2012年4月の地平線通信

■3月の地平線通信・393号のフロント(1ページ目にある巻頭記事)

地平線通信表紙

4月11日。雨の匂いをふくむひんやりした空気が四谷荒木町の桜をひらりひらり散らせている。この界隈は見事な「1本桜」がそこここに立っているのだ。風が吹き始めた。今頃、千鳥ヶ淵のあの桜行列の下の水面には大ぶりの「花筏」が漂っていることだろう。

◆ことしは、桜が美しかった。では昨年は?と聞かれて1年前の桜を覚えているひとはあまりいないのではないか、と思う。日本中が心底それどころではなかった。いま、少し時間が経って、静かに花を眺める気持ちになっている。3.11を忘れているわけではない。もっと時間をかけて深く考えたい、という思いだ。

◆春の前半は沢山のさよならに溢れる。映像も活字も別れの現場を、とりわけ3.11に関わる別れをこれでもか、と追い、見ているこちら側も思わずほろりとしたりする。そして、3月いっぱいで地平線会議にとって忘れられない島の小学校が消えた。沖縄県うるま市浜比嘉島の比嘉小。その卒業式、そして閉校式が22日に行われると聞き、地平線会議を代表して駆けつけた。

◆花々に囲まれて立派な石の「比嘉小学校閉校記念碑」が校門わきにできていた。碑をつくったんだから、この建物は活かすのだろう、と言い聞かせる。あらためて美しい島の美しい小学校だ、と感じた。比嘉小最後の卒業生は3人。ひとりひとりが別れの言葉を言い、19人の在校生たちが三線を奏でながら送る歌をうたった。校長先生の言葉、PTA代表の言葉、どれも万感の思いに溢れていた。島民である外間昇・晴美夫妻のほかこの島に深い愛着を持つ新垣亜美さんも東北から駆けつけた。晴美さん、亜美さんの思いは、この通信に書いてもらった。

◆閉校式のさなか、私の隣に息をはずませて1人が座った。「RQ市民災害救援センター」を立ち上げ、今も東北各地を駆け回っている広瀬敏通さん。2008年10月、私たちがこの島で「ちへいせん・あしびなー」というイベントをやった時の出演者でもある。この日午前、頼まれていた講演を終え飛んできた。

◆広瀬さんの隣にもうひとり知った顔があった。RQ女性支援センターを立ち上げ、中心的な仕事をしてきた石本めぐみさん。文字通り夜も寝ずに頑張り続け、ついに体調を崩して長期の休養に入っていた。どこにいるのか親しい友人である亜美さんですら知らなかったが「とにかくあたたかい所にいたくて」、ひとり沖縄に滞在し、回復をはかっていたのだそうだ。それが前日、まさに偶然に広瀬さんと通りで出くわし……。

◆体育館でのセレモニーを終え、いつものように外間家の庭先でコーヒーを飲み、ヤギ牧場へ行く。大きいの小さいの生まれたての、と30頭の元気なヤギたちを追って皆で山に入る。昇さんが木登りして伐る葉や枝を下で待ち構えてばりばりと食べる生き物を見ていると、なんだかこちらにもエネルギーが溢れて来る気がした。

◆緑の中で、亜美さんもめぐみさんも広瀬おやじも、実にいい顔をしている。3.11以後、東北で長期間仕事して来た人たちがそろって今、この島に顔を揃え、ヤギを追っている。なんとも不思議な、でも心がなごむ風景だった。高台から見はるかす青い海がとりわけ美しかった。

◆沖縄から帰ってそのまま地平線報告会へ。大阪から岸本実千代さんが参じてくれ、会の最後にシール・エミコさんの近況を詳しく話してくれた。大阪での送別会を含むその顛末はこの通信で長年のエミの親友、藤木安子さんとともに書いてもらっている。

◆4月の最初の日、福島に行った。10月の地平線報告会に出てくれた南相馬市の上條大輔さんが迎えに来てくれ、彼の仕事場へ。途中飯館村の役場に寄り、線量計を見る。「0.72マイクロシーベルト」。以前は2以上あったから、だいぶ下がっている。「ほんとによくなってるのかなあ?」と上條さんは懐疑的だ。

◆3人の子の親であり林業のかたわら障害児のための通所施設を運営している上條さんにとって、子どもたちの安全は最重要課題だ。南相馬の上條さんの仕事場の敷地はちょうど除染作業が進められていた。地上に設置された線量計は「0.516マイクロシーベルト」を指していた。

◆被災地に大きな雇用をもたらす、と一部では言われている「除染」とはどんなことをするのか。どういう金が動き、どういう人たちが仕事できるのか。そんな素朴な疑問を胸にしての福島行きである。理解することは簡単ではない。その経緯はまたの機会に。(江本嘉伸


先月の報告会から

トーホクの歩き方

山川徹 関野吉晴 岡村隆

2012年3月23日 18:30〜21:00 新宿区スポーツセンター

■原則、第4金曜日の18時30分に始まる報告会が、節電の影響で2時間繰り上げられた2011年3月25日から1年。「トーホクの歩き方」と題した今回の報告会は、震災直後から東北に入り、救援活動と取材を行ってきたルポルタージュライターの山川徹さんを中心に、探検家の関野吉晴さん、そして山川さんの新著『東北魂 僕の震災救援取材日記』の編集者で、地平線会議の創設メンバーでもある岡村隆さんが登場。まずは自分のミトコンドリアDNAが北海道の縄文人に近いことからアイヌやマタギに関心を持ち、東北・北海道に通うようになったという関野さんの“医師の目で見た東北”から話はスタートした。

◆震災が起きた時、ジャワ島にいたという関野さんは、帰国後、保健医療NGOシェアの一員として気仙沼に入る。建物の下敷きになるケースが大半で、救急医や外科医の仕事が多かった神戸に対し、死者、行方不明者のほとんどが溺死した東北では、病院で診る多くは慢性疾患の患者さんだった。3日目以降は褥瘡の処置が多く、慢性疾患を見たことのない救急医が、対応に苦慮する場面もあった。「東北と神戸は全く違いました」という。

◆その後、関野さんが入った南三陸町歌津は、人口5000人の町にクリニックが1軒のみ。クリニックを流されながら診療を続ける医師が「町の大半が流された歌津では、戻ってくる人はよくて3000人。それでやっていけるか不安だけど、それでもやらなければ……」と話したように、そもそも震災前から東北は医療過疎地だった。

◆もうひとつ。支援物資をなかなか受け取ろうとしない、東北の人の控えめさについて。「コミュニティが残っている=回りの視線を気にする東北では、自分だけ物資をもらうわけにはいかないという遠慮があります。だからこちらが工夫して(受け取ることができる)環境をつくる必要があるんです」。遠慮の裏にあるのは、他人の視線、つまり何かすれば、すぐに周囲に広まってしまう共同体の存在で、「よくも悪くもそれが抑制となって、買い占めなども起きなかったのではないか」と関野さんはいう。

◆そんな東北を隈なく歩き、作家の佐野眞一さんや重松清さんから嘱望されている若手ライターです、と紹介されて、ここで山川さんにバトンタッチ。関野さんも、後で登場する岡村さんも「こいつは脳みそも筋肉でできているんです」という山川さんの父親のことばを口にしたように、ラグビーで花園にも行った筋金入り体育会系の山川さんは、山形県上山市の出身。「競馬場、映画館が潰れて、子どもの頃は5〜6軒あった本屋さんも今は1軒。国道沿いで目を引くのはラブホテルとパチンコ屋くらいというしょぼい町です。でも、これは上山だけじゃなくて東北全体、あるいは九州などでも同じでしょうけど」。

◆“いつも見られている感じが嫌で、早く田舎から出たかった”という山川さん。だが、仙台の大学に在学中、編集者の土方正志さんと出会い、彼が編集に携わる雑誌『東北学』、『仙台学』に関わったことから、“嫌いだった東北”を歩き始める。

◆自然災害の取材を続けてきたルポルタージュライターでもある土方さんが2005年に仙台で立ち上げた荒蝦夷は、東北にこだわった本づくりで知られる出版社。その荒蝦夷も、今回の震災で被災してしまう。「行かなきゃと思いつつ、東北には友人知人がたくさんいるし、地縁・血縁が濃いところなので、話を聞くのがしのびない気がして。それにテレビを見てビビっていたし……」。二の足を踏んでいた山川さんを“お前はそういう現場を歩きたかったんじゃないのか!”と叱咤し、背中を後押ししたのは、やはり土方さんだった。

◆震災直後、荒蝦夷のスタッフに、自分の実家に避難してもらった山川さんは、荒蝦夷の業務再開のために2週間、山形で奔走。その後はカメラマンの亀山亮さんとともに、キャンプや野宿をしながら2〜3週間、被災地を巡る。結局、東京を出たきり1カ月間、東北に居続けた山川さんは、ひと月に1週間〜10日間、東北に来ることを自身に課して、友人・知人がいる石巻や女川を中心に被災地を巡り続けた。

◆歩き続けるなかで、山川さんが抱いた最初の違和感が地名だった。今回、取材で通った三陸沿岸を走る国道45号線沿いは、山川さんが学生時代、仙台から大間崎まで自転車で縦走した道。だが、平成の大合併で、雄勝、河北、河南、牡鹿、北上、桃生、そして石巻と、7つの町と市が合併した石巻市は、報道ではどこまで行っても「石巻」と、ひとつにくくられてしまう。「三陸沿岸には、小さな浜が無数にあります。去年、ここで報告した保福寺の八巻さんがいる女川には25〜26の浜があって、彼が住む尾浦は銀鮭養殖が盛んだけれど、カキ・ホタテの養殖、水産加工、林業、原発……と、生業は浜ごとに違うんです」。

◆地名に加え、山川さんのなかで日が経つにつれ、大きくなっていったのが“復興”ということばへの違和感だった。「生業によって、生活再建への道筋もコストも、行政のサポートも異なるのに、復興とひとくくりにいうことで、それぞれが歩もうとしている道筋を見えにくくしているんじゃないか。そう思うと、復興ということばに腹が立って……」。

◆「復興の目途って何?」。震災から1週間後、仮設住宅の建設の始まりを伝えるワイドショーのレポーターの、“これでようやく復興の目途が立ちます”という発言を聞いて、荒蝦夷でアルバイトをしている気仙沼出身の女性は、ぽつりともらした。「そのとき彼女の父親はまだ見つかっていませんでした。一家の柱を失った家族に先の見通しなどなく、それでも新しい道を歩み直すしかない。そういうときに東京発の“復興”“絆”“がんばろうニッポン”みたいな便利なことばが、身内を失い、帰る場所を失ったひとたちの苦しさを奪っているんじゃないか。彼らと一緒にいてそう思ったんです」。

◆そもそも体育会系の山川さんがジャーナリストに憧れたのは、高校時代、たまたま本屋で戦場ジャーナリスト、沢田教一の『泥まみれの死』を手にしたことがきっかけだった。「写真とエッセイを通じて彼の人生を知って、こんな場所(※沢田教一は青森県出身)から世界で活躍する人が生まれるなら、自分ももしかしてド田舎から抜け出して海外に行けるかも、というテンションにしてくれたんです」。

◆腹をくくることができたかどうかわからないけれど、荒蝦夷の人と歩いた町や浜が破壊されてしまったのだから行くしかない。そう思って被災地に赴いたものの、運転の得意な自分がガレキに突っ込んでリアガラスを割ったり(請求金額20万円!)、同行した亀山さんともけんかをしまくったりと、「最初は自分の精神状態も無茶苦茶でした」と、山川さんは震災当初を振り返る。

◆シャッターを押さないことには始まらないカメラマンの亀山さんは、“取材だから撮影させてください”という。だが、被災者の心情にあまりにも添っていた山川さんは、その“取材”ということばに、“地名”や“復興”同様の違和感を覚えたのだろう。「亀山に“取材ってことばは使わずに取材しよう”とかわけのわからないことをいって。取材って何だろうと思いながら、現場を歩いていました」。

◆家族や家、生活の基盤をすべて失った人たちに、どんなふうに話しかければよいのか。話などしてくれないのではないか。そんな山川さんの不安はほとんど杞憂に終わり、ほとんどの人は自分に起きた出来事を語ってくれた。北大西洋の調査捕鯨にも同行し、捕鯨問題を取材している山川さんがそのとき思い出したのが、捕鯨船に乗ったときのことだったという。「今、捕鯨の現場で頑張っている乗組員は、仕事を始めたときから反捕鯨の論理に晒され、自分の仕事を否定されているんです。だから外部の人間が、彼らの仕事を肯定的に聞くことはカウンセリングになるみたいで。それに近い感覚は、被災地でも感じました。もちろん僕は書くために足を運んでいますけど、何度も通って顔見知りになって、彼らの家族・仕事・将来の話を聞くことも自分の仕事の役割かな、と」。

◆復興ということばへの違和感から始まった山川さんの取材は、今、復興とは何かという自身への問いになっている。「東京からアマゾンなどを経由して、仮設住宅に電化製品を送る支援活動があるんです。それは善意だろうし、被災者にモノが届くのはいいけれど、結局得しているのはアマゾンじゃないか、町をよくする方法はほかにもあるんじゃないかと」。郊外型の大型スーパーマーケットに押され、すでにその多くがシャッター街になっている東北の商店街。そこでしぶとく生き残ってきた個人商店主が、支援によって息の根を止められてしまう。現地を知らない人にとっては耳の痛い話だが、これもまた被災地の現実なのだろう。

◆もうひとつ、山川さんが気になっているのが、震災直後の11、12日に、被災地で何が起こっていたかということ。大手メディアが現地に入る前の2日間については、さまざまな噂が流れた。「女川辺りでは、行方不明者が発見されると、“指輪や時計を盗むために手首が切られていた”と話す人がいまだにいて。震災直後の48時間に何が起きたか、今後、記録できればと思います」。

◆「自分自身は震災について、まだ、見たこと、聞いたこと、考えたことを人に語れるところまで、ことばが醸成されていません。自然という大きなところから見る被災地の風景と、個々の人間が亡くなった現場の悲惨なディテールが上手くつながらないというか……」。休憩をはさんで話を引き継いだ岡村隆さんは、でも、というか、だからというか、編集者としてやるべき仕事をしようと、この1年間、本をつくることに力を注いだという。そのひとつが『望星』での連載時から、1冊の本にまとめる価値がある内容だと思ったという山川さんの『東北魂』であり、山折哲雄さんと赤坂憲雄さんの対話集『反欲望の時代』であり、そして経済を最優先し、欲望を制限せずに進んできた私たちの在りようを省みようと提案する『小さな暮らしのすすめ』だ。

◆東京にいた多くの人が、一瞬立ちすくんでいたなか、東京を出たきり1カ月間、救援と取材を続けた山川さんを前に、「東北を歩くなかで、彼は被災者といわれる人たちの魂と、そして東北をルーツとする自身の魂と出会ったのではないか。だからこの本のタイトルは『東北魂』で行こうと決めました。災害はジャーナリストを育ててくれるというように、この本を書くことで、山川は書き手として成長したと思います」と岡村さんはいう。この道50年のベテラン校正者が、どうしても原稿を読んでしまって、(校正に)見落としがあるかもしれない。そして何か所かで泣いたという裏話は、『東北魂』を読んだ人なら、きっと納得できるに違いない。

◆なぜ東北に通っているんですか? という会場からの問いに“今はかわいそうだから、と応えるかもしれない”と山川さん。津波によって壊滅状態になってしまった地域は、それ以前から崩壊寸前だった。知り合いもたくさんいるので放っておけない……。かわいそうということばは、決して上からの目線ではなく、東北を隈なく歩いてきた山川さんの、掛け値なしの実感なのだろう。「東北という土地が嫌いといっても、東北の人が嫌いなわけではないし、縁を断ち切れるわけでもないし……。結局、大嫌いだった東北の人間関係の強さ、地縁、血縁に支えられて、この本を書くことができたという気はしています」。

◆被害の状況、失ったもの、精神的なダメージ、生活を再建するための道筋は、いずれも人それぞれ。それは当たり前のことなのに、復興ということばでひとくくりにされることで、一人ひとりの苦しみも、希望も見えにくくなってしまう。山川さんの根底にあるのは、そのことへの強い違和感なのだろう。

◆震災後、自動車や電気製品の部品、紙、などの生産がストップしたことであらためて明らかになったように、大消費都市・東京の食料、工業製品、労働力、電力の供給地だった東北。「誤解を恐れずにいえば、東北はずっと東京の植民地のような状況だった……」と冒頭で語った関野さん。欲望を広げ過ぎた自分たちの暮らしを見直そうと提案する岡村さん。そして震災後の東北を歩き続ける山川さんの話は、すべてつながっている。そのことを自分なりに考え続け、考えたことを行動に移していかなければ何も変わらない。東北が嫌いだった山川さんの、東北と向き合う覚悟が伝わってくる話を聞いて、そんなことを思った報告会でした。(塚田恭子


報告者から

いまも、まだ多くの人が、心のなかで泣き続けている。まだ何も終わっていない──。

 3月23日21時30分。地平線会議で、ぼくが歩いてきた三陸の被災地の報告を終えて、携帯電話の電源を入れた。1通のメールを受信。石巻に暮らす大学時代の先輩Oさんからだった。

<今全部終わった。尾浦の和尚に立派な葬式してもらったから。(略)尾浦の婆さんのも一緒にやったから安心した。別れの言葉をって言われたから、昨日の夜、書いてたんだけど、思い出すと泣けてきてぜんぜん書けなかった。尾浦の人の顔もなんぼか覚えてきたから、今度何か取材すっとき協力すっから>

 Oさんの母方の実家が女川町尾浦にあった。体調を崩して長い入院生活を送っていた祖父は津波を生き延びたが、祖母が波に飲まれて海に消えた。

 震災直後から被災地を歩いていたぼくが、Oさんとともに尾浦で家の片付けを手伝ったのは、4月2日。三週間が過ぎたというのに、尾浦も、Oさんの祖父母が暮らした家も手つかずのままだった。Oさんが幼いころから親しんだ家の二階部分の壁は、漁網が絡まった電柱に貫かれていた。ひょっとしたらまだ家のなかにいるんじゃないか。そんな憶測を抱かせるほどの有様だった。

 Oさんは、祖母の家を片付け、亡骸を捜しながら、涙を零した。ふだんは冗談ばかり言っている陽気な男が「言葉がねえ」と声を絞り出して。

 Oさんの涙の引き金になった風景がある。

 被災三日目の朝。Oさんは石巻の町を見下ろせる日和山公園に登った。眼下に広がる瓦礫の海に叫び声が響いていた。

「誰かいませんか!」「返事してください!」

 行方不明者を捜し歩く消防士や自衛隊員の叫びだった。自分と同じようにこの町で、生まれ育ち、日常を送っていた人が瓦礫のなかに埋まっている。現実に戦慄を覚えた。以来、些細な出来事で涙が流れるようになったという。

 尾浦の人口は、200人に満たない。70軒のうち68軒が流失し、死者・行方不明者は19人を数えた。

 小さな浜が置かれた現実を見た。その後、何度も尾浦に通った。地平線会議の報告者でもある尾浦の保福寺の住職、八巻英成さんにも話を聞いた。

 春になり、夏が過ぎ、秋を迎え、再び冬が訪れても、Oさんの祖母は見つからなかった。

 はじめて尾浦を訪ねた日。Oさんはいった。

「見つかったとしても、身内でも見分けがつかなえんだろうな」

 いま、振り返ると当時は、まだ「見つかる」という希望を抱いていた。会うたびに「まだ見つからない」と繰り返した。彼は、ずっと見つけた遺体を荼毘に付してやりたいと願っていたのだ。

 いつからだろうか。いつ葬式をするか、という話題を切り出したのは。

 2012年3月11日。石巻に足を運んだぼくは、Oさんと酒を呑んだ。Oさんは、まだ祖母の葬式の日取りは決めていないが、合同法要に出席してきたという。やっぱり流れる涙が止まらなかった。泣きじゃくる父の姿を3歳になる娘が不思議そうに見ていたという。その日、彼はいった。

「もう1年だ。オイ(オレ)は、婆さんの葬式をあげてやってもいいと思っているんだけど、親戚のなかにはまだ割り切れねえっていう人もいるんだ。その気持ちはオイにも分かる。生きている可能性が1%くらいあるんじゃねえか。もしかしたら見つかるんじゃねえか。そう思う瞬間は、オイにもあるから」

 それぞれの割り切れない思いを変えたのも、ひとつの死だった。

 3月21日。闘病中の祖父が逝った。祖父と祖母を一緒に送る──。誰も異論はなかったという。

<安心した>

 メールにあったOさんの言葉は率直なものだろう。振り返れば、この1年、Oさんは会うたびに泣いていた。ついさっきまで学生時代のように冗談をいいあっていたのに、ふとした会話の拍子に、風景の変化に、涙を流した。

 その涙が、哀しみなのか、憤りなのか、悔しさなのか……。ぼくには、いまも分からない。

 夏の夜、彼が諭すように語った言葉が忘れられない。ぼくらは、石巻で自動車を走らせていた。営業を再開したファミレスや居酒屋で多くの人が食事していた。街灯や信号もついているし、道路の陥没も補修されていた。「石巻も普通に戻ってきましたね」というぼくに彼は話した。

 「普通に見えるかもしれないけど、誰もまだ吹っ切れていないんだ。みんなテレビがいうようにがんばっているし、前向きに生きたい。でもな、それは、町のひとつの側面でしかないんだ。店が営業をはじめて、電気がついて町が明るくなって、瓦礫が片付いても……。まだまだ、普通になったとはいえないと思うんだ。石巻っていっても、みんなそれぞれだ。オイみたいに何も被害がなかった人もいれば、知り合いみたいに小学生の子どもをふたり亡くした人もいる。みんなどんな気持ちでいるのか。笑っていても、心のなかで泣いている人がたくさんいるんだ」

 いまも、まだ多くの人が、心のなかで泣き続けている。まだ何も終わっていない──。

 一年間、三陸の被災地を駆けずりまわった。はっきりといえるのは、そんな当然の事実だけだった。(山川徹


地平線ポストから

原発周辺は未だに3.11のまま時間が止まっています──1年ぶり、楢葉町の自宅に帰宅を許されて

■3月25日の日曜日、警戒区域内の自宅に一時帰宅で戻ってきました。警戒区域となった昨年4/22に戻って以来、約1年振りの帰宅です。滞在出来る時間は僅か4時間。(ただ、前回まではたった2時間だけだったことを思うと、なんと倍増!)それでも1年振りの帰宅で朝からワクワク気分でした。

◆AM9時過ぎ、先ずは検問で通行証を提示。車両ナンバー、乗車人数を確認しただけですんなりと通過OKとなり、受付会場の「道の駅ならは」へ。ここは温泉施設が在り、毎週のように通っていた場所です。こんな場面で来ることになるとは……。そこで先ず驚いたのは係員の多さです。大凡100人くらいはいたと思います(こういう点も効率化って必要なのでは……)。係員から線量計、トランシーバー、靴カバーを受け取り、いざ自宅へ。

◆先ずは自宅の外回りを確認。昨年やられた空き巣を心配していましたが、特に異常は無くホッとしました。でも、周辺は枯れ草が伸び放題、畑のビニールハウスは風で屋根が剥がれ骨組み状態、庭や道路には牛糞らしき物体が散乱し、そしか猫であろう死骸も残されたまま……。思わず目を覆いたくなるような光景が広がっておりました。

◆当然、生活の匂いは一切感じられません。ちなみに線量は屋外で0.5〜0.6マイクロシーベルト、屋内で0.2〜0.3マイクロシーベルトでした。家の中は畳の痛みもそれ程無く、また、台所/冷蔵庫も大方片付けを済ませていたため、異臭等もありませんでした。ただ、自分の部屋は手付かずの状態……。テレビは床に落ち、本棚が倒れ、本、雑誌類は散乱状態。カレンダーは2011年3月のままです。

◆片付けを一段落させた後、近くのお墓へ墓参りにも行きました。地震で倒れたままとなっている墓石へ、花と線香をお供えしそっと手を合せました。「早く元の生活に戻れますように……」と。昼食は持参したお握りとカップラーメンで済ませました。やはり自宅での食事はホッとします。窓に目を向けると青い空と青い海……、それらは今までと何ら変わりありません。なのに何故ここでの生活が制限されるのか、残念であり悔しさ以外何の感情も沸き起こってきません。

◆家での作業を終えると、制限時間まで沿岸部周辺を見て回りました。道路は辛うじて通れるよう瓦礫は避けられておりましたが、津波で流された車や家屋の残骸等は寄せ集められているだけの状態で、とても1年という時間が経過したという実感がありません。原発周辺は未だに3.11のまま時間が止まっています。

◆制限時間前には「道の駅ならは」へ戻りました。個人の積算線量計は「0.1マイクロシーベルト」を表示。持ち出した荷物や身体のスクリーニングを受け、借用物を返却して無事終了。終わりもすんなりでした。

◆楢葉町は4月中には「避難解除準備区域」となる見通しです。そうなると町への行き来は原則自由になりますが、宿泊は出来ません。ただ、今までの事を思えば、それだけでも十分な気さえしています。今後、除染作業/住環環境の整備/医療/雇用等、問題山積な状態は変わりありませんが、一歩一歩前進できるよう、住民として協力していきたいと考えています。(福島県楢葉町住民 渡辺哲

 【追伸1】4/1(日)には警戒区域が解除された川内村の様子をバイクで見に行ってきました。検問は20km地点から東側は富岡町の境へ移されておりましたが、思ったほど車や人は見かけず、ひっそりとしていました。住民の多くは放射線、仕事、学校、医療環境等の課題により即帰村とはならないようですが、互いに故郷に帰れる日が1日でも早く来ることを願うばかりです。

 【追伸2】GWは東京〜新潟間(約520km)を走る「川の道フットレース」に出走予定です。元気な福島をアピールできるよう、ザックにメッセージを付けながら走ってきます。

目にした風景は全く時間が止まっていました……

■地平線の皆さん、こんにちは。10月の報告会で話をさせてもらった南相馬の上條です。本日4月6日森林組合から、20キロ圏内の小高区の風倒木による家屋被害の現場に行ってくれないかとの連絡があり、急遽登録をし禁断のゲートを越えて入ってきました。小高区は南相馬市の南側で20キロ圏内になり今現在避難区域で4月16日以降立ち入り見直し区域になるところです。

◆昨年の6月に捜索活動の一員として入った以外に小高区に来たことが無かったので本当に久しぶりでしたが、そこで目にした風景は全く時間が止まっていました……。海が見える国道6号線沿いには重機や車がつぶれたり流されたりしたままあちこちにあり、田や畑も瓦礫がいっぱいでした。中心部や家屋は崩れたまま手つかずのまま……今現在避難区域なので当たり前ですが。

◆しかし聞いてください! 小高区の中心部を越えた途端空間線量は2.0μシーベルトを超え何と現場は3.0μシーベルト! 庭の隅、雨水の集まるところは40μシーベルト! 現場は原発から直線距離で15キロ、近くの小学校は除染をしたものの0.4μシーベルトでした。数字を見れば除染をして下がって良かったねと思うかもしれませんが除染をした3日後から段々数字が上がっているそうです。

◆そんな状態のところが「避難指示解除準備区域?」なんて中途半端な名称で4月16日から自由に出入りができるようになるのです。基本は出入りはできるが宿泊や住むことはできない。しかし出入りに関しては、宿泊さえしなければパスも許可証も年齢の制限もないのです。ありえないでしょう! なおかつ小高の隣は浪江町いよいよ原発が見えるところに! 本当にいいのか! 安全なのか? 狙いは何なのか! 

◆簡単です。国はこれ以上補償や東電の負担を減らす為に安全よりも解除が優先なんです。役人や東電役人に、小高に家族を連れてきてみろ! と言いたい。完全な解除にあっという間になるでしょう、それでいいのか。皆さん、見守っていてください。(上條大輔 福島県南相馬市)

つるつる氷にソリごと墜落、棄権を覚悟しかけたが、近くに丸くなってすっかりキャンプ気分で寝ている犬たちの姿に思わず吹き出し、そのエネルギーで最後まで頑張れた──ユーコン・クエスト1600キロ完走顛末

■地平線の皆様、ようやく無事にクエストで完走しました。今回はその時のハイライトの話と近況を書かせていただきます。4度目の挑戦でようやく完走ということになりましたが、今までを振り返るとやっぱり資金不足が問題だったんだと思います。今回は夏に働いて貯めたお金をメインに何とか乗り切りました。支払いを後回しにしてもらったりもしました。そしてトレーニングについても犬の借主の家で借主の方法でやっていた今までとは大きく違い、自分の犬舎を構えていた為、誰に遠慮することなく自分のやりたいようにやりたいだけやってみることができました。

◆今年のクエストは、スタート地点のフェアバンクスでは(中)30度以下になっていて寒かったのですが、サークルシティチェックポイントを過ぎたあたりから、いつもものすごく寒く感じるイーグルでもそれほどではなく、中間地点のドーソンシティーを過ぎてからは太陽の出ている間は犬たちには暑く感じてしまうほどでした。なるべく夜中に走って、日中は休ませるようにした方がいいのですが、そう簡単にうまくいくものではなかったです。マッケイブクリークで特に気温が上がり、ここでの休憩時間のとり方が勝敗を決める感じになりました。

◆イーグルチェックポイントを出てからすぐにはじまるキングソロモンドームへの登り道では、道路上に水が溢れて氷河のような状態になってしまっていました。ちょうど日中にそこを通過した為、氷がつるつるで、段差がある氷を私の若いチームは進むことが出来ませんでした。私自身も歩くのに苦労するほどつるつるで、そこへこの段差では絶対に行けないだろうとは思いつつも、リーダーを引っ張ってみました。

◆けれどやっぱり誰も行きたがらず、私は滑ってしまって力も入らず、チームは全く進みませんでした。仕方が無いので一匹一匹ラインから犬をはずして、この氷河を越えました。その間何度も転んでしまいましたが、一匹の犬と一緒に氷河を渡っては戻り、また一匹と氷河を渡っては戻りを繰り返してなんとか氷河越えに成功しました。

◆最後に残った私のソリを押して進んでいる時に私が転んでしまい、ソリを変な方向へ強く押してしまいました。ソリは道路わきの崖に向かってものすごい勢いで滑っていくので、転んでしまった体勢のまま必死でブレーキをかけてみましたが、無駄でした。私とソリは一緒に崖に落ちて行きました。

◆私の身長くらいの高さまで下に落ちたので、もう疲れてしまい、ここで棄権して救助をまとうかと思ったほどでした。でも、文字通り頭を抱えてしゃがみこんで休んでいた時に、ふと眼に入った犬たちが丸くなってすっかりキャンプ気分で寝ている姿が私を笑わせたのです。

◆今まで一緒に頑張ってきた犬たちがいるのだから、これくらい絶対出来る、という気がしてきました。私は面倒くさがらないでソリの中身を一個一個出して運びました。そして軽くなったソリを引きずりあげる事に成功したのでした。

◆ゴールした時には、びっくりするくらい人が集まってくれていて、滅茶苦茶嬉しかったです。今年優勝したヒュー・ネフがビールを持って待っていてくれたので、大騒ぎして飲みました。最高の気分でした。応援ありがとうございました。

◆3月中旬に、クエストの余韻もまだ冷めやらぬまま、イエローナイフに出稼ぎに行きました。前のボス(グラント・ベック)のやっている犬ぞりツアーの仕事で、観光客を犬ぞりに乗せたり、客に犬ぞりを教えて走らせたり、餌をやったり掃除をしたり、という毎日です。彼の犬と私の犬たちを合わせると合計140匹近くになります。

◆私は特別待遇で時給も良くしてくれるし、食事も住む所も、もちろん電気もあります。洗濯もシャワーも、そしてインターネットも出来るので、かなり快適です。今まではネットの出来るカフェや図書館などに行ってちまちまメールなどをチェックしていましたが、ネットで何でも出来るこの時代にようやく私も追いついてきました。地平線のウェブサイトも、初めて見ることが出来ました。海外にいても地平線通信を読むことが出来る便利な世界に感動です。

◆3月下旬には、イエローナイフにあるカナディアンチャンピオンシップ(1日50マイルを3日間走る150マイルのレース)というスプリントのレースに出ました。ソリの中身が空っぽで、滅茶苦茶早く走るスプリントレースは、長距離ばかりやってきている私には驚きの連続でした。

◆スプリントレースは走り終わったら犬をまたドッグトラックに乗せて家に帰ってケアが出来るのです。ハンドラーには辛いけれど、マッシャーには楽です。それでもやっぱり『出発したら後はもう自分と犬だけ』に近い状況の長距離の方が、私は好きです。結果はもちろん最下位になりましたが、スポーツマンシップ賞を頂きました!ちょっと嬉しかったです。

◆先日はワティという小さな村の学校に行って、犬ぞり体験をさせてあげてきました。これもグラントのビジネスのひとつで、彼も小さな村出身だった為、こういったこともしているのだそうです。学校は幼稚園から高校までみんなひとつの建物に入っていて、生徒数も少なめです。幼稚園児や小学3年生くらいまでは、大きなソリに子供たちを乗せて私が犬ぞりを運転して楽しんでもらいました。

◆中学生くらいまでは小さなソリに2人ずつ乗ってもらい、子供たちが自分でソリを運転します。みんな大騒ぎで楽しんでいました。高校生8人には、犬ぞりでちょっとした旅行をしてもらいました。とはいっても、キャビンまで行ってそこで一泊するだけですが。私とグラントの予想と違って、現地の子はみんな太っていて、犬にはキツイ日々だったかもしれません。

◆彼らは現地の言葉と英語のバイリンガルで話してくれます。夜、火を囲んで高校生たちと話しをしました。彼らはブッシュマンの存在を信じていて、ブッシュマンがおばあちゃんにこうしたとか、誰々の家のおじいさんがこうされたとか、色々な怖い話をしてくれました。

◆あまりにみんな仲がいいので、私がちょっとふざけて「誰と誰が付き合っているの?」と聞いたら、みんなびっくりして「この村はみんな親戚だから、それはないよ」と答えるのです。「じゃあ、どうやって結婚するの?」と聞くと、「どこかよそから来た人や、ここの近くに3つコミュニティーがあってそこで知り合うとか、そんな感じだよ」とのこと。それでもこの村が好きで、ここから出る気は無いとみんな口々に言っていました。

◆イエローナイフと外部を繋ぐアイスブリッジ(冬季だけ湖の氷を道路にしている)がもうすぐ閉鎖され、フェリーが通れるようになるまでの1ヶ月は、陸路での移動は出来なくなります。私もそろそろホワイトホースに戻って、犬舎の整備や来年用の薪作りなどを始めないとなので、犬たちと戻る予定です。電気もネットもシャワーも洗濯機も恋しくなるとは思いますが、またあっちで質素に生活していく予定です。(本多有香 カナダ・イエローナイフにて)

ほんだゆかのユーコン・クエスト完走を讃える

カナダにオーロラ観に行って、犬ぞりに心奪われたほんだゆかが

ユーコンクエストでボラしながら「ハンドラーいりませんか?」と聞きまくったほんだゆかが

マッシャー訪ねて雪のハイウェイ計1200km を

ふつーの自転車で鼻水と鼻血出しながらひた走ったほんだゆかが

空腹と寝不足の丁稚奉公的ハンドラー生活で力をつけたほんだゆかが

春と夏は資金稼ぎにあけくれたほんだゆかが

「トレーニング」といつも重い荷物を引き受けるほんだゆかが

水で「お腹いっぱい」にしてたほんだゆかが

リーダー犬のかわりにチームの先頭に立ってよつばいで雪山を登ったほんだゆかが

初めてのユーコンクエストで嵐に遭い、強制棄権となったほんだゆかが

レース中に犬を亡くし、わーわー泣いてもうやめようと思ったほんだゆかが

自らの手で林を開拓し、自前の住処と犬舍を持ったほんだゆかが

ユーコンクエストでとうとう完走して、また新たな夢の入り口に立った。

おめでとう。

ありがとう。

今度会ったらビールおごります。(中島菊代


[先月の発送請負人]

 地平線通信391、392号(水増し号)の印刷、発送に汗をかいてくれた方々は、以下の通りです。いつもありがとうございます。とても助かります。
 森井祐介 加藤千晶(単独で印刷、折り作業) 岡朝子 古山里美 江本嘉伸 杉山貴章 満州 山本豊人


シール・エミコさんたち、オーストラリアに旅立ちました

■先月の報告会で「スティーブ&エミコさん、行ってらっしゃいお餞別カンパ」を募った岸本実千代です。皆さま、急な呼びかけにもかかわらずご協力いただき、ありがとうございました。おかげさまで、報告会と送別会(25日にささやかながら大阪で開催しました)で約11万円のお餞別を手渡すことができました。スティーブもエミコさんも、本当に大喜びで、皆さまからのお志に大変感謝していました。また、大勢の人に書いてもらった「寄せ書き」も一つ一つ丁寧に読んで感動していましたよ。本当に、ありがとうございました。

◆2001年、世界一周自転車二人旅の途中、パキスタンで癌の告知を受け帰国。余命半年と告げられたが、緊急手術と放射線治療、抗がん剤治療を受け一命をとりとめました。その後リハビリや、食事療法など、自分たちで調べた方法をいろいろ試み、2004年から少しずつ旅を再開できるまで回復しました。しかし、2008年6月、癌が再発し、翌2009年7月に再々発。入院、放射線治療を施しましたが、癌はどんどん進化していき、効果的な結果が得られなくなってしまったそうです。

◆もうこれ以上放射線をあてると、他の内臓が壊れてしまうという医師の判断で治療は終了となってしまいました。そこで医師からは、癌の治療ではなく「ホスピス」での緩和ケアを受けながら、残りの期間を静かに過ごすことを提案されたそうです。でも二人でいろいろ考えて出した結論は、「最後まであきらめずに闘う」ということでした。

◆二人はセカンドオピニオンを受けたり、ネットでいろいろ調べたりして他の方法がないかと必死で探していました。それでもいい方法が見つからないまま残り少ないといわれている時間がどんどん過ぎて、半分あきらめかけていた2011年3月、最後の最後にだめもとで相談した人が、抗がん剤治療を受けることができる病院を紹介してくれました。

◆エミコさんの癌の場合、すでに完治は難しく、抗がん剤で今ある癌をこれ以上大きくさせない、進行を遅らせるための治療ということでした。果たして自分の癌に適合するのか、副作用でどれだけ体力が落ちるのかなどクリアになっていない問題はありましたが、「命がかかっているのだから、迷っている暇はない」と、この治療にチャレンジすることにしました。この病院がたまたま私の家の近くでした。

◆激しい副作用を伴うこの治療は入院で5ヶ月、通院で7ヶ月続きました。治療の結果、ある程度の効果はあったようで、しばらくは「癌の成長」は見られませんでした。ただエミコさんは当初から「再発の癌は学習能力が高く、どんどん進化して今受けてる抗がん剤もいつまで効くかわからない」と言っていました。

◆それで、だいぶ早い時期から次の治療方法を探し続けていました。そしてオーストラリアでは日本で未承認の薬での治療を行っているということを知り、二人でスティーブの故郷であるオーストラリアに渡ることを決意しました。病院、住居、仕事などは何も決まらない状態にもかかわらず、去年の年末には出発日を3月末日と決めてチケットを予約しています。

◆それから体調を見ながら荷物の整理や友人たちへの挨拶を少しずつしてきました。抗がん剤治療を続けながらの引越し作業は相当きつかったと思います。そして引越し作業もピークになった3月上旬、MRIの結果、癌が再び成長している事がわかり、抗がん剤治療は中止となり、現在日本で承認されている中ではエミコさんに合う薬がないと告げられました。

◆かなりショックを受けていたようですが、おそらくそうなることを予想して、体力がなくなってしまう前に旅立てるように計画していたのだと思いますし、オーストラリアでの治療という希望があったからこそ今回の告知にも耐えられたのかもしれません。

◆エミコさんは私に「何があっても二人で最後まであきらめない」と言いました。「どんな些細なことでも前向きにとらえて生きるパワーにしていく」と。私も最後まであきらめずに応援したいと思います。またあの笑顔が見たいから。

◆3月31日夜、二人はオーストラリアに旅立って行きました。本人たちの強い希望により、空港でのお見送りはさせてもらえなかったけど、モンベルのイベント会場で楽しいひと時を過ごし、たくさんの人たちと挨拶をかわし、最後まで泣かずに、とびきりの笑顔で手を振って行きました。(スティーブは最後まで親父ギャグ満載でしたけど……)

★以下は、フェースブックから抜粋したエミコさんの言葉です。

■「家族や実家があるわけでもなく、病院や住むとこや仕事もまだ決まってませんが、このまま死を待つだけなんて私には耐えられない。とにかく行ってきます!! あきらめるのはそれからでも遅くないし。 再び、二人でゼロからのスタート!!」

「あー生きてる感じ〜、いいね〜〜^^)!スティーブと一緒だからもっと生きたいって欲でます。どこに住もうと一緒にいるとこが「家」だし、23年好きで好きでたまらないんです♪お互いに♪ とにかく一日も長くいたいだけ☆神さま、二人を引き離さないで〜!(^^;)爆」(大阪 岸本実千代

エミとスティーブとオーストラリア

■岸本実千代さんが書いてくださっているように、シール エミコ(エミ)とスティーブが、3月31日にスティーブの故郷であるオーストラリアへ出発しました。その1週間前、3月24日(土)および25日(日)の2日間、大阪で行われたエミとスティーブの壮行会に参加してきました。以前、地平線通信にも書いたことがありますが、エミとは今から20年以上前にオーストラリアをそれぞれバイクで旅していたときに知り合い、それからの付き合いです。

◆24日は、二人が日ごろからお世話になっている方がオーナーの大阪の居酒屋でお昼過ぎから夕方まで貸切にし、約60名の人たちが集まり、とってもにぎやかで楽しい会でした。主に自転車関係の人たちが多かったように思います。実は、一次会は3時から6時までだったのですが、お店の方のご好意によりエミとスティーブと私を含めて数名は夜10時近くまでお店に居座っておりました。翌日は、地平線の仲間たちとのランチ会。大阪の岸本さんが幹事役となり関西のみならず、関東、そして北海道や九州からもかけつけて、アットホームで和やかで、こちらもとっても楽しい会でした。

◆10年以上にもわたり、いろいろな治療を行い癌と闘ってきたエミは、2010年に先生から「唯一残された治療」として骨盤内臓全摘術を聞き、受ける覚悟をしたものの、リスクを伴う困難かつ大きな手術であり、さらに術後の生活にもかなりの支障が生じるため、本人はこの手術をするべきか悩みに悩みました。

◆そんな中、セカンドオピニオンとしてエミの知人が紹介してくれた先生(女性)の意見を伺うため、東京の病院へ一緒に行きました。骨盤内臓全摘術に関しては、先生からあまり前向きな意見はありませんでしたが、「シールさんの場合、この抗がん剤なら効果を発揮するかもしれない。やってみる価値はありますよ。」とのことで抗がん剤の名前を教えてくれました。

◆しかし、エミが通っていた大阪の病院では、その薬は使用したことがなく入荷していないことから、治療を受け入れてもらえず、癌難民となってしまいました。この期間が一番つらかったと本人もブログで綴っていました。無治療期間が続き不安と絶望の中、4ヵ月後の2011年3月、ようやく治療を受け入れてくれる病院が見つかり、抗がん剤治療を開始。

◆それから1年が経ち、今回、日本での治療は、し尽くしたと判断したのでしょう、オーストラリアへ行く決心をしました。日本にはない治療方法が見つかるかもしれません。また、オーストラリアは、スティーブの故郷でありスティーブの自転車仲間たちもいて、そしてエミがのんびりと過ごせる街でもあります。

◆実は、7、8年前、預けていた荷物の整理のために、エミとスティーブはひっそりオーストラリアに行き、メルボルンに数か月間滞在していたときがあります。私も遊びに行ったのですが、そのとき、スティーブの自転車仲間たちと会いました。気さくでいい人たちばかりです。彼らも、日本にいる地平線会議や自転車の仲間たち同様にきっと現地での生活をサポートしてくれることでしょう。オーストラリアに行ってしまったのは淋しいけれど、旅の復活を願い、日本からも応援をし続けていこうと思います。(藤木安子

カーニバル評論家 ZZz-全氏をとらえ続けた先住民写真家
マルティン・チャンビ氏の写真

■一枚の写真に金縛り状態となり、30分も動けなかったことがある。今から20年以上前、インカ帝国の旧首都クスコの街角でのことだった。古ぼけた写真屋の店頭に飾られたその写真は、ペルーの先住民写真家マルティン・チャンビの「Juan de la Cruz Sihuana, Gigante de Llusco」(ユスコの巨人 フアン・デ・ラ・クルス・シファナ)と題された1925年の作品で、彼の代表作の一つ。以来、『光の詩人』と呼ばれたアンデスの偉大な芸術家の軌跡をたどるのも、ペルーに入り浸る理由となってきた。

◆マルティン・チャンビは1891年、チチカカ湖に近い寒村の出身で、両親はインカ帝国の公用語だったケチュア語を話す先住民インディオの農民。少年時代に写真に出会い、印画紙から浮かび上がる魔法のような世界に魅せられていった。長い修業時代を経て、1920年からクスコで写真スタジオを経営するかたわら、インカ時代の残照が色濃く残る古都クスコの街並みやそこに暮らす人々の日常、発見されたばかりのマチュピチュなどの遺跡、さらにはアンデスの村々へ撮影対象を広げていった。

◆1950年代まで現役として精力的に撮影に没頭し、ガラス乾板に刻まれた作品は2万点以上に及ぶが、発表されたのはそのごく一部。1979年、ニューヨーク近代美術館MoMAで開催された大規模な写真展で初めて紹介され、大きな注目を集めた。以降、世界各地で毎年のように作品が公開され、先住民が先住民を記録した写真史のなかでも稀有な例として高い評価を受けている。

◆日本でも何とか彼の作品を紹介したいと思い、いろいろ仕掛けてきたが、3月10日から6月24日まで上野の国立科学博物館で開催中の『インカ帝国展』に、ほんのさわりだけではあるが彼の代表作を押し込むことができた。全国9か所、向こう2年間の展示が決定しているので、機会があればぜひとも足をお運びいただきたし。「存在感」などという言葉がお気軽で手垢まみれに思えるほど、その作品は重く力強い。

◆ついでに、六本木ヒルズのツタヤけやき坂店2F(テレビ朝日の向かい側)にて、当方も小規模なアンデスの写真展を開催する運びとなり、チャンビ作品も1点だけ展示することとなった。お願いだから彼の作品と較べないでいただきたいと思わず言いたくなってしまうが、こちらは年中無休の朝7時から深夜4時営業で、6月上旬まで開催となります。何とぞ、よしなに。(カーニバル評論家 ZZz-全

北極海を経験しての感想は「とにかく恐ろしい場所」──1人で目指した北極点行顛末

■今年3月、北極点への無補給単独徒歩による挑戦を行ないましたが、スタート2週間の地点での撤退を決め、早々と日本へ帰ってきました。旅の顛末と現在の北極海の状況について報告させていただきます。

◆今回、カナダ最北端のエルズミア島ディスカバリー岬を日本時間3月3日にスタートしました。北緯83度ちょうどのディスカバリー岬から北極点までは直線で緯度7度分、約780kmほどです。50日での到達を目指し、2台に分けたソリにそれぞれ50kgほど、トータル100kgの物資を積み込みました。

◆北緯83度での3月上旬はまだ一日の日照時間が3〜4時間ほどしかなく、太陽が水平線上を転がるように横移動していきます。空は紫色に染まり、薄ぼんやりとした世界は日中でも気温マイナス45℃、夜間はマイナス50℃以下となります。その中を一人、凍結した海氷上をソリを引きながら北極点を目指します。

◆北極点付近の水深は約4000m。海氷の厚さはわずかに3〜4m。薄膜のような氷は常に海流や風の影響で流れ動いています。氷が動くことによって氷同士が衝突してできる乱氷、逆に割れてできる水路のようなリードが至る所に出現して進行を阻みます。一般的に北極点を目指す時にはロシアからアプローチするルートとカナダからのルートと2種類あります。カナダ側の方が難しいとされていて、その理由は海流が極点方向からカナダ北岸へ流れていることで、海氷が陸に押されて乱氷がより激しく発生するからです。

◆特にスタート直後の北緯83度から84度への110kmが最も乱氷帯の激しいところで、ソリも重いことから進行スピードは著しく遅くなります。通常はその110kmにはそれほど多くのリードは出現しません。その理由は氷が押し合って陸地にスタックすることで全体的にしっかり詰まった状態になるからです。なので、陸地に近い海氷はそれほどの流動性はなく、陸から遠く離れるほど氷全体が流れるようになります。

◆しかし、今年は状況が違いました。スタート直後から沿岸付近には巨大なリードがいくつも発生し、氷が激しく流れ動き出しました。キャンプをしている一晩で自分の位置が7km動くこともあります。カナダ最北部のレゾリュートの村で30年前から気象観測をしているカナダ気象庁のウェイン・ダビッドソンによると、3月にエルズミア島沿岸部で一晩に7km氷が動くなんて記録されたことはない。ありえない。と言われました。

◆さらに、2週間の間にブリザードが1回とそれに近い気象状態が2回通過していきました。強風は海氷をさらに動かし、メチャクチャにしていきます。衛星写真ではすでに極点付近に夏のような巨大なリードも頻出し始めていたことから、55日分の物資を積んでいましたがスタート2週間のところで今回の旅の撤退を決めました。

◆私自身は体になんの異常もなく、体に蓄えた備蓄脂肪を使う前に旅が終わってしまったので疲れもなく不完全燃焼でした。今年の海氷状態と天候が悪かった理由はハッキリしています。それは、アラスカ沖ボーフォート海の気圧と大西洋から流れ込んで来る低気圧の経路が例年と違った点です。

◆通常シベリア北岸を通過する大西洋からの暖気を伴った低気圧が今年は北極点付近に次から次へと侵入してきました。それによって北極海の気圧配置が変化し、風の流れが変わり氷の流れも変化しました。かつては北極海全体の海氷が今よりも厚かったために、今年のように低気圧が進路を変化させてもいまほどの影響は海氷になかったと思われますが、現在は明らかに氷が薄くなっているために影響は大きくなります。北極海の冒険を昔よりも難しくしているのはそのためです。

◆今回、北極海を経験しての感想は「とにかく恐ろしい場所」であるということです。薄く、流動的な氷は常に周囲で氷が押し合い、砕ける音が響きます。グイグイ、バキバキ、ザーザー、ガラガラ、全く落ち着きません。ホッキョクグマにも常に注意を払わなくてはいけません。登山であればベースキャンプに戻るとか、下山すると言う安全路が自力で確保できますが、北極海では50日間一切逃げ場はありません。常に不確定要素とリスクを抱えています。

◆テントを張っている目の前30mのところで氷が押し合って乱氷がガラガラ崩れながらテントに迫って来たり、前日の夕方に翌日のルートをチェックしておいて一晩明けたら全く状況が変化していたりはよくあることです。体力的には全く消耗しなかった2週間でしたが、精神的には相当張っていたと思われます。旅を終えて村に戻っても、寝ているベッドの縁に手がかかると「うわ!氷が割れてる!」なんて錯覚に陥って飛び起き、床に這いつくばって氷を確認していたりします。

◆完全に寝ぼけているのですが、戻って来て一週間ほどは毎晩それが数回ありました。実際に氷上にいる時には全く緊張している感覚はないのですが、そこで初めて緊張していたんだろうなと感じました。今年は私含めて4隊が北極点への挑戦をそれぞれのスタイルで目指しましたが、4月を待たずに全隊が撤収をしています。昨年も北極点への到達チームはなかったのでこれで2年連続での成功者無しということになりました。

◆確かに氷の状態はかつてよりも悪く、難易度ははるかに増しています。しかし、だからこそ現在の北極海の状況に合ったスタイルの冒険があるはずです。来年また挑戦するつもりです。2013年式のスタイルで、無補給単独徒歩により北極点まで行きたいと考えています。(荻田泰永

2500円+350円+5260円+1575円×2+360円……。『貧困通信』を、地平線版にて更新

■地平線二次会/2500円[03月23日]本日も盛況のうちに、お開きとなる。ぞろぞろ出口に向かいつつ、「最近、不整脈が」などとボヤいていると、横から「ぼくも不整脈」と明るい声で関野さん。えっ、ほんとですか!? 何だか嬉しいなぁ。肝炎やマラリアみたいな『ブランド旅病』の経験のない私は、地平線の中では心なしか肩身が狭い。ドクトル関野と同病だなんて、とっても光栄です。思わず、「掛かり付けの先生には『栄養失調性不整脈』って云われてるんですけど」と余計なことまで口走ったら、一瞬、ドクトルの顔が曇った(ように見えた)。「ん? そんな病名、聞いたことないぞ」とも取れる表情に、少しばかり動揺する。

◆ソーセージとサイダー/350円[03月31日]岸本実千代さん、ルナさん(編注・大阪在住の村松直美さん)の計3人でモンベルのイベント会場を訪ね、ここから関空へ向かうエミちゃん&スティーブを見送る。行ってらっしゃい! 落ち着いたらメール頂戴ね!!

◆その後、ぶらぶら各ブースを回り、新商品のソーラーパネル+充電器セットの前で、全員が釘付けになった。見るからに魅力的な製品で、ブース担当者の熱い語りも、あながち誇張とは思えない。彼は頻りに「非常用」をアピールした。が、私には日常使いに耐えてこそ価値がある。

◆実は、『エネポ』というカセットガス発電器の存在を知って以降、「中野のアパートだけでも、電気を自給できないか」と考え続けてきた。缶2本で約2時間、とランニングコストは嵩む。けれど、あちらの部屋は現在月に10日も使っていない。冷凍冷蔵庫やオーブントースターを諦め、パソコンの使用やケータイ等の充電も集中的に行えば、1日1、2時間の稼働で収まるはず。

◆エネポへの切り替えは、もちろんエコ目的なんかじゃない。あの傲岸破廉恥な犯罪会社に、こちらから三行半を叩きつける。その、単なる自己満足的快感のためだ。だからアイデアが閃いた時は、興奮して翌朝まで眠れなかった。エネポにこの充電器が加われば、多用しているエネループもソーラー化される。残る課題は、日中は35℃超え、深夜でも30℃を割らない真夏の我が六畳部屋だが、命綱の扇風機用に、夏場だけ東電に頭を下げるのも情けない。また、騒音と排気ガス(原則は「屋外使用」)も、エネポ導入の厚い壁になっている。

◆と、そんなことを考えながら、担当者の説明に耳を傾けた。彼のトークは、あれこれ我々が訊ねたお蔭で更に熱を帯び、ハッと気付けば30分以上が経過。会場内では既に片付けが始まっている。私たちも引き上げに掛かり、結局、だれ一人衝動買いしなかった。が、彼は落胆の素振りも不機嫌な表情も見せず、サッパリした笑顔で立っている。圧力鍋や「はかせ鍋」について喋り出すと止まらない私にはよく判る。語り尽くした満足感と余韻で、至福の境地を漂っているのだ。その天晴れぶりを3人で誉めながら、会場を後にした。それにしても、と思う。節電の『協力』ではなく、ボイコットによる『圧力』を行使したくはないのか。みんな、悔しくはないのだろうか、と。

◆診療費/5260円[04月05日]久々の甲状腺検査の結果に、ガックリした。一転、数値が悪化し、1年前の振り出しに逆戻り。指示通り昆布やワカメを我慢してきたのに、なんでだっ!? やっぱり、トルコで浴びたチェルノブイリの灰が良くなかったのか。先生にあれこれ訊ねるが、次第に答えの歯切れは悪くなる。免疫系の病気に関して、原因その他の解明は、まだ充分ではないようだ。3ヶ月先の検査まで、取りあえずは宙ぶらりんの猶予期間が続きそう。

◆『福島原発事故独立検証委員会』『原発文化人50人斬り』/各1575円[04月05日]神戸元町のこの書店、阪神大震災の地ゆえか、今回の震災・原発事故関係の書籍が、いまだに広いスペースで平積みになっている。『東北魂』も、著者の手書き文字らしきポップが2本立ち、真っ先に目に飛び込んできた。その一冊を手に取るが、「岡村さんのところで買えば、向こうも潤うな」と考えて戻す。あっ、『小さな暮らしのすすめ』も片隅に……。

◆財布と相談で2冊に絞り込み、最寄りの喫茶店に入って、早速『原発文化人…(佐高信)からページを開く。酒田出身だという同氏の、一見無関係に思える2つの怒りが、お腹にズシンときた。その一つは原発の子飼い有名人に向けたもの。二つ目は、幕末以前からの中央政権に対する被征服者としての恨み。こちらは私が全く想像だにしなかった根深い感情で、アタマで理解しても、なかなか納得までは至らない。

◆今回、被災地および非・被災地が共に『東北』で括られて、地元の人に違和感はないのか。先日の山川さんの報告会では、そこが謎だった。彼に直接訊ねるも、「ない」の一言。釈然としなかったが、佐高さんの本のあと、少しばかりシックリきた。ある意味で、日本列島の最もナイーブな脇腹部分を、あの津波と原発は抉ったのかも知れない。そこに、すっかり手垢にまみれた『絆』連呼の指紋が、無神経にベタベタ貼り付いてなければよいが。

◆診察代/360円[04月06日]昨日の専門病院の結果を、ホームドクターの所へ持って行く。数値を眺めながら、先生、「やっぱり原因は栄養失調症やね」と宣うた。専門医とは全く別の、拍子抜けする見解。そう云えば前回も、CTスキャンの画像を前に、「肝臓の輪郭が二重に見えるのは、その間に栄養失調症で水が溜まっていた名残り。過去に腹部が突出したことはないか?」と訊かれた。その時は「ないです」と即答したものの、かつての旅先で、語学学校の講師たちが陰で私を「ソマリア」と呼んでいたのを思い出す。可能性があるとすれば、あの頃だろう。

◆いずれにせよ、食べれば回復する栄養失調症の方が、気はラクだ。それに、この老先生はキチンと聴診器で患者を診る。今回は「セカンド・オピニオン」に従うことにする。昨年の3.11と前後した病気の発覚といい、遅々として進まない復活といい、自分自身が、今の日本の一部のような気分。おいっ、政治家に官僚ども! 被災地に、しっかり聴診器当てなきゃダメだろ!! [以上、長年ほったらかしの『貧困通信』を、地平線版にて更新いたします。ミスターX

すげぇ。大工さんすげぇ。そして現場は怖ぇ。──もの作りの現場の底知れぬ贅沢について

■先日、ムスメよろしくハナを垂らしながらテレビ番組(編注:3月4日の日曜日、22時からBS-TBS「女子彩才」という30分のドキュメント&トーク番組に出演。好評だったが、風邪でかなりの鼻声だった)に出たら、想像以上の反響で、追われて制作をしているこの頃です。てんやわんやで、集塵機やらサンダー、ノコやらを轟音と共に回しています。

◆この音の中に半日もいると精神の芯からぐったりしてしまい、全ての物事を疲労色に染め上げてしまうのです。そこで、それに打ち勝つ兵器の導入です。イヤーマフという防音耳当てです。ヘッドホンに防音クッションが付いたようなもの。各種機械音を「疲れないデシベル」まで下げてくれます。快適です。特筆すべきは、機械音のただ中でも電話の音は聞こえるというすばらしさ。(音程が違うからか、ナゼか聞こえます)

◆これで、ネットはできないけど孫に買ってあげたいという世代の注文を逃さずにすむのです。もっと早く導入すればよかったと思うことしきり。これ、きっと「都合の悪いデシベル」なんかも消してくれるのではないかとちょっと期待したりして。(旦那様の意味不明な発言とか 笑)ドイツでも使っていましたが、当時はさほど重宝しているとも思っていなかったので、見直しました。制作に取り組む意欲の違いなのかも・・・。(注:私はイヤーマフのまわしモンではありません)

◆それから、妙に感激したグッズをもう一つ。それは指サック。私が使うのは親指だけですが、これ最高です。秋から春先ぐらいまで、私の親指の腹は両方とも乾燥と酷使でパックリ割れを繰り返します。血が出るとバンドエイドを貼って保湿しますが、水仕事、手仕事では汚れるわ剥がれるわ触覚も失うわ滑るわで、いいことないのですが、その上から指サックをはめると見事に解決するのです。しかもグリップ最高。ただし触覚は戻りませんが・・。

◆出血のないぐらいの割れならば指サックだけでも充分保湿効果ありなので、やみつきです。昔ながらのオレンジ色のはやはり女子としてはちょっとぐらい恥ずかしいので来客時にはこそこそ外したりしていましたが、白色透明なものを発見した今となってはそのような手間も惜しんで付けっぱなしです。仕事もはかどるってやつです。(注:私は指サックのまわしモンではありません)

◆この大波以前はしばらく、おもちゃ以外の制作物を作っては楽しんで、依頼されては喜んで、と引き受けていました。先日、あるお店の看板を依頼されて納品と施工に立ち合ったのですが、いかんせんこちらは制作が専門なので、取付は工務店と大工さんにお任せするしかなく、明らかに年配の大工さんに私が指示を出すというなんとも気の引ける役割を演じてきました。(工務店、大工さん側と期待に胸一杯の依頼主の間に挟まれ、頼れるのは自分だけ!)

◆事前に外構の寸法を測って、図面を引いて、アトリエで組み立ててみてと何度も何度も試行錯誤をして「後はこれをビスで留めるだけ!」という状態で持って行ったとしても絶対にその通りならないのが現場。むしろいつでも変更可能なように含みというか幅を持たせて制作する事が重要です。実際、長すぎたものは容赦なくその場でスパッと切断し、ご丁寧に空けていったビス穴には「こんなもん空けてきたらアカン!」と一喝され、多少のデザイン変更に臨機応変な判断を任され、『現場が全て』の世界で揉まれてきました。

◆それでもちゃんとこちらの要望通りに取付け、多々のハプニングも無かったかの様に完成に持っていく百戦錬磨の大工さんに目がハートになってしまいました。すげぇ。大工さんすげぇ。そして現場は怖ぇ。無事に施工が終わった後は脱力感満載で、ヘナヘナと崩れそうでした。なんという世界。私のアトリエがあまりにもメルヘンに感じました。

◆一点物をつくるということに於いてこの一例はやや過度でしたが、量産を前提に考えたおもちゃをつくる時にはない底知れぬ贅沢、あるいはオタク的な至福と、この緊張感は、筆舌に尽くし難しです。こんなに怖い目に遭っていながらもやめられないのは、怖さよりも純粋に本当に、うきうきしてしまう事にあります。ビョーキだったりして。創造性気分昇天シンドロームとか。(京都府 多胡歩未 木のおもちゃ作家)

鷹匠、松原英俊さんと歩いた雪の世界

■3月29日。たまたま松原さんと志津(編注:月山山麓の有名な温泉地)でお会いしたので、鷹狩りに同行させていただきました。ウサギを探して小さな尾根を丹念にしらみつぶしに歩いていく松原さんと鷹の背中を、距離を保ちながらずっと追いかけた1日でした。

◆松原さんが足を止めたらこちらも止まる。鷹が飛び立った瞬間は胸がどきどきしますが、音をたてないよう、息をつめて様子を見守るだけ。鷹が木に止まり、ウサギが駆けていく姿が見えたら、ふーっと息を吐いて、しかしまだ鷹を松原さんが腕に呼び戻すまでは静かに待ちます。また歩き始めたら、一定の距離を保って静かに追跡。その繰り返し。

◆何度かチャンスはあり、一度は鷹から逃れて尾根にかけあがって来たウサギを松原さんが追って下に向かわせる場面があり、鷹にもう一度襲うチャンスがあったのですが、ウサギは木をうまく利用して攻撃をかわすそうで、残念ながら昨日は獲物はしとめられませんでした。それでも、静かな興奮としみじみした感動に包まれたいい一日でした。(山形 網谷由美子


[通信費をありがとうございました]

 先月号の通信でお知らせした以後、通信費(1年2000円です)を払ってくださった方は、以下の皆さんです。中には複数年分払ってくれた方もいます。万一、ここに記載されなかった方、当方の手違いですのでどうかお知らせください。通信費の振込先はこの通信の最終ページにあります。
菅原強/吉竹俊之/小関琢磨(5000円 2年分)/堀井昌子/菊池由美子/古山里美/竹村東洋子/鹿内善三


石川直樹さんのローツェ挑戦を知って──シニア登山家からのメール

■地平線通信392号(水増し号)に石川直樹君の文章が載っている。間もなく35才になるという石川君、昨年2度目のエベレストに登ったのに次いで、ことしは第4位の高峰、ローツェに登るという。この記事を見た日本山岳会の会員で地平線通信の読者でもある早大山岳部OB、成川隆顕さんからメールをもらった。

◆「石川直樹さんのローツェ登山の記事を拝読し、ブログも見ました。石川さんにお願いしたくなりました。」と始まる文章。「好天に恵まれ山頂に達したら、エベレストだけでなく後ろを見渡して下さい。ローツェ・シャールから中央峰を経てローツェにいたる稜線を見てきてください。写真に撮ってください。そして、難しくても登れそうかどうかという目で、ルートを眺めてみてくれませんか」

◆石川君のはるか先輩となる早大山岳部の成川さんら11名は半世紀近く前、ローツェ山域に入った。「早稲田のパーティーが1965年に、イムジャ氷河側からローツェ・シャールに登ろうとして失敗しました。成川が転落したのが失敗の主な理由です。数年後にオーストリア隊が登りました。その成川が、登山から50年近く経って、いまさらお願いしたいのは、『イムジャ― ローツェ・シャール ―ローツェ ―エベレスト―クーンブ゛踏破は、多分、登山者にとって究極の縦走ではないか。その可能性を考えながら、見てきてほしい』ということです。石川さんの登山が好天に恵まれるよう祈っています。江本さん、このことを石川さんに伝えていただけませんか。お願いします。お疲れの所をすみません。石川さんはもう出発したか、間もなく出発のはずです」

◆石川君から、すぐ返信があった。「江本さん メールをありがとうございます。ぼくはいまカトマンズにいます。明日、ルクラへ向かう予定です。成川隆顕さんからのメール、しかと受け取りました。イムジャ― ローツェ・シャール ―ローツェ ―エベレスト―クーンブ゛踏破、すごい縦走ですね。それができそうかどうかということも含めて可能なかぎり写真を撮ってきたいと思います。では、行ってきます! 石川直樹◆健闘を祈る!(E

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■ローツェ・シャール、遭難、そして友情の救出のドラマ■

ローツェ・シャールでの早大隊の遭難、救出劇は登山史に残る出来事だった。シャールは「東」の意味で、ローツェ(8511メートル)の東側8383メートルの難峰。当時、最も高い未踏峰だった。1965年4月18日、成川が標高7000メートルのローツェシャールの壁でルート開拓中、足下の雪が崩れて150メートル墜落、辛うじてザイルで止まった。しかし、滑落の途中頭を打ち、成川さんは意識を失った。村井葵隊員はじめ仲間たちがただちに現場まで登り、沢筋の急峻な雪面の岩陰にテントを張り、村井隊員が付き添ってビバーク。次々に襲う小雪崩(20分おきに来た)を辛うじて交わしつつ意識のない成川を励まし続けた。おかげで、凍傷で手足の指を失なったものの成川は無事生還。ただし、遭難直前からの前後4日間のことを、本人はまったく覚えていないという。登攀そのものは失敗に終わり、下山にかかったが、別の悲劇が待っていた。成川の救出にあたった村井隊員が突然意識を失ったのだ。酸素希薄な高所での苛烈な行動が原因と思われ、以後1か月、村井隊員は深い昏睡の中にいた。この登攀と遭難については村井葵著「幻想のヒマラヤ」(冬樹社刊。のち「中公文庫」)に詳しく、村井の昏睡状態の様子は、その第4章「傷つける日々」で成川が書いている。(E


■地平線はみだし情報
『最後の辺境 チベットのアルプス』近く刊行!

■東チベット探検のスペシャリストとして、世界の登山界から注目されている中村保さんの新著『最後の辺境 チベットのアルプス』が東京新聞社から4月20日頃刊行される。豊富な写真、地図とともにヒマラヤ山脈の東、メコン、揚子江、黄河の源流域に展開する知られざる高峰群の紹介はシニア探検家、中村さんの大いなる成果。2875円+税。「講演旅行と登山文化」の章もあり、世界各国の登山文化の現状も紹介されている。


今思えばあの時あそこであしびなーイベントができて本当によかった。あの時大集会やって本当によかった──比嘉小学校、とうとう閉校しました

■江本さん、先日は比嘉小学校の閉校式にわざわざお越しくださいましてありがとうございました。あらためて地平線の皆さん、いろいろとありがとうございました。山田高司さん、丸山純さん、ありがとうございました。今思えばあの時あそこであしびなーイベントができて本当によかった。あの時大集会やって本当によかった。今、つくづくそう思います。

◆涙の閉校式後、3月31日で学校は閉まりました。前々日に学校に行き比嘉区がもらい受ける備品を運び出すのを手伝いました。太鼓やパーランクー、衣装などや、学芸会で使ったグッズなど。私は記念にと机とイスをもらいました。まるで形見分けのようですよね……。

◆学校の引っ越し作業は、閉校式を終えた子供たちも手伝いに来ていました。帰り際に先生が子供たちに、「みんな最後まで手伝いありがとう。終業式終わってもみんなにまた会えるとずるずる今まで来たけど、今日はほんとにこれでさよならです。みんな、新しい学校で頑張れよ。何かあったら電話しろよ、先生は車飛ばして海中道路渡って来るからな」と話すのを聞きながら、後ろ髪引かれながら学校をあとにしました。

◆今は春休み。毎日牧場に子供たちが遊びに来てヤギと遊んだりカブトムシの幼虫を探したり畑を手伝ったりしてにぎやかです。4月に入り、気持ちも切り替えなきゃ、と思うんですが、新学期が始まってもあの山の上の小学校から始業のチャイムや放送委員の声や、休み時間にこだまする歓声はもう聞こえないのか……と思うと胸が締め付けられる気持ちです。

◆学校がなくなったと実感するのはたぶんこれからです。学校がなくなったあとの浜比嘉がどうなっていくのか。私は地域の人達と一緒に、なんとか悪い方向にいかないように頑張っていきたいと思います。どうか今後とも見守っていてください。(外間晴美 浜比嘉島)

田中雄次郎一家、北の国で今年も奮闘す!

 「厳激余寒御見舞い申し上げます(彼岸を過ぎて失礼します)。北海道北部は記録的な大雪、猛吹雪、厳寒が続き、酪農家の施設の倒壊が数百棟を超えるという異常事態です」との、独特の字体の遅ればせの新年の挨拶はがきを3月下旬にもらった。思わず「近況書いて」と、超多忙な酪農家にお願いしてしまった。以下、その返信──。

■「東京の天皇陛下に似た声の人からだよ」という晴大(4月から小6)から受話器を受け取ると江本さんでした。どっちにしても緊張します。近況ですが、先週ぐらいから日中の気温も0℃をしっかり上回るようになり、そうなると雪解けの音を空気で感じ、張りつめていた冬はもう終わり、のど元過ぎれば厳しかった冬の寒さを忘れる、です。そしてこの頃、この固雪になる時期を待ってました。子供らが春休みになると、我が家ではこの時にしなければならない山仕事があります。来年の冬のための薪づくり、牧場に使う牧柵や材木づくりの仕事です。木を伐るのはチェンソーですが、ある所までの運び出しは人力です。朝の牛の搾乳等の仕事を終え、弁当、おやつ、水筒を持って道具一式を積んだソリを引いて山に行きます。

◆私が間伐しながら、太さ15センチ〜45センチくらいの楢や白樺など6、7種類の広葉樹を年によって30-50本ぐらい薪用に伐木します。それを更に長さ30センチぐらいに小切りします。ソリ(長さ130センチ、幅50センチぐらい)に山積みして雪解け後トラクターの入れるところまで遊びながらソリに乗って操り、引っぱりしながら何十往復も運び出します。この重労働におやつは必需品です。

◆牧場の牧柵、材木造りは太さ30センチ〜45センチのから松とトド松を毎年15〜20本ぐらい伐木します。いろいろな種類に切り分けます。短いもので120センチ、長いもので6メートル、丸太のまま、縦割り2分割、4分割、歩み板状角材、1尺×4寸角材、4寸角材等々さまざまです。これも長くて太い材の運搬は重労働です。でも子どもらは何でも遊びに変えてやっています。

◆仕事もはかどって数日たつ頃、子どもらと山の探検をします。厳しい冬を越せなかった獣の死骸、様々な動物の足跡、糞(たまにはヒグマの??)、夏には背丈以上の根曲がり笹に覆われた山の中を、川の上も自由に歩き回り、毎年毎年の山の顔は刺激的です。10年ぐらい前からはカバノアキタケ(と呼ばれる万能薬になるキノコの仲間)も採集しています。10日から2週間で薪割りを終えてこの仕事が完了します。例年ではその頃は雪解けも随分進んでいますが、今年はどうなるのでしょうか。桜の開花はいつも5月20日頃ですが、これもどうかな。

◆22年間、間伐のつもりで木を伐っていた山に今年からは植林をしようと思っています。どうかすると自然破壊に向かいがちの最近の農業ですが、歳を多少とってきて、牛と接している時、牧草地を歩いている時、冬の山仕事でふと一服した時、自然は黙してあまりに多くを語っている、と感じます。これからできるだけ自然に近づいた農業をしていきたいと思ってなりません。それではお元気で。(田中雄次郎 北海道豊富町からファクスで)

田舎の学校は、都会よりもずっと地域に近かった。子どもたちの元気な姿や声が何気なく目や耳に入るだけで、その土地の生命力は格段にあがる。ありがとう、比嘉小学校。初心を思い出したいときは、またこの場所に戻って来させてね

■3月22日、比嘉小学校さいごの卒業式。浜比嘉島住民の外間昇さん・晴美さん、江本さんと一緒に山の上に建つ体育館へ行くと、玄関前で3人の卒業生と担任の先生が出迎えてくれた。4人の笑顔を見た瞬間、数回しか訪れたことのないこの小学校に、気持ちがぐっと近づく。そして、沖縄なまりの淡々とした口調で話される教頭先生の開式の言葉に、早くも胸がいっぱいになった。「感謝、という言葉には『謝る』という漢字が入っています。ありがとう比嘉小学校。そして、残せなくてごめんなさい。」

◆式では卒業生への花向けの言葉のほか、5年生以下の児童へも新しい学校へ送り出すメッセージが多くあった。4月から、浜比嘉島の20名強の児童は隣の平安座島で開校した彩橋小学校にスクールバスで通う。卒業式であり閉校式でもあり、おめでたいのに寂しいという複雑な気持ち。閉校の際、校旗を教育委員会へ返還するということを初めて知った。旗は伊敷校長から教育長へ手渡されるのだが、教育長が旗に手をかけても、校長は旗を握りしめてしばらく動かなかった。

◆児童が父兄席を振り返り、校歌斉唱。小さいくりくり坊主たちが一生懸命、大きな口で歌っている。後ろに座っているおばあたちの会話が耳に入ってきた。「かわいいねえ」「上手だねえ」「寂しくなるよ」。地域にとって大切な学校だったのだな、としみじみ思う。私はこの島に年に2〜3回短期滞在するだけだが、子どもたちの存在感は大きい。地平線仲間と一緒に出場させてもらっている島の伝統行事、ハーリー(船)大会の朝には、子どもたちの鼓笛隊が賑やかに演奏しながら集落を廻るのが楽しみだった。

◆この1年関わっている東日本大震災の支援活動では、奇しくも宮城県で廃校になった木造の小学校を拠点として使わせていただいている。近所の方から学校での思い出話をたくさん聞き、学校のイメージが大きく変わった。田舎の学校は、都会よりもずっと地域に近かった。子どもたちの元気な姿や声が何気なく目や耳に入るだけで、その土地の生命力は格段にあがる。また、地域に子どもがいることで大人同士(子どもがいない人や高齢者も含めて)が協力し合え、地域がまとまったり、伝統的な遊び・芸能・生活の工夫などを伝える大人の活躍の場が生まれる。晴美さんも、毎週子どもたちに三線を教えていた。卒業式のあとに執り行なわれた閉校式で童神の演奏があり、三線チームの子どもたちはとても上手に弾いていた。よくここまで教えたなあ、と感心して晴美さんの顔を見ると、すごく嬉しそうで少し寂しそうだった。

◆島民ではないけれど、閉校式にはどうしても参加したかった。比嘉小は私にとっても大事な学校だ。2011年2月末、課外授業の黒糖づくり体験におじゃました。外間夫妻の全面協力で授業は進められた。牧場のサトウキビを刈り取り、機械で絞る。絞り汁に石灰を入れて煮詰めるときは、2時間も根気強くかき混ぜ続けた。サトウキビの絞りかすは一輪車に山積みにして、肥料にするために農園まで運ぶ。かなり重く、中学年の子どもの力では車がフラフラするが、担任の金城先生は手を貸さずにただ傍に付き添っていた。何でも自分でやろうと奮闘する子どもたちと、それを見守りながら応援する先生たち。自然な姿なんだけれど、なんだかすごく感動してしまった。ちょうど色々あって、自分を支えてくれる人たちのありがたさについて考えていた時期だったからだと思う。そしてその年の4月から教員をやろうと決めた。

◆赴任先の学校が決まりかけた頃に東日本大震災が起こり、そのまま東北に居続けているので結局まだ教員にはなっていない。でも、子ども相手でなくても、やりたかったことはできている。大きなことはできないけれど、傍にいて応援することが、東北で知り合った人たちの頑張る力やくじけそうな時にこらえる力になると信じて活動を続けている。おこがましいかもしれないけれど、そう信じないと長期の活動なんてできない。

◆大切なことを教えてくれた比嘉小が閉校してしまうのは、とても寂しくて残念だ。このことをずっと忘れないでいよう。そうすれば、きっといつか何かに繋げられる。ありがとう、比嘉小学校。初心を思い出したいときは、またこの場所に戻って来させてね。

◆P.S. 東北での近況を報告します。事務局&住居だった小学校を出て、仲間とシェアハウスを借りて住み始めました。やっと生活にメリハリがつけられそう。活動は主に南三陸町で、外部からの支援を斡旋するのではなく、地域内(津波被災地同士や、津波被災地とその周辺地域)の繋がり作りの手伝いに力を入れて動いています。自分たちにできる範囲でなので細々とですが、小さい成果がたくさん見えるのでやりがいはあります。高台移転の候補地視察にも同行させてもらい、今後の動きが気になるので夏頃までは東北にいたいと思っています。(新垣亜美

伊敷ひろみ校長からのメール

■先日はわざわざ遠方よりおこしくださり、大変感激いたしました。心より、感謝申しあげます。他の地平線会議の方々へもお礼申しあげます。遅くなりましたが、4月からは中頭郡北中城村の北中城小学校に勤務となります。また、ご縁がありますようによろしくお願いいたします。(比嘉小学校校長 伊敷ひろみ 3月28日)


[あとがき]

■シール・エミコさんのことは、かねて何人もの人から安否を心配するはがきやメールを頂いている。病気のことは、個人情報であり、いちいち明快な返事がしにくかったが、彼女がオーストラリアに旅立つにあたって、今月の通信では皆さんにできるだけ正しく現状を伝えたい、とやや詳しく書いてもらった。

◆以下、3月末、出発直前に届いたエミコ・メールです。「地平線の皆さんからのお餞別、命をつなぐために、大切に大切に使わせていただきます。無駄使いは絶対にいたしません。みちよさんから報告会のお話も聞かせていただきました。江本さん、みちよさん、車谷くんをはじめ、皆さんに、本当に感謝の気持ちでいっぱいです!!

◆病院も、住むとこも仕事もまだ決まっていませんが、家族も実家もメルボルンにはいませんが、再びゼロから、手探りでひとつづつ積みあげていくつもりです。旅みたいでちょっぴりワクワクです♪ 見守ってくださってる皆さまに心からのお礼をお伝えくださいませ。いただいたパワーを明日へと、オーストラリアへとつなげていきます!必ず蘇生し日本に帰ってますからね。皆さんそれまで♪ (^o^)(^-^)/残りあと3日、エミコ&スティーブより」

◆エミちゃん、行ってらっしゃい。病院に長く付き添ってくれた岸本実千代さん、ありがとう。(江本嘉伸


■今月の地平線報告会の案内(絵と文:長野亮之介)
地平線通信裏表紙

くらやみの叡知

  • 4月27日(金) 18:30〜21:00
  • ¥500
  • 於:新宿区立新宿スポーツセンター(03-3232-0171)

「闇って、想像力をかきたてる、とても大事な存在だと思うんです」というのは、フォトジャーナリストの桃井和馬さん。昨年3・11の半月後、闇でパニックになる日本をあとにし、かねて行きたかったラダック(インド・ジャンムー・カシミール集の一地域)を訪れました。水力発電しかない地域のため、冬期は電力供給が少なく、4、5時間/日しか電力がありません。闇は日常にあり、今も闇を畏怖する文化が残っていした。

「ラダックの庶民の暮らしを見ると、いかに僕等が自然のサイクルから遠くなってしまったかと実感します」と桃井さん。「彼らはそうした生き方を肯定的に捉えてる。大きな街ではレジ袋は禁止だし、太陽光発電にも積極的です」。そうした社会的な合意形成に、仏教が機能している面も大きいようです。「よい、思想面でのリーダーがいて、欲望をコントロールしている」というのが桃井さんの感想。一方で押し寄せるグローバリズムの圧力も大きいとか。

写真家として光と影を追求する桃井さんに、今月はラダックの闇について語って頂きます。


地平線通信 393号
制作:地平線通信制作室/編集長:江本嘉伸/レイアウト:森井祐介/イラスト:長野亮之介/編集制作スタッフ:丸山純 武田力 中島菊代 大西夏奈子 落合大祐 加藤千晶
印刷:地平線印刷局榎町分室
地平線Webサイト:http://www.chiheisen.net/


発行:2012年4月11日 地平線会議
〒160-0007 東京都新宿区荒木町3-23-201 江本嘉伸方


地平線ポスト宛先
pea03131@nifty.ne.jp
Fax 03-3359-7907 (江本)


◆通信費(2000円)払い込みは郵便振替(料金が120円かかります)、または報告会の受付でどうぞ。
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議


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