12月14日。午前9時の東京の気温は6度。路面は夜半の雨に濡れて、ひんやりしている。昨夜の鱒淵小からのメールには「キーンと冷え込んだ」との表現があったが、東北の被災地の住民、とりわけ仮設住宅に移った人々は、どんなに厳しい冬を迎えていることだろう。
◆ところで今日14日は、何の日か。普通の日本人なら、まず忠臣蔵とくるのだろう。実際この原稿を書いているいまもNHKでは「忠臣蔵」をテーマに学者、文化人が語り合っている。私にとって12月14日は、4月6日、5月29日とともに常に頭のどこかに刻まれている日だ。地平線会議の仲間ならわかりますよね。とくに今年は記念の年だから。
◆ちょうど100年前の今日、1911年12月14日にノルウェーのロアール・アムンゼン一行4人が人類初の南極点到達をなしとげたのだ。近年はあまり喧伝されなくなったが、地球には「三極」がある。そこに誰が最初に到達するのか、が長い間テーマだった。結局、1909年4月6日、アメリカ人、ロバート・ピアリーら6人が北極点に到達し、その2年半後、アムンゼンが南極点一番乗りを果たしたわけだが、南極点をめぐってはスコット隊の悲劇が待っていた。
◆イギリスのロバート・スコットも「テラノヴァ号」で南極大陸に上陸し、極点を目指していたが、彼が4人の隊員と極点に達したのは、1912年1月17日、アムンゼンより34日後だった。その時の失意はいかばかりだったか。しかも、帰路、飢餓と極寒の中で彼らは全滅してしまうのだ。
◆アムンゼン(1926年には飛行船で北極点へ到達し、人類史上初めて両極点への到達を果たしたが、彼も1928年、飛行船イタリア号によるイタリア探検隊のノビレ隊の捜索中、行方不明となった)の100年前の偉業をしのんで、おととい12日にはノルウェーのストルテンベルグ首相が南極点を訪れた。アムンゼンと同じルートをたどり、間もなく極点に到達するノルウェーの探検チームを迎えるとのことだ。
◆赤穂浪士の戦い(あるいは悲劇)とスコット隊の悲劇をたとえにヨーロッパ人と日本人の精神風土の違いを語るのはあまりに荒唐無稽だろうが、時にこういう近・現代史の1ページを繰って考えることはいいことだと思う。
◆今朝、新聞を開いて山下文男さんの訃報に驚いた。「津波てんでんこ」を伝えたことで知られる大船渡市三陸町綾里の津波災害史研究者。私も3.11に関する文章の中で何度も山下さんの著書『津波てんでんこ』(新日本出版社)で知った考えをお借りしている。きのう13日未明、87才で亡くなられた。「てんでんこ」とは「てんでんばらばらに」の意味。津波発生を知ったら、親も子も置いていってかまわない。めいめいがばらばらに逃げろ、という教えだ。
◆巨大津波の猛威は、日頃からそういう覚悟を持っていないと皆やられてしまう、との経験から来る発想で、私は昔からの言い伝えと思い込んでいたが、少し違うようである。岩手県の田老町で1990年に行われた「第一回全国沿岸市町村津波サミット」で山下さん(元日本共産党中央委員会文化部長)が小学3年の時に体験した昭和大津波の際に体験したことを話したことがきっかけのようなのだ。
◆「末っ子だった私の手も引かずに自分だけ一目散に逃げた父親」を後に母親は非情だ、となじったが、父は「てんでんこだ!」と一歩も引かなかったらしい。一人でも多く助かるために、これは仕方のないことなのだ、と山下さんは著書のあとがきで書いている。その話が学者や新聞記者に伝わり、「てんでんこ」という言葉が次第に定着していった、というのがほんとうのようだ。
◆その山下さん、3.11当時は陸前高田市の県立高田病院4階のベッドで寝ていたところを津波に襲われた。当時の岩手日報の記事によると津波はガラスをぶち破り一気に4階に駆け上がってきた。山下さんは2メートル近く室内の水位が上がる中、カーテンに必死でしがみつき、水から首だけ出して助かった、という。「非情こそいのちのきっかけ」と伝えて逝った先人に深い敬意を。
◆3.11以来、地平線会議の活動もこの通信も東北から目を離せないままずっと来ている。「震災通信になったんですか?」と皮肉る人もいるが、意識せず、ごく自然にそうなったのだからいいだろう。武士の時代でもなく、極地の現場でもないいのちの戦い、2012年にかけても続く。(江本嘉伸)
「おばんでございます」──。すっかり「東北の人」になりつつある新垣亜美さんによる報告は、「こんばんは」という意味の東北弁の挨拶でスタートした。3 月25日からRQ災害市民災害救援センターの現地本部がある宮城県登米市に入ってはや9ヶ月。RQ登米本部(廃校となった旧鱒淵小の体育館)での新垣さんの奮闘は、地平線通信に掲載された毎月のレポートからもうかがい知ることができる。
◆何度か夜中に登米の現地本部を電撃訪問した冒険ライダーの賀曽利隆さん曰く、RQで活動するボランティアの間では“ボラ中”(ボランティア中毒)ならぬ“亜美中”が大量発生しているという。新垣さんに会いたいがために登米に通いつめるボランティアのこと(横からE本さんが「それは賀曽利のことだよ」とひとこと)だが、多くの仲間をつくった新垣さんの活動は、3.11震災発生直後、RQ発足前の東京本部で始まった。当時は物資担当として、全国から集まってくる支援物資をチェックし、どうまとめれば効率よく被災地に送ることができるのかを毎日考えていた。この頃から、現地に行きたいという気持ちは強かったという。
◆3月25日、登米本部に入る。このときには何ができるのかはまったく分からない状態だったが、新垣さんは「何か特技があるというわけではなかったので、このときは何ができるかはあまり考えずに、ゴミ拾いでも料理でも、何でもできることをやろうと思っていました。本当は被災された方の話を聞くことに興味があったけれど、特にこだわりはなかったです。期間も決めていませんでした」と振り返っている。
◆はじめの3日間は物資の仕分けを担当し、それから総務の仕事に携わるようになった。スクリーンに映された当時の本部の写真から、日々試行錯誤を繰り返していた様子が伺える。上下関係がないボランティアの集まりなので、誰かが指示を出してくれるわけではない。みんなでアイデアを出し、次々と実践していく。
◆新垣さんにとって、この頃が一番学んだことが多い時期だったかもしれないという。初めて出会った人々が、その場で協力して仕事をという状況は、日常生活ではあまり経験できない。「これは凄い事だ」そう感じた。一方で、人の入れ替わりが激しく仕事の引き継ぎは大変だった。特に物資を届けるデリバリーチームは、直接被災者の方と接する立場なので思い入れが強い。孤立した家の支援を、次の人に確実に続けてもらわなければならない。皆、自分が続けたいけれど、どうしても帰らなければならないという、断腸の思いでの引き継ぎだったという。
◆4月入ってボランティアの数が急激に増えてきた。その受け入れと、外部からの問合せへの対応、そしてそれらと現地ニーズとの調整に四苦八苦した。集まってくるボランティアの力を生かすには、それを支える裏方の働きが重要になる。ボランティアの生活環境を整えることも重要だ。新垣さんは、この頃になってやっと「笑ってもいいのかなあ」という気持ちになってきたと話している。
◆最初は被災者と接するのにどんな顔をしていいかわからなかったが、次第に「やっぱり元気、笑顔がないとダメ。それが一番届けなければならないもの」だと思うようになった。5月からは、隣にあった鱒淵小の校舎が中瀬地区の人々の避難所になり、新垣さんはその担当に就いた。最初はボランティアとの接点は最小限だったが、近くにいるのだからもっとできることはあるんじゃないかと考えるようになったという。そういった思いが、後の「お茶っこ」などの活動につながっていった。
◆中瀬地区の方が撮影したという津波の映像は衝撃的だった。目の前で自分の家が流されていく喪失感は想像しえない。津波の映像は何度も見ているけれど、いつも心が痛む。中瀬地区は197世帯が流され、残ったのは8軒だけ。区長は震災直後からまとまって避難をしようと呼びかけ、民有地に仮設住宅を建てるために尽力した。その結果、住人の方は仮設に入居した後も住み慣れた土地で生活することができているという。
◆8月になって、鱒淵小の避難所で生活していた中瀬地区の人々が全員仮設に入居したため、新垣さんは毎日通ってお茶っこの開催やボランティアの調整などを行った。それと同時に、どこまでがボランティアの仕事で、どこまでが地元の人の仕事なのか、その線引きについて意識するようになっていったという。ボランティアはいつか引き上げなくてはならないので、頼られっぱなしではいけない。
◆他の仮設住宅にも行き、ボランティアが入らずに自分達だけで運営している場所もあることを知った。もしかしたら中瀬地区は、ボランティアが入りすぎたことで自立の妨げになった部分もあるのではないか。それに気付いたとき、そろそろボランティアも体制を変えなければいけない時期なんだと感じ、仮設に通う回数や頻度を減らすようにしたという。
◆「この頃になってだんだん自分の視野も広がってきて、他の仮設や行政との連携も必要だと思うようになりました。ちょうど他のボランティア団体の方の四季さんという人と知り合って、同じ思いを持っていることが分かったので、いまは一緒に他の団体との情報共有を進めるようにしています」
◆報告会の後半では、新垣さんが今回の震災で災害ボランティアに参加することになったきっかけについて話してくれた。「自分にとっては何も特別なことではなかった」と彼女は言う。「もともと旅が好きで、山が好きで、そしてそこでいろんな人と話をするのが好き。その延長線上に今回のボランティアがあったような気がしている」。
◆大学時代はワンダーフォーゲル部に所属して、大好きな山と向き合っていた。卒業後は求人広告会社でライター業に就いた。やり甲斐はあったが、激務で思うように自分の時間がとれない日々に悩んでいた。そんな折に、交通事故で父親が亡くなった。仕方がないと思いながらもやりきれない複雑な気持ちだったという。様々な思いから自分の言葉で文章が書けなくなり、退職。その後は剣岳の山小屋でのアルバイトや、都内で高層ビルの外壁清掃の仕事などをやりながら、自分の気持ちと向き合う時間を持った。
◆そんな中で彼女にとってのきっかけをくれたのが、沖縄の親戚のおばさんとの会話だった。父親の事故のことも含めていろいろなことをズバズバと聞かれ、それに答えるうちに、自分の中の心のわだかまりが少しずつ解けていくのを感じた。頭では分かっていても受け入れられなかった事故の相手に対する思い、「長女だからしっかりしなくちゃいけない」と気を張っていたこと、そういった自分の中に燻っていた気持ちを、ごく自然に受け止めることができるようになったのだという。
◆「そうやって自分の気持ちが整理できるようになってきて思い直してみると、父親を亡くしてからいろんな人に気にかけてもらえていたんだな、と気づきました。そうしたら、急に人と関わりたくなったんです。教員免許を持っていたので、次の4月から小学校の先生になろうと決めました」
◆次の目標に向けて一歩を踏み出した3月初め。そばにいる人に対して関心を向け続けることが大事だと気づいた頃だった。その直後に地震が起こった。「自然に、行こうという気になった」という。ボランティアに行こうという強い意気込みがあったわけではなく、ごく自然に、何かの手伝いがしたいと思った。「思い返してみれば、今までやってきたいろんな経験が今につながっているなと思えるんです」と新垣さんは続ける。例えば2008年の「ちへいせん・あしびなー」で訪れて以来何度も足を運んだ浜比嘉島では、地域の人々との関わり方を考えるヒントや、先生になりたいと思うきっかけをもらった。山小屋でのアルバイトも、はじめて出会った人々による共同生活という点で、登米の環境によく似ている。
◆「もうサラリーマンには戻れないか?」という江本さんの質問に、新垣さんはこう答えている。「サラリーマンが嫌というわけではないですけど、人のそばにいて支えることができたら、という思いが強いです。今はそれができているので、しばらくは続けていきたいです。あとは、やはり自然の中にいたいという気持ちも強いです。でも家族も大事なので、今は月に1度は必ず帰るようにしています」。
◆RQは11月末をもってこれまでのような活動に一旦区切りをつけ、12月下旬から新たな組織としてスタートを切る。ただし、しばらくの間は登米の活動も継続するという。新垣さんも、1、2年は登米に残って活動を続けたいと話す。RQ登米本部として使せてもらっている鱒淵小学校の校舎は、天然の木材を利用して作られた温かみのある建物だ。
◆「この環境を生かしてできることは何なのか考えています。まだ手探りの状態ですが、今回の経験から、地元の人との交流ができる場を作れるように頑張っていきたいです」、そう話す新垣さんが、同世代ながら非常に頼もしく思えた。私自身も、岩手県の「遠野まごころネット」というNPOを通じて復興の支援に関わらせてもらっている。東京から現地にボランティアを送り出し、また帰ってくる姿を見ながら常々考えているのは、災害ボランティアで得たものを、どうやったら日常の生活の中に取り込んでいけるだろうかということだ。
◆人とのつながりでも、泥掻きの技術でも、何でもいい。今回の震災では、全国から大量のボランティアが被災地に集まり、一緒に活動して、また全国に散っていった。ただそれだけで終わらせるのではなく、この活動で得たものをそれぞれの生活の一部として溶け込ませることができたら、日本全体を立ち上がらせる力につながるのではないか。そんな思いを抱いているからこそ、すでに次の活動に踏み出そうとしている新垣さんの姿勢には勇気づけられるものがある。
◆頼もしいのは新垣さんだけではない。報告会の最後には、個人ボランティアとしてRQやその他の団体の活動に参加した、おもに若手の地平線仲間の紹介があった。「隊長」こと小林祐一さんは、登米でボランティアに参加した際に「バスのドライバーが足りない」という話を聞き、帰ってすぐに教習所に通って大型免許を取得した。素晴らしいフットワークだ。
◆「エンジェル」こと落合大祐さんは、RQの発足当初から東京本部や登米本部で支援活動を行い、現在も「歌津MTBドリームプロジェクト」のサポートなどで活躍している。先日も福島へ行ったという落合さんは、「4月当時と比べると瓦礫なども少なくなりましたが、そんな中で人々の記憶が消えていくのが怖いと感じます。記憶を失わないための活動ができたらと思っています」と話した。
◆私自身は、遠野まごころネットでの活動について紹介させていただいた。まごころネットは東京に事務局を持っていなかったため、有志のボランティアが協力して報告会や説明会を開催し、現地に行く人のサポートをしてきた。12月からは正式に東京事務所が発足するので、今はそれを足掛かりに東京からできる支援の形を模索している。現地では冬季も活動を継続する方針なので、引き続きボランティアの募集を行っている。
◆震災の後、地平線通信や地平線3.11 NEWSでの報告を読んで親しい人たちが率先して活動していることを知り、頼もしくも感じたし、自分も何かをしなければという気持ちにもさせられた。特に同世代の新垣さんの活躍には強く背中押してもらったように思う。今回の報告も、多くの人の背中を押したのではないだろうか。(杉山貴章)
■先日は報告の機会をありがとうございました。震災ボラに参加するきっかけとして少々湿っぽい話もしましたが、今は頭を切り替えています。過去の穴埋めのための行動ではなく、今好きな事、未来につながることがしたいから。これから支援活動を継続するためには、被災地にも自分にもプラスになることが大切です。ここに残ることを被災地の方に話したら、喜んでくれた一方で「人生でいちばんいい時期を、自分たちのために犠牲にはしてほしくない」とも言われました。
◆報告会では話しながら半年間を振り返り、改めて3月〜5月くらいまでの緊急支援期が、特にその中でも初動は大事だったと思いました。今でもRQの腕章をして被災地を歩いていると、知らない方から「あのときは物資ありがとう」などと声をかけられます。いち早く多くの人を巻き込んで動く決断をした広瀬さんはすごい。
◆私は被災地の真っ只中というより、総務としてボラセンの現場にいて、支援活動が「その場対応」から効率を考えた「システム」になり、それ自体も日々進化していくのを目の当たりにできました。混乱や衝突も数多くあったけれど、それですら貴重な経験です。初期に一緒に活動していたモンベルのアウトドア義援隊をはじめ、個人で活動している方々との出会いも新鮮でした。
◆あと、善意の怖さというか、難しさもたくさん感じました。たとえば支援が集中する年末年始、餅つきを4回(全部違う団体が主催)もやる仮設住宅もあります。それはまだいい。戸数を考慮せず届けられた少しの物資(野菜など)を、住人の方が不公平にならないよう気を使って配る様子を見るのは、気持ちのいいものではありません。ありがたいからこそ困るというのが複雑です。事前に要不要を確認するとしても、結局は付き合いがあるから断れないケースは多々あります。
◆報告会の翌朝は、車で東北に戻り、その夜は志津川中瀬地区仮設住宅での「お疲れさま会」でした。避難所のころから7か月間おつきあいさせていただいた方々です。11月末でRQの活動が一旦終了するのに合わせ、中瀬地区でもこれまで週4回集会所で行なっていたお茶っこ会を終えました。今後は住人の方主催の集まりや、子ども会などが立ちあがってくるのを期待しています。
◆避難所でお茶っこを始めたときは目の前のことしか考えていませんでしたが、続けていくと住人同士の関係、ボランティアのモラルなど、復興に直接関係のない問題に直面することが多く、ストレスにもなりました。ボランティアって何だろう、本当に来てよかったのか、もっとできることがあったんじゃないか……と繰り返し考え続けました。でも私はじっくり時間をかけられたのがよかった。本当に辛くなると、タイミング良く誰かが支えてくれて、また歩き続けられました。仕事で東北に来られなくても、電話やメールで相談に乗って励ましてくれるボラOB・OGもいます。
◆反省点はチームミーティングと記録。次へつなげるために、この2つをもっと大事にすべきでした。あとは自分が責任を持てないことを恐れて、活動範囲・支援対象を広げられなかったこと。もっと情報共有や役割分担に注力すれば色々な活動ができたし、そうなれば情報も入って判断材料にもできた。これからは考えすぎず、まず行ってみる、動いてみる、という事を大事にしたいです。
◆その翌日は志津川のとなり、戸倉地区にある小さな仮設住宅で住人企画のお餅つきに参加。ここにお住まいのT子さんが作る、畑で採れた小豆で作ったお汁粉と干しいもは絶品です。沖縄三線を弾くと、子どもたちが「涙そうそう」を元気に歌ってくれました。その夜はまた、南三陸町の歌津にてお疲れさま会。
◆お酒もすすんだころ、江戸時代から続く契約講の会長が、向洋歌(こうようか。出身水産高校の校歌?)を歌いはじめました。歌詞には漁業の厳しさ、生活の様子、冗談が混じっていて、漁師の魂がこもった歌でした。歌に合わせてあるお母さんが踊りだし、周りの方の合いの手が入り、それに負けじと歌い手の声がますます響く。その場はみんな同じ船に乗っているような一体感に包まれていきました。不思議と涙がこぼれました。
◆今考えてみると、きっと私はこの人たちの心の中にある『誇り』ってすごい、と感動したのだろうと思います。津波で多くのものを無くしても、「自分たち」という強い何かが残っている。そんな彼らが羨ましくもありました。大切な歌を歌ってもらえて純粋にうれしかったです。
◆いま、キーーンと冷え込む夜の職員室にいます。今日は12月13日。今後、ここを中長期の復興支援拠点としていくための3日間の研修を終えたところです。昨日の夜は中国から災害ボランティアネットワークの方13名が見えて、鱒渕地区の方も交えての交流会でした。中国のみなさんは大量の水餃子(おいしい!)を作ってくれて、RQからは登米の名物「はっと汁(薄いすいとん風)」をお出ししました。今やこの小学校はボランティア拠点のみならず、色んなものが出会って新しいものが生まれる場所になっています。RQは新体制への移行期で、11月30日からボランティア受け入れを一時中止しています。9ヶ月間の疲れがどっと出ていて、のんびり休みたい!!!というのが本音ですが、資料整理、現地訪問などやりたいことは沢山あります。年末年始もうちょっと頑張って、1月に入ったらリフレッシュしたいなあ。
◆さいごに……いま直面している大きな山は、フェイスブックやツイッターを始めることです。体質的にどうしても好きではないけれど、今の時代は必須(なかんじ)なので、個人ではなくRQとして、とうとうやってみます。という感じで、これからも一歩ずつ頑張ります。(新垣亜美)
激動というより衝撃の2011年が過ぎてゆきました。「1」がつく年は、スタートを意味します。100年前の1911年、中国で「辛亥革命」が起き、1921年に中国共産党が誕生します。1941年に太平洋戦争が勃発し、1951年には、日本の戦後独立を決めたサンフランシスコ講和会議が開かれました。そして「2011」……。
3・11東日本大震災の、震災と原発事故の傷跡が生々しい2週間後に、地平線会議が開かれました。電力事情など、会場の都合から開始を数時間も繰り上げて開かれました。冒頭、私は16年前の1995年、故郷を襲った阪神淡路大震災の話から始めたのを覚えています。あの時、大震災のどさくさに紛れて中国人密航者が神戸港から不法上陸をしているという真相を追って、『密航列島』(朝日新聞社刊)を書きました。密航費用を支払えない中国人密航者たちに「臓器を売るか、原発で働くか」と迫る、原発手配師に出くわしました。
3・11フクシマで原発事故の復旧作業に携わった作業員の60人以上が、連絡が取れずに所在不明だという話を聞いて16年前の原発手配師のことを思い起こしました。
所在不明者の60数人は臨時雇用で、雇用期間が切れて連絡が取れないままになっています。東電は、作業員に外部被曝量を測定するために線量計を貸し出すときに、氏名と所属する会社を書かせていましたが、社員証や運転免許証などの提示を求めていないために、なかには偽名も多くあります。外注の臨時工のなかには都市のホームレスや不法の外国人など「見えない労働者」がいます。彼らは「東電や子会社の社員や技術者が、入れる状態」を保つための、原子炉格納容器の周辺や内部の放射性物質を取り除くために容器の内部と外部を丁寧に、雑巾でふき取る被曝ぎりぎりの除染作業を請け負っていました。
「原子力ムラ」から見る「原発村」は外部であることがはっきりしました。「原子力ムラ」は、電力の消費地としての東京から遠くはなれた「外部」に「原発村」を作っています。阪神淡路大震災を悪用して不法入国した密航者が、その後、日本社会の底辺の「3K」労働者として支えた日本人の「外部」であることとどこが違うのか……。
被曝労働者という言葉が新聞紙上で登場し、「見えない外部」が浮き彫りにされ、取材するうちに「囲い屋」と呼ばれる業者が貧困ビジネスを操っている現実を知りました。
こうした原発の現場を取材して書き下ろしたのが、近著の『原発・蛇頭列島』(アップル社グリフォン書店)です。
原発現場を取材中、二種類の人たちに出会いました。ひとつはロスジェネといわれる20代後半から30代前半の人たちです。「就職氷河期」の世代で、就活に落ちこぼれ「ニート」や「フリーター」という言葉を生み出した働き盛りの人たちが、3・11後の震災復興ビジネスやボランティアに立ち向かう姿を見ました。あとひとつは「即応予備自衛官」と呼ばれる臨時の自衛官たちです。震災・津波・原発事故のなか救援活動に携わった自衛隊は、人手不足からを急きょ56歳と57歳、中年の人たちが予備役として応召されました。
「場があれば……」、就職が叶わなかったロスジェネ世代は、水を得たサカナです。「場」を失えば、同時に夢も目的も失うという話でした。一方、社会経験を積んだベテランの臨時自衛官は「場はどこでもキャリア」と、これまで培ってきた経験を生かして現場で中年パワーを見せつけました。私たちは、失って初めて「場」について考えさせられました。
アメリカのある田舎町で開かれた「ハッカー(黒客)」の公聴会に出席しました。アメリカと中国は、電脳戦争勃発前夜のような緊迫感です。アメリカはサイバー司令部を設け、軍事施設などにサイバー攻撃を受けたら武力で反撃すると、中国に宣戦布告しました。これに対し中国側は「インターネット藍軍」という精鋭のサイバー部隊でこれを迎撃すると宣言、「見えない戦争・コンピュータ・ウォーズ」の現実に、日本人はまだ気づいていません。
3・11後、既存のメディアに頼らず、個人でモノを見る目が養われてきたと思われます。情報発信技術を使い、ウェブサービスを経由する情報ニューメディアが台頭しています。しかしこの分野でも日本は世界に後れを取っています。「フェイスブック」は実名や個人情報の登録が必要だから日本人向けではありません。日本発のニューメディアで世界に通用しているのは、「ニコニコ動画」くらいです。
「大学では原子力という学問が消えつつある」と関係者の嘆きを聞きました。脱原発の流れの中、原発は時代遅れ、原子力は斜陽の学問になりつつあるのかもしれませんが、既存の原発の安全を考える専門家たちを日陰者にしてはならないように思います。原発と経済を天秤にはかるのは大きな間違いで、今後は炉の安全性の向上や汚染水などの汚染物質の処理に人材と費用をつぎ込んで行くべきだと思います。原発を停めたから、安全が確保できるわけでもないのですから。ところで「北方領土、竹島、尖閣諸島に正しい国境線を引けますか?」日本青年会議所が行った質問に、日本の高校生400人中、すべて正解したのは7人だったというのです。じつは私も不正解でした。時間(歴史)と空間(領土)について、ポストモダン(国境なき世界観)に浸る日本の若者が無関心であることは以前に話したことがありました。
2011から2012へと時間は過ぎて行きますが、「時」と「場」だけは、3・11のままに止まっているように思います。
■昨日はスパリゾートハワイアンズへ行ってきました。放射線量は0.12くらい。東京東部と変わりないですよ。まだプレオープンで一部だけなので、普段の雰囲気とは違いますが、フラガールたちのショーも見られるし、大きなお風呂も入れます。入場料は1500円。ただ、平日だったので、来ていた人達は県民や被災者が多いようで、会話も「大熊、双葉は100年帰れねえ」「国に土地、買い上げてもらうべ」などという、生生しい会話が多かったです。
◆そうそう、ようやく20km圏内への立ち入りが動物愛護団体にも認められるようになりました。いろいろ条件もあり、27日までという期限はありますが、かなり前進しました。今月はなにかと忙しくなりそうです。また、20km圏外ですが、浪江の南津島・赤宇木地区へも定期的に入っています。ここは圏内より放射線量が高く、住民は全員避難し、立ち入りも圏内ほどではないですが制限があり、一般人は入れません(私は通行許可を申請)。空間放射線量が27μシーベルトある場所も。雨樋の下は私の計測で150μシーベルトでした。出会った住民の方は「おれんとこは300μシーベルトだった」とのこと。圏内や飯舘よりずっと高いところですが、あまり報道されないので保護団体も入らず、ここに残された動物も心配です。
◆先日、27市町村の県民一人に8万円ずつ慰謝料が払われることになりました。天栄村もギリギリ含まれてましたが、それに漏れた自治体が猛抗議。なんだか、まだまだ問題多い福島です。(12月8日)
◆8万円の慰謝料(?)に関して、支給に漏れた自治体(おもに県南部)の猛抗議に続き、丸森町など宮城県南部の自治体も声をあげています。このままでは、高速道路が無料になる「被災証明書」を他県でも乱発したように(2時間停電しただけ、ちょっと断水しただけで発給してしまい、そのせいで来年6月までの予定だった高速無料がパーになり、無料区間が東北エリアだけになりました)際限なく広がらないか心配。そうかと思うと、今朝は「除染費用、一戸建ては1軒70万円」とか。毎日いろいろ新しいことが決まるので、めまぐるしいです。
◆そのほか、最近はお米の問題で大騒動。知事が軽々しく安全宣言などしてしまったあとに、次々と基準値超えの米が発覚して困ったもんです。県民の私でも、福島産とだけしか表記のない米はやめよう、と思ってしまいました。会津など県内でも放射線量の低い場所なら安全と思いますが。(でも、福島以外でも放射線量を測れば出てくると思います。そういう意味では福島産のほうが世間の目が光っているだけに安心かも)
◆ところで、昨日は、川内村、葛尾村、飯舘村を回り、残っている犬猫に給餌をしてきました。川内村は放射線量が低く、0.2−0.3μシーベルト。我が家(0.4−0.5)より低いし地震の被害もほとんどなく、避難準備区域が解除されたのは当然ですが、思ったほど住民は戻ってきてません。避難先が郡山あたりなので昼間だけ戻るという人が多いようです。郡山のほうが便利だし、村に戻ってもご近所はいないし、仕事もなくてひまだしという理由でしょうか。それでも村のGSや郵便局は営業中だったし、役場にも人が多かったし、日帰り温泉はオープンしたし、以前よりは活気が感じられました。
◆葛尾村は全村避難ですが、自警団(江本さんも行きましたよね?)の人が毎日詰所に出勤しています。葛尾も1.5μシーベルトくらいでそれほど高くはないです(でも全村避難)。飯舘村へはR399を北上して浪江町津島地区を経由して行きますが、葛尾を過ぎると放射線量がだんだん上がり、津島周辺で5μシーベルトくらい。R399で一番高かったのが、浪江町赤宇木から飯舘村へ向かう峠で、21μシーベルトありました。R399を走っている車はごく少なく、パトカーが目立ちます。このところ、防護服を来た人たちが多いのは、自衛隊の除染部隊?
◆ところで、以前にお知らせしたかわかりませんが、福島県が来春以降の観光振興に力を入れていて、ツーリングライダーにも目を付けました。私が関わった「アウトライダー」という雑誌の読者ミーティングが福島県小野町のキャンプ場(私が編集長に紹介)で開催された新聞記事を見て、「これだ!」 と思ったようです。担当者は震災後、県外ナンバーの四輪車が減っているのに、バイクは県外ナンバーが多いと思っていたそうで、県の観光協会が本気で取り組むようです。担当者が我が家にも来ていろいろ話をしてくれて、私もライダー向けの温泉記事を書くことになりました。(12月10日 天栄村村民 滝野沢優子)
■震災から9ヶ月経ったが、私の住む神奈川県横須賀市の小学校や中学校から1マイクロシーベルトを超える所が多数見つかっている。この期に及んでも、私のまわりでは、放射能についてふれると、神経質とかモンスターペアレンツとかと言われてしまう空気がある。
◆ちなみに横須賀の放射線の基準値は地上1センチ0.59マイクロシーベールト/h、地上1m0.23マイクロシーベルト/h。補足にですが、神奈川県内、他多くの自治体で採用している地上1センチから5センチの基準値は0.19から0.24マイクロシーベルト。でもこれだと学校にいるだけで、国が定めた基準値の1ミリシーベルト/年になってしまい、自然被ばくや、医療被ばくは加味されていない数字だ。だから横浜市と横須賀市以外の多くの自治体でより厳しい0.19から0.24が採用されているのだ。
◆横須賀市は全市立学校と私立も含む幼稚園・保育園の放射線量測定を7月にしている。この時は校庭のど真ん中1か所だけの測定だったので、基準値以下だった。8/26に文科省から「学校等における放射線測定の手引き」が出され、それに基づき教育委員会は各学校あてに「側溝や木の根元などに放射線がたまりやすい」という内容の通知を出した。
◆側溝清掃というのは通常時、いつやるかというのは学校に任せられており、市内のT小学校が8月末に側溝清掃時に出た汚泥をそのまま敷地内に放置。2ヶ月後の10/24にガイガーを持って市道の測定をしていた市議がたまたま積んであった汚泥を測定したところ0.75マイクロシーベルトが検出された。
◆この件により結果的に、11/1から市内の全小中学校の側溝や屋上の排水溝などの詳細な測定がはじまった。市内全73校を11月中に再測定し、6割の学校が横須賀のゆるい基準値(0.59)ですら超えてしまい、川崎市などの基準値0.19に照らすと、わずか3校しかクリアできなかった。70校には「横須賀市以外だったら、除染埋設対応しなければいけない値の放射性物質」がまだ現在も今後も何の処理もされないまま学校にあるという事だ。そして教育委員会が学校に通知しても「側溝や屋上の排水溝の清掃をしていない学校」や「掃除した汚泥をその辺に放置している学校」が6割はあるという事だ。その上、放射性物質の保管が国によって決められていない現在の所、除染された土は小学校の敷地内に埋められている! 子供たちのいる場所のすぐ近くにポリ袋に入れられてブルーシートにくるんだだけで埋められている。
◆学校からは「T小学校で基準値を超える放射線が検出されたので、全学校の詳細な再測定がおこなわれています」とか○月○日に側溝の清掃をしますとかしました」とか「11月○日に市の教育委員会が側溝や屋上などを詳細に測定に来ます」とか、一度もまったく連絡が来なかった。まるでそのことに触れてほしくないような対応だ。これらの件は市のHPから知ることができるだけで、市のHPに載っていますとは教えてはもらえない。基準値超えの小学校の中には除染後におたよりが来たところもあるが、ほぼ秘密裏に除染を済ませ知らん顔している学校もある。除染が済んで放射線値が下がれば、子供を守るという目的は達成されているのだが……。
◆そして娘は私立の認可保育園に通っている(横須賀は市立の幼稚園保育園はほとんどないのです)。市の子ども育成部は小中学校の再測定が終わった11月末から、市内の幼稚園保育園の再測定をはじめてくれた。でも側溝は測るけど、屋上は測ってくれないとの情報があった。うちの娘の通っている保育園は屋上に遊具があったり、夏はプールをやったりする日常的に子供達が使用する屋上なので、 こども育成部に屋上測定の要望をした。ですが、私立保育園なので園長から測定の要望がないと測れないと言われた。小中学校は保護者から要望しなくても児童生徒が日常的に立ち入らない屋上の測定をしているのに、それよりも小さな子供達が日常的に使用している屋上を要望しないと測らないのだ。その上、園庭の無い無認可保育園は要望しても屋上どころか測定にも来てもらえない。(認可に空きが無いから仕方なく無認可に通わせているのに。)小中学校に降っているものは当然、無認可でも私立でも市立でも降っているし、側溝だけじゃなくて屋上も花壇も雨樋の下も遊具の下も植え込みにも降っている。無認可も私立も市立も、どこにも通園していない子供も、どんな子供も横須賀市民なのだから、平等に守ってもらえないものなのか。
◆ちなみに、私は市がいつから保育園幼稚園の再測定をするかわからないので、放射線測定器を「消火器や防犯カメラ」のように装備して欲しいと娘の保育園に要望したら「うちの保育園で放射線測定器は買いません」と宣言されてしまった。
◆「去年は無かった放射性物質が今年はそこにあるのだから、積もったら、たまったら、まめに除染していく」しか方法がないから、しっかり対応してほしい。横須賀には米原子力船も来る(原子力艦船寄港回数 通算844回目 本年18回目)、あのメルトダウンした燃料棒もグローバルニュークリア フュエルジャパンという会社が横須賀で作っている。市長は横須賀は安心安全ですと言っているが、こんな状態で有事の際の危機管理は大丈夫なのか? 想定外でしたと言われて立ち入り禁止区域になる運命なのか。
◆福島から見ればへみたいな放射線量なので、福島県のみなさんや点在するホットスポットのみなさんは気を悪くされるかもしれないが、原子力を無知で認めてきてしまった責任がある我々大人は何を食べようと、何を吸おうと仕方ないが、母として未来のある子供たちに余計な被ばくをさせたくないのです。(青木明美)
■11月の報告会で話し手の新垣亜美さんが「RQ登米は今後、被災地ツアーも手がけていきたいと思う」と言った。その日の夜から僕は家族で被災地ツアーに参加予定だった。風間深志さん主催の地球元気村が、「がれきの学校」という企画で家族、特に子どもに被災地に来て欲しい、と呼びかけていた。
◆初めて南三陸市を訪れたのは5月だった。バイク仲間が、「南三陸の神割崎キャンプ場をベースに風間さんがオフロードバイクの特性を生かして、現場に入り込む活動をしている」という話を持ってきてくれたのだ。それなら、とは思ったが、自分には現場に入ってから能力を発揮できる特殊技術はない。
◆そう渋ると彼は、こんな事は1000年に一度の事であり、世界を見てきたアナタには、それを見る義務がある。行けばできることなどいくらでもある、と、ヘルメット、グローブ、釘を踏み抜かない靴中敷などを持って自宅まで押しかけてきて、その勢いにおされての現地入りだった。
◆自分の世話は自分でできる事。それが参加の最低条件なので、食料が調達できる最後の場所である北上川下流の河北PAで食材を買い込み、寒気がする景色の中を走った。そこで見聞きし、経験したことについては省くが、帰ってきたときには、僕も自分の背中を押したバイク仲間とまったく同じ気持ちになっていた。
◆できれば家族にも現実を見せたい。しかし5月の神割崎に集まったライダーたちは、ほとんどが独身。なかには仕事を辞めて来ている人までいる。やる気も能力もプライドも高い、即戦力の野武士軍団だ。そこに家族の入る隙間などなく、何より被災地側に迷惑をかけることは明白だった。
◆10月。2回目のチャンスが来た。鳥海山に登りたいと、山形の地平線仲間に連絡したら、今、東松島の被災地支援で忙しいから、そっちも手伝ってほしい、と返事がきた。いい機会である。前回同様、まったく自発的でなくて情けないかぎりだが、とにかく行くことにした。東松島のアウトドア義援隊のメンバーは気持ちのいい人たちだった。東京から夜行バスで現地まで来る20代の若者が多いことにも感動した。しかしここにも子どもはいない。作業内容からすれば、子どもも戦力になる場もあるが、やはり未経験者が家族で来られる場ではない。
◆東松島では家の解体作業のあと、温泉に連れていってもらった。絶景を見下ろす高台のホテルは、各地から訪れた被災地ツアーの客で賑わっていた。ホコリまみれの服で玄関から入ると、このホテルに泊まっている観光客に、なんだか腹がたつ。でもよく考えてみると、むしろこの人たちのほうが現地に貢献しているのではないか。現場に自力で入り即戦力となる人間は、もともとアウトドア的能力が高い人たちだ。それはもちろん長所なのだけど、同時にその能力の高さゆえ、お金を使わないでも物事を解決できてしまう短所もある。つまり現地に金を落とさないのだ。
◆もし家族連れが現地に貢献できるとすれば、それは労働力としてではなく、むしろ観光客としてで、かつささやかでもボランティアができればいいのかな、と思った。その条件を満たしていたのが風間さんの「がれきの学校」だった。地平線報告会の会場から、新宿駅前の待ち合わせ場所に行く。目の前にいた参加者とおぼしきお父さんのバックパックには、まだ値札がついている。それを見たときに、なんとなくツアーの全体像が見えた。
◆参加者は全部で35名。プラス、スタッフ8名と風間さん。子どもは8歳から17歳までの16名だ。バスは夜明け前に北上川下流の河北PAに入る。5月に食料を買い込んだ場所だ。ここから先は、言葉を失う景色が広がる。記憶にあるのはオフ車でも、安易に進めなかった道。本当に観光バスで行けるのか? 津波現場直前から風間さんが合流。現地について説明をしてくれる。
◆そろそろ窓越しには前回、お手伝いに行った家が……、ない。すでにそこは空き地になっている。瓦礫は撤去され、地盤沈下が進んでいる。宿泊地のホテル観洋まで河北PAからバスで1時間。確かに信じられないほど道はよくなった。だが、瓦礫が消えたことで村も消えてしまったようだ。
◆簡単な自己紹介の後、すぐにバスは南三陸志津川町へ。ここからはガイドを現地で料理店を開いていた後藤さんに代わる。ガイドを引き受けるということは趣旨を理解し、参加者を受け入れるということ。一参加者である自分が心配することではないが、同じ参加者の中にその好意を理解できず、非常識な発言をする人がいないかビクビクする。
◆こどもたちは……どうなんだろう。観察すると、涙目の子もいれば、感情を表に出さない子も、はしゃいでいる子もいて、なかなか気持ちまで見えない。「ここに私の店があったんです」と後藤さんが海岸から200メートルほど内陸で、遠くの山まで見通せてしまう場所を指差す。どんな気持ちで話してくれているのだろう。
◆続いて上ノ山緑地に向かって坂を上がる。海抜16メートルの丘からは町が見下ろせる。しかしここに逃げた人も相当数が津波にさらわれた。ここなら大丈夫。そう思うのが普通だ。海風に体が芯まで凍える。あの日は雪が降っていて、もっと寒かった、と聞く。
◆有名になった防災庁舎。丘の上の中学校。バスはそこから一気に神割崎方面に南下し、戸倉小学校へ。校長先生の機転で、屋上ではなく、山の上の神社に逃げて生徒に犠牲者は出なかったそうだ。破壊された体育館。校舎。集められた家の残骸。子どもたちにはきっと一番こたえた場所だったにちがいない。
◆次に訪れたのは北上川の河口に位置する小さな村、一三浜長塩谷。そこで子どもたちは花の種を植え、大人はさら地に埋もれた生活のかけらを拾った。ゴルフボールと女性の下着。食器に財布。「黄金の花嫁」と手書きされた20枚セットのCDを見つけてしまったときは、とても捨てられず、現地を案内してくれている佐々木力さんに渡した。力さんには5月にも会っている。明るくてたくましい人だ。その力さんが津波はあの電線の上を越えてきました、と海のほうを指す。丘に上がり、ここまで黒い水が押しよせ、この谷間は大きなプールのようになって家がグルグルと渦巻いていた、と、笑顔で話す。5月にもこの人は笑顔だった。
◆花を植える、と、がれきの撤去。それらは時間にすれば1時間ほど。これでボランティアを「した」と言えるのかというと微妙だが、それでもただ「見てきた」だけではない。その違いは大きいはずだ。プログラムはまだまだ続く。夜には被災した佐々木さん親子(力さんとは別)の話。志津川町で離れ離れになってしまった親子が、お互いに無事を祈りつつ会えるまで。小学校6年生のかれんちゃんの作文は、聞いていると頭の中に、その場の景色が見える辛いが素晴らしいものだった。
◆その後を現地に定住する覚悟を決めたボランティアリーダーの渡辺さんが受ける。同じ南三陸町でも地域により復興の度合いが違うこと。そしてツアー参加者に、物の提供ではなく、共同事業を起こして欲しい、との提言。これは厳しかった。確かに僕らは安全圏から一歩も踏み出してはいない。いつでも逃げ帰れる場所もあり、何のリスクも負わないで無責任な発言をしているだけだ。
◆翌朝、南三陸の中高生ボランティアリーダーと参加者のゲーム大会が行われた。地元のボランティアの子どもたちは見るからにいいヤツで、事実見たとおりだった。大人も含めてゲームを楽しませてもらった。思うにキーワードは土地ではなく「人」。それもテレビで見た人ではなく、実際に会って話して遊んでくれた人。ボランティアのせき君であり、昨晩話してくれた佐々木かれんちゃんである。南三陸はこの子たちが住んでいる町。それがあって初めて映像は現実に結びつくのだと思う。
◆子どもたちに被災地を知ってもらいたい。これは大人の側からの一方的な思いで、ほとんどの子どもはその思いに引きずられて連れてこられている。その強い思いのまま、辛い話ばかりを聞かされると子どもは被災地に負のイメージを持ってしまう。ヘタすれば、思い出したくもない思い出となりかねない。元気村は長年のノウハウから、被災地ツアー(ツアーという言葉は響きが悪いが)にも子ども目線。子どもが楽しいと思えることもしっかり取り込んでいた。
◆昼の終了式。参加者ひとりひとりが感想を述べる。自分が見たこと感じたことを言葉として表現できなかったとしても、それは表現できなかっただけで、何も得ていないわけではない。「ぐちゃぐちゃになった車にも思い出がいっぱい詰まっていたんだな、と思って悲しかった」。坪井友子11歳の感想だ。よく言った!と思った。最前列で、自分が蒔いた「がれきの学校」という種が、どんな花を咲かせたのか、聞き入る風間さん。参加者の答に手ごたえを感じるときには、目に力がこもる。現地との人間関係があって初めて、この企画は成立する。現在に至るまでの「元気村」の苦労を考えると、それは当然だろう。締めの言葉の中で風間さんは「あの上の山緑地には、歴史を刻んだ碑があった。でもそこには過去何度もあった津波が記録されていなかった」と語った。かつて地平線会議で「災害教育」という言葉を使ったRQの広瀬敏通さんを思い出した。結局、参加者は現地にお金は落としたけど、あまり役にはたたなかったのかもしれない。しかし長い目でみれば、参加者、特にこどもたちがあの場で感じたことを忘れないかぎり、被災地にとっても役に立つ日がくるはずだ。(坪井伸吾)
出土せる かわらけの破片 にぎりしとき
祖たちの姿 ありありと見ゆ
飛鳥世の ほのかに甘き 酥を食めば
方墳の風 ふく気配する
於房総風土記の丘
大塔の 礎石の穴の 水静か
日照りも雨にも 水かさ変らず
於廃寺となりし龍源寺
かみ逆立て まなこ吊上げ 円空の
雲文激し 蔵王権現
歯をのぞかせ こぼれるような 「笑い薬師」
円空さんの 声も聞こえく
ゆったりと 立ちし姿の 釈迦如来
腹に渦巻く 雲文二つ
冬晴に 浮かれ芝川 わたりけり
見沼たんぼの 用水縁ゆく
空見上げ 業平橋を 渡りけり
スカイツリーの 顔は空のなか
くっきりと ビル従いて スカイツリー
吾妻橋から 名所でござる
女偏に 家なら嫁ね 子なら好き
生まれるはなに姓名の姓よ
■10月の三連休、約半年ぶりに一緒に作業をしたアウトドア義援隊仲間が言った言葉。「まだ何も終わっていないし、何も始まっていない。そのことが、今回来てみてよく分かった」。そのときの私にはなんだかとても印象的な言葉でした。最低でも月に1回は東松島に来て作業をしていたのでそういう見方をしたことはなくて、でも言われてみればその通りだと思いました。
◆そのときも今も、被災地で聞かれる話題の“非日常性”に出くわすたび、「まだ何も終わっていないし始まっていない」ことをあらためて思います。それでも10月からのほんの2か月の間で、ステージは着実に変わってきています。
◆冬を目前に、寒さや路面状況を理由にこれまでのようには東松島に通えなくなる仲間たちが出てきそうだったので、11月5日に活動の区切りの交流会を地元の人と持ちました。当初、義援隊と地元の人とで集まっても50人くらいだろうと思っていた交流会は、蓋を開けてみれば約150人もの人たちが集まり、嬉しい悲鳴をあげました。
◆正直、そろそろ自分の生活に戻りたいと思っていたメンバーもいたと思います。一方で、去ってほしくないと願っていた地元民たち。11月5日の、思わず大イベントになってしまった交流会で、ボランティアに来ていたみんなの気持ちが少し変わったような気がします。地元の人たちの思いの熱さがすごかった。
◆大阪から直前に出かけていって準備するイベントを、自分たちだけでやれるとはそもそも思っていなかったので、物を借りたり場所を借りたりと、地元の人に大いに助けてもらうつもりで段取りしていました。それにしても、その助けてくれようが、それこそ想定外でした。言い出したのは私たちボランティア側だったかもしれないけれど、結果的には私たちと地元の人との共催イベントになったことが何より嬉しかったです。
◆たくさんの嬉しいことがあった中のひとつが、イベントをするその日の朝、「今からとりに行ってくっがらよ」と、消防団の分団長が牡蠣を採りに行ってくれたことです。籠いっぱいの牡蠣を、5籠分も差し入れてくれました。義援隊の仲間がおぼつかない手つきで焼いていると、地元の中学生が見かねて交代し焼いてくれたその手さばきの鮮やかなこと。
◆炊き出しやイベントで牡蠣が出ると言っても、1人1個食べればしまいということばかりだそうで、食べきれないほどの牡蠣が出てきたことはこれまでなかったそうです。この牡蠣の山には地元民たちも大喜び。この牡蠣の量を見れば、地元の人たちの私たちへの思いの深さがわかると聞いた時には、本当に本当に感動を覚えたのでした。
◆この交流会を催すにあたり、義援隊の経費から使ったお金は3万円弱です。会費もとりませんでした。借りられるものはなるべく義援隊仲間や地元の人からかき集めました。食べ物や飲み物は、ほとんどが双方からの差し入れで賄えました。持ち寄る物の分担や、前日からの会場設営など、本番に向けてみんなの気持ちがどんどんひとつになりました。
◆しばらく活動に参加できていなかった仲間も、予定を調整して駆けつけてくれたし、地元の人たちも予想した3倍くらいの人が来てくれて、ずいぶん長い時間、会場となった東名駅前の広場で私たちと一緒に楽しんでくれました。義援隊の仲間たちはたぶん、この交流会を通して、地元の人から本当にたくさんの喜びと力をもらったのだと思います。自分たちがやってきたことに、すごく自信を持たせてもらった日だったと思います。
◆地元の人たちが、何を感じてきたかや、私たちへどんな風に感謝の気持ちを抱いていてくれたのか、地元の人から直接はっきり伝えてもらったことが初めてだった仲間も多かったと思います。自分に何ができるかわからず、不安なまま、気持ちだけで東名・野蒜に来た人がほとんどだったと思うけど、こんなにも必要としてもらえることも、こんなにもちっぽけな力が役立つ場面も、こんな風に人と人が結びついていく経験も、一生を生きていく中でそうあることではないと思います。
◆そういう経験を、まだほんの8か月ほどの付き合いにしかならないけれど、たまたま集まった義援隊の仲間たちと、たまたま出会った東名・野蒜地区の人たちとで共有してきました。手探りで積み重ねてきた行動が、きちんと大切なものを築いてきていた。そのことをしっかり分からせてもらえた日だったと思います。
◆活動の区切りともできるように開催した交流会ではあったけれど、別の意味での区切りになりました。地元の人とのつながりが、より一層深くなりました。交流会の翌週もこれまで通り活動したし、12月の第1週も活動しました。私たちは、東松島へ来ると、「帰ってきた」という気持ちになるのですが、ここへ帰ってくるたびに、最近は夜は宴会です。もちろん、地元の人にも声をかけます。そうして、地元の人同士のつながりが増えていくのを見るのも、私たちの楽しみのひとつです。
◆寒くなったし、参加人数は減るかなと思ったら、活動回数が減った分、1回に集まる人数は増えています。義援隊のみんなに会いたい。東名・野蒜の人たちに会いたい。単純だけど、今の私たちのモチベーションって、この気持ちなのかなと思います。ある時から、「ボランティア」という言葉を使いたくなくなったのは、手伝う対象が、他人から知り合いに変わったからだと、ある人が分析してくれました。そうだと思います。もう今は、他人じゃない。友達なのか、親戚なのか、とにかくそれに似た親近感を、ここで活動しているひとりひとりが抱いているのだと思います。
◆被災地では完全に自立していろ、地元の人に迷惑をかけるなと言われるけれど、私自身は、このあたりはグレーでいいと思っています。むしろ、互いに頼り頼られ、迷惑もかけるしわがままも言いあえる、そういう関係の方が、付き合いやすいし長く続くのではないか。それに正直、地元の人にとっても私たちにとっても、日常なのだけれども“非日常”な状況下で活動していて、実際のところいろんな困難に出くわします。迷惑をかけないなんて決めてしまうと、できることもできなくなってしまうと思います。
◆被災地では笑うなとか、被災者としゃべるなとか、トイレを借りるなとか、そういうきまりを作って活動している団体もあるけれど、私たちは決まり事を作らずにやってきました。みんなが素人だったから、普通に「人と人」という関係の作り方しか知らなかったのがよかったのだと思います。被災者がボランティアグループに対して、「あいつら上から目線で腹が立つ!」と怒っている場面に遭ったこともあります。人は対等がいいです。私は自分にできることはがんばるけれど、できないことは放棄するし、被災者に助けられていることもたくさんあります。
◆迷惑をかけるとわかっていて甘えたこともあります。そのとき甘えさせてもらった野蒜のお父さんは、怒るんじゃなくて、心から助けてくれました。本当にありがたくて、「ごめんなさい」と「ありがとう」をたくさん言いました。すごく優しい笑顔で、「なーんも。いいんだ。気にするな」と言ってくれました。
◆思い返すと、この2か月間だけで実にいろいろありました。災害派遣等従事車両の高速料金無料化期間延長を求める運動もしました。福島県だけ期間が3月10日までですが、岩手県と宮城県は12月10日に無料化が終了してしまう予定だったのです。大阪から東松島に行くと、高速料金だけで往復約3万8千円。これが有料になるとキツイです。「ダメでもいいから行動だけは起こそう」と呼びかけ、宮城県の災害対策本部や、NEXCO東日本や、国土交通省、自分たちの暮らす自治体の災害対策本部などに、電話したりメールしたり訪問したりして、無料化継続を訴えました。この件は、恐らく私たち以外にもいろいろなところで同じ運動をしていた人がいたのだと思います。11月30日に、無事、とりあえずは3月10日までの期間延長が認められました。
◆そのほか、東名・野蒜地区では、仙石線の復旧に関して話し合いが続いています。従来の場所から内陸側に500m移転する案で、10月1日に東松島市とJRが合意しましたが、移転して敷設するには3年以上かかるため、近隣住民は、現況の路線を仮復旧してとにかく早期に通学や通勤の足を確保できるようにすることを要望しています。また、集団移転に関する住民説明会が11月の頭にありました。ここは住んでもいいけどここはダメとかいろいろあって、こちらも喧々諤々としていました。
◆すごく簡単に言い切ってしまうと、最終的には住んでしまった者勝ち的なことになって、すでにリフォームし、住んでいる人に出て行けとは言わないし、「住みます!」と宣言すれば住めるような方針になったようです。東名運河より南の水没した地域、住もうにも住めない地域は集団移転することになるでしょうが、5年越しの計画です。
◆行くたびに、地元で話されている話題は変わっていきます。どんな話題も、大阪ではありえない話題ばかりです。冒頭で、「何も終わっていないし何も始まっていない」と書きました。そう見える面もあるけれど、同時に、物事は少しずつだけれど進行していることも、ちゃんと感じています。地元住民が力を入れる矛先も、そのときそのときで変わっています。自分に何ができるかもそのときそのとき。いつも手探りだけど、手探りしながら近くにいたいなと思います。東名・野蒜地区の人たちの笑顔が大好きです。正月は、東松島で迎えようと思っています。(岩野祥子)
■週末ボランティアで久しぶりに遠野に来ています。今日の現場は釜石市箱崎地区のガレキ撤去。まだガレキ撤去の仕事はやっているのか、とよく聞かれ ます。が、この箱崎地区は復興が進まず、未だに壊れかけた家が残っているような状態で、9ヶ月も経ったことが信じられない光景です。
◆家の跡地に残ったガレキや泥、ゴミを片付けるのが我々の仕事。住民の方からは「ボランティアの人がきてキレイに片付けてもらえるだけでも元気付けられる」という声を頂いています。ボランティア活動のメインは仮設入居者のケアなどソフト面の内容に移っていますが、ガレキ撤去などハード面の仕事もまだまだあります。そして、それを進めることで、地域の方の心のケアにも繋がるのだと改めて感じさせられました。
◆今回は、お世話になっている遠野まごころネットの本部と宿泊所が移転したと聞き、様子見を兼ねての参加でした。移転先はプレハブ小屋。まだ小屋があるだけで、トイレもシャワーも隣接する施設のものを借りているという状況です。生活環境の整っていたこれまでの施設に比べると天と地ほどの差がありますが、今はみんな原点に立ち帰った気持ちで、初期の頃のように日々改善を重ねている様子が伺えました。
◆まごころネットは冬期も個人ボランティアを募集しています。むしろ本格的な冬を迎えるこれからが正念場という意気込みです。私も東京で、ときには現地で、微力ながらできる限りの支援を続けていくつもりです。追記:遠野でチャリンコ族の熊沢正子さんと再会しました。熊沢さんもまごころネットのリピーターの一人です。(杉山貴章 12月9日)
■毎月、数日間だが三陸の漁村を歩いている。最近の話題を少し紹介したい。
◆「今日、アワビの口開きましたー!」。11月17日の夜、釜石の青年漁師ヤッチョさんから連絡があった。口開けとは解禁のこと。さっきまで、初漁の祝い酒を仲間たちと飲んでいたという。「大漁でした。いろいろ心配もあったけれどよかった。やっぱり漁師は海で仕事すると気持ちいいですね」。電話の声は大漁の喜びと安堵感で、ほろほろと柔らかい。3時間の漁で1600キロもの水揚げがあったという。
◆釜石のアワビは、中国に輸出する干鮑(かんぽう)原料として高値がつく。今年は何と例年の倍近いキロ14000〜15000円だそうだ。釜石に限らずアワビは大事な収入源。津波で磯船をほぼ100%失った漁師にとって「アワビ漁までに船を間に合わせる」ことが、ひとつの目標だった。しかし、造船も船外機の製造も追いつかず、ヤッチョさんの漁協では、やっと3分の1の34艘をかき集め2〜3人が相乗りする異例の出漁になった。
◆水揚げの分配は漁協ごとに話し合いで決める。過去の実績に応じて配分するところもあれば、協同の精神で均等割りにする地区も。「津波でアワビが減ったか?」という資源問題については、ヤッチョさんの漁協では意見がまっぷたつ。結局今年の漁は例年の半分、4日間とすることで決着したそうだ。
◆一方、宮城県内では資源調査の結果、今年のアワビ漁を見送るところが多かった。しかし、11月上旬に訪ねた牡鹿半島の表浜では、11月5日に開口し、大漁にわいたそうだ(ただし釜石よりサイズが小さいのでキロ7800円)。「浜に活気があふれてうれしかったですよー」と、漁協の女性職員が笑顔で話してくれた。漁協の建物は1階が津波でぶち抜かれたが2階の1室でたくましく営業中。ここは素潜りの海士・海女漁だ。潜ってみて「海の中はだいじょうぶ」と確信もしたという。
◆宮城県と岩手県では、補償の制度も復旧の考え方も、だいぶ違いが出てきた。つい先週宮城県は、県下142漁港のうち60港を拠点漁港として選び、加工や冷凍施設を整備すると発表した。残りの82漁港は船の係留や水揚げのための修復にとどめるという。漁師は個人の関係も競争なら、浜の関係も「オラが村がいちばん」と張り合い競い合う。祭りでも同じ曲なのにお囃子の調子や節回し、踊りが浜ごとに微妙に違うなどという話もよく聞く。もちろん「自分の地区がいちばん」なのだ。誇りもろともばっさり切られた82の浜の痛みはいかほどか…。
◆津波被害の補償も、岩手と宮城では制度が異なる。国の補償は一律3分の2。漁協を通し、個人所有ではなく組合員の共業で漁業復興を目指すことが条件。岩手県ではさらに9分の2を県が上乗せし、残りの9分の1は市町村や漁協が負担することに。さらに漁港も、現在あるすべての漁港を整備復旧させる計画だという。国の3分の2補償だけの宮城県とは開きがある。
◆第2次補正予算までで、漁業復興の道筋はほぼできたが、加工業の復興は立ち遅れの感がある。かつて日本一長い屋根つき市場施設が自慢だった石巻の魚市場は、11月1日から組み立て式だがしっかりした大型テントの仮設市場に移転。牡鹿半島周辺の定置網や沿岸・近海漁業の水揚げで、毎朝にぎわいを見せている。しかし、せっかく魚をとっても、それを買い取る加工業、冷凍・冷蔵業の復旧が進んでいないことに頭を悩ませる。津波前の200社うち営業再開したのは、冷凍会社1社のみ。わたしが訪ねた日は定置網にワカシ(ブリの若魚)が25トン入ったが、その会社が買ったので市場の担当者はほっと安堵。「買ってくれるかどうか、毎日冷や冷やしています」と苦笑いする。売れないと輸送コストをかけて青森などの市場に陸送しなければならないのだ。第3次補正で加工業への国の補助が盛り込まれたこともあり、石巻魚市場の社長は「これから市場の後背の水産業は急速に復興するのでは」と語ってくれた。
◆漁師自らが新しい水産業に向かう動きも出始めた。旧雄勝町では、有志の漁師が集まって「OHガッツ」という会社を立ち上げた。自分たちが養殖した水産物の流通販売を手がけるほか、「育ての住人」を全国から募集。これは単なる一口オーナー制ではなく、漁業体験などを通じて漁業の理解と交流を深めようという呼びかけだ。旧志津川町でも40代の若い漁師たちが会社を作り、直接販売の仕組みづくりに乗り出した。漁協や流通業者任せの販売ではなく、消費者との間に顔の見える関係を築きながら、生産者に有利な売り方をしていこうというのだ。
◆「被災をチャンスに」と、大ナタを振るう覚悟の漁協もある。大船渡市の越喜来漁協では組合長が「欲張って過密になっていた養殖施設を、潮の流れに沿い適正な数に減らして、品質で勝負する」とリーダーシップを発揮。長年の間に海底に積もった養殖落下物の“大ざらえ”もした。気仙沼市の唐桑漁協支所では3年連続の赤字体質を変えようと、心を鬼にして水揚げのよくないイカダを淘汰、数を減らし品質をあげる努力を始めた。今年は、養殖資材の不足から、どこの地域でもせいぜい例年の半分ぐらいまでしか稚ガキを入れられなかった。ところが数が少ないからカキは海の栄養をたっぷり吸うことができる。秋に収穫のはずが「殻は小ぶりだけど身はぷっくり大きいんだ。春先には出荷できそう」と、うれしそうな漁師の声をあちこちの浜で聞く。
◆「海はいのち」。浜を歩いていて漁師たちから何度も聞いたことば。三陸の海の豊かさを、今回の津波で漁師たち自身が改めて実感しているのではないかな、と思っている。(大浦佳代:海と漁の体験研究所代表)
■11月25日の報告会の日、私は仕事の研修会で高田馬場に来ていました。一歳5か月の娘の夏実(なつみ)は夫に預け、今までで一番長い時間、娘と離れていました。最初は江本さんにお会いできたらすぐに帰るつもりで会場の新宿スポーツセンターに待機していました。しかし、会の準備の間に報告者の新垣亜美さんとお会いして、初めて自分と同世代だとわかり、どうしてもお話を聞いてみたくなりました。夫に連絡して娘の様子を聞き、託児を延長してもらいました(夫はせっかくの機会だからと快諾してくれた!)。
◆新垣さんのお話は前半一時間位聞くことが出来ました。同世代である新垣さんのお話は、親しい友人の話を聞いているように心にストンと落ちていく納得感と共に、同世代なのにこんなに行動できるなんてすごいなという、羨望のまなざしとが入り混じりました。小学校教諭として働く道があったにもかかわらず、それを辞してまで登米に飛んで行ったくだりなどは圧巻の潔さだなと感じました。
◆私自身は3.11の震災の直後の12日、原発の危険からとにかく逃げなければと、当時まだ0歳だった娘を連れて関西に避難しました。関西にいても放射能が恐ろしくて仕方なく、その後関西よりさらに西の九州に渡り、合計2か月の間東京を離れていました。5月の中旬、おそるおそる東京に戻って来ました。新垣さんはいち早く3月の内に被災地に飛んだとのこと、私とは真逆の行動をした女性がいたことを改めて知りました。子供がいるかいないかの違いはあるけれども、はたして自分に子供がいなかったら、新垣さんのように行動できただろうか。3月に被災地に行くような勇気と行動力は自分にはなかったのじゃないか…色々なことを考えさせられました。
◆子供を持ってから、その喜びと共に常に行動が制限されるもどかしさを感じ続けていることは否定できません。かといって、それは本当に子供がいるからできないのか、無意識の内に自分でハードルを作ってしまっているのではないかと思いました。子供がいることで見えてくることがあると同時に、子供がいることで見えづらくなってしまうこともあるのかもしれないと自身を振り返りました。子供がいるとつい、目の前の子供のことばかり考えてしまいます。しかし、もっと広い視野で少し遠くを見渡して思いを馳せることが必要なんじゃないか、と感じました。
◆今回は二年ぶり位に自分一人で報告会に参加しました。「なっちゃんのママ」から一歩距離をおき、三羽宏子に立ち戻って色々気がつくことができました。ありがとうございました。(三羽宏子)
先月号の通信でお知らせした以後、通信費(1年2000円)を払ってくださった方は、以下の皆さんです。中には数年分まとめて支払ってくれた方もいます。万一、ここに記載されなかった方、当方の手違いですのでどうかお知らせください。
橋本記代(20000円)/神尾重則(10000円)「いつも楽しく拝読させていただき、ありがとうございます」/山上庄子/長谷川達希/林隆史(5000円)「未入金のまま2年ほどお送りいただいていました。ありがとうございます。子育てなどでなかなか読む時間がとれませんので、地平線通信の送付を停止していただきたいと思います」/川口章子(4000円)「今後ともよろしくお願いいたします」
■山辺です。お遍路さん終わりました。歩き始めて37日目の11月22日。88番札所にお参りして、四国八十八ヶ所巡礼が結願しました。その後、フェリーで和歌山に渡り、高野山まで歩いてお礼参りに行きました。
◆高野山でも八十八のお寺でも、納める経の深い意味を知らない僕は、ご利益のほどがわかりませんでした。しかし一日中1人で歩いていると、なんやかんや考えるもので、これこそ遍路の効能でありご利益なんだと思いました。歩きながら感じたのは、「知らぬが仏」「これでいいのだ」が、楽しく生きる秘訣ではないか?ということです。遍路中はテレビも新聞もなく、震災や政治、その他の悪いニュースを聞かなくてすみました。四国では誰も震災のことを言わず、何事もなかったように平和で驚きましたが、そのおかげで、心がとても穏やかでした。
◆東京でサラリーマンしてた時は、あれこれ気を使い毎日神経すり減らしていたけど、今の自分に必要な情報はお寺と寝床とスーパーの場所だけ。それ以外は知らぬが仏。それでも僕は目標に向かって充実して生きている。これでいいのだ。といった感じで、世の中も他人も気にせず、興味あることに向かって行けば、自然と必要な情報が集まり、気の合う仲間が出来ていくんだと実感しました。
◆僕のような、信仰心の薄いお遍路さんを受け入れ、助けてくれた四国の人達と、僕の全力をはね返し続け、鍛えてくれた四国の自然にものすごく感謝しています。そして、大昔にわらじを履いて笠をかぶりムシロを背負って四国を歩いた弘法大師さんはスーパーマンだと思いました。四国八十八ヶ所巡礼というわかりやすい修験道まで作ってホンマ偉い人だと思います。クリスマスの飾り付けをしている近所の寺を叱ってやりたいです。
◆僕のように、野宿をしながら歩いてまわるのは、時間もお金もかかり体力がないと出来ない事だと、よく言われたのでこの機会に結願出来て良かったです。春は震災ボランティア、秋はお遍路さん。それ以外は甲冑作りと、今年は自分のやりたいことに全力を注ぎ充実してました。神戸の地震で家は壊れたけど、生きてりゃなんでも出来ると感じた一年でした。(山辺剣)
■こんばんは。いつもありがとうございます。そして、いつも奇妙なメールや手紙を送りつけて、申しわけありません。うれしいことがありましたのでまったく私的なことなんですがお知らせします。
◆緒方、東北から救済されてしまいましたっ! 救援物資がドンと送られてきましたよ。江本さんの良く知ってる人からです。鷹匠の松原さん。松原さんから、「いろいろ詰め合わせ応援ギフト」が届きました。
◆内容列挙。リンゴ6、柿5、米3キロ、レトルト食品2、岡本太郎(東北関連)著作1、鳥海山の生き物写真集1。そして、松原さん自筆のお便り。です。松原さんからのお便りは、いつも宝物です。とっても嬉しかったです。ぼくは、なんか、今年は(毎年、か)ずいぶんと落ちこんで、いろいろ考えていたんだけど。なんかこう、すごい、嬉しいです。
◆わかりますか。あの「松原さん」から、ですよっ。鷹匠の。海でも山でもナイフ一本で生きていける、水陸両用、じゃなかった、根元的人間様の松原さん。創造の基本は、松原さんにありき。松原さんに「こんにちは」って言われたら、そりゃ、森が挨拶してくれてるようなこと。松原さんに励まされたらば、それは、海に抱かれたような気持ちです。
◆いや〜、でも、ヘビや猫が出てこなくて良かったですよー。一般的人間用の食糧でした。っていうのは冗談ですが。まぁ、松原さんだったら、ちゃんと食べれるように調理して送ってくれるだろうから。じゃないか。いやいや、ヘビや猫だったら、ぼくに送る前に自分で食べちゃうでしょうね〜♪ 松原さん、猫はアナグマと同じくらい美味しいとか。って言われても、想像できん。
◆本が入ってるっていうのが、松原さん、らしいって思った。すてきだな。ぼくは、岡本太郎好きなので、太郎関係のものは、なんでも嬉しいし。「鳥海山の生き物写真集」ってのが、松原さんらしい。ほんと、生き物のことを愛してるんだなぁ、松原さん。野山を駆けるインテリゲンチャ。ぼくは、ほとんど山海を歩かず本物に近づくことが無いので、生き物写真、すごい嬉しいです。だけど、この写真集、著者のサイン本、いいのか、ぼくのところへ来ちゃって。ありがとう松原さん。
◆米を買うか、ガス代を払うか、とか、優先順位を悩まなくて済みまーす。って、こういうお礼の言い方も無いでしょう。すいません。でも、前から売れない作品は、ますますなかなか売れなくなってるし、ほんとうに食糧は嬉しいんです。それに、ヤッパシ電気もガスも欲しいし。いやいや「電気欲しい」なんてのはぜんぜん甘いですよね、松原さん。
◆「浜比嘉あしびなー」でドキドキしながら一緒に写真を撮ってもらった松原さん。地元の釣り人が釣りあげたタコをシャッと瞬時に取り上げて足を食べちゃった松原さん。シビレルな〜、カッコイイな〜。ぼくもすぐに真似をして、食べた、だから、その釣り人のタコの足は2本無くなった。「美味しかった」。唖然とする、釣り人。今、思うと、ごめんなさいです。松原さんの行動は動物の本能の成せることだけど、ぼくのは倫理観のタガが外れただけだ。落ちこむ。だが、松原さんと居たから、ぼくも、あのときは「ちょっとだけ、松原さんシンクロ」だったのかもしれない。
◆ぼくは、松原さんと話ししてると、人間の動物の松原さんが「きみも おなじ人間だ」と、少し認めてくださったような…そういう気持ちに成ることがあります。ぼくも「人間」に成りたいな〜。
◆松原さんからの手紙の結び「…こちらは毎日雪の日が続き 2月には3メートル以上の豪雪になりますが、機会があったらぜひこちらにも遊びにきてください」って、これは、「来れるものなら来てみろ。まぁ、きみには無理だろー。わはは」と言われているのだろうか。挑戦状か。試練か。じゃなくって、ここは、ありがとうございます。お気持ち、ほんとうに嬉しいです。
◆縄文の哲学者。生けるご先祖様からの贈り物。って、なんとも、表現力無くてすいません、失礼で、ごめんなさい。尊敬しているんです。ほんとです。(緒方敏明 彫刻家)
先日は7年ぶり(?)に顔を出した私を、以前と変わらぬ笑顔で迎えて下さってありがとうございました。また、通信発送作業に参加されていた皆様には、調理室をワンコのように動き回る息子(現在10か月になりました)に優しく接して下さってありがとうございました。お陰様でどこか懐かしく温かい気持ちで一杯の時間を過ごせました!
◆私が7年ぶりに顔を出すきっかけをもらったもの、それは江本さんからの一本の電話でした。「橋本さん? 久しぶり。通信が僕んとこに戻ってきちゃったんだけど何かあった?」「あ、すみません。先月引っ越して……転居届
※は出してあるんですけど……」(
※メール便は転居サービスの対象外で、転送されませんので皆さん気を付けて下さいね♪)
◆「ダメだよー。引っ越したら知らせてくれないと。つながりを切るのは簡単だけど、それでいいの? 一応、一回だけ電話しようと思って掛けてみたんだけど」平謝りして電話を切った後、嬉しかったですねえ。こんなにもご無沙汰している私のことを憶えていて、わざわざ電話をして下さったこと。
◆そんな訳で、つながり、つながり、と心で呟きながら息子をベビーカーに乗せて会場に向かったのでした。誰かが自分のことを気にしてくれていると思うとパワーが出てくるものですね。大きく深呼吸。視界を広げて、育児を楽しもうと思いました。(結婚17年目にして子供を授かり、毎日が体力勝負の橋本記代 より)(「通信費20000円」とともに)
■5月末以来、ボランティアで「RQ市民災害救援センター」現地本部の登米に行き、キッチンを担当しました。最初に行ったのは、RQの支援拠点の一つであった唐桑半島の歌津で、本当はそこがすごくぼくの気に入りました。当時の歌津センターはライフラインがすべて失われていて、何もないところから新しく始めようという気持ちに溢れていたからです。電気もガスも水道もないけども、ソーラーパネルやソーラークッカー、水は毎回汲みに行って得られる物資の他に菜園をつくったりコンポストを活用したり、干物や糠床にも手を出したり。
◆まあ結局は慢性的な人出不足で何もかも持続せずにしくじったわけですが、その姿勢がじつにぼくの好みだったので、次回も歌津にと考えていたのだけれども、結果的にはじめは経由地くらいにしか考えていなかった登米の現地本部で毎月毎回台所を担当するはめになったという顛末です。
◆もともとぼくは次の災害があったときの勉強をするつもりで現地に入っていたので、調理はだれか決まった人間がするよりもみんな一度はキッチンに立って100人程度のごはんを作る経験をしておいたほうが絶対にいいと考えていたのですが、驚いたことにこちらの想像以上にだれもキッチンに興味を示さないのです。出来上がる食べ物には飛びつくけれどもその製造過程には目をつむっている連中があまりにも多かった。
◆そんな日々を重ねている間にも無計画に送られてくる野菜は山積みになり、ましてやこれから暖かくなろうという季節でもあったので、放っておけば否応なしに野菜たちは傷んでしまうのだからぼくではなくとも心ある人びとは腐っていく山積みの野菜をみてしまったら「これはやるしかない」と思わざるをえない、そういうある意味でのチキンレース的な状況でキッチン担当をやる、という下地ができていったのです。
◆キッチンの一日を説明すると、朝5時に起きてごはんを炊きはじめ、前日に仕込んでおいた汁物とおかずを作りつつ早朝出発の早いチーム用におにぎりの具を、保温しておいたおひつといっしょに食堂に出しておく。食後の片付けのための支度もやりながら6時半には全員分の朝食を仕上げておく。朝食の残りぐあいを見て昼の献立を決めつつ夕飯の仕込みを考えながら午前の部の休憩。昼前に朝の残りに手を加えたものを昼食として提供し、片付けのあとは夜のためのおおざっぱな仕込みをしておいてからまたしばし休憩。
◆夕方からは夕飯の調理、食後の片付け、そして翌朝の仕込み。最後に包丁、まな板、ふきんの消毒を終えるのが速くて9時、遅ければ消灯ぎりぎり・・で一日おわり。まあなかなか大変な部署なのです。
◆とにかくにんじんしかないときは切って擂って炒めて生で漬けてでもう指がにんじん色に染まる。キューリが山だったときは指先が緑で、これはもう「河童になるんじゃないか」というくらいに青くなったものです。とくに夏場は漬物ばかりやったからかなり握力がついたなと自分でもわかるほどでした。日に多い時で150人分、毎回10日弱いたので、通算すると60日ほどのキッチン仕事でした。
◆ぼくは自分の家でもなるべく余計なものを買わずにあるものでごはんにするとか買ったら買ったでとことん無駄にせず使い切るというのを日頃からしていたのでむこうでやってることも分量を増やしただけでほぼいつもと変わらない内容だったなーと今にして思います。一週間ほど避難所のおわりのころに炊き出しに通ったのを除けば被災地に身を置きながらほとんど外に出ることなく、なおかつ地域の人びとともほとんど交流のないボランティア体験でしたが、ぼくにとっては調理経験の幅を広げることのできたよい機会であったとそれなりに満足している次第です。(たいしょー 丸山寛)
■RQ登米の素晴らしいところは、「飯付き」だったことだろう。ボランティアなんだから、自分の飯は自分で、という支援グループも少なくない中で、支援活動に徹するという意味では画期的だっと思う。3月から11月までの間、キッチンはいろいろな人が手がけたと思うが、私の場合、いつ行ってもたいしょーがいた。ボランティアは馳せ参じた以上、外に、被災地に出たい、被災者のそばに寄り添いたい、と思う。そんな中で彼はいつもボランティアの胃袋係に徹した。ある日、女性ボランティアが「こんだけ頑張ってくれているたいしょーさんをキッチンから解放して現場に出てもらいましょう」と呼びかけ、かわりに彼女を含め何人かがキッチンに入ったほどだ。12月9日には、東京・代々木のオリセンでRQ締めくくりのシンポジウムが開かれたが、その際も300人分のボラ飯(メニューは「白菜とおいなりの混ぜごはん」)を用意した。恐るべし、たいしょー!(E)
■たいしょーさんの風貌は、ビリケンさんに似ています。「野宿野郎」の、マスコットキャラ(カバーボーイ)であり、炊事番長でもあります。「たいしょーさんがいるなら(おいしいつまみがあるから)野宿する」というひともいるくらいで、人気者です。実は読書家で、音楽にも詳しいです。たいしょーさんの特技は、料理のほかにも「居候」があるようです。10代20代のころは、海外旅行を長くしていて、お金がなくなると帰ってきて、知り合った人のうちに居候する。そこでも料理を作ったりしていたので、料理歴は長い。居酒屋での仕事もやっていたそうなのですが、ビールの注文があるたびにじぶんもこっそり呑んじゃうから首になったとか。仕事は転々としています。お金はひと月に10万円以上稼がないようにしているそうです。それでやっていけるから。労働じゃなく「生活」をしたいみたいです。谷中の漢塾(シェアハウス)にすんで塾長(管理人)をしていたときは、商店街のいろんなひとからよくおすそ分けをもらっていました。いまは取手の古い一軒家に数人で暮らしていて、家庭菜園をしたりしているみたいです。たいしょーさんと一緒にいれば、食いっぱぐれないとおもいます。(某野宿野郎)
■11月はじめ、江本さんに山のガイド本を贈ったら「いい本ですね。是非通信でも紹介して」ということで、一等三角点の本『登山案内 一等三角点全国ガイド』を紹介します。その前に、出版の成り行きをすこし。何時かは自分の本を出したいと、長年の山登りの足跡みたいな本でもという思いがあって、早くから机の上に「70歳に本を出版」と、メモ書きがしてありました。
◆ところが、やっぱり小説家やないし、文章は小学校以来苦手やし、個人で本を出す能力がないことがだんだん判ってきたので止めることにしました。それなら、本を出すまとめ役に回ってはと思ったわけです。そこで、こだわりの山仲間「一等三角点研究會」から三角点のこだわりの本を、まとめ役になって出すことにしました。その本が今回『登山案内 一等三角点全国ガイド』として出版したものです。
◆江本さんに「沢山自慢すべし」と薦められたので、少し自慢しつつこだわりを宣伝してみようかとおもいます。今まで山に関するガイド本は多く出ていますが、この「登山案内 一等三角点全国ガイド」は、恐らく今後同じ内容の本を出すところはないだろうと言う強い思いを持っていました。その思いを持って京都で山の本を多く手がけている「ナカニシヤ出版」さんにお願いに行きました。社長さんに私の思いを話すると、山と本への思いが通じ「うちから発行しましょう」と言ってもらったのです。
◆そして、この本の中味なのですが、では何にこだわったのかというと、単純ですが、ただ山に登るためのガイドを記しただけではないということなのです。是非「標石の写真」をご覧頂きたいのです。全国一等三角点975点の内500m以上の標石546点総てと都道府県の最低標高の45点合計591点を写真に撮り載せました。「どうしてそんな写真だけのことで自慢を」と、思われるかもしれませんが、これが自慢したいことなのです。
◆山登りをする人は、標石の写真なんか簡単に撮れると思われるかも知れません。が、少し考えてみてください。北海道等雪国の山は残雪期には登りやすく無雪期には登りにくいということ。まして全体を美しく写真を撮るためには無雪期でなければだめであると言うことも。雪国に限らず全国には、低くても道もない藪山が多くあります。これらの山の標石の写真を撮ることが、実は簡単に出来そうで出来ないのです。勿論、一人で総て撮ったものではありません。
◆日本山岳会が編纂し、ナカニシヤ出版が発刊した全国の主な山岳を紹介した『日本山岳誌』も一人の執筆者ではできてないのですが、我々の本も然り、一人では出来ません。が、我が會だから出来たという自負があるのです。それは全国の會員の中には「標石こだわり日本一」の人がいるからです。591点の標石の写真を撮ったのですから、もちろんその標石に辿る591のルートを案内したのです。あとは、国土地理院のデーターをいただいて、点名・標高・経緯度・所在地等を載せさせてもらいました。
◆とにかく、皆さん一度本を手に取って見てください。三角点の標石が面白い。591の表情を見てほしい。その四角い石を求めて登ると山のロマンが広がりますから。(京都 大槻雅弘)
■Jリーグの最終節が終わった翌日江本さんから、同時にJ2からJ1に昇格したのに柏レイソルは優勝し、ヴァンフォーレ甲府はまたJ2に降格した理由は何かという、スルドイ質問の電話をもらいました。突然だったので監督の差でしょうかね、とその時はありふれた回答してしまったんですが、釈然としない気持ちが残ったので、今年の観戦記録を見直してみました。
◆それで分かったのは、今年大阪で観た対ガンバとセレッソの2試合ともレイソルは0対5と0対2で完敗しているのに対して、ヴァンフォーレは2対0と4対0で圧勝していることです。優勝争いをしているレイソルはたいしたことはない、それに対してヴァンフォーレはハーフナーが絶好調でとても強かったと記憶のどこかに残っていたので、江本さんからの質問に気の利いた回答が出来なかったのだと分かりました。江本さんへ、私の見た甲府は強かった。でも特定の人に頼らざるを得なかったのが降格の原因でしょう、と今は答えておきます。
◆ついでながら、山形の飯野さんが応援していたモンテディオ山形も降格が決まってしまいましたね。山形出身選手は一人しかいないのに、一生懸命でひたむきな山形人の気質を体現した良いチームだと感じていました。J2に降格し、観客も半減するでしょうが、チームが苦難に陥った時にこそ応援するのがサポーターの心意気というものです。是非来年はスタジアム観戦をしていただきたい。楽しいですよ。
◆私にとって今シーズン、最も嬉しかったことはサガン鳥栖のJ1昇格です。1997年元日の天皇杯決勝戦の会場で前身の鳥栖フューチャーズのサポーターがチーム消滅の危機を横断幕で訴えていた姿を思い出します。結局チームは一度つぶれ、地元の支援で再結成されましたが全く勝てず、スポンサーも集まらない中で良く14年間も頑張って来れたと思います。努力を続けても必ずしも結果が出るとは限らないけれど、今回の鳥栖の快挙は多くの人に自分ももう少し頑張ってみようと勇気を与えたと思います。
◆東日本大震災で中断していたJリーグが4月29日に再開した頃、南アフリカのW杯で知り合った友人からベガルタ仙台の応援に大阪へ行くとの連絡をもらいました。彼女は震災で気持ちも落ち込んでいたし、こんな時にサッカー観戦なんてしていて良いのだろうかとかなり悩んでいたようですが、長居でセレッソサポーターの暖かい歓迎を受け、ベガルタの応援を精一杯したらとても気持ちが楽になったと話していました。
◆リーグ戦に参加することすら危ぶまれていたベガルタが4位という好成績を残すことが出来たのは、こうしたサポーター達一人一人の気持ちが選手に伝わり特別な力が後押しした結果だと思いました。最後にファジアーノ岡山とセレッソ大阪の天皇杯3回戦を観戦した時、セレッソサポーターから大爆笑と拍手喝采を浴びた応援歌をご紹介します。童謡の桃太郎を頭に浮かべて歌って下さい。
◆では、「岡山です岡山です/岡山岡山岡山です/もっかい言うけど岡山です/覚えたか岡山です/まだまだ言うけど岡山です/しつこいけれども岡山です」。ウケたのを良いことに何度も歌うのですっかり覚えてしまいました。岡山の北川さんは知っていましたか? 来週から元日までは天皇杯の観戦でもう暫く楽しませてもらいます。「なでしこ」もあるしね。(岸本佳則)
■今年も残すところ2週間、日本が大きな痛みを体験した2011年が終わろうとしています。年初を振り返ってみると私にとっては、発案から11年、実行から6年を要した自転車世界一周の旅の最終年、悔いなく旅を終えることが最大の目標でした。しかし、多くの人にとってそうであったように、あの日を境に、この1年の意味は大きく変わりました。『3.11』、あの日あの時を遥か太平洋の対岸チリの港町で迎えた私には、かつてない程に日本への想いを強め、自分と社会の関わり方を考えた1年となりました。
◆あの日、日本から遅れること13時間、チリの夜が明けると共に飛び込んできた日本発のニュース映像が、同じく地震国であり津波の脅威を知るチリの人々にも大きな衝撃を与えました。チリへの津波到達予測は同日深夜。日中の海岸では、漁師たちが小船や漁具を陸に上げる作業にあたり。深夜の海岸では、警察車両が警戒にあたり。テレビでは終日、最新の映像が流れ続けていました。その晩、私は地球の裏側に届いた小さな津波を眺めながら、何もできない自分をひどくちっぽけな存在に感じていました。何か行動を起こさなければ! その想いを太平洋の対岸に届ける方法は思いつきませんでした。
◆JAPONの文字が目立つ私の自転車には、多くの人が駆け寄ってきました。涙を浮かべている人も少なくありません。「君の家族は大丈夫か?」「私たちも悲しみを共有している」「早く安らかな日常が戻ることを願っている」などの言葉を掛けてくれます。私の一家は福岡在住で、当の私はこうして南米の大地を駆けている。当初は、自分に激励や哀悼の言葉が送られることに困惑していましたが、程なく、私の務めは、本当にそれらを聞かせるべき人々に届けることにあると考えるに至りました。今はこの旅を完遂することに全力を注ぎ、帰国後は、被災地や日本の未来に関われる活動をする!それが、震災直後の初動支援に携われない私がようやく見出した、私なりの被災地支援でした。
◆東日本大震災からちょうど3か月後、南米最南端に位置する街ウシュアイアに到達。ユーラシア〜アフリカ〜北米〜南米、4つの大陸に刻んできた轍は7万5千kmを超えたところで途切れました。世界一周、海外ステージのゴールです。冬の盛りを迎えたパタゴニア南部、氷点下の雪上に佇み、長かった旅路を振り返ると温かいものが両頬を伝いました。心を満たすのは達成感と使命感。ひとつの大きな目標を達成し、ここから始まる人生への期待に胸が躍りました。さぁ、日本に帰るぞ!
◆6月末に帰国、7月から旅の最終ステージ『日本縦断』を開始。夏の北海道を駆け、岩手県に至ったのは8月下旬、盛岡を拠点に活動するボランティアグループを訪ねました。先方から、被災地の中学・高校で講演を行って欲しいとの連絡があったのです。教育者を志し、講演活動も行う私には、渡りに船の依頼でした。ふたつ返事で了解し、話を伺いに行くと、企画は全くの白紙状態でした。グループ内にそのような企画運営の経験者がいなかったのですから、無理もありません。発起人曰く『学校用の支援物資調達の活動も行っているが、現場の声を聴くと、生徒たちが“将来”を意識できなくなっていると感じる』とのこと。私に求める役割は、『生徒たちが再び将来と向き合うキッカケになって欲しい』とのこと。
◆講演企画作成は、経験者の私が自ら行うこととなりました。現地を知らぬ私がまず行なったのは被災地訪問。岩手県北の宮古市や山田町など。震災から5か月半が経過し、瓦礫の撤去作業もほぼ終わり、基礎だけを残した住宅地を訪れ、地元の人々の声を聴きました。かつて、戦場カメラマンの真似事をしていた私。爆撃や市街戦で崩壊した市街地も歩いてきましたが、人智を超えた天災の爪痕は、かつて目にしたどんな“破壊”よりも強烈な印象を残し、淡々と体験を語る人々の言葉に、心を抉られるようでした。
◆続いて、学校や仮設住宅を訪問。先生方や保護者の意見を伺い、企画案への手応えを感じると同時に、現実問題として、生徒たちには時間的にも精神的にも、まだ講演を聞くような余裕がないとの認識を得るに至りました。当初、11月下旬に設定予定だった講演は、来春以降に改め、講演企画を練り直すこととなりました。
◆盛岡を発って2か月後の10月末、私は地元福岡で旅のゴールテープを切りました。走行8万700km、ちょうど2千日間での世界一周達成です。それから更に2か月が経過、この間繰り返し、自転車で世界一周をしてきた自分が、被災地やこれからの世代に何を伝えるべきか?を考えてきました。最近、被災地の子供たちの学習意欲の低下が伝えられています。或いは、それは日本中で起こっていることかも知れません。将来が見えない世の中では、目的意識を抱くのは困難です。靄に包まれた将来、未来が見えない子供たち。私が彼らに語るべきことは、飾らない私自身だと思うに至りました。
◆自転車で世界を駆けてきた体験談は、切り取り方次第で誰にとっても面白い話題となり得ます。それを取っ掛かりにして、私は私自身のことを語ります。私は教師を志し、旅行を修行の場として、体験を発信しながら、自らが掲げる理想の教師像に近づこうとしてきました。その道程には、いくつもの壁があり、袋小路があり、随分と遠回りはしたけれど、立ち止まることなく悔いのない人生を歩んでいるつもりです。そんなありのままの姿を見せることが、目的意識の芽生えに繋がる、そう信じています。3.11を日本で体験しなかった私にできることは、代わりに体験してきたことを伝えることだと考えています。(伊東心)
■3.11以後、いろいろな運動体が支援活動を続けている。会員組織ではなく、ほぼ自由人ばかりの集まり、といってもいい地平線会議としては個々人ができることを、という気分で、ささやかに応援してきたが、でも実にさまざまに仲間たちが現場に飛んで、あるいは東京でできることを、実行していることは、振り返って素晴らしい、と思う。
◆当面私も参加してきた「RQ市民災害救援センター」の仕事は閉じ、新たに一般社団法人「RQ災害教育ンター」が今月7日付けで誕生した。広瀬敏通さんを代表理事に今後、具体的な活動内容を協議し、行動を開始するだろう。登米はじめ現地の拠点が住民の皆さんとの「仕事」を生み出す場になっていけばいい、と願う。
◆森田靖郎氏の文章、今回も深い。1ページあまりの文章の中に彼が仕事している世界がうかがえる。新たに出た彼の電子書籍、是非読んでみたい。
◆『狩猟文学マスターピース』(みすず書房)という立派な本が出た。勿論、服部文祥の本だ。「狩猟文学」というジャンルがあるのか。「手を血に染める救済」と書いて贈ってくれた。うーむ、ありがとう。(江本嘉伸)
80,700キロの助走
「実(じつ)のある言葉で語れる教師になるのが夢なんです。そのためにも人生経験を積んでから教壇に立ちたい。どうせ世間を見るなら、16才からはじめた“旅”を手段にできないかと思って…」というのは伊東心(こころ)さん(33)。地元福岡の大学を出て上京。旅行会社で働きながら資金を貯め'05年12月、27才で自転車による世界一周に旅発ちました。学生時代にはアフガンなどの戦場に出かけ、ジャーナリスティックな活動もしましたが、自分の目指す夢の為には“日常”をもっと見ることが必要だと考えるに至ります。 自転車のペースは、その目的に適うものでした。長い旅の間も社会性を失わないよう、10社のスポンサーを得て旅のレポートなどを随時発信。旅の空の下にあっても社会の一員としての責任を自覚すべく自らを律しました。旅は足かけ7年に及び、今年10月9日、二千日間8万700キロを走って地元にゴール!「これで心の準備はできたので、これからは教師という目標に向かってスタートします」と伊東さん。 今月は福岡から伊東さんをお迎えし、長い長い助走の旅を語って頂きます。 |
地平線通信 387号
制作:地平線通信制作室/編集長:江本嘉伸/レイアウト:森井祐介/イラスト:長野亮之介/編集制作スタッフ:丸山純 武田力 中島菊代 大西夏奈子 落合大祐 加藤千晶
印刷:地平線印刷局榎町分室
地平線Webサイト:http://www.chiheisen.net/
発行:2011年12月14日 地平線会議
〒160-0007 東京都新宿区荒木町3-23-201 江本嘉伸方
地平線ポスト宛先
pea03131@nifty.ne.jp
Fax 03-3359-7907 (江本)
◆通信費(2000円)払い込みは郵便振替(料金が120円かかります)、または報告会の受付でどうぞ。
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議
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