11月14日、東京は快晴。15℃。麦丸との飲み屋街の散歩が気持ちいい。深夜までこの通信の原稿を待っていて、ぼやーっ、とした頭が、深まる秋の冷たく乾いた空気に生き返るのを感じる。
◆ちょこちょこ路地を行くちび犬に今朝も何人かの通行人が「可愛いね」と声をかけてくる。通行人と「目を合わせる」と嬉しそうに尻尾を振り、近寄っていくのに、犬同士では少し違う。くんくん鼻面をつきあわせて挨拶する顔見知りもいるし、遠くに姿を認めただけであわてて離れようとする相手もいる。
◆新聞やテレビには年の瀬を控え、「解散政局」という奇妙な言葉が飛び交っている。負け戦をしたくない民主党は幹事会で「年内解散反対」を打ち出した、という。きょう午後の党首討論で野田首相が何を言うか、注目されるとのことだが、何かがおかしい。
◆3.11という激しい自然災害のあとなのでなおさら感じるのだが、政党の人気調査ばかり気になって根本の哲学をないがしろにしている政治状況は「国力の低下」の象徴ではないか。批判ばかりしていても仕方ないのだが、それでも誰かが聞いているかも、と犬の遠吠えをするしかない。
◆隣の中国は、歴史の潮目を歩こうとしている。北京で開かれていた第18回共産党大会は、きょうが閉幕式。胡錦濤総書記、温家宝首相ら政治局常務委員が退任し、習近平国家副主席をリーダーとする新しい執行部が明日15日に誕生する。「海洋権益」を高らかに宣言した大国の行動力は当面強まるだろう。大統領に再選されたオバマのアメリカとのつきあい方を含め日本のリーダーの眼力が問われるがどうか。
◆中国へは、「鉄橋を歩いて渡った入国」が懐かしい。文化大革命が終息していない1972年9月、日中国交回復直前のことで、まず香港へ飛び、鉄橋を線路沿いに歩いて渡って深土川に入り、入国チェックを受けた。そこから列車で広州、さらに北京へ向かったのだ。
◆旅ではできるだけ目立ちたくない、と思うが、文革の頃の中国では地味にしていても目立った。ほぼ皆さん全員が人民服姿だったので、どうつくろっても自分が異邦人であることは隠しようがなかった。あの貧しさ、あの暗さからは、現在の中国の大都市の華やかな姿は想像もできなかった。
◆この週末、土日とも、横浜に通った。生まれ故郷なのだが、普段はなかなか足を向けられないでいる。10日は宮本千晴さんの紹介で新垣亜美、長野亮之介君とともに神奈川大学(久々に六角橋というところへ行き、町並みの面白さに感心した)の常民文化研究所に「大津波と集落−三陸の集落に受け継がれるもの−」という講座を聞きに行った。地理学者、山口弥一郎(2000年歿)が明治三陸津波(1896年)、昭和三陸津波(1933年)で被災した三陸の村々を調査してまとめた「津浪と村」という本をテーマとして学者たちが報告した。
◆いずれも興味深い内容だったが、紙数がないので詳細は別の機会に。ひとつだけ、会場で売られていた「大海嘯被害録」という本を手にして感銘を受けた。明治29年「風俗画報臨時増刊」の復刻版で、襲いくる津浪、無惨にも濁流に巻き込まれる母子、被災者の手当にあたる医師、などが精緻なタッチで描かれている。写真もテレビもなかった時代、「画報」が果たした役割はさぞ大きかったことだろう。「発行 遠野市立遠野文化研究センター 発売 荒蝦夷」とあった。
◆翌11日は身内の個展を見に、みなとみらい駅で降りた。かって巨大タンカーをつくっていた造船所があった場所がこんなに明るい、華やかなエリアに変貌している。逆に東横線をはさんで反対側の野毛方面は、随分ひっそりしてしまった。個展の帰り、降り出した雨の中を横浜駅まで人通りの少ないさびれた道路を歩いて行くと、横浜郵便局の前の路上に小さなねずみが飛び出した。隠れる穴が見つからず大慌てで壁にぶつかっている。おそらくみなとみらい方面には住めないねずみであろう。
◆中3、高1の師走、この横浜郵便局で年賀状の仕分けのバイトをした。手にしたハガキの住所を見ながら、たとえば都内23区別のボックスに素早く放り込むのだが、慣れてくると驚くほどのスピードで仕分けができた。時給30円、1日にして240円。自前の財布で野毛の洋食屋でポークカツライスを食べた満足は一生のものだ。
◆お、午後3時からの党首討論で野田首相は「あさって16日に解散してもいい」と明言したようだ。うーむ。ことしは騒がしい年末となりそうだ。(江本嘉伸)
■「アナログでロートルの街道です」という自己紹介で登場したのは、この夏9年ぶり9度目の「カナダ北極圏」行きを終えた街道憲久さん。多数の写真を入れて会場に持って来たはずのUSBメモリを開いてみたらカラだったというハプニングのおかげで、しみじみとした静かな語りのみで報告会は進んだ。
◆カナダ北極圏とは、北米大陸の北端とさらに北方に浮かぶ北極諸島。その中でも、ビクトリア島にあるイヌイットの町・ケンブリッジベイに、街道さんは40数年にもわたって通い続けてきた。北緯69度7分、カナダ北極圏の中央に位置する人口1600人ほどの町だ。
◆街道さんがケンブリッジベイをはじめて訪れたのは1970年。東海大学の探検学会に所属していた当時、他大学の探検部や山岳部は、登山が解禁されたばかりのネパール・ヒマラヤにこぞって遠征隊を送り出していた。しかし、先輩たちがすでに遠征を終えたところに今更行ってもしかたがないと考え、行き先をカナダ北極圏に定め、調査隊を組織した。宮本千晴さんのアドバイスもあって、「行けば成功」という一回限りの探検から一歩進み、学術にも対抗しうる行動の積み重ねを重要視した5年の長期計画だった。
◆その最初の北極圏行きについて、街道さんは「寒くてひもじくテントの中で震えていて、何もなすことができなかった」と振り返る。当時は1ドル360円の時代。外貨持ち出し総額には一人500ドルの制限があり、物価の高いカナダ北極圏で1日1ドルという貧しい生活を強いられた。計画自体にもすぐに綻びが見え始め、まずはイヌイットの世界を学ぶことから始めなければならないというリーダーの宮本さんの命で隊はバラバラにされた。
◆街道さんが向かったのは、地下資源開発の拠点としてマッケンジーデルタに新しく建設された町、イヌビックだった。大学で土木工学を専攻しているということもあり、オイルの試掘現場を訪ねたりしつつ、冬を越した。街道さんはここで大規模で乱暴な開発を目の当たりにし、「大自然と交わる手段として選んだ土木工学への興味が徐々に薄れ、ケンブリッジの、だらけきったとしか思えなかったイヌイットにどうしようもなく惹かれ始めた」と著書に記している。一人で放り出された他の仲間たちもまた、それぞれにイヌイットとの交流を深めていったという。
◆宮本さんは、調査隊の旅とイヌイットの社会について「マッチングがよかった」と解説する。隊が訪れたのは、50、60年代に連邦政府により進められたイヌイットの定住化が完了した直後だ。広い大地を生活の場にしてきたイヌイットが一気に町に集まり、町は混乱の中にあった。「イヌイットも右往左往して、いろんな遠縁からきて住み着いて居候していた。居候して金を払っては失礼と思わせる社会と習慣があった」(宮本さん)。
◆さらに、「優秀かどうかという評価をすぐに超えて、人間性というレベルでの評価になる」というイヌイットの人付き合いが、貧しい若者を寒空に放ってはおかないだろうという見通しを与えた。宮本さんは、「みんなひもじくて辛かった。そのおかげで、チームで動くのでは得られない理解の仕方や人間関係がたくさんできた」と語る。
◆ところが、翌年の71年、一次隊から引き継いだ二次隊のメンバー3人が北極海で遭難してしまう。二次隊は、予備調査的だった一次隊から発展させて、カヌーと徒歩による夏のビクトリア島縦断を計画。7月にケンブリッジベイを出発したが、通信手段もなく連絡が取れないまま、2か月後の9月に壊れたカヌーや遺留品だけが出発地点のすぐ近くの海岸で発見された。地元の警察らの協力もむなしく、仲間の消息はつかめないまま、73年に計画の責任者となってくれた大学の教授や家族が慰霊碑を建立し、調査隊は終焉した。
◆仲間の遺骨発見の知らせを受けて北極圏を再訪したのは、その翌年の74年夏のことだ。それまで、極北の大地に心躍らせる気持ちと仲間の遭難に対する無力感の狭間で複雑な思いに揺れていた街道さんは、このとき「とにかく一度は行かなければ」という思いにかられたという。春につき合っていた女性と結婚し、就職したばかりだった。
◆はじめて訪れた夏の北極圏は、その印象をガラリと変えた。雪と氷に閉ざされる厳冬期の暗闇とはうって変わって、一日中沈まぬ太陽が空に輝いていた。「太陽が出ているだけで、その土地にいる喜びをすごく与えてくれるものだなと思った」と街道さんは話す。知り合いや捜索を手伝ってくれたイヌイットと付き合い、狩りに連れて行ってもらったり、キャンプをしたり……。町での生活に戸惑い、酒ばかり飲んでいるように見えたイヌイットが、町から離れた野では堂々と振る舞い、生き生きとした動きを見せることに驚いた。
◆一方で仲間の遭難事故のことは常に頭を離れず、あるとき仲間の遺骨を探して、一人用の小さなテントを担いで町から湾岸沿いをただひたすら歩いたことがあった。ようやく湾の突端に届いた4日目、イヌイットのボートに迎えられた。自分が歩いていた湾を出て250キロも先の島で仲間の遺骨が発見されたという知らせのためだ。イヌイットの「おっさん」が差し出すビールを受け取ると、泣けてしまった。自分が歩いたこの4日間の距離はなんとちっぽけなものだったのか。「こんなに広いところなんだと諦めの境地に達した。こんなところでこんな風に生きているイヌイットはすごい人たちだなと感じた」。町で見せる酔っぱらいの姿と野で生きる力強い様子、その両方がない交ぜとなってどうしようもなく惹かれていったのだという。
◆とはいえ、日本に帰れば勤め始めたばかりの編集の仕事が待っていた。妻との間にはじきに子供も生まれた。「あのおじさんはどうしているのか?」「あのときのあれはどうなったのか?」と北極圏に思いを馳せては、その思いに任せて旅立つこともできずに悶々とする日々が続いた。ならば、と妻と幼い2人の子供を含めた一家で3回目の北極圏行きを決行する。折しも、同じ北極圏では、植村直己さんが犬ぞりで単独の北極点到達を目指していた78年のことだった。
◆街道さんの関心は、そうした冒険や探検から離れたところにすでに向いていた。「私はイヌイットの人たちと『北極点に行ったって食い物はないし、何をしに行っているんだろうね』と話しながら一緒に肉など食っていた」。一家は、ビクトリア島から対岸のペリーアイランドに渡っていた、あのビールの「おっさん」一家を訪ね、初夏から3カ月間、一帯でキャンプして狩りをする生活を送った。地平線びっしり移動するカリブーの群れ、川にはあふれんばかりの魚……。豊かな自然をフィールドに狩猟の技術や毛皮の処理の仕方、料理など多くの知恵を授けられる充実の3か月だった。
◆そうして、ある時は会社に勤めながら1か月程度の休暇を取って、ある時は会社を辞めて、北極圏との付き合いはゆるやかに続いた。そのうち、一度は辞めて戻った会社の経営を任される立場になり、自分の中で北極圏行きを「封印」した。
◆それから9年。街道さんは今夏、封印を解いた。そこに至るにはいくつもの理由があった。一昨年の定期検診で食道にガンが見つかり、手術をしたこと。病院から自宅に戻って静養している最中の昨年3月、東日本大震災が起き、日本の社会やイヌイットの人たち、自分自身のあり方まで考えたこと。そして、何よりも5年ほど前から北極からの便りが訃報ばかりになり、自分が封印しているうちに知っている人がどんどんいなくなっていくのではないかという焦り……。昨年秋の再検査で新たなガンが見つかると、「また行くしかない」と決意して会社を辞め、日本を発った。
◆迎える北極圏は7月の白夜。「おっさん」の家は9年前と全く同じ家に、同じ家具、同じ佇まいであった。ただ、奥さんが4年前に亡くなり、一緒に狩りをしたいと期待をかけていた一人の息子は酔って暴れて警察に捕まっていた。長男とおっさんだけが残されたなんとなく暗い家の中。そして、なかなか狩りに出ないおっさんとの「行く」「行かない」のじりじりしたやりとり。なかなか狩りに出ない理由は、ボートに使うガソリンを買う金がないからだと、後に分かった。
◆街道さんは、今回の旅では街中で狩りの獲物の肉を見かけることがほとんどなく、狩りの仕方が変わってしまったと感じたという。かつては狩りに出たら捕れるまで帰って来なかったり、移動しながら狩りをしたりするという名残があったが、今の狩りは町からいける近場がほとんどで、しかも1泊や日帰りの狩りが増えているというのだ。
◆その理由は、狩りをしなくても食べて行けるようになったことにあるという。大きくなった町には毎日定期便が飛び、野菜も焼きたてのパンも手に入る。政府からの社会保障や老齢年金も手厚く、おっさんを例にあげれば、月に2000ドルくらいは何もしなくてももらえる。おっさんの家にも町にも肉がなく、出される食事は町のストアで売っているチキンソテーやサンドイッチ、ハムエッグなどだ。狩りで獲た肉ならば喜んで手をつけるが、あの店でお金を出して買ってきたものなのかと思うと、居候はなかなか手を出しにくい。
◆カナダ北極圏では、先住民権運動の結果、90年代に先住民による自治州としてヌナブト准州ができ、今では「健康」「教育」「福祉」を三本柱に年間約1000億ドルもの予算がつぎ込まれる。イヌイットの起業に対する支援も惜しまず、そうした援助をうまく利用できる人とできない人との間に格差が生まれている。狩りは奨励されているため、学校教育の中でその仕方が教えられたり、各種の協会や団体で若者がお年寄りから学ぶ機会も盛んに設けられたりする、町の人も若者も狩りが嫌いではない。しかし、その中身というのは日帰り的な狩猟。別に頑張って狩りをしなくても充分に生きていけるのだ。
◆だけど、イヌイットの人たちの根源にあるのは生きるため、食うために獲物を捕ることにあるのではないか、と街道さんは思う。そのために知恵を働かせて労を厭わず働く。「食うために獲物を捕るという情熱は彼らの文化、生活を作って来ていた。それがずいぶん薄れて来ているなと思った」。
◆酔えば「自分は狩人だ」と繰り返し宣言するというおっさん。自分は一人でも荒野で生きていけるのだという誇りを持った狩人の叫びは、町の中でくすぶっていてはむなしく響くだろう。かつては荒野での狩猟生活こそが本来の姿で、町の暮らしは仮の生活だったのかもしれないが、その仮の暮らしが今、イヌイットから誇りや知恵を奪って内側から破壊しつつあるのではないか。街道さんの話はそんなことを考えさせる。
◆「今回の旅で一番強く思ったのは、居候がしにくくなったなということ。その原因は貨幣経済があの小さな町の基本になっていること」と街道さん。体力があって狩りの役に立てていた30、40年前とは違い、自分も年を取ってボートに乗り移るのにも人の手を借りなければいけない状態になっている。かといって、今まで貫いて来た「居候」をやめて金を使うのもまだ違う気がする。北極圏との付き合いは今後も続くだろうが、これからどうつき合って行くんだろうかと本当に思い悩んでいるのだという。(菊地由美子)
久しぶりに街道の話を聞いた。この夏9年ぶりにカナダ北極圏を訪ねてきたのだという。ただただ岩屑とさまざまな色の地衣類と苔のような草や苔のような灌木、そして大小の水が広がる極北の土地だ。1970年の9月はじめてその土地を踏んで以来、彼にとっては今回が9度目の旅だという。
いや旅というより、街道にとってはたぶん帰郷というのが相応しいのだろう。あの土地と人々。つきつめると街道は友人たちに会いに行っているだけだ。友人たちの間に、友人たちの世界と友人たちの生活の中に身を置き、友人たちの凄さや偉大さ、友人たちの美意識や優しさ、慎ましさ、喜びと苦悩と崩壊を共感するために、そしてかろうじて残る誇りとわずかな希望を確認するために通っていたのだ。
話を聞きながらあらためてそう思う。こいつはあれからずっと変わっていない。あのときの強烈な発見と憧れをずっと己が人生の課題として抱え続けている。そう、街道はおれと違って誠実な男だ。
しかし今回の帰郷は「寂しさが残る悲しい貧しい旅だった」と。なぜなら「もう居候ができない世界になった」からだ。あのとき若かったわれわれに極地とはどんな
世界かを強烈に教えてくれた英雄たちが、もう抱き合って涙を流すことしかできなくなってしまったと覚ったからだ。あのときから42年、街道は太古からの偉大な人間像、ひとつの美しい文化の崩壊に立ち会っていたことになる。
43年前、最初おれが提案したのは東海大学極地研究会の学生を主体としながらも外部の探検若手OBたちの力を借りて何とか5年つづけ、その間に取り組むべき課題を見つけ、その達成に必要な技術を身につけようという話だった。だがこいつらは40年以上続けてしまった。
1970年の夏、東海大学カナダ北極圏調査計画70-75の1次隊のうち磯野哲志・春日俊昭・西富士雄ら学生3人はなんとかケンブリッジベイにたどりつき町外れのチャーやトラウトが遡る川のほとりにキャンプを張って魚を獲っていた。やはり学生だった街道憲久と雇われリーダーのわたしが追いついたのはすでに初秋。すぐに湖岸に氷花が咲き、雪が舞い始める。見通しの得られない凸凹の周氷河地形の凍土原に無数の湖が散らばっているからまっすぐ進むことなどできない。第一磁北が近いから磁石がくるくる回って安定してくれないのだ。雪は降るがいつまでたっても積もってくれない。なすすべもなく閉じ込められた。自分たちがいかに無知であり、この地で無能であるかを思い知った。
その閉塞状態を開いてくれたのは二つ。ひとつはブッシュパイロットのウイリーだった。彼はぼくらを一人ずつツインオッターの副操縦士席に乗せてカナダ北極圏のDEWライン沿いの集落に連れていってくれた。
もうひとつはイヌイットの狩人たちと縁ができてきたことだ。しぶきがアノラックに凍りつく海を航海し、やがてはスノーモビルの引く橇に乗せてもらって狩りに同行させてもらえるようになる。
そのころには学生たちはそれぞれの人柄によってつぎつぎとイヌイットや白人の知人を増やし、家々を訪ねられるようになっていた。
なすべきことが見えはじめた。まずはイヌイットの狩人たちを師としてゼロから学ぶことだ。冬の極北はどんな土地であるのか。その中をどうやって旅し、どうやって生き抜いていくのか。
しかしチャンスは限られる。ケンブリッジベイだけに固まっていては皆に機会は回ってこない。一人一人を別々の町や集落にできるだけ頼りない形で滞在させることで各自は最大限に学べるのではないか。わたしはウイリーその他の知人たちと相談しながら学生たちの希望を聞き、春日を東のペリヒベイに、西をマッケンジー河河口に近いタクトヤクタクに、街道をそこから比較的近く、石油探査活動の基地になっているイヌービックに、磯野にはまずベイチャイモ(ウミウマクトク)とハサーストインレット、後にケンブリッジベイ、自分はまずケンブリッジベイ、後に磯野と交代してベイチャイモ、という風に、それぞれ単独で冬を過ごすことにした。
金は一人1日2ドル程度しかなく、北の物価は極めて高い。この上なく心細かったことだろう。春日はテント生活からはじめ、イグルーを作ってもらい、やがてすっかり村の若者層に溶け込む。西はトイレのくみ取り屋の助手になって居候。街道は図書館通いののち石油試掘リグをはしごした。
ベイチャイモからケンブリッジベイへの帰途、磯野は自分の努力で九死に一生を得たような生還の経験をする。犬橇はクリスマスイブに間に合うように急いでいた。気温が低すぎてすべりの悪い橇を押しながら走っていた磯野は海氷の割れ目に足を取られて捻挫、橇は気づかずに去った。磯野は朝出たテント場まで這って戻る。雪の防風垣とシートと砂糖を残してきたのを覚えていたからだ。それから3日寝袋もなく火も水も食べ物もなく耐えた。夜だけがつづく零下40〜50度の季節だった。
磯野ほどではなかったが、それぞれがたった一人で金もろくな装備もなく相対したのは逃げ場のない極北の冬だ。極地への深い入門となった。そしてそれを受け入れてくれたのは、一面では超人のようにタフにして静かな伝統を残しながら、他面では酔っぱらうしかないイヌイットたちであった。当初の目標のゆえに極地での石油開発見学を選んだ街道は、自分の本当の関心はやはりこの狩人たちなのだと気づく。
しかし街道が北に通いつづけることになったのにはもうひとつ理由がある。71年の夏磯野がその地で消息を絶ったのだ。磯野は遭難の経験もあって、冬の極地と狩人たちからもっとも多くを学んでいた。その経験を2次隊に伝えてもらわねばならい。無理に願って2次隊に残ってもらった。実際、2次隊を待つ間、磯野は自分と自分の犬と、仲良くなったイヌイットの犬や家族が食べるだけの魚を取れるようになっていた。
遭難したのは同学年で航空宇宙学科にいた磯野だけではない。二つ先輩で数学科にいた中庭和夫、そして東レを休職して行動隊長を引き受けてくれていた京大山岳部OBの宮木靖雅も一緒であった。 宮木はすぐれた登山家であっただけでなく、多才な仕事師であり、大変すぐれた組織者であり、リーダーでもあった。みずから休職までして隊長を引き受けたのは、自分が提案しているアクト・タンクという構想を実際に試してみたかったからともいえる。宮木だけでなく、1次隊のわたしは都立大山岳部のOBだし、3次隊の隊長に予定されていた伊藤尤士も都立大出身の社会人山岳会所属の登山家だった。いずれもそれに先立って向後元彦が発案した南極最高峰ビンソンマッシフの初登計画に集まった人たちである。
71年の春からスタートした2次隊の隊員たちは、なすすべもなく冬に耐えていた1次隊と違って、ボートを自作し、1日離れたところにオーロラ観測用の基地を建設し、スノーモビルと橇の旅に習熟し、アザラシ狩りがうまくなり……と、みごとな訓練と活動を見せていた。そして7月22日、一番の目標であった地磁気を観測しながらの内陸横断を実行するためにカヌーで氷の開きはじめた海に漕ぎだした。9月、そこからあまり遠くない海岸に壊れたカヌーが打ち上げられているのが見つかる。
それから冬にかけて東海大学の加藤愛郎教授と地元の友人たちが懸命に捜索をしてくれた。翌年の春2次隊隊員でもあった吉谷瑞男や3次隊に参加する予定だった五十嵐正晃が2カ月かけて遭難地点とおぼしき海域を捜索し、わたしと伊藤も別チームとしてイヌイットの友人たちと脱出の可能性があった地域の捜索をした。春の極地は別の世界だった。
加藤教授はその後マギール大学と共同でオーロラの調査を何年かおやりになる。吉谷は一人で自分の魚探技術を活かして運輸局の調査船に乗り組み、一帯の海底地形調査を手伝い、さらには世話になったイヌイット社会へのお礼としてCO−OPに入って湖漁を手伝う。
それから街道が通いはじめる。3次隊に加わる予定だった川井章も行った。そうやって40年が経ったのだ。
東海大の極地研究会に集まった学生たちはごく普通の若者たちだったと思う。しかしわたしや宮木や伊藤を夢中にさせたことを含め、いま話したようなことをやってのけたのはつまるところ彼らなのだ。そこには見栄えのいい主題も世間を感心させるような成果もない。しかしたとえば街道はその初心に忠実に、街道にしか見えないものを見据えているんだ。まさにそれでいい、そう思った。
■なぜ、居候がしにくくなったのか。報告会では、言葉足らずもあり、今夏の北極行をあまり語れぬまま終わってしまったので、少し補足しながら、その思いを書いてみたい。
◆今回も目的などない北極行だったが、仲間の慰霊碑と北の友人たちが眠る墓所は真っ先に訪ねたいと思っていた。町から歩いて1時間弱のところにある墓所を訪ねて、その後は一日がかりでマウントペリーまで行くつもりだった。そのことをメル友の彼女に話したら、「一人で歩いて行ってはダメ。熊が出没していて危険よ」ときつい調子で言われた。
◆熊? 白熊がこのあたりにいるはずがないのに。前日には逆方向の町から40キロほど西の海岸にある慰霊碑を彼女の知人が運転する車で訪ねていた。慰霊碑は40年前に瓦礫を積み上げた2メートルほどのケルンで、いまも補修され続けながら建っていて、町の観光パンフレットにも「ジャパニーズモニュメント」として記載されている。
◆私の行動スタイルは、狩りでもキャンプでもいつもイヌイットらに連れて行ってもらう、同行させてもらうことの積み重ねだ。単独行で何かを為したいと思ったことはない。それでもよく知った場所へは一人散歩するくらいは何ら不安を感じたことはなかった。でも彼女は危険だと言う。熊とはグリズリーのことで、最近よく目撃されているらしい。そう言えば昨年は湾内に一角クジラが現れたとの話も聞いた。
◆カナダ北極圏の中央部に位置するケンブリッジベイでグリズリーも一角クジラも生息しているという話はそれまで聞いたことがなかった。北米大陸と北極諸島を隔てる海峡の氷が早く溶けているとの話も聞いた。地球温暖化のせいと括っててしまうことは出来ないが、動物たちの行動範囲が少し変わって来たのだろう。しかしだからと言ってヒステリックに何かを叫ぼうとは思わない。来年はまた違っているかもしれないのだから。
◆マウントペリーは標高200メートルもない丘と言った方が相応しい山だが、海抜10メートルほどの一帯ではひときわ目立つ山だ。その頂上からツンドラの大地を眺めるのが好きだったので、彼女の忠告を無視して一人一日歩いて来た。慰霊碑の建つ海岸付近までも、またマウントペリーの麓までもシャベルカーでツンドラをただ削ったような道路が延びている。そして海岸や川沿いに多くのキャビンがあちらこちらに建っていて、時折道路を車や四輪バイクが走っている。
◆以前はマスコックスというジャコウウシに出会うことが多かったのだが、今回は散歩中一度も動物を見かけなかった。キャビンは町の喧騒を離れて週末を過ごすためのものだ。夏には魚を獲ることは多いが、冬はほとんど使われず、狩りの拠点ではない。イヌイットの行動範囲も変わって来た。車で30分か1時間ほどのキャビンの往来と同じように、夏のボート、冬のスノーモービルでの狩りやキャンプは日帰りか一泊程度だ。獲物を求めどこまでも追い続けるというような狩りをする人はいなくなった。
◆ピクニックやハイキングのような狩りではなかなか獲物は得られない。もともと獲物を獲れるかどうかは当てにならないものだ。しかし、イヌイットは経験と知恵を重ね狩りで獲物が獲れる確率を高めて来た。しかしいまは必死にならなくてもいい生活が町にある。今回は本当に大地の恵みである獲物が町に少なかった。だから居候として町にいる私はいままでにないひもじさを味わった。
◆イヌイットは昔から助け合いを重んじて来た。川の向こうに魚がない家族がいたら、こちら側から魚を投げてやる。それだけ狩猟は厳しく簡単に獲物が獲れるものではなかった。いつ自分たちが飢餓となるか。そういう環境の中で、彼らは知恵を絞り労苦を惜しまず獲物を追った。しかし狩猟はそれだけで成果を当てに出来るものではない。だから他人への施しという素地を持っていた。
◆加えて、イヌイットは対等を重んじる。しかし、カネは獲物と違い数として計算され「借金」として残る。分かち合ったり共有したりがし難いものだ。「居候三杯目にはそっと出し」と言われるように、居候は謙虚に控えめに振る舞い遠慮しながら寄食しなければならないと私は思っている。さらに言うなら、イヌイットもツンドラの恵みである獲物を受け、極北の大地に寄食している。イヌイットとともに狩りをし大地を動き回っていると、獲物の肉を食うことに抵抗を感じることがないのは、わたしもまた同じく極北の大地に寄食していると思えるからだ。
◆私は確かに誰かの家の居候だが、その誰かの家もまた極北の大地の居候という屁理屈だ。しかし、政府からの生活保護のカネで、たとえそのカネが働いた報酬であったとしても、ストアーで買った食料を食うことは居候として抵抗がある。わたしはそのシステムの中に入れない余所者なわけで、政府の保護に寄食する居候にはなりたくないからだ。
◆政府は公共事業などで多くの雇用を創出しようと努力している。短期の雇用で多くの人が働けるワークシェアリングも進んでいる。大工仕事で時給21ドル、残業時給35ドルなど、3か月働けばボートやスノーモービルを買うことは可能だ。そしてまた3か月間は狩りに従事する。新しい生活スタイルのスタートとしては悪くはないと思えるのだが、それにうまく乗れない人たちのほうが多い。狩りに出かけずに街中で、消費と快楽とカネもうけを助長するテレビ番組を見続けて、生活保護費が入ると酒を飲みマリファナを吸いという生活で、今夏も若者二人が自殺した。
◆アムンゼンが北西航路に成功し交易所が出来始めた100年前、イヌイットは大地を駆け回っていた。イヌイットが悠久の大地にゆっくりと穏やかに居候する限り、極北にヌナブト(われわれの大地)は存在し続けるだろうと思う。私の新しい居候の形も見えてくるかもしれない。(街道憲久)
■江本さんから電話がありました。どちらかというと接触を避けたいと思ってすでに何十年という江本さんなのですが、地獄耳。「ケガはどう?」という電話でした。
◆情報漏洩のルートは2つ考えられるのですが、とにかく漏れていたのです。そして恐れていたことが起きました。「レポートを書いてくれる?」なぜか江本さんの新聞記者的直撃が私の体質に合わないので、できるだけ射程圏外に逃げたかったのですが「ハイ」とか答えてしまいました。
◆じつは自慢できるケガではないのです。報告しようとすればするほど自分が寒くなってくるような恥ずかしいケガなのです。しかしだからこそ、私の老後の人生に大きく関わる反省をしなければならない屈辱的なケガなのです。近い関係の皆さんには「近々きちんとお知らせします」と言って、沈黙を保ってきました。そういう、小さいが故に決定的なケガ……というより行動上の失敗なのです。
◆10月16日でした。私は自分の登山講習会の一番軽いコースとして、吾妻線中之条駅からほど近い小さな岩山・嵩山(たけやま)に出かけました。もちろん登山道を歩くだけですが、小規模なクサリ場があって縦走路の岩場を想定した体験にはものすごくいいところなのです。とくに私はダブルストックでクサリ場を通過するという体験をしてもらっていました。
◆ダブルストックは一般に岩場での使用は危険とされますが、道具を素直に見れば岩場での使用を前提に作られています。石突きの超硬合金の歯が岩への食い込みにおいて素晴らしい性能を発揮します。ですから今夏も西穂高岳でストックを使用しました。北アルプスの縦走路のほとんどでダブルストックは極めて有用だということを私は信じていますし、主張しています。
◆そういうわけで、ダブルストックで登れる領域と、三点支持に切り替えるポイントを自分できちんと見極めるという体験をしてもらっていたのです。そして山頂からの下り、クサリ場にかかったところで、特別な意識なしに転倒、落差2メートル程度下で岩に左肩を強打したのです。後になって考えると、20kgのザックに上から押さえつけられたかたちでした。
◆たまたまそのクサリ場で先行していた登山ツアー(その終了を待って私たちはスタートしました)のしんがりにいたガイドのMさんと添乗員のIさんがすぐに駆けつけてくれて、クサリ場の下までエスコートしてくれました。自力で下れたとも思いますが、お二人のあまりの手際よさに甘えてしまいました。
◆自力で下山し、タクシーで地元の整形外科病院に駆け込むと、鎖骨の骨折とのこと、家の近くの病院で手術した方がいいという話でしたが、肋骨が折れているとわかり、隣町にある赤十字病院に緊急搬送されて、3日間様子を見ました。結局鎖骨の粉砕骨折と肩胛骨、肋骨7本の骨折ということが判明しましたが、以後現在に至るまで肩胛骨と肋骨についてはまったく放置した状態で、痛み止めを飲まないでもなんとか眠れるという程度の傷みが続いています。鎖骨については自宅からバスで通える都立多摩総合医療センターで手術、1週間入院しました。
◆鎖骨は本来つきやすい骨なのだそうですが、手術をするとときにつかないで再手術が必要になるとのことなので、それが判明するまでは予定が立たないということもあり、ひたすら謹慎生活を送っているというのが現在の状態です。
◆1995年以来1,400回に近い登山講座をワンマンでやってきて、2年前に初めて事故を起こしました。乾徳山での滑落事故でしたが、それも入門編のクサリ場体験。雨の寒い日でした。クサリ場の登り下りを全部終えて道具を撤収してみなさんのところへ下りようとしたその最後のところで落ちたのです。恥ずかしい事故ではありましたが、その原因はいくつもあって、反省の余地がありました。(腰椎骨折で休業中は三輪さんにお世話になりました)
◆しかし今回は「うかつ」以外の理由がありません。60歳前後から「老化」を感じることがありました。敷居でつまずくというのも経験しましたが、頭の判断と体の動きを微調整すればクリアできます。そういう判断基準の微調整は老化に対する有効な対策だと思ってきました。しかしもっと大きな1,400回というような山での経験を背景にものを語りたいという意識が、自分の足元を疎かにしていたということには気づきませんでした。
◆今回の事故は本当にお粗末です。ですがお粗末ゆえに、グサリと深く突き刺さってきました。小さな調整ではなくて、根本的な軌道修正をしなくてはいけないと思い、ただひたすら沈黙しているところです。思い返せば、いつか初心から大きく離れた部分もあります。小さな世界を確立して、そのままガラパゴス状態になっていたということにも気づきました。67歳という年齢の頭と体のレベル合わせを密かに試みているところです。(伊藤幸司)
■地平線通信402号(2012年10月号)で報告した以後、通信費(年2000円です)をお支払い頂いた方は、以下の通りです。中には、数年分まとめて、あるいはカンパの気持ちをこめて、振り込んでくれた方もいます。ありがとうございました。通信費は地平線報告会の会場で受け付けているほか、この通信の最ページに表示している郵便振替にお願いします。
大塚善美/川島好子(6000円「通信費です」)/島田利嗣/橘高弘(4000円「2年分として」)/金井重/中村易也/野口英夫/森脇逸男(6000円)/坂本貴男/菅沼進
■今年の夏、正確にいうと、7月19日のことだ。スズキの650ccバイク、V−ストロームを走らせて下北半島を一周した。下北半島一周を終え、半島付け根の野辺地から青森に向かっていく途中で事件は起きた。夕日に向かって突っ走っていると、突然、「止まれ」の赤旗を持った警官が飛び出してきた。「あー、やった!」と思ったときはもう遅い。37キロオーバーで捕まった。30キロ以上での速度違反は6点で一発免停。カソリ、16歳で免許をとってから50年目にして初の免停だ。
◆実は以前にも一度、免停になりかかったことがある。そのときは累積で7点になって二俣川(神奈川県の運転免許試験場)に呼び出された。免停を覚悟して出頭したが、びっくりしたことに、「あなたは免許取得以来、一度も事故を起こしていないので、今回に限って免停を猶予します」といわれたのだ。一発免停ではなく、累積での免停なので免停猶予処分にしてもらえた。ただし1年間、無違反ならばという条件つき。それもあって逃げるようにして、半年間の「オーストラリア2周7万2000キロ」の旅に出た。
◆ところが今回は一発免停なのでそうはいかない。軽微な違反ならば青切符を切られ、罰金を銀行とか郵便局で払えばそれですむ。ところが一発免停は赤切符で、そのあとが大変だ。8月28日に横浜の根岸公園近くにある神奈川県警交通安全センターに行き、受講料を払って講習を受け、最後の試験に合格すると30日の免停期間は1日で済む。その夜、0時を過ぎ、8月29日になったところで我が家を出発。V−ストロームで新潟から山形へと一気に走ってやった。
◆9月19日には厚木の区検察庁に出頭し、違反の状況を説明。「いやー、その通りでして。間違いありません。ほんとうに申し訳ありません」と、「申し訳ない」を連発した。その1週間後には厚木簡易裁判所から「被告人を罰金60000円に処する」との判決文と納付書が送られてきた。近くの郵便局で6万円を払い込んでやっと事件は一件落着。ホッとした。
◆今年の秋、正確にいうと、10月7日のことだ。スズキの400ccバイク、DR−Z400Sで本州を縦断。浜松から国道1号を走った。20時過ぎに静岡駅前を通過。清水に近づいたところで、左側のラーメン店の駐車場から乗用車が飛び出してきた。そのときの恐怖感といったらない。これは右直事故(右折車と直進バイクの衝突事故)と並ぶバイクでの死亡事故の典型だ。車の方も固まってしまい、走行車線に停まってしまった。同じような目にあったら、おそらく100台のバイクは100台が車に激突したであろう。ところがカソリ、この瞬間でも目をつぶることなく、「絶対に車にはぶつけない!」という気持ちで前輪、後輪の急ブレーキをかけた。
◆人間の思いというのは奇跡を呼ぶものだ。後輪がフワッと浮いた状態でバイクは車を飛び越え、路面にたたきつけられた。このとき、自分の体がバイクの下敷きになると大怪我間違いなしだが、車を飛び越えると同時に体はバイクの左側に飛び、頭部の左側から路面にたたきつけられた。その瞬間、無意識のうちに左手をつき、右肘と右膝で受身をとっていた。「あ、危ない!」と思ってから、すべてがわずか1秒か2秒の出来事だ。
◆全身強打で猛烈な痛みが体を突き抜けていく。国道上にうずくまり、ほとんど動けない。すぐさま救急車とパトカーがやってきた。日本国内で救急車に乗るのも、警察の世話になる事故を起こしたのも、免許をとって50年目の初体験。救急車の車内では頭を強く打っているということで、頭と首を固定された状態で検査された。すると血圧が信じられないことに190まで上昇している。救急隊員の「これは危ない!」という声が耳に残った。
◆静岡日赤病院に収容されると、すぐさま全身のCTスキャンをとられた。その結果、心配された頭、首の損傷はまったくないとのことで、まずはひと安心。意識もしっかりしていた。左手首の骨も折れていなかった。時間がたつにつれて痛みの箇所は収れんされてきて血圧も正常値に戻った。右肘の傷は結構、深いとのことで、5針縫われた。静岡日赤病院でのすべての検査、治療が終ったのは23時頃。その間、静岡南警察署の警官はずっと病院の外で待ってくれていた。警察車両で事故現場に向かい、そこでの現場検証が終った時には午前0時を過ぎていた。
◆ここからがカソリ、すごい。DR−Z400Sは相当のダメージを受けていたが、エンジンはかかり、ライトも割れてない。それをいいことに警官に「このままバイクに乗って帰ってもいいですかねえ」と聞くと、「気をつけて」との返事。全身の痛みをこらえてバイクにまたがり、国道1号で沼津へ。沼津からは国道246号で伊勢原へ。
◆自宅に戻ったのはまだ夜明け前で、何事もなかったかのように布団にもぐり込む。寝返りを打つたびに、あまりの痛さに「ヒェー」と声が出てしまったが、妻には気づかれなかったようでよかった。余計な事は一切言わない、これがカソリの鉄則だ。それにしても「50年目の初体験」3連チャンは、過ぎてしまえばどれも我が旅を彩るドラマになってくれた。感謝、感謝!(賀曽利隆)
■江本さんご無沙汰しております。恩田真砂美です。400回記念報告会に参加できず残念に思っていたところ、「立待月宴覧」記念号が……! お送りいただきありがとうございました〜。長野亮之介さんの絵を追うだけで、時代時代の空気が蘇ってくるようです。それから、400号に向けての水増し号。編集長の加藤千晶さんと大西夏奈子さん、毎回楽しみにして本体より先に水増し号から読んでたんですよ。終了したのは残念。また、ときどき書いてもらえないかなあ。
◆そう、8月17日(金)400回記念報告会の夜は週末の山の仕事に備えて、特急あずさで松本に向かっていたのです。今年の初めに登山ガイドの資格をとり、会社員のかたわら週末は登山ガイドの仕事も多く入るようになりました。3年前からヨガインストラクターもしているので、三足のわらじ、です。ここ数年景気が低迷し先行き不透明なこともあって、収入のアテを分散しました。どこでも生活していける自信はあるのですが、家のローンがあるので着の身着のままというわけにはいかないし、日本の現状を考えると少しは税金も納めたほうがいいし……放浪の旅に出るタイミングを狙っていた20代の頃からみれば、現実的になったのです。
◆正直なところ、リーマンショックに続き3.11以降は会社の行く末も危うく、希望退職に応募しようかと考えていました。果たしてガイドとヨガインストラクターの二本立てで生計を立てていけるのか試算しましたが、現実は厳しく、生活はできてもローンを払うことはできないなあと考え会社に留まる決心をしました。結果的に今年は一時的でも会社の景気が上向き、夏はボーナスも支給されました。社会情勢や景気に左右されるのは、勤め人の悲哀です。
◆登山ガイドを請け負うようになり徐々にこの業界がわかりつつあるのですが、登山ガイドの日当は本来の対価より低いレベルにあるように思います。観光ガイドよりリスクが高いのに、その辺りの付加価値はなかなか目に見えない面があり正当に評価されていないと思うのです。より安全なガイディングのためには良い装備をそろえ、勉強を続け、自分自身の経験値を上げていくため先行投資が必要です。現状では、安全に対するコストはガイド本人の持ち出しと、その良心に寄るところがあるように感じています。山のツアーは安かろうではだめで、リスク管理に必要な資金はしっかりと投入される必要があり、ガイドとクライアントの経験と力、現場の下見もそのひとつ。でも、その辺りのコストを甘く設定しているトコロもあるのが現状です。数日前の万里の長城を歩くツアーの遭難事故にそんなことを考えました。
◆ところで今年もあとひと月ですね。地平線の仲間に語るには小さい目標なんですが、私は今年の年初に「週末はすべて山へ行く」と決めたんです。昨年ペルーのアルパマヨに登ったとき心に浮かんだ決め事で、週5日会社に通う勤め人としては精一杯な目標でもあるんですよ。人生にはいろいろな時期があり思うようにできないこともあるけれど、今年は幸い目標をほぼ達成しつつあります。
◆冬は自分の山登り中心にアイスや岩と雪をよじり、夏は登山ガイドやヨガの仕事中心にほとんどを山や自然の中ですごし、貴重な経験を重ねられました。そして夏休みは今年も海外登山に行きました。スペインの山友達を訪ねて野宿しながらのクライミングツアー。乾燥したマドリッドに住む友達たちが、ピレネーや西海岸の緑多い山をいかに愛し自慢に思っているかを知り、今度は彼らに緑の多い日本の山をぜひ見せてあげたいと思いました。
◆そして、彼らのライフスタイル。昼間働いて夕方に家にもどったら、お弁当を持って岩場に行って登ってピクニックして家に戻る、なんてことを日常でやっていてうらやましい限り。いまスペインの経済危機は深刻で、彼らによれば、ここ数年の建設バブル期に移民を無制限で受け入れ税金を支払えない層を含めて社会保障を手厚くしてきたのがひとつの要因だというのですが……。例えば仮に外国籍で国の保険に加入していないクライマーがケガをしても保険で医療費が賄われるというシステムなのだそうで、それではいくら税金があっても足りなくなるよなあ、と考えたりしました。
◆たいがい、人生を方向付ける決心というものは、旅の途上で浮かぶことが多いのです。少なくとも年1回遠くはなれた山に向かうようにしているのは、何かを犠牲にしても自分の人生にとって必要であると確信しているから。
◆最近若い人たちが海外へ出て行かないといわれるのは本当でしょうか。自分の所属する土地や文化の異なる場所に旅することで、人生について多くのインスピレーションを受けることができるのに旅しないなんて! まあ、いい年になってきたのでひとこと言えば、お金がなくても旅をしろ、です。できるだけ日常とは異なる環境に自分を置くのが良いですね。ツアーで守られた旅、気心知れた仲間同士の旅はだめです。楽しいかもしれないけれど、人生レベルでのインスピレーションは感じないでしょう。
◆そして、すっごい大きな冒険や旅は魅力的ですが、狙う必要はないと思うんです。ちょっとずつでも、自分なりの旅を継続することで見えてくるものがあるし、いかに多くを学び気づくことができたか、というほうが豊かなんじゃないかと思います。継続する、というのは、案外できそうでできないんですよね。少しずつでも続けていくと、何年か後にはひとつの道になって、見えるものもあるのだと思うのです。だから地平線が33年の間しかも毎月欠かさず400回も報告会を続けてきたというのは、とにかく偉大……なんですよね。(恩田真砂美)
■その日は突然やってきた。予定日までまだ3週間ほどある10月25日の22時半頃、娘・夏実(2歳)を寝かしつけたところ、下腹部に、ずん、と重さを感じて目が覚めた。二日前、安産祈願のために巣鴨のモンゴル料理店で好物のボーズやうどんをたらふく食べたせいだろかと胃腸の不調を疑うが、痛みが規則的に繰り返す。(もしや陣痛? こんなに早く、しかも突然?)と、心細い気持になる。
◆同時に、今から闘いが始まるとすれば、娘だけに費やせる時間もこれで最後かも、とすやすや眠る娘の小さな温かい手をさする。リビングへ行き、本格的に時間を計りながら、痛みの合間に自分でも意外なくらい淡々と病院へ行く準備や不在時の段取りを確認する。痛みの時は止まって何かにつかまり数十秒間、痛みが過ぎるのを待つ。1時間様子を見よう、と決める。
◆仕事で寝不足の夫は立ち会い出産に備え、ギリギリまで寝せておくことにする。0時が近づき、痛みは3分間隔に。日付が変わり、夫を起こしに行く。奇しくも26日は夫の誕生日。痛みをこらえつつ、「ハッピーバースデー……ところで、お腹が痛いんだけど」と夫に告げる。
◆寝ている娘を毛布にくるみ、車に乗せる。病院に着くと、0時26分。入院グッズのリュックを背負ってすたすたと階段を上って受付に向かう。本陣痛なのかどうか、まだ半信半疑。だが診察すると、助産師さんに「もう分娩台に行きましょう」と言われ、車で待機している夫を呼び出す。0時40分、分娩着に着替える。
◆夫の出産立ち会いの際に娘を預けるため、親の携帯に電話(この時点では立ったまま)するも、夜中の為かなかなか出ない。助産師さんが心配そうに横で待機している。やきもきして固定電話に電話すると寝ぼけた父の声。私「今病院で、もうお産になりそうだから、これから来て」父「おお……そうか、家に行けばいいのか?」私「だから、病院に来て」。直後、分娩台に乗り、痛みがどんどん強くなる。
◆夫と娘が分娩室に入ってくる。娘は目を覚ましており、私を見つけ何も知らずに、うふふ、と笑う。助産師さんが私の手首に刺した点滴もテープがよじれ、糖水がポタポタ垂れている。「点滴から水が垂れてるんですけど、良いんですか?」というと、「あ、ダメですね」と助産師さん。けっこう慌てている様子。痛みがさらに強くなる。「いてててて〜」と声に出さずにいられない。「深呼吸してー。いきむのもう少し待って下さいね」と助産師さん。父はまだ来ない。夫は娘を抱いたまま。
◆当初の段取りとかなり違った状況で、お産がどんどん進む。やきもきするが、もうお産に集中するしかない。いきみたくなる。「頭がこれくらい見えてきましたよ〜」と指でOKマーク大のサイズを示す助産師さん。前回のお産ではそこからまだ長かったので、(まだだな)と思った。しかし、強い痛みがまた来る。いきみ逃がしのテニスボール(肛門周辺に強く当てて、いきみたい痛みを緩和するのに使う)が頭をよぎるが、もう痛みの感覚も短く、言葉に出す余裕が無い。
◆痛みが来たら分娩台の手すりを握り、深呼吸。痛みは1分と続かないが、数分するとすぐに来る。助手さんが腰をさすってくれる。あー、痛い、痛いぞ。あとどれくらいこれが続くのか?もう頭が下がって来たようで、いきみを我慢できないのだが。すると「次の痛みが来たら好きなようにいきんでいいですよ」と助産師さん。え?もう?と意外に思いつつも、よし!と力一杯いきむ。途端にパン!と音がして破水。股のところで勢いよく水が弾けたのが見えた。
◆助手さんが先生に電話している。もうすぐなのだ、と悟る。いきむ時用のレバーに握り替え、前屈姿勢に。産道に硬いものが出て来ているのがわかる。自分では制御できない物体が体から出ようとしている。ここを乗り越えれば、我が子に会える(というより、痛いのが終わる)。助産師さん「はい、いきんでー!目を開けて、口は閉じて、空気を全て子宮口から出すつもりで!」先生が来る。「もうすぐだよ〜。もう出てくるからよーく見ててね」私は力を振り絞り、んー!!!と、いきむ。
◆息を吸って、んん!!!!もう一度いきむ。『つるるるん!』白い胎脂に覆われた生温かい赤ん坊が股の間から出現。「出てきた〜!」と私。「おめでとうございます」と声が聞こえる。10月26日、1時11分、男児誕生。「むおぉおぎゃあぁ」と産声が響く。その声を聞いて泣きだす長女。私自身は感動というより、放心。短距離走を無我夢中で走った後のような無心な状態。
◆父が到着したのは諸々の後処置も終わった頃だった。結果的に、私、夫、娘の家族3人で長男を迎えた。リラックスのためにと流していた馬頭琴のCDもまだ一巡さえしていない。分娩台に乗ってから30分、第二子の出産は駆け抜けるように終わった。産後の安静の時間、分娩台の上で長男を横に寝かせてもらい、しばし見つめる。毛むくじゃらの赤い肌。精巧にできた小さな手指。髪の毛にはまだ羊水が残っている。
◆これが10か月間、お腹の中に居たのか。ついさっきまで、自分の身体の一部だったのに、既に違う人間として生き始めている。こんなに小さい体で、もうひとりで呼吸もしている。安堵と共に、頼もしいような、寂しいような気持ちになる。もう私の胎内では守ってやれないのだ、と人生最初の子離れを少し憂う。世知辛い世間にこの子を産み出し、取り返しのつかないことをしてしまったような気持にもなる。産後の高揚感と共に、さざ波のように切なさも押し寄せてくる。大の大人がひとつの小さな命に汗をかき、時に涙し、東奔西走する日々の始まり。そして今宵も、彼のわずかな吐息で目が覚める。(三羽宏子 第二子の名は朋和[ともかず])
■江本さん、地平線会議のみなさん、ご無沙汰しています。つい先日まで3週間近く、台湾をスクーターで旅していました。我が家は夫婦ともに「温泉ソムリエ」でもあるので、あちこち温泉に寄りながら満喫してきました。
◆その話はまた別な機会にさせていただくとして、福島でのペットレスキュー活動、相変わらず続けています。福島を離れることが多くなったので以前より頻度は減っていますが、警戒区域で活動している団体、個人との横のつながりも少しずつできているので、連携しながら、うまく給餌ポイントを共有したり効率的な行動もできるようになりました。
◆震災から半年以上経っていますが、今でもあきらめずに探している飼い主さんもいるし、実際に見つかることも少なからずあり、命を繋いでいるこの活動も無駄ではないと思うと、頑張れます。原発事故がなければこんな状況にはならなかったわけだし、本来ならば国や東電がやるべきことなのですが。
◆ところで最近の警戒区域は、通行量の多い国道や主要道路は整備されて走りやすくなっていますが、そうでない場所はどんどん自然に飲み込まれつつあります。先月中旬は一面のセイタカアワダチソウの海でした。もう、どこが田んぼだったのか畑だったのか空き地だったのかわからないくらいに黄色で埋め尽くされているし、住宅地も雑草で覆われて様相が変わってきています。何十年、何百年と人間が築いてきたものが、たった1、2年でこんなふうになってしまうんだなあと、自然の脅威を感じるばかりです。
◆そんな感じで、なんとか少しずつペットレスキューはできていますが、ひどいのは大熊町にあるダチョウ牧場。一時期はここから抜けだして警戒区域を自由に徘徊していたダチョウですが、危害を加える恐れがあるためか(1羽、「ボス」という大きなダチョウは気が荒く、飛び蹴りされた人多数)、現在はもとのダチョウ牧場に戻されています。
◆ペットではないので、警戒区域外へ連れていくことはできません。現在、5羽が閉じ込められていますが、いつ行ってもフードはまったくなく水も汚いものがバケツに入っています。ペットレスキュー関係者が定期的に行ってドッグフードと水を与えていますが、埼玉に避難したオーナーはこのまま餓死させる気のようです。
◆原発事故と同様、いつ収束するともわからない保護活動ですが、最後まで(たぶん、私が死ぬまで)息長く続けていこうと思っています。現在私がおもに協力している保護団体、「にゃんだーガード」では、ボランティアを大募集しています。代表の本多氏は名古屋の車部品メーカーの社長で猫の保護活動も個人でやっていたのですが、震災後は福島県民となって三春町にシェルターを自費で購入して頑張っています。これから冬に向けてボランティア不足が心配です。
◆シェルターには現在猫100匹以上、犬が約20頭います。ボランティア用にちゃんとした部屋もありますが、猫部屋で猫まみれになって寝ることもできます。居心地もいいし、食事代だけの負担で宿泊は無料ですし、1日だけでも1時間だけでもOKなので、ぜひぜひ、気軽にご参加ください。特に平日に来られる人、長期できる人がありがたいです。よろしくお願いします。(11月9日 滝野沢優子)
■追記:昨日、楢葉へ給餌活動に行ってきました。警戒区域が解除されて誰でも許可なしで入れるようになったとはいえ、警戒区域だったころから給餌していたのを急にストップするわけにもいかず。かといって、許可なく勝手に給餌するのもいかがなものか。了解を得ている場所なら堂々とできますが、そうでないところは難しいです。
◆また、避難指示解除に向けて町内のいたるところで除染が行われています。かなり山の中でも除染と称する作業が行われていましたが、果たして効果があるのか疑問です。山林の除染は無駄ではないかと思います。(わが天栄村でも除染が始まっていますが、作業者が少ないのかあまり進まず、我が家の除染は3年後くらいとの話です。予算は1軒につき70万円ほどだそうで、除染などやらずに現金でもらったほうがいいですよね)
◆楢葉では、木戸川を遡上するたくさんの鮭を見ました。原発事故以前は簗場で捕獲されていたのが、今は誰も獲る人がいないので、ずっと上流まで遡上しています。その鮭が生む卵を狙ってカモメの群れもすごいです。遡上している鮭は震災前に木戸川から出て行って、つい最近戻ってきたばかりなので、たぶん放射性物質はほとんど吸収していないはず。ということは、食用にしても大丈夫かも? どうなんでしょうね。(11月10日)
地平線通信402号は10月17日に印刷、封入を終え、翌18日に発送しました。雨の中を以下の方々が駆けつけてくれました。助かりました。
森井祐介 車谷建太 岡朝子 加藤千晶 渋谷幸子 江本嘉伸 杉山貴章 中山郁子 満州
■先月の10/20(土)に地元福島県南会津町で開催された「伊南川100kmウルトラマラソン」に参加してきました。ウルトラの父、海宝道義さん主催の大会で、地平線メンバーの酒井富美さんが事務局を務められています。アップダウンがキツいコースなのですが(一部トレッキングコース有り)、山間部の紅葉が素晴らしく綺麗で、今回で3回目となる大会に毎年参加しています。 地平線からはベテランの三輪主彦さん、そして南相馬からは初ウルトラの上條大輔さんと一緒に参加しました(上條さんとは前日に合流し、木賊温泉にて車中泊しました。)
◆大会当日は午前4時過ぎにスタート/ゴール地点の「伊南小学校」に到着。例年、今の時期は真黄色になる校庭の大イチョウ(樹齢800年)はまだ青々としています。夏の暑さの影響でしょうか。会場では最終準備で走り回っている富美さん、そして海宝さんへご挨拶。長い一日の始まりです。
◆スタート前は2〜3℃とかなり冷え込んだためウインドブレーカー姿で、午前5時「伊南小学校」を232人のランナーと共に走り出しました。ほどなく山裾から太陽の光が差し込んできて、何とも神秘的な風景に心が癒されます。早朝にも拘わらず、家の前に立って声援を送ってくれる地元の方々に挨拶しながら歩を進めていきました。
◆2年前の第1回大会は地元楢葉町からの参加。昨年は震災後いわきに移ってからの参加、そして今年もいわきから……。住環境は変わってませんが、8月に警戒区域が解除され、自宅に行き来が出来るようになっただけでも大きな前進でした。来年はどうなっているのだろう……、そんな事を思いながら沼山峠へのトレッキングコースへと入っていきました。
◆ここでは青空に映える紅葉が見事!なのですが、どうも気が焦ってしまいます。といいますのもこのエリアでも熊出没が相次いでいるため、いきなり茂みから熊が出てきそうな雰囲気……。熊鈴を鳴らしているランナーの後について、足早に駆け上がっていきました。 沼山峠を下り60km過ぎからは当コース最大の難所、急勾配の峠超えです。約7km程の上りもトコトコ走りで何とかクリア。そして一気に木賊温泉まで下ると、地平線の河村安彦さんのログハウスにてエイドを頂きました。
◆河村さんとは初対面でしたが常々お話は伺っており、今回お会い出来てとても嬉しく思いました(頂いた鶏鍋は絶品でした!)。 道すがら畑仕事で忙しい手を休め、「漬物あるから休んでいきな!」と手を招いてくれるお婆さんエイドでまた一服。田舎ならではの「おもてなし」に気持ちも体もパワー充電。ラストスパートを快走して、伊南小学校へは16時15分にゴール出来ました。
◆【タイム:11時間15分】【順位:13位/232人】昨年よりも45分短縮でき、ゴールでは海宝さん、富美さんとガッチリ握手、そして記念撮影。その晩は木賊温泉の民宿に宿泊。ここは賀曽利さんの定宿で、「世界を駆けるゾ!」のサイン色紙がところ狭しと飾られています。木賊の共同湯にゆっくり浸り、そして宿自慢の岩魚料理とビールは目が回るほどの旨さでした。
◆宿の女将さんとは震災後訪れる度に楢葉の現状等を話します。8月の警戒区域解除後に比べ、自宅に行き来している人が多くなってきていること。道の駅「ならは」に警察の分署が駐在となり、24時間態勢で原発周辺地域のパトロールが更に強化されたこと。町の温泉施設である天神岬「しおかぜ荘」が町民に限り入浴を再開したこと等々。
◆田んぼの草刈りも進み、徐々にですが町の風景も変わってきています。しかし、放射線量が低いここ南会津地域においても風評被害の影響を受け、客足が伸びていません。原発問題はまだまだ先が見えておりませんが、福島県内に復興拠点を置く考えを示した東京電力には、形だけでなく実益を伴った動きを是非して頂きたく思います。
◆翌朝は同じく泊まった上條さんと足を引きずりながら温泉でのんびりとしました。上條さんは惜しくも80km地点でリタイヤとなってしまいました。でも初ウルトラで80km走破はお見事です(三輪さんは制限時間(16時間)の13分前にゴールされました。流石です!)。 福島県のランナーとして、また地平線メンバーとして今後もこの大会を走り続け、福島を東北を盛り上げていきたいと思っております。(渡辺哲 福島県いわき市在住)
■<その1> 地平線の皆さん、こんにちは。南相馬の上條です。先日のマラソン大会は、残念ながら時間内に走りきることができず、80キロまでしか行けませんでした。ど素人がいきなり80キロ。その後身体はどうだったか? 気になるところだと思うので、報告します。
◆マラソン大会終了直後、両方の膝が曲がらず、足の甲は2倍に腫れあがり、靴もはけず、右足は膝から下がやはり2倍に腫れ、左足付け根がイキナリ痛く、右足の薬指の爪は剥がれるという、大変な状況になりました。終了後の旅館でも移動することさえままならず、必死に南相馬に戻ってきました。
◆途中のドラッグストアでエアーサロンパスのスプレーを2本、熱さまシートを2箱買って貼り付けたりスプレーをしたりして帰って来る始末。しかしながらその痛さが、完走できなかった悔しさより頑張れたことの喜び(?)なのか、苦痛でありながらちょっと快感のような感じでした。僕はMでは無いのですが……。
◆翌日はゆっくり休みましたが、痛みや腫れは引かず、ダラダラとしていました。が、その翌日には軽トラックに乗り、日帰りで東京の青梅市にバイクの搬送、なんと丈夫な身体! 痛い痛いと言いながらも歩き回り、軽トラックに乗り、時には原付きに乗り、銀行回りをし、マラソン大会終了の5日後より、なんとか通常の生活が送れるようになった次第です。
◆今回マラソン大会に参加して、本当に良かったと思っています。そして自分の身体の丈夫さ、変な精神力の強さを再確認しました。最後に「また参加したいか?」と聞かれれば、答えは「もちろん!」です。
【P.S.】哲ちゃんは速かった──鍛え方が違うなと感心しつつ、やっぱりMだな──と思い、楽しかったです。(11月10日)
■<その2> 今、国道6号線の小高区に、佐賀県からの学生ボランティアといます。日曜日だということもあるのか、いわきナンバーの車が北から南に沢山走っていきます(南相馬市は福島ナンバー、浪江からいわきまではいわきナンバー)。多分ほとんどが立ち入り禁止区域の浪江、双葉等の人たちだと思います。
◆なかには大宮ナンバーもいました。浪江は、今月末に立ち入り解除の日時が発表になるそうです。また浪江、双葉、大熊は5年間戻って住まないことを決めたそうです。冬が来る前に確認に来たのか、見納めに来たのかわかりませんが、沢山の車にびっくりしました。なんだか、ますますいやな方向に進んでいます。その話は、そのうちにゆっくりしたいと思います。また、是非遊びに来てください。そして現実を見てください。(11月12日 上條大輔)
■快速から各駅の山手線、車内でほっと一息です。映画でお馴染みの堀部安兵衛決闘の高田馬場もなつかしい名前。地平線報告会がこの高田馬場の戸山公園に移ってから、どの位でしょう。公園の中で半袖の中年女性が颯爽と追い抜いて行きました。あの颯爽ぶりはきっと地平線に行く人ではないかと、裾の長いよれよれのレインコートを着てないけど、ちょっとした刑事の勘です。
◆まさに、ぴたり。二階の会場に入れば、もともと報告者やスライドをよくよく見たい、見たがり屋。さっさと前の席を見い出します。おや、一番前に向後元彦さんご夫妻。その後に追いぬいた女性も、しかも中年男性二人も一緒です。このお二人はアジアの空港で予定していた便が欠航するというアクシデントに遭い、その時食料をたっぷり持った彼女に遭遇。キーワードは「マングローブの向後さん」だったそうです。
◆いよいよ今夜の始まりです。長身の街道憲久さんが身をかがめて話すイヌイットの今の生活。しかも今夜は珍しくスライドなし、と言うことでしみじみとお話しだけ。街道さんの話に私はアリゾナの先住民居留地で感じた事を思い出しました。仕事がないけど、政府からお金はもらえる。やることもなくアルコールに走る人たち……。
◆そして休憩に入りました。後ろを振り向いたらいつの間にか空席なし。みなさん地平線通信10月号の街道さんの文章に心打たれ、お会いしたい一心で集まってきたのでしょう。
◆ふと編集長江本さんがケーキの入ったパックを持って立ち上がったのを、目ざとく睨んだ私は後方に移動しました。オッ、花の地平線代表、加藤千晶さんがあのケーキのケースを手にしています。一つ頂きです。おいしい。今回も地平線のかくれファンの差し入れでしょうか。ありがとうございます。次々と人が群がり千晶さんのにこにこが一段と輝きます。
◆背の高い車谷建太さんもいます。肩をたたいたつもりが腕でした。その腕の逞しいこと、さすが津軽三味線のプロの腕「すごいねー頑張ったねー。あなたが街頭ライブとは。地平線パワーですね」「ほんとに地平線のおかげです。僕も思いかけなかったんですよ」車谷さんの「出会いからだった路上ライブをきっかけに」地平線通信10月号の彼の手記が話題のベースです。まだの方は10月号をどうぞ。地平線青婦人部の千晶さん達との行動を頼もしく見ているうちにあの記事です。たいしたもんです。体格だってひと回りも頑丈になっています。
◆おや、飄々とした坪井伸吾さんを見つけました「坪井さんおめでとう“世界の果てに行ってきました”展大成功だったんですね」(10月号の通信の「あとがき」参照)。あら三輪先生です。「ハーイ、三輪さん。「宮本常一と歩いた昭和の日本」25巻の「青春彷徨」で、田中雄次郎さん、書いてますよ。三輪先生の弟子ですって。彼の宗谷岬から佐多岬まで徒歩旅行記面白いですね。まさに時代の青春ですね」「エッほんと、僕まだ読んでないよ」これまた彼一流のご挨拶でしょう。
◆宮本常一さんが所長をされていた観光文化研究所の「あるくみるきく」で三輪さんの弟子の田中さんが「日本縦断徒歩旅行」(1978年8月)という一冊を書いていて、それが復刻されたのだ、とあとで江本さんに聞きました。70年代まで仕事だけの日々だった私は当時の観文研といまの地平線会議との関わりがよくわかっていないのよね。
◆再開した後半では、宮本千晴さんも登場です。クライマックスに千晴さん。この取り組みが絶好です。60年代に豊かな経済力を得た日本、70年代は既成の権威に若者たちが叛旗を掲げた「文化の下剋上」の季節でした。それは、アーティストだけでなく青年たちの熱い情熱と行動が拡がり時代の気運が生まれました。人々は旅をして異文化を伝統文化を新しい空気を背負ってきました。そして今ここ戸山公園の森でいろいろな世代があの時代を旅し、今も旅する先達と一体となった熱い夕でした。(金井重)
■10月に1年ぶりにモンゴルに行ってきた。ウランバートルの街では新建築が進み、街の景観が一変しているところが多かった。食べ物が概しておいしくなっていたし、なつかしい『ジョジョの奇妙な冒険』などマンガ本をどっさりそなえた日本並みの味のラーメン屋さんがあったり、歓迎すべきものが増えていたのもうれしかった。
◆それに滞在中、ナラン橋〈日本橋〉が日本の援助で開通し、街道沿いの直線的な街だったのが平和橋とともにロの字形の街になったのは、交通のためには良いことに違いない。竣工の翌日行って見たが、橋を南に降りたところで見物客の車で渋滞し、次のところに大遅刻してしまった。
◆でも、「モンゴル最初の五つ星ホテル」と称するウランバートルホテルだけは、1965年に初めて宿泊したときと設備、サービスは大差なく、健在であったのには驚いた。変化のないものもあるのだ、と感心してしまった。洋服ダンスは、洋服を掛けようとしたとたんに、多数のハンガーとともに架け棒が落ちた。どうやら左のはめ込みがはめられなく、丸い受け手にサーカスのようにそっと丸い棒を乗せているだけ。その日の晩ホテルに帰ると、くだんの棒は沢山のハンガーとともに微妙なバランスで、元のとおりそっと乗せてあった。もちろんちょっと触れると、全部ドシン。乗せる、ドシンを繰り返した。宿泊客は2階で食事をせよ、とフロント。2階に行くと、今日はレセプションが2階である、6階のインド料理へ行けという。ところがその晩2階でレセプションをしている様子はなく、閑散としてウエイトレスが休んでいた。社会主義健在。
◆だが、悲しいことに、日本の地位が昨年以上に低下しているのを肌で感じたし、モンゴルの人々からもそのように聞いた。日本の総理が最近くるくる変わるからだとマスコミでもっともらしく説明されてはいるが、そもそも日本の総理は明治以来平均2年に1人替わってきており、諸外国にくらべて最高指導者の交替は格段に短く、最近の4年で4人の交替がとくに影響したとは思えない。
◆どうも、日本の国力の低下が反映しているようなのだ。せめてものスモウ人気が頼みの綱だが、聞いてみると、あれほど日本からのテレビ中継に釘付けになっていたモンゴル人たちは、朝青龍関が止めて以来、誰もスモウを見なくなったという。日馬富士が横綱になり、また見るようになるかもしれない、とのことであった。
◆平成の大横綱朝青龍が土俵から去って、数年経った。今、新横綱の日馬富士が誕生して、3人めのモンゴル人横綱である。変則的な一人横綱が解消され大変嬉しく、また、これまでの横綱朝青龍や白鵬にない性格のモンゴル人横綱の誕生で、日本人のモンゴル人を見る目が肥え、さらなる理解が深まるよう期待される。
◆それにしても朝青龍関は、モンゴル人ではあるがれっきとした日本の横綱であった。あんなかたちで、というのは、追われるように彼を去らせてしまってよかったのだろうか、との思いがしばしばよぎる。横綱朝青龍が土俵を去ったことで日本のファンの失望が存在するのも、事実なのではないだろうか。少なくとも私の心には傷となって残っている。
◆今さら朝青龍関をもちだしたのも、これはもしかして朝青龍問題に象徴的に出ている、日本人の外国人に対する考え方や態度の問題でありはしないだろうかと思われてならないからである。最近中国で荒れた反日暴動をも思いおこし、ひとのふり見てわがふりをあわてて見直しているところである。
◆日本人が日本人の横綱を待望するのは自然のことで、当然のことだと誰でも思う。だからといって、ネットで口汚くモンゴル人横綱ならびにモンゴル人力士を、モンゴルに帰れとかののしったりしているのは、同じ日本人が匿名状態だとこうなってしまうのかと、がっかりする。良識ある人でも公の場でかなり露骨にモンゴル人力士を揶揄したりしているのは、いかがなものか。
◆つまり、その場にモンゴル人がいたらいたたまれないようなことを平気で言うのは、震災で礼儀正しいと評判になった日本人の別の面が出ているように見え、両者が同じ日本人であることの現実に、気の小さい筆者などはそれこそいたたまれない気持ちになってしまう。例の朝青龍のサッカー事件の後、相撲界のオピニオンリーダーたちが、相撲は神事だから、国技だから云々とか、朝青龍には品格がないとか、朝青龍関のことがことごとく気に障るらしくあしざまに非難し、マスコミの横綱に対する非難をリードしていた。
◆そもそもハワイから力士を入れたとき、また外国人力士を入れることを決定したとき、相撲協会はどう考えていたのだろう。そして、日本人であるわれわれはどう反応したのであろうか。高度成長期を迎え、相撲力士になり手がなくなり、新弟子検査を受ける人々が少なくなったので、危機感から外国人力士を大量に入れ始めたのだと言われている。
◆しかし、初代若乃花親方は1960年代外務省を訪れ、モンゴルから力士を入れたいと考えているので協力して欲しいと申し入れている。モンゴルは相撲発祥の国の一つであると考えておられ、交流したかったのではないだろうか。後にテレビ番組で同親方がエジプトを訪れピラミッドの壁画に相撲をとっている場面を示して、相撲はエジプトでも盛んだったと解説していたところから見て、どうも世界全体の相撲の歴史にご関心があり、国際的な相撲交流を目指しておられたのではないかとのふしが見られる。
◆そのとき、相撲は国技だったのだろうか、神事だったのだろうか。まず外国人を入れるとき、相撲は国技か国際スポーツか、決着つけるべきだったのではなかろうか。そして先代若乃花親方は、国際スポーツを目指しておられたのではなかろうか。国際スポーツならば、神事では決してない。神事なら信仰であるから、異教徒の外国人を入れるべきではなかったのではなかろうか。テレビで明治神宮の土俵入りを、伝統ある神事といって解説していた。たかだか明治以降にできた神社での土俵入りの歴史は、相撲の歴史に比べたらほんの最近のことではなかろうか。
◆であるから、問題は朝青龍にあったのではなく、協会やわれわれ日本人の心がまえにあったのではなかろうか。心がまえが不十分だったので、外国人力士が入ったあと、くだんの相撲界オピニオンリーダーらのように未練たらしくけちをつけたがるのではなかろうか。また、横綱の品格が云々されたが、品格が悪かったのはモンゴル力士だけでなく、暴力団との関係が明るみに出た協会幹部だったり、野球賭博にかかわった日本人力士らであったことが、後に十分すぎるほど明らかになったのは皮肉である。
◆あやまちの元は、外国人は異なった文化と伝統のもとに育ってきたので、日本語がいかに上手でも日本人とまったく同じではないという、ごく当たり前のことを忘れたからではなかろうか。もっともこの地平線通信誌上では釈迦に説法なのであるが。ついでにいえば、サッカー事件のあと、朝青龍関がマスコミの前でだんまりをきめこんでふてぶてしく見えたのには、訳があったようだ。
◆彼の叔母上らに偶然パーティーで会ったことがある。朝青龍関はだんまりを続けないで、簡単でもいいからマスコミのマイクの前で謝ったらよかったのに、そうしたらあんなに追求されずに済んだのにと筆者が言ったところ、叔母上の答えを聞いて驚いた。「追求でなく、あれは日本人による朝青龍いじめである。モンゴル人の横綱なので、日本人総がかりでいじめ抜いて追い出したのだ。肉親だから言っているのではない。テレビの画面がモンゴル人にそう説明していた。謝れといったって、どう悪いのか決着ついてないから、朝青龍に心から謝る気持ちが備わっていない段階で謝ても、心がともなわない。それなのに、日本人は表面的な謝罪で満足するのか。それに謹慎中は、人としゃべっちゃだめなんでしょ。しゃべっちゃいけないのに、どうしてマスコミに応対できるのか。朝青龍はしゃべることが好きだから、つらかっただろう。サッカーをしたことで2か月の欠場、減俸はわかる。でも、家にいなければいけない、しゃべってはいけないとは、モンゴル人には理解できない」と。
◆それにしても、誰が謹慎という語の意味を間違って朝青龍関に教えたのか。朝青龍ほどの言葉の達人でも、このように言語上の誤解が生じる。外国人を入れた以上、このことは覚悟し、充分な対策を講じる義務が日本側にありはしないだろうか。
◆ついでに言えば、朝青龍が土俵を去るとき、土俵にキスした。軽い、と非難された。モンゴル人はおのれの至上のもの、たとえば国旗にキスするように唇を押し当て「アティス」というものをするのだそうだ。朝青龍にとって、土俵はあらゆるものにも勝る至上のものであったのであろう。その証拠に帰国したインタビューで、生まれ変わったら日本人として生まれ、日本人の横綱になりたいと答えていた。いじらしくて、涙を誘う。
◆彼がわたしに語った言葉がある。「外人と言われるのが一番いやだ。私は出稼ぎの力士ではない。高校インターハイから出た日本の力士だ。高校のある地元高知に帰るときが一番いやされる。商店街を歩いていても、誰も私を非難しない。日本の相撲文化、横綱文化を背負っているのは紛れもなく私だ。私がいなければ後代に伝わらない。モンゴルに生まれたので、モンゴルに貢献したい。でも、同じ釜の飯を食った同輩こそ、よくぞあの厳しいけいこをやりぬいて関取まできたものよと、こよなくいとしく感ずる。毎日早朝から裸で稽古する部屋の仲間。そのとき、日本人もモンゴル人もない。仲間の力士だけだ」と。
◆外国人力士を迎えるにあたっては、なんとなく彼らに日本の慣習を理解させ、彼らを日本人にするのではなく、それなりの覚悟をもってかかる必要がなかっただろうか。たとえばちょんまげを止めるなど。
◆他方、白鵬関はあまりにも日本的であり、日本人よりも日本人であり、日本人が学ぶべき立派な日本の横綱であると私は思う。彼の日本魂には脱帽である。でも、誰もが白鵬関のようにはなれない。日本人の側からもっと外国人の気持ち、心を知ろうとする努力が必要なのではないだろうか。モンゴルには日本に勝るとも劣らないスモウファンがいて、場所中は国中が熱狂していた。世界にそんなクニはほかにないと思う。
◆あのファンのかたまり、モンゴルの人たちをもっと大事にできなかったのだろうかとの反省がよぎる。そしてマスコミはもちろん、われわれ日本人が、そして相撲協会が、そんな国民に何か配慮したことがあっただろうか。相手国の国民の感情や立場をあまり、あるいは時にまったく考えないことは、思いやりの国民として、いまひとつ釈然としないのである。
◆ネットで見ると、さまざまな分野で書き込み者の数だけ、いろいろな意見が出ているように見える。とても不思議なことに、「ナショナリズム」に関係するとき、そしてそれが狭い「ナショナリズム」になればなるほど意見が統一され、一つに収斂していくように筆者には見える。朝青龍関が追われたときもそうだった。
◆われらが江本御大の各人の各様の意見、考えを大事にし、受け入れると言う姿勢は、それはまさに「地平線会議」の姿勢だと思うのだが、これこそますます大事にしなければいけないのではないか。外国の街や村の人々の心を知り、彼らの気持ちを大事にして旅する本誌の読者にはまさに月並みなことを、しみじみと考えるようになった。あたかも立冬が過ぎ、季節は急いで木枯らしを呼び、冬の到来を告げているとき、残念ながら、このクニも、このクニの立ち位置も、そのような季節を迎えてしまったようだ。
◆田中真紀子大臣が奇しくも「暴走老人」と述べた石原前都知事が、アメリカで尖閣列島の都有化(他でもないアメリカという場所で)を発表し、一つの県の土地を他県が買うという突飛なアイデアがどうしてまかり通るのだろうかと思っていたら、なんのおとがめもなく過ぎてしまった。沖縄県が三宅島を買うといったら、どうだろう。
◆そしてその後の事態の推移に、前都知事が知らぬ顔の半兵衛をきめこんでいるのに、言い出しっぺは誰だかはあまり議論されず、事態の進展につれて「中国憎し」に、マージャンでいう「清一色」(ひとつの色に染まること)に流れていってしまった。あまりにも相手国のこと、相手国民のことを考えないで自己主張に終始する「清一色」である。筆者には暴走老人でなく、幼児性の発露としか思えないが、いかがか。
◆これには、ネット時代の事情が反映しているように見える。短期間に、もののみごとに意見が統一されていった。政府も国民のネット上での声を気にして、右往左往していた。でも、ほんとうにそうだろうか。中国は歴史的に農耕のクニで、筆者のように牧地牧畜のクニのことに関心を集中してきた者にとっては、農耕民はえてして防衛的なのではなかろうかと考えてきた。ところが、攻めるより衛るを重視している故に領土問題は「失なってしまう」と理解しているせいか、武力に打って出るようだ。
◆むかし文化大革命の最中の1969年3月、ロシアとの国境紛争が珍宝島(ロシア名ダマンスキー島)で起こり、両者激しく戦ったことがある。領土問題では戦うのだなと理解している。でも、いまでは中国とロシアは協議解決して、両国間では国境問題はなくなっている。これが「戦略」なるもののお手本かなと、個人的には考えているのだが。
◆それはとにかく、石原前都知事のスイッチオンで始まった騒動から、国民の一人として、また子供の親として、日本の行く末が心配になっている。キーワードは二つだと思う。一つは「流されず自分の目で現状を確かめる」。もう一つは朝青龍関問題で欠けていた「相手を思う心」かなと、思うにいたっている。ひとさまに押しつける気はさらさらないが、まさに地平線だましいといえまいか。
◆第一のキーワードにより、中国を仔細に見ていくと、車を壊し、ガラスを蹴破っている元気な若者だけではないようだ。そのような行為を恥ずかしいと思い、世界に通用しないと思っているれっきとした中国人が多数いるらしいことが、静かに伝えられ始めている。
◆事件当時のマスコミにおける嫌中の清一色が解けて、そのようなニュースが漏れ出てくるようになったし、また、一般の人々は冷静であるが、若者と政府が今度は硬く厳しいとNHK(ニュースはここでほとんど見ているので)だったかが報道していた。しかし、某現地日系企業の人は、そんなことない、中国政府は日系企業に気をつかい、とても協力的だといっている。引き揚げを考えている企業について報道があり、盛んにチャイナリスクといって、日頃の中国嫌いをこの際と言いつのっているが、上海付近だけでも10万人いる日本人は引き揚げる様子もない。
◆第二のキーワードになるが、そもそも中国にいる日本人や日本企業のことをおもんばかってものを言っているのかいな、と思うような勇ましい発言が官民を問わず出てくる。たしかにまだ日本人はタクシーに乗車拒否されたりするようだが、事態は収束に向かいつつあるのが現状であるようだ。
◆尖閣を自国領と言った以上、海上で中国船がいなくなることはまずあるまいと思う。でもこれをもって、対日関係の安値安定と見てはいけないのではなかろうか。徐々に日常を取り戻しつつある、日系企業の現状を思いやる必要がありはしないだろうか。
◆また、紀元前500年魯のクニの大司寇というえらい役職についた孔子さまの子孫である中国は、他国に比べものにならない長い学問の伝統があり、知の蓄積を経ているので、中国の人々が野蛮な行為を恥じないはずはないと見ているうちに、今頃になって、それを裏付ける証拠がすこしずつ出てきている。このような声がだんだん大きくなりつつあるのは心強く、「やはり」と思うのである。
◆争う気持ちは、相手のことに無知であることに発端があるように思う。外務省もチャイナスクールがマスコミの袋叩きにあって、彼らが金縛りにあっているのか、積み上げた中国知識や中国との複層にわたるパイプが生かされていないような感じに見えて残念でならない。直情径行的な最近の政治主導外交のやり方は相手を刺激しまくっており、かつて見た対応とはだいぶ違うように思う。中国はメンツのクニという、基本中の基本も知らない外交がウラジオストクで展開され、目と耳を疑ったのは筆者一人ではあるまいと思う。
地平線のイベントの都度、特別演奏してくれるあの長岡さんの師走コンサートです。寺澤むつみ、TOYO草薙、依田真理子さんが加わってのセッション「エルコンドル」。
★日時 12月12日(水)18時30分開場 19時開演
★場所ルーテル市ヶ谷センターホール(市ヶ谷駅から徒歩7分)
★チケット(全席自由)前売り券 3500円 当日券 4000円
■「津波の引き波でね、ここから見える浦の水が全部無ぐなったんですよー」と沼田義孝校長先生がいう。この10月末に訪れた岩手県大槌町立吉里吉里中学校の校長室から望む内海は、入り組んだ陸地に囲まれた広大な湖のようだ。外海に通じていく彼方のリアス式地形が、霞む程遠くに見える。あの日、この海水が消えて海底がむき出しになったとは…。見慣れた日常の下に潜む見知らぬ光景は、過去に何度も出現し、地域の集団的記憶に恐怖を伴って刻まれたはずだ。人々は様々な形で津波への警告を語り継いで来た。しかし数世代に一度しか現れないその景色は、いつの間にか少し色褪せていたのかもしれない。
◆幸い吉里吉里中は高台に立地していた。津波は坂を這い上り、校庭まで食指を伸ばしたものの、一階の床上浸水で力尽きた。校舎に甚大な被害は無かった。吉里吉里中のその立地条件を生かし、事後校庭は救援の為のヘリポートと化す。先生と生徒達は避難した町民の救援に大わらわ。翌日の卒業式を控えてすでに下校していた生徒達を含め、当時100名強の全校生徒全員の無事が確認できたのは翌12日だった。
◆今、校舎だけ見れば震災の傷跡も見えず、何も無かったようだ。しかし校庭には仮設住宅がぎっしりと建ち並んでいる。学校での犠牲者は出なかったものの、生徒の大半は家を流され、多くの死を身近に経験した。「私達も必死で、生徒を指導する余裕も無かったんですが、皆自主的に被災者救護や炊き出し、ガレキ処理などを手伝っていたねー」と沼田校長。元々部活動の盛んな学校だったが、4月20日に学校が再開してからは、以前にも増して部活に力が入った。
◆スポーツに打ち込む生徒達の意識も変わった。「以前は勝つ事が目的だったのに、今は頑張ってる姿を見せて地域を元気づけたいと言う気持ちが強いようですね」。九死に一生を得た体験の連帯感がその気持ちを強烈に支えたのか、運動部を始めチームワークの重要な部活が強くなった。当然ながら、大会に勝ち進めば遠征費用が必要になる。四国四県に匹敵する面積の岩手県は、県内とはいえ移動費用がバカにならないのだ。しかし生徒の家庭の被災状況を考えると、費用を補填するPTA会費が集められない。「そうは言っても、けなげに頑張っている生徒達に、『遠征費が無いから諦めろ』とは言えませんよー」と校長は言う。
◆こうした事情は被災地の教育関係者共通の悩みだろう。大槌町内のもう一つの中学校、大槌中学校でも、今年は例年になく部活の意気が盛んだ。サッカー、バスケ、剣道部などが地区大会で軒並み好成績を挙げて県大会に進出し、柔道部や相撲部では全国大会で好成績を挙げた生徒も。「どうしてこんなに強いのか不思議なくらいでねー」と松橋文昭副校長が校内を案内しながら苦笑いする。大槌中学は津波で校舎が流され、現在は大槌、安渡、赤浜、大槌北の4つの小学校と同居するプレハブの仮設校舎で授業をしているのだ。厳しい部活環境が、逆に生徒のガンバリを支えるバネになっているようだ。「支援物資はいろいろ届くのですが、遠征費等の現金を支援して頂く事はなかなか難しいのが現状です。遠征先での現地泊を諦めて、とんぼ返りさせたこともありました」。学校運営の大番頭である副校長は、苦しいやりくりのホンネを漏らす。
◆一年前の9月からスタートした「南部ハナマガリ鮭Tシャツ(鮭T)プロジェクト」は、オリジナルTシャツを1500円で販売し、そのうち500円を大槌の2つの中学校の部活費支援に充てるというのがコンセプトだ。長野市在住の村田憲明さんが言い出しっぺの張本人。アフリカでの井戸掘りボランティア経験が長い村田さんが、被災地支援で訪れた大槌町で中学部活の窮状を耳にしたのがきっかけだった。Tシャツを売ると言う形ならば、なかなか現地に行けない人も気軽に支援の輪に加われる。この計画に賛同した数名のスタッフの一人倉石結華さんが、たまたま私の友人だった。
◆彼女が絵描きとして私を推薦したところ、村田さんが地平線通信の読者で私の絵を知っていたという偶然が重なり、デザインワークがスタートする。大槌町の産物「南部ハナマガリ鮭」のイラストと、宮沢賢治の「雨ニモマケズ」の一節をいれる事に決め、スタッフから何度もダメ出しを受けながらデザインを作り上げた。
◆プロジェクトは幸いにも好評を得、品目もTシャツ、タオル、トートバッグ、手ぬぐいまで拡大。その全てのイラストを担当できたのは幸せな経験だ。当初の予定通りプロジェクトは一年の活動を経てこの9月一杯でひとまず終了した。Tシャツの販売総数6000枚超。その他を併せると8000近くの品目を販売し、両校への支援金は計300万以上となった。詳しくは、鮭Tプロジェクトの公式サイトで報告されている。地平線会議でも紹介させて頂き、賛同して協力して頂いた方も大勢いらした。ありがとうございました。
◆駆け足ながら今回現地を歩き、復興に向けて頑張っている現地の方々にずいぶんお目にかかった。継続的に現地に通うボランティアの方々にも会った。被災地の立て直しはまだ始まったばかりだと改めて思う。日本列島に住む以上、自然災害は日常の一面だ。自然災害の被災は毎年のようにどこかで起きる。鮭Tプロジェクトは、自分が被災当事者になる可能性も含めて、そうした事にどんなスタンスを取るのか考えさせられたプロジェクトだった。(長野亮之介)
■街道憲久さんの報告会は非常に面白かった。10月号の通信の彼の文章に感銘したのだろう、会場は早い時間に満席となった。詳細は菊地由美子さんのレポートに譲るが、彼の「居候」の決意が、図らずもイヌイット世界の今を鋭く浮かび上がらせた、と私は思う。それは、同時に私たちの今、にも通じるテーマである、とも。
◆「ひもじい北極圏」と聞いて連想するのは角幡唯介君の近著「アグルーカの行方」である。毎日5000キロカロリーの食事を用意していたのに、角幡と仲間の荻田泰永君の飢えとの闘いは壮絶なものだ。最後の手段として、麝香牛をしとめて肉にありつくが、倒したのが母牛だったため、子牛が離れない。結局、子牛も…。角幡の筆致から極北の世界でいかに多量のカロリーを消費するか、飢えがいかに恐ろしいか、が伝わってくる。是非、一読を!
◆伊藤幸司、賀曽利隆ほかシニアの文章が目立つ通信となった。地平線会議は行動的な青年たちの記録を意識してやってきたが、その青年たちもシニアになりつつある、ということかな。(江本嘉伸)
森に学ぶ“終わり方”の哲学
「フクシマのあと、ドイツがすぐに脱原発に向けて国民的合意ができたのは、森を人生の一部と考える宇宙観があるからやと思うんだ」と言うのは、ノンフィクション作家の森田靖郎さん。ドイツが決断できた理由を知りたくて、この秋一ヶ月間ドイツ各地を歩いてきました。 「ドイツ人は森(自然)と神とヒトが三位一体と考える。三角のどれが欠けてもダメ。だから長期に渡って自然を損なうリスクの高い原発は、たとえヒトにとってだけ有益でも、Noと言える。物事は始めるのは簡単。どう終わるかに真価が問われる。手に負えないモノを後世に残すなという倫理観が、彼等にはあると思う」と森田さん。 ドイツの三角に対し、日本は八方美人の“丸”、そして中国は右か左かのバランスを重視する“一本棒”と表現します。中国をはじめ各国で指導者が変わり、新たな価値観を模索する今、ドイツの森を歩いて価値観が変わったという森田さんのお話に耳を傾けたいと思います。 |
地平線通信 403号
制作:地平線通信制作室/編集長:江本嘉伸/レイアウト:森井祐介/イラスト:長野亮之介/編集制作スタッフ:丸山純 武田力 中島菊代 大西夏奈子 落合大祐 加藤千晶
印刷:地平線印刷局榎町分室
地平線Webサイト:http://www.chiheisen.net/
発行:2012年11月14日 地平線会議
〒160-0007 東京都新宿区荒木町3-23-201 江本嘉伸方
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Fax 03-3359-7907 (江本)
◆通信費(2000円)払い込みは郵便振替(料金が120円かかります)、または報告会の受付でどうぞ。
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議
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