5月16日。きのうまでのひんやり感が一気に温度計はぐんぐん上昇している。東京では正午には25℃を越え、午後には28℃、とことし最高の暑さになると予想されている。全国一暑い町、熊谷の食堂では「雪熊」が登場した、とニュースが伝えている。山盛りの氷の上にどーんとあずき。いよいよ「節電の夏」がやって来る。
◆今日の東京新聞のコラム「筆洗」を読んでいて、そうなのか、と思った。日本の原発50基のすべてが止まった今、ご存知のように、夏の電力供給が一番厳しいとみなされているのは関西電力だが、その管内で昨年実績に基づく推計では節電をしなければならないのは7、8月の12日間、時間にすると計58時間だけだ、というのだ。
◆たったこれだけの時間のために電力供給力をあわせるのは随分非合理的に思えるが、これまでは「貯めておけない」電力の宿命として当然のことと、とらえられてきたのだろう。しかし、そういう実態なら我々にもっとできることはあるのではないか。地平線のベテランはとっくに実行しているが、電力エネルギーをそんなには使わない生き方。密集する都市からいなくなる選択がひとつだが、皆が旅に出るわけにもいかない。
◆考え方のヒントのひとつは、先月の報告会、桃井和馬さんが話してくれたラダックであろう。「くらやみの叡知」。詳しくは、次ページからの報告会レポート、そして桃井君自身の文章を読んでほしい。 闇の深い意味をたまには考えること。ライトも持たずに山に入る服部文祥君の著書「サバイバル!」のサブタイトル「人はズルなしで生きられるか」の一行を連想する。
◆NHKはじめメディアや評論家は間もなく開店(そういうのか?)する東京スカイツリーの宣伝に明け暮れている。大きなものができると皆が元気になる、という発想はわかりやすいが、もう少し変えてもいいのではないのか。3.11以後1年2か月経って、私たちはやはり少しずつ忘れ始めている。
◆羽田には立派な貴賓室があることをさきほど天皇、皇后のイギリス出発の模様を見ていて知った。天皇は皇太子時代の1953年、当時27才だったエリザベス女王の戴冠式に参加した。あれから60年、今回は女王の即位60周年の式典に参列するための訪英である。
◆英女王の戴冠式と聞いて、ああ、と私はエベレスト初登頂のエピソードを思い出した。1953年5月29日、ジョージ・ハント率いる英国登山隊のエドモンド・ヒラリーが、サーダーのテンジンとともに人類初のエベレスト登頂者となった時、そのニュースが6月2日の戴冠式直前、女王へのビッグプレゼントとして届けられたのだ。
◆今と違ってインターネットもない時代、ニュースはメイル・ランナー、つまり飛脚によってカトマンドゥに運ばれた。どういうふうにほかのメディアに漏れずに伝えるか、ロンドン・タイムズからの特派員、ジェームズ・モリスには人生を賭けた大勝負だった、と同業者として私は思う。当時ベースキャンプから駆け下りるモリスを見ながら「一報が届くのはせいぜい戴冠式の2日後だろう」と、隊員たちは言い合ったのだ。
◆それがまさに戴冠式当日午後4時、はじめに全インド放送が、次いでBBCがエベレスト初登頂を世界に伝えたのである。ベースキャンプでそれを聞いた隊員たちはほんとうに驚いた、どんな魔法を使ったのか、と。
◆その時から22年後の1975年、ほんの少し私も似た体験をした。そういえば、きょう5月16日だった。クーンブ氷河の6400メートルの前進ベースキャンプで「ただいま、頂上です」と人類初の女性登頂者の声を聞いたのである。久野英子隊長率いる「エベレスト日本女子登山隊」が成功した瞬間だった。メイル・ランナーに一報を託し、カトマンドゥに待つ同僚に届けてもらったが、脚力に頼る報道の現場にいたことは、なんだか懐かしい。
◆1980年5月にはチョモランマ、つまりエベレストのチベット側にいて、登頂のニュースを送ったが、この時はインマルサットという便利なもの(とはいえ、アンテナが大きくて輸送に苦労した)があり、脚力に頼らずに済んだ。
◆その後、エベレストとその周辺には、登山のスタイル、環境などに大きな変化が起きている。中でもことしは、非常に厳しい状況だったようだ。この通信の最後の作業に追われていたきのう5月15日23時42分、長い原稿が届いた。ローツェを目指していた石川直樹君からだった。6、7ページの彼の文章からまさに「たったいまの」エベレストを知ってほしい。(江本嘉伸)
■真っ白な山塊が目に飛び込んできた。それはラダックから見た、雪を冠したヒマラヤ山脈の写真。 インド北部のラダックはヒマラヤ山脈とカラコルム山脈に挟まれた険しい山岳地帯にあり、中心都市のレーは標高3500m、冬になると雪と寒さに閉ざされる。桃井和馬さんは昨年初めてラダックを訪れた時、海底から地殻の衝突により8000mも隆起したヒマラヤの複雑な地形を目の当たりにして、改めて「地球は動いている」と感じたという。
◆報告会は2011年3月16日の震災直後の釜石の様子から始まった。当時被災地の人々は興奮状態でテンションが高く、地震の様子を話したがったことが印象的だったと桃井さん。原発事故の要因は、戦後日本の過度の科学信仰が自然をも征服できると過信してきたことにある、と言う。
◆原発問題を考える時、それまで桃井さんは原発を完全に容認してきたそうだ。それは人類の欲望が加速度的に伸びた時、エネルギーの不足は戦争に結び付くと考えていたためだ。しかし、東日本大震災では想定外の津波により原発から放射能が漏れ出した。過去数万年を振り返ると、地球は何度となく震度7レベルの地震を経験してきた。驚くことに高さ100mの津波に覆われたこともあるという。地球の歴史は想定外の連続だ。「放射能の影響が2万4千年にも及ぶプルトニウムなどを扱う原発技術。本当に現在の科学技術が数万年先の安全を保障できるのか?」という疑問に、桃井さんは「NO」という答えを出した。
◆会津の安達太良山山頂にある「八紘一宇」の石碑がスクリーンに映される。それは大戦前、昭和15年7月に日本がアジアの植民地を正当化するために掲げられたスローガンで、石碑は昭和15年8月に安達太良青年団が山頂に設置したものだ。国が掲げた方針を従順に受け入れることで、どれだけ多くの福島県民が犠牲になったか。
◆そう考えると、今回の原発事故も同様の意味を持つのではないかと桃井さんは言う。政府の方針として東京の電力を賄うためにフクシマは原発を受け入れ、利益も享受してきた。しかしその結果、原発事故により放射能汚染の犠牲となった。太平洋戦争への邁進と原発推進という政府の方針に2度も騙され、2度権力の暴走を許してしまった「フクシマ」。
◆現在の「フクシマ」の中心は飯館村だと桃井さんは考える。昨年12月から除染作業が始まり、飯館村役場周辺は除染の象徴的なエリアだ。自衛隊により汚染表土が取り除かれ、高圧洗浄機によって路面が洗い流される。その結果、線量は半分以下になるという。除染作業の様子がテレビで報道されると汚染問題は解決に向かっていると都市部の人々は考える。
◆しかし、それは一時的なもので再び線量は上昇していく。そして除染エリアから数メートルの対象外のエリアでは依然数値は高いままだ。東京に暮らす我々もこの除染の現実を知らなければいけないという。皮肉なことに線量の上昇による除染作業でゼネコンの仕事は増加しており、その結果日本のGDPは上昇しているそうだ。
◆今回の原発事故では、徹底的に専門分化が進んだと桃井さんは考えている。人類は専門分化により高度な文明を持つに至った。しかし行き過ぎた専門化は、総合的な判断を難しくした。桃井さんの父親は広島で原爆を受けており、度々その恐ろしさを伝えていたそうだ。そして桃井さんの娘が生まれた時、父親は精神的にバランスを崩したという。「もしかしたら……」と言う不安。それは桃井さんが誕生した時にもあったもので、専門家の数値化された説明では解消されないものだ。
◆被災地での一週間の取材の後、桃井さんはラダックに入った。ラダックはインドとパキスタンの国境付近に位置する。インド側をジャンムーカシミールと言い、その一部にラダックがある。そこはインドとパキスタンの紛争地帯で、1974年まで鎖国状態にあったため伝統的な文化が残されたそうだ。
◆冬の間、およそ6ヶ月間は電気が制限される。一日のうちで電気が利用できるのは18時から23時まで。ラダックでは主に水力発電が行われるが、冬期は発電所の水が凍結するため発電できないのだ。突然の停電にも人々は「アッ」と声を出すことも無く、淡々と暗闇を受け入れるという。
◆「真剣に生きている人は顔がいい」と桃井さんは言う。日焼けした肌にしわが深く刻まれたラダックのおじいさん。それは無垢な心のままで、長い歳月を重ねてきた人の顔だった。本当に質素な生活を送りながら、毎日多くの時間を勤行に捧げるチベット仏教僧侶の生き方。麦焦がしとバター茶をという質素な朝食のために、朝5時から2時間も勤行を上げる。自分の命が生かされているという意識、生きとし生けるものへの畏敬の念。ラダックでは自然が厳しいが故に、人間を超えた存在と対話する必要があるのではないか。
◆桃井さんは3.11の前まで日本人の顔をほとんど撮らなくなっていた。それは日本人の顔が面白くなくなったからだ。しかしラダックで真剣に生きる人を前にして、写真を撮るのではなく、彼らに撮らされていると感じたそうだ。有名なお寺の高僧も同じく質素に暮らし、僧侶でもない人まで一日中祈り続けている。桃井さん自身、ラダックの人々の様に人生を歩んでいきたいと言う。
◆1960年代に独立したアフリカの国々では、消費の耐性が無い人々は一気に消費文明を吸収して、それまでの価値観をなくしていったという。しかしラダックは1974年以降、哲学者で環境活動家のヴァンダナ・シヴァという女性リーダーのもと、アフリカ諸国を顧みながら選択的に文明を取り入れてきた。例えば「剥く」という行為一つを見ても、様々な道具がある。包丁と知恵でできることを、経済発展のために様々な道具を開発してきた。日本では経済発展と幸せはイコールであると考えられてきた。福島では除染作業によりGDPが伸びているが、本当に幸せに繋がっているのか? そんな経済発展なら要らないと桃井さんは言う。
◆厳冬のラダックでは、寒さに耐え我慢する人々の様子が印象的だったそうだ。アメリカの宗教学者ニーバーの有名な言葉に「神よ、変えられるものを、変える勇気を与えたまえ。変えられないものを受け入れる冷静さを与えたまえ。そして、変えられるものと、変えられないものを見分ける知恵を与えたまえ」と言うものがある。ラダックの人々は厳しい自然をあるがままに受け入れている。一方、日本では変えられないものを科学技術で変えようとした。それが原発行政であり、変えられるものを変えようとしなかった怠慢だ。
◆厳冬期1月から3月まで、ザンスカール地方の村への道は積雪で完全に閉ざされる。唯一の道は凍結した河川。これを桃井さんは氷の巡礼路と呼んでいる。人々は重い荷物を背負い、つるつるに凍った道をアイゼンもなく歩く。氷を踏み抜いても、一言の文句も言わずに濡れた足で歩き続ける。厳しい自然を受け入れる人々の氷の道だ。しかし、この道も変わりつつある。昔は10日間の道のりだったが、現在は道路の建設が進み3泊4日に短縮されている。あと2、3年でいつでも通れる自動車道が開通する予定だ。
◆桃井さんはラダックでは基本的に光を撮っていたと言う。光を見つめることで闇の重要性に気付いたそうだ。スクリーンにはラダックの家の様子が次々と映し出される。会場からは「すごい」という声が漏れる。
◆まるでフェルメールの絵画のような写真。完璧な構図と色彩、窓から斜めに差し込む光、冬のひんやりとした空気感、暗い部屋の中でポッと照らし出される女性の表情。絵画と錯覚するほどの美しい写真に言葉を失い見入ってしまう。ラダックの家は電気の照明を前提として造られてはいない。窓から差し込んだ光に、明かりと暖かさを求めて家族が集う。暗い部屋では、お互いの表情を確かめ合う。窓から差し込む光の陰影によって、家族の表情がドラマチックに展開する。桃井さんはフェルメールの絵画の意味がやっと分ったと言う。「電気の無い時代だったから、あの絵画のような空間ができたんだ」と。
◆暗闇を徹底的に抹殺したのが日本の近代化だと桃井さんは言う。現代日本の住宅では、部屋の全てが蛍光灯で明るくのっぺりと照らされる。家族はそれぞれの部屋で過ごす。ラダックでは家の中で、光の当たる場所が家族の集まる中心となる。その光と闇によってきちんとした人間関係が構築されるのだ。
◆報告会は後半に入り、SECMOLというラダックの現地NPOが運営する学校の紹介に移った。この学校はインドの大学に入学するため、共通進級試験の合格レベルに至らない生徒を教育する機関だ。学校は環境への配慮にあふれていて、生徒と教師が共同生活を送る。建物は土壁で作られ、断熱材は新聞紙を丸めたものが使われていた。太陽エネルギーを有効活用して、ソーラーパネルと蓄電池に加え、太陽熱を利用した温水器やビニールの大きな温室もある。その中では冬でも野菜が育ち、乾燥野菜を作る道具もある。そして物々交換コーナーやゴミの細かな分別回収などリサイクルとリユースが進んでいる。この学校は日本よりも先進的でエコロジーの最先端という印象だった。
◆桃井さんは、これまで探検界の先輩から「なぜ、地域やテーマを一つに絞らないのか?」と言われてきた。しかし地域を一カ所に絞るのではなく、地球の周りを回る衛星のように客観的に様々な地域を見つめたいと思って活動してきたそうだ。報告会ではラダックとフクシマの対比を主軸にしながら、桃井さんが見つめてきた地球の様々な写真が披露された。安達太良山山頂にある八紘一宇の石碑、厳島神社の千畳敷の何も無い空間、伊勢神宮をはじめ日本各地の深い森、電力エネルギーの拡大を象徴するチェルノブイリの送電線と鉄塔、コイユリーテで厳しい自然を受け入れるアンデスの人々、桃井さんは様々な事例を挙げて、一つひとつを有機的に繋ぎながら、文明に対する考え方を紡いでいった。
◆「豊かさ」と「幸せ」はイコールではないと感じた桃井さん。日本は物質的には豊かだが幸せではない、ラダックは豊かではないが精神的な幸せがあると言う。日本とは対極的な価値観だ。僕は工業デザイナーとして電機製品を創っている。自分がデザインしたモノを使ってもらう喜びがある反面、人々の欲望を扇動し、環境への負荷を拡大させる罪悪感も感じている。3.11以降そのジレンマは強くなり、「本当に必要なモノは何か?」を考えている。そのヒントはラダックの人々の、自然をあるがままに受け入れる姿勢と、文明を選択的に導入する知恵にあるのかもしれないと思った。(山本豊人)
暗闇が日本から消えてしまいました。暗闇を消したのは、現代の「進んだ」文明であり、その中心に電気があります。人間が作り上げた文明はしかし、自然の前ではまったく小さく、進んでなどいない。そのことを昨年震災直後の被災地で感じ続けました。そして原発事故は、人間のおごりが凝縮することで生じたのです。人間は「自然は征服する対象」であり、「科学技術でコントロールできるもの」と捉えてきました。その思想が原発を作りました。昨年、被災地を取材した直後、私はすぐにヒマラヤのラダックに飛びました。冬期、ラダックでは夜の数時間しか電気が通っていません。しかし電気のない生活は、「人間が慎みを忘れないため」にも必要なのだと、その場所で改めて感じました。
電気のない生活では、できないことが沢山あります。テレビだって見られないし、暗い場所では危険も多い。しかし電気のないことで、人は人間が自然の一部であることを強烈に意識せざるを得ないのです。朝日が昇る時刻に働き始め、夜、日が沈めば身体を休めるしかない。ラダックの人は、自然が支配対象だと、誰も思っていないでしょう。
確かに自然のリズムの中で生活することで「できない」ことは沢山あります。また経済発展も限られてしまいます。しかし、大量の人間が地球外で生きることができない以上、人間は自然のルールに則って生きるしかないのです。自然の前に人は慎みを持ち続ける必要があるのです。ラダックの僧院では「麦焦がし」と「バター茶」だけの朝食を、僧侶たちが2時間ほど勤行を続けながら食べていました。お堂の中も、息は確実に白くなるほど冷え切っていました。そして食べるのもたかだか麦とお茶。しかし、それは間違いなく「命」の受け渡しであり、だからこそ徹底的に僧侶たちは祈りを捧げるのです。
最後に、私の講演をまとめて頂いた山本豊人さんには、最大限のお礼をお伝えいたします。その上で、私の講演と山本さんのまとめて下さった原稿との間で、多少誤解が生じかねない点がありますので記させて頂きます。カタカナの「フクシマ」を、私は「原発景気を享受してきた人、組織など」を指して使っています。その意味で飯舘村はフクシマではなく、「福島」で理不尽な被害を受けている場所です。また「除染作業で日本のGDP上昇」というのは、あくまでも「ミクロ経済」においてです。(桃井和馬)
先月号の通信でお知らせした以後、通信費(1年2000円です)を払ってくださった方は、以下の皆さんです。中には数年分まとめて支払ってくれた方もいます。万一、ここに記載されなかった方、当方の手違いですのでどうかお知らせください。通信費の振込先はこの通信の最終ページにあります。
■鹿内善三/前田良子「楽しく読ませていただいています。皆様のますますのご活躍をお祈りしています」/北村敏 /コバヤシナオキ/豊田真美「いつも地平線通信を楽しみに拝読しております。ありがとうございます」/向晶子/鳥山稔(1万円)/小山田美智子/渡辺久樹/山崎ふみえ/橋口優/豊田重雄/河田真智子
■地平線会議でも2回報告してくれたシニア探検家、中村保さんの最新作『最後の辺境 チベットのアルプス』が東京新聞から出版された。1990年春、雲南省の玉龍雪山に出かけた際、「中国にこんな素晴らしいアルプス的な秀峰があるのか」と感動、足しげく東チベット・四川・雲南に広がる「ヒマラヤの東」に通いはじめ、これまでに32回も現地を踏査している。同時に、日本山岳会が出す「Japanese Alpine Journal(JAN)」の編集長として、海外に登山・探検情報を発信し続けており、そのこともあって各国山岳会の招請で毎年のように講演旅行、今や世界で最も知られる日本人アルピニストともなっている。480ページ。美しい写真、地図も。2857円+税。
■『シェルパ斉藤の世界10大トレイル紀行』発売。「バックパッカーの天国を巡る旅」ネパールのアンナプルナ・サーキット、ペルーのインカ・トレイル、エチオピアのシミエン・トレイルなど贅沢なコースがふんだんに。こんな豊かな旅もしてたんだ。山と溪谷社 256ページ。1600円+税。
地平線通信4月号は4月11日夜、印刷、封入作業を終え、12日発送しました。駆けつけてくれたのは以下の皆さんです。
車谷建太 森井祐介 三五千恵子 江本嘉伸 杉山貴章 白根全 安東浩正 中山郁子
三五さんは、手術後で体調万全ではないのに来てくれ、地味な作業を「楽しい」と言ってくれました。中山郁子さんは久々の参加。今回も車谷君が早めに来てくれたので助かりました。森井さんがレイアウトを終えた分から車谷君がひとりで印刷に入ってくれるのです。このことは実にありがたいことなんです。
■震災後、たびたび東北に出掛ける中で、そろそろ旅を再開してもいいだろうと思うようになってきた。再開している旅館や民宿は少ないし、震災前と同じうまいものも期待できない。が、そういう時期に、いままで自転車で訪れたのと同じ旅の方法で三陸を訪ねることも無意味ではないと思ったのだ。
◆短い休みの都合で、宮古から南下する。寄り道した浄土ヶ浜は波打ち際の遊歩道こそ壊れているものの、展望台から観る景色は以前と変わりないように見えた。しかし高台を降りた鍬ヶ崎地区は津波で大きな被害を受け、被災した建物を取り壊してきれいにしただけで、まだ建て替えに至っていない。
◆閉伊川を渡って磯鶏、高浜と同じように建物の土台だけが残った町並の中を走る。それでも子供たちは道路で遊び、散歩する人もいて、表向きの暮らしに不便さは見えないが、元の場所に住めないのはつらいだろう。重茂半島に入り、白浜から「月山登山口」バス停のある標高200メートルあまりの峠を越える。重茂中学校の夕方のグラウンドでは野球部が練習している。その向こうには青い海が見える。
◆ジャージ姿の女子中学生とすれ違い、「こんにちは」と挨拶を返した。大浦佳代さんの報告にあったJFの建物は集落随一のコンクリート造りの立派な建物だったが、金曜日の夕方ではもうひと気がない。郵便局を過ぎて坂を下る。しばらく行くと津波に流された平地に出た。「里」の真新しいバス停がぽつんと立っている。自販機もある。ただ建物はコンクリートの土台だけが残り、ひっそりとしていた。
◆漁港の近くに家々が立ち並ぶ光景がまぶたに映った。重茂川に架かる橋も流され、いまは仮橋が架けられていた。県道は重茂川に沿って上流に向かう。ずいぶん奥まで津波が遡上したものだと思う。夕闇が迫って来た。再び森の中の峠を越えて、谷間に開けた姉吉の集落の中を抜ける。明かりの灯る家があれば、お勝手から湯気の立ち上る家もある。夕食時なのだ。日常の風景に心和んだが、200メートルもいかないうちにひしゃげたガードレールが見えてその気分がすっ飛んだ。深いV字型の谷間をえぐり、波は海抜38.9メートルまで達したという。
◆ようやく谷を抜け出して海が見えたとき、私は呆然とした。目の前には、何もなかったのだ。かつて海辺から少し上にあったキャンプ場は忽然と消えてしまっていた。殴られたような衝撃を受けた。まだ早すぎた。三陸の沿岸で被災した人と、被災せずにその外側からやってくる人の「常識」の差がまだまだ大きいことに、私は衝撃を受けたのだ。
◆自分にとってのふつうが通じないこと、地元の人たちのふつうが意外なものに映ること。実はそれは、自分のホームグラウンド以外のどこを旅していても多かれ少なかれ感じることで、旅はこの彼我の差を確かめる行為であるといっても過言ではないだろう。いままで私たちは、地理的な隔たりであったり、民族・文化的な隔たりによる違いを体験してきた。
◆しかしこの隔たりはそれとは違う、同じ震災を経たと言っても、それによって被った体験の強弱の違いによる「時間的な隔たり」といったものなのではないだろうか。深い崖に囲まれた入り江に、波の音だけが聞こえる。吹き晒しになってしまった入り江におそらく倉庫代わりとして唯一置かれていたワゴンの廃車体を風よけにして、その晩は泊まらせてもらった。
◆翌朝は本州最東端のトドヶ崎灯台を往復して、千鶏、石浜、川代と海岸沿いの村々をたどり、山田に出て国道を大船渡まで南下した。明治、昭和の津波でそれぞれ壊滅した姉吉では家屋を森の中に移して昨年の津波では無傷だった。対照的に岬を隔てた千鶏のほうが被害が大きかった。
◆昭和8年の被災を調査した山口弥一郎によれば、当時も高台移転の動きが各地にあったが、移転先の田畑の権利関係が複雑だったり、地主が法外な地価を提示したりとさまざまな事情があって、結局被害にあった元の場所に「仮屋というには少々永久的な家屋」などを建てて再建した例がみられたという。
◆もちろん海岸地形の違いも大きいが、それ以上にこうした高台移転の経緯が昨年の津波被害の大きさに直結している。海岸に住む人の意識だけでは津波からの被災は免れない、高台移転にしてもがれきの処理にしても、地域全体で助け合わないとならないと感じた。そのためにはやはり昨年どんなことが起きたのか記憶にとどめておくことが大切なのだ。
◆山がちのリアス式海岸も、大船渡から南はだいぶ平地が出てくる。東西両側から津波が押し寄せたという広田半島は賀曽利隆さんから聞いていた以上。ただ平原が広がっているのに絶句する。陸前高田ではそこに町があったということに再び絶句した。東京から何ができるのかと、新たな考えるきっかけをもらったような気がした。(落合大祐)
昨年、10年ぶりにエベレストに再登頂し、今年はローツェに登るべく、4月上旬にエベレスト・ベースキャンプ(以下BC)に入った。知らない人のために一応解説すると、ローツェの標高は8516メートル、世界第四位の標高を誇り、エベレストの隣にあるので、ノーマル・ルートで登る場合は標高7300メートルの第3キャンプまで、エベレストと同じルートをたどる。
昨年エベレストの頂から最終キャンプがあるサウスコルへ向かうまで、ぼくはずっとローツェと対峙していた。目をそらしても視界に入ってきた。そのうち、あの頂からこちら側、すなわちエベレストを眺めたらどのように見えるのだろう、という思いが湧き上がった。というのも、サウスコルからエベレストを見上げると、頂上手前の南峰しか見えないのだ。本当の頂上が写真に写らない。
そんなわけで、今年はローツェに向かうことにした。ぼくはエベレストに関するルポルタージュを書き、写真集を作りたいと常々思っていたので、ローツェの頂からエベレストを撮影すると共に、ローツェに登ればエベレストをめぐる登山者たちの姿も取材できると思ったのだ。色々な意味を込めて、ぼくは今春のローツェ行きを決意した。
隊は、10年前、そして昨年のエベレスト登山と同じヒマラヤン・エクスペリエンス隊(以下、HIMEX隊)を選んだ。ラッセル・ブライスが率いる国際公募隊の雄である。
4月上旬にベースキャンプ入りをし、近くにある標高6000メートルのロブチェピークという山には二度登った。二度目は頂上にテントを張って二泊し、順応も完璧に済ませ、体調も良かった。高所順応のための山としては、アイランドピークなどが有名だが、最近はロブチェピークもよく使われる。このロブチェピークを高所順応の山として切り拓いたのも、公募隊ではラッセル・ブライスが最初である。
ラッセルは、エベレストのチベット側で長年にわたって隊を率いてきた。しかし、中国政府の締め付けが厳しくなり、チベット側でこれ以上、遠征を続けるのは不可能と判断して、2009年からネパール側に移ってきた。
それまでチョオユーやシシャパンマでも隊を率いてきたのだが、2009年前後から拠点をネパール側に移したことで、チョオユーやシシャパンマからも手を引き、代わりにマナスルで公募隊を催行するようになった。興味深いことに、その年を境に、チョオユーの登頂者はどんどん減っていくことになる。ラッセルとシェルパ・チームによるルート工作がなくなったことが大きい。逆にマナスルは登頂者が増えた。これは同様にHIMEXが新しいフィックス・ロープを張ったことに起因する。
つまり、HIMEXはエベレスト界隈において、先導的な役割を果たす公募隊であり、この隊の動きが、その年の他の数多の遠征隊の動向を左右するほどの力を持っていると言ってもいい。ぼくが2001年にチベット側からエベレストに登った頃もラッセルは有名だったが、それから10年以上の歳月が経ち、HIMEXの存在感はますます大きくなってきたと言える。
それは、HIMEX隊のサーダー(シェルパ頭)にプルバ・タシがいるということも関係している。プルバは、エベレストに20回近く登頂し、さらにチョオユー、シシャパンマ、マナスル、ローツェなどに複数回登頂している。もっと言えば、アマダブラムやアイランドピークやロブチェピークなどの登頂も含めたら、何度ピークを極めたかわからないほどの経験をもつ。登頂ばかりではない。数多くのレスキューをこなし、ヒマラヤを知り尽くした文字通り世界最強のシェルパである。そして、登山経験ばかりでなく、人格者でもあった。
シェルパにも格付けのようなものがあって、クムジュン村やポルツェ村出身のシェルパが、どういうわけかエリートと見なされる風潮がある(このあたりの詳しいことがわかる人がいたら、教えてほしい)。プルバはそのクムジュン出身で、村のリーダーのような存在でもあり、他の隊も含めた多くのシェルパに慕われている。
昨年もプルバがリーダーとなって、他隊のシェルパと協力して、エベレスト頂上までルート工作を行っている。つまり、そのシーズンの最初にフィックス・ロープなしで頂上を極めているのは、プルバを含めた10名弱のシェルパ・チームなのである。ぼくたち登山者は彼らの轍をたどっているに過ぎない。
そんなプルバとラッセル・ブライスが組んでいるからこそ、HIMEX隊はエベレストで先導的な役割を果たすことができる。そして、そのHIMEX隊に、ぼくは今年も参加して、ローツェを目指した。
ところが、である。
今年のエベレストは、そのラッセルとプルバを持ってしても、どうにもならないほど状況が悪かった。まずは4月末にC1とC2のあいだで大規模な雪崩が起き、それを皮切りに、悪いことが次々と起こった。
今年のエベレストはあまりにも雪が少なすぎた。昨年の秋以降、まとまった雪がほとんど降っていない。つまり、極度に乾燥し、記録的なドライ・シーズンとなったのだ。それが何を意味するか。サウスコルに向かうための壁、ローツェ・フェイスに、落石が頻発した。さらにBCのすぐ上にあるアイスフォールのセラックがほぼ毎日のように崩壊し、ルート工作に向かったシェルパたちに負傷者が続出した。いくつもの梯子が吹っ飛ばされ、梯子をかける専門のシェルパ、アイスフォールドクターたちもお手上げの状態だった。
C3はローツェ・フェイスの上部に作られる。そのC3に張ったテントの多くは、ローツェからの落石によってつぶされている。8000メートル峰14座すべてに無酸素で、女性として初めて成功したオーストリアのガリンダが、今季、ヌプツェからローツェへのトラバースに挑戦するため、エベレストに来ていた。そのガリンダがいち早くエベレストのC3まで登って一泊したのだが、夜中でも休むことなく落石を浴び、極めて危険な状態だったという。そして、ガリンダは下った。
アイスフォールの崩壊、ウエスタンクウムの雪崩、ローツェ・フェイスの落石という3つの悪要因が重なり、荷揚げは進まず、シェルパによるルート工作もC3までがやっとという状況だった。通常なら4月末あるいは5月はじめには頂上までのルート工作が完了しているはずなのに、5月15日現在、まだサウスコルにようやく到達した状態である。
HIMEX隊のシェルパにも犠牲者が出た。セカンド・サーダー(シェルパ頭の次)であるドルジの兄、ダワが頭に落石を受けて、右半身が麻痺し、ヘリでカ
トマンズに運ばれた。ドルジも付き添って、BCを後にしたのだが、その後、ダワは亡くなった。他の隊のシェルパには、顎に落石を受けてヘリで搬送された者や、腕に落石を受けて負傷した者、その他落石による怪我人が多く出た。
C2入りしたHIMEX隊のエベレストチームは、例年ならC3一泊という順応を行ってBCに戻ってくるのだが、この状態では、誰もC3に上がれない。そしてついに、ラッセルは、登山活動を中止する決断をした。プルバもこれ以上のルート工作は危険すぎると述べている。ダワの死がシェルパ・チームを大きく動揺させているのも事実である。
ラッセルは他のチームの動向を気にすることなく、自分のチームのことを考えて、早期撤退という、とてつもなく大きな決断をくだした。今回のHIMEX隊にはイギリスからテレビ取材も入っている。成功すれば今後の集客にも繋がったことだろう。また、登山者のなかには地元の誇りとしてエベレスト遠征に参加した者もいたはずだ。何年もかけてトレーニングを積み、多額のお金を支払って参加した者もいる。会社を辞める覚悟で長期休暇をとってエベレストに賭けていた者もいたに違いない。
みんな並々ならぬ決意でここに集まっている。そうした期待や思いを存分に知りながら、判断を鈍らすことなく、シェルパと参加者のリスクを考えて、ラッセルは素早く決断した。ねばること、あきらめないこと、それは時として好意的に受け取られるが、そのことがプラスに働くとは限らない。クラカワーの『空へ』を読んだ人はわかるだろうが、もしもロブ・ホールだったら、まだまだ遠征を続行していたように思う。ロブ・ホールが三流だったとは決して思わないが、今回のラッセルの決断は、体裁を気にする三流のリーダーや経営者には決してできないことである。ぼく自身、ローツェに登れないのは非常に残念だが、数十年に一度あるかないかの悪状況のエベレストというものを間近に見て、さらにHIMEX隊の重大な決断の瞬間に居合わせて、書き手としては光栄である。昨年が幸運に恵まれただけに、その対極ともいうべき最悪な状況のエベレストとそれをめぐるシビアな現実を垣間見ることができたからだ。
今季のエベレストには、登山界のスターが揃っている。前述した8000メートル14座無酸素女性初のガリンダ、人類の課題ともいうべきローツェとエベレストの縦走に挑むシモーヌ・モロー、スピード登山のウーリー・シュテック、ナショジオにバックアップされたコンラッド・アンカー。さらに我がHIMEX隊のガイド陣には、ピオレドール賞を創設したフランソワ、エベレスト北東稜に新ルートを築き、無酸素登頂にも成功しているハリーなどもいた。エベレストに参じたこれらの面々が、今後どのように動くのか、まだシーズンが終わっていない以上、最後までこの希有な状態のエベレストを注視したい。
詳しくは、ぼくのブログに日記が掲載されている。興味を持った方は以下を参照されたし。
http://www.littlemore.co.jp/foreverest/
■22日午前零時に福島第一原発から20km圏内が警戒区域に指定され、以降の立入りが禁止されるということで、私はペットレスキューに奔走していた。一匹でも多くの命をここから救い出さなくては! という危機感と緊張の中で駆けずり回ったけれど時間切れで救えなかった命がたくさんあり、最後は大量のフードを置いてくるしか術がなかった。地平線報告会で発表させていただいた前日のことだ。
◆そのちょうど1年後の2012年4月21日。やはり私は警戒区域の富岡町にいた。福島県を代表する桜の名所・夜の森の桜は満開で、見事な桜のトンネルになっていたけれど、愛でる人は誰もいなくて、一時帰宅か除染業者か防護服の人たちが時折通っていくだけ。放射線量は地上1mで4〜5μシーベルト/時。再び花見客で賑わう日がやってくるのはいつのことなんだろう。
◆まさか、1年経ってもまだペットレスキューを続けているだなんてあの時は考えもしなかったけれど、原発事故と同様、福島のペットレスキューは収束にはほど遠い状況のまま。さすがに圏内を放浪している犬猫は少なくなったものの、この時点で残っている犬猫はなかなか姿を現さない。ときどき見かけてもすぐに逃げていく。
◆犬猫が少なくなった代わりに、無人の街には狸や狐、イノシシ、サルなどの野生動物の姿を見かけることが多くなったが、あれだけたくさんいた放浪牛はこの1か月でめっきり少なくなった。餓死を免れ、厳しい冬を越して1年以上も生き延びた貴重な命なのに、富岡町以外では多くが殺処分されてしまったのだ。
◆いずれにしても、警戒区域内にはまだ多くの命が残されているのは確か。あきらめずに探し続けている飼い主も多く、そうした命をつなぐために、私たち以外にもまだ福島のペットレスキューを続けてくれている団体、個人も少なからずいてありがたいなあと思っている。相変わらず福島県民が少ないのが残念だけど。というより、田舎のほうでは避妊去勢もしないで子犬子猫は川に流したり雪に埋めたりなどがあたりまえの現状で、同じ県民として恥ずかしい限りだ。
◆一方、警戒区域が解除された南相馬市小高区では、原発から10kmの浪江町境まで誰でも自由に立ち入りできるようになり、住民や工事関係者など人間の姿を多く目にした。無人だった頃が嘘のようだけど、津波被害の爪痕がそのままで復興まではまだまだかな、という印象。
◆とはいえ、桜が満開だった小高神社にも花見に来る人がチラホラいて、誰もいない境内に咲く桜を見ながら「これからどうなるんだろう」という悲壮感しかなかった昨年と違い、今年は明るい希望が感じられた。
◆もともと南相馬の放射線量はあまり高くなく、海沿いでは0.2μシーベルト/時くらいと郡山や福島市より低かったのだから、もっと早く開放してもよかったのに、と思う。20kmという同心円状の線引きの無意味さにどうして気が付かなかったのだろう。
◆南相馬に先んじて全村避難指示が解除された川内村では、役場も戻り、いくつかの商店や企業がオープンしたり、新しい公園を造成中だったり、大がかりな除染活動をしていたり、と活気が戻っている感じ。来年の本格的な作付準備として今年は試験的にコメ作りを開始するとのことなのだけど、そのわりに帰村する人が少ない。
◆川内村はほんの一部が20km圏内にひっかかっているだけで、あとは全域が30km圏内になる。一時期、全村避難となったものの、当初から放射線量は低くて現在も0.1〜0.2前後。郡山市内よりかなり低いのに、郡山中心部のビックパレット横にある仮設住宅には、今も多くの住民が暮らしていて帰村しない。放射線量を考えると戻ったほうがいいはずだけど、都会生活の便利さに慣れたのと補償問題が大きいのだという。
◆郡山から川内村は車で2時間程度なので、行ったり来たりする住民も多い。都会に家賃タダの別宅があるようなものだし、補償問題でも有利になるなら手放す理由はない。同じ仮設には「本当に帰れない」富岡町の人も住んでいて、「川内の人はどうして帰らないのかしら? 自分の家が一番いいのに」と言う。
◆(私的には双葉郡8市町村では川内村が一番被害度が低いと思います。地震津波の被害はないし、30km圏内なので補償金も大きいけど放射線量が低いし、飯舘村などと違って1か月後くらいからは自宅に戻って堂々と住めたし仮設住宅は郡山で便利だし。医療費や高速料金も無料だし。また、原発被災者は一人月10万円じじばば子供も貰えるので、7人家族なら70万円+いくらか入るので、農業や商売するよりずっといい。二本松あたりには浪江町の人が多いけれど、100円じゃない寿司屋が大繁盛。パチンコ屋も毎日盛況。仮設住宅には新車がたくさん。また福島では震災後、求人は実はたくさんあるのだけど、これだけもらっているので、はした金で働く人はいない。山形には宮城の津波被災者、福島市近辺の自主避難者も混在しているけれど、補償金をたくさんもらっている原発被災者は金使いが派手なのですぐにわかるとの話。また、不動産も活況だそうです)
◆また、警戒区域の見直しは他町村では国との合意が得られず、比較的線量の低い楢葉町でも1年後くらいとのこと。20km圏内以外の計画的避難区域の浪江町津島地区や飯舘村長泥地区など、今後「帰還困難区域」に指定される予定のエリアもある。特に飯舘村では補償金の問題もあるのだろうけど、当初は「全村を帰還困難区域にしろ」という無理な要求をしていた。たしかに線量はそれなりに高いけど…。
◆三春町の仮設に避難している葛尾村民は全村一致で戻らないと決めているそうだ。線量低いし、もともと田舎で商店などもないから以前も現在も変わり映えしないし、自宅に戻りたい人もきっといるはずなのに。
◆という感じで、最近は警戒区域の見直し、仮の町構想、汚染土壌の仮置き場問題、除染、仮設住宅の孤独死などのニュースが多いが、福島県民はいたってフツーに暮らしている。マスクをしている子供もほとんどいないし、校庭での活動やプール授業も再開される。地域の草刈りも今年は再開した。放射線のことを気にしてないといえばウソになるけれど、今福島に住む県民はある意味開き直っている。気にしても仕方がないし、放射能問題を抱えつつ生きていくしかないのだから。
◆まだまだ伝えたいことはたくさんあるけれど、とりあえずはこのへんで。最後に、ペットレスキュー活動はまだまだ続いています。関心を寄せてもらうと同時に、里親、義捐金、ボランティアなどで、ぜひ継続的な支援をお願いしたいと思います。よろしくお願いします。(滝野沢優子 福島県天栄村住民)
■先日のGWの期間中(4/30〜5/5)、東京〜新潟間を走る「川の道フットレース」に出場してきました。このレースは東京/葛西臨海公園をスタートして、荒川を遡り、奥秩父の三国峠を越え、長野/千曲川〜新潟/信濃川〜日本海と川沿いのルート約520kmを走破、日本列島を横断するという大会です(制限時間:132時間)。途中3箇所のレストポイントで入浴、食事等最低2時間休憩(合計6時間)するというルールがある以外には基本的にノンストップ。1ステージのレースとしては国内最長の大会です。
◆今年で4回目の出場ですが、最終日は台風並みの風雨に遭い気持ちが折れそうになったものの、無事日本海まで辿り着く事が出来ました。昨年も出場する予定が、震災により止む無く断念。そうした所、途中で交通事故が発生し大会は中止となってしまったのです。今回走る前に誓った思いは「鎮魂」。昨年当大会で亡くなられた方(仮称Sさん)、そして震災で亡くなられた方々の無念さを思いながら、日本海まで走ろうと決めました。ザックにはそのSさんの永久ゼッケンと「福島県/渡辺アキラ」と書いたプレートを付けて走りました。福島県人元気だぞ、とアピールするために……。
◆4/30、AM9:00に葛西臨海公園を、フル(東京〜新潟)66名、ハーフ(東京〜小諸)33名のランナーが一斉にスタート。長い旅路の始まりです。序盤の荒川河川敷では早くも蒸し暑さにバテ気味に。夕暮れ前には熊谷市内を通過、深夜に秩父市街を過ぎると、山間部に入ります。夜通し走り、第1レストポイント、中津川林道入り口にある「こまどり荘」(170km地点)には、5/1、10:21着。
◆早速お風呂に入り、塩々の体を流し気分爽快。カレー大盛2皿をビールで流し込み、バタンキュー状態で2時間程爆睡しました。気力体力とも7割程回復し、14:20には再出発! 最大の難所、三国峠越えに挑みます。峠まで約18kmの中津川林道は関東屈指のロングダート。ワザワザ止まって声援をくれるライダーもいました。
◆いいペースで、三国峠に到着(18:10)。長野県側に入ると一気に気温が冷え、たまらず上着と手袋を着用し、ライトの明かりを頼りに下って行きます。R141に出てからは眠さと疲労にフラフラで、小海線の駅舎で10分ほど仮眠休憩。
◆第2レストポイントの「小諸グランドキャッスルホテル」(264km)には5/2、9:18着。ここで終了となるハーフの方々と、ビールで乾杯し、すぐさま仮眠です。2時間程眠り、15:05、雨の中、傘を差してスタートしました。
◆R18(北国街道)では千曲川との並走。チェックポイントでもある善光寺(321km)では、誰もいない本殿でお参りしました(早く福島が復興しますように……と)。雨足が強くなったので、ガソリンスタンドで仮眠休憩。雨と疲労と眠さのトリプルパンチでもうボロボロです。でも、「他のランナーも一緒に走っているんだ、自分だけじゃない!」と気持ちを振るい立たせ、進んでいきました。
◆飯山駅(353km)を過ぎると天候が回復し、雪の残る山々をバックに、一面の菜ノ花畑がお出迎えです。といっても、次のレストポイントまで50kmもあるため、のんびりしてはいられません。県境を越え新潟に入った津南町では残雪の多さにビックリしました。
◆十日町にある第3レストポイント「かみや旅館」(408km)へは、ようやく5/3、21:03に到着。もうバテバテの極地です。ここでもカレー等暖かい食事でパワー充電した後、早々眠りにつきました。これだけの距離になるとランナーの間隔も2〜3時間は空いてしまうため、スタッフの方も大変です。疲労のためか携帯のアラームに気付かず、予定を1時間超過してのスタートとなりました(5/3 2:10)。残すところあと110km、ようやく日本海が見えてきた感じで一気にテンションが高まります。
◆ここまでくると疲労を通り越して、ある種のランナーズハイ状態となるのでしょうか、ペースを落とさず走れるように復活してきました。小千谷市内を通過し長岡駅前(457km)には正午頃着。行き交う多くの人がザック姿でヨタヨタ走る人を遠目に見ているのが分かります。近くにいた小学生に「東京から走ってきたんだぞ!」と話すと「ウソだ〜」と信じてもらえませんでした(当然ですよね……)。
◆R8に出てからは日本海まで一直線の道が約50km延々と続きます。毎回ここが一番気持ち的に辛くなる場所。ゴールが近づくに連れ、気持ちばかりが先走り、それに反して足が動かず、イライラ感が募ってきます。それに加え今回は台風並みの風雨です。横殴りの雨に傘で応戦。もう全身ずぶ濡れ状態です。
◆国道沿いの飲食店での家族団らんの光景が、とても楽しそうに映りました。なんで自分はこんな事やってるのか……。そんな事が頭を過ぎります。ただ今回は私一人ではありません。昨年亡くなられたSさんと一緒にここまで走ってきました。 この状況下でSさんも懸命に走っている、そう思うと足が動くのです。あともう一息! ……また、昨年の震災の事を思えば、何ら辛いなんていっていられません。ここで負けるものかと……。
◆そうして、ようやく信濃川河口、日本海に到着(5/4、23:40)。日本海らしく荒々しい波飛沫に向かって、「Sさん、やったぞ日本海だぞー!」「東北、福島、必ず復興させるぞー!」と涙ながらに叫びました。そこから約4km走り、ゴールの健康ランドへは5/5、0:25到着。辛く長かった旅が漸く終わりました。
◆今回は例年に無いくらい、いろんな思いを噛み締めながら走りました。震災の事、今後の事、地元の事、そして原発事故の事……。「福島県」のプレートを見て、「大変だけど頑張って!」との声援を多数頂きました。520kmという距離を走破し、一つ一つこれらの難題を乗り越えて行こうという思いを新たに感じました。東北の復興、とりわけ福島の復興はまだこれからの状態です。県民として出来ることに積極的に拘っていこうと思いを再認識しました。■レース1週間後にこの原稿を書いていますが、あれ程辛く苦しい思いをしたのに気持ちは既に来年に向かっています。「よし、来年は目標100時間か……」。これがランナー病なのでしょうか。ねえ江本さん、三輪さん……。【レース結果(順位)10位/66人(タイム)111時間25分] 福島県いわき市在住 渡辺哲(楢葉町出身)
■4月号の「地平線通信」を読ませてもらいました。その中ですぐに目についたのは「ミスターXさん」の「不整脈」。同病相哀れむといったところでしょうか。この辛さ、苦しさはよーく、わかります。
◆1997年12月29日未明、50歳を過ぎたばかりのカソリは突然、心臓発作に見舞われました。何がなんだかさっぱりわからない…というのが実感で、それから半年は地獄の日々。人間、心臓をやられると体がまったく動かなくなってしまうのですね。一番、辛いのは階段を登れないこと。家の1階から2階には這って登るような始末。それでもバイクに乗るようになってからは回復し、夏頃にはずいぶんと体が動くようになりました。その頃からです、ひどい不整脈に襲われるようになったのは。ぼくの脈拍は60(1分間)前後なので、1日では86400回脈打つはずなのですが、何とそのうちの4分の1の30000回以上が抜けてしまうのです。もう1日に何度となく脈拍を測るのですが、そのたびに手首を振って、「おい、おい、元に戻ってくれよ」というのが常でした。
◆心臓発作のときは我が家に近い大学病院で診てもらったので、再度、診てもらうと、「よくこれで生活できますねえ」と先生にいわれたほど。「できないから来たんですよ」という言葉を呑み込みました。そしてその日から薬漬け…。ところが3か月たっても4か月たってもちっともよくならないのです。いやそれどころか気分は超ブルー。というのは、その薬は心臓の活動を抑えるものなので、何かをしようとする気持ちがまったく失せてしまうからです。
◆心臓発作から1年が過ぎ、年が明けたころ大学病院にいくと、「不整脈とは一生、付き合わなくてはなりませんね」と先生に宣告されてしまいました。「今度は薬を変えましょう」といわれ、その薬を飲み始めてからが大変。今度は心臓を活発に動かす薬だということで、ピョンコピョンコ飛び跳ねたくなるほど。「もうダメだな!」とカソリ、自分の判断で病院と先生に見切りをつけ、「薬は一切、飲まない、病院にも一切、行かない!」と決めたのです。このまま薬を飲みつづけたら「殺される!」と本心から思いましたよ。
◆1999年4月1日、1年遅れの「50代編日本一周」に旅立ちました。250ccバイクを走らせ、東京を出発してから13日目、四国の四万十川沿いに走っているとき、心臓の調子がすごくいいことに気がつきました。すぐにバイクを停め、脈をはかってみると、「コットン、コットン…」という正常な脈拍、いやー、うれしかったですねえ。あれから14年、心臓発作の再発はなく、不整脈も一度も出ていません。ミスターXさん、不整脈にはバイクに乗って「日本一周」に出るのがいいみたいですよ。(賀曽利隆)
■ゴールデンウィーク後半、東松島に初めて自分の車で行った。「災害派遣等従事車両」の高速無料化は、活動内容を「瓦礫撤去」に限定して6月末まで延長された。無料利用期間は当初去年の12月10日までだったが、この措置がなくなるとかなりつらいので11月に延長の呼びかけをして、3月10日まで延長。2月に再び呼びかけて、再度延長が認められたけれど、ようやく3月末までだった。さすがにもう延長は無理?と半ば諦めかけていたが、活動が限定されたとはいえ継続されたのは本当にありがたい。
◆この措置は、基本的には、被災地の要請で瓦礫撤去作業を行う人に限られる。アウトドア義援隊は、市から仕事をもらうわけではなく、勝手に仕事を探して活動しているが、これまでの実績が認められてか、事前に具体的な活動内容の登録をすれば、社会福祉協議会が活動を証明してくれる。この書類を持って、都道府県庁や市役所で手続きをすれば、「災害派遣等従事車両証明書」が発行される。
◆東日本大震災から1年以上が過ぎた時期に、被災地から遠く離れた大和郡山市役所(奈良県)でどんな対応をされるか、少し興味があった。行ってみると、総合案内の女性は、「サイガイハケンジュウジシャリョウ」という言葉が全く想像つかないようで、何度も聞きながらメモをとった後、窓口を探してくれた。担当窓口でも、「それはもう終わったんじゃ…」から始まったけれど、書類の場所や手続き方法などを次第に思い出したようで、結果的には親切な対応をしてもらえ、気持ちよく帰ることができた。
◆東松島での活動は、去年のゴールデンウィークに始まったから、通い始めてちょうど1年になる。この時期になっても、ボランティア初参加の人が来てくれることが、私たち常連にとってはかなりうれしい。今回も、遠くはハワイからの参加者を含む、初参加者数名と、1年振りの人も何人か混じり、多い日で45人、ゴールデンウィークの延べ人数では約150名が活動した。
◆ちょうど1年という節目なだけあって、1年前のことをいろいろ思い出す。重機を使うような瓦礫撤去作業や、リフォームに向けた被災家屋の片づけや床・壁はがし作業などもまだあるが、1年前に比べると、やっている作業が随分平和だと思う。去年はひどかったし、きつかった。瓦礫はいちいち大きかったし、側溝の泥は非衛生的でひどいにおいだった。作業量も半端なく、終わる気配が全くなかった。遺体やそのパーツが出てきやしないかと、ひやひやハラハラしながらの作業だった。
◆今年は、集まった人数に対して十分に作業がない日もあったので、会いたい人の家へ行って話をしたり、畑作りを手伝ったりもした。1年前、大雨の中、みんなで瓦礫出しを手伝った畑。「あの時みんなが来てくれて、あの雨の中、手伝ってくれて本当にうれしかった。最初は申し訳なかったけど、だんだん楽しくなってきて、地震の後、初めて心から笑えたんだ。あの日から、よし、がんばろうって思えるようになったんだよ」と、その畑の主はよく話してくれる。
◆そんな思い出の畑で、今年はみんなで種をまいた。初めてボランティアに参加した小学校1年生の女の子や、畑の近所に住む地元の小学生たちも一緒になって、遊びながら種をまいた。でも実はそのすぐ隣の敷地で、4月の終わりに白骨化した男性の遺体が見つかっている。撤去しようとした倉庫の瓦礫の下に、その男性は1年いた。1年経って、地域がずいぶん明るくなったことも事実だし、今ようやく見つかる人がいることも事実。空地は多いし、店はないし、雨や大潮で冠水するし、電車は走っていないし、まだ元の生活には程遠いけれど、確かに、明るくなっている。
◆別の家では、家主と一緒に床下にもぐった。「一人じゃ怖くてもぐれねえから、あったかくなったら一緒にもぐってくれ」と言われていたおうち。とりあえず怖々、ひとりで潜ってみて、大丈夫そうだから家主も一緒にもぐった。外から見ると家の基礎の下に隙間ができているところがあって、床下がどうなっているかずっと気になっていたらしい。潜ってみると、床下が大きくえぐられて、ところどころ基礎が浮いてしまっていた。人が入っていないかがいちばん怖かったけれど、どうやら入っていなくてほっとした。
◆東名・野蒜地区。この先、まちづくりをどうするのか。去年5月半ば、この地区から市に、高台への集団移転の要望が出された。この地区に住む住民はこのことを後になって知る。5月というとまだ、行方不明者を捜索したり、家を片づけたりという段階で、集団移転の話ができるような状態ではなかった。住民の合意どころか、話し合いすら行われないまま、要望書は区長らによって提出されていたそうで、市は他に先駆けて集団移転のモデル地区とすることを目指して、移転用地の取得などに積極的に乗り出すことになる。
◆9月の時点で移転希望者は住民の6割、その後、11月に再調査したところ、希望者は3割にまで減ったという。その後も少しずつ住民たちが元の場所に戻って生活を始めているところを見ると、現状の移転希望者はさらに減っているだろう。
◆元の場所に住み、元の場所に電車を走らせてほしい住民と、「集団移転モデル地区」を実現させたい行政。完全にねじれが生じている。走り出したら止まれない行政が、何人住むかわからない町を作ることにばかり熱心になって、現実に人が暮らしている町はさっぱり復興されていかない。店も病院もまだない。
◆天下りの区長が市の思惑と連動する現状の仕組みでは、住民の意見は吸い上げられもしないことが、この大震災で身に沁みて分かった。そんな住民のひとりが、まちづくりのための住民の会を立ち上げようとしている。そこに住む人たちがどうしたいのかをきちんと聞いて、まちづくりに反映させたい。こんな当たり前のことが、まだスタートラインにすら立てていない現状。震災復興とは別の問題が、復興を邪魔するもどかしさを感じながらも、立ち上がる住民がいることが救いだ。この1年、被災地に通いながら、実に多くのことを学んでいる。月1回、通うことが、相変わらずの目標だ。(岩野祥子 奈良県住民)
■こんにちは! 新緑まっさかりの宮城です。4月に1年以上住んだボランティア拠点の小学校を出て、普通の家(シェアハウス)に移りました。夜、窓をあけてカジカガエルの大合唱と沢の音を聞きながら寝るのが大のお気に入り。タヌキ、キツネ、キジ、カモシカなど動物たちも活発です。待ちに待った東北の春、人の表情は明らかに和らいでいます。
◆最近はいつもの仮設住宅に通うほか、被災地の情報を首都圏に発信するフリーペーパーの取材などで主に南三陸町を動きまわっています。住人も外部からの支援者もそれぞれが色んなことを考え、様々な団体がバラバラと生まれている中で、一番希望を感じるのは、地元出身の20代、30代の若者たちのネットワークです。「自分たちが未来の町の主役」と自覚し、同窓生に声掛けをしてメンバーを増やしながら、地域の様々な業種について勉強会を行なったり、小さく起業もしています。ヒトが暮らしていくには産業や福祉、エネルギー、自然など多分野のつながりが必要。
◆そんな社会の仕組みがよく見えます。自分の生活は、なんて多くの人に支えられていることか。人も資金も不足している中、柔軟な発想で町づくりに向き合う彼らからは大きなエネルギーを感じます。そして私は、同年代の動きに刺激を受けると同時に、ヨソ者の自分に何ができるんだろう?という問いにぶつかっています。そんなときパワーをくれるのが本多有香さんのチャレンジ! 四の五の言わず動き続ける姿に背中を押される気分です。有香さん、ありがとう。
◆ということで最近はあれこれお手伝いするというより、住人主催の行事等におじゃまして、地域づくりについて学ばせてもらうことが多いです。先日は戸倉の方々に誘われて、震災で倒れてしまった山の上のお地蔵様を直しに行ってきました。参加者は住人16名と犬1匹と私。急斜面を1時間登って到着した頂上に、横たわるお地蔵様。自治会長の指示のもと適当な太さの木を切り出し、ロープでお地蔵様の周りに神輿を組んでいきます。せーの!でお地蔵様を持ち上げて台座に乗せ、セメントで補修。草むしりや杉の木の枝打ちをしてスッキリしたところで、参拝しました。
◆下山後は青空の下、採れたて山菜天ぷらパーティー。皆さん明るいけど、ここは家族を亡くした方がとても多く、地域全体が悲しみの中にいるような地区です。共同作業を通して人々がつながり、立ち上がっていく瞬間を目の当たりにして、これが正真正銘「復興への1歩」なのだろうと感じました。これから津波被災した公共建築物や家の基礎の片づけが始まって、そこに盛土されていくと町の昔の様子はわからなくなります。それでも変わらずに残るのは「人のつながり」です。途絶えてしまったつながりが回復すれば、町が違う姿になってもみんなの居場所という実感が持てるのでは? 既存ネットワークの再構築、小さくても手伝えないかなと思っています。(新垣亜美)
■12年前に大阪の某専門学校が冒険旅行学科という無茶な学科を作った。講師の依頼を受け、責任者に「学校側としてのタブーはないんですか」と問うと「ないから好きなことして」とすごい答えがかえってきた。いったいどんな生徒がこの講義を選択しているのか、最初に15人の生徒にアンケートをとってみる。どんな本を読んでいますか、という質問では、8割ぐらいがマンガ本、雑誌を除いて活字と向き合う習慣がないことがわかった。なかには「本は読みません」とわざわざ書いてくる生徒もいた。
◆あの頃より、さらにネット全盛となった今、本が売れないのは仕方ないのかもしれない。2年前に埜口保男さんから中高生向けの本を一緒に書きませんか、という話がきた。三輪主彦さん、丸山純さん、中山嘉太郎さん、という地平線豪華メンツに私も加わって書き上げたのが『こどもたちよ、冒険しよう』(ラピュータ出版)だった。
◆専門学校での教訓から、中高生って本当に本を読むのだろうか、という疑問があったので、まずは身近な中学生にインタビューしてみた。選んだ人材が優秀すぎたのか、中学生ってこんなに立派なんだ、と感動し、これなら読んでもらえるかも、と期待したのだが、結局本は全然売れなかった。『こどもたちよ、』はいい本だと思う。本当の読者にまで届けば楽しんでもらえると思うんだけどな。
◆翌年、海外ツーリングの本も出しましょうよ、という話が持ち上がる。アフリカ中東を走った記録は、かつて新聞に連載していた記事を自分なりに原稿としてまとめている。海外を走ったライダーたちと一緒に、海外ツーリング普及活動もしているから、世の中に宣伝するいい機会でもある。でも売れるのか、となると、んんん……、としか言えない。僕にとっては夢のような話だけど、出版社としては大丈夫なの?
◆幸いこの本は売れている。そしてさらに新本『ロスからニューヨーク走り旅』ができた。階段の上がり下りで膝の痛みを感じるようになったおじさんが、地平線のウルトラランナーたちに教えを乞い、一人で北米大陸を走る。まあ一言でいうと、そんな本だ。
◆今回、僕は著者を越えて、本を作る、という作業に参加させてもらった感がある。標高図を入れればリアリティが増すのでは。使ったシューズごとに章立てすると魅力的と思う。などなどのアイデアを、編集さんやデザイナーさんと出し合い、本に使用する紙の質の違いなども教えてもらった。結果できた新本には自信あり。自分の中に壁として、立ちふさがっていた第一作『アマゾン漂流日記』を越えたかも。(坪井伸吾)
今月の報告者、本多有香さんのユーコン・クエスト完走を記念して、地平線会議として支援のためのユニークな本をつくりました。
いつも飄々とした雰囲気で地平線にあらわれる有香さん、皆さん知っての通り、ほとんど身ひとつでカナダ、アラスカの地に飛び込み、文字通りゼロからマッシャー修行を続けてきました。数年前までは自分の犬を持たなかった(現在は自分の21頭の犬と暮らしている)ため、ほかのマッシャーから犬を借りたり、参加に必要な費用はすべてアルバイトで稼ぎ出すという貧乏マッシャーです。
実際、マッシャーを続けることは、かなりの出費を伴います。現地のベテランマッシャーには大体スポンサーがついているようですが、本多有香は自力で修行し、クエストに参加してきました。有香のようにつましいマッシャーは、珍しいそうです。カナダの人たちもそのことを知っているから、ゴールの瞬間、ホワイトホースの大勢の市民が有香と犬たちのゴールを讃えたのでしょう。
今回、是非日本で凱旋報告会を、と相談し、快諾してくれたのですが、安い航空券が取れず、いったん「ムリです。来年なら……」と断りの連絡が入りました。何とか支援するから、是非来てほしい、と伝え、その中から浮かび上がったのが、本多有香の本を作り、売り上げから印刷経費を除いた分をお祝いに差し上げる、という企画でした。
発案した丸山君が進行役をつとめて3年前の「あしびなー」本を思い出させる見事な仕事をし、長野亮之介画伯がびっくり斬新な「ユーコン・クエストルートイラスト」(これは必見!)を描き、江本が「第1部」として本多有香の青春、彼女をめぐるいくつかのエピソードを書きました。
特筆されるのは過去の地平線通信に本多有香本人、または報告会レポートなど仲間たちが書いた原稿が「第2部」としてなんと64ページにもなったこと。こんなに書いてくれていたのか、と驚き、そして全部を読み通すと本多有香という女性マッシャーのまったく別な面白さが浮かび上がってきます。
さらに、ありがたかったのは、ユーコン・クエストなど犬ぞりレースを追っている写真家の佐藤日出夫さんが全面協力くださったこと。本多さんが犬たちと氷原を走る素晴らしいショットはじめ、数々の現場写真がこの本を飾っています。
皆さん、是非この支援本を買ってください。限定200部。できるだけ早く売り切り、本多さんに渡したいのです。
内容は次の通り。
第1部 ホワイトホースへの道 カラー
本多有香のこと
本多有香の軌跡
第2部 地平線通信から モノクロ
B5版108ページ
編集・構成 丸山純 イラスト 長野亮之介 文 江本嘉伸
写真 佐藤日出夫 協力 武田力 中島菊代 大西夏奈子
★頒布価格は1部あたり2500円。送料は1部80円、2部160円。地平線のウェブサイト(http://www.chiheisen.net/)と、郵便葉書で申し込みを受け付けます。(〒167-0021 東京都杉並区井草3-14-14-505 武田方「地平線会議・プロダクトハウス」宛)
★お支払いは郵便振替で、本の到着後にお願いします。「郵便振替:00120-1-730508」「加入者名:地平線会議・プロダクトハウス」。通信欄に「『うちのわんこは世界一!』代金+送料」と記入してください。いきなりご送金いただくのではなく、かならず先にメールや葉書でお申し込みを。次回の地平線報告会の受付でもお支払いいただけます。
■この1週間、2つの編集、執筆作業を同時進行させたため、珍しく、ちゃんとしたものが食べられない日が続いている。買い食いはやはり体に良くない、飯ぐらい自分で作ろう、としみじみ思った。間もなく来る本多有香は「えも煮しめ」が楽しみ、と言っているし。
◆とにかく一度、よくやったね、と皆でお祝いし、話を聞かせてもらいたい。13ページに特報した有香さんの本作りは、その思いからスタートした。彼女のこれまでの、口にはしないが並大抵ではない努力を私はよく知っている。が、個人が好きでやっていることにカンパするのでは地平線らしくないし、どうするか、と丸山純に相談したら、本を、というアイデアが出たのだ。
◆はじめ、有香自身もぴんと来ないようだった。自分がカナダにいる間にどんな本ができるというのか、と多分不思議だっただろう。でも、何度か説明し、そのうちレイアウトができ始め、メールで本の雰囲気がわかってくると、わぁ、という感じになった。
◆彼女の経費を少しでも応援したい。でも、だからこそ本の内容は最高のものにしたい。そんな意志が丸山君はじめ私たち制作スタッフにはずっとあった。わずか200部だが、あっという間に売り切れますように。
◆石川直樹君の飛び込み原稿、貴重な内容で迫力があった。ありがとう。(江本嘉伸)
ユーコンの長いお散歩
カナダと米国に股がるユーコン河に沿う1千マイル(約1600km)のコースを犬ぞりで走破する「ユーコンクエスト」レースは1984年の第一回以来、毎年のように参加チーム(マッシャー+犬14頭)に苛酷な試練を課して来ました。 初の日本人女性マッシャーとして、'06、'07、'09とこのレースに参戦してきた本多有香さん(39)は、生活の基盤をカナダに移して犬の飼育から訓練までに向き合い、今年'12年の大会でついに完走を果たしました。 今月は報告会の為に帰国する有香さんに、犬ぞりの魅力、カナダでの暮らし等、たっぷりと語って頂きます。 |
地平線通信 394号
制作:地平線通信制作室/編集長:江本嘉伸/レイアウト:森井祐介/イラスト:長野亮之介/編集制作スタッフ:丸山純 武田力 中島菊代 大西夏奈子 落合大祐 加藤千晶
印刷:地平線印刷局榎町分室
地平線Webサイト:http://www.chiheisen.net/
発行:2012年5月16日 地平線会議
〒160-0007 東京都新宿区荒木町3-23-201 江本嘉伸方
地平線ポスト宛先
pea03131@nifty.ne.jp
Fax 03-3359-7907 (江本)
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