10月17日。東京の朝の気温は15.1度。この秋一番の冷込みとなった。沖縄の南にある台風の影響で夕方には雨、の予報。午後5時半から予定しているこの通信の発送作業に馳せ参じてくれる人の数が心配になる雲行きだ。せめて大雨になりませんように。
◆今朝7時のNHKのニュースで長野県栄村のあぜ道に1頭のツキノワグマが座り込んで稲穂を食べる姿が映し出された。夜間、赤外線カメラでとらえた映像だ。ええ?クマがお米を食べるの?、と驚くが、それがすでに日常化しているらしいことは、無人カメラを田んぼに設定していたということからうかがえる。撮影日は、9月6日だ。
◆それほどに山の食糧が足りない、ということなのだろう。野生動物の里への出没が問題になって久しいが、腹を空かせたクマが水田に食事しに来るようになったら、相当強硬な手段を考える必要があるかもしれない。とりあえずは圧力をかける、つまり里に下りたクマたちを銃で威嚇することだが、一部地方ではクマ肉が放射能の基準値越えを指摘され、食べられないクマは獲りたくない、と狩人自身がクマ狩りをしたがらない傾向があると聞く。
◆人と野生の問題は、永遠のテーマだ。生き物との共存を訴え、動物園のあり方を批判し、「実験動物」という方法に反対していた「地球生物会議」の代表、野上ふさ子さんが亡くなったことをきのう知り、驚いた。96年、動物園をテーマとしたシンポジウムに参加した縁で知り合い、一時期、機関誌「ALIVE」を購読させてもらっていた。しばらくお会いしていなかったが、16日の各紙に訃報(今月10日、乳がんで死去 63才) が流れたのだ。
◆野上さんは「駆除」の名目で野生動物が殺されること、このままでは日本から野生が失われてしまうのでは、と心配していた。しかし、ほんとうのところはどうだろう。シカといい、イノシシといい、クマといい、当面絶滅の危険はなさそうだ。ツキノワグマの出没情報は、ことし特別に多く、市街地や駅のホームを歩く姿が目撃されることさえある。自然が近くなって和む、などとはさすがに言えない間近な距離感なのだ。
◆私自身は剣岳で雪渓を横断するクマを遠くから見たことはあるが、まだ「遭遇」したことはない。野性のクマと対面したのは、カナダ北極圏の海辺でだった。アザラシ狩りに行くイヌイットのスノーモービルが曵く木のボートに乗せてもらった時のことだ。見事一頭のアザラシを仕留め、氷上に引き上げ、すぐさま解体、ボートで肉を岸辺に運んだところだった。
◆「ナヌーク」。年寄りのイヌイットが低い声でささやいた。ひょっこ、ひょっこという感じの足取りで首を振り振り近づいてきたのは、4、500キロはあろうか、という、雄のホッキョククマだった
◆氷上に残したアザラシの臓物をぺろり平らげたクマは、こちらに肉があることを嗅ぎ付けた。立ち上がって私たちのほうを見る。白い、というよりはくすんだ黄色の毛。やおらこちらに向かって歩き出したクマを、イヌイットはスノーモービルのエンジンをかけて撃退した。まだ禁猟期なのだった。
◆北極の話を少し続ける。その6年前、1978年3月17日のことだ。日大北極点遠征隊の取材でレゾリュートへの飛行機を待ってイエローナイフにいる間、巨大なグレートスレーブ湖畔での犬ぞりレースを見る機会があった。連続3日、毎日50マイル(80キロ)を走り、合計タイムで順位を決めるやり方。後に、本多有香さんが犬ぞりに目覚めた現場だ。
◆犬たちの元気な走りを追って夢中でシャッターを切り、スタート地点に戻ると、日本人らしい、でも日本人にしては異様に背の高い男が声をかけてきた。「Y紙の方ですか?」。北村という記者を知っている、という。中東を専門とする外報部の先輩のことか、とうなづくと「ご主人がこちらへ来る、と聞いたもので……」。あっ!と思った。北村は私のつれあいのことではないか。
◆夫人と、2才、3才の子どもも一緒だった。ケンブリッジベイの友人を訪ねてここに4、5日滞在しているという。Y紙の生活面に家族での北極行きについて原稿を頼まれたついでに、私のことを知ったようだった。夫人は「もういやになりましたよ。早く帰りたいですよ」といっていた。地平線会議が誕生する1年前のこと。これが当時29才の北極圏の居候、街道憲久との出会いだった。63才になったその街道が、今月の報告会に久々に登場する。いろいろな意味をこめて楽しみだ。(江本嘉伸)
■401回目の報告会、報告者は「石巻市立湊小学校避難所」監督の藤川佳三さん。震災から約1か月後の2011年4月21日から、避難所が閉鎖される10月11日までの6か月あまり。そこに通い、長期間泊まり込み撮ったドキュメンタリー映画は、東京での上映が終わり、現在は全国へ巡回中だ。
◆RQなどの活動で東北への関わりが深い落合大祐さんの司会により、報告会は始まった。石巻市立湊小学校(以後、湊小)の写真を投射したスクリーンをバックに、まずは自己紹介から。香川県出身の44歳。大学で上京し、卒業後は瀬々敬久監督の元でピンク映画の助監督などを務めた。監督志望で、2001年に撮った自主映画がぴあフィルムフェスティバルに入選。その後、自分の家族にカメラを向けたドキュメンタリー映画を撮り2005年に上映したが、監督の依頼も少なく、「もー、映画はやめようかな……」と思っていたという。
◆その思いを変えたのは、震災だった。最初、藤川さんは、震災直後から石巻市へ向かいカメラを回していた友人の撮影サポートという形で、避難所の1つとなっていた旧北上川にほど近い湊小へ。小学校の始業式などを映像に収めるのが目的だった。
◆湊小には当時300名もの人達が避難しており、校庭では自衛隊が活動し、ボランティアが行きかい「賑やかな所だな」というのが第一印象。まだ知り合いもおらず、どうしていいか判らない中で出逢ったのが、映画にも登場する工藤弘子さんだった。思ったことをはっきり言う女性で、ボランティアの人達が校庭で歌う「ふるさと」を聴き「何様になった気がして歌ってんの。帰るふるさとがある人が歌うものがふるさと。我々はここがふるさと。瓦礫の中」と怒る箇所は、映画の冒頭部分で印象的なシーンの一つだ。
◆カメラを持っているということで、その工藤さんに避難所や小学校の状況をマシンガントークで話された。教室は避難所になっているため、子供達が図書室で勉強する現状があり、教育委員会や学校に対して不満があったのだ。ほかにもボランティアで来た20代の若者に対し「自分探しに来る人が多い」とぶつける。工藤さんの姿などに接し、「ニュースで見る避難所とは全然違う」と驚いたという。
◆湊小では2階から4階まで、15教室に各20人程が暮らしていた。最初、藤川さんは廊下を通るのが精いっぱいで、教室の中に入っていけない。時間をかけて知り合いを増やし、雑談や冗談を言い合うことで徐々に仲良くなっていった。5月頃は、人が多く避難者自身も他の避難者がどうしているのか判らない状況。あちこち回っている藤川さんと、工藤さんなど子供を持つお母さん仲間とが、夜に情報交換の飲み会をすることもあった。そこで今後どうするつもりかを問われ、一方で「私達の現状を知ってほしい」という圧力も感じる。誰かが撮影を続けた方がいいと思うが、その地に暮らすことで撮られたドキュメンタリー映画、佐藤真さんの「阿賀に生きる」などの作品を観ている藤川さん、「軽はずみに始めたら大変なことになる」。それでも悩んだ末、自分が撮ることに決めた。
◆湊小には「JIM-NET」や「ピースボート」、「ヒューマニティ・ファースト」等いくつものボランティア団体が関わり長期滞在していた。最初はその人達と体育館の中で雑魚寝をしていたが、ボランティアではないため居心地が悪い。校庭に停めていた車に移動し、目立たないよう車中泊もした。朝6時30分、多目的教室で行われるラジオ体操に参加し、そこで参加者と一緒に朝食やコーヒーを頂き、8時から始まる班長会議に同席するのが朝の日課となった。2キロ程のカメラは、肌身離さなかった。
◆スチール写真を見せながら、話が続く。湊小では、神戸から来た「チーム神戸」がボランティアセンターを作っていた。阪神・淡路大震災の経験から「自分達で住める状況にしないといけない」と避難している人達に伝え、「報道によって支援を受けられる」といち早くNHKに入ってもらうように動いた。マスコミを遮断する避難所もある中、オープンな方針があったそうだ。
◆『希望の湯プロジェクト』と題してお風呂の支援を行ったのは、中越地震を経験した新潟県にある会社、「グリーンエナジー」。燃料は薪で、7人が付きっきりで沸かす。シャワー付きのお風呂は珍しく、とても喜ばれていたという。
◆映画に登場する人達も次々とスクリーンに映された。双葉郡富岡町から埼玉県に避難したものの避難所がいっぱいで、実家のある石巻に戻り、4月からボランティアとして湊小へ通っていた西原千賀子さん。映画ではこれまで持ちつ持たれつの、いわば共存関係にあったのに、急に東電への批判だけを口にし出した行政や住民たちへの違和感を率直に語っていた。
◆自転車屋の忠(ちゅん)さんは、石巻の友人を心配して関西からやってきた。何かボランティアをしたいと湊小を訪れ、避難所の人達が自転車の整備をしているのを見て、手伝いや整備の仕方を教えることに。そのため湊小には、市の職員が驚くほど、多くの自転車が集まるようになったという。他にも忠さんは、居酒屋「東助」店主の及川東助さんと仲良くなってお店の2階に住み、再建を手伝った。
◆そして70歳の愛ちゃん(村上愛子)の写真が。最前列でじっくり聞いていた江本嘉伸さんが「映画の主人公だよね」と藤川さんに声をかけたように、映画の後半部では、同じ教室に生活していた愛ちゃんと小学4年生(当時)のゆきなちゃん、二人の交流に力が入れられている。お互いを自然に思いやる関係を見て、藤川さんは「考えさせてもらった」と言う。
◆愛ちゃんとは、とにかく一緒にいて信頼関係を作っていった。地震、津波の話の他にも、古い一軒家で毎日花いじりをしていた若い時の話などを、たくさん聞いた。そうして、教室の中にいることが自然になり、かつての自分のように廊下を通る新しく来た人の視線などを感じ、「ちょっといやだな」と思う感覚も判るようになった頃……。藤川さんは「自分もここにいる人達と同じよう、正直に人付き合いをしたい」と思った。
◆また、避難生活の中で多くの人が震災の経験を喋り合っているのを見て、喋ったほうが楽なのかな……という思いも生まれたそうだ。映画の中には、ゆきなちゃんへ震災や避難所に対して尋ねるインタビューシーンがあるが、「(被災した子どもに直接質問することに対して)批判があることも判るが……」と前置きしつつ、「津波や震災を子供ながらにどう感じるか知りたい」「それを残すことに意味があるのではないか」と判断したからだと言った。
◆というのが前半まで。後半はスチール写真ではなく、映画には含まれなかったいくつかの貴重な映像が流された。まずは、地元の人が撮った3月27日の湊地区の様子。他は藤川さんが6ヶ月の中で撮影したものだ。4月21日に体育館で行われた始業式の映像では、前方で始業式、後方で炊き出しが行われている。それから図書室で工藤さんがボランティアの人達と一緒に「鮭サンバ」を踊る映像や、高校生の女の子が津波の被害を受けた自分の家と部屋を案内する映像。「希望の湯プロジェクト」をどう引き継いでゆくかの話し合いの一部分など。どれも地平線でしか見られない印象的な映像だった。
◆藤川さんが「これは何が起こっているのか」と思いながら撮ったという映像もあった。ボランティアが、生活空間となっている一つの教室に訪れ「一番元気になれる歌」とアンパンマンの曲(「アンパンマンのマーチ」)を流し、歌い踊ることを勧める一部始終を撮ったもの。猫耳を付け(させられ)、戸惑いつつも、せっかく来てくれたんだし、とそれに付き合っている人達の姿は、見ていていたたまれない感じ。そこをカメラが撮っていて、その場にいる全員がカメラも多分に意識している二重な感じが、とてもシュールだった。
◆班長会議の映像もあった。そこでは「A地域(避難所)」と「B地域(避難所じゃない人達)」という言葉が出てくる。被災地では、行く所がないから仕方がないと思うA地域の人達に対し、B地域、自宅に戻った人達の中には、光熱費や食事などA地域のほうが優遇されているという不満があり、どうしたらいいか問題になっていたのだ。校庭のゴミ箱に弁当の余り物が捨てられるのを見たB地域の人に「ここは恵まれている」と思われるなど、現地では判らないことだらけだったそうだ。
◆時間になってしまった。「そろそろまとめを」と藤川さん。避難所の6か月間は、長すぎて整理できない。映画は主に楽しい明るい部分を取り上げているが、そこに震災を乗り越えてゆく人間の力を感じた。湊小はボランティアが何度も戻ってくるような、生きるエネルギーのあった場所だった、と言った。
◆質疑応答は指名制。まずはRQで長く活動しており、南三陸町中瀬地区の方々の避難所となった小学校の隣の体育館に4か月住んだ経験もある新垣亜美さんが話をする。アンパンマンの映像を観て、複雑な気持ちになったという。やるからにはと居つづけたが、中々存在を認めてもらえず一年経ってやっと喜んでくれた避難所の人もいた、ということを思い出した。
◆「遠野まごころネット」に関わる杉山貴章さんは、今年5月の茨城の竜巻被害の時のボランティアと現地の現状にズレがあった話を。東北の被災地の支援で活躍した大勢のボランティアたちが馳せ参じたが、竜巻の被害範囲は限られる。手のあまったボランティアたちは時に「仕事探し」をしなければならず、中には結果的に苦情が出る支援も。被害状況、地域によって望む支援は異なる。双方が手探りでやってゆかなければならない中で、被災地と支援する側との中間に立つ人がどんなに大切か、アンパンマンの映像のように「ほんとうの現場」を伝えてくれることはとても大事だと思うという。
◆ほかにも、社団法人「RQ市民災害救援センター」事務局長としていまも東北を往復している八木和美さんらが実際の体験からボランティアについて話した。真っ先に話題が、「ボランティアのこと」になるのは、実際に行動し、関わってきた地平線会議の人達ゆえだなあと思う。
◆楢葉町民で現在はいわきに住む渡辺哲さんは、自分が体験した避難所の様子、8月に「避難指示解除準備区域」とされた楢葉町の現状を報告してくれた。それから映像について。映像ジャーナリストの高世仁さんは映画を観て、テレビでは出せない映像にショックを受けたそうだ。ふるさとの歌に怒る工藤さんや支援物資に群がる人達の映像など、“政治的配慮”によりテレビ(おそらく新聞でも)では伝えられない。自分のフィールドではリアリティーを削いだものにせざるを得ないと羨ましく思ったという。
◆映画、報告会で取り上げられたのは湊小という避難所に集まった人達のこと。津波の被害を受ける場所とコミュニティーの境目が同じではない中、近隣に住む人達の関わりはどんなものだったのか、どうしたらいいのだろう。疑問を持ったのは、宮本千晴さんだった。藤川さんは湊小にいたので詳しくは判らないが、地域+東京で新しい町を作って行こうという動きがあったようだという。
◆時間もなくなり、最後は映画の予告編を流して終わり。長期間の滞在によって培われる関係性や、映像の力を感じた報告会だった。いつもは野宿や馬鹿話しかしない仲間のことを、すごいなあ!と思えることは、とてもいいなあ。(加藤千晶)
■初めて石巻に入ったのは2011年の4月21日。知り合いもいないし、恥ずかしながら被災の状況をほとんど知らなかった。そんななか湊小学校で被災した方と知り合った。すると瓦礫だらけの街の景色が、「○○さんが被災した家」という見え方に変わった。そんな意識の変化から撮影をはじめた。
◆石巻では毎日が驚きの連続だった。避難所になっている湊小学校で、初めて遭遇することが次々とおきる。被災地には被災者と支援にきている人と二種類の人がいた。そのことは、とてもとても単純なことではなかった。様々なことが混在していた。それを映画としてまとめることができ、こうして報告会をやらせてもらえたのは本当に感謝の一言に尽きます。
◆報告会で言えたことは多くなかったが、被災者の本音とか、被災者がボランティアに来た人に気を使っていてその状況などを映像で出せたのはよかった。でも避難所でお酒を飲んで陽気になった人にカメラを向けて怒られたことや、「ずっとここにいるのになぜボランティアをしないのか」と親しくしていたお母さんグループにシカトされたこともあった。そんな話もすればよかった。
◆ある時、それまであまり話をしなかった人から「君はずっとここにいるけど、いつまでいるの」と聞かれ「避難所が閉鎖になるまでいます」と言ったら、「わかった、じゃあ、これから協力します」と言ってくれた。とてもうれしかった。
◆震災から1年と7か月たった今、被災者でもないボランティアでもない自分が石巻で半年間過ごしたことの意味について考えます。大事なのは、震災を伝えていく事。自分の目線で感じたことをこれからも映画の上映を通して伝えていきたいと思う。(藤川佳三)
■長期間にわたる、避難所での集団生活。あの独特な場の空気を久々に思い出しました。藤川さんが撮影した石巻市の避難所での日常やボランティアのようすは、私が滞在していた登米市の避難所でもほぼ同じです。両者で大きく違ったのは、湊小学校避難所には県外からも含めてさまざまな地域の方が住まわれていましたが、登米市の鱒淵小学校には南三陸町の一つの地域がまとまって来ていたことでした。
◆定員があるので希望者全員とはいきませんでしたが、特にご年配の方にとっては生活のうえでのストレスは大分違ったのではと思います。先日、復興住宅についてどの場所に住みたいか聞いてみたときも、「みんなと同じならどこでもいい」という答えが多く返ってきました。まだ50代の方でもそうです。理由は「年取ったときに、みんなに面倒見てもらえるからね」とのこと。こういうソフト面に配慮した対応は、行政まかせではできません。住人の声を素早くまとめられるリーダーの存在の大切さを改めて痛感しました。
◆仮設住宅に関しても、様々な地域の方が入ることで孤独死や犯罪などが問題になります。時間が経てば新しいコミュニティーが作られてうまく機能しているケースもありますが、理想はやはり、もとのつながりを活かすことだと思います。映画にもあったシーンですが、仮設住宅が当選した人からパラパラと避難所を出て行くと、避難所に残された人々は住処が決まらない焦りと、人数が減っていく中での掃除や食事等の共同作業で疲れきってしまいます。寂しいともなんとも言いがたいその光景を、私も気仙沼市で目にしました。
◆次の段階である復興住宅についても同じ事です。今後数年にわたって、住人が出て行く事で仮設住宅の自治運営についての課題はどんどん出てくるでしょう。自分で動ける人は出て行ってしまうので、弱者が多く残されるというケースも予想できます。つい先日お会いした仙台市のとある仮設自治会長さんは、「自分が最後まで仮設住宅に残ってみんなの面倒を見る」とおっしゃっていました。多くの人は避難所、仮設住宅、復興住宅の3回の入居時に、引っ越しや新しいコミュニティーで大きな負担を感じます。これがもしみんな一緒に移動するならば、次のステップを希望にして今を頑張る力に変えられます。ちなみに鱒淵小学校避難所では、2011年8月4日の閉所の日、ほぼ入居時と同じ人数で100名以上がそろって仮設住宅に移る事ができました。いまも集団で高台移転をと話を進めています。
◆映像を見ての感想ですが、ビデオカメラを持って湊小学校避難所に入った藤川さん、映画を見た誰もが絶対に気になったのは、住人との関係づくりだと思います。実は、映画に登場していた工藤さんと新宿の映画館でお会いでき、先日お手紙をいただきました。そこにはなんと、「避難所生活の間に藤川さんが成長した」と書かれていました。
◆これは半分冗談、半分本当の言葉だと思います。見ず知らずのよそ者という立場から、理解され、信頼されるようになるまで、色々あったことでしょう。藤川さんのやり方を受け入れてくれる人もいれば、なじめなかった人もいるはず。でもとにかく、あの時期の避難所生活を映像で記録してくれたこと、本当にありがたいです。
◆私も避難所や仮設住宅で数多くのボランティア(よそ者)と出会いましたが、中には驚くほど自然にポンと住人の中に入ってしまう人もいたし、押し付けがましく見えた人もいました。人の輪に入るのは苦手だけれど、周りの目につかないところを掃除してくれたような人も。ほかにも、現地にいけなくても、手紙などで今でも長く付き合いを続けている人、準備期間を経て東北に移住を決めた人などもいます。
◆人との関わり方は色々あっていいんだな、と思います。関わる事が大事だということです。「絆」という言葉が流行っているけれど、いい面だけでなく、人付き合いのややこしさや面倒臭さなんかも全部含めて、切っても切れない「絆」なんでしょうね。私たちには押し付けがましく見えるボランティアも、住人の中には喜んでくれている人もいるし、来てくれているというだけで嬉しいという声もあります。
◆私だって、今でもまだ話しにくい住人の方もいるし、1年以上たっていきなり話しやすくなった方もいます。気配りのいたらなさから、ボランティア仲間からクレームが来た事もありました。当時はものすごくへこんだし辛かったけれど、視野は広がりました。
◆おかげで、7月からはじめた教員生活も、わりと落ち着いてできているような気がします。受け持ちは中3なので入試対策として面接練習などもしています。高校受験を前に、多くの生徒は生まれてはじめて自分と向き合い、社会の中での立ち位置についても意識しはじめているようです。私なんかが教官役をやって面接しても、汗をかいて倒れそうなくらい緊張しています。みんなかわいいし、がんばれって思います。そんな楽しい学校生活ですが、宮城県での体育館暮らし4か月間の影響で、いまでも体育館に行くと“生活感”を感じてしまうのが困りもの……(笑)。(新垣亜美)
■新聞記者として働いていた頃、岩手・宮城内陸地震の被災地に取材応援要員として派遣され、ある避難所に出向いたことがある。大した仕事もできなかったのだけれど、事件や事故取材のときと同じように、そこで求められていたのは「とにかく書きつなぐこと」。災害の規模にもよるが、発生後だいたい1か月くらいの時間的区切りまで、新聞は被災地の状況を報じ続ける。そのため、記者は毎日2回訪れる締め切りに向けて取材をする。あえて嫌な言い方をすると、朝夕の紙面を埋めるための“ネタ探し”をするのだ。
◆その結果、どういう取材をするかと言えば、被災者の話を聞きながら頭の片隅では記事になりそうかどうかを判別し、分かりやすい物語を選んではつまみ上げ、その他のものは無情にも切り捨てるようなことをしてきた。それも、はじめのうちは辛い現状を示すような話題を、ある程度時間が経ってからは復興に向けた明るい兆しが見えるとか、絆を感じさせるだとか、自分たちが欲しいと思うシナリオに沿った話題を選んで。
◆そうして1、2週間の“出張”を終えて自分の任地に帰ると、振り返る間もなく慌ただしく次の取材に取りかかる。自分が記事に取り上げてきた人たちがどんな風に生きてきたのか、ゆっくり膝を突き合わせて語り合うこともなければ、その後どう過ごしているのかということも知らない。そんな、誰にもどこにも深く関与せず、自分は何にも失わずに安全な場所から表面をなぞるような取材を自分はしてきたのだな、といま思う。
◆映画「石巻市立湊小学校避難所」には、報道に切り捨てられてきたディテールがたくさん詰まっていた。それらはテレビでは決して見られない映像だ。唱歌「ふるさと」を歌う合唱団に憤慨し、送られてきた支援物資に対して「こんなのタダでもいらない」と悪態をつく工藤さんや、東電と共存してきたはずの周辺住民が手のひらを返して批判し始めたことに対して違和感を露わにする西原さん、ピクニック気分で来てほしくないと言った男性たちは「でも、自分の子供には見せたいよね」と本音をつぶやく。
◆だけどそれ以上に、ささやかな誕生日祝いをするゆきなちゃん一家の様子や、体操したり、一緒にパンを食べたり、花瓶に花が生けてあったりする日常風景の積み重ねが圧倒的なリアルさを持って心に残った。だって、それは同じ時間を過ごした者だけが見ることのできる特別な風景だ。
◆どうしたらこんな映像が撮れるんだろうと思った。「映画を撮りたいと思って現地に入ったが、人としてつき合いたいと思った」と、藤川さんはさらりと言ったけれど、その2つを両立させることって結構難しいことなんじゃないだろうか。カメラを向けた瞬間、撮る側と撮られる側という見えない壁ができるような気がするからだ。藤川さんは、出会ったそれぞれの人のこれまでの道のりや人間関係など、震災の話だけではなく様々なことを聞いたとも話した。変に構えることなく、見えない壁の向こうに自然にすっと入っていけるところが藤川さんの人柄なんだろうし、その結果として、いろんなシーンに立ち会えているというところがこの映画の優れたところなんだろうと感じる。
◆映画の終盤、仮設住宅に移ったあいちゃんが床に崩れ落ちて涙を流すシーンは圧巻だ。あいちゃんはやっと泣くことができたのだな。そう思って、観ているこちらも緊張の糸が途切れてしまった。「津波で凍った心が溶けたから、涙ばっかり出る」。たぶん、思いっきり涙を流すことなしには受けた傷から本当に立ち直ることはできない。だけど涙は、報道なんかが撤収して、共に暮らした仲間とも離れたあとの一人きりの時間にやっと訪れるものなのだ。
◆東日本大震災はこれまで、「取材にもボランティアにも行けなかった震災」として自分の中にあった。だから、いつも分かった風な気にならないようにと考え、引け目のようにすら感じていた。テレビ報道をどれだけ見ても「行ってみなければ分からない」と思っては、飛び出しそうな気持ちに幾重にも蓋をして、子どもを置いてまで行く理由がないのだから、と自身を納得させてきた。
◆自らの身体を晒していないから、身近で起きていながら“死者何万人の未曾有の震災”などというぼんやりしたイメージがどこか霧のように覆っているのだとも思っていた。けれど、「行ってみなければ分からない」と頑なに思っていたのは、裏を返せば報道が伝えないリアルがたくさんあるはずだと思っていたからに他ならない。自分自身が報道をちっとも信用していなかったのだ。
◆映画を見て、あいちゃんにとっての震災、ゆきなちゃんにとっての震災、それぞれの登場人物にとっての震災という物語が自分の中に残った。想像力を働かせて彼らのリアルな物語を身体にしっかり取り入れ、いつまでも身近に感じること。たぶんそれが、現地に行ったかどうかよりももっと大事なことなんだろうと、この映画は気づかせてくれた。(菊地由美子)
■この夏、7月から9月にかけてカナダ北極圏のケンブリッジベイに行って来た。私にとって9回目、そして9年ぶりの訪問だった。帰国してから1か月経ち、正直なところぼんやりボケーっとしている毎日で、何かを書こうとしても何も整理など出来ていない。いまも頭の中は色々な思いでグルグルしている。そんな状態で書き始めるわけだが、まず先に言ってしまおう。寂しさが残る悲しい貧しい旅だった。
◆太陽が沈まない白夜続きの町ケンブリッジベイに着いたのは7月18日。久しぶりの訪問に高揚していた私はその日、アメの家でのっけから出鼻をくじかれた。息子の1人が酔っての暴力沙汰でイエローナイフの刑務所に送られたというのだ。予定も計画もないような旅とは言え、アメとその息子との狩りは期待していた。狩人として成長した息子は私の再訪を待ち望んでいると聞いていたのに。試合開始のゴングで勢いよく飛び出したボクサーがいきなりカウンターパンチをもらったようなものだった。それでも私は、毎日のようにアメの家を訪ね、狩りに連れて行ってくれる日を待ち続けた。多くの友人が既に亡くなっている。信頼できる狩人はアメしかいなかったからだ。
◆1週間後、アメと2人で久しぶりに飲んだ。「おれは狩人だ。おれもカリブーを獲りたいんだ」。何度同じ言葉を聞いたことか。私も同じ言葉を繰り返す。「だから狩りに行こうよ。あんたが優秀な狩人だということはおれが良く知っている。なぜ行かないんだよ」アメはカップ酒を一気飲みし、一息ついてから「今月末にはカネが入る。それでガソリンを買うよ。狩りに行けるさ」、一時の激昂ぶりから一転、穏やかな口調で諭すように言う。そして「さあ、もう1杯だけ飲め」と私にもウオッカを並々と注ぐ。以前ほどの滅茶苦茶な飲み方ではなかったが、酔っ払いの繰り事はほぼ同じだった。しかし、何かが違う。
◆アメとの付き合いは1978年からになる。その時の私は仕事を辞め1年間滞在する予定でケンブリッジベイにやって来た。この私にとって3度目の旅は3歳と2歳の子供も一緒の家族での北極行だった。70年、大学探検部でカナダ北極圏調査隊を組織しその一員として初めてケンブリッジベイを訪れた。翌年、2次隊が夏の北極海で遭難、3人の仲間を失った。調査隊は大学の捜索、慰霊碑建立で終焉したが、個人としての鎮魂と仲間を奪った極北の厳しい自然に対する恐れ、そしてそこに生き続けるイヌイットへの畏敬の思いで私は74年に再びケンブリッジベイを訪れた。
◆町の中ではだらしなく見えるのに、荒野に出ると生き生きして、その野での彼らの振る舞いと極北の地での生存能力に感嘆するばかりだった。町と荒野のギャップが激しいゆえに、余計彼らのことをもっと知りたいと思った。それが3度目の北極行となった。しかし、カネもなく自分の橇もスノーモービルもボートも持たない家族との生活は、子どもが潤滑油となり穏やかに交際が広がるという面もあったが、野に出るチャンスがなかなか作れないという物足りなさをもたらした。
◆そんな時、ケンブリッジベイに所用で来たペリーに暮らす旧知のイヌックに再会した。彼は、カリブーの大群、河を大量に上る魚の話などを語り、私たち家族を誘ってくれた。そして彼の家族、彼の両親、親戚の老夫婦、そして私たち居候家族は4つのテントでペリー河流域を移動しながら生活した。この夏の3か月は本当に豊かなキャンプだった。
◆ペリーのイヌイットはカナダ北極圏で先住民の定住化が進む中、67年に北米大陸北端を流れるペリー河の河口流域から北極諸島のビクトリア島ケンブリッジベイにやって来た。大勢が1か所に集まった町で、彼らの生活は混乱していた。そして10年後、10家族が再び自分たちの土地ペリーに戻って行った。彼らは全員が親戚関係にあった。夏は2つのグループに分かれてキャンプし、互いを訪問し合った。定住化前にこの地で交易所を運営していた長老一族のグループ、その長女の婿がアメだった。しかし、このペリーでの試みは数年で終わってしまった。彼らは再び町に戻った。私はその後も数回の北極行を重ね、アメたちとの交流を深めていった。
◆今年の北極行は前回の訪問からまる9年が経っている。9年前は遭難した仲間の33回忌との思いで出掛けたこともあり、先住民の自治州と騒がれ4年前に誕生していたヌナブト準州に新しい動きを感じなかったということもあって、自分の中ではそれで一つの区切りを付けたと捉える事が出来てもいた。加えて、当時は務めていた企業の運営を引き受けざるを得ない状況があり、私は秘かに北極行をしばらく封印することにした。
◆そのため探検仲間や地平線会議との付き合いは薄くなっていったが、北極の友人たちにはクリスマスカードを送り続けていた。そのうち、通訳の仕事をしている長老一族の1人とメール交換をするようになった。彼女とのやり取りでアメたちの消息を知ることが出来た。多くの友人が亡くなった。メル友の姉であるアメの妻もいなくなった。訃報の度に哀悼の意を伝えてくれるようただ頼むだけだった。
◆焦りと腹立たしさと寂しさが私を包み始めた。なぜ北極に行き続けたいと思う自分がいるのか、貰い受けるばかりで私からは何を与えられるのか。北極と関わり始めてからずっと抱え続けている自問に答えを出すことを放棄していることが辛かった。否、本音は居心地のいい北極が恋しくなっていたのだ。仕事上の葛藤や北極を頭から締め出し続けていることなど、自分を騙すことが苦しくなってきた。
◆そんな思いに囚われ始めた一昨年の秋、定期健診で食道に初期癌が見つかった。内視鏡施術を受け、晦日、正月を食事制限と禁酒で過ごしながら考えた。とっくに還暦も過ぎているじゃないか。そろそろいいんじゃないか。そう思いながらもダラダラ日々を過ごしていたら、あの3月の大地震。人間の無力さ、生と死などへの思い。そして、これほどまでに日本は深く考えることなく、戦後の経済社会を豊かだと愚かにも思って来たのかと気づかされる。私もそうだ。誰かを批判したり他人に手を差し伸べる前に、自分は何をしているのかとの情けない思いで一杯いっぱいだった。北極からは私の安否を尋ねるメールが届いた。同時に訃報も続いた。友人たちがいなくなってしまう。私の中で北極行封印は解除された。いつ行くか、そのためにどう動くか。
◆昨年秋の術後2度目の検診で再び食道に癌が見つかった。今年の正月明けに同じく内視鏡施術で入院した。私は北極に行くことを決めた。いつかはなどとはもう言っていられない。5月末の株主総会で会社を退任した。引き継ぎなどもあり、あっという間に7月になっていた。次回検診は9月中旬と決まっていたので滞在できる期間は2か月しかない。それでも行けるときに出掛けてしまおう、状況によっては検診などすっぽかしてもいいや、と腹を括った。墓参り、友人との狩り、それだけを考えての出発だったが、慌ただしかったといまは思う。焦っていたのだろう。ケンブリッジベイに来てからも、狩りのチャンスがなかなか無いことに私はイライラしていた。
◆それに、前回までは、あの夏のペリーとまではいかないにしても、友人たちの家にはそこそこ野の獲物があった。だからそれを食い時々は狩りにも同行するという居候が出来たのだが、今回は町に獲物の肉がない。アメの家にも魚しかなかった。スーパーから買ってくる食料に居候としては手が出し難い。狩りに出掛けない人たち、獲物のない町で私は、精神的にも飢餓状態に陥っていたと思うが、実際に腹を空かしていた。そのひもじさからも、「狩りに行こう」と私はアメに言い続けていたのだ。
◆そうなのだ。狩りとその獲物こそがイヌイットが極北の民であることの証しだ。なぜ私は北極に魅かれ続けてきたのか。イヌイットの世界には食うこと、生きることが根源としてある。そのシンプルで絶対的なもののために彼らは極寒の大地で知恵と工夫を重ねてきた。そして、獲物を得るための労苦は厭わないが、その他のことは「何とかなるよ、どうでもいいよ、しょうがないね」と大らかに対処する。この怠惰と諦観のようにも見えるこの大らかさは、極限の世界に生きるために必要な強さと優しさでもあった。多くを望まず、強制を嫌う。だから、私のような直接は何の役にも立たない者も、居心地良く居候することが出来たのだ。
◆それなのに、私はアメに「いつ狩りに行くのか」と答えを強要し続けた。初めて酒を飲んだ日の前日、彼は私に根負けしたのかそれまでの「いつか」ではなく、日付を加えて「明日ガソリンを買って、明後日狩りに行こう」と言った。しかし、次の日は風が強くしばらくはボートが出せる状況ではなかった。彼はガソリンの代わりに町で200ドルもするウオッカ1瓶を買った。私は「狩りにも行かず酒など飲んで、約束が違う」と苛立っていた。私は何もわかっていなかった。
◆アメは癌で亡くなった妻のことをしばらく話さなかった。私も敢えて聞かなかった。言葉にしなくても悲しみは共有できる。でも彼は私と一緒に酒を飲み、妻のことを語りたいと思っていたのだ。それなのに再会した私は妻と同じ癌だと言う。アメは私に気を使い妻のことを語ることも、酒を飲むことも遠慮していたのだ。そういうことを知ったのはずっと後になってからのことだ。私は何を北極から学んでいたのだろう。
◆7月下旬、アメは毎月貰う老年年金でガソリンを買い私をカリブー狩りに連れて行ってくれた。24歳の甥も一緒で、アメは地形やカリブーの追い込み方、解体の仕方などを教えていた。若者はアメと私を気遣ってくれた。重いものが持てない。ボートの乗り降りも人の手を借りなければならない。私は衰えた自分に愕然とした。アメは私と5つ違いの68歳。彼を老いたなと見ている自分もまた老人だった。この時は2頭獲り、私はやっとカリブー肉を食べることが出来た。そして町に戻ると肉はあっという間に親戚たちに分けられた。
◆今回の旅で狩りに出かけることが出来たのは2回だけ。アメは2か月間で3頭しかカリブーを獲れなかった。2泊3日と4泊5日のキャンプ。他のイヌイットは近場での1泊2日か日帰りだ。家族を連れての長いキャンプは見られなかった。町の生活は野の獲物がなくても出来るが、狩りはイヌイットが極北の民であることの象徴だ。ヌナブト準州のアイデンティティでもある。だからいまも狩りは行われる。でも、アメさえもアザラシを獲ろうとしない。カネを借りている親戚らがアザラシは旨くないと言うからだ。
◆変化は間違いなく起こっている。多くの自家用車が街中を走り、郊外にはキャビンが増えている。別荘のような立派な建物もある半面、掘立小屋もある。いずれも町から車で1時間ほどの所に建っている。ヌナブト準州が誕生して13年。福祉、健康、教育を柱に、政府は様々な施策でカネをばらまいている。その流れに上手く乗れるものだけが立派な別荘と車を持てる。格差がはっきりとした形で広がっている。
◆友人たちの息子や娘を通して新しい付き合いが広がっていく可能性はあったが、私は医者の言いつけを守り、9月中旬の検査に間に合うよう帰国することにした。イヌイットの世界は変化している。そして私自身も変化している。体力も精神も感性もこれほどまでに衰え錆びついていたのかと思う。北極を遠ざけていた9年間のブランクのせいばかりではない。老いた居候の居場所はこの先あるのだろうか。
◆帰るという前の日、アメはまたウオッカを飲んでいた。別れの盃で私も少し飲んだ。息子のガールフレンドとその幼子の笑顔もあって、彼の妻がいた時のような穏やかな酒だった。アメが幼子を孫として接する様は好々爺そのものだ。しかし、親戚たちも交じっていつもの喧騒が始まる。酒やドラッグ、怠惰に溺れることを責める白人や進歩的同胞に対する批判や妬み。自分たちをだらしなく思う気持ちや亡くなった人たちへの思いから来る悲しさと寂しさ。それらが入り乱れて爆発する。「今度はいつ来る?」、「明日はみんなで見送りに行くよ」。私はアメの弟であり叔父なのだ。
◆「おれは狩りに行く。おれは狩人なんだ」と酔い潰れる寸前のアメがまた繰り事を言う。「それがいいよ」と答えながら足腰がふらつくアメをベッドに運んで、私はやっと何かが違う、と今回の滞在中にずっと持ち続けていた違和感が何であるかを理解した。以前にはいつも聞いていた「おれは狩人だ」に続く「おれはカネがなくても生きていける」という叫びがないのだ。もうそんなことを言うイヌイットはいない。すべてがカネの有る無しで動いている。そういう世界にいま彼らは生きているのだ。
◆次の日、アメ1人が私を見送りに来た。「明日は狩りに行く。孫の奴、カリブー肉が大好きなんでね」。悲しくて、情けない、けど愛おしい。必要とされること、笑顔があることは幸せだ。最後は言葉もなくただハグをした。もう二度と会えないかもしれないという思いが急に湧いてきて私は少し泣きそうになった。
◆帰国後の検診で新しい癌は見つからなかった。だからと言う訳ではないが、これからも北極との付き合いは続いていくのだろうな、といまは漠と思うだけだ。
■江本さん、お誕生日おめでとうございます! 色々ご心配おかけしてすみません。私はなんとか健在です(^^)v。7月と8月にシドニーで大きな手術(骨盤内臓全摘術、仙尾骨合併切除、癌浸潤部骨盤切除、人工膀胱・人工肛門造設各2回ずつ、ストーマ部の腸移植)を受け、2か月半後に退院。今は地元の病院に通っています。自分の力で起き上がれるようになったものの足のマヒで歩けず、痛みで一日中ほとんど寝たきり状態。回復まで2年はかかるとのことで、スティーブが家事や身のまわりの世話もしてくれてます(感謝!)。
こちらはやっと春が来ました。そろそろ家庭菜園の準備をしなくちゃ!です。無農薬・有機野菜づくりも 9年目になりました (ハーブとか入れ80種以上)。今年はスティーブに手伝ってもらいオーストラリアの野菜にも挑戦したいな〜って思ってます。来月から植えどきなのでベッドの中であれこれプランをねってるとこで〜す。気持ちだけは元気でいたいエミコより(o^^o)♪(10月7日 メルボルン郊外にて)
■ご無沙汰いたしております。被災地における精力的なご活動に敬意を覚えております。小生この夏、イランの最高峰ダマバンド山(5671m)に登って参りました。ゾロアスター教の悪とされるアジダハーカが眠っている山です。山麓にわずかに咲き残る赤いケシの花がゾロアスター教の炎を象徴するようで印象に残りました。
◆出発の2週間前からにわかトレーニングを開始して、診療前に日の出山を往復し、週末には2度富士山に登って体調はどうにか大丈夫でした。また、ペルシャの文明・文化とイランのおかれた国際情勢を今のうちに肌で感じたかったこともありました。灼熱の炎天下にゾロアスター教の沈黙の塔やペルセポリスの丘にも登って、想像力が大きく膨らみました。
◆ドバイからテヘランに向かう飛行機からホルムズ海峡を眼下にしたとき、もしここで有事となったとき、原油やガスのほとんどを中東に依存する日本のエネルギー供給はどうなるのだろうかとの思いが現実の問題として身近によぎりました。(神尾重則 医師)
■ことし7、9月の二度、青森の師匠と共に念願だった台湾への津軽三味線演奏ツアーが実現した。故宮博物院や先住民集落など、様々な台湾の人達に本場津軽の音色を感じて貰えるまたとない機会となった。目玉は何と言っても台湾の伝統楽器“月琴”と“津軽三味線”との世界初のコラボレーションだ。僕達は台湾を代表するフォークシンガー陳明章さん(56才)の主催する年に一度の民謡祭に特別ゲストとして招かれていたのだった……。
◆初めて台湾を訪れたのは3年前の6月のこと。それまで通っていた沖縄で、島の人達の津軽三味線への強い好奇心を幾度も体感し、島唄文化に触れるにつれ“この音色はどこからやってきたのだろう?”という想いが湧き上がっていた。元々日本の三味線は16世紀末に琉球から持ち込まれ、それが進化したのが津軽三味線であり、そのルーツは中東ともエジプトとも云われている。津軽というひとつの支流の終点から“弦楽器のグレートジャーニーを辿れば面白いに違いない!”との期待を胸に、音楽交流を通じて台湾の人達の暮らしを知りたい一心で台湾にやってきた。
◆台湾の東側にはそれぞれ独自の唄や踊りの文化を有する15の先住民族が暮らしているという。台北で数日間を情報収集に費やし、ようやく彼らの集落へ向かう出発の目処がたったある日のこと。たまたまつけたテレビから大型台風接近のニュースが…。上陸すれば計画は台無しだ。「台湾に歓迎されていないのか…」心にはみるみるうちに暗雲が立ち込めるも、幸い窓の外にはまだ微かに青空が。何かが我慢出来なくなっていた僕は、淡水という港町の広場で路上ライブを決行。遠巻きで眺める人達をよそに無我夢中で演奏していると、満面の笑顔で一人の台湾人女性が近づいてきた。「あなたに会わせたい人がいるわ」。
◆翌日、彼女に紹介されたのが陳明章さんだった。彼は月琴の名手でもあった。彼に今回の旅の目的を告げると、彼は笑って「明日から一緒に南へ行こう!」という。思いがけない展開に戸惑いながらも、全ての予定をキャンセルして、この大波に乗ってみることにする。あの問題の台風はいつの間にかどこかに行ってしまっていた。
◆月琴の発祥地である台湾南部の恒春という町に着くと、陳さんの師匠である人間国宝月琴奏者・朱丁順さん(85才)にもお会いする事が出来た。彼らはこの地で月琴を次世代に伝える為に月一回ボランティアで教室を開いている。僕が陳さんに台北で出逢ったのは、偶然にもその教室の前日のことだった。
◆朱さんは日本語を少し話した。結局、台湾から楽器が直接琉球に渡ったという事実はなかったものの、話を聞くにつれ、植民地時代をくぐり抜けてきた台湾にあって、純粋に現存する独自の弦楽器が他ならぬ月琴であること(400年の歴史を持つという)を初めて知り、盲目の人が生活の為に弾いていたという背景は津軽三味線と重なっていた。丸い木製の胴と長い棹には、2本の弦が張られていて、素朴な音色に情緒的な唄が重なって、懐かしい台湾の田舎の風景が浮かんでくるようだった。
◆「いつか一緒に演奏しよう」。陳さんと別れたその後、東部の集落に滞在しながら幾つかの先住民の人達の暮らしに触れ、結果的に素晴らしい旅を締めくくることが出来たのだが、何よりも陳さんと月琴とのご縁の巡り合わせに感謝して台湾を後にしたのだった。
◆すぐにでも再訪したい想いはなかなか叶わず3年の時が経ってしまった。この夏、師匠(渋谷和生 42才)とともについに台湾行きが実現、陳さんは両手を広げて再会を待っていてくれた。陳さんと師匠は直ぐに意気投合、台湾メディアの記者会見まで開かれ、その関心の高さには驚かされた。会場となった北投温泉博物館は、日本の植民地時代に初めて作られた温泉地の建物がそのまま残されたもの。一面畳の広い大広間には溢れんばかりのお客さんが惜しみない歓迎の声援を送ってくれている……。
◆陳さんと師匠と共にステージに立つと、演奏前から胸が一杯になってしまった。そこから見渡す会場の雰囲気が、今まで見てきた何処よりも熱気と興奮に包まれていたから。懐かしい日本の原風景のようだった。演奏を通じて何かを少しでも感じてもらえたら、それだけで嬉しかった。雪を知らない観衆は津軽の音色にじっと耳を傾け、その奏法の違いに驚き、師匠と陳さんによる楽器同士の掛け合いでは言葉を介さずともドッと笑いが起こる。それぞれの唄の根底には、人間が生きてゆくうえでの共通のものが流れているからこそ、皆の心が一つになれることを実感した。
◆最高潮の演奏を終え、お互いの民謡協会の姉妹会を締結して、夢のような一幕は閉じられた。もしもあの日に台風のニュースを観なかったら……などと回想するが、陳さんとの奇跡のような出逢いは楽器が引き合わせてくれたものに違いない。月琴との間に生まれた絆は、共に伝承してゆく想いを持って今後も深まってゆくだろうし、師匠も海外進出への意欲が高まり、津軽三味線の世界にとっても実りある旅となった。3年前には全く想像の及ばない展開だ。
◆音色の源流を辿る旅への興味はますます深まるばかりだが、台湾には先住民文化など、まだまだ知りたいことが沢山ある。台湾の皆さんの笑顔を胸に、ご縁を大切にしながら、しっかりと歩んでゆきたいと思っている。(車谷建太)
■みなさ〜ん、猛暑のつづいた今年の夏ですが、どのように過ごされましたか。9月に入っても暑い日がつづき、「どうなってしまうのだろう…」と不安にかられましたが、お彼岸を境に季節が変ったのには驚かされました。まさに「暑さ寒さも彼岸まで」で、それに合わせて我が家の庭の彼岸花が咲きました。
◆地平線会議にとって今夏最大のイベントは、記念すべき第400回目の地平線報告会でしたが、それに参加できなかったのは何とも残念なことでした。しかし9月号の通信でその詳細を知ることができ、うれしく思いました。たいへんな盛り上がりだったようで何よりでした。これで「第500回目」という金字塔が見えてきましたね。
◆ぼくはその頃、バイクでマダガスカルを走っていました。第399回目の南相馬での報告会を終え、上條さんの山荘で参加者のみなさんとお別れしたあとは、スズキの650ccバイク、V−ストロームを走らせ福島へ。福島からは奥羽山脈の鳩峰峠を越えて山形県の赤湯温泉へ。さらに山形・宮城県境の奥羽山脈の峠を越えながら北上。芭蕉の「奥の細道」の尾花沢まで行き、最後の峠、鍋越峠を越え、古川から東京に戻り、20日あまりの「東北旅」にピリオドを打ちました。
◆帰宅するとすぐさまマダガスカルへと旅立っていったのです。これは東京の旅行社「道祖神」のバイクツアー、「賀曽利隆と走る!」の第17弾目。総勢15名のメンバーとともにタイのバンコク経由でマダガスカルの首都アンタナナリボに飛びました。その中には第399回目の南相馬の報告会にも参加してくれた斎藤孝昭さんの姿もありました。斎藤さんの奥様がちょっと心配そうなお顔で成田まで見送りにきてくれたのは印象的でした。
◆斎藤さんとは旅の途中、何度も南相馬での報告会の話をしましたよ。報告会にはたびたび参加してくれている斎藤さんとは、2006年の「天津→イスタンブール」の「シルクロード横断」や2008年の「リマ→ブエノスアイレス」の「南米・アンデス縦断」のバイク旅を一緒に走っています。いわば生死を共にした戦友のようなものです。
◆今回の「マダガスカル」は日本からバイクを送り出すのではなく、現地のレンタルバイクを使いました。15台のバイクと2台の四駆のサポートカーでアンタナナリボを出発していくシーンは壮観でした。カソリ号はスウェーデンのハスクバーナーの550cc。そのままモトクロス大会に参加できそうなパワフルなバイクなのですが、車高の高さには泣かされました。
◆足がまったく地面につかず、何と今回は3回も立ゴケしてしまいました。バイクから降りられず、そのままパターンと倒れてしまったのです。「バイクのカソリ」のあまりにも情けない姿。斎藤さんの手を借りて起き上がったこともありました。
◆マダガスカルはぼくにとっては40年ぶり。40年前はヒッチハイクだったので、バイクでは今回が初ということになります。世界第4位の大島、マダガスカルは日本よりも大きな島。中央部は高原地帯で熱帯圏といえどもバイクで走っていると肌寒いほど。それがモザンビーク海峡沿いの海岸地帯に下ると猛烈な暑さ。オフロードを求めてマダガスカルに行ったのですが、あまりの暑さと悪路とでゴールのマダガスカル南西部のトリアラの町に着いたときはもう息もたえだえ状態でした。
◆マダガスカル中央部ではあちこちで水田の風景を見ました。田植えと稲刈りの両方を見たこともあります。二期作どころか三期作の稲作でしょうか、その風景はアジアを思わせるものでした。モザンビーク海峡沿いの海岸地帯はバオバブの世界。バオバブ街道を走り、世界最大というバオバブの巨樹も見ました。水田とココヤシとバオバブの取り合わせは幻想的な世界でした。ナショナルパークの散策ではマダガスカル固有の原始猿、レムールとかシファカを見ることができました。
◆そんな訳で第400回目の報告会に参加できなかったのですが、日本に帰るとすぐに、V−ストロームでの「東北旅・第2弾目」に旅立ちました。関東と東北を分ける鵜ノ子岬を出発点にしてまずは福島県の太平洋側、浜通りを走ったのです。四倉舞子温泉の「よこ川荘」に今回も泊まったのですが、南相馬の報告会開催に尽力してくれた渡辺哲さんが差し入れを持って来てくれました。
◆翌日は渡辺さんの故郷の楢葉町を走りました。8月10日以降、楢葉町の全域に入れるようになったのです。楢葉の波倉の海岸の風景は目にこびりついています。大津波で破壊された堤防のすぐ先に東京電力福島第2原子力発電所があるのです。第2がよくぞ無事だったと思わせる光景で、第1同様、大事故を起こしてもおかしくないような海岸地帯の激しいやられ方でした。
◆浜通りは第1の爆発事故で完全に分断されてしまいましたが、迂回路を経由して南相馬に行くと、海沿いの県道255号、幹線の国道6号、旧陸前浜街道の県道120号、「山線」の県道34号と4本のルートで南相馬市と浪江町の境まで行ってみました。これらが現在の東電福島第1原発事故での規制線。国道6号は警察車両が国道を封鎖していますが、それ以外の3ルートはゲートのみでした。
◆南相馬では鹿島町の仮設商店街「かしま福幸商店街」の「双葉食堂」で評判の鳥ガラスープのラーメンを食べました。店は大繁盛。順番待ちができるほどで、それが我がことのようにうれしかったです。南相馬から相馬に入ると松川浦の「喜楽荘」に泊まったのですが、ここは渡辺哲さんと一緒に飛び込みで泊まった宿。女将がそれを覚えていてくれたのもうれしいことでした。
◆翌日は浜通り最北の地、新地の大津波で全滅した海岸地帯を走り、橋が落下したままの地点でバイクを停め、しばらくは大津波で破壊された堤防越しに白い砂浜と青い太平洋を眺めていました。新地から国道6号で宮城県に入り、さらに北へ。「東北旅」の第1弾目では下北半島の尻屋崎、大間崎に立ったので、第2弾目では津軽半島の最北端の龍飛崎まで行き、それを最後に東京に戻ってきたのです。
◆長い長いカソリの夏でしたが、「東北旅・第1弾目」にひきつづいての南相馬での地平線会議・第399回目の報告会、それに合わせて見ることのできた相馬野馬追、マダガスカル・ツーリング、そして「東北旅・第2弾目」と、おかげさまで充実した夏を過ごすことができました。(賀曽利隆)
■こんにちは。7月の南相馬地平線報告会では、皆さん、ご苦労さまでした。その時、知り合った地平線の何人かの方々とはその後も交流が進み、いい刺戟をもらっています。日本海から鳥海山の頂上までカヌー、自転車、登山でたどり着く「sea to summit」の豪快な現場を岩野祥子さんに見せてもらったし、いわきにいる哲ちゃん、こと渡辺哲さんが東京湾から新潟の日本海まで本州横断520キロ以上をもう4回も走ったという話にぶったまげました。
◆あまりに元気な地平線の人たちの行動力に刺戟を受け、よせばよいのにこの10月20日、私も南会津での100キロマラソンに無謀参入することにしました。まったく初めての長距離です。完走はムリでもせめて中間の50キロまでは到達できないか、と、ひそかに考えています。
◆本題です。福島県の浜通りでは、ようやく除染作業が始まりました。除染が大幅に遅れていることはご存知と思います。やる、という方針は決まっても、汚染した土壌をどこに保管するか、なかなか決まらないからです。それでも一部では作業が始まっています。
◆作業の基本は草刈りから始まります。しかしどこでも作業員不足、なぜなら草刈りにも資格免許証みたいなものが必要だからです。今回試験的除染をするにあたり南相馬市から遠く離れた広野町の建設会社から以前私が所属していた会社に協力依頼があり、そこの社長が安易に受けてしまい、こちらに草刈り仕事がまわってきました。
◆南相馬市から広野町までは国道6号線を南下して行って1時間30分は軽くかかります。その道のりの途中に、あの福島第一原発があります。最初にこの話が来た時は断わりました。しかし我が社員一名の年内の仕事の見通しがなかったので、社員に確認の上行く事にしました。正直、興味もありました。今現在20キロ圏内はどうなっているのか? 原発周辺の空間線量は、どのくらいだろうか? 健康診断と除染作業の基礎講習半日を受け通行許可証も準備しました。
◆作業日の1日前に前社長が下見に行きました。道路は崩れ、津波の被害は当時のまま草やセイタカアワダチソウが生い茂り浪江町を過ぎ大熊町に入った途端です。線量計は最高30マイクロシーベルト!を示したそうです。そこを行き帰りとも通り抜けて来たとのこと。実際の作業現場は0.3マイクロシーベルトと、南相馬市とほぼ同様とは言え……考えてしまいました。今まで出来るだけ危険な事を避けて来た訳ですから。
◆すっかり慣れてしまっていたのです! 自分達も。仕事を始めれば約2か月間毎日被爆する訳です。自分は良くても職員は……辞める事にしました。除染作業には草刈りが付きもので肝心な役割を持ちます。私の本業は林業です。まだまだ依頼がこれからくるでしょう。今後どうしたら良いのか考え中です。古井戸に落ちた(注)ことも含めて、まさに激動の草刈り!です。(上條大輔 南相馬市)
《注》南相馬市鹿島区の住人である上條大輔さんは、7月の南相馬地平線報告会で案内役をつとめてくれ、宿舎を提供してくれた立役者。報告会直前の7月23日、除草作業中、なんと深さ10メートルの古井戸に落ちるという事故に遭った。土井戸だったため、時間をかけて自力で這い上がり、怪我も打撲程度で済んだ。昔田んぼだった土地で底に金属製品など何も落ちていなかったことが幸いしたが、それにしても強い人だ。おかげで、南相馬地平線報告会は無事開催できた。(E)
た以後、通信費(年2000円です)をお支払い頂いた方は、以下の通りです。中には、数年分まとめて、あるいはカンパの気持ちをこめて、振り込んでくれた方もいます。ありがとうございました。通信費は地平線報告会の会場で受け付けているほか、この通信の最終ページに表示している郵便振替にお願いします。
大島亮太/小林天心(2万円)/宇佐見諒/渋谷幸子/亀山晃一/嶋洋太郎「400回(号)達成おめでとうございます。」/長田幸康・田中明美(10,000円「通信費+etc」)/小澤周平(4000円「2年分お納め致します」)
■昨年、地平線会議で報告させていただいたカナダ北極圏の徒歩探検の顛末をまとめた『アグルーカの行方 129人全員死亡、フランクリン隊が見た北極』という本が、9月下旬に集英社から刊行となりました。4年前に新聞社を退職してから4冊目の著書となります。自分で言うのも口はばったいのですが、物語の完成度、またテーマの首尾一貫性という点において、これまでの作品を上回るものが書けたと自負しております。
◆報告会でもお話させていただいたので若干くどくはなりますが、改めてこの時の旅、そして本のテーマについて考えてみますと、私は最近のエコブームっぽい、自然は人間に優しいみたいな、エグイところから目をそむけて何でも爽やかに笑顔で語り合おうよといったような現代の風潮があまり好きになれません。というか嫌いです(誤解を招くといけないので確認しておきますが、別に自然環境を破壊せよと言っているわけではありません)。
◆北極に関してもそれは言えて、北極って厳しくて不毛な世界だと思ったら、案外、夏になるとツンドラには緑が生い茂り、カリブーや麝香牛が大地に群れを成していて、湖には魚で跳ね返るような恵まれた土地なんだね、案外優しいよね、というようなエコツーリズム的気分に染まった考え方がどうも性に合わないのです。そんな訳はないと思うんです。
◆例えば昔の探検記などを読むと、北極に住むイヌイットは大変な苦労をしてその土地で生き抜いてきました。そこはまさに生活とサバイバルという言葉が等号で結びつく世界であり、冬になると食糧危機が発生し集団餓死することが珍しくない世界でした。服部文祥より釣りと猟に長けたイヌイットでさえその有様だったのです。
◆しかもそれはそんなに昔の話ではありません。つい40〜50年前まで冬に彼らが餓死することは珍しくありませんでした。二十世紀も後半に入って、人間が月に行かんとする時代になったというのに、昔ながらの生活スタイルを守り続けて、あたかも気軽にばたばたと死んでいくイヌイットの暮らしぶりに、カナダ政府は閉口していたのです。
◆一方、南に転じて南極の方に目を向けると、そこでも探検家たちはつい前世紀前半まで壊血病と凍傷で生き抜くことに必死で、コウテイペンギンの生活能力に敬意を抱くほどでした。なるほど今でこそイヌイットは冷凍庫のように頑丈な二重扉に守られた耐寒住宅に定住し、子供たちは眼鏡をかけてプレイステーションを楽しむようになりましたし、南極の観測基地に滞在する隊員たちはPHSで東京の家族と常時連絡が取れるようになったとのことですが、そうした守られた環境から一歩でも外に離れると極地の自然は昔のまま残っているはずです。
◆本来、自然は母親のように優しいのではなく、戦前の父親のように融通が利かず、頑固で、すぐちゃぶ台をひっくり返しかねない畏れ多い対象です。町田康は深沢七郎の『笛吹川』(講談社学術文庫)の解説の中で、この小説世界を駆動させる人間には制御できない圧倒的な力のことを「どうしようもないもの」と簡潔な言葉で表現しています。自然とは人間には制御できない力やうねり、様々な現象のことを指す言葉だと私は勝手に解釈しているので、町田康のこの言葉はそうした自然の本質を言い表すのに実に的確な言葉だと思いました。
◆そうした自然のどうしようもなさは、まさに極地において顕著であるはずです。北極、実は優しいよね! というような短絡的な感想は、多くの時間を生命の安全が確保された二重扉の内側に身を置き、天気のいいグッドタイミングを見計らって、短期間のヒットアンドアウェイ方式で表面だけをかすめるように自然に触れた結果、抱いた感想にすぎません。どっぷりと長期間、究極的には昔のイヌイットみたいに24時間365日、その身を自然の中に浸してみたら、そんな安直な言葉は出てこないでしょう。
◆今回の旅や本のテーマは、そうした極地の厳しい本質を長期旅行によって少しでも垣間見て、一つにはその土地の物語を描けないかと発想したことが根底にありました。そしてその土地を舞台に展開される人間の生と死の物語を私は書きたいと思ったのです。
◆旅のテーマに選んだフランクリン隊というのは、欧州から北米大陸を北から回ってアジアに至る、当時“幻”と呼ばれた北西航路を発見するために、1845年に出発した英国の探検隊のことです。彼らはカナダ北極圏の群島部で129人の隊員全員が行方を絶ちましたが、後に現地を訪れた探検家たちの努力により、彼らが途中で船を脱出し、生存のため徒歩で南を目指す最中に全滅していたことが判明しました。その脱出行の行程で彼らは恐ろしいカニバリズムにも手を染めていたのです。
◆フランクリン隊をテーマに選んだのは、彼らが旅していた過酷な舞台にこそ、現代のエコツーリズム的視点からは見えてこない北極の本質があると感じたからであり、彼らの行動の軌跡をその土地の中に追うことによって、人間の生と死の物語が紡ぎ出せるのではないかと考えたからでした。私たちはついつい忘れがちですが、当時の探検隊は二年も三年もかけて極地を旅しており、そのスケール感はスピードばかりを競う現代の冒険家とは対極の位置にあります。この滞在日数の長短は、単純にその土地に対する認識の深度と比例するように私には思われるのです。
◆しかし今回の旅(イコール本の執筆)においては反省点も自分なりにたくさん見つかりました。まず一つには、旅自体が書きたい本のテーマにきつく縛られてしまったような気がしたことです。私は旅や冒険の本質は放浪性にあると思っています。放浪性とは今日の決断が明日の自分の運命を左右するような性質のことをいいます。未知であるからこそ直面する一連の試行錯誤と言い換えることもできるでしょう。
◆冒険行為の中でもそうした未知ゆえの試行錯誤が最も色濃く反映されるのが、探検と呼ばれる行為です。もちろん細かな時間の断片を拾い上げれば、今回の旅でもそうした放浪性は随所に見られました。しかしノンフィクション的な理想を言うと、結末、つまり旅のゴール自体が事前の設定と違うところに行ってしまうぐらいのどんでん返しが、やはり旅には欲しいものです。もちろん冒険行為ですので行為の終点となる目標地点は事前に決定しなければならなかったのですが、やはり冒険の本質がそうした放浪性にあるのなら、そのゴールも行為の途中で決定されるぐらいが理想ではないかという気がします。
◆もう一つは機器の問題です。今回の旅では前半で衛星電話を使用し、GPSは全行程にわたり使用しましたが、GPSの機能性には目を見開かされました。これは本の中でも書きましたが、冒険で得られる充足感は自然の中に深く身体が入り込めた時に得られるというのが私の持論です。自然の中に身体が入り込み、そのどうしようもなさを体験し、乗り越えた時、今回は凄かったとつくづくため息を漏らすわけです。
◆今回の旅で得た重大な発見のひとつは、GPSがあるとその自然への入り込み感が弱まるということでした。もしこれが六分儀だったら、氷点下40度の中でつらい観測を行い、かじかむ手でテントの中で自分の現在位置を調べなくてはならず、観測が極地の自然に大きく左右されることになります。厳しい自然を前にした時、人間というのは案外自分の生に無関心になるものです。
◆もしかしてGPSではなくて六分儀だったら、自分がどこにいるのかなどどうでもよくなって観測する気力を失ってしまうかもしれませんが、そうした精神状態の変化も含めて初めて極地を旅するという行為は成立するはずなのです。ところがGPSはボタンをぽちっと押すだけでいいので、極地の自然=極地性とは無縁なところで現在位置を把握できてしまう。便利であることは、人間から言葉を失わせることになるのかもしれません。これでは極地に来た意味の何分の一かが失われてしまうなと思いました。
◆昨年の旅ではこうした発見と反省点があったので、次はそれを生かしてさらに完成度の高い旅を目指そうと思います。もともと北極に行くことを決めたのは、太陽の昇らない極夜の世界に未知の臭いを嗅ぎつけたということがあったからでもありました。太陽が昇らない世界ってどんな世界なんだろう。そこで旅をできるのだろうか。自分がどっちに進めばいいのか分かるのだろうか。そんな興味があるので、今年は冬の北極圏に行こうと思っています。一応目的地は決めていますが、この旅がどういう結末になるのか自分でも分かりません。
◆今、六分儀を使った天文航法の勉強をしていますが、果たして氷点下50度を下回る環境下で、恒星や月を見て位置の観測ができるのか不明です。しかしそれだけに旅に対する期待感も膨らんでいます。できることなら今後何年間か極夜の北極に通い、北極とはどんなところなのか、そこで生きることとはどういうことなのか、何か言葉を見つけることができればいいと考えています。
■山形県には、在来作物(ざいらいさくもつ:ある地域で、世代を越えて、栽培者自身によって種苗の保存が続けられ、利用されてきた作物)が他の県に比べて数多く残っています。そうした在来作物とその種を守り継ぐ人々の姿を通して、農と食と地域の豊かな関係を描いたドキュメンタリー映画「よみがえりのレシピ」が、いよいよ東京でロードショー公開となります。監督は、山形県鶴岡市出身の渡辺智史さん(31歳)。「この映画を創りたい!」という彼の熱意に動かされ、有志による製作委員会を立ち上げ、多くの方から市民プロデューサー(寄付)として支援していただき、ようやく完成した映画です。地平線会議の皆さんにもぜひ観ていただきたい映画です。どうぞよろしくお願いいたします。(山形県酒田市 飯野昭司@映画「よみがえりのレシピ」製作委員会)
◆劇場:ユーロスペース(渋谷区円山町1-5 KINOHAUS3F/03-3461-0211)
◆上映時間:10:00/12:00(10/20〜26)、10:00/12:00/14:00(10/27〜11/9)、10:00(11/10〜16)
※11/17以降は未定
9月の地平線通信は、8月の400回記念集会の特別報告号となり、締め切りぎりぎりに届いた原稿もあり、ページ数は急遽20ページになりました。印刷、封入に汗をかきに参じてくれたのは、以下の方々です。ありがとうございました。
森井祐介 車谷建太 緒方敏明 久島弘 江本嘉伸 満州 八木和美 日野和子 杉山貴章
■先月号の通信で告知した坪井伸吾さんの故郷・和歌山での「世界の果てに行ってきました」展、大盛況のうちに終わったようです。おそらく、こんな展示会兼講演会をした人は、地平線会議にも他にいないのではないかな。以下、人生始まって以来の快挙をなしとげた本人から今朝届いたメール。
◆「前回、通信で案内していただいた和歌山での展覧会無事終了しました。緒方さん&野宿党と和歌山のアート関係の方たちがボランティアですべて手配してくれ、僕はただその場にいたという状況でした」
◆「連日、講演会はほぼ満員。初日は女子高生30人が課外授業として来てくれる、ということで一般と分けて2回にし、3時間連続。開催中に急遽、和歌山大学観光課からも講演依頼が入ったため6日連続、7回講演といままで経験したことない状況に。でも来てくれた人は楽しんでもらえたと思っています。連休だったのに3度も4度も来てくれたリピーターもいたので」
◆実は、ひそかに現地行きをねらっていたのだけど、結局行けなかった。北極の山崎哲秀さんも飾り付けには参じてくれたらしい。盛況、おめでとう!坪井君(江本嘉伸)
ひもじい北極圏
「今回はひもじかったなー」と9度目の北極圏居候暮らしを振り返るのは、街道憲久さん(63)。東海大学カナダ北極圏調査隊員として'70にケンブリッジ・ベイに長期滞在し、先住民イヌイットの文化に出会います。カリブーやアザラシなどの狩猟を生活の根としたイヌイットの暮らしは、個人の生活技術と“食う”ことが直結した日々。“お金なんか無くてもなんとかなるさ”というおおらかさがまかり通る時代でもありました。 ハードだけどシンプルな彼等の生き方に魅せられた街道さんは、時には家族連れで、時に一人で現地に通い続けてきました。しかし、次第にイヌイットの生活も「お金」と「効率」に染まっていきます。この夏の9年振り9度目の訪問では、なかなか狩に出られない友人の姿を目にし、居候がしづらい時代になったと実感しました 今月は街道さんに、イヌイットの世界の魅力を語っていただきます。 |
地平線通信 402号
制作:地平線通信制作室/編集長:江本嘉伸/レイアウト:森井祐介/イラスト:長野亮之介/編集制作スタッフ:丸山純 武田力 中島菊代 大西夏奈子 落合大祐 加藤千晶
印刷:地平線印刷局榎町分室
地平線Webサイト:http://www.chiheisen.net/
発行:2012年10月17日 地平線会議
〒160-0007 東京都新宿区荒木町3-23-201 江本嘉伸方
地平線ポスト宛先
pea03131@nifty.ne.jp
Fax 03-3359-7907 (江本)
◆通信費(2000円)払い込みは郵便振替(料金が120円かかります)、または報告会の受付でどうぞ。
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議
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