6月13日。梅雨入りして4日。朝9時を過ぎて、この通信最後の原稿が届いた。登米にいる新垣亜美からだ。気仙沼で復興住宅についてのミーティングに参加してきたい。なので原稿夜になります、とのメールはきのう午後のうちに受けていた。しかし、もう今日これからだよ、この通信を出すのは。
◆それでも、この原稿は待つ意味があった。新垣さんがRQのメンバーとしての仕事をいったん休止、7月からは郷里の埼玉県で中学の理科教師になることが決まったからだ。先生になっても東北とのつながりを断つわけではなく、繰り返し通う決意と聞いているので驚きはない。
◆それでも3.11以後、彼女が登米、そして南三陸町を中心に活動した1年3か月はどんなに尊い時間だったか、と思う。新垣さんがいてくれたおかげで私も仲間たちも被災地に通うのに壁はなかった。いや、過去形で言うのはおかしい。壁はない、と言っておく。ただ、彼女があの地にいないことは、地域の人にとってだけではなく、私たちにとっても少しさびしいのは確かだ。
◆新垣さんは、マッシャー、本多有香の行動に多くの刺戟を受けた、と何度か書いている。5月、本多有香がカナダから帰って来た時にも飛んで来て報告会に参加し、ビールは飲めないのに朝までつきあっていた。そういう新垣亜美という若者が、少年少女たちと共に教師としての道を歩みはじめることは素晴らしい。彼女の3.11体験は教育の現場でさぞや深い意味を持つことだろう。間もなくいったん東北から離れるその率直な思いは、7ページの本人の文章から読み取ってほしい。
◆昨夜は、私には珍しく雨の銀座での会食だった。かっては勤務先の新聞社があった場所で歩いても行ける距離だが、銀座にはなぜか滅多に行かない。折からのサッカー対オーストラリア戦が気になったが、会が始まってしまえば、出される食事もどこへやら終始しゃべりまくっている自分がいて、やれやれ、といつもの自己嫌悪に陥るのだった。
◆モンゴルをテーマに、法律、医療、環境調査などの専門家が集まった夕食会。いずれも数年ウランバートルで暮らしたり、最近通い続けたりしている人たちなので、新しいモンゴルについて知りたいこちらはついつい力が入って質問を連発し、自分からも民主化以前のモンゴル事情について言いたくてつい声を張り上げている。元判事、弁護士、医師、大学教授といったベテランたちを前に地平線会議をやることもないのに。
◆6月の最初の日はヘンティー県ビンデルというソム(郡)の草原にいた。ほぼ毎年通っているモンゴルへは2年ぶりだった。昨年は3.11の支援活動の行方が気になり、秋のウランバートル行きチケットを直前キャンセルしたが、ことしは、私がモンゴルに通いはじめて25年になる。当時、社会主義時代の草原で出会った遊牧民に会いたい、そして25年を経て遊牧の暮らしがどんなふうに変わったかもう一度聞いてみたい。そういう思いを胸に30何回目かになるモンゴルの旅を敢行した。
◆ゲル地域の暖を支える石炭燃料のばい煙や溢れるばかりの車の排ガスで大気汚染度いまや「世界ワースト1」といわれるウランバートルから東へ400キロ。草の匂いに溢れたビンデルの草原はさすがに清々しく、ほんものの、あのモンゴルが残っていた。そこで再会した懐かしい顔、顔。文明のツールのおかげとはいえ、どこにいるかわからない草原の遊牧民たちとこんなにあっさり会えたことがほんとうに不思議だった。
◆モンゴルではこの4月、エンフバヤル前大統領が汚職で逮捕され、その裁判が再三延期される中、6月28日のイフ・ホラル(国家大会議)総選挙に向けて各党入り乱れて「選挙の季節」に突入している。ビンデルでも私が滞在している間、ちょうど人民党(旧人民革命党)の集まりがもたれていた。夏のオトル(羊を太らせるために1週間ほどの間隔でいい草場を求めて移動すること)、冬の子羊の出産時の24時間の不眠不休の仕事ぶりなど社会主義時代の「草原の勇者」たちの暮らしは明らかに変貌しつつある。
◆冬のオオカミ狩りに連れて行ってくれた猟師とは彼がガイドをつとめるツーリスト・キャンプで再会できた。雪の森から追い出した2頭の見事なオオカミをしとめた時の彼の腕前、きびきびした所作のすべてが昨日のことのように思い出された。嬉しかったのは、皆私のことをよく覚えていて、老境に入りつつある同士が互いに抱き合って喜び合ったことだ。
◆3.11についてもいろいろ語り合った。25年ぶりの再会を地平線会議で報告しようと、こうして思った。(江本嘉伸)
■大好きな犬たちと、大自然の中を一緒に冒険できたら、どんなに楽しいだろう。生活のすべてを夢に賭け、笑いながら泣きながら、前へ突進してきた犬ぞり一色の14年間。念願だった永住権を取得し、カナダに本拠地を移したマッシャー(犬ぞり使い)の本多有香さんが、報告会のために凱旋帰国した。
◆なぜ犬ぞりをやろうと思ったのか? 犬との出会いは、幼少時代にさかのぼる。1枚目は、新潟の実家で飼っていた紀州犬の健太郎と、4歳の小さな本多さんがよりそって立つ写真。「甘えない性格がたまらなかった」というケンチャビとの暮らしで、犬は恐くないと知った。
◆「真っすぐで熱い人」と憧れる宮沢賢治と同じ、岩手大学農学部に入学。在学中に旅したカナダで、喜んで走っている犬たちを見て、犬ぞりレースに心奪われた。卒業後2年半、就職して資金をつくり、手がかりを求めてカナダ大使館へ。ある有名マッシャーの連絡先を聞き、「なんでもするので雇ってください」と熱烈な手紙を送ると、「OK」の返事が届いた。周囲の猛反対をふりきって会社を辞め、カナダで住みこみハンドラー修行(マッシャーの見習いとして、犬の世話全般を行う)が始まった。
◆犬200匹の世話を1人でこなすのは大変だったが、充実した日々。しかし、テレビで長距離レースを目にしてはっ、とする。やりたかったのは中距離ではなく、長距離じゃないか。なんのためにここまで来たの? 自問自答し、環境を変えることを決断。無謀にも軽装で自転車をこぎ、アラスカを目指した。寒空のもと、風邪と疲労で倒れこんでいたところを、通りがかりのトラックに拾われた。偶然出会ったその人の縁で、長距離レースのマッシャーと知り合い、ハンドラーとして再スタートをきることに。
◆ここで、何かを察した江本さんが、「ヤクが切れたんで……」と助け船。本多さんはすかさず隠れて缶ビールを飲み(隠しきれなかったけど)、投入量に比例して、口がなめらかになっていった(直前に空けた缶ビール4本では全然足りず……)。
◆壮大なスケールの素晴らしい写真とともに、過去のユーコンクエストを振り返る。初参戦が叶った2006年、険しいイーグルサミットで、記録的な嵐に遭遇。レース続行を強く希望したが、主催者側の判断で強制リタイアへ。2007年は、コースの中間地点で棄権。人から借りた犬が亡くなってしまう辛いアクシデントがあり、犬ぞりを辞めようと本気で考えたこともあった。2009年は、リーダー犬の不足で苦戦。本多さんがリーダーになり、犬たちを導いて山越えするという前代未聞のこともやってのけたが、ゴールを目前にしてリタイアした。
◆コース途中にはチェックポイントがある。到着すると、休む間もなく雪からお湯をつくり、事前に凍らせておいた細切り肉を溶かす。それを犬たちに食べさせてから、自分も仮眠をとる。手際の良さが、その後のレース展開に影響するため、雪を溶かすクッカーという装置(ドラム缶の側面に複数の穴をあけたようなもの)には、改良を加え続けている。
◆今回、新潟の職人に修理を頼むため、その小型ドラム缶状のクッカーをはるばるカナダから手で抱えて来た。空港では、当然不審者扱い(検査犬に調べられたり)。日本に来てもこの異様な容器を必ず片手にぶらさげながら、高円寺から四谷へも歩いて移動し、交通費を浮かす。
◆2012年のクエストの話に。4回目の挑戦で、ついに初完走したことは記憶に新しい。スタートの朝は快晴。休憩中にそりを手入れする本多さんの顔は、心底嬉しそうで幸せそう。それから数枚の写真を経て、あっという間にゴール場面に。最新レースの報告はあっさり終わってしまい、「あれ。もっと苦労してもらいたいねえ」と、江本さんも拍子抜け。
◆白い景色が一転し、写真は鮮やかな緑に変わった。2011年夏のホワイトホース。1か月110ドルで場所を借り、木を切り土地をひらいて、市販の丸太小屋キット(約90万円)を、大工仕事の得意な友人と組み立てた。夢だった自前のキャビン。そばにずらりと並ぶ犬小屋の入口は、お互いの顔がすぐ見えるよう、すべてキャビンと向かいあっている。
◆レース必需品のトレーラーは、中古のものを借金して約100万円で購入した。青い車体に白い線で、長野亮之介画伯の通信予告用イラストを模写し、トレードマークに。トレーラー内のドッグボックスも、もちろんお手製。四輪バギーは、雪がなくなる8月以降、犬たちがそり代わりにひいて訓練する。
◆大好きな犬たちの写真が続くと、本多さんは前のめりで釘づけに。「本当に申し訳ないんですけど、うちの犬が1番かわいいんです!」。野心が光る子、甘えたがりの子、キャラクターが面白いくらい顔によく出ていて見飽きない。和風顔の「茶豆」、美犬の「ヤッコ」ちゃん、「梅Q」、あわせて“ツマミ三兄弟”。
◆クエストは、スタート時に8〜14匹、ゴール時に6匹以上の犬がいることが参加条件(調子を崩した犬は途中でリタイアさせるので、だんだん数が減る)。4つの山越えを含む総距離1600キロを、2週間前後で走る過酷なレース。勝負の鍵を握るのは、先頭を走るリーダー犬の存在だ。優秀なリーダーを多く育てることが、マッシャーにとって重要課題。14匹のうちリーダー犬が5〜6匹いると、疲れても交代できるので理想的だという。
◆リーダーはどうやって生まれるのか? 向き不向きがあり、リーダーになれなくても、別のポジションで得意分野がある。個々の才能を早く見極め、適切に育てていくのも、マッシャーの仕事。リーダーに求められるのは、レース中のどんな困難にもひるまない、メンタル面の強さ。遺伝的な影響も大きく、だからこそ交配の仕方にとても気を使う。
◆午後8時の休憩に入る前に、前日納品したばかりの本、『うちのわんこは世界一!』がお披露目された。編集制作にあたった丸山純さんが、熱をこめて内容を解説し、次々と来場者の手にとられた。続いて、地平線会議を代表して、長野さんが花束を贈呈。本多さんが驚いて受けとると、会場からの大きな拍手が快挙を祝福した。
◆自分のことを話すのが苦手な本多さん。なんとかお話していただくため、後半はQ&A方式に。まずは江本さんから、「なんで、あたまが丸坊主なの?」。「朝日新聞報道局スポーツ部の近藤幸夫記者が今日は来てくださっているので、夏の甲子園に向けて……」、はぐらかされてしまった。本人は言いたがらないが、がん治療中の友人へエールを送るため、カナダの仲間たちとバリカンで刈ったというのが真相だ。「大きな湯船につかりたいというリクエストで四谷の銭湯に出かけたけど、腕はすごい筋肉だし、間違えて女湯から追い出されないか心配だった」と江本さん。
◆「右目下の傷跡は?」。「交配させたい犬たちをくっつけたら、メスのほうが7歳の処女で、痛がってものすごく暴れて……」。派手にひっかかれ、鼻の高さまで頬が腫れた。しかし、その翌日は予定通り200マイルのレースに参加。抽選で1番滑走を引きあて、伝統で市長と握手して撮影する役に。顔の左側を向けて、なんとか乗りきった。そんな経緯で生まれた、天使のような5つ子たちは、ぐんぐん成長中。
◆「鼻の上の茶色いあざは?」。薪割り中に角材が飛んできて、鼻血が止まらなくなった時のこと。その晩、中国人の友人にディナーに招かれていたので、応急処置して無理やり出かけた。仰天した友人が、「こういう場合はゆで卵が効く」と助言。熱くてもガマンと励まされ、患部にあてていたら、卵が熱すぎてやけどの跡に。そこまでしても、ディナーの機会を失いたくなかった。
◆あらゆるアルバイトで稼いだ資金は、わが子のために使うのが第一優先。21匹の元気な犬たちの食事は、アスリート用の良質なドッグフード。トン単位で購入し、年間約100万円がそのために消える。では人間の本多さんはといえば、「ごはんは人にたかったり……(笑)。教会やフードバンク制度でいただくこともあります」。犬ぞりはとにかくお金がかかる。愛するビールも、カナダでは極力飲まず倹約。今年のクエストでは15位で入賞し、賞金総額のうち2.16%にあたる15万円弱を得たが(優勝者は18.93%)、参加費にも届かない。
◆「完走したし、もう充分って、ハワイに移住なんて考えないの?」と江本さんが尋ねると、「わたしの目標はクエスト優勝なので、まだ1歩目です」ときっぱり。クエストとともに、世界で最もハードな犬ぞりレースであるアイディダロッドへの参戦も視野にある。思いは強くなるばかりだ。
◆「野生動物を狩り、犬のえさにしないのですか?」。会場からの質問には、「栄養バランスが計算されたドッグフードに頼るのが、結局は良策です」。補助的には与えるが、野生動物には寄生虫がいて、煮るなどの処理が必要。ちなみに本多さんは、野ウサギが大好物。「ポキポキって折って。とくにモモが最高です」。罠にかかった野ウサギをかついで歩くと、慌てた寄生虫がわっと出てきて、背中が大変なことになるらしい。
◆「オオカミと交配させないのですか?」。オオカミはまったく別の動物で、群れで走る性質。そりをひきたがらないので適さない。先人が工夫を重ねてつくりあげてきた、そりをひくのが大好きな“そり犬”の血を、後退させることになってしまう。
◆1990年に犬ぞりによる世界初の南極横断を達成した舟津圭三さんは、本多さんの奮闘を、現地で見守ってきた大先輩。舟津さんから本多さんを紹介された近藤記者を通じ、九里泰徳さんや江本さんも彼女と出会うことになった。この日富山から駆けつけた九里さんは、2006年のセーラムランに数日間帯同した。黙々とレースに取り組む姿を見て、「本物だ。すごいな」と印象づけられたという。「その後もトントン拍子に進むかと思いきや。人生はそううまくいかないのですね。かなり苦しいこともあったと思う」。ゼロの状態から挑んできて、ひとつの目標だった完走を果たしたことを、喜び称えた。
◆数々の冒険家やアスリートを取材してきた近藤さんは、ひとにぎりの人が持つに至る本物のプロの覚悟を、今の本多さんからも感じていると話した。「有名になりたい気持ちがまったくないので、そこがよけいに素晴らしいのかなという感じがします」と近藤さんがいうように、本多さんには、犬ぞり以外の欲がまったくない。犬が好き、犬ぞりを続けたい、その情熱だけなのだ。
◆レース最中の写真は、ライフワークとして長年犬ぞりを撮ってきた、フォトグラファーの佐藤日出夫さんによるもの。「彼女の苦労ははかりしれないものがある。今回のゴールは、本当に嬉しかったです」と力強く語った。佐藤さんが写真を無償で提供してくださったおかげで、本の制作も実現した。佐藤さんがマッシャーたちに「ユカはどう?」と尋ねると、口を揃えて「貧しすぎる」と答えが返ってくるそう。「これから上位を目指すなら、絶対にお金が必要」、現場を知る佐藤さんの言葉が重かった。レース経験のない若い犬のチームで、クエストを走破したこと自体、実際に驚くべきことだが、「技術だけを見れば、本多さんは一流のマッシャーにも劣らない」と佐藤さんはいう。
◆江本さんが本多さんに報告会の依頼をしたのが4月。「お金を使いきって航空券代が払えないので、日本に行くのは無理です」、何度も断られたが、「なんとかするから」と引かなかった。相談を受けた丸山さんが、本を作り、売上をカンパにすることを提案。航空券代と犬たちのえさ代になればと、200部限定で制作した。本多さんの突きぬけた生きかたが、この本につまっている。
◆むしょうに人を惹きつける、この不思議な魅力の正体はなんだろう? 喜怒哀楽あふれる犬たちの表情は、彼らが全力で愛され育てられ、幸せに生きていることを物語る。「世界一!」と誇る犬たちへの愛情こそ、ほかの誰もかなわない、本多さんの強さではないか、と江本さんは話す。
◆報告会翌日、新潟でクッカーを預けてから、本多さんはカナダに戻った。10日ぶりに再会した子犬たちは、ひとまわり大きくなっていたそうで、「親がなくとも子は育つというもんです。これから毎日一緒に散歩っすよ」。来冬に向けて、やるべき仕事は山ほどあるという。またしばらく、ビールはおあずけ。海の向こうの森の中の、電気も水道も通らないキャビンで、今日も犬たちと一緒に、トレーニングに励んでいることだろう。(大西夏奈子)
お元気ですか? 私は無事にホワイトホースに戻り、日照時間が長くて真夜中でも明るい為か、毎日浮かれています。
帰ってきたら、子犬たちは一回り大きくなっていました。うちの「世界一」たちは、暖かい太陽の下で幸せそうに、そして大量の蚊に血を吸われようともお構い無しに、ひたすらゴロゴロと寝ています。
お金や仕事のことを考えて本当は帰国しない予定だったのですが、押しに弱い私は江本さんからのパワー溢れるお誘いを断りきれず、一抹の不安を抱えての帰国でした。でも江本さんは正しかった……。行って本当によかったです。というわけで、東京では大変お世話になりました。いっぱい食べて飲んで笑わせていただきました。生まれて初めて三社祭を見に行くことも出来ました(いつもお世話になっているよしみさんと吐渓さんに連れられて)。空手の演武も見れました。湿気の多い懐かしい日本を味わえました。銭湯に(坊主頭で)入ることも出来ました。朝日新聞の近藤さんが設定してくださった飲み会で、久しぶりにアラスカでよく会っていた舟津圭三さんと柳木昭信さんと飲むことも出来ました。姉に会って甥っ子と遊ぶことも出来ました。えも煮しめを腹がはちきれるほど食べました。日本の流行り言葉「ぱねぇ」を知りました。毎晩のように江本さん宅に呼び出した「可愛い大西さん」を満喫することもできました。ちなみに、飲んだ勢いで嫁に来てください!と誘ってしまい、「実際OKだったらどうしよう? キャビンを改築か?」などと心配してさえいたのに、こちらは残念な結果に終わってしまいました(出直してきます)。
報告会では今回もまた、麦酒の力を借りてのお話になってしまい、大変失礼いたしました。私は、犬ぞりというマイナーな競技にしがみつき、いつまでたっても結果は出ないし、自分を売ることもなんだか違う気がして結局日陰に居続けて、魂は抜かれないと分かっちゃいるけどどうにもにカメラのレンズが苦手で、そして好機があればビールばかり飲んでいるものですから、自分の話をしろといわれても困ってしまうのです。いつものことですが時間を稼ぐことばかり考えていました。師匠(佐藤日出夫さん)のグレイトな写真のおかげでなんとかなりました(?)が、江本さんをはじめ、みなさん本当に内心ヒヤヒヤしていたのでは?と思います。もう、何を話したのかさえ覚えていませんが、みなさんの暖かい眼差しだけはしっかりと記憶しています。
それから、私の知らぬ間に話が進み、あっという間に出来上がっていたという伝説の作業が生み出した「ユカ本」。自分の為にこのようなものを作っていただいたこと、心から感激しました。本当にありがとうございました。改めて、地平線会議ってすごいと思いました。あの出来栄えですから、かなりの時間と労力と技がかかっていたのだと思います。坊主、号泣です。
わざわざ私の拙い話を聞きに来て下さった皆様、ユカ本を購入してくださった皆様、いつも応援してくださっている皆様、本当にありがとうございました。これからまた私の「世界一」たちと一緒に、世界一目指して頑張ります。
追伸:本当に、不思議なくらい、うちの犬は美犬ぞろいです。親ばかとかそんなものではなく真実です。機会がありましたら、うちの可愛すぎるワンコに会いにホワイトホースへ来てください。
それから、帰国したらまた一緒に飲んでください。よろしくお願いいたします。
■本多有香と出会ったのは2004年。舟津圭三さんと朝日新聞の近藤さんからの紹介である。ちょうど昼に東京駅の喫茶店で会ったのだが、昼からビールを飲むことになった。私は気がすすまなかったが、3杯目を飲む頃には有香と意気投合していた。今もそうだが、金ない、コネない、装備ない、のないない尽くしで、あるのは強力なビール飲酒力と犬橇への熱き思いであった。後日、江本さんやM社を紹介したりと、彼女が滞在中に私ができることをしたのである。
◆それからほどなくして、レースではないがアイディタロッドとほぼ同じコースと距離を走るセーラムランにエントリーし、私が同行取材することになった。薄着でマイナス20度のアラスカの小村・ウナナクリートに降り立ち、翌日からスノーモービルで有香と犬たちを追い続けた。まったくの静寂な雪原に犬のハーハーという息遣いと、スレッドのライナーの滑る音だけの世界。その世界は体験しないとわからない新しいゾーン体験だ。
◆この時は無事完走。次なるアイデタやユーコンクエストが目標となる。2006年に金や犬や装備の問題を乗り越えて、初めてクエストにチャレンジする。この時も同行取材をしようとWEBで結果を追いかけていた。残念ながらのリタイア。舟津さんからは「まあ完走はできないね」と聞いていたので、当然の結果だったのだろうが、クエストに出ただけでも実はすごいものだった。
◆それからというものたまにメールで短信が入る。「大先生(なぜか私の有香からだけのあだ名)!、やっと永住許可取れました!」といったもの。応援はし続けていたが、結局それ以降のクエストへの取材もかなわず、今回のゴール! WEBで見たゴールの写真は満面の笑顔とやはりのビール握り! 粘り勝ちかもしれないが、よかったよかった。出会ったときの32歳の有香ちゃんももう40歳となる。どんな40代を過ごすのだろうか。ビールはドラム缶何杯も飲むのだろうが、僕も頑張らねば。(九里徳泰)
先月号の通信でお知らせした以後、通信費(1年2000円です)を払ってくださった方は、以下の皆さんです。中には数年分まとめて支払ってくれた方もいます。先月のこの欄で4月の報告者の桃井和馬さんの名を記録し忘れていました。失礼しました。万一、ここに記載されなかった方、当方の手違いですのでどうかお知らせください。通信費の振込先はこの通信の最終ページにあります。
桃井和馬(10000円 4月の報告会で)/矢次智浩 (10000円 通信費5年分)/金子浩(5000円)/村田憲明「長野の鮭Tプロジェクトの者です。長野画伯には大変お世話になっております。おかげで3800枚ほど販売し、大槌の小学生が運動会で着用してくれることになりました。感謝」/滝村英之/小高みどり/奥田啓司 /天野賢一/中橋蓉子/川本正道(6000円)/石田昭子/秋元修一/池田祐司(4000円)/高田千里/網谷由美子/日野和子/小原直史/内藤智子/高世仁・泉/黒木道代/立石武志(和歌山県東牟婁郡串本町)「誠にお手数をおかけしますが、「地平線通信」を6月度からご送付下されば有難く存じます。同封金額が僅少ですので、数ヶ月で打ち切られましても一切不服は申しません。報告会にも参加致したく思いますが、何分にも住まいが地の果て、上京も簡単には参りません。さらに小生は72才の高齢で、足腰に老いの兆候が押し寄せて動き回るのも億劫になりがちです。よろしくお願い致します。」/水落公明/松原英俊「いつもお世話さまです。最近のことコピーで同封します」(松原さん、コピー届いてませんよ)/岩野祥子/吉岡嶺二(3000円)「大変ご無沙汰しています。6月末より3週間の予定で昨年夏自粛延期したライン川を漕いできます」
地平線通信394号、395号(水増し号)は16日印刷封入作業をし、17日発送しました。印刷、発送作業に汗をかいてくれたのは、以下の方々です。印刷をマスターしている車谷君、今月も助かりました。印刷は発送作業の前に16時頃から始めます。いつも森井、車谷、加藤千晶さんを頼りにしているのですが、もう数人、助っ人がほしいです。
加藤千晶(395号を編集、印刷もひとりで) 車谷建太 森井祐介 村田忠彦 岡朝子 杉山貴章 江本嘉伸 山本豊人 満州 中山郁子 米満玲 埜口保男(おしまいの2名は「北京」から)
皆さん、ありがとうございました。
■古来、人の暮らしは森の恵みに支えられてきました。この半世紀の間に忘れられてきた森の豊かさをもう一度見直すために、森をサカナに楽しもうという趣旨で昨年から始まったお祭りイベントです。今年のテーマは「森に感謝」。イベントのキャラは地平線イラストレーターの長野亮之介が担当し、会場では地平線カレンダーの原画展示やライブペインティングもやる予定。メインステージでは、千松信也さん(「僕は猟師になった」著者)の講演や「手作りゲルの組み立て体験」等のイベントほか、バンドライブ等盛りだくさん。炭焼きワークショップ(杉浦銀次さん)や、スノーボード作り体験、ほか多彩な展示、販売、フードブースも。開催場所は長野県上田市菅平の元スキー場で環境は抜群。会場の重厚な作りのヒュッテ(山小屋)も素敵です。入場無料。6/30~7/1。お問い合わせ:090-8686-7473副実行委員長:福永一美/http://shinsyumorifes2012.web.fc2.com(長野亮之介)
■本多有香さんを支援する地平線会議手作りの本、品切れ間近です。
まだの方は、是非この支援本を買ってください。早く売り切り、本多さんに渡したいのです。
内容は次の通り。
第1部 ホワイトホースへの道 カラー
本多有香のこと
本多有香の軌跡
第2部 地平線通信から モノクロ
B5版108ページ
編集・構成 丸山純 イラスト 長野亮之 介 文 江本嘉伸
写真 佐藤日出夫
協力 中島菊代 大西夏奈子 武田力
★頒布価格は1部あたり2500円。送料は2部まで80円、4部まで160円。地平線のウェブサイト(http://www.chiheisen.net/)と、郵便葉書で申し込みを受け付けます(〒167-0021 東京都杉並区井草3-14-14-505 武田方「地平線会議・プロダクトハウス」宛)★お支払いは郵便振替で、本の到着後にお願いします。「郵便振替:00120-1-730508」「加入者名:地平線会議・プロダクトハウス」。いきなりご送金いただくのではなく、かならず先にメールや葉書でお申し込みを。次回の地平線報告会でお支払いいただくのもOK。
■ご無沙汰、お許しください。地平線通信、いつも読ませていただいています。江本さんのバイタリティーはどこから湧き出してくるのか? いつもいつも感服しています。有香さんの本、さっそく申し込みをしたところ、昨日、本が送られてきました。まだパラパラと見ただけですが、じつに元気が出る本に驚愕。構成から印刷まですべてをこなした丸山純君の仕事術にも脱帽。
◆まず最初に感じたのは、若者に読んでもらいたい、ということ。江本さんの書き下ろしの第1部は若者を叱咤激励する姿勢に貫かれていてじつに爽快です。特別で独特な思い入れが素晴らしい。その思い入れが若者を鼓舞する。江本さんは真の教育者だ!
◆有香さんもそれはそれは強靭な精神の持ち主。興味、好奇心、初心を忘れない気持ち、やっぱりこれしかない。地平線通信に掲載された有香さんの文章はこれまでに読んできたものの、あらためてじっくり読ませていただきます。報告会に顔を出さずに失礼しています。毎金曜は個人的な勉強会があるためです。悪しからず。(麻田豊)
■先週帰京し、ようやく『わんこ』を手に取りました。予想していたより遥かに濃い内容! どっから見ても、僅か2週間で纏め上げた緊急出版とは思えません。EMNトリオを核にした制作スタッフのスキル&機動力に、またもや絶句させられました。
◆しかし、いくら素材自体が素晴らしくても、そこにどれほど選りすぐりの編集者、ライター、イラストレーターを充てても、こんな本は絶対に作れません。云うまでもなく、彼女の活動を長年見守り、声援を送ってきた地平線会議だからこそ、いや、地平線会議にしか、成し得なかった作品だと思います。本当にページを繰るだけで誇らしくなる1冊(私は何一つ手伝っていませんが…Åjですね。あ、「第一部」扉の、本多さんの手書きサインも良かった。何だか気持ちが伝わってくるようで。(久島弘)
■ずっと応援していた本多有香さんの報告会とあって、久しぶりに東京に出かける気になった。東京に行くのも、バスや電車に乗るのも、一昨年のぐるぐる(海宝道義さん主催お台場船の科学館周回24時間リレー走のこと)以来のこと。どうせならと二次会場の「北京」から野宿の流れに乗ってみることにした。
◆スカイツリーは興味無し。東京に金曜朝から日曜の昼前までいたが、E本さんちで麦ちゃんと遊んで、ひたすら掃除して、報告会、「北京」、公園野宿、パン屋だけで終了。ただ本多有香の顔が見たかったから。話すの苦手な彼女の困った顔、わんこ自慢の時だけ心底嬉しそうな顔、ビール飲んで幸せな顔。そんな顔を見られて、東京まで行って本当によかった。また熱い冬にしてくれることを期待してるぜ!
◆そして初の公園野宿は、田舎者にはやはり、なかなか落ち着いて眠れる環境ではなく、お掃除のおじさん部隊がすぐ近くをがんがん掃除していても眠り続ける野宿もんたちを畏敬の目で見つめるばかりでした。やっぱり野宿は山の中がいいなぁ。クマの心配してるほうがいいなぁと思うのですが、田中幹也さん、緒方敏明さんなど、通信でしか知らなかった方の生態をかいま見られて、なかなか興味深い世界ではありました。(山形市 網谷由美子)
■こんにちは! 梅雨入り直後の宮城県です。雨上がりには、うっとりするほど鮮やかな緑、緑、緑。先日、徳之島から来た知人が東北の自然を見て「ジブリの世界だ!」と感動していました。たしかに南国の生命力満載な緑にくらべ、こちらの景色は人と協調していてやさしいなあ。
◆宮城県には昨年の3月末から滞在していましたが、ここで一区切りして、7月から埼玉県に戻ることにしました。縁もゆかりもなかった東北で、こんな形で1年以上暮らすことになろうとは考えてもいませんでした。震災後、何でもいいからやりたいと飛び込んだ被災地、そこで出会った東北の方々、全国から訪れた何千人ものボランティア、現地に来られなくても遠くで応援してくれた人たち。とりたてて特技のない私は、人のつながりだけでやってこれました。
◆これから先は、東北とつながりを持ちながら、もっと自分にできる具体的なことも増やしていきたいです。東北に長く関わるためにも、私の暮らす地域のためにも、自分や家族のためにも。そう思えたのは、ここで「人の価値」を感じることができたからです。被災地でゼロから組織やプロジェクト、催し物、モノ等を作っていく中で、色んな人の仕事や特技や性格が合わさって、あれよあれよという間にできていくのが面白かった。
◆デザイン、文章、写真、編集、経営、事務、一次産業、掃除、料理、教育、土木、大工、IT、車、スポーツ、遊び、歌……、何でもいい、好きな事、ちょっと得意なことがあるって素晴らしいなあと思えました。偶然にも7月から3月まで中学校で教員(産休の先生の代わり)をやることになったので、子どもたち1人1人のことをよく見てあげたいと思います。不安もあるけど楽しみです。
◆実は宮城県で働くことも考えましたが、一度離れると決めたのは、地域と関わるうちに震災以前からあった過疎の問題がどんどん掘り起こされてきて、原発のこともあるし「被災地だけで考えていてもしょうがない」と思ったからです。ここにいると、あらゆることが「日常」になってしまう。あちこちで復旧工事が行なわれているため、片側交互通行の道を走るのも日常です。
◆この時期まで被災地にいられたことで、市民活動やソーシャルビジネスといった分野に関わる方たちともたくさん出会えました。町づくりNPO、社会起業支援NPO、国際協力関係などが多いです。こちらではいま、行政や住人やボランティア団体が開催する町づくりの話し合いやワークショップがわりと盛んに行なわれていて、私も参加しています。
◆エリアは南三陸町、登米市、気仙沼市など。「町づくり」と「高台移転」、同時に計画が進むのが理想ですが、お互い様子を見あいっこしている状況で、なんとももどかしい。それで、いざ集団移転地を決めるとなると、住人主体でまとまって動くということは、全員の強い希望がなければ相当難しいこともわかりました。
◆ほとんど意見を言わない、言えない人もいる中で決めたら、移転直後はよくても、将来不便なことがでた際に不満が出る、その矛先はきっとみんなをまとめていた人に向けられてしまいます。お年寄りの場合、移転できる数年後に体の調子がどうなっているかもわからないし。既存の地域でまとまる意味や価値を問われるって、酷なことです。
◆素人考えですが、もっと大きな視点で「暮らし」や「町づくり」を考えられないのかなあ、とも感じます。住人の話を聞くと「少しでも学校、病院、役場、商店街に近い場所がいい」、という話ばかり。全体でも小さな町なんだから、コミュニティバスや市電を活用して、ゆったり暮らすのもいいのでは。開発費や将来の管理を考えると……なので、言うはやすしですね。でも、そういう発想自体が、田舎の人は苦手っぽい。人付き合いに関しても、都会の「広く・ゆるく・薄く」と対象的に、田舎は「狭く・つよく・濃く」が得意です。人との距離が離れているから関係が強くって、都会は距離が近いからゆるいのかも。
◆まだ津波の爪痕だらけの場所に新しい町ができていくって、なんだか夢物語のよう。それでも建物の解体ははじまり、山は切りくずされ、その土で埋め立てがスタートし、建設用の丸太がゴロゴロ積み重なっているのを見かけるようになりました。開発とは、こういうことなのか。そう気付いてから、舗装道路を車で走るときも色々と考えます。安全で便利な生活って何だろうかと。人が作り出しているもののうち、本当に必要なものはどれくらいなのか。
◆まとまりがつきません。まだ東北で感じられること、学べること、できること、やりたいことはいっぱいありますが、7月からは新しい環境で、視野を広げて頑張ります。東北を離れがたいのは人との思い出がいっぱいあるからで、おばちゃんと世間話したり、子どもがなついてくれたり、避難所にいた時は何だか怖かったおじちゃんが「よう」と話しかけてくれるようになったり、時には大いにもめたこともあったり……全ての経験を大切にして前に進みます。これまで支えてくださった皆さま、ありがとうございました。これからも、よろしくお願いします。(新垣亜美)
■[その1] 現在、福島ナンバーのバイクで韓国ツーリングに行くべく、下関に向けて西日本経由で旅しています。せっかくなので、美浜、もんじゅ、敦賀、高浜、そして、今再稼働問題で注目の大飯原発など、若狭湾の原発を見学してきました。若狭湾は全部で14基の原発が集まる「原発銀座」なのです。
◆高浜原発の近くでのんびり釣りをする人たち、もんじゅ手前の漁村では、ワカメ干ししているし、美浜原発を眼前に望むオートキャンプ場があったり。そこにはごく普通の平和な日常があり、なんだか不思議な気持ちで眺めていました。福島の警戒区域と比べて、なんという平和な風景! とはいえ、ひとたび事故が起きれば、ここも「死の町」になってしまうんですね。
◆そういえば、浪江町の知人が以前に「原発の下はね、暖かい水が出てくるから、魚がよく釣れるんだよ」と話しているのを思い出しました。福島の警戒区域も、震災前は、やっぱり平和な日常だったのに。今、後悔しているのは、震災前の平和な福島の浜通りを見ておかなかったこと。私が知っているのは「死の町」や無人の牧場、津波の被災地だけ。
◆今回の韓国ツーリングは前後の西日本を合わせて約三週間。久しぶりに長く福島を離れます。西日本や韓国では福島をどう意識しているのか? 福島ナンバーのバイクなので、いろいろとあるかと思いますが、楽しみでもあります。今まで、114か国を旅したのに、韓国は初めて。西日本も行ったことない場所が多いので、その点でも新鮮な気分を味わっています。それでは、行ってまいります! 下関国際フェリーターミナルにて(6月9日)[追記] 大飯原発は4基も原発がある、若狭湾最大の規模なんですね。だから動かしたいわけですね。PRセンター(無料)では、かなり充実した展示が見られます。来場者数は震災前の二倍だとか。特に最近も増えているそうです。
◆びっくりしたことに、同時多発テロの前は実際の原子炉に入って見学できたそうです 。現在はシュミレーション映像だけですが、おもしろいです。受付の写真を撮るときに、「使うのはプライベートなブログなどだけにしてください」と慎重でした。原発の施設は写真撮影禁止でカメラを出すと警備員が注意しにきます。また、蛇足ですが、先月は東海原発のPR館に行きましたが、「霧箱」という、おもしろい装置がありました。中はアルコールのミストが出ていて、放射線の軌跡が見られます。放射線そのものは見えないのですが、飛んでいるのを確認できましたよ。
■[その2] 江本さん、今韓国です。昨日の朝、釜山に到着し通関手続きもスムーズでした。釜山から少し北へ行ったところに原発があり、PR館もすぐそばにあったので寄ってみました。韓国に観光に来て原発見学なんて、ちょっとレアですね。原発も、町のすぐそばに建っていて、門前まで行きましたが日本と違ってオープンな雰囲気でした。
◆PR館、やはりすごく立派で、展示内容もしっかり。一帯は豪華なスポーツ公園になっているほか、なんと結婚式場も隣接していて、ちょうど日曜日だったこともあり、すごい人出でした。「韓国でも原発に興味のある人がたくさんいるんだ!」とびっくりしたのですが、ほとんどは結婚式場に用事がある人たちで、PR館の見学者はまばら。こんなもんですね。
◆でも、本当に町のすぐ近くに原発があるんです。日本ではもっと遠くはなれた遠隔地なのですが。韓国でもうひとつ驚いたのは、百貨店や大型ショッピング施設が日曜休みだったこと! おかげで地図が入手できずにいます。標識はハングルとハングルの読みを記したアルファベットだけなので苦労しています。まったくわかりませんが、なんとかなっています。今は慶州のモーテルです。2人で2800円。快適です。こうしてネットも部屋にあって自由に使えます。(6月10日)(滝野沢優子 福島県天栄村住民)
■地平線の皆さんお元気ですか? 南相馬の上條です。先月の話になりますが、地平線で賀曽利隆さんや沢山の人達の冒険や旅の話を聞いたり読んだりしているうちにメラメラと僕の心の中の炎が芽生えてきました。福島で地震や原発事故を身をもってその大変さ苦しさを感じ、当たり前の生活、地域、自然の良さを知った自分だからこそ今日本で起きている話題の地域はどうなのか? 見て感じとってこよう! と急遽決定。旅のテーマは「行き当たりばっ旅! B級グルメに車中泊、原発を横目に日本を感じてこよう!」です。
◆今回のばっ旅に幾つかのルールを決めました。まず、車中泊、コンビニではなく地元スーパーの利用、ご当地牛乳を出来る限り飲む、原発を横目に進むこと、そして日本を感じてくることです。期間は4月30日から5月5日の六日間。旅を終えてみると走行距離は実に2400キロ、18県にまたがり、一日平均400キロ、10時間の運転でした。
◆簡単に訪れた県とルートを説明します。福島県南相馬市出発、新潟県、富山県、石川県、福井県、滋賀県、京都府、兵庫県、鳥取県、岡山県、大阪府、奈良県、三重県、愛知県、静岡県、神奈川県、東京都、栃木県とまわり、最後に福島県に戻りました。初日からかなりの距離を走り、東北道磐越道を乗り新潟県へ。一般道に乗り換え8号線を南下し柏崎原発を目指しました。
◆海沿いの道を一直線に進む。右を見れば水平線がまっすぐと続いていて左を見れば山々がもったりと茂って良い景色。しかしそんな風景を邪魔するかのように柏崎原発が姿を現した。そして原発近くの小学校には何と「原発災害時避難所」の文字が……。コンクリートが厚いので大丈夫と言いたげな看板が掲げてありました。しかし窓ガラスは普通の仕様。ここからは放射能はノーガードで入ってくるでしょう。なんだこりゃ?でした。
◆その後8号線を走り西に進むと日中曇っていたはずの空はいつの間にか晴れ、絶景の夕日が! 途中何度も車を停めその様子を静かに眺めました。道の駅「うみてらす名立」で入浴し、その後まだ明るかったので道の駅「能生」まで移動。沈みゆく太陽を眺め、車中泊。福島県から、新潟県へと順調に進んだ初日でした。
◆2日目の朝には富山県に。更に石川県に入ったところでふと思いついて現地の友人に電話をして金沢で会うことにしました。思いつきを実行できるのがばっ旅の醍醐味です。突然でも快く会ってくれ、お互いの近況をたくさん語りあいました。森林組合の職員でもある友人は、NPO法人の理事でもあり福島の子供たちを招待して今後5年間石川県にて夏季キャンプをしたい! 協力してくれとのことでした。
◆友人と別れた後、8号線を西へ。そこには澄んだ空気、田園風景、長く連なる山々が迎えてくれています。日本にもこんな美しいところがあるんだと思いつつしかし、8号線をどんどん西に進んでいくにつれ、目障りなものが目に入ってきました。高圧電線の鉄塔です。そして鉄塔は手入れされた水田の上に無表情にどしんと乗っかっていたのです。それも数えきれないほど……。ショックでした。その高圧電線をたどった先には原発があると思うと悔しい気持ちになりました。何故こんなにも自然豊かなところに、原発という恐ろしいものがこの世に存在し、成立してしまったのか……。
◆この日は滋賀県まで入り車中泊。3日目は寄り道をして琵琶湖をぐるっと廻り、比叡山延暦寺に行ってみました。雨の中でしたが神秘的な木々に囲まれた大きなエネルギーを感じました。更に北上して福井県に入り、今話題の大飯原発の近くまで行って見ました(ここから江本さんに電話したんですよね)。ニュースで見る騒動はどこへやら、いたって普通の緊迫感のない日常が広がっていました。警察もマスメディアも一人も見かけませんでした。地元では原発の「げ」の字も話題にならず。これを見て僕は大飯原発の再稼働を確信しました。
◆4日目も京都から兵庫、鳥取、岡山とかなりの距離を走り、岡山県の相生で車中泊。5日目からは帰路に。岡山県から高速に乗り大阪で降り、奈良を通過して三重に入り伊勢神宮に立ち寄りました。6日目の最終日は三重から高速に乗り途中浜岡原発を横目で見ながらほぼノンストップで福島県まで戻ってきました。
◆帰ってあらためて感じたのは、福島はほんとうに豊かな自然に溢れている、ということです。ここには山も川も海もあり、冬でも大雪は降らず、住みやすい。でも、そこの多くの地域で人々は今なお立ち入りを制限されてしまっている。どうしてこんなことになったのか。地平線の皆さん、7月は南相馬で待ってますよ。「福島のいま」を是非見て、一緒に考えてください。(上條大輔 南相馬市)
山辺です。戦国時代からメールしてます。いま豊臣家は大阪城の堀を埋められ大ピンチ!「山辺はん、なんとかならんか?」秀頼殿に頼まれた僕はある作戦を考えた。全国の大名が大阪に集結している今、各地の城はガラ空きのはず。そのスキを突いて攻めれば逆転可能なのでは?
◆思い立ったが吉日。2012年5月11日、僕は台車にキャンプ道具と甲冑を積み、大阪城から出陣しました。予想通り、各地の城はガラ空き。敵など一人もおらず攻め放題! 16日に明石城(兵庫県明石市明石公園)。17日が三木城(兵庫県三木市上の丸町)。18日は御着城(兵庫県姫路市御国野町御着)と姫路城(兵庫県姫路市本町)を攻略。世界遺産の名城も、門番に600円払えばたやすく入れます。
◆さらに西へと攻め続け、20日に龍野城(兵庫県たつの市龍野町)。24日は赤穂城(兵庫県赤穂市)。30日に三日月陣屋(兵庫県佐用郡佐用町三日月)。31日が上月城(兵庫県佐用郡佐用町)。と、ひと月で8つ。6月に入っても快進撃は止まらず3日が津山城(岡山県津山市山下)、6日に岡山城(岡山県岡山市北区)。そして今日9日は備中高松城(岡山県岡山市北区高松)を落としてきました。
◆お城では当然、甲冑を着て攻めているので、話しかけられたり写真攻めにあったり大人気。すべて手作りの甲冑だと言うと驚かれて嬉しいのですが、城の職員と間違われ、道を聞かれたり、説明を求められることも多く困りものです。そして最近さらに困ったことが。街中では、陣羽織着て烏帽子をかぶり、袴をはいたバリバリ戦国武将スタイルで台車を押し歩いているのですが、オウムの犯人が逃げているため、職務質問が増えました。今頃逃げなくても(涙)。
◆秀吉はここ備中高松から9日で京都に戻ったそうです。僕は1ヶ月だから、昔の人の健脚ぶりがうかがえます。こうやって城から城へ歩いていると、歴史が繋がり面白いです。町の人の言葉も少しずつ変わっていくし、食べ物も変わっていきます。いつ終わるかわかりませんが、天下取りを楽しみながら歩いてゆきます。ブログをやっているので興味があれば見てください。http://yoroitabi.blog.shinobi.jp それでは失礼します。(鎧武者:山辺剣)
■江本さんから7月の例会を福島の相馬でやりたいとうかがい、また、たまたま水増し号の記事を書くことになって、つい相馬のことを普通に書いてしまい水増し号の性格に合わない内容になってしまいました。江本さんも大西さんもおしゃれな人たちなのでそんなことおくびにも出しませんが、私は気がついたのです。と言うわけでこの話は本誌の方へお引っ越しになりました。時代と場所の一つの証言になればという気持ちでそれこそ元の分量より水増しです。
◆昭和19年、若い読者には想像もつかない昔の話です。連夜のドスンドスンという米軍爆撃機より投下された爆弾の着弾の音と焼けた赤い夜空の恐怖に、新聞記者をしていた父が恩師の親戚をたより家族をとうとう疎開させました。福島県には大野村というところが当時3カ所ありました。現在の相馬市と双葉町といわき市です。父は相馬の大野村の生れですが、東京に出てから中学の校長がたまたまいわきの大野村の御出身でした。新聞記者になってから病だった二宮在住の恩師を支援していた関係で、東京に近い石城(今のいわき市)の大野村に疎開するよう勧められました。仕事の都合で一緒に疎開できない父は結局そちらを選びました。
◆翌年父と世田谷の家は被災しました。疎開先から父を探しに上京すると、縄文時代はかくやと思うように焼け野原の笹塚から富士山が一望できました。焼け跡でなつかしの玩具の破片をあさっていると、父が自力で地下につくった臨時住宅からのっそり出てきてびっくりしました。宿泊するところもないのでその晩夜行で大野の疎開先に帰った(8時間を要しました)のを覚えています。余談ですが、両大野村とも福島第一による被災の30キロぎりぎり圏外です。
◆日本の戦争は基本的に加害であったので被害についてのみ語るのにはやはり若干のうしろめたさがありますが、小一の冬疎開先でも夜中に爆撃にあいました。暗いなかで母に洋服を着せられ、すぐ逃げろと一人で出されました。ズボンと思ってはいたのはワイシャツの両袖でした。走りにくいはずです。後ろに着弾した爆裂が頭の上をまぶしく覆いました。人の噂をたより翌朝遅く田んぼの中で母や弟と合流しました。農家の大事な財産であるウシやウマが夜間爆撃中に放たれ、朝そこら中うろうろしていました。2年生の夏敗戦になったのですが、東京で父が家族を受け入れる準備ができなかったので、結局小学1年から6年生まで疎開先の大野村ですごしました。
◆戦災直後の日本では疎開生活での楽しいイベントはほとんどありませんでした。5年生の夏休み父が東京から貨物船の浮き輪をもって来て、父の故郷相馬につれて行ってくれたことが思い出に残る最大のイベントでした。冒頭当時の被爆状況にふれたのは、これからのべる相馬の出来事がどういう時代のなかであったのかご理解いただいた方がいいと思ったからです。
◆SLが四ツ倉駅に轟音とともに入線して来た矢先乗り出して線路に落ちて胸を強打しました。とっさに父が線路に飛び降り間一髪向こう側に助け出すと同時に列車がブレーキの音をたてて急停車しました。せっかくの旅行はこれで暗転しました。これもあまりのうれしさに舞い上がっていたからでしょう。相馬はこの転落と結びついて思いだされ、いっそう輝いています。
◆一つは野馬追いという戦国時代を再現した武士の旗とりと競馬です。戦後の鬱屈した時代にきらびやかな催しでした。現在「相馬」という常磐線の駅は当時「中村」という駅名でした。大野村のあった中村で中村城跡を見物して、初日は武者姿の競馬を観戦し、次の日旗取りを見ました。敗戦直後で行事も場所も簡略しているとのことでしたが、それでも見事なものでした。旗とりは空高く打ち上げられた旗を鞭で武将が取り合う戦いです。この旗は神旗だそうです。普段は農家の青年がこのときは武士に早変わり、思いもよらない伝統行事でした。3.11震災後、野馬追いが復活されたというニュースに正直よかったと思いました。
◆次ぎの鮮烈な思い出は相馬中村の原釜海岸(有名な松川浦の北隣)です。のちに相馬港になりました。当時の原釜海岸は海水浴場で海岸に沿って旅館が並んでいました。3.11では遠く常磐線の方まで津波が及んだようです。原釜海岸では当時午前中に塩が引いて広い砂浜だったのが、午後はいわゆる遠浅の絶好の海水浴場になりました。驚き、かつうらやましかったのは子どもたちが皆カヌーのような和風のオールで自分の小舟を漕いでいたことでした。一人で乗る子、二人乗りの子など何十艘もの板の色も鮮やかな小舟で波に乗って楽しそうでした。こちらは父が持参した例の貨物用浮き袋(時化た時、荷物をくくりつけて海上に浮かばせ、あとで回収する)、何ともうらやましい限りでした。今はなき漁村の一大絵巻として目に焼き付いています。
◆もう一つの思い出は干しホッキ貝です。浜通りの常磐線の各駅は売り子でにぎやかで、主な売り物は、干しホッキ貝でした。ホッキ貝一つで鍋一つのだしがでるといわれます。干しホッキ貝はするめいかよりはるかに美味です。干しホッキをかじりながら汽車旅を楽しんでいました。ホッキ貝は浜通りで豊かにとれて、四ツ倉海岸も、原釜海岸も大きなホッキ貝の貝殻でいっぱいでした。敗戦直後とはいえ一種そこには本物の自然の豊かさがありました。今後とも福島に自然災害、人災がないことを、そして一日も早い復興を祈るばかりです。(花田麿公)
7月の地平線報告会を28(土)、29(日)両日、福島県で実施します。3.11から1年4か月。津波と原発事故のふたつの不条理な災害を正面から受け、今なお自分たちの家に戻れない地域と人々の現実を自分たちの目でとらえ、理解することを目的とします。被災地はまだまだ立ち上がったばかりです。これまで被災地に足を運べなかった人も是非この機会に足を運び、現実の一端を自身の目でとらえてください。
コースについては、「東北のカソリ」ことこの地域に熟知している賀曽利隆、楢葉町の被災者である渡辺哲、動物救援の活動に長くあたっている福島県天栄村村民、滝野沢優子を中心に検討しており、現地視察の後、7月の地平線通信で最終的な計画をお伝えする予定です。
目下、7月28日午前10時、JR郡山駅集合。ここからバス(23名乗り)に乗り、次のようなコースで福島を行動するつもりです。もちろん、個人的に、あるいは乗り合わせて車で参加することも可能です。
経費ほかについては未定。1万円程度の予定。宿舎は児童の通所施設をお借りする予定です。
★以下、仮案です。
【7月28日(土)】10時郡山駅集合
■郡山駅⇒R288⇒R399⇒葛尾村⇒津島(浪江町)⇒長泥(飯舘村)
⇒飯館村役場⇒県12号⇒八木沢峠⇒原ノ町(南相馬市)⇒R6⇒宿舎(南相馬市鹿島区)
震災後、1年4ヶ月経過した現場を視察する。(津波現場・市街地等)
浪江⇒飯館村と高線量地域を通過する見通し。
夜、食事の後ミーティング
★予定している宿舎は
福島県南相馬市鹿島区上栃窪字瀬の沢20-1
特定非営利活動法人 自然環境応援団(上條大輔代表)
【7月29日(日)】
■宿舎R6検問場所(浪江町境)県12号飯館村R114福島駅
警戒区域解除の街の様子を視察する。
★参加希望者は、地平線会議のウェブサイトから申し込み(目下準備中)してください。あるいは地平線通信最後のページにある江本のメールかファクスに氏名、連絡先(電話など)を明記して「参加希望」と。
2002年の国際山岳年から10年が経ったのを機に日本の山岳関係の学会、登山界が協力して以下のようなシンポジウムを開催します。自由に参加できるので関心ある方々はどうぞ。(E)
★ ★ ★ ★ ★ ★
6月23日(土曜):日本大学桜上水キャンパス図書館3階「オーバルホール」
開会 9:30 - 10:10
加藤直人(日大文理学部長):あいさつ
田部井淳子(実行委員長,元国際山岳年日本委員会委員長):ビデオ・メッセージ
Konrad Osterwalder(国際連合大学学長):あいさつ
江本嘉伸(元国際山岳年日本委員会事務局長):国際山岳年とその後
第1セッション(10:10 - 12:10) 変化する社会と山岳住民の適応
司会: 水嶋一雄(日大)
10:10 - 10:55 基調講演 ヘルマン・クロイツマン(ドイツ,ベルリン自由大学): Adaptation to changing environments in the Himalaya - Hindukush - Pamir - Karakoram (ヒマラヤ・ヒンズクーシュ・パミール・カラコルムにおける環境変化への適応)
10:55 - 11:10 落合康浩・水嶋一雄(日大):パミール・カラコラム地域に居住する少数民族「ワヒ」の生活実態とその地域的差異
11:10 - 11:25 白坂 蕃(帝京大):中国,雲南の焼き畑の変容
11:25 - 11:40 渡辺和之(立命館大):ネパール・ヒマラヤにおける山地社会の変化と羊飼いの現在
11:40 - 12:10 討論
12:10 - 13:30 昼食
6月24日(日曜):同上・国際会議場
第3セッション(9:30 - 11:30) 災害と山の生活ー東日本大震災を中心にー
司会:江本嘉伸(元国際山岳年日本委員会事務局長)
9:30 - 10:15 基調講演 田口洋美(東北芸術工科大):震災後の東北のマタギと山の利用
10:15 - 10:30 和泉 功(福島登高会):山の放射能と登山
10:30 - 10:45 宮地忠幸(国士舘大):東電福島第一原発事故に揺れる阿武隈高地の農村
10:45 - 11:00 飯田 肇(立山カルデラ砂防博物館)山の自然災害リスク―豪雨による災害―
11:00 - 11:30 討論
11:30 -13:00 昼食
第4セッション(13:00 - 15:00) 山と人と安全
司会: 磯野剛太(日本山岳ガイド協会)
13:00 - 13:45 基調講演 村越 真(静岡大)
13:45 - 14:30 基調講演 山本正嘉(鹿屋体育大)
14:30 - 15:00 討論:
第5セッション(15:00 - 17:00) 山の自然保護ー問題点とこれから
司会:愛甲哲也(北大)
15:00 - 16:00
泉山茂之(信州大):高山環境へのニホンジカの進出
トム・ジョーンズ(明治大):外国人登山者の増加
佐野 充(富士学会・日本大):世界遺産登録をめざす富士山の観光登山と環境整備
椎名宏子(東京都山岳連盟・NPO尾瀬自然保護ネットワーク):尾瀬国立公園
穂刈康治(槍ヶ岳観光株式会社):登山道の維持管理とトイレの改善のいま
愛甲哲也(北大):自然公園における施設整備のあり方
16:00 - 17:00 討論
まとめ(17:00 - 17:40)
17:00 - 17:30渡辺悌二(北大):まとめ〜将来に向けて
成川隆顕(山の日制定協議会):山の日アピール
17:30 - 17:40 吉野正敏(筑波大学名誉教授):実行委員長閉会あいさつ
18:00から レセプション(会費制),カフェテリア チェリー
■日本政府が、大飯原発から「原発再稼働」をごり押しし始めようとする今だからこそ、私たち、辺境を旅し続けた者は、きちんとNOを突きつけるべきだと感じています。私はこれを胸に、徹底的に現場で見たこと、経験したことを元にして、NOを表明すべく、「希望の大地」岩波書店を上梓いたしました。
◆アマゾンなど、辺境の地で現地の人たちは、たとえ突然雨に降られても、たとえ沢山の蚊に刺されても「あ、雨か」とつぶやくか、サッと蚊を払うくらいで、それ以上の文句はいいません。突然降る雨も、夕方襲ってくる蚊の大群も、自然現象ですから、人間が変えられません。そして、変えられないものに、文句をいっても何も変わらない以上、文句は言わないのです。人間はどこまでいっても、自然の中で生かされている存在に過ぎないと、そうした場所に住む人は、本能的に感じ取っているのでしょう。
◆しかし日本人が同じ状況に合うとどうなるでしょうか? 大パニックを起こし、叫び、慌て、時には、関係のない所へも文句をぶつけようとするかもしれません。特にネット時代になって以降、人々はより短気になり、よりヒステリックになったと感じています。すぐ、次の瞬間に解決しないと、ガンガンに叫び声を上げるのです。
◆しかし、世の中には、「変えられるもの」と「変えられないもの」があるのです。それを知っていることこそ、本当の知恵だと私は感じています。たとえば、突然の雨は、変えられないもの。たとえば、ジャングルの中で襲ってくる大量の蚊も、発生自体を防ぐことができないものでしょう(あくまでも、これは自然状態であり、ダムなどで大量の蚊が発生したのではないと想定した上で)。
◆また、変えられないものには、地震、雷、豪雪などがあるかもしれません。一方、変えられるものとは、人間の意志で変化を起こすことができるということですから、勉強をして成績を上げること、禁煙をして健康的な生活を送ること、自然を壊してしまう行為を止めることなどがあります。それだけではありません。人間が作った原発を止めることも、私は変えられることだと思っています。
◆今回の本のテーマは、自然を受け入れるということです。それは暗闇を受け入れるということで、多少電気がない状態でも、パニックを起こすな、電力会社の「安い脅し」に乗るな! ということなのです。昨年、東京で計画停電が起きた場所でも、結局、数回、数時間だけでした(しかしそれも都内では起こらず、周辺地域であったことは、周辺地域に住む私自身が、権力の横暴さを感じました。金の集中する所、利権の大きい所の電力を十分に守るために、地方は犠牲にされてしまう。つまり計画停電に於いてさえ、「首都圏の電力を賄うために、過疎化する地方に原発を作る」という構図が縮図となって見えたからです)。
◆しかし、その数時間を「回避」するという目的で今、原発が再稼働しようとしているのです。実は、科学的な視点でいえば、10年後、寒冷化しているか、温暖化しているかも分からないのです。また、地球には、何度も100メートル級の高波が襲った時代もあったのです。であれば、どうして、「絶対安全」と言い切れるのでしょうか?
◆「3・11」を経験した今、あの出来事を避けた表現はできないと感じています。それを私なりに問いかけて完成したのが本書です。私たちの本は売れません。しかし自由経済社会では、売れないこと=淘汰される対象になります。逆にいえば、AKB48の総選挙で顕著になったように、本来は一人一票のはずの「投票権」がお金で何票でも買える社会になり、それが「流行」とされ、NHKでも放映される時代になったのです。
◆私がこれからも表現し続けられるよう、皆様からの一票を是非よろしくお願いいたします。(桃井和馬 ★『希望の大地』岩波書店 840円)
■4月、5月、6月と久しぶりに報告会に顔をださせていただきました。娘が生まれる前からなので、2年以上ご無沙汰していました。その間、某代表世話人からは、報告会にも来ずに原稿も書かずに怠けているだの、通信もきちんと読まないなんて鈍くなっているだの、バカだのドジだのと散々な叱責を受けましたが、特に最初の1年は“母親業”に慣れるのに必死でしたし、自分(と日本)を取り巻く状況が変わる中で、私なりの屈託がありました。
◆なんというか、自由に旅をしたり思いのままに活動したりできないものにとって、現場発のキラッキラ輝く体験談は嫉妬の対象でしかないんですね。特に震災後、誰もが何かをしなければという切迫感の中にあって身動きがとれないことのもどかしさってないです。それに加え、かつて福島で、東電を含む取材活動をしていながら事故が起きるまで何もできなかったことへの悔恨。口を開けば言葉はたちまちどこかに分類され、他方との間に見えない線引きがされてしまうような空気に対する畏れ。震災前には福島になんて見向きもしなかったくせに、急に訳知り顔で「フクシマ」を語りだした“知識人”への違和感。エトセトラ、エトセトラ。でも結局のところ、現場を見てもいない自分が何か意見めいたことをするのが一番イヤだったんです、きっと。
◆一方、4月に2歳になったばかりの子どもを育てる親の日常風景としては、公園の砂場や雑木林に分け入って遊ぶ様子を見ながら、夕飯のための野菜を刻みながら、ここにどれだけの放射性物質が含まれるのだろうかと、ほとんど無意識的にうっすらと考えていたわけなのです。
◆震災後半年くらいを過ぎてからやっと、新聞以外のまとまった文章(地平線通信も含むルポや小説)を積極的に読む気持ちになりました。その中には福島を舞台にしたものもありましたが、そこに描かれている光景は、私の記憶のなかにある福島(主に浜通り)の姿と全くかけ離れていることに愕然としました。1Fの周囲20キロ圏内はもちろん、飯舘村や何度も車で走り抜けた6号線沿いの風景、潮干狩りという楽しい体験をした松川浦も。
◆例えば、旅で見た景色が胸に刻まれ日々の生活に彩りを加えるように、そこは私が仕事に奮闘した思い出の一部がある場所でした。その地が自分に対してよそよそしい顔をむけていると感じた瞬間、なんだか泣けてきました。ああ、こういうこともあるのだ、と知ったのです。私は自分の胸の中にあった“福島”を失ったのだ、と。被災された方々の悲しみを思えば語るのも申し訳ないくらいですが、自分の中の小さな何かも損なわれてしまった、そのことを受け入れ弔うのにずいぶん時間がかかったのでした。少し感傷的に過ぎますかね?
◆福島には未だに行けていませんが、近いうちに必ず訪れたいと考えています。(7月の報告会に参加できればと思うのですが、子守りの都合がつかなそうで残念です。)森田靖郎さんが300か月記念フォーラムで「地平線会議はぼやっとした灯台に似ている」と語られたのをときどき思い出します。闇夜に航海する船が航路でときどき灯りを確かめるように、ここに来て自分たちのやっていることを確かめ合う、と。
◆目の前の子どものことばかりを考えていた2年間、その灯台は遠くに霞んでいたような気がするのですが、それでも遠巻きにぐるぐる漂っているうちに霧が晴れてきて、また存在感を増してきているような感じがします。あ、そうそう、今年になってランニングも再開しました。子どもを持って恐れる対象が増えて、うっかりしていると守りの姿勢になってしまいそうですが、しっかり体力を取り戻して、また自ら漕ぎ出すチャンスを狙っていきたいです。(菊池由美子)
■「うちのわんこは世界一」購入いたしました。いい本です。それは、先日の報告会で手にしたときからそう思いました。報告会の当日に買うべきでしたが、とても迷ってやめてしまいました。すいません。でも、やっぱり、どうしても「買わねば」って想いが、わいてきて。武田さんへ連絡して、送って貰いました。正確には、まだ、買っていません。武田さんが「料金は、次の報告会のときでいい」と言ってくださったからです。ありがとうございます。恐縮します。
◆あー。手にして なんだかホッとしました。頁を開くのが、恐かったです。ぼくは、「素晴らしい」が、恐いです。素晴らしい事柄を目前に対峙するのがなんか恐い。変かもしれないけど…。このような感想は長野さんへは、伝えているのですが…うまく、言いあらわせません。地平線会議の人たちも だから、とてもとても恐い…すいません。どう言ったらいいのかわかりません。ある種の緊張感と言うか…。だけど、ぼくは、恐い恐いみんなを 大好きだ…っていう、なんか、もう、変な感じです。
◆そう、本の話です。だいたい、見開きで、ぼくは、打ちのめされました。長野さんの。ぼくは、感動して、長野さんへ知らせたのだけど、何を言ったか、忘れてしまった。長野さんが、「世界へ行ってる」感じが、すごくいいです。長野さんは、なんか、スッと時空移動して、いろんな場所とか人との距離を縮めるというか…「一体感」。違和感の無い一体感。そう、空気みたいなんだ。空気みたいにして 「行く」んだと思う。だから、タイムラグのない絵が描ける。ぼくには、ぜったいに描けない。魔法じゃ無くって「長野さん」! そこが、長野さんの「スゴい」ところだと、ぼくは、感じています。…えーと、「恐い」ところです(笑)。もちろん、構成とかデッサンとか色とか…素晴らしいです。この犬の「色」も…。「この色しかないっ」って感じ。それも「恐い」です。ぼくには、描けないです。『そこ』へ「行く」長野さんが、だって、スゴい…、ここのところを、「何か」、ぼくは、ちゃんと言いたいんだけど…、やっぱり、言葉が、無い。すいません。またまた、原画が観たくなりました。長野さんは「原画」も、一枚一枚ほんとうにほんとうに素晴らしいんです。長野さんの「人」というか「想い」というか…打ちのめされます。
◆あ。本の話しでした。この、表紙を開いて長野さんの絵があって…「ぱ〜〜〜っと」空間が広がった感じ。どうですか? 「こうでなくっちゃ!」って、おもうでしょう? それが、普通じゃ、描けない。清々しい。「さわやか」。う〜ん。素晴らしい。。この本の「始まり」に これ以上のものはない。「さあっ!」って感じ、する。それって、まぎれもなく、この「絵」を観て、感じてるんだ。「絵をわかる」とか、そういうのは、愚問…みたいな。長野さん。ありがとうございます。
◆本多有香さんには、もちろん、感動しまくって、打ちのめされています。ぼくは、有香さんほど、目指していることが無い。有香さんほど、情熱も愛情も、ぼくには無いです。ぼくは、有香さんのように、真剣に人生を生きたことが、まったく無いです。あ。本の本文。もちろん、素晴らしいです。全部、じっくり、読ませていただきました。読むこと、それも、恐かったです。この本は、全体的に「恐い本」です。読むのに、すごい、時間がかかりました。噛みしめながら読める…っていうか「グッとくる」とこ、ほんとに 多いです。感動して、胃痛に成って口内炎できそうです(これは、ぼく的…感想)。丸山純さんへも、お礼の手紙を書かなくては…。素晴らしい本…生んでくださった。「創る」ということを また おしえていただきました。(以下延々と続く故、略)(緒方敏明 赤貧彫刻家)
■誰もが、探検や冒険の旅に出かけられるわけではない。むしろそうできない人のほうが圧倒的に多いだろう。東北の被災地にも行きたくてもいろいろな事情で出かけられない人がどんなに大勢いることか。心はまったく同じ、あるいはそれ以上に熱いのにすぐには行動できない地平線の仲間たちのことを忘れまい、といつも考える。
◆今号に登場している菊池由美子さんにこの通信に書くよう何度も迫ったのは、子どもを持つ母親としての率直な思いを、みんなに発信してほしい、と願ったからだ。去年、三羽宏子さんが3.11直後の母親の気持ちを率直に書いてくれたことがあるが、そういう文章が動けない人たちをどれほど元気づけるか、と勝手に推測する。
◆「うちのわんこは世界一」の制作・指揮にあたった丸山純のパワーを長野亮之介画伯が「丸山ワクチンの注射」という表現をした。《この「丸山ワクチン」はかなり強力な薬です。ワクチンを打たれたもの同士は昼夜を問わず連絡を取り合うようになり、しかも行なう仕事に対し、利益や効率を考えず、なるべく良いものを作るべく邁進します》
◆さらに《コストパフォーマンスという概念が脳内から消滅します。副作用として徹夜が当たり前になり、通常の仕事が二の次になる……》
◆恐るべし、丸山ワクチン!!(江本嘉伸)
勲章とケータイ
「25年ぶりに再会できたのはケータイのおかげだし、今やどういうわけかゲル(モンゴル遊牧民の組み立て式天幕住居)に固定電話もあるんだから、びっくりだよー」と言うのはジャーナリストで地平線会議代表世話人の江本嘉伸さん。社会主義モンゴル時代の'87年に取材で出会ったツェンドさん(73)と、この6月に四半世紀ごしの旧交を暖めました。'90年の民主化以降、社会格差も広がり、人々の暮らしも変わった今、かつて優良牧民として数々の表彰を受けたツェンドさんは何を思うのか? 「羊の匂いが充満するゲルで一晩語り明かし、帰りに写真を撮る段になると…やっぱり勲章なんだよね」と江本さん。遊牧の国から、ウランと金の地下資源大国に変わりつつあるモンゴルでは、日本の存在感も以前より弱まっているとか。 今月は江本さんの見たモンゴルの今を語っていただきます。 |
地平線通信 396号
制作:地平線通信制作室/編集長:江本嘉伸/レイアウト:森井祐介/イラスト:長野亮之介/編集制作スタッフ:丸山純 武田力 中島菊代 大西夏奈子 落合大祐 加藤千晶
印刷:地平線印刷局榎町分室
地平線Webサイト:http://www.chiheisen.net/
発行:2012年6月13日 地平線会議
〒160-0007 東京都新宿区荒木町3-23-201 江本嘉伸方
地平線ポスト宛先
pea03131@nifty.ne.jp
Fax 03-3359-7907 (江本)
◆通信費(2000円)払い込みは郵便振替(料金が120円かかります)、または報告会の受付でどうぞ。
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議
|
|
|
|