2011年9月の地平線通信

■9月の地平線通信・383号のフロント(1ページ目にある巻頭記事)

地平線通信表紙

9月14日。またまた猛暑がぶり返している。都心は10時過ぎに31度。が、空気は紛れもなく秋の匂いだ。昨年のような激猛暑は、もうないだろう。だが、それは東北にとっては厳しい冬の訪れを意味する。

◆9月11日まで3日間、天栄村の村民、滝野沢優子さんの助けで福島県内の被災地を歩いた。3.11以来、東北には前後4回ほどごく短期のボランティアで行っているが、東電第一原発のある福島には、入るきっかけがないまま半年が過ぎてしまった。自宅が「大規模半壊」の被災をした滝野澤さんにお願いして、3.11から半年経った福島につきあっていただいたのだ。

◆初日は田村市大越町にある「にゃんだーガード」を訪ね、葛尾(かつらお)村での給餌活動に同行した。豊かな緑に恵まれた村に、いま人の気配はない。道を行ったり来たりしているのはパトカーだけ。村の入り口の組み立てハウスには自警団の人たちがいて、車の出入りをチェックしている。窃盗事件が後を絶たないのだ。

◆飼い主が去った家に残された犬や猫たちは、ほぼ毎日交代で食事、水を持って訪れるボランティアたちの給餌によって支えられている。どこにどんな犬、猫がいるか把握しているからできることだ。尻尾を振って迎える犬を見ると、食事よりも人が来てくれることが嬉しい、ということがわかる。そういう仕事をやり続けているボランティアの皆さんに頭が下がる。

◆中には「いつもありがとうございます。感謝しています」と、貼り紙した家もある。自分の犬、猫たちを必ず引き取る心がそこに見え、一瞬ほっ、とする。ただし、原発から20キロ圏内には一切立ち入りできないので、その中に残された動物たちの状態はわからない(「にゃんだーガード」の趣旨、活動内容については、滝野澤さんの原稿を読んでほしい)。

◆2日目はいわき市周辺に行った。20キロ圏内の楢葉町で被災、いまはいわき市にいるライダー、4月の報告会に来てくれた渡辺哲さんも合流してくれ、3人で動く。いわきは、人口33万人、面積とも福島で最大の都市だ。豊間、小名浜、久ノ浜、四ツ倉など海辺の町は壊滅的な被害を受け、港近くの交差点の信号はいまなお「故障中」の張り貼が貼られたままだ。海沿いを行くと、セブンイレブンの「移動販売車」が営業していた。辛うじて外形が残った家の壁に「これは私の家です。壊さないでください」との書き込みが痛い。

◆美空ひばりの歌で知られる有名な塩屋埼では、キリスト教系の人々が無料でたこ焼きや氷菓子を振る舞い、集まる人々に音楽を聞かせていた。衣料品、ティッシュペーパーなどどれも無料。支援物資の有効利用なのであろう。

◆あの日から半年の節目となる9月11日、天栄村から線量計を見ながらドライブを開始した。はじめ0.3?0.4マイクロシーベルト毎時だった線量は、二本松近くに達すると1.7まで上がった。爆発時の風向きによるのだろう、福島市を含め、都市部の線量は意外に高いようだ。いったん下がった数値は峠を越えるとぐん、と上がった。飯館村に入ったのだ。ためしに交差点で車を止め、側溝付近を測ると「9.7」の高い数値が出た。

◆人気がない村だが、役場は開いていた。建物の前に真新しい計器が据えつけられている。「放射線量」を常時測定して見えるようにしているのだ。「2.82 マイクロシーベルト」となっていた。トイレついでに内部を測ると「0.23」と俄然少ない。室内はこんなに違うのか、と驚く。子どもを外で遊ばせたくない親の気持ちがよくわかった。

◆役場前の広場には「心和ませ地蔵」というのがあった。「お地蔵さまの頭をなでると『村民歌』が流れます」と書いてあるので試しにさわったら、歌が流れ出した。♪ 山美しく 水清らかな その名も飯館 わがふるさと みどりの村に 小鳥は歌い うららの 春陽に さわらび萌える ああ われら 今こそ手と手 固くつなぎて 村を興さん 村を興さん ♪「飯館村民歌 夢大らかに」という歌。村人たちは避難し、ここにはいない。胸のつまる歌声だった。

◆さらに進むと、南相馬市に出る。一時は市民が一斉避難し無人の街と化していたが、線量が低いことが確認された今では、人々が戻りはじめている。震災から半年になるのを記念して「南相馬市復興イベント・和太鼓フェスティバル」がちょうど始まっていた。翌日のテレビでみのもんたが紹介していたイベントだ。関西からの太鼓グループに地元の相馬野馬追太鼓が加わり、活気にあふれた場内だったが、子どもや母親たちの姿は少なかった。

◆夕方近く相馬市まで行く。ここには畑に多くの舟がなお放置されていた。津波に内陸まで運ばれた「乗り上げ船」である。港近くの川には旅館の送迎バスが半分沈みかけた姿をさらし、骨だけとなった家々がかろうじて立ち尽くしている。地震と大津波、原発爆発、それに風評被害の四重苦を背負わされた福島。ここといかに対峙するか、日本が問われている。(江本嘉伸


先月の報告会から

太古の風、光、匂い、そして‥

関野吉晴

2011年8月27日 18:30〜21:00 新宿区スポーツセンター

■関野さん、おかえりなさい! 日本列島へ渡ってきた古(いにしえ)の人々の足跡をたどる「新グレートジャーニー(以下:GJ)」の第3弾は、インドネシアから沖縄へ至るまでの「海のルート編」、別名「黒潮カヌープロジェクト」。足かけ4年、作業に携わった人はムサビこと武蔵野美術大学の学生だけでも100人以上。その顛末を聞きたくて、夏休み最後の土曜日の報告会は全国から集まった人達でいっぱい。

◆日本人の来た道をたどる、という表現は正確ではないと関野さんは話す。「日本人というグループはもともといない。日本はさまざまな地域からたどりついた人間のふきだまり。A・B・Oの血液型がそろっているのは世界でもわりと珍しく、多様な人種が集まっていることがわかる」。日本は東の果ての行きどまりの島国。西のイギリスも同様だという。

◆昔の技術で「海のルート」を渡るのは不可能だと主張する人もいるが、関野さんは反論する。「何世代もの長い時間をかけて島づたいに移動すれば可能」。波風にあおられる舟の旅に女性や子供は耐えられないのでは?と尋ねると「静かで安全な時に行くから大丈夫。1つの世代で隣の島に移るくらい、ゆっくりゆっくりしたスピードなら問題ない」と即答だった。

◆人類が地球上に拡散した道をたどるGJの旅を10年かけて終え、新GJの北方ルート編と南方ルート編も完結した関野さん。最難関の海のルート編に取り組むため、2008年春にインドネシアを訪れた。航海のパートナーに選んだのは、舟作りがさかんなスラウェシ島のマンダール人。「サンデック」という帆船のレースで知られ、今でも帆船を扱う珍しい民族だ。少数民族のマンダール人は他の大きな民族から見下げられていた。関野さんは彼らのことが好きになった。

◆周囲360度が海。航海は島影が頼り。島がない所では星と月と太陽がナビゲーター。ただし日中は太陽がずっと真上にあるため、夕方に西へ沈むまではあてにならない。夜は北極星で方角がわかり、南十字星の位置で現在の緯度が読める。南半球に生きるマンダール人にとって、生まれて初めて見る北極星だ。

◆マンダール人はコンパスを使いたがった。イスラム教徒なので礼拝の方角を知るためだ。しかし関野さんは彼らを説得し、昼の航海中はコンパスも海図も使わず、古代の人と同じように五感のみに頼ることにこだわった。水の深さは海の色を目で見て、風向きは帆の様子や皮膚で感じて。

◆関野さんを含めた日本人4名とマンダール人6名は2隻の舟に分乗し、その組み合わせは時に変わった。4畳半ほどの舟で24時間衣食住と排泄をともにする「多民族共存の実験場」。日本人メンバーはGJのシーカヤックパートナー渡部純一郎さん──経験豊富な渡部さんは主に安全面の判断を担う。ムサビOBの前田次郎さんと佐藤洋平さんはクルーの中で最年少。プロジェクト開始時は卒業したばかりの24歳だった。

◆報告会に参加していた前田さんが、舟の生活について解説してくれた。洋服は各自で持ち込んだものを自由に着て、雨が時々きれいにした。食事はマンダール人に合わせたが、彼らの主食も米。おかずになる魚や貝はすぐに釣れる。途中に立ち寄る村々ではフルーツや水や野菜を買える。舟の上で、薪を燃料に火を使って調理もできるので困らなかった。

◆ある村で物売りに勧められて2羽のニワトリを買い、2隻に1羽ずつ乗せた。その時関野さんと前田さんが乗っていたパクール号ではすぐに食べてしまったが、4人しか船員がいない縄文号では新しい仲間の登場に心が和み、しばらく一緒に航海した。自分達のご飯を分けてあげたり、たくさん糞をするのでこまめに掃除したり、いとおしい存在だったという。

◆前田さんが語る一番辛かった思い出。座ってオールを漕いでいると睾丸がすれて皮がすりむけ、その傷口にさらに潮水を浴び続けたこと。横でうなずく関野さんの苦い表情を見る限り、痛そう。「航海中は寝るか座るかしかないので運動不足になり、足腰が弱って宇宙飛行士の気分だった」と関野さん。日常的に小舟で漁をするマンダール人の男性は一般的に足が細いそうだ。

◆ゴールを目前にして、ひた走る2隻の映像が流れた。縄文号のほうが小さく、弱い風ではスピードも格段に遅い。2隻が並走するのは簡単ではなく、パクール号が先回りして待ったり、パクール号の帆を操って風を逃がしわざと遅く進んだり、互いを視野に入れ調整しながら進んできた。

◆貴重な映像が見られるのは「撮影班」がクルーを追ってカメラを回し続けていたから。報告会に参加していたムサビOB水本博之さんは、主に伴走船から撮影したが「大切なことは舟の上にある」と可能な限り舟に乗り込んだ。しかしただでさえ定員ギリギリなのでクルーからは歓迎されず、彼らに快く話をしてもらうのが一苦労だったという。

◆未知の航海では、舟の中でも嵐が勃発。いざという時誰よりも頼りになるマンダール人クルーのイルサンは躁鬱が激しく、家族が恋しくて突然家に帰りたがったりするので、マンダール人達が彼をメンバーから外すよう関野さんに頼んでくることもあった。舟体トラブルもたびたびあった。帆の帆桁が古くなって折れた時は骨折と同じ処置をしてなんとかしのいだが、修復が一筋縄にはいかなかったのは人間関係のほころびだ。

◆関野さんは航海が始まる前に「文化も宗教も違う人間が狭いカヌーの中で、危険と隣り合わせの活動をする。本音の出し合いの中でトラブルも多発するだろう」と地平線通信に書いていたが、「自他ともに認めるトラブルメーカーだった」のは前田さん。航海1年目の慣れない旅で、自分も何かやらなくちゃという思いから出た行動が空回りした。

◆マンダール人達が不満をあらわにした理由の一つは「食料が少ない」。もう一つは「前田さんと一緒にやりたくない」。事の発端は、前田さんが持参した防水バッグをマンダール人キャプテンともう一人のマンダール人に「シェアして使ってね」とあげたこと。すぐにびしょぬれになる舟の生活で思いついた善意だった。ところがシェアしているはずのマンダール人がもう一つ欲しいと頼んできたので、前田さんは断った。キャプテンが1人で使っていたのだ。

◆シェアして使うように再度キャプテンに伝えると、他のクルー達の前で年下の若者に注意されるという辱めを受けて、最年長のマンダール人キャプテンは大激怒。マンダール人は年長者を敬い、年長者の意見に従って調和を保つ社会。腹をたてたマンダール人キャプテンが前田さんのことをうっとうしいというと他のマンダール人達も頷いた。孤独になった前田さんは意思疎通がうまくできないのは言葉の壁のせいだと思い込み、辞書を開いてひたすら語学の勉強に打ち込む。

◆後になって前田さんは気づく。荷物入れを他人とシェアするという発想はマンダール人にはない。マンダール人達全員がキャプテンに頷いたのも年長者に同調してのことだと。航海2年目からは互いをもっと理解できるようになり、「マンダール人と正面からぶつかってけんかもしたが、最終的には彼らが考えることがよくわかるようになった。むしろ関野さんや洋平の考えてることのほうがわからないくらいだった」と笑う。

◆マンダール人のコミュニケーション方法は変わっている。「彼らはまっすぐものをいわない。いざこざを避けるために、自分がいいたいことを必ず別の人を介して伝える」と関野さん。マンダール人が関野さんに意見がある時は、他の日本人メンバーにわざわざ伝言を託してきたそうだ。男女ともにそういう習慣らしいが、好きな人に告白する時はちゃんと向き合っていうのかな?

◆インドネシアから、フィリピンを経て台湾へ到着した一同。台湾でしばらく遊びたかった若手2人に、関野さんは明日日本へ出発すると告げた。ちょうど台風3号が来ている。リーダーの関野さんが旅最後の決断を迫られる場面となった。この風を利用してゴールまでの残り300kmを一気に進む大胆な計画、進むか待つか?

◆いつもは慎重な渡部さんが賛成派に回り、前田さんと佐藤さんは躊躇した。「結果としては良かったがとても難しい決断だった」と関野さん。これまでも荒れる波風を乗り越えてきた縄文号の底力に自信を持ち始めていたことや、悪天候で出航を見送ったら最高の航海日和になった悔しい思い出も、関野さんの背中を押した。進む!を選んだ関野さんは興奮で出発前夜眠れなくなった。

◆そして風に乗り猛スピードで2隻はついにゴールの石垣島へ到着!「この旅が成功したことで古代の人々が日本へ海で来たと証明したことにはならないが、可能性があったとはいえる」と関野さん。五感、に加えて、研ぎ澄まされた六感も関野さんを突き動かしていたのかもしれない。はるばる日本にやって来た「僕らのカヌー」は長かった旅を終え、今しばらくはムサビの敷地内で2隻そろって休んでいる、ZZZZZ…………。(大西夏奈子


「僕らのカヌーができるまで」という映画について

■古代のやりかたにならってカヌーを作る。「素材から作る体験はものづくりをする人にとって貴重な機会になる」と関野さんがムサビの学生や卒業生に参加を呼びかけたところ、多くの手があがった。学生達はチームに分かれ、先人の知恵を借りながら体当たりで研究と工夫を重ねていく。その過程は「撮影班」によって丁寧に映像記録におさめられ「僕らのカヌーができるまで」という映画になった。

◆斧・ナタ・ノミを完成させるまで、気が遠くなるような2か月半。伝統的な手仕事にこだわり、技術伝達を通じて人間そのものを育てていると語る職人。自然の素材と人間の知恵と動力だけで作った道具からにじみ出る、言葉にできないやさしい深い深い温かみ。すごい。今までの人生でそういうものにどれくらい触れてこれただろう?

◆「縄班」は葛やシナなどの草木を採取して試作品を編むという地道な作業を繰り返す。「作業が生活の一部だね」と地べたに座り手を動かしながら話す学生達。試行錯誤を経てシュロの縄をインドネシア滞在中の関野さんへ送り届けた。

◆「食班」は天然の素材からの保存食作りを試みる。山形のお婆さんから学んだトチ餅は、灰ときれいな水がない東京では実現できず、代わりにマテバシイの実でクッキーを作った。とれたての熊汁をごちそうしてくれたお爺さんは「やめられねえよ。なんともいえねえだろ? こういう肉食ってると人間正直になる。熊は木の実とか自然のものしか食わねえから」。昔ながらの生活を営む人の日常の会話にはっとした。

◆インドネシアでは丸木舟の材料にする大木探しに苦戦。理想的な木になかなか出会えない。それに加え、ドリルやチェーンソーを使わずに船を作るのは無理だと舟大工達からは文句が飛ぶが、仕事を引き受けてくれる舟大工を探して交渉を重ねる関野さんは「ウルトラCとして、もし大木が見つかったら2隻作っちゃおうかって思うんだよね」と楽天的。

◆その後、奇跡のように大木が見つかってウルトラCが実現した。1隻はマンダール人の伝統に基づいた構造船「パクール号」として、もう1隻は大木をくりぬいた丸木舟「縄文号」に生まれ変わる。反発していた船大工達も嬉々として制作に打ち込み、2隻は晴れて進水の儀式の日を迎えた。

◆舟体にはサンゴの粉をココナツヤシの油で溶いた漆喰を塗り、「アスファルトよりも強いよ」と誇らしげな舟大工。関野さんが「これで日本まで無事に行けますか?」と聞くと彼らはウンとうなずいた。乾燥させたヤシの若葉を居坐機で三角形の帆に編み上げ、マンダールの老人は「30年ぶりに我々の知恵が蘇ったよ」と伝統的な織り方の復活に大喜び。夕暮れで海が金色の光でいっぱいの時、手織りの帆が透けて黄金に輝き本当に美しかった。空も海も雲もきれい。舟もきれい。何もないのに見とれる場面ばかりだった。(大西


報告者のひとこと

「縁というのは実に不思議なもので、一人の人間を探していると、必ずその人と私の共通の知り合いが浮かび上がってくる」「よく考えてみると、たった3年で着いてしまったのだ」
 関 野 吉 晴

 2008年、道具を作るために素材を自然から自分たちでとってきて、自分たちで作ると決めた。まず鉄を作らなければならない。砂鉄を集め、炭を焼き、たたら製鉄をしなければならない。そこで東吉野に向かった。刀鍛冶の河内國平さんに相談するためだ。日本が鉄鋼先進国であるにもかかわらず、今もたたら製鉄をしているのは日本刀を作るためには砂鉄からたたら製鉄で作らなければならないからだ。出雲では今でもたたら製鉄をしていると聞いた。刀鍛冶に相談すれば何か突破口があると思ったからだ。

 大阪の難波から東吉野に向かった。河内晋平君の父親、刀鍛冶の河内國平さんと会うためだ。佐藤洋平、前田次郎の他に武蔵美の学生、卒業生3名が同行することになった。近鉄の最寄り駅まで1時間半かかる。そこからは車でおよそ40分、吉野杉やヒノキの美しい森に囲まれた閑静な所に家と工房があった。

 家に到着すると、奥さんが迎えてくれて、すぐに仕事場に案内してくれた。暗幕を張って、電気が消されていたので、薄暗い部屋の中に木炭の燃え盛るオレンジ色の炎だけが明りだった。その明りに照らされた國平さんの顔がオレンジ色に輝いていた。厳しい顔で、炎を見ながら手押しのフイゴを押していた。若い弟子が二人、炭を切っていた。コロンコロンコロンと槌で鉄の叩き台をたたくと、その合図に、國平さんの前に重そうな槌を手にして、並んだ。國平さんが忙しくフイゴを押すと、炎が火花を散らしながら燃え盛った。二人の助手が槌を振り上げて、力強く振り下ろす。國平さんが叩く所を指示する。正確に打たないと國平さんの怒号が飛ぶ。この刀匠國平さんとの出会いによって道具作りは飛躍的に進むことになった。

 日本刀は新日鉄や神戸製鋼などが作った鋼からは作れない。宮崎駿監督の「もののけ姫」にも出てくる、太古から行われてきた、たたら製鉄から生まれた粗鋼から作る。日本刀作りの伝統が残っているおかげで、唯一日本にだけたたらの伝統が残っている。そのほとんどのあるいは玉鋼は島根県で作られている。その指導者が村下と呼ばれ、日本では木原さん一人になっている。その木原さんにも連絡を取ろうと思っていた。

 さっそく東吉野に行き、國平さんとお会いしたのだ。刀鍛治として協力を惜しまないと約束してくれただけでなかった。紹介してもらおうと思っていた島根の村下ではなく、東工大の永田和宏さんを紹介しようと言って、さっそく電話してくれたのだ。そしてNPO「モノづくり教育たたら」でたたら製鉄を指導している永田先生も「協力を惜しまない」と言ってくれた。

 縁というのは実に不思議なもので、一人の人間を探していると、必ずその人と私の共通の知り合いが浮かび上がってくる。

 永田氏から120kgの砂鉄を集めてくださいと言われたが同時に「300kgの炭も準備してください」と言われた。炭は何回か焼いたことがある。しかしドラム缶で少量焼いただけで、300kgとは大変な量だ。世界炭焼き協会の会長で「炭焼きが世界を救う」と唱えて86歳の今も世界をまたにかける杉浦銀次さんに炭焼き指導してもらうことになったが、共通の知り合いが何人もいた。難なく連絡がとれ、杉浦さんの協力を仰ぐことになった。

 永田氏は彼がたたら製鉄をする時に使う炭の購入先を紹介してくれた。砂鉄もニュージーランドの砂鉄が九十九里のそれと似ていて良質だ。それを簡単に買えるので購入先を紹介してくれた。しかし私が「いいえ炭も自分たちで焼きたいのです」と言うと、少し声が詰まって、「なんで?」と思っている様子だった。河内さんも最初は何故たたらをするのか、そのために必要な砂鉄を自分たちで集めて、必要な炭を自分たちで焼くのか理解できなかったが、詳しく説明すると納得してくれ、その後熱っぽく協力してくれるようになった。

 それから縄文号とパクール号が石垣島に着くまで3年以上かかっている。しかしよく考えてみると、たった3年で着いてしまったのだ。スンダランドから日本列島にやってきた太古の人たちは幾世代もかけて航海して来たことを考えれば、あっという間に航海し終えてしまったといえる。応援団長の岡村隆氏や事務局の野地耕治氏、安全対策に奔走してくれた白根全氏らこの航海で尽力してくれた人たちは「やっと終わった」とほっとしていると思う。私も最初から腐った木で作ったぼろ船で、トラブルも多かったので、「よく着いたな」「ほっとした」という思いがある半面、もっとのんびりと航海を楽しみたかったなとも思っている。


見事な造形物「縄文号」「パクール号」を必ず見て、さわるべし!!!

■東京・小平市にある武蔵野美術大学鷹の台キャンパスの中央部、12号館前の広場に2隻の丸木舟が鎮座している。手前の、やや短い艇は、「縄文号」。全長7メートル。奥の幾分大きいほうは「パクール号」。11メートル。2艇ともこの大学で文化人類学を教える関野吉晴教授と弟子、インドネシアの島人たちの労作だ。
 縄文号、パクール号を身近に見て、なんと美しい造形物か、と感嘆する。すべて手作りの潔さがひとつの「作品」となっていることに驚くのである。そして、21世紀の今、東日本大震災の大津波で太平洋沿岸がことごとくやられ、人々が必死で立ち上がろうとしている時、この2隻が訴えかけるテーマはとてつもなく深い、と感じたのである。
 滅多にない造形物だ。見に行くべし。足を運び、自分の五感で確かめるべし。無形文化財クラスではないか、と私は大袈裟でなく思う。(E

 以下、武蔵野美術大学のウェブサイトから、展示の案内。

◆海のグレートジャーニー展
 日本列島にたどり着いた人類の足跡。インドネシアから石垣島4,400km◆

■開催日程:2011年07月11日(月)〜2011年09月30日(金)
   平日:9:00-20:00/土曜日:9:00-17:00 *日曜日・祝日は休館
■開催場所:武蔵野美術大学図書館
★外部の方は図書館入口で「海のグレートジャーニー展」を見に来たと伝えると入場できます。
■入館料:無料
■主 催:関野吉晴研究室

★本学関野吉晴教授(文化人類学/人類史)が、佐藤洋平(2007年油絵学科卒業)と前田次郎(2008年基礎デザイン学科卒業)、その他本学の学生、卒業生及びインドネシアのマンダール人とともに、日本列島にたどり着いた人類の足跡を旅した記録を紹介する展覧会を、武蔵野美術大学 図書館にて開催しています。
 現在、12号館前に二隻のカヌー、「縄文号」と「パクール号」が展示してあります。それらのカヌーが「どのように作られ」「どのような航海をしてきたのか」を、ここ図書館での「海のグレートジャーニー展」をご覧になっていただくと、お分りになると思います。

報告会もうひとこと:関野吉晴さんと宮本常一さん

■「旅するお医者さんのすごい先輩がいるよ!」と高校生の時に同級生から関野さんのことを聞いて初めてGJを見ました。アドレナリンがどばどばめぐって、大人になってもこんな生きかたできるんだ、世界の人とこうやって話ができるんだ、行っちゃえばいいんだー!と衝撃を受けました。

◆親子ほど年上の関野さんに、「世界」とか「冒険」とか「人類」という刺激的な世界があることを教わりました。「GJに憧れて世界へ行く」と旅に出ていった同世代の友達が私の周りに何人もいます。関野さんは好きなことを貫いているだけだとしても、違う世代にまでこれほど強烈な影響を与えてしまうのはなぜだろうと思います。

◆関野さんはどんな高校時代を送っていたのかお聞きしたら、「柔道部にいたけど道場の窓から校庭のラグビー部の練習が見えて、外で走り回れるからいいなぁと眺めてた。それで気がついたらラグビー部員になって一緒に外を走ってた」と、関野さんは青春時代から「いいな。いいな。やりたいな」に駆り立てられていたことが判明。今でも仲良しの高校の親友がめざましテレビの大塚範一アナウンサーだと聞いて、鋭いところや憎めない笑顔の温かさがなんとなく似ているなあ?と思いました。

◆地平線会議創設メンバーの皆さんの口から宮本常一さんのお名前が出てくるたび、若者の人生にそんなにも影響を与えた宮本常一さんとは一体どのような方だったのだろうと、文字や写真だけを見て想像をふくらませています。人と人の生きる時代が重なるかどうかは、人の人生を大きく左右することなんですね。こうして今同じ時代に生きて、関野さんから直に旅の話を聞いたり見たりするチャンスがある、関野さんのかたくなな熱を感じることができる嬉しさをかみしめる人が、私以外にも本当にたくさんいると思います!(大西夏奈子

地平線ポストから

震災から半年。動物たちのレスキューは続いています。地平線の皆さん、是非来てください!!

■相変わらず私は福島で不定期で微力ながら被災ペットのレスキューボランティアを続けています。ほとんどニュースで取り上げられなくなった被災動物の問題ですが、原発同様、収束しているわけではまったくなく、ますます難しくなっていて活動は長期化することが予想されます。圏内に残されたペットもまだまだいます。半年も経っているので弱っているコも多く、せっかく救出できても回復せずに亡くなってしまうこともあります。当然医療費もかさみます。警戒エリアやその周辺での警察の検問もきびしくなっていて、圏外であっても職務質問を受けることもしばしば。そんな理由もあって積極的に保護活動をする団体も個人ボランティアも少なくなっています。

◆現在、私は福島県田村市大越町にある築100年以上の古民家を利用したシェルターを拠点に活動しています。ここは「にゃんだーガード」という名古屋の動物保護団体が震災後に造った保護施設で、現在犬20頭、猫40頭ほどを保護しています。

◆そこで犬猫の世話や物資の仕分けをするほか、シェルターの整備、被災エリアでの動物の保護、給餌給水、避難所や臨時役場へのポスター配り、炊き出しなどいろいろな活動をしているわけですが、直接現地にボランティアに来られなくてもネットで情報を集めたり、ポスターの作製・配布をしたりする後方支援活動、物資を送ってくれたり支援金を寄付(行政からの支援金はありません)してくれている方々もいます。

◆参加しているのは保護活動は今回が初めてだという人、普段から個人で保護ボランティアをしている人などいろいろですが、みんな、「一匹でも多くの命を救いたい」という熱い思いで首都圏だけでなく九州や関西方面、中には香港からフライトの合間に来てくれた女性パイロットもいます。福島県民としては感謝、感激です。

◆特にこの夏は多くの大学生が各地から来てくれました。「福島というと親が心配するから内緒で来た」という北大生、高校中退して自転車で日本一周中だという17歳の少年、獣医学部の学生たちなどなど、若い人たちが他の被災地ではなく、あえて放射能汚染の心配がある福島を選んでくれたことが、本当にうれしく思いました。

◆今後の課題は、里親、一時預かりさん探しのほか、減っていくと予想されるボランティアの確保です。特に冬になると福島県内の道路は積雪、凍結のためにスタッドレスタイヤの装着が必須だし、多少は雪道運転に慣れた人でないと危ないので、首都圏から車で来ている人が躊躇して来られなくなることが十分に考えられます。

◆また、朝夕の散歩と給餌の時間が一番忙しいので、このときだけ来てくれると大変助かります。そういう理由から拠点周辺に居住しているボランティアを増やしたいのですが、福島県民は被災者という意識があるのか、いまひとつ反応がよくない状況です。余談ですが我が家も地震で家の基礎がやや傾き、「大規模半壊」の認定を受けましたので立派な被災者です。おかげさまで罹災証明書で高速料金無料、医療費も来年2月まで無料となりました。

◆「にゃんだーガード」はJR磐越東線大越駅から歩いて20?30分、DASH村を彷彿とさせる田舎の古民家です。第一原発からは40ですが、田村市、小野町、三春町などこの一帯は福島県内でも奇跡的に放射線量が低く、0.1?0.2μシーベルト/h。福島市内、郡山市内などと比べて5分の1?10分の1程度なので「ただちに健康に影響はありません」。

◆宿泊は敷地内の常設テント(寝具あり)、食事も基本的に提供されます(忙しいときは各自で取る)。シャワーもありますが、夜は近くの入浴施設(400円)までみんなで行きます。堅苦しい規則などはなくアットホームな雰囲気なのでボランティアのリピーター率はけっこう高いです。地平線会議のみなさんも、ぜひいらしてください。(滝野沢優子

PS 先日、江本さんを「にゃんだーガード」に連行し、一緒に葛尾村での給餌活動、犬の散歩をしてきました。

チベット・ナムナニ南東壁を目指す旅から

■「2011年秋、チベット遠征に出かけております。目指すはナムナニ(現地名グルラマンダーダ)、未踏の南東壁。ネパールとの国境そばに位置し、また最近は何かと騒動の多い土地のため、今回も山の麓に辿り着くまでに、幾つもの峠を越えなければならないかもしれません。春のアラスカの旅のご報告(「ロクスノ」秋号、「岳人」10、11月号見てください!」)も出来ないままに、チベットの冒険旅行が始まっちゃいました。ケガしてないとやっぱり落ち着きなく出掛けちゃう性分みたいです。次に帰国した時はエモカレー食べに行きますね!」(谷口けい

原発事故と風評、そして豪雨で起きた山津波
━━福島の親たちの苦悩は続く

■お元気ですか? 今朝(9月8日)は冷えました。温度計は12℃ほど。こちらも一気に秋へ向かっています。「大震災から半年」そして「フクシマは原発事故から半年」です。夏休み前に「伊南川の鮎釣り」はどうかな?と書きましたが、「風評被害」にも増して7月末の新潟福島豪雨の影響はそれどころではありませんでした。

◆我が家の前を流れる伊南川は上流域から下流にかけて、沢と言う沢が殆ど氾濫し、洪水の日から1週間くらいはヘリコプターが連日上空を飛びまわっていました。隣村の檜枝岐は1週間電話も繋がらず、本当に村は孤立していました。地元の年寄りたちは「あれは山津波だ」と土砂に流された家を眺めながら教えてくれました。

◆この春から勤めている学校は只見町という新潟県に隣接した場所にあります。昨年は5メートル余りの積雪を記録した日本有数の豪雪地帯ですが、全校生77人のうち、5人は、この豪雨に伴う土砂崩れで家がうまったり、流されて、同じ町内に家を借りたり、仮設住宅に入ることになりました。元気に振る舞っている児童もいますが、何となく寂しそうな子もいて、授業中や休み時間も言葉を考えてしまいます。

◆福島は震災以降、原発事故のことで育児をしている親にとって本当に心配が多く、子供と県外の実家などへ行きたいと本音では考えている友人は少なくありません。勿論、南会津は大丈夫と思っている人も多く、田舎の長男の嫁として貴重な子ども育児をしている身であれば、移住なんて言葉を出すことも出来ない状況もあります。私自身も本当に思っていることはなかなか言いにくいですね。

◆震災の爪跡は、フクシマには本当の姿が見えない地域があることも悲しく、やめた大臣に「死の町」といわれた地域の人たちのことを考えると、同じ県民として心が傷みます。通勤途中の道路には、今も土嚢が積み上げられ、雪が降る前にどれだけ復旧できるのか? 崩れた山に雪が降り積もるとどうなるのだろうかと。友人が嫁いだトマト農家も畑に土砂が流れ、出荷目前に全滅になったとのことでした。今は、自然の猛威に対して謙虚に生きていく、今自分に出来ることを探しながら、フクシマで暮らしていくしかない、と考えています。

◆でも暗い話題ばかりでもありません。この秋(10月22日)再び伊南川100ウルトラ遠足を開催します。エントリーは278名、昨年よりも100名近く少ない人数ですが、それでもこんな時に、フクシマへ伊南へ来てくれる方がいることに感謝しています。地平線会議の報告者でもある、海宝道義さんを中心に私は事務局を担当して準備を進めています。地平線でおなじみのM輪さんも今年はランナーとして出走してくれます。とにかく、地域の人も集まった人も喜べる大会を目指し、実施までこぎつきたいと思います。秋、紅葉の季節にぜひ遊びに来て下さい。(伊南川の流れに耳をすませながら……酒井富美

南相馬市「道の駅」突発ミーティング

■9月11日、南相馬市の「道の駅」で馴染みの顔に会った。元気にオートバイで現れたのは、この日を期して再度「鵜ノ子岬(福島)→尻屋崎(青森)」の旅に出た我らが冒険ライダー、賀曽利隆である。この日はいわき在住の渡辺哲君も二輪で同行し、こちらの滝野澤優子さんと夫君の荒木健一郎さん、それに私の結局5人で遅い昼飯をとることとなった。なかなか行けない場所での珍しい顔合わせでもあり、話は盛り上がった。◆来年3.11を期して東北のどこかで地平線特別報告会をやろう、と考えている。秋に予定している400回記念地平線大集会とは別の趣旨で、多人数でなくても東北をテーマに内容のあることをやりたい、どこで、どういうふうにやろうか。そのことを5人で真剣に話したのだ。どうせなら3月11日(日曜日なので前日の10日からどこかに泊り込みで)がいいのではないか、との意見がこの中では強かった。あまり時間がないので、具体案をつめますが、日程についてのことなので、早めにお知らせしておきます。◆今回、賀曽利さんの「ツーリング・マップル」が大いに役立った。二輪ライダー用、と勝手に決め付けていたのだが、そうではなかった。旅人にとってありがたい情報が溢れているのだ。昭文社が毎年出しているこの地図、最新情報を地域別に7人の書き手が担っていて、賀曽利隆は「東北」を滝野沢優子は「関西」を一手引き受けなのだ、ということも初めて知った。東北について賀曽利隆があれほど詳しいわけは、そんなところにもあったのだな。◆最後は皆で相馬市の被災地跡をたどり、深いため息をつき、夕闇迫る福島の地と別れた。また来るよ、福島。(江本嘉伸

ボランティアが行くことで、雇用の機会を妨げているのではないかという心配もしつつ、良き仲間たちと続ける東松島通い

■私自身は細々と、仲間全体で見るとわしわしと、東松島に通っています。山形県天童市を拠点に行っていた物資支援から始まり、ゴールデンウィーク(GW)期間中、人の支援を行ったアウトドア義援隊は、現在は「手のひらに太陽の家プロジェクト」という、被災者のための復興共生住宅の建設協力をしています。それとは別に、今私たちが東松島で続けている活動は、GWに集まったメンバーを中心に、独自に続けているものです。

◆GWが終わるとき、一緒に活動していた仲間たちは口々に、「このまま終わりたくないね」と言っていました。私も何とかして活動を続けたいと思う1人でした。けれど、関西から東松島に通うには距離がありすぎ、自分が行ける保証がないのに「続けよう」とは言えませんでした。そんなときに、山形にいる仲間の1人が、自分は通える距離にいるからと声をあげてくれました。今は彼女が「隊長」と呼ばれ、彼女を中心に東松島の東名地区・野蒜地区で活動を続けています。

◆GWは、現地の人に受け入れてもらう期間でした。それからしばらくは、活動する我々の姿を見たり、私たちのことを人づてに聞いて依頼してくれた依頼者のお宅の片付けが多かったです。家の片付けが一段落すると、庭や畑の片付けが増えました。側溝の泥出しは作業がハードなうえに範囲も広く、地区全体を終わらせるのに3か月かかりました。最近は共同墓地の清掃や、自宅の裏山に避難路を作る手伝いなどをしています。最近になって住人が行政から、住み続けるか取り壊すかのアンケートをされたこともあり、手付かずのお宅から、家具の運び出し・床下泥出し・壁はがしなどのリフォームに向けてのゼロからの作業依頼が再び増えている状況です。

◆ところで私たちはFacebookを使って活動を展開しています。「Go!lunteer」というグループを作って、ボランティアに興味のある人がメンバー登録をします。週末ごとの活動は、「この週末に東松島に行こう」と思った人がイベントを立ち上げて、他の人を誘います。「参加」「不参加」「未定」と参加の意志を選べるので、何人くらい集まりそうかを把握できます。仕事は住人から直接もらっていますが、作業がなくなるということはこれまでのところありません。

◆いろんな仲間が集まっているので、高圧洗浄機、草刈り機、チェーンソー、ユニックダンプ、バックホー、ガス切断機など、わりといろいろ用意できてしまいます。スコップや土嚢袋などの基本的な道具は、地元の電気屋さんが倉庫を貸してくれているのでそこに置いています。車のない人が身ひとつでやってきても作業ができる環境です。素人集団にしては多岐に渡る活動が展開でき継続できているのは、天童での合宿生活に始まり、東松島でも宿泊形態がキャンプなので、一緒に話したりお酒を飲んだりと、深い付き合いが続いていることが大きいと感じています。

◆私も天童で9日間、GWに東松島で10日間、その後は6月、7月、9月に1回ずつ行って活動していますが、着実にステージが変わっていくことを感じます。最近みんなでよく話すようになったことは、ボランティアがどこまでやるのかということです。私たちは、これをしてほしいと言われれば可能な限り受けていますが、震災で失業した被災者が大勢いる中で、ボランティアが行っている作業をそのまま有償の仕事とすることができ、資金は必要ですが、実際に早い段階からそのようにしているところもあります。我々が行くことで、そういう雇用の機会を妨げているのではないかという心配もあります。

◆当初は被災者だけではとうていできない作業、たとえば重量物の搬出や家屋からの泥出しが多かったけれど、最近では仮設建設予定地の草刈りや介護施設の庭の清掃などもあり、「それは住民がすべき仕事で、ボランティアが遠くから行ってまでする仕事なのか」といった声も聞かれるようになりました。“支援慣れした被災者”の話も聞くし、いつまでもボランティアがいれば、被災者の自立を促せないという意見もあります。雇用の問題も、自立の問題も、現地で活動を続ける我々当事者にとっては他人事ではありません。

◆難しい問題ですが、様々なケースがあるのでいろんな支援の形があっていいのではないかと思います。被災地を離れると外野の声が大きくなって迷いますが、被災地に戻ると出てくる答えはシンプルです。住人と直接話しながら活動を続けていると、住人から手伝ってほしいと言われて断る理由が今のところありません。議論は続けていますが、まだしばらく今のまま活動を続けようと思っています。

◆被災者が復興に向けて進んでいく早さは人それぞれです。GWの時点ですでに歩み出していた人もいれば、最近になってようやく「何かをする気」になれた人もいます。全体で見ればお盆を境にボランティアセンターが閉じたり、ボランティア団体が活動を終えたりしていますが、今ようやく動き出せた人もいるし、まだ動き出せてない人もきっといるでしょう。行政やボラセンのような大きな組織は、最大公約数で動いていかざるを得ませんが、我々のような小さな集まりはそうする必要はまったくありません。住人ひとりひとりの歩みに付き添うことができるので、そのように活動したらいいのではないかと思っています。

◆少なくとも私たちの周りには“支援慣れした被災者”はいないし、「本来は自分たちですべきことだが…」という前置きを持ちつつ、それでも手が足りないからと依頼をしてくる人たちばかりです。だから動ける人は、私たちと一緒に作業をします。住人から声が出てくるから手伝いをする、そういうスタンスにいるので、作業依頼がなくなったときに、活動を終えたらいいのかなと思います。

◆東北の人は遠慮深くて、最初はちょっとした情報を得るためでさえ、地元の人同士が話をすることをためらう状況がありました。そういうときに、私たちのようなよそ者のほうが行きやすかったので、「ちょっと聞いてくるね」と代わりに聞きに行ったりもしました。でも最近は、地域の復興計画を具体的に話し合う時期に来ているので、地域住人の連携は強くなっていると感じます。私たちが被災者の家に招かれてわいわいやるようなときにも、ご近所さんを呼んでおいてくれることもあります。はじめの頃には考えられなかったことで、そういう変化はすごく嬉しいです。ゆっくりだけど、少しずつ前へ進んでいます。私もしばらく東北に通うつもりです。(奈良県 岩野祥子

こだわりの有機農業のため、畑と鶏を放す運動場の表土取りボランティア、ついに終了!! 私は、スーパーで桃を買う時は、「福島産」をわざわざ選んでます

■いわきの農家に、9月10日(土)&11日(日)と、これで5回目となるボランティアにダンナと行ってきました。いわきは放射能は低い地域なのですが、ここはこだわりの有機農業をやっているため、自信をもってお客さんには野菜&玉子を売りたいということで、今年は収入がゼロに近いのを覚悟の上で直売所を閉店し、畑と鶏を放す運動場の表土取りを震災後に始めたのです。

◆元々この農家の若いスタッフが初期の「RQ市民災害救援センター」でデリバリーのボランティアをしたため、そのつながりで、そのあとこの農家、通称「生木葉ファーム」には主にRQデリバリーのボランティアたちが次々と(ボチボチと、ぐらいか?)来るようになり(最近ではブログを見て来る人も増えました)、基本は『生木葉の若い2人+ほぼ常駐ボランティアで結局8月から来年の3月まで生木葉の社員となった私の友達でありRQのデリバリーをしていた奥平さんの計3人』に加えて、時には5人、多い時で10人くらいで土取り作業を地道に続けて来ました。

◆そして、今回、ダンナが9日(金)の仕事を夕方5:30過ぎに終えたところで職場の横浜に私が車でピックアップしてそのままいわきへ。夜9:30過ぎに到着した所、生木葉のお父さんが嬉しいデータを教えてくれました。JAに放射能の濃度を測定してもらった結果表を見せてもらったのですが(生木葉でも小さい測定器はあります。RQの千葉さんという人が寄付したそうです)、表土を5センチ取り去り、そしてその下の15センチの土と混ぜ合わせたものは、基準値以下ということで数字には出て来ない(ゼロではないでしょうが)、という結果でした。

◆最初の5センチの表土からは、値は忘れてしまいましたが、ある程度は放射能が計測され、それでも元々低い値。しかし、こだわりの生木葉としては、それでは納得はしなかったのです。そして、今回の測定結果は、私たちボランティアにとっても嬉しいものです。延々とシャベルで土を取ってドラム缶に詰めてそれを軽トラで離れた場所へ運んでトンバック(1t入る土嚢袋)に詰めるという肉体労働を、炎天下の中でやり続け(おかげで毎晩のビールがおいしかったけど)、その結果値に変わりなし、としたら、がっくりするところでした。自分たちの手伝いに、意味があってよかった、と本当に嬉しいことでした。

◆そして、そして、今回がそのフィナーレ! 10日(土)の夕方5時ごろ、この土取り作業が、全て終わったのです。バンザーイ!! この日の夜は、焼き肉(とはいえ、ここの自家製野菜がたくさんあるため、野菜がメイン?)パーティでした。翌日曜日は玉子拾い&洗い、肥料作り、ハウス野菜の収穫(と言っても、売りに出さないので、自分たちのお土産用に。好きなだけどうぞ、と言われたので、近所や実家のお土産も含めて、段ボール箱2箱いっぱいに、玉子も13パック(売れば1パック450円のもの!)いただきました。

◆それでも、ハウスの中には取りきれない野菜でいっぱい。生木葉で出される食事も、いつも野菜と玉子が豊かです♪土を取ったあとの畑には野菜を植えつつありますが、それも今年はまだ売らないそうです。ダンナが植えたサツマイモは収穫時期を狙って遊びに行く(もちろん自分等で収穫したいから)予定です。鶏も土取りが終わった運動場に放されて、生き生きしてます。伸びてきた雑草もあっという間に食べてしまいます。

◆そんな生木葉ファーム、来年4月に直売所を再開するらしいですが、あとは、風評被害が気になるところ。それらは、お客さんの心ひとつにかかっています。私は、今の時点でも、スーパーで桃を買う時は、「福島産」をわざわざ選んだりしてます。現地に行かなくても、風評被害を吹き飛ばす草の根運動は、誰だってできるのです。ここを読むみなさんはぜひ!と私がわざわざ言わなくてもやっていることと思いますが。

◆さらに、主に直売所を担当していた、生木葉の息子さんのお嫁さんと、同じく息子さんの妹さんは、どちらも子供が乳幼児のため、妹さんは岡山の実家に、お嫁さんはその近所の家を借りて避難中です。岡山、遠いです。家族が離れて暮らすのは、悲しいことです。彼女たち&子供たちも早く帰って来られますように。最後になりますが、最新の生木葉ファームのブログ(8/24)は女子特集です。私も載ってますが、りかちゃんや、ショコラちゃんもRQ仲間です。そんなつながりも楽しい生木葉ボランティアでした。(古山里美

「南部鼻曲がり鮭Tシャツプロジェクト」と地平線会議

■地平線会議の皆様 今回、長野画伯にTシャツのデザインをお願いした「南部鼻曲がり鮭Tシャツプロジェクト(略称「鮭Tプロジェクト」)の代表、村田といいます。昨年5月長野市で「梅棹忠男・山と探検文学賞」の創設に合わせて行われたトークショウの第1回のゲストが関野吉晴さんと江本嘉伸さんでした。

◆受付には地平線通信があり、さっそく持ち帰って入金をすると数日後にはA5版の赤い風変わりな本(注:長野亮之介画伯の報告会予告イラストをメインにした『地平線・月世見画報』のこと)とびっしり文字に埋もれた地平線通信が送られてきたのです。私はもともと旅が好きで、20年前には千葉の小さなNGOに所属し、自分でセネガルのプロジェクトを立ち上げ現地で井戸掘りを5年(その後仲間が8年)続けた経験があります。そんな私に地平線通信は魅力的で、登場する人達が羨ましいやら、話を聞きたいやら……

◆3月11日、テレビで繰返し津波の映像が流れ、その後被災地の状況が伝わってくると、居ても立ってもいられず、3月27日から3日間、宮古から陸前高田まで物資を運び、ボラセンを訪ね歩きました。風景には色がなく、精神的におかしくなり、無力感に打ちのめされました。その後、長野市災害ボランティア委員会を立ち上げ、岩手県大槌町に長野ハウスを作り現在まで21回の派遣や物資・炊出しなどの支援を続けています。

◆6月に行った現地調査で、被災家庭の多くが中学生の部活費用の負担に困っていることがわかりました。そこで、Tシャツを作り、その売り上げから支援金を集めるアイデアを思いついたのが「鮭Tプロジェクト」です。

◆「鮭Tプロジェクト」は長野市災害ボランティア委員会の有志4名で進めています。1回目の打合せで自分の案はことごとく仲間からダメ出しをくらい、スタッフの一人が知合いのイラストレーターにお願いしてみるといわれたのが長野画伯でした。私は持ち歩いていた地平線通信4、5月号をその場で皆に見せ、不思議な縁を感じました。図柄には私が大好きな宮沢賢治の「雨ニモマケズ」の文字をどうしても入れたくて、大槌の魚「南部ハナマガリ鮭」のデザイン化と一緒に画伯に依頼しました。画伯には3回も書き直して頂きお手数かけましたが、おかげで、自信を持って人に勧められるTシャツが出来ました。大槌の町では、この図案を見て鳥肌が立ったという人や「雨ニモマケズ」の珍しいデザインに興奮した若者が話しかけてくれました。

◆地元長野市の印刷所にご協力を得たTシャツは一枚1500円の値段設定にし、そのうち500円を大槌町の中学生の支援基金としています。とりあえずの販売目標は2000枚。もしも、ですが、目標が達成できたら、次は画伯に「風ニモマケズ」のデザインをお願いしたいと思っています。今回デザインをお願いした時、画伯がどんな形にしてくれるかどんなものが出てくるか、わくわく・どきどきだったあの気持ちをもう一度してみたいから……。そしてもし皆が支援してくれたら、その次は「雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ」デザインを頼んでみようと夢見ています。

◆20年前の井戸掘りも今回の鮭Tプロジェクトも、不謹慎ですが面白くて仕方ありません。セネガルで知らないお婆さんが突然僕の手を握り感謝されたように、この鮭Tシャツを手に取り、喜んでもらえるような仕事が出来たら本当に幸せです。『心愉しく、労惜しまず』。 とりあえず来年9月まで仲間と走ってみます。趣旨に共感してご協力頂ける方がいらっしゃれば嬉しく思います。(村田憲明


[通信費をありがとうございました]

■先月の通信でお知らせした以後、通信費を支払ってくださった方々は以下の通りです。何人かの方は、以前にお支払い頂いたのに告知が遅れていました。すみませんでした。中には数年分まとめて払ってくださった方もいます。ありがとうございました。なお、地平線会議は会ではないので「会費」は存在しません。「通信費(年2000円)」と「報告会参加費(500円)」だけです。
◆亀山晃一 岩野祥子 スラニー京子 大塚善美 村口徳行(「楽しく拝読。長いことお送りいだきました。あまった分は雑費に」、と2万円)。大矢芳和 上田喜子(毎号ありがとうございました。次号より送付を中止してください。今後の発展期待いたします)。原典子(毎月通信を送っていただきありがとうございます。夫・原健次の思い入れの強かった地平線通信。これからは私にバトンタッチさせていただきます。今後ともよろしくお願いいたします)。中嶋敦子(カンパ含んで10000円) 古川佳子 内藤智子(2年分)南澤久実 村松裕子 宮川竜一 古橋稔 相川弘之 和田美津子 野田竜仁 宮地ゆう 長塚進吉 寺沢玲子(「残金は会の雑費に入れてください」と10000円 「谷口さんは平出さんとナムナニにむかってKTM入り」と付記)。永田真知子


鮭Tのいきさつ

■「折り入ってお願い」と長野市に住む友人の倉石結華さんから連絡があったのは7月下旬。大槌町の中学生を支援するためのTシャツを作るので、是非デザインをと言う話だ。倉石さんとは結構長い知り合いで、彼女が長野市の災害ボランティアとして大槌町を訪れた事も聞いていた。僕自身は大槌町にまだ縁が無いが、地平線仲間の車谷建太君が最近よく通っている土地と聞き及んでいる。また偶然にも別件でTシャツデザインを仕上げ、面白さを感じていたところでもあり、二つ返事で引き受ける方向にタイミングが合ったのだ。

◆デザインは「雨ニモマケズ」の描き文字と岩手の名産である南部シャケの絵という依頼。「鮭Tプロジェクト」代表の村田さんとは面識が無いが、熱い思いを持つ方であり、選んだフレーズは村田さんの思い入れが深い言葉だと倉石さんから聞いた。彼女とのやり取りを通して何度かデザインの変更を重ねたが、他に無い図柄になっていれば嬉しい。描き文字の「雨」でちょっと遊び心。全部で5つの点が、向かって左側に3つ、右側にはに上下に少し離れて2つある。これは3、1、1すなわち3月11日を表す隠し数字だ。僕自身のボランティア経験は7月に宮城県女川町に三日ほど入った限りだが、できればいつか大槌に行き、鮭Tを生んだ町の風を感じてみたい。(長野亮之介


長野亮之介の絵仕事 ハナタレ展

■通信のイラストを書かせて頂いている長野です。今月15日から千駄ヶ谷のギャラリーで個展を行います。地平線通信のイラスト他、様々な媒体の仕事の原画と印刷された仕上がり等を展示する予定です。会期は10日間ありますので、もしお時間がありましたらお立ち寄りくだされば嬉しいです。

会期:9月15日〜25日(19日は定休日)
時間:午前11時〜午後7時(日曜日は午後5時まで)
会場:ギャラリー・ヒッポ(Gallery Hippo)
Tel & Fax : 03-3408-7091
 〒 150-0001 渋谷区神宮前 2-21-15
 http://www.gallery-hippo.com/
ハナタレ展ブログ:http://moheji-do.com/hanatare/
◎在廊の予定等もブログでお知らせします。

高世仁さんのチェルノブィリ取材映像が急遽DVD出版!!

■6月の報告会でチェルノブイリについて報告させていただいた高世です。YOUTUBEに公開していたチェルノブイリの取材映像が、反響を呼び、このたびDVD出版されることになりました。旬報社から解説パンフレット付きで2300円で発売されます。来週末には書店に並ぶ予定です。チェルノブイリの教訓を学ぶべきだという声は大きくなっています。たくさんの方に観ていただきたいと思います。

★『チェルノブイリの今〜フクシマへの教訓』 高世 仁
 5部構成(1時間)
  1. 終わりなき事故の後始末
  2. 立入禁止地区に暮らす
  3. がんと生きる被ばく者の涙
  4. 情報隠蔽と強制立ち退きの実態
  5. 汚染土壌の再生に挑む

[先月の発送請負人]

■地平線通信9月号の印刷、発送(8月17日)に汗をかいてくれたのは、以下の方々です。印刷機が不調で手間どり、発送そのものは翌18日昼前となりました。
 森井祐介 村田忠彦 杉山貴章 古山里美 海宝道義 江本嘉伸 八木和美 山本豊人 武田力 武田絹世 妹尾和子 満州
◆久々に海宝さんメニューが炸裂しました。当日は地平線会議誕生の日でしたのでそのためのケーキまで含め、すべて手作りメニューが。その贅沢な内容も以下に記録しておきます。海宝さん、ありがとうございました。
◆にんにくライス 鶏スペアリブの香り焼き 海宝流特製ベーコン入りのレタススープ スモークサーモン 海宝流生ハム ゴーヤの佃煮 もずくの酢の物 ジンジャーゼリー チーズケーキ ビーフジャーキー コーヒー


北の大地で酪農に生きる田中雄次郎君とその家族の肖像
━━カソリの20余年、「田中雄次郎牧場」訪問記━━

■先月号の「地平線通信」で江本さんが丁寧に紹介している北海道の酪農家、田中雄次郎さんの生き方には感銘を受けた。「田中雄次郎は歴史に残る人物!」──ぼくは行間に漂う江本さんのそんな気持ちを読み取った。さらに「地平線通信」のRQ登米本部に送った新ジャガの話には胸が熱くなってしまった。その間をとりもった江本さんはえらい。それに添えられた田中家の皆さんのコメントがまたいいではないか。きっと皆さんも同じように思ったのではないだろうか。

◆ここからは「田中雄次郎さん」ではなく「田中雄次郎君」と呼ばせてもらう。ぼくは昨年の「林道日本一周」(全部で313本の林道を走った)で、道北・豊富町の田中雄次郎君の牧場に寄った。突然の訪問で雄次郎君はビックリしたような顔をしたが、仕事の手を休め、家にいた子供たちを呼んでくれた。長女のあおさんは結婚し、出産を間近に控えて里帰りしていた。長男の雄馬さんはすっかりたくましくなっていて、オーストラリアの旅を終えて帰ったところだった。

◆3男の中学生の寛大(かんた)君、4男の小学生の晴大(はるた)君は元気一杯だ。奥さんの典子さんは出かけていたが、田中家にはそのほか次男の真生(さねいき)さん、次女のそらさんがいる。田中家は4男2女の大家族なのだ。

◆ぼくが初めて雄次郎君に出会ったのは、彼がまだ高校生のころ。三輪主彦先生に呼ばれて都立清瀬高校に行ったときのことだ。雄二郎君は三輪先生の教え子。一緒にサッカーしたり、マラソンをした。「徹歩会」といって、夜通し歩いたこともある。雄次郎君は東京農業大学の大学生のときに、宗谷岬から佐多岬までの「徒歩日本列島縦断」を成しとげた。67日の徒歩旅。そのときの旅の様子を日本観光文化研究所の月刊誌『あるくみるきく』(第138号)に「日本縦断徒歩旅行」と題して書いている。

◆「宗谷岬出発は九時頃。青空が見えだし、日本縦断徒歩旅行が始まった。気がのらなかったので、気分を変えるためにスタートして二キロの道の真中で短パン姿に。白い足が早く陽に焼けないかなあ。増幌川を渡ったところで、朝の残りのアルファ米に梅干を混ぜた弁当。(以下略)」ではじまる「徒歩日本列島縦断」を読んだ所長の宮本常一先生は、「日本にもこういう青年がいるのか!」といって激賞された。その時の宮本先生はお顔を紅潮させていた。地平線会議の祖といってもいいような宮本先生は、若者たちの冒険的な活動、行動が大好きで、それを高く評価してくださる方だった。

◆田中雄次郎君は大学を卒業すると北の大地での酪農に憧れ、数々の苦難を乗り越え、北海道にしっかりと根を下ろした。ぼくはいままでの何度かの「日本一周」では、それがまるで定番でもあるかのように、「田中雄次郎牧場」を訪問している。まずは1989年の「日本一周」。そのときは音威子府(おといねっぷ)村の咲来(さっくる)に田中雄二郎牧場はあった。突然の訪問で、日が暮れてから訪ねたのだが、雄二郎君は乳しぼりに忙しく、乳をしぼる手を休めずに5年あまりの音威子府での話を聞かせてくれた。

◆家も牛も何もなかった。手探りではじめた酷寒の地での酪農。冬は氷点下37度まで下がったという。そのような厳しい北国の自然の中で奥さんの典子さんと2人で手造りの家を建て、牧舎を建て、3頭の乳牛で酪農をはじめた。それが5年の間に牛は30頭以上に増えた。増えたのは牛だけではない。家族も増えた。あおちゃん、雄馬クン、真生クンと、次々に3人の子供たちが生まれた。幼い3人の子供をかかえての毎日は、それは大変なことであったろう。だが典子さんは、3人の子供たちの母親には見えないほど少女の面影を残し、5年間の血のにじむような苦労を顔に出さなかった。

◆8時過ぎ、20頭のホルスタインの乳しぼりが終ると、田中家の夕食をいただいた。自家製ハムがメチャクチャうまかった。さらに自家製の肉とレバーを焼いてくれた。焼肉を食べながら酒をくみかわし、夜遅くまで夫妻と話した。「オレ、30を過ぎましたよ」という雄次郎君は、東京にいたときよりもはるかに腕が太くなり、まっ黒に日に焼けていた。この時カソリ40歳。

◆次はそれから10年後(1999年)の「日本一周」だ。田中雄次郎牧場は現在地の豊富町に移っていた。音威子府村では借物の牧場だったが、ここは80ヘクタールもの自前の牧場。牛の数も大幅に増えていた。子供たちの数も増え、次女のそらちゃんと3男の寛大クンが生まれていた。長女のあおさんは中学3年生になっていた。その時も突然の訪問だったが、ひと晩、泊めてもらった。典子さんがつくってくれた料理をつまみながら雄次郎君とビールを飲んだ。10年ぶりの再会なのでいろいろと話がはずんだ。

◆田中家の朝は早い。5時起床。冷たい牛乳をキューッと飲み干して仕事の開始。田中夫妻のあとについて2人の仕事ぶりを見せてもらう。まずは牧草地にいる牛たちを集めることからはじまる。スキーのストックを持って牛の後にまわり込み、牛舎の方へと牛を追っていく。牛舎に追い込むと、牛に配合飼料を食べさせながら、1度に8頭の搾乳をする。60頭の搾乳が終わると牛舎の掃除。牛糞は堆肥になるのでそれを1年とか2年寝かせ、黒土のようになったところで牧草地に戻す。

◆牧草には春から夏にかけて刈る1番草と夏から秋にかけて刈る2番草がある。1番草の方がはるかに良い牧草で、草に勢いがあるという。その牧草をロールにして蓄え、長く厳しい冬の間の飼料にする。自家製牧草だけで足りなくなると、牧草を買わなくてはならない。これがかなりの出費になるという。「牛の頭数を(これでも)減らしたんです。そうすることによって、余裕が出てきましたよ」。頭数が多いと、忙しいだけでなく、牧草や配合飼料を大量に買わなくてはならないからだ。

◆朝の仕事を終え、ひと息ついたところで朝食になる。あおさんら、子供たちはスクールバスに乗って中学校や小学校に行った。朝食には田中雄次郎牧場産の牛乳をベースにしたシチューが出た。中に入っているジャガイモやニンジンも自家製、これがじつにうまい。朝食後、牧場の一番高いところに連れていってもらった。牧草地の向こうには利尻富士が見えた。田中夫妻は新しい家を建築中であおさんたちは完成を心待ちにしていた。

◆それから8年後の2007年には「温泉めぐり日本一周」(このときは1年間で3063湯の温泉に入り、ギネスの世界記録になっている)で田中雄次郎牧場を訪ねた。新しい家は完成し、4男の晴大君が生まれていた。このときは温泉めぐりだったので近くの豊富温泉に泊まり、翌朝、田中家に電話してから行った。典子さんは何種類ものパンを焼いて待ってくれていた。その手造りパンをいただき、コーヒーを飲みながら田中夫妻と話した。長女のあおさんは士別のカトリック系幼稚園の先生になっていた。長男の雄馬さんは札幌のJOMOに勤務していた。次男の真生さんは十勝の農大生。次女のそらさんは室蘭でおこなわれている陸上の全道大会に参加中。高校1年生ながら中長距離では宗谷地方のトップ選手だという。

◆田中雄次郎牧場訪問は、そして昨年(2010年)の「林道日本一周」につづくのだが、別れぎわに雄次郎君にいわれてしまった。「(子供たちがみんな大きくなったら)オレもカソリさんみたいに、世界中を旅してまわりたいですよ!」。雄次郎君、おおいにやってくれ。君の無限のパワーをもってしたら何でもできるよ。今年もカソリ、夏にバイクで稚内まで行ったが、残念だったのは田中雄次郎牧場に寄れなかったことだ。

◆先月号の「地平線通信」にあるように、田中家の長男、雄馬さんと、次男の真生さんは今、ともにフィリピンで活躍している。雄馬さんは「JLMM」(日本カトリック信徒宣教者会)の支援活動でルソン島に、真生さんは日本青年海外協力隊の農業技術指導でセブ島に行っている。雄馬さんはこのあと東チモールかカンボジアで支援活動をする予定だという。長女のあおさんは無事、男の子を出産し、今は名寄に住んでいる。お子さんは1歳の誕生日を迎え、すこやかに成長しているという。田中家のみなさんに幸多からんことを!

◆江本さん、田中雄次郎さんの報告会を1日も早くお願いしますよ。それと雄次郎さんの原点ともいえる『日本縦断徒歩旅行』は復刻の価値が大です。こちらの方もよろしくお願いしますよ。(賀曽利隆

10月16日、比嘉小、最後の運動会です

■お元気ですか? 暑い日が続く沖縄です。そちらは台風は大丈夫でしたか? 紀伊半島は大変な被害ですね。熊野古道は何度も歩き通ったところなのでもう残念でなんとも言えません。十津川温泉や湯の峰温泉、川湯温泉などいい温泉もたくさんあるのですが恐らく被害は甚大でしょう。ほんとに今年は災害の一年ですね。

◆うちの牧場もこんな被害を受けたのは初めてです。つぶれた小屋やパッションフルーツの棚は暑さにめげてなかなか片付けがはかどりません。飛んだトタンは離れた山の中にもあったりして、回収にも一苦労。もうそろそろらっきょうを植え付けないといけない時期なんですがとても畑まで手が回りません。今畑をサボると春の収穫がヤバいから早くやらなきゃいけないのになあ、でも荒れた光景にため息ばかり。それに暑くて昼間はなかなか日陰から出られないよー。

◆と、愚痴を言ってますけど相変わらずの悠々ライフ。最近朝はラジオ体操しています。夏休み後半に毎朝子供たちとシルミチュー公園に集まりやったのですが夏休みが終わったあとも庭に出て続けています。そのあと旦那は犬たちとランニングに行き、私はゆっくりコーヒーを沸かし、コーヒーを飲みに集まってくる近所のおじいとゆんたくしてから牧場に出かけます。

◆ところで今年は比嘉小学校最後の運動会です(最後なんて認めたくないんだけど)。確か10月16日と聞いています。そして今年はたぶん浜中学校との合同運動会です。もしよかったら地平線の皆さんにも見に来てほしいなあと思いました。綱引きやリレーにも参加できますよ。詳しいことがわかり次第またメールしますので、関心もってくれそうな皆さんに知らせてください。ただ小さな運動会ですからわざわざ飛行機代かけて来るようなことではありませんが(場所は浜中です)。ではでは(^-^)(浜比嘉島 外間晴美

豪雨の黒部源流・奥の廊下に閉じ込められて
━━自作装備による釣り山行パニックの顛末

■8月25日、日本列島は前線の影響で各地が豪雨に包まれた。丁度そのころ、私は北アルプスの黒部川源流にいて雷雨で増水した奥の廊下に閉じ込められていた。

◆この夏、私は自作の装備で登山をして、渓流で魚を釣って食べる山旅をしたいと考えていた。全ての道具を自作するのが理想だったが、今回は設計試作として木の背負子とタープ兼ポンチョ、空き缶によるアルコールストーブを作った。背負子は作業効率を優先し、2X4住宅の建材を利用してネジ止めで作り、担ぐ肩ひもはビニール紐で編んだ。タープ兼ポンチョは100円ショップでブルーシートを購入し、シートの中央に人の頭が通る位の穴をあけ、フードを取り付けてポンチョとした。さらにシートの四隅とその中間点にハトメを打ち、タープとして張りやすい工夫を行った。空き缶利用のアルコールストーブはネットで作り方を調べ、缶で作ったが、一作目は失敗、二作目でまともに火がついた。

◆今回は装備をシンプルに、自作タープと市販の銀色グランドシートとマットを使い、雨に備えて透湿防水素材のシュラフカバーで羽毛寝袋を濡らさない工夫をした。高機能の雨具も持たず、ブルーシートのポンチョで雨を凌ぐ事にした。靴はトレランシューズ、衣服や食料は通常通りとして、おまけに仕事でデザインしたGPS内蔵の無線機を持って行った。

◆以前、黒部川の岩魚は確認していた。登山に加えて釣りもできたら、山の楽しみが2倍になると思った。道具の自作と食料の現地調達で、登山客を超えて自立した山の民に一歩近づける気がしたのだ。独自性のある旅がしたいという思いと、モノ作りを仕事とする立場から、モノがあふれる現代に人とモノの関係性を見直すきっかけが欲しかったのだと思う。

◆23日の朝、折立から入山。太郎平を経由し薬師沢出合へ向かい、途中雨で薬師沢近くの大きな針葉樹の下で一夜を明かした。翌24日は雨が上がったので黒部奥の廊下に入った。無理をせず行ける所まで上流へ遡行した。基本的に厳しい沢登りはせず、岩魚を釣って河原で幕営する自由な山旅を考えていた。実際に遡行を始めると前日までの雨で水量が多く、2時間半ほどで水が胸の深さを超える場所に来た。

◆岩の上を歩いていたら、1メートル程滑った。その時の衝撃で背負子の荷物を載せる部分が片方壊れた。ネジ4本で留めてあったが、構造的な問題に加え、水を吸った木が弱くなっていた。頑丈に作ったつもりが、簡単に壊れて次回への課題ができた。そこに荷物をデポして空身で進んだら、可能だが同じ様な状況が続きそうだった。胸の水位の中、背負子を担いで行けるか不安になり進むのを止め、そこから引き返し、ビバークに都合の良さそうな少し高く平らな場所を見つけた。

◆そこにタープを張って寝床を確保し、夕食の岩魚を釣りに行った。30分程で、浅瀬に餌を狙っている岩魚を発見。身を屈めてそっと忍び寄り、魚の近くにポチョンと毛針を落としてやると、すーっと近寄ってきて、ぱくっと食べた。その後しばらく竿を振ったが、1尾でも釣れた事に満足して幕場に戻った。焚き火を熾(おこ)そうと1時間ほど頑張ったが、雨で濡れていて結局火を熾せなかった。魚は焚き火で塩焼きぐらいしか考えていなかった。火も熾せず、捌き方はもちろん、料理の仕方も知らず、生きる技術の無さを痛感した。

◆どうしようもなく、アルコールストーブで焼いて食べた。腹には直径5ミリくらいの卵が40粒ほど入っていた。美味しいと感じる余裕は無く、無心で貪った。ただ殺した魚の小さな肉片も無駄してはいけないという、焦りに似た責任感だった。自分は食料を沢山持って山に入っている。わざわざ岩魚を食べる必要も無いのに、自分の満足のために生き物を殺したという思いと、1尾の岩魚の命で感傷的な気分になっている自分が情けなく嫌になった。そんな思いで寝袋にもぐり込んだ。

◆そして雷の音で目が覚めた。21時頃だったと思う。雨が降り始め、約30時間続いた。長かった。当初は明け方には止むだろうと気楽に構えていた。ところが雨脚は弱まらず、タープを叩く雨音は絶えず、轟々と川の濁流は増し、楽観的だった私の精神は徐々に追い詰められていった。高低差60cm位まで水が近づいた時には、もうほとんどパニックになり、急いで荷物をまとめより高い位置に運び、いつでもタープから逃げられる状態にした。

◆夕方暗くなりはじめる頃には、雷雨の中で一人夜を迎える不安と増水で進退窮まった焦りから、雨が降り止むよう、ただ祈るのみだった。自分にできることは冷静さを保ち、状況を受け入れ、判断を誤らない事だと自分に言い聞かせた。濁流を前に、全身濡れた状態で、孤独に30時間も雨音を聞き続けるのは、何かに洗脳されそうな怖さがあった。怖さから逃れるために濁流の中に飛び込んでしまいたいという、普通では考えられない思いもよぎった。そして26日3時頃雨が止んだ。

◆お願いだからもう降らないで、そんな思いで時折パラパラという雨音に一憂しながら朝を迎えた。沢は1時間に約10cmのペースで水位が下がっていった。頼りは自分の洞察力のみと、5分おきに水位を観察した。9時になると川の端では、太ももの深さになり、歩けそうな状態になった。いつまた降り始めるかもしれず焦る気持ちを抑え、丁寧に荷造りをして身の回りを整えた。ひとつ一つの動作を丁寧に行う事で、不思議と気持ちが落ち着いていった。

◆ただ祈るしかなかった状態から、自分の行動で現状を乗り越えられそうな気持ちへと徐々にシフトして行くのが客観的に分かった。自作タープはこのとき風呂敷に変身した。荷物を一つに纏めて背負子に括り付けるのに最適だった。この状況を切り抜けるため、少しでも身軽に動く工夫だった。深みは避け、巻ける所は巻き、薬師沢出合に辿り着く事だけを考えた。1時間弱で薬師沢の小屋が見え、孤独な川辺の不安から解放された。そこからは全ての不安が吹っ飛び、天候も良くなりピクニック気分で高天原の秘湯に浸かり雲ノ平に登って夏の終わりの北アルプスを楽しんだ。

◆雲ノ平からの急坂で背負子の荷物を載せる部分の残りも壊れた。フレーム部分に壊れた部品や荷物を括り付けたが、壊れた部品は邪魔で、潔く薪にして燃やしたいと思った。自作だから、全ては自分に責任があるので諦めの良さはピカイチだった。次作への細かな改善点とフィールドに出ないと分からない経験的な知識も数多く得た。

◆昔から道具は現場で人に使われて、使う人によって改善が続けられることで完成度を上げた。民具の美しさはそこにある。私たちの身の回りにある道具も、現状が完成形ではなく常に改善が続けられている。現代はモノ作りにおいて専業分化が進み過ぎてユーザーと設計者が離れているため、ユーザーは消費者として望む商品を待つのが普通だ。しかし昔は使う人と作る人は同義だった。自ら生活で必要な道具を作り、自分たちの生活の質を向上させて来た。良い道具とは簡単な構造でありながら、より多くの用を満たすものだと思う。出来の悪い背負子でも、それが無ければ山に荷物を担ぎ上げる事さえ難しい。

◆ひとつ一つの道具に自分の経験からなる工夫を盛り込んでより良い道具を作りたい。「まずは、この背負子を改善する事が次の一歩だな」。ポンコツの背負子を担いで山を歩きながら、そんな事を思った。(山本豊人

8月18日に元気な女の子が生まれました!

■3.11の震災の時は、妊娠5か月でした。日本語を教えていた生徒のオフィス(大手町のビルの16階でした)で地震に遭い、歩いて帰宅することも出来ず、結局、会議室の床を借りて一晩過ごしたのでした。そんな夜に、本格的な胎動が始まったことを、4月の「地平線通信震災特集号」で報告させていただきました。

◆放射性物質は、胎児への影響が大きいと聞きました。だから妊娠中、料理に使う水まで全てミネラルウォーターに切り替えた時期もありました。被災地の方には本当に申し訳ないけれど、口にするものは、いまだに西日本産のもの中心に選んでいます。妊婦の友人たちは皆、似たようなものでした。赤ん坊を少しでも守るため、難しいことは何も考えず、自然にそうしていたのです。

◆8月18日、元気な女の子が生まれました。100%母乳で、赤ん坊は日ごとにぽっちゃりしてきました。私が摂取したものが母乳になり、この子の体を作っている、と実感します。普通であれば、母親として、ただ誇らしいことだったでしょうに、震災と原発事故の年に生まれたばかりに、放射能への不安が常につきまといます。

◆今はまだ、「お母さんになる」ということに精一杯で、目の前の赤ん坊と生きるのに必死で、他のこと全てが、ふわふわしています。ですが、震災後半年の報道を見るたび、気持ちがざわつきます。被災地の方が、とりわけ全ての赤ん坊とお母さんたちが健やかであるよう、祈るばかりです。(黒澤(後田)聡子


八月詠
屋久島行

金井 重

川ぞいの 岩肌のぼり 森に入る
  雨足はげし 雲水峡ゆく

神宿る 古木の前を おろおろと
  森にすわれし 拍手の音と

時に雨 小休止あり 渓谷の
  激しき流れ 天地の生気

ガジュマルの 林に入りぬ ガジュマルの
  気根をゆらす 秋風のなか

ガジュマルの 幹に気根に すがりつつ
 ガジュマルの 気の森を歩めり

灰色の 火山灰 むくむくと
  今日も錦江湾を 風まかせ

黒めがね ハナ眼鏡にして オノヨーコ
  ジョン・レノンの だめ男ぶりも
      オノ監修「ジョン・レノンNY」をみる

手をのげす 見知らぬ人は スーと消え
 耳の底から 盆の八月

はんらんす 神とマネーの グローバル
  倫敦騒乱 ノルウェーのテロ

エイサーの 音曲高鳴り 街つつみ
  先祖に天に 太鼓にのせて

目の前に 踊り子の脚 ぐんと伸び
  くるりと回る 汗とぶ笑顔

路上うずめ 手をふり腰ふり 街人も
     しんかぬちゃーの 熱き交流
      しんかぬちゃー=仲間 於新宿エイサー祭り


あとがき

■旅先では必ず地方紙を買うことにしているが、福島では地方紙の役割が全国紙とは較べものにならないほど重要になっていることを、今回思い知った。全県版としては「福島民友」「福島日報」の2紙があるのだが、東日本大震災以後、情報、とくに原発事故による放射能汚染に関するきめ細かな情報が毎日詳しく伝えられている。

◆とくに「放射線量」や「除染」「補償」といったジャンルについての報道は生活と一体となる問題だけに詳しくわかりやすい。全国紙だけ読んでいてはわからない。宮城県石巻市にある地域紙「石巻日日(ひび)新聞」が、震災直後、輪転機が止まった中で手書きの壁新聞をつくって張り出したことは、今では海外でも知られているが、線量計が離せない福島では地元新聞の役割が今後も大きい。

◆念のためですが、今月の地平線報告会は23日の金曜日、祝日です。遠路の方も来て下さい。休日なので少し早め、18時開会とします

◆先月のフロント記事で、池袋コミュニティー・カレッジでやった大集会「いま、地平線に旅立つ」の実施日を「1980年11月23、25の2日間」としましたが、「11月24、25日の2日間」でした。(江本嘉伸

■今月の地平線報告会の案内(絵と文:長野亮之介)
地平線通信裏表紙

乱氷とツンドラ

  • 9月23日(金) 18:00〜21:00
  • ¥500
  • 於:新宿区立新宿スポーツセンター(03-3232-0171)

「とにかく広大で、隔絶感がすごくて」というのはこの春、北極圏1600キロを無補給で踏破した角幡唯介さん。気鋭のノンフィクション作家で探検家。早稲田大学探検部時代から憧れていたという極北の地に挑んだのは、19Cの英国・フランクリン探検隊の悲劇を知ったのがきっかけでした。欧〜亜を結ぶ新航路を探して遭難し、129名が全滅。この隊の推定ルートを辿り、彼等に何が起こり、何を感じたのか、肌で確かめたくなりました。

3月中旬にレゾリュートを出発し、ジョアヘブンまでの前半1000キロは氷海上をスキーで歩きます。ベイカーレイクまでの後半は見渡す限りコケしかないツンドラの陸路。乱氷が例年に増して多かった前半は予想以上に消耗し、シロクマでも食べたいと思うほどの空腹を感じました。「でも本当に当時の目で風景を見るなら、地図もGPSも使えない。次はアプローチの仕方を考えないと…」。

今月は角幡さんの新たな旅のはじまりを語って頂きます。


地平線通信 383号
制作:地平線通信制作室/編集長:江本嘉伸/レイアウト:森井祐介/イラスト:長野亮之介/編集制作スタッフ:丸山純 武田力 中島菊代 大西夏奈子 落合大祐 加藤千晶
印刷:地平線印刷局榎町分室
地平線Webサイト:http://www.chiheisen.net/


発行:2011年9月14日 地平線会議
〒160-0007 東京都新宿区荒木町3-23-201 江本嘉伸方


地平線ポスト宛先
pea03131@nifty.ne.jp
Fax 03-3359-7907 (江本)


◆通信費(2000円)払い込みは郵便振替(料金が120円かかります)、または報告会の受付でどうぞ。
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議


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