2013年4月の地平線通信

■3月の地平線通信・408号のフロント(1ページ目にある巻頭記事)

地平線通信表紙

4月10日。北朝鮮が今日の日付を明示してミサイル発射を「予告」したため、射程距離4000キロのムスダン、1300から2000キロといわれるノドンなどが「同時に発射されるのでは」と憶測が高まっている。対抗策として「迎撃」の言葉が勢い良く語られているが、何が起きるのか。実際のところ、日本では現役政治家でミサイルを迎撃、撃ち落としたことのある者はひとりもいない。

◆花が咲き急いだかと思うと、あっけなく風に散り、あわただしい春だった。3月29日、1年ぶりに大阪でシール・エミコとスティーブに会った。信じられないほどエミコは元気だった。車いすで介護は必要とするが、久々に出会う友人たちひとりひとりがシール・エミコの心と身体に宿る無限のエネルギーに圧倒されてゆくのが見ていてわかった。

◆報告会の後、じっくり話す機会があった。オーストラリアに飛び込んで最高の出会いがあったようだ。「私、メルボルンの先生たちに言ったんです。近いうちに死ぬのはわかっています、でも1日でも多くスティーブと一緒にいたいんです。助けてくださいっ、て。何のつても知り合いもいなかったけど、生きたい、って気持ちを病院の先生たち、ナースさん、その他の皆さんに伝えました。

◆6軒目の病院でシドニーの有名な先生に紹介状を書いてくださった。英語でうんと難しい医療の表現なんかできなかった。でも、気持ちを伝えることはできた。生きたい、っていうパッションを。そしたら、応えてくださったんです。「魔法にかけられた感じ。奇跡より意味が深い。人間の限界を超えた何か」という。ひとりの命を守るために医師もナースも病院という組織の中の役割としてではなく、個の人間として動いてくれた。そのことをエミコは何度も口にし、感謝した(こう書いてきて、なんだか涙が出そうだ)。

◆翌30日は兵庫県豊岡市に行った。植村直己冒険館でおなじみの地だ。館の皆さんと久しぶりにお会いした。おととしの5月15日、地平線会議も応援して東京で1000人を集めた「日本冒険フォーラム」の成功は、今も冒険館の自慢のようだった。「豊岡がそんなことやったって成功するわけがねえ、って、さんざん言われましたから」。当時の苦労をサカナに、夜はイノシシ鍋で盛り上がった。

◆豊岡の旧但東町には「日本・モンゴル民族博物館」がある。1996年に開館したこの博物館をどのように活かしていけばいいのか、アドバイスを頼まれていて、翌日はそこを訪れた。豊岡市の中心部からも30分はかかる。展示内容はなかなか本格的なものだが、確かにこの地まで人々を引き寄せるのは簡単ではない。今のままでは「ホワイト・エレファント」でしかないだろう。

◆しかし、日本にもモンゴルにも時代の風というものが吹きます、と館長さんに話した。まさにこの日、偶然にも安部首相がモンゴルを訪問していたのだ。日本の首相がはじめてモンゴルを訪ねたのは1991年、海部首相の時だった。99年には小渕首相が、2005年には退任直前のあの小泉さんが最後の外交仕事として草の国を訪ねた。現場にいたので言えるのだが、過去3人の首相は「行ってあげる」訪問だった、と思う。しかし、安部さんのは「伺わせていただいた」モンゴル行きではなかったか。

◆ひとつには資源大国の地位と意識を急速に持ち始めたモンゴルの親日度を深めたい思惑がある。1972年の国交樹立以来、モンゴルは常に日本に対して親しみと敬意を持ってくれてきた、と私は感じている。しかし、何もしないであぐらをかいていていいはずがない。安部首相はモンゴルの大気汚染解消に向けた技術協力などを表明したらしい。

◆石炭主体のエネルギー構造となっているウランバートルの大気汚染は、実は深刻だ。但東町のモンゴル館長さんは「正直二度と行きたくないです」と青少年交流で訪れた昨年夏の体験を話してくれたが、それほどウランバートルの空気はひどくなっている。資源の争奪戦に絡んでも日本独自の知恵がもっと活かされていいのでは、とつくづく思う。

◆それに加えて首相の頭には拉致問題があるかもしれない。そう、今度は4月5日夜、東中野での「プージェー」の上映会で話した。国立科学博物館で関野吉晴監修になる「グレートジャーニー人類の旅」展が開催されているのにあわせて何度目かの再上映。最後に関野吉晴さんとのトークを頼まれていたのだ。北朝鮮とモンゴルは長く対等の外交関係を維持している。突破口の大事な一つだ。

◆今月の地平線報告会、人はいかに生きるか、という、その関野氏の壮大なコンセプトを軸にしたグレートジャーニー展に合わせて、特別に国立科学博物館をお借りできることになった。異例のぜい沢な報告会である。是非お運びください。(江本嘉伸


先月の報告会から

極限のリーダーシップ

佐藤徳郎

2013年3月22日  新宿区スポーツセンター

■遠くの海に見えていた津波があっと言う間に市街地に達して家屋や車、橋をも押し流し、ぐんぐん水嵩を増して町をのみ込んでいく……。宮城県南三陸町の防災対策庁舎から撮影されたという映像が流されると、会場は一瞬にして静まり返り、そのうちに小さな悲鳴が上がった。今回の報告者は、その南三陸町で震災後、地域の住民を先導してきた佐藤徳郎さんだ。

◆2011年3月11日。佐藤さんは、自宅から20キロほど離れた登米市中田町の花の卸屋にいた。家業としてホウレンソウ栽培のほかに生花を加工して販売していたため、彼岸を間近に控えたこの日、手元にあった現金17万円全部を握りしめて花の仕入れに行ったのだという。14時46分。佐藤さんは、ワゴン車いっぱいに花を積んで代金を支払った直後だった。おつりは1800円ほど。これが、津波後しばらくの間の全財産となった。

◆そして、立っていられないほどの揺れ。「これは絶対に津波が来る」と思い、車に飛び乗った。ところが、付近の北上川にかかる米谷大橋は渡れなかったり、三陸自動車道のインターもバーが下りていて入れなかったり、何度も足止めを食らう。5キロほど下流の登米大橋をやっと渡って猛スピードで国道398号線に入り、南三陸町の合同庁舎のあたりまで下ったところで交通規制に止められた。これ以上、町には入れない。車内から下方の川を覗き込むと、瓦礫が流れこんできているのが見える。

◆「津波だから逃げろ!」窓を開けてクラクションを鳴らしながら後ろの車に向かって叫び、縁石に乗り上げながらもUターンして上流を目指した。山を回って、ようやく自分の住む地域にある大雄寺の駐車場まで来たところで初めて、変わり果てた町の姿を目の当たりにした。「町全体がなかった。よく原爆の写真などで見るような光景が広がっていて、なんともいえない。現実として受け止められない自分がいた」。佐藤さんたちの「その日から」が始まった。

◆佐藤さんの自宅があったのは、南三陸町志津川。同町内での津波の被害は、死者556人、行方不明者223人。志津川にある建物の75%が被害を受けたといい、役場や警察、公立病院といった公共の建物も軒並み罹災した。前出の防災対策庁舎で、津波が来る瞬間まで避難を訴えた女性職員のエピソードが印象深い地域だ。佐藤さんが区長を勤める中瀬町行政区には197世帯603人が生活していたが、被災を逃れたのは、わずか8世帯。大規模半壊が1世帯あり、残りの188世帯が10分ほどの間に家を失い、27人が亡くなった。

◆佐藤さんが大雄寺の駐車場にたどり着いた時、付近には40人ほどの人が集まっていた。しかし、その中に家族の姿はない。200メートルほど下ったところの農家のビニールハウスで妻を見つけることはできたが、妻は「地元消防団員の長男が地震直後に水門に行くと言ったまま戻らない」と言う。志津川に隣接する歌津地区のスーパーに勤める次女とも連絡がつかない。「それでも、高台のほうに長男が運転を担当している消防車があったので大丈夫だろうと思った。次女も、離れて暮らす長女のところに『無事』という、たった二文字のメールを入れていたので生きているだろうとは思っていた」。

◆町の被害の状況もつかめないまま、その夜はビニールハウスに70人くらいが集まり、たき火で暖を取りながら朝を待った。夜間にも津波は何度も押し寄せ、高台に車両を停めていた警察がその度に「逃げろ」と教えに来てくれた。しかし、お年寄りたちは1度や2度は高台に逃げてくれたが、3度目にもなると「もう俺たちはいいや」と言って動かなくなってしまった。そう言って一瞬、佐藤さんは言葉を詰まらせた。数秒の沈黙。「例え高齢者であっても諦めさせるわけにはいかない。それが一次避難のときに一番辛かった……」。ふりしぼるような声でそう続けた。

◆雪の降る寒い夜半になって、やっと入って来たのは、町民約1万7千人のうち1万人と連絡が取れないという絶望的な情報だった。「自分のところは果たして何人が残っているのか」。愕然とした佐藤さんは、町内の住民の安否確認をすることにした。妻からは「娘も生きているか死んでいるか分からないのに、娘より部落の人が大事なのか」となじられたが、娘のことは妻とその兄がなんとか捜してくれるだろう。しかし、部落のことは自分がやらなければ、そう考えた。

◆張り紙や伝聞情報は排除し、実際に顔を確認できたらノートに名前を記入する方法で、震災翌日の12日から3日間、7か所の避難所を訪ねて歩いた。最終的に記載された名前は約250人分。RQ市民災害支援センターの活動で佐藤さんに出会った新垣亜美さんは、「震災直後に歩き回ったために、佐藤さんの足の爪が真っ黒につぶれていたことが印象的だった」と振り返る。

◆安否確認の2日目、交通規制の箇所で車を降りて歩き出したところ、後ろから来る車に呼び止められた。「お父さーん」と呼ぶその声は、慣れない山道を1日半かけて帰ってきた次女だった。2日ぶりとはいっても、とてつもなく長く待ち望んだ再会だっただろう。救出活動をしていた長男も無事に帰り、ようやく家族全員が顔を揃えたのは震災から1週間が経った後だったという。

◆ビニールハウスで一晩を過ごした佐藤さんらは、警察が無線で連絡を取り指定してくれた入谷小学校に避難。そこで23日間を過ごした後、2次避難としてRQが東北本部を置いていた登米市の鱒渕小学校へ。そこから仮設住宅に移るまでの約4か月間、中瀬町の人たちとスタッフは交流を深めていき、現在に至るまでその関係は続いているという。

◆なかでもRQが設けた足湯や食堂で開いた「お茶っこ」は、中瀬町の住民にとって精神面で大きな救いになったようだ。「4、5家族17、8人の人が小さい教室に雑魚寝状態で過ごしていれば、面白くないことも起きる。逃げ場所を作ってもらったおかげで鬱憤を晴らせたことが、避難所で大きなトラブルなく過ごせた一番の要因だったのではないか」。佐藤さんはこのように評価する。

◆一方、当時RQ総本部長を務めていた広瀬敏道さんは、佐藤さんの功績について次のように語る。「あのような災害時なので、地域がバラバラになってもしかたないと考えたところが圧倒的に多かった。でも、若い人なら地域から離れても生きていけるかもしれないが、お年寄りにとっては自分が生まれ育ったコミュニティーはものすごく大事。それを守るために佐藤さんは人並み外れた努力をされてきた」。

◆それというのも、入谷小、鱒渕小、仮設住宅と移っていく際に、佐藤さんは常に中瀬町の住民がまとまって動くことを主張してきたのだという。鱒渕小に移る際には、住民間でまとまった決断を行政によって一度は覆されそうになって、町長のところに直談判に行った。仮設住宅に関しても、当初は公用地が不足していて必要な軒数の3分の1ほどしか町内には建たない予定だったが、佐藤さんは「8世帯が残る地域にみんなで帰ろう」と民有地の使用を強く主張。取材をうけたNHK記者の口利きもあって、同時の国交省の大臣直々の約束を取り付けた。

◆そして現在、佐藤さんたちが直面しているのは高台移転の問題だ。志津川高校裏の移転予定地をボーリング調査したところ、想定以上に岩盤が堅かったために計画の変更を余儀なくされているという。実は岩盤の堅さは織り込み済みで、それでも充分にできるとUR系のコンサルタントから聞かされていた。それなのに。昨年5月に計画を決定して、この3月に変更を言い出すまでの1年近く、あなたたちは一体何をやっていたのか。佐藤さんは怒りを露わにそう詰め寄ったという。

◆「国の復興事業は護岸工事などハード面ではどんどん進んでいるのに、住民の生活面や居住区については遅れに遅れているというのが理解できない」。復興住宅の建設は遅々として進まず、仮設住宅の入居期間は延長に延長を重ねる。「地域の256人のうち高齢者が51人いて、彼らからはよく『俺が生きているうちに高台に行けるのか』と言われる。計画の遅れを待てる人ばかりではない。人生に終止符を打つ年齢に達している人は、やっぱり仮設で終わりたくない、死にたくないというのが本音ではないか」

◆「俺たちは俺たちの町を作るんだという強い意志を持った被災地の行政が一か所でもあってほしい」「強めのことを言う町民もいないと、『はいはい』と言っていたのでは自分たちの思うような町づくりはできないのではないかと思う」と佐藤さん。このリーダーシップが、避難所や仮設でお年寄りが孤立するのを防いできたし、もともとあった地域のコミュニティーを分断させずに済んだという部分は大きいだろうと思う。

◆なにが、そこまでさせたのか。佐藤さんは「住民の生命がかかっている。自分がやらなければ、あの地震のときの区長は誰だったのかって孫の代まで何代にも渡って言われるだろうと思っただけだ」と何でもないことのように言う。だが、後ろについている250人の住民の存在も大きかったのではないか、と想像する。

◆また、新垣さんらRQのスタッフに対する感謝の言葉を佐藤さんは何度も口にする。即時に迫られる決断について、周りの住民や家族にさえも相談できなかったが、スタッフに考えを打ち明けられたことが精神的な支えになったのだ、と。そして、佐藤さんは「区長をやっていて他の人たちと接する時間や機会があるのが一番ありがたい」と言う。「ただ財産を失って終わりというのではなく、被災しなければ他では恐らく築けなかった人間関係が築けたことが嬉しい」。

◆6月中旬に南三陸町を訪れた宮本千晴さんも、震災を機に佐藤さんと知り合った一人だ。その時、佐藤さんは、ビニールハウスを建てるために山の中の立ち木を払って土地を作り、一人で重機を動かして除染のために落ち葉や表土をはぎ取っていた。宮本さんはその姿を見て「意気に感じた」と言う。避難所から仮設住宅、高台移転へという道筋がついたら、次に考えなくてはいけないのは自活していく手段だ。そのように前置きをして宮本さんは言う。「粗い筋書きながら、被災した地元の者としては何をすべきなのかというストーリーを佐藤さんは頭の中に組み立てていて、それを議論するよりもやってみせようとしているのだと分かり、舌を巻いた」

◆最近になって撮影されたビニールハウスの写真には、びっしりと一面に植えられたホウレンソウが青々とした葉を茂らせていた。地平線報告会の会場に段ボール3箱分持ち込まれたそのホウレンソウを1束100円で分けてもらい、帰ってからゆでてそのまま食べてみた。聞いたばかりの話が脳裏に焼き付いていたせいか、佐藤さんの気迫がつまった味がした。(菊地由美子


報告者のひとこと

方向性さえ間違わなければ、必ず誰かが手を差し伸べてくれる

■報告会では触れられませんでしたが、高台移転について、私は「地域包括支援的な移転がしたい」と考えています。施設などに頼るのではなく、昔のように地域全体でお年寄りを見守るようなイメージです。そのために地域でまとまっての避難にこだわってきました。また、「1人暮らし用の、小さな木造一戸建て災害公営住宅が作れないか」とも思っています。

◆家を建てない・建てられない多くの高齢者は災害公営住宅に入ることになりますが、そこはやがては空き部屋になる。そのとき、田舎暮らしに憧れてこの町に来たいと言ってくれる都会の若者が住みたくなるような、今流行のデザインの公営住宅を作れたらと。

◆現在の計画にある鉄筋4〜5階建てのアパートでは、壊すときにもお金がかかりますし。このようなことを考えているわけですが、まさか自分が行政区長としてこんな役を担うことになるとは思ってもいませんでした。

◆私が区長を引き受けたのは7年前、54才の時です。その時、単なる連絡役では面白くない、地域のためになるそれなりの仕事はしよう、と考えました。結果は中瀬町周辺の道路整備事業等で出してきたつもりです。しかし、震災後に起きたことは区長の仕事をはるかに越えることでした。何年後かに、今自分がやっていることの結果が出ます。それが本当に正しいのか、良いことなのか、今はわかりません。

◆ただ、私は人には本当に恵まれました。頼んだわけでもないのに、いつも周りの人たちが助けてくれた。そこでわかったのは「自分が方向性さえ間違わなければ、必ず誰かが手を差し伸べてくれる」ということです。高台移転のような話は、さまざまある意見を全て吟味したり、意思統一にこだわっていては進まないことです。ある程度までやったら、決まったものを受け入れるしかない。これからも、周りの人たちに支えていただきながら、自分を信じてやっていきます。

◆今回、地平線会議の場で話をさせて頂いて、本当によかったです。皆さんが私たちのことを見守り続けてくれていることがありがたい。怖いのは、時間とともにあれだけの災害が少しずつ忘れられてゆくことです。政治にしても忘れやすいのではないか、と。これからも、皆さんと長く交流が続くことを祈ります。(佐藤徳郎

地域でまとまる選択をした地区は、津波で流されなかった家が残っているケースが多い
━━ビニールハウスで考える志津川の明日

■今(4月9日)、1週間の予定で南三陸町に滞在中です。今回は恒例の子どもお泊まり会、そして佐藤徳郎さん宅のビニールハウスのお手伝いに来ました。7棟あるビニールハウスのうち4棟でほうれん草を育てているのですが、成長しすぎて出荷できないほうれん草は抜いて片付けます。寒くて成長が遅れていたものが一気に伸びてしまって佐藤さん一家だけでは採りきれなかったとのことです。

◆4棟のうちの3分の1くらいと量がかなり多い。以前なら無駄がほとんど出ないように調整して作れたけれど、栽培を始めたばかりなので土やハウスの癖がわからないのだそうです。まだ課題はありそうですが、市場への出荷にも同行させていただき、仕事を再開された実感が伝わって来て嬉しかったです。

◆一方で住宅の方は、報告会でも話されたようにまだ先が見えていません。志津川の中心地では、解散した部落が多いです。そういう地区では個々の家庭で移転地を考えます。行き先は基本的には高台に指定されている東地区、中央地区、西地区の3つの中から選ぶことに。

◆さらに、この3地区以外でも5世帯以上集まれば希望する場所を造成してもらえることになっています。そうやって個々で動くほうがいいという人もいるし、最近では仮設住宅で生まれた新しいコミュニティーで一緒に動きたいという声もあります。

◆中瀬町のように昔の地域でまとまるか、そうでなくてもいいか、最終的に選ぶのは個人の自由です。でも、新しい人間関係作りに不安を抱える人たち(主に年配者)のことを考えると、もとのつながりで暮らせるチャンスが残っているのはとてもありがたいことでしょう。

◆佐藤さんがやられてきたことは、声をあげられない人たちにとってどんなに心強いことか。ご本人が言われているように成果がわかるのは数年先でしょうが、自分の地域が残るならということで、外へ出て行かずに志津川に留まった人も結構いるのではと思います。中瀬町でさえ約600人が250人ほどと、人口は震災前の約3分の1に減っています。

◆ちなみに、地域でまとまる選択をした地区は、津波で流されなかった家が残っているケースが多いです。また、もし地域がまとまって動くとしてもお年寄りは公営住宅に入居する割合が高いと思われるので、あまりまとまる意味がないだろうという意見もあります。

◆様々な意見があり、そして、どうすればいいのかわからないことだらけの状況です。でも今回、お泊まり会に顔をだしてくれた佐藤さんが、参加している子どもたちに「仮設暮らし、もう少しだけ我慢してくれよな」と言ったひとことが心に残りました。先は見えなくても、「自分がやる」という真剣さが大事だと教えられた気がしました。(新垣亜美


地平線ポストから

2013年春もローツェへ。エベレスト登山の現実を記録し、シェルパたちに取材すること。さらにエベレストの隣にあるローツェから、エベレストを間近に撮影することが目的だ

■今年もまたカトマンズにやってきた。2011年春にエベレストに登頂し、翌2012年春はローツェを目指したものの、頻発する落石のため、登頂はかなわなかった。ぼくが参加しているHIMEX隊は、エベレスト、ローツェ、ヌプツェに向かう三隊によって構成されていたのだが、三隊とも撤退するという苦しい決断に追い込まれてしまった。

◆その無念を解消すべく、2012年秋はマナスルに行き、9月30日に登頂した。そして、また春が来たのである。2013年も、ぼくはローツェに向かう。なぜ、この数年間ヒマラヤへ向かっているのか。14座に登りたいとか、記録がどうこうとか、そういう気持ちは1ミリもない。目的は昨春同様、エベレスト登山の現実を記録し、シェルパたちに取材すること。さらにエベレストの隣にあるローツェから、エベレストを間近に撮影することだ(ローツェのノーマル・ルートは、第3キャンプまでエベレストと同じ道行きなので、エベレスト登山の様子をつぶさに観察し、ルポすることができる)。

◆ぼくはいまエベレストの写真集と、ヒマラヤに関するルポルタージュを執筆している。ローツェ遠征は、そのための最後の取材という位置づけである。今年は三浦雄一郎さんの隊もいる。すでにバンコクの空港で三浦さんにお会いしたが、とてもじゃないが80歳には見えない肌つやをしていて、息子の豪太さんと共にコンディションはよさそうだった。ベースキャンプで再び会うのを楽しみにしている。

◆エベレストという聖俗合わせ持った希有な山を十二分に知るため、この遠征が自分にとっての総仕上げになってほしい。はてさて、今年は登れるのか? ローツェフェイス(エベレストとローツェに向かうときに出くわす壁のような斜面)の状態は?そして何よりきちんと写真が撮れるのか? 日々の日記は以下のサイトで毎日更新していきます。http://www.littlemore.co.jp/foreverest/tokyo

◆帰国は6月。ではみなさん、お元気で!(石川直樹 3月30日 カトマンズにて)

「侍のエースを甲冑を着た侍が激励」と報道されるなど賑やかな反応━━甲冑武士、山辺剣の西日本トロトロ歩(ある)記

■先週まで浜比嘉島にある、外間さんの牧場でヤギとふれあい、リフレッシュしていました。昨年5月に大阪城から出陣し、歩き続けて10か月。懐かしの浜比嘉島。海中道路が見えたときは感動しました。8月1日に九州上陸。熱中症で倒れたり、腐った缶詰めにあたり、ゴジラの様にゲロ吐いたりしながらも、大分、宮崎を通り鹿児島で年を越し、船で南下。喜界島、奄美大島、徳之島、沖永良部島、与論島を渡り歩き、2月1日に沖縄上陸。那覇の都会っぷりに圧倒されました。

◆野球大好きな僕は、速攻で久米島に渡り、楽天のキャンプを見学しました。甲冑を着ていたので注目を浴び「伊達政宗が応援に来た」て感じでテレビに出たり、WBCがあったため、マー君と握手しているところが「侍のエースを甲冑を着た侍が激励」という見出しで新聞に載り、広島では「毛利元就がキャンプ視察」として取り上げてくれました。良い思い出です。

◆他にもヤクルト、中日、横浜、阪神、日本ハムを見学。スーパールーキー大谷選手とも握手をし、サインもゲット。どこに行っても、甲冑を来ていたため、選手や監督とお話しすることが出来ました。旅行のテーマは城めぐりですが、こうやって甲冑を来て観光地にも出没しています。

◆鹿児島では、高千穂の峰にも登りました。沖縄の美ら海水族館にも出没し、ジンベイザメやイルカを見る戦国武将の姿を写真に撮ることが出来ました。こうやって各地に出没し「戦国武将がいる風景」を写真におさめるのが、僕の楽しみです。

◆これから八重山にいき、その後、北海道を目指し北上する予定です。果てしない距離ですが、島津家が、江戸まで歩いて参勤交代していたのを思えば、ムリではないです。ガンバります。(3月28日)

■昨日、4月8日。勝連城に行きました。地平線あしびなーの帰り道、江本さんと訪れた思い出の城です。ご存じ「肝高の阿麻和利」の居城。「あまわり浪漫の会」の事務局を訪問し、ダイナミック琉球を教えてくれた、藏當慎也君にも会うことが出来ました。甲冑を着ていたので驚いてましたが、あの時と変わらぬ落ち着きと優しさで、突然の訪問にもかかわらず、話をしてくれました。次は阿麻和利が滅ぼした護佐丸の居城、中城城に行きます。土地の歴史を知ると、城めぐりは楽しさが増すので、阿麻和利に出会って良かったと思いました。北海道目指してガンバります!(4月9日 山辺剣

エミの「生きる情熱」と、オーストラリア人医師の「生かそうとする情熱」

■1月下旬、オーストラリアにいるエミ(シール エミコさん)から「やこ!3月3日〜4月3日、一時帰国決定!……」というメールが届いた。「おおおおお〜! 1年ぶりの日本だね。今からワクワクしてきた」とすぐに返信する。エミとスティーブが日本を旅立ってから1年。オーストラリアで難しく大きな手術をしたことは知っていたが、こんなにも回復が早く、そして、日本に帰ってこられるなんて本当に驚いた。

◆その手術は、骨盤内臓全摘術と言って骨盤内の臓器を摘出するもので、エミの場合、日本で最後に残されていた「唯一の治療」と言われていた。困難でリスクを伴い、また術後の生活にもかなりの支障を来たす。手術を受けるべきかエミは迷いに迷っていた。セカンドオピニオンとして相談した医師からも前向きな意見はもらえず、決心がつかなかった。2年半前のことだ。

◆結局、日本では他にもう残されている治療がなく、1年前スティーブの故郷であるオーストラリア行きを決意し旅立った。特にオーストラリアで何か別の治療法が見つかったわけではない。病院や住まいさえも決まっていなかった。

◆そして、1年後の今回、エミは癌を退治し帰ってきた。奇跡のようだが、エミには「生きる情熱」が誰よりも強く、深くあり、オーストラリアの医師たちがエミにこたえて「この人を生かそう」という、強いパッションを持ってくれたからだ、と私は思う。車いすではあるけれど、2つの情熱がエミとスティーブを元気な笑顔とともに帰国させてくれた原動力だったのだ。

◆25年前、西オーストラリアのフリーマントルという町で初めてエミと出会った。当時、西オーストラリアに住んでいてオートバイ旅を計画していた私は、オートバイで一周中の女性ライダーがいると聞きつけ、宿に話を聞きに行ったのだった。大型のオフロードバイクが見えたので、どんなに体格の良い女性だろうと想像していたら、そこには小柄で「チャーミング」という言葉が似合うエミがいた。

◆その後、オーストラリア一周の旅を終え、オートバイから自転車に切り替えてアジアを旅しながら一旦、日本に帰国。しかも、オーストラリア人の旅のパートナーを連れて!? そう、それがスティーブだった。二人は私の家(実家)に滞在し、そこから世界一周の旅に出発した。

◆私は昨年の7月に東京から転勤、今、大阪に住んでいる。だから、3月末に大阪で開かれた2度のエミたちの歓迎の集まりの双方に出ることができた。まず、昨年と同じ日時(3月24日)に大阪の道頓堀にある居酒屋「奴」で壮行会が行われた。エミやスティーブの友人たち約60名ほどが集まりエミからこの1年間に起きたことを報告し、そして、来ている友人たちがエミやスティーブにメッセージを送った。歌あり笑いあり涙ありで、アットホームな良い会だった。

◆3月29日にはモンベル大阪本社で「シール・エミコさん チャレンジ支援報告会」が開催され、少し遅れて参加できた。報告会自体は8時終了だったが、エミとスティーブは来場された皆さんとの話や写真撮影が尽きず、結局、会場を出たのは9時過ぎ。お腹もすいたので心斎橋のレストランへ行った。お店に入った時間帯が遅かったこともあり、さらに話がつきず、終電の時間を逃してしまい、結局、大阪市内から比較的近い我が家に泊まることになった。

◆家に入るときに車いすから降りるエミの靴をぬがそうとした時、かなり痛がった。「ああ、ゴメン!そんなに痛いんだ」。それまで気づかなかったのだが、片方の足は、いつも「ピリピリする感じ」で痛みがあるそうだ。「それでも、楽しかったり笑っているときは、痛みも忘れられるの」と言う。

◆翌日も夕方まで私の部屋でのんびりした二人。スティーブと私がPCの設定をしているとき、ベッドで横になっているエミは、「吉本か何か面白い番組やってないかなぁ」とテレビをつけた。とにかく、痛みを少しでも他で紛らわしたいから笑っていたい、と。元気そうに見えても、まだ健常者とは違うのだ。

◆エミのお腹には、2つのストーマという人口膀胱と人口肛門がついている。この2つをつけている人は、世界でもそう多くないそうだ。日本でこの手術をしようか迷っていた時、セカンドオピニオンの先生は、術後の生活自体がかなり制限され辛く大変であることを伝え、あまり勧められないような言い方をされていた。どんなに辛い、大変な手術だったか、と思う。でも、今のエミを見る限り、痛みや生活の困難さを感じさせず、活き活きとしている。私以上にキラキラしている。

◆今回の大阪滞在中「ヤコ、もっと人生を楽しまなくっちゃ! 人生は、あっという間に終わっちゃう。一度しかないんだよ。」と強く言われた一瞬がある。なんだか、ここ数年間、仕事に追われて疲れ切っている自分を見透かされているように感じ、思わず涙が出てきてしまった。また、すぐに会おうね、エミ、スティーブ!!(藤木安子


【先月の発送請負人】

地平線通信407号は3月13日に印刷、発送しました。協力くださったのは以下の9人の方々です。ありがとうございました。
森井祐介 車谷建太 岡朝子 久島弘 石原玲 黒木道世 江本嘉伸 杉山貴章 落合大祐


「私はどんな体になっても生きていたい」これほどまでの強い言葉は今まで聞いたことがない
━━シール・エミコとスティーブの凱旋━━

■2012年3月25日、大阪梅田。スティーブ&エミコ・シールの送別会に、地平線会議関係者と二人の友達20人ほどが集まった。ホテルのランチタイム。エミコさんは、こちらがハラハラするほどワインを飲み、今まで避けてきたであろうコレステロールたっぷりの肉をがっつりと食べた。その姿は不思議なことに健康そのもので、日本ではもう治療法がないガン患者にはどうしても見えなかった。

◆二人は治療の可能性を求めてスティーブの故郷であるオーストラリアのメルボルンに旅立つという。しかし話の節々からは、特にあてがあるわけではないことが伝わってくる。ならばなぜオーストラリアなのか? エミコさんがそういうなら、素直に信じたい。ただ彼女の言葉を重度のガン患者の言葉として聞いてしまうと、どうしてもいろんなメッセージを深読みしてしまう。

◆食後、場所を喫茶店に移す。以後も遠方から人が集まってくる。無理して駆けつけた仲間は笑顔の奥で、ある覚悟をもってこの会に参加していたと思う。喫茶店を出る。残念ながら、もうタイムリミットだ。帰宅しなければならない参加者を一人、また一人と減らしながら、一行は梅田駅の改札に向かう。スティーブが通路の看板ごとにジョークを飛ばして、一行の足を引き留めるが時は容赦なく過ぎていく。

◆東京に戻るNさんと僕が改札手前で「またね」と言うと、エミコさんは「なんか、みんな居なくなっちゃうとさみしくなっちゃった」とその日初めて弱音をはいた。何度も振り返りながら駅構内の階段を上がっていく二人を見送る。Nさんがため息とともに「行っちゃったね」とポソリと言い、僕はもう「ウン」としか言えない。

◆あれから1年。二人は帰ってきた。3月24日の歓迎会の案内に続き、29日、モンベルでの「帰国報告会」の案内が届く。29日なら参加可能だ。夜行バスで京都に入り、滋賀の世界一周チャリダー永谷さんと大阪へ。

◆エミコさんがガンで急遽帰国したという情報を初めて聞いたのはJACC「河野兵一さんのリーチングホーム」の壮行会だった。慌てた僕は、二人と仲の良かった旅人に情報を流して、永谷さんと大阪枚方の病院に駆け付けた。あれがもう12年前。回復した時期があったにせよ、以来ずっと闘病生活を続けていたことを思うと、その長さに寒気がする。

◆エミコさんは最初から病状を公開し続けてきた。パソコンを開けばオーストラリアでの出来事もわかった。エミコさんのFACEBOOKにはいつも無数のコメントがつき、さらにそれ以上の無言の応援である「いいね」もつく。「思い」は力となって、彼女に届いている。とコメントを読むたびに思った。

◆18時半。永谷さんとモンベル会場へ。エレベーターに乗り込み「今日は人多いだろうね」と話していると、横から会場スタッフと思われる若者が「予約で160人ですから」と話に入ってくる。彼の顔には今日のスタッフであることが誇りだという表情が見える。

◆会場の向かいにある広い控室?に入ると、あっさりとエミコさんはいた。車椅子に座っていること以外は1年前と何も変わらない笑顔だ。顔だけ見て帰ろう、と思っていたのだが、これなら少しは話ができる。タイミングを見て軽く挨拶だけして下がる。下がった場所から、無理してるのではと観察するが、彼女は1年前同様に不自然なまでに健康に見える。なぜ、これほどまでにフツウ感を出せるのだろう。シール、エミコ。恐ろしい人だ。

◆19時を少し過ぎて会は始まり、司会の岩野さんに紹介され、江本さんがエミコさんとの思い出を語る。その姿に先ほどのスタッフがかぶる。誰もが彼女と知り合いであることが誇りなのだ。そして僕も「江本さん、僕のほうが昔から知っているんです」と思わず言いたくなる。

◆95年正月。自転車で世界一周中の二人はナイロビでアパートを借りて、休養していた。同時期、バイクでアフリカを走っていた僕はバイク仲間と二人のアパートを訪問した。そのときエミコさんはモザンビークの道端で拾ったベルトをしていた。これは筋金入りの旅人だと唸らされた。当時、二人は旅に出て4年目だったと記憶している。ただ、ゴールは21世紀の予定よ、と言われたときは、さすがにそれはないだろう、と思ったが。

◆二人と会ったすぐあとだった。バイク仲間が中央アフリカ大使館に無理難題をふっかけられてビザ発給を拒否された。その嫌がらせのくだらなさに腹を立てた僕が、大使館員にかみついたせいで、ビザはよけいに出にくくなってしまった。ところがだ。スティーブ&エミコはそのやっかいな役人から、あっさりビザをとってきたのだ。二人にビザを出した役人は、翌日大使館を再訪し「きのう知り合いにビザを出しただろう」と言ったバイク仲間にも、無条件でビザを出した。

◆いったいどうやって、あの役人を説得したのか、と聞くと「実は彼は自転車が好きで話が盛り上がった」とか。理由だけ聞くと、もっと腹立たしくなるが、僕と二人の違いは人間関係の築き方のうまさ。言い換えれば、あの役人ですら友達にしてしまえる「器」の差。なんか北風と太陽みたいな展開で、以来僕は二人を尊敬しているのだ。

◆「私はどんな体になっても生きていたい」「これだけありとあらゆる治療を受けた患者は見たことがない。アナタはまだ戦うのか?」と問うた医師に対するエミコさんの答えだ。思わず金縛りになった強いひとこと。これほどまでの強い言葉は今まで聞いたことがない。医師も看護師も、この魂の叫びに動かされたのだ。

◆オーストラリアでも年間10例ほどしか行われない、しかもできる医師も限られている大手術。普通に考えれば、何のつてもなく、いきなり来た外国人が受けられるとは想像しがたい。可能にしたのはエミコさんの驚異的な意志の力であり、スティーブの影の努力だ。この日もジョークしか言わなかったもう一人の主役スティーブ。きっと話したいことは山ほどあるはずなのに、大人やなぁ。

◆そしてもっとも話しにくいお金に関する話を、自分のガン体験と絡めて上手に持ち出し、支援の継続を訴えたモンベル会長の辰野さんもすごいと思った。翌日、仕事があるから最後までいられなかったけど、いい集まりに参加できて幸せだった。よかったね。エミコさん。(坪井伸吾

今、我家の庭一面に健次の好きだった薄紫の花大根が咲いています。皆さん、ありがとうございました
━━「原健次の森を歩く」発刊によせて

■今年は健次の好きな桜前線が足早に去って行きました。この時期には、関東はもとより福島、山形、長野などいつもの土地のいつもの桜に会いに行くのが慣例でした。毎年これは繰り返されるものと思っていました。

◆健次がいなくなり、直後の大震災から2年が経ちました。彼の本やコレクション、アルバム、スクラップブックそしてパソコンやフロッピーディスクの中にはたくさんの彼の想いが残されました。彼の友人からは追悼のお手紙がたくさん寄せられ、どれも在りし日の彼の姿が生き生きと蘇るものばかりでした。

◆「健次さんを本に残しましょう」と江本さんからお電話を頂いたのは、まもなく一周忌を迎える頃でした。かれの無念さが本を作ることで少しでも報われることになればという思いは私も江本さんも同じでした。編集には彼をおいてはいないと言って紹介されたのが丸山純さんでした。

◆昨年4月、江本さん宅でエモカレーをいただきながらの第1回目の打ち合わせで、本のアウトラインがぼんやりと出来てきました。次は宇都宮の我家での作業が待っていました。震災で傾いた本棚、本に埋もれたさまざまなコレクション、フロッピーディスクは大丈夫だろうか、書き残したものはもっとあるはず……と、まずは素材となるものの掘り起こしから始まりました。

◆健次の遺した物は膨大でした。丸山さんはカメラとノートパソコン、スキャナーの「三種の神器」を背負って毎回湘南新宿ライナーで東京から宇都宮まで通ってくださいました。江本さんは監修役兼ライター。内容を組み立て、必要な資料を選び、さらに写真に撮り、お二人は実に手際よく本作りのプロセスを踏んで仕事を進められました。だんだんと本の体裁が出来てくると毎回驚きの連続でした。本づくりの作業を間近に見られ、私も参加できて楽しい日々でした。本の中に健次が息づいているようでした。

◆江本さんは健次の人物像に光を当てるために20人近くの方々に電話インタビューを試み、いかにして原健次は原健次になったのかを30ページにわたって「第6章 不思議の男、原健次」に書いてくださいました。校正や発送先の名簿作りは地平線の方々が手伝って下さり、3月初めに、一冊まるごと原健次の素晴らしい本が出来あがりました。

◆印刷会社から我家に送られてきた800冊の「原健次の森を歩く」の発送作業には江本さん、丸山さんはもちろん、他に6人の地平線の中堅メンバーの方々が駆けつけてくださいました。息のあったメンバーの作業は手際よく進み、しかし、おびただしいメール便の山を業者に引き渡してくださった時にはもうすっかり暗くなっていました。

◆35年間毎月欠かさず地平線通信を発行し、地平線報告会をひらく地平線会議の原動力はこんなところにも垣間見えました。翌日からは電話が鳴り、お手紙が次々と舞い込むようになりました。ランナー、音楽仲間、学生時代の友達、会社の同僚、たくさんの友人からで、本の内容、編集、装丁そして健次の生き方を称賛してくださるものでした。

◆表紙の写真を見て「これ私が撮った写真だ!」とびっくりされたのは貝畑和子さんでした。トランスヨーロッパ2009のレース中、たまたま見つけたHARA(ハーラ)村の標識の前でポーズをとる健次を、一緒に走っていた彼女が撮ってくださったものでした。そして裏表紙の写真は、フランスアンジェ在住の友人有田せいぎさんが、10年ほど前に彼のお宅を訪問した時の健次を撮ったものでした。どちらもなんと素敵な写真でしょう。

◆本にまとめることができて本当に良かったと思いました。江本さん、丸山さん、協力してくださったすべての皆様に心からの感謝の言葉をお送りしたいと思います。今、我家の庭一面に健次の好きだった薄紫の花大根が咲いています。(原典子

★編集長からの追記:先月号の通信15ページ「この家は確かに原健次の森だ」の筆者名が手違いで消えていました。坪井伸吾さんが書いた文章です。すみませんでした。(E)

「原健次の森を歩く」表紙の写真、私が撮りました

■先日は原健次さんの遺稿集「原健次の森を歩く」送って頂きありがとうございました。送って頂いた本の包みを開け、手に取った瞬間、驚きました。なんと表紙の写真、私が撮ったものです。

◆原さんとは、2003年、2009年のトランスヨーロッパフットレースと共に参加させて頂きました。特に2009年のレースでは、スカンジナビアの森の中、様々な自然の現象を興味深く教えて頂きました。レースの後半は、毎日、1時間は原さんと走らせてもらっていたのです。興味尽きないランニングでした。「今日の原先生の授業テーマは?」と私が聞きますと「今日は天文の話を」とか「あそこに横たわっている巨大岩石はなぜあそこにあるのか? 氷河時代のなごりなんですよ」などと時には宇宙に広がるテーマの授業をして頂きました。

◆そんなある日、スタートして10キロほど走ったところでした。小さな池があって家がぽつんぽつんと点在する、人気のあまりない場所に「HARA」という村の看板があったのです。原さんは「ぼくの村だ」とおもしろがってカメラを看板に向けているのを見て、私が「原さん、そこに立って下さい。私が撮ります」と言って撮らせて頂いたのです。今もあの時の原さんの笑顔が心に蘇ってきます。私は原さんの生徒でした。思い出しても、書ききれないほどの事柄を教えて頂いたのです。

◆原さんが、あのレースの2か月後に進行性胃癌を患われたとのこと、ほんとに驚きでした。それほど、お元気でしたから。実は、レースの8か月前、私も進行癌を患い、切除手術、抗がん剤治療を受けてのレース参加でした。その話も原さんにさせて頂いていたのです。原さんは、病気に関する知識も豊富で、話しながら、心を癒して頂きました。

◆原さんは、レースのさなか、毎日欠かさず奥様にはがきを書いていました。私が「愛してらっしゃるんですねえ」と言うとニヤッ、と笑われてました。江本さん、奥様の典子さんによろしくお伝えください。走りながらいろんな場面で、奥様のことを話されてました。私にもたくさんの思い出を、「原健次の森」の片隅に植えて頂いたこと感謝です。(倉敷 貝畑和子

★貝畑さんは、知る人ぞ知る超長距離走者。2004年にはロシア、デンマークの男性ランナーと3人でサンクトペテルブルグからウラジオストックまで10200キロを212日で走り通したこともある。(E)

原健次さんの遺稿集について、さまざまな反響が寄せられている。その一部を紹介します。なお、「原健次の森を歩く」は、市販本ではないため地平線会議で「1か月貸し出し」を行っています。江本宛、お気軽に電話下さい。

■ちょっと読んだだけでもわかる原さんのすごさ、吸引力、博識、びっくりです。原さんの森に一度分け入ってみたかった。もう一度浜比嘉島に来てほしかったです。突然逝ってしまって、本人が一番びっくりし、さぞや無念だったことでしょうね。

原さんの部屋すごいですね。遺稿集には集めきれないいろいろなものがこのまま埋もれるのはもったいないですね。原さん博物館を造らないといけません。奥さんはお菓子作りが得意なんでしたっけ? ぜひ原さんの森カフェを開店して、いろんな人が森に分け入れるようにしたらいいのでは?(知らないものがエラそうに適当に言ってすみません)(浜比嘉島 外間晴美


■原さんとは名前とうわさはよくお聞きしていましたが、沖縄あしびなーのとき初めてお会いしました。道端に生えている植物のことをいろいろ教えていただいたことを思い出します。原さんの人生の歴史に圧倒されます。「がんは運次第」は身につまされます。明日はわが身の思いで緊張しながら読みました。ここの部分はまた何回も読み返すことになるだろうと思います。私も61歳になり原さんの思いを受けて毎年健康検診を受けることにします。(和歌山県田辺市 小森茂之


■いやいや、これは本当にすごい本ですね。読む前からドキドキします。こんな風に、ひとりの人のことを知ってしまってよいのだろうかと思う反面、知りたくてうずうずしている自分もいます。また感想など送らせていただきます。(奈良県 岩野祥子


■それにしてもすごいパワーの人です。早逝が惜しまれるとは、こういう人のことを言うのでしょう。山口・萩250キロは私も走ったことがあるで原さんを身近に感じました。この人はスーパーマンだと思いました。あらゆる分野で一流の人だったのですね。(堺市 宇都木慎一


『健次の森の原っぱで』
━━「原健次の森を歩く」に寄せて━━

■四万十楽舎が主催する「四万十ドラゴンラン2013春ツアー」が3/20〜24の4泊5日で開催されました。ウェブサイトにアップされた写真を「若っかくて」「女子率高っかい」と見つつも、参加者の笑顔や、背景に広がる風景にじんわりこみ上げてくるものがありました。あれは私がまだ40代のころやった(遠い目)。

◆第1回の5泊6日の旅は東京に戻ってきても、1週間ほどは「ぽわ〜〜ん」と余韻にひたっていたいステキな時間でした。14歳の少年から70歳代のリタイアされた方、必ず毎朝走りにでかけるトレイルランナー、元気な関西弁の女子大生、四万十高校生など世代も出身地もバラバラの人たちがチームになって、キャンプや調理などで寝食をともにしながら、徒歩、自転車、カヌーという人力だけで下る196キロの旅。ここで私は「かずりん」になりました(赤面)。

◆初対面のえも〜んに、「ムツゴロウさんに似てるっていわれませんかぁ」と失言して怒らせてしまいましたっけ。その中でさりげなく博識を醸し出していたのが、ウルトラじーじこと原健次さんでした。春の四万十川流域の道中、いろんな草木の名前や由来を教えていただき、「へ〜」とか「ほ〜」とかしかいえずに歩きました。

◆その原さんが、集合前に須崎港でつまずいて、転んだ際に痛めた小指が骨折していたと判明したのは3泊目の夜。詳細は「原健次の森を歩く」にありますが、前日まではこちらのほうが顔をしかめてしまうような腫れにも「大丈夫」と冷静で平気そうな様子だったのに、診察を受け、放置すればビオラが弾けないとわかるやいなや、慌ただしく帰京されてしまったのです。

◆そして翌年、リベンジの参戦での再会。目に焼き付いているのは、「かわらっこ」前あたりの四万十川での「沈」と、私の前をうねる太平洋に向かってカヌーを漕ぐ後ろ姿。「めっちゃ楽しかった」とはしゃぐ女子大生のとなりで、「海は怖い」とぽつりとおっしゃった時に、私も怖かったのでほっとしたことを思い出します。

◆私はこの四万十川での2度のツアー以外の原さんの顔を知りません。今回、本のなかであらためて「ウルトラじーじ」のウルトラぶりに導かれて、健次の森に分け入っていきました。この四万十ドラゴンランは、原健次の森の中ではどんなところだったんでしょうね。きっと、森の中にぽっかり開いた小さな原っぱのようなところかな、なんてことを想像しながら、ご一緒できた日々を味わっています。(かずりん・八木和美


チロル号の勇者 その1
101回報告会の英雄、加藤隆士さんを惜しむ

■加藤隆士さん(58才)が亡くなった。3月15日昼頃、操縦していたモーターグライダーが消息を絶ち、同18日に日高山脈北部の札内岳山中で発見されたものの、同乗のカメラマン・月岡陽一さんと共に死亡が確認されたという。

◆1987年11月19日、加藤さんと相棒の宮沢誠さんは、モーターグライダー『チロル号』でウィーンを飛び立った。そして、80馬力の自動車用エンジンを積んだ蚊トンボのような機体、巡航速度160km/hの車なみのスピードで、南回りに地表1000〜2000mを東へ進んだ。

◆イラン・イラク戦争下の中東では、眼下に現れる大小の軍事基地に緊張し、熱帯のスコールの海でも、雲の切れ目を探して海面すれすれを飛んだ。また、29日には大韓航空機爆破事件が発生。同日、チロル号が発ったバーレーンで、翌日には金賢姫ら2人の身柄が拘束されている。出発が1日遅れれば、大混乱に巻き込まれ、計画中断の可能性もあったという。

◆苦労の多い低空の移動は、一方で、それぞれの土地の営みを間近に眺められ、高度を下げると手を振ってくれる人の姿も見えた。ウィーンを発って38日目の12月26日、約2万kmの旅を終え、チロル号は千葉の関宿に着陸した。

■翌年の2月だったか、帰国講演会が都内で開かれた。私も風邪を押して参加したが、興味尽きない内容に、「地平線の面々にも是非!」の思いを強くした。終了後、「謝礼も何も出ませんが…」と、断られるのを覚悟でお二人にお願いしたところ、その場で快諾。第101回報告会(1988年3月25日)として実現した。ちょうど25年前、奇しくも同じ3月だった。

◆観測飛行機のパイロットを務めた南極からの帰国後、加藤さんは北海道の北見をベースに、モーターグライダーの教官をされていたらしい。訃報を伝える記事の多くは、かつての偉業については殆ど素通りだった。しかし、地平線にとっての彼は、今でもあのチロル号の、そして『地平線の旅人たち』の原稿をファクスで南極から送ってくれた加藤さんで、今も変わらぬ我々の仲間の一人だった、と私は思っている。心よりご冥福をお祈りいたします。(久島弘

チロル号の勇者 その2
南極越冬隊に選ばれた、「滑空界の神さま」の訃報に絶句

■チロル号の加藤隆士さん、実に残念としか言いようがありません。日本国内のスポーツ航空業界では、固定翼の高橋淳さん(日本飛行連盟名誉会長、元海軍の一式陸攻パイロット、沖縄戦最後の一機で生き残った伝説のパイロットで85歳を過ぎた今も現役の飛行教官)、バルーンの市吉三郎さん(熱気球業界の大ボス)と、グライダーの加藤さん(滑空界の神さまと呼ばれていたとか)が3大巨頭。高橋さんの滞空時間が海軍時代を含めて合計2万5000時間と言っていたのを聞きましたが、30歳近く年下の加藤さんの飛行時間が1万5000キロを超えていた、というのはすごい! 現役のエアラインや航空自衛隊のパイロットに較べても、経験の蓄積は並ではなかったでしょう。

◆すぐに国交省の事故調が入るでしょうが、航空ジャーナリスト協会の知人の話では、どうも墜落ではなく、機体を積雪のある軟斜面に不時着させようと、最後のぎりぎりまでコントロールしていたようです。機体の整備不良や天候の急変など原因要素は多々考えられるけれど、おそらくは滑空状態からのエンジン再スタートがアイシング(氷の接着による燃料気化不良など、エンジン関連のトラブル)などでできなかったまま失速、ぐらいしか思い当たらないとのこと。

◆新雪が薄く積もっていて、内部が氷化した緩い傾斜の登り斜面で、ある程度開けた地形であれば、無事にランディングできた可能性大だったようです。ということは、対応できないぐらいの悪条件だったのでしょうか?

◆ただし、当然機体は厳冬期仕様にセッティングされていたはずで、燃料ダクトもサーモヒーターが入る構造です。あの厳冬の北海道でも、わずかな上昇気流を見つけて高度を稼ぐテクニックを持っていた加藤さんですから、よほど突発的な想定外のトラブルに遭遇したということでしょうか。モーターグライダーはエンジン排気量が小さく、馬力もないので、悪天でのコントロールは非常にテクニカルになります。

◆とはいえ、南極越冬隊に選ばれるぐらいの腕のあった方ですし、魔が差すとか状況判断を誤るようなドジを今さら踏むようなことは到底考えられません。このクラスになると、空気や風に色がついて見える、というらしい。何とか不時着を試みて、ランディングできる地形をさがしたが間に合わなかったのか、それでも機内で心肺停止状態で発見されたとのことですので、ぎりぎり地面に激突するような墜落でなかったことは事実のようです。それにしても……絶句、合掌……。(白根全


[通信費をありがとうございました]

■先月の通信でお知らせした以後、通信費(1年2000円です)を払ってくださった方々は、次の皆さん方です。ありがとうございました。時に記載漏れありますので、その場合は必ず、江本あてにお知らせください。アドレスは最終ページにあります。
長谷川昌美(10000円 「いつも通信をお送りくださりありがとうございます。)/いのり修/古山里美/山下直之/粟谷寿一/斎藤宏子(10000円)/奥田啓司


再開します!! 南部ハナマガリ鮭Tシャツプロジェクト

■地平線会議の皆様、長野画伯、昨年は南部ハナマガリ鮭Tシャツプロジェクト(鮭Tプロジェクト)を応援いただきありがとうございました。2011年9月より1年間・2000枚の目標ではじめたプロジェクトも、鮭Tシャツや手ぬぐい・バッグなど8246枚を販売し、大槌の中学校(一部小学校)へ476万円の義援金を手渡すことができました。まずは応援いただいた皆様、そして受け入れてくださいました大槌中学校・吉里吉里中学校に感謝申し上げます。

◆当初、鮭Tプロジェクトは1年を目処に活動を終了する予定でした。実際にすべての残金を届け口座も解約し、ブログも閉じました。だた2年前の夏から変わらない雑草だらけの更地や、ひっそりとした仮設住宅を目の辺りにすると『支援活動をやめていいのか?』と自問自答しています。自分達は長野から宮沢賢治のように行って稲の束を背負ったり、病気の子供に寄り添うことはできません。でも、他にまだできることがあるんじゃないのか、震災を忘れない為に長野からでもやれることがあるんじゃないのか、支援活動を思い出にするにはまだ早いんじゃないかと……。たぶん、被災地の為でなく震災や原発によって自分自身の生き方を問われている気がするのです。

◆いや、もっと正直に言えば、やりがいのある楽しい企画だったのです。あのかわいげのない、こびない、雨ニモマケズ傘をさした変な愛嬌のある鮭Tが終わってしまうには惜しくて見苦しいけど続けてみたくなったのです。鮭Tを着て「何それ?」と言われながら3.11をちょっとふり返る。鮭Tを着た人を見かけたら嬉しくて声をかけたくなる。そんなTシャツであって欲しいのです。

◆ブログやチラシ・口座番号が変更となり、インターネットでの販売も始めました。前回、広報、発注など活動を牽引してくれた倉石結華はこの5月、種池山荘の山男と一緒になり松本の地へ移ります。ユーコン川で出会い、自然を愛し、シンプルに生きる地平線的なふたりに幸あれと願ってやみません。

◆そのためメンバーも変わり新たな出発となりました。今まで購入いただいた皆さまにはお手数をおかけしますが、震災当初からの思いは変わりません。『心愉しく労惜しまず』 活動予定は今年12月末、目標2000枚! 今しばらくご支援・応援のコメントなどいただけると励みになります。大槌町の中学生クラブ活動支援・南部ハナマガリ鮭Tシャツプロジェクト、通称『鮭Tプロジェクト』をどうぞよろしくお願いします。(長野市 村田憲明 鮭Tプロジェト言いだしっぺ代表)

★追記 大槌役場入口を抜けて右側に「風ニモマケズ」の手ぬぐいが飾られています。詳しくはブログhttp://saket311.naganoblog.jp/やユーチューブで「鮭Tプロジェクト大槌訪問」を検索いただければ嬉しいです。

「puujee/プージェー」
アンコール上映決定

■ポレポレ東中野でのドキュメンタリー映画「puujee/プージェー」の上映が成功裏に終了しました。上映期間中は、劇場に濃密な時間が流れました。映画の後に関野吉晴さんが毎晩出演、日替わりで登場するゲストとの間に熱く濃いトークが繰り広げられたのです。駆けつけてくださった方々は[1]「サバイバル・クライマー」・服部文祥さん[2]今、最も注目されている若手探検家・角幡唯介さん[3]上々颱風(現在活動はお休み)のボーカリスト・白崎映美さん[4]「たまごの会」立ち上げた草分け的な有機農業研究家・明峰哲夫さん[5]親の反対を押し切って小学校を自主的に中退し、自給自足の生活始めたという経歴を持つ声優・野島健児[6]新作、古典ともに巧みな当代一流の落語家・春風亭昇太さん[7]そして地平線会議代表世話人・江本嘉伸さん。それぞれ幅広い経験を持った方々なので、毎回話がどんどん広がっていきました。私が司会をさせていただいたので、手前味噌な言い方になりますが、まるでポレポレ東中野から世界旅行に出たような気分でした。

 映画も7年ぶりにポレポレ東中野で上映したのですが、補助席が出る日もあり、予想以上にお客さんが来てくれました。いつまでも見てくださる方々がいて、監督冥利に尽きます。さて、劇場側から嬉しいオファーがありました。5月から6月にかけて2週間のアンコール上映を企画してくれるというのです。関野さんと教え子たちの手作りカヌーの製作を追った「僕らのカヌーができるまで」との併映です。午前と午後の来やすい時間帯を提供してくれました。今回、見逃した方は是非是非ご来場ください。

5/25(土)〜5/31(金)

10:30〜『僕らのカヌーができるまで』/13:00〜『puujee/プージェー』/15:30〜『僕らのカヌーができるまで』

6/1(土)〜6/7(金)

10:30〜『puujeeプージェー』/18:00〜『僕らのカヌーができるまで』

当日:一般1400円/大・専1200円/シニア・高・中1000円/小700円/未就学児無料/前売:なし(山田和也

オススメ! タイカブで東南アジアツーリング そして、あっという間の、いまは福島です!

■昨年12月半ばから3月末まで、東南アジアを夫婦で旅してきました。旅の相棒は、ホンダ・ドリーム(タイ製カブ110cc。以下、タイカブ)2台。約12万円(日本の半分くらい)で新車を購入し、タイを中心にラオスやカンボジアも含めて1万3000kmを走りました。

◆公共交通手段も安いし旅がしやすいアジアなのに、バックパッカーではなくバイクにこだわるのは、自由な旅をしたいから。バイクなら重い荷物を持って歩くこともないし、宿探しもラクチン。バスや電車の時間を気にしなくていいし、私のような面倒くさがりにはぴったりです。好きなときに好きな場所で止まれるのもバイクならでは。犬猫写真を撮るのにも最適です。

◆今回は2005年に行ったラオスのリベンジという意味もありました。それまでの4年近く、バイクで自由に旅していたのにインドからバイクを送り返してからはいきなり手足をもがれたような感じで、いまひとつおもしろくなかったからです

◆宿には外国人ツーリストしか泊まってないし、宿では次の目的地までのバスを手配してくれて(ほぼツーリスト専用)、ピックアップもしてくれる。ラクチンでいいのだけれど、出会うのは同じバックパッカーや観光客相手の商売人ばかりで、パックツアーに毛が生えただけの「ツーリスト街道」をただ移動するだけの旅。一般の人々と出会うためには、その「ツーリスト街道」を離れなくちゃならないけれど、ラオスやカンボジア、ミャンマーなどではそれがなかなか難しいのです。

◆そういうわけで今回の東南アジアツーリングは、タイカブのおかげでツーリスト街道を離れて自由自在に動けたので、ラオスの好感度もグンとUPしたし、アンコールワット以外のカンボジアや、タイの魅力も改めて発見しました。やっぱりバイクで旅すると印象が違います。特にタイカブは大型バイクのようにえらそうじゃないし、地元の人も普通に乗っているので小さな村でも修理可能なので気負いもなく、60km/リットルという燃費の良さもうれしいです(ガソリンの値段は日本とあまり変わらない)。110ccあれば80km/時も出るし、旅するのに必要十分です。タイカブ、最高! 

◆ところで、3か月半の間、日本人ライダーには1人も会いませんでした。大型バイクで旅する欧米人は少なくないのですが……。もっと日本人にもバイクで旅する面白さを知ってほしいものです。現在、タイカブはタイの知人宅に保管してもらっています。次回はそろそろバイクでの入国OKになりそうな(現在はNG)ミャンマーを狙っています。

※3月26日に帰国、福島に戻っています。いきなり警戒区域の見直しやら原発の停電など、東南アジアではほとんど耳に入らなかった震災関連のニュースに溢れていて、やっぱり福島はまだまだ復興してないなあ、と実感しました。ずっと気になっていたペットレスキューのボランティアにも復帰し、またしてもフクシマにどっぷりの生活です。たった2週間前までタイにいたのがウソのようです。(滝野沢優子


緊急!! 地平線会議からのお知らせ

4月の地平線報告会は、上野の国立科学博物館で行います!!

 最終ページのイラスト予告にあるように、4月の地平線報告会(通算408回)は、関野吉晴さんを報告者として、26日の金曜日、東京・国立科学博物館の「 特別展 グレートジャーニー  人類の旅〜この星に、生き残るための物語」の会場で行います。いつもの新宿区スポーツセンターではありませんのでご注意ください。

 「グレートジャーニー人類の旅」展は、「人類拡散の歴史と厳しい環境で逞しく暮らす人々の姿、そこから考えるこれからの人々の暮らしを、人類学・考古学・民族学などの学問のラインを超えた多角的な展示内容で見せていく国立科学博物館特別展です。

監修 :関野吉晴(探検家・医師・武蔵野美術大学教授)篠田謙一(国立科学博物館人類研究部人類史研究グループ長)馬場悠男(国立科学博物館名誉研究員)(国立科学博物館のウェブサイトから)

日時:2013年4月26日(金)(9時から17時の開館時間内は自由に展示を見ることができます)

◆入場料:1500円(おとな)600円(小中高生)

◆開始予定時間など
 18時から「地球館」地下の縄文号展示スペースでギャラリートークを開催(これは、博物館主催。3、40分の予定)。これに各自参加した後、19時から「日本館」2階の講堂に移動し、20時まで関野吉晴さんを報告者として地平線報告会を開きます。地平線会議としての参加料は不要ですが、講堂内の受付でいつものように記名していただきます。(腕章をつけた地平線会議スタッフがご案内する予定です)

時間の許す方は是非、時間をかけて先に展示を見ておいてください。


あなたはどちらの姓を名乗りますか? 
私と山本豊人さんが結婚にあたって真剣に悩んだこと

■このたびわたし竹村東代子と山本豊人は2月10日、新月の日に婚姻届を提出しました。届を出すにあたって二人の戸籍上の姓を統一しなくてはいけないのですが、私たちはこのことで非常に悩み、話し合いました。私は姓を変えたくない(自分の名前のバランスが好き、自分の姓も好き、親や祖母が一生懸命考えてくれた名前だから)という気持ちが強く、結婚をためらってきた理由でもありました。

◆二人とも姓を変えないですませるために事実婚にするということも考えましたが、婚姻によって補償される利益(税制、保険など)とこれから生まれてくるかもしれない子供の利益を守るためにしなければならない手続きを考えると、婚姻届を出す方が合理的だということになりました。

◆婚姻届を出すということは、親の戸籍から抜けて二人で新しく「戸籍」をつくるということです。初婚同士の場合は既にあるどちらかの戸籍にどちらかが入るわけではないので、「入籍」という言葉は適当ではありません(入籍という言葉を使うのは、養子縁組や戸籍の筆頭者になる人が既に個人で戸籍を持っていてそこに入る場合など)。

◆自分たちが手続きすることなのにそのことを深く考えず、またどちらの姓を選んでもいいはずなのに圧倒的に夫の姓を選ぶ人が多いことに疑問を持っていました。昨年わたしの姉が亡くなり、葬式のことやお墓のことなどを母が「嫁にいったのだからあちらの家で決めることだ」といって、結局姉の遺志が反映されない形のお墓に決まってしまったことなども、私の気持ちを固くしました。

◆話し合いの中で、私たちのケースでは以下のようなメリット、デメリットが上がりました。

■私の姓にするメリット、デメリット
・私のアイデンティティが守られる。・夫が「家を継ぐべき長男」という思い込みの重圧から逃れることができる・「長男の嫁」と思われることから私を守ることができる・夫が心機一転という気分になれる・夫の氏名変更の手続きが煩雑(健康保険/パスポート/免許証/銀行口座など)・「婿養子」になったと思われる(私の両親と養子縁組しない限り婿養子ということにはならないが、そう思う人が多いのも事実。またそういうことは直接本人には言わず陰口のように言う場合が多いので弁明がしにくい)・夫の両親、親戚への説明が必要

■夫の姓にする場合のメリット、デメリット
・大多数が夫の姓を選んでいるので、双方の両親、親戚などに対して特に説明する必要がない。・夫のアイデンティティが守られる。・夫は名字で呼ばれることが多く、私は下の名前で呼ばれることが多いので、呼称についてさして不便がない。・私は個人の名前でフリーランスで仕事をしているため、通称として竹村の名前を認知させることが比較的容易。・私の氏名変更の手続きが煩雑(健康保険/銀行/パスポートの名義変更など)・振込口座の名義を変更すると仕事をしている名前と振込口座の名前が違ってしまう。・私のアイデンティティの喪失

◆どちらにもメリットデメリットがあり、お互いを思いやった結果、どちらにも決めかね、結局はコイン(5円玉)の裏表で決め、結果的に夫の姓である「山本」が二人の戸籍上の名前になりました。

◆統計では現在およそ96%の夫婦が夫の姓を選んでいるようです。しかし、私たちのように悩んだ結果夫の姓にしたケースや、悩んだすえに事実婚をしているケースは統計には現れてきません。私はこだわり過ぎなのかもしれません。結婚したら名字が変わるのが楽しみという人もいるでしょう。でも、どちらが名字を変えるとしても、氏名変更の手続きが煩わしいという点は変わりません。多くの夫婦の間ではそのことを妻の方が負担しています。

◆変えたくないのに名字を変えざるをえなかった人や、仕事上は通称を使用しているものの様々な手続きなどで戸籍名を使わなくてはならず不便な思いをしている人も多くいると思います。早く戸籍上も夫婦別姓が選べるようになってほしいなと心から思います。話し合って決めることはとても大変でしたが、お互いに心の内をさらけ出して話せたことはよかったと思います。

◆婚姻届を出して2か月。今勤めている会社では呼称は竹村で通していますが、健康保険証(健康保険組合によるが変更しないことは可能)の氏名変更の手続きをさせられ、給与明細の名前は変更されました(変更不要)。会社のおじさんたちは「名字何になったの?」などと訊いてきます。女の人は何も言わず今までの呼び方をしてくれます。誰の何を守るための夫婦同姓なのか考えることがよくあります。私たちはムサビの関野ゼミでの出会いだったので婚姻届の証人は関野吉晴さんになってもらいました。関野さんにはつきあっていることも報告していなかったので少しびっくりしていました。私は結婚を機に会社を辞め、イラストの仕事に専念することにしました。今回のグレートジャーニー展でも解説イラストを描かせてもらっています。未熟な二人ですが、今後とも二人共々よろしくお願いします。(竹村東代子)

 ★これも貴重な挑戦です。レポートをありがとう。(E)

あとがき

■地平線報告会が200回になった時「地平線の旅人たち」という本を作った。200回に登場してくれた皆さんを探し、当時を振り返っての感想、その後どうしているか、など半ばアンケート式に答えてもらい、一冊にまとめたのだ。病気や事故ですでに亡くなった方もいた。その場合は、ご家族、あるいは仕事仲間に執筆をお願いし、200回すべての報告者を網羅することができた。

◆人探しに苦労する中で、南極の昭和基地にいるとわかったチロル号の加藤隆士さんとファクスでつながった時は「やったー!」と思った。「昭和基地で越冬し、観測用の飛行機の操縦をしている。」(「今していること」)「日本へ帰ったら、北海道の自然の中で、一般の人にグライダーを普及させる活動をしたい」(「したいこと」)と答えてくれた通り、夢を果たしつつ空に逝った。

◆シール・エミコは、堂々として見えた。「ストーマのことを隠す人が多いけれど、私はそう思わないです。ほら、こうなっているの。右がおしっこ、左がうんちを貯める袋」どんなに大きな負担か、と思うが、あっけらかんとしている。辛いことは限りなくあるだろう。人前で袋が裂けてしまうこともあったらしい。「あの時は、情けなくて、情けなくて……」さすがにそう言った。

◆奇跡以上、とエミコが強調する生命の輝き。大事だったのは、治療する側もされる側も、個としての情熱だった。学界も医療の世界もお役所も上司の承認なしには動けない日本のたて型社会では不可能だったかも、と彼女は言う。4月3日、オーストラリアに帰った(向かった)。(江本嘉伸)


■今月の地平線報告会の案内(絵と文:長野亮之介)
地平線通信裏表紙

未来のヒント

  • 4月26日(金) 19:00〜20:00
  • 科博入場料1500円
  • 於:上野の国立科学博物館 日本館2F講堂

「先住民の社会って時間がゆったり流れてるから、つつましさとかやさしさっていう感情が生きてるんだよねー」というのは医師で探検家の関野吉晴さん。人類が地球上にあまねく拡散した足跡を辿る「グレートジャーニー」プロジェクトで世界中の少数民族と出会いを重ねてきました。「現代社会の人はモノを欲しがり大切にするけど、伝統社会の人たちは今という時を大切にして楽しんでいる。物質をためこむ社会からは刹那的といわれるのだろうけど、生命を謳歌するのに経済成長なんかなくてもいいんだと気づくんだ」。

関野さんの旅の原点は南米アマゾン河奥地に住むマチゲンガ族との暮らし。そこで直感した“伝統社会の豊かさ”を、その後今に至る40年余りに渡って世界中で確認してきたのかもしれません。「3.11後は特に強く感じるんだけど、昨日までの考え方を変えなくちゃならない局面に立つオレ達にとって、先住民族達の暮らしにはたくさんのヒントがあると思うんだよ」と関野さん。

今月は関野さんに、旅を通して今、考えている事を語って頂きます。会場は関野さんが監修する「グレートジャーニー展」が開催されている国立科学博物館内の講堂です。是非、展示を御覧になってから会場にいらしてください。(詳細は今月の通信12ページの記事参照)


地平線通信 408号
制作:地平線通信制作室/編集長:江本嘉伸/レイアウト:森井祐介/イラスト:長野亮之介/編集制作スタッフ:丸山純 武田力 中島菊代 大西夏奈子 落合大祐 加藤千晶
印刷:地平線印刷局榎町分室
地平線Webサイト:http://www.chiheisen.net/


発行:2013年4月10日 地平線会議
〒160-0007 東京都新宿区荒木町3-23-201 江本嘉伸方


地平線ポスト宛先
pea03131@nifty.ne.jp
Fax 03-3359-7907 (江本)


◆通信費(2000円)払い込みは郵便振替(料金が120円かかります)、または報告会の受付でどうぞ。
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議


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