2012年9月の地平線通信

■9月の地平線通信・401号のフロント(1ページ目にある巻頭記事)

地平線通信表紙

9月12日。東京は相変わらずの残暑だが、富士山には初冠雪。平年より18日早いのだそうだ。この日、陸前高田の「奇跡の一本松」の切断作業が始まった。来年2月までに震災復興のシンボルとして現在の場所に立ち姿のまま保存する計画という。

◆きのう9月11日は3.11から1年半というので各メディアは一斉に被災地の今を伝えた。その中のひとつに南三陸町の防災庁舎、そして気仙沼に今なお打ち上げられたままの大型漁船の姿が各局のテレビでうつされていた。先月号の通信で宮本千晴氏がこれら遺構の保存の必要を書いている。辛い思い出を忘れるために、一刻も早く壊してほしい、という遺族の心はわかるが、これだけの災害なのだ。慎重な議論を重ねて欲しい、と思う。私も何回か目の前にして、これはなんとしても後世のために保存すべき、と感じている。

◆9月8日土曜日の朝、いわき市行きの高速バスに乗った。ゆったり座ったまま、八重洲口から3時間あまりで湯本インターバス停へ。渡辺哲(あきら)さんが、車で待っていてくれた。警戒区域が解除され、自宅のある楢葉町への帰還が許されたのは8月10日。南相馬市小高区と同じく家に泊まることはできないが、昼間、帰宅するのは自由、という状況だ。福島には何度も行っているが、楢葉町への道は、常に厳しいゲートに阻まれ、入ることができなかった。その楢葉に渡辺君の案内で初めて入れるのだ。

◆海沿いの町を行き、まず小名浜の「みなと食堂」で魚定食を。3.11以来、この食堂は4回目だ。しばらく海沿いを走り、ガレキの山を抱えた豊間の中学校を見やりながら、広野町を経て楢葉に向かう。ゲートのあった地点から車でならほんの5分も走らないうちに「あそこです」と哲君が左前方を指した。かたわらを小川が流れる緑の農園に渡辺君の家があった。10何年か前に建てたしっかりした構えの二階家だが、勝手口のガラス戸の一角が無惨に切り取られ、事件のあったことを語っていた。避難してそう時間が経っていない頃、卑劣な泥棒が侵入したのだ。装飾品などが盗まれた、と聞いた。あたりは本来なら稲穂が実る田園地帯。今は、雑草が茂るにまかせていて、住み慣れた町の変貌ぶりに、住民たちは息をのむだろう。庭で誰かが動いている。「やあ、こんにちは」渡辺君の父上だった。

◆渡辺君はいわき市内のアパートで両親と住んでいる。帰宅できるようになって1か月、父、尚(ひさし)さんは頻繁に家に来て荒れ果ててしまった庭と家の周辺を手入れをしている、という。「狭いアパートにいるより、よほどここがいい」と言いつつ汗を拭いながら、きびきび動く姿は小気味良く、67の年齢には見えない。「でも、ほとんど人は来てませんよ」。そう言えば、尚さん以外に四方八方、人影はない。

◆軽トラが停まった。「防犯パトロール中」のステッカー。いやあ、ご苦労様です、と挨拶、知り合い同士、町内の様子を話しあっている。「夜は野性の王国ですよ」と尚さん。「イノシシ、ヤギ、ハクビシン、タヌキ……」夜間は動物たちの目が光るのであちこち動いているのがわかる、という。「ほら、家のこの草の道」と指差す草むらは確かに獣(けもの)道が。イノシシが家族連れで通るのだそうだ。

◆一見のどかな緑の平野を行くと,あちこちに壊滅状態の家々があらわれた。何も手がつけられていない。それほど壊れていない町並みも、人っ子ひとりいない。南相馬市小高区で感じたのと同じ「無人」の不気味さがここにもある。原発被害を象徴する風景だ。海辺に向かうと、やがてついに「2F」が見えてきた。「東電福島第2原発」。1号機から4号機まであるが、そのすべては見えない。

◆楢葉町全域に避難指示が出されたのは昨年3月12日朝だった。「南方向へ」というだけで、具体的に避難先の指示はなかった。住民たちは不安を抱えたまま、何か所も避難所を転々とした。3月15日には40才未満の避難住民にヨウ素剤が配られたが、服用はしなかった、という。7300人の町民の受難は、その後も続き、8月10日、ようやく警戒区域から一時避難解除区域へとなった。

◆車一台通らない広い舗装道路を走りながら、今回の「解除」決定への住民たちの複雑な受け止め方を感じた。夜間、町内は無人状態ですでに多くの盗難が発生している、という。 水、下水、電気などのライフラインはまだ復旧していない。病院もスーパーも再開していない。そして、除染が不十分なこと。なんということか。原発からの避難がもたらした荒廃。人々は今後どれほどの長い時間、この不条理と戦わなければならないのか。(江本嘉伸


先月の報告会から

映像と語りで考える地平線会議

   400回のきのう・今日・明日

━━歩き続ける者の系譜━━

2012年8月17日14時〜21時 新宿区スポーツセンター

── 1 ──
アマゾン・トウチャン一家との40年
関野吉晴(映像)
トーク・野地耕治+江本嘉伸

■金曜の午後2時前。少人数でこじんまり始まるのかと思いきや、既に30人程が集まっている。会場は通常あるテーブルが後ろにまとめられ、前は椅子だけが並んだ状態。早く来てその作業を行なってくれた人の中には、ベビーカーで娘さんを連れた三羽宏子さん(関野吉晴さんと少女の交流を追った映画「プージェー」の日本語訳を担当)の姿もあった。他にもお子さん連れの黒澤聡子さん(ブラジルで日本語教師。旧姓後田)や山田美緒さん(まんてん号でアフリカひとり自転車旅。旧姓山崎)など、久しぶりの顔がちらほら。これぞ400回! そして地平線会議33回目の誕生日だけあって、いつもとは違う、華やかな雰囲気だ。

◆しかも参加者には丸山純さんの作った、全400回の報告会と通信(報告会予告)を網羅した小冊子「立待月宴覧(たちまちづきえんらん)」が配られるという、豪華すぎる特典も! 来なきゃ損ソンッ! なーんてテンションの上がる中、全体進行の丸山さんが挨拶をされ、報告会が始まった。会場は60名、70名と増え続け、いつの間にぎっしり状態に。

◆第一部は、関野吉晴さん。先月の地平線通信に「400号到達記念特別寄稿」として掲載された関野さんの「40年目の再訪」。私は4ページをぐいぐい読まされてしまった。ペルーのアマゾンに住む、マチゲンガ族のトウチャン一家。関野さんは9年ぶりの再訪に、現地へと向かっている。よって第一部はご本人不在の中、江本嘉伸さんと野地耕治さんのトークで始まった。野地さんは、「グレートジャーニー応援団」の事務局長を長く務められてきた。「もとは上智大学探検部のOBで、アグレッシブな活動をしていた」と江本さんから紹介されると、「全然アグレッシブじゃなかった」と謙遜する。

◆学年で3期(年齢は2歳)上の野地さんが、最初に関野さんと出逢ったのは上智大学の探検部の部室だった。一橋大学に入学した関野さんが見学に訪れたのだ。当時上智の探検部員は少なく、部室にいたのは2人だけ。結局、関野さんは早稲田の探検部に出入りするようになり、また岡村隆さんもいらした法政の探検部とは一度マチゲンガへ一緒に訪れたそうだ。縦横無尽な学生の交流を聴き、眩しく思う(かつ、己の学生時代と比べて、とほほと思います……)。

◆関野さんの処女作は『ぐうたら原始行』(1974年)。編集に興味のあった野地さんが発行元の山と溪谷社の編集部に顔を出していたため、親交が深まった。(その後、マチゲンガの写真集を出したいという関野さんに、野地さんが絵コンテを切ったりもしたそうだ)。さて、今回メインの秘蔵映像は、関野さんがマチゲンガに通い始めて10年目、82年に取材されたもの。当時、高視聴率で予算が潤沢だったドキュメンタリー番組のあった日本テレビを訪ね、関野さんが話を取り付けた。江本さん曰く「結婚をしたのもこの頃。確か新婚旅行を兼ねてマチャピチュ遺跡を訪ねてからマチゲンガの森に入った」。

◆数千万円という大きなお金が動いたため、受領先に野地さんの会社を使うことになった。カメラマンは「自分の好きな時に撮影ができるように」と野沢温泉で小さな食堂を開いていた義江道夫さん。関野さんに惚れ込み、儲けは度外視、予算は全て撮影につぎ込んだ。番組の枠が潰れたため、作品として残ったのは今回の1本のみだという。丸山さんが「今では撮れないような、文化人類学的な資料性の価値もある映像」と紹介。編集で少し短縮した35分。秘蔵映像がいよいよ観られる!

◆「アマゾンとそこに住む人々の魅力に取りつかれた一人の日本青年。関野吉晴34歳」。名古屋章さんのナレーションに重なり、34歳の関野さんの映像が映ると、会場からは「わ、若い!」とどよめきが。車を走らせ標高3400メートルのクスコから、パンチャコーヤの入り口の町、シントゥーヤへ。馴染みの村でポーターを頼み、船で川の支流を遡り、重い荷物を背負って湿気の高い密林をブヨと格闘しながら進む。世界唯一の秘境・パンチャコーヤのトウチャン一家の元へ、5年ぶりに逢いに行く関野青年の様子が「冒険」として描かれていく。

◆焼畑の跡から家を見つけ、川へ向かうとトウチャン一家がいた。久しぶりだからか、全員がじっとこちらを見てニコリともしない。みな上半身裸で、カメラを意識することのない瞳が印象的だ。前回9歳だった次女のラン(オルキーディア)ちゃんは14歳に。年頃になり人懐っこさは消えている。

◆「ランちゃんだった。トウチャン一家の元気な顔が並んでいた。みんな元気だった」。関野さんの朴訥なモノローグの声が被ると、冒険行の模様から一転、一家の暮らしが丹念に映像へ切り取られていく。守り神とされている扇鷲の子供(白くてふわふわ!)を捕まえ育てる様子や、猿を解体し(つるんと皮がむけた!)、煮て、家族全員で仲良く食べる様子。近くの山からとれる黒粘土での土器作りを、ランちゃんに教えようとするカアチャン。ジャングルに入り焼畑のため木を切り倒すトウチャンに、見よう見まねで小さな木を切り倒す末っ子のゴロゴロ。手狭になった家の建て直しでは、木の幹を木の皮で固定し、シュロに似た植物の葉っぱをかぶせて屋根にする。傍にあるものでなんでも賄える生活は、一家の誰もが迷いなくやるべきことを行い、すべてが完結しており、なにも足すものがないように観えた。

◆片道3泊4日かけての一家での魚取り旅行。漁は男性が川上に魚の痺れる樹液を流し、流れてくる魚を下流にいる女性や子供が手づかみにする。みんな楽しそうで、行楽を兼ねているみたいだ。帰り道にはバナナも収穫し、ぞろぞろと帰って来た。関野さんが帰る前の別れの酒宴では、猿の皮で作った太鼓を鳴らし、唾液と混ぜ合わせて芋を発酵させて造ったお酒を呑み、一家はみな酔っ払い、陽気になっている。自然と一体となり日が暮れると眠るトウチャン一家だが、この日は徹夜で呑み、踊るという。

◆映像が終わり、短いトークの時間に。真っ先に、最前列で映像に見入っていた「サバイバル登山家」の服部文祥さんが、江本さんから指名される。まず「関野さんがいると思って来たのに……」と、少々不満げな服部さん。「縄文時代のような生活に現代人は戻れるのか」と関野さんに聞いたことがあるそうだ。答えは「技術的に戻れる」。服部さんもそう思うが、戻らない。関野さんもそういう暮らしを求めてアマゾンに行っているのに、なぜ戻らないのか。そこを詳しく聞き、語り合ってみたい、と言う。

◆「関野さんの原点はマチゲンガにある」と言うのは野地さんだ。今回の再訪でまた通い始めるのかは判らないが、基調にあるのは「自然と共に生きる人の生活に学びながら旅をする」ことで、それは変わらないと思う、と。「海のグレートジャーニー」の応援団長・岡村隆さんは、来年3月からの国立科学博物館での展示「グレートジャーニー展」に合わせ、関野さんが100人の人々と「どうやれば我々は生き延びていけるのか」をテーマに、真正面から語り合う企画を進めている。岡村さんも言う。「やはりマチゲンガは関野さんの『思想性の原点』。身体に染み込ませ、変わらずに生き、いまはそれを発展させている時なのではないか」。

◆関野さんの報告は1回目の1980年から、(この日も数えて)20回を重ねたそうだ。地平線会議の33年は、そこに集う人達の33年でもあるのだ、と改めて思う。グレートジャーニーをやっていた関野さんが訪ねた時、トウチャンは木から落ちて亡くなっていたことは、8月の地平線通信で書かれていた。いまカアチャンはじめ一家の皆さんはどうしているのだろう。映像で14歳だったランちゃんは現在44歳。早く、聴かせてほしい。21回目の報告で!(加藤千晶

── 2 ──
モンゴル ゴルバンゴル学術調査とは何だったか
進行・長野亮之介
トーク 江本嘉伸+明石太郎

■丸山さんのお話によれば、地平線会議の歴史には一時期停滞する程の謎の空白時間があったという。なんでも、代表世話人の江本さんがあるプロジェクトに関わり、毎年数か月モンゴルに入り浸っていたようなのだ。その名も「ゴルバンゴル学術調査」。いかにも謎めいたネーミングである。はたして草原で何が起こっていたのか。第二幕では、ついにその謎のベールが貴重な映像と共に開かれるのであった……。

 時は1989年。モンゴルの大変革時代。ソ連の歴史教育によって永い間禁句とされていたチンギス・ハーンの名は、社会主義崩壊と共に「民族の英雄」という輝きを放とうとする時期だった。その直前、江本さんと、当時のモンゴル科学アカデミー総裁であった著名な原子物理学者、ナムスライン・ソドノムさんとの出会いから、壮大な計画は動き始めていた。「この人がいなかったら、実現しなかった。総裁は、実に興味深く話しを聞いてくれた」と、江本さん。

◆ゴルバンゴルとは「3つの川」の意で、モンゴル北部、ロシア国境近くのヘンティー山脈付近を源流とするオノン、ヘルレン、トーラ川のことを指す。歴史的文献によれば、チンギス・ハーンはこの地で誕生し、チンギス・ハンの陵墓もこの地域のどこかに眠っているという。89年から93年の足かけ5年間、日本が技術、資金、人材を提供し、両国の考古学者(当時モンゴルには考古学者が7名しかおらず、学術交流も兼ねていた)を中心に日モ合同でチンギス・ハーンの陵墓を探る計画が実現することとなったのだ。とは言え、その陵墓は天皇のお墓のようなもので、むやみに掘ることは許されない。毎年4〜8月のツンドラ(永久凍土)の地表2mの氷が溶ける時期を狙っての科学物理調査という形式で行うこととなった。

◆現地スタッフは報道陣を合わせれば、多い時で50人程。移動しながらベースキャンプを拠点に活動する為、コックが必須であった。そんな大役に抜擢されたのは、なんと当時30才の地平線イラストレーターの長野さん。江本さんが長野さん宅で食べた手作り豆腐が美味しかったことがキッカケで、素人同然の長野さんは、辺境の地で3年間(毎年3、4か月)、大所帯の胃袋を任されることとなる。当然失敗は憶測できる。「モンゴルのような特殊な状況下ではチームワークも大事。結局のところ、信頼できる人間関係で判断する」そう言い切る江本さん。というのも、料理以外でも酔っ払ったモンゴル考古学者への対応など、日々総合的な人間力が求められたのだそう。それでも後日、カップ麺メニューに耐えかねた総隊長の江上波夫さんから「調査では、美味しい食事が必須。あの料理はなんだ」とのクレームが新聞社にきたときにはヒヤッとしたというエピソードに会場は笑いに包まれた。2年目には、同じく地平線イラストレーターで料理に腕の立つ三五康司さんも参加している。

◆会場では、当時のドキュメント番組(一年目の調査)が流された。今は亡き坂野皓さん演出の映像。椎名誠さんがリポーター役を務め、江本さんと時を同じくしてプロジェクトを発案していた開高健さん(調査が動き出す前に無念にも逝去された)の語りが「モンゴル遊牧民は一切跡形を残さない。全ユーラシア帝国の首都であったカラコルムでさえ、残ったのは亀の像一つ。徹底している。謎です」と、視聴者の好奇心を掻き立てる。「スポンサーに絶大の信用を持つ開高さんの力は大きかった」と江本さん。サントリーをはじめ、大手4社から集まったお金は10億円を越えた、と伝えられる。当時の日本の勢いを表す豪快な数字だ。

◆ドキュメンタリーの冒頭は90年4月の学術調査隊発足式のシーンから。モンゴル政庁前に集まった群集。旗が掲げられ、闘いの踊りなどのセレモニーの重厚な雰囲気が、チンギス・ハーン復権直後という凄いタイミングであったことを伝えている。8台の新型パジェロが、道無き轍を進んでゆく。「ガソリンは配給制で、貰うのが大変」。車で入れない場所には馬で行き、大スケールの捜索にはヘリコプターでアタリをつける。時間節約の為にもヘリは何百回と活躍した。

◆番組では、調査の紹介と平行してモンゴルの風俗にも触れている。旧正月に一家の長老が子供達にキスをするゲルでの風景、熊やノロジカの駆ける広大な土地、羊の屠殺や馬の出産などの遊牧生活やナーダムの様子など、どれも当時のお茶の間にとって鮮烈な映像であったに違いない。

◆ここで会場ではもう一人、フリーカメラマンの明石太郎さんが紹介された。明石さんは1986年の開高さんの釣り番組で、初めてモンゴル入りを果たしている。民主化前の当時は飛行機が無く、3トンの荷物を列車とバスで運んだという。開高さんとの繋がりから声が掛かり、後発の別動隊としてゴルバンゴル調査隊に参加し、花や動物などの自然風景の撮影を行っている。元々は野生のカメラマンではなかったそうだが、87年の防衛大学登山隊の記録映画の撮影中に6000m地点で偶然収めたユキヒョウの動画は世界的な快挙だったそうだ。明石さんは、チベットの報告会に登場している貞兼綾子さんの旦那さんであり、恵谷さんや関野さんに同行したりと、地平線会議と縁の深い方でもある。

◆さて。土を掘らずして、陵墓の位置を探る科学調査とは、どのようなものだったのだろう。登場したのは、ワゴン車に電磁調査機が搭載された、その名も「ハイテク地下探査機」。見た目がどうしてもローテクに映ってしまう辺りにも時代の流れを感じる。これは磁気探査法と呼ばれ、地下に流れる特定の磁場を計測し、固有の値から空洞や鉄製品を探るというもの。考古学者達があらゆる場所を歩き倒し、モニターの数値とひたすらに向き合ってゆく。3年目にはヘリコプターから吊るしたアンテナで探査する「空中探索」も展開されたそうだが、果たして、その成果はどうだったのか……。

◆番組の後半では、チンギス・ハーン時代(1320年頃)以前の青銅器時代の祭祀場跡などの発見が紹介されていたが、確かにこの度の真相は土の中である。それをドラマチックにカメラに収めることは、全てが解き明かされた時でなければ不可能なのであろう。現場を振り返るコック長野さんの「何が起きているかわからなかった。墓の跡を見ても、ただの石ころの集まりにしか見えない」という言葉が妙にリアルであり、歴史的大発見へ歩む道のりの、気の遠くなる程の奥深さを物語っているようだった。謎の究明へと向かうプロジェクトの大きなうねりと、関わる人々の熱意がひしと伝わってくる迫力から、この時代に遂行すべき探検の意義を感じることが出来た。時折、場面に映り込む当時の江本さんや三五さんの姿には、皆さんから一同に「若いねぇ〜!」の声があがり、別の意味でも見応えがあった。

◆かくして、謎の空白時間の内容は明らかになった。モンゴルの大変革時代に、江本さんはどえらい企画を打ち上げ、全力でぶつかっていたのだ。1人の物理学者との出会いが大きなうねりへと繋がっていた。江本さんはソドノムさんはじめモンゴルの友人たちの協力で関係各省、軍、委員会の難関をクリアし、合同学術調査の実施に漕ぎつけた。長年、タブーだったチンギス・ハーンに初めて触れるという凄い責任感を持って壮大な計画に挑んでいた。計画自体は社会主義モンゴル時代に決まったため、民主化の大きなうねりの中で一部からは「なぜ日本人にやらせるのか」と、批判も起きた。「そういう問題に対応するため、私自身は毎年毎年、草原とウランバートルを往復する日々だったね」と、振り返る。

◆全編を通じて一番心に残ったのは、当時あれだけの重圧を抱えていた江本さんが語った「結局は人と人との人間関係」の一言。「本気さや信用はどこの国でも共通だ」。実に江本さんらしい言葉だなぁと思う。全てのプロセスに通ずる本質を表しているように感じた。(車谷建太

── 3 ──
400回を祝う、豪華コーヒー・ブレイク

■じゃじゃーん! 第3部・コーヒーブレークの様子をお知らせします! まず、なんといっても「海宝亭」。偉大なる海宝道義シェフのメニューはオープンサンド! 海宝流特製燻製の鮭、海宝流生ハム、骨付きハム、海宝流リエット(パテ)。そしてレタスとサラダ菜。これらをパンにお好みで載せて頂く、わくわくする一品です。もちろん単品でもめちゃくちゃ美味しい鮭やハム。じっくり味わいたい、勿体ない、とパンに載せずに頂く輩も続出。我先にと殺到する欠食児童達にも動じず、にこにこと骨付きハムを切り分けたり、メニューの説明をしてくださる海宝シェフの背後に後光が見えました。

◆また、海宝シェフを手伝い、報告会の間中ずっと後で準備してくださっていた関根五千子さん、尾方康子さんら海宝チームが「ドリンクバー」を開設。様々な飲み物を給仕してくださいます(コーヒー党の江本さんは、報告会のさなかにも入れたてのコーヒーを運んでもらって大感激。武田力さんの顔がやたら赤かったのは、裏メニューの黄金色の飲み物がこっそり提供されたからという噂も!?)。

◆食べて飲んだところで、デザートは「原ケーキファクトリー」。原典子さんがとっても美味しいケーキ各種を、素敵なお祝いメッセージとともにお送りくださいました。ほかにも、酒井富美さんからは和菓子のご提供が。和洋のデザートも揃って、ご、豪華すぎる! 軽食、飲み物、デザート、全てのテーブルに人が殺到し、会場はほぼ1時間、なにがなんだか判らない事態です。そして全員がお腹いっぱい。おもてなし心溢れる、豪華コーヒーブレイクでした。

◆って、食べ物のご紹介に終始しちゃっていますが、この時間、車谷建太さんと山本豊人さんを中心に、若手で「茶話会」開催予定が、「これは食べるので忙しいよ!」「食べよう食べよう!」とみんな勇んで食べ物に走ってしまったことを、小さくなってここにご報告します。美味しいものばんざい!! 海宝さん、海宝チームのみなさま、原さん、酒井さん、どうも有難うございました!!(来られなかった人を羨ましがらせたい、加藤千晶

── 4 ──
ドキュメンタリー「アフガニスタン最前線」
上映と解説
惠谷治 明石太郎
進行・丸山純

■真っ赤に煮えたぎる溶岩池。それは19歳の惠谷治さん率いる早大探検部による、三原山火口底の映像だった。 テレビ東京でドキュメンタリーとしては初のカラー映像で放送されたという。映像の中で、恵谷さんはこの探検の意義を語った。「火山国日本において、我々日本人が活火山の真の状態を知らないというのは非常に残念だ。だから自分たちの手でやってみたいと思った」。早大探検部のリーダーとして三原山火口底を探検するにあたり、恵谷さんには、撮りたい映像がはっきりイメージされていたという。真っ赤にうごめく溶岩の力強さは、人々の心を大きく揺さぶる。 当時はテレビ放送がモノクロからカラーへと移行していった時代だ。モノクロが主流だった事を考えると、色が与えたインパクトは凄かったのだと思う。報告会で三原山火口底の映像を流したあと、会場はその迫力に圧倒されたように、しばらく静まり返っていた。

◆三原山の映像に続き、ソ連侵攻1年後のアフガニスタンへの潜入映像に移った。この時の潜入取材は恵谷さんとカメラマンの明石太郎さん、そして今は亡きディレクターの坂野皓さんの3人で行われた。報告会では、惠谷さんと一緒にカメラマンの明石さんも同席した。当時恵谷さんと明石さんは32歳。坂野さんは33歳。

◆3人はパキスタンから不法越境してアフガンのゲリラ解放区に入った。外国人ジャーナリストである事が見つからないように、帰国するアフガン難民に化けて国境を越える。 恵谷さんは蒙古系のハザラ族、明石さんと坂野さんはタジック族に成り済ます。 アフガンは黒色人種以外なら、誰でも何れかの部族になれるほど、民族的に多様な社会だと言う。 パキスタン側では数えきれないほどの検問があり、毎回緊張の連続だった。カメラやフィルム、電池等の機材を隠し、検問を切り抜ける。苦労したそのシーンを撮影できれば、どれだけ緊張感のある映像が撮れたかと、今では思う。しかし当時はカメラ自体が大きく、見つかってしまえば取材自体が水の泡となるため、発見されないように慎重に検問を抜けたそうだ。パキスタン政府の権力が及ばないトライバルエリアを経て、アフガニスタンに入国する。

◆ペシャワール郊外にあるゲリラ事務所に毎日通いコミュニーケーションを密にとる。その結果、惠谷さん達はゲリラ司令官の信用を獲得して解放区への潜入を許可された。外国人ジャーナリストとしてゲリラ達の信用を獲得するとはどういう事なのか。また、それはどうやったら獲得できるのか。ゲリラ側からすれば、相手は日本人ジャーナリストを名乗るスパイかもしれない。仮にスパイでは無かったとしても、前線への同行によって護衛に犠牲が出る可能性など、リスクは数多くある。そんな状況の中で、恵谷さんはゲリラ司令官に対し、「我々はこれだけアフガンのゲリラの事を勉強して知っている。しかし分らない点がある。それを知り伝えるためには現場への同行が必要なのだ」と、自分たちの蓄積を伝えるそうだ。

◆ゲリラに同行し、潜入した戦地で印象深い映像がつぎつぎと続く。敵地に近い解放区の村人の様子が映し出される。ソ連軍に橋を落とされても、3日後にはワイヤーブリッジを架けて、村人はしたたかに生きている。ゲリラ達は羊の革で作った浮き袋を持って、冷たい雪解け水に次々と飛び込む。急流の中を渡っていくゲリラ兵士達の映像も強く印象的だった。補給路を巡って争った時に破壊されたソ連軍装甲車。ゲリラ軍の上空を飛ぶソ連軍ヘリ、戦闘現場に放置された敵兵士の死体の数々。そして夜間の戦闘シーンなど生々しい戦場の映像が流れた。明石さんの撮影に対する姿勢にカメラマンとしての覚悟を感じた。機材を壊さないように重くても自分で担ぎ、 危険な状況でもカメラを回し続けていた。

◆ゲリラ兵士達のラマダンの様子は敬虔なイスラム教徒としての姿が伝わってくる。ゲリラ達はラマダンで断食をしている時も、同行する恵谷さん達のために食事を作ってくれたそうだ。そこにはイスラム教徒としての戦いと祈りが映されていた。

◆惠谷さんは信条として、取材前に二週間ほど現地語を徹底的に学ぶという。 なるべく現地語で対話したい。生活に必要な単語の100から200であれば、本気でやれば2、3日で覚えられると言う。また、第三世界で文字が書けるという事はインテリの証。現地について勉強している証明にもなるから、コミュニケーションに有利なのだという。

◆そして何よりも、恵谷さんは武器に詳しい。ゲリラと対話する時に武器の知識は非常に重宝するという。実際、CIAが賞金を懸けて探していた、ソ連製の新型銃も発見したそうだ。しかし、その一方で恵谷さん自身は戦地でも武装しないという信条を持っている。なぜ武装しないのか。自分が武装するという事は相手を攻撃する可能性があるという事だ。同時に相手からの攻撃を認める事になる。殺されたくなければ戦地に行かなければいい、自ら戦地に向かうのだから殺されても仕方がないという考え方だ。数々の信条に恵谷さんの取材に対する覚悟が垣間見えた。厳しい山岳地帯を徒歩で300km、35日間のゲリラ解放区の取材映像だった。

◆二次会でも餃子を食べながら 、恵谷さんに幾つか話を伺った。「より危険で過激な場所へと関心がエスカレートしないのですか?」という質問に対して、「戦地では爆撃や銃撃戦など、危険は常に身の回りにあるものであって、自ら求めるものではない。」そこへ岡村隆さんから間髪入れず、「そこが探検と冒険の違いだ」と。現場を知るための危険は受け入れるが、自ら危険を求める事はしないのだ。

◆また、恵谷さんが「うれしい瞬間」についても伺った。現地について勉強して、粘り強く、慎重に、ゲリラと対話する。もし知らない事柄があっても、あからさまに「知らない」とは言わない。常にゲリラとのコミュニケーションの中から、新しい情報を吸収していく。「前線の現実をもっと知りたい、伝えたい、そのためには同行が必要だ」という思いを誠実にゲリラ司令官にぶつける。相手が誰であろうと、ひとりの人間として、媚びる事なく対等にぶつかっていく。そこに国や民族、立場の違いは関係ない。一言一言丁寧にコミュニケーションを積み重ねた結果、得られる信用なのだ。戦地への潜入で、最高にうれしい瞬間はゲリラ司令官から同行を許可された時。「明日、前線へ行くからついて来い」と言われる時だという言葉が印象的だった。

◆報告会では、戦場の迫力映像と共に、3人の信頼感が言葉の節々から伝わってきた。命を賭ける覚悟で、仕事に取り組む。今現在33歳の自分を振り返ると、全然覚悟が足りていないので反省をしつつ、しかし同時に勇気をもらったような報告会でした。(山本豊人

── 5 ──
描き続けた「地平線」
絵師・長野亮之介が見続けた地平線会議の400回
進行・丸山純

「きっと誰よりも真剣にこれまでの400回を考え、見つめてきた人」。進行役の丸山純さんにそう紹介され、長野亮之介さんが本職のイラストレーターとして登場した。

◆長野さんが初めて通信に絵を描いたのは1984年発行の第62号、26歳のときだったという。手書き文字びっしりの紙面がもっと読みやすくなればと、高野久恵さんが旅したヤミ族にちなみ、彼らが乗る美しい船をはがきいっぱいに描いた。それから28年間、手がけた予告イラストは300点を越える。

◆このパートは編集者の立場で数々の作品を共に生み出してきた丸山さんから、問いが投げられる形式で進んだ。この日来場者を驚かせた「立待月宴覧」は2人の最新作だ。さて最初のお題は「画伯が選ぶお気に入り」。予告イラストがスライドに映され、エピソードが明かされると会場は大笑い。被写体からは「似てない!」と嫌がられることが多いそうだが(とくに女性)、「ほめられるのも嬉しいけど、けなされるのもとても嬉しい。作品が認識してもらえたって」

◆「ヘタですね!」酷評の電話がかかってきたのは服部文祥さん(287号)。しかし周囲には好評だったようで、自身の講演会で絵を使うことにしたと聞き長野さんは「勝った!」と思った。実は自信作だった。

◆顔のパーツが整っている人はデフォルメが難しい。たとえば関野吉晴さんは、髪型だけ本人っぽくして顔はもうあえて記号化し(!)、人類の軌跡をたどる旅になぞらえ丸裸の猿人に描くのが定番に(269号)。「偉大な探検家をこんなふうにしてしまっていいのだろうか!?」と葛藤しつつ、地平線だから茶化しちゃおう!と。「かっこよくなっちゃうから」という理由で目も描いてもらえないのは宮本千晴さん。「大先輩なのにホントすみません!」と、公開謝罪も。

◆「絵に人物のほうが近づいていく宿命もある」と丸山さん。鰐淵渉さんは頭から爪先までワニにされてしまったが(293号)、鰐淵さんが最近ワニらしくなってきたという衝撃の情報が!(???) おでん研究家の新井由己さん(220号)の場合は「描いていたらハゲ頭のチビ太になっちゃって、なんかはまった!」と自画自賛。根拠のないヒドイ描かれかたをされた被害者は後を絶たないが、読者は楽しいし、好奇心をくすぐられてその人に会ってみたくなる。

◆次のお題は「絵描きとしてエポックになった絵」。「独学だったし自信がないから顔を隠して描いた」のが賀曽利隆さん(67号)。ヘルメットをかぶり後ろ向きのふんどし姿で、熱狂的ファンの物議を呼んだ。早く人間になりたーい!のは坪井伸吾さん。「アマゾンといえば動物かな?って」奇怪な半魚人(285号)やレオタード着用のウサギ(312号)に。生まれて初めてパソコンを使って描いたアフリカンブラザーズ(114号)はたった5分で完成。「絶対似てねーよっ!」と三五康司ブラザーから怒声が!

◆遊び心で新たな試みも。アフガニスタンの地図にマスードと彼を追い続けた長倉洋海さんを合わせたはめ絵(113号)や、さかさまにすると松尾芭蕉が浮き上がるカヌー旅の吉岡嶺二さん(73号)、ひそかに紙版画や隠し文字などの取り組みも。「仕掛けにだれも気づかないと、しめしめって思うようになった……」と、ちょっと悪い顔に。

◆渡辺剛さんとはスキャンダラスな思い出が(158号)。「なるべく人が来ないように書いてほしい」と本人から頼まれ、本心ではなかったが「今月は一寸報告会に値する人が居なかったんですよ。(中略)年の瀬のあわただしい一日、すっごくどうしてもおヒマな方のみおいでください」と書いたら十数人しか来なかった。報告会史上最低参加人数の記録となり(今も更新中)、仲良しだった渡辺さんとは音信不通に……。

◆絶妙な報告会名と予告テキストも、長野さんが1人で作っている。毎回報告者へ事前に取材して編み出すが、コピーを学んだ経験はないという。思い出すことといえば、こどもの頃父親の影響で世界の文学シリーズにのめりこんだことと、大学の映画研究会でシナリオを書いていたことだとか。

◆長野さんが描く似顔絵は、一瞬でその人のあり方をまるごと伝えてしまうようで、ちょっと怖くもある。人の心の奥にある何かまで敏感に感じとる、野生のアンテナが備わっているのだろうか? なかなか言葉に表せない「っぽさ」を、見事に絵にしてしまうから!

◆後半は即興の似顔絵実演。「目があった!」と急遽モデルに使命されたのは福島県から来た渡辺哲さん。長野さんは左手で頬杖をつき足を組みながらエンピツを走らせ、ときどき渡辺さんを見つめ一呼吸おいてニヤリ。その手元を落合大祐さんがビデオカメラで生中継する。不思議な緊張感が流れ、会場はしんと静かに。「いい機会」と江本さんがマイクを渡し、これまでにも3.11の被災体験を語ってくれた渡辺さんに最新の近況報告をしてもらった。

◆警戒区域で立ち入り禁止だった故郷の楢葉町が8月10日に避難解除準備地域に変わり、3日前に帰れたばかり。まだ人の気配はなく、茂りすぎた草刈りに追われる日々。警戒区域解除について住民アンケートの結果は賛否両論で、補償金が切られることへの心配を抱く反対派の声もあったという。「この続きはきっとまたどこかで」と江本さん。

◆長野さんのほうは、白い絵の具で絵を塗りつぶし下書き線を消して、色づけ作業に入った。丸山さんがそばに来てそっと時刻を伝えると、頬杖をやめて急に机を抱え込むような姿勢に。「締切直前みたいになってきたー」と心臓に手をあてる。

◆開始から20分後「完成!」。ちらちら気になっていた渡辺さん、完成画に言葉なく……。画伯自ら「どうですか?」と尋ねると「どうですか? みなさん……」。たちまち席から拍手がわきおこって、納得(?)。長野さんの持論では「人の顔の記憶って1点しかない。ちょっとした特徴を思いきり大げさに描き、目立たないものは消しちゃいます」

◆4半世紀以上も予告を描き続け、今何を思うのか? 「気づいたら、もうそんなに?という感じです」とあっさりした答えだが、地平線がいつまで続くのかもわからなかった中での素直な気持ちなのだという。「自由にやらせてもらっているようですが、必ず反応がある地平線通信に描くのは緊張する」とは少々意外だが、丸山さんは「画伯の絵がなければ400回も続いてこられなかった」と語る。1回を400回繰り返し、来た道をふり返れば33年も経っていたなんて! 薄い「立待月宴覧」がすごく重く思えた。

◆その間さまざまな歴史的事件にも立ちあった。特に3.11の衝撃。震災直後の予告は、人物ではなく切り株や津波に炎が描かれた抽象画となった。地平線会議の営みに、いつも長野さんの絵がよりそってきた。

◆いち早く報告者の話を聞けるのは特権だと喜び、「予告がそうくるなら報告会はこういこうと思った」と後で報告者からいわれることがあるのも醍醐味だとか。「トクさせてもらってありがとうございます」と話す長野さんを温かい拍手が包んだ。

◆7時間にわたった記念集会もついに終盤! 長丁場にも関わらずどの瞬間も夢中でのめりこみ、あっという間に窓の外は夜の色。慌てて撤収し2次会になだれこむ。餃子でおなじみの「北京」では、惠谷さんと岡村さんが割り箸片手に巻き舌で吠えまくり、伝説のセリ人コンビによる即興オークションが大盛り上がり。夢のようなお祭りが過ぎ去れば次がもう待ち遠しくなるもの。500回目は、2020年12月のようです!(大西夏奈子


報告者のひとこと

情報機関による諜報戦、そして、南条直子、山本美香の“殉職”
━━報告会で話しきれなかったこと
惠 谷  治

 地平線会議400回記念報告会で紹介したビデオ映像のうち、三原山は私が19歳のとき、アフガニスタンは31歳のときの作品であったことを思うと、63歳を迎えた今、改めて深い感慨を覚えざるを得ない。

 アフガンの映像で、自分の頭頂部が禿げかけているのに初めて気付いた私は、急いで散髪に行き、現在のような短髪に変えた。自分の頭頂を見る機会など滅多にないから、その意味でもアフガンの映像作品を制作したことは、本当に良かったと思っている。

 さて、報告会で話しきれなかったエピソードを書いておこう。

 アフガン潜入の事前手続のシーンで、イスラム同志会(ジャミアーテ・イスラム)のナジブッラーが登場したが、個人的に親密になっていた私は、ある日、彼から相談を受けた。当時は、ジャミアーテ・イスラムの事務所があるペシャワールは、世界中の情報機関が入り乱れて、熾烈な諜報戦を展開していた。

「どうも怪しい男がいるんだ。会って何者か判断してくれないか」

 ナジブッラーから相談を受けた私は、ムジャヒディーン(イスラム戦士)に変装して、事務所でその男と対面した。彼はイランのジャーナリストで、ムジャヒディーンの解放区を取材したいということだった。イラン人だから同系のダリー語が流暢なのは当然であり、ジャーナリストというので英語も上手い。しかし、パシュトー語も話せるという。話しているうちに、ソ連軍の兵士の身分証の写真を見せると、ロシア語も解することが判明した。

「ナジブッラー、あいつは間違いなくKGBだ。イラン人と言っているが、タジク共和国あたりの出身で、工作員教育を受けた工作員だ。もう、事務所にも入れないほうがいいだろう」

 以後しばらくの間、私は解放区を取材したいというジャーナリストを、ナジブッラーとともに面接していた。

 アフガンを去って何年もたったある日、私は友人の紹介で、女性カメラマンと出会った。南条直子である。1985年にアフガンに密入国した経験があるが、本格的に取材したいので、信頼できるムジャヒディーンを紹介してくれということだった。はじめは当然ながら断ったが、何度も足を運んで来て、私に訴える。パキスタンのアフガン難民キャンプも取材していたことなども知り、彼女の熱意にほだされて、私はナジブッラー宛ての紹介状を書いて、彼女に持たせた。

 ナジブッラーからも連絡があり、彼女の解放区入りの手筈は整ったということだった。自分の役目は果たしたと安心して、しばらくたったある日、悲報が届いた。1988年10月のことである。南条直子はムジャヒディーンに護衛され、アフガンに潜入途中、地雷を踏んで爆死したというのだ。当時は、今ほどフォトジャーナリストの死をメディアが大々的に取り上げることもなく、彼女の名前を覚えているのは関係者しかいないだろう。

 先日、シリアで死んだ山本美香も、個人的にはよく知っているビデオジャーナリストで、彼女の死を聞いたとき、南条直子の死が自動的に思い浮かんだ。山本美香は45歳、南条直子は33歳で“殉職”したのだった。

 南条直子が爆死した経緯については、ナジブッラーが悔やみの手紙のなかで知らせてくれた。私は不法越境する度に、人知れず、つまり死の経緯が日本に伝わることなく死んで行くのではないか、といつも恐れていた。“殉職”の経緯が判明している南条直子や山本美香は、ある意味では幸せ者だと思うが、心から冥福を祈りたい。

 1989年にソ連軍がアフガニスタンから撤退し、新政権が誕生すると、ナジブッラーは外務大臣となった。しかし、その後、タリバン政権が成立し、ナジブッラーの消息は不明のままである。


[通信費をありがとうございました]

■先月の通信でお知らせして以後、通信費(1年2000円です)を払ってくださったのは、以下の方々です。地平線会議は会員組織ではないので、会費はありませんが、通信を購読される方には、制作、発送のための実費として通信費を頂いています。
石原卓也/南澤久実/三澤輝江子/桜井恭比古/棚橋早苗/藤本亘/安田春子/永井マス子/永田真知子/阿佐昭子/横内宏美/山中俊幸


なまけものの私と関野吉晴とのかれこれ40年

 地平線会議400回記念報告会で、関野吉晴の映像作品「ぼくの恋人はアマゾンの裸族」(1982年取材,83年9月NTVドキュメンタリー特集で放送)を上映するのだが、関野がマチゲンガを訪ねるために不在なので、代わりに当時の関野のことを話してほしい、ということだった。本当はこの時に、関野と一緒に長期間南米で行動を共にし、フィルムを回し続けたカメラマンの義江道夫さんがいれば興味ある話をたくさん聞けたはずだ。しかし、義江さんは関野がグレートジャーニーの途次にある時、野沢温泉スキー場で自分の経営する食堂に荷上げ中、脳出血で倒れ、長い療養生活から再起を果たせず亡くなってしまった。

 どうしてこんなことを書くのかというと、私は関野とは初対面以来40年以上の付き合いがあるが、国内でも国外でも彼がフィールドにいる状況というのをほとんど知らないからだ。単独行を専らとする関野に一番長い間接してきたのが義江さんだったと思う。

 私は上智大学探検部OBということになっているが、入部の動機はただ漠然と海外へ行きたいというだけで、辺境を探るなどという確たる目的があるわけではなかった。当時の探検部は先輩がラップランドの予備調査を終え、次の住み込み調査に備えての雪上訓練を専らとしていた。なまけものの私は数回、山スキーや雪洞訓練などの冬山入門に参加しただけで音を上げ、以来探検部の事務局と自称して夜な夜な街の探検に励んでいた。この頃から裏方人生に足を踏み込んでいたようだ。そして探検部OBが設立したマスコミ集団に属して、編集という作業にのめり込むようになった。

 結局、私がはじめて国外へ出たのは1971年に約半年間のアメリカ、つづいてヨーロッパに約10か月という(いずれも一応取材という名目だったが)軟弱なシティ派旅行だった。関野も墨田区生まれでつねづねシティ派を自称するが、私がアメリカ、ヨーロッパをさまよった時期に彼はもうアマゾン川全域を下り、先住民の集落に住み込んでいたのだ。

 74年に関野が『ぐうたら原始行』を出したとき、私はフリー(ほぼ失業者と同意)のライター兼カメラマン兼編集者を目指しており、版元の山と溪谷社にも出入りしていた。

 なまけものの私に、タイトルのぐうたらは大いに気に入ったのだが、読んでみると内容は全くぐうたらではなかったので少し落胆した。しかし、どこかで波長が合うものがあったのか、この頃から関野と親交を深めるようになった。78年に山と溪谷社編で出た『ロビンソン・クルーソーの生活技術』では、企画の段階から関わり、予め作った目次項目どおりに見事な写真を撮ってきたのには、本当にびっくりした。もっともこの本を編集中に本人は今回上映した番組のために南米に行ってしまい、制作に参加した人が苦労することになったのだが……。

 さて、私と地平線会議の関わりである。33年前の地平線会議誕生の頃、早大探検部OBの伊藤幸司さんと仕事をする機会が多かった。そして地平線放送やハガキ通信のことなどをほぼ同時進行で聞いてもいた。学生の頃から関野と同年代の惠谷治さん、岡村隆さんたちともたびたび顔を合わせる機会があった。しかし、話を聞いているだけでも、あまりに錚錚たる人物ぞろいで、私のような落ち零れ探検部OBにはなかなか敷居が高かったのだ。

 そして時は経ち、関野がグレートジャーニーの計画を進め、私が事務方を引き受けるという流れになった頃、地平線会議に出入りしているメンバーの多くに世話になるというので、1993年1月、江本嘉伸邸の新年会に関野に同道した。これを切っ掛けに頻繁に報告会に足を向けるようになり、自宅が通信の発送作業所に近いので、ビールの飲める時間間近に顔を出したりするようになった。以来20年近く、地平線会議関係者にはまことにお世話になったのだ。

 というわけで、報告会でも本稿でもとりとめのない話になったが、これからもなるべく報告会に出席する所存です。二次会で関野のエピソードなど何でもご質問下さい。(野地耕治


《福島に、建築士として赴任します!》

■こんにちは。9月1日付で都の任期付職員になり、9月18日から福島県いわき市に派遣され復興住宅の仕事をすることになりました。昨年、ボランティアとして行ったとき、たまたま聞かせて頂けたお話で「家族が一緒に住めない」という現実を知りました。何かできないかと悶々としていたときに、東京都が募集をしているのを見たとき、「あっ、これや」って思って応募しました。どうしてか知らないけど、とんとん拍子に話は進み晴れて今回の採用となりました。派遣されるのは47名。土木職34名、建築職13名が福島、宮城、岩手の3県に派遣されます。内訳をみても分かるように、土木職の方がずっと多く、建物を建てるに至ってない所がたくさんあります。関西を離れたことない私が、行ったこともないいわき市でお世話になります。期間はとりあえず1年、延びるかもしれませんができることをがんばってこようと思います。(稲見亜矢子 滋賀県 一級建築士)


今だから語る、なんとも不思議な草原のトゴーチ暮らし

■地平線報告会400回記念集会おめでとうございました。微力ながら、第二部の進行と第四部の報告手伝いをさせて頂きました。第二部では、江本嘉伸さん、明石太郎さんをお招きし、お二人が関わったゴルバンゴル計画の内容を報告して頂いたのですが、同プロジェクト末席に私も参加していました。現地長期滞在の為、通信イラストを三五康司君はじめ多くの方にお願いするなどお手数をおかけした時期です。

◆ゴルバンゴル計画は、90〜92年の三年間を中心にした日モ共同科学プロジェクトです。読売新聞社が全面的に報道を担い、現場を統率する(肩書きではなく)実質的な中心人物が当時読売新聞記者の江本さんでした。その江本さんのお誘いに二つ返事で乗った私の役割は「ベースキャンプ要員」。時には30名以上もの隊員の食事作りが主な仕事です。

◆モンゴル語で料理人を「トゴーチ」といいますが、料理が得意なわけでもないド素人ですから、読売記者、考古学やエンジニアの若手隊員を巻き込んで、責任を分散しつつ、毎日工夫を凝らしつつの自転車操業でした。当時モンゴルは民主化直後の混乱期で何もかも品不足。生鮮食品はほとんど手に入りません。中国で野菜を買い出して入国したり、乾燥野菜やその他食材を日本から大量に空輸するなどの準備はありましたが、読売のエベレスト遠征経験者が担当した食料計画は(特に初年度は)登山キャンプのようにミニマムな品揃えだった印象があります。

◆コロッケを作ろうとしてもパン粉が無い。おろし金もないので、ビンの金属製のフタに釘でたくさん穴を空け、裏面に反り返ったギザギザを利用して堅いロシアパンをおろした事を覚えています。プロジェクトは毎年4月から8月の4か月間でしたが、調査地域の4〜5月はまだ厚く氷が張っていました。毎日川の氷を割り、溶かして水を作るのもベースの重要な仕事でした。火をおこす熱源も潤沢ではなく、食器を洗う水さえもったいない。節水はもちろんですが、排水を減らす意味でも各自自分の器をロールペーパーで拭き取ってもらったり、カップ麺を多用したりとまさに山のキャンプのような時期もありました。

◆当時ベースを訪れた江上波夫博士が食事のお粗末さに嘆き、読売首脳部が大慌てした事がありました。ご高齢の先生に特別に食事を用意する配慮も出来なかった私の未熟さは申し開きの余地もありませんが、へたくそなコックの貧しい食事事情の中でも、江上先生がいらしたのは、特に厳しい登山キャンプ状態の時だったような気がします。

◆調査・取材班が出かけたあと、モンゴル人の食事班と私だけがベースに残る事もよくありました。英語は通用せず、学者達はロシア語か、または通訳を介してやり取りをします。どちらも無い私は必然的にモンゴル語を使わざるを得ず、比較的早めに片言のモンゴル語を覚えたのは収穫でした(もう忘れたけどね)。荷物をトラックに積む際のかけ声を一緒に発しているうちにそれが数字だとわかったり、モンゴル人が地面に棒で描いた絵を指しながら発する音を、鸚鵡返しに覚えて単語を増やした経験が新鮮でした。

◆結局三年間延べ10か月に及ぶモンゴルでのコック生活は、今思えばバブリーな時代の幸運な経験です。朝起きてから寝るまで、一日中食事の事を考える生活とは、もしかしたら動物の基本なのかなと思ったり。調査が滞った時は若者達と一緒にヒマを持て余した挙げ句、タルバガンの巣穴を利用したゴルフと野球を混ぜたような画期的な遊びを発明したことも(忘れましたが)。ヒマ過ぎるのも創造の母なのです。

◆キャンプに雷が落ち、若者が全員、一時的に躁状態になって大騒ぎしたこともありました。草原での前例のない長いキャンプ生活では、こうして毎日のように何か事件が起こりました。ダメダメコックでしたが、結果的に最後まで居座らせて頂き、江本さんにもゴルバンゴル計画にも多大な迷惑をおかけした事をお詫びしつつ、大いなる学びの場を与えて頂き今も感謝しています。いまさらですが、おかげで今は料理が大好きになりました。 合掌。(長野亮之介


[先月の発送請負人]

■地平線通信400号(8月8日夜印刷、封入)の発送作業に汗をかいてくれたのは、以下の方々です。400回記念ということで力のこもった原稿が多かったのと、南相馬地平線報告会の特別報告を兼ねましたので総計24ページのものになりました。書いてくれた人も、通信つくり+発送作業に汗をかいてくれた人も、ありがとうございました。
 森井祐介 車谷建太 三五千恵子 村田忠彦 関根皓博 杉山貴章 落合大祐 江本嘉伸 山本豊人


30年前、敵と味方に分かれていた「戦友」とのサハリンでの出会い

 地平線会議の報告会は聞きにいったことありましたが、報告者として参加したのは今回はじめてです。400回特別集会ということもあって老若男女ほぼ満席の盛況。特に若い人たちが多かったのには驚きました。継続は力なりということを証明してみせた会場でした。

 上映したフィルムは32年前の1980年、フジテレビ特別番組「潜入・アフガニスタン35日間の記録」。リポーター役の惠谷治、ディレクターの坂野皓、カメラマンの私の3人でパキスタンからアフガニスタンへゲリラに同行し取材したものです。上映後の質疑応答では撮影の苦労話など当時を思い出しながらの報告でたのしい一時でした。時間が押してあの場で語りきれなかったあるエピソードを紹介します。

 去年の夏「動物番組」の取材でサハリンに行きました。サハリンは道路事情が悪くポロナイスクから北の幹線道路はまだ未舗装でした。というわけで車は旧ソ連軍の払い下げトラックに一切合切を乗せて移動しながらの撮影になりました。夏のサハリンは何故か北上するほど気温が上がり不思議な感じでした。

 運転手をサーシャさん、と言いました。50歳ぐらい? 撮影も順調にいっており夕食後の世間話の中でサーシャさんがアフガン戦争で勲章を貰った事が話題になりました。実は私も30年前にゲリラに同行してアフガンに潜入取材していたと打ち明けました。サーシャさんは19歳で志願兵としてアフガニスタンに従軍し輸送部隊に所属。アフガニスタン北部のコンドゥスを基地として南部方面に戦車他武器を運ぶのが任務で、遠くはジャララバードまで南下したこともあったといいます。

 ある日ゲリラの待ち伏せ攻撃に遭いサーシャさんは負傷し、仲間も何人か戦死したそうです。サーシャさんは九死に一生を得て故郷に帰還し勲章を貰いました。30年も前、敵と味方に別れて同じ戦地にいたのだ。最前線での取材にもかかわらず私も幸運にも日本に帰る事ができました。そして今、サハリン沿岸の風よけに植えられた松林のテントでウオッカを飲みながら話をしている、「戦友」と……。

 取材からもどって、番組のDVDをサーシャさんに送り、それを観た感想を友人経由で伝えてきました。

 「DVDを観ました。その後半日上の空でした。きっと心の一部をアフガニスタンに置いてきたのでしょう。30年経っても記憶は薄れていません。心がまた波立ちました。明石さんにありがとうと伝えてください。彼は勇敢な人です。私は明石さんを尊敬します。映像は命の危険を侵して撮られたもの。私たちが戦った相手が映っていました。私の所属していた中隊の車両が戦車を輸送していました。もう一度運転手とナンバーをよく見てみます。もしかしたら誰だったか思い出すかもしれません。私は当時クンドゥゼのもう少し北方にいました。言葉がわからなかったのが残念です。本当にありがとうございました。〜サーシャ〜」 (2011.9.24 木村邦生/ロシア語訳)

 サハリンの取材はオオワシの子育ての取材でした。夏の時期オオワシはサハリン、カムチャッカ半島、シベリア沿岸で子育てをして、そのほとんどは北海道で越冬します。

 野生動物には国境はありません。人間も争いの元凶である国境を取り払って自由に何処へでも行けるようになるのは、いつの日のことになるのでしょうか。(明石太郎 カメラマン)


「世界の果てに行ってきました」坪井伸吾展、和歌山で開催!

■信じられないですが、来年で50歳です。いい機会なので、半世紀分の活動をすべて発表しようと思います。以前、陶芸家の緒方さんが展覧会を開いた和歌山市(僕の地元は和歌山です)のギャラリー、おのまちあるふぁ3Fで、10月5日(金)から9日(火)まで毎日午後3時より4時半まで違うテーマで展示物を前に話します。

5日(金)は「魚と釣り」の日。地平線では見せたことがない釣師としての顔で世界の魚について話します。6日(土)は、アマゾン川イカダくだり。7日(日)は北米大陸単独横断マラソン。8日(月)は世界一周バイクの旅。9日(火)は旅人として、人力車やゴムボート、バックパッカーの旅についてです。話したあとは毎日違うジャンルのお客さんとビールが飲みたいな。北米ランで使用した道具や、世界の釣り具や魚に関する展示。お札コレクション。海外ツーリングについての歴史やノウハウ。過去の新聞記事や地平線通信なども展示予定です。会場の西本ビルは戦災を潜り抜け、現在は文化財の指定をうけた地元では知られた建物。その雰囲気をどう使えば楽しいのか思案中。(坪井伸吾

ギャラリー&カフェ、おのまちあるふぁ 11:00〜18:00(最終日17:00)
〒640−8224 和歌山市小野町3−43西本ビル 073−425−1087
南海和歌山市駅より徒歩6分。


個性をそのまますっぽりと受け入れてくれる安心感が、地平線にはある
   ━━地平線400回で、地平線と自分のことを考えてみた

■地平線報告会400回の内容を見た瞬間、これは絶対に行こうと思った。私が地平線会議を知ったのは2006年だから、まだ6年ほどしか、地平線会議のことを知らない。通信で名前を見たり、報告会で名前を聞いたりする人が、どんな人なのかをあまり知らない。400回では、地平線がはじまった頃の記録が観られそうだし、どんな人だろうと思っていた人に会えそうだ。映像で見られるっていうのがまたいい。

◆最初から最後まで参加したけど、ちっとも眠くなんてならなかった。どれもこれも面白くって、食い入るように観た。聞いた。でもその中で、いちばん印象に残ったのは惠谷さんだった。19歳の時の、三原山火口の底を映像で記録する企て。「他の誰かじゃなく俺たちがこれをやる」そんな意味のことを映像の中で19歳の惠谷さんが言っていた。そうなのだ、このパッション。アフガン侵攻の映像も興味深かったけれど、それにも増してインパクトがあったのが、あのときの惠谷さんのひとことだった。

◆地平線に出入りしながらよく思うこと。それは、もしこの世に「地平線会議」がなかったとして、今自分は地平線を立ち上げた人たちの当時の年齢くらいになっているけれど、果たしてこういうものを「やろう」という発想を抱いただろうか。答えはいとも簡単にノーだ。どうして彼らはこれを立ち上げたのか。その情熱は何なのか。その時代はどんなだったのか。自分でこういうものを思いつきもしない私にとっては、そこが実に興味深い。

◆私が地平線を知ったのは、シール・エミコさんのモンベル・チャレンジアワード受賞がきっかけだった。その時の私と言えば、2回目の南極越冬が急に決まったときで、実は胸の内がモヤモヤしていたから、「この人だ!この人に話してみよう」と直観的に感じた江本さんに、初対面にも関わらず話したのだった。その後2回ほど報告会に顔を出したけれど、ただ聞いているだけなのにすごく緊張した。ウソが通じない、ウソなんて必要のない、あの独特の空気。なんだかすごく面白いし、なんだかものすごくスゴイんだけど、よくわからない怖さもある。

◆南極に行ってからは、江本さんに言われるがまま、毎月文章を送った。それまで通信でこの手の「連載」はなかったことも、そのときは全く知らなかった。帰ってきて報告会で話したのが人生で初めてのトークだった。いきなり2時間半もあって「どないしよう」なんだけど、あのときは不思議と「どないしよう」なんて思わなかった。ここではそのままの自分でいればいい。そのことがかえって救いで、かえって気楽だったりした。どこをどう絞り出しても自分は自分以上にも以下にもなりえない。あとは江本さんや、聞きに来てくださっているみなさま、わたしをよろしくお願いします、そんな気持ちでしゃべっていた。

◆わたしにとっての地平線会議はそんなところだし、そんな関わりの変遷を経て、地平線6年生を、今、過ごさせてもらっている。引きこもっていたい時期に、歯をくいしばって出て行った浜比嘉での「ちへいせんあしびなー」もあったし、苦しい時期から這い上がるときにみんなで踊った「ダイナミック琉球」もあった。「肝高の阿麻和利」との出あいも地平線会議のおかげだけれど、阿麻和利の舞台は、単に素晴らしいだけでなく、人生が嫌になるほど落ち込んでいた当時の私を生き返らせてくれた舞台でもあった。生きているといろんなことがあるけれど、地平線に出あってからは、よく生きるために必要なエッセンスを、いいタイミングで受け取ることが多くなった。

◆地平線会議には、他の場所では感じられない居心地のよさがある。地平線を知らない人や、外から眺めているだけの人には、地平線には寄り付きがたい何かがある。最初のころの自分を思い出せば、自分もかつてそうだった。怖かった場所が居心地のいい場所に変わった背景には、自分自身の変化がある。地平線には、人それぞれのこだわりがあり、冒険的行為があり、生きるとはどういうことなのか、人はどう生きるべきなのかというテーマがある。こういうことは、特に考えなくったって日本では生きていけるし、考えちゃったりなんかすると周りから距離を置かれてしまったりもする。だけど、大切なことだ。地平線にいると、大切なことを大切だと言いやすい。人は人、自分は自分で、自分はこうだ、と言いやすい。個性をそのまますっぽりと受け入れてくれる安心感が、地平線にはある。

◆今年は(仕事で)「冒険塾」というのをやった。「冒険とはなにか」に、真っ向から向き合った。14名の塾生が入塾してきて、半年の間、一緒になって冒険について考えた。「冒険は人から学ぶものなのか?」「受講料に15万円払うくらいなら自分で山に行く」。そんな当たり前の声が当たり前に聞こえた。わたしだってそう思う。だから手さぐりなのだ。「冒険とはなにか」「冒険塾とはなにか」。得体の知れないものをどうやって形作っていけばいいのだ。わたしが「冒険塾」の事務局だったけど、一人だけの事務局だったから、好きなようにやった。こんなに好きにやっていいのかっていうくらい好きにやった。やり始めてすぐわかったけれど、塾生よりも誰よりも自分が冒険することになる。一番いい思いをするのは間違いなく自分だった。そして、結果、その通りになった。

◆2011年3月の東日本大震災があり、東北での復興支援活動があり、今年の「冒険塾」があった。すべてがつながって、自分のモードが、今、変わりつつある。流れに乗るだけの生き方から、自分で流れを作り出す生き方へ。南極で2回越冬したと言っても、流れに乗っただけのことだった。そのことは自分ではよくわかっていて、これからも自分はそんな生き方をして行くのだろうし、まあそれでいいやと思っていた。だけど今年はっきりと、そうじゃないと思った。

◆7月末の南相馬地平線から、8月末の東松島行きまでの間に、不思議なほど立て続けに、「行動する人たち」との出会いがあった。その間に冒険塾の最後の日があり、塾生たちひとりひとりが語ったこれからの決意が、私にも大きな力を与えた。この半年でよくわかったこと。大切なのは、「やると決めること」だ。決めさえすれば物事は動く。9月には2つのことをする。ひとつは、冒険塾の仲間も引き連れて、もう一度南相馬を見て、東松島にも行く。ひとりでも多くの人が、今のこの東北をちゃんと見た方がいい、と思ったんだから、やることにした。

◆もうひとつは、9月のおわりに、東松島の宮戸で、東松島の子どもたちを集めて、海遊びをする。仮設の子が70人もいるのに誰も外で遊ばない、と、前に生活復興支援センターに行ったときに担当の人が嘆いていた。津波被害を受けた人々を海へ誘い出す。時期的にどうなのか、という声もある。でも、やってみる。すでにやっている、塩竈出身の元オリンピック選手、畑中みゆきさんとのコラボでやる。とにかくやってみます!(岩野祥子

創世記のメンバーが未だ熱いものをもちながら発信し、そこに若い世代も入り交じり、地球の津々浦々から様々なテーマの報告が行き交い、ダイナミックな磁場が生まれている場所

◆「地平線報告会400回特別集会」に参加しました。途切れることなく400回、スタートしたのは1979年ということですから感服です。会場で配布された「立待月宴覧」には、400回分の報告会等のタイトルと話者がずらり19ページにわたって並び、「継続の迫力」「記録の価値」に圧倒されます。

◆アマゾン・トウチャン一家の映像は私にとっては懐かしく、また自分の人生のターニングポイントになる大事な時期につながるものでした。大学最終年、定期購読していた筑紫哲也編集長の「朝日ジャーナル」は、バイトとデートと旅がすべての全くのノンポリの私でも、フレッシュな切り口で社会のさまざまな事象に関心を喚起してくれる雑誌でした。その中でも毎週まっ先にページを開いていたのが関野さんの「トウチャン一家」の連載。地球の裏側の一家の暮らしぶりと関野さんの冒険をある憧憬をもって見守っていました。異文化に関心のある私は、その夏ひょんなことからピースボートに乗ることになり、そこで、ジャーナリスト、漫画家、全共闘闘志、シャンソン歌手、元暴走族隊長、折り紙作家、お笑い芸人もどきなど、実に様々な仕事・生き方に出会いました。現政治家の辻本清美さんを中心に20代前半の若者が、一歩間違えれば借金取りに追われるというリスクをかかえながら、とにもかくにも情熱と行動で道なき道を切り開きながら船を出している頃でした。自分の将来を模索していたこの時期に、この多様な人間のごった煮のような場は、異国の異文化以上に生き方の異文化に出会う場で、自分のもつ小さな枠を大きく揺さぶってもらう機会でした。

◆思えば、毎月届く小さな文字に埋め尽くされた通信や、ときどき参加する報告会に引き込まれてしまうのは、「思いもよらないチャレンジ」「本気のこだわり」「生き方の多様性」「生の実感」が、あの時のように自分の枠を揺さぶってくれるからなんだと思います。震災後のさまざまなレポートにも、それぞれの視点で状況に向き合う地平線のスピリットと行動力を感じます。

◆創世記のメンバーが未だ熱いものをもちながら発信し、そこに若い世代も入り交じり、地球の津々浦々から様々なテーマの報告が行き交い、ダイナミックな磁場が生まれている場所、そんな風に地平線会議を感じています。報告者のみならず、脇を固める編集や発送に関わるメンバーのことも紙面の折々にふれられていて、手作り手弁当の人肌が伝わってきます。特別集会のブレイクタイムでも闊達な脇役が大活躍で、燻製、ハム、コーヒー、ケーキなどこだわりの品々がテーブルの上にずらりと並び、心も胃袋も歓喜! これからも引き続き、すばらしい磁場であり続けてください。(三好直子 青年海外協力隊員をサポート中)

「立待月宴覧」(地平線通信1号〜400号までの一覧)
なんて贅沢な記念品なんだろう!

 1年ぶりに参加した第400回の報告会は、7時間という長丁場。でも、貴重な映像、興味深いお話、美味しいもの、懐かしい方々、魅力的な諸々が勢揃いしていて、「えーっ、もう終わっちゃうの〜」と叫んでしまいそうでした。

 報告会でいただいた「立待月宴覧」(地平線通信1号〜400号までの一覧)。うわぁ〜、なんて贅沢な記念品なんだろう! 報告会についての案内文とイラストが一目でわかるなんて! たいへんな労力だったと思います。すぐにわかるキャラの顔、この描き方は酷すぎるって顔、今はなにしてるんだろう?と思い出す顔。何度も何度も見返して楽しみました。報告会のタイトルも、そそられるものばかり。そして、すっかり忘れていた地平線会議との思い出が蘇ってきました。

 初めて顔を出したのは、1982年夏の第34回報告会。加藤大幸さんのアフリカの山のお話でした。参加者には学生も多くいたはずなのに、大人の会に参加したんだ、という興奮を覚えたものです。翌年には、向後紀代美さんの装身具のお話や、丸山純さんのカフィリスタンのお話を聞いて。紀代美さんのお話から、冒険や探検は山や洞窟だけじゃなくて、日常生活を探ることでもいいんだと教わったことや、まだ20代前半の丸山さんには、もうすっかり自分のフィールドを定めているような気配があったことが思い出されてきました。当時の報告会にもっともっと参加しておけばよかった……。 もったいない……。

 そんな気持ちに応えてもらえるように貴重な映像資料による報告会が続きました。三十年前の映像の中の惠谷さんや赤坂さんは、今の私より随分若いはずなのに、うんと大人に見えました。美味しいものを用意してくださった海宝さんの報告会のことは、とてもよく覚えています。サラリーマンをやめて、ウルトラマラソンで第二の人生を始めるというお話でした。私もその年齢になったはずなのに、第二の人生には、まだ辿りついていません。

 最近の報告会の様子は、ほとんど知りません。でも、楽しそうに何かを一生懸命やっていること、自分を大切にしていること、実は周りの人のことを気遣っていること、きっと報告者の方々には、相変わらずそんな共通点があるに違いないと思っています。

 次の記念報告会は500回? それまでに一度は亮之介さんに描いてもらえたらと思いますが、どんな顔になるのか、見るのがこわい……。

 やっぱり夏は、地平線報告会だぁと感じた一日でした。(報告会に発奮して裂織りのラグマットを制作した相変わらず夢みる染織家の中畑朋子  飛騨高山在住)

なんだか胸がいっぱいになる400回記念でした

■今回の400回記念報告会に参加できてよかったです。いつもの報告会のライブ感も貴重なものですが、映像、それも珠玉の映像の力はすごいですね、30年前の現地の空気感がそのまま、伝わってくるようでした。コーヒータイムも含めて、ご準備と進行、本当にお疲れ様でした。私、20年このかた弱小市民団体の事務局を引き受けているものですから、夕方に作業と連絡が集中し、大好きな地平線報告会へなかなか参加できず、残念に思っていたのですが、今回は絶対に行くぞ、と周りにも宣言し、高田馬場のスポーツセンターを目指しました。

◆遅れても参加できて本当によかった。生の声、生の言葉という地平線会議の一番の宝物にふれることができたのですから。いまも、命がけでアフガン取材を敢行したお二人の発言が思い出されます。そして「何かあった時は頼むよ」といわれ、それを引き受けた人の覚悟あるお言葉も。うーん、本当にスゴイ人たちの集まりだ、とあらためて感じた次第です。

◆その後、久しぶりなのに二次会にもしっかり参加しました。(若い人たち、参加しないともったいないよ!)なんと憧れの宮本常一先生のご子息、千晴さんのお隣に座ることに。ここぞとばかりに、いろいろお尋ねしました。私はいままさに日本の島について小学生と学び出したところなんです、とお話しすると、日本の島6800のうち、人が住んでいる400の島を踏破した人がいるよ、との魅力的な情報が。

◆さらに、この9月に与那国島へ下見に行きますと言うと、グレートジャーニー応援団の野地さんが「現地に支援者がいるよ」とこれまた有難い情報! うーん、地平線会議はまさに情報と人脈の宝庫であります。でもね、お世話になるばかりじゃいけないから、まずは自分で調べてみます。それから貴重な情報にあたることにしますね。あー、もうなんだか胸がいっぱいになる400回記念でした。(佐藤安紀子

会場中を得意げに歩き回ってみたり、モンゴルの映像の馬を見てヒヒーンと鳴き真似をしたり。2才の娘と参加した400回特別集会

■地平線33歳、おめでとうございます!何を隠そう、私も1979年産まれ、今年33歳で地平線と同い年。今回の報告会は、希少な平日昼間開催、子連れOKという好条件が揃い、鼻息荒く意気込んで参加させてもらった。8月半ばの容赦ない猛暑の中、まるでオアシスを渇望する旅人のように新宿スポーツセンターの緑を汗だくで目指す。

◆携行のキャラバン風ベビーカー(色々と荷物が多い)には12キロ超えの二歳の娘、自分の腹には1キロ越えの第二子を抱えての、練馬〜高田馬場までの大いなる旅路。開場1時間以上前に到着し、早く着いたメンバーの方たちに会場設営の指示をおそるおそる仰ぐ(この間娘は爆睡中)。久々の集団活動に少し戸惑いつつ、ささやかながらも久々に子育て以外の活動に参加できている、という感覚で気持ちが高揚した(といっても、お手伝いできたのは椅子を並べるくらい)。

◆原典子さんからの大きな贈り物の箱を開けるよう江本さんから指示を受けた時は「私がそんな大役を!?」とひるんだが、作業を滞らせてはいけないと思い、うやうやしく開けさせて頂く。中には今すぐこっそりつまみぐいしたくなる御馳走手作りお菓子がごっそり。続々と地平線のメンバーの方々もやってきて、颯爽と準備が整っていく様子にしばしみとれる。

◆重鎮たち?も会場入りし、地平線報告会400回特別集会幕開けの雰囲気がいよいよ高まっていく。が、予想通り、開会の直前に娘が目を覚まし、腹ごしらえのために一時退室。会場に戻ると娘はさっさと私から離れ、見知らぬ男性の隣に席を陣取り一丁前に聴講者の一員。ときおり一番前の席に座ってみたり、会場中を得意げに歩き回ってみたり、モンゴルの映像の馬を見てヒヒーンと鳴き真似をしたり。その間、周りの方に相手をしてもらうなどして、娘はますます好調子。私は娘を追いかけ、時に叱る、を繰り返しハラハラしながらも片耳でゴルバンゴルの話の大半を聴くことができた。

◆子連れ参加には最初不安もあったけれど、同じように小さな子連れ参加のお母さん方もいたのがだいぶ心強かった。まだ子供は小さいけれど、地平線会議という場を子供にも伝えていきたい。会場を若干お騒がせしてしまったが、寛大に見守って下さった皆さんに本当に感謝!!(三羽宏子

なんだかお腹がいっぱいになる400回記念でした

■地平線会議400回記念大会。ぼくは受付テーブルに座っていました。昼2時なのに満員です。開演から会場に立ちこめる美味しい珈琲の芳。海宝さんの。ぁあ、そーだ、ケーキもあることをぼくは知っている。原典子さんの。さらには、お菓子もあることも知っている。酒井富美さんの。そういうことを知りながらも、ぼくは、受付に座っている。着々と進行する盛りだくさんの大会プログラムと、着々と進む海宝食堂の盛大な準備。ぼくは、ほんとうは、この為にやって来た。

◆すぐ傍らで海宝さんの自家製生ハムが切られている。正面の画面では関野さんがトウチャン一家と食事をしている。ぼくの横では、自家製鮭薫製がばらされてゆく。トウチャン一家は、酒宴している。ぼくは、机に座っている。今日はなにも食べていない。だって、この為に来たんだから。

◆野地さんが資料として持参された関野さんの本を観ながら受付をしています。美味しそうな密林の本。本物の受付は米満さん。ぼくは岩野さんが持ってきてくださったシールエミコさんの応援絵はがきを販売しているので、エミコさんの笑顔が沢山の机。みなさん買ってくださいました。ありがとうございます。盛りつけを手伝っている人たちがつまみ食いをしている。距離1メートル。

◆きっと優しいだれかが分けてくれるだろー。と思ってひもじい念を発していた。海宝さんが「食べてみて」って言ってくださって。ぼくもつまみ食い部隊に参画。あー、美味い。ぉぉうまい。そうこうしているうちに食事会開催。ぼくは原さん特製ケーキをカットしている。白い粉砂糖をココアケーキに振りかける。ぅわ、チーズケーキもあるよ。だけど、まずオープンサンドを食べなくっちゃ。たらふく食べなくては。

◆珈琲は二種類あって、どっちも頂きました、何杯も。そして梅ジュースを飲んで、また、サンド食べて。ぁあ、もう食べれないよ。珈琲飲む。ケーキ食べたい。ぅぉぉぉ、こんな近くに美味しそうなケーキがあるではないかっ。ありがとう!ぼくは、チーズケーキ→ココアケーキ→ヨーグルトケーキの順番で食べたんだけど、みなさまはいかかでしたかっ。も〜満足です。なんという至福。なのになのに、ぼくはミカンの皮の砂糖煮を食べているよ。美味しいね。

◆そしてまた珈琲。ブルーベリー酢を飲んだら、お腹が減ってきた。ビーフジャーキーを食べながら座っている、美味い!しそジュースを飲んで、酒井さんの和菓子を頂く。いしごろもっていうんだって。石ころみたい。ぱくり。もうひとつ、ぱくり。美味しいね。帰りは海宝さんの創った食事。「北京」の惣菜。ごっそりだ。持ちきれなくて落合さんが車で送ってくれました。翌日も海宝さん頂きました。ごちそうさま。地平線会議が地道に積み重ねてきてくださったおかげです。感謝感謝。地平線は部族だ。エモチャン一家バンザイ。そしてぼくは、長野画伯の作画実演にまたしても打ちのめされました。(緒方敏明 彫刻家)


 「草原の夢 残したる…」 ──ある作家からの一句

 ウランバートルから東へ70キロ。エルデネ・ソムの草原の一角に突然巨大な銀色の像が建ったのは、2年前のことだ。見上げるばかりの迫力のこの像は、「13世紀村」というテーマ・パークの中心に、あたりのツーリスト・ゲル群を睥睨するかのように建っている。高さ12メートルの円形の台座の上の像は実に40メートル。言わずとしれたチンギス・ハーンである。

 地平線の400回記念報告会を終えた8月半ばから東のヘンティー県に出かけた。ほぼ1週間に及んだ草原の旅を終えてウランバートルへ帰る途中、新名所を一度はしっかり見ておこう、と立ち寄ってみた。

 像の台座の部分は、博物館と展示場になっていて、入るには7000トゥグルグ(約460円)を払う。1階ホールにいきなり人間の数倍の高さのゴッタル(革製の長靴)が、あらわれて驚いた。わきに立って写真を撮ると、自分が小人になった感覚になる。そう。チンギス・ハーンは今やこの国ではガリバーなのである。

 エレベーターと階段を登ると、チンギスの胸の部分から外へ出ることができるようになっていた。ここで巨大な偉人の顔を背に写真を撮る仕掛けだ。日本にもそんな巨大仏があったっけ。

 もう35回目になるモンゴルへ、社会主義時代から入り込んできたことが、いまほど貴重に思われる時はない。はじめてモンゴルを訪ねた1987年当時、チンギス・ハーンのチの字も誰も口にできなかった。ソ連共産党の歴史観でチンギス・ハーンは「残虐な侵略者」としてヒトラー並みの扱いだったから。

 ゴルバチョフの出現でモンゴルでもペレストロイカが、そして「歴史の見直し」が始まった。やがて建設中だったホテルの名は「チンギス・ハーンホテル」となり、チンギスの名を冠したアルヒ(ウォッカ)も登場した。そうした中で、ゴルバンゴル学術調査が動き出したのである。現代史の「境目の」仕事だった。

 このプロジェクトで、一介の記者だった私はプロジェクト全体を動かすマネージャーの役割を負わざるを得なかった。フィールドで真剣にテーマに取り組む考古学者をはじめとする学者、技術者たちの支援、モンゴル側とのあらゆる調整を自分がやるしかなかったから。少なくともモンゴル側は私を「決定する人」と、とらえていたと思う。科学アカデミーのソドノム総裁が初対面の瞬間から私を気にいってくれ、全幅の信頼を置いてくれたことも大きかった。

 自分が仕掛け、実現させた責任から、私はリーダーであるかのように受け取られ、実際そのように振る舞っていた。そのことは、いきさつをあまり知らない日本の同僚や支援の人々を心配させたようだった。

 「江本兄 これは、率直な手紙で、他聞をはばかります。キャンプのムード・メーカーである大兄への助言です」こんな書き出しで始まる作家からの手紙を草原のキャンプで頂いたのは、22年前の夏のことだ。作家はヘリコプターで草原に飛来し、半日私たちのキャンプに滞在してウランバートルに帰った。その直後、草原に来る車に託して日本航空のレターヘッドに書いた手紙をくれたのである。趣旨は、考古学のリーダーであった加藤晋平先生を徹底的に立てなさい、という私への忠告だった。

 「(中略)大兄は本質、本職がレポーターであります。レポーターは、つねに風下にいて(精神的水位も、日常の挙措動作も、片言隻語もすべて)風上に加藤スタッフを置きつづけること肝要に候。つねに和顔愛語、ひたすらに和顔愛語」

 そういう印象を与えたのか、とあらためて愕然とした。反論はあったが、それ以上に私ごときに丁寧に手紙をしたためてくれた作家の心遣いが嬉しかった。

 「ながい時間のかかるしごとですから、日常の小さなことでも小児のようによろこび候へ。決して大読賣の資本代表のように思い候勿れ。

 大兄はむずかしい仕事の中にいます。一席を組むとき、つねに末座に候え。

 むかし、十三年間、大兄と同業のしごとをした古き仲間の一人として。            

七月十二日   司馬生」

 この手紙に対して私も心からの手紙を書いた。モンゴルへの思い、ゴルバンゴルという仕事をどのような経緯で始めたか、自分が新聞社内であまり人気がないことまで、率直に気持ちを綴った。折り返し返信を頂いた。

 「いいお手紙をありがとうございました。江本さんのモンゴルへの思いが、よくわかりました。むろん小生は、お手紙以前に、よく察していたつもりでした。」との書き出しで、かってモンゴル語を学んだ司馬さん自身のモンゴルへの思いをあの味のある万年筆の達筆で書いてくださった。

 このことがきっかけとなり、司馬遼太郎さんとはその後何度もお会いする機会があり、親しくさせてもらった。「モンゴル会」という、司馬さんが心を許した編集者や記者の集まりの中に入れてもらったりもした。

 足かけ5年に及んだゴルバンゴル調査が終わった際、お礼とともに資料を添えてその報告をした。返信として、次の一句が送られてきた。

 「冬営に 草原の夢 残したる」

江本嘉伸


──速報!! トウチャン一家を訪ねて
カアチャンは2年前に亡くなり、よちよち歩きだった末っ子のゴロゴロは40歳のいい親爺になっていた
関野吉晴

 8月はペルーに行っていた。マチゲンガのトウチャン一家を訪れるためだ。たまたまリマにいた白根全とクスコに飛び、バスでアマゾン地方に向かった。かつてはトラックしかなかったが今は定期バスがある。

 40年前に初めて行った時は彼らのところに行くには10日前後かかったが今回はクスコを出た翌日には彼らの住む村に着いた。18年前にトウチャンは亡くなっていたが、カアチャンも2年前に亡くなっていた。カアチャンの死を機に皆下流に降りて来ていたのだ。

 道路のあるところまでエンジン付きボートで1時間のところに、子供を合わせると103人の、ティパロ・パロトア村という大きな集落を作っていた。幼稚園と小学校がある。小学校は低学年だけで、さらに学びたいものはサンタクルスという村に行き寄宿舎に入って学ぶ。多くのマチゲンガの師弟が寄宿舎に寝泊まりして学んでいる。

 初めて行った時まだよちよち歩きだった末っ子のゴロゴロはもう40歳だ。いい親爺になっていた。亡くなったトウチャンに似てきたのが印象的だった。

 次女のオルキーディアは3人の子供たちが大きくなっていた。3人ともサンタクルスで学んでいる。時々村に帰って来る。長男は既に婚約者がいる。次に行った時はオルキーディアに孫ができているだろう。

 子供たちは携帯電話をもっていた。村では電波がないが音楽が聴ける。サンタクルスでは友人たちと話せる。

 クスコに帰る日、ティパロ・パロトア村をエンジン付きボートで早朝出たが、その日の夜にクスコに着いてしまった。40年前とは隔絶の感がある。


ハナマガリ鮭Tシャツついに5500枚に!!

■昨年9月から、岩手県大槌町の中学生の支援として始めた南部ハナマガリ鮭Tシャツプロジェクト。スタッフ4人全員がボランティアのため、一年間の中で最善を尽くそうと続けてきて、いよいよ今月末で終了します。おかげさまで「1年間で2000枚販売して100万円の寄付を集める」という目標をたった4か月で達成。2012年9月8日現在、鮭T販売枚数は5500枚に達し、275万円以上の寄付金が集まっています。

◆さらには「雨ニモマケズ 南部ハナマガリ鮭タオル」「風ニモマケズ 南部ハナマガリ鮭手ぬぐい」「雪ニモ夏ノ暑サニモ負ケヌ丈夫ナカラダヲモチ 南部ハナマガリ鮭トート」と他のグッズ販売も展開。これらも想像以上の売れ行きです。とりわけ鮭手ぬぐいは、私たちの度重なるダメ出しにも決してクサることなく(たぶん)、何回も描きなおしてようやく生み出された長野亮之介画伯渾身の作。色鮮やかで楽しげな鮭やクジラたちのイラストが大評判で、販売期間2か月で700枚以上(寄付額21万円以上)を販売しました。鮭T以外の商品も含めたプロジェクト全体での支援金総額は、300万円を超える見通しです。

◆このプロジェクトで私は、鮭Tの注文取りまとめおよび発注、ブログ更新、メール対応を担当しました。仕事から帰り、夕食と入浴の時間以外は寝るまで全国各地から寄せられるメール対応に追われる日もしばしば。しんどいときもありましたが、それでも楽しく続けてこられたのは、良い仲間に恵まれ、鮭Tの販売を通じて全国各地で多くの人たちが今も抱き続ける被災地への強い想いをひしひしと感じたからだと思います。「現地に行くことはできないけど、鮭Tを通じて支援できてうれしい。ありがとう!」という声に何度となく元気をもらいました。

◆鮭Tは縁あって、今年の5月に震災後はじめて開催された大槌の小学校の4校合同運動会のユニフォームにもなりました。児童と先生が全員鮭Tを着て、笑顔で元気に競技する姿には心が震えました。以来、現地での認知度はぐぐっと上がり、鮭Tを着て大槌へボランティアに行った人が小学生に「あ、鮭Tだ!」と言われたという話も。大槌町の人たちから注文をいただくようにもなりました。鮭Tが、応援する人とされる人、みんなで着てくれる存在になれたことに密かに感動しています。

◆鮭Tは「忘れずに応援してるよ!」という被災地へのメッセージそのもの。可能な限りずっと大切に着続けてもらえたらと願っています。地平線会議の方々からも多くの支援をいただきました。鮭Tプロジェクトへご参加くださった皆様、本当にありがとうございました!(長野 倉石結華


自然学校という冒険──
地平線の皆さんに400回を数えたこの機会に
自然学校の活動をお勧めしたい

《日本で最初の自然学校》

■どんな地方、都市にも田舎にも自然学校がある時代だ。自然学校全国調査の最新の2010年度データーでは、3700校の自然学校が全国で活動中となっている。15年間で約40倍に増えたことになる。そして30年前にはたった1つだった。世界的に見ると、幾十万あるのか誰も知らないが、戦後に生まれた環境教育の事業体と言われてほとんどの国に存在し、多くの場合アウトドアスクールと見られている。400回を迎えて自然学校よりも息長く、コアな活動を続けてきた地平線関係者の皆さんにもこの機会に自然学校の世界を紹介し、この活動をお勧めしたい。

 日本で最初の自然学校として知られるホールアース自然学校は、アジアの長い旅から帰った私が富士山麓の小さな村で自給自足生活を開始した中から生まれた。たくさんの家畜動物を飼い、近隣の子どもたちと富士山麓の豊かな大自然をテーマに探険と冒険のプログラムを毎日のように作ってきた。といっても最初から自然学校を意識して始めたわけではない。それどころか自然学校なんて名前すら知らなかった。ただただ自然の絶妙な仕組みやその中で生きてきた人々の知恵の巧みさに惚れ込んで、それを分かり易く伝えることに夢中になってきただけだ。気がつくとスタッフは40数名、全国から参加者がやってくる大きな活動になっていた。

《地域の担い手》

■すでに全国各地にはさまざまな自然学校が活躍しており、わたしもホールアース自然学校だけの仕事にこもることなく、全国各地に出向いて自然学校を始めようとする若者たち、地域びとたちと共に各地の仕組みつくりに奔走する日々を送りながら、多くの仲間たちと幾つもネットワークを作っていった。まさに自然学校の全国化が急速に進行していくダイナミズムを感じた。当初は子どもの自然キャンプや欧米のようなアウトドアスクールが多かったこの世界も、徐々に環境教育を軸にしたスタイルが主流となり、対象も自然だけでなく、地域の文化や歴史、生活にも幅を広げていった。最近の10年の間に、日本の自然学校は大きく質的な転換を遂げている。それは、急速に過疎化、高齢化していく中山間地域を舞台に、若者たちや子ども達が元気よく活動する姿が各地で話題になり、少しづつ、そして必然のように、こうした地域の消滅しつつある青年団、商工会、観光協会、子ども会にとって代わる「地域の担い手」とか「小さな産業」と呼ばれるようになったことだ。

《社会的課題に取り組む事業体》

■地域の活力を支えつつ、地域外と地域をつなぐ仕事は、社会貢献的な無償の行為に見られがちだが、自然学校はアマチュア集団ではなく、それを専業とするプロ集団だ。自分の仕事で食うということはけっこう強みとなる。絶え間ない切磋琢磨と市場開拓が欠かせないから、自然学校自体がどんどん自己増殖していく。いまでは地域内の自然の保全活動や過疎対策、消防団や(新)青年団まで自然学校の若いスタッフが担い始めた。

《災害救援の専門団体》

■阪神淡路大震災ではわたしが開設した東灘小学校のボラセンに300人の自然学校関係者が集まった。その後の災害時にも自然学校は着実に役割りを果たし、東日本大震災ではRQ関係だけでも設立当初に集った52団体中、33団体が自然学校だった。自然学校は2010年全国調査でも、「[1]野外生活技術の専門家 [2]高いヒューマンコミュニケーション力がある [3]機動力に優れた自分のチームをもつ [4]参加体験型のプログラムをつくる力がある [5]全国ネットワークをもつ [6]社会企業=社会的活動を目的とする」などの特質を挙げており、これらが見事に災害時には具現化した。

《自然学校は冒険的か》

■この世界に新たな価値観とアクションを生み出し、一定の社会的影響力を持つとすれば、それ自体、十分冒険的な行為だ。自然学校は日本の法律の枠内にとどまる活動を基本的には考えていない。自主自由な活動なので定款も必要ない。しかも、世捨て人でもなく、社会や地域の課題に地域住民と手をつないで積極的にコミットしている。こんな事業体はかつて無かった。

 自然学校を主宰するものはそれぞれの分野で専門性を有していることが求められるし、それは人間的な魅力の評価でもある。植村直己を始め、これまで多くの冒険家が自然学校(野外学校)を開校することを夢見てきた。全国で数多くの自然学校つくりを手伝ってきた私から見ても、地平線会議には自然学校に最適の人材が大勢いる。400回を超えた地平線の皆さんにもぜひ、地平線的な自然学校を各地に生み出してほしい。500回目には『地平線自然学校大集会』ができたらなんて楽しいことだろう。(広瀬敏通

この夏、とうとう念願の子ガメたちの旅立ちを見ることができました! なんとかわいかったことか! 浜比嘉に住んでいてよかった

■江本さん、通信400号達成おめでとうございます! 思えば昔、私も戸山高校での発送作業よく行きました。発送作業はコアなメンバーが集まり、普段の報告会では聞けない濃密な話が聞けたりしてほんとに楽しかったです。さてこちらの夏のご報告を。豊年祭、旧盆のエイサーも無事終わり、かつてない強力台風直撃などもありました。が大きな被害はありませんでした。小学校がなくなった後、島の子供たちの姿はすっかりと見かけなくなりさみしい限りでしたが(スクールバスで送迎されてしまっているので)夏休みはたまに私たちの牧場にどやどやーっと遊びに来てにぎやかでした。

◆さてさてこの夏のビッグニュースは、去年の夏に近くの浜に海ガメが産卵にあがって来ている痕跡を発見し、今年も4月ごろから5回の産卵を確認し観察を続けていましたが、とうとう念願の子ガメたちの旅立ちを見ることができました!以下、海ガメ観察日記の一部です。7/13昨日、孵化の前兆の陥没を見つけて美ら海水族館のMさんに連絡したら昼間に確認に来てくれてメールをくれた。「間違いないですね、もうすぐ出ますよ」と太鼓判(陥没を確認し砂浜に耳をあて音を聞いたそうだ)。

◆仕事を早めに切り上げ、おにぎりとビール持って夜8時過ぎに海岸に行く。そしたらなんと、もう穴の回りにいくつか小さな足跡があり、しまった、間に合わなかった、とMさんに電話したらまだ中にいるかも知れないから穴に手を突っ込んで確認してもいいですよと言われ穴に手を突っ込んだら、いた! 海ガメ赤ちゃんに会えた! ひとつだけ掘り出して、海に泳ぎだすまで見守った。なかなか波に乗れずひっくり返ったり戻されたりではらはらしたが、無事に泳ぎだした! 体長四センチくらい。あの小さな体で一生懸命手足を動かして歩く姿は感動的。小さくてけなげで。まだ穴の中にはいたので明日も出てくるかも知れない、早めに見に行こう。産卵場所はあと4か所あるので、楽しみだ。

◆7/15 今海ガメの孵化待ちで浜辺にいる。浜にゴザ敷いて、ビールと天ぷら持参、なかなか出てこないけど、波の音聞きながら星空を眺めるのもおつなものだ。天の川がすごい。蠍座もでーんと横たわっている。そろそろ眠くなって来た。横で昇がひっくり返ってる。砂に耳をあてるとカメがガサゴソしてるのが聞こえるからもう少しねばる。確かにガサゴソ聞こえる。

◆7/16とうとうやった! 巣から出てきていっせいに海に駆け出していくちびカメたちを見ることができた!なんとかわいかったことか! 浜比嘉に住んでいてよかった。昨日は結局、私は12時にうちに帰ったが昇は夜通しカメ待ちで朝帰りしたが見れなかったとのこと。でも夜中に上がってきた月の美しさと日の出の神々しさに会えたんだそうだ(クヤシイ)。

◆今日はまた7時くらいからビールとチキンカツとさわらの刺身持参で天の川の下でカメ待ち。三連休の中日でビーチパーティの家族も近くにいるが、事情を話して花火やライトを控えてもらった。諦めかけた9時過ぎ頃、懐中電灯でふと照らすと黒っぽいのがいるではないか!そして約30分後、海に走り出したカメたち!ビーチパーティの家族にも知らせみんなで大興奮の中、子ガメたちを見送った。今日は興奮して眠れそうもない。

◆7/23朝、2か所目の産卵場所に陥没を見つけた。日没まもなく行くと、いる! 産卵場所に2匹、上半身出してじっとしている。時々かすかに動く。明るいうちに見れて感激。そっと見守る。暗くなりはじめた約30分後、じっとしていた1匹がふいに穴から離れたかと思ったら、 それが合図だったのか、もう1匹も続いて海に向かって走り出した。そしたら穴から続々出てきて、みんなまっすぐ海を目指して走っていく。追いかけるのが大変だ。波打ち際ではスキップするように嬉しそうにやがて波に乗り見えなくなった。あんな小さな体で大海に迷いなく進んで行く姿感動的だ。8/3朝、散歩に行って、3か所目の産卵場所あたりをゴンが掘り返してしまった。最初小さな陥没はカニの穴かと思っていたのだが雨が降り消えかかっていた穴だったのでゴンは何回か音を聞きながら30センチくらい掘ったら、なんとカメがいた! ありゃありゃゴン、ダメだよ? と、すぐに砂をかけといた。今日あたり出てくるかな?……その後は行事の練習や台風接近で確認はできませんでした。また来年も産みに来てくれますように。そしていつまでもカメが安心してあがってくる浜を残して行きたいです。(外間晴美

PS.土、日、祝日のみですが、近くの海中道路のど真ん中にある「海の文化資料館」に勤務しています。そうです、地平線あしびなーでお世話になった前田一舟さんの下で働いております。9月にここで宮本常一さんの企画展が計画されていますので、地平線の皆さん、お近くにお越しの際はお立ち寄りください。
★宮本常一の沖縄の旅 写真で見る復帰前の風景
9月28日〜11月25日 午前9時〜午後5時 海の文化資料館


あとがき

■人っ子ひとりいない楢葉町の舗装道路を走っていて脈絡もなく、つい10日前、ウランバートルで体験した猛烈なラッシュを思い出した。草原の国では今や人間の歩ける場所がなくなりつつある。

◆あまりの事態に市当局は苦渋の策を打ち出した。8月27日の月曜日から思い切った「通行車両ナンバー制限」を始めたのだ。ナンバープレートの最後の桁ごとに曜日を分け、平日の8時〜22時の間の通行を制限することになったのである。

◆たとえば、月曜日は、末尾が1、6のナンバー車はダメ、火曜日は2、4、水曜日は3、8がダメ、土曜日は5がダメ、になった(消防、救急車など例外はある)。25年前、初めてモンゴルを訪ねた時、信号機は全国でただ一つしかなかった(ウランバートルの郵便局の角)。それが、何ということか、今や朝夕は東京以上のラッシュに。

◆その結果、私がお願いしている運転手は、毎日違う車で来てくれることになった。違う末尾ナンバーを持った友人がどれだけいるか、がウランバートルをすいすい走れるかどうか、のカギになったのだ。

◆好評「立待月宴覧」余部があります。どうしても、という方はご連絡を。送料は頂きます。(江本嘉伸


■今月の地平線報告会の案内(絵と文:長野亮之介)
地平線通信裏表紙

ガレキの家に今日も花咲く

  • 9月28日(金) 18:30〜21:00
  • ¥500
  • 於:新宿区立新宿スポーツセンター(03-3232-0171)

「とてもストレスの多い生活を余儀なくされているのに、そこに住むみなさんがすごく明るくて活発なんです。でもある日ボランティアが飾った花を見たお母さん達が、キレイだといって涙を流していた……」

そう語るのは映画監督の藤川佳三さん。偶然訪れた石巻市立湊(みなと)小学校避難所で目にした光景に心を動かされた藤川さんはこの「日常」のドラマを伝えるべく、ビデオカメラを手に単身湊小学校に住み込みます。2011年4月から10月の約半年。月に一週間ほど自宅に戻る以外は、ボランティアでもなく、マスメディアでもない立場で「住民」達と泣き笑いをともにします。

マンガ「ドラえもん」の“どこでもドア”のように被災者の心のドアにスッと入れるはずもなく、藤川さんはドアの前にたたずみ続けました。その過程は現在各地で公開中の映画「石巻市立湊小学校避難所」に刻まれています。

今月は藤川さんに映画の舞台裏の物語を語って頂きます。未公開映像も披露予定。オタノシミニ!


地平線通信 401号
制作:地平線通信制作室/編集長:江本嘉伸/レイアウト:森井祐介/イラスト:長野亮之介/編集制作スタッフ:丸山純 武田力 中島菊代 大西夏奈子 落合大祐 加藤千晶
印刷:地平線印刷局榎町分室
地平線Webサイト:http://www.chiheisen.net/


発行:2012年9月12日 地平線会議
〒160-0007 東京都新宿区荒木町3-23-201 江本嘉伸方


地平線ポスト宛先
pea03131@nifty.ne.jp
Fax 03-3359-7907 (江本)


◆通信費(2000円)払い込みは郵便振替(料金が120円かかります)、または報告会の受付でどうぞ。
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議


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