7月11日。ナーダム初日。ウランバートルの中央スタジアムでは、今頃、開会式に続いて相撲が始まっているだろう。はじめて見た時はその迫力に圧倒された。日本の相撲でいえば幕内力士の土俵入りにあたるものだろうが、長袖チョッキ(ゾドクという)、トランクス(ショーダク)、ブーツ(ゴッタル)をつけた力士がなんと512名も登場し、芝生の上で舞うのである。日本では幕内、十両あわせても75人だから、スケールが違う。先月の報告会でその情景の一部をお見せしたが、日本の大相撲とはひと味もふた味も違う優雅な雰囲気で、それが勝負となると、俄然激しくなるのがなんとも興味深かった。
◆外の草原では競馬が始まる。馬の年齢別に15キロ、20キロ、30キロなどの長距離、それも5才から12才までの少年少女が乗るのだ。親たちは馬に乗ったままゴール付近で子どもと馬の到着を待つ。土けむりの中、次々にやって来る少年、少女たち。時にはあるじのいない空(カラ)馬が来る。すると自分の家の馬と知ったおとなたちは、一斉に逆方向に馬を走らせる。草原のどこかで落馬し、さまよっている我が子を求めて。
◆馬と人の関係を語るほど知識も経験もないが、モンゴルの学者に連れられて森や草原を野営しながら3日ほど調査旅をやったことがある。その際、厄介な道を慎重に、安全に選びつつ進む馬の賢さに心底感嘆した。そして背中にまたがって感じる、あのあたたかさ。犬ももちろんあたたかいが、馬の大きさがなんとも頼もしく、優しいのだ。数百頭が一斉に疾走するナーダムの馬たちは、優しさとは無縁の迫力だが。
◆日本で勇壮な馬の疾走、といえば「相馬野馬追」であろう。1000年も前の時代、野生馬を放し、敵兵に見立てて軍事訓練をした事に始まると言われ、鎌倉幕府によって軍事訓練が取り締まられた後も「神事」として続けられてきた。3.11によって昨年は規模を縮小して行われたが、ことしは全面的に復活するとのことだ。このことは、この通信の賀曽利隆さんの寄稿を読んでほしい。
◆3.11が起きて以来、東北のどこかで地平線報告会をやりたい、と考えていた。被災地とそこに住む人々のことをよく考え、意義あるものにできるならば、と。縁あって賛同してくれる友の協力で今月末、南相馬で念願の地平線報告会をやることにした。ただし、被災地であり、移動や宿泊に制約があるので、いつもの「どなたでもご自由に」ということにはならないことをわかってほしい。
◆7月3、4日、その南相馬まで2度目の下見に行った。宿泊施設を提供してくれる上條大輔さんが迎えてくれ、津波に壊滅的にやられた海岸沿い、4月にようやく入れるようになった小高区など足早に見せてもらった。偶然、時期が相馬野馬追と重なったことで、交通規制も当然あるようで、現場では臨機応変の対応をしなければならないだろう。南相馬で地平線会議は何を見、持ち帰ることができるのか、今から責任を感じている。
◆話をナーダムに戻す。ことしは、モンゴルと日本が外交関係を結んで40年になる(中国とも同じだ)。その最初の礎を築いた日本人についてのモンゴル語の本がつい最近ウランバートルで刊行された。「モンゴルと日本に橋をかけた花田さん」というタイトル。驚いた。地平線ではおなじみの花田麿公元モンゴル大使についてモンゴルの歴史学者が書いたものなのだ。
◆私のモンゴル語能力では文章は十分理解できないが、新旧さまざまな写真が花田さんとモンゴルの物語を伝えている。その中には先月の地平線通信で「懐かしき懐かしき相馬の思い出」として書いてくれた、子ども時代のものと思われる写真も含まれている。
◆そういえば、25年前、初めてナーダムを取材した時、観客席に花田さんご夫妻と、デールを着た次男のたけちゃんがいて、記念にシャッターを押したっけ。当時、花田さんは多忙な1日の仕事を終えると深夜まで自宅でたけちゃんにすべての科目の勉強を教えていた。そのエネルギーと博識にすごい外交官もいるものだ、と真底驚嘆したのを覚えている。
◆南相馬からの帰路、福島駅まで2時間のバスの中で終始、線量計をチェックしてみた。飯館村に入ると数値がぐんぐん上がり、「0.5マイクロシーベルト」程度だった線量はやがて「4.0」を越えた。相馬野馬追のご縁、ナーダムのご縁、そして3.11その後。これらのことが重なって、今号はなんとなく旧知のおとな同士が互いを誉め合う雰囲気の通信になったことを許されよ。南相馬地平線報告会では線量計を参加者全員に交代で測定してもらうつもりだ。(江本嘉伸)
■1979年に始まり、33年もの月日のなかを毎月休むことなく歩み続けてきた地平線会議は、もうすぐ400回地点に到達する。その場所から見渡せる世界には、どんな時代のうねりが見えてくるのだろう。代表世話人として地平線会議を支えてきた江本嘉伸さん、一方でモンゴルウォッチャーとして激動のモンゴルを見続けて今年で25年になる。5年ぶりの壇上で、いま、3.11を体験してしまったこの時代に何を語るのか。単なるモンゴルの話ではないらしい……。
◆初めてモンゴルを訪れたのは1987年。その2年前、当時新聞記者だった江本さんは、チベットでの黄河の源流を探す探検取材のなかで、源流地域の有名な湿原地帯、「星宿海(シンスウハイ)」が「オダンタラ(星の草原)」とモンゴル語名で呼ばれる場所に出会い、「よし、次は念願のモンゴルを」と火がついたという。しかし当時は社会主義時代。モスクワの管理下に置かれていた入国への壁は厚かった。後にジャーナリストとしては異例の突破を果たした江本さん。振り返ってその時代背景には、3つのポイントがあったと話す。一つは、1985年の「プラザ合意(日本がアメリカの赤字解消を背負わされた対米妥協策と一般に解釈されている)」でドル安円高となり、海外への経済的な門が開けたこと。もう一つは、1986.4.26のチェルノブイリ原発事故。公表されずに起きた大惨事であり、「ジャーナリストとして動かなかったことをしまったと思う」と振り返る。そして、1986年に始まったペレストロイカ。ゴルバチョフ書記長のグラスノスチ(情報公開)政策によって、結果的にソ連崩壊につながったことを挙げた。その情報公開のきっかけともなったインターネット。その普及のスピードと影響力は凄まじく、中国やアラブのような、抑えつけられていたところではあっという間に広がりをみせている。日本ではいままさに、紫陽花革命と称される空前の反原発デモが起こっている真っ只中だ。
◆若かりし江本さんが初めて出逢ったモンゴルに、感動と情熱を持って突っ込んでいった様子を表している当時の新聞記事がある。遊牧草原の暮らしの一部始終を追った2ページ見開きの斬新な写真特集(8回連載)だ。「面積で勝負!!!」と仰る通り、これでもかという程に大きな写真が紙面を飾り、当時誰も知らなかった草原世界の文化を伝えている。記者として、こんな特集が組めたらさぞ胸が躍るだろうなと感嘆していると、江本さんは「いま思えばノー天気。もう少しつっこんだ記述が必要だった」とキッパリ。当初、「草原の国」として素朴に歌い上げていた江本さんには、その後のモンゴルの変容ぶりは複雑な感慨を抱かせるようだ。
◆「5年前のモンゴル報告の際、最後に見せた写真を、今日は冒頭に見てもらいます」そう言って披露したのは、ウランバートルの公園にあらわれた大鹿の写真。毎日ランニングしながら、この鹿の群れによく出会ったという。次に澄み切った空の下、広場にそびえる“革命の英雄、スフバータル”の像。25年経った今年、壮麗なビルに囲まれるかたちでその像がなんと小さいことか。立派なガラス張りの高層ビル群とは対象的に、貧困層のゲル地帯もまた広がり続けており、郊外のゴミ処理場にまで人が住んでいる現状が語られる。
◆「繁栄の陰の真実。こういう場所にも踏み込むことをいつも考えている」。そのコントラストが、時代の急激な流れの変化を伝えている。2008年にはとうとうWHOによる大気汚染の数値が世界最悪の都市になってしまったウランバートル。草原の青い空のイメージは薄れつつある。「すごいうねりとともに我々は時代を生きていて、情報を重ねてはじめて見えてくるものがある。それを突き詰めることが、世界と自分を理解することにつながる」と続く。
◆今回の目玉はなんと言っても、念願の「キーノート(パワーポイントのようなもの)」を駆使して、自ら編集した写真達であろう。タイトルのディテールが凝っていて、(多分丸山純さんのご助力で)写真を送る度にくるくる廻る演出も施されており、江本さんが自分でPCを触りながらうっとりしているのが何とも可笑しい。
◆今年の6月、江本さんは震災以降見合わせていたモンゴル行きを決行した。この旅の大きな目的は、25年前に初めて遊牧生活を取材したツェンドさん一家と再会することだった。8日間の滞在期間で果たして会えるかどうか。草原で、たまたま車に乗せてあげた女性に「ツェンドさんという羊遊牧民を知ってますか?」と聞くと、彼女は即座にケータイから電話をし、翌日に会うアポを難なく取りつけた。まったく有り得ない展開に、江本さんは拍子抜けしてしまった。「実は多分会えないのでは、とひそかに覚悟していた。草原で人をさがすのは以前は難しかったからね」
◆こうして四半世紀ぶりの再会は、ツェンドさんの抱擁と頬擦りによる熱烈な歓迎で幕を開けたのだった。昔と変わらないゲルには、ソーラーバッテリーとアンテナと固定電話が備わっている。現在74歳のツェンドさんは当時は49歳。国家の羊640頭と個人の羊120頭を飼っていた。社会主義時代では毎冬どれだけの子羊を生ませるかが重要であり、ツェンドさんは国から「国家英雄牧民」として表彰されるほど大変優良勤勉な遊牧民だった(1990年の民主化以降、家畜はすべて個人所有へ、と制度はガラッと変わることとなる)。
◆奥さんのツェデンさんも健在で江本さんのことをよく覚えていてくれた。子供は10人、孫は32人、ひ孫が10人。娘さんの姿が当時のツェデンさんの面影と重なる。7月11日の「ナーダム」を前に、25年前には無邪気な可愛い仕草が印象的だった末っ子は、いま馬の名調教師として騎手となる息子と馬の訓練を夕暮れまで続けていた。そう。当時から「ちょうど一世代分」の時が流れているのだった。
◆記念写真を撮ろうと申し出ると、ツェンドさん夫妻はデール(礼服)に着替えてくるのだが、そのデールの胸には社会主義時代からの勲章バッジがビッシリと並んでいる。民主化となって今では実質的な効力は失っていようとも、ツェンドさん世代にとっては身に染み込んでいる遊牧民の誇りそのものなのかもしれない。大半の羊を子供達に譲り、質素な暮らしをしながら草原でゆっくり年を重ねてゆく夫婦の姿を、江本さんは大切そうに写真に収めているようだった。
◆民主化という時代のうねりが草原に押し寄せている風景が江本さんが長年撮り続けてきた写真で伝えられる。馬、ラクダの大型家畜のみを専門に扱う屈強な男達や、屠場を求めて1000kmを何か月もかけて羊の群れを運ぶような遊牧民の姿は、個人所有制となった今ではあまり見かけなくなった。冬に凍りついた湖をソ連国境から巨大な荷を曵きながら進む馬ゾリ隊の光景は、まるで幻を見ているかのようだ。草刈りや狩りの道具は一変し、井戸の数も随分減ってきた。一方で、アンテナはいまや何処にでもあり、外国人観光客向けのツーリストキャンプが増えてきている(たとえば一泊$42)。
◆当時の狩りの獲物は、「熊60、狼1109、タルバガン32014、カモシカ6766……」と国に奉納するために記録されていて、社会主義は統計の政治であったことが見て取れる。永い間、社会主義という安定的な管理下のもとに、厳しい自然のなかでの暮らしを維持してきた遊牧民は、これからの時代をどのように生き抜いてゆくのだろう。これはモンゴルに限らず人類共通のテーマなのかもしれない。
◆休憩時間にはなんとも嬉しい差し入れが。ご存知、泣く子も黙る、原健次さんの奥様典子夫人のお手製スイーツ。しかも大きな包みが沢山あって、シフォンやチョコブラウニーやナッツのタルトなどなど、原スイーツファンなら絶叫ものの品揃え。大ファンかつ腹ペコだった僕が全種類制覇をしたところ、個人的ダントツベスト1はチーズケーキでありました。原さん、ご馳走さまでした!☆
◆モンゴルが社会主義から民主化へと大きな転換を遂げるのは1990年3月のこと。民主連盟の大集会で、江本さんは歴史が動くその瞬間を目撃する。スターリン像の破壊の現場に立ち会った際には、あれだけ崇めていた人達が、像の頭を踏みつける姿に「気分はわかるけど、モンゴル人の浅さを感じたね」と話す。当時はロシア語すらも嫌われ始めていたと聞く。
◆最近のモンゴル行で、江本さんは現代モンゴルを象徴する「砂金掘り」の現場にも足を運んでいる。砂金掘りの道具を背負う姿がアメリカの漫画「忍者タートルズ」のキャラクター(二足歩行の亀)に似ていることから「ニンジャ」と呼ばれ、不法労働とされていながらもモンゴルの労働人口の6%という統計もある。情報を追っては、山のなかを人力で掘り(かなり深い)、機械で精製したものを中国人が買い占めるシステム。劣悪な条件にも関わらず、今もなお減らないのは、一般の月平均の収入が日本円で3万円にもならないのに対して、25〜30万円という一攫千金の商売だからだ。
◆現場で会った男性は「子供3人を留学させたい。あと10年は続けてお金を貯める」と話す。最近では、不法とされているニンジャをむしろ保護すべきとの声もあがっているという。市場経済20年といっても暫くはこのような混乱が続くのだろう。モンゴルでは政党が変わるといろんなことが急展開する為、選挙が近づくこの時期は、相応に緊迫するのだそうだ。民主化直後には、国家の羊をどう分けるかで大混乱が起こったモンゴル。
◆近年は資源国家として経済成長著しく、他の諸外国の参入がせめぎ合うなかで、これまで支援国家トップドナーとしての地位を築いてきた日本のポジションは、少しずつ後退してきている。視点を広げて日本の歩みに焦点を当ててみても、島国であるが故に、戦後の経済発展から比較的のんびりやってこられた時代を経て、その陰りが見え始めた矢先のこの度の3.11は、シンボリックなことと痛感しているという。「どの時代にそこを見たのか。そして、繰り返し見ることの大切さ。いま見ているものも、変わるかもしれないと思っておくべき」と江本さんは強調する。
◆モンゴル人と3.11の話もした。海を持たない彼らに津波のイメージはなかなか伝わらないが、72もあるチャンネルで映像は繰り返し見ており、そのすさまじさはよく知っていた。モンゴルから帰国してすぐ、江本さんは南三陸、気仙沼に向かった。スライドに映し出される江本さんが昨年目の当たりにした被災地の多くの風景は、もうすでに変わり始めている。「忘れてしまっていいのか」未だ残されている南三陸町の防災対策庁舎や気仙沼の大型漁船を、シンボルとして残そうとする試みは重要だと指摘する。
◆戦前生まれで戦後新制教育の一期生。ロシア語を学び記者となり、最初の仕事は東京オリンピックのレスリング担当だった。会社を巻き込みつつも、山や極地への自身の探求心を思い切り追求し、地平線会議でも今でも手を抜かずに本気でやっている江本さん。通うにつれ、モンゴルはいつしか自分に還る場所となり、変わりゆく時代と共に「人はどうやって生きるか」を見続ける場所となった。「振り返ってみて、3.11もあって、つくづく人々はみな同じ時代を生きているのではないな、と感じる」。限られた人生のなかで、自分の知的好奇心をどう保てるか。それは日本にも言えるし、地平線会議にも言える。日本はいままさに大きな渦のなかにある。震災以降、最優先にしてきた関連の報告会や、通信での仲間のレポート。この7月、南相馬で報告会を企画したことも、現場を知ることへの想いからの行動なのだと理解できる。いま起こっていることは何なのか。それを本当に実感として理解出来るのはずっと先なのかもしれない。その為にも、「いま」をどう動き、どう捉えるか。いかなる時代であろうとも、肝に銘じて生きてゆきたいと思った。(車谷建太)
■江本さんのモンゴル報告会への出席は大変楽しみにしていました。会場への通りすがりに母校(戸山高)の様子をかいま見る楽しみもありました。それなのに前日から体調不全(かなりのスピードで景色が回り酔う現象)の予兆があったとはいえ、当日朝まで引っ張ってドタキャンしてしまいました。恥ずかしい話です。当日ご出席の皆様には紙上をお借りしてお詫び申しあげたいと思います。そこでもし出席できていればコメントしたかも知れないようなことをを含め未練がましく書くことをお許しください。
◆モンゴル社会主義時代も終りに近づいた1985年から二度目のモンゴル勤務をしていました。当時、中国とソ連(ロシア)が対立し、ソ連派のモンゴルには対中戦に備え20万人を超えるソ連軍隊が駐留していました。そのため軍隊への食肉提供のため、牧畜の国モンゴルでは食肉が大幅に不足し、都市部ではかなり難儀していました。あまり好きでないラクダの肉の売り出しに行列ができる始末でした。
◆外国人用に外交団ショップ、専門家ショップというものがあり、ごくごく少数の食品と日用品が売られていました。われわれは業務出張のついでに全ての生活物資と野菜、食肉を北京に買い出しに行っていました。当時北京の人は北京の生活はひどいと嘆いていましたが、その北京に依存せざるを得なかったのです。社会主義とは行き詰まった体制である、とは日々の生活を通じて実感していました。
◆当時ウランバートルは外務省ランクで世界の厳しい勤務地5段階のうちウランバートルのため特別に設けた枠外の6級でした(外務省はほとんど全世界に出先があって交戦地を含め危険地が必ずあり誰かいます)。それでもモンゴル専門家として現地勤務は何ものにもかえがたい嬉しい経験でした。
◆ウランバートル勤務でただつらいのは子どもの教育と医療でした。で次男は小学校は3年2学期から6年11月まで、中学は3年の2学期からしか就学していません。あとは現地で私自身が昼休みとか、夜中12時から2時間とか教えていました。2年学年を下げなければ'就学させないというので実質上学校へ入れなかったし、はじめは近所の子どもに近づくと、資本主義の悪影響があるからあそぶなと周囲の大人がモンゴル人の子どもに大声で注意していました(地平線にも未就学の子どもさんをかかえて旅をなさっているご家族がいて、おお、同志がいたと思いました)。
◆それとともに特に病気が心配でした。次男は肺炎にかかりましたが医者にかからず(盲腸で死亡、肝炎と腎炎の誤診で死亡とかあり、幹部や高級官僚は国外へ治療に出ていました)、されとて北京(医務官が駐在)に行くにも、当時空路はなく、汽車は週3本で、車中1泊か2泊必要でした。私自身が館備え付けの医学書に従い子どもの治療をしました(個人的に整理タンス4段分の医薬品を持参していました)。私の処方につき北京の医務官の助言を電報で求めました。多分そのときの薬品の副作用でそれ以後次男の心臓は2ビートとなり、かなり悩みました。就職にも影響ありました(幸い今は完治)。
◆さて、このような環境のモンゴルに1987年のある日、「日本人の記者がウランバートルにいる」という報告がきました。当時ウランバートルには12名の大使館員およびその家族以外には4名の留学生と日本語教師1名しかいないかったので、まさに日本人、それも記者に会うのは絶滅危惧種に遭うようなものでした。公務員特有の若干の警戒心があったのも事実ですが、父が記者であったので記者アレルギーはありませんでした。
◆昼休みに館員2名と江本さんをホテルにたずね、訪問目的をうかがい、便宜を提供する用意ありと申し出ました。それ以後何回かウランバートルに見えるうちに親交を重ね、ウランバートルのボロアパートにも何度も来ていただき、なぜか気分が合い、公務員が一番警戒している記者の方に館員にも言えない個人的考えを吐露したりしました。江本さんはそれを記事にするようなことは一度もなく、バックグラウンド情報として処理されていたようです。つまり、友に話しているという感じです。
◆以後、四半世紀25年この感覚は崩れることがありませんでした。江本嘉伸という人はそういう人と感じています。次男を教える関係からモンゴル赴任前にあらゆる教材を借金して整えました。化学実験器具、地質調査器具、図工の椅子製作セット、彫刻セット、音源つきキーボードなどちょっとおおげさめに楽しそうに(友人もなく一人で父親先生に学ぶのですから)150万円余をかけて持参しました。これらは当時流行った「ぴかぴかの一年生」からとった住宅の1室に設けた「ぴかぴか小学校」に納められました。
◆名称は頭の関係もありまったく気に入りませんが、子どもの命名にしたがいました。江本さんは子どもに交渉して実験用のマイナス50度を測れる棒状温度計を借り、なんと冬季、それを首にぶらさげ早朝わが家に走ってこられ、マイナス35度だったとこともなげに告げておりました。
◆慣れると35度は平気ですが、走ることはできません。それには別の理由もあります。ウランバートルは標高1310メートルで丁度八ヶ岳の大泉郷の高さにあります。ですから、普通走ると息切れがします。江本さんは息もきらさずにこられて朝食をともにして下さいました。楽しい思い出です。途中鹿の親子と仲良くなったそうです。われわれもよく見る南のザイサン・トルゴイあたりから街に出張ってきていたあの家族のことでした。
◆話は昔に飛びますが、1971年9月まだ外交関係が開かれておらず、このとき訪問した親善ミッション(前年ゴンボジャブ副首相を外務省賓客で大阪万博へお招きした返礼の招待)の一員として香港から参加しました。訪問中の9月12日夜ウランバートルを特別列車で出発し、約200キロ北のダルハン市へ向かいました。中嶋代議士以下日本代表団9名はツェレンツォードル外務省アジア局長以下モンゴル側と交歓しつつ走りました。朝5時ごろダルハンに到着、2両の特別車輌のみ側線に入れられ停車し引き続き睡眠をとりました。ツェ局長はその日の行事に参加しませんでした。
◆夕方、学校訪問をしているときいつのまにか教室の後ろにツェ局長が立っているのを発見しました。同30日のタス通信は中国の林彪副総理兼国防相がその晩モンゴル領ヘンティ県で墜落したと報じました。後刻聞いた話では、あの晩中国からの越境機がモンゴルヘンティ県で山に墜落したので、責任者であるツェ局長がダルハンからヘリでヘンティ県の現場を往復したそうです。
◆若い娘の上半身があり、あとは年齢性別不明、林彪機というが年寄りは乗っていないとのことでした。「モンゴル、中国双方の関係者に聞いたところでは、中国側から中国大使館の筆者の友人が現場に行きましたが、モンゴル側は死亡者の住所氏名を確認し正当な引き取り者と確認できなければ機体の引き取りを含め引渡しできないと答えたそうです。
◆当時上記のような環境のモンゴルでしたが、江本さんはヘンティの現地にその残骸を取材に行かれました。記者魂ここにきわまれりです。報告会で江本さんがスライドで示されたそうですがまさにその機体です。その後チンギス・ハーン空港南のチンギス村にその一部が展示してあるのを私は見ました。
◆1986年はじめ頃よりロシアではゴルバチョフがじょじょに準備して、87年1月から政治的にグラスノスチ、ペレストロイカを敢行しました。モンゴルにおいても、1984年に約30年続いたツェデンバル政権が倒れ、バトムンフ氏が後をつぎ、ソドノム首相(日本を初めて訪問した首相で現モンゴル日本関係促進協会長)とともに人事や機構のゆるやかな改革を進めつつありました。
◆86年には若干の経済改革を打ち出し、ロシアの動きを受けて、87年はじめより新たに任命された若い党行政のテクノクラートが指導的役割を果たして、ソ連のグラスノスチ、ペレストロイカ情報を党機関誌「ウネン」紙を中心に流しはじめました。彼らは国内の「変革・刷新」運動を主導し、ウネン紙は単に党政府の発表機関紙であったのに、白熱する意見交換が行われる新聞になりました。やがて89年12月若者主導の市民運動が始まり90年政府が倒れ1党独裁から民主政治に移行しました。他方政府はすでに日本にたより市場経済への移行を始めていました。そして、ソ連の庇護を離れ自国の主権を背負い独り立ちしました(残念ながら日本は大戦後、真の主権を行使できないでいるように見えます)。
◆江本さんのモンゴルはちょうどその時期にはじまり、最近の訪問までの間、社会主義を脱皮し、市場経済に移行して資源大国にいたるモンゴルの真実を折々に観察され、そしてモンゴルをエンジョイする道を歩まれておられます。この「エンジョイする」ということは誰にでもできることではなく、その国を知る上でとても大事なアプローチであると思っています。そのようなアプローチができる同志はなかなか見つからず、よくあるのは、お金のための姿勢や、ほめられたいための姿勢ばかりでとてもつらかったのですが、そうではない江本さんに遭いうれしく思っています。
◆世界に何体かあったスターリン像の一つがウランバートル市のアカデミー中央図書館前に立っていました。この像が倒された晩、現場で社会主義旧体制の末路を見送った江本さんは、若者の広場座り込みの現場で民主モンゴルの始まりに立ち会われました。はやりの言葉を借りれば、モンゴルに関して何かもっているとしか言いようがありません。
◆江本さんはモンゴル遊牧草原の取材の成果を何度も大きな紙面で紹介しました。日本にモンゴルフアンを広げたことは間違いないと思っています。その後江本さんは読売新聞でチンギス・ハーンの陵墓探索を目的とする「ゴルバン・ゴル計画」を展開。このゴルバン・ゴル計画はモンゴルにとってかけがえのない文化財埋蔵地点を200か所以上明らかにしました。残念ながらチンギス・ハーンの墓陵は発見されませんでしたが、モンゴル考古学に大きな貢献をされたと考えています。今白石典之先生(新潟大)がカラコルムにチンギス・ハーンの一大都市を発見、宮殿、武器工場街、住宅街を発掘されています。
◆モンゴルでは1万か所ほどの埋蔵箇所が発見されていますが、2007年の時点で、桜前線よろしく南から中国勢の盗掘前線が北上しつつあり、ウランバートル近くまできていると聞きました。残念です。パトロール警備増強とか論議されておりましたが、これは中国の人が考える問題だと思います。
◆今度のモンゴル訪問で江本さんは当時の方々と久闊を叙したそうですが、らしい行動と嬉しくなりました。願わくは生来の健康かつしなやかな体を大事にしてモンゴルとの関係を続けて欲しいものと思います。
■「地平線通信6月号」の花田磨公さんの記事を興味深く読ませてもらいました。それにしても何という偶然。お父さんの故郷が相馬の大野村で、花田さんご自身の疎開先がいわきの大野村。さらにその間に双葉にも大野村があったとのことで、さっそく地図を見たら、爆発事故を起こした東電福島第1原発に一番近い駅が常磐線の大野駅ではないですか。
◆浜通りに3つの大野村があったのは知りませんでした。江本さんと車で浜通りをまわったとき、花田さんのことを聞きました。疎開した小学校がいわきの「大野小学校」とそのとき聞いた記憶があったので、つい先日、いわきをまわったときに探しました。そして発見。四ツ倉から県道41号を西に行くと「大野第1小学校」、「大野中学校」、「大野第2小学校」が県道沿いにありました。
◆花田さんは相馬の思い出が「相馬野馬追」とからめてずいぶんと鮮明のようですが、我々の7月の報告会はまさに相馬の地でおこなわれます。28日(土)、29日(日)の両日ですが、奇しくもそれは「相馬野馬追」の日。毎年28日から3日間に渡って勇壮な野馬追の祭りがおこなわれるのです。
◆4月16日に東電福島第1原発20キロ圏の規制線が変更になり、その北側は南相馬市と浪江町の境になりました。相馬のみなさんにとっては、どれだけうれしかったことか。というのは相馬の人たちの心の原点といってもいい「相馬野馬追」は、相馬市の中村神社と南相馬市の太田神社、それと小高神社の3社の祭りだからです。昨年もあの未曾有の大災害のあと、相馬野馬追は開催されました。しかし、旧小高町の小高神社は立入禁止地域で昨年の相馬野馬追は規模を縮小し、片肺で開催されたのでした。
◆つい先日、通行が可能になった国道6号で旧小高町に入りました。小高神社は健在でした。しかし小高の町には人影はほとんどありません。大津波にやられた訳でもなく、大地震でつぶされた家が何軒かはありましたが、町民全員が避難したので無人の町並みが3・11当時のまま、そっくりそのまま残っているのです。
◆東電の福島第1原発の爆発事故さえなかったら…と、これまた無人の常磐線小高駅前にバイクを停めて思いました。そして腹の底から叫んでやりましたよ。「東電のバカヤロー!」(賀曽利隆)
■地平線会議の皆様。南会津も少しずつ夏の風を感じられる季節になりました。昨年の3.11から、7月末の新潟福島豪雨、そしてこの春の暴風雨(竜巻被害)で伊南のある集落の公民館も一軒丸ごと吹っ飛ばされたりと、本当に自然の猛威に驚くことが続いています。この辺りは、首都圏よりも(セシウムの)数値が低いと安心している人、そして、やはりフクシマ県内ということもあり、心配している人など様々です。
◆伊南川周辺の沢や湖でも稚魚の放流を止める声も聞こえ伊南の鮎も一時放流について危ぶまれる時期があり、ドキドキしていました。が、結果的に伊南川は大丈夫らしく、今年も6月半ばに鮎の稚魚放流を実施、今週末の14日には伊南川鮎釣り解禁です!
◆さて、先月17日には、南会津(旧南郷村)でバイクミーティングがあり、賀曽利隆さん&古山夫妻&渡辺哲さんにも再会することができ、いつものパワーに元気をもらいました! 息子(健太郎)のTシャツの背中には「生涯旅人」の「賀曽利サイン」を書いてもらって感動です、家宝にします。
◆7月末はフクシマの南相馬で地平線報告会が実施されるとのこと。行ってみたい! と内心思いながら、ちょうど家業の民宿が慌ただしくなるころ(と、願っています)なので、現地へは向かうことが出来ない可能性大ですが盛会になることを南会津から応援しています。ちなみに同じフクシマとはいえ、家(伊南)から南相馬までは片道4時間くらいかかります(笑)。
◆それから、もうひとつ伊南川からお知らせをさせて下さい。昨年、一昨年と海宝道義さんと一緒に伊南川100kmウルトラ遠足を実施しました。1回目は370人、2回目は270人の方々がエントリーして下さり、紅葉の伊南川を駆け巡ってくれました、今年も300人(内心は500人)のエントリーを目指して募集を開始しました。ぜひとも地平線関係者で興味関心のある方々にお声かけを頂きたいと思います(楢葉町出身・いわき市在住の渡辺哲さんは1、2回とも参加して下さり完走しています! そしてなんと!三輪さんも第2回目の完走者です! 二人共、今年もエントリーしてくれます。感謝!)。伊南川周辺へお越しの際は、ぜひお立ち寄り下さい。賀曽利さんが民宿田吾作裏の小塩塩ノ岐(こしおしおのまた)林道を走っているかもしれません。(今年の熱い夏を心待ちにしている伊南川から 酒井富美)
■7月4日から9日まで表参道ヒルズのギャラリー同潤会で開催された「遊ぶ木展」に子連れで出かけました。「遊ぶ木」というのは、京都在住のおもちゃ作家・多胡歩未さん(あるみ)の参加する作家集団で、今回初の展示会だったそうです。あるみ氏を含めて9人の作家さんが出展されていて、それぞれに可愛らしいデザインや「木の素材でこんなことができちゃうのォ〜!」という工夫が凝らされていて、大人も思わず欲しくなってしまうものばかり。もちろん我が家のじゃじゃ馬娘(まじで!)にも大好評で、展示されたおもちゃ全てで遊び倒した感じでした。
◆あるみにも久しぶりに会えて、たっぷり元気をもらいました。あるみと初めて会ったのはもう10年以上前のことだと思いますが、木のおもちゃ作家のタマゴだった彼女がドイツ修行に出かけて、アトリエを構えて、結婚・出産を経て、また作家活動を再開して活躍している姿を見るにつれ、「イカンイカン、私も頑張らなくっちゃ!」と励まされます。ますますお美しくなられて、作家オーラが出てきたみたいですよ、彼女。ま、お世辞ですけど!
◆そんな私たちも一児の母。笑ってしまうくらいびっくりしますが、最近、育児期間って、子どもを見つめながら自分を見つめ直し、発見し直すときなんだな〜と思ったりします。例えば、木のおもちゃを子どもに与えたいと思う気持ちもそうです。プラスチックの粗末なおもちゃではなく、人の手の掛かった木のぬくもりのあるものにこだわるというのは、木の良さを知っている人っていいなと「自分」が思うから。母親である「自分」が娘を大切に思っているということを伝えたいから、なのです。
◆なるべく草木や土の匂いのするところに連れ出そうとするのは、自然の素晴らしさ厳しさを肌で知っている人って素敵だなと「自分」が思うからです。当たり前のようですが、いちいち自分の価値観が問われますよね。
◆また、別の側面もあります。めまぐるしい毎日の中で、全く自分の時間がとれない状況になったときに私の中に沸き起こったのは、もーーーーれつに本が読みたいという欲求でした。少し余裕が出てきて多少の読書時間がとれるようになると、やっぱり仕事がしたいな〜と思うようになりました。そして、もちろん旅もしたい! こうして、自分の中の優先順位を確認し、「ははん、私ってそういう奴だったのかァ、へへえ、やっぱそうだよなァ」などとブツクサ言いながら自分と対峙する毎日なわけです。
◆そう考えると、子育て中で身動きがとれない時間というのも意味のある時間なのかもしれません。そんなわけで脱線しましたが、木のおもちゃ、贈り物などにもぜひぜひお勧めしたいです(むりやり宣伝)。私などは慌ただしく買いそびれたおもちゃをウェブサイトでじっくり選んで購入する所存です(再び宣伝)。(菊地由美子)
★先月の原稿中、思いっきり間違えてました。「4、5、6月と報告会に参加して……」って書いたけれど、「3、4、5月」ですよね。ついでに私の名前も「菊池」じゃなくて「菊地」なんですが……。(ごめんなさい!某編集長)
先月号の通信でお知らせして以後、通信費(1年2000円です)を払ってくださったのは、以下の方々です。中には数年分まとめて振り込んでくれた人もいます。万一、当方の手違いで記載漏れがありましたら、恐縮ですが、必ずお知らせください。
麻田豊(10000円「2013年3月までの5年分」)/長瀬まさえ/藤本慶光/浅井信雄/川井良子(10000円「通信費+寄付」)/原典子/山川陽一(10000円「当分これで」)/渡辺悌二(4000円/ 高橋千鶴子/林与志弘
■7月8日日曜日、今年も海人の祭典、比嘉ハーリー大会が開催されました。昨年は不参加でしたが、今年はまたダチョウ隊長こと長野亮之介さんが音頭をとってくれて、東京から七人が比嘉に集結。地元から三人が加わりました。結果は34チーム中11位でまたまた惜しくも上位8位には入れず予選落ちしましたが、なかなかの健闘でした。
◆地平線ダチョウスターズが比嘉ハーリーに参戦するようになり四回目。もうすっかり地元では知られるようになりました。わざわざ本土から来て外間家で合宿し、昼間は観光もせず牧場の手伝い、夕方からはみっちりハーリー練習。さらに前々日と前日は地元の人に混じり会場設営の手伝い。暑い中献身的に動く姿は比嘉の人々の間でかなり評判になっているようです。大会後の飲み会ではあっちこちから声がかかり大人気。地平線会議のモットー「継続は力なり」ですね。来年も当然来ると、比嘉の人々は思っています。もちろん私たちも待っています。来年も強者よ来たれ!(外間晴美)
■ガン治療の新たな可能性を求めてオーストラリアに旅立ったシール・エミコさん、7月9日、シドニーの病院で重大な手術をしました。多くの地平線仲間が心配し、声援を送ってきたエミコさん。彼女自身がフェイスブックに書いた近況の一部をこの通信に記録させてもらいます。(E)
■ガン治療の新たな可能性を求めてオーストラリアに旅立ったシール・エミコさん、7月9日、シドニーの病院で重大な手術をしました。多くの地平線仲間が心配し、声援を送ってきたエミコさん。彼女自身がフェイスブックに書いた近況の一部をこの通信に記録させてもらいます。(E)
■6月19日「手術が決まりました。最大12時間におよぶ大手術になるそうです。運が良いことに、経験豊かな執刀医とめぐりあえ、悪化が進んでるので、最優先で7月9に決定しました。入院期間は1カ月。すでに大腸、膀胱、神経が進行癌に圧迫され、消化機能がかなり低下。痛みもますます激しくなっており、緩和ケアだけを選んでいたら余命数カ月と深刻な状態でした。ほんとギリギリ! あと少しのふんばりです!! たくさんの方からの応援・支援金に、心からあらためて感謝いたします。最後のチャンスをいただけたことに命を救わました。本当の闘い(戦い)は、術後から半年だそうです。感染症、再発転移がなければさらに長生きできる可能性も高まります。身体障害(人工膀胱、人工肛門)、後遺症、副作用は1〜2年もしたら慣れてくるそうです。スティーブが一緒なので大丈夫です。根性で頑張ります。(笑)
■7月2日「来週の今ごろは手術中だ〜毎日多くの出血と激しい痛みで手術の日まで体力もつかなぁ〜 あと、もう少しなんだけど、毎日、本当に苦しい。
■7月8日「明日は、6:30am(日本5:30)からオペ開始。12時間ほどかかる大きな手術。意識が戻るまで1週間、ICUです。医療チームの皆さん、よろしくお願いします。スティーブつらいだろうけど、ちゃんと写真撮っといてね♪ 今は歩くのもキツいけど、もう一度、自転車乗れる夢描いてます。生きて戻ってこれるよう、皆さん祈っていてくださいませ。m(_ _)m
■素晴らしい医師に出会えたようですが、簡単な状況ではありません。それとかなりお金がかかるらしい。モンベルのシール・エミコ支援基金に今回の治療に向けて基金が寄せられているようです。支援の心がある方は、下記によろしく。これまでも実現させてきたエミコの生きる奇跡が長く長く続くことを祈ります。以下、モンベルウェブサイトの「エミコ支援基金」から。
★ ★ ★
下記の方法で、支援金と応援メッセージを受け付けています。
皆さまからの支援金はすべて「お見舞い」としてシール・エミコさんにお届けし、治療費などに活用いただきます。
支援金
振込先:みずほ銀行 四ツ橋支店(店番号563)
口座番号:普通預金 1070975
■いま僕は広島にいます。梅雨に入り毎日雨が降って最悪な日々です。グランドや芝生はいつも濡れて湿っているし、テントもマットも寝袋も、全てが濡れるか湿るかしています。風呂も週に1回入ればいい方だから、毎日テントで気持ち悪い眠りについています。さらに、広島は通報慣れしているのか、公園にテントを張ると通報され、夜中に警察が来て起こされることもしばしば。昔の国の違いか、広島県でも三原まで通報ではなく挨拶されてたのに。
◆雨が降ると「蚊」も大量発生し狂喜乱舞で僕に集まります。蚊だけならまだしも、2ミリぐらいのダニなのか何なのか、丸くて固いムシに刺されました。普段痛くはないけど、かくと痛い。なんだか気持ち悪くてなりません。昨夜は豪雨があり、グランドに水がどんどん溜まり始めました。テントが水没しそうで、甲冑だけ持って逃げようかと考えるほど降りました。
◆しかし、丘の上に張ったおかげで、ある程度溜まると流れ落ち一安心。近頃は城ではなく、雨とムシと警察相手に戦っているので、ホント疲れます。しかし戦国時代は、ビニールやナイロン、テントやコンビニ、薬や街灯も無く戦っていたことを考えれば、まだまだへこたれてはいられません。今日は1日中雨が降るので、通報覚悟でテントで休んでいます。2か月間休みなく歩いたから1日ぐらいいいかな。
◆というわけではなく、デジカメが壊れました。アマゾンで注文すると全国のローソンで受け取れるので、広島のローソンに届くのを待っているのです。着払いOK。なんと便利な時代に生きてるんでしょう! 雨に悩まされてはいますが、着々と進軍は続いています。
◆6月17日、放浪大名、水野勝成が守る福山城(広島県福山市丸之内)。20日は個人が勝手に作り放置、市民も困り果てる尾道城(広島県尾道市)。22日は五大老、小早川隆景率いる水軍の城、三原城(広島県三原市)を攻略。そして28日、毛利120万石の居城、広島城(広島県広島市中区)を攻め、7月2日。毛利元就が生涯をすごした吉田郡山城(広島県安芸高田市吉田町)を落とし広島城に凱旋した次第です。城に行った日以外はほとんど雨ですが、いつも気にしていると傾向がわかるものです。曇りの次に雨が降り小雨だと翌日も雨。大雨だと次の日は晴れて次の日曇るようです。
◆天気を読み、晴れる前日、雨音に紛れて城下に潜入。貴重な晴れの1日に城を攻める。なんだか戦略家っぽくなってきました。悪いことばかりでなく、応援してくれたり、ごちそうしてくれたり、お土産をいただいたりと、嬉しいこともあるので、へこたれず歩いて行きます。江本さん、もし僕が討ち死にしたら、甲冑を着せて生駒山に大阪城の方向へ向けて埋めて下さい(笑)。(全国城攻め行脚人 山辺剣)
■こんにちは。宮城から埼玉に帰ってきて、10日が経ちました。その間に中学校での勤務が始まり、もうすっかりこちらの生活ペースです。宮城を出る直前まで全く実感がわかなかったのですが、仙台までのバスの中で、ふーっと力が抜けました。やっぱりそれまでは緊急的なボランティアで、よくも悪くも現場第一。このときを境に、「私の人生の中でどう関わっていくのか」に形を変えていくんだと思いました。必要な切り替えのタイミングだったのかな。
◆本当はずっと関わっていた仮設住宅の方々の集団高台移転場所が決まるまで、まあ秋くらいまでは東北にいたいと思っていたので、相当後ろ髪を引かれました。そんな中、埼玉に帰る直前に、江本さんと宮本千晴さんが2人そろって宮城に来てくださったのです。一緒に南三陸町と気仙沼市をまわり、地元の方々と話しました。千晴さんの視点は船や家屋、自然など、人の暮らしを読み取るヒントをいっぱいくれました。楽しくて、発見の多い2泊3日のフィールドワークでした。
◆あとは、地元の方が開いてくださった送別会。個人のお宅でやっていただいたとき、お赤飯を炊いてくれたのが本当に嬉しかったです。東北を離れることで、地元の方から見たらきっとちょっと見捨てられるような感覚ももたれるだろうと、何となく後ろめたさを感じていたのですが、まさか「お祝い」してくださるなんて。そして、四方八方から乾燥のりを10年分くらいいただきました(笑)。お土産といったらのりなのでしょうか。
◆宮城県での最終日は、南三陸町ボランティアセンターに登録し、片付け作業をしてきました。最後に土に触りたかったのと、具体的に何か役に立ちたかったからです。家の土台に積もった海の砂、少し掘ると出てくる洋服、ポットのふた、マット、お茶碗、車の部品、屋根瓦……。改めてこういうことだったんだ、と記憶に刻んできました。
◆高台移転については私が聞いたところ、住人からは「みんなと一緒ならどこでもいい」という声が多く、理由を尋ねると「年取ったあとに面倒みてもらえるからね」とのこと。都会で育った私たちくらいの年代とは、地域との関係が全然違うんだなあと思いました。様々な事情で他県に引っ越しを考えている方もいて、愛着のある地と長年の付き合いのある知人たちから離れるのはさぞ心細いだろうと胸が痛みます。そういった方を受け入れる市町村等によるケア、始まっているところは始まっていますが、「被災地にいなくてもできること」として私も関わっていきたいと思っています。仕事も忙しいけれど、外から色々吸収して話ができるようになりたいなあ。(新垣亜美)
■韓国ツーリングから戻ってきました。福島を出発し、西日本経由で下関まで移動して釜山までフェリーに乗り込んで一晩。ようやく韓国へ到着です。長い道のりです。飛行機でソウルまでだとすぐなのに、わざわざ国内を長い距離(あちこち寄りながらなので、1500km走りました)を移動して下関まで行き、格安航空券の倍以上のの料金を払ってまで(バイク+人間で往復48000円、通関手数料6000円、保険代などで16000円程度、計7万円)韓国へ行くのは、ひとえに自分のバイクで行けるからですが、人間だけなら片道9000円と安いです。どちらからも夜出航して翌朝到着という便利な運航スケジュールなので、下関周辺の人なら飛行機より気軽に利用できるんですね。
◆フェリーは韓国の人たちでいっぱいでした。大半は団体ツアー客で2等船室はワイワイガヤガヤと賑やかでした。一方、今回の旅では新潟→敦賀、新門司→東京と2度、国内フェリーを利用しましたが、どちらもガラガラ。2等船室を私たちだけで独占しているような状況でした。どんどん路線が減少する一方の国内フェリー、なんとか盛り上げていきたいものです。
◆私たちの韓国ツーリングは12泊13日、バイクで気ままに移動しながらキャンプをメインに地方の町ばかりを巡っていました。天気もよく日没が遅いので3500kmも走ってしまいましたが、そのわりにはソウルにも行っていないし、フェリーが帰着する釜山も素通り。田舎ばかり行っていたので、日本語はおろか英語も通じる店はまったくなく、ハングルの世界にどっぷり浸ってきました。アルファベットやキリル文字ならなんとか判読できるけれど、ハングルはまったく読めないので言葉には苦労しました。顔つきも町並みも日本と似ているのに言葉が通じないもどかしさ。不便だけれど、その分、旅を始めたころのワクワク、ドキドキ感を久しぶりに味わえました。やっぱり、外国はおもしろい!
◆また、日本同様にセブンイレブンやファミマなどのコンビニもたくさんありますが、韓国のコンビニでは店員さんが店の中の客用テーブルで自分の子供と一緒に食事していたり、レジを空けて店外で友達とずっとだべっていたり。ある銀行では、客から丸見えの応接テーブルで行員たちが堂々とお弁当タイムにしていたり。マニュアル一辺倒の日本ではありえませんが、このくらい適当に緩い感じでいいんじゃなかと思いました。(滝野沢優子)
PS.韓国ではWTN−J(ワールドツーリングネットワーク・ジャパン)と交流のあるBMW650に乗る韓国人ライダー夫婦とも一緒に走り、彼らのセカンドハウスにも泊めてもらいました。韓国でも近年、ライダー人口が増えていて、日本へもツーリングにやってきています。今年はロシア経由で旅立つライダーも何名かいるそうで、これからバイクブームが始まりそうです。
いまや大昔の話です。ある本の編集現場に呼ばれました。山と溪谷社の阿部正恒さんという編集者、上智大学探検部系の「ぐるーぷぱあめ」で編集を担当していた野地耕治さん、そこに所属していた新進デザイナーの三村淳さん、そして2度目のアマゾンから帰った関野吉晴さん。
その2度目の旅のために阿部さんが尽力したのは単行本の『ぐうたら原始行』でしたが、3度目の旅のために、もっと大きな金額を用意したいと「山と溪谷」別冊のビジュアル版『ロビンソンクルーソーの生活技術』を考えたのでした。
さてそこに関野さんの写真が出てきました。驚きの瞬間でした。ヤシカエレクトロ35という名前だったと思いますが当時最善のバカチョンカメラで撮った写真が圧巻でした。
たぶんそのカメラが負い目だったかのかもしれませんが、関野さんが自薦する写真は全員「フン!」。首を傾げる関野さんの目の前で傑作写真は勝手に並べられていったのです。関野さんにとって、三村淳というデザイナーとの出会いは重要でした。
別の話ですが、フォトエージェントという業界に新風を吹き込んでいた安村浩さん(故人)という人から直接聞きました。富士山の写真展を見ていたら、場違いなアンチャンが近づいていて、俺も富士山を撮っているとつぶやいたのだそうです。職業柄「どんな写真?」と聞いてみると「表の車に置いてある」とのこと。
「驚きましたね、これまでにない富士山の写真がいくらでも出てくるんだから」
そのアンチャンは横浜方面の土建屋の息子で大山行男。6×6判の正方形の画面に富士山をドンと置いただけの写真を周囲の富士山写真家たちから馬鹿にされて「だれも認めてくれない」ともだえていたのです。彼が出現するまでは、富士山は快晴の空の下になければならず、手前に魅力的な前景がなければなりませんでした。
デビュー作戦を進めていると聞いたので、私の方の、富士山麓に本社を移したロボット工作機メーカーの来賓向けオリジナル写真集を先に作らせてもらい、デビュー作には三村淳さんを紹介しました。大山さんと三村さんもその後絶妙のコンビネーションを見せることになります。
同じ頃、みなさんご存知の「あむかす」が宮本千晴さんの影響で時間制限なしのバトルをいろいろ展開していましたが「スライド会」というのがありました。海外の長い旅から帰った仲間のスライドをあるだけ全部、エンドレスで見ようという会です。傑作も駄作も区別せずに見続けていると、けっきょく写した本人の姿が浮かび上がってくるのです。良くも悪くも写真は冷徹で、写真が人(撮影者)を選んでしまったりします。
そういう古い出来事を思い出したのは最近のことです。私はこの15年ほどで1,200回以上の登山講座を実施してきましたが、古希前後になった生徒さんたちのなかに山でしごかれるのはもうごめん、平たいところを歩きたいと言う人が出てきました。
平たくて歩く価値のあるルートはどこだ? と考えるうち「水辺」というキーワードに気づいたのです。「歩くより見る」ことに比重を置いて「発見写真旅」というテーマを掲げることになりました。
必ずしも上手な写真を撮るための旅ではありません。自分の写真を自分で評価し、写真から自分を発見する可能性を秘めた写真とのバトルです。カメラはなんでもいいのです。量販店で10,000円前後のデジタルカメラならまったく問題のない写真が撮れます。
歩きながら、見たもの(意識をもって視線を向けたもの)にカメラを向けてシャッターを押します。バシバシ撮っていくと、1日で100枚は超えるでしょう。そこまでは簡単です。撮った写真はできればパソコンに入れて、撮影順に「10秒ずつ」見ていきます。100枚だと1,000秒すなわち17分かかります。感覚的には1時間以上だと思います。
一番わかりやすいのは「飽きる写真」です。普段多くの人が「いい写真」としてパッ、パッ、と選んでいる写真の中に、この「飽きる写真」があるはずです。つぎに「動き出す写真」と出会うことです。見ているうちに「動き出す」「語り始める」写真です。直感的に撮った写真が多いのではないかと思います。すなわち自分自身の気づかなかった関心がそこに見えてくる可能性があります。
そして一番大事なのが「失敗写真」。失敗にはいろいろな原因がありますが、とくに重要なのは「くやしい失敗」です。「撮れなかった悔しさ」はすなわち「撮りたかった悔しさ」です。自分の進むべき道がそこに示されているかもしれません。
昔「あむかす」でやっていたような写真とのバトル(岡村隆さんの企画で『旅の目カメラの眼』を書きました)ですが、それを私の山の生徒さんとの間でささやかに始めました。私のホームページ(「糸の会」で検索)で順次公開していますから、ご覧いただければさいわいです。江本さんや三輪さんから紹介してもらえば冷やかし参加可能です(参加費不要ですが、交通費などの現地費用はもちろん各自必要です)。ネット上での参加はどうぞご自由に。歓迎です。
■最終ページでお知らせしているように、7月の地平線報告会は、3.11の被災地、福島県南相馬市で行います。先月の通信でお伝えした予定とはかなり違っています。たとえば「郡山駅集合」は「福島駅集合」に訂正します。くれぐれもお気をつけ下さい。
★日時 2012年7月28日(土)29日(日)
★場所 福島県南相馬市
★集合日時・場所 7月28日午前10時 福島駅集合
★行動 マイクロバスで移動しながら、飯館村、南相馬市の被災地を見る。
遅れている除染の状況など、現在進行している問題を学ぶ。
★夜、宿舎で福島県在住者、“東北のカソリ”を囲んでフリートーク。
★宿舎 鹿島区上栃窪字瀬の沢20-1
自然環境応援団
★参加申し込み
先月の地平線通信で告知して以来、すでにかなり申し込みがある上、バスの座席、宿舎のスペースに限りがあるため、今回は、原則として地平線通信の読者、あるいは地平線報告会によく参加される方に限らせていただきます。申し訳ないですが、予告したウェブサイトからの申し込み受付はいたしません。メールかファクスで江本宛に。アドレスは最終ページの「地平線ポスト宛先」を参照ください。
★参加費 1万円(バス代、宿泊代、食事代など。少しでも余れば被災地へのカンパとします)
■地平線通信6月号、通算396号、水増し号通算397号、13日印刷、封入作業を終え、翌14日、メール便として発送しました。いつもの通信が14ページ。水増しが6ページ、と少なくない内容なのに、作業はスムーズに。発送に汗かいてくれたのは、以下の方々です。
加藤千晶(水増し号印刷まで。毎週水曜は徹夜の介護の仕事があって、発送に頑張れるのは、早い午後まで) 車谷建太(今回も早めに印刷にあたってくれた強力な森井さん助っ人) 森井祐介(先月の水増し号で画伯のイラストでデビュー。地平線通信の制作で要の仕事をしている)三五千恵子(療養中の夫、三五康司の介助をしつつ、自身も体調不調ながらこの地道な作業を楽しみに来てくれる) 岡朝子(最近発送の常連になってくれました。地平線にはかなり以前から) 杉山貴章(発送リストの管理、メール便の手配などこの人がいなければ成り立たない重要人物) 江本嘉伸(発送にはあまり役立たず、二次会の「北京」の予約、料理の注文を専門とする) 久島弘(ふらり現れ、味のある感想を残して消える) 中山郁子(長く地平線から離れていたが、3か月続けて参じてくれた)
■本多有香さんを支援する地平線会議手作りの本、ほぼ品切れとなり、増刷に踏み切りました。まだの方は、是非この機会にお求めください。
内容は次の通り。
第1部 ホワイトホースへの道 カラー
本多有香のこと
本多有香の軌跡
第2部 地平線通信から モノクロ
B5版108ページ
編集・構成 丸山純 イラスト 長野亮之介 文 江本嘉伸
写真 佐藤日出夫
協力 中島菊代 大西夏奈子 武田力
★頒布価格は1部あたり2500円。送料は2部まで80円、4部まで160円。地平線のウェブサイト(http://www.chiheisen.net/)と、郵便葉書で申し込みを受け付けます(〒167-0021 東京都杉並区井草3-14-14-505 武田方「地平線会議・プロダクトハウス」宛)
★お支払いは郵便振替で、本の到着後にお願いします。「郵便振替:00120-1-730508」「加入者名:地平線会議・プロダクトハウス」。通信欄に「『うちのわんこは世界一!』代金+送料」と記入してください。いきなりご送金いただくのではなく、かならず先にメールや葉書でお申し込みを。次回の地平線報告会の受付でもお支払いいただけます。
■福島原発の事故を「東電・国による人災」と決めつけた国会事故調査委員会の最終報告(7月5日)は、重大な問題提起だ。当然の結論と思うが、さてこの報告を現実にどう活かすのか、現今の政治状況からは思い切った転換ができないままぐずぐずし続けるのではないか、とただただ心配だ。
◆ほかの会合でも口にしたことがあるが、私は小出裕章さんのような終始「反原発」であり続けた学者たちを国家の原子力政策の中枢に置いて「原発をどうしたら安全に収束させられるか」一刻も早く本気で取り組んでもらってほしい、と提案したい。いくら原発反対と叫んでも、安全にやめるには高度の科学力がなければできるわけがない。
◆福島の4基を廃炉にした、といっても今後どれほど長く、人と金をかけてその4基とつきあわなければならないか、はチェルノブィリの、事故から26年も経った原発にいまだ3000名が従事している事実からも容易に伺えることだ。
◆「人災」の責任の一端は私自身にもある、と思うから「原発の安全収束のための反原発学者の起用」を本気で考える日々である。(江本嘉伸)
無窮の大地に無常の風が吹く
福島県浜通り北部で太平洋に面している南相馬市は、東日本大震災で津波と原発事故被害を受けました。市内小高区は今年4月まで警戒区域だったため、ほぼ震災当時の状況がそのまま残っています。一方、国指定需要無形民俗文化財「相馬野馬追」が今年から通常開催され、多数の観光客が見込まれているなど、被災地の立ち上がる速度も一様ではありません。 今月の地平線報告会はいつもの東京を離れ、南相馬市内各地をマイクロバスで移動する実踏型とします。宿泊・移動の都合で人数制限があります。内容、参加条件、申し込み方法など詳細は本誌中ページの〈福島南相馬地平線報告会のご案内〉を参照して下さい。 |
地平線通信 398号
制作:地平線通信制作室/編集長:江本嘉伸/レイアウト:森井祐介/イラスト:長野亮之介/編集制作スタッフ:丸山純 武田力 中島菊代 大西夏奈子 落合大祐 加藤千晶
印刷:地平線印刷局榎町分室
地平線Webサイト:http://www.chiheisen.net/
発行:2012年7月11日 地平線会議
〒160-0007 東京都新宿区荒木町3-23-201 江本嘉伸方
地平線ポスト宛先
pea03131@nifty.ne.jp
Fax 03-3359-7907 (江本)
◆通信費(2000円)払い込みは郵便振替(料金が120円かかります)、または報告会の受付でどうぞ。
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議
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