3月14日。朝のニュース番組を見ていて、ああ、そうだった、と思い出した。あの、真っ黒な凶暴な水が、車を、人を、田畑を、町を襲う場面にただただ震撼した3.11。間もなく東電福島第一原発の爆発が起こり、わけもわからないまま、住民たちは見知らぬ施設や学校へ避難を強いられた。そして、その3日後の、1年前のきょう14日、「計画停電」(輪番停電ともいった)というものが始まったのだ。
◆郊外電車は間引きされ、いつもは賑やかな新宿通りは夜になっても節電で暗いままとなった。暖房を最小限にするためあたたかい衣類を着込む人の姿が目立った。原発の根深い問題が根底にあることに疑問を抱きつつ被災された方々の苦労を思えばこれくらいは、と多くの人が考えただろう。
◆地平線会議の活動もささやかな影響を受けた。毎月欠かさず続けて来た地平線報告会、その会場に使わせてもらっている新宿区スポーツセンターが都の業務命令により夜間の使用を禁止としたのだ。30数年もの長い間、報告会は「原則として第4金曜日の18時30分開始」と決めている。平日の午後では参加できない人が多いだろう。ほんの一瞬、今回だけはムリか、との思いがよぎったが、とんでもない、こんな時だからこそやるべし!。すぐに思い直して「はがき号外」の発行を決めた。「地平線通信377Extra号」である。
◆「3・25地平線報告会開会時間変更 午後4時30分からです!!」とその部分だけカラー印刷とし、3月19日付けで発行した。広瀬敏通さんを中心に「RQ市民災害救援センター」が発足した直後で私も地平線会議を代表するかたちで幹事のひとりとなっていた。長期ボランティアがどうしても必要となり、さて、どなたかいませんか?と会合の席で聞かれて新垣亜美さんが手を挙げた。
◆3月25日、森田靖郎氏の報告会当日、宮城に向かう車の中からメールが次々に入った。「出発しました」「宇都宮です」「18時頃福島に入ったら雨が雪に変わりました」「道路が波打っています」被災地に近づくにつれ、緊張感に溢れるものに変わっていった新垣さんの息づかいを報告会の会場で受け止めたことをきのうのように覚えている。
◆計画停電は次第にゆるやかになっていき、4月、5月の報告会こそ平日の14時スタートという異例の時間帯だったが,6月以降は平常に戻ることができた。ただし、報告会のテーマ、地平線通信の内容はがらり変わった。RQ以外にもさまざまなかたちの支援に仲間たちは動き出し、人、そして動物たちを救おうとする尊い行為が東北各地に展開した。そこで知り得た事実を伝え、記録し、率直に語り合う。地平線会議は、そういう場でありたい、痛切にそう思った。
◆「大地に帰る」という見出しとともに大型バスがクレーンでつり上げられている写真が3月11日付けの「河北新報」一面に大きく掲載されている(新垣さんが3日分の新聞を送ってくれた)。石巻・雄勝公民館の屋上に乗り上げたままになっていた南三陸観光バス。私も何度か通りかかって、強烈に脳裏に焼き付けられている。「災害遺構」として保存できないか、と学術調査チームから提案されていたが、あの恐ろしい津波を想起する被災者感情に考慮して震災1年を期して撤去した、という。
◆3.11をどのようにすれば風化させないで済むか。大型船やバス、あるいは家屋など「乗り上げ遺構」は確かに強いメッセージ性を持つが、それだけに抵抗感も強いらしい。
◆3.11の1週間後の昨年3月18日、沖縄県うるま市議会は、伊計島、宮城島、浜比嘉島、平安座島の小学校と中学校を廃校にする議案を、与党の賛成多数で可決した。私たち地平線会議が「ちへいせん・あしびなー」という祭りをやらせてもらい、丸山純氏の情熱で子どもたちの写真展を開いた浜比嘉島のあの学校もこの22日には閉校式を迎える。美しい、丘の上の小学校がほんとうに消えてしまうのか。仲間を代表してその目撃者として、式に参加させてもらうつもりだ。
◆「3.11とは何か」というテーマは、あまりに重い。風化するどころか、すべてはこれからではないか。寄せられた原稿を読み、今月は「考・3.11の1年」の特集とした。(江本嘉伸)
■報告会の会場がいつもと違う。机がすべて端に寄せられ、椅子だけが並べられている。ほぼ定刻。まだ参加者はまばらだけれど、エアフォトグラファー・多胡光純さんの映像が流された。本人は九州で撮影中。天気がよく中断が惜しいという事で会場には来られず、映像とメモが報告会に託された。
◆福島放送の30周年記念番組として昨秋に放映された(好評でBS朝日で再放送も)「天空の旅人 福島を飛ぶ」の中から、まずは日本最大のブナ林を持つ只見の山と川を訪ねる空中散歩。発電所が多くあり、その電気はほぼ東京に送られている。撮影の困難は張り巡らされた「送電線」にあったそうだ。つづいて、震災の前に撮影した大熊海岸と相馬市。大熊海岸は「警戒区域」となり、現在は立ち入り禁止だ。東電・福島第二原子力発電所のある小良浜や富丘漁港、馬の背など、片道6キロ程の道のりを往復する。切り立った断崖絶壁の湾がつづき、緑と青い海のコントラストが印象的だった。
◆相馬市の映像では、海苔の養殖風景も見える。「小松島」とも称される美しい松川浦だ。多湖さんはここを撮り切れなかった気がし、再訪を誓った。が、一ヵ月後に震災が起こる。お世話になった方から無事の手紙が届いたのは、半年後だったそうだ。番組の中で多湖さんは、福島の自然を「控えめだけど奥深い」と表した。「福島の人は控えめ。ものすごい空間とともに生きている」とも。
◆その福島が、いまどうなっているのか。第二原発を抱える楢葉町で被災し、現在はいわき市に住んでいる渡辺哲さん。世界を駆け巡るライダーであり、東北に何度も通う賀曽利隆さん。お二人に、福島の一年の推移を江本嘉伸さんが聞く。渡辺さんの住んでいた楢葉町の住民は約8000人。現在はいわき市に5000人超、残りが会津地方へと散っている。4月には「解除準備区域」という名称で、楢葉町への行き来が可能になると言われているが、除染はこれからという状況。先日地域住民を集めた除染説明会が開かれたが、役人や町長を前に「いつ帰れるのか?」という住民の不満が爆発し、冷静な議論はできない状態だったという。
◆つづいて賀曽利さん。現在、海岸線で通れない道はほとんどない他県と違い、原発事故により福島県は、20キロ圏を通る国道6号線が通行不能となったままだ。結果、浜通りから中通りへ向かう国道も全て止められており、浜通りが分断された格好になっている。多胡さんが撮っていた松川浦にも触れた。ここは鵜の尾岬の砂州が流され、福島で一番地図が変わった所。原発事故一辺倒になりがちだが、福島も津波で多大な被害を受けているのだ。
◆被災時の状況はどうだったのか。渡辺さんの弟さんは楢葉町役場で働いている。教えて頂いた記録を、江本さんが読み上げた。3月11日、14:46地震発生/14:49大津波警報/15:00災害対策本部を設置(避難住民が移動)/19:03 緊急事態宣言。そして、翌12日8:00、楢葉町全域に「避難指示」が出た。
◆渡辺さん曰く、その時は「第二で放射能が飛散している可能性がある」との事で、「南方向へ避難」としか指示されなかったという。放送を聞き、渡辺さんは親戚がいた広野町へ。その後いわき市方面に向かい、駐車場で一晩を過ごした。数日で帰れると考え、財布と携帯しか持って出なかった。
◆14日に第一原発で水素爆発があり、5700人がいわき市へ逃げた。避難所では、40歳以下の人にヨウ素を配布されたが、「指示があるまで飲まないように」と言われ、服用には至らず、貰った人も何の事か判らなかったようだ。そして翌15日、「重要なのが、雨が降った事だろう」と江本さん。この日の風向きから放射性物質が北西に降り注いだからだ。結果、20キロ圏外だが北西に位置し谷間になっている飯館村などが高濃度汚染地域となった。
◆「びっくりする経験をした」、賀曽利さんの話。震災後の8月、稚内からバイクツアーでサハリンへ向かう途中、コルサコフという港で、千葉県の流山から参加した人が、放射線チェックに引っ掛かった。ガイガーカウンターで全ての荷物を検査すると、原因はバイクカバー。バイクは洗車したが、カバーはそのままだったため、0.39μSv/hが出たのだ。ロシア側はその数値でも大騒ぎをする。「私たちはいま、桁外れな数値に慣らされてしまっているんですね」。賀曽利さんの言葉が重たかった。
◆「どれくらいの人が楢葉町へ戻りたいと思っているのだろう?」、江本さんが渡辺さんに尋ねる。除染説明会で200人ほど集まった時に感じた所では、世代間で差がある。お年寄りは戻れるなら戻りたいと思っているが、若い世代は戻らないと言う人が多く、子供のいる弟さんも戻らないとはっきり言っているそうだ。「あなたはいわきならいいかな、という感じ?」江本さんが聞くと、渡辺さんは「そうですね。いわきでいいかな、という感じです」。言い替えられた「で」に、複雑な心境が伝わってきた。
◆楢葉町の小中学校は4月からいわきで始業される予定だが、雪深い会津地方からの移住希望者に住居が足りていない状況がある。東電の交付金が入る原発地域は合併の必要がなかったが、いわき市は合併を繰り返して大きくなった。東京にも近い。そのいわきだからいま5000人を吸収できているし、まだまだできるはずだ。賀曽利さんが力強く言う。前半の時間がなくなり、いわき市の大漁協・小名浜港の話に。現在、卸売市場は復活したが、小名浜港に揚げると他で獲った魚でも値段が付かない状況だという。江本さんは「津波ではない。原発の被害であり、東電の現場だ。それが口惜しい」。
◆5分の休憩をはさんでの後半。トイレから戻って来たら、椅子が中心に向かって円を作るように並べられていた。1月の報告、森田靖郎さんのお話を受けて、全員参加の「白熱教室」のようにしたいと、江本さんが考えたのだ。それを受け、長野さんが話す。原発事故後、世界から見れば、日本全体が汚染されている。半減期が途方もなく長い放射性物質がまき散らされ、いま日本に住んでいる人達はみな、アリスのように迷っているのではないか。いま私達が行動した事がずっと先まで残り、問われる、そんな時なのではないか。結論を出さなくていいので、思った事、考えた事、体験した事を、話す場にしよう。
◆さて、江本さんにバトンタッチ。冒頭は二人の方に。まず、前回の概論を森田さんに聞く事から始まる。思考のきっかけは、3.11の後にすぐ、石原慎太郎都知事が発した、震災への(戦後日本人が積み重ねて来た「心の垢」=我欲を洗い流す為の)「天罰」という発言だったという。誤解を生む発言と後に撤回された為、最初は森田さんも放言と思ったが、「心の垢」は突き詰めると、「脱昭和」「脱原発」に至る。
◆昭和のシステム「政官財」のトライアングルで高度成長を遂げてきたが、東電と日本政府の対応の悪さにシステムの行き詰まりがある。また、「政官財」の癒着でできたのが、原子力ムラだ。国民ではなく、「心の垢」が表すのは、昭和のシステムそのものなのではないか。原発を止めても、次にさらに危険な処理の問題が待っている。「脱原発」とは、原発を止めるだけでなく、昭和のシステムを脱却する事が必要だ。では、これからの新しいシステムとはどんなものか、と考えさせられたのだ。
◆色々な旅をしている人が地平線会議にはいる。以前、地平線会議がどんな所かと聞かれ、答えたことがあった。「暗闇の海を航海している船がある。その船が灯台の明かりを見て、ほっと安心する。ああ、自分の航海は間違っていなかったのだと思い、また航海をつづける……」。地平線会議は、「灯台の灯りのようなもの」。旅人が自分の旅が間違っていないか、前に出て喋り確認する。あるいは人の話を聞く。間違っていないと確認して、また旅に出る。その場限りでも、自分たちの考えを話しながら、確かめ合っていく。
◆次に、宮本千晴さんが「人災」について話す。宮本さんは、原発だけでなく津波に対しても人災の側面が強い、と感じたそうだ。登山者にとって雪崩で死ぬのは敗北。確率の問題ではあるが、知恵や判断で危険を危険でない形にするもの。津波に対してさえも、同じように捉えるべきなのではないか。かつて日本の漁村は本村と浜小屋が分かれており、「津波の恐ろしさ」が伝承されて来たが、近年、効率を優先した結果として、多くが断ち切られてしまった。城壁のような防潮堤によっても、海と人は切り離されてしまった。また、もっと小さな防潮堤は地震による津波には効力がないのに、住民も制作者もその外観に騙され、結果「みんなで渡れば怖くない」と騙し合いになってしまう。
◆「政官財」の癒着はその構図の最たるもので、各々に権限があっても、誰も全体としての責任を取らない。第二次世界大戦と原発も同じ構造であり、人間社会の、少なくとも日本人の体質の問題で、何度も同じことを繰り返している。どうしたらブレーキをかけられるかが宿題なのだけれど、答えが出ない、という。また、宮本さんは、特に途上国の人に対して、日本人の世間知らずからくる傲慢さを恥ずかしく思う。地平線会議というような場で、直接違う世界で違う人達に、弱い立場で触れ合いお世話になる時、世界を歪ませる事なく、もっとフラットな世界を見る事ができるのではないか。また、インターネットのお陰でいままでと違う形で、見えたり言えたりするようになっている。これから先が最悪にはならない為の仕掛けに、なるかもしれない。
◆と、この時点で、あっという間に、9時15分前になってしまった! 予定変更で、江本さんからの指名制に。まずは、島旅の河田真知子さん。昨秋に浦戸諸島へ行った。その事をどこへ書かせて貰うか考えた時、「ありのまま」を書ける「地平線通信」は貴重な媒体だと感じたという。島関係の媒体には、「島から人が出て無人島になってしまうのでは」「家を流された人と無事だった人とに感情的格差がある」とは書けなかったからだ。海岸線の長い寒風沢島では山と丘を越えて津波が襲い、半分の家は流され半分は完全に残った。残ったのは先に住み付いた、宮本さん言う「本村」の人達の家で、津波が来る前から地域の感情的なものもあったようだ。
◆島では、「自分になにができるのか」と考え、写真をたくさん撮った。それを送ると牡蠣が届き、お礼を送るとまた届く。それくらい島の人達は暖かい。「すべて流され、あなたの撮ってくれた写真が最初の写真だ」という手紙も貰った。行って写真を撮ってお送りする、その繰り返しを大事にしたい。また、「島同士のネットワークで島を応援しよう」という動きを作ることが、これからの課題だと考えている。
◆次に、森田靖郎報告会の全文掲載レポートを担当した、久島弘さん。前回の報告会で印象に残ったのは森田さんの使った「自分史」という言葉だったという。森田さんが淀みなく話せるのは、自分の中の時間のスケールと日本の戦後史が完全に一致しているからで、私達もそう捉えられるようにならなければと感じたそうだ。古代、食べ物やエネルギーなど全て自分の力で得ていたが、いまはなんでも他人任せ。それが当たり前となり事故が起きると人を責める事しかせず、責任放棄になっている。「本来から離れている」という「距離感」を常に感じながら、生きて行く事が必要なのではないか。
◆時間のない中、「5分で頼む!」と、向後元彦さんも。マングローブの植林活動を始めた時、地球がおかしくなっているのではなく、人間がこのままでは絶滅するかもしれない=「人間の問題だ」と思ったという。今回の災害もまったく同じ。地平線会議には地球規模で動いたり、一つのものにオタク的に取り組んでいる人が多いのだから、他の国で起こっている事も他人事と思わず捉えて欲しい。また、災害が同時多発で起こった場合、人類はどうなるか、そこまで考えたらいいのではないか。
◆結局、全員参加とはならなかったが、話された方々は白熱だった。「震災から今日まで、東北から心が離れられない」。それは、「責任を感じている」からではないかと、江本さん。3.11で震災から丸一年。もう、とも、まだ、とも、まだなにも、とも、思います。(加藤千晶)
東日本大震災から1年目。2012年3月11日。ぼくは、宮城県石巻市にいた。
朝、ホテルのテレビをつけると、この1年間、数え切れないほど耳目にした言葉が、いつにも増して執拗に繰り返されていた。
復興――。
テレビや新聞で、瓦礫が片付かぬ町で、避難所となった体育館で、仮設住宅で……。幾度も、幾度も、見聞きした言葉だ。
メディアが語る「復興」という言葉に、はじめて違和感を抱いたのは、いつだったか。
取材ノートをめくってみる。
1年前の3月13日、ぼくは東京から被災地に向かった。ぼくが学生時代から仕事を手伝ってきた仙台を拠点に活動する出版社「荒蝦夷」の救援のためだ。「荒蝦夷」のスタッフと関係者6人が、余震が続く仙台で避難生活を送っていた。彼らと合流して、山形県上山市のぼくの実家に一時的に避難した。
「荒蝦夷」でアルバイトをしていた二十代のSさんとその友人は、ともに気仙沼市出身。家族との連絡は断ち切れていた。ふたりがはじめて気仙沼市の家族と電話で話したのが、18日だったから、その前後のことだ。
朝のニュース番組で気仙沼市が映し出された。ヘルメット被った女性リポーターが気仙沼市で仮設住宅の建設がはじまった、と語り、こう続けたのだ。
「ようやく復興のメドがたちました……」
仮設住宅の建設がはじまっただけなのに何をいっているんだ、と思った。数多くの被災した人々が家族の安否が分からず、不安を抱える時期に、もう「復興」なのか、と。強烈な違和感を覚えた。テレビを見ていたSさんは誰にいうともなく呟いた。
「復興のメドって何?」
残念ながら震災から2週間後、Sさんの父は遺体となって発見された。彼女の友人は、4歳の姪っ子を喪った。
日に日にテレビが語る「復興」への違和感が募っていった。一家の大黒柱であった五十代の父親を喪ったSさんの家族に、4歳の娘を失った父母に、復興なんてありえるのか。彼らは、いままでとは違う新たな道を歩みながら生活を再建していくしかないはずだ。
さらに取材ノートをめくっていく。
5月11日。地平線会議で女川町の被害を報告した女川町尾浦、保福寺の住職・八巻英成さんに話を聞いた。彼も「復興」に対して違和感を抱いていた。
「テレビがいう『復興』。ぼくは嘘だと思っているんです。たとえば、道路がなおった様子をテレビで流して『復興がはじまっています』という。それでテレビを見ている人は安心する。でも、道路がなおれば、ほんとに『復興』なのか。『復興』って、『またおこす』って意味ですよね。でも、見てください。まだ、女川では、何もおこっていないじゃないですか。『復興』という安い言葉のせいで東北は、忘れられてしまうんじゃないか。そんな気がするんです。それにいまテレビも新聞もほとんど原発ですからね。『復興』って、すべてが終わったときにはじめていえる言葉だと思うんです」
三陸沿岸には、無数に浜が連なっている。産業も慣習も人の気質も多様だ。養殖が盛んな浜もあれば、水産加工が基幹の浜もある。あるいは、林業を生業にする浜もある。養殖と一口にいっても、ワカメ、コンブ、ギンザケ、カキ、ホタテ、ホヤ……。様々な形の養殖がある。浜によって、あるいは人によって津波の被害や原発事故による影響もまた違う。尾浦でギンザケ養殖を手がける六十代のYさんの話がそれを象徴していた。
「ご先祖さまは、津波に何度流されてもここに町を作りなおしてきたわけでしょう。それは、豊かな海があるから。少なくても、これだけはいえます。漁業なくして、尾浦の『復興』はありえない。理屈じゃないんだろうな。意地といえばいいのかな。ご先祖さまが築いてきたこの港を、私らの代で終わらせちゃいかん、と。ただ、同じ浜といっても、津波による被害、家族や仕事、年齢、それぞれの事情がある。これから浜を出て行く人もいるでしょう。問題がたくさんあるんです。目先の収入をどうするか。子どもの教育をどうするか。仕事はどうするのか。三陸には小さな浜がたくさんあって、それぞれに色があるんです。祭りも、人の気質も、習慣も違う。浜単位で人間関係が濃密なんです。だから、きっと浜ごとにそれぞれの形の『復興』があるはずなんです」
被災した人たちそれぞれの前には、無数に枝分かれした「これから」があるのだ。
彼らが語る「復興」は、個別具体だった。仕事をどう再開するか。避難所や仮設住宅からいつ出るのか。ローンや借金をどうするか。それぞれがそれぞれの言葉で置かれた状況を説明した。一方、メディアが繰り返す「復興」からは、生活を3・11の前に戻す、元の風景を取り戻す。漠然とだが、そんなニュアンスを感じた。けれども、東北は、3・11以前から崩壊寸前だった。女川町の避難所で行政の復興計画を手にした65歳の男性は不安を口にした。
「町は『復興』まで8年といっている。仕事がないから、『復興』する前に若い人たちは町から出て行ってしまうでしょう。残るのは年金暮らしの我々だけ。8年後なんて年よりしかいなくなる。この町は姥捨て山になってしまう。そうなったら『復興』の意味って何なんだろうね。このままいけば、町がなくなってしまうよ」
東北は、少子化、高齢化、過疎化が進んでいた地域だ。そこに津波が追い討ちをかけ、かねてから抱えていた問題に拍車をかけた。
東京発の「復興」という合い言葉が、被災した小さな浜の現実や抱える問題を覆い隠したのではないか、と感じる。「復興」だけではない。「がんばろう、ニッポン」も「絆」もそうだ。何度も繰り返される「便利な言葉」が、多様な小さな浜への、様々な方法で再起を模索したり、あるいはくじけたりする人々への想像を奪い取ったのではないか。八巻さんが語ったように「復興」という言葉は、東京に暮らす人たちが、テレビを見ている人々が、安心するための言葉ではなかったか。
震災から1年目の夜。石巻市で何度も取材を受けてくれた人たちと酒を呑んだ。いまだに祖母の発見を祈る三十代の男性が呟く。
「今日で、報道も支援も一区切りなのかな」
彼の言葉は、ぼくにこんな問いを突き付けてくる。
被災地にはじめて立った瞬間の衝撃と、亡骸にすがり慟哭する遺族を前に抱いた恐怖と哀しみと、いまも大切な人の発見を願う人たちが語った苦しみと、お前はいつまで向き合い続けることができるのか、と。(2012、3、11 石巻市にて)
■震災から間もなく1年経ち、各地から復興のニュースが聞こえてきていますが、原発20km圏内は3.11で時間が止まったままで、未だに瓦礫に手付かずのままの状態です。4月には警戒区域が見直しされ、町への行き来は可能となる見通しですが、インフラ復旧工事がこれからとなるため、それらの整備だけでも更に3年はかかるとのことです……(楢葉町の場合、下水処理場が津波で壊滅的な被害を受けています)。
◆仮にインフラが復旧し除染を進めたとしても、完全に放射線を除去することは出来ないので、居住可能なレベルまで線量が下がるのか……。多くの住民はとても不安に感じています。4月から楢葉町の中学校、小学校はいわき市内へ仮校舎を設置し、学校を再開させる事となりました。が、そこへ通学する生徒は従来の人員の1/4程度です。避難先の学校に転入し、やっと慣れてきた時期に更に転校させることに不安を感じる親御さんも多く、また、いわき市内のアパートに空きが無いため、いわきに移動したくとも出来ない事も一因となっています。
◆3月1日には高校の卒業式が各地で開催されました。警戒区域の高校は各サテライト校でバラバラに高校生活を送っていましたが、彼らが涙ながらに校歌を歌っている姿を見て、なんて可愛そうな……。この責任は誰がどのように取るのか、と本当に悔しい気持ちでいっぱいになりました。
◆私の母校(県立双葉高校)は1F(いちえふ 第一原発のこと)から約4kmの地点にあります。3.11の時、校庭は救助用のヘリポートとして活用されました。4月からいわき市内の大学で再開する事となりましたが、入学を希望する生徒は数名ほどです。このままでは学校の存続事態が危ぶまれ、非常に辛く、残念なのですがこれが実情です。
◆先は全く見通せていない状態ですが、こんな時だからこそ我々世代が知恵と力を振り絞り、出来ることから前に進めて行かなくてはと感じています。私は超長距離ランニングで、走りが辛くなった時「止まらず、休まず、歩かず!」と呪文のように唱えながら走ります。どんなに苦しくとも、足を止めなければ必ずゴールに辿り着く事ができます。それと同じように復興までの道のりは長く、険しくとも前に歩き続けることが大事だと……。
◆しかし、今回の原発災害は別です。原発災害は人類の力では太刀打ちすることが不可能な事象であることを、我々は認識しなければいけないのでしょうか。非常に悔しいのですが、地域により戻らない(戻れない)選択・判断を各自が行う時期が来ているように感じます。(いわき市 渡辺哲)
3月28日水曜日の午後8?10時の2時間枠で、「新グレートジャーニー、人類日本列島へ、インドネシアー石垣島4700km」を放映します。BSフジでの放映です。2月のフジテレビの放映では正味70分で筋書きを追うだけだったので、少し長めの番組を放映することになりました。
また2月10日に写真記録集「海のグレートジャーニー」を発売しました。是非近くの公立図書館で、購入を申請してもらうと助かります。(関野)
戦後日本の高度成長をけん引してきた昭和のシステムは「政官財の鉄のトライアングル」である。そのシステムの一つの手法が、「東大話法」というものらしい。東大OBの官僚や政治家たちがよく使うことからこのように呼ばれている。民間の独立検証委員会報告書で東大話法がおぼろげながらわかってきた。3・11後、枝野官房長官(当時)が、爆発事故を「爆発的事象」と繰り返したのは、東大話法そのものだ。ご本人は、東北大出身である。東大話法を命名した安冨歩・東大教授は、「自分の信念ではなく、自分の立場に合わせた思考を採用する」という。東大話法は、一にも二にも「立場でものを言う」。ぼくらのように肩書のないものは、「立場」でモノを言われるのが最も弱い。そして、東大話法には「どんないい加減でつじつまの合わないことでも自信満々で話すこと」というのがある。これなら出来そうだが、現場人間は自分の言葉に責任を、つい持ってしまう生真面目さがあるから出来そうにもない。ぼくらは、原発でも年金でもなんでも、東大話法で煙に巻かれてきたのではないか。ぼくらは学生時代、「全共闘話法」(勝手に名づけた)にアジられ放しだった。革命、社会正義、自己責任など抽象的な理念を持ち出し、豊かさを求める自分を自己否定することから始めなければならないことに、「社会への物心」をつけさせてくれたものの、ぼくはなじめなかった。いま、「脱原発運動」を考えるうえで、ぼくらの70年安保世代と60年安保世代とどこが違ったのか、当時を振り返り運動を駆り立てた根っこにあるものを考えてみた。
60年安保の頃、大学の進学率は10%くらいで、大学生は国家のエリートとして、政治に関心を持つ意識が高まっていた。その頃の大学生は、戦後の貧しさに耐えてきたので、戦争はこりごり、貧困は嫌だという強い意識から、「反安保」という連帯感が国民全体にまで広がった。 ところが進学率が15%を境に大学生の意識が変わっていく。
ぼくらの頃、進学率は20%を超えて大学生は大衆化していく。「就職予備機関」のようになり、国家のエリートでもなんでもなく、いい会社に就職することくらいしか関心がなくなっていく。
急増する学生に教員数や教室が追いつかず、授業内容にも支障が出てきたことで学生自治会が「待遇の改善」を求め、私大では「授業料値上げの反対」という自分的な問題から、70年安保は始まった。高度成長を反映してアイデンティティ不在の学生(ぼくもそうだ)が多かった。いわゆる、ノンポリ学生である。「自分の持つべき問題意識とはなにか?」を求めて学生運動に参加しても、「あなたは、どうする?」という自問自答を押し付け合い、「答えのないもがき」に自己陶酔から内ゲバを生み、60年安保と違い国民運動とは遠い存在になったのではないか。その頃、『あなたなら、どうする?』(いしだあゆみ・1970)という曲がヒットした。ちなみに60年安保の頃、頽廃的な詞と渇いたヴォーカルの『アカシアの雨がやむとき』(西田佐知子・1960)が、安保闘争に敗北感を抱いた若者たちの共鳴を誘った。
ぼくは、学生運動に背を向け、「自分探しの旅」に出た。貨物船に乗って、遠く、長く、安い旅を目指して、「帰らないことが最善」(金子光晴)と放浪の哲学に逃げたという苦い思いだけが残っている。
その後は、「1億総中流化」という意識では階級闘争がなく、アジアへ経済進出する「日本株式会社」を「帝国主義、侵略者」と見立てた「丸の内・三菱重工業ビルの爆破事件」(東アジア反日武装戦線「狼」の無差別爆弾テロ事件・1974)に共感は得られなかった。
ところが、いい大学を出て、いい会社に就職しても、リストラがある。さらに、大学を出ても就職先を見つけるのが難しい就職氷河期がやってきた。ロスジェネといわれる「就職氷河期」の世代で、就活に落ちこぼれ「ニート」や「フリーター」という言葉を生み出した。社会的な弱者や学歴、地位、肩書などとは関係なく、「リスク社会」が誰にも降りかかってきた。3・11後は、リスクへの危機意識がいっそう身近に迫り、「脱原発運動」にも大きな共感を生むポピュリズム(大衆行動)が起きている。国民投票などでポスト原発を問う社会運動にむかうのか、それとも「脱」「反」原発を叫ぶのか……。揺れ動きながらも変革へと向かっているはずの、原発問題がすっきりしないのは、原発再稼働と原子力インフラ輸出、核燃料サイクルなどの姿勢を崩すことなく、原子力ムラの人たちが東大話法で、核エネルギーで担保される「未来の神話」を語り続けていることだ。ぼくらは東大話法で飾られたペラい「未来」はいらない。地べたを這いつくばって得た地球体験の、ぼくらの地平線話法をもっと磨いて、東大話法を鵜呑みにしなくてもいいように、なんとかしなくてはならないのだが……。(森田靖郎)
■2月の報告会では江本嘉伸さん、渡辺哲さんとともに前に出て話をさせてもらった。渡辺さんはこの日のために、わざわざ休みをとって福島県のいわき市から来てくれた。感謝、感謝だ。間もなく大震災から1年ということで現地の様子、福島県の太平洋側の「浜通り」が話題の中心になった。東電福島第1原発の爆発事故で2重苦、3重苦にあえぐ浜通りだが、原発爆発事故の20キロ圏内ということで、いまだに楢葉町の自宅に戻れない渡辺さんの話には胸が痛くなってしまった。
◆2月の報告会の2週間前、江本さんを乗せて車でいわき市に行った。実は3月の報告会をいわき市で行いたいという江本さんの強い意向があったからだ。この1泊2日の「いわき」は忘れられないものになった。常磐道で一気に東北に入るのではなく、いわき勿来ICのひとつ手前、関東側の北茨城ICで高速を降り、大津漁港に行った。そこはまるで大地震直後のような惨状。大津波ではなく大地震にやられていた。ぼくは昨年、何度となくバイクを走らせ、東北の太平洋岸の全域を見てまわったが、東北ではない、関東側にこのような復興とは縁遠い被災地があることを知らなかった…。見捨てられたかのような大津漁港の惨状には声もなかった。
◆東北太平洋岸最南端の鵜ノ子岬から太平洋岸を見てまわったが、いわき市最大の漁港、小名浜には活気が戻っていた。東北最大の水族館「アクアマリン」は奇跡の復活をとげ、かつての人気スポット「いわき・ら・ら・ミュウ」も再開し、そこそこの人を集めて海産物を売っていた。ぼくの大好きな「市場食堂」も店舗を新しくして営業を開始していた。ところが漁港の岸壁で漁師さんたちの話を聞いたとたんに気持ちは暗くなる。魚市場も再開しているとのことだが、水揚げされる魚はほとんどない状態だという。小名浜港に水揚げされたというだけで、まったく買い手がつかないのだという。あまりの風評被害の大きさに、いいようのない怒りがこみあげた。
◆小名浜から太平洋岸を北上し、大津波で集落が全滅した豊間や薄磯を通り、松林のつづく舞子浜へ。海岸近くには四倉舞子温泉の温泉旅館「よこ川荘」がある。実は3月の報告会はここでやろうという話が進んでいたのだ。大広間には舞台があり、50人くらいが入れる。ここも大津波で激しくやられたが、おかみさんの獅子奮迅の努力で宿の再開へとこぎつけた。そんなおかみさんの話を聞かせてもらえるし、宿を拠点にして大津波に襲われた被災地を見てまわることもできる。だが残念ながら、災害復興事業の関係者の長期滞在で満室状態がつづいていた。それを知って江本さんは残念がるそぶりも見せず、かえって満室状態なのを「よかった、よかった!」といって喜び、3月の報告会のいわき市での開催を断念したのだ。
◆その夜はいわき駅前のホテルに泊まったが、渡辺哲さんと弟さんが来てくれた。いわき駅近くの楢葉町出身の人がやっているという居酒屋に行き、飲みながら2人の話を聞かせてもらった。とくに楢葉町役場職員の弟さんの話はすごかった。大地震発生から1か月ほどの間の詳細な話は後世に残さなくてはならないものだと強く感じた。楢葉の町役場は会津美里町に移され、町民はいわき市をはじめとして各地に避難し、楢葉町はバラバラの状態になってしまった。原発事故の影響の甚大さを改めて思った。原発さえ爆発しなかったら…。その翌日は渡辺哲さんの案内でいわき市内をまわった。
◆ぼくは大震災1年後の3月11日を期して東北太平洋岸の全域、「鵜ノ子岬→尻屋崎」をバイクで走るつもりだ。11日の夜は東北太平洋岸最南の地、鵜ノ子岬の勿来漁港で野宿する予定。そこへ渡辺哲さんが来てくれるという。昨年の大震災2ヵ月後の5月11日の夜の再現か。渡辺さんとは大震災1年後をおおいに語ろうと思っている。東北の被災地の復興は並大抵なことではない。復興の一番の手かせ足かせになっている瓦礫撤去ひとつをとってみても、その受け入れにはあちこちで「絶対反対!」の嵐が吹き荒れている。東北の復興はこれから先、5年、10年、20年…と息の長い長期戦になることだろうが、その姿をこれからもずっと見つづけていきたい。(賀曽利隆)
★賀曽利さんは、結局予定より1日早い、3月10日に東北の旅を開始、同夜は野宿をしないで済んだらしい。「特別に2人分、おかみが部屋を空けてくれたんですよう!」と、「よこ川荘」から元気な声で連絡が入った。“野宿同志”渡辺哲さんが今回も合流したのだ。東北のその後を伝えるカソリ報告、楽しみにしている。(E)
地平線通信390号は2月15日夜、印刷、封入の作業を終え、翌朝メール便で発送してもらいました。印刷機が一時故障し、心配しましたが、森井さん、車谷君ほか頑張ってくれ、ことなきを得ました。駆けつけてくれたのは、以下の皆さんです。岸本実千代さんは、大阪から「面白い恋人」をお土産に来てくれました。皆さん、ご苦労様でした。
森井祐介 車谷建太 村田忠彦 岸本実千代 杉山貴章 古山里美 八木和美 江本嘉伸 満州 落合大祐
■3月10日(土)、仙石線の野蒜?東名駅で「走れ!仙石線」イベントをやった。雪や雨の降り続く寒い一日だったが、総勢500人くらいが集まった。現在、仙石線は高城町?矢本駅間で不通となっている。代行バスが走っているとはいえ通勤通学に大きな支障が生じており、地元の人たちは一刻も早い復旧を願っている。
◆このイベントの構想を聞いたのは12月最初の週末だった。言いだしっぺの女性から「アウトドア義援隊の皆さんにも手伝ってほしい」と言われていたが、地元の思いでやるイベントなので少し距離を置いて見守っていた。
◆ただ、500人規模のイベントをやるノウハウを彼女たちは持っておらず、最終的には我々外の人間も実行委員を担うことになった。実行委員会の中で、地元住民から消極的な意見も出た。被災者の中には、自宅が完全に流された人もいれば、被害を受けつつも住める形で残った人もいる。状況の違いで妬み嫉みが生まれていて、「家が残っている奴に俺らの気持ちがわかるか」と言う人がいれば、「いっそのことすべて流された方がよかった」と言う人もいる。
◆気の弱い人はいろいろ言われることに疲れ切っていて、これ以上争いごとの種を作りたくない。仙石線を走らせようなんてデモはやりたくないし、言いたくもない。そうは言っても町づくりに鉄道は欠かせないし、住民自身が主張していかない限り復興は進まない。地域のリーダーたちが、いろんな意見を調整しつつ、地域を引っ張っていこうとしている。
◆そしてそこにいろんな団体がからんでくる。いわゆるNPOやボランティア団体だが、「走れ!仙石線」イベントをやると言ったら、協力させてほしいと言う団体がいくつも出てきた。「協力」の中身は難しい。お金はいくらでもあるけど人は出せないと言う団体もあれば、自分たちの活動をよそのイベントの中で実現させようとする団体もいる。実行委員として一緒に汗水たらした団体は、結局のところ一団体だけだった。
◆このイベントに限らず、被災者のためではなく自分たちの実績作りが目的となっていそうな事例が少なくない。様々な活動の様子を聞くたびに、ボランティアの難しさを感じる。ボランティアと言いながら結局は自己満足。いろんな有り様を見ては、自分たちの行動を振り返る。
◆今回のイベントは本当に難しかった。理想を言えば地元の人で運営できたらよかった。でもそうはいかず、結局実行委員としてイベント運営に関わった。「協力したい」団体が実行委員会に出てきては、これがしたいあれがしたいと主張する。言いたいことだけ言ったら、次の実行委員会には顔すら出さない。夢の語り場になるだけでイベント遂行に必要な打ち合わせが進んでいかない。イベントの中身が決まらないので、力を貸してほしい義援隊のメンバーに状況説明ができない。
◆いろんな噂を聞きつけた一部の仲間が、このイベントに協力していいのか?と不信感をあらわにする。「仙石線を走らせる」こと自体が複雑な問題を抱えている上に、イベントに絡みたい団体によってイベントの主旨自体が変えられていくのではないかという不安もある。イベント運営に関わりつつも、変わっていく状況に迷いが生じ、このイベントからは手を引くという選択肢も心の中で用意していた。
◆イベントの2週間前、野蒜で仙石線の復旧に向けて動いておられる「仙石線沿線住民の会」の会長の坂本さんに、実のところどう考えているかを聞いてみた。その週はいろいろな動きがあった週で、仙石線に関しては、JRから数日前に「現行ルートでの仮復旧はしない」という方針が発表されたところだったし、集団移転に関しては、東松島市が進めている高台移転用地(仙石線の移設先でもある)の買収にヤクザが出てきたという記事が週刊誌にすっぱ抜かれたばかりということを、その時新たに知った。
◆その状況で2週間後のイベントをどうするのか。でも坂本さんははっきりしていた。「3年半後に移転復旧と言っても、すべてが順調に進んでの3年半。移転に関する住民の合意も取れていないし、用地取得でもすでにこういう問題が生じている。方針を決めたと言っても状況が変われば決めたことも覆る。現行ルートでの復旧にこだわるわけではなく、移転復旧も含めて一日でも早く仙石線を走らせたいという思いに変わりはない。ここに住む我々自身が主張していかない限り町の復興はない」。
◆そういう話を聞き、気持ちがスッキリした。イベントの主旨が変わらず保たれているのであれば、イベントの成功に向けて尽力する。迷いがなくなり、ようやく仲間たちにもお願いしやすくなった。イベント会場の整備や駐車場の確保など地元にお願いした件もあったが、ギリギリまで待った末、結局、義援隊で引き受けた。
◆運動会テントや仮設トイレなどのレンタルの手配、出店団体との調整、当日の会場スタッフのとりまとめや、車の誘導・駐車場係など、やることは多かった。義援隊内でもやもやした時期もあったけれど、最終的にはこのイベントのために約60名の仲間が集まり、裏方を担ってくれた。イベントが終わった夜、「今回のイベントについては正直迷ったけど来てよかった、手伝ってよかった。ありがとな、お疲れさん」と言ってくれた仲間がいた。やはり内心はそうだったんだと思いながら、それでも力を貸してくれる仲間がありがたかった。
◆翌11日は46名の仲間が残って、通常の作業を行った。今年は雪が多く、なかなかできなかった共同墓地の作業にようやくかかれた。共同墓地の片づけは昨年の秋以降、継続してやっている。初めて見た景色は残酷だった。すべての墓石が倒れ、大量の瓦礫が入り込み、草が生い茂っていた。相当な時間をかけて草を抜き、瓦礫をまとめた。通うたびに、建て直されたお墓の数が増えていくのが嬉しかった。今では随分墓らしくなっている。
◆墓石を立て直したことであらわになったゴミや瓦礫を片づけた。震災一周年のこの日は、お墓を訪れる家族が多かった。14時46分には、町内放送に合わせて、お墓を訪れていた人々とともに黙祷をささげた。私は誰を失ったわけでもないのに、この地にいて1年前のことを思うとき、こみ上げるものがあった。どんなに多くの人たちが無念のうちに亡くなっていったことだろう。残された人たちの生き様。先の見えない復興。まとまらない思いの中で、それでもここに居られてよかったと思いつつ黙祷をささげた2012年3月11日の14時46分だった。(奈良県住民 岩野祥子)
■3.11は昨年と同様、自宅で迎えました。思えばこの1年、一度も海外へ行くこともなく福島と向き合ってきました。県民となって7年目、当初は長期滞在しているだけの旅人気分でいたのですが、大震災をきっかけにようやく県民としての自分を意識するようになりました。東京下町生まれで田舎を持たない私にとって、ようやく自分の居場所を確保したというか、故郷を持ったというか、そんな感じです。
◆県外に避難している人も少なくないけれど、私は逆に、今、現地から福島の状況を見ておかなくてはもったいない、すごくいいポジションにいるのでしっかり見届けようと思っています。ペットレスキューもシェルターボランティアに留めておけばここまでやらずに済んだのでしょうけど、動物たちがサバイバルしている「中の世界」を見てしまったために、ある程度まではやらないと引き下がれない状況です。そのあたりの心情は現在発売中のバイク雑誌「OUTRIDER(アウトライダー)」(バイクブロス社)に書かせてもらっているので、ぜひ読んでみてください。
◆ところで、ペットレスキュー活動のほうは相変わらずというか、ますます頑張っています。冬になってからは4WDの車を持っていて雪道を運転できるということで重宝がられ、月3000〜4000kmは走っています。すべて自費のボランティアなのでガソリン代だけでもかなりの出費。先日は雪道を登れずガラスを割りドアをへこませ…トホホ(泣)、ツライです。
◆最近、主に活動しているのは浪江町津島地区。DASH村があるところといえばわかるかと思いますが、20〜30km圏の計画的避難区域で、飯舘村ほど知名度はないのですが、やはり全員避難(実は2家族ほど暮らしている)していて、20km圏内以上に深刻な場所です。
◆というのは線量が異様に高いので、第一原発から20km地点ではなく28km地点にゲートが設けられていて、住民以外は通行証がないと入れてもらえないため、動物保護関係の団体・個人がまったく入れないからです(20km圏内にはそれなりに人が入っています)。しかも、4月の警戒区域見直しの際には今後50年以上居住を制限される「帰還困難区域」に確実に指定されます。そうなると私たちはおろか、住民でさえ年に3回しか帰れなくなるとの話です。なので、3月末までになるべく多くの犬猫を連れださなくては彼らは中で餓死してしまうのです。まだ残されています。
◆通行証の取得も難しく、私たちも昨年までGETできていたのが発行されなくなりました。今年になっていろいろ調べた結果、JCN(ジャパンキャットネットワーク)というNPO団体が動物保護団体として唯一、許可証をもらっているということで1月からずっと週に1回ペースで一緒にレスキューしています。JCNは滋賀県彦根市にあるNPO法人で、震災後は福島・猪苗代町にもシェルターを構えて活動してくれています。
◆ここの代表はアメリカ人のスーザン&デイビッド夫妻。福島のほうは奥さんのスーザンがずっと常駐しているし、イギリスから獣医さんもボランティアで来てくれています。ほかにも千葉から毎週福島へ車で来て給餌レスキューしてくれるアメリカ人のボランティアもいます。外国の方々がこんなに頑張ってくれていて、本当にありがたいことです。福島県民、もっとやろうよ! 自分の県のことだよ!!
◆津島地区の空間線量(地上1m)は、高いところで30μシーベルト/hくらい。DASH村裏手の家の雨樋では、なんと数値が1000を越えました! 地震の被害もほとんどなく、見た目はまったくのどかな里山風景なのですが。線量が高いことも大変ですが、それ以上に除雪が入らないので車が使えないのも大変です。会津のような豪雪地帯ではないものの、それなりに雪は降るし除雪されないままで車もまったく通らないので、メインのR114号以外の道は雪が積もる一方。
◆四駆+チェーンでも坂道は無理なので、そういう場所はテレマークスキーで歩いて行きます。1時間以上かかるところもあります。こんなところで趣味が活かせるとは思いもよらなかったけれど。今年は雪が多くて今(3月12日)もジャンジャカ降っています。明日、また津島に行きます。またしてもスキーの出番でしょう。
◆また、2月半ばから数回、20km圏内の富岡町に「公益立ち入り」で入っています。あまり知られてないようですが、一般住民の「一時帰宅」とは別に、事業や起業のために必要な物を取りに行く目的で許可証がもらえるのです。私たちは12月に保護した猫の飼い主さんが美容室をやっていたとのことで、美容室開設のための資材を取りに行くという目的での申請です。正々堂々と給餌レスキューできないものの、ゲリラで入るよりずっと気が楽です。
◆富岡町にはずっと避難しないで残っている松村直登さんという方もいます。牛を活かすためにいろいろ頑張っているほか、近隣の犬猫に給餌もしてくれています。松村さん、現在発売中のフライデーに載っています。富岡町と20km圏内、松村さんのことはまた改めて。(滝野沢優子)
1か月前の、2月13日夕方。「あの〜、デモやりたいんですけど……」って、ちょっとビクビクしながら、警察署で申請書類をもらったのが始まり。実行委員会立上げ、チラシ作り、新聞社巡り、等々。ものすごいスピードで何もかもが動いていきました。デモって「集団示威運動」っていうんだって。
短い準備期間でしたが、500人の方々が参加!追悼の祈りと脱原発への願いを表現したい市民の多さに驚き、感激しました。集会では、一週間前に脱原発を宣言した高山市長から「高山から世界に発信していこう!」との言葉をいただきました。そして、福島県から避難されている方のお話。原発がなければ、故郷の復興に力を注げたはず。大切な哀悼の日を私達と過ごしてくださいました。胸がいっぱいになりました。
市民が多いショッピングセンター近く、観光客の多い古い町並み。どこもかしこも歩きたい。欲張って、5キロの長いコースを設定。最初と最後に黙祷。高山市長も「追悼・脱原発」の横断幕を持って歩かれました。
穏やかに、でも力強い行進。「あんたも歩かんかな?」と声をかけられ途中参加のおじさん、「お腹すいたよ」と言いながらがんばってた子どもたち、合掌してくださる沿道の方。コースになっていることを知って、賛同の黄色いリボンを掲げていたお店(脱原発のイメージカラーは黄色です)。なぜか警護の警察官も黄色の団扇で交通整理をしてましたぁ!小さな町の良さでしょうか。
多くの応援ありがとう。急ぎの印刷を快く受けてくださった会社、アピールに使う風船の寄付、プラカードをたくさん準備してくださった女性グループ。「だちかんさ原発」「はんちくたいな放射能」。方言プラカードはかっこいい!
一人でも歩くつもりだったけど、一人では何もできなかった。思いを伝える一歩を踏み出せたこと。気持ちを共有できるウォークという「場」を作れたこと。春の初めの、記念の日となりました。(飛騨高山 ロマンチストな努力家改め活動家 中畑朋子)
3月11日、南三陸町志津川中瀬町。午後、仮設住宅の方々と一緒に海と町が見える高台へあがり、海に向かってお線香を供えました。青い空と、消えた町。この光景、頭ではわかっていても、まだ感覚では理解できません。
14時46分。鳴り響くサイレンの中、「怖い」とつぶやく小1の女の子を抱きしめながら黙とう。大人たちのすすり泣きを心配してか、2歳の女の子が「みんな、だいじょうぶよー」と走り回ります。重く、辛い時間ではあったけれど、みんなが一緒にいてくれてよかった、と思いました。
「逃げるときもっと周りに声をかけていれば」と泣く若者。どうしても前を向けず、東北を離れることを決めた人たち。1人1人が、つぶされそうになりながら、自分と戦っています。だから、応援したい。
この日にあわせ、10名程のボランティアOB・OGが帰ってきました。地域の方々と再会を喜びあう姿に、活動が“ボランティア”ではなくなったことを実感しました。あの人たちに会いに行くこと、思い続けること。そんな応援があの人たちの力になる、と信じて、これからもつながりを大切に活動していこうと思います。(新垣亜美)
大型封筒に入った数通の便りが、3月13日、地平線会議に届いた。昨年4月の地平線報告会で津波の犠牲になった方々の様子を話してくれた名取市閖上(ゆりあげ)の相沢秀雄さん(71)が被災された地域の人とともに書いてくれた「近況」である。「あれから1年」の様子を教えてください、と相沢さんにお願いしていたのだが、自分ひとりの様子では、とお仲間にも声をかけてくださったようだ。相沢さんのご子息、寛人さんがまとめて速達で送ってくれた。閖上は、漁港から延々と平地が広がる地形で、3.11では家々は根こそぎ流され、700人以上の命が津波に呑まれるという、最悪の被災地の一つとなった。聞いてはいたが、昨年秋訪れた時、あまりにも何もなくなっていることに声を失った。唯一小高い場所である「日和山(ひよりやま)」には仮設の神社ができていた。閖上に集う時は今も皆、日和山に登るそうだ。以下、寛人さんを含め4人の閖上被災者の書簡を紹介する。皆さん、ありがとうございました。(E)
■地平線会議会員の皆さまには3.11の震災直後より現地に入り危険も省みず、ご援助・ご支援又、ボランティア活動等を戴き心から感謝申し上げます。3.11から1年が経とうとしておりますが震災からの脱出は難しいのが現状です。私自身は現在の仮設住宅には5月28日から入居させていただき、窮地を脱することは出来ましたが、孤独死、仮設の追加工事等と諸々の出来事がありました。被災された方々には様々な難問題が立ちはだかっており又、世界的に不況にあり一層難しい復興になる様に思われます。行政も大変なようです。私も元来、体に障害があり、今回の心的ストレス障害も加わり体調はよい状態ではありません。これからのことを考えると不安が先走りになるので、そこそこに考えるようにしております。被災された方にも同様に見受けられます。今は行政の街づくり規格に依る進捗状況を見守っている状態です。被災された仮設に入所の方、アパートに入所の皆さん同様の様です。今後の生活基盤づくりは老若を問わず無理のない設計が求められると思います。今回の震災後に他方面からご支援援助等を頂き、私たちは助けていただきました。仮設集会場でも話題になっており、人の絆の尊さを知らされました。ご支援・ご援助ありがとうございました。(名取市愛島笠島 相沢秀雄)
■東日本大震災から早一年になろうとしております。私も自分の判断が間違っていたら津波に流されていたと思うと、九死に一生とはこの時の為にある言葉だと思いました。そして一人では生きられないということを今更ながら痛感しております。多くの友人・親類そして世界中の方々からさまざまなご支援を戴き、一度は深い谷底に落とされたような絶望感におそわれましたが、全世界の方々のはげましのお手紙やたくさんの支援物資が届けられて、負けていられないと強く感じ大変有りがたく感謝しております。仮設に入居してあまりの狭さにびっくりしました。周りには今まで逢ったこともない人達ばかりでしたが、同じ境遇の仲間であり、同じ町内の方々なので、自分なりに前向きに皆さんに声をかけだんだん親しくなりました。集会所ではたくさんのボランティアさんが来て下さり、お茶会や健康相談やいろいろな催し物を開いて頂きやさしく声をかけてくれて今まで沈んでいた気持が明るくなるのがわかってきました。今では集会所に行くのを楽しみにしております。復旧、復興といっても、これから先何年かかるのか想像もできませんが、神様から与えられた命を大切に今を精一杯生きていきたいと思います。たくさんの御支援を下さった皆さまには感謝しております。ほんとうにありがとうございます。(名取市愛島東部団地 渡辺カツ)
■震災から1年
あっ地震だ。いつものようにすぐ おさまると思っていた。ガタンガタン。ものすごい揺れ。棚の物はガタガタと落ち、テレビもずり落ち、キャーッキャーッと今まで出したことのない大声で叫び続けた。一回おさまったらと思ったら又強い揺れ。
今にも家がつぶれそう。隣の家にいた主人も放心状態で這いつくばっていた。揺れがおさまったのですぐラジオをつけた。大津波警報6メートルと何度も何度もアナウンスの声。お父さん早く逃げよう、大津波だって。漁港のすぐ近くだったので前にあった奥尻島の津波が6分後にきたことを思い出した。心臓がドキドキ、いつものバックと通帳、懐中電灯を持って主人の運転する車に乗り、商店街にちらかったガレキを踏んだりして進んだ。途中三々五々集まった人たちがおしゃべりしていた。又、加工場の人たちが白衣のままぞろぞろゆっくりと歩いていた。娘の学校まで1・5キロ位のところに来たら隣のご主人に学校へ行ったよ、と聞かされ、主人をおいて私だけ学校へ向かった。途中、知り合いに会っておしゃべりしたりして小学校へ行ったら、津波は10メートルになったんだって、と聞かされた。娘と会って私の実家で落ち合うことを告げていそいで娘の家へ戻り、主人と又二人で裏道を通って脱出した。20分経っただろうか。娘からの電話で今、校庭に津波が来て車がグルグル流されているんだよ、と聞かされた。私も車の後方を見ながらノロノロ進んだが、到達地点より100メートル以上離れていたので助かった。私の家は全流失、娘の家は大規模半壊で床上浸水だった。ちょうどその時空が真っ暗になり、雪がコンコンと降ってあっという間に真っ白になった。私は実家と息子の家で生活し、7月13日に仮設に入ることができた。自衛隊、警察、消防、他県ナンバーの皆様、ボランティアの皆様、寒い中、一生懸命支援してくださって、本当に頭が下がります。世界各地からあたたかいメッセージをはじめ数々の品々、義捐金を頂きありがとうございました。今後は大震災の教訓を活かし、どこに起きてもおかしくない震災を最小限の被害で済むように取り組んで行きたいものです。私は負けない!!前向きになれました。ご支援ありがとうございました。(名取市愛島東部仮設住宅 高橋久子 68才)
★高橋さんは、被災の様子を克明にメモしており、それをもとに沢山の詩、歌を書いている。そのコピーも送っていただいた。
■3月10日、夏に続き震災後2度目の小・中学の同窓会が仙台でありました。津波で流された小・中の卒業アルバムを無償で福井の印刷業者さんから100部いただくことができ、早く同級生の皆への連絡をとの思いもありました。同窓生は120人。同窓会の参加はこのうち20人ほどで多くはありませんでしたが、震災後に宮城に戻ったもの、戻ったが仕事がなくまた離れるものなど様々でした。地元にずっと残っていたものは訛りが強く、すぐにわかります。
◆江本さんもご存知のように、閖上には日和山という小さな山(10mくらい)があります。平らな町ですので港のほうはそれ以外は何もなくなってしまったので、今は皆がそこに集まってきます。3月11日も中学校での慰霊祭のあと日和山に登りしばらくいると、懐かしい方々が続々とやってきて、何だか、何もなくなった町は改めてこんなに海が近かったのかという思いと、この山が閖上の思い出のアルバムのような何だかそんな感覚でした。父秀雄から地平線会議の皆さん宛ての手紙送ります。仮設住宅の隣人の方々にも書いてもらったようなのであわせて送らせていただきます。(現在は宇都宮住民 相沢寛人)
■「オープンの日が決まったよー」。去年11月末、ハスキーボイスが電話の向こうで弾んだ。震災ボランティア仲間の矢野アキ子さん(43歳)。広島県福山市でコロッケなど惣菜のインターネット通販を手がける、株式会社ヤノ食品の社長夫人だ。店舗を持たないヤノ食品が、岩手県沿岸部の大槌町にコロッケ屋を開く。目的は被災地の雇用創出だ。大槌は津波の被害が“甚大”だった町の一つで、当時の町長はじめ人口の約1割が亡くなった。家屋の被害も多く、現在3割以上の住民が仮設住宅で暮らしている。震災のために仕事を失ったままの人も多い。この町の人々に「コロッケ屋」を贈ることは、個人ボランティアとして5月末からこの地の復興支援活動に関わってきた矢野さんが、「時々しか現地へ行けない自分が、継続してできること」に思いをめぐらせ、たどり着いた一つの結論だった。「おめでとう。やったね!」「うん。やっと、ここまで来れた」。12月10日の開店には、私も立ち会う約束をした。心の紆余曲折を半年ほど、近くで聞いてきた身として、どうしてもそうしたかったのだ。
◆去年の5月下旬、私は“野宿娘”加藤千晶さんと、岩手県の震災支援ボランティア活動の拠点「遠野まごころネット」を訪れていた。原発の事故以来、野外に出る気力が失せ、恒例の“多摩川野宿歩き”にさえ食指が動かなくなっていた私に、加藤さんが「ボランティアに行きましょうよー」と声をかけてくれたのだ。「まごころネット」は個人ボランティアを受け入れている数少ない拠点の一つ。ありがたいことに無料の宿舎があるし、日ごと需要が変わるボランティア活動に参加希望者を振り分け、大槌や釜石・陸前高田・大船渡など沿岸部の現場へバスや車で送迎もしてくれる。私たちと同じ日、矢野アキ子さんも、ここにやってきた。「だって、後悔したくないけぇ」と、常務を務める会社を社長と11人の従業員に任せて。人生初のボランティアに出かける母を、4人の娘たちも応援してくれたという。そして数日後、彼女と私は、一緒に避難所の食事作りの活動をすることになるのだった。
◆各避難所から要請を受け、ボランティアが5?7人ほどのチームで、食事作りや掃除などの作業に赴く。この活動班を、「まごころネット」では「分かち合い隊」と名付けていた。避難所でいつも同じ仕事をしている係の人たち(被災者)に、「時々は休んでください、みなさんの仕事を私たちが代わりますから」というのが、この隊の活動主旨だそうだ。その日の私たちの使命は、大槌町のある避難所での夕食作りだった。メニューはすでに係の人たちが決めており、「この材料で作ってください」と、代表の女性が初めに指示してくれた。
◆ところが、いざ調理に取り掛かろうとすると、「解凍して唐揚げに」と言われていた鶏肉はスライスされたもので、ん?少し臭ってない?という状態。「サラダに」と言われたキュウリは長く冷蔵されていたためか、凍みて身がぶよぶよ。しかし、百人以上が暮らすこの避難所に、余分な食材はほとんどない。しかたないので、肉にはニンニクをすり込み、しょうゆなどで濃い味をつけ、キュウリは固い部分だけをスライスし、キャベツやニンジンの千切りで分量を補った。3時間ほどの格闘の末、盛り付けしたものの、メインのはずの唐揚げはオマケのようで、つけあわせの、具がほとんどないナポリタンばかりいばっている、という具合。食材から垣間見えた「避難所の現実」に、私たちは愕然としたのだった。まもなく震災から3カ月も経とうとしているのに……。
◆「あたし、ちょっと1本吸ってくから」。避難所の玄関先で、矢野さんはそう言ってタバコを咥えた。私は少々いらだちながら、他のメンバーとともに先にワゴン車に乗り込んだ。まあ、遠野まで1時間以上もの道のりを運転してくれるのは彼女なのだから、一服ぐらい、しかたないか。車窓からふと見ると、みんなを待たせて矢野さんは、住人たちと何やらなごやかに言葉を交わしている。私はそれまで作業に関わること以外に地元の人と話をしたことがなかったので、うらやましいような悔しいような気持ちになって、車を降りて近寄ってみた。
◆「……味噌汁の具が足りないみたいですねえ。何か欲しいものはないですか?」矢野さんが言うと、一人の女性が答えた。「ワカメでもあればいいだろうけど。でも、今年はいらないよ」「どうして?」「たくさんの人が流された海のものは、食べたくない。まだ見つかっていない人も、いっぱいいるし……」。一瞬、空気が張りつめた。矢野さんはタバコの煙を大きく吐き出して、「じゃあ、肉類は? 何があればうれしいですか?」と明るく聞く。何人かの女性がそれに応えて、「ベーコン!」と無邪気な声をあげた。「ああ、ベーコン。いろいろ使えますもんねえ」。まったく、この人には敵わないなあ。私は心の中で白旗を挙げていた。
◆「あのとき、あんなお肉でも久しぶりに食べるっていうのを聞いて、せつなくなった。でも、『ベーコン!』の声で、それだったら福山にいてもお手伝いできることがあるって解った。だって、うち肉屋じゃけぇ」とは、後日の矢野さんの言葉だ。ヤノ食品は元来、肉の卸し販売が中心の会社。1週間のボランティア活動を終えて6月上旬に福山へ帰った矢野さんは、夫に相談して、大槌町と周辺の合計5カ所の避難所へ支援物資を送る活動を始めることにした。
◆取引のある各業者へ依頼文を出し、食肉や加工品などのいわゆる“わけあり商品”(品質には問題のない)を破格値で分けてもらい、数がまとまったところで各避難所へ一括発送する。商品の買い取り料金はもちろん、発送までの一時保管や送料もヤノ食品持ちだ。この物資支援活動は各避難所が解散となる7月末まで続く。大学生の長女に「よかったなあ、おかあさん。やりたいこと見つかって」と言われたのは、この頃だそうだ。じつは矢野さん、末娘が高校生になったこの春、脱力感からか「なんか、ぽかーんと空いたような気分」になっていたらしい。そんな母親が「自分にできることをしてきたい」と被災地へ行き、帰ってきてからの変化に、長女も感じるものがあったのだろう。
◆8月の盆明け、私は再びボランティア活動に参加するため、遠野まごころネットを訪れた。大槌とその周辺では、避難所にいた大半の人々が仮設住宅への移転を完了。分かち合い隊も使命を終え、まごころネットは仮設住民を対象とした次のソフト活動を模索している時期だった。そんな中で私が手伝わせてもらったのは、大槌町の「まごころ広場」という被災者交流のための野外サロンの運営だ。
◆一日遅れて、矢野さんも遠野に到着した。往復に新幹線と飛行機を使っていた前回とは違い、今回は福山から一昼夜、黒いランドクルーザーを走らせてきた。「自分の足がないと、やりたいことができんけぇ」。初めてのボランティアに「何ができるか解らないけど」とやってきたときとは、明らかに意気込みが違っている。彼女は、まごころネットのある活動に班長として参加しつつ、その合間に自車を駆って、福山から持ってきた物資を各地に届けたり、物資支援を通して親しくなった避難所の代表者たちに会いに行ったりと、被災地を縦横無尽に駆けめぐっていた。そんな矢野さんを、今度は何を始めるのかと、私は興味津々に見ていたわけだ。
◆12月9日。オープン前の最後の準備のため、矢野さんは遠野から大槌へと、あの黒いランクルを走らせていた。道々、助手席の私にコロッケ屋開店までのいきさつを話してくれる。「避難所が解散になった後の支援をどうしたらいいのか。それを知りたくって、盆明けに、こっちに来たんだけどー」。9月初めまでの半月ほどの滞在中に答えは見つからず、福山に帰ってからも、すぐには考えがまとまらなかった。
◆これから先は、もう、物で支援してあげるわけにはいかない。被災地に必要なのが「生活の自立」だということは解っている。では、自分にできる、自立を体験してもらえるような「援助」とは何か? もやもやした気持ちが晴れたのは、被災者の知り合いと電話で話しているときだったという。「ぴこーんと胸に落ちたのよ。そうだ、現地雇用だって」。電話の相手は、物資支援を通してすっかり友人関係になった、あの「ベーコン!」の避難所代表の女性だった。
◆「現地雇用の場とは……」と考えて、「そうだ、自分にはコロッケ屋を作れるではないか」と思い至った。店を作り、そこへ冷凍コロッケを送って、現地スタッフに揚げてもらえばいい。そんなに広い店舗である必要はないから、大金をかけずにできるはず。考えがまとまったところで夫に話すと、「それはええ。しよろ、しよろ」と、すぐに受け止めてくれた。
◆店一軒のプレゼントとは気前がよすぎるような話だが、じつはヤノ食品にはボランティアの下地がある。ゴルフ好きの社長がここ数年、地元でプロ・アマを交えたチャリティー大会を開催し、オークションなどで集まった寄付金を関西盲導犬協会に寄付しているというのだ。「困っている人のために何かやりたいという素地が、元々、矢野源太くん(夫)にはあったんよ」。社長のゴーサインで、出店計画はすぐに動き出した。店のメニューがコロッケだけでは弱いので、「広島風お好み焼き」を加え、取引のあるオタフクソースが、本場の焼き方を伝授する「お好み焼き士」を現地へ派遣してくれることになった。
◆次の課題は、店をどこに出すかだ。海辺の市街地だった平地を津波にのまれた大槌で、店舗向きの場所を探すのは難しい。そこへ、夏に私が活動した「まごころ広場」が候補に挙がった。住民交流の野外サロン「広場」はまもなく、こちらも雇用創出の復興支援事業の弁当屋に変わる。「矢野さんの店も、そこに並べればいい」と、ほどなく本決まりになった。働き手は、10人前後集める予定の弁当屋のスタッフが兼任する。店舗自体は展示用のログハウスを値引きで買えたので、後は据えつければいい。
◆しかし、テントとコンテナがあるだけの「広場」には水道も電気も来ておらず、まずはそれを引く必要があった。浄化槽も設置しなければならない。被災地ゆえの事情も重なり、弁当屋と同時進行の工事は遅々として進まず、オープン日はなかなか決まらなかった。そんなとき、遠野の頼りになる友人が「弁当屋に先行して、コロッケ屋だけオープンさせる!」と、強くプッシュしてくれた。「本当に、みんなの思いと意地とプライドで、ここまで来た感じね」。
◆12月10日。コロッケ屋は無事オープンした。店の名前は、社長の愛称でもある「げんちゃん」。「販売するコロッケや唐揚げはヤノ食品から仕入れてもらう」、矢野さん側が出した条件はそれだけだった。最初は少し手伝うけれど、運営には口を出さない。「みんなでようけ売って、ようけ(利益を)持って帰れる店にしてくれりゃいいんよ」。それこそが、矢野さんの復興への応援メッセージだ。開店の日は千客万来のにぎわいだった。中学校と町営運動場に近いという立地のため、それ以降も、お腹を空かせた少年少女たちが得意客になってくれているらしい。そして震災から1年が過ぎた2012年3月の今、遅れに遅れた弁当屋も、ようやく開店にこぎ着けたようだ。(熊沢正子)
■地平線会議の皆さん、こんにちは。比嘉小学校の伊敷です。私は3年前に、周りを緑と海に囲まれ、自然がいっぱいで風光明媚な比嘉小学校へ赴任しました。人事異動が発表された翌日に、夫と共にさっそく比嘉小学校を訪ねてみました。浜比嘉島への道のりは遠く、1時間ほどかかりましたが、平安座島に架かる海中道路から眺める海の青さと見渡せる島々の景色の美しさは格別でした。
◆浜比嘉大橋(平成9年開通)をわたり、島の小高い丘の中腹に位置するところに比嘉小学校がありました。土曜日ということで、先生方、子どもたちの姿はなく、ひっそりとしていましたが、校門をくぐり、校庭に向って「おじゃまします」と声をかけて、小学校の中へ足を踏みいれました。
◆初めての比嘉小学校の印象は、生涯忘れません。色とりどりに咲き誇った花々、青々とした芝生が敷き詰められた運動場、ごみひとつ落ちてなく、きちんと片付けられたほうきやじょうろなどの道具類。澄んだ空気を吸い込みながらこのような学校に赴任できた喜びでいっぱいでした。
◆しばらくすると、校舎のドアが開いて下地校長先生が出てこられました。下地校長先生は「わたしたちの宝物」という比嘉小5・6年生が撮った写真展が開催されているのでラジオのインタビューを受け、帰りに学校へ寄られたということでした。私が早く比嘉小学校をみたかった旨を話すと、下地校長先生は校舎の中も案内してくださり、本当に感謝の気持ちでいっぱいになりました。こうして私は比嘉小学校と出会い、校長として子どもたち、保護者、地域の皆様、先生方と関わっていくことになりました。
◆比嘉小学校の歴史をたどると遠く明治までさかのぼります。浜比嘉島に初めて学校が設立されたのは、明治26年9月4日。与勝尋常小学校分校として浜区におかれ、翌27年6月に浜尋常小学校として独立認可されています。その後、明治、大正、昭和と離島というきびしい立地条件の中で幾多の立派な人材を育ててきました。が、残念なことに昭和20年4月には、第2次世界大戦の戦火を浴びて、校舎が全焼し、教育活動が中断されてしまいました。
◆しかし、子どもたちの健やかな成長を願う地域の皆様の涙ぐましい努力で昭和20年8月6日に浜公立学校として、現在の浜中学校敷地に、4百余の児童生徒を有する学び舎として開校されました。以来、戦後の生活苦の中で、校舎建築、充実、環境整備等、苦難の歩みをたどり、昭和27年3月に、現在の敷地に浜小中学校の小学校、校舎が落成しています。昭和47年4月1日には地域の切実な要望により、浜小学校として独立が認可され、同年5月15日沖縄の祖国復帰を期して、校名が比嘉小学校に変更されました。
◆ですから今年は独立40周年という記念すべき年になるはずでしたが、平成24年3月31日をもって閉校することになりました。今年の4月1日からうるま市の島しょ地域(浜比嘉島・平安座島・宮城島・伊計島)にある5つの小学校、4つの中学校は閉校になり、その地域の児童・生徒は、平安座島に新しく開校する彩橋小中学校に通学することとなります。
◆その経緯をみてみますと平成17年に2市2町が合併し、うるま市が誕生してから翌年には学校適正化について意見がだされています。その後検討委員会などがもたれていましたが、平成21年12月に具体的な案が示されました。教育委員会では、子どもの視点に立ち小さな学校では、集団競技や同じ世代との競争などが難しい、複式授業の弊害が大きく取りざたされ統合しようとしましたが、住民との合意形成が不十分として、継続審議になりました。しかし翌23年3月18日には議会で条例可決され平成24年3月31日をもって島しょ地域の学校は全て閉校することとなったわけです。
◆平成23年度から実施された学習指導要領の重要事項の一つに「伝統文化や文化教育の充実」があげられています。比嘉小学校のよさは、そこに住んでいる人々であり、その人々を育ててきた自然であり、力強く地域に根付いた伝統文化です。地域の教育資源を最大限に生かした特色ある教育活動は数多くの実績を残しました。比嘉区、浜区のハーリーでは、ハーリーの前に全園児・児童が鼓笛隊を結成し、部落内をパレードして回り、会場を盛り上げます。
◆そしていよいよハーリー競漕では、島の海の行事をしっかりと受け継いだ子どもたちが真剣そのもので櫂をこぎ、声援を送る島の人々と一体になった姿が感動的です。比嘉のパーランクーとよばれている伝統のエイサーは、毎年地域の方からご指導をうけ、運動会で披露していますが大好評です。大人になっても伝統が引き継がれ、豊年祭や各種行事に参加しています。
◆また浜比嘉島は、数多くの文化財も随所にみられ、毎年うるま市立海の文化館学芸員の前田一舟さんを講師にお招きして、児童、保護者、職員で島巡りをしました。国生み伝説のあるシルミチュー、伝統的な石垣やサンゴを敷いた砂利道、島にあるカー(湧き水)について等等。島を深く知ることにより、島を愛し、島に誇りをもって大きくはばたいてくれることを願い位置づけた活動でした。
◆さらに浜比嘉島は、毎年5月ごろになると、もずく漁が盛んになります。島の産業に従事している保護者や水産支部に依頼し、5・6年生が船に乗り込み、もずく漁を体験します。島の主要産業の重要さ、労働の厳しさを体感し、感謝の気持ちを身につけることができるようにとの願いがこめられています。このように、特色ある教育活動が数多くありました。
◆その中でも平成20年10月24日から27日までに行われた地平線会議・比嘉区自治会主催の「地平線会議IN浜比嘉島 2008」は浜比嘉島の大きな、大きな文化的行事として後世にも語り継がれるものでした。私はまだ比嘉小に赴任していなかったので、「あしびなー物語」の一冊の本を通してしか当時の様子を知ることが出来ませんが、その場に居合わせたかったとの思いを強くしています。
◆さらに、5・6年生の児童にデジタルカメラ教室を開いてくださり、写真展も開催されました。子どもたちに、大きな自信と誇りをもたせてくださいました。「あしびなー物語」は地平線会議の皆様のご好意により沖縄県内の全小中学校、図書館等へ寄贈されました。本当に感謝の気持ちでいっぱいです。
◆比嘉区、浜区の園児・児童の教育にとどまらず、地域における重要な役割を果たしてきた幼稚園・小学校の閉校は全ての関係者の方々にとって心のふるさとをなくしたような気持ちではないかと思います。統合による教育環境の改善と更なる発展、そして地域の活性化を願うばかりです。比嘉小学校 長い間本当にありがとうございました。(比嘉小学校校長 伊敷ひろみ)
■浜比嘉島には比嘉小学校と浜中学校があります。ご承知の通り両校ともまもなくうるま市によってとりつぶしにされる運命にあります。昨日3月11日は浜中学校の最後の卒業式がありました。4年前の地平線あしびなーで、丸山純さんのデジカメ教室にて写真を撮った当時小学6年生だった子供たち3人が、めでたく中学校を卒業しました。
◆在校生9名、卒業生4名(ひとりは本島からの子)。在校生の送辞と卒業生の答辞は、とかく大きい学校では通りいっぺん、生徒がかわりばんこに短い単語をひとこと言うだけというのが常ですが、浜中学校の送辞、答辞はとても素晴らしいものでした。自分たちで考えたであろう、ひとりひとり名前をあげての送る言葉、送られる言葉。さらに卒業生から先生全員ひとりひとりへの感謝の言葉。小さな学校ならではの温かい卒業式でした。
◆比嘉小学校の卒業式は、閉校式と同じ3月22日。浜中学校の閉校式は翌日23日。22日?25日は浜比嘉島、宮城島、伊計島では閉校式ラッシュです。これらの島の歴史ある学校がいっぺんに全部まとめて廃校にされるからです。学校の跡地はどうなるか決まっていません。地域から提案や話しあいを持ちかけても市は今のところ聞く耳持たず、だそうで、いったいなんなんだよと思います。(浜比嘉島 外間晴美)
■若い友人、かとうちあきさんが二冊目の本「野宿もん」(徳間書店)を出しました。パラパラとページをめくると、しなやかな平仮名が上品に差並んでいます。漢字で真っ黒なんて頁はどこにもない。写真もない。シンプルな200頁をこえる素直な本文です。
◆その優しさに誘われて「野宿もん」を携えベッドに向かいました。机に向かうというのではタイトルに似合わないよ。それにしても「野宿もん」ねー。旅ならまだやめられない私ですが、カラフルな表紙に血がさわぎました。シュラフに包まれたピンク、黄、赤、みどり、青。色とりどりの五色のみのむしが並んでいます。直感が走りました。シュラフにもぐれば世界は変わる。世界はつながるのだ。
◆文中に波瀾万丈はありません。修行中のおじさんにHなことばを言われても「面白い冗談ですね」と体をかわす。一緒に出発して来た友人と途中で別れても、隣の無人駅に別れた友人が野宿していることを想像するのはなつかしい。いつでも心がうきうき明るいのです。
◆大学の休みは長い。うきうきと四国へ出かけ高を括っていたら、旅が終わらないうちに学校が始まる。大さわぎしていませんが旅は続き終わって学校に戻る。この自然な旅もシュラフにもぐる日々がつないで行きます。世の中黒と白だけでないことも多いのです。そんなちあきの明るさが、野宿あけのさわやかさと共に訪れます。
◆そもそも名前だって「ちあき」には「重」のような重さはない。私の父母は明治生まれ。ちあきの両親は60年安保の時はまだ子どもだったでしょう。その後の高度成長期に大人になり子育てをしてきた世代でしょう。そして平成のいま、東日本の天災と人災が一緒にやって来て、日本はいよいよこれからです。
◆それにしても「野宿もん」の痛快さ。なんと東京のど真ん中で本屋野宿もしています。当日は辺境冒険作家高野秀行さんのトークに大勢の人が参加し、イベントの後店長さんも高野さんも一緒に本屋の前で野宿に入ったのです。このアイデアと行動力、日頃野宿を実行し楽しんできた彼女たち。いざという時に自然に底力を発揮する人間力の頼もしさ。勇気が本の中からこんこんと湧き出してくるこの面白さ。今夜のシュラフの温かさ。明日の夜明けの明るさがいっぱいにつまっています。(金井重)
★恒例の重さん短歌、しばらくお休みします。
あれから、ずっと考え続けている。残念ながら休むに似た考えだ。それでもマングローブに相対しているとき以外は、たぶん一日も頭から消えたことはない。無意識に答えを探している。
最初は地震。大きな、なんとなくゆったりした、しかし非常に長い揺れ。仏壇の仏像や地蔵が倒れた他はほとんど何も倒れていない。しかし異常だ。テレビに津波の映像が映りはじめた。圧倒され、驚愕した。ものすごい!!としか言いようがない。こんなことが起こるんだ!次第に分析的に見えはじめる。あの水の黒さは一体何なんだ。車ってあんなに流れるものか。ああ、あの人たちは助かった。うーん、防潮林は無力なのか。でも屋敷林はおおむね家を守ってる。水の中で流されながら家々が燃えている。あのコンビナート火災は何年か前に予想され警告されていた通りになってるじゃないか。
最初の疑問は「一体何が起こっているんだ?」だ。だからすぐに画面の外が知りたくなる。しかしいくらチャンネルを切り替えても、全体は見えてこない。腹が立ってくる。なぜこのヘリはここだけしか写さないんだ。なぜメディアや国や自衛隊は手段を持ちながら全体を把握しようとしないんだ、全体を見せようとしないんだ、と。
それから原発が映りはじめた。やがて爆発して煙が上がり、遠い望遠映像しか見られなくなった。ますます何が起こっているのか知りたくなったが、テレビも専門家たちも意味のあることは何も伝えなくなった。欲求不満のなかで、日本の主要メディアには社員はいてもジャーナリストはいないのだと気づいた。
実際その頃画面の外で、何の準備をする暇もなく、やみくもに避難させられていた何万人もの人たちがいた。しかしその具体的な情景を知ったのはずっと後に避難した本人である渡辺哲さんに聞いたときだった。
何が起こっているのか知りたいという飢えのような欲求に答えてくれたのはネットだった。友人たちの導きを頼りに、ユーチューブやホームページをたどっていくと、ところどころで目の覚めるような説明や分析・提案があり、そのときどきの原子炉の実態を緻密に描きだしていた。著名な人もいれば名を知られぬ人もいた。いずれも自由で反骨精神に富んだプロたちの仕事でその内容はずっと遅れて東電や政府や事故調査委員会が公表した内容に照らしてもほとんど修正の必要がない。日本も捨てたものではない。民の間にいつのまにか培われていた日本の知と個の厚みに感動し、希望を持った。
しかしそこでもますますはっきりしてきたのは原発事故が津波以前から津波の後まで一貫して東電の首脳部や政府に直接責任のある人災だったということと、それを導いた構造だった。
なぜなんだ?なぜそういうことになったんだ?一体なにがまずかったのか?
津波については、生き残ったものがなしうる最高の鎮魂は結局人が二度とああいう命の落とし方をしないようにすることではないか。しかし原発事故に対しては自分としてどうすればよいのか。事態の大きさと卑小な自分との間の距離がありすぎて、何ひとつ思いつけない。しつこくしつこく「なぜ」と問い続けることしかないのだろうと思った。
なぜなんだ?なぜそういうことになったんだ?
原発の事故は直接の責任が誰にあり、それぞれどういう段階での無責任さや判断のずれが事故を引き起こすに至ったのかを問うのは難しくない。最後に引き金を引き津波の仕上げをやってしまったのも東電の首脳部だという。
やっかいなのはその驚くべき無責任さと、いまだに自分ないし自分たちの利益を最優先にしてしまう恥知らずな価値感だ。困ったことにそれは東電首脳部だけではない。この人災はわれわれの社会の、日本という国の体質を一気に暴いてしまった。
「なぜ」を問い続けているうちに、原発の怖さや11万人を越える人たちがふるさとから追い立てられてしまったことの重大さよりも、この国の体制の中のあらゆるところに転移し増殖してしまった無責任さや堕落と全体観の欠如の方がはるかに怖いと気づく。こいつらは平気で同じことを繰り返す。結果としてまた事故を起こす。
彼らが狂っていることは間違いない。しかしなぜわれわれの社会ではそういう狂人たちが上に坐るのか。東電だけでないことは経団連会長の発言を聞いていればよく分かる。なぜわれわれはそういう人たちを「勝ち組」と見、ひそかに自分たちもその席に坐りたいと思うのか。
なぜだ?何がまずかったのだ。気がつくとメディアは民衆の目や耳であろうとすることを辞めていた。理由は分かる。わたし自身同じ弱さを抱えている。しかし安易に逃げてはならないものがやはりある。
考えつづけていると少しずつ自分たち自身の本性や体質が見えてくる。たとえば古くから津波に何度も襲われている町々でさえ、これまで津波警報で逃げた人は3%だとか5%しかいなかったという。なめていたのだ。これはもう誰か他の人の責任ではないのではないか。津波もさまざまな面で人災なのだ。たとえは適切ではないが、山で雪崩に合って遭難するとき、まず登山者に責任がある。
二度と津波や原発事故を起こしたくなければ、われわれ自身の体質を変える努力が必要なのだと思うようになった。
先月号の通信でお知らせした以後、通信費(1年2000円です)を払ってくださった方は、以下の皆さんです。中には数年分まとめて支払ってくれた方も、カンパを含めてくださった方もいます。万一、ここに記載されなかった方、当方の手違いですのでどうかお知らせください。通信費の振込先はこの通信の最終ページにあります。
後藤正/川野好文/岸本佳則・実千代/藤原謙二/久保田賢次(10000円)「いつも通信をありがとうございます。5年分でよろしくお願いします」/村井龍一/藤木安子/河田真智子/小林進一/伊沢正名/横山喜久/八木和美/深瀬清治/西嶋錬太郎「いつもごくろうさま。400号も頑張ってください」/新野彰典/辻野由喜(12000円)「1万円はカンパでお願いします」/小河原章行
■地平線の皆様。今回、無事にクエストを完走しました。いままでほんとうに応援ありがとうございました。大西さんがずっとレースを追ってくださっていたようで、感謝感激です。でも、10時間以上休憩はとっていません。走行時間と間違えたのかな?と思っています。
◆今年は特にドーソンを過ぎてからの気温が温かくて、犬たちの下痢も多くなってしまいがちでした。トレイルも後半はびちょびちょなところが多かったです。そして、太陽が出たら有無を言わせず休憩をしないと犬たちが暑がって大変でした。なるべく夜走るように考えて休憩を取って進みました。最初から分かっていた怪我犬たちは、やっぱりすぐにドロップしなくてはならなくなってしまい、残ったのは本当に若い犬たちだけでした。ちょっと不安でしたが、それでもトレーニングでてごたえはあったので、必ずいけるという自信がうっすらあったのも事実です。
◆現在、ノースウエスト準州のイエローナイフで観光客相手に働いています。オーロラツアーなどもやっていると、寝る時間がなくてつかれますが、おかねのためにがんばっています。(3月13日 カナダ・イエローナイフで 本多有香)
■現地時間2月14日。1,000マイルのうち、ゴールまで残り200マイルほどの地点まで迫っていた本多有香さん。スタート前に14匹いた犬たちは、怪我や予定外の妊娠発覚などでリタイアし、8匹に減っていた。しかし過去の参加時のように人から借りた犬ではなく、今回の仲間は自分の手で育てて訓練してきた犬ばかり。数が減ることのハンデを軽くふきとばしてしまうくらい、犬たちと本多さんの信頼関係は深かったのだろう。壮絶なトップ争いの末に先頭集団が次々ゴールし始めたころも、本多さんのチームはたんたんと前進を続けていた。
◆スタートからまる11日が経過した15日。本多さんは最後のチェックポイントBraeburnを深夜に出発。ここで1匹がアキレス腱を痛め7匹で走ることになったものの、16日14時37分、ついにWhitehorseのゴール地点へ! スタートから12日1時間28分が経過していた。
◆犬ぞりレースの魅力にとりつかれこの世界に飛び込み、4度目のユーコンクエスト出場で念願の快挙。同時に、日本人女性初のユーコンクエスト完走者ともなった。
◆「Lance Mackey(本多さんも尊敬してやまないマッシャー界のヒーロー)のゴールに匹敵するほど多くの観客がユカホンダを出迎えた」と速報が流れたように、200人近くの人が盛り上がった。群集が苦手な若い犬たちがゴール手前でぴたりと動かなくなり、最後は本多さんがリーダーになり彼らをひっぱった。
◆ゴール後すぐメディアに囲まれ、終始笑顔がはじける。その横で本多さんが愛する缶ビールを手にして待ちかまえていたのは、14日に執念の逆転優勝を果たしたばかりの男性マッシャー、Hugh Neff。「ユカのポジティブさはすっごいんだ。She is my girl!」と嬉しそう。そして本多さんは、優勝を果たすいつかの日のことをもう夢に描いているという!(大西夏奈子)
訂正:前号のレース報告の記述に誤りがありました。Circle city と Slaven’s Roadhouse Dog Dropでの滞在時間は、それぞれ7時間27分、8時間10分が正しいです。
■昨年3月の地平線通信は3月9日に発送した。2月の通信に気合いのこもった原稿を書いてくれたばかりの鉄人、音楽家、化学者、原健次さんの突然の逝去を悼んでの特集とした。その2日後だった、3.11が起きたのは。
◆3月10日、宇都宮市の静かなお寺で原さんの一周忌の法要が営まれた。ご親族だけの集まりの予定だったが、九州の中高時代の友人3人が参加することとなり、私も友人のひとりとして加えてもらった。食事会のあと、ご自宅でしばし「原健次図書館」を見学。地平線仲間には興味津々の本がぎっしり残されている。「このまま処分するのは勿体ないので、よければ持って行ってください」と奥様に言われた。関心ある人は連絡ください。
◆3月5日には、久しぶりにシール・エミコ、スティーブ夫妻と会った。抗がん剤治療のため奈良の自宅から大阪の病院に来る日にあわせて出かけたのだ。会うのは半年ぶりだったか、それ以上だったか、話は弾み、元気に時間を過ごしたが、その後の経緯は容易ではない状況らしい。
◆今月末、新たな治療を求めていったんスティーブの故郷、エミコの大好きなオーストラリアに向かう。エミちゃん、いつかまた大好きな赤ワインを飲もうぜ。(江本嘉伸)
トーホクの歩き方
「震災以降、たとえば宮城県石巻市はよく報道されるけど、取材されるのはたいてい中心地域です。でも石巻市は'05年の大合併前は7つの市町村だった。地区毎に歴史も文化も違うのに、ひとくくりにされちゃう。さらに言えば行政単位じゃなくて浜ごとに文化が違うんです」と言うのはジャーナリストの山川徹さん(34)。 東北生まれ。だからこそ、東北には複雑な思いを抱きながら、この一年、被災地の小さな浜を歩いてきました。高齢化が進み「復興」という言葉を受けとめられない浜もあるのです。 今月は山川さんのお話を中心に、医師として現地支援に入った関野吉晴さん、そして山川さんの新著「東北魂・ぼくの震災救援取材日記」の編集者である岡村隆さんを混じえ、3.11後の東北の姿を語って頂きます。 |
地平線通信 391号
制作:地平線通信制作室/編集長:江本嘉伸/レイアウト:森井祐介/イラスト:長野亮之介/編集制作スタッフ:丸山純 武田力 中島菊代 大西夏奈子 落合大祐 加藤千晶
印刷:地平線印刷局榎町分室
地平線Webサイト:http://www.chiheisen.net/
発行:2012年3月14日 地平線会議
〒160-0007 東京都新宿区荒木町3-23-201 江本嘉伸方
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◆通信費(2000円)払い込みは郵便振替(料金が120円かかります)、または報告会の受付でどうぞ。
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