8月8日。「八・八」の語感と末広がりの感じがいいのかいろいろな良き記念日(たとえば「山梨山の日」)になっているこの日に地平線通信「400号」をお届けする。400回目となる地平線報告会の告知を兼ねる通信でもある。個人の旅、体験の報告会、それを伝える毎月のこの通信が、400回も一度も欠けることなく続いてきたことにはあらためて驚きを持つ。
◆「へえ、400回も続けてるんだ」と、つぶやいたのは30年近く前だった。確か「季刊 文化人類学」という本を繰っていて「近衛ロンド」という集まりがあること、その集まりが400回になった、と知った時だったと記憶する。母体は、故梅棹忠夫さんが組織した私的なグループ「京大人類学研究会」で、毎週水曜日、近衛通りにあった「楽友会館」で例会を開催したので「近衛ロンド」と呼ばれた。
◆同じキャンパスにいる若手研究者の集まりであり、例会は「週1回」のペースだったので、300、400回はそれほど大変なことではなかったかもしれない。しかし、続けているとこういう数字になるのだな、と妙に感嘆した自分を今でも覚えている。300回でも500回でもない、「地平線400回」は、そんな経緯もあって私にとって格別な数字なのである。
◆しかし、400回になったから、と特別に大きな企画をやる必要はない、と考えた。最近だけでも、2004年11月、300回記念フォーラム「その先の地平線」、2008年10月、沖縄・浜比嘉島での「ちへいせん・あしびなー」、2009年11月、30周年記念大集会「踊る大地平線」と、この8年足らずの間にいくつかの記念イベントをやってきている。
◆そしてなんと言っても3.11が私たちひとりひとりにつきつけているものの深刻さ、切実さだ。400回の報告会の直前、399回地平線報告会は、その思いをこめて南相馬市で行なった。その経緯とレポートは、この通信の後段で特集しているので読んでほしい。
◆400回当日はお盆休みの8月17日午後、「映像と語りで垣間みる地平線会議400回のきのう・今日・明日」として、時間を拡大して(7時間になる。出入り自由)行うことにした。私としては、399回の南相馬地平線報告会と合わせて「400回記念」としたい気持ちである。
◆報告会当日の8月17日は33年前、地平線会議の名が決まり活動を始めた日だ。偶然、誕生日が同じ、という人からお祝いメールをもらった。「地平線さま、お誕生日おめでとうございます! 同じ日に、私は40歳、あなたは400回。不思議なご縁です。これからのますますのご発展を、滅茶苦茶楽しみにしています!」カナダ・ホワイトホースに住むマッシャー、本多有香さん。誕生日つながりで夏8月になると彼女のことを思い出す。「お互いもう若くは無いけれど、これからです。自分は40で死ぬとずっと思っていましたが、なってみれば死ぬには早い。一緒に頑張りましょうかね。」 最初に会った頃、有香さんはなぜか「私は40才前に死にます」と明言していた。この元気なら大丈夫だね。ありがとう。
◆もう1人、皆さんとともに見守り続けているシール・エミコさんについて。7月9日、オーストラリアの病院で大きな手術を受けた後、8月に入ってフェイスブックに書いた。《Wストーマ(人工膀胱、人工肛門)になりましたが、癌が、全部とり切れました!!》
◆実際は、けして容易なことではないだろうが、「癌が、全部とり切れた」と、あのエミコさんが言えたことに深く感動した。彼女の強さにただ心うたれ、お祝いメールを送ったら、以下の返信が。「江本さん、ありがとうございます!今回は経験豊富なドクターたちにとっても癌がとり切れるか大きな賭けだったそうです。癒着がとても激しく困難で、11時間45分の大きな手術でした。この12年間、私とスティーブを苦しめてきたあの癌が本当に消えたとはいまだに信じられない思いです(笑)。」
◆喜びとともに慎重な内容の文章が続く。「『癌には完治がない』というので喜びと共に新たに気を引きしめたいと思っております。応援してくださったみなさんのおかげで起きたこの奇跡。心から深く感謝しております。術後の経過は、一歩進んで二歩下がる……。神経をたくさん切ったので足全体ひどい痺れで動かず、削った骨盤も痛くて痛くて。腸に穴があき、絶食絶飲中です。場合によっては再び手術の予定です。(>_<)」
◆そして、最後に「祝!!400回報告会!! エミコ スティーブも。」とあった。偉いぞ! エミコ、スティーブ、そしてそんな時に地平線へのお祝いメール、ほんとうにありがとう!!(江本嘉伸)
この夏、6月中旬に南三陸町、7月の末に南相馬市を訪ねることができた。どちらも江本が誘ってくれたからだし、南三陸は住み着いて支援を探り続けていた新垣亜美さんの、南相馬は地平線報告会を引き受けてくれた上条大輔さんのご案内のおかげだ。それぞれ2泊、1泊という通りすぎるような訪問だ。どちらもはじめて訪ねる土地だし、何の役に立てる訳でもない。物見遊山に行くみたいなもんだなと多少気が重かった。しかし物見遊山でもよかったのだ。出かければ自分の目で見、自分の耳で聞き、自分の口で語り合う。すると少しずつ気づきはじめる。
小雨の降るくりこま高原駅に降りた。一便早くついた江本が待っている。新垣さんの車も来て、駅前のスーパーで食料を仕入れる。新幹線の駅前といっても何もない。広々とした稲田の中のやたらに大きなスーパーだ。それからまた広々とした水田地帯を抜け、ゆるやかな起伏を越えて登米の街を過ぎる。広い水田を反映してか、豊さを感じる街だ。新垣さんたちの宿舎まではなかなか遠い。北上川をヘアピンカーブの近くで渡り、東和を経て山間の道233に入り、鱒淵川ぞいの集落をたどりながら宿舎に着いた。まだ登米市のうちだ。鱒淵郵便局がそばにある。RQの救援活動はすでに終わっているので、いまはそれぞれ長期の支援を模索する女性たちが空いた個人の住宅を借りて基地としている。裏の空き地と木立がいい。
荷を置いて暮れる前に南三陸町の海辺を見ておくことにする。道を戻って山間の道を南下し、本吉街道298に出て東にたどる。道が下る。雨の車窓から草の間に車の残骸が集められているのが見える。杉山の下の列だけが赤く枯れている。建物の基礎だけが草に埋もれかけている。それから、家々の基礎と高いコンクリートの建物だけが残る志津川の町になった。
赤錆びた「防災庁舎」の骨組みが立っていた。雨が降っている。その足元の正面にたくさんの枯れた花束が供えられている。どういう人たちなのだろうか、バスが来ている。何人かは濡れるのをいとわず降りて眺め、手を合わせてまたバスに戻る。
あの高さ。三階建ての骨組みの上の屋上を襲う津波を、その屋上の何かによじ登って写した写真を友人がネットで紹介していた。屋上にいたほとんどの人は姿を消した。あの高さ。町役場の責任者たちも、そしてたぶん町のほとんどの住民も、あそこまでは、と思っていた高さ。あの高さを決めたのは何か。誰かがどこかで採用した「想定値」に従ったことは間違いない。このくらいあれば。いままでだって。それに、予算。赤錆びた鉄の骨組みは黙って、しかし厳然と人間が何を考え何をしたかを突きつけていた。
あれは残してください。ぜひ残さないと。見たくもない方も多いのでしょう。でもあれを残せば、将来どんな防波堤よりも多くの人命を救えますよね。ただ大きな石に名前だけ刻むようなことはしないでください。たとえば骨組みの内側に、何段もの位牌で取り囲んだような形に亡くなった方々の小碑を並べ、誰もが自然に祈らずにはいられないような、亡くなったのは一人一人なのだということをきちんと意識しながら手を合わせられる場所にしてください……その夜中瀬の仮設集会所の片隅で会った区長の佐藤徳郎さんに強くそう願わずにはいられなかった。
「記憶」が鍵である。しかしそれは集団の記憶であり、人の寿命をはるかに超えて伝えらるべき記憶である。だから人間にとって維持することはとても難しい。だから先人たちは記憶だけでなく、集団としての熟慮の結論を集団の指針や規約として残そうとした。集団としての決断と覚悟。おそらくいくつもの村で「これより下に家を建てるな」というような碑が建てられ、いくつかの村では今回それがみごとに機能したと聞く。
とはいえ時代とともに新しい人たちが増え、必要とするものの比重も変わる。先人たちの決意に黙って従う必要はないし、従わない理由はそれぞれもっともだ。ただ自然は言い訳を斟酌しない。先人たちの結論に従う必要はないが、結果を自分で引き受ける覚悟だけは必要なのだ。
原発もまた同じことだよなと思う。知恵を侮蔑し、言い訳だけを並べ、覚悟はしていなかった。わたし自身を含めてほとんど誰も。そしていまでさえ多くの者は。原発が津波と違うのは、メリットを享受するものたちがリスクだけは他人に押しつける工夫をこらしたことだけだ。
「あの津波は千年に一度のものだというがよく見るとやられたのはこの千年の間に人間が海に向かって押し出していったところだけなんだよな、埋立てやらなんやらで」家も耕地も失った佐藤さんがいう。「だからおれら千年分戻ればいいだけさ」と。ショックを受けた。悩み抜いた人の目にはいまや本質はシンプルで明快なものだった。夜はすでに遅く、雨は上がったが外は異様に暗かった。軒下にニンニクを並べた隣室では若いお母さんたちが子供たちを連れて集まり、新垣さんがその相談の手助けをしていた。
翌日は朝からすがすがしく晴れた。宿舎のところから道が分岐しており、分岐点にはいくつものどっしりした馬頭観音などの石碑が据えられている。そしてちょっとした鳥居のような門がある。華足寺という寺に通じる参道だそうだ。すぐ先の小川を渡る橋の欄干が朱色に塗ってあり、木立の雰囲気もよい。ちょっと遠いからと新垣さんが車で連れていってくれた。車は小高い山に登っていく。
いきなり度肝を抜かれた。森の中、池のほとりにただならぬたたずまいが現れた。まるでタイムカプセルが開かれたかのようだ。古い。木々のこの太さ。この寺をめぐる歴史の厚みが普通でないことはすぐに分かる(東北霊場33カ所の内15番だとか)。山門も不似合いなほど立派。木々に埋もれるような石段を登っていくと堂々たる建物がひっそりと立っている。寺院建築の知識はまるで持たないが、それでも大工たちが渾身の力と最高の技術を投入して建てたものだとは分かる。本尊はなんと馬頭観音。それがこれほどのお堂に。一気に東北の馬や牛の断片的な記憶が甦り、いまは若杉と雑木しか見えない山野が長年牛馬を生産してきた牧野として見え始めた。
もちろんすでに過去のことだ。寺院の起源は千二百十年前後も遡るというし、二百数十年前に完成したという馬頭観音堂もお堂が手入れされなくなってからすでに相当の時間が経っている。絵馬もほとんどが古い。それでも、この地が片田舎の貧しい山間の村などではなかったのだと分かる。複雑に入り組んではいるが、あまり高くも深くもない尾根や谷の連なりと、その山裾の家々の造りの立派さがにわかに気になりはじめた。
南三陸町に下りて、佐藤さんが流された畑の代わりに菊栽培用のハウスを作る土地を開いているというので見にいく。ちょっとした谷の奥に切り開かれた草地があり、佐藤さんは自らバックホーに乗っていた。もう、津波のくる場所にある耕地を作る気はしないからだという。痛ましかったのはその土地の真ん中に深い大きな穴があけられていたことだ。切り払った木々や繁っている草、そして表層の土を穴に埋めるのだという。ここらは放射線量を気にする必要がある土地ではないが、万一の風評被害に備えての余分な仕事だ。
そういう作業の資金を作るために、佐藤さんは持ち山の杉から太い木を100本あまり選んで友人の材木商に売ったという。伐って出す金はないから立ち木のままだ。まだそれほど高くなる樹齢ではないから1本3000円だった。それでも友人は多少損をかぶってくれたのだろうと。
わずか30万余。思い描いている施設を作り上げるには何桁も及ばぬ金だ。漁業者にはさまざまな資金支援が工夫されているが、津波にやられた農業の再建にはまだ何もないという。でもこれは佐藤さんが、運命を共にした仲間たちのために、同じ条件の上に立って何ができるか、一人でやって見せているモデル事業でもあるのだと気がついた。そうか、ここの人たちには山があるんだ。
昨日以来、ずっと山が気になっていた。険しすぎる山ではないから、初夏の陽に緑の違いが実に美しい。戦後しばらく経ってから一斉に植えたと思われる杉と、まず薪炭材として、それからパルプ材として伐って売り、その後更新してからまだあまり年月の経っていない雑木山がモザイクのように現れる。それが、馬頭観音の背景と、佐藤さんのやっていること、そして新垣さんたちがこの一帯には「契約講」とか「契約会」とかいう組織があり、地域に関わるなにかのときにはそのメンバーたちの意向が重要になるのだと話していたことにつながった。
そうか、それは明治になって共有林の始末をつけたときの話に違いない。ここではそれを基本的に「市民」の間で分配したのだ。であれば山林の様相の意味はよく分かる。そうか、ここは、いやひょっとするともっと広く宮城から岩手にかけての太平洋岸は、そういう自治、民主、平等の意識と伝統、そしてそれを支えられるだけの資産をも持った地域だった、と言ってもいいのかもしれない。それなら山裾でも海辺でも立派な家々が多いこと、しかもそれが均等に散らばっていることも理解できる。津波にやられてもやられても済み続けた理由も分かるし、自主と自立抜きには不可能な真の復興も期待できるではないか。ほんとうは豊かで懐の深い土地。これは南相馬の野馬追いにも通じる印象だ。
その印象はその後訪ねた戸倉地区の仮設住宅でも変わらなかった。ちょうど道草を刈る日で、みなさん朝から総出で草刈りを済ませ、比内地鶏を出汁にキリタンポの汁を戸外で召し上がっているときだった。勧められるままにご馳走になる。実にうまい。うまいが自治会長の阿部寿男さんたちの話も興味深くてつい気を取られてしまう。阿部さんは防災庁舎の放送が聞こえなくなったとき、そこまで津波が来たのだと判断して、100歳の母を背負って裏山に逃げた。母を背中から下ろしたとき、もう津波は足元にあった。
やはりもう津波の来たところに住まいも耕地も作る気はないと明言された。命に別状がないとしても投資として合わない、と。家の一階まで津波が来たが、母親がどうしてもこの家で死にたいというのでそのまま修理をして済み続けることにした、という人もいた。
佐藤さんも阿部さんも、もとの集落のメンバーを離散させないことを第一に重視していた。次いで阿部さんはみんなに仕事をさせることに力を注いだ。新しい土木建設の会社を起業し、仮設のメンバーたちを社員にした。働かないと、体を動かさないと、明日のことを考えられるようにならないから、と。その言葉の正しさは、失礼ながらみなさんの顔を見渡すとすぐに分かった。
その後新垣さんが気仙沼港まで海沿いを案内してくれた。どこでもかつての津波の「記憶」は集落のありように刻まれていた。しかし人によって立場も判断基準も違わざるをえない。とくに港のような町場では佐藤さんや阿部さんたちとは違う選択、違う復興を進めることになるだろうなと思った。
次の日、帰る前に海辺に連れていってもらって弁当を食った。コンクリートだらけの海辺は親しみやすいものではなかったが、その先の海はかぎりなく穏やかだった。海辺に生きる。それはこの土地の人たちにとって本当はどういうことなのか。それを知りたかったのだ。わたしはバイパスや公共施設のための埋立と防潮堤によって郷里の海を失った。子供の頃から手を伸ばせば手が濡れるところに海があった。それはもうない。そしてなじんだ海と海辺の風景を失うことは故郷を失うこととほとんど同じであることを知った。より高い防潮堤、高台移転、海浜公園。そして一方で漁業活動。これからここの人たちにとって海はどういうものになっていくのか、それでもなお海の側で生きる価値があるのか。イメージすることは難しかった。
[追記] 一昨日渋沢寿一さんからわたしの理解を裏付ける鮮烈な話を聞いた。大槌町に残る昭和大津波(昭和8年3月)からの全住民一致の分厚い復興計画書の存在だ。復興に向けてのフィロソフィや計画の明快さもさることながら、その計画書が津波後4カ月で作成され、住民の承認を得ていた事実に驚嘆する。われわれはなぜここまで堕落したのか。
■もう33年も過ぎたにもかかわらず、地平線会議に参加したときのことを、昨日のことのように思い出す。まだ、ワープロもパソコンも、FAXもない時代だった。
◆1979年の夏、探検部同期の岡村隆(法政大学探検部OB、1948年生)から、声をかけられた。1970年代の大学探検部は、大学間の横のつながりを持つ「大学探検部連盟」のような連絡協議会の設立を模索しており、その中心人物のひとりが岡村だった。
◆私はインターカレッジの重要性を感じながらも、現役学生に組織が作れるだろうかと斜に構えながら、長年にわたって岡村の活動を見守っていた。すでに岡村は、『全国大学探検部活動全史1956〜1970』という労作を仕上げていた。
◆「今回は探検部だけでなく、山岳部などを含めたOBたちが集まり、探検的な行動をしている連中の記録を整理していこうという話だ。お前も顔を出してみんか」。会話内容は正確に覚えてないが、大学OBの集まりと聞いて、かすかな期待を抱いた。
◆私は自分も含めて現役学生というものを信用していなかった。それは、1970年代の「学生運動」の影響もあった。政権に不満があり、政治改革なり“革命”を必要とするならば、なぜ「学生」運動と限定して表現されるのか。盛んにオルグして他人の人生を狂わした学生活動家たちが、卒業間近になると散髪に行き、平然とリクルートスーツ(当時はそんな言葉はなかったが)に着替え、大企業に就職するする姿を見ていると、学生は信用できないというのが結論だった(実際にはOB活動家も多かったのだが)。
◆いずれにせよ、OBとなれば学生と違って甘えは許されず、自分で責任を取らなければならない。個人が真価を発揮するのは、学校を卒業してから、つまりOBになってからの行動だ。私は大学を卒業するとアフリカに渡り、ナイル河を遡行して青ナイルの源流まで踏破した。しかし、学識のない自分には人類学的手法による地理的探検は無理だと諦め、“政治的秘境”を目指すジャーナリストになることを決意した。以後、パレスチナ、エリトリア、西サハラなどの戦闘が続くゲリラ解放区(政治的秘境)に幾度も潜入(不法越境)していた。
◆OBの集まりとなれば、それなりの組織になるだろうと考え、岡村に誘われるままに集まりに行った。そこで、宮本千晴(東京都立大学山岳部OB、1937年生)、向後元彦(東京農業大学探検部OB、1940年生)、江本嘉伸(東京外語大学山岳部OB、1940年生)、三輪主彦(東京都立大学山岳部OB、1944年生)、森田靖郎(関西学院大学探検部OB、1947年生)といった蒼々たる顔ぶれと出会った。まだ「地平線会議」というネーミングが決定する前だった。
◆地平線会議という魅力的な名称が決まった後、地平線会議が扱うジャンルについて議論が百出した。探検的行為とは何か? 再び探検部の原点に立ち返る神学論争となったが、最終的には学生探検部とは無関係に、人間が挑戦する行動すべてということに収斂していったように思う。もちろん、私は納得したわけではなかったが、かといって皆を説得できる論拠などなかった。
◆私としては植村直己さん(明治大学山岳部OB、1941年生)のように、南極大陸単独犬ぞり走破のような前人未踏の行動しか頭になかったが、探検的行動は日常生活のなかにいくらでも存在することを地平線会議で知った。江本さんは40歳になってからマラソンを始めたと聞き、30歳を過ぎたばかりの私は、その発想と行動だけでも驚いた。
◆ところが、三輪さんは100kmをマラソンすると言い出した。42.195kmも走ったことがない私には、想像もできない“探検的行為”だった。一時期、地平線会議はマラソン・クラブではないかと錯覚するほど、マラソンの話題で盛り上がっていたことがある。それは時代の先取りで、いまや100kmマラソンは、市民権を得た行動で誰も驚かなくなっている。
◆時代を先取りした前人未踏の行動という場合、「前人」の記録を調べなければならない。そうした記録を集大成するのも、地平線会議を設立した目的のひとつだったが、印刷物は人員や予算の問題で今は頓挫している。しかし、毎月開催される月例会(地平線会議)は、100kmマラソンを始めた三輪さんや江本さんたちの努力によって欠かさず開催され、今月で400回目となるという。第1回の報告者である三輪さんや江本さんの周囲には若い世代が集っており、彼らが新たな世話人となって地平線会議は持続していくものと信じている(早稲田大学探検部OB、1949年生、惠谷治)。
過ぎ去った日々の苦い思い出は、消えては浮かぶ残像のようなもの。週末になると、いつか見た残像が現実となる。
「紫陽花(あじさい)革命」を知っているだろうか。毎週末、首相官邸前に集まるデモのことを誰かがこう呼んだ。原子力ムラの言いなりになった知的源泉のない首相の決断に、大飯原発再稼働に反対する市民は、毎週末首相官邸付近に集まる。デモは、70年安保世代と「首都圏反原発連合」がツイッターなどで呼びかけた子連れや若い世代だ。100人規模だったデモは黙っていたら賛成したことになると10万人を超える。あの「非常時」を忘れず、大きな声も出さず、ゆっくりと歩き、違う意見も否定せず「愉しい節電生活」に備えている。国会議員もあわてて駆け付け「白い風船」を配っている。ベルギーの少女連続誘拐事件(96年)の司法の対応に抗議した30万人デモにあやかったものだ。
デモで出会った同世代人は、「70年安保、あの時変わっていたら……」と、原発だけではない、脱昭和こそ次世代への責任だと、初めて妻とデモに参加したそうだ。
ぼくにとって胸キュンの残像もある。79年夏、手の平に収まる小さなモノが、ライフスタイルや社会そして時代を「変える」瞬間を体感した。音を自由に持ち運ぶ「ウォークマン」の出現で、音楽が変わり、マチが流動し、ぼくらのパフォーマンスが時代を追い越した。「商品はモノ」ではなく「コト」なのだと……。生活をデザインした商品は、消費者を生活者と言い換えた。ウォークマンの登場と同じ年の同じ夏に「地平線会議」が生まれたのは偶然ではない。既成のワクを破り、「なにかを変えよう」と、生身の人間の地球体験の報告会は、「ヒト」が「コト」を生み出す「磁場」となった。「観夢土下座(Come Together)」は、400回、30余年、耕しつづけ「人間話法」を実らせた。そして2012年夏、「ヒトからヒト」がなにかを変えようとしている現場を、ぼくらは見過ごしてはならない。
3・11後、ぼくらはなによりも人間のあり方を深く見つめることの大切さを知った。原発に「?」を感じながらも経済的豊かさを甘受し、自分らが使う電力を遠い原発村に押し付けてきた愚かな人間であったと、気づかされた。沖縄の基地も同じ過ちだ。進歩、努力、発展こそが善と教えられてきたぼくらにとって、エゴは悪であると……。ヒトは善を以て悪をなすものだ。だが、我欲のニューリッチは善悪も貧福の礼もわきまえない。電気を使い過ぎることで、人の暮らしは空しくなってきていることも知った。「人間」を取り戻すために、多消費社会から「変わろう」と、国会周辺に集まる。ヒトは集団化すると次に共通の敵を探し団結したくなる。再稼働だけが問題なのではない、国民の声を「音」と無視する野田首相の政治的、人間的感性の鈍さに敵意さえ感じ始めている。大飯原発再稼働について野田首相の演説は、国民の生命と引き換えに国民生活を守るという、論理も倫理も欠いた政治の詐術だけが見え、東大話法がいかに空疎なものかを露(あらわ)にした。東大話法とは、命名した安冨歩東大教授によると「一にも二にも立場でモノを言う。どんないい加減で辻褄が合わないことでも自信満々で話すこと」だそうだ。立場でなく現場でモノを言う「地平線話法」には遠く及ばない。
歴史が未来の礎(ルーツ)であることは、誰もが気づいている。ぼくは、「原発をやめられない社会とはなにか?」を探ろうと、『ファースト・アトミック〜GHQがつくった戦後ニッポンと「過ち」〜』を発刊した。そこでぼくらがいま患っている社会病を見つけてしまった。
自分史を辿ると、戦後ニッポンが鑑としてきたアメリカという国を丸ごと信用してはならないと、思い始めている。アメリカニズムといわれる感染病が、近年、先進国に蔓延しているそうだ。アメリカニズムはアメリカナイズとは違う。高度に工業化した社会の次に訪れるのは、貿易立国である。世界に通用する工業製品が生み出されると、必然的に貿易が栄え、貿易黒字で国家が強大化する。アメリカや、ヨーロッパの先進国が辿ったように、日本も中国も同じ道を歩む。この病には、絶えず外的刺激を求めその後に精神の荒廃と道義的マヒ状態が続く症状がある。日本も例外ではない。近年、政治、経済そして社会の崩壊現象、家庭崩壊や学校崩壊、そして時間(歴史)や空間(領土)に関心がない一部の若者たちが行き着く援助交際などもこの病の末期的症状だろう。
安保や原発を売り込んだアメリカ人は、国家的商人である。アメリカは、その後、膨大な規模の生産と補給をビジネスとして、日本市場を蚕食(さんしょく)した。
戦後、「自由」が前提となったこの国で、ぼくらは時々「自由をはき違えている」と思う言動に出くわす。「自由とはなにか?」を、自分で学び取ってこなかった。ぼくらは「自由」を、ガムかチョコレートのようにGHQの手土産くらいにしか感じてこなかった。「自由」を社会との関わりで考えずに、「個人」に留めてしまったことで、「自由をはき違えるエゴイズム」にも目をつむってきた。これもアメリカ病か。
未成熟で性急でぎこちなく近視眼的な現代の病に、ひとつだけ弱点があることに気づいた。「ヒトからヒト」への「人間話法」に感染しない。地平線報告会が400回も続いていることは、この社会病に無縁であることの証であり、誇っていい。
■地平線通信が届くと、いつも眩しいものを見るように、憧れの気持ちをもって読んできました。それは平凡なサラリーマンが夢として持ってはいても、実際には実現できなかったことを果敢に実行している人々が大勢いることを知るからでしょう。そんな人達の通信が400号、報告会が400回を迎えるとのこと、江本さんの人をまとめる並外れた力と、それを支える冒険者たちの情熱に敬服しています。
◆さて、そんな私もいつの頃からか、アンデスに登るという夢を持ち続けてきました。山仲間の25歳の若者が、この夏、エクアドル、ペルー、ボリビアの山を2か月以上かけて登ろうとしていることを知り、ペルーの部分だけ私が同行するということになりました。目標はペルーの最高峰であり、広大な氷河が魅力のブランカ山群のワスカラン南峰(6768メートル)としました。
◆見かけは至って元気な私ですが、ご存知の通り、慢性肝炎、悪性リンパ腫などかなり面倒な病気をかかえています。病院の担当医に、検査も治療も一か月ほど待って下さい、と山行きの話をし、怪訝な顔をされながらも、何とか承諾を得ました。
◆6月半ばに日本を出発、現地の登山基地となるワラス市を起点に、高度順化を兼ねてネバード・ピスコ(5752メートル)、イシンカ(5530メートル)の2峰を登った後、7月初めにワスカラン南峰に登頂することが出来ました。天候的にも絶妙のタイミングで登ることができ、幸運にも恵まれた山旅でした(我々の登頂2日後に降雪があり、雪崩のために登頂を断念したパーティーがありました)。
◆これだけでは全てが順調だったようですが、1日だけ4千数百メートルの湖まで登った後、いきなり5700メートルを超えるピスコに登ったのは、後から考えると相当無理があり、4日間ほどは高度障害で苦しい思いをしました。その間は食欲が無く、それでも動きまわったため、登山にあまり関係のない水泳や自転車に使う筋肉がカロリーとして消費されたとみえて、62キロの体重が6キロも減って本当に驚きしました。身をもって高度順化の大切さを実感した山行でもありました。
◆ワスカランの後はしばらくトレッキングなどで体力の回復をはかり、7月半ばに帰国、68歳にしてささやかな夢は実現しました。ペルーの山々はあくまでも美しく、アルパマヨ、キタラフなど魅力的な山が目白押しで、正に病み付きになりそうでが、先ずは本物の病気をなんとかすることが肝心です。(鳥山稔 神戸)
★鳥山君は東京外国語大学山岳会の江本の4年後輩。北アや南ア全山縦走、太平洋からの富士山越えなどハードな登山は、いつも彼と2人でやってきた。短距離泳者としてもマスターズの大会に出続けるなど抜群の体力を誇り、人間的にも謙虚で心底頼りになるパートナーだ。3年前、悪性リンパ腫を発症、闘病の日々なのにそんな中での挑戦。高度順化は実はやばかったのでは、と推測するが、見事な結果を出してくれた。自分が登ったより嬉しく、強制的に地平線通信400号に書いてもらった。(E)
■地平線会議が400回になるという。すごい! 昭和54(1979)年5月、鎌倉─京都カヌー旅の小さな記事が朝日新聞に載ったことがアジア会館(注:当初の地平線報告会会場)に通うきっかけとなった。63才でリタイアし、日本一周も終えた。海外に舞台を移し、カナダのセントローレンス川、欧州内陸水路縦断、英国運河と漕いで、次はドイツ。昨年の年始早々から準備を始め、航空券も確保したのだが……。東北の海を旅していた頃、お世話になった方々を思うと、とても出発する気にはなれなかった。
◆明けて本年6月27日、支流の古城街道沿いのネッカー川から漕ぎ出した。河口から100キロ地点の航路標識が立っている所だ。ヨーロッパの川は重要な交通路だから、カヌー旅にも役に立つ。ハイデルベルグを過ぎ、3日目に0標識に到達、ライン川に入った。源流から432キロの地点だ。様変わりの急流がぐいぐいと押し流してくれる。「♪ラインの水やアルペンの♪」、学生時代、コンパで蛮声を張り上げたことを思い出した。
◆川旅が終わった後、列車でインスブルッグに向かった。冬季オリンピックの会場になったパッチュコフェル山(2246メートル)のロープウェイはなぜか運休。ならば歩いて登るしかない。山道はやがて牧場に入った。「♪雲は行く 雲は行く アルプスの牧場よ♪」、歌の通りだ。6時間も歩いて山頂に達し、銀嶺のパノラマ景観を独り占めしてきた。若き日、考えもしなかったことをやってしまった。
◆話を戻そう。期待のローレライは素通り、振り返った岩肌に「LORELEI」の文字を見て気がついた。その昔の船の難所、「美しの乙女」ではなくて、あばた面の岩の語源は「待ち受けている岩」だという。翌朝早々、悪態がたたった。浅瀬の手前に隠れ岩が待ち構えていた。がっちりと捕まえられて動けない。川底にパドルを刺し、懸命に突いて後退、やっとのことで抜け出した。560キロ地点は、命拾いをした「わがローレライ」だった。
◆スタートして6日目、目指してきたコブレンツに上陸、祝杯を上げに町に出た。辛口の白ワインに酔いしれてテント地に戻ると大変、見事に積み荷が消えていたのである。翌朝、衣類を買い整え、カヌー一式を郵便局から送り出した後、予定通りの放浪旅に出た。ロマンチック街道からミュンヘンを経てオーストリアに入った。アルプスの後は「美しき青きドナウ」の遊覧船。実は次の旅の下見だ。さらにウィーンへ。オペラ座の天井桟敷で長旅の幕を下ろした。さて、この先だが、夢と元気はまだまだ持ち続けていたい。8年後の地平線500回を目標に。(吉岡嶺二 永久カヌーイスト)
地平線通信の最後のページで「今月の報告会のお知らせ」の絵と文を担当している。このデジタル時代に手書きの読み辛い文字で、しかも誤字脱字の極めて多いあのスペースだ。発送日の当日ギリギリに入稿するから校正の時間が無い。通信の他の文章は複数の校正者の目を経て間違いが少ないので、余計アラが目立つ。地平線のサイトにフォントで入力された我が文章を読んでは、小学生の頃から思い込んでいた間違いまで発見して小さく「どひゃー」と呟くのだ。ただの誤字なら自分の恥で済むが、悪質なのは報告者のお名前やデータ数字の間違いだ。あってはイケナイ事だが、実はこれも時々やらかして、江本編集長を青ざめさせている。被害に遭われた方には本当に申し訳ない。
そんな粗忽モノに「報告会のお知らせを書け」というミッションが下ったのは1984年の年末だった。どういう経緯か、たまたま順番が回って来たのだろう。当時の通信はハガキ一枚。まだワープロすら普及していない時代だからそれまでのハガキも9割以上手書き版で、いろいろな人が順番に制作を担当していた。「月世見画報」に収録された当時のハガキを見ると、書き手それぞれの文字の表情が多彩で楽しい。
一方、手書き文字の羅列は可読性に欠け、取っ付きが悪い側面も。一目でテーマを示す助けにイラストを用いたのが、僕が最初に手がけた通信第62号だった。報告者の高野久恵さんから台湾のヤミ族の写真をお借りし、嬉々として細かい模様を丸ペンで描いた覚えがある。1枚500円位のカットの仕事等を受けて細々とお絵描き稼業を志したばかりの僕に取って、ハガキ一枚とはいえ、数百人(?)の読者がいる「媒体」を自由にデザインするのは大きな喜びだったのだ。今見れば肩に力が入っているのがわかる。
それから幾星霜。偶然回って来たバトンを次に渡さないまま、今月で通信も400号を迎える。振り返れば来た路の長さに驚く。お知らせを描き始めた当初(通信80号くらいまで)はほとんど報告者の顔を描いてない。自信が無く、ヘタに描いて、報告者の顰蹙を買うのが嫌だったのかもしれない。今ではかなりデフォルメした顔を平然と描いてるが、腕が上がったわけでは全然なく、開き直っただけだ。数年前に服部文祥氏を描いた時は、本人から「ヘタですね!」と厳しく糾弾(?)されたが、へらへらと笑って誤魔化した。地平線報告者各位の心の広さに感謝するばかりだ。
沢山の「お知らせ」を描いてきたが、前回398号は困った。原発事故で大被害を被った飯舘村や南相馬市を回るスタディツアー的報告会と言う内容も異例の上、直前まで詳細がわからない。現地を尋ねたことも無いのでイメージが湧かない。原発事故後日本に生じてしまった未曾有の「空白地帯」も、歴史のスケールの中では常ならず変転し現出する一瞬の「相」に過ぎないのかもしれない、と言う極めて概念的な発想から、苦し紛れに「無窮の大地に無常の風が吹く」というタイトルを決め、絵は日程の重なる「相馬野馬追」を戯画化した。
この報告会に参加して印象に残ったことが2つある。一つは里山のあり得ない風景。もう一つは相馬野馬追という祭りの美しさだ。
飯舘村は全村避難で、基本的に無人であることは知識として知っていた。実際に村内を通ると、見渡す限りの田畑が草むらと化しつつあり、畑地脇のスギ・ヒノキの林はツルが巻き放題にはびこっている。林業誌の仕事で全国の中山間地を毎月のように歩いた時期が14年程ある。山あいの農山村は過疎化が進み、耕地や山林の荒れは日本中で起きている現象だ。しかし、これほど広範囲の田畑が放棄された里地はない。どこかに必ず野良仕事の跡が見えるはずなのだが……。飯舘村に人が住み始めて以来現れたことの無い風景がそこにあった。先に「空白地帯」と書いた。それはいわば、原爆被災後の草木も絶え果てた荒野のイメージだったが、現実の空白は一面の緑地だ。無人の家屋や村役場庁舎の石畳の隙間から生え出た雑草よりも、人手が絶えた里山の姿が無惨だった。放射性セシウムの半減期は30年。再び人が戻るのがいつになるのか不明だが、不断の営みで維持されて来た里山の風景は、わずか1年半で風化し始めている。
相馬野馬追は馬を見たくて愉しみにしていた。特に約2時間に渡る武者行列は予想以上に素晴しかった。戦国時代の甲冑をつけ、大型の西洋馬に股がった武者達は役柄に入り込み、口調も物々しく「無礼な」見物客を叱り飛ばす。往時の馬は小型の在来馬のはずだし、無粋なアスファルトは蹄鉄を滑らせ、馬を御すのも一苦労のようだったが、そんな粗探しを忘れる程に、多様な甲冑を着込んだオヤジ騎馬武者達は皆格好良く見える。旗指物の意匠の斬新さ、そして馬の迫力は見飽きない。甲冑姿の若武者による競馬は、風に靡く旗指物の音と地響きを伴って疾走する姿が、鳥肌が立つ程美しい。地元では年に一度のこの行事の為にだけ、馬を飼育している方も多いと聞く。その馬が津波で数百頭の単位で流され、今年は余所から借りた馬が例年になく多かったとか。そんな苦労を買ってでも代々伝わる伝統行事を続ける営みが地域の文化となる。飯舘村に隣接する南相馬市は、昨年3月のわずかな風の流れ次第では、この営みを失う可能性も有った。視点を変えれば、今は無人となった飯舘村、あるいは立ち入りを禁じられた地域で、いかに多くの伝統行事が失われたかに思いを馳せずにいられない。
こうして毎月のように様々な思いを掻き立てる地平線報告会も、絶やさず積み重ねて成った文化の一つだ。日本が原発に依存し続けるような自滅的選択をせず、地平線報告会と言う伝統行事(?)が今後も営々と続くことを願って止まない。(長野亮之介)
■いよいよ記念すべき第400回目の報告会ですね。積み重ねてきた重さとでもいうのでしょうか、「400」の数字には驚かされてしまいます。
◆それを前にしての第399回目はすごかったですね。地平線会議の歴史に新たな1ページをつけ加えたかのようです。いつもの東京・新宿の会場を離れ、30余名の参加者が7月28日午前9時50分に福島駅西口に集合。マイクロバス2台、バイク3台、車2台で南相馬に向かっていくシーンは壮観でした。ぼくはその時、ふと「大人の修学旅行」の言葉が頭に浮かびました。
◆出発時に手渡された『飯舘村、南相馬市の現場を見、考える地平線行動』の小冊子には感動。江本さん、よくぞこの日に間に合わせて作りましたよね。今の地平線会議の実力の一端を見る思いがしました。小冊子づくりにたずさわった新垣亜美さんは「江本さん宅でエモカレーを食べて、エモバーガーを食べて、エモサラダを食べたら手伝わされてしまいました」と笑ってました。それには参加者のプロフィールものっていて、今回の報告会を盛り上げるのに一役も二役もかっていました。
◆阿武隈山地を越え、南相馬の旧小高町をめぐり、夕暮れ時に到着した旧鹿島町の上條さんの施設はよかったですねえ〜。まわりの山々のしたたる緑は目に染みるようでした。「おー、これぞ、東北!」というような阿武隈山地の緑でした。ミーティングでの参加者のみなさんの一言一言がよかったです。翌朝は夜明けとともに起き、1時間ほど山中を歩いたのですが、「カナカナカナ」と鳴くヒグラシの蝉時雨がすごかったです。その日は何と「相馬野馬追」の武者行列、甲冑競馬、神旗争奪戦を見ることができました。これはもう「地平線会議」の「あるくみるきく」としかいいようのないほどドラマでした。それだけにみなさんとの別れには辛いものがありました。
◆ぼくは7月28日に集合場所の福島駅西口に行くのに7月13日に東京を出発しました。スズキの650ccバイク、V−ストロームを走らせ、「鵜ノ子岬→尻屋崎」を走ったのです。鵜ノ子岬というのは東北太平洋岸最南端の岬、尻屋崎は東北太平洋岸最北端の岬です。福島県の浜通りから宮城県南部の海岸地帯を通り、塩釜、石巻から三陸海岸を北上していきました。
◆岩手県では釜石を過ぎると、大槌町、山田町と大津波に襲われて壊滅的な被害を受けた2つの町がつづきますが、この大槌と山田の違いには大きなものがあります。大槌は町役場が津波の直撃を受けて全壊。町長をはじめ町役場の職員の多くを失くしました。それに対して山田は町自体は大槌同様全壊したものの、高台にある町役場は残りました。司令塔を失った大槌と、司令塔の残った山田、隣合った2つの町はあまりにも対照的でした。
◆山田の町役場の隣には八幡宮があり、参道の入口には「津波記念碑」があります。1933年3月3日の昭和三陸大津波の後に建てられたもの。それには次のように書かれています。「1、大地震のあとには津波が来る。1、地震があったら高い所に集まれ。1、津波に追はれたら何所でも此所位高い所へ登れ。1、遠くへ逃げては津波に追い付かれる。近くの高い所を用意して置け。1、懸指定の住宅適地より低い所へ家を建てるな」。
◆山田の町役場はこの「津波記念碑」の教えを忠実に守り、それと同じ高さのところに建っているので無傷でした。ところが山田の中心街は「津波記念碑」の教えを無視し、それよりも下に町を再建したので、明治三陸大津波、昭和三陸大津波にひきつづいて平成三陸大津波でも、町が全壊してしまったのです。
◆山田から「日本の秘境」の重茂半島に入っていきました。本州最東端のトドヶ崎の入口が姉吉漁港です。ここは今回の大津波で38.9メートルという最大波高を記録した所です。漁港は大津波に飲み込まれ、大きな被害を受けましたが、姉吉の集落は無傷で残りました。姉吉にも「津波記念碑」が建っていますが、それには「ここより下に家を建てるな!」とあります。
◆明治三陸大津波、昭和三陸大津波で集落が全壊した姉吉は、その「津波記念碑」の教えをしっかりと守り、すべての家が「津波記念碑」よりも上に建てられているのです。そのおかげで今回の40メートルという巨大な壁のような大津波に襲われても、1人の犠牲者を出すこともなく、1軒の家を流されることもなかったのです。姉吉から山道を1時間ほど歩くと本州最東端のトドヶ崎に出ますが、東北一のノッポ灯台の白さと目の前に広がる太平洋の海の青さが強烈に目に残りました。
◆岩手県から青森県に入り、尻屋崎まで行くと、下北半島を一周して青森へ。青森から南下。いったん東京に戻ると、今度は東北の玄関口、白河に行き、そこを出発点にして福島県内の中通り、会津、浜通りをめぐったのです。会津では田島を拠点にして南会津を一周しましたが、その途中では酒井富美さんの民宿「田吾作」のある旧伊南村を通りました。奥羽山脈の峠越えや奥州街道の宿場めぐりは心に残りました。磐梯吾妻スカイラインや磐梯吾妻レークライン、磐梯山ゴールドラインは現在、無料開放中なので、これら3本の絶景ラインをV−ストロームで存分に走り回りました。高原の爽やか空気を切っての走行はたまらなかったです。こうして5000キロ余を走り、7月28日に南相馬地平線報告会の出発地点、福島駅西口に到着したのです。
◆記念すべき第400回目の報告会を前にして、第1回目からの報告会のシーンが次々に目に浮かんできます。初期の頃の会場、東京・青山の「アジア会館」がなつかしく思い出されてきます。これといったテーマが見つけられず、夏の納涼大会をやったこともありましたよね。
◆「地平線会議」を立ち上げたメンバーの1人、宮本千晴さんの「とにかく続けることだ」の一言が今、鮮明によみがえってきます。「継続」、これが一番、大事なことのような気がします。第400回はあくまでも一里塚。ここまで続けてきたのだから第500回目、第1000回目を目指しましょう。今、「地平線会議」をおもしろがっている人が次の人たちに伝えていく、これは「地平線会議」発足時からの基本的な姿勢です。(賀曽利隆)
■地平線33歳、会議400回おめでとうございます。「すごいこと!」です。私は島の会「ぐるーぷ・あいらんだあ」を30年と決め活動しましたが、予定通り30年で解散してみて、改めて、地平線会議33年間の重みを感じます。その記念すべき399回地平線報告会に参加しました。
◆福島市内に前泊して、街を歩きながら、「どうして、福島に原発があるのだろう」と、考えていました。秋田生まれの父と福島生まれの母が、結婚した折に、新天地・東京を求めた気持ちが少しわかるような気がしました。やはり、母たちが生きた時代、この地は貧しかったのだろうと思うのです。
◆今回の旅は、南相馬で障がい児通所施設を運営している上條大輔さんの案内で原発事故後の立ち入り禁止地区ギリギリまで向かいました。最近まで立ち入り禁止だった小高の街も見ました。傾いている家や、屋根がつぶれている家がそのままあり、それでいて人の気配の感じられない空気感は、「廃墟」と呼ぶには辛い、まさに暮らしを奪われた光景でした。
◆海に向って花を手向ける江本さんの姿を見て、やっと、この原点までやってきたという思いが募りました。1954年、太平洋の真ん中、マーシャル諸島のビキニ環礁で、アメリカによる水爆実験が行われ、島びとが被爆し、航海中だった日本の漁船第五福竜丸の漁師たちも被爆しました。漁船の被爆は、風向きの誤算によるものでした。
◆1983年、私は、マーシャル諸島の主島マジュロからヤシの実を集積する船に乗って、ビキニの人たちが避難している絶海の孤島キリ島を訪れました。島は周囲が5キロほどの小さな島で、島の半分のヤシの木が倒され飛行場になっていました。アメリカの補償金で暮らす人々に、金銭的な苦労はないかもしれませんが、この小さな島に閉じ込められていました。定期的に訪れるアメリカの医師によって、被爆後の人間の体がどうなってゆくのか記録されていました。
◆この島で、人が生きてゆくために最低限必要なものは何だろうか? と考えました。「グリーン」と「1時間走ることのできる土地」と「水」、そして、「働くこと」です。この、どれもがキリ島では満たされていませんでした。
◆私たちは、誰もが「生きるという旅」を続けています。そして、2011年3月11日、東日本大震災が起こりました。その時、私は重い障害を持つ娘の通所に付き添っていました。いつもの倍の時間をかけて家に帰りましたが、千葉に行っていた夫とは連絡がとれません。部屋の真ん中で、娘を抱きながら、娘を守って行かなければならない、と思う一方で「時が止まり、何かが終わった」と感じました。昨日までの今は、もうない、と。
◆風向きによって、あるいは雨によって、原発事故の影響が東京まで来るかもしれない。もしかしたら、東京が吹き飛ばされることだってあるのだろう、と、思ったのです。その後の数日間はテレビニュースで語る官房長官の顔の表情の変化を見ていました。この人は事実を伝えてはいない、と思いました。3日目くらいの、その顔の目は泳いでいて定まらず、不安いっぱいの様子でした。
◆実際、障害を持つ子の家庭においては、東京も「被災地」でした。大学病院でさえ、特定の薬が処方できなくなり、娘の胃から注入する栄養液(つまり、ごはん)すら、不足したのです。名古屋や大阪の障害児のお母さんから水やアルコール綿などの救援物資が送られてきました。
◆一方、東北の被災地に物資を送ることで、日々の生活の心の平穏を保っていました。仙台に住む友人の家庭では夫は市役所勤務で泊りこみ、家庭には呼吸器をつけた娘さんと、知的障害のある多動な息子さんを抱え、給水車が自宅の目の前まで来ても、水を受け取りに行くことができないという状況を聞きました。
◆最も早く開通した輸送手段は、A4サイズの封筒「ゆうメール」で、相手の自宅住所まで届けてくれるものでしたので、さすがに水は入れられなかったのですが、使い捨てカイロや、医療品、下着など入れて送りました。
◆昨年秋、娘の夏帆(なつほ)が、急性呼吸不全で救急車で運ばれ、入院して以降、次のステップは気管切開によって呼吸の安定を図ることになりそうで、旅に出るタイミングが見つけられずにいましたが、退院後、やっと宮城県・浦戸諸島の地を踏みました。島の集落の半分の家は残り、半分はすべて流されてしまった景色は、まさに身の震える恐怖でした。
◆でも、今回訪れた福島・南相馬の被曝地こそ、私たちが立たなければならない地点であると、思いました。何故なら、原発事故は人が引き起こしたものだからです。ビキニの水爆実験のあと、非核署名に有権者の40パーセントの数が集まったのだそうです。そこまでの民意があっても、原発事故は起こってしまうのです。障害の重い娘を育ててきた25年の間には、やはり差別にも遭遇しました。人間が人間を差別する「人間とは何なのか」という重い課題を抱えながら、南相馬市小高の海に向って失われた魂にあいさつをした時、「生きるとは何か?」を問いかけ続ける、その原点に立たされた思いがしたのです。
◆物見遊山に訪れるようで申し訳ないという感性を持つ人もいると思います。しかし、旅をする私たちは、やはり、現場に立ってみたいと思うのです。最も若い参加者が「ここは宿泊施設ではない、被災地だ」と言って、率先して掃除をする様子も、トイレも掃除しておこうと言って、便器にブラシをかける女性の姿も、地平線会議らしいと、嬉しくなりました。上條さんのお話ももっとじっくり聞きたかった。「生きるという旅」は、これからも続きます。(河田真智子)
■7月末、やっと福島を見て歩くことができた。震災後、宮城に1年3か月間いたが、福島に滞在したのは初めてだった。気温35度の夏日、上條さんが運転するバスで福島駅から走り出す。緑の田舎風景をのんびり眺めていると、飯舘村に向かう途中の川俣町で突然左手に2階建てのプレハブが建っているのが見えてドキッとした。入口には2つの小学校の名前が書いてある。飯舘村の小学校の仮校舎だった。
◆「ここに空気の壁がある」という上條さんの言葉と同時に居住制限区域になっている飯舘村に入ると、人の手が入らなくなり荒れた農地や、成長し放題の草が突き抜けているビニールハウスなどが次々と目にとまるようになる。さっきプレハブ校舎になっていた臼石小学校もあった。高台にある立派な学校で、ここが使われていないなんて信じられない。
◆南相馬の原町に入るといくつかの田に稲が植えられており、『試験田』の看板があった。いつか、この地で農業が再開できる日がくるのだろうか。『汚染土壌』と書かれた袋が寄せ集められていたり、集めた土に青いビニールシートをかけてある光景は、原発問題の行き詰まり感や取り返しのできない事実を突きつけてきた。現実を思い知らされた2日間だった。
◆福島の光景が目に焼き付いたまま、8月1日からは1週間宮城県へ。1か月ぶりの南三陸町志津川は、病院や警察署が解体されて景色が少し変わっていた。福島の、人の気配がなくて時が止まったような世界とはやはり違う。ゆっくりだけれど前に進んでいる。久々に再会した住人たちからも前向きな話が出てきて、農業再開に向けたビニールハウス建て、集団高台移転地の決定、農地の区画整理事業、国道沿いのドライブインや魚屋の建設など、この1か月に決まった出来事を嬉しそうに話してくれた。
◆報道が減っていると言うけれど、関東に帰ってきても東北を感じることは意外と多い。私が7月から勤務している埼玉の中学校では今、学校が避難所になった際に使用する防災井戸を掘っている。避難所の設営・運営訓練も予定されているらしい。また、私の受け持つ中3理科では、3学期に自然災害やエネルギーの分野で地震や津波、原発、放射線についての授業があり、教職員向けの研修会も開かれている。次の世代を担う子どもたちに、この現実をどう伝えるか。大人たちの筋のとおった真摯な姿を見せたいと思うのだけれど…。(新垣亜美)
フロントと最終ページの告知にあるように、8月の報告会は、いよいよ400回目となります。日取りは17日の第3金曜日。この日は地平線会議の33回目の誕生日でもあるので、そのお祝いの意味もこめて14時から21時まで半日をあてます。会場は、いつもの新宿区スポーツセンター。以下のような進行を考えています。(全体進行・丸山純)
1…14時〜15時20分
アマゾン・トウチャン一家との40年
……関野吉晴(トーク・野地耕治+江本嘉伸)
今号の特別寄稿にあるように、関野さんは目下、マチゲンガ族の40年来の知り合いトウチャン一家に再会するため現地に飛んでいる。31歳当時の探検家の実像が1時間の映像から浮かび上がる。
2…15時30分〜16時50分
モンゴル ゴルバンゴル学術調査とは何だったか
……進行・長野亮之介
チンギス・ハーンの陵墓を探るモンゴル・日本合同ゴルバンゴル学術調査の全容はあまり知られていない。民主化のうねりの中で進められた不思議なフィールドワークを映像から解説する。長野画伯は「トゴーチ(コック)」として異例の参加。故坂野皓演出による映像にカメラマンとして参加した明石太郎さんにも話を聞く。
3…16時50分〜17時40分
400回を祝う、豪華コーヒー・ブレイク
海宝道義さんの軽食とコーヒー、原典子さんのケーキ各種。お子さん連れも歓迎。地平線の若手によるサプライズ企画も。
4…17時40分〜19時10分
ドキュメンタリー「アフガニスタン最前線」上映と解説
……惠谷治 明石太郎 進行・丸山純
1979年、地平線会議が生まれた年にソ連軍が侵攻したアフガニスタン。その戦場に潜入した惠谷治さんたちの記録。故坂野皓さんをディレクターに、カメラマンの明石太郎さんを含む3人はゲリラ部隊とともに急峻な山道をたどる。当時惠谷治31歳。
5…19時20分〜21時
描き続けた「地平線」
……絵師・長野亮之介が見続けた地平線会議の400回 進行・丸山純
今や古典的価値さえ叫ばれる長野亮之介の世界。画伯は何を見ながら、400回の報告者を描き続けてきたのか。
6…21時20分〜
二次会
恒例「餃子の北京」で打ち上げ。
■目的 3.11が起きてから1年4か月。国の収束宣言とは裏腹に、未来に向けて何も語られようとしない原発事故。そして、ゆっくり忘れられようとしている巨大津波の被災地。被災地支援など微力ながら3.11と関わってきた地平線会議として、初めて月例報告会のかたちで福島の現場を訪ね、今進行していることを教えてもらい、語り合う。
■期日 2012年7月28日(土)29日(日)
■場所 福島県飯舘村、南相馬市
■宿舎
南相馬市鹿島区上栃窪字瀬ノ沢20-1
特定非営利活動法人「自然環境応援団」
障がい児者施設「あーす」
森林整備「地球屋」(理事長 上條大輔)
今回の企画は、上條大輔さんの理解と協力の上で実行できた。
■参加者(住所地ないのは東京在住者) 賀曽利隆(バイク 神奈川) 渡辺哲(福島県楢葉町 車) 滝野沢優子(福島県天栄村) 荒木健一郎(同 滝野沢夫) 上條大輔(南相馬市 宿泊先あるじ) 宮本千晴 江本嘉伸 長野亮之介 武田力 中島菊代(大阪) 落合大祐(東京から車) 金谷眞理子(大阪) 井倉里枝(大阪) 小森茂之(和歌山) 河田真智子 古山隆行(神奈川 バイク) 古山里美(同) 岩野祥子(奈良) 石原卓也 横山喜久 北村敏 塚田恭子(千葉) アジャル(同 塚田夫) 新垣亜美(埼玉) 山本豊人 小原直史 遊上陽子(大阪) 加藤秀 (京都) 斉藤孝昭(バイク 横浜) 花岡正明(山形) 飯野昭司(山形) 橋口優 永沼竜典(石巻) 花崎洋(千葉) 松菱理恵子
■行動
2台のマイクロバスに分乗して、被災地域をまわった。要所要所でバスを降り、被災者である上條大輔さん、福島はじめ東北を熟知、3.11以後繰り返しこの地を踏査している賀曽利隆さんらの話を聞いた。それらの体験について、宿舎でさらにひとりひとりが語った。
2日目は、完全復活した相馬野馬追の現場へ。一部は松川浦の被災地を訪ねた後、野馬追に合流した。
■皆さん、暑い中、そして遠い所お疲れ様でした! 記念すべき399回の報告会に南相馬が選ばれ皆さんに福島の現状そして自分なりの思いが伝えられ良かったと思っています。
◆今回南相馬での報告会を江本さんから打診があったとき本当は悩みました。今まで様々な人達が福島や南相馬に入ってきて観光気分がほとんどで原発の事震災の事地域の事等を理解、考えてくれない人が多かったからです。しかし地平線のメンバーは違う!と江本さんが言うとおり皆さんに来てもらえて本当に良かったです。是非皆さんの心の中に原発事故、震災の残した現状を地域に持ち帰り今後の人生に役立てて貰えればと思います。
◆これから先福島は良くも悪くも変貌をしていくと思います、原発は終息したかのように本当に地域によっては忘れられ何事もなかったように生活している人達もいるでしょう、しかし福島は日本の原発の中の一つでしか無い事、何時どこかの地域がなってもおかしくない事明日は我が身だという事がわかってもらえたと思います。みなさんもし原発や環境問題に悩んだ時は南相馬市に来てください。いつでも待っています。(上條大輔)
■福島に行ったら、ままどおる食べる。福島に行ったら、アイスまんじゅう食べる。福島に行ったら、桃を箱一杯買いに行く。福島は私の故郷ではないけれど、久しぶりに訪ねると、おかえりと言われているような温かさを感じる。けれど、変わってしまった風景を見るのは複雑な思いがする。
◆飯舘村役場を訪ねるのは昨年10月以来だ。前回は賀曽利隆さんと渡辺哲さんの案内で、地平線会議の有志数人で来た。きょうのモニタリングポストの表示は0.85マイクロシーベルト。前回は2.58だったから、だいぶ下がっている。今回は399回目の地平線報告会として福島駅からマイクロバス2台を連ねてやってきた。
◆携帯型の線量計を持参した参加者も多く、測ってみればモニタリングポストよりも高い数値が出たようだ。地表の植え込みでは8マイクロを超える数値を示したところもあった。「モニタリングポストは操作された数値なのではないか」という声が参加者から上がる。
◆真実はどうあれ、こうした疑心暗鬼を生んだ東電の罪は重い。飯館はもちろん、浪江町の南津島も見てほしかったとここまで先導してきた賀曽利さんはいう。天栄村に住む滝野沢優子さんによれば、南津島には出荷したコンクリートから高濃度のセシウムが検出された採石場やDASH村があり、そこは昨年、F1(東電福島第一原発)のメルトダウン後に風にのった放射能とともに雨が降ったところだという。その風向きが東京に向かっていたらどうだったか、と宮本千晴さんがつぶやく。
◆村の畑は耕されないまま放置されているが、ところどころ「除染作業中」の旗が立って、作業が進められている。八木沢峠を越えて南相馬市に入ると線量がみるみる下がって行った。野馬追いの出陣で賑わっているだろう原町の市街地を避けて、県道34号線を南下。4月に立ち入り制限が解除された小高区へ。
◆小高の駅前通りはちょっと異様な感じだ。地震で倒壊した商店がまだそのままになっている。歩く人も、開いている商店もなく、それでも商店街の放送で聞くような音楽がどこからか流れている。「必ず小高で復活します!」と書かれたメニュー黒板が立つ菓子店。駅前にそのままになっている通学用自転車の群れを見ながら、参加者はそれぞれに想像を巡らせる。列車が通らなくなった線路は草ぼうぼうで、鍵のかかった駅の入口には「猫を沢山保護しています。ご連絡を」とのペットレスキューの連絡先が貼られていた。
◆けさ出陣を送り出した小高神社にはまだ大勢の人が残って片付けをしていた。真っ赤な顔をした高校生達が甲冑を脱いで帰るところ。2年ぶりに行われた小高からの出陣だが、残念ながら馬を連れてくることはできなかったために例年よりこじんまりしていたという。からっぽになった神輿蔵にみんなで入って、寄進された絵馬の数々に見入る。
◆国道6号線に出ると、とたんに津波の爪痕が目につく。草ぼうぼうの畑の中に、流された自動車がそのままになっている。海岸まで2キロ以上はあるはずなのに、そのあいだにあったものがすべて失われている。海岸沿いに南下する県道255号。宮田川を渡るあたりからところどころアスファルトが流されて砂利道になっている。マイクロバスを気遣いながら、ゆっくりと進む。
◆3年前の夏にも、私はここを自転車で走ったことがある。その懐かしさよりも、風景が一変してしまった衝撃のほうが胸に迫った。破壊された排水ポンプ場の残骸。海沿いの県道を越えて、陸側の田畑に消波ブロックが流れ込んでいる。無惨にもひっくりがえってしまった防波堤を見ながら、宮本千晴さんが冷静に分析する。
◆田畑とは言っても、河口の湿地帯を干拓して土地にしたのだろう。いつか津波が来る怖さを知っていたから、海岸が見えないほどの高さの堤防を作ってしまった。その高さを超える津波が来ればこのようになることを、住民が予期できなかったはずがない。そんな津波が来るはずがないと自分たちに暗示をかけていたのは、原発が安全だと信じ込んでいた日本人共通の意識なのではないか。原発が人災であるのと同様に、この津波災害も人災なのではないか、と。
◆海岸沿いに浪江町との境まで行く。唐突にバリケードが表れた。なぜか看板は「この先立ち入り規制中 スピード落とせ」と書かれている。南側の楢葉町境が「災害対策基本法により立入禁止」となっていたのに比べると、なんだか弱々しい感じがする。この先に何かあるのかと思い、ずかずか歩いていったが、歩いても歩いても何もなかったので引き返した。
◆場所としては完全に浪江町内なので、法的には原子力災害対策特別措置法違反になる。F1からたった10キロ。しかし放射線量は低く、都内とさほど変わらないという。いったいここから先の通行を規制して何になるのだろう。きっと通行の自由を奪わてもそれなりの代償を得られるのならばそのほうがよいと考える人たちがいるのだ。原発事故はそこに住む人たちの神経をも歪めてしまった。
◆宮田川に架かる橋まで戻り、この地で失われた人々の魂に、原発事故で故郷を失った人々の悔しさに花束を供える。この大きな花束をわざわざ用意された河田真智子さんの気遣いにも感服する。遠くからバイクがやってきて、現れたのは古山さんの夫、隆行さん。忙しい仕事の合間に神奈川からやってきたのだという。一行に合流するのかと思いきや、3分だけでまた帰って行ってしまった。
◆私たちは今夜の宿泊地、上条大輔さんの障がい児施設「あーす」へ。途中、小さな峠を2回越えるのだが、そのあたりで線量が再び上がり出した。食堂に集まり、思い思いにビールやジュースの缶を空けて後、夕食の支度にとりかかる。今夜は江本さん指揮の「エモカレー」。交替で風呂に入るのと並行して全員で手伝うとあっという間に食事の時間に。
◆「あーす」の3人の職員さんも郡山からのバスの運転手さんもみんなで食卓を囲む。食後は総勢40人近くの自己紹介。モノ作りを仕事にしている山本豊人さんは、震災前はふだん必要ないものまで作っていたことに震災で気付かされたという。22才と最年少の永沼竜典さんは現在石巻の雄勝で漁師の見習い中。大阪の遊上陽子さんは震災のことが自分の周りで話題にならなくなったことが気になっているという。福島天栄村の荒木健一郎さんが言う「死の灰が降るということはどういうことか、想像してほしい」という言葉には説得力があった。
◆がれきの上をわずか1年で草木が覆ってしまう生命力に驚いたというのは長野亮之介画伯。岩手大槌の中学生支援のために作った「鮭Tシャツ」の福島版を作りたいという。楢葉からいわきに避難中の渡辺哲さんが今回いちばん見てほしかったのは小高駅だったそうだ。楢葉も8月10日に避難指示が解除される。戻ったらテントを持ち出したいと渡辺さんは話す。和歌山でみかんと梅を作っている小森茂之さんは、耕作を放棄せざるを得なくなった福島の田畑を見て胸が痛んだそうだ。
◆避難指示が解除されても住民が帰還できないと夜は真っ暗のまま。それがどういうことなのか見たかった、と花崎洋さん。横山喜久さんは人工関節の手術をして今回が初めての遠出。震災後、奈良から宮城の東松島に通っている岩野祥子さんは、小高の町の様子と1年前の東松島とが重なったという。河田真智子さんは今回福島で、喜多方から東京に出た母のことを思い、なぜ福島に原発があるのか、考えあぐねていると語る。
◆原発事故が人災で、それが自分たち日本人の体質から来たことは間違いない、そのどこが悪かったのかを本当に考えなければならないと静かに熱く語るのは宮本千晴さん。むしろあの風向きが飯舘村ではなく東京だったほうがよかったのかもしれないとまで話す。被災者の受け入れもしている団地の管理が仕事の斉藤孝昭さんは、福島からの避難者の生活に妙な明るさを感じていたそうだ。それは生活の基盤を根こそぎ取られてしまい、あとは笑うしかなかったのだと今回納得したという。
◆続いて上條さんの「報告」。なぜ彼の家族がばらばらに住んでいるのか、彼がここでどうして頑張っているのか、これからどうするのか、朝から全員が気になっていたことを上條さんは話してくれた。南相馬市内でもともと障がい児の施設を運営していた上條さんはよりよい環境を求めて、ゴミの山になっていたこの土地を手に入れてコツコツと整備した。
◆ようやく建物もできて引っ越してきたのが昨年の1月。だが、たった2か月で震災に見舞われ、事業を中止せざるを得なくなってしまった。F1から35キロ。当初除染の対象ではなかったのが、今年1月、ようやく県が除染にやってきた。「国が言っていることが全然違うとは言わないが、でも現実は全然違う」と彼は言う。
◆3人の子供たちを南相馬に住まわせるつもりはない。それには放射線量よりももっと大きな問題があると上條さんはいう。原発の補償金を始め、ここにはお金がいっぱい落ちると思うが、その黒いお金を稼がせたくない、子供たちにはもっと夢のある仕事で稼いでほしいと思うからだと彼は続けた。「ここでは自由があるようでまったく自由がない。孫悟空のように実は範囲を決められている」。
◆日曜日は6時半起床。上條さんはその前に起きて、食堂を掃除していたという。まったく頭が上がらない。朝食後にきょうの予定を話し合い、相馬野馬追の行列を見る人たちと松川浦を見に行く人たちに分かれることにして、8時半に出発。
◆相馬駅から松川浦漁港へ向かう道はだいぶ修復されていた。水深の浅い浦に流されて浮かんでいたマイクロバスの残骸も撤去されていた。潮干狩り場の駐車場から漁港を一周する。大田区の博物館学芸員だった北村敏さんも懐かしそうな顔をしている。聞けばかつて調査でお世話になった人が旅館をやっているのだそうだ。以前より多くの船が係留されているように思えた。護岸も修復工事が行われ、着実に復興へ向かっている。
◆松川浦大橋の上からの景色が見たくて、みんなで歩いて行ってみる。いまここで地震があったらどうすればいいんでしょう、という井倉里枝さんの質問に、専門家の花岡正明さん、飯野昭司さんは、この橋は比較的新しいので壊れることはない、橋の上にいれば大丈夫と答える。
◆3年前に自転車で訪れたときの橋の上からの風景と比較すると、海岸にあった灯台や公園の遊具など様々なものが失われていることに気付く。原釜の海水浴場には見張り台やトイレが残っていた。が、海岸沿いに立ち並んでいた家屋が跡形もない。3年前の夏、甲子園野球の中継を見ながら昼食を食べた石和田食堂も、かろうじて道路の位置関係からこのあたりとわかる有り様。あの鉄筋コンクリ3階建ての旅館兼食堂ががれきになってしまったとはとても信じられなくて、呆然としてしまった。
◆松川浦を離れ、国道6号を南下。鹿島から陸前浜街道に入る。原町市街の浜街道は行列の間通行止めになるが、私たちが着いた時にはちょうどそれが解除されて、沿道の人たちが点々と残る馬糞の跡を掃除しているところだった。千年以上の伝統を誇る世界最大級の馬の祭りは、こうした多くの人の愛情に支えられているのだと知る。馬追の会場、雲雀ヶ原祭場地で行列組に合流する。
◆民謡が終わって、ちょうど甲冑競馬が始まるところだった。法螺貝が鳴らされ、まずは2騎、「螺役」が先行して走る。背負った旗指物が風にたなびく、蹄の音が大地に響く、その迫力。
◆「審判席から指揮旗が振られています。平成24年度第1回目の甲冑競馬。大役の皆さんによる競馬でございます。騎乗いたしますのは中ノ郷菊地、小高郷結城、まさに一騎打ちであります。この競馬、距離は合わせて1200メートルであります。さあスピードにのったまま第4コーナーを回ります。さあご観覧の皆様、第4コーナーからストレートに出て参りました。盛大な拍手でお迎えください。さあただいまご到着でございます‥‥」。
◆甲冑競馬はこの後8回続き、合わせて45頭が出場。続いてが野馬追のクライマックス、神旗争奪戦。広い祭場地に約280騎の騎馬が大将を先頭に陣営を取って並び、花火で打ち上げられた神旗を奪い合う。歓声が沸く。人も自然もいつかは変わってしまう。それでも私は福島が好きだ。(落合大祐)
■福島駅から被災(被曝)中心地に近づくにつれ、青々とした田園風景が雑草生い茂る荒野へと変わっていく……まずはその様子に胸が痛んだ。人影のない飯舘村。役場前に設置された村民歌碑の歌詞──「山美しく水清らかなその名も飯舘わがふるさとよ」──に胸が詰まる。震災から1年半近くが経ち、津波の爪痕は思ったほどひどくはない。「その場に立てば号泣してしまうのでは」という心配は杞憂に終わった。
◆それよりむしろ、原発から20km圏内の小高駅の駐輪場に整然と残るたくさんの自転車が悲しかった。松川浦の漁港に整然と係留された漁船を見た時にも、同じ悲しみを感じた。これらの持ち主は今、どこでどうしているんだろう。除染が進み、立ち入りや居住制限が解かれつつある地区もあるそうだが、本当に人々は戻ってくるんだろうか。海山の汚染や風評被害などによって壊滅的な打撃を受けた農林漁業者や観光業者など、とうていその土地では生きられないだろう。復活した相馬野馬追を間近に見て、希望の光を感じられたのが救い。次に被災地に行く時は、何らかの形で被災地の役に立ちたい。ともあれ、貴重な機会を作っていただいた地平線の皆さん、本当にありがとうございました。(金谷眞理子 大阪)
■一日目 被曝退避地区となっている常磐線小高駅前の駐輪場には、夏の強い日差しの下、蜘蛛の巣と蔓草が車輪に絡む200台ほどの自転車が整然と並んでいる。ひしゃげた無人の店舗・家屋があちらこちらと残る駅前通り、いけないと思いながらも「フリーズ・凍結」という言葉がよぎる。「夏草や兵どもが夢の跡」か。句会の先輩からは素直な写生が一番と教えられた。小高駅舎にて「炎天に封じられたるポスト立つ」「夏草や小高の暮らしいずこかし」「夏草に赤く鉄路が伸びにけり」
◆二日目 午前、相馬市松川浦へ。外洋と干潟浦を区分けて南北7km程の砂州が太平洋沿いに伸びる景勝地である。この地へは1991年1月に干潟汽水湖での浅草海苔と青海苔(正確にはヒトエグサ−焼そばのふりかけでおなじみ)の養殖業調査を目的に訪ねたことがある。その時は漁協組合長で民宿も営んでいたKさんに取材、帰京時に通年の作業写真の提供を願うと、後日、秋口の種付けから春先の摘採・加工・後処理までを収めたアルバムが届き記録作成に大いに役立たせて戴いた。漁港でロープを繕うお爺さんに、Kさんの消息を尋ねたら「流された」の一言だけが返ってきた。
◆1999年に完成した500m余の長さのモダンなデザインの斜張橋である松川浦大橋の真下は、今から100余年前の明治末年の人工開削運河だという。内水面の干潟から直接太平洋への出漁を可能とし、さらに海流を流入回遊させることで、潟湖に弊害をもたらしていた自然堆砂の解消を図ってきたという。
◆震災後から車両通行禁止された大橋の中央まで歩き、運河を眺める。高さ20m・幅300mほどの砂岩丘陵の砂州を7〜800mほどの長さで深く抉り取り運河航路を作った人々の着想と難事業の結果に驚嘆させられる。帰宅後、ネットで運河口の松川浦漁港に押し寄せる津波と翻弄される漁船の動画を見る。太平洋に大きく口を開く橋下の運河が、まさに巨大津波を招き入れる玄関口となっている。暮らしに利益をもたらしたはずの開発、そして自然、この関係に改めて向き合い考える旅となった。
◆塩釜湾・松島湾高城・気仙沼湾五十鈴神社(猪狩社)・大船渡湾赤崎・大槌湾・山田湾織笠、かつて海苔養殖経験者を訪ね歩いた東北沿岸調査地である。震災後、しばしば思い出の地名を耳にしながら、再び訪れることもないまま今日に至っている。(北村敏 東京)
■福島原発事故の影響が目に見える形で残る地域を初めて訪れた。一番強烈な印象は小高町。自分たちが立てる物音と、鳥のさえずり以外の音がしない。人がいない町。無人の商店街に音楽を流しているのは意図してのことだろうけれど、寂しさがかえって募った。駅の自転車置き場の自転車たちは3.11のまま。整然と並んでいるのに、ツタがからまり、蜘蛛の巣が張り、埃が積もり、空気が抜けている。日常が突然奪われるとこういう光景になるのだ。何ともないものまでが突然手の届かないところに行ってしまう。
◆人を迎え入れない町では、崩壊寸前の家屋も放置されたままだし、歩道はアスファルトから草が生え、誰かの住処だった立派な家は荒れ果てて草ぼうぼうだ。このまま置けば、すぐにここは森に返るだろう。
◆人が、汚染されたこの地を拒んでの現状だが、小鳥のさえずりを聞いていると、むしろこの地が人を拒み、自然に返ろうとしているようにも思えた。
◆ケーキ屋の店先にあった「必ず小高で復活します」の手書きの黒板。どうすることがいちばんいいのか。ベストな選択をしてほしいと祈るしかない。(岩野祥子 奈良)
■毎週のように夫と2人で東北、主に福島ツーリングをしていますが、今回の地平線会議の仲間との訪問では、 違う考え方や新しい情報が聞け、いつもとはひと味もふた味も違う福島でした。小高駅の自転車置き場にぎっしり放置され持ち主に戻る事は永久にない自転車、小高駅周辺のゴーストタウンのような雰囲気……。政府も東電も今の福島原発の問題に対して責任が取れてない!それなのにまだ原発を稼働させるのか!という思いが増々強まりました。
◆上條大輔さんが「みな原発反対を訴えても、電気を使うなと訴えはしてない」と言うのには同感。私はデモ参加はしませんが、極力電気を使わないことで原発に反対しています。炎天下の中での相馬野馬追は、みなさんの気迫を感じました。また、最初に道の駅川俣に立ち寄ってますが、ここは去年8月28日に来ました。川俣町はシャモが特産で、偶然この日はシャモ祭りが開 催されてたので、広場の屋台でシャモの親子丼(絶品!)や唐揚げなどを食べました。そしたら今年の春、風評被害でシャモが消費されないため泣く泣く何千羽ものヒナを処分したという養鶏場の方の記事が……。ショックでした。
◆今回参加されたみなさんも、参加できなかったみなさんも、ぜひ東北へ、福島へ、何度でも行って下さ〜い! 私も行きます! 今回、一部の方は松川浦にも向かいましたが、私はここには4月に泊まりました。泊まれる宿、何軒かあるんですよ。(節約主婦ライダー 古山里美 神奈川)
PS.昨夜の夕食はお土産の「川俣シャモ トマトカレー」
■放射線測定器をはじめて見ました。読み上げられる数値を最初は「へぇ〜」と聞いていましたが、移動するごとにデータが増えていけば、「ここは高い」「ここはそうでもない」などとつぶやき始めます。でも、その数値がなにを意味するのか実感はありません。マイクロバスの車窓の緑豊かな自然に目をうばわれれば、自分がなにをしに来たのか分からなくなります。
◆小高駅周辺の住む人のない荒れた街を歩きました。港町の浜には漁に出られないおびただしい船が停まっていました。実感をともなわないまま生活が奪われていく放射能汚染の怖さ、復興に向かえない重さ。江本さんが書いていたように、できるだけ早く原発を収束の動きに変えていきたいと強く感じました。現地の方、現地に足繁く通われた方、地平線のつながりで実現した報告会に心から感謝します。
◆大阪に戻り、職場で「午前中はクーラー入れない」宣言をしました。いっしょに働く障害者たちに「鬼!」などと言われていますが、それでもワタシの思いにつきあってくれています。
※上條さん、南相馬特産「アイスまんじゅう」ごちそうさまでした!もうひとつのオススメ「しみてん」食べてみたかった。ぜひ次回に!(井倉里枝 大阪)
■福島に来て改めて放射能の恐ろしさを思い知らされた。においもなく、目にも見えず、気分が悪くなるわけでも、中毒症状を起こすわけでもない。危険の壁が見えない。危険を感じさせない恐ろしさがある。人のいなくなった家やだれも耕せなくなった農地が延々と広がっている風景は胸が痛く悲しかった。絶望的だった。「原発さえなかったら」との思いは強くなるばかりだ。飯舘村民歌の「山 美わしく 水 きよらかなその名も飯舘 わがふるさとよ」の歌詞が悲しくひびく。
◆もし自分のふるさとが放射能にさらされたら避難して果たして生きられるかどうか自問自答の連続だった。原発の電気に頼って被爆するなら私は電気のない生活を選ぶ。和歌山は貧乏県であり「近畿のお荷物」ともいわれ、4つの町に5カ所もの原発計画があった。20年にわたって町を二分する闘いの末、一つも造らせなかったのは奇跡だったと思う。(和歌山県田辺市 自給的農業者 小森茂之 電気代月1300円)
■貴重な機会を与えて下さりありがとうございました。震災被害、原発被害ともに、ある程度は理解しているつもりではいましたが、実際に自ら現場に足を踏み入れてみて、特に原発の影響に関して改めて現実を再認識させられました。何も見えず、匂いも無く、どこも痛くも痒くもないのに、線量計の数字だけは勝手気ままに上下し、それに一喜一憂しなければいけないという現実。距離の問題ではなく、たまたまの風向き、降雨により天国と地獄を分けてしまった現実。新緑に輝く山々を眺め、一面に広がる田畑を耕していた豊かな暮らしを一気に奪ってしまった現実。やはり人間はやってはいけないことをやってしまったのでしょうか?
◆今更ですが、私はそう思い、今からでもこの状況から脱却する方向に動くべきだとも思います。しかし、この暑い夏にエアコンを使わない生活を送ることは到底我慢できません。電気は必要です。どうすればこの相反する事象を解決することができるのでしょうか? 私には知識もアイデアもありませんが、改めて考え直すきっかけとなりました。(橋口優 東京)
■はじめて相馬野馬追を見学した。 小高地区は4月に警戒区域を解除されたエリアで、野馬追の参加地域でもある。原発と津波の被害という、二つの大きな問題を抱えている小高地区、その野馬追の行列には胸が詰まった。400騎を超えるという騎馬武者の大行列はすごい迫力で、「かっこーいー」と少年に戻ったように無邪気にはしゃいでしまった。小高地区の行列では、槍や太鼓を持って歩く人たちに女性や子供が多く、隣で見ていた地元のおじいさんが、「小高は津波で多くの人が亡くなったから、普通は男の役だけど代わりに女性や子供達が出ているんだよ」と教えてくれた。そして甲冑の胴に若い男性の写真を貼付けた騎馬武者が通過した時には、あの人は津波で息子を亡くしたんだよと教えてくれた。野馬追での威風堂々とした騎馬武者の振る舞いの中に、亡き息子への思いや、家族、友だちへの思いを抱きながら、伝統的な騎馬行列を作り上げていること。震災を経て、野馬追に参加している地元の人たちの思いを考えると、全力疾走する馬の美しさと共に人々の思いがとても貴重なものに感じられて、今思い出しても涙が出そうになる。(山本豊人)
■阪神淡路大震災の経験から、震度6〜7ならば高速道路が倒れ、ビルがへしゃげ、家屋も軒並み潰れているものと思っていました。でもテレビを見ていても、津波の被害は目を覆うばかりだけど、道路一本隔てて山側は何事もなかったような生活。どうなってるのかしら??? 5月に仙台から陸前高田まで海岸沿いを車で走っても、津波の無残さばかりが見えてきます。今回福島に行って、南相馬市小高地区の街を歩いてみて、あーやっぱり地震だったんだ、と納得しました。
◆原発事故のため警戒区域に指定され手付かずのまま放置されていた小高地区は、津波被害は免れたのに無人の街となっていたのです。私の知っている(神戸の街のような)壊れた建物、どこも傷のなさそうな建物、混在しているけど、すぐにでも生活できそうな街なのに誰もいない……。信号は機能してるのに、ライフラインがきていない、お店が開いてない、隣人が戻って来ない、電車がない……これでは帰れないですよね。
◆壊れたものを片づけて又建て直す、そして生活が戻る、そんな単純な復興ではないんだ!としみじみ思いました。津波で街ごと浚われて、原発で放射能を撒き続けられて、どうやって?を実感しました。関西では、もう東北の話はあまり出ません。何ができるかわからないけど、周りの人たちに語り続けていこうと思いました。(遊上陽子 大阪)
■原発から山林方向に飯舘村含め近隣の市町村にも高濃度の放射能が降り注いだ。事故発生時の風向きで被害を蒙った地域、免れた地域とに分かれた。汚染された山林は今後何十年かかるか見通しがつかないため農業を放棄する住民が増えるのではなかろうか。運よく被害を免れた地域でも今までどおりの生活が続くのかどうか疑わしい。
◆そのためこの近隣は地下水汚染や水源汚染の回避方法で相違が生まれ、深刻な問題となった。除染作業は今後原発エネルギーの恩恵を受けている都市ではこれらは地味な問題として関心が薄れ温度差がていくのだろう。長期に渡って地味な作業が行われることになるだろう。農耕生産は生活の糧であり、夢もあったはず。一方的に損害賠償だけで問題にピリオドがうたれるのも怖いし、生き甲斐までピリオドされてはもっと怖い。翌日の相馬野馬追い祭、今も復旧の見込みの無い常磐線、観光客は車での移動だった。行きに比べ倍の時間が掛かった渋滞はいみじくも事故発生当時の状況を想像させてくれた。帰りの車内での上條さんの話、「再稼動必要の流れは変えられない」で憂鬱になりました。「これより80km以内に原発建てるな」の石碑を築くしかないのでしょうか。(石原卓也 東京)
■いただいた事前案内では、浪江町の北端からその北に続く南相馬市の海岸線までにもバスが走り接近するようだ。津波に加え原発という2重被災地の現状はどうなのだろう。そんな、参加意図があった。そして28日午後、現地から友人へメイルを送った。「福島第1原発の北約15キロ、南相馬市南端に来ています。発生後600日近くが経過しましたが石巻とくらべ異質な光景が広がります。人影がとにかく少ないのです。だからなのか石巻街中や牡鹿半島では、自然災害・天変地異というあらがいようの無い、いわばあきらめの感慨もありましたのに、ここでは憤怒の感情さえおぼえます。きっと2重被災という過酷さの中にいるからでしょう」
◆昼間のバス2号車中、福島県天栄村住人で今回ガイド役の滝野沢優子氏が『今は日中なので町並みや田畑はごく普通の風景だが、夜になってみなさい。あたり全体が真っ暗闇になって生活感覚は全く無いんですよ。それを知って欲しい。』といった趣旨の説明をした。この日のすさまじい日差しをはねのけ、まわりを直視したくなる言葉だった。(花崎洋 千葉)
■生まれてからずっと水田が広がる土地で育ったせいか、田んぼ(そしてその向こうに鳥海山や月山)が見えないとなんだか落ち着かない。いまは穂が出る直前で、青々とした稲が風に揺れ、早朝から草刈りをする人が働いている。それがあたりまえの風景だと思っていた。
◆しかし、飯舘村の田んぼには一面に草が生い茂り、どこまで行っても稲は見えなかった。もちろん田んぼで働いている人もいない。それどころか、村のなかにも人影はなく時が止まったようにひっそりとしている。全村避難。言葉では知っていたが、現地を訪れて初めてその意味を実感した。
◆景勝地として知られる相馬市の松川浦には意外にもたくさんの漁船が係留され、いまも出漁しているかにみえた。港で黙々と網を補修していた漁師に聞くと「いつ漁に出られるか……」とつぶやく。放射能による影響で魚を売ることができないからだ。今回案内してくれた上條さんが働く森もまた汚染されているだろう。
◆あの土地に人々が戻り以前と同じように暮らせる日は来るのだろうか……。現地にいる時も戻ってからもそのことを考えてしまうが、相馬野馬追で見せてくれた“東北魂”を持つ人々の復活を、同じ東北人として願わずにはいられない。(飯野昭司 山形県酒田市)
■新幹線で簡易線量計を取り出す。出てくる高い数値に不安を感じつつ福島駅に着く。しかしそこは日射しの強い夏の福島だった。福島の放射能汚染はまだ妄想する恐怖でしかない。線量でしか放射能汚染を認識するしかできないからだ。市内を離れると耕すことも住むことも許されなくなった田畑を草木が覆う風景が広がる。飯舘村に着く。地面で7マイクロシーベルト。痛くも痒くもない。線量計の高い数値となんともない身体感覚と目の前の無人の風景に戸惑った初日だった。
◆二日目は祖母の故郷の野馬追い。居住制限を汚染の度合いでなくフクイチから同心円で管理した関係で南相馬は小高神社を含めて立ち入りもままならず去年の野馬追いは数十騎が行列したに過ぎなかった。今年は400騎を超えほぼ震災前に戻り本来の野馬追いに戻った。武者行列の馬上の武者の覚悟を決めた貌は誇らしげだ。将門から続くまつろわぬもののふ人々の末裔だからか。会場は満員だった。除染したとはいえ数値は低くない。親子連れも多い。野馬追いはどんなときも相馬の魂のよりどころなのかもしれない。これからのフクシマについて考えきっかけになる報告会でした。(小原直史 東京)
■地平線会議の報告会を福島で開催! との話を聞き、今年、二度目の南相馬にバイクで行こうと決めてから、原発と放射線、ホットスポット関連の情報を再読し、賀曽利さんや滝野沢さんが話していた長泥や赤宇木、津島等の超ホットスポットの場所を確かめ、家庭用線量計(エステー製)を用意して今回の報告会に臨んだのでした。しかし、今回の報告会は線量計での数値測定を超えて、意外な展開が待っていた。
◆原発の10km圏に近い小高町では、1年4か月後の今も、地震で崩れた家屋が放置され、街そのものがゴーストタウンと化していた。田畑は耕作が放棄され、見渡す限りの草地となっていた。列車が走ることのない常磐線のレールは雑草の緑のカバーで覆われ始めていた。一旦、人の手を離れた家や街並みが、農地が、駅や線路が、道路が、こんなにも呆気なく自然に戻っていく様を目の当たりにして、被災者の方々が生活基盤を根底から全てを一遍に失ってしまったこと、そしてその復旧の困難さを思った。ここでは、千年の後退という言葉が現実のこととして感じられた。
◆だが、小高駅に程近い、小高神社では、明日に控えた相馬野馬追いの準備が進んでいた。眼に見えない放射能と言う怪物が、千年の歴史を誇る、荒ぶる東国武士達の「野馬追い」の行事をも押しつぶすかに見えたが、荒武者達が着々と反撃を準備していた。そして、翌日。原ノ町の通りは、武者たちの名乗りと馬の嘶きとともに、猛々しい戦国武者達が溢れ、見えない敵との合戦の雄叫びを挙げるのだった。エイッ、エイッ、オー。制御不能な怪物の大反乱、自然(神)への抗いがたい人の行為の空しさや喪失感から、一転、徳川に抗ったという相馬武者たちの命懸けの戦魂に、身も心も震えるような感動を覚えたのだった。これだから旅(地平線)は止められないのだ。(斎藤孝昭 8月7日から、賀曽利大明神とマダガスカルに向かいます。)
■南相馬での報告会に参加された方々、遠路はるばる福島まで御出で頂き、有難うございました。「飯舘村」、「南相馬市小高地区」等の現場を見て、お感じになった様々な思いがあると思います。美しい山村の風景の中に人の姿が有りません。一大イベントが開催中にも拘わらず、小高駅周辺には人が戻っていません。これが原発事故後の現実なのです。
◆ところで、我が故郷の「楢葉町」も8月10日(金)に現在の警戒区域から「避難指示解除準備区域」へ再編されることとなりました。1年5か月経ってようやく自宅への行き来が自由に出来るようになりますが、皆さんが訪ねた小高区と同じで、原則宿泊は出来ません。上水道は出ないし、下水道が不備なのでトイレは仮設のを使うように指示されています。立ち入りも「午前9時から午後4時」を目安とし、現在の検問が撤去されますので犯罪防止のため警察や住民によるパトロールも強化されます。
◆「避難指示解除準備区域」への町民の反応は様々で、インフラ整備、それに除染が進んでいない状況で解除されても、生活が出来る見通しは立たないから意味がない、という声もあります。私個人としては、復旧に向けての大きな前進であると感じています。長距離ランと一緒で、遅くとも一歩ずつ進んでいけば、何時しか景色も変わり、ゴールテープが見えて来るものと希望を持ちこれからの福島再生へ出来ることを協力していきたいと思っています。皆さんも、現実の街の姿を是非周囲の人へお伝えください。今後もどうぞ宜しくお願い致します。(福島県楢葉町出身 渡辺哲 ライダー・超長距離ランナー)
南相馬地平線報告会では、線量計を用意し、2台のマイクロバスのそれぞれで線量を計測しつつ、進行した。以下、参考までに2つの報告を掲載しておく。
<その1>
滝野沢さんに線量計をお借りしてバスでの移動中に放射線量を測定した。線量計は滝野沢さんが天栄村から支給されたものだ。電源を入れたままで常時計測し続けることができ、線量の変化に瞬時に反応した。福島駅を10:30頃バスで出発し、R114を南下すると15分ほどで比較的線量が高いと言われる渡利地区を通過する。このときの線量はバスの中で0.94マイクロシーベルト毎時(μSv/h)。途中、トンネルに入ると線量は0.05と一気に下がった。
◆11:10、川俣町の道の駅で休憩。トイレ建家のわき、砂利が敷かれている所で測定すると2.46。11:50川俣町内で1.0、道間違いに気付き引き返したポイントで0.6。道路脇は土で木が茂っている所の方が、コンクリートで固めてある所に比べて線量が高かった。県道12号線を進み、途中バスの中では0.2。飯舘に近づくと徐々に線量は上がり、飯舘村に入ってすぐのポイントで1.25となった。
◆数値は上下しながら役場に近づく右折ポイントでは1.98、2.5と上がり続け、進むバスの中で3.4を記録し、線量計から警告を伝えるバイブレーションと赤いランプが点滅する。F1から半径40km地点で約2。バスが飯舘村役場に到着し、手元の線量計で0.93、飯舘村役場前に設置されているモニタリングポストでは0.83と表示されていた。しかし10メートルほど離れた植え込みの中を線量計で測ってみると7.71と表示される。
◆再びバスに乗り、南相馬に入った地点で1.45、小高地区に入ったら1.5、小高地区の海に近い地点で1.8となり、原発に近づくに従って線量は上昇した。しかし人気のない小高市街を抜け、小高駅前に来ると線量は一気に下がり0.19となった。河田さんからの花束を献花した浪江境に近い浦尻海岸では0.09、原発から半径10kmの小高と浪江町の封鎖ポイントで0.34だった。
◆折り返し、宿舎へ向け北上。旧20km圏境で0.15。南相馬の宿舎への山道で徐々に線量が上がり、到着10分前の地点で1.38となった。宿舎として提供して頂いた上條さんの「自然応援団」敷地では建物前の広場では除染を行っているためモニタリングポストの数値0.28とほぼ同等だったが、裏山に近づくと約0.5くらいで若干線量が高く、宿舎建物の大きな屋根から雨が流れる雨樋の下では10を超える場所もあった。ちなみに南相馬を現地解散後、帰って来た新宿駅では0.05だった。(山本豊人)
<その2>
■うだるような暑さの中、福島駅から二台のバスに乗り込み飯舘村に向かった。車窓から時折見かける“只今の気温35℃”というデジタル表示の看板が線量計を手にした私には只今の“放射線量μSv”と見間違えてしまった。線量計をあちこちにかざしてその数値の変動に皆で一喜一憂した。具体的な数値は載せないが、雨樋の下が高かったり、モニタリングポスト周辺だけを除染したことが分かる驚くほどの数値の差。飯舘村に入ってからの数値の上昇。そして線量計の表示を皆で写真撮影。もはやゲーム感覚。
◆恐怖は感じた。目に見えない、臭いもない、音もない、味もしない、しかし線量計によると得体の知れない”何か”が確かにそこにはあるようだ。線量計の数値が上下するものの私の身体に不快感や痛みをを与えるわけではない(今のところ)。その捉えることのできない、レスポンスのないことが不気味で恐かった。私には感情論は別として体感では現状、放射能問題は線量計の液晶に映される数字の問題にしか感じることができなかった。(永沼竜典)
■南相馬地平線報告会に参加して、いちばん感じたのは現地に行ってみると、より身近に感じるということでした。テレビで見ているのは映像なのですね。その地にたつと音も空気もあるいはにおいも(今回は臭いは感じませんでしたが)生を肌で感じました。家が有っても人は住んでいず、庭は草丈高く、その中で花葵やあじさいがいつもの夏のように、だまって咲いているのが悲しく思えました。田んぼや畑も手入れが出来ず草の伸び放題でした。
◆今回たいへんお世話になった上條さんのおっしゃるのには、冬に草が枯れてから除染するところは、するでしょうとのこと。表土を削り土を入れ替えて、作物を作っても市場で受け付けてくれなければそれまでです。手が入れられずそのままの田畑は元のように戻すのは容易なことではありません。花卉(き)農家のビニールハウスの骨組みも雑草と背比べしていました。林業の方もたいへんですね、原発のチリをかぶってから太くなった部分は使えないので、将来もチリをかぶる以前の太さでしか評価されないとのことです。
◆平和利用の原子力ももしもの時の対処が出来ないのなら使ってはならないと思います。日本は唯一の被爆国といわれていますが、今は世界に放射性物質を放ってしまいました。これは重く受け止めなければ成らないとおもいます。
★追伸 江本さん、たいへんお世話になりありがとうございました。エモカレーおいしかったです。お陰さまで翌日炎天下の中元気に過ごせました。(横山喜久 東京)
■雨樋の下や排水溝など、地面の近くでは線量計の数値が10倍以上にはね上がり、ほかの場所でも機械を上下左右数メートルずらすだけで、数値が細かく変化する。2年前の夏までは青々とした稲が風にたなびいていたはずの田んぼは、辺り一面丈高い草で覆い尽くされ、この春、警戒区域から避難指示解除準備区域になった南相馬市の南部・小高町では、崩壊した家の周囲には黄色いテープが張られたまま。報告会で何度か話題になった飯舘村(居住制限地域)は、特養施設の駐車場には車が停まっていたものの、そこ以外の場所では、人の気配はほとんど感じられない……これはそのほんの一部でしょうけれど、福島が直面している現実を目の当たりにした南相馬行きでした。
◆今回、お世話になった上條大輔さんは、3年かけて独力でゴミを片づけ、土地を整備し、障害を持つ子どもたちのための施設をつくったと聞いています。同じ敷地にある家は、ほぼ上條さんの手づくりで、「解体したとき再利用できないものはできるだけ使わなかった」そうで、無駄のないシンプルで居心地のよい場所でした。津波の被害も地震の被害もないのに、時間や労力をかけて築き上げた自分の家を離れなければいけない。多くの人をそんな状況に追いやり、現場では原発事故前も後も、どこか胡散臭いやり方で働き手を確保してきた……。そういうものが、これからの時代、本当に必要なのか。経済最優先という考え方に違和感も持ってきた者としては、そこに呑みこまれないために、ささやかではあっても個人的な抵抗を続けていこうと、改めて思った次第です。(塚田恭子)
■復興関連の調査で小名浜、郡山へは行きましたが、原発の被災地は初めてでした。小名浜では岸壁、郡山では集合住宅の基礎が地震により損傷を受けいずれも構造物が傾いていました。
◆不通となって線路やホームや自転車置場が草だらけになっていた常磐線小高駅の周辺では壊れた住宅もありましたが、地震の被害は思っていたほどではなく住むには問題なさそうな家もたくさんありました。「自分の家だったらたまらないよなぁ」と思わずつぶやき横を見ると渡辺哲さんが……。渡辺さんの苛酷な体験は地平線報告会で聞いたり地平線通信で読んで理解しているつもりでしたが、原発による目に見えない被害をこのとき初めて実感として感じました。
◆数日後の新聞に「東電のダムの底に沈んだと思うしかない」という趣旨の投稿がありました。まるで映画のセットのようだったこの光景を思い出すと妙に説得力のある言葉に思えてきました。しかし、この地域を放棄するようなことになるなら、原発も廃棄しなければ住民感情としてバランスが取れないのではないか、そして、この思いを住民だけでなく多くの人に感じてもらい、復興や原発の存続についてもっと考えてほしいと思いました。(武田力)
■地平線会議で福島に行った。福島の美しい自然の森の中でエモカレーを食べながら思った。日本の森の中の幸せな時間であった。でも、森の木達は静かにセシウムを吸い込んでいるのである。文句も言わず、ずっとずっと吸い込んでいくのである。長崎、広島以来の凄まじい放射能を浴びた福島。山や森は何も変わることなく美しい自然を見せている。5月に車で岩手、宮城、福島の海岸部を走った時は言葉を失った。復興とは名ばかりの風景だった。そして今回の美しい自然の中の地平線会議で改めて言葉を失った。(加藤秀 京都)
■本当に鎮魂の祈りを捧げたいのなら、場所なんかどこでもいい。大事なのは気持ちだと思う。順番が逆ではなかったか。私たちが宿泊した場所はホテルではなく放射能の被害をうけた特定非営利応援法人の施設である。泊めていただいたことに感謝をする。来た時よりも美しくして帰るべきではなかったか。上條さんが借金をして作った施設である。とてつもなく小さな話だがゴミを捨てるのにも市指定ゴミ袋のお金がかかる。せめて日中の活動中にでたゴミは持ち帰るべきではなかったのか。
◆論理の飛躍かもしれないが今回の事故で、信じて疑わなかった原発の安全神話が崩壊し、そうすると東電が悪い、国が悪いと文句を言う。今日のこの状況はこういう意識の積み重ねだったのではないだろうか。放射能どうこうについて語る前にそういう意識からまずは考え改めるべきではないだろうか。と前の見えない復興へのフラストレーションを自分のことを棚にあげて大人に噛み付いて発散する私を許してください。石巻にいらしたらささやかながらご案内しますので。(永沼竜典)
■屋久島病を遠く離れて、お仕事三昧でキューキューなこの頃。あとの怖さを考えないようにして、今回の報告会に参加させてもらいました。飯舘村では、「ただ、人がいない歪み」を覚えました。そんな計画的避難区域(7月17日からは居住制限区域)において、100名あまりの方が居住を続ける特養「いいたてホーム」が気になり、勉強不足ゆえ、帰って検索してみると、総合的に避難所生活より健康を害さないという判断から、村の要請を国が許可したとありました。職員の被爆量も、容認範囲と言います。
◆様々な記事の中には、医師の訪問報告もあって、なるほど、これはとどまった方がよさそう、と思う反面、入居者自身の声には(きっと、調べきれなかっただけでしょうが)行き当たりませんでした。いろんなところで感じる、「決めごとの中心不在」が頭をよぎりました。翌々日、ニュースで「警戒区域“再編”福島」として、訪ねた南相馬市小高区がとりあげられていて、釘付けになりました。やむを得ず放ったままになっていた場所では、今こそ人手を必要としている、と。
◆「足を運べば、心の距離は大幅に縮まる」、そんな気持ちをまた思い出させてもらいました。ちょっと珍しい地平線ツアーと、ご尽力くださった方々に、深く感謝します。(中島菊代 屋久島病のねこ 大阪)
■酷暑の2日間でしたが、遠足気分で楽しめました。特に野馬追いは期待以上に素晴らしくて、南相馬復興の気概を感じました。実際、南相馬の原町区は昨年9月に江本さんと一緒に訪れたときにも活気があって、自衛隊や警察ばかりだった震災直後のものものしい雰囲気は払拭されていました。
◆一方、4月に警戒区域が解除された南相馬の小高区は、震災直後のまま時間が止まっていて人影もない「死の町」状態。人間が住まなくなって一年以上も経つとあんな感じになります。現在も警戒区域のままの大熊、浪江、双葉なども同様で、こう言っては不謹慎かと思いますが、小高区は今が見どきです。ある意味、貴重な場所なので、今回、県外のみなさんに見てもらえて良かったです。
◆これから復興する南相馬とは反対に、放射線量の高い飯舘村は新たに帰還困難区域が設定されてゲートが造られていました。今後どうなっていくのか。福島はまだ震災が継続中です。今回、少しでも実情を知ってもらえたことと思います。福島のこと、これからもよろしくお願いします。 (滝野沢優子)
■最高気温15℃の北海道から戻った直後の猛暑は体に堪えました。野馬追いも暑い中で見るのは大変でしたが、とても素晴らしかった。南相馬もくるたびに人が戻り、お店も再オープンし、だんだん活気が出てきているので、福島県民としてうれしいです。
◆今回、国道6号線の検問所を見てもらえなかったのは残念でした。あのものものしい雰囲気は、今の福島がまだ震災の中にあるということを実感できるものだと思います。飯舘村にも新たに帰還困難区域の立ち入りを禁止するゲートができていました。復興する地区がある一方で、新たに閉鎖される場所があることも知ってもらえればと思います。(荒木健一郎 福島県天栄村)
■今年の春のことである。小さな考えごとをしていたら、数日で体重が3キロ落ちた。睡眠も食事もとらずに考えごとをしていた訳ではない。日頃、仕事をし、本も読む。インターネットをのぞくし、人にも会う。それでも、考える程に考えなく、生きているのだと思い至った。あまり考えなくても日常は回る。原発だって動かせるかもしれない。でも、それではいけないのだ。目を開いて物事を見、想像力を働かせ、感度を上げて生きなければいけないと、今は考えている。
◆人はその立ち位置に関係なく、過ちを犯す生きものであり、100%安全の中で生きることが出来ないことを福島の事故から知った。科学技術にも人間にも限界があるという前提のもと、生きていくしかないのである。そして、限られた資源の中で生きていくには、居候の心持ちで、謙虚に住むくらいが丁度いい。人類には未だ地球以外に住処がないのだから。(松菱理恵子)
■飯舘村・南相馬の現地報告会を設営していただいた皆様、たいへんお世話になりました。ありがとうございました。厳しい個人的スケジュールの中、迷惑を承知で参加させていただきましたが、本当に良かったと心から感謝しています。
◆業務の関係で昨年4月〜6月に石巻市及び女川町の地震と津波による被害の実態は現地を歩いていましたが、初めて福島県内の被害を、29日に別途案内していただいた松川浦周辺も含めつぶさに見ることができました。土木系の仕事に携わっている者の視点から、被災メカニズムを自分なりにあれこれ考えながら歩かせてもらいました。
◆また野馬追甲冑競争は今まで見たことのあった草競馬とは全く異なる神事で、長年にわたり地域が培ってきた伝統と気概に感動しました。重ねてありがとうございました。なお、ミーティングで思わずもらした私どもの東日本大震災への取り組みを、詳細に取材したルポタージュが発刊されました(「東日本大震災 語られなかった国交省の記録」道下弘子著 シナノパブリッシングプレス ¥1,200-)。(花岡正明 山形)
先月の通信でお知らせした以後、通信費(1年2000円)を支払って頂いたのは、以下の方々です。ありがとうございました。万一、記録漏れありましたら、必ず連絡ください。
★後藤聡(10,000円)/加藤 秀 (10,000円)/遊上 陽子(10,000円)
今、ペルーのクスコにいる。ペルーアマゾンに住むマチゲンガのトウチャン一家の面々に会いにいく途中だ。
必要なものはすべて森と川から取ってきて、自分たちで作ってしまう。そういう人たちと40年の付き合いになる。初めて出会った時1歳に満たずよちよち歩きだった末っ子のゴロゴロは40歳になっている。事件をあげたら切りがないこの激変の時代に、彼らも同じ地球上で、少しずつ変化しながら生きてきた。
初めて出会った時、トウチャン夫婦には息子6人、娘2人がいた。トウチャンの母親、バアチャンも生きていた。
少し慣れてきた時、全員の名前を尋ねたが礼拝堂のある村シントゥーヤに移り住んでいた長男を除いて名前がないという。名前が付いていないことに驚いていると、全員に私が名前をつけろと頼まれた。
どうせその名前は定着しないだろうと思って適当につけた。次男はスペイン語で日本を意味するハポン、三男はライギョをよく釣ってくるので、マチゲンガ語でそれに当たるセンゴリ、四男は洗礼名フアン、五男は動作が遅かったのでソロソロ、六男は五男と勘違いして、五郎としようとしたが、少しひねってゴロゴロとした。
女の子はきれいな名前をと思って、長女はスペイン語でバラを意味するローサと名付けたが、彼らはうまく発音できず、ドーサになってしまった。次女にはランを意味するオルキーディアと命名した。
父親と母親は単純にトウチャン、カアチャン、そしてトウチャンの母親はバアチャンと名付けた。軽く名前を付けたが、思いも寄らずその後その名前は定着してしまった。
グレートジャーニーの途中でも訪ねている。その2ヶ月前、トウチャンが木から落ちて亡くなっていた。カアチャンが寂しそうにしていた。
グレートジャーニーが終わった後も訪れた。カアチャンは少し弱っていた。カアチャンはもう80歳近くになる。マチゲンガとしては高齢だ。元気でいればいいのだが、心配だ。その他息子・娘たちはどうしているのだろうか。元気でいるのだろうか。再会が楽しみだ。
訪問した時は、いつも狩りか魚取りに参加した。男たちは二手に分かれて食料探しに向かう。一つのグループは狩に、他のグループは魚釣りに出かけた。私は魚グループに参加した。私は1匹も釣れなかったが、全部で8匹のフナの仲間と、小さなイワシの仲間がたくさん釣れた。夕方、帰ってみると、狩りのグループも獲物をかついで帰ってきた。1匹のホウカンチョウとワイルド・ターキー3匹だ。早速次男ハポンの妻ミチが真っ黒に土のついた太いユカイモの皮を剥き始めた。ユカイモは皮が厚く、食用部分がはっきりとした層になっていて、割を入れるとバナナのように剥ける。真っ白な食用部分が現れる。次女オルキーディアが魚の内臓をかき出してぶつ切りにした。それを鍋に放り込む。
その間、男たちは今日一日の出来事を報告しあう。狩猟チームはバクを撃ち損なったことをしきりに悔やむ。魚取りグループの面々は今日は運が良かったと語る。マチゲンガの言葉はリズムがある。耳に心地好い。カアチャンが杖をついてやってきて、炉の側にゆっくりと座った。やや上目づかいに、ぼんやりと若い者の話を聞きながら、時々ゆったりと微笑み、口を挟む。
外では放し飼いにしてあるコンゴウインコが人間にはとても出せないけたたましい声で鳴いている。増水した川の流れの音、虫の鳴き声、小鳥たちのさえずり、そして若い者たちの笑い声。その脇で子供たちは騒ぎ、取っ組み合いをしていたかと思うと、すぐに仲直りしておしゃべりしている。家の中には何匹ものニワトリやヒヨコが入り込んで、小さなゴキブリや昆虫を突いている。ヒヨコが私の膝の上に乗り、ウンコをする。肩に慣れきった小鳥が止まる。ここでは動物も人間も一緒だ。
獲物が到着してから料理の準備を始めるので、できあがるまでにたっぷりと時間がかかる。朝出て行って、何も食べていない。当然腹ペコだ。つき会い始めた頃はとても長く感じられ、インスタント食品を懐かしく思ったものだ。今は原生林の木々のようにゆったりと流れる時間に身を任せられるようになった。マチゲンガの連中も当然腹ペコなのだが、待っている間の家族のだんらんを楽しんでいる。
ミチ(ドーサの娘)が時々ユカイモを指で突いて、煮え加減を確認し、鍋ごと外に運んで、湯を捨てた。家に持ち帰ると、大きなバナナの葉の上に放り出した。湯気がボワーと立ちのぼる。魚も煮えたようだ。オルキーディアが皿に盛って、スープを入れて皆に配る。自分たちで獲って魚を、自分たちで捌き、自分たちで料理して自分たちの育てたユカイモと一緒に食べる。料理に家族の匂いがする。味付けは塩とトウガラシだけ。もちろん保存料、添加物、防腐剤などの化学合成物質は一切使わない。その存在さえ知らない。今日獲ったもの、収穫したものはその場で料理して食べてしまうのが基本だ。
熱いスープをフーフーいって冷まして飲む。熱いユカイモを手でつかもうとして、思わず手を引っ込める。フナやコイの仲間は小骨が多いので要注意だ。マチゲンガでさえも喉に引っ掛けてしまうことがある。魚を食べる時だけは会話が中断する。それにしてもたっぷりと時間をかけた料理には工業製品の匂いはまったくなく、森、川、大地の匂いがたっぷり詰まっている。雲の隙間から星が見え始めた。食事の後もおしゃべりは続いていた。
食事の後、家の中にゴザを敷いてもらい横になった。電気はないので、燻製を作る炉だけがかすかに周囲を照らし出す。いつも思うことだが、周囲にあるものは見事に素材がわかるものばかりだ。家を作っている屋根、柱、梁、柱や梁に載っている籠や漁網、弓矢や糸巻き棒、鍋、私の敷いている敷物等々。
それに、この家は一切の線や管につながっていない。一方、私たちはどんな家でも電線、電話線、ガス管、水道管、下水管でつながれ、一本でも切れようものならパニックにおちいる。様々なチューブにつながれて生きている重症患者のように、それが切られたら生きていけない。病院で何本もの線と管で生命維持装置につながられている状態をスパゲッティ症候群などというが、私たちの家もまさにスバゲッティ状態なのだ。自立などといってもマチゲンガの自立とは桁が違う。私たちは自分ではコントロールできないシステムに依存しなければ生きていけない、ひどく脆弱な状態になっているのだ。マチゲンガが自然の一部となっているのに対して、私たちは便利で快適な暮らしをすればするほど、自然からは遠のいていく。
私がアバロアに着いた時、五男ソロソロは不在だった。屋根に使うカパシという葉を集めるために上流に行っていた。カパシは八女を葺くための最善の素材で、20年間の耐久性があるという小さな葉だ。マイホーム作りはほとんどソロソロひとりの作業だ。いついつまでに作らなければいけないという制約もない。気が向かない時にはしばらく中断しても誰も文句は言わない。楽しみながら建てていけばいい。葉で屋根を葺いている時、ソロソロは真剣そのもので、汗びっしょりになりながら丁寧に葺いていた。しかし暑さのなかでは集中力は続かない。何度も休んでは訪問者と話をしたり、タバコの粉を鼻の奥に吹き込んだり、バナナをつまみ食いしたり、といった具合だ。
広大な土地、ふんだんにある建材、大邸宅も構えることができる。しかし彼らは多大な労力をかけて大きな家を作ろうとはしない。およそ三年ごとに移動する彼らは、モノをたくさん持たない。適正な大きさというものはあるもので、それは家族の大きさによって決まる。
そもそも、人間が適正な大きさを超えた住居に住みたいと思うようになったのは、人類700万年のなかではごく最近のことだ。文明が起こり、一部のものが富を独占し、成り金趣味に走ったからだ。他の人びととの関係、それ以上に自然との関係を深く考えれば、適正以上の大きさの家屋は作らない。大きければそれだけ大地から多くのエネルギーを吸収することになる。
「大きいことはいいことだ」と考えるようになって自然との関係が破綻してきた。「大きいこと」あるいは「多いこと」は大量消費、大量生産につながる。それとともに「強いこと」「早いこと」もいいことだと思われるようになった。その時から人類の自然の破壊が始まり、時代が進むとともに加速してきた。それと対極にある「つつましく」「やさしく」「ゆっくりと」生きるシンキキベニ川のマチゲンガは自然の恵みに生かされながら、破壊することなく、共に歩んできた。
犬、猫、鶏以外にもたくさんの動物が半ペット化している。ホウカンチョウ、ワイルド・ターキー、ヨザル、コンゴウインコ、ペッカリー、カワセミなどなど。カワセミなどは通常は写真を撮るために近寄ると逃げてしまうのだが、ここのカワセミは接写で撮ろうとしても逃げない。人間をちっとも恐れていないのだ。これらの野生動物は羽を切ったりしているわけではない。森に帰ろうと思えばいつでも帰れるのだ。実際に帰っていく動物もいる。森の中で出会えば重要な蛋白源となるのだが、いったん暮らしを共にすると、殺して食べようとはしない。家の周囲に半野生の動物が沢山いて、人間が自然の一部になりきっているのだ。まるでターザンの世界にいるようだった。
長い間、マチゲンガと一緒に、シンキキベニ川を中心にその支流や隣のピニピニ川、ピンケン川とその支流を旅してきた。彼らは長い時間重たい荷物を担いで歩いたり、イカダを押したり引っ張ったりするのは苦手だ。「重たいよ」「腹がペコペコだよ」「クタクタだよ」と文句タラタラになる。私は目的地があるし、できるだけ長い距離を進みたい。それに対して、彼らは獲物を追うわけでもなく、採集物をとりに行くわけでもないのに、長い距離を移動することなど興味はない。面白くもない。面白くないことはやりたくない。というわけで、午後になると、目的地があって遠くに行きたい私と、早く休みたい彼らとの「取り引き」が始まる。私が移動の中止を決めると彼らはホッとして荷物を放り出す。疲れ果てているはずの彼らが急に元気になる。木々や葉で簡単な仕掛けを作ると、武器を手に意気揚々と森に入っていくのだ。表情も生き生きとしている。獲物をとる行為は莫大なエネルギーが必要だ。しかし彼らには面白いことならいくらでも時間とエネルギーを割く。彼らに先祖代々伝わっている森、動物、鳥、川の知識と創意工夫、知恵、機転、技術がいかんなく発揮される。運不運にも左右されるが、彼らの持っている全能力を発揮し、その結果がすぐに分かるのだ。結果がすぐわかることが農業との大きな違いだ。
農業の場合は数か月後あるいは半年後のために種を蒔き、苗を植える。今の労働は将来のためにあるのだ。今やっていることの結果が先送りされるのは、農耕を基盤とした産業社会になるとさらにはっきりしてくる。現在の高度産業社会になると、今のために行為をするということがますます少なくなっている。日本では早い者は幼稚園児から、いい小学校に入るための準備期間に入り、同じようにいい中学、いい高校、いい大学、いい就職先と結果は次々と先送りされる。就職すればいいポストということになり、収穫を得られぬまま老いていく。いかに効率よくステップを踏んでいくかに感心が向き、今を楽しむ余裕はない。
マチゲンガは狩猟採集、魚獲りのほかに焼畑栽培をしている。そこで植えられる主食のユカイモは掘り起こして収穫した後、枝を挿し木しておけば半年後に再び収穫できる。次に重要なバナナも幹の下部をスッパリと切ってしまう。その切り株の真ん中から再び新しい芽が出てくるのだ。何につけても遠い将来のための準備という気はさらさらないのである。
マチゲンガは平和的な民族だ。インカ時代にはインカの支配下に置かれ、インカの持っていない弓矢を扱う傭兵として雇われていた。周辺のワチパイレやアマラカイレにも屈服し、支配下に置かれた。ワチパイレ、アマラカイレなどはインカとも徹底抗戦した。その後も植民者や宣教師になかなか屈服することはなかった。そのため、人口は次第に減ってきている。それにひきかえ、いつも支配されながらもマイペースで生きるマチゲンガは、ペルー・アマゾンでも人口の多い民族だ。5000人以上いるといわれている。
マチゲンガの人口のほとんどはウルバンバ川流域に住んでいて、古くから外部社会との交流は多い。パンチャコーヤのマチゲンガは孤立して最近まで外部との交流を避けてきた。パンチャコーヤとはマヌー国立自然公園の一部、標高の高い部分をいう。マヌー国立公園は変化に飛んでいて、アンデスの東斜面標高300〜400メートルから4000メートルまでを含む。標高の低いマヌー川流域は研究者も多数入り、エコ・ツーリズムが盛んで、たくさんの観光客が入り込んでいる。ロッジなども整備されている。クスコにはマヌー観光を行う旅行エージェントがあちこちに新設されていた。一方、標高の高い部分は観光、研究用に整備されていないので、外部の人間はほとんど入っていない。ピニピニ川上流にはいまだに外部との交流を持たない人たちがいる。
もともと決まった時間に決まった量の仕事をするのを好まない人たちだ。ここのマチゲンガにもいったんシントゥーヤで電燈のある暮らしを経験した者もいる。しかしシントゥーヤにはドミニコ会の伝道所、礼拝所がある。製材所もある。ここに住むアマラカイレたちは神父たちの支援の元で材木伐採の仕事をし、製材を手伝うことによって現金収入を得ていた。教会の売店で日用品、散弾、刃物、洗剤などを購入できる。ところがマチゲンガはシントゥーヤでは劣った民族とみなされ、子供たちにも馬鹿される。その上、朝から晩まで気乗りのしない仕事をしなければならない。彼らには耐えがたいことなので、結局ほとんどのマチゲンガはパロトア川に戻ったのだ。
彼らの勤労意欲のなさには、私も何度か泣かされた。ピニピニ川によく彼らと一緒に行った。山越えをしなげればならない。途中までしかカヌーは使えず、思い荷を担いで急流とよどみの繰り返す源流を遡行しなければならない。1か月以上の旅になるので主食として米をたくさん持っていく。いろいろなでんぷん源を試してみたが、同じ容積・重量のイモや穀類と比較すると、やはり米が最も効率がいいのだ。私自身もユカイモやバナナよりもご飯のほうが食べた気になる。
ところが、長いこと村に出会わないと、米ばかり食べることになる。それは彼らにとっては苦痛だ。やはりユカイモ、調理用名ババを食べないと力が入らない。帰りたがる彼らを説得し、何人かが最も近い村まで戻り、ユカイモを手に入れてくる。その間、何日も待っていなければならない。
それだけではない。婦人同伴でない者は、自分の奥さんが駆け落ちしていないか不安になり、帰りたいと言いだしたりする。彼らは給料目当てで来ているわけではない。面白そうだからぞろぞろとついて来たのだ。「そんなことなら給料は支払わないぞ」という脅しは効果がない。必死で私が「地球の裏側からはるばるやってきて、そのために大きな出費をしていて、目的を達成しなければ帰れない。そのためにはあなたがぜひ必要なのだ」と懸命に説得する。その理由は彼らにはわからないのだが、「懸命に懇願してくるから、かわいそうだから旅を続けようか」ということになる。人のいい彼らは、ほとんどの場合同情して旅を続行してくれたが、説得には多大なエネルギーを費やしたものだ。
それでも最初に出会った頃とくらべると、変化も著しい。シントゥーヤには数時間で行ける。時々は材木伐採の仕事をして売店で買い物をする。それで最低限のものは手に入る。ほぼ全員がパンツやズボンをはき、シャツを着ている。子供でさえもチンポコを見せていることは恥ずかしいことだと思うようになった。今回彼らの子供時代の写真を持っていったが、子供でも陰部が出ていると、皆で大はしゃぎして、冷やかしあっていた。被写体になった本人は照れて、恥ずかしそうにしていた。誰でもが付けていた鼻の下に垂らしていた金属の小さな飾り円盤も、付けている者は一人もいなくなってしまった。
この30年間、シンキキベニ川に住んでいるカアチャンや次男ハポン、五男ソロソロがまったく変わっていないわけではない。まず住む場所が変わった。彼らと初めて出会った時、シンキキベニ川上流の山の頂上に住んでいた。山頂標高800〜1000メートルのところに家を作り、周りに焼畑を作る。魚獲り、狩猟の時には川に降りるが、よそ者に見つけられないように砂や地面には足跡を残さないように石伝いに歩いていた。驚いたことに、犬までもがその行為を真似ていた。
彼らは少しずつ下流に移動を始め、1989年に訪れた時には山間部を出て、標高500メートルの川の近くに家と畑を作っていた。外部の者を恐れる気持ちが薄らいだことと、下流に下った息子たちとの行き来をしやすくするためだ。シンキキベニ川の者たちも服を着るようになった。以前身に着けていたシチャラキという腰巻は作るのに手間がかかりすぎる。綿花から糸を紡ぐのに1ヶ月、布を織るのにさらに1ヶ月。今でも作ってはいるが、ズボン、シャツ、ワンピースが普及している。しかし自分たちが身に着けるものを除いては以前と変わらない。とりわけ食と住はしぶとく保守的なようだ。
ひとつだけ異質なものを見つけた。センゴリが「4本の乾電池が必要なのだけど、持っていないか」と尋ねてきた。懐中電灯のためなら2本でいいので、「何に使うの」と聞くと「ラジカセの乾電池は4本必要なんだ」と言う。
ハポンの家に行ってみた。何人かでオビロキ(ユカイモから作った口噛み酒)を飲んでいた。私にも「飲まないか」という。パロトア川から来た者たちが、ハポンにオビロキを作るように促したのだ。すでにできあがっている者もいる。ラジカセの電池を入れ替えると、よれよれのカセットをセットした。伸びきった音のアンデス民謡が雑音を交えながら流れてきた。
それに合わせてパロトア川からやって来た男たちが足踏みをはじめた。ややうつむき加減になり、体を揺する。むりやり体を揺すっているだけでちっとも楽しそうではない。ハポンの妻ミチが男たちにオビロキを振る舞う。
ハポンにはアマゾンではハイカラだと思われている高地の民謡よりも、自分たちの歌、自分たちの太古のリズムが似合っていると思った。オルキーディアが私に「踊らない?」と誘うので踊りの輪に加わった。ハポンやミチが踊りに加わることはなかった。
アンデスの調べが中断した。するとハポンが自分で作った太鼓を叩き始めた。酒宴に加わらないでいたソロソロが太鼓をもって姿を現した。ミチがオビロキを何回も運んで、たっぷり飲むと太鼓を叩き始めた。酔いが回ってくると、ハポンとともに立ち上がり、太鼓を叩きながら踊り始めた。懐かしい音にラジカセの音楽が入る余地はなかった。ハポン、ソロソロが休むとセンゴリ、アレハンドロも太鼓を叩いて踊り始めた。それからラジカセの音楽がかかることはなかった。
その日、寝床に入ったのは深夜だった。雨が降り始めていた。家の中で敷物を敷いて横になっていると、ピチャピチャ音がする。上流で大雨が降ったようで、家の中まで浸水してきたのだ。急いで寝床をたたんで、屋外の高台に一時避難した。床上浸水など上流に住んでいた時には考えられないことだった。旅の途中以外、川のそばに寝るということはなかったからだ。
そういう小さな変化はあるが、シンキキベニ川のカアチャン、ハポン、ソロソロたちは身に着けているものを除けば、基本的に食住を含めてほとんど変わっていない。地球上の数少ない楽園のひとつだと思った。
これから先、ハポンやソロソロが今の暮らしを続けていくのは簡単だ。10キロ上流の山間部に戻れば、そこではエコ・ツーリズムの影響も受けないですむ。よそ者はほとんどやって来ないところだ。
別れ際、彼らが口をそろえて「今度はいつくるんだい」と尋ねてきた。私は「2、3年後だね」と言って別れたが、9年経ってしまった。
■地平線通信398号、399号(水増し号)の印刷、発送ニ汗をかいてくれたのは、以下の方々です。ありがとうございました。
加藤千晶(水増し号のレイアウト) 車谷建太 森井祐介 村田忠彦 岡朝子 岸本実千代 三五千恵子 満州 杉山貴章 江本嘉伸 山本豊人 竹村東洋子
■400号ということで気合いのこもった原稿が多く、おまけに南相馬地平線報告会のひとこと感想を参加者全員が書いてくれたこともあり、最終的に24ページという厚めの通信となった。皆さんの熱い心に何よりもありがとう、と言いたい。
◆部数もいつもより多めにしのでレイアウト・印刷担当の森井祐介さんがまず心配したのが、紙のことだった。印刷の段階で紙が足りない、ではきょう発行することはできない。急遽一部「色違い」の紙も使用することとなった。カラフルな通信が届いた人には幸せが来ます。かなり詰めて編集したのだが、それでも載せきれない原稿をいくつか預かった。ご容赦を。
◆折からのロンドン・オリンピック。時差のせいでミーハーな私などは連日、午前4時就寝、という日が続き、この通信もサッカーやバレー見ながらの作業。時に時間の感覚がわからなくなっている。そういえば、250回記念地平線報告会を福島県の南会津でやった翌朝、女子マラソンでQちゃんが格好よくサングラスを投げて優勝したのだった。4年ごとのオリンピック、地平線会議の歴史にも足跡を残している。
◆今、8月8日午後5時をまわった。まさに新聞である。(江本嘉伸)
歩き続ける者の系譜
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地平線通信 400号
制作:地平線通信制作室/編集長:江本嘉伸/レイアウト:森井祐介/イラスト:長野亮之介/編集制作スタッフ:丸山純 武田力 中島菊代 大西夏奈子 落合大祐 加藤千晶
印刷:地平線印刷局榎町分室
地平線Webサイト:http://www.chiheisen.net/
発行:2012年8月8日 地平線会議
〒160-0007 東京都新宿区荒木町3-23-201 江本嘉伸方
地平線ポスト宛先
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Fax 03-3359-7907 (江本)
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