2011年10月の地平線通信

■10月の地平線通信・384号のフロント(1ページ目にある巻頭記事)

地平線通信表紙

10月12日。東京の朝は17℃。節電ムードと熱暑の夏が早くも懐かしい。昨夜遅く、登米の新垣亜美さんから電話をもらった。原稿待たせてごめんなさい、たった今送りました、の電話だった。ほんとにぎりぎりまで待たせて、と言いながら、日々、よほど忙しいのだろう。そういう中で必死に書いてくれることをありがたい、と思う。

◆転職・派遣大手の編集の仕事をやめ、好きな山の世界に飛び込んだ新垣さん。剣岳の小屋番をふた夏やり、あの時も不便な通信事情の中で、「剣岳発」の原稿を書いてくれた。そして不思議なことに、冬になっても地平線報告会の会場や四谷の我が家に現れる際、いつも特大のザックを背負って来た。

◆聞くと中には50メートルのザイルが2本。ビルのガラス掃除の仕事をやっているのだ。ご存知の通り、ビルの窓ふき仕事は高所恐怖症の人は絶対にできない。度胸は十分、意欲も十分、とみた。

◆そろそろ念願の小学校の理科の先生になろう、と転職を考えていた3月、あの東日本大震災が発生した。日本エコツーリズムセンターの「世話人」となっている縁で代表の広瀬敏通さんを中心に私も加わって「RQ市民災害救援センター」を立ち上げたのが3月なかば。新垣さんを連れて会合に参加し「ある程度長く行ける人いませんか?」と聞かれて、彼女を強く推薦してしまった。

◆学校勤務は延ばせそうだったのと、何よりも本人が被災地のために何かしたい!との想いに溢れていた。3月25日には登米に飛んで行ったが、現地に入ったら何もない。日頃使い慣れたメモ帳、ボールペンなどを頼まれ、都内あちこちで買い歩いて送ったのが懐かしい。

◆あの日から200日。今では、現地本部の要として、支援活動を支えている新垣さん。彼女がいることもあって、地平線会議の多くの仲間が短期、中期の休みをとって登米周辺に駆けつけた。アウトドア義援隊の現地本部となった天童には山形周辺の地平線仲間が集まった。ごく自然にそういう動きとなったことが、私には嬉しい。

◆資金もさすがに尽きてきて、RQの活動は11月いっぱいで幕を閉じる予定だ。しかし、厳しい冬に入る東北に、ほんとうの支援が必要なのはこれからだろう。数人の「越冬隊」がそのために登米の現地本部に入るが、それは希望者ではなく、仕事のために選考された人、ということになる。長期活動を支えてきた新垣さんも勿論候補のひとりだが、大事なのは本人の意志だ。久々に剣岳に「帰って」自分の思いを決めてきたことが送られてきた文章でわかる。

◆亜美さんに限らない。長期滞在はできなくても、現地で、あるいは東京で、支援に動いたボランティアたちの熱い思いは今も消えていない。3.11から「わずか7か月」。被災された方々にとって、仮設住宅に入れてもそこは永遠の我が家ではない。狭く、遠く、ややもすれば孤立しがちなそういう人たちとつながった絆を互いに断ちたくない、断たれたくない、と願うのは自然なことだ。その心の火を絶やさないでほしい、と思う。

◆もうひとつ。新聞の投書に『最近の報道は福島のことばかりで、津波被害のことは忘れ去られている』と、の被災者の投書が載っていた。私たち津波被災者のことを忘れないでください、という趣旨だった。そうとらえられている面もあるのか、と考え込んだ。

◆家々も田畑も森も遠望する限りは、のどかな福島。線量計で計らない限り実害が見えないためになかなか被災実態は伝わりにくい。ボランティアも津波被災地に較べて行く場を見いだせない、その意味では逆に不公平では、との感想を持っていたのだ。おそらく福島の原発の問題は、幼い子を抱える親たちはじめ首都東京を含めた広範囲の人々に深刻な問題提起をしているからだろう、その瞬間、津波被災地のことを忘れていることがあるかもしれない。

◆福島は、ひとりひとりに生き方の哲学を問うている。この通信で高野孝子さんがふれているが、9月末、日本エコツーリズムセンターの世話人の集まりがいわき市であり、夜のミーティングで原発どうする、の話が熱心に交わされた。その時学者のひとりが提案した、「原発を供養しよう」という表現に共感した。もういい。静かに葬ろう、という感覚である。どこかで自分も加担してきた、という思いがあるからこそ、もういい、である。

◆3.11は「災害救援」という言葉では括りきれない何かをつきつけたのだ、と思う。同時に今は「仕事」とは何か、を考えさせる。これだけの苦しみがあり、強い支援のエネルギーが巻き起こったのだ。大事なのは「明日」という言葉ではないか、と私は感じている。知恵を出し合って明日を支援する行為を仕事にできないか、と思うのだが、どう考えますか?(江本嘉伸


先月の報告会から

乱氷とツンドラ

角幡唯介

2011年9月23日 18:30〜21:00 新宿区スポーツセンター

◆「あっ、どうも、角幡といいます」。まだ6時過ぎだというのにほぼ満員の会場で、角幡唯介さんが話し始めた。地平線会議での報告は今回で3回目。1、2回目の報告、ヤル・ツァンポー渓谷の探検行を作品にしたものは、昨年の開高健ノンフィクション賞を受賞し、『空白の五マイル』(集英社)として出版された。この本は他にも、大宅壮一賞、梅棹忠夫山と探検文学賞と計3つの賞を受賞して、とってもすごいことに!

◆まずは新刊、『雪男は向こうからやって来た』(集英社)の話から。「ライターとして生きていく」と決め、再度ヤル・ツァンポーに挑戦するために、新聞記者を辞めた2008年。角幡さんは、ダウラギリでの雪男捜索隊に誘われ、「本にできたらいいな」と参加したという。

◆「雪男を見つけないと書けない」と殆どの人が思っているだろうが、「雪男はそもそもいないだろう」というのが、角幡さんの考え。もちろん現地では真剣に捜索し、見つけたいと思う。一方で、見てしまうのが怖い、とも。雪男を捜索中に亡くなった鈴木紀夫など、雪男に出会い「人生をかき乱された」男たちがいるからだ。その人達も追い、雪男を「現象」として捉えて書いたのが、この本だという。

◆この原稿は一昨年の開高健ノンフィクション賞に応募したものだ。その時は「半分賞を取った気でいた」ため、落選で「300万円をどぶに落とした感じ」。再挑戦の『空白の五マイル』で、受賞した。しかしこれが思いがけず3賞も受賞してしまったことで、面白いものを書かなければと、次へのプレッシャーを強く感じているという。「考え過ぎて、なんかもう疲れちゃったんですけどノノ」。

◆その、次作のテーマでもある、今回の報告、北極圏徒歩旅行の話へ。角幡さんは、2009年にヤル・ツァンポーに行くまでは、次はニューギニア島イリアンジャヤ(現パプア州)のジャングルの中で「判りやすい」探検をしたいと考えていた。しかし、ヤル・ツァンポーで「自分は死ぬかもしれない」という体験をすることで、「生とか死とかを直接表現できる場所」へと行きたくなったという。

◆そんな折、北極点無補給単独到達を目指す、荻田泰永さん(2010年7月「変わりゆく北極圏」報告者)から、「呑もうや」との誘いが。『岳人』のインタビュー記事を兼ねることにして、北極の探検史を調べるうちに、192人の全隊員が行方不明になった19世紀の「フランクリン探検隊」に惹きつけられた。

◆もともと、学生の時に読んだ、生き残った隊員の書いた「スコット隊」の記録、『世界最悪の旅』(中公文庫他)に衝撃を受けていた。その時は壮絶な自然環境の中、自分の命に無関心になっていく隊員の様に「人間ってこうなっちゃうんだ」と驚き、「絶対自分は極地になんか行けない」と思ったという。

◆思いの深かった北極。行って本にするならば、ルートにも「物語性がなければならない」と考える角幡さん。フランクリン隊は全滅したため、メモとイヌイットの証言しか残されていない。ならば同じ景色を見てみたい。今年は北極点を目指すには資金が足りず、北極の「どこか」に行こうとしていた荻田さんと2人で、1600キロ、フランクリン隊の足取りを辿ることとなった。

◆北極圏より少し南のイカルイットで耐寒訓練中、東日本大震災が起こった。スタート地点となるレゾリュートに移動してから、事の大きさをテレビで知る。ライターなのでその現場にいたいという思いもあったし、日本では多くの方が亡くなり死にそうな目にあっている中、フランクリン隊の死の現場を目指す自分に、後ろめたさを感じながら出発したという。

◆スライドの1枚目は、ルートを決めるのに重要な、衛星写真。情報が少なくてその時はぴんとこなかったが、衛星写真を見せてくれたウェインさんからは、レゾリュートでも放射線量が上がっている事から、「表面の雪は飲むな」と注意されたそうだ。

◆次に、装備の写真が。?40℃まで対応の化繊シュラフにインナーシュラフ。極地用のテントやおしっこボトル。それから「荻田スペシャル」の熊センサー(ホームセンターで売っている人が近づくと光る防犯用のライト)などなど。前半60日分の食料は、袋ラーメンやアルファ米、「美味しいので極地に行く方はぜひ買ってください」と角幡さんが太鼓判の高級ペミカンなどだ。これら食糧だけで10kg、一台のソリの荷物は100kg近くにもなった。

◆柔らかい雪の下に硬い雪が隠れており、5センチほどの段差さえも、ソリを曳くのには力がいる。出発して2日目、後ろを見ずにぐいぐい引っ張ったら、積んでいたスキーが折れてしまい、以降、ビスで止めたスキーで歩くはめに……。

◆3日目の夜には、白熊が出た。気づいた荻田さんがテントから花火で威嚇。すぐに銃を持ち追い払いに行ったが、角幡さんは初めての体験に焦り、手が震え、ヘッドライトを点けることすらできなかったという。

◆旅行中は、一日5000キロカロリーを摂取した。最初は身体に脂肪があり満腹に感じたものの、途中から空腹感が半端じゃない状態に。見渡す限り真っ白な氷海上を、たまに白熊や狼を見ながら進み、3日に1度の「イタリー飯(遠征中止になったイタリア隊の置き土産のラザニアなどにペミカンを入れたもの)」が大の楽しみだった。

◆「泣きながら食べた」と、次の写真。あれれ、唇から出た血が「つらら」になっている! 凍傷になりやすい角幡さん。靴下を5重履きにし、悪化しないように血管拡張剤を飲んでいた。そのためヘルペスになり腫れていた唇の血管も、拡張しちゃったらしい(さらにお尻の痔からも血が出て、一時は上下流血のどえらい状況だったそうです。ひえー)。

◆乱氷の多かった今年、乱氷地帯を越えるのは過酷だった。引き返すにも同じ時間がかかるため、進むほど「もう行くしかない」という状況になる。「進退の判断」をしつつ進むところが北極行の魅力の一つかもと思ったそうだ。

◆キングウイリアム島付近、フランクリン隊の船が流氷に捕まって上陸をしたポイントには、ほぼ同じ4月末に着くことができた。さらに進み、ジョアヘブンの手前、壊血病で瀕死の状態だったフランクリン隊がイヌイットと遭遇し、肉を分けてもらった場所へ。そこでは、「40人くらいの白人がセイルを張っていた。イヌイットは数日間一緒に過ごし、猟のために去った」という話がある。「この辺で『肉をくれ!』って言ったんだな」と角幡さんが思っていると、人がやって来た。「そうしたら、『ビスケットくれ』って荻田くんが言った」。すごい偶然だ。

◆ジョアヘブンに着くと、甘い物をたらふく食べた。オーラルヒストリーを集めているイヌイット、ルイカムカックさんにインタビューもし、「フランクリンの墓がある」という話などを聞いた。

◆「3人の生き残りがイヌイットの保護を受けたのち、南を目指した」という言い伝えもある。後半の旅行は、苔や背の低い柳が生えているツンドラ地帯を、南へと歩く。歩き始めてすぐに3つの村合同の釣り大会に参加する一幕も。

◆ツンドラ地帯では、人間の痕跡っぽいものも所々に見えた。南に進むにつれ、カリブーだらけになり、カモメや鶴の群れも。ライフルがあれば狩り放題、巨大岩魚は釣り放題。15cmほどあるガチョウの卵を採って来てスクランブルエッグにすると、「すごい」という感想しか出てこないほど、濃厚な味だったそうだ。

◆北極圏を抜け、ただのカナダへ。夏の溶けたツンドラの上を通れるか判らない。そこで持って来ていたのが、ゴムボートだ。スキーとソリは捨て、40キロほどのバックパック1つを背負って進み、川はゴムボートで渡った。しかし激流でないところはまだ氷が張っており、なかなかボートが進まない。つらら状の氷の上は二重構造で揺れに強く、渡れることが判ってからは、ボートをソリの様に曳いて進むことも多かった。ゴールのベイカーレイクへ着いたのは7月7日。103日間の旅行だった。

◆書くことは、仕事だし、やりたいことだ。けれどいま、冒険(探検)を本にすることはとても難しい。日本で冒険が社会的価値を持ち、その行為が社会性を帯びていたのは、植村直己の時代までであり、いまは完全に個人的行為になっている、と角幡さんは考えている。

◆本にするには社会性(共感できるストーリー)が必要だが、行為と表現の折り合いをどうつけてゆくか。それには「人が生きるってこと」を考えさせるものにするしかない。「なぜ冒険するか」の問いも「何のために生きているのか」と近しいからだ。『空白の五マイル』でそれは個人の行為の中にあったが、今回は「北極で生き抜こうとした人達」に仮託できるのではないか……。

◆けれどやはり、冒険(探検)を書くことの難しさがある。ストーリーが「自分の想像」を越えることがたやすい人へのインタビューなどと違い、自然の行為の中でそれを越えることは、身の危険とイコールで困難だからだ。角幡さんは模索中だという。

◆うわー、もうほとんど時間がない。ここで荻田さんがちょっとだけ登場した。「出発までは2人で歩く想像がつかず、ケンカ別れの心配もしていたが、淡々と無事に終わった」。角幡さんの「極地探検の才能」を丸山さんに聞かれると、「極地は技術(才能)ではなく、根性だから」ときっぱり。荻田さんのこの旅の報告も、聞いてみたいと思った。

◆つづいて、質問タイム。極地装備への熱心な質問につづき、狩りへの質問が。実は「あれ」も「これ」も撃って食べちゃった、とのこと。それも次作で詳しく読めるだろうか(内緒かな)。どんなに角幡さんが悩まれようと、勝手なわたしは、読者は、早く読みたいよう!(加藤千晶


[先月号の発送請負人]

地平線通信383号の印刷、発送に汗をかいてくれた方は、以下の通りです。
森井祐介 関根皓博 江本嘉伸 杉山貴章 伊東心 松澤亮 山本豊人 満州 八木和美
◆伊東心君が参加してくれたのに感激。ほぼ6年ぶりなのだ。2005年12月自転車旅をはじめ、一時帰国(2009年2月〜6月の5か月間)を挟み、合計5年半オーストラリアを除く世界四大陸を旅してきた。日本には夏のはじめに帰国、現在故郷の福岡に向けて旅を続けている。その途中、地平線会議のウェブサイトを見て、この日が発送作業だとわかり、駆けつけてくれた、というわけだ。世界旅の途中、発送作業に馳せ参じた33才に感謝。
◆松澤亮君は10月3日、青年海外協力隊の仕事でアフリカ・ガボンへ。直前に駆けつけてくれた。ありがとう。


報告者のひとこと

事前にストーリーを作って行為をした場合、それは行為としては純粋ではないのではないか──行為と表現について考える──
 角 幡 唯 介

 報告会の最後にもちょっと話しましたが、行為と表現の問題について最近よく考えます。私のように何かを書くことを前提に冒険をしに行くと、事前にある程度、ストーリーのプロットを作って冒険の計画を練ることになります。

 つまり行為の計画自体は事前のプロットを下地にして進行するわけです。あらかじめテーマがあって、そのテーマを冒険行為を通じて表現し、そして作品にしようと考えているわけですから、現場に行ってみなければ作品にできるかどうか分からないという出たとこ勝負主義では、一生に一度の本ならまだしも、プロの書き手としての仕事にはなりません。

 この場合、難しい問題が二点あります。一つ目は行為の問題です。事前にストーリーを作って行為をした場合、それは行為としては純粋ではないのではないか、という問題です。個人的には純粋ではないと思います。冒険でも旅でも登山でもなんでもいいですが、こうした行為系のノンフィクションを書く場合は常にこの問題が絡んできます。

 書くことを前提にした場合、行為にかかわるすべての面白い局面が話のネタになり、それだけならまだ問題はないですが、話のネタにするために大なり小なり行為を作る、フィクション化するということを延々と続ける羽目になりかねないわけです。

 一番悪いのは、書くために自分で行為を演技するケースで、これではフィクションになってしまいます。しかしそこまでいかなくても、例えば、誰かとの会話との途中で、これは書くのに使えるなと思ったとします。その瞬間、次の自分の一言がフィクションになってしまうかもしれません。

 そういう微妙な境界線上にあるような行為と表現のせめぎあいが、書くことを前提に行為をするとあらゆる局面で発生するわけです。すると結局、それがどんなに細かな問題であっても、絶対に演技だけはしないにしようと決めたとしても、どこかで無理が生じざるを得ず、行為としての完全純粋を達成することはできなくなってしまうわけです。

 もう一つの問題は、こういうプロットを前提に行為を計画した場合、それは作品としてのノンフィクションといえるのか、という問題が出てきます。もちろんプロットを前提にしたとしても、行為をしている最中に起きた、あるいは体験した事実だけを書いているのですから、ジャンルとしてはノンフィクションなんですが、それはあくまで自分で設定したプロット(=想定としてのフィクション)上で展開されるノンフィクションであり、前提としてフィクションなんじゃないのか、と私なんかは思うわけです。自分でやっていてなんですがノノ。

 本当のノンフィクションのいい作品は、おそらくこのプロット(=想定としてのフィクション)を凌駕する体験や事実によって貫かれた作品なのでしょう。まったく想定できなかった事実、事前のプロットを次々と塗り替えるような体験。こうした出来事が連なることでいい作品は書けるのだと思います。そういう意味で『空白の五マイル』は事前のプロットを越えた体験でした。だからいくつかの賞をいただくことができたんだと思います。

 しかし、行為系のノンフィクションだと、いつも事前のプロットが覆されるような体験ができるわけではありません。これは書くことを前提としない登山や冒険で例えると分かりやすいでしょう。登山の場合は事前にあらゆるリスクを想定して行為に挑むわけですから、事前の想定を越えることが起きたら、死に近づくことになり、事態としては困ったことになります。だから通常、成功した登山というのは、プロットの範囲内で収まった行為であるといえます。

 そう考えると、登山や冒険の古典的な名作がなぜ、ぎりぎりの生還劇や脱出行が多いのかが分かってきます。成功した登山や冒険ではプロット内に収まった話なので、想定を越えておらず、ノンフィクションの作品としては大して面白くないわけです。登山や冒険でプロットを越えた力強いノンフィクションを書こうと思ったら、必然的に死に近づいてしまうわけです。このジャンルのノンフィクションが、行けば書ける、というふうにならないのは、こうした問題が大きいせいだと思います。

 ノンフィクションの作品が、どちらかといえば行為系ではなく取材系が多いのも、ここに理由があります。取材系ノンフィクションは稀有な体験をした人や、事情を知っている人を見つけて書くわけですから、取材先が勝手に自分のプロットを越えた話を披露してくれるわけです。取材を積み重ねれば積み重ねるほど、自分のプロットは崩され、物語に厚みがでます。

 じゃあ冒険してノンフィクションを書こうとしている自分はいったいどうしたらいいのしょう? それが目下、私を悩ませている問題です。どこかで想定外のことが起きるのを期待して、行くしかないのでしょうか。まったく困ったことです。


地平線ポストから

剣岳で出した結論。被災地での交流活動は、今後も必要だと思います。だから、やります

■こんにちは!今、ボランティアセンターのお風呂の火の番(薪で沸かしています)をしながら外でパソコンを打っています。最近冷え込んできたので、火のそばがあたたかくて超お気に入りです。こちらはまだ紅葉は始まっていませんが、稲穂の刈り入れが終盤を迎え、『ほんにょ』と呼ばれるこの地方独特の干し方(稲穂を円状に積み重ねていく)が見事です。

◆私はまだ宮城県登米市にいて、RQ市民災害救援センターの活動を続けています。今日10月11日(火)は、朝から南三陸町の小さな仮設集落(18戸)へ行き、社協の生活支援員さんが企画している『お茶っこ(お母さん方とのお茶飲み)』のお手伝いをしてきました。知人づてに声がかかり、沖縄三線を弾かせてもらったのです。

◆まだ未熟で歌いながら弾けないため、最初はお断りしたのですが、それでもいいと言うので、色々と流れを考えてやらせてもらいました。集まったのは11名。歌がつたないぶん、沖縄の歌の歌詞カードを配って皆で読み合わせて意味を味わったり(面白いです!)。やり方次第で楽しめるものなんだなあ。不思議なもので、次は方言クイズもできる!などアイデアが浮かんできます。

◆午後からはいつも通っている仮設住宅の集会所で、スペインのシューズメーカーの方(支援金集めのため視察に来た)の現地案内、社協の生活支援員さんとの打ち合わせ、タオル人形作りの講習会、と慌ただしく過ぎました。拠点に戻ってからは、ボランティアコーディネートです。今度ヘアカットボランティアに来たいという美容師の方、仮設住宅のお母さんにアクリルたわしを作ってもらいネットで売りたいという企業、などと現地をつなぐ役割。被災地のニーズとつなぐのは、けっこう大変です。あとはミーティング、電話対応、拠点を置いている地域の方との日常的なご近所づきあいなどで、あっという間に1日が過ぎて行きます。

◆相変わらず目の前の事でいっぱいいっぱいの日々ですが、今日の自分を振り返って書き出してみて、現地の方々と直接接する時間が減って来ていると感じました。ちなみに明日は、午前中にボランティアの今後の活動について考える長期滞在者ミーティングがあり、午後は地域づくりに力を入れている登米市の労働組合で活動の話をしてきます。時間の経過とともに、自分の行動も直接的な支援から『外部とのつなぎ役』へと変化してきています。震災から半年以上が過ぎ、現地にいない方は「ボランティアは何をやってるの?」と思われるでしょう。実際、最近は私も自分の想定していたこと以外(以上?)のこともやっていて、必要だと思うからやっているのだけれど、正直戸惑っていました。

◆例えば仮設住宅での外部調整役。仮設住宅へは色んなボランティア団体(マッサージ、お絵かき、音楽コンサート、編み物など)が来るので、そのスケジュール調整や現状説明、住人の方への広報などが必要です。戸数を考慮せず気まぐれに届く物資は、配り方に気を使うので大変なことも多いです。でも現実問題、私たちもこの先ずっとは密着したサポートはできないので、だんだんと住人の方だけで調整してもらうようになるでしょう。だから「いつまで、どう現地で活動するか」というモヤモヤした気持ちでいましたが、それをスッキリさせてくれたのは、9月最終週に無理やり時間を作って行った北アルプスの剱岳でした。

◆剱岳は、去年とおととしの夏に働いていた場所。今回は山中2泊3日の短い山行でしたが、天候も良く、なつかしくほっとする景色に出会えました。秋晴れの剱岳を見ながらぼーっとコーヒーを飲んだ時間は最高でした。そして、山小屋関係者、警備隊、ガイド、ネパール人の石垣職人など山で働く方々との再会。中でも根気強く、たんたんと登山客の安全を守っている方々の姿はすごかった。登山客のどんな問い合わせにも丁寧に対応していました。今年は雪渓の状態がわるく、崩壊箇所の近くにはりついて登山客に注意を促している小屋の方もいました。

◆山に行って自分の好きな事を再確認し、尊敬する人々に出会い、「自分が必要だと思う事を自信を持ってやって、周囲からの期待に応えられるように努力する」というシンプルな結論が出ました。「周囲の……」というのは、自己満足で考えるよりもかえって楽な気がします。

◆なんにせよ、今できること、感じていること、信じていること、やりたいことを一生懸命やろうと思えました。今日の三線も、自分の大好きな沖縄の音楽でお母さん方に楽しんでほしかったし、下手なりにできることを一生懸命考えたから、今までの自分がやるより少しは良かった気がします。山から帰ったあと、考えあぐねていた仮設住宅での外部調整についても、住人の方と話し合いながら良い引き継ぎ方を探りはじめています。

◆被災地での交流活動は、今後も必要だと思います。だから、やります。あとは現地の方が自分たちで動き出している時期なので、それを支えていく後方支援が私たちの役目なのかとも思います。そのためには、やはり地域密着で現地の方と連携がとれる体制は不可欠。だから……もうちょっと東北にいそう、です。(新垣亜美

「震災支援」はもはや、傷口にバンドエイドを貼るような手当だけではだめなのだ。私たち一人一人に何ができ、震災支援に関わるグループとしてできることは何だろう

■9月27日、生まれて初めて飯館村を訪れた。日本エコツーリズムセンター(エコセン)の世話人たちの会で、3.11と3.15を踏まえた福島の今とこれからにどう関わっていけるかを考えるための視察だった。

◆車から降りたとたん、広瀬敏通さんが「高野さん、マスクした方がいいよ」と真顔で言った。「年齢から考えて、高野さんや中垣さんはマスクをした方がいい」。見れば中垣(注:真紀子、エコセン事務局長)さんはすでにマスクをつけている。私はここで、「飯館村に入る」という意味を実感した。訪問させてもらった農家の佐藤さんの敷地内で、放射線カウンターは4.8マイクロシーベルトを示していた。敷地前の水路付近では、6.5マイクロシーベルトだった。

◆60歳を目前にした佐藤さんは、4月までその地で暮らしていた。タバコと稲が主な作物だ。原子力発電所の事故による放射線の影響で、今は飯館村から猪苗代に避難している。家のメンテナンスのために、たまに日帰りで戻るという。

◆佐藤さんのタバコ畑には背丈以上の雑草が生い茂っていた。手入れがされず一帯が荒れているため、イノシシやサルが、ビニールハウスの中に入ったりしているという。この日も、イノシシが崩した敷地内の斜面の補修をしていたところだった。佐藤さんは、田畑だけでなく山や土壌全体の完全な除染は不可能だろうと考えている。つまり、どうやっても農作物や従事する人たちに影響が出る。

◆「いつまでも待っているよりは、早く結論を出してもらって、これからの計画を立てたい」と言う一方で、「農業ができなくても、孫にふるさとを残してやりたい」とも語る。この場所は大事にしたい、親父が死んでからずっと守って来た、と理性だけで簡単に判断できない苦しい想いが伝わってくる。

◆福島に入る前の数日は宮城県にいた。3年前の岩手・宮城内陸地震のその後を、栗原市で見る事ができた。3年経っても元には戻っていない……そもそも「戻る」という発想がおかしいのだ。何かが起きて、その影響で何かが変わる。変わった中で新しく何かが生まれ、もしくは生み出し、それを育んでいくものなのだろう。

◆登米市と南三陸町も訪れた。南三陸町は私が最後に訪れた時と比べて、片付いていたし、津波被害を受けた場所近くにラーメン屋が開かれたりなど、変化があった。けれどもやっぱりまだまだ「完了」にはほど遠かった。未解決の課題はそのままだし、新しい課題は次々と出てくる。

◆気仙沼市教育委員会のある人は、「復興の時期と言われますが、私の感覚ではまだ復旧すらしていません」と言っていた。登米市では、エコツーリズムセンターを母体にして始まった3.11被災支援組織「RQ」の東北本部を置いた地区の区長さんとお話しした。高齢化率が50%に近いと知った。そういえば、RQ本部は廃校になった小学校に置かれたのだった。その場所は地震の影響は直接なかったが、このまま行けば、別の理由で村が消える。そしてそういう集落は日本中にある。

◆「震災支援」はもはや、傷口にバンドエイドを貼るような手当だけではだめなのだ。私たち一人一人に何ができ、震災支援に関わるグループとしてできることは何だろう。とっさに二つのことを考えた。まず、「自然界にないものを作り出すことはやめましょう」「どう処理していいかわからないものを使うのはやめましょう」ということを、はっきりと主張すること。

◆当然これは、自然エネルギーや資源が循環する仕組み作りを本気で進めて行くことにつながる。同時に、私たちの暮らし方を見直すことだ。それは経済について考えることでもある。

◆もう一つは、人は自然に生かされていることを身体で理解できるような学びの機会をたくさん作りましょう、ということ。これは、オール電化によって、家で「火」をまったく見ない子どもたちがいる、今のような時代だからこそ必要だろう。

◆10月3日。まだ紅葉も始まっていないというのに、新潟県南魚沼市にある私の家から見える2000メートル前後の山々は、てっぺんがうっすらと白くなっていた。そんな寒さの中、埼玉県から14人の高校生がやってきていた。7月末の豪雨で土砂や木々が流れ込み、機械を入れることができなくなった田んぼの稲刈りを手伝うためだ。支援を求める情報を自分たちで調べ、学校の休みを利用してやってきたという。

◆10月4日、秋晴れの中、彼らは二日目の作業にあたっていた。水が土砂とともに流れ込んだ田んぼの中には、石やプラスチックなど、さまざまなものが埋まっている。おまけに稲はあちこちに倒れ、根元が絡み合って、簡単に刈り取ることはできない。そろいの運動着を着た少女たちは、「結構、大変です」と笑顔で私に返しながら、黙々とカマをふるっていた。

◆田んぼの持ち主の70歳代女性は、「ボランティアって、いいものなんだね」と私に繰り返した。彼女は自分一人で刈ることを想像して、「おかしくなりかけていた」という。「ほんっとうにありがたい」と力を込めた。この日までに、私たちエコプラスが呼びかけて集まった稲刈りボランティアは、100名を超えた。愛知から車で来た人もいる。「自分のところが終わったから」と来てくれた市内の人たちもいる。

◆震災はかけがえのない多くのものを奪い、放射線はまだ出され続けている。だが、こうした支援に動く人たちがいることに、私は希望を感じている。特に多くの中高生、大学生などの若い人たちが、自発的に動き、時にはリーダーシップをとってきている。この支援活動も多くの場合、人と自然の関係を身体的に認識する舞台となっている。今の社会の構成メンバー全員が、今あらためて、こうした舞台に立ってみることが、今と未来に大きな影響を与えることになると思う。(高野孝子

冬近づく被災地。今、何が必要かを考えたとき、多少被災者の世話になっても作業を続ける方がいいだろうと個人レベルでは思っています

■だいぶ日が短くなりました。そろそろ冷える季節になってきました。東松島での復興支援活動。いつまで活動するかという話題がここのところ多くて、ひとまず11月の最初の連休で区切りをつけることにしました。終わりでなくて区切りです。テント生活が寒くてもうそろそろ限界!という声が出ていることと、山形から通ってくる人たちは、国道45号線が凍るからです。

◆体育の日のこの三連休も東松島で活動していました。今受けている案件を何とか11月頭までに終わらせよう!という意気込みで作業しましたが、すでに無理そうな雰囲気です。すでに受けている依頼が終わりそうにないうえに、地元の人と交流していると、どうしても新たな依頼を受けてしまうからです。

◆この三連休は、金曜の夜に東松島入りして、その日は野蒜の被災者宅泊。土曜日は東松島コミュニティセンターでテント泊。日曜日は野蒜の別の被災者宅の庭でBBQ。近所に住む家族や新東名でお手伝いさせてもらったお宅のお父さんも呼んでわいわいやりました。BBQの後はそれぞれ好きに過ごして、その場でテントで寝た人もいれば、親しくしている被災者宅に移動して夜遅くまで飲んだ人もいました。

◆私も新東名のお宅に移動してお父さんとお酒を飲んで、その家で寝ました。冬に入ることで、手伝いに出かける側に若干のやりにくさが生じ始めている一方で、被災者の人たちと交流する中ではっきりわかることは、私たちが東名・野蒜に行くだけで彼らが相当喜んでいることです。

◆被災者の方々から、作業がなくても月に一回くらいは来て、泊まって行ってほしいと言われます。冗談まじりに、心のケアに来てと言う人もいます。被災者の皆さんのそれほどまでの気持ちは、どんな心境なのか、想像が追いつきません。それでも事実としてそう言われるので、想像できるできないに関わらず、今日まで関わってきた責任を感じます。

◆新東名はまだ被害が少ないので、住もうとする住民が早い時期からそこそこいました。野蒜はほぼ壊滅で、何ヶ月も真っ暗な街でしたが、このふた月くらいであかりの数が増えました。と言ってもまだ片手くらいの数ですがノ。「これから住人が戻ってくるんだから、ボランティアさんにはこれから頼みたいことが増えるんだ」と言われたりもします。

◆地元住民の口から、「あなたたちはいつまでやるの?」と問われたとき、その意味は、頼みたいことがあるのだけれどもまだ受けてもらえますか?という意味でした。寒くなってテント生活がそろそろきついのだと正直に答えて返ってきた返事は、「うちの施設を使えばいい」でした。

◆お盆のとき、ボランティアセンター閉鎖に伴ってキャンプ地も使えなくなりそうになったことがありました。そして、被災者から提供される施設を使わせてもらうかどうかを議論しました。そのときは私は、基本的にはキャンプということにしようと意見しました。

◆また大きな地震が来たときに、施設のある場所の安全面が気になったのと、我々が利用させてもらうことにより発生する電気料金・水道料金・生活消耗品の費用負担の問題などが生じるので、不用意にトラブルの種を蒔きたくなかったからです。

◆でも最近の地元との関わりを見ていると、それもありかと思い始めています。彼らの提案を受け入れれば、我々の困難の一つが解決されるわけです。今、何が必要かを考えたとき、多少被災者の世話になっても作業を続ける方がいいだろうと個人レベルでは思っています。

◆この連休は、約50人(のべ人数約100人)ほど集まったと思いますが、大勢のメいつもいる顔モと、彼らが連れてくる新しい顔とわいわい楽しく作業しながらそんなことを考えました。新しい顔はいつでも募集しているので、機会がないだけで被災地に行けてない人がいたらぜひ声をかけてください。ひとりでも多くの人に手伝ってほしいです。(岩野祥子

「僕たちは汚染地から汚染地に来ただけ」
━━飯館村村民のつぶやき

■地平線会議で5月に飯舘村のことを話したあと、7月下旬に同村を再訪した。村が「計画的避難区域」に指定されたのは4月11日。これは「全村民、村外避難せよ」との命令だ。果たして、6月下旬、飯舘村は人口6200人の「全村避難」を完了したが、実際には、日中に限れば約1200人が住んでいる。すべては、菅野典雄村長の思惑だ。

◆その内訳。村に残った9事業所の従業員が約550人、9事業所のなかの一つ「特別養護老人ホーム」の入所者が約100人、村をパトロールする村の臨時職員が約400人、そして避難を拒否して村に住み続ける高齢者が百数十人だ。

◆6月下旬、東京で菅野村長の講演があったので、講演後には村長と立ち話をした。村長の意図は、村から車で1時間以内の場所にのみ村民を避難させること。そうすることで、村で操業を続ける事業所にも通えるし、自分の家にいつでも一時帰省できる。

◆「通勤や、ずっと屋内で過ごせば、全村避難の根拠となった年間20ミリシーベルトは下回ります。だから国も9事業所の継続を認めた。一番大切なのは、村の復活のため、村人がまとまって暮らすこと。県外の自治体からの『村民を受け入れます』の要請もすべて断りました」(菅野村長)

◆2年。村長は、村民が2年で村に還るとの目標を定めている。この目標に「何を根拠に」と批判する声もあるが、私は数字としては妥当だと思う。阪神大震災のとき、自主的に県外避難した住民は、その後、2年を越えたらほとんどが戻れなくなったからだ。新しい土地で正式に福祉を受けたい高齢者、やっと新しい仕事を得た青年、学校に慣れた子どもたちは、住民票を変えざるを得なかった。

◆さらに飯舘村のような農村では、2年も経てば農地が雑草に覆われガチガチになる。農地を守るため、村では除染実験も始めた。だが、村の意図に反して「絶対に戻らない」と決める人は多い。

◆前回の報告会で紹介した、村の若者グループ「負げねど飯舘!!」の佐藤健太さんは「僕らのような若者は放射線に敏感。それに、村の75%の山林の除染は不可能。雨や風のたびに農地は何度でも汚染されます」と帰郷を諦めている。

◆やはり、報告会で紹介した酪農家の田中一正さん。報告会の2日後(5月29日)にすべての牛が牛舎から屠場に送られた。田中さんは6月は福島県北部の牧場でアルバイトをし、7月上旬に飯舘に一時帰省していたので再会した。元気だった。というのは、山形県の牧場から「右腕になってくれ」と誘われたからだ。「そこで修行して、また数年後に福島に戻り、3人くらいで共同経営の酪農をやりたい。でも、飯舘では無理。放射能も風評もあるから」

◆実際、田中さんは飯舘で最も放射線値の高い長泥地区に住んでいるが、今回、雨どいの下を測定した私はぶったまげた。毎時113マイクロシーベルト! 通常の2200倍だ。ちなみに、飯舘村では役場前に、放射線値の電光表示板があるが、7月上旬で4.8マイクロシーベルト(年間換算で約43マイクロシーベルト)。仮に、これが毎時2.2マイクロシーベルト(年間換算で20ミリシーベルト)になったとしても、20ミリシーベルト自体が社会問題となったのだ。村民の何割かは戻るだろう。だが「まったく新しい村になる」とある村幹部は、つぶやいた。

◆村から車で1時間以内の避難先とは福島市や二本松市だ。その福島市からは、放射線の高さから、自宅を売ってまでも県外避難する人が後を絶たない。佐藤さんは「僕たちは汚染地から汚染地に来ただけ」と訴える。

◆だが目標がある。「村の絆だけはなくしたくない。今の子どもたちにもそれを伝えたい」。佐藤さんは今も、村出身の子どもが通う保育園に必要物資を届けたり、村の教育委員会が主催した中学生のドイツ保養旅行にも同行し、子どもたちの悩みと向き合ったりと「頼れる村のお兄さん」であり続けようとしている。

◆佐藤さんの仕事は護岸ブロック製造業だった。今回被災した港湾にこそ役立つ仕事だったのに、一転無職となり、貯金を食いつぶすだけの毎日。だが充実している。「村人の絆をなくさない活動は続けます。後になって、あのときああすればよかった、こうすればよかったではなく、今、やるべきことをやりたいです」

◆佐藤さんにはその後も東京でお会いしたが、いつか、山形で働き、福島に戻ってくる田中さんともその節目節目でお会いしたいと思う。飯舘村。2年後はどうなるか……。(樫田秀樹

ひたすら茄子を切り続け、タコのアクリルたわしを作った、登米初ボランティア体験

■9月17日夜、京都駅から夜行バスに乗込んだ。向かったのはRQ登米。ずっとどうしようと思いながら行けなかったボランティアに連休を利用して行くことに。18日お昼、東北本線石越駅に迎えに来ていただいて車に揺られて登米に到着。同じ日にたまたま一緒に着いた方は、埼玉県からのお母さまと姫路からの大学生の女の子。三人とも一人参加だったのですぐに打ち解けられました。

◆着いた日の仕事はキッチン、つまりボランティアのためのご飯を作るところで。リーダーは名古屋でシェフのお仕事をされていた方。今日は50名ぐらいなので楽ですって言われて、「えっ」と思いましたが、実は前日まで140名ぐらいのボランティアの方がおられて大変だったそうです。

◆与えられた仕事はひたすら茄子を切ること。50人分の麻婆茄子ってどんだけ茄子がいるのと思うぐらい切り続けた。夜ミーティングで明日の活動を決めることになっていて、キッチンという仕事をフルでしてみようと思い、二日目もキッチンを希望。

◆朝5時からということで少し緊張したけど4時半過ぎ起床。前日の夜にある程度用意が出来ているので、早く出るチームのための「おにぎりタイム」の準備や皆の朝食の準備。朝ご飯が終わるとお昼から次の朝ご飯ぐらいまでのメニューを決めて準備。この日の午前中はひたすら人参と格闘。午後に大量の野菜が届き、すぐに使わないといけない葉野菜があったため急遽メニュー変更。大葉や生姜、またまた茄子が届いたので浅漬けなんかいいですねって言ったら、じゃ朝用にお願いってことで午後からひたすら茄子を切り続ける。

◆三日目、台風の影響が出始める。気仙沼で活動している小泉チームとして瓦礫の撤去に向かうが、足元が悪すぎて中止。急きょ歌津という所で活動している方々に合流して大型テントの設営のお手伝い。この大型テントは被災した商店街の方々が入るためのテント。商店街が復活した姿を今は見ることができないけど、いつか目にできたらと思って雨の中活動。

◆四日目、またまたキッチン。雨がひどいため外の作業が中止になる。この頃になると色々な方とお話するようになった。連休ということもあったからか学生さんが多いことや関東以西から来ている方々が結構多いのに驚いた。岐阜の短大から先生と学生が一緒に24時間かけてフェリーで来られたり、昔の教え子と一緒に来られた愛知の先生や遠く愛媛から来られている方もおられました。

◆お父様が何回もボランティアに行かれているのを見て自ら行きたいと言って来た小学4年生の男の子やご両親の姿をみて自分もと来られた高校生や中学生もいました。滋賀県に住む自分の周りには行こうという人がいないので西の方から行く人は少ないのかなと思ったけど、案外そうでもなかったのがうれしかった。

◆五日目、新垣さんがリーダーを務められるチーム中瀬に参加。チーム中瀬はRQ登米が活動拠点としている旧鱒淵小学校の校舎で避難生活をおくられていた方々を仮設住宅に移られてもずっと支援されています。この日は中瀬町のお母さん達と一緒に集会所で「タコのアクリルたわし」作り。なぜ「タコ」なのかというと志津川はタコが有名だそうで、タコの色々な話を聞かせてくださいました。

◆活動最終日は地域支援チームに同行して今後の支援の必要性についてか聴き取りに行く。被害に遭われた方と面と向かってお話を聞くなんて、と一瞬躊躇したけれど、そういうことに目を背けてはダメだと思い参加しました。お話を聞いて、色々乗り越えて生きられている人たちの心を改めて感じました。

◆震災が起こってからずっと、いつ行こうか悩んでいました。地平線通信で支援に行かれた方々の記事を読みながら、私でも役に立つだろうか、と。被災地についてのニュースが減ってきていると感じていた頃、仙台の友達のメールの中に「忘れられることが心配」とあり、その言葉に押されるようにして行った1週間。

◆今回自分の目で現状を見たとき、写真は撮らないって決めました。何故なら映像で見ているのと実際はあまりにもかけ離れていると感じたから。また、行こうと思っています。まだまだやれることはいっぱいあるから。(稲見亜矢子 滋賀県野洲市)


[通信費をありがとうございました]

■先月の通信でお知らせした以後、通信費(年2000円)を支払ってくださった方々は以下の通りです。中には数年分まとめて払ってくださった方もいます。ありがとうございました。
■下島伸介(10000円) 嶋洋太郎 金井重 横山喜久 足立洋太郎
★   ★   ★   ★   ★
 大変ご無沙汰しております。2003年にミャンマーへご一緒させていただいた山上庄子です。私はあの渡航ですっかりマングローブに魅せられてしまい、東京農業大学を卒業後、沖縄で6年間、国際マングローブ生態系協会で研究員として仕事をしておりました。沖縄では事務所へ届く地平線会議の通信を読ませていただいておりましたが、実は今年の5月東京に帰ってまいりました。ぜひ自宅の方で購読したいので申し込みさせていただきたく、お願いできますでしょうか。カンパは報告会に伺った時に支払せていただきます。◆先日久しぶりに宮本千晴さん、鶴田幸一さんとお会いして、マングローブのフィールドがとても恋しくなりました。私は今「シネマテーク動画教室」という動画の撮影や編集を身につける教室を立ち上げ、事務局はまだ一人だけですが、少しずつ広めていくため、日々奮闘しております。◆父が映画のプロデューサーを長くしておりまして、「シグロ」という会社の代表をやっております。今回の事業もそういった背景があり共同事業として始めました。写真や動画は「記録」という意味では分野を問わず可能性があるのではないかと考えております。いつかは私の好きなマングローブや農業、環境のフィールドにもつなげていけたら……と思います。しかなかなか広めるにも苦労をしております。もし周りにご興味のある方がいらっしゃいましたら、ぜひ広めていただけますと幸いです。またお目にかかれますことを楽しみにしています。(HP:http://cinematheque.jp/  mail:)(山上庄子


ガリガリに痩せていた“震災犬”ホープはふっくらと。中断していた北極活動を再開し

■東北大震災3.11後、2010?2011年シーズンの北極活動を中断し帰国してから、瞬く間に夏季シーズンが終わり、また10月15日に日本を発ち、北極に向かう。冬の訪れは犬ぞりシーズンの始まりだ。いよいよ2011?2012年シーズンを迎える。

◆この日本滞在中、今回は活動資金確保のための、企業への営業は控えた。当然ながら各界、東北大震災支援へ目が向いてることもあるし、また個人的にも北極での活動にあたってのスポンサーを懇願する気にはとてもなれなかった。今シーズンの北極遠征にあたっては、その思惑がズルイと言われるかもしれないが、昨シーズンの北極活動を震災後中止し、残した資金がメインとなり、例年以上に限られた活動になると思われるが、また僕の帰りを待っている犬たちと、1シーズンを共にできるのには感謝の気持ちで一杯だ。

◆東北大震災で僕が出来る支援……。大きな組織とは違って、個人という体制では、限られた僅かな支援しかできないもどかしさを感じている。今後、北極活動を続けていく上での体制作りの、一つの課題になると思った。

◆この日本滞在中に僕に出来たことは、募金と福島原発周辺で保護された大型犬を引き取ることくらいだった。募金にあたってはチャリティー写真展等からの収益であったり、時々声をかけて頂ける講演料の一部など。大型犬を引き取るにあたっては、カミサンも大の犬好きで、うちには先住犬(大型犬)2頭がいて3頭面倒見るのも大差はない、とすんなり実行に移すことが出来た。ボランティア団体を通じて、飼い主さんは判明したがその後の連絡はないままで、まだまだ元の生活へは戻れない状況がうかがえる。

◆引き取ったワンコは「ホープ(希望)」と名付けているが、家に来た当初はとにかくガリガリに痩せていて、部屋の中のゴミ箱をあさったり(室内と庭を自由に行き来できるように飼っています)、体力が伴わなかったのか?環境が変わったからか?散歩で外を歩くのを嫌がったりなどハラハラさせられた。今では体つきも幾らかふっくらとし体重も増え、また散歩にも進んで出るようになるなど、昔からここにいたかのように、他の2頭以上に大きな顔をして仲良く過ごしている。

◆現在取り組んでいる「アバンナット北極圏環境調査2006?2015」10年計画も、6シーズン目を迎えるが、当初の計画よりもなかなか活動範囲が広がらないのが現状だ。それでも性格なのか、焦りは全くなく、いたってマイペースだ。あと5年では終わらないな…。

◆今後は、一人で出来ることではないが「民間で、日本の極地研究者の方たちが、北極での観測活動を出来る体制を作っていくこと。エスキモー民族と日本の友好関係(姉妹都市?友好都市?)を作っていくこと」などなど、このプロジェクトで掲げている目標を見据えながらの取り組み、体制作りにしていければと思う。

◆さて、2011?2012年シーズンの活動であるが、来年5月中旬頃まで北極滞在になる見込みで、犬ぞりを駆使し、研究者の方たちから頂いている観測課題をこなすべく、これまで同様に継続したフィールドワーク(海氷、雪氷、その他のデータ収集など)をメインに、10月下旬からは一人の研究者の方とのジョイント活動、また来年3月下旬頃には車椅子に乗っている方の団体の北極遠征サポート、などの予定が入っている(これらはすべてボランティアです)。(山崎哲秀


九月詠
仲秋の名月

金井 重

伊豆山の 長き石段 のぼりきて
   名月に捧ぐ 神事に出会う

仲秋の 神事のすすむ 境内に
   しずしずのぼる 十五夜の月

歌詠の 捧ぐ大和歌 森にしみ
   祖のきずなの強くたのもし

仲秋の 3.11後の 名月よ
   同胞いずこ 兎も見えず
   於 源実朝を偲ぶ名月の会=熱海伊豆山神社

六万の 都心をデモす 友ら迎え
   野火のごともゆ 世直しの今

「ピカは 人が落さにや 落ちてこん」
   原爆の図の前に立ち スマさんの声が
     ピカ=原爆 スマさん=女絵かき(丸木位里の母)

残酷な ピープルジャパン 物語
   あの原発を まだ止めれない

あけそめし 雲なき空に くっきりと
   光る残月 丸さがよろし

くれゆかん 空に金星 もとめきて
   その輝きに心みちたり

仲秋の 九月生まれの 嬉しさよ
   さあ出直しと 勝手はずむ


速報
谷口けいさん、南西稜からナムナニ登頂!

■10月10日21時20分、プランに戻った平出・谷口両名より電話連絡がありました。(1)10月9日14時(チベット時間。日本時間では15時)、主峰(7694m)に登頂した。(2)登山ルートは南西稜(当初の予定は南東壁)?南峰?主峰?北西ノーマルルート下降。(3)天候に恵まれ、360度の展望、2008年に初登攀したカメット南東壁のルートも見え、感動した。とても良い登山だった。(4)二人とも元気。(5)12日頃にカトマンズに戻る。

◆その後本日(11日)携帯へメールが届き、(6)とても複雑な地形で、尾根がシンプルにつながっておらず、氷河も幾筋も流れてる。(7)幾筋もある南面の氷河のひとつから入って、南西稜と南東稜が交わる辺りに出て、南峰(未踏の峰)?主峰に継続し、北西面(ノーマルと言われているが長く悪い)を下降した。(8)やはり自分の足で歩いてみないと山はわからないもんです、との事でした。詳細は彼らがカトマンズ着、もしくは帰国してからの報告を待つ事になりそうですが、ナムナニの南面そのものに入った隊は初めてですし、地元でもこのRonggo谷に入った人がいなかったようです。彼ららしい登山ですね。取り急ぎご連絡まで。(寺沢玲子

★けいさん、寺沢さん、速報ありがとうございます。

ヨーロッパで震災を主題にしたパフォーマンスをやってみたい
―ドイツの週刊誌『シュビーゲル』からの招待状をもらって

■10月6日、目を覚ましケータイを手に取ると、2通のメールが届いていた。1通目は、知らない女性からだった。「夫が相手をしてくれず、欲求不満なんです」……すぐに削除した。2通目は、私が震災関連のビデオブログを連載しているドイツのニュースサイト、シュピーゲルからだった。「以前、いつか弊社に招待したいと話した時のことを覚えていますか?」

◆シュピーゲルとの関係は震災の3日後、私がビデオカメラを片手に街へ出て、東京の現状を英語で説明、編集して「Panic in Tokyo!」と題した映像をユーチューブに投稿した次の日から始まった。是非弊社のサイトでビデオ日記を連載してくれないか? こうして震災関係のビデオブログの連載がスタートしたのだ。

◆以来何度か東北に足を運び、地元の方の声を聞かせていただいたり、ドイツから来たシュピーゲルの記者の取材に通訳として同行し、東電本社や飯舘村へ行ったりした。そして、このメールの続きにはこうあった。「11月7日に新しい本社ビルでパーティを開催するため、招待いたします。ドイツまでの移動費と数日分の宿泊費は負担いたします。勿論、その後ご自分の資金で過ごす分にはかまいせん。」

◆今年の春大学を卒業し、急に自信を失った私は、なんと学生時代さんざんバカにしていた就職活動を始めた。将来は冒険旅行をし、映像や演劇にして表現したい、との思いからテレビ制作会社を志望した。結局内定は未だ一つも出ていない。おまけに就活サイトに登録したアドレスが流出し、エッチなメールが毎日届くようになった。

◆だが就活を通して得たものもある。自分が身の安定や結果にとらわれ、行動をすることから逃げていたという事に気がついたのだ。必ずしも就職する必要はない。特に角幡さんや荻田さんを見て、結果はあとからついてくる、今は恐がらずに挑戦しよう、と思えるようになった。

◆ヨーロッパ! 自分なりにヨーロッパを頭の中で描いてみる。ヨーロッパと言えば、大学で演劇を専攻していた私が、表現手段として注目している路上パフォーマンスの本場だ。私が路上パフォーマンスに惹かれるのは、学生どうしが互いの公演を見に行くことで成り立つようなシステムではなく、実力勝負のシビアさと、偶然的な作品と観客との出会いがあるからだ。

◆次に、ヨーロッパにいる自分を想像してみる。自分はジシン・ツナミ・ゲンパツの国から来た人間だし、そもそも震災がなければこうしてドイツに行く機会も無かった。こうして次々にアイディアを出し、現段階では以下のような旅の計画にまで発展した。

◆旅のテーマは、震災。自宅から旅を開始し、東北までヒッチハイク。数日かけて沢山の人に触れ沢山の東北を見る。東京に戻りその足でドイツへ。ドイツまでの移動費などは出してもらえるが、その後の滞在費は約1週間分しかない。パーティー出席後、震災を表現したパフォーマンスを路上で行い、投げ銭を旅の資金に野宿とヒッチハイクで各国を旅する。

◆今回の震災を主題にしたパフォーマンスは「リアルであること」にこだわりたいと考えている。たとえば、被災地の写真や動画なら世界中の人が目にしている。しかし、実際にそこから来た人や物に触れる機会は少ないはずだ。だからこそ私は被災地で感じたことを直接彼らに伝えたいし、津波のあとに残った生活用品の残骸なども実際に持って行きたいと思っている。具体的には、路上で日本の国旗を広げその上に被災地の物を並べ、自分の感情を身体で表現することなどを考えている。

◆「旅の資金は少ない方がいい」。これは4年前に東京?仙台間をコンビニの廃棄弁当を拾いながら徒歩旅行して以来、自分の旅の一貫したテーマになっているようだ。今回も、必然的にそうなった。理由は簡単で、貯金が殆どないのだ! だが、路上パフォーマーとしての腕ひとつで明日の旅が続けられるかが決まる、ということがこの上なくロマンチックに思える。裏を返せば最悪の場合、1週間で尻尾を巻いて帰ってくるというわけだ! 旅の状況は随時Twitter、Facebook、YouTubeにて報告する予定です。アカウントはいずれもRichiMiyakawaにて。何かアイディアがある方は、連絡を頂けると幸いです。よろしくお願いします。(宮川竜一

コテンの作り方
━━『ハナタレ展〜長野亮之介の絵仕事」絵師敬白

■10月15日?25日、『ハナタレ展?長野亮之介の絵仕事」と銘打って渋谷区の画廊、ギャラリーヒッポ(神宮前二丁目)にてイラスト展を開催しました。会期の10日間で約250名の方に来て頂きました。ご来場くださった皆様、ありがとうございました。二年前、友人達に背中を押されて開催した初個展(百顔繚乱展)以来、ある程度まとまったものとしては二度目の個展です。今回はギャラリーからのオファーでした。いつも外圧(?)で開催してますね。ありがたいことです。

◆「ハナタレ展」というネーミングは、我が家の飼い猫コチビに由来します。彼は病気かアレルギーか、いつもハナを垂らしている。マタタビにも反応しないので、おそらく嗅覚も鈍い。ほとんど外には出ず、極度に人なつこいのは、動物として結構ヤバいその欠陥を補って生きる為の方策なのでしょうか。

◆甘えるのは良いけど、辺り構わず洟水を飛ばす厄介者でもあります。そんなポンコツぶりも良く言えば個性。11年の長い付き合いの中で愛着も湧きます。暑かったこの夏、くしゃみで私の絵に余計な染みを付けるコチビをモデルに、突発的に作り始めた招き猫の立体作品が、今回の個展のシンボルになりました。

◆「洟垂れ」にちなむ「ハナタレ展」ですが、音は「放たれ」にも通じます。思えば今年は色々なものが放たれました。東日本大震災を初め、新燃岳の噴火やNZ大地震では大地の底知れぬエネルギーが放たれたし、チュニジアに始まる中東のジャスミン革命では人々の憤懣が。

◆東電福島第一原発のメルトダウンで開かれたパンドラの箱からは、ヒトが扱ってはいけなかった禁断の毒性物質が一斉に放たれました。自らの種を滅ぼすこともできる「核エネルギー」を開発した時、人類は生命力に翳りの無い『青年期』から、死を身近に意識する『壮年期』に入ったと表現する歴史学者もいます。チェルノブイリもさることながら、広島、長崎そして福島と3度も放射性物質が実際に国土に放たれてしまった日本は世界一のハナタレ国と言えるのかもしれません。

◆夏の終わり、そんなことを考えながら制作していたのが屏風絵でした。畳二枚ほどの大きさの折りたたみの屏風がキャンバスです。友人のパントマイマー、橋本フサヨさん作・出演の「座敷おやじ」というお芝居で使われる小道具でした。個人的にはこれまでに手がけたことのない大きなサイズの絵ですが、不思議と気負いなく向き合えた仕事です。

◆橋本さん演じるオバケが出没する背景でもあるので、注文は柳にユーレイの「柳」と、オバケ自体を暗示する「雲」が描いてあればあとはお任せ。あらかじめ日本美術全集等で屏風絵のリサーチをし、柳の垂れる感じを掴むために銀座の柳をスケッチしていました。

◆普段はある程度下描きをするのですが、画布として張った襖紙がつるつるして鉛筆が乗りにくい。結局居間に立てた屏風に直接描き始めました。柄が30センチある長めの筆を使い、全体を見渡す距離感をとる為に腕を伸ばして描きます。画布は垂直なので絵の具も垂れます。いろんなことがままならないこの制作環境がとても新鮮でした。

◆手や足まで絵の具で汚しながら描く感覚は、子供の頃にそこいらじゅう汚しながら絵を描いていた頃を思い出します。絵筆の先から未知の世界が飛び出して来るようなドキドキ感。普段の小さなサイズの絵ではなかなか味わえない気分でした。体を大きく動かしているせいもあり、絵を描いているというより心が自由に「放たれ」て遊んでいるような感じが気持ちいい体験でした。

◆地平線通信でも紹介させて頂いた「鮭Tシャツ」のデザインを手がけたのもこの頃です。「雨ニモマケズ」という文字と「南部鼻曲がり鮭」と言うテーマをもらった途端に“立って傘をさした鮭”のイメージが湧きました。アイデアを実際に完成させるまで何度も描き直しましたが、プロジェクトスタッフとのやり取りの中、だんだん輪郭が固まって行く作業は、木を彫るうちに内在していた形が「放たれ」る(と彫刻家が表現するのを聞いたりしますが)、そんな感じかも知れません。

◆前回の百顔撩乱点では『百の顔』というコンセプトだったので、地平線会議のイラスト等も含め、人物画を中心に展示しました。『洟垂れ』がコンセプトの今回はイラストの原画と、それが実際に使用された印刷物を並べ、対比的な展示を行いました。つまり、イラストがどんな形で世の中に『放たれ』たかを示すという趣向です。

◆もちろん、「絵仕事」というサブタイトルにも関わるわけですが。イラストレーションは基本的に原画ではなく印刷されたものだけが人目に触れます。編集者や印刷所ではなるべく原画通りの色再現に尽力するわけですが、紙やインクの質も違うのだから原画通りにはなりません。私は印刷時に色味が多少違ったりするのは宿命だと思っています。色が変わって、原画より面白い表現になる場合もありますしね。教科書やテレビ番組で見知っているつもりの名画を、実際に美術館で見るとずいぶん印象が違ったりします。そんな違いが見える展示になれば良いと思いました。

◆会期中ほとんどずっと会場に詰め、会えなかったのは2、3名だけでした。絵の感想を直接聞くことは普段ほとんどないので、私にとっては個展はとても貴重な機会なんです。漫画風のイラストや、手ぬぐいの原画等、多様なモノを並べたためとっちらかった感じもありましたが、「こんな仕事もしてたんだねー」という感想も耳にして、してやったりとも思いました。地平線会議でも、皆を驚かせるような絵を描いてみたいものです。(長野亮之介

「銀幕一刻」の一枚、エキゾチックな黒髪の女性の美しさ!

■こじんまりした真っ白い家の、ガラス張りの向こうに案内はがきにあったハナタレ招き猫が見えたので、道に迷ったすえ、会場に着けたとわかりました。ワンルームのような家で、壁も天井も白い。住人ぽく長野さんがようこそ、という感じで普段着とサンダル履きでいて、お客様たちと談話していました。

◆現在も連載中の読売新聞の映画コラム「銀幕一刻」の原画や、舞台の大道具になった畳2畳分くらいある屏風絵、書籍の原画、などが、四方八方に敷き詰めてありました。白い部屋に太陽がさんさんそそいでいたので、長野さんが使う色の濃さや明るさがすごく引き立ちました。原画のパワーはすごいですね。

◆「銀幕一刻」の一枚の登場人物であるエキゾチックな黒髪の女性の美しさから私は目が離せなくなり、気になってしょうがありませんでした。長野さんもシリーズの中で一番気に入っているとのことだったので、描き手の熱の高さが伝わったのでしょうか?

◆作品が見飽きない、ということに加えて、1杯ワインをいただいてしまい、1杯といわず何回もおかわりしてしまい、来場した方々と話もはずんでしまい、4時間半もいてしまいました。

◆その間、場所がらもあってか「偶然通りがかってのぞいてみました」というお客様はいなくて、皆さんここを目指して来たようでした。会場はうちの近所だったのに、再びおおいに迷い夜に帰り着きました。

◆長野亮之介さんと淳子さんには品行方正楽団で大変お世話になっています。宴で長野家にお邪魔したときに、長野さんの作風の根っこはここにあるんだな?、を感じました。古い日本家屋の落ち着いたたたずまいのあちこちにあそび心があって、「おかげで毎日飽きない」と淳子さんが話していたのを思い出します。

◆地平線通信の予告イラスト、毎月楽しみです。が、時に、ひどいと思えるくらいのデフォルメに同情の念がわくこともあります。でもすぐにあの人だとわかるくらい特徴をついているので何も言えません。ところで関野さんはなぜいつも裸なのでしょうか。そういう謎も残しつつ……。

◆なので、長野さんてどんな人?と聞かれたら、あそび人!と答えたいです。ドキリと核心をつく発言をされることも多く、気を抜けません。地平線の年報で、20代の頃の写真を拝見する機会がありましたが、今のほうがかっこいい。あそび人は年をとるほど味が深まるんだな?。絵は定年も関係ないからこれからをますます楽しみにしています(プレッシャー)。楽しい教訓を得た個展でした。また開いてくださいね!(大西夏奈子

「はなたれ展」というネーミングがいい!

■長野さんの個展でイラスト原画を拝見しました。今回「はなたれ展」というネーミングが素敵で、ついほくそ笑んでしまう様な感覚でした。「鼻垂れ」からはじまって「放射能が放たれた現代をどう生きるか」と言う所まで様々な意味が隠されていて、長野さんのお茶目なユーモアセンスが良かったです。実物の原画は印刷物で見ていたよりもはるかに色彩が鮮やかでした。多彩で緻密な色のコントロールと人物の表情や描写に長野さんの感性の細やかさを感じ、イラストを近くで細部まで見ていくのがとても楽しかったです。

◆過去の旅の絵日記も印象的で、旅先の人々の表情や仕草が数多く描かれていて、現在の長野さんに至る道程を垣間見た様でした。そして林業関係のイラストでは、実際に山仕事で使われている自作の背負子のイラストを紹介して頂きました。長野さんご自身の山仕事での経験から、山道具の工夫や知恵も同時に教えて頂き、二倍得した気分でした。地平線通信のイラスト原稿も舞台裏を覗いたようで楽しかったです。(山本豊人


■先日の地平線報告会では大変お世話になりました。初めて参加させていただきましたが、とても楽しかったです。そして鮭Tシャツの方もおかげ様で、個展と報告会あわせて100枚以上を売ることができました。本当にありがとうございました。その後長野での販売も好調で、10月中には1000枚に達する見込みです。亮之介さんが生んだ絵の持つ力、人のつながりが生み出す力に驚いています。

◆ご協力頂いている方々の想いを届け、大槌町の中学生たちやそのご家族の笑顔につなげられるよう、細々とでも地道に活動を続けていきたいと思います。今後とも南部ハナマガリ鮭Tシャツプロジェクトを見守りご支援くださいますよう、お願い申し上げます。(長野市 倉石結華

8万kmの旅路の先に見据えるものは、職業としての最終目標、中学教師です
━━『伊東心、自転車世界一周の旅・帰国報告』

■「お久しぶりです!」 9月14日、6年ぶりに駆けつけた榎町地域センター。地平線通信の発送作業に勤しむ皆さんの視線を集めますが、一堂「?」マーク……。「おう!こころか!」沈黙を破った江本さんの言葉にホッとしました。「伊東心、自転車世界一周の旅から戻ってきました!」

◆2005年12月に始まった私の自転車旅。今年6月末に海外の走行を終え、10月末までの4か月間で、最終ステージ・日本を縦断中です。その途中に、立ち寄った東京は、かつて暮らした街であり、地平線会議と出会ったところ……。思い起こせば、初めて地平線会議と関わりを持ったのも、通信の発送作業でした。自転車世界一周への想いを胸に上京してきた社会人一年目の春、自転車旅の師であるエミコ・シールさんに紹介され、榎町地域センターに江本さんを訪ねました。以来、数か月に一度、残業を放棄して報告会に通うようになり、旅への想いを高めてきました。

◆私が自転車世界一周の旅を決意したのが2000年。その3年後に地平線会議と出合い、更にその3年後に世界へと漕ぎ出し……。5年半後の今、その旅を終えつつあります。例えるならば、私は地平線会議で孵化した鮭……。5年半、大海原を回遊して身を肥やし、再び母川へ戻って来たようなものです。

◆さて、心・鮭はどんな旅をしてきたのか? 概要をご説明しましょう。ユーラシア横断?西アフリカ・サハラ縦断?北米横断?北中南米縦断?そして日本縦断。5年半で刻んだ轍は、地球2周分の8万キロ。海面下の低地から、海抜5千m超の高地まで。極寒!-20℃の雪原から、灼熱!58℃の荒野まで。1週間人家を見ない荒野から、人口2千万人の大都会まで……。訪問国数は50程度。地上移動は自転車のみ! 完全自走による世界一周の旅でした。

◆ハイライトを挙げろと言われると困る程たくさんありますが……。ひとつだけご紹介します。「06年のチベット高原横断」。北京五輪前の規制が緩かったチベット自治区を4か月間で横断しました。夏の盛りの雲南省・シャングリラからメコン川を遡り、初めて越えた5千mの峠道では、50mおきに深呼吸……、空気の濃度は半分程度。4千?5千m級の峠をいくつも越え、聖都ラサに着く頃には、心肺機能も赤黒く日焼けした肌もチベット人並みに。9月初に至ったチョモランマ・ベースキャンプ(5200m)では、当地で準備中の英国登山隊よりも強靭な肉体であることが判明。万全の状態で辿り着いた聖地カイラス山では、52kmの巡礼路(コルラ)を3周歩き、生かされていることへの感謝の念を深く心に刻みました。

◆海抜3千?5千mの高地、4千kmの走行の大半がオフロードという険しい道のりでしたが、それは常に人々の生活のすぐそばにありました。草原に点在する遊牧民のテント、農村に並ぶ木造、土壁の家々、そして西部大開発の大号令の下に漢民族化が進むラサなどの都市……。チベットの人々とバター茶を飲み交わし、漢族の移住者が作る中華料理をむさぼる……。チベットの今を見つめつつ、神々しい大自然と対話する日々は、この旅で最も充実した時間のひとつでした。

◆発送作業の後は、やはり6年ぶりの、「北京」での食事会。旅のおもしろ話はいくらでも用意がありましたが、江本さんから投げられた唯一の質問は、旅の核心を突くものでした。「心の旅は他と比べてどう違う?」どう違う……? 他人と比較にはなりませんが、自分の中で揺るぎない信念・想いは持っています。それは、「この旅を教師になるための修行とすること」、「この旅を旅のプロとして完遂すること」です。とかく、このような大きな旅をしていると、旅そのものを「夢」だとか「挑戦」だとか言う表現で括られがちですが……。私にとって、旅はあくまで通過点。8万kmの旅路の先に見据えるものは、職業としての最終目標、中学教師です。

◆教師を志したのは15年前……。教師となるからには、自分の言葉で生徒を指導できる教師でありたい! そのためには「教育畑」の外も知っておきたい! という思いが芽生え、教師になる前に、10年間は別の畑で修行すると決めました。元々異文化への関心が深く、旅行に傾倒していた私は「旅行畑」を軸に、自分を鍛え上げる道を選びます。

◆私の「旅行」へのアプローチは、語学留学、バックパッキング、登山、カメラマン、旅行会社勤め、プロ添乗員、旅行ライター、そして旅のサイクリスト。この世界一周の旅では、複数の企業からご支援を頂き、新聞・雑誌・ネット上で旅行記を書き、講演活動も行っています。「旅行」に取り組んできたこの10年間の集大成として、旅のプロとして旅を完遂しつつあります。

◆海外走行中、そして帰国後、私は数百名の中高大学生を相手に旅の話をしてきました。講演会や連載記事に寄せられる感想から、上述の「教師になるための修行」「旅のプロとして」という想いが、感嘆を以って受け入れられていることが判ります。私の話が、20歳以下の若者たちが自分の人生と向き合うキッカケになってくれたら……。この願いは、少なくとも一部の若者には届いているようです。

◆さて、ここからが大事です!! 「先生になるため」と言っておいて、先生になれなかったでは話にならない。旅行畑で実った種、教育畑でもしっかりと芽吹かせなければなりません。どんなに面白い体験を有していても、試験をパスしなければ教員にはなれませんからね。旅のプロとしての卒業論文・旅行記も出したい。そして、地平線会議産の「鮭」として、いつか報告会の壇上に上がれるよう精進を続けたいと思っています。(伊東 心

山を軽く見るような先入観は無用。そしていつでもひとは死ぬ
−南アルプス聖沢・墜落現場再登の記

■昨年『情熱大陸』の取材中に、南アルプス聖沢で滝を高巻きしようとして墜落した。その事故で山が怖くなったらしい。シーズン最初の沢で身体がうまく動かなかった。山登りを続けるために、もう一度現場に行って、事故の内容を検証する必要があると考えた。恐怖に対してどんな対処をするにせよ、自分なりの分析があるかないかで克服すべき内容も効率も違うと思ったからだ。そのためのトレーニングとトレーニング山行のことは、岳人9月号に書いたので省略。6月に1500メートル走で生涯ベスト(4分27秒)を出したので、肺のケガからは全快したといえると思う。

◆夏のサバイバル山行に事故現場検証を含めることにし、今年も南アルプスに行くことにした。昨年のルートの途中から始めて、落ちたところを通り、さらに北上する計画である。今回はひとり。ゆっくり登山を始め、イワナを釣り、それなりに身体がサバイバル登山に慣れてきたところで、もう一回事故現場を歩き、どうして落ちたのかを確認したいと思った。

◆8月2日、信濃俣河内入渓。雨。ヒル多い。8月3日、オリタチ沢出合の廃屋まで。第一ゴルジュ予想より悪い。釣り上げたイワナのサイズ・33×1、30×1、泣き尺4。8月4日、二股上へ。悪いところなし。途中尺上1本。泣き尺から9寸15本。魚止めにて39、32、30、9寸を釣る(32のみ放流)。

◆8月5日、朝から雨が降ったりやんだり。沈殿とする。雨のやんだ隙に魚止めに行って、前日に放した32をもう一度釣りなおして食べちゃう。8月6日、聖沢ゴルジュ下へ移動。昼過ぎより雨。釣りは小物数匹。8月7日、聖沢ゴルジュ溯行。昨年落ちたところを調査。山に残して来たザックを回収。尺×3本、9寸数本(内1本キープ)。8月8日、聖沢を詰めて登山道に出て、聖岳登頂。赤石沢の奥の二股へ。奥赤石沢の魚止め滝で32、42と釣り、下流に釣りに下りて、小物30尾を釣る。さらに尺を3本と9寸2本を釣り、奥赤石の魚止め滝上に30尾+9寸2本を放す。

◆8月9日、朝、赤石奥魚止めにもう一度出向き、30ぴったりと39を釣る(ともに放流)。前赤石沢を溯行し、赤石岳登頂。奥西河内へ移動。奥西河内で小物と31を一本。31は刺身にする。8月10日、支流の西河内を登り、悪沢岳登頂。大井川西俣、小西俣に下り、伝付峠を越えて泊。8月11日、下山。

◆釣り上げた尺以上のイワナ合計16本(42×1、39×2、33×1、32×2、31×1、尺ジャスト×9)。聖沢の事故現場もよく見てきた。墜ちた場所そのものより、そこに至るまでのゴルジュ全体を悪く感じた。覚えていない滝も多かった。墜ちたショックで忘れたのではなく、事故当日、かなり疲れていて、集中できていなかったのだと思う。出発前にちらりと見た『日本登山大系』で聖沢が<中級者がスケールの大きな沢登りに馴れるために入渓してみたらよい>と紹介されていたために、やや見くびっていた面もあった。その評価に囚われて、中級の沢でいちいちザイルを出したり、小さな滝にグズグズするわけにはいかないと見栄を張り、無理していたと今では感じている。

◆墜落現場から200mほど下で、ザックを発見した。岩の間に倒木と一緒に挟まっていた。一目見て遭難者かと思い、「だとしたらオレ?」と考え直して、その皮肉に笑った。半分埋まったザックを引っ張って掘り出し、ザックの上にくくりつけた。

◆墜落現場ではロープを出した。だが誤って落ちるほどの悪場はなく、どこでミスをしたのかわからなかった。墜落後に倒れていた地点から逆算して滑落ポイントを割り出してみたが、そこは普通の判断ならちょっと踏み込まないような草付きに見えた。

◆懸垂下降で沢床に下降する。距離はぴったり20mだった。対岸から見ると、懸垂支点のより少し上流に、まさにミスしたポイントと思われる場所があったが、確認には行かなかった。そして、昨年はぜーぜー言いながらなんとか歩いたところを、今年は鼻歌混じりで歩き、尺岩魚を一尾釣りそこね、二股の先を宿泊地とした。

◆薪を集め終わるころに雨が降り出し、ゲリラ豪雨となった。水が地面にしみ込むよりはやく雨が降り、タープの下にも流れ込んで腰を下ろす場所もない。タープの隅、木の根元の小高いところに焚き火を熾し、回収したザックと装備をナイフで切り刻んで投げ込んだ。燃えているザックが自分自身だった可能性も小さくはなかったと考えると、自分を荼毘に付してるかのようで、落語の「そこつ長屋」的な倒錯感があった。

◆墜ちたのはテレビの取材が付いてきていたために、いつものペースを失っていたからではないか、という指摘を何度か受けたし、自分でも考えてきた。事故直後は否定していたが、現場を見た今は、そういう面はあったかもしれないと思っている。私は見栄っ張りだし、サービス精神もあるつもりなので、全体的にテンションが高かったのではないかと思う。そのためにいつもなら見えることが見えていなかったかもしれない。

◆ただ結論としては、やっぱり悪いところは悪かった。これまで並べてきた理由に、七日目の疲れが加わって、安っぽいポカをしたんじゃないかというのが、改めて現場を見た上での結論である。

◆現場に行って恐怖がなくなったかというと、なかなか難しい。以下の2点に関してはあらためて実感した。山を軽く見るような先入観は無用。そしていつでもひとは死ぬ。

◆私は「近い将来も自分が生きている保証はない」という冗談を、事故前から好んで口にしてきた。タフぶっている感もあったが、事故後は深みと信憑性? が加わって、よりブラックになり、使用度は増えている。(服部文祥

(ユリイカ別冊で石川直樹特集というのをやるらしく、その対談で石川君と久しぶりにゆっくり話してきました。地平線の悪口? も言い合ったので、立ち読みしてみてください)


あとがき

■日曜日の夜、「情熱大陸」という番組に山田淳君が出ていた。「Tシャツ、ジーンズ ヤマノボラーの福音」とのタイトルで昨年9月に話してもらったが、その時の内容を中心に構成されていた。登山人口を7割にしたい、という山田青年の意気込みが伝わってくる内容だった。3歳になった樹(いつき)君が親父のザックを背負って登場したが、かわいかったなあ。そういえば、冒頭のキナバル山頂での写真、どこかでお見かけした地平線のお姉さんふたりが出ていたぞ。

◆この番組を作ったのはジン・ネットの高世仁さん。「チェルノブィリの今、フクシマの教訓」というDVDを作って発売したことは、地平線通信でもお知らせしているが、今月の地平線報告会にもう一度登場をお願いした。チェルノブィリの教訓は間違いなく重要、と思うからだ。

◆南相馬市から参加してくれる上條大輔さんもこのDVDを見て「これは、福島県中の人に見せたい」と、うなった。報告会でも10分だけ見せてもらうつもりだ。天栄村で日常がいわばサバイバルの滝野沢優子さんはじめ皆さんの知恵を借りて「福島の今」を伝えられることを願う。

◆「情熱大陸」といえば、服部文祥君も去年の秋だったか登場した。その時、画面にも出た墜落の現場をことし再び登りに行った、と聞き、書いてもらった。角幡唯介君の「梅棹忠夫・山と探検文学賞」の授賞式、11月2日、長野でと決まった。地平線の周辺ではあちこちで話題になる人が多いですね。これからも静かに見つめていたいと思う。(江本嘉伸

■今月の地平線報告会の案内(絵と文:長野亮之介)
地平線通信裏表紙

フクシマ回覧板(ライブ)

  • 10月22日(土) 14:00〜18:00
  • ¥500
  • 於:新宿区立新宿スポーツセンター(03-3232-0171)

「毎日、一時間おきくらいにTVで放射線量測定値が発表されてますよ−。18才未満の子と妊婦にはガラスバッヂって呼んでる積算線量計が配られてますね。日常と非日常が入り混じって、毎日興味津々ですよー」と言うのは福島県天栄村在住の滝野沢優子さん。バイクツーリングと犬を愛するフリーライターで、自らも自宅が大規模半壊した罹災者でも。

東日本大震災から7ヶ月。直接被災せず福島第一原発から100km以上離れた地域では早くもノド元過ぎたようなムードも漂っていますが、福島ではまさにライブな、日々進行しつつある出来事です。

「学校給食も地域によってはつい6、7月までオニギリ一個だったりしたんです」と言うのは、南相馬市で障害児の福祉と自然環境整備事業をしていた上條大輔さん(43)。震災当日は林業地の山中で“山鳴り”を耳にし、波打つ道路を車で必死に施設に向かう経験をしました。

中央メディアでは報道されないこうしたライブな福島の姿とは。25年前のチェルノブイリのその後を追うジャーナリスト、高世仁さんの提言を交え、今月は三つの視点から今の福島を考えます。必聴、必見!


地平線通信 384号
制作:地平線通信制作室/編集長:江本嘉伸/レイアウト:森井祐介/イラスト:長野亮之介/編集制作スタッフ:丸山純 武田力 中島菊代 大西夏奈子 落合大祐 加藤千晶
印刷:地平線印刷局榎町分室
地平線Webサイト:http://www.chiheisen.net/


発行:2011年10月12日 地平線会議
〒160-0007 東京都新宿区荒木町3-23-201 江本嘉伸方


地平線ポスト宛先
pea03131@nifty.ne.jp
Fax 03-3359-7907 (江本)


◆通信費(2000円)払い込みは郵便振替(料金が120円かかります)、または報告会の受付でどうぞ。
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議


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