考え、人への優しさを感じることができたら、今の欲望に満ちた消費生活を考え直すことができるかもしれない。私たちが一人一人の物語を紡いでいくために、私たち一人一人がかけがえのない命でつながれていることを感じてほしい、と思いました。(横川芳江 品川区 地平線初参加の登山愛好家)

確実に風化している「東日本大震災」。これからも歴史に残る巨大津波に襲われた東北の太平洋岸を見つづけたい

■「東日本大震災」から2年後の3月11日、東北太平洋岸最南端の地、鵜ノ子岬を相棒のスズキの250ccバイク、ビッグボーイで出発し、東北太平洋岸最北端の地、尻屋崎を目指しました。小名浜の臨海工業地帯から小名浜漁港へ。魚市場は再開されているものの、東京電力福島第1原子力発電所の爆発事故による風評被害をまともに受け、水揚げされる魚も少なく、小名浜漁港はいまだに閑散としていました。

◆ここで運命の14時46分を迎え、町中に鳴り響くサイレンの音に合わせ、海に向かって1分間の黙祷をしました。塩屋崎の豊間では大勢の人たちが集まって盛大な慰霊祭が行なわれていました。次々にやってくる人たちが祭壇に花を供え、海に向かって手を合わせていました。慰霊祭の会場や堤防の上にはキャンドルが置かれていました。その数は3500。地元のみならず、日本各地から送られた3500のキャンドルは、日が暮れると、いっせいに火が灯されるということでした。

◆第1日目は我ら「地平線会議」にもなじみの深い四倉舞子温泉の「よこ川荘」に泊まりました。ここには「東日本大震災」以降、東北各地を精力的にまわっている古山里美さんと、地元の渡辺哲さんが来てくれ、3人で「よこ川荘」に泊まったのです。夕食の膳ではまずはビールで犠牲者のみなさんに「献杯」をし、夕食を食べながら渡辺さんには「浜通り」の現状をいろいろと聞き、古山さんには今日1日まわったところの話を聞きました。

◆大広間での夕食でしたが、同じテーブルで食事をしている女性がいました。札幌からやってきた小田原真理子さん。何と小田原さんは被災地のみなさんに「鎮魂の舞踊」を見てもらいたくてやってきたのです。札幌にご主人とお子さんたちを残してきたとのことで、食事がすむと「アベマリア」と「ラブ」の2曲に合わせて「鎮魂の舞踊」を踊ってくれました。一心不乱になって踊りつづける小田原さんの姿は感動的で。我々のみならず、「よこ川荘」のおかみさんもすっかり心を奪われてしまったかのように見えました。

◆我々は部屋に戻ると、渡辺さんの差し入れで飲み会を開始。渡辺さんの実家は楢葉町。爆発事故を起こした東電福島第1原発の20キロ圏内ということで、いまだに自宅には戻れないのです。3・11から2年もたっているというのに、いまだに家族がバラバラなのです。そんな大変な思いをしているのに、ライダー特有の明るさとでもいうのでしょうか、渡辺さんと話しているとかえって元気をもらってしまうほど。気持ちがいつも前向きなのです。翌日、渡辺さんは「よこ川荘」からバイクでいわき市内の勤務先に出社していきました。

◆第2日目は相馬市の蒲庭温泉「蒲庭館」に泊まり、第3日目は東松島市の民宿「桜荘」に泊まりました。「桜荘」は松島湾と石巻湾を分ける宮戸島にあります。窓を開けると、目の前には絵のように美しい松島湾が広がっています。この海が大津波の直後は瓦礫の海と化したということです。見渡す限り一面の瓦礫で覆いつくされ、海なのか陸なのか、わからなくなったほどだといいます。

◆「松島四大観」の「壮観」(大高森展望台)のある宮戸島は松島湾の内海に面した里浜と太平洋の外海に面した月浜、大浜、室浜の4つの集落から成っています。人口はほぼ1000人。月浜、大浜、室浜はかなりの被害を受け、とくに月浜の民宿は大半が流されていました。大津波の直後、隣りの東名や野蒜で大きな被害が出たこともあり、宮戸島に入る橋が落下したこともあり、宮戸島の状況が東松島市の市役所に届かなかったこともあって、一時は1000人の島民全員が絶望視されました。

◆ところが実際には1人の犠牲者も出なかったのです。これはすごいことだと思います。まさに「奇跡の島」。大地震の直後、「津波がやって来る!」ということで、島民のみなさん全員がすばやく避難したからなのです。みなさんは小さい頃から「地震が起きたら必ず津波が来る!」と頭にたたき込まれていました。避難してからがまたすごいのです。残った家々に島の米を集め、すぐに炊き出しが始まりました。そのため島は孤立しましたが、救援隊が入ってくるまでの何日間かをみなさんは励ましあい、助け合って全員が生き延びたのです。

◆第4日目には大船渡の「冨山温泉」に泊まり、第5日目には三沢の「太郎温泉」に泊まりました。三沢からは国道338号を北へ。ビッグボーイで切る風は真冬と変わらないような冷たさです。凍傷のような状態になり、ひどい顔になってしまいました。あたりは一面の雪景色でしたが、ありがたいことに路面に雪はありませんでした。ガソリンスタンドで給油したときは、「ラッキーだったね。2、3日前だったらアイスバーンでとてもではないけど、バイクでは走れなかったよ」といわれました。

◆ラムサール条約登録地の仏沼や小川原湖から流れ出る高瀬川を見たあと、六ヶ所村から東通村に入っていきました。物見崎が村境。岬の突端には灯台が立っています。そこから南側は連続する断崖の風景、北側は活況を見せる白糠漁港と、岬をはさんで南と北ではガラリと風景が変わります。東北電力の東通原子力発電所の前を通り、ついに下北半島北東端の尻屋崎に到着。「着いた!」と、感動したのもつかの間、岬へのゲートが閉まっているではないですか。尻屋崎は3月末までが冬期閉鎖でした。

◆それではと尻屋の集落を走り抜け、太平洋側の尻屋漁港を通り、もう一方のゲートまで行ったのですが、やはり冬期閉鎖でゲートは閉まっていました。歩いて尻屋崎の灯台まで行こうかとも思ったのですが、それはやめにし、尻屋漁港の岸壁にビッグボーイを止めました。そこを「鵜ノ子岬→尻屋崎」のゴールにしたのです。尻屋崎で折り返し、来た道を引き返し、鵜ノ子岬に戻ったのです。

◆こうして「鵜ノ子岬→尻屋崎2013」を走って一番強く感じたのは、3・11から2年がたった落着きです。大津波の痕跡がほとんど見られなくなったところもあるし、瓦礫の撤去された広い更地を目の前にして、「ここはほんとうに大津波に襲われた被災地なのだろうか」と不思議な気持ちになることもありました。「東日本大震災」は確実に風化しています。震災1年後ではまだ生々しく残っていた大津波の爪痕はずいぶんと薄れ、それとともに「復興」が目に見えるような形になってきました。

◆しかし地域によって復興の度合のばらつきがきわめて大きいのが現実です。震災1年後よりも2年後の方が、はるかに格差が拡大しています。とくに原発事故に見舞われた福島県の復興の遅れは目立っています。このような格差が広がっていくのは、あまりにも残酷なことではないですか。ぼくは今年の夏にも「鵜ノ子岬→尻屋崎」をバイクで走ります。来年の3月11日には「鵜ノ子岬→尻屋崎2014」に出発します。これからも歴史に残る巨大津波に襲われた東北の太平洋岸を見つづけたいのです。(賀曽利隆

「アナタが何者かに興味がある」
━━WTN-J(ワールドツーリングネットワーク、ジャパン)の10年を語る

■原付にこだわり87年から99年にかけ世界一周した藤原寛一さんより、突然の電話があったのは2002年だった。相模原の自宅で「一緒に海外ツーリングをもっと知ってもらう活動をしませんか、これだけのライダーが賛同してますよ」と見せられたのは15人ほどのライダーの走行記録。世界一周クラスがずらずらと並ぶ豪華なものだった。

◆ライダーと一口に言ってもタイプはさまざま。ただ長期間一人旅するような人は基本的には群れない。しかも資料の中には「OO県のなにがし」と呼ばれる、戦国武将的響きを持つ名がいくつもある。みんなで一緒に……、大丈夫かな、というのが最初の印象だった。

◆とりあえずキャンプと講演会しましょうか、ということになり、それまでも勝手に自作自演講演会を企画していた僕は講演会の司会を担当することになった。まず発足前に顔合わせしようと主力メンバーが集まる。確かに濃いメンツだが、集まってみるといい雰囲気だ。恐れていた極端なオレオレ君もいないし、「海外ツーリングって楽しいよ」と知ってもらいたい思いも同じ。まあ、あくまでも趣味の集まりなんで旅に行きたくなったら抜けてもいいよ、というユルさもいい。

◆打ち合わせの結果、「講演会」というと響きがエラそうなんで「お話会」で行こうと決まり、記念すべき第一回目お話会を2003年9月に開催した。あれから10年。5月19日でお話会は44回目になる。海外ツーリング愛好者はいまだにそれほどいるわけでもなく、10年もやってるとツーリング村の姿がなんとなく見える気がする。

◆海外旅行自由化は1964年。賀曽利隆さんがアフリカを走ったのが68年。70年代に先駆者たちがいて、85年に僕もその一人となり、95年以降インターネットの普及により情報がたやすく手に入り、時代が変わってくる。

◆今回のお話会は時代にそった海外ツーリングの歴史と過去のお話会の話し手たちの思い出について話そうと思っている。とはいえ自分の体験した85年以前はイメージでしか話せないので、実質は85年以降しか話せないけど。お話会を継続するにあたりモデルは言うまでもなく地平線会議であり、江本さん、三輪さんであり、長野さん、丸山さんだ。地平線会議で僕自身が報告者になったとき自宅まで打ち合わせに来ていただいた長野さんに「我々はもう何をしたかにはそんなに興味がない。アナタが何者かに興味がある」と言われたのは今も覚えている。

◆その言葉はそのままお話会にも生きていて、例え短期間のツーリングでも、話し手の思いや人柄がちゃんと出るといい場になると思っている。これだけの膨大な情報を2時間ほどで話すのは僕自身にとってもチャレンジ。みなさまぜひいらしてください。(坪井伸吾

日時 5月19日(日)
   午後1時30分開場、午後2時開演〜4時まで
場所 荏原第一地域センター区民集会所第一会 議室(品川区小山3-22-3)
   東急目黒線「武蔵小山」駅から徒歩5分 
参加費 500円
主催 WTN-J

白いちいさな木造一軒家、なんと家賃5000円です。
──屋久島新米住民になりました──

■こんにちは! 突然ですが、4月末から屋久島に住んでいます。今こちらは梅雨入り前のとってもさわやかな気候で、青空の下、沿道の濃い緑の中に花々が鮮やかに咲きほこり、海は青く、反対側を見ればにょきっと花崗岩質の山々がそびえ立つという感じで、島内どこにいても何かが満たされるような感覚になります。

◆でも、何でいきなり南国に? 昨年9ヶ月間やった埼玉での中学校教員のレールにそのまま乗るかどうかという選択に素直にハイと言えず、ぼんやり悩み続け……結局、屋久島に行くという決断をしたのは4月に入ってからでした。やっぱり、住んでみないと気がすまなかったのだと思います。学生の頃から何度か通っている大好きな島。自然や里の暮らしに触れながら、感覚を大切に生きることの心地よさを学ばせてもらった場所でもありました。さらに東日本大震災も、私の背中を押したものの1つでした。

◆あの震災から学んだことは何か。自分たちの力ではコントロールできないものに手を出してはいけない、逆を言えば「あるものを活かす」とか、「本当に必要なもの、大切なものを見分ける」ということ。それにもうひとつ、どんなに文明が発達しても、人の暮らしは自然と共にあることを意識することだと思います。東北にはこれからも通い続けますが、便利すぎる都会をはなれ、自分の暮らしぶりから少しでも変えてみたいです。

◆でも島に住んでみて約3週間、色んなものの「つながり」が一番大事なんだなーと実感しています。必要なものを見分ける力は大切ですが、必要じゃないものもあるから、物事って流れていく。自然の中の暮らしって、そんなつながりを大切に生きること。このムダや手間のおかげで、人の気持ちは安らぐのかもしれません。ムダを無くそうとする都会のシステムが、逆に人の心の余裕を奪っているケースは多々あるはずです。火を使わず調理するIHヒーターとか。おいしいものだけじゃ体によくないってことですね。

◆感覚を大事になんて言いながら頭カタかったよなあ自分……と少しへこみましたが、同じような思いで移住して来ている方々にも出会えました。その暮らしぶりを目の当たりにできただけでも、島に来た価値があります。色々と失敗しながらも、ゆったりと自然と近い暮らしを楽しんでいるそのご家族は本当にすがすがしい顔をしていて、うわあ〜っとなりました。やっぱり現場は面白いです。

◆それにしてもタイミングよく家も仕事も見つかって、行くと決めてから2週間で引っ越し。家は白いちいさな木造一軒家、なんと家賃5000円です。地平線仲間の屋久島ガイドNさん宅から徒歩5分の近さ、というのも何かのご縁でしょうか。山小屋生活や、田舎暮らしをしている知人友人たちとの交流を通して身になじませてきたものを、こんどは自分のフィールドで小さくても実践してみます。グレートジャーニーにはほど遠いミニジャーニーですが、やっぱり何だかわくわくしますよ。(新垣亜美 屋久島発)

「どちらの姓を名乗りますか?」 竹村東代子さん、よくぞ書いてくださいました

■山本さん&竹村さん、まずはご結婚おめでとうございます♪ そして竹村さん(はじめまして)、前号通信、よくぞ書いて下さいました! まさに、自分も感じていたことが書かれていました。私も旧姓に強い愛着があり、名前を変えたくない派でした。いっそ昔のように名字がなければ悩むことないよね〜なんて話をしながら、現実はそうもいかず、「語呂がいまいち」との理由で相手の姓に落ち着きました。

◆他の方々はどうなのか。周囲の女性何人かに聞いてみると、どちらでもよい人が多く、文字数が減って書くのが楽になるから夫の姓を名乗ることにした人も。中には家庭の事情か、早く変えたいという方もいました。意外に、旧姓にこだわる人は少ないようです。

◆各種名義変更手続きの山をひとつ越えたいまは、「案ずるより産むが易し」で、予想していたような違和感はなく、名字が変わることは悪くないと思うようになりました。もし、名前と共に生活が激変していたら、また違ったかもしれません。職場では旧姓を使用しており、日常生活や仕事に影響がないからかもしれません。

◆恥ずかしながら戸籍の予備知識もなく、日曜日に婚姻届を守衛室へ提出したのですが、翌朝9時に市役所から「本籍地が未記入です」の電話。相談の上、慌てて決めました(これがまたひと山)。いずれにせよ、普段何気なく使っている名前や戸籍制度を考えるよい機会となりました。同じ変えたくない派として、半年か1年後に竹村さんの心境を伺いたいものです。(掛須美奈子 千歳 とりあえず通称)


■丸山純+長野亮之介のコンビが、「江戸川区の都市農業」をテーマにした企画展示を手がけています。花や小松菜の生産農家を取材した長野画伯のイラストが、大きく引き延ばされて会場を飾るそうです。5月18日(土)〜7月15日(月)。しのざき文化プラザ3F企画展示ギャラリー(都営新宿線篠崎駅直結)にて。
http://www.shinozaki-bunkaplaza.com/shinozakibp/access.php


山の友、鳥山稔とのわかれ

■緑の季節だ。私の山の友の話を聞いてほしい。この通信で何度も書いてきたが、時々、高い頂きにチャレンジをしている。ひとりではない。タフな相棒がいたからできた。北アや南アなどテント、食料を背負っての山歩きは、いつもふたりでだった。「神戸在住のタフなT」としてフロント記事に再三登場しているのでご記憶の向きもあるかもしれない。

◆2012年8月に出した地平線通信400記念号に「悪性リンパ腫を越えて、68歳でかなえたアンデス登山」という文章が載っている。筆者は「T」こと鳥山稔。こんな書き出しだ。「地平線通信が届くと、いつも眩しいものを見るように、憧れの気持ちをもって読んできました。それは平凡なサラリーマンが夢として持ってはいても、実際には実現できなかったことを果敢に実行している人々が大勢いることを知るからでしょう」

◆通信の読者ではあったが、書いたのはこれが初めてだ。鳥山はこの年の7月、ペルーの最高峰、広大な氷河が魅力のブランカ山群のワスカラン南峰(6768メートル)に登頂した。3年前、悪性リンパ腫を発症、闘病の日々なのに医師を説き伏せ、敢然と挑戦したのである。高度順化に苦労はしたが、25才の若者と見事な結果を出した。そのことに感動し、記念の400号に執筆を頼んだ。400号をお持ちなら、鳥山らしい、控えめな筆致で書いた登頂記を読み返してほしい。

◆鳥山との山登りについて初めて通信で書いたのは、1986年9月10日に出した「地平線通信83号」だ。この時は単に「後輩」としか書いていない。「念願の北アルプス立山から穂高までの縦走。後輩とふたりでテントかつぎ、どれだけスピーディーに歩けるかやってみたのです。」と、書いている。外語大山岳部以来の習慣で私たちは山小屋を使わない。あの時はふたりとも短パン、ジョギングシューズで雨の中を20キロを担いでひたすら歩いた。

◆2009年夏、9日かけてやった、北岳ー光岳の長大な南ア主脈縦走は、私と鳥山の素晴らしい時間だった。あの時、上河内岳付近で撮った天国のような平坦な緑の尾根が、いまも彼のパソコンの待ち受け画面となっている。

◆北アへも何度か出かけた。モンゴルのなだらかな山も一緒に登った。私の古希の記念に、と企画した「太平洋からの富士山越え」にもつきあってもらった。夫人と真っ黒な犬のダフィーを連れ、山梨の山の仕事場にも来た。バラ作りに精を出していた神戸の自宅に私を招いてくれた。

◆4月号のフロントで兵庫県豊岡市を再訪したことを書いた。3月30日、シール・エミコさんの会を終えた足で久々に植村直己冒険館、モンゴル民族博物館を訪ね、しし鍋で歓待された、と。その時、実は鳥山稔が一緒だった。大阪で入院中だったのだが、誘ったら、「是非!」という。病院から外出許可を取っていったん神戸郊外の自宅に戻り、車で私を豊岡まで運んでくれたのだ。2日間、あの時の満面の笑顔、出石そばを10皿以上たいらげた食欲、同室のホテルでの楽しい会話は忘れられない。

◆その後体調を崩した、と聞いた。そして1か月後の4月30日、夫人からの電話は緊迫していた。新幹線に飛び乗り、タクシーで住友病院に乗り付けたのが16時50分。12階の病室に走り込むと、酸素マスクをつけた4才下の友は生きる最後の闘いをしていた。すでに意識はなく、家族が懸命に名を呼んでいる。私も「とりやまあっ!!」と叫んでいた。

◆目の前で何度か力強い呼吸をした。短距離泳者としてマスターズの大会に出続けるなど抜群の肺活量を誇る男だった。医師からすすめられたモルヒネを拒否し、痛みに耐え、見事な最期だった。17時21分、家族と私に見守られて逝った。69才になったところだった。

◆呆然とした時間が流れた。せめて鳥山らしく送ろう、とそれから4日間、気を取り直して、夫人、2人の娘さん夫婦と奮闘した。無宗教で、との希望でお通夜を「鳥山稔を語る夕べ」、告別式を「鳥山稔を送る会」とした。読経、焼香の代わりに、本人が好きだったバラの献花を。鳥山稔の生涯をたどる素晴らしい画像の数々を娘さんたちが頑張って制作し、スペイン語専攻の鳥山が好きだったラテンの静かな音楽をバックに、会場で上映した。

◆鳥山が最近入会していた地元「丹波山岳会」の方々に連絡し、大山、氷ノ山などことしの冬山での鳥山の様子など話して頂いた。ワスカラン南峰を共に登った26才の青年も駆けつけて登頂当時の模様を語ってくれ、山に生きた男にふさわしい、別れの場となった。

◆4才の孫からの手紙朗読、夫人、長女の挨拶など悲しみの中にもあたたかいものが流れる進行だった。そして、弔電披露の冒頭の一通。「稔 逝去の報に接し、なぐさめの言葉を知らず、ひたすら在りし日を偲び、謹んでご冥福を祈ります。陽司」鳥山の父、 陽司(はるじ)さんからだった。96才。同じく96才の夫人を介護しながら三鷹で暮らしておられる。突然の長男の訃報に心痛、いかばかりかとただ思うのみ。

◆これほど惜しい人間ともいつかは別れが来る、という当たり前のことを年長の私に教えて鳥山稔は鮮やかに旅立った。いまも、あいつのことを思うと涙が止まらない。(江本嘉伸


あとがき

■Kindleというのをついに入手した。わからない人も少しはいるかもしれないので説明するといわゆる「電子ブック」というやつ。注文するとスマートフォンやタブレット端末、パソコンで読めるようになる。早速「ファーストアトミック」など森田靖郎さんの著書3冊を購入してiPhoneで指をすぃー、すぃー滑らせながら読み出した。なるほど、案外読みやすい。こうやって何冊分も持ち歩けるのだね。

◆新しいおもちゃを使える喜びを感じつつ中央線のつり革にぶら下がってすぃー、すぃーやっていると「どうぞ」と声がかかった。50年配のおばさんが何か言って立ち上がったのだ。あれ? どうしたのかな。驚いたが、次の瞬間、席を譲ってくれた、とわかってうろたえた。そんなに年の離れていないような人に譲られてしまったことで、人生のペースが変わってしまったのだ。

◆考えてみれば、自身が十分高齢者なのだが、私は今でもお年寄りにはさりげなく席を譲ることが多い。そういう時はその人の動き、歩き方、服装、目、その他の情報を一瞬にして脳が把握し、判断する。たとえば80才を越えているかもしれない人の中にも、車内ではすっくと立ったままでいることを良しとする人もいる。40才でも空席を必死で探している婦人も少なくなく、そういう雰囲気を私の脳はしっかり捕捉するのである。

◆つまり「席譲られ力」のようなものがあるのだ、と思う。むしろこちらから譲りたいような年齢の人に立たれてしまい、我にもなくおたおたしてしまいました。

◆すぃー、すぃー 席譲られて 狼狽す。(江本嘉伸)


■今月の地平線報告会の案内(絵と文:長野亮之介)
地平線通信裏表紙

※(コメジルシ)のプライド

  • 5月24日(金) 18:30〜21:00 500円
  • 於:新宿スポーツセンター2F 大会議室

「70〜80年代頃のTV視聴率の結果発表で「※」は1%以下の計測不能な低い数字を表してたんだけど、当時の良心的な『テレビ屋』達は、おもねらないいい番組を作った証みたいに考えてたね」というのはTVディレクターの山田和也さん(59)。

農大探検部でブレーザー川(カナダ)やガンジス川(インド)の川下りなどを遂行、チベットのラダック潜入越冬を企てている時にOBに誘われてTVドキュメンタリーのAD(助手)になります。映像記録現場の面白さに目覚め、あらためてNY大に留学してドキュメンタリーを学び、帰国後にD(ディレクター)として数々の作品を手がけてきました。

近年はグレートジャーニーのDも務め、秘境や山岳取材のエキスパートとして知られますが、実はヒューマンドキュメンタリーも数多く手がけています。「デビュー作は『コンピュータ結婚』だね。結局人との出会いにドラマがある。テレビの原点は遠くのものを見ることでしょ。“遠い”ものにギリギリまで近づいて、そこで感じる当たり前の感動を愚直にトルのがオレのやり方かなー」。

劇場映画「プージェー」のリバイバルを直近に控えた山田さんに、今月はドキュメンタリーの世界を語って頂きます。


地平線通信 409号
制作:地平線通信制作室/編集長:江本嘉伸/レイアウト:森井祐介/イラスト:長野亮之介/編集制作スタッフ:丸山純 武田力 中島菊代 大西夏奈子 落合大祐 加藤千晶
印刷:地平線印刷局榎町分室
地平線Webサイト:http://www.chiheisen.net/


発行:2013年5月15日 地平線会議
〒160-0007 東京都新宿区荒木町3-23-201 江本嘉伸方


地平線ポスト宛先
pea03131@nifty.ne.jp
Fax 03-3359-7907 (江本)


◆通信費(2000円)払い込みは郵便振替(料金が120円かかります)、または報告会の受付でどうぞ。
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議


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