3月13日。正午現在東京の気温は19.5度。低気圧と前線の影響で南風が驚くほど強い。外を歩くにも身体を倒すようにして進まなければならない。都心の瞬間最大風速、実に27.4メートル。埼京線、武蔵野線、総武線、常磐線、地下鉄の一部路線は、運転を見合わせている。首都高速も一部通行止めとなった。とんでもない春嵐である。その一方で福岡では早くも今日、ソメイヨシノが開花した。
◆世界は、はるかイタリアのバチカン市国の煙突に注目している。退位したベネディクト16世に続く新しいローマ法王を選ぶ「コンクラーベ」。投票権を持つ各国からの115人の枢機卿がシスティーナ礼拝堂に入り、外部に情報を漏らさないことを誓ったあと、扉が閉められた。「コンクラーベ(Conclave) とはラテン語で「鍵がかかった」の意味なんだそうである。
◆立候補者はいない。投票を繰り返し、投票総数の3分の2以上(つまり77票以上)を獲得した枢機卿が新しい法王に選ばれる、という不思議な選挙だ。世界12億というカトリック信者の頂点に立つ人だから、慎重を期すのはわかるが。この日午前3時半、礼拝堂の煙突から最初に立ち上った煙は黒だった。午前、午後と日に2回ずつ投票を繰り返し、誰かが77票を得た瞬間「白い煙」が立ち上ることになる。滅多に遭遇することではない宗教界の選挙、どう展開するか。
◆さて、昼飯時だ。刷り上げたこの通信のゲラを持参してくれたレイアウト引き受け人、森井祐介さんとともに新鮮なほうれん草のおひたしを味わう。おととい11日、3.11から2年を記念して西日暮里の一般社団法人「RQ災害教育センター」に旧RQの仲間たちが集まった。地震が起きた午後2時46分、黙祷を捧げ、久々に会ったボランティアたちの近況などを聞いた。この後の懇親会で試食用に出されたのが南三陸町で獲れたばかりのほうれん草。新鮮でおいしかったので、少し多めに買って帰り、大事に食べている。
◆このほうれん草、6ページに新垣亜美さんが書いているように、今月地平線報告会に来てくれる中瀬行政区長、佐藤徳郎さんが育てたものだ。昨年夏、宮本千晴さんとともに3人で開墾した農地を訪ねた時はまだ、荒れ地状態だった。その後、ビニールハウスが建てられ、3月に再び訪ねた時は、ハウスに保護されてしっかり緑が育ちつつあった。それがいま、みずみずしい味となって私の胃におさまっているのが嬉しい。
◆3.11からまる2年。ここ数日、久々にテレビ各局は船を、車を、農地を、人を、町を、難なく呑み込むあの津波のすさまじい映像を繰り返し流していた。ゆっくり歩いている人たちにカメラを向けた人の周辺から「早く!!」「走れっ、うしろから来てるぞおお!」「ああ、ダメだ、ダメだ!」と悲鳴に近い叫びがほとばしる。1秒の差で助かるかもしれないのに、日常の世界の私たちはどうしようもなく、のどかなテンポで生きているところがある。生きるためには秒を惜しもう。目をそむけたくなる人も多いだろうが、やはりあの映像は何ものにも代え難い教材だ、と痛感する。辛いが、時に背筋をただして現実を見つめることは必要だ。
◆そして、福島。先だっての選挙でもいつの間にかスルーされてしまった原発問題。チェルノブィリの原発を廃炉にするために今なお3000人が作業をしていることに驚いたが、「いちえふ(福島第一原発のこと)」でも現在毎朝3000人が出勤して作業をしている。廃炉まで尋常でない時間とエネルギーがなお費やされ、人々の故郷の村への帰還が次第に遠ざかる気配さえある。
◆この日、NHKテレビは、終日衆院予算委員会を中継している。民主党の女性議員が避難所で女性たちが直面した問題について質問したのが印象に残った。仕切りのない避難所で布団をかぶって着替えしなければならなかったこと、乳幼児を抱えた母親が居辛かったこと、長期の避難生活の間にあちこちでDVが進行していたこと、などなど。私が関わらせてもらった「RQ市民災害救援センター」では、女性の力がいかに大きかったか、とあらためて思う。性的なことばのハラスメントも少しはあったらしい。今でも私をはじめ多くの男性ボランティアは3.11の被災地で進行していた真実の多くを知らないままではないか。
◆『東北魂』を書き、昨年3月「トーホクの歩き方」のテーマで報告してくれた山川徹さんがつい先日、『それでも彼女は生きていく』(双葉社 1400円+税)という新たな本を刊行した。3.11をきっかけにAV女優となった娘たち7人にインタビューして書いたショッキングな一冊。書き手と、登場する娘さんたちの真剣さ、真面目さが印象に残った。必読。(江本嘉伸)
■1943年11月30日、一機の米軍輸送機がチベットに墜落した。輸送機は仏都ラサ上空を轟音を立てて低空飛行、乗員5人がパラシュート脱出して着地したのは、南へ約50キロにあるツェタン村近郊だった。
◆当時ラサは通商を目的に1904年以来駐留する英国、宗主権を主張する中国(国民政府)が対峙し、まだ幼いダライ・ラマ14世に代わって摂政が実権を握るチベット政府がそれを牽制する状況。墜落の報せを知った三者はそれぞれに調査隊をツェタンに送る……。この偶然を奇貨として、その後チベットを巡る国際政治にのめり込んで行く米国当局の政策の変遷と、翻弄される在外チベット人の姿を、3冊の英文資料を元にまとめたのが倉知敬さん。
◆この貴重な論考は日本ヒマラヤ協会の機関誌『季報ヒマラヤ』に連載され、チベット東部の山々のエキスパートとして知られる中村保さん率いる「横断山脈研究会」により、『チベット民族国家崩壊に至る抗争の歴史』という小冊子として2月に刊行された。倉知さんの仕事の一端は、山岳書の翻訳にある。特に山岳史に残るクライマー、エリック・シプトン(1907-1977)の伝記『山岳探検家・波乱の生涯』は名著として知られる。余談だが、シプトンは1931年にカメット(7756m)の初登を果たし、同峰の南東壁登攀に成功してピオレドールを受賞した谷口けいさんも「倉知ファン」だという。
◆報告会の会場にはいつもより早く参加者が集まり始め、そのほとんどが初めて新宿スポーツセンターに来たという。まだ18時半にならないというのに、会場はしんとして司会の丸山純さんが中村さんと倉知さんを紹介するのを待っていた。日本山岳会の中でも海外への発信を長く担当する中村保さんには、2011年の東日本大震災に際して、世界中の名だたるクライマーがメッセージを寄せたという。「世界の登山界、探検界とこれだけ交流している人はいない」と江本さんの紹介。
◆その中村さんによれば、倉知さんは一橋大学山岳部の5年後輩で、50数年の付き合いになる「正統的な登山家」。企業人としても活躍し、彼の才能と構想力と英語力がなければ、難解な原著をまとめることはできなかった、と持ち上げる。中村さんがホームグラウンドとするチベット東部は、1949年の紅軍による侵攻以来、たびたびチベット人の民族運動の発火点になってきた。その背景には米国当局による東チベット工作があったが、そのことは日本では断片的にしか知られていない、と中村さんは指摘する。
◆『季報ヒマラヤ』に倉知さんがチベット論考の連載を始めたのは、この中村さんの指摘で、米国在住経験もある倉知さんが米国のチベットへの関与に興味を持ったことがきっかけだったようだ。この連載は要約すれば「CIAが誕生してから、初めて海外の政治の舞台で影から行動し、あげく失敗して終わったというストーリー」で、一方で舞台となったチベットでは「1940年代から四半世紀のあいだに民族国家というものが生まれて消えてしまった」と倉知さんは紹介した。
◆冒頭に挙げたように、3冊の資料をまとめた小冊子は、米軍輸送機の墜落事件から始まる。時は日中戦争たけなわ。辻政信をはじめとする日本軍にビルマ経由の陸路を断たれた中国国民政府を支援するため、米国はインド領アッサムから昆明への空輸作戦を展開していた。この「Hump作戦」は後のベルリン封鎖などでの作戦の原型であり、墜落事故が少なくなかった中でたまたまチベットに落ちてしまった輸送機があったのだと、倉知さんは言う。
◆この事件は当時多くの新聞や雑誌でセンセーショナルに報じられたが、丹念に関係者に取材することで事件の本質に迫ったのが2004年に出版された"Lost in Tibet"だったという。5人の乗員そのものは政治的な動きをしていないが、米国にとってチベットに目を向けるきっかけになった事件だと倉知さんは指摘している。
◆これを起承転結の「起」とするならば、「承」の局面は二つある。2002年に出版された "The CIA's Secret War in Tibet" に詳しいように、共産中国の実質的なチベット支配が強まった1957年になって米国当局はカム(チベット東部)、アムド(同北東部)に資材を送る空輸作戦でチベット人の反抗を助けた。空輸作戦の前にはチベット人たちをグアムやコロラドの基地に送り訓練し、用意周到に飛行機を飛ばして武器や兵士を送り込んで行った。彼らの反乱は全国展開したが、人民解放軍が膨大な兵力でこれを阻止した。
◆この作戦を契機として、チベットという民族国家を解放しようという理念が働いた。しかしその理念はすぐに変質していく。米国は共産圏封じ込めのためにインドに協力。デラドゥンで訓練した空輸部隊は国境防衛部隊に変わり、カトマンズから遠く離れてネパール王室の目の届かないムスタンを拠点にゲリラ戦を始める。
◆チベット人自身が何も考えていなかったわけではない。ダライ・ラマ14世の実兄、ギャロ・トンドゥップは1959年3月のダライ・ラマのインド亡命以前からチベットそのものを近代化して中国に立ち向かおうと主張していた。しかし画策は僧侶内閣に阻まれ、彼はシッキムにカム(チベット東部)出身の若者を集めて反抗のきっかけを作ろうとしたのだった。ムスタンでゲリラ戦を始めたのは、ギャロ・トンドゥップの思想を受け継いだカム人たちだった。
◆続く「転」は、それまで非同盟中立を守り、米国との協力に消極的だったインドの立場が変わった1962年。チベット北西部のアクサイチンを中国が占拠して中印紛争が起きたためだった。インドは「チベットを助ける」ためではなく、自らの防衛のために中国と対峙するようになった。
◆端的に言えばチベットに接近しようとしていたアイゼンハウアーから、ケネディの時代になり、キューバ危機を経て米国はチベットどころではなくインドを支援する。1968年、大統領がニクソンに代わると、訪中の邪魔になるためにムスタンで闘っていたチベット人たちへの支援を打ち切って撤退させた。とにかく米国の政策はコロコロ変わる。翻弄する米国と翻弄されるチベット。いけないのはどちらだろうか。
◆このストーリーの「結」は1999年出版の "Orphans of the Cold War"に描かれている。政治的支配権を握っていた僧侶たちが既得権益と秩序を守るということしか考えていなかった一方で、カム、アムド(チベット東部)でゴンポ・タシが結成したゲリラ組織を中心とする武力闘争の状況や、いち早く亡命を選び在外チベット人たちのリーダー的存在だったギャロ・トンドゥップの活動を原著は取り上げている。が、「保守派と改革派のような対立があったのだろうが、それ以上に中国の侵攻が速かった」。しかしどれも実を結ばないまま終わってしまって、チベットは共産中国に完全に取り込まれてしまった。
◆米国はチベットに関しては秘密作戦が中心だった。つまりチベット人自身が蜂起するのを待つというのが基本的スタンスで、時代を追うにつれ、冷戦構造の中で「カーテン」をどうやって守るのかということに米国の態度は変質していった。その意味で米国はチベットに関してはいいかげんだったと倉知さんは話す。
◆このストーリーが日本人にとって示していることは何か。倉知さんは日本の米国依存に警鐘を鳴らす。「貿易で立国するということも重要だが、国民全体でひとつのまとまりのある国を建国するという方向でいかないと、長い間に侵略されて日本の独立が危うくなる」。この端緒が尖閣問題や中国国内での日本企業襲撃、油田開発問題なのではないかと彼は指摘した。
◆倉知さんが言うように、チベット民族国家の成否を握っていたのはカムやアムドと呼ばれるチベット東部での闘争だった。その東チベットに通い続け、25年以上になる中村保さんは、昨年2012年、四川と雲南とを旅して来た。中村さんが恋してやまない東チベットには、チベット自治区内に6000m級の山が200ほど未踏峰で残っているが、北京五輪があった2008年から自治区に入るのが難しくなり、一昨年はかろうじてもぐりで入れたものの、昨年は一切入れなかったという。四川省内には6000m以下で未踏の山群が残っているものの、山岳地帯には外国人は入れない。昨年はしかたなく「もぐりでこそこそと行ってきた」のだそうだ。
◆まずは畴拉山(チュラシャン)山系の素晴らしい岩嶺群にある未踏峰、ガンガ(5688m)の写真が映し出される。一帯には名前がない峰々が多く、7年前に挑戦した長野隊はピークを間違えた上に登れずに帰ってきたという。続いてそのすぐ東側に並ぶごんか拉山(ゴンカラシャン)山系のカワロリ(5922m)。この山は宗教的な理由で登山隊が入ることを認められず、英国隊や山梨大隊も追い返されて未踏のままになっている。
◆雪を抱いたアルプが高原にぽっかりと浮かぶ姿はチベット独特のもの。同じ横断山脈群の中でも四姑娘にはクライマーが押し掛けている現状から、近い将来にはこれら未踏峰にもクライマーが多く入るのではないかと中村さんは話した。名だたる山々に通じる断崖絶壁の道やミニヤコンカの圧倒的な南東壁などがスクリーンに映し出される一方で、中村さんのカメラは僻地に布教された名残のキリスト教会や、巨大な僧院、世界遺産になるのではないかと言うンガバの石塔にも向けられている。
◆コメントを求められた谷口けいさんは、平出和也さんとともに2011年にチベット西部にあるナムナニ峰へ遠征したときの経験を語った。「あの時、行っておいてよかった」と谷口さん。翌年の春から外国人の入域が制限され、以来ツアー客もほとんどがチベットに入れなくなってしまったからだ。アプローチの道路は話に聞いていたガタガタ道ではなく、高速道路なみで、開発が進展していることが窺えたという。
◆海外から遠征隊がチベットに入るとリエゾンオフィサーが必ず同行する。そのときのリエゾンオフィサーはチベット人だったが、中国人の上司を恐れているためか、とにかくそのすぐ東側に並ぶゴンカラシャン山系の1キロも離れていない温泉にさえ寄らせてくれなかったという。行きは何日もかけたのに、下山したとたん、早く追い出そうとする。帰りはなんと24時間走り続けたのだとか。ナムナニはインド国境に近く、国境警備の要衝であるプランという町に当局は谷口さん一行を近づけたくなかったらしい。
◆それを受けて今度は中村さんが自らの「チベット体験」を語る。この2011年は中村さんも「本当に逃げまくった」という。チベットを旅するには、人民解放軍と公安と旅遊局と内務省の許可がいる。谷口さんのような登山は目的地がはっきりしているからいいが、中村さんのようにあちこち見て回りたいという旅行の場合が問題になる。許可証には大きな町の名前しか書いてくれない。解釈によってはその町から一歩も出られないことがあるという。許可証にない町から追い返され、素直に帰ったふりをして、谷に入って出てこなかったことも。このときは日本人が行方不明になったと騒動になったそうだ。
◆昨年中村さんが続いて訪れたのは亜熱帯の雲南省。目的は山ではなく、フランスが探検した足跡をたどることだったが、そこで目にしたのは巨大な空港と高速道路網の発達だったという。雲南の3本の主要高速道路は昆明から四川の成都、ミャンマー、ラオス国境へとそれぞれ向かっている。ラオス国境に近い西双版納(シーサンパンナ)の景洪(ジンフォン)では人口40万の町にマンションが林立しているのに驚いた。クルマが多く、駐車場がなくて困るほどだったという。音を立てて開発が進んでいる。
◆メコンに架かる斜張橋を渡ると立派なイミグレーションがあり、その先はブーゲンビリアの咲くラオスだ。日本人はラオスもベトナムも中国も14日間ノービザで入れるが、同行した中国人ガイドはビザが必要。でも500元で通してくれたという。メコンを挟んで経済的な結びつきが非常に強いラオスだが、中国語はほとんど通じなかった。
◆メコンを遡ってきたフランス人の足跡は、教会に残っていた。西欧はチベットに対してキリスト教布教に努力したが成功しなかった。カトリックのフランスはネパール経由で入ろうとして失敗し、次善の策としてハノイからインドシナ半島への浸透をはかった。その時に建てられたのが各地にある天主教教会だ。カトリック宣教師は一時期、サルウィン河の西側まで入ったが、結局は追い出されてしまった。その名残はチベット自治区の塩井(ツァカロ)に残っているという。現在ではプロテスタントのほうがはるかに多く、基督教と言えばプロテスタントのこと。景洪の教会もプロテスタントだったそうだ。いずれどこかで『雲南探検史』を発表したいと中村さんは締めくくった。
◆「何でもあり、何でも起きる中国。尖閣でも何でも驚いてはいけない」と中村さんは繰り返した。中村さんは毎年のように中国を訪れているが、1年行かないと様変わりしているそうだ。一昨年の高速鉄道事故は既に過去のこととして語られ、あらゆることがすごいスピードで起きているという。「中国は古いものをぶっ壊して、新しくしてしまう」。物質的な利便性を与えて13億人を治めるというのが中国政府の基本方針であるかぎり、この変化を止めることはできないだろう。チベットの辺境にもその波は及んでいるに違いない。(落合大祐)
■地平線会議でのトークは今回が三度目です。その内容は地平線通信に過不足なく正確に纏められていますので、重複は避けます。私の演題はいつも中国南西辺境、「ヒマラヤの東──チベットのアルプス」の未踏峰の紹介です。この地域に関しては世界でオンリーワンの存在になりましたが、私が最も希求したのは「登山」よりも多様性のある「探検」です。
◆「ヒマラヤの東」に関わり始めたのは偶然です。1989年から94年までの香港駐在がきっかけでした。人生のめぐり合わせでしょう。1961年のペルー・ボリビア・アンデス登山の後、ヒマラヤ以上に関心があったのは南米大陸を水路で縦断する企画でした。ベネズエラのオリノコ川からカシキアレ水道を通ってブラジルに入りアマゾン支流のリオ・ネグロを南下、再び支流を遡行してパンタナル湿原を通過し、ラプラタ川を下ってブエノスアイレスに到着するアドベンチャーです。しかし、会社人生のためこの計画自体は実行できませんでした。
◆次は香港行きの前に考えたプロジェクトです。仕事で赤道直下のザイール(現在のコンゴ)を訪れた時にヒントを得ました。アフリカのコンゴからアマゾンへ、赤道沿いに陸路と水路を辿って世界一周するアイデアに密かに熱くなりました。地平線会議にぴったりのテーマです。しかし、これも実現せず、行き着いたところが東チベット圏、カンバ族の世界です。
◆残された時間は少なくなりました。来年は80歳になります。最後のライフワークがあります。ケンブリッジ大山岳会の重鎮(現エベレスト基金理事長)から半世紀は残る役に立つ仕事を残せとアドバイスされ、それを真に受け『ヒマラヤの東──チベットのアルプス地図集』に取組み始めたところです。江本嘉伸さん、ご高配とご支援ほんとうに有難うございます。(平成25年3月10日 中村保)
■思いがけず大勢の方々に、お話する機会を頂き、感謝申し上げます。チベット抗争史について、私はこの2年程何かを伝えようとしてきたわけですが、その相手の顔は見えず、どう受け取られ何を思って下さったのか、丸で見当もつかず、物足りない気持ちでした。そこで初めて相手の顔の見える場所を与えられることになり、実はとても期待して臨んだのですが、終わって見れば何も変わってないじゃないか、というのが正直な気分です。
◆そもそも、長い間かけて纏めた事象とか意見を、短時間に要領よく伝えるなどは、出来ないことでした。少なくとも、チベット抗争史の冊子を先に読んで頂いてからなら、下手な話もいくらかは理解に足る内容となったかも知れません。要するに私は、誰かがいくらかでも関心を持たれたら、議論したかった、のでした。
◆主たるテーマは、歴史的に人類の有り様は国家が規定する、というものですが、イヤ民族こそ真正なものであって国家は相反する否定的存在だという見方もあります。チベット史を具体的事例としてこれを議論するとどうなるか、などというのは興味深いことです。また、宗教と民族の繋がり、チベットと日本の相似性と異質性はどうなのか、などほかの人の見識を伺いたいことが沢山あります。まあ集会で議論しなくても方法はあるので、これからでもどのようでも結構ですので、何か言いたいことお持ちでしたら是非お聞かせ下さい。
◆私の次の課題として、チベット民族ホロコーストについて考える、というものがあります。漢族の大罪悪は罰しなくてはならないのではないか。しかし、まずは勉強してからです。(倉知敬)
■第2回梅棹忠夫山と探検文学賞に、先月の報告者、中村保さんの『最後の辺境 チベットのアルプス』(東京新聞刊)が決定した。梅棹忠夫山と探検文学賞は、信濃毎日新聞社、平安堂、 山と溪谷社が協賛し、小山修三・国立民族学博物館名誉教授を委員長とする選考委員会が選考する。第1回受賞は、角幡唯介さんの『空白の五マイル』だった。
■「中国はチベットから出て行け」「チベット人を殺すな」──3月10日、日曜日の東京・渋谷で、日本に亡命しているチベット人たちによるデモアピールが春霞の強風の中で行われた。ニューヨークやサンフランシスコ、ロンドン、リオデジャネイロなどの各都市で西側「人権派」の協力を得てこのようなデモが行われる一方、チベット本土はこの時期、厳戒態勢が敷かれている。
◆2009年3月、アバ(四川省アバチベット自治州アバ県)で始まった僧侶らによる焼身自殺による抗議に参加した人々はついに100人を超えた。中国当局は当初「交通事故を起こし自責の念があった」「借金苦が原因」などと個人的事情であることを強調したが、抗議が急増した昨年からは「インドに亡命した高僧たちが指令している」と非難を始め、自殺した人たちの関係者を拘束した。中村保さんの報告にも「僧侶が焼身自殺を強制しているから摘発しているのだと言われている。たくさん子供がいる家に割当が来るとか、くじ引きで選ばれた人が自殺させられている」というくだりがあり、驚いた。
◆TCHRD(チベット人権民主センター)の調べでは、100人の中には親兄弟や親戚、友人のつながりがある人たちが多く、個人的事情よりもむしろ義憤に駆られて、やむにやまれず自殺という抗議方法を選んでいるようだ。「ようだ」としか書けず、中村さんのように断定的に言えないのは、チベット自治区や周辺の主なチベット地域への外国人の入域が厳しく制限されてしまい、亡命チベット社会の伝聞や中国当局側の報道でしかチベット本土の状況を知ることができないからだ。
◆中村さんの昨年の四川省チベット地域の旅の話でその一端がわかるかと思ったが、「相変わらず厳しく制限されている」ということしかわからず、はがゆかった。わからないのは、輪廻転生を信じ自殺は功徳に反することだと教えられている彼らがなぜ究極の抗議を行っているのか、チベットの中のチベット人たちがいまの状況について本当にどう思っているのかということだ。
◆2008年の北京五輪を前に、青海省出身のチベット人男性が思い立って、ラサを始めとするチベット各地でチベット人自身に対するインタビューを試みたことがある。当時34歳だった彼、トンドゥプ・ワンチェンはその後当局に拘束され、6年の刑を受けて投獄されているのだが、彼が撮ったインタビュー映像はスイスに亡命した従兄弟の手によって23分の映像に編集され、世界各地のチベット支援NGOによって上映された。
◆昨年公開された岩佐寿弥監督の映画『チベットの少年オロ』の作中にも彼の映像が挿入されている。23分の中で20人のチベット人たちが顔を隠すことなく、五輪のことや土地の収奪、文化や言語への抑圧などについてインタビューに応じているが、これには「言わされている」とはとても思えない迫力がある。
◆一旅行者としてチベットを自由に旅できないことには私も中村さんと同じく不満を持つが、こうした背景を知れば知るほど、いますぐではなく、チベット人が本音を言えるようになってからチベットに行きたい、そのためにはどうしたらよいかということに考え込んでしまう。
◆倉知敬さんはムスタンゲリラの項を「チベット民族の終焉とは、所詮地勢的隔離に惑わされて団結し得なかった、チベット民族自らがそもそも招いた不幸としか言うしかなく、それは貴重な他山の石」と日本人の国民性と比較して結んでいるのだが、東京で行われたデモでのチベット人たちの姿は「民族の終焉」にはほど遠い。
◆チベット人の中には、父母がムスタンのレジスタンスに参加するためにTCV(チベット子供村)で育ったという人もいる。ムスタンやチベット東部で行われたような軍事的な作戦は終わったが、彼らの精神的な闘いは内外で続いている。東日本大震災でも東北が消滅したわけではないように、チベットはまだ消滅していない。(落合大祐)
■今年の3月11日も、宮城県南三陸町志津川で迎えた。14時30分、仮設住宅の方々と一緒に、町を見わたせる高台に移動する。昨年よりも海がよく見えるようになったのは、沿岸部に残っていた建物や瓦礫の1次置き場が無くなったからだ。住宅の基礎も撤去されたので、もともと荒れ地だったように感じてしまう。「いやいや」と、2年前ここで暮らしていた人たちの生活を一生懸命想像してみる。
◆高台に最近建てられた観音様の周りにはすでに数名が来ており、制服を着た警官も10名ほど、海に向かって黙って並んでいた。14時43分。地震のあった3分前、広い空いっぱいにサイレンが鳴り響く。佐藤仁町長の言葉に続き、黙祷。おわって目を開けると、遠くの道路に急に車が流れ出した。町中が、日本中がこの時間に祈っていたのだろう。
◆志津川は、年末に訪問したときと比べ、建物の解体・住宅の基礎の撤去はかなり進んだ印象を受けた。プレハブの仕事場(漁具や警備、美容院、建設会社の事務所など)がぽつぽつと建って、商売を始めている方もいた。
◆スーパー建設候補地の看板も見つけた。今は商品を陳列できるように改造したスーパーのバスが仮設住宅まで来ているが、商品数は多くない。「やっとスーパーで買い物ができるようになる!」と思ったが、すぐ隣にある復興商店街から建設反対の声があり、スーパー側は住人から署名を集めているという。暮らしの利便性と地域経済との微妙な関係、常時なら見えにくいけれど、ここではくっきりと見えてくる。
◆町づくりとしては、高台部会、産業再生部会、公園部会などで住人が役場と意見交換する場があるようだが、苦労しているようだ。それでも、個人レベルで見ると着実に前に進んでいると感じる。雇用保険の関係もあるのか、仕事を始める主婦(主に介護関係のパート)が増えたように思う。また、おいしいホウレン草をいただいたのだが、これは震災後ほぼ2年ぶりに収穫できた農家さんのものだった。津波でビニールハウスも農機具も全て流されてしまったが、昨夏、山の上の牧草地を借りて自力でビニールハウスを建て、農業を再開したのだ。
◆この農家・佐藤徳郎さんは、今月の地平線報告会の報告者。農業にかける情熱はもちろん、震災直後から行政区長としてリーダーシップを取り、現在も集団高台移転について奔走している方。現場の生の声を聞いてもらうチャンス、ぜひ多くの方にお話を聞いていただきたいです。(新垣亜美)
■東日本大震災から早2年が経過します。あらためて振り返ってみても、沿岸部の津波で被害を受けたままの状態で取り残されている家屋を目のあたりにすると、とても2年もの時間が過ぎたという実感は持てません。3月11日に先立ち、地元の楢葉町では3月9日(土)に「追悼式」がご遺族、役場関係者約70人が参列されて行われました。ご遺族の方は、「まだ現実を受け入れられない、まさか津波が来るなんて……」と話されていたのが印象に残りました。
◆楢葉町は来年2014年4月に役場機能の一部が戻り、再来年の2015年4月に住民の帰還見通しを発表する予定です。昨年末に実施した住民意向調査では2割が「戻らない」、3割が「条件が整えば戻る」、残りは「現時点では判断つかず」という結果でした。
◆少なくとも今後2年間は戻れないとなると、様々な事情から「戻らない・戻れない」選択をする人が更に増える事は容易に想像がつきます。帰還するためには、何より「除染」が進められた上で「インフラ、雇用、医療、福祉、教育」等の整備が必須となりますが、今後何程の時間を要するのか。住民の気持ちを繋ぎ留めるのは時間との勝負になると感じています。
◆警戒区域に指定されている「富岡町」は3月25日、「浪江町」は4月1日に区域が再編成される事となりました。これで一部の地域への立入りが可能となりますが、両町とも今後3年間〜4年間は帰還しない事を既に表明しています。残る「双葉町」も今春には再編されるとの事ですが、町の殆どは帰還困難区域となる見通しです。故郷での生活設計が具体的に描けない中で、今後仮に帰還可能となったとしても、何程の人が戻る選択をするのか。楢葉町の場合よりもっと事態は深刻であると思います。
◆昨年3月に緊急時避難準備区域が解除された広野町は、住民約5000人の内の1割程しか戻っていません。インフラは整備されたものの、商店や医療機関がまだ十分でないため、多くが近隣のいわき市で生活を続けています。また、人数はまだ少ないようなのですが、4月からは小学校、中学校が再開される事となりました。子供が戻る環境を整える事は地域再生には不可欠ですので、復興に向けた大きな前進です。
◆このように福島第一原発周辺の自治体では様々な状況下で、住民も帰還か他地域への定住かの選択に苦慮しています。私自身、故郷に戻りたいという気持ちはあるものの、現実的にどうなのか、正直なところまだ判断が付きかねています。それでも出来ることを少しずつ、一歩づつ前へ進めていきたいと思っております。
★追伸:地域復興イベントの一環として、2月10日(日)には「第4回いわきサンシャインマラソン」に出場してきました。県内外から約5700人のランナーが集まり盛大に開催され、今年は故郷「ならは」の町名入りランシャツを着て、地元の元気をアピールしながら爆走してきました。(福島県楢葉町出身 渡辺哲)
■地平線通信2月号で被災地をめぐる2つのツアーが紹介された時「これだ!!」と思いました。仕事の関係で月曜は欠勤できないので、八木和美さんの金曜〜日曜のモニターツアー「東北2つの被災地から未来を見つめる旅」に即決。夜行バスを予約して木曜の夜に一路石巻へ。
◆思えば2年前の3.11の後、私の勤務先は皮肉な事に仕事量が一気に増加。東日本にあった同業のオフィス用品通販の会社が津波で流され、需要がまわってきたのです。通常、月60時間程度だった残業が見る間に増え、遂には残業100時間。社内での万歩計は2万8千超え。そんな中、地平線を通じて何度かボランティア等の募集がありました。
◆「既に子ども二人は社会人で、私に守るべきものはない。今の私なら行ける。行きたい!」女川のお寺での瓦の片づけの時は本当に胸が震えました。しかし気持ちとは裏腹に有給を取るどころか休日や早朝出勤が増え、過労から体調不良に。あんなに大好きだった自転車の旅にもう2年も出かけていません。呆然と日々を送るうちに2年が過ぎていました。
◆そんなくすぶった気持ちを抱えたままで参加した今回のツアー。初めて、映像ではなく自分の目で見る被災地。大川小学校から見る北上川の向こうに傾いていく白い太陽。バスの中から見るさら地や積まれた瓦礫の山。防災センターの上にかかる昼の三日月。「今更来ても遅いよ」とでもいうように私の胸に刺さりました。「あのとき、無理にでも来るべきだったんだ……」「後悔」の二文字に心が押しつぶされそうでした。私の一番キライな言葉。「してしまった」後悔ではなく「すればよかった」という後悔。
◆しかし、1日2日と現地の方の話を伺ううちに私の心から何かが剥がれるような感覚がありました。何より私を救ってくれたのは被災された人々の笑顔でした。重い現実や記憶をずっと背負い続けている、まだ見つからない未来をさがしもがいている彼らが「初めて来た」「何も知らない」「これからすべき事がわからない」という私を暖かい眼差しで受け止めてくれたのです。
◆自分の夢を語ってくれた人。指先の不器用な私に辛抱強く、厳しく。優しくつきあってくれたミサンガ作りを教えてくれた雄勝の仮設住宅のお母さんたち。「家が流されたから今はこっちに住んでるんだよ」と日常会話のように教えてくれた人。夜遅く外に出て寒さに震えながら瞬くたくさんの星を一緒にみたこと。宿にいた写真ぎらい(?)の人懐こい黒犬コロちゃん。
◆3日目、3.11とは別の宮城内陸地震のあった荒砥沢ダムのある栗駒高原に行きました。ブロックグライドという、地割れではなく、断層ごとに山がそのまま移動した場所です。あらわになった断層の迫力もさることながら、ダムを取り囲む山々の稜線は原野のような雄大な風景でした。この景色をまた見に来たい、もっと上の方まで登ってみたい、と荒砥沢ダムで雪の混じった強風に吹かれながら霧が晴れるように自分の気持ちが見えてきました。
◆実は数年前に一度国道4号から自転車で東北北上旅行を試みた事があります。そのときは福島まで。続きはまた、と思ったままそのままになっていました。今年はそれを再開したいと思いました。出発はその時、食べに行った駅そばのラーメン屋さん。そして石巻に行ったら今回泊まった宿に泊まり、できればツアーで出会った人たちに再会したい。
◆何も知らない。何ができるかわからない。でも、しばらくは月1回くらいのペースで休みに東北の旅を断続的にしたいです。そして、自分がほんとうにやりたい「何か」を見つけたい。「旅立つとき。それが旅立つべき時なのだ」誰の言葉か、この通りの言葉だったか忘れましたが、好きな言葉です。いま、私の中にある衝動。(石原玲)
あのエミコさんが3月はじめ、オーストラリアから帰国。骨盤内蔵全摘術という難しい手術で人工膀胱と人工肛門の状態にはなったけれど、元気いっぱい。移動は車いすなので東京には来られないが、3月29日(金)モンベル本社(大阪市西区)で報告会を開く。19時開演、20時30分終了予定。無料だが、予約必要。200名定員に達し次第、締め切る。申し込みなどは、モンベルのウェブサイトで。
■2012年7月に初めて訪れて以降、4回目の福島は、今まで受けた印象と、また違った。初回に受けた衝撃に比べるとショックが少ない。この光景に慣れてきていることが悔しい。2月10日〜11日に、「福島と宮城へ。今の日本をちゃんと見る旅。第2弾」を実施した。被災地への思いはあっても訪れるチャンスがなかった人と、被災地に通ってはいるけれどいつも作業に明け暮れて十分見たり聞いたりできていないボランティアの仲間に来てほしいと思って企画した旅だ。
◆今回の旅で最も印象深かったのは、南相馬の除染の問題だ。案内してくれた上條大輔さんが、除染が済んだ家をまわりながら説明してくれた。玄関から20m以内にある木は、地面から5mの高さまで枝を落とす。その範囲の地面は、表土を取って山砂を敷き、さらにその上にバラスをまく。黄色の上に灰色という色が屋敷を取り囲んでいるので、除染家屋はすぐわかる。それにしても高さ5mまでの枝打ちは、見ていてほとんど意味がない。木の中でいちばん放射線量が高く出る場所はもっと上にあるわけだし、5mという高さは屋根のすぐ上という程度。雨が降れば滴が屋根に垂れる位置に木が植わっている家も多く、またすぐ汚染されるんだとわかる。
◆除染作業から出た土壌・廃棄物の保管所が、集落ごとに設けてあった。白い壁で見えないように囲まれている。作業用出入り口から中を覗くと、トン袋と呼ばれる黒い袋に入った土壌・廃棄物が無造作に積み上げられ、傾いたり雪に濡れたりしていた。濡れれば汚染は広がるので、本当ならブルーシートをかけておかなければならない。
◆敷地内には大きなクレーンが一基あり、これでトン袋を並べ直すのだが、持ち込まれる量が多く、並べ直す作業が追い付いていない。トン袋には、白、黄、赤で
○印がつけてある。白は大丈夫、黄色は注意、赤は危険近寄るなという意味なのだそう。白い壁で目隠しをされると中でどういう状況になっているのか分からず、「見えない平安」より「不安」の方が大きいと思った。
◆福島では山の除染が決まった。木を1列おきに伐採し、表土を取るそうだ。人の生活エリアから出た土壌・廃棄物だけでこのありさまなのに、山の除染が本当にできるのだろうか。どれくらい意味があるのか、廃棄物をどこに置き、どう管理するのか。ちなみに、今、白い壁の中にある廃棄物は5年間保管することだけが決まっていて、その後どうするかは決まっていないそうだ。今置いている場所が、仮の仮の置き場所だという所もある。置き場を確保すること自体が相当骨の折れる仕事らしかった。
◆今回の旅でも、南相馬市小高区のJR小高駅前に広がる町を訪れた。去年の4月16日に「警戒区域」が解除され「居住制限区域」に指定されている地区。人の住んでいない町だ。夏や秋に訪れた時より通る車も少なくなり、より一層さびれていた。駅前の路上で乗用車が止まった。私たちのグループの女性に、向こうから声をかけてくれたらしかった。原発作業員の方だった。
◆彼は東電の下請けで働いていると言う。東電社員は、常に上から目線で、一緒に作業をすることはないそうだ。彼は、毎日50μSv/hほどの場所で作業をしているという。危険手当はもらっていない。ただただ責任感で仕事をしていると話していた。東電の偉い人がこの前来た時には、「こんな所めったに来られないから」と言って、3人で肩を組んで記念写真を撮っていったそうで、煮えくり返る胸の内を明かしてくれた。
◆作業現場では写真撮影は禁止されているとのことだが、内緒で撮った写真を数枚見せてくれた。彼は私たちに、「この事実を伝えてほしいんです。小高の町の現状も。ここで何が起きているかを伝えてください」と言った。東松島でお付き合いのある人たちも、「被災地の現状を伝えてください」「自分たちのことを忘れないでほしい」と言う。地震の起きる場所が違っていたら、自分が被災者になっていてもおかしくなかった。東北に行くたび、そのことを思う。この国に住む以上、「明日は我が身」であるけれど、事実もリスクも知らなければ、自分の身に置き換えることは難しい。ひとりでも多くの日本人に、この国の現実を知ってほしい。
◆被災地復旧の公共工事のことにも触れておきたい。東北沿岸部を車で走っていると、あちこちで工事をしていて、一見すると復旧作業が順調に進んでいるように思える。でも、地元の人に聞くと、ダンプは通常の半分しか荷を積まずに走っているそうで、「早くやろうと思えばもっと早くできるのに、時間を引き延ばして金を稼ごうとしているようにしか思えない」と言う。南相馬では、ラブホテルだったところが土建関係の作業員の宿泊施設になっていたり、仮設住宅と思いきや作業員専用の宿泊施設が建っていたりした。地元に雇用が生まれ、お金が落ちるかと言えばそういう構造にはなっていないのだ。儲けているのは元請けのゼネコンと、せいぜい1次の下請けまで。地元業者は1次の下請けにも入れない。
◆東北被災地や原発の問題を見ていると、「要するに金儲けなのね」と思ってしまう。「東日本大震災は金儲けの道具になりさがった」。被災地を歩きながらこんな言葉が自分の頭に浮かんでくることが悲しい。自宅を再建するにも、今は「高くても売れる」状況であるがゆえに価格は高騰していて、被災者はますます苦しい。復旧・復興って、誰のためのものだろう? 事実を知れば知るほどむなしくなる。今の時代、知らない方が楽に生きられるんだと思う。どう生きることがより良いんだか、分からなくなる。厳しい時代を生きることになったなあ。いつまでもつか分からないけど、がんばれる間は目をつぶらずにいたいと思う。(岩野祥子)
■東京荒木町で迷った。13年前まで頻繁に通った場所である。「江本さん、明日11時にうかがいますね」。ここを左に曲がって、次は右に入るはず。あれ、ここでいいんだっけ? あれれ、部屋番号は?、何度も江本さんに電話で確認してしまった。やっと到着。13年ぶりだから、麦丸とは初対面。「わからないんだったらちゃんとそう言いなさいね。自信たっぷりに行きますなんていうから、もう。野生の勘がなくなっちゃったんじゃないの。それに、遅れるなら連絡入れなさい」とお叱りを受け、自分でもがっかり。
◆でも、たどり着いたときに思い出したのは、今日迷った地点は、東京に住んでいた時も、いつも間違えていた所だったってこと。なぜか、迷った記憶だけが残っていたのであった……。シオシオしている私に、圧力釜で炊いたエモ炊き込みご飯と貴重な原味噌汁(原健次さんが仕込んだ味噌を使用)、さらにエモカレーベジタリアンバージョン、エモ浅漬けをごちそうしてくださった。ぜ〜んぶ旨い! 江本さん、ありがとうございました!
◆今日、3月10日、東京にいます。卒業式で生徒を送り出し、やったぁ!自由だぁ!(とはいっても、授業が全部終了したわけじゃないけれど)久しぶりの上京。映画をゆっくり観て、美術展でうっとりして。花粉攻撃にはまいっちゃったけれど、脱原発集会とデモに参加。江本さんからは最近の地平線会議のお話を聞かせてもらって。やわらかくて刺激のある、東京でのこんな時間は私にとって、とても大切。というのも、勤め先の特別支援学校高等部で、知的障害がある高校生相手に、毎日のように「就職、就職。そして、長くお勤めしなさいね」なんて、もっともらしい話をしているからだ。心苦しい……。
◆授業は実践的なことを中心に、いろんな教科を担当している。作業学習、生活単元学習、体育、音楽、国語。作業学習は、染色、陶芸、木工、調理のグループに分かれ、製品を作りながら会社の仕組みを学ぶ授業。私はもちろん染色工芸班で、生徒と一緒に染織製品を作っている。指示を受けた作業を仕上げたら報告し、次の指示を仰ぐ訓練(!)をしている。
◆挨拶や返事も確認する。厳しい授業だけれど、出来上がった製品はかわいい!と評判。生活単元学習では、簡単な調理や縫製、生活にかかる費用や社会保険について、それに性教育も。受け持ちの軽度障害のクラスだけでなく、音楽や体育では重度障害のクラスを担当。十代の頃に熱中したギターが役立っている。
◆たまたま始めた仕事だけれど、悪くはない。障害者をひとくくりにせず、個々につきあえるようになった。穏やか、根気強い、攻撃的、意地悪、まじめ、自分勝手、当たり前のことだけど、いろいろなタイプがいる。正直、苦手なタイプもいる。理解力が十分ではなく、言葉で伝わらないもどかしさもある。社会的弱者はすべてが善、というわけではないから、困ったことも起きるが。生徒の行動に社会の側面が現れている気がして、興味は尽きない。
◆東京での、やわらかい時間とともに大切なのが、地元での活動。故郷の高山へ戻ってから、いろいろ関わってきたけれど、2年前の震災後は、行動しなくては何も伝わらないし変わらないことを実感。思いついたものを実行に移し、仲間と活動してきた。原発被災者の方のお話を聴く会や内部被ばくについての学習会、脱原発ウォーク、自然エネルギー映画上映会とシンポジウム、ちょっと偏ってるかも……。でも、動き出せば賛同してくださる方のなんと多いこと! そしてつい先日、またひとつ上映会があった。
◆3月3日日曜日、「石巻市立湊小学校避難所」上映会を飛騨高山で開催。監督の藤川圭三さんとは昨年夏の地平線報告会でお目にかかった。藤川さんの大学の同級生(高山在住の方)が実行委員会を立ち上げるのを知り、加わることに。実行委員会の皆さんの営業力が素晴しくて、2回の上映で800人近い方々に観ていただけた。1回目はなんと立ち見も! 藤川さんによると、地方での上映会では一番の入りだったとか。震災直後の石巻の写真展示、アニマルレスキュー活動の紹介、宮城の物産コーナーも設け、充実した催しとなった。
◆アンケート回収率も高くて感激した。概ね「なによりも、忘れないことが大切」という意見であった。藤川さんと高山へ避難されている方との対談も印象的だったようだ。飛騨高山の生の声を、とにかく全部監督にお渡しする予定。山田和也さんの「プージェ」も「土徳」の青原慧水さんの一連の作品も、皆で観たいんだけどなぁ。きっとこれから、繋がっていくはず。
◆出版されたばかりの藤川さんの著作に、工藤弘子さん(映画の中で、合唱ボランティアをけちょんけちょんの辛口女性)の言葉があった。「自分の地元で友達がいないとか、仲間が作れないとか、人間関係がうまくいかない人にとって、被災地はお祭りの場所なんですよね。……和気あいあい仲間になって楽しめる場なんだよね……」ドッキリ。大丈夫かな。震災をきっかけにした活動で、自分の居場所作りをしていないかしら? 楽しんでないかしら?
◆被災地を祭りにして楽しむのは、自分探しの旅と似ているかもしれない。私にはよくわからないけれど。自分の目で見たくて確かめたくて、旅をしてきた。なかなか旅に出られない今、住んでいる町をもっと心地よくしたくて動き回っている。(地平線文章教室に長年通っている中畑朋子 高山市住人)
■今年3月で407回目の報告会を迎える地平線会議。私が阪神淡路大震災の記録映画製作の報告をさせていただいたのは、1996年12月、205回目でした。407回から振り返ると中間点あたりです。年数にすると17年前。さらにその18年前、私は地平線会議誕生の前夜に立ち会っていました。
◆1978年、東京中野区。故岩下莞爾氏邸で年に1〜2度の懇親会が開かれていました。岩下氏は、山岳、探検ドキュメンタリーのディレクター・プロデューサーとして高名な方でしたので、宴席には当時活躍中の登山家、探検家、辺境ジャーナリストの方々がきら星のごとく並んでいました。酒を酌み交わしながら、各々の活動を報告しあったり、これからの計画についての情報を集めたりする、情報交換の場でもあったようです。
◆当時の私は、駆け出しの演出助手。岩下さんの下で働いていたので、手伝いに呼ばれたのだと思います。その席で初めて、江本嘉伸さんにお目にかかりました。熱弁をふるっていました。「海外渡航の自由化以降、多くの若者が海外で登山、探検、独創的な旅を行っている。その記録を共有できる場を作りたい」と、お酒が回り機嫌が良くなっている面々からカンパを徴収し始めたのです。
◆列席しているのは、山岳、探検界の中堅の方々。江本さんの発言の趣旨はすぐに飲み込めます。さらに、宴席という連帯感も加わっています。カンパを求めるには、これ以上のタイミングはなかったでしょう。こうやって、江本さんの熱意が多くの人々を巻き込んでいったのでしょう。1年を待たずして地平線会議が発足していました。
◆当時はインターネットどころか、コンピュータを個人が持つことさえ想像できない時代。海外での活動を夢見る者がもっとも心を砕いていたのは、情報収集でした。当時のベストセラー「知的生産の技術」(梅棹忠夫著)や「発想法」(川喜田二郎著)は情報整理、情報処理の方法を説いたものでした。皆、情報に飢え、情報の掴み方に悩んでいましたし、情報整理にも四苦八苦していたのです。情報が集まる場所は限られていました。
◆宮本常一先生が主宰されていた日本観光文化研究所がフィールドワーカーたちの梁山泊的な場として存在していましたが、一般に開放された情報源なんてほとんど存在しなかったのです。一方、活動報告をする機会も限られていました。出版や放送のチャンスが皆に与えられるわけはなく、多くの者が発表の場を求めていました。35年前は、インプットもアウトプットも今では想像できないくらい困難な時代だったのです。地平線会議が多くの人々に歓迎されたのは、そういう時代背景があったからではないでしょうか。
◆さて、話は岩下邸にもどります。宴がそろそろお開きに近づいたとき、江本さんの目が私に向けられました。「君は山岳部?」と単刀直入なお尋ね。「いえ、探検部OBです」と私。にっこりした江本さんが、「OBならカンパしなさい。素晴らしい情報交換の場ができるんだから」カンパの額は、一口1万円と決まっていました。貧乏な演出助手にとってはかなりの痛手です。
◆しかし、仲間だと思ってもらった嬉しさと誇らしさのほうが勝っていました。登山、探検、冒険、世界放浪の旅。地球の果てに行くことを夢見る者達のサロンができるのか、それなら素晴らしい。そういう高揚感のなかで(お酒もたくさんいただいていましたが)財布に1枚だけ入っていた1万円札を差し出したのです。407回を迎える地平線会議の誕生前夜に、ほんの少〜し関わらせていただいたという自慢話でした。(「puujee」監督 山田和也)
★この場を借りて、宣伝させてください。拙作のドキュメンタリー映画「puujee」が再上映されます。http://puujee.info 国立科学博物館【特別展】<グレートジャーニー 人類の旅>
連動上映:http://gj2013.jp/
劇場:ポレポレ東中野(JR東中野駅駅前)
期間:3月30日(土)〜4月5日(金)
開映時間:20:00〜 連日関野吉晴さんと多彩なゲストとの対談があります。
■先月の通信でお知らせした以後、通信費(1年2000円です)を払ってくださった方々は、次の皆さん方です。ありがとうございました。時に記載漏れありますので、その場合は必ず、江本あてにお知らせください。アドレスは最終ページにあります。
上延智子/藤原謙二/堀井昌子/小長谷雅子/ 河野典子(10000円)/中澤和子(10000円「今までの未払い分+カンパです」)/米山良子 /北田雄夫/向文代/伊沢正名(4000円「通信費2年分送ります」)/西嶋錬太郎/小高みどり/高松修治/辻野由喜/菅原強/弘理子
地平線通信406号(2013年2月号)の印刷、発送は2月6日に行いました。降雪予報が出て助っ人の手数が心配でしたが、以下の方々が参じてくれ、無事終えることができました。ありがとうございました。
岡朝子 森井祐介 落合大祐 江本嘉伸 石原玲 杉山貴章 八木和美
■今年も真っ白な雪の世界になりました。伊南川からこんにちは。先月の通信で、山形の網谷由美子さんの記事を読み「そうかそちらも……」と同感。(日々のニュースでは、北海道や青森の記録的な桁違いの豪雪も見られますが)。伊南周辺も昨年の12月10日頃からの雪で一気に白銀の世界になり、年末年始には「今年は(雪も)少ねぇか?」なんて声も聞こえました。
◆が、立春の声を聴くころから、やはり降ってきました。伊南川の下流にある只見町(ただみまち:新潟との県境)では、過去最高の積雪で、街中の道路も4メートル近くの白い壁に覆われ、町内で最も雪深いといわれている蒲生(がもう)地区では、大型バスの屋根も越える程の高さ(5メートル近く)になっています。「毎日、黒部渓谷(富山県)を通っているみたいだなぁ」と同僚と会話しつつ、この辺りの温暖化の影響は何処へ? と語り合っています。
◆実は今年、支援員として勤務している中学校は統合前の大改築がありました。猛暑の夏休みに一度引越をし、新しくなった校舎に2月23日の土曜日に再び戻ってきました。保護者、生徒、職員ら総勢200名近くの人員で、夏は滝のような汗を流し、先日は猛吹雪の中での作業でした。体育館脇に積もった雪は屋根からの落雪も合わせて7メートル以上にもなっていて、校庭も4メートル近い雪山が出来ていました。
◆春(5月)の連休明け、サクラの季節には校庭の雪も消えてしまいますが、4月の入学式、校舎は白い山と雪解けの水たまりに囲まれているでしょう。ちなみに、こちらでは卒業式、入学式の保護者は、着物やフォーマルスーツに長靴という姿が定番です。引越後に出勤したら、新校舎の水道管は凍結していました。おまけに3時間目に灯油はなくなり、校内の暖房も使用不可、防寒着と帽子をかぶり白い息を見せながらの授業でした。
◆その日はマイナス10℃を上回る気温。窓の外に耳を澄ませば、山奥から地吹雪のような『ごぉ〜』っという音が聴こえ、改めて驚かされたり……。徳島生まれの私も、今では2メートル以上の白い壁を通り抜けながらの通勤や、吹雪の中の買い出しも日常になっていますが、やっぱりこの土地の冬の『寒い・冷たい・痛い』はツラく感じる時もあります。
◆そんな中、時々見られる青空や、太陽の光に感謝できたり、白銀の美しさに感動できる気持ちが元気の源かもしれません。まだまだ天気予報は雪だるまが顔を見せていますが、雪どけ後に訪れる新緑を心に描きながら、もう少し続く「白い世界の暮らし」と向き合っていきます。(まだまだ氷点下の伊南から……3月1日 酒井富美)
■関野吉晴さん監修による「グレートジャーニー 人類の旅」特別展が3月16日上野の国立科学博物館で開会、6月9日までの約3か月間の長期イベントとなる。毎日9時〜17時の開館で月曜日は休館。入場は、一般・大学生は1,500円。小中高校生は、600円。
この企画をできるだけ多くの人々に見てもらいたく、4月の408回地平線報告会は、この会場で関野吉晴さんの話を聞かせてもらう計画です。詳しくは決まり次第あらためてお伝えしますが4月26日の金曜日の予定。
なお、この展示にあわせてなんと6冊もの新たな本が生まれる計画。
「グレートジャーニー探検記」(徳間書店)/「海のグレートジャーニーと若者たち 4700キロの気づきの旅」(武蔵野美術大学出版局)/「地球ものがたり 海のうえに暮らす」(ほるぷ出版)/「舟をつくる」(徳間書店)/特別展「グレートジャーニー 人類の旅」図録(国立科学博物館)/「山折哲雄、藤原新也、池澤夏樹、島田雅彦、服部文祥、井田茂、池内了、山際寿一、船戸与一氏との人類のこれからをめぐる対談集」(東海大学教育研究所)など。
■「地平線通信2月号」の青木明美さんの記事は、じつに興味深く読ませてもらいました。日揮のみなさんにはほんとうに良くしてもらったのですね。ハシ・ルメルのガス田のプラントだと思いますが、分岐点から国道1号をもう3、40キロも走れば、ガルダイアのオアシスに到着していただけに残念でした。1990年代に入ってからのアルジェリアは内戦状態に突入していたので、日揮の対応も、日本大使館の対応も仕方なかったのでしょうね。
◆ぼくが初めてバイクでサハラを縦断したのは1972年。ナイジェリアのラゴスからアルジェリアのアルジェまでの6000キロをバイクで走りました。日本人ライダー初の「サハラ砂漠縦断」を成功させると、日本大使館でバイクをあずかってもらい、3か月あまりをかけて今度はヒッチハイクで2ルートでサハラを縦断しました。真夜中、サハラ砂漠のド真中を歩いていても車に乗せてもらえたほど、アルジェリアは安全な国でした。
◆1988年にはバイクでの「サハラ砂漠往復縦断」を成功させましたが、このときもアルジェリア内の2本のサハラ縦断路を走りました。サハラでは野宿でしたが、治安に不安を感じることは一度もありませんでした。そんな安全なアルジェリアが1990年代に入り、一気に内戦状態に突入したのには正直、驚かされました。
◆内戦終結直後の2004年にアルジェリア内のルートでサハラを縦断したのですが(ぼくにとっては14度目のサハラ縦断になります)、以前のような安全なアルジェリアではなく、各所に軍が駐屯し、サハラ縦断路には検問所があちこちにでき、とくに治安の悪いエリアでは軍の護衛のもとで走るというような状態でした。まだまだ臨戦体制下にあるといったアルジェリアでした。
◆ところで青木明美さん、旧姓生田目明美さんとは、東京の旅行社「道祖神」のバイクツアー、「賀曽利隆と走る!」で一緒にチベットを走りました。聖山のカイラスを目指したのです。ラサに着いたのは1999年8月3日。ポタラ宮に隣り合った「航空酒家」に泊まりました。
◆チベット人ガイドの女性からは英語で「今日は絶対にアルコールを飲まないで下さいね」と念を押されたのにもかかわらず、ラサに着いた喜びで夕食後、「もう、トゥデイ(今日)じゃなくてトゥナイト(今夜)だから、さー飲もう!」と「ラサビール」で乾杯。さらに次々と「ラサビール」をあけました。ラサは標高3650メートル。この高度で何本ものビールを飲んだせいで、翌日はすっかり高山病にやられてしまいました。息苦しさや頭痛だけでなく、40度近い高熱まで出たのです。
◆翌々日、中国製125ccのオフロードバイクにまたがり、ポタラ宮前の広場を出発。チベット第2の都市、シガツェに向かいました。その間は270キロ。ぼくの体調は最悪でウツラウツラ状態。シガツェは標高3836メートルで富士山よりも高くなります。高山病はよけいにひどくなりました。当時はシガツェを出ると際限のないダートがつづきました。
◆シガツェを出てからわずか27キロの地点で、先頭を走っていたぼくは道のギャップがまったく目に入らず、ノーブレーキでそれに突っ込んだのです。バイクもろとも30メートルほど吹っ飛び、恐怖の顔面着地。しばらくは意識を失いました。気がついたとき、最初はバイクでサハラを走っているのではないかと思ったほどです。「今、チベットに来ている」と、わかるまでには相当、時間がかかかりました。すぐにかけつけてくれたサポートのチベット人スタッフたちは、ぼくがピクリとも動かなかったので、「カソリさんが死んだ!」と思ったそうです。
◆しかしこのあたりが、今までに何度も修羅場をくぐり抜けてきた「不死身のカソリ」の強みというもので、起き上がると、自分で自分の体を確かめました。首を強打したので、首はほとんどまわらない状態でしたが、骨は折れていないと判断しました。顔面血だらけでしたが、これも口の中を切ったもので、そうたいしたことではないと判断しました。顔面着地した瞬間に吹っ飛んだヘルメットのバイザーが絶好のクッションになってくれたのです。
◆顔面を地面にたたきつけたとき、無意識に顔を護るために、右手で地面をついていました。そのため右手首がみるみるうちに腫れ上がりましたが、これも「骨折はしていな」との判断。バイクのダメージも大きく、チベット人スタッフたちはグニャと曲がったフロントホークを外し、ジャッキを使って直したりして、短時間でなんとかまた乗れるような状態にしてくれたのです。
◆このような状態で4000メートル級の峠をいくつも越えていったのです。メンバーの大半が高山病で青息吐息の中、生田目明美さんはまったく普段通りで元気そのもの。信じられないほどスゴサでした。夜になると、ぼくの目の前でビールを飲みながら、「どう、カソリさんも、飲む〜」と誘ってくるのです。このときのカソリは生きるか死ぬかのような状態で、東京に戻るまでビールはもちろん、一滴のアルコールも飲めませんでした。
◆それから10年後の2009年には「チベット横断7000キロ」を走りました。敦煌から南下し、長江の源流地帯を通り、風火峠(5010m)、タングラ峠(5231m)、第二九山峠(5170m)と、3つの5000メートル級の峠を越えてラサに到着しました。5000メートル級の峠を越えた後のラサでは、「えー、こんなに空気が濃かったのか」とビックリ。ラサからは西へ、西へ。ギャムツォ峠(5248m)を皮切りに全部で6つの5000メートル級の峠を越え、中国西端の町、カシュガルへ。この2009年の「チベット横断」はカソリのリベンジ戦のようなもの。カシュガルのエイティガール寺院前の広場に着いたときは、「どうだ、生田目明美よ!」と、日本の空に向かって叫んでやりました。ということで青木明美さん、子育てが終ったら、今度は一緒にサハラを走りましょうね!(賀曽利隆)
■ごぶさたです。ヒザも腰も炎症ひどくボロボロで、鎮痛剤はもはや常備薬。日に日に悪化してゆくけれど、今冬もカナダ中央大平原でソリを引いてスキーで旅をした。この地を訪れるのは、かれこれ7回目になる。さらに今回もまた途中で断念となった。恒例の酷い凍傷を患う。ちなみにカナダ中央大平原では、計画どおりにいったことは1度もないから7戦7敗ということになる。
◆今回は地元の人も「今冬は異様に寒い」というほどの条件だった。案の定、頬に酷い顔面凍傷を患う。その日、温度計はマイナス40度めいっぱいまで下がっていた。すさまじい北風が吹き荒れていた。手の指も凍傷でスキーのストックが握れなかった。低体温症も併発してふるえがとまらなかった。そしてその日の夜から凍傷を患った頬がまっ赤に変色して腫れた。ついでに目のまわりも腫れあがり、とうとう目が見えなくなった。凍傷においては利き手さえ守れば、テントも張れるしコンロも使えるので命は守れるとよくいう。しかし目がやられたら何もできない。
◆不幸中の幸いだったのは、見えなかったのは右目だけだったこと。たぶん風向きの関係だとおもう。左目というか左顔面もそれなりの凍傷だったけれど、視力の障害までにはいたらなかった。というわけで丸々2日間凍ったテントで停滞。このときもう1つ不幸中の幸いが重なった。町まで至近距離だった。それなりに騙しだまし歩き、半日ほどで町についた。町に1つだけあるクリニック(診療所)では、なぜかエジプト出身の陽気な女医さんが勤務していた。
◆ちなみにカナダは移民大国。政治を牛耳っているのはフランス系とイギリス系だが、民族はアジア系や中東系などさまざま。すこし大きな町の図書館に行くと量こそすくないけど、あらゆる言語の本が置いてあったりする。いろいろな民族がいるので、寒い土地にエジプト出身の医師がいてもそれほど驚くことではない。日本の中華料理の店で、中国人学生がバイトしているようなもの。
◆しかし暑い国からやってきた医師だけあって、凍傷の知識はお世辞にも詳しいとはいえない。ちなみにカナダでも日本でも、重度の凍傷に対応できる医師はひじょうにかぎられる。それでも抗生物質入りの軟膏や包帯などをタダで出してくれた。なによりも嬉しかったのは、その女医さんがなにがなんでも旅をやめろといわなかったこと。
◆町に4日ほど滞在すると、目はなんとか見えるようになった。頬の腫れはしだいにひいてきた。もちろん壊死部分はまっ黒だけど、痛みもだいぶやわらいだ。凍傷がさらに悪化するのは百も承知。でもここで断念したら一生悔いが残る、というのはこれまでの経験でもあった。再出発して1時間足らずで断念するのか、1日はなんとかなるのか、あるいはさらに行けるのか。誰にもわからない。とにかくふたたびスキーを履いてソリをひいて歩きはじめる。でもやっぱりダメだった。わずか半日で引き返す。頬に風を受けると脳にひびくような痛さ。なによりも風に当たることが怖かった。迷いはなかった。潔く断念決定。期間2週間余、踏破距離200km。これが自分の精神と体力の限界だった。
◆さて今回は断念したけれど、気分はなぜかスッキリしている。きっとそれなりに全力を出せたのだろう。あのときああすればよかったのに、といった悔いはない。結果はさておき、とにかくやれるところまではやった。余談だが自分の行動は成功率がきわめて低い。断念がつねで、ごくまれに成功するというのが定番である。厳冬カナダ通いは15回目になるけれど、充足感を得られるのはそうそうない。あのときもっと勇気を出して前へ進むべきだった、と旅を終えるとともに後悔するほうが多い。不思議なことに、成功したときほど充足感はすくない。おそらくハードルの低すぎる計画だったのだろう。やたらと計算高くなってしまったともいえる。その結果、予期せぬアクシデントも起きない。物事がスムーズに進むと、たしかにムダはないけれど同時にドラマもなくなる。失敗するのとドラマが起きるのとは紙一重かもしれない。
◆ところで「やれるところまではやった」と思える旅もそれなりにある。1998年厳冬季カナダ・ロッキー山脈スキー縦走(山中で骨折、痛み我慢してなんとか自力下山)。2001年 厳冬季カナダ・セルカーク山脈スキー縦走(偵察時にクレバスに落ちる)。2007年 厳冬季カナダ・ウイニペグ湖スキー縦断(鼻の酷い凍傷、切らずにすんだ)。2008年 厳冬季カナダ中央平原自転車縦断(足の指の酷い凍傷、のち両親指壊死部分切断)。そして今回の厳冬季カナダ・ウイニペグ湖スキー縦断(頬の酷い凍傷。その後どうなるか不明)。いずれも濃密な時間だった。自分はいまたしかに生きているって実感した。そして自分の弱さも限界も突きつけられる。言葉にするのはむずかしいけれど、きっとそのとき旅の頂点に登りつめていたのだと思う。
◆いずれにしても今冬のカナダの旅に悔いなし。あくまでも今冬は。そして来冬もまた新たなるなにかに挑むのだろう。もしかしたら今回はヤバイかな、というあの緊迫した独特の感覚。麻薬のように中毒になっているのかな。あと10回くらいそんな体験をすれば、自分は悔いなく人生の幕を閉じられるのかもしれない。(田中幹也)
■バラバラバラバラとくぐもった音を立てて、黒い影が牧場上空の日射しを一瞬遮った。大工仕事の手を止めて見上げた空を、ずんぐりと不格好な飛行機が横切っていく。真下から機体の形がはっきり見える低空飛行。ポカンと口を開けた間抜けな顔がパイロットから視認できたかもしれない。数日前はもっと遠くの空を二機編隊で飛んでいた。一緒にいた外間昇さんが「オスプレイだねー」と当たり前のように言う。「いつもは隊長機と一緒に編隊を組んでるけどねー」という言葉をフォローするかのように、さらに二機が後を追った。ここ浜比嘉島は普天間基地から30キロも離れていない。最新鋭の米軍輸送機にとってはエンジンひと噴かしの距離だろう。
◆かくて「住宅街の上は飛ばない」はずのオスプレイから飛行士が日々眼下に望む浜比嘉島の比嘉集落では、沖縄県内でも珍しくなった旧正月の行事が、今も慣習的に行なわれている。今年の元旦は新暦の二月十日。まだ夜明け前の朝6時、内地のこの時期では考えられないほど生暖かい空気の中、ラジオからは新年を寿ぐ沖縄の民謡が。「いいそーがち(良い正月)でーびる」と新年の挨拶を交わし、昇さんと「ハマガー」井戸に若水(わかみず)汲みに出かけた。
◆「わかげーらちくみそりよ(若返らしてください)」と唱えつつ、三回顔を洗い、洗った顔は拭わない。若返ってぴちぴちになった肌の水滴がぬるい風に乾いて心地良い。7時近くにようやく東の空がうっすらと明るみ、やがて水平線にかかる雲間から御光のような光が射して新年が明けた。
◆午前9時頃から、村の顔役の一行が12か所の祈願所を回り、一年の無事を祈る。島の日常では見かけない背広姿がハレの日を意識させる。長老の一人“松村のおじい”が呪文のような言葉をつぶやきながら祈り、お神酒と塩を捧げては次の場所へ。ヌンドゥンチと呼ばれるノロ(女司祭)の家の拝殿からはじまり、火の神様や井戸など決められた祈願所を昔ながらの順に回るのだ。一行の後を村人の他、本島から来た取材者など10名ほどが一緒に歩いた。付き歩くおじい達は親切で、祈りの声に頓着せず大きな声で解説や昔話をしてくれる。行事の邪魔じゃないかとヒヤヒヤするが、誰も雑音など気にしない。
◆新年祈願のハイライトは、シルミチューという大きな礼拝所での儀式だ。祈願場前の狭い広場には、すでに100名程の人々がひしめいていた。祈りの後に奉納される唄と踊りを心待ちにしているのだ。こうした場では外間昇さんと晴美さんは三線引きのホープとして欠かせない存在だ。乾いた三線の音や、どこかユーモラスな太鼓のリズムはいつもと同じなのに、声明のように空気を振るわす声にぞくっとするような神聖な気配を感じる。
◆でもやっぱり最後はカチャーシー(陽気な踊り曲)になり、元気なおばあが飛び入りで踊りまくる。沖縄の神事には聖と俗があっけらかんと混じり合う。正月二日は「ハチユクシ」という漁師のお祝い、三日は「カミネントゥー」という巡礼祈願など、正月行事はこの後数日に渡って続く。家々の門口にササ竹や門松が飾られ、実家を訪ねる里帰りの家族もちらほら。仏壇に誇らしげに積まれた「お歳暮」が路地からも窺え、正月気分が島全体にほのかに漂う。
◆そもそもこの時期に島を訪れたのは、2月17日の沖縄マラソンに出るのが目的だった。「どうせなら旧正も」と晴美さんに勧められて約二週間の滞在に。「レース前10日も現地で練習すれば、少しは走りが違うかも」と一石二鳥の期待も抱いての居候だ。ところがどっこい、である。外間家の仕事はヤギ飼いが本業。動物相手の仕事は忙しく、日々の世話はもちろん、小屋の増設、補修、台風の後始末等やるべき仕事は常に山積み。今回も納屋の改装や作業場の整理、馬の調教モドキなどに熱中した。
◆中でも馬とのつきあいは印象的だ。外間家ではシュンと名付けた与那国馬を昨夏から飼っている。推定二才、小型の在来馬とは言え体重200キロ近くの一馬力。恐れずつきあうためにはルールを共有しなくてはならない。馬は繊細な動物で、人のボディランゲージを実に細かく見ている。
◆思い通りにならない焦りを馬にぶつけても、その真意を見抜かれる。「今の叱り方には腹いせが混じってない?」と師匠のK君に指摘されては恥じ入る。相手に投げかけた心が自分にそのまま跳ね返ってくる様は、子持ちの友人曰く「子育てと全く同じ」だそうだ。朝と夕の短い時間だけの調教の真似事経験が深く心に刻まれた。
◆沖縄マラソン大会当日の気温は24度。結局ろくに調整練習もせず、前日までしっかり牧場仕事だが、気のせいか体は軽い。中間地点で1時間50分。ここまでは意外に順調で、調子に乗って先月の通信で読んだ神長さんのタイムを思い浮かべる。もともと神長さんの足下にも及ばないスローランナーだが、体調を崩された後のタイムには並べるかも……?
◆フルマラソンでは、練習量は30キロ以降の走りに直結する。果たして今回も28キロくらいからガタガタとスローダウンし、35キロ過ぎでは痙攣が起きて3キロくらい歩く。神長さんのタイムは遥かに遠ざかり、結局4時間30分でゴール。やっぱり現地の水に馴れただけではダメなのであった。
◆翌日リハビリを兼ねての野良仕事中、チェンソーで伐った大木が跳ねて足の甲に当たる。木が足の上に落ちて行くのがスローモーションのように見えたのに、筋肉痛で咄嗟に避けられなかったのだ。内出血でお餅のように腫れ上がった、まさに同じ箇所を、その翌朝シュンの前足で踏まれた。靴が履けず、サンダル履きで帰り着いた東京は吹雪だった。どっとはらい。(長野亮之介)
■丸山純さんが編集者となって、2011年に亡くなったウルトラランナー原健次さんの本ができた。3月6日、その本の発送作業を、宇都宮の原さんの自宅で奥さんの典子さんの手料理をいただきながら行なった。
◆江本さんに「とにかく書斎の本の量がすごいんだよ。あれは見るべきだ」と誘われ、江本・久島・丸山・武田・長野・車谷・落合という豪華メンバーの末席に加えていただく。8人のうち久島さん・落合さんは車で直接現地に向い、残りは電車だ。
◆江本さんより事前に「新宿から湘南新宿ラインのグリーン車だから、スイカで入ってグリーン券はホームで買うように」と丁寧なメールをいただいてはいた。しかし……僕は生まれてこのかた、グリーン車なるものに乗ったことがない。ホームで買えといわれても、いったいホームのどこで切符を売っているのか? そんな小さな疑問におびえ、結局20分も早くホームについてしまった。切符はなんなく買えた(950円なり)。おかしかったのはホームに集まった6名のおじさんのうち、なんと3名が初グリーンだったこと。いったいどういう集団なんだ、これは。
◆「グリーンは、な」ベテラングリーン(といっても短距離だが)の江本氏の講釈に初グリーン組は「なるほど」とうなずく。ビールを飲みつつ世間話をしているうちに何の加減か地平線にはB型が多いという女子高生みたいな話になった。確認してみると6名のうち4名がB、と確かに不自然にBが多い。Aの江本さんが「俺の人生はBの奴らにふりまわされてきた人生だった」との暴言に、Bグループが一斉の反論。楽しく酔っ払いのおやじ談義をしているうちに正午すぎに電車は宇都宮についた。
◆この町に来るのは原健次さんの葬儀のとき以来だ。見覚えのある駅前の景色に、あの日の気分がよみがえり気持ちは沈んだ。正直に言うと、僕は原さんが苦手だった。それは原さんがどんな時でも完ぺきであり続け、ほんのささいなマイナス面すら見せないからだった。地平線には巨人が多々いる。でも巨人は巨人であるがゆえに強烈なアクがあったり、偏りが激しかったりする。ところが、原さんにはその隙の部分が見えない。原さんはいつも優しく親切で面倒見がよくて まるで歴史上の偉人が目の前にいるようで、それでいて近づけない。だからこそ余計に気になる人でもあった。
◆電車の中で「これは今しか見せられないからね」と江本さんが原さんの手帳を出してきた。そんなプライベートなものを見てもいいのだろうか、と思いつつ、ページをめくる。毎日の行動予定と、その日気づいたことを丁寧な文字で書き記した手帳は誤字脱字がないだけではなく、マイナスの言葉はやはり一文字もない。だれかに見られることを前提として書かれたように、どのページを開いても手帳は正しく美しかった。
◆僕にも自分の旅の記録を綴った日記があり、文章を書くときはそれを見直す。それは本音の塊で、人に見せられるものではなく自分が死んだら、同時にこの世から消してほしいたぐいのものだ。日記ほどではなくても手帳も同じ。個人の記録とはそういうものではないのか。べつにあらさがしをしたいわけではない。もっと原さんのことを知りたいだけだ。なぜ原健次はどこまでいっても美しいのだろう。
◆原家では奥さんの典子さんの手料理をいただいた。料理はどれもこれも素晴らしく、特に鯛めしはこんなにもおいしいものなのか、どんな調味料を使っているのか聞きたくなるほどだった。ふと見ると目につくところに僕の本も置いてくれている。「ロスからニューヨーク走り旅」ができたとき、すでに原さんはいなかった。典子さんに送っても困るのではと思いつつも送らせていただいた本だった。
◆食後、今日の目的である発送作業にとりかかる。歴代通信編集者せいぞろいなので作業は順調に進み、2時間ほどで梱包された本の山ができた。運送業者が来る前に、原さんの世界を見せてもらう。本・本・本。研究用に集めた新聞の切り抜き、年代順に並べられたアルバム、化石、各国の小物、切手。想像を超える膨大な量。そのすべてがおそらく決められたあるべき場所にある。この家は確かに原健次の森だ。
◆森にあるモノは森にあることにおいて意味を持つ。この森から原健次のモノを持ち出してしまうと、それはたちまち魔法が解けて、ただもモノになってしまう。かといって主なき今、世界中から集められたモノたちが一緒に居続けることは至難の業だ。どうすればいいのだろう。記念館……なのか。
◆それから慌ててお墓にもまいらせてもらった。業者に荷物を引き渡すころにはすでに日も暮れ、空には星がまたたいていた。宇都宮は都会とはいえ東京より空気はきれいなのだろう。いつも見る星より数も多いし明るくもある。「今日中に終わってよかったですね」と隣にいた久島さんに話しかけて、お互いに微笑むが笑みが弱い。さみしかった。もっと原健次さんのことを知りたかった。(坪井伸吾)
■2年前、急逝した原健次さんの遺稿集「原健次の森を歩く」が完成した。典子夫人の意を受けて地平線会議の丸山純さんが制作した304ページの力作。原さんが書き残した多くの原稿、エッセイ、書簡、論文などがまさに深い森を形成し、原健次を知らない者にも興味深い一冊となった。
◆章立ては、「はじめに─森歩きの始まり」(丸山純)第一章「風とともに走る」第二章「世相と人を見つめて」第三章「森と庭で遊ぶ」第四章「光と花を追いかけて─ウルトラじーじ欧州花追いラン」第五章「地層の結び目をたどる」第六章「不思議の男、原健次」(江本嘉伸)第七章「原健次を偲んで」「駆け抜けた道 原健次・年譜」「あとがき─原健次の森を歩く」によせて(原典子)、となっている。
◆書斎の写真、整理されたアルバムなど意をつくした解説とともに紹介される原健次さんの世界に瞠目する人は多いだろう。市販本ではなく、部数が限られるため、ご家族のご了解を得て、地平線の仲間たちには複数部の「貸し出し」をさせて頂きます。希望者は江本宛に連絡ください。(E)
■山田和也さんの文章、面白く、懐かしかった。1978年から知ってたんだ、彼と。それにしても35年も前の1万円だよ。よくもそんな若者に出させたなあ。そして、よくぞ出してくれたなあ、なけなしの1万円を。当時、確かにそれだけの意気込みが私にはあった。使命感というものか、絶対、よいつながりを作るんだ、という決意が。そういうことを意気に感じてくれた人が何人もいたこと、そして今もつながっているのが嬉しい。
◆岩下莞爾さんのことも懐かしい。エベレスト、北極、チョモランマと3度も大きなエクスペディションの報道隊を日本テレビの彼と組んでやった。カメラマンは、あの中村進さん。今はふたりともいない。
◆今月の地平線報告会に来る前に、昨年8月の「400号到達記念地平線通信」の宮本千晴さんの巻頭論考「南三陸を訪れて考えたこと」を是非読み直してきてほしい。佐藤徳郎さんとの出会いなど示唆に富む内容だから。上の長野亮之介画伯の文章にあるように、佐藤徳郎さんからはリーダーシップということを学ばせてもらった。地平線会議に来てくれることになって嬉しい。(江本嘉伸)
究極のリーダーシップ
「日本人として生きていく上で、衣食住は最低限確保できるのがあたりまえですよね。でも被災地の現状はそんな基本的な事もできてないんです」と言うのは佐藤徳郎さん(61)。宮城県南三陸町志津川で菊とホウレンソウの栽培農家を営み、地元中瀬町地区の区長を務めている時に3.11で被災しました。 津波で壊滅的被害を受けて避難する際に、地区でまとまった移動を主張し、今も仮設住宅に地域のまとまりを持って暮らしています。「震災前は行政の連絡係くらいの意識しかなかったのが突然いろいろな事の即断即決を迫られる。自分の判断で良かったのか不安で眠れない夜が3ヶ月くらい続いたね」と徳郎さん。「家も土地も流されたのは辛いけど、人のつながりが切れるのが一番キツい。地域を一緒に避難させるのがオレの仕事だと思っただけ」。 そのつながりやボランティアの応援に支えられた徳郎さんが今、直面しているのは、高台移転の問題です。「地域の未来のことだから、臆せず進んで状況を変えないと!」。流されたのうちに代えて新たに土地を耕し、ホウレンソウの収穫もできるようになった今、腰をすえて課題をみすえています。 今月は佐藤徳郎区長をお迎えし、被災から2年を迎えた現地のライブな報告をして頂きます。 |
地平線通信 407号
制作:地平線通信制作室/編集長:江本嘉伸/レイアウト:森井祐介/イラスト:長野亮之介/編集制作スタッフ:丸山純 武田力 中島菊代 大西夏奈子 落合大祐 加藤千晶
印刷:地平線印刷局榎町分室
地平線Webサイト:http://www.chiheisen.net/
発行:2013年3月13日 地平線会議
〒160-0007 東京都新宿区荒木町3-23-201 江本嘉伸方
地平線ポスト宛先
pea03131@nifty.ne.jp
Fax 03-3359-7907 (江本)
◆通信費(2000円)払い込みは郵便振替(料金が120円かかります)、または報告会の受付でどうぞ。
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議
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