3月9日。東京は雲が多いが、晴れ。昼前、青森県から福島県の太平洋岸にかけて震度5弱の地震が発生、沿岸に津波注意報が出た。そんな中、いつもと少し違う気持ちでこの地平線通信をつくり終えようとしている。先月、ヴィオラ奏者として気合いのこもった文章を綴ってくれた鉄人、原健次さんが、亡くなったのだ。
◆第1回の「四万十ドラゴン・ラン」は、2007年3月27日、高知県土讃線(どさんせん)の須崎駅に、20名あまりの参加者が集合してスタートした。その中に元気いっぱいの学者ランナー、原健次さんもいた。なぜか左手の指に包帯を巻いている。聞くと、時間が早かったので近くを見物がてらランニングしている最中、石畳の階段のようなところで躓き、したたかに指を打ちつけた、という。甲のほうに反り返ったようになったらしく、痛そうなので、ムリしないほうがいいのでは? と言うと、いやあ、このくらい大丈夫ですよ、とあっさりしていた。
◆四万十川最源流地点までの登山を難なくこなし、2日目は、川沿いに20キロを徒歩で下った。原さんの植物についての博識が遺憾なく発揮された。3日目、自転車で54キロほど下降。「ウエル花夢」というキャンプ地まで来たところ、近くに診療所があった。相変わらず指の腫れがひかないのでスタッフが気を利かせて、診てもらうことに。のどかだった原さんの顔が、帰って来た時、こわばっていた。そして言った。「最速で東京まで帰るにはどうしたらいいですか?」左手薬指と小指は完全に骨折しており、「このまま放置しておくと、ヴィオラが弾けなくなる」事態だった。
◆後でご家族に聞くと、2本の指の手術はなんと全身麻酔で行なわれた。一時的にワイヤを埋め込み、後で摘出する手順だったという。途中リタイアした原さんが、翌年も四万十ドラゴンランに参加、リベンジを果たしたことは、今号の通信で広瀬敏通さんが書いてくれている。
◆普段は宇都宮にいる原さんは上京するたび、ふらり四谷荒木町の我が家を訪ねて来た。事前に電話が入るのだが、1月21日はかなり突然の来訪だった。前後に他の来客予定があり、昼の1時間だけ、ということにして慌てて江本流サンドウィッチ(来客というと、反射的に食事をつくってしまうのが昨今の私の習性である)を用意した。
◆ヴィオラ演奏の話が弾んだのはこの時だ。「面白い。原さん、書いてよ」と即座に頼んだ。翌日「昨日はエモンサンド美味しく頂き有難うごさいました。(中略)。御来宇お待ちしております。原健次」という絵葉書が届いた。
◆サンドウィッチをつまみながら、短い時間で私たちは日本の歴史と現在についていろいろ語った。是非いつか日本そのものをテーマにして地平線報告会をやろう、と盛り上がった。そして近く宇都宮の原さん宅を訪ね、ビールを飲みながら、泊りがけで詳しく話そう、とも。原さんは、近くにある遺跡を私に見せたいようだった。2月は忙しいので3月には是非、と約束した。
◆「アマチュア・オーケストラ奏者の再格闘」と題する地平線通信2月号の原稿は、2月4日に届いた。私たちがあまり知らなかった原さんの芸術家としての顔がよく見えるいい文章だった。最後は「もう少し生きていたいと思っている。それは、少しでも長く知的生産活動(我が人生の編集、書くという行為、楽器演奏)と良質の知的消費活動(良質の読書、良質の芸術鑑賞活動、頭をかなり使わないと出来ないこと)を維持したいためだ。これらが出来なくなったときには、もう諦めるより他ないと思っている」と締め括られていた。
◆2月17日午後、奥様から電話をもらった。トランスヨーロッパから帰国した時だったか、ご一緒に来られたことがある。一瞬、ガンが転移したか、と気がびん、と張り詰めた。しかし、それどころではなかった。前日の16日、原さんは宇都宮駅前にある花王の図書室で調べものをして帰宅、「ちょっと息が苦しい」と言った。夜になって居間のソファに寝そべって本を読んでいるうち、体調が激変したらしい。ガタンという大きな物音がして二階から駆け下りるとトイレ近くで倒れていた、という。
◆仲間の訃報はいつだって辛いが、研究、実業、スポーツ、芸術それぞれの世界で一流を極め、その世界の扉をほんの少し開けさせてもらったばかりの「哲人」原健次さんの急逝は、これからその多彩な引き出しを次々に開けたかった人だけに、無念だ。書斎に入れて頂くと、原健次という人間が築いた宇宙を見るようだった。年報や『大雲海』など地平線会議関係の何冊もの本が、その最もいい場所に大事に保管されていた。(江本嘉伸)
化学者であり、鉄人ランナーであり、ヴィオラ奏者であり、地平線報告会の報告者であった原健次さんが2月17日未明、宇都宮市の自宅で倒れ、救急車で搬送されたが、3時26分、病院で亡くなった。虚血性心不全。享年65才だった。地平線通信2月号の「アマチュア・オーケストラ奏者の再格闘」が絶筆となった。お通夜は、20日18時から、告別式は、21日12時30分から、いずれも宇都宮市元今泉の葬斎場で営まれ、通信の原さんの文章と09年7月の報告会レポートのコピーが参会者に配られた。
今も玄関のドアが開いてどこからか帰って来そうです。あれほど時を惜しんで本を読み、自然に親しみ、音楽を愛し友人との語らいを楽しみ、尽きない興味に真摯に向き合っていた夫がなにもあっさりと別れを告げるはずがありません。遺影の夫はいつもの穏やかな優しいまなざしです。
訃報はごくわずかの方々にしかお知らせしなかったのですが、皆さんがそれぞれに連絡を取り合って大勢の方々が通夜、告別式に駆けつけて下さいました。一様に「びっくりしました。信じられません。」という方ばかりでした。
江本さんはお忙しい時間をやりくりしてお通夜の前日、原さんとの約束だからと言って我が家に来て下さいました。きっと夫は自分の本や様々な収集品を肴に江本さんと語り合い、飲みたかったのかもしれません。さらにお通夜の席では夫にお別れの言葉を、皆さまには夫について語って頂き、3人の娘や息子には知らない父親の一面が伝わりました。BGMには栃木県交響楽団での最後の定期演奏会となってしまった2月6日収録の曲が流れました。
これほどまでに人を愛し人に惜しまれ……私は悲しみの中にも嬉しく深い感動を覚えました。
一昨年12月の胃癌手術後も予定していた様々な仕事や行事を楽しみ、夏には二人で宇都宮の自宅から車で越前海岸、琵琶湖、鳴門から四国縦断、フェリーで九州に渡り、阿蘇のペンションで大勢の仲間と演奏を楽しみ、夜遅くまで語っていました。この音楽仲間との集いは毎年楽しみにしていて今回初めて私も同行したのです。翌朝私たち二人は早起きして阿蘇山頂から雄大な草千里を眺めました。大病の後の長距離運転に私は一抹の不安を抱えながらも最後まで夫の傍らにいられて幸せでした。
最期は夜中にトイレを済ませ身支度も整え倒れました。「もう動けない……」と言う言葉を残して。
机の上に「トランスヨーロッパフットレース2012」のレジメを見つけました。原健次の名前がしっかり入っていました。何時私に知らせるつもりだったのでしょう。私に言うと今回はやめてと言われると思ったでしょうから。そして紙袋の中には最後に届いた読めなかった本が4冊ありました。「おもしろ化学トイレのサイエンス」「意地悪は死なず」「あの戦争と日本人」「33人 チリ落盤事故の奇跡と真実」。
猛スピードで正確に仕事をこなしいつまでも少年のようなみずみずしい心のままで駆け抜けていった夫。もっともっと子どもや孫たちのことも見ていたかったでしょうね。
地平線の皆さん、どうぞ健次の世界に遊びに来てやってください。
■原さんにお目にかかったのは、2008年10月の「地平線あしびなー」のときが初めてだったと思います。一世を風靡した食品を世に出した優秀な化学者で、植物にも詳しく、しかも超ウルトラランナーと聞き、キリキリとした針金のような人を想像していました。お会いしてみると意外にも笑顔満載のポワンとした柔和なお顔。失礼ながらお腹もそれなりに出ているように見え、予想とのギャップが大きかったのを覚えています。しかしお話からは聞きしに勝る博識が伺えました。私は司会をやっていたこともあって断片的にしか聞けなかったのですが、いろいろな話題が次から次と紡がれて行くのを舞台袖から耳にしました。
◆夜の交流会の際にフルマラソンのお話を伺いましたよね。原さんが50歳くらいで最高タイム3時間を切ったというエピソードに気圧されたのですが、「54歳くらいまではタイムが伸びるから、頑張ってくださいよ」と励まして頂きました。おかげでタイムが伸びないのを年齢のせいに出来なくなったけど、とても元気を頂きました。
◆まとまってお話を聞く機会はその翌年。7月の報告会前のプレ取材でした。東京四谷の江本さんのお宅で原さんと向かい合い、トランスヨーロッパ・フットレースのお話を聞きましたね。大会のTシャツに短パンというラフな格好を見ると、お腹はさほど出ているわけでもなく、足は引き締まり、筋肉質のランナー体型なんだとあらためて思いました。5000キロ近くも走り抜いた後でしたから、体は一層絞り込まれていたのかもしれませんね。
◆そういう認識をしながらも通信にはちょっと太めの原さんのイラストを描いてしまいました。最初にお目にかかったときの印象が強かったのでしょうか。この時の絵は沖縄で描きました。原さんにお話を伺ってまもなく浜比嘉島のハーリー大会に出るために訪沖し、地元の友人、外間さん家の庭で仲間達に見られながら描いたのです。いつもは絵の具で描くのに画材を忘れ、ボールペンかサインペンで描いたんだったかな。でも沖縄と言う環境のおかげか、力の抜けた上等な出来だったと思います。ご本人は苦笑されたことでしょうけど。
◆この2月の通信で原さんの近況を知り、あんな鉄人のような方でも体調を崩すこともあるんだなと意外に思い、気になっていたところ、畳み掛けるような突然の訃報に本当にホントにびっくりしました。いつか同じマラソン大会で後塵を拝する機会もあるかも…と思っていました。植物のお話などもまだまだ膨大に有ったでしょうし、音楽の話も聞き逃していました。もっともっと原さんの引き出しを覗いてみたかったです。心よりご冥福をお祈りします。(長野亮之介)
■原健次さんが亡くなったと聞いて、真っ先に浮かんできたのは、「浜比嘉たんけん隊」で雄弁に植物について教えてくれていたときの、いきいきとした表情だ。土地の人じゃないのに、なんでこんなに詳しいんだ! 原さんと一緒に野山をまる1日歩いたら、さぞかしその土地の見方も変わってくるだろうなと、つくづく思った。
◆その後、地平線報告会に原さんに出ていただくとき、デジカメで撮られた画像を整理して上映するお手伝いをしたが、打ち合わせの席でこの写真は何を撮ったのかを聞いていくと、いつまでたっても話が終わらない。1枚の写真にはっきりとした意味を込めて撮っているので、語るべき背景がいっぱいあるのだ。当日の報告会もとても楽しい場となったが、原さんは走りに行っているのではなく、その土地を見るために行っている。そして、一度に長い距離を走るのは、自然や文化の変化と差異を見届けたいという、科学者らしい探求心からであることがよくわかった。
◆うるとらじいじと呼んでくれるお孫さんに話題が及んだときの照れくさそうな笑顔も、忘れられない。ご冥福をお祈りいたします。(丸山純)
■原さんに初めてお会いしたのは浜比嘉島で行われた“地平線あしびなー”だった。よく晴れた2日目のガチマヤー交流会。ビール担当だった僕の隣にいつの間にか原さんはやって来た。よほどビールがお好きなのであろう。ビールを片手に嬉しそうに次から次へと皆にビールを振る舞ってくれ、結局最後までサーバーから離れることはなかった。一昨年の報告会では、そんな原さんの穏やかな語り口から紡ぎ出される5000キロもの過酷なレース、その状況下でも出逢う風景を心から楽しんでいるようなお話に驚嘆してしまった。
◆以前から、原さんの肩書きに添えられている“ビオラ奏者”の文字に、同じ弦楽器奏者として興味を抱いていた僕は、先月の通信に掲載された原さんの文章に釘付けになった。ビオラを弾き続けて47年とは、僕には気の遠くなるような数字だった。演奏する者にとって“如何にして曲と向き合い、自分と重ねてゆけるか”は大きな課題であり、おそらく誰しもが悩み苦しんでいることだろう。
◆演奏することだけに捕らわれれば、曲の生まれた背景や、自分にとっての愉しみの本質からは遠ざかる。いつでも視野を広くして、自分に問い続ける姿勢こそが本当に大切だということが、ご自身の経験値から描かれていた。さらにお話は広がり、“知識とは人生を楽しむ為の道具”という言葉には、長い道のりを駆け抜けてきた原さん流の極意が凝縮されていると思った。
◆「今度原さんにお会いしたら、いろいろな音楽の話をしたい。機会があれば、是非とも原さんの奏でる演奏を聴いてみたい」。原さんの訃報はそう思っていた矢先のことだった。花の咲く一本道を気持ち良さそうに走る姿や、オーケストラで汗にまみれてビオラを熱演する姿を想像していると、あの時のビールを美味しそうに飲んでいる笑顔が浮かんでくる。これからも僕は三味線を続けてゆくだろうし、人生の道のりで何度も迷うことがあるだろう。そんな時、原さんのこの文章を何度でも読み返し、強く踏み出してゆきたいと切に想う。(車谷建太 津軽三味線弾き)
■原さん、突然の訃報には本当に驚きました。絶筆となってしまった先月号の文章を何度も読み返していますが、僅か1ページの中に、多彩で充実した人生から学び取った独自の哲学が、力強く語られていますね。そして、静かな決意表明……。ああ、もっと話を聴きたかったなぁ。読み込むほどに、そんな思いと悔しさが募りました。
◆地平線の仲間は、久々の再会でも全然変わっておらず、ブランクも感じません。その安心感から、無意識のうちに、「また次があるさ」と油断してしまうのでしょう。今回、改めて『一期一会』という言葉を噛み締めた次第です。
◆今頃は「屋根の上のバイオリン弾き」ならぬ、雲の上のビオラ弾きを愉しんでおられるのでしょうか。それとも、フワフワの世界を軽くひとっ走り? 心より、ご冥福をお祈りいたします。(久島弘)
■びっくりです。おだやかな笑顔で、楽しいお話をしてくださった原さんが、もうこの世にいらっしゃらないなんて、不思議です。「地平線あしびなー」でトップバッターの原さん、あしびなーで、お会いできてよかった! 本当にそう思います。うるとらじいじという呼び方が大好きです。先月の地平線通信の原稿もとても心に残っています。やりたいことめいっぱいで、やっぱりうるとらじいじ! カッコイイです。心よりご冥福をお祈りします。(大西夏奈子)
■原健次さんとは、ほんの数回お会いしただけです。原さんは、私のことを覚えていらっしゃらなかったかもしれない。それでも、私にとっては大切な思い出があります。初めてお会いしたのは、香川さんの300名山マラソン登頂(こんな名称でしたっけ?)の会だったと思います。いつものように三輪さんが「この人はねぇ、すごい人なんだよ〜」と、紹介してくださいました。なじみのある会社名と研究者という雰囲気が印象的でした。
◆数年後、20年ぶりに地元の飛騨高山へ戻った私は、寂しい浦島太郎状態でした。そんな時知りあった方が、なぜか突然、「飛騨でマラソンレースがあったときにサポートのボランティアをして楽しかった。関東の原さんという方だった」という話をされたのです。詳しくお聞きすると、まさしく原健次さんのこと! 思いもかけない繋がりは、ほんとに嬉しかった。
◆「どこにいても地平線会議のみんなと繋がっているんだよ」と、誰かの声が聴こえたようでした。結局、原さんにはこの話はしないままだったような気がします。ご冥福をお祈りします。きっと、またいつか、どこかで繋がることでしょう。(飛騨高山 中畑朋子)
■原健次さんとは二年半前の「地平線あしびなー」で初めてお会いしました。たくさん人が集まっている中でもよく覚えています。「浜比嘉たんけん隊」では原健次さんが植物の案内をされたそうですね。浜比嘉の植物のこと私にも教えていただきたかった。(夫の)昇も原さんのことをよく覚えていて、ついこの間も通信を読んで「へえ〜原さんはビオラ奏者でもあるんだねえ」なんて話していたばかりです。もう一度会いたかった。あまりにも早すぎる訃報に呆然とするしかありませんでした。
◆原健次さんが逝った日は旧暦の1月16日。こちらではあの世の正月ということで、仏壇にご馳走を供え家族親族が集まりみんなでご先祖に思いを馳せます。原健次さんはきっと、天国の長い階段をウルトラマラソンで駆け上がり、ご先祖さまたちとお酒を酌み交わしご馳走を食べて正月を楽しまれたことでしょう。そう思うしかないあまりにも早い死。だって通信に書いてあるとおりまだまだやりたいことたくさんあったはず。ご冥福を心からお祈りいたします。(浜比嘉島 外間晴美)
■地平線あしびなーの会場準備中、スクーターで「江本さんは?」と会場に現れた原さんでした。すでに島を回られていたとのことで、小さなガイドブックを手に、少し説明してくださいました。
◆事前にあしびなーの連絡ファックスをお送りしたのが届かなかったときには、電話口で丁寧に応対していただいたこともあり、親しみを持って話しかけてみましたら、その都度短い返事とはにかんだ笑顔が返ってきました。一方浜比嘉たんけん隊では、開花しているリュウゼツランの話などを熱心にしてくださり、講演での研究者やランナーの顔とあいまって、さまざまな表情がとても印象的でした。多岐にわたる上質なお話をありがとうございました。ご冥福をお祈りします。(大阪 中島菊代)
■えも〜ん(江本さん)に拾われたのはいつのことだったでしょうか。そう、それは四万十ドラゴンランで川を流れていたときでした。これを機に、私の人生観は変わりました。だって、変人ばかり(笑)。こんな世界があったんだ! と感化された20才の春でした。
◆そんな私も24才となり、人よりも長く経験させてもらった学生生活に終止符を打ち、いよいよ今春から和光純薬鰍ニいう試薬を取り扱う会社で働くこととなりました。香川大学院生のうめです。人生って不思議です。予期せぬことが次々おこります。大阪で育ち、離れて生活なんて考えてなかったのに、気づけば香川。英語嫌いだったのに何故かスペイン留学。そして今は語学が好き。就職は大阪!のはずが、なんと今春から東京勤務となりました(笑)。家族も笑いました(笑)。
◆そんなこんなですが、その岐路には色々なきっかけがあり、香川、四万十での出会いや体験がこの流れを生んだと思っています。そして何より私は人とチャンスに恵まれていました。そこから人との出会いの大切さと、何事も経験・体験が大切だと学びました。この先、また色々な出来事があり、それが吉か凶かはわかりませんが、万事塞翁が馬。人との繋がりを大切にし、アクティブな選択で新しい生活に挑みたいと思っています。とはいえ、田舎育ちの私には東京生活がすごく不安です。これから、念願の地平線報告会にも参加させて頂きますので、関東の皆さん、4月からよろしくお願いします! その前に、ちょっと卒業旅行を兼ねて再びスペインへ行ってきま〜す☆
P.S. 関西弁でもいじめないでください。(うめこと山畑梓 ☆原健次さんと四万十での知りあい)
七度目の 卯年の二月 事故に遭う
やっぱり運さま 体はまあまあ
思わずよいしょ と声出して よいしょで座る
よいしょ五線譜の 日々のなりわい
動けるよ 太極拳も その調子
それでいいのさ いろいろあるさ
名を呼ばれ 気はあせりつつ どっこいしょ
そろりと参る 病院のひる
背中見せ レントゲン診て 一瞥し
骨は折れてない 今日はこれでと
高齢の 補聴器つけし 耳鼻科医は
「返事大きいな くすりを出そう」
車椅子を すいすいと 「ノアノア」の前
連作版画に 出会いて動けず
★ゴーギャンの連作版画「ノアノア」(マオリ語で「かぐわしい」)
ゆるやかに 光輝く 黒と白
島の女ら 「ノアノア」のにほい
すくと立つ 裸木の肌 ぴたぴたと
叩きつづけり あとのつくまで
バスもある 電車も走る この世だよ
あわてず待とう わが終バスを
◆重さん、2月5日、車を運転中、一時停止せず衝突。大事には至らなかったが、首、腰など打った、とのこと。免許証は返納したものの、間もなく米ユタ州に旅立つ元気さ。「八度目の卯年」も確実か。
■天野和明さんは、報告会の前々日(2月23日、富士山の日)に34歳になったばかりの若手先鋭クライマー。8000m峰を6座登頂、世界的な賞も受賞している。通信371号では、恩田真砂美さんが「海外の若手クライマーにとって、憧れの対象でもあるようだ」と書いている。そんなすごいクライマーだから、報告会は始終ヒマラヤ高峰でのクライミング話に花が咲いて…とはいかないのだ、これが。まず大学山岳部時代の話で大いに盛り上がり、さらに話は日本の亜熱帯無人島調査まで広がるという、何とも内容豊かな2時間半になった。
◆山梨県の小さな村で生まれ育った天野さん。木登りや秘密基地づくりといったスリリングな遊びの延長で、他の子どもがサッカーや野球に興味を持つのと同じように登山に興味を持つ。1996年、明治大学へ進学し山岳部に入部。憧れだった植村直己さんの後輩になり、「いつか真剣にやろうと思っていた」山登りへの一歩を踏み出した。
◆明大山岳部の古風でユニークな伝統が面白かった! 装備は、あえて旧式のものを使う。キスリングザックもウェアもテントも、特注品。家型の三角テントは生地が厚くて頑丈だが、雨を吸うのでものすごく重い。1、2年生が着るウェアは、ビニロンの生地を吉田テント(株)(日本の歴代海外遠征を支えてきた登山装備の老舗メーカー)に頼んで作った。ちなみに3、4年生になればナイロンのウェアを着ることができる。靴も上級生はプラスチックの2重靴だが、下級生は冷たい革靴にオーバーシューズ。さすがに現在の山岳部はこんな装備は使ってはいないそうだが。
◆3年生になるまでは、ザックやウェアに「明大」の文字を入れることはおろか、明大山岳部を名乗ることも許されない。また、下級生は合宿中、4年生のザックに触ってはいけない(あまりに軽くて理不尽さを感じるから)。テントは奥から偉い順にOB、4年生、3年生…と場所を占め、入口に近い1年生はすごく寒い。予備日を含めて30日間という冬山合宿計画もあり、先輩に「成人式も、学期初めのテストもあきらめてくれ」と言われたこともあった(結果的に早く下山でき、両方大丈夫だった)。
◆面白くも厳しい伝統には理由がある。明大山岳部は「人はもともと弱い」という考えのもと、チームワークを重視した活動をしているそう。山は体力や技術がある人にもない人にも同じ条件を強いてくるから、自分が努力して強くならないと山に負けてしまう。だから、特に一番弱い1年生をより強くしてあげようという…「ありがたい考えです」。会場から笑いが。天野さんにとって山登りに費やした大学時代は、今も強烈な印象を残すほど充実した日々だったに違いない。
◆2001年6月、卒業してすぐにOB会でヒマラヤ登山へ。初めての海外登山はパキスタンのガッシャブルムI峰(8068m、世界11位)とII峰(8035m、世界13位)。ここで大きな衝撃を受けた。約100日間、隊員6人分の荷物を運ぶのに、総勢200名ものポーターを雇う。日当は約600円。たかが23歳の若造が、山に遊びに行くために100万円近いお金を出し、この人たちはそんな自分のために荷物を運んでくれている。海外にまで来て山登りをする意味を考えさせられ、極限の贅沢だと思った。
◆ナーバスになったが、登山が始まると集中して2峰とも登頂に成功。と、さらっと言うけれど、すごいことだ。高所に強い体質なのだろう。酸素は使いたくなかったが、未経験者ということもあり、先輩の指示に従ってアタック前夜の睡眠時のみ使用。山で酸素を吸うと、医学的には高度を1500〜2000m下げると言われている。楽になるが、それではあえて高い所に登る意味が見いだせない。「僕は高い山に行くのが好きですが、やっぱり高いから好きなんです」。子どものころ宇宙飛行士に憧れていたこともあり、山では空気の薄さや濃紺の空など、星や宇宙に近い感覚を味わえるのが好きなのだという。
◆翌年OB会でネパールのローツェ(8516m、世界4位)に行く際は、無酸素で登りたいと申し出た。同じ8000m峰でも、8500mを超えるとわけが違う。酸素の薄さはあまり変わらないが、危険地帯に長時間滞在することが大きな負荷になるのだ。ゆえに高所登山で重要なのはスピード。早く登って早く降りるだけの高所順応できる力と体力が欠かせない。初めての高度で不安もあったが、目や手がしびれながらも登頂した。
◆2003年はアンナプルナ(8091m、世界10位)へ。OB会で8000m峰14座を全て登ろうというプロジェクトがあり、1970年に植村さんが日本人で初めてエベレストを登ってから、残すはこの山のみになっていた。遭難率が非常に高い危険な山だ。その南壁を見た天野さんは「恋するくらい美しい!」と思ったそう。途中、荒天でBC(ベースキャンプ)に避難している間にテントが3mも埋もれたが、2日間かけて掘り出した。「粘り勝ちです。」明大山岳部OB会は足かけ33年、1人の死亡者もなく8000m峰全14座登頂を成し遂げた。
◆次に天野さんが選択した道は、先鋭的と言われるアルパインスタイルだった。それは、酸素を使用したり危険個所にフィックス(固定)ロープを張ったり、荷揚げをポーターに手伝ってもらったりといった今までの大がかりな登り方とは正反対の、できるだけモノを排除した軽量でスリムな登山スタイル。そうすることでリスクは高まるが、スピーディーさで安全性が高まる面も。その妥協点は自分たちで探りながら登る。「大学山岳部の延長だけでなく、向こうには向こうの登り方があるのではと思った。経験を積んで自分に足りないものを増やし、理想の自分に近づいていきたかった」。
◆ここで編集されたムービーが。タイトルは「GIRI GIRI BOYS ヒマラヤ アルパインスタイル 苦しみの芸術」。ビートのきいた音楽にのせて、国内外でのアルパインクライミング風景が流れる。猛烈なスノーシャワー(チリ雪崩)や夜中の登攀、谷から湧いた雲に飲み込まれていく山々。テントやトイレまで垂直の壁の中。まさにギリギリ、息を呑む光景だ。「常に不安な気持ちが心の大部分を占める。これ以上行ったら下れるか、頂上まで行っても帰ってこれるのか、天気は持つか…。その不安要素を受け入れるのがアルパインスタイルとも言える」。そうか、何かを捨てる(あるいは断つ)ことで目の前のものを受け入れ、前に進むという考え方は、登山の話に限らず何だか人生っぽいなあ。
◆トレーニングを重ね、2006年には先輩の加藤慶信さんと2人でチベットのチョー・オユー(8201m、世界6位)、シシャパンマ(8027m、世界14位)に登頂。二人は山梨県出身で山頂では“風林火山”の旗を掲げるのが恒例だ。その後、一村文隆さん、佐藤裕介さんの計画に乗る形で「ギリギリボーイズ」というユニットを組み、2008年、未踏のインド・カランカ北壁(6931m)へ。壁の傾斜がきつくテントを張るスペースがないため、毎日氷を削って3人寄り添って寝る「お座りビバーク」。途中5日間嵐に捕まり停滞したが、偶然にも洞窟状の場所(「ホテル カランカ」と名付けた)を見つけたことでやり過ごせ、登頂に至った。
◆2009年には、同じメンバーでパキスタンのスパンティーク北西壁(7028m)へ。雪崩にあいながらも再トライし、結果的に無事登頂。ただ、いつも反省するのは、登山は結果論では語れないということ。行けたのはたまたまであって、それをずっと期待していると痛いしっぺ返しをくらう。登山の難しいところは、間違ったことをしても何とか行けてしまうことがほとんどなので、勘違いする人が出てくること。山の怖さを知らないのは危ないことだ。ちなみに天野さんがこの山に挑戦している最中、信頼する先輩、加藤さんがチベットのクーラカンリ峰で雪崩にあい亡くなった。山では一歩違えば、死は本当にすぐ隣で待っているのだ。
◆2008年のインド・カランカ北壁初登攀が評価され、ギリギリボーイズは登山界のアカデミー賞と言われる「ピオレドール(黄金のピッケル)賞」を受賞。登山は競技ではないため、ナンバーワンを決めるのではなく、広く世の中に紹介するという意味での賞だ。受賞しても生活で大きく変わったことはなく、それでいいと思っている。登山は誰も見ていない所で自己満足するだけなのに、賞の影響が大きいと嘘の記録を出す人がでてきたり、山に行く本来の目的がずれてしまいそうだから。
◆ここで報告は意外な方向に進む。「せっかくだから紹介したい」という話の舞台は、小笠原諸島の南硫黄島。ヒマラヤの氷の世界から一転、日本の亜熱帯にある孤島へ!? 天野さんの世界の自由さに、聴衆はびっくり。2007年、天野さんは小笠原諸島の世界遺産登録を目指して東京都が行なった南硫黄島調査をサポートをした。人が住んだ記録のない南硫黄島は、動植物が独自の進化を遂げている可能性があるため、全域立ち入り制限がされている。そんな研究者でもめったに入れない島に、25年ぶりに上陸許可が出たのだ。
◆島が急峻なため、天野さんは調査隊が岩場を上り下りする際のロープを張ったり、荷物を運んだりといった仕事を任された。総勢18名、1週間の調査は新鮮な体験の連続だった。島の生態系を壊す外来生物を持ち込まないよう、荷物はアリの子1匹入りこまないよう厳重な管理がされていたり。上陸前の3日間はトマトなどの種ものは食べるなと言われたり。これは種が便にまざって排出され、島でトマトが生えたら大変だ、ということで。もちろん出したものは持ち帰りだが。島までは東京から船で25時間、そこから漁船で17時間。最終的にはゴムボートで島の近くまで行き、泳いで上陸、崖と海の間のわずかなスペースにテントを張る。動植物も初めて見るものだらけ、道なき道を開拓していくのはまさに探検気分。翌年には北硫黄島調査にも参加した。
◆「人生、好きなことをしたほうがいいです」と語る天野さん。今後も登山だけでなく、また新たなフィールドでも活躍されそうな予感がする。自由に人生を展開させていく姿は、とても輝いてみえた。(新垣亜美)
■地平線会議には前々から興味を持っていたし、江本さんに何度かお誘いされていた。でもその都度予定が合わなくお邪魔できないでいた。それにマニアックな変わったことをしている人たちの集まりといったイメージがあり、実にまともなこの僕が(笑)、話すことなどないのではないかと思っていたのだ。
◆今回話をさせて頂くにあたって、一度その会議の「報告会というものの雰囲気を見ておきたいと思って、2月の関野吉晴さんのお話を聞きに行きたかった(関野さんの話だけでも非常に興味があった)が、これも仕事の段取りが悪く行けずじまい。
◆さて当日。どれくらいたくさんの人が来てくれるのかと思っていたら、会場がほぼ埋まっていたので驚いた。たまに頂く講演などの機会では、あれもこれもと欲張っていつも時間が足りなくなってしまうのだが、今回もまた然り……。
◆冒頭の明大山岳部時代の話は、まあちょっと前時代的な話だし、分かる人もいないしと思っていたら、なんということだ、ちょっと?年配のキスリングやビニロンヤッケなどを使っていた人たちがいたためにサラッと流そうと思っていた明大山岳部話を、かなり突っ込んでしてしまった。あ〜、時間配分が……。
◆その後は卒業後のドリームプロジェクト、ヒマラヤ登山8000m峰の話。そして転機になったアンナプルナ南壁、そしてアルパインスタイルへの流れなどなど。登山の本質的なことやリスク、アルパインスタイルの意味やこだわりなど、なかなか理解してもらいにくいことであったが、皆さんがかなり真剣に聞いてくれたこともあり、かなりの部分が伝わったと思う。
◆そして「南硫黄島」「北硫黄島」の話。正直ヒマラヤの話なんかは、色々なところで聞けると思うが、特に南硫黄島の話は他では絶対に聞けないはず。ということで「東洋のガラパゴス」南硫黄島の話はぜひしたかった。オガサワラオオコウモリ以外の哺乳類がいない夢の島、島が誕生して以来人間の影響を受けていない貴重な島。鳥と植物の島。道なき道を開拓する喜び。見るものすべてが南国冒険気分で実に楽しかった。
◆北硫黄島は南と比べたら、やはり戦前までとはいえ人の匂いがしたけど、それでも素晴らしかった。登山者としても南硫黄島は第3登、北硫黄島は戦後初登頂と、ともに山頂に立つことができて非常に楽しかった。
◆ 新垣亜美さんがまとめてくださったレポートも的確に僕が話したことをとらえていて、すごい! たいてい山、特にアルパインスタイルとか超マニアックなジャンルに関する山登りについて話をしても、専門誌のライターが書いてくれた表現でも「ちょっとそこは違うんすよね〜」なんてことはよくあるのだが、新垣さんは実に頭のいい女性なのだと思う。
◆山に登る、そのことに関して生活し、人生が形成されているが、心から傾倒できるものに出会えたことは実に幸せなことだと思っている。不安もリスクもあるけれども、それ以上に楽しみもある。「人生ってなんて素敵なのでしょうねぇ!」(天野和明)
■天野和明さんの話を聞いて、極地法の登山からアルパインスタイルへ、組織で登るスタイルからギリギリボーイズでの先鋭的な登山へ、といった山に対する考え方の変化がよく分かりました。一人も死者を出さなかった組織的な極地法登山、よりシンプルな登山を目指すアルパインスタイル、どちらが優れている訳ではないことも納得させられました。ご本人の生の声を聞くことは価値があるなと思いました。
◆なかでも天野さんが黄金のピッケル賞に選ばれ、それを受賞されたお話で「山登りは評価できるのか?」という問いにはとても考えさせられました。天野さんがあこがれたという植村直己さんの時代、「8000メートルに初登頂」や、「北極点に徒歩で到達」など、記録が分かりやすく、聞くだけですごいことだと納得させられ、あこがれを抱くことができました。ところが最後の8000メートル峰が登頂されて47年もたち、世界から未踏の地は当然どんどんなくなっています。しだいに登山や冒険が、結果だけでなく、その中身が問われるようになりました。
◆今回の講演で天野さんが2003年ごろからアルパインスタイルに関心をもち、「誰も見ていなくても、登りたい登山をするようになった」と話していらっしゃったのが印象に残りました。14サミット全登頂を目指す、竹内洋岳さんに以前お聞きしたとき「これから登山はより個人的なものになるでしょう」と話していました。記録のための登山より、もっと困難な山や壁への挑戦、困難なスタイルへの発展など「無名の記録」の方が意義が大きいことは確かです。ただ、あまりに登山や冒険が分かりにくくなると、ぼくをはじめ登山家の話を聞く一般の人にとって、専門的で難しい世界だなと感じることがあります。なんだか山や冒険の魅力を伝えてくれる人が少しずつ遠くにいってしまうようにも感じます。
◆植村さんの魅力は、数々の記録もさることながら、登山家や冒険家ではない多くの人の心をつかんで、多くの人をそれぞれの山や冒険にいざなったことだと思います。記録が大切だ、といいたい訳ではありません。むしろ最近の「記録」には理解に苦しむものもあります。
◆エベレストの最年少登頂記録は13歳。脅威的な記録なのでしょうが、あまりに過熱すると、安全を無視した無謀な挑戦と捉えられなくもありません。また、去年は14座登頂の韓国人女性クライマーの記録の信憑性が疑われました。なんだかすっきりしない印象が残っています。天野さんは「登山は競技ではないことはあきらか」「二つの登山を比べてどちらが優れているとは決め付けられない」とおっしゃっていました。
◆ただ一方で、明らかに優れた登山がある、すばらしい冒険があるのもまた、確かだと思います。これからの時代、それを伝えるのは、登山や冒険に対する賞なのでしょう。日本ではたとえば植村直己冒険賞がそれだと思いますし、天野さんたちの受賞で、黄金のピッケル賞が日本に紹介されたと思います。これからの冒険家は、個々の記録だけでなく、今後こうした賞によって評価され、次の冒険家のあこがれになっていくのかな、と思いました。(今井尚 『旅と冒険』発行人)
■地平線通信2月号の発送に汗をかいてくれた方は、以下の通りです。ありがとうございました。
松澤亮 森井祐介 江本嘉伸 満州 落合大祐 杉山貴章
■こんにちは! 自分の犬と犬舎を持って1年。初めて自前でレースに出ることができました! 2月第一土曜日の5日、「ユーコンクエスト300」という、クエストのジュニア版のような300マイルのレースに出場したのです。ビリでもいい、という気持ちだったのに、なんと12位で完走しました。
◆このレースは、「ユーコン・クエスト(1000マイル)」と同じコースを前半の300マイルだけ走るものです。出走はクエストスタートの午前11時から6時間後の午後5時スタート。レースといっても、私にとって初の自分の犬舎・自分の犬での出場で、まだ出来立ての我がチームはほとんどが1〜2歳という子供ばかりだったので、休憩を多めに取りゆっくり行く計画を立てて“トレーニング”として出ました。
◆私のレース犬のメンバーは、昨年の夏アラスカに行った際にランス・マッキー(クエストとアイディタロッドのチャンプで現在の犬ぞり界のトップです) から買った、まだ当時トレーニングさえした事のなかった1歳の子と大きな2歳の2匹(その他にも買ったのですが、まったく走る気のない駄犬だったので返金してもらいました)、アリー・ザークル(女性で唯一クエスト優勝)から買った1歳と6歳のリーダーの2匹、そしてカナダの元ボスのグラント・ベック(4回カナディアンチャンプ)から買った1〜2歳の4匹、それに最初からうちの犬舎にいた初代たちの合計11匹です。
◆初代といってもみんな若くまだ1歳です(奴らは舟津圭三さんの犬ボーケンと私の雌犬ヒーコラのいわゆる“できちゃった”たちですが、みんないい子です)。というわけでどいつもこいつもまだ子供なのです。しかも唯一のレース経験者のメスのリーダー(ペチュニア6歳)が発情中で、リーダーとして使えませんでした。でも、若いけれどうちの犬はみんな私にとっては世界一の犬で、気持ち的には自分の本当の子供なのです。私の愛のムチである辛いトレーニングも頑張ってくれていたから本番でも私のプランより早く進んでくれました。
◆ただ、ステッピングストーンというホスピタリティーストップのところからゴールのペリークロッシングまでの最後の35マイルが、行けども行けども同じような坂道の繰り返しで景色も変わらず、若いリーダーには辛かったようで、いよいよここで発情中のペチュニアにシングルリーダーになってもらいました。風邪薬のヴィックスを患部付近とオスの鼻の周りに塗ってごまかしながらだったので大変でしたが、ヴィックス効果は覿面でした。
◆私の方は、レース前の方が忙しくて辛かったので、レース中はかえって楽でした。と言うのも、仕事とトレーニングとレース準備(フードドロップ作り)の全てを一人でやった為、徹夜してそのまま仕事という日が結構あったからです。でも、職場のカフェ(ちょっとおしゃれなコーヒー・ショップです)のボスである三恵さんが日本人で理解があるので、床でゴロリと仮眠してても苦笑いで許してくれました。
◆ホワイトホース(注:ユーコン準州の州都。人口2万3000人で、同準州人口の75%を占める)の南50キロほど、スプルース(トウヒ)の林の中に自分の小屋を建てたのがおととしの9月でした。約90万円でキャビン・キットを買い、近所のおじさんと2人で12メートル×20メートルの家をつくったのです。
◆水もないし電気もないので、今も明かりはもちろんロウソクです。寒い日はキャビンを暖めて餌を作る事さえ大仕事だったし、トレーニングの距離が伸びればその分時間がかかるのでキャビンを暖めるだけでも難しい事だったのです。50マイルトレーニングをするとしたら、準備やら餌やら何やらと全部入れれば、終わるまで早くても7時間はかかるのですから、仕事のある日は徹夜必至でした。そんなわけで、頑張った甲斐あって、うちの世界一のワンコたちはみんなよくやってくれて、楽しめました!
◆さて、1000マイルのクエストの方は、今年は大波乱の展開でした! 今年も温暖な冬だった為イーグルサミット手前のトレイルの一部がオープンで、犬も人も泳ぐ様に胸まで水に入ったと言うのです。しかもその頃気温が逆に下がって-50度(華氏)になっていたというからこれは本当に危険です。
◆今年こそ間違い無く優勝だと言われ、ダントツ一位でまい進していたヒュー・ネフは、彼の犬が吐いたモノが気管に入ってしまった為に死亡し、前のチェックポイントに戻り棄権してしまいました。詳しくは公表されておらず、よく分かりませんが、3月の第一土曜日からアイディタロッドという世界一大きなレースが始まるので、それに向けて頑張っていたのを知っている分心配です。
◆薄着で有名な去年の優勝者ハンズ・ガットは水に落ちた犬を引き上げる際に手がひどい凍傷になってしまい棄権しました。指が3本なくなるかもと言われていましたが、幸い5本とも切らずに済んだそうです。ちょうど後ろから来た優しいマッシャーのブレント・サスがハンズを助けなかったら指はなかったと思います。レース後ハンズはこのトレイルについてラジオで暴言を吐いて怒りまくっていました。これでは来年クエストに出るかどうかも怪しいです。彼もアイディタロッドでの優勝を視野に入れていたので心配です。
◆結局、出走25チームのうち完走できたのは、半分の13チームだけでした。それほど最悪のコンディションだったのです。優勝はルーキーのダレス・シービー(シービー家は有名なチャンピオン・マッシャーファミリー)になりました。さすがです! いやー、今年出れなくて良かった……。(カナダ・ホワイトホース郊外 本多有香)
■2月中旬、雪の屋久島の森散策、おきなわマラソン出場、という流れで、またもや沖縄の浜比嘉島へ行ってきました。今年度3回目の訪問です。今回も外間昇さん・晴美さんのお宅におじゃましながら、秋に植えた島らっきょうが立派に成長しているのを見たり、ヤギの出産に立ち会ったりと、1日1日ゆっくり、でも確実に変化していく島の生活を楽しみました。
◆中でも嬉しかったのは、比嘉小学校で行なわれた黒糖作りの体験授業に参加できたこと。外間さん夫妻がさとうきびや絞り機を学校に提供し、指導に協力するというので、私もお手伝いという名目で便乗しました。授業を受ける3、4年生は10名に満たず、担任の先生は1名。他の先生方のサポートもあり、和気あいあいと授業は進みました。
◆1本のさとうきびから驚くほど沢山の汁が絞れ、それに石灰を加えて2時間ほど煮詰めていきます。子どもたちは根気強く鍋をかきまぜ、アク取りをしていました。カラメル色になって沸騰したら、アルミ皿にあけ、固まれば完成! 見事に甘くてミネラルたっぷりな、南国の味になりました。
◆そんな比嘉小も含め、近隣4島の小中学校が廃校の危機にさらされています。昨年からうるま市教育委員会と反対派の押し問答が繰り返されていて、地平線通信でも何度か取り上げられていますが、実際に話を聞いてみると部外者の私でさえ納得のいかない状況でした。ほぼ100%の保護者の反対意見を無視し、あまりに結論を急ぎすぎている市教委。肝心の島民たちは情報不足。まだまだ予断を許さない状況です。
◆実は今回の黒糖作りに、糸満市に住む私の親せき(小1と2歳)も途中参加させていただきました。人なつこい比嘉小の子どもたちは、恥ずかしがる上の子に黒糖をすすめてくれ、帰るころにはすっかり友達になって一緒に校庭を走り回っていました。2歳の子にもやさしく接してくれて、仲間を思いやる気持ちが育っているんだなあと感心しました。それってすごく大切なことですよね。
◆学区をなくしたオープンスクールや里親制度など、まだまだこの島の素晴らしさを活かせる道はあると確信しました。市教委の方々に、この光景をもっとよく見てもらいたいと切実に思います。先生にとっても子どもたちから得るものは大きいのではないでしょうか。一旅行者の勝手な感想ですが、ここにしかできないことが、きっとあります。こんなに素晴らしい環境、活かさないともったいないですよ!(新垣亜美)
写真展「地平線発」の開催などでお世話になっている兵庫県豊岡市の植村直己冒険館が、植村直己冒険賞15回を記念して、この5月、東京でフォーラムを開催します。この催しは、当初から地平線会議・江本に内容について相談があり、人選など任せてくれました。結果、パネリストは地平線報告会で話した冒険者が中心に選ばれ、実質的に植村直己冒険館の企画に地平線会議が全面協力するかたちとなりました。勿論、植村直己さんの母校、明治大学や各山岳会、団体、個人の協力で実現しました。
★チラシを同封しましたので、希望者は植村直己冒険館に直接お申し込みください。その際、必ず「地平線会議」とお書きください。2月の報告会ですでに申し込まれた方は、不要です。会場は、1000人収容。
◆ ◆ ◆ ◆
フォーラムの内容
1)開催日 2011年5月15日(日曜日)
2)テーマ 「冒険の伝説・未来」
3)会 場 明治大学アカデミーコモン3F アカデミーホール
4)時 間 13:15〜17:00 (12:00受付開始)
5)コーディネーター
江本嘉伸(地平線会議代表世話人)
6)内 容
中貝宗治 (兵庫県豊岡市長)
植村の育った町から
「コウノトリ悠然と舞うふるさと」
廣江研(植村直己と山岳部同期)
植村直己を語る
「我が友 ドングリは生きている」
・植村直己記録映像上映
「素顔の植村直己〜夢果てしなく・愛かぎりなく〜」
・パネルディスカッション
「踏み出した者たち」
パネリスト
天野和明(明治大学出身登山家)
永瀬忠志(冒険家・植村直己冒険賞受賞者)
服部文祥(サバイバル登山家)
松原英俊(鷹匠)
ゲスト
市毛良枝(女優・登山家)
■山形県の肘折(ひじおり)温泉は、アメダスの計測による積雪量では常に全国で上位に入る豪雪地。月山の北東側に位置し、私が普段月山入りする西川町の志津(おそらく通年人が暮らす集落では日本一の豪雪地だがアメダスがない)同様、その豪雪は月山がもたらしています。
◆「第2回」と銘打ってはいるものの、地面出し競争はもともとは小学校の運動会行事で28回続いたもので、廃校になった後も地元の方々の心意気が守り続けた伝統ある競技です。学校のグラウンドに積もった雪をひたすら掘って掘って掘りまくり、地面が出たらその土を持って大会委員長のところに走り、手渡してゴールとなる、単純なようだが、実際にやるとかなり大変な競技。
◆私の山での相棒、大嶋さんが昨年この競技のニュースを見て惚れ込み、参加を熱望。その熱意にほだされ、飯野さんが現場監督を引き受けてくれ、どうせなら掘り手は女性だけでがんばろうという大嶋隊長の希望で、昨年朝日連峰の以東小屋で立ち話をしただけの埼玉の女性も、たまたまこの時期に湯殿山に案内してほしいとメールがあったためスカウトしたら快諾、メンバーがそろいました。そんなわけで、飯野現場監督の指揮下、大嶋隊長、網谷、Rさん、Sさんの5名で「ほっづこっづで雪ちょし隊」を結成し、地面出し競争に参加したのでありました。当日は掘り手は全員タヌキの尻皮を装着し、あらゆる雪質に対応すべく、スコップはアルミの角スコ、鉄の角スコ、剣スコをそろえ、監督から掘り方の作戦を仰ぎ、実戦に突入。今年は雪が245cmと昨年より多くしかも硬くて手ごわかったが、日ごろ雪に慣れた面々はくじけません。穴の底に入る人を交代しながら、掘る。掘る、掘る、掘るーっ。あっという間に1位、2位のチームが驚異的な速さでゴールしてびっくりしたが、地面はほど遠く、思いのほか時間がかかった。それでもついにおらだの春も見えてきて、大嶋隊長が地面を掘り出し、穴の外へひと握りの土を差し出した。それをSさんが受け取り、ゴール側にいた私に差し出してくれた。監督の飯野さんが看板を持って準備。土と看板の両方を持ってゴールに突っ走り、大会委員長に受理されるとほら貝が鳴り響き、感動のゴール。タイムは23分43秒と思ったよりかかりましたが、14組中8位。女性メインのチームとしては大健闘。あまりの楽しさ、達成感に、終了直後に既に「来年もまた」と心に誓った「ほっづこっづで雪ちょし隊」でした。公式HPにルールや、雰囲気の伝わる動画がアップされています。http://ohkurasport.jp/jimendashi/(山形市 網谷由美子)
★「ほっづこっづで雪ちょし隊」とは、「あっちこっちで雪をいじりたい」という意味だそう。実に面白いので、動画必見です。網谷隊員が土のついた雪のかけらを手に突っ走る場面も。
■2月15日、東京・北青山の「青山ダイヤモンドホール」で、日本雑学大賞、第29回雑学出版賞の授賞式が行なわれた。地平線通信1月号で伝えられているように、大賞には関野吉晴さん、雑学出版賞は昨年『ぼくは都会のロビンソン』(久島弘著)を編集出版した東海大学出版会の岡村隆さんが受賞した。大学探検部時代からの長年の盟友、そして地平線会議を支えてきた同志が、偶然、同じ会場で受賞したのだ。関野、岡村さんがそれぞれ賞状と花束を受け取ると約100人の参加者たちが拍手で祝った。会場には久島さんのほか、イラストを書いた長野亮之介画伯の顔も見えた。「雑学倶楽部」は1958年に設立された「好奇心が人一倍旺盛で、しかも行動力がある雑学人間の集団」。会員にY新聞のOBが多いことに圧倒された。(E)
■1か月前、学生最後の旅に出た。選んだのは、チベットとインド。西南アジアでは同じアジアでも日本とはまったくちがう空気を感じられると思ったからだ。本当は探検部員(上智大学)らしい探検精神溢れた締めくくりの旅としたかったが、公共交通機関をつかったバックパック旅行になってしまったのが心残りだ。期間は、2月4日〜28日までの23泊25日。
◆はじめてのチベット。首都ラサに着いたのは、徹夜明けの朝だった。時間の限られた旅のため成都でネパールまで陸路で抜けるツアーを組み、飛行機で一気にラサへ飛んだ。チベット滞在1週間で約5500元(1元=約12.5円で約7万円、同行者は他に1名のみ)という、私にとっては高い料金、おまけにガイドに連れられトヨタのランドクルーザーで「快適に移動する」ツアーだから正直、欲求不満が募るばかりだった。
◆その中で唯一チベットを感じられた町が「メンプ(門布)」だった。エベレスト・ベースキャンプへの玄関・オールドティンリーの近く、ラサから西へ500kmほど行ったところにある、何もない小さな町。ネパールとの国境の町・ダムまでの道路が大雪で封鎖されたため、風呂もトイレもないこの町に急遽3日間滞在することとなったのだ。ラサやシガツェを出てからまともに手を洗うところがなかったので、爪の間が真っ黒になっていたが、その時は気にせず食後に指をなめたりしていた。
◆真っ白な雪原の真ん中でおしりを出すのも意外に悪くない。そう思ったのは、1泊ツインで100元以上もする豪華なホテルや、旅行者用のメニューしかない、英語が通じるレストランに嫌気がさしていたからだった。その日は、同じように足止めをくらったチベット人旅行者たちと10元のドミトリーに宿泊した。
◆朝、初めてツァンパやトゥバ(チベットうどん)を食べさせてもらい、バター茶を勧められるだけ飲んだ。嬉しかったのは、サンダル履きの私を心配したチベット僧のおじいさんから靴下を2足頂いたこと。宿にいたほとんどの人には英語や中国語が通じなかったので、チベット語のありがとう「トゥジチェ」をはじめて使った。予定が早まって結局泊まったのは1泊だけだったが、出発するときにはおでこを頭にくっつけて、「気をつけてね」と言ってくれているようだった。
◆ツアーが延長したため、ノービザ入国で1日オーバーステイしてしまったが、お咎めなしで出国することができた。ネパールに入り、カトマンズまで100kmちょっとの距離を6時間かけて走り、翌日には、もうインドにいた。明るいうちに着くはずだったが、デリーに飛行機が遅れて着いたのは夜7時だった。そのため、雨がしとしと降るデリーの夜を小1時間歩きまわるはめに。公衆便所のにおいがする水溜りにサンダルの足をつっこみながら宿を探し、どうにか300ルピー(1ルピー=約1.82円)で泊まれる宿に入ったのは9時過ぎだった。明るいところで見るとヘドロ色の泥が足の親指にきれいにコーティングされていた。
◆はじめてのインド、それも真っ暗で自分がどこにいるのかもわからず、はじめは恐怖で胃が焼けそうだったが、デリーの住人は思ったよりおだやかで親切だった。客引きは強引ではなかったし、夜道を1人で行ったり来たりしていても、みな丁寧に道を教えてくれた。日本人旅行者たちから「デリーの7割は悪い人」と聞いていたのが、おかしかった。
◆できるだけ現地の人と同じ手段で移動し、同じものを食べ、同じ言葉で話す。それが私の旅のモットーだが、それを守ってインドの水を使ったフレッシュジュースを好きなだけ飲んでいたら、入国3日目にハンピ(南部カルナータカ州の村で、かつてのヴィジャヤナガル朝の首都)で突然、高熱を出し、内容物を全部出してしまった。中国で買った緑色の速攻下痢止め薬で熱は一晩で下がったが、下痢は止まらず2日間は断食することに。その後、突然やってくる腹痛を、次のトイレまで停車しない「下痢EXPRESS」と名づけた。日本に帰ってもしばらく下痢が治らなかったのは、どうせ出るなら同じだとまた10ルピー前後のフレッシュジュースを飲みまくっていたためだろうか。
◆帰国して、あらためて日本は変な国だと思った。中国やインドを日本より汚くてサービスがなってない国と言うのは簡単だ。しかし、旅行中は寂しい思いをすることが一度もなかった。店員は無愛想だが、いつも誰かが何かを売ろうと声をかけてきたり、隣に座れば必ず話しかけてくる。一方、日本では時々何をしても埋められないような焦燥感におそわれる。店員は笑顔で丁寧だが、私の住む町では、駅前のチラシ配りとは目を合わせずに通り過ぎるのがふつう、マンションでは同じ階の住人でも用がなければ話しかけないのがふつう。こんなに安全な国はないのに、いつも犯罪におびえている。メディアを信じてありもしない敵をつくっているようだ。
◆それは海外に対しても同じことで、実際に私が言われた言葉だが、「中国では反日で日本人を殺すことも」と言う人もいる。少なくとも日本の物差しだけで世界を見ることの愚かさに気付けたのは、自分の意志で旅したからこそである。これからメディアで仕事をしていく人間として、もっといろんな世界のことを自分の足と目で確かめに行かなければいけない。
◆インドの下痢は帰国して1週間も続いた。それでも、また懲りずにインドのレモンジュースを飲みに行きたいと思っているのは、まだまだ世界を見足りない証拠だ。(井口恵理 4月から新聞記者)
■また途方もない所に来てしまったなあ。見渡す限りの大雪原。ここはシベリアのツンドラか、アラスカのノーススロープかと思わせる景色だ。モンゴルといえば大草原に遊牧民のイメージだけど、冬はちょっと違う!
◆普段はツアー案内で海外に出っぱなしの安東だが、2月はシーズンオフだし、自転車で走りに来た。どこまでも雪原で彼方に雪山が広がる荒野の景色。緑の草原よりも美しいなあ! と思うのって、正常な美的感覚じゃないのかな?
◆さて地平線会議は旅のエキスパート集団だから、添乗員とか登山ガイドが生業の人は多い。辺境案内人の安東も北はグリーンランドから南はパタゴニアまで、最近はここ1年でキリマンジャロ5回、ケニア山2回登頂など、アフリカ色が濃い。でもやっぱり安東の専門はチベットで、3〜5月はずっとチベット領域にいる。
◆ツアーなんて楽ちんとお思いでしょう。ところが、お客様が霊に導かれて失踪したり、十何人もいるからお一人様くらい置いてきちゃったり、歩くのが牛歩のごとく遅い顧客にこっちが気が狂いそうになったり、自分の旅ではありえないハプニングも多く、旅のエキスパートとして鍛えられます。でもあんまり裏話すると、報告会や「通信」の内容はネットでオオヤケになるので、お仕事がもらえなくなる。もっと聞きたい人は2次会の酒の席でどうぞ!
◆旅系ライターも地平線仲間に格段に多い職業だ。月給をもらえる記者もいれば、フリーでも本を何冊も出し生業にできてる人もいる。安東もかろうじて連載が一本あり、ライターとしてはぎりぎりって感じ。しかし最近原稿料も低くなる一方なので旅行業界より厳しいなあ。現実は悲しいのだ。おっと、でも今日は旅の人生相談じゃない。無頼のモンゴル自転車旅の話をしようじゃないか。
◆いつかモンゴルを自転車で走って遊牧民3か国計画、つまりチベット、シベリア、モンゴルを完成させようと思っていた。でも冬の横断走破は3か月はいるな。今回は2週間だし下調べを兼ねてほぼ無計画でウランバートルにやってきた。予定があっても狂うのが旅の本質。普段のツアーの仕事は、ずれる旅程を線路に戻すのが任務だ。だが無頼の旅行者は成り行きに身をまかせるのが新しい発見へのチャンスであり、予定を固定せずに自由自在に旅をする。無頼者は遠くに目標を定めても、今晩どこに泊まるとかは無頓着なのだ。おかげでいつも路頭に迷う。
◆出発前日に地平線のモンゴル通の仲間に、お勧めゲストハウスを聞いておいた。彼はこの夏からウランバートルでゲストハウスを開業するらしい。さすが地平線だ。面白いことをたくらむ奴がたくさんいる。空港からウランバートルに入っても街は大きく、中心がどこかもわからない。迷って、暗くなるし、寒くなるし、このままじゃあ野宿かなあ。と思いつつ、なんとか宿にたどり着く。ツアーなら空港にガイドが迎えに来て、専用バスでホテルへ一直線だ。でもこの路頭に迷った数時間は無駄ではない。おかげでウランバートルがどういう場所か、自分なりにわかるのだな。
◆とりあえず西に向かって走り始めよう! 冬のモンゴルは零下50度は当たり前で、冬季シベリア横断並の重装備で来たけど、2月中旬は遅すぎ、零下20度では寒くない。でも3日に一度はブリザードがやってきて、マシントラブルもあり、泊めてくれる遊牧民に出会えば早々に走行もやめて、とくに急がなければならない理由もない。ゲルにお世話になれるのは面白い。おばさんに気に入られると泊めてくれる。あるいはブリザードの中を走ってきて哀れみを買って泊めてくれることも。
◆ゲル内はひとつの大きな部屋しかなく、そこに生活のすべてがある。英語がまったく通じないけど、社会主義時代の名残か、ロシア語ができるおばさんとかおじさんが時々いるのも助かった。テントで3泊、ゲルで3泊し、あと30キロでカラコラムって所まで来た。史上最大のモンゴル帝国の首都だ。チンギスハンの財宝もこのあたりに隠されているに違いない。
◆夕闇が近づき、今日はそこの峠でキャンプかな、と峠に達すると、おおっ!と思う景色があった。峠の向こうは着いてみないとわからないマジックドアだ。祈祷の旗のたなびくオボが夕陽に染まり、空はブルーモーメントから紫へ変化する。峠の彼方に山があり、その麓に何かある。カラコラムだ。すでに帝都は地中に埋もれ、今はしがない村なのだが、そんな土地はいつだってオーラを発しているのでパワーを感じるのだ。こんな極寒の世界の果てに、かつて世界帝国の中心があったなんて不思議だ。
◆カラコラムでも民家に泊めてもらい、世界遺産のオルホン渓谷で登山の下調べをし、自転車の旅を終えて、ウランバートルに戻った。10日ぶりにメールチェックしたら、某代表世話人より「通信」原稿の催促が来てた。明日までに原稿を送ります!と返信しつつ3日たち、電話ですごく怒られた。日本に戻っても自宅には10時間くらいしかおらず、今はカンボジアに向かうベトナム航空の中で、懸命に書いてます。スチュワーデスの衣装がアオザイで、隣を通るたびに気を取られちゃうんだ。みんなも原稿は遅くとも発送の3日前に出そう!
◆そうだ、モンゴルと言えば現地に住んでる山本千夏ちゃんだね。最終日に1日つきあってもらいました。地平線会議は旅のネットワークで、いろいろと活用させてもらっています。来年くらいに新しいモンゴルツアーを企画しよう!(荒野のサイクリスト安東浩正@カンボジアより)
1月の通信以後、通信費を払っていただいたのは、以下の方々です。中には数年分まとめて振り込んでくれた方もいます(通信費は1年2000円です)。万一、漏れがありましたらお知らせください。
近藤淳郎 北川文夫 大久保由美子 上延智子 福原安栄 宮崎拓 大槻雅弘 小関琢磨 古川佳子 吉竹俊之 妹尾和子 長濱静之・多美子 安藤巌乙
はじめはまったくの白紙である。毎月、はじめは数ページにしかならないのでは? と心配になるほどなのだが、次第にいろいろな人から原稿が届き始めて、あっという間に今月のように内容いっぱいいっぱいの通信が出来上がってゆく。まさに、「走りながらつくる」のである。
◆原健次さんを追悼する特集のような通信になったが、「原健次さんを悼む」のような見出しはいやで、彼の生き方を思い浮かべながら「原健次さん、疾走す」とした。先端を進む学者でありながら、紙資料を大事にする後端技術研究家(これは、あの久島弘さんの肩書きでもあります)であった原さん、今後も時折、登場してもらおうか、と考えている。
◆5月15日の冒険フォーラムに是非是非早めの参加申し込みを。充実したフォーラムにする覚悟です。申し込み忘れた、ということがありませんように。いずれ定員に達したら締め切られます。地平線会議の仲間なら、直接私宛でも構わないので。
◆先月号の通信で訂正がいくつかあります。まずフロントページの下方の「教謝敷久武育長あてに」というくだり「謝敷久武教育長あてに」が正しい。お名前を間違ったかたちになって申し訳ありませんでした。伊沢正名さんの原稿何箇所かで「指」とあるべきが「腸」になってしまっていました。関野吉晴さんの原稿で「アウトカースト(不可触線民)「「アウトカースト(不可触賤民)」の間違いでした。編集人の責任です。今後気をつけますが、走りながらの制作なので、誤りはこれからもあり得ます。どうか遠慮なくご指摘くださるよう。(江本嘉伸)
網に絡まる龍の行方
「今の中国を見ていると『国家』ってなんだろうってすごく考えさせられるんですよ」というのは作家の森田靖郎さん。80年代初頭から現代中国をテーマに据え天安門事件以降は民主化運動の闘志達や、ウラ社会のシステム等を追って緻密な取材を重ねてきました。 昨年ノーベル平和賞を受賞した劉暁波氏とも親交がありました。「西の視点からは『平和』につながる行為が、中国内では国家の平和を乱す犯罪とされています。インターネット(中国語で“国際互聯網”)も両刃の剣で、今の中国のビジネスには欠かせない一方、ジャスミン革命の萌芽など国家の脅威になっている」。中国という巨龍が情報革命の波にどう対応するかが、これからの「国家」を考える上でとても興味深いと森田さんは考えます。 「日本は隣人、中国の等身大の姿を知らなすぎると思うよ。政府もマスコミも、アメリカ経由の誇張された情報に頼りすぎてる。肥大化したイメージに勝手におびえても仕方ないでしょ。日本という国のありようを考える為にも、中国の姿を正しく見ないとアカンよね」。 今月は日本有数の中国ウォッチャー森田さんの視点を語って頂きます! お見逃しなく! ※電子出版化予定のオリジナル既刊本を少々持って来て下さるそうです。もしかすると恒例ケーナ演奏も!? |
地平線通信 376号
制作:地平線通信制作室/編集長:江本嘉伸/レイアウト:森井祐介/イラスト:長野亮之介/編集制作スタッフ:丸山純 武田力 中島菊代 大西夏奈子 落合大祐 加藤千晶
印刷:地平線印刷局榎町分室
地平線Webサイト:http://www.chiheisen.net/
発行:2011年3月9日 地平線会議
〒160-0007 東京都新宿区荒木町3-23-201 江本嘉伸方
地平線ポスト宛先
pea03131@nifty.ne.jp
Fax 03-3359-7907 (江本)
◆通信費(2000円)払い込みは郵便振替(料金が120円かかります)、または報告会の受付でどうぞ。
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議
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