2月9日。東京はみぞれまじりの雨の朝となった。午前9時現在の気温2.5℃。湿度82%。湿り気を帯びた空気は、いつもと味が違う。豪雪に悩む北国には申し訳ないが、乾燥しきった都会には時には雨も雪も必要だ。日本の素晴らしさは、時に災厄ともなるが、多彩な自然の配置にあるのではないか、とも思う。
◆午後2時7.9℃。雨はとうに上がり、太陽がいっぱいに顔をのぞかせる。同じ時刻、沖縄の浜比嘉島の比嘉小は快晴、25℃と上天気。「緋寒(ひかん)桜が満開ですよ。給食もきのうなんか桜の下で取ったんですよ。素晴らしい自然に囲まれて、大好きな学校の大好きな季節です」と、電話の向こうで伊敷ひろみ校長が言う。
◆つい1週間前、比嘉小に北海道の豪雪地帯、幌加内町の朱鞠内小学校から大きな発泡スチロール2箱が送られてきた。なんと中にはいっぱいの雪が詰め込まれていた。「桜の木の下に青いシートを敷いて全校で雪合戦をやったんですよ。雪を食べたり、皆おおはしゃぎで」。比嘉小にはそういう風景が似合う。おととしの3月、花祭りの日にお邪魔した時には廊下に全校の生徒が座って桜茶とお菓子を味わいながら先生の話を聞くなごやかな風景に出会った。昨年3月の卒業式には、できたてほやほやの『あしびなー物語×わたしたちの宝もの』を持って駆けつけ、卒業生ひとりひとりに渡すことができたっけ。
◆1972年に開校した比嘉小は現在生徒数23名の小さな学校だ。1年生が4名、2年生が3名、と複式学級になっている。ひとりの先生が同じ教室で2学年を教えるのだ。3、4年が各4名、5年が5名、6年が3名。複式学級でも教師たちの熱意のおかげで、教育を心配する父兄はいない、という。その素晴らしい、地平線会議にとっても縁の深い比嘉小が他の3島の小中校とともにいま、「廃校」の危機にさられれている。
◆伊計、宮城、桃原、比嘉、平安座の各小学校を廃止、新たに交通の利便、校舎を活用できる平安座小に新たに小学校をつくる。中学校は、伊計、宮城、平安座、浜(浜比嘉島)にある現在の中学を廃止し、本島の与勝中学へ吸収統合する。昨年持ち上がったうるま市の「小中学校統合計画」が今年も復活し、目下島民たちの必死の反対運動が展開されている。昨年は島民たちの反対で同市教育委員会では「継続審議」とし、いったん保留されたが、今年になって新たに提起され、予断を許さない情勢らしい。
◆「4つの島で188名の児童、132名の父兄がいて、そのほぼ100%が反対なんです。私たち島民の意向を無視した統合計画はなんとしても阻止しないと」と4島学校存続協議会の平識勇事務局長(比嘉区の区長でもある)。明日10日、市長が初めて島を訪れ、島民たちの声を聞く予定という。市長は島民の皆さんの意志を大事にするだろう。その際、ほんの少しでも私たちのささやかな声も参考にしてもらえれば、と願う。
◆昨夜、浜比嘉島からメールが届いた。外間晴美さんからだ。「夕方畑から帰ったらポストに封筒がありました。署名、ありがとうございました。短時間だったにもかかわらずこんなにたくさんの人の名前が!あの人も、あの人も、書いてくれてる!みんな浜比嘉の危機を心配してくださっているんだと思うとありがたくてありがたくて、涙が出そうになりました。仲間っていいなあとつくづく思いました」
◆地平線会議では、ひとつの運動を支援するためにカンパしたり、署名活動をすることを原則としてやらない。しかし、比嘉小の問題は、個人としても地平線会議有志としても黙ってはいられない状況だ。先月28日の関野吉晴報告会の合間に晴美さんから送られてきた3枚の署名簿を手に状況を説明し、自由意志で名を書き込んでもらった。少し残った空白部分は30日夜の「水仙忌」(宮本常一さんの命日)に集まった仲間に事情を説明して協力をお願いした。
◆ぎっしり仲間の署名で埋まった3ページの署名簿を前に一晩考えた。よそ者が余計なことを、と言われるかもしれない。でも、出しゃばり過ぎでない程度に私たちの率直な心を伝えたい。島の子どもたちのカメラの才能を引き出し、写真展を開催させてもらい、『あしびなー物語……』をつくった者の、それは責任でもあるのではないか。思案の末、私はうるま市の島袋俊夫市長、謝敷久武教育長あてに、「島に学校があることがいかに大事なことか」と、島の子どもたちの心を伝える手紙を書き、写真集をつけて送った。2月5日のことだ。文書のコピーを平識勇さん、外間晴美さんにも送っておいた。
◆明日10日の市長との対話集会が、翌11日には平安座島で「学校廃校反対決起集会」が予定されている。そして21日に市議会でこの問題がはかられる予定という。平成の大合併をきっかけとして生まれた、と思われる四つの島の教育の現場の難題。他人事でない思いがして…。(江本嘉伸)
■あと一息の沖縄のゴール目指して、いよいよ縄文号も再始動! 「当然、今回は出陣前夜の決意表明でしょ」と思っていたら、1月のテーマは何と『漂海民』。「関野さん、それは道草? それとも浮気?」の気分のままの、会場到着となった。
◆「海に杭を打って船を泊めたら、動き出して、朝、別の場所に来ていた。エイの鼻に刺さっていたのだ」 補助イスまで並んだ報告会は、そんなバジャウ(バジョ)の流離伝承で始まった。研究者によって10万人から100万人まで開きのある彼らは、現在、セレベス海周辺のフィリピン南部からサバ、スラウェシの一帯に住んでいる。歴史的にもマレー半島から右回りや左回りで広がってきたが、「バジャウは一番平和的な人々で、支配されても、人を支配したことがない。
◆この辺りは今も海賊が出没するが、いつも犠牲者だ」そうで、70年代にマルコス政権とモスレム勢力の間で起きた武力衝突の際にも、戦闘を逃れて各地に散った。今では殆どが国籍を取り、陸上や杭上家屋で定住生活を送っている。家船を持っていても漁に使うだけ。「他のエリアも探したが、出産や結婚式を海上で行う漂海民は、私が出会った16家族103人が世界で最後かも知れない」という。一か所にジッとせず、海を移動するので、捜すのも苦労するが、彼らの家船は見れば判る。女性を乗せ、洗濯物が干され、生活感に溢れているからだ。
◆バジャウの漁場は珊瑚礁の中。たくさんいる「エイに似たサメのような魚」(関野さん)は、針に掛かったところを銛で仕留め、大潮の時には350mの刺し網漁も行う。小さな魚は逃がし、売れる魚を選り分けて仲買人に売る。売り物にならないが食べられる魚だけ、漁に出なかった家族も含めて分配する。内臓を取って開き、一晩塩漬けにしたナマコや魚、フカヒレは、船上で日干しにする。
◆結婚式まで家船で開く彼らだが、水と燃料(主に流木)の調達、そして披露宴は島に上陸して行う。井戸のオーナーの了解を得てポリタンに水を詰め、ボッコ(小舟)に積んで家船に運ぶ。洗濯もここで済ませる。島には漂着物が多く、その中から履き物など使えるものも手に入れる。
◆海が相手の人たちは、普通は男女の役割も分かれている。女は家を守り、船に乗らない一方、男は台所に入らない。けれどバジャウではその差が殆どなく、女子供が逞しく舟を漕ぎ、大概の事を男抜きでやってのける。「それは浅い海と深い海の違いだ」と関野さんは云う。危険に満ちた外洋とは違い、珊瑚の海はサオで移動できるほど浅く、荒波による沈没よりも座礁が怖い。女が船を操っても、まず事故の心配はない。
◆そんなバジャウと一緒になった、日本の女性がいる。マブル島のOさんだ。大阪でOLをしていた彼女は、観光で訪れるうちに、「ダイビングのインストラクターをやらないか」と誘われて定住。やがて彼と知り合い、自身も改宗(島のバジャウはイスラム)して結婚した。でも、なぜバジャウの人と? 彼女に興味を持った関野さんは繰り返し訊ねた。が、返ってくるのは「自然の中で暮らすのが好きだから」のベタな答。「日本にだって自然はあるじゃないか」と突っ込んでも、「それもそうね」の一言だった。
◆「私は、『人がなぜ移動するのか』に関心があるんです。それは『なぜ旅をするか』や『なぜ山に登るのか』とは全然違って、『そこに住みに行く』のは、全く違う文化に自分を放り込んで、なおかつ、そこで骨を埋めるということです。そんな大変なことを、特に現代の人がバジャウの人となぜ行うのか…」と関野さん。出した結論は、「やっぱり決定的なのはダンナだろう」だった。
◆実は、関野さんは以前にも同様のケースを目にしている。十数年前、カヤックでベーリング海峡を渡ろうとした時のこと。セントローレンス島の、同じエスキモーでもシベリアに近い「ユーピック」と呼ばれる人々の村で、偶然、日本の女性がセスナ機から降りてくるのに出会った。「鯨を獲っている、面白い島がある」 そうフェアバンクスで聞いて飛んで来た、ごく普通の観光客だったが、後にそこで地元の男性と結婚して住み着いた。なかなか結婚の理由を明かさないOさんに「こんな人もいるんですよ」と関野さんが話すと、「えーっ、そんな変わった人がいるんですか?」という意外な反応が返ってきた。
◆「自分では『変わった人』と思ってないんです。ユーピックのあの人も、多分、思ってない。自然の流れで、そこに行ったらそこの男の人を好きになり、子供を作って居ついたんでしょう」 マレーシアの永住権がないOさん夫婦には、子供を公立学校に通わせられず、気の弱そうなダンナは心臓も弱い。おまけに彼の商売がパッとしないので、机に貝殻を並べて売るOさんの稼ぎが一家の支え、なのだ。
◆舞台替わって、スライドはフロレス諸島のレンバタ島へ。銛を構えて飛び込む、ラマレラの勇壮な鯨獲りで知られるここも、動物保護団体から「ホエールウォッチングのエコツーリズムで生きるように」と迫られているという。ツーリストを乗せて得られる10ドルは、漁の日収の300〜800円に較べると大きい。しかし、島は鯨の大きな回遊コースの一角に当たっているに過ぎず、捕鯨も年に30頭獲れれば良い方で、常に鯨が見られる訳ではない。
◆その島で、最近、大きな変化が起きた。3年前までは、毎朝20数隻が出漁し、鯨が見つからなければマンタを獲って戻っていた。それが昨年7月の訪問時には、出かけるのが夕方となり、翌朝に帰ってくる。実は政府から網を貰い、それを張るとイルカやマンボウ、マンタが確実に入るのだ。だから、鯨は陸から見えた時だけ獲りにゆく。海の上での一泊(一往復分の油代節約のため)の疲れ、あるいは獲った魚介の処理もあって、毎日は出られない。皮肉なことに、動物保護団体の圧力ではなく、網の威力が鯨獲りを衰退させたのだ。
◆ラマレラには一昨年に電気が、昨年はケータイが入り、どんどん変化が進んでいる。以前はパンダナスという植物を編んだ帆で走っていた船も、すっかりエンジン船に取って替わられた。「帆で旅すると判るが、どっちから風が吹いても、エンジン付だと予定通りに行って帰れる。風任せでは獲物がいる方へも行けない。油が値上がりしても無理して買い、もう帆船には戻れないだろう」と関野さん。そして、「マッコウ鯨は絶滅の心配はないが、伝統的な捕鯨は消えてゆく」と将来を予測する。
◆16家族の一人ビガガさんも、今はケータイを持っている(すかさず、「ここから掛けようか?」の江本さんに、「もう寝てますよ」と関野さん)。ケータイはバジャウの生活を大きく変えた。家船がバラバラに散っても互いの位置の確認ができるし、病人が出たら、すぐシャーマンを呼べる。音楽好きで声の良いバジャウは、ボッコを漕ぐ時も即興の歌詞で歌うという。音楽が聴けるケータイは、そんな彼らの楽しみにもなった。そして、その普及の経緯も、彼らの境遇を物語っていた。
◆昨年、16家族は、時々行く島で警察に呼び集められ、逮捕されてしまったのだ。このバルバック島は、島民の半数がインドネシア国籍を取ったバジャウながら、過去に3度も海賊に襲われた経験から、他所者に対して警戒心が強い。同行した関野さんまで写真と調書を取られ、一晩拘留された。無国籍のバジャウたちは、さらに車で5時間の内陸へ連行され、建物に閉じ込められたと云う。この一件は、さすがに人権団体などでも問題となり、1か月後に全員が解放された。そのリーダー格の2人に、万一に備えて、彼らを庇ってきた村長がケータイをプレゼントした。
◆現地でケータイは約3000円。生きた魚が200円、シャコ貝なら1kgが1000円で売れるから、割と簡単に手が届く。それで皆がワッと買った。ただし、3000円では防水機能もなく、海に落とせばダメになる。もちろん、家船に電気は通っておらず、ラジオもない暮らしから一足飛びのIT化。充電は、必要本数の単一電池を直列に繋いだ、ローテク技術だった。
◆「我々の方が漂海民だ。エンジンはないし、コンパスやGPSを使うのと同じだから、海図も持たない。ただ、100万分の1などの地図は使う。一世代で1つの島を渡ればよい彼らとは違い、我々には目的地があるから」 それまでは淡々と、しかし、温かな思いの籠った口調でバジャウを語ってきた関野さんが、最後に縄文号の近況に触れた時、少し語気を強めて云い切った。「板子一枚、下は地獄」という。のどかな珊瑚の海に浮かぶバジャウの家船も、その下では社会変化や政治力学の潮流が複雑に渦巻いている。いや、彼らだけではない。我々だって同舟だ。海図すら無意味になりつつある時代に必要なのは、バジャウが見せるプリミティブな信念、そしてOさんたちのような、未知の世界へ怯むことなく飛び込んでゆく度胸かも知れない。(久島弘)
報告会で話し忘れたことをいくつか書きます。報告会では、バジャウがとても平和的な民族であることを話しました。いつも支配され、人を支配したことはない。いつも海賊の餌食にされて、襲うことはない。そんな弱い人たちが何故今まで厳しい環境の中で生き延びたのかを説明しませんでした。
彼らは船を持っているので、いつでも、どこへでも行けます。海の上では誰よりも自由に移動できます。そのフットワークの良さが彼らを生き延びさせたのでしょう。
独立する前、バジャウの活動するフィリピン、マレーシア、インドネシアでは国民国家はなく、たくさんの王国が散らばっていました。バジャウはその王様に「何でもしますから、私たちを庇護してください」と頼み、王が「……に行ってナマコ、サメ、エイを取ってこい」と命じれば、どこへでも出かけていったのです。
しかし、王が圧制を加え、無理な要求をする時、彼らの本領が発揮されます。他の民族だったら抵抗して、場合によっては滅ぼされます。ところが、バジャウは得意のフットワークを使って、すたこらさっさと逃げ出すのです。そして新しい王様を見つけてその庇護の下に入るのです。弱くても、そんなしたたかさで海賊や、海賊、山賊の親玉の作った王国に潰されずに、生き残ったのだと思います。
かつて、インドシナとインドネシア、マレーシアはくっついていて、大陸を形成していて、スンダランドと呼ばれていました。アジア人の原郷とも呼ばれ、とても住みやすいので、多くの人が集まってきました。すると人口が増えます。その土地では養いきれないほどに増えすぎると、誰かが出ていかなければなりません。また氷河期が終わり、海表面が上がると、スンダランドが水没していき、インドシナと島々に分離されました。その時、誰が出ていくのでしょうか。おそらく弱い人たちです。
バジャウのように、弱くてもしたたかに生きのびた人たちもいましたが、多くの弱い人たちは、滅ぼされるか、他の地に逃げ出したと思います。
私は一昨年より、インドネシアからマレーシア、フィリピン、台湾経由で日本に向かって航海しています。先史時代にスンダランドから日本列島にやってきた人類と同じように、手作りで、自然素材だけでカヌーを作り、風とオール、パドルだけを頼りに、南風の吹くシーズンだけを利用して、ゆったりと進んでいます。その途中で、偶然家船生活をするバジャウと出会ったのです。
私は何世代もかけて島伝いに海を通って日本列島にやってきた人たちも、きっとバジャウのように弱かったが、バジャウのようにしたたかに生きられず、追い出されたグループだと思っています。
今回の報告会終了後、「人は何故移住していったのか。教えてください」と尋ねられました。私は立ち話で、そんなに簡単には話せないよ」と答えましたが、ここで簡単に説明させてください。
私は10数年前までは、人類拡散の動機は「あの山の向こう、あるいはあの海の向こうには何があるのだろうか」という好奇心及び「あの山の向こう、あるいは海の向こうはもっと住みやすいところではないか」という向上心ではないかと思っていました。ところが南米の最南端のナバリーノ島に行った時に、それだけでは説明できない事実に出会ったのです。
アフリカで生まれた現生人類がアフリカを出て世界中に拡散していきましたが、その中で一番遠くまで行ったのがナバリーノ島に住む先住民ヤマナの先祖たちです。もし人類の移動、拡散の原動力が好奇心や向上心だったとしたら、ヤマナは最も新種の気鋭に富んだ、好奇心と向上心の権化のような人々のはずです。
しかし実際は南米大陸から突き出された弱い人たちでした。南米大陸ではグアナコやアメリカダチョウのような狩猟の対象になる動物がいます。そこでも人口が増えると、その人口圧でマゼラン海峡の南にあるフエゴ島に突き出されるものがいました。そしてフエゴ島にも狩猟の対象になる南米大陸と同じように動物がいたのです。
フエゴ島で人口が増えると突き出された者たちはビーグル水道を渡ってナバリーノ島に着きました。その島には狩猟の対象になる大型動物はいないので、ほぼ無尽蔵にあるムール貝に似たムラサキイガイ、ホタテガイ、ツブガイなどの貝類、タラバに似たチリイバラガニ、海性哺乳類のオッタリアなどを獲って暮らしました。
同じ例は他の地域にもたくさんあります。ラオスの山中に住むモンは元々は米の原産地と言われる長江の下流域に住んでいましたが、戦乱に明け暮れる春秋戦国時代に追い出され、あるいは逃げ出して、ラオス山中に隠れ住みました。同じ時代やはり戦乱を嫌って、日本列島に向かった者たちがいました。それが渡来人たちです。現生人類が5-6万年前にアフリカを出たのも、人口圧によって押し出されたため、という研究者もいます。
押し出された弱い者たちのなかで、新しい土地に適応できずに滅んでしまったグループも多かったことでしょう。しかしフロンテイアの土地で、パイオニアとして自分たちの創意工夫で、新しい文化を形成し、適応した人たちもいたのです。
興味深いのは追い出された者たちが、常に弱いままではないということ。追い出された者たちが経済面でも軍事面でも、追い出された者たちを圧倒することも多い。中国で北に追いやられたモンゴル人や女真人が漢人を追い出して、元や清を建国しました。日本列島にやってきた人々も様々なルートから来ましたが、もうこれ以上東には行き場のないどん詰まりです。ここに旧石器時代から人類が住み始め、縄文文化を作り、渡来人がやって来て弥生文化を作りました。縄文人と弥生人は混血し、やがて日本人が形成される。その後現在に至るまで、外から日本への移住は続いています。様々なルートで突き出されてやって来た日本人ですが、一時は経済力と軍事力を蓄えて、アシアを制覇する勢いを持ちました。
スンダランドを追われて、海上を北上した人たちも日本列島に向かったわけではなく、何世代もかけて、島から島へと移動しているうちに沖縄に到着したのでしょう。
ほとんどのバジャウは家を持つようになりました。私の付き合っている人たちは家を持たず、船で暮らす最後の人たちです。王国のなくなった現在は仲良くなった家船生活者の保護者は仲買人です。市場より安めだが、確実に獲物を買い上げてくれる。船の燃料や米などがなくなった時は金を貸してくれます。彼らは今回私がいたときに獲れた魚をすべて仲買人に売りました。しかし借金分を差し引くと利益はゼロ。悪徳仲買人に出会うととんでもない目に会うが、私の友人たちは今の暮らしに満足しています。欲望が小さいのです。
報告会の後、映画「プージェー」の監督、山田和也から、彼らの差別について聞かれました。私はアマゾン奥地やエチオピア南部で、差別のない社会を見てきましたが、文明社会ではどこでも差別が蔓延していました。文明の条件として、余剰による分業化が必要です。蓄えができると持つものと持たざる者が出てくる。持つものは既得権を守ろうとし、持たざる者を差別し、懐柔不可能な者に対しては、殺戮、収監、隔離、収容という手段をとります。
インドのカースト制社会でアウトカースト(不可触賤民)は現世をあきらめています。現世は束の間だが来世は永遠に続く。いま彼らの間で転向して仏教徒になる者が増えています。仏教には差別がないと思われているからです。
しかし、チベット仏教圏でも差別は公然とあります。私が4か月滞在した村では、動物を殺すこと、鍛治はガラと言われる被差別民にやってもらっていました。お互いに通婚もしないし、食事もともにせず、器も共有しない。殺生は禁じられているが肉は食べたい。その結果被差別民を産まざるを得なかった。殺生はいけないと言いながら、食べるのはかまわないし、解体も許されています。ベジタリアンといえども他の命を食べていることには変わりはありません。
実はアマゾンでも差別のないのはごく一部の、未だにものを貯えない人たちだけです。ものを貯えられると必ず抱え込む人間が出てくる。そして持たない者を差別する。インカの末裔であるアンデスの先住民はアマゾンの先住民をチュンチョと呼んで、自分より劣っているとみています。アンデス内では混血が、それも如何に濃く白人の血を受け継いでいるかで、序列ができます。アマゾンでは、民族間で差別し合う。同じ民族でも、教会や学校のある村の人間は文明の恩恵を受けない人たちをさげすむ。私が30年以上付き合っている家族は私が知っている人たちの中では最低に見られていますが、彼らはまた、それより奥地で焼き畑も作らず、狩った動物の肉を生のまま食べる人間を自分たちより劣っていると思っています。
それでは、東南アジアの海で暮らす民族の中では最低に見られている漂海民バジャウはどうなのだろうか。実は彼らの中にもはっきりとした序列ができ上がっています。漂海民と言っても100万人いるといわれている彼らの中で、1年365日家船生活をしているのはごくわずかです。ほとんどは船のほかに家を持っている。しかし陸に家を持っているバジャウは海に杭を打って家を建てるバジャウを蔑みます。さらに杭を打って家を建てるバジャウは家船生活者を見下す。私がミトコンドリアDNAを調べたところ何ら違いはないのですがお互いに通婚しない。同じバジャウでも大きな溝があるのです。家船生活をしている私の友人たちは自分たちが海で暮らす人間の中では最低に見られていることを自覚しています。それでもしたたかにヘラヘラしながら生き抜いています。
生きていくうえで、プライドは大切ですが、過剰なプライドは尊大に見えるし、嫌味にも見えます。また国家間、民族間だと紛争、戦争の原因にもなる。フォトジャーナリスト長倉洋海との対談集(東海教育研究所)で私は「ヘラヘラ主義のすすめ」を語りました。ヘラヘラと生きていく限り、攻撃的にならないからです。既得権をもった強者や恵まれた環境に生まれた者はプライドだけで生きていけますが、ヘラヘラとしなければ生き抜いていけない人たちもいる。
大国に挟まれた小さな国が生き延びるには高度の外交力が必要です。中国とインドの間にシッキムという小さな王国がありました。35年前、インドに合併されてしまいました。隣の王様を頂くブータンはシッキムの例を他山の石として、同じ目に会わないように対策を立てています。中国がチベットを呑み込んでしまった時も、同じチベット民族でチベット仏教を国教としているブータンはインドと緊密な外交関係を結び、中国への併合を免れています。ヘラヘラ主義とは弱い者が生き延びるための、したたかさの一つの表現です。家船生活のバジャウを見ながら、そういう思いを深くしました。
それにしても、自分より下の人間を探しだそうとするのは人間の業なのだろうか。(2月8日 台北にて。関野吉晴「明日は台湾最南端、今航海最大の難関バシー海峡を眺めに行ってきます。フィリピン側は昨年7月に眺めてきました」)
■1月28日、職場を抜け出して、新幹線に飛び乗った。地平線会議に出会って10年が経つが、大集会などのイベントをのぞけば、まだ数回目の報告会参加。東京駅から榎町(注:以前の報告会場)へ向かいそうになったところで救いのメールが入り、引き返す。あぶなかった。ありがとう。無事開始時刻から小1時間経った報告会にたどり着く。満員。椅子を出してもらって、映し出されていた海に浮かぶ帆船に飛び移った(気になった)。
◆関野さんは随分離れたところから話しているのに、まるで近くで話しかけられているように、言葉が親しく穏やかに届く。表情や仕草や言い換えやど忘れやエピソードや返答や間合いやニュアンスやなんやかんやもひっくるめた「話」と、耳を傾けるひとりひとりの微細な反応の波が、まじりあいながら会場内を静かに寄せては返す。
◆地平線会議創成期の、海外旅行がまだ珍しかった頃とは違い、欲しい現地の情報は比較的容易に入手できるようになった。ある面においては、役割を果たし終えたと言えるかもしれない。それでも、旅人の生の話に触れる価値を感じ、今日も大勢の人が集まっている。そして思うのだ。その「価値」が、再び高まってきているのではないかと。
◆インターネットで情報を集め、メールでやり取りすることがごく当たり前なこの頃。わたしも互いの邪魔をしないそれらを便利に使っている。けれども、それらの行為は、まじりあわない。ただ、行き来する。表情や仕草やど忘れをひっくるめない。日々はいつしか一方通行であふれている。
◆貴重な旅の報告会では、旅や行動がいざなう非日常のみならず、遠くなりつつある「まじりあうやりとり」=いまや「日常的非日常」をも味わえる。それはもしかしたら、人というものに想いを馳せるきっかけになるかもしれない。時代の風がふたたび地平線会議の帆に絡み、新たな航路が見い出されてゆくようなイメージを持った、今回の報告会だった。
◆北京の餃子、おいしかったなあ(勝手に生ビール頼んでごめんなさい)。久しぶりの人にも会えたなあ。またふらりといつもの報告会にお邪魔したいなあ。(大阪・中島菊代)
■犬ぞりを移動手段とする「北極圏アバンナット10年計画2006〜2015年」は、すでに5シーズン目を迎えた。南極観測隊で頂いた給料を元手にスタートさせたこの計画は、支援して頂ける企業が少しずつ出てきたり、また個人サポーターの皆さんに支えられながら、なんとか継続することができている。
◆カナダ北極圏レゾリュートをベースとした活動は今季で3シーズン目。今シーズンも昨年11月3日からレゾリュート入りしている。当初は1シーズンで通過する予定だったこのレゾリュートだが、相次ぐ老犬の死から、仔犬を育てチームを立て直す必要があったり、そしてこの近辺で活動をすればするほど、北極圏の探検史を感じさせられる面白い地域であり、また観測データ収集という目的においても、とても意義のあるエリアのような気がして、長居している感じだ。
◆1シーズン毎の予算が限られているので、あれもこれもと大々的には出来ないが、可能な範囲で計画を組み立てるのも、極地遠征の醍醐味。記録やゴール地点とは無縁のマニアックな活動だが、これまで終わった4シーズンの活動にはとても満足している。
◆地球温暖が騒がれる近年、このレゾリュート周辺域においては、なんだかんだと言っても、厳冬期にはマイナス40℃以下にもなることがあるし、海氷もシーズンを通じて2メートル近くまで厚さが発達するなど、まだ犬ぞりでの活動がやりやすいエリアだ。僕の本来のホームベースであるグリーンランド北西部の冬は、比較的に近年は暖かく、犬ぞりが安心して走れるくらいに海氷が張る期間も短くなり、また不安定で、リスクがありすぎる。今しばらく、グリーンランド沿岸域での広域活動は避けたほうが利口のようだ。
◆近年は、自然の異変や生きる動物の変化でさえ、すべて「CO2=温暖」というようにメディアを中心に騒ぎ立てるが、ほんとにすべてが「CO2=温暖」なのか? 温暖は20数年北極で活動を続ける中で、確かに肌に感じるものがあるが、すべてがCO2のせいばかりではないのでは? というのが僕の感じ方だ。一つの要因としては当然あると思う。だけど人為的な汚染の抑制は何も今に始まったことではなく、昔から言われていることだし、抑える努力は昔からも当然のことだったと思う。他の地球温暖説をほとんど言わないで、CO2一辺倒なのはどうしてだろう?
◆同じエリアに長くいれば、ただ通り過ぎたら知らないでいることも見えてくる。活動を続ける中で感じる疑問を少し書いてみたい。温暖問題に関連して騒がれているように、本当に「白熊は絶滅の危機」なのか? グリーンランドやカナダのエスキモーの人たちとは、少し話のずれがある。「白熊は増えている」という話をよく聞く。これに関しては、僕個人的に感じることを書いてみると、犬ぞりで活動していて、極端に言えば毎日のように白熊に遭遇するのだ。植村直己さんの冒険記を読んでいても、過去の探検隊の記述を読んでいても、白熊には遭遇しているが、そうしょっちゅうと遭遇するようには、記録されていないように見受けられるし、白熊でいえば、ヤツらは想像以上に生きることには図太い。たとえ温暖で海氷が溶けたとしても、陸地で寝ているアザラシやセイウチを襲って食べる方法も知っている。ましてエスキモーの人たちが乱獲しているようには見えない。白熊狩りもそう簡単ではないのだ。逆に過保護から増えすぎて、自然界での競争率が激しく、人里に現われて人間を食べたり、残飯をあさる、ということもあり得るのではないか(子熊を育てる初期に母熊は穴にもぐると聞くが、基本的に年中無休)。
◆話は変わって、予ねてから、どうしてカナダエスキモーの人たちから犬ぞり文化が、こんなに短期間のうちに消えてしまったのだろう? と不思議に思っていた。レゾリュートに数シーズン滞在していて、こちらでは専業猟師という肩書きがあれば、スノーモービルがタダで与えられるということを知った。また過去には、町の何百頭という犬たちが、RCMP(カナダ警察)の手により大虐殺された歴史もあるという。これらにはエスキモーをリスペクトする僕も、愕然とさせられた。
◆こういう話を聞かされると、民族をあえて壊しているとしか思えない。過度な保護は民族の文化を滅ぼしてしまうし、民族を壊してしまう。もっともこのレゾリュートという町は、カナダが領土権を主張するために、各地に散らばって住んでいたエスキモーの人たち(エスキモーの人たちはもともと、暖かくても寒くても、その時の自然環境に応じて住み場所を求めた移動民族)を強制移住させて作った町だという。政治的な関わりと、民族文化の短期間の崩壊とは、決して無縁ではない気がした。また、色んな意味で、エスキモーの人たちが無視されているのでは、と悲しく感じている。(2月3日 カナダ・レゾリュートで 山崎哲秀)
■「極東の双翼」とは、ここでは日本と韓国としよう。一昨年、昨年と、アルピニズムの発祥の地、アルプスの麓シャモニを訪れる機会があり、そこで日本は”far east”と表現されたことに「成程…我々の命を掛けた山での遊びは、欧米各国クライマー達にとっては、はるか極東の小さな島国のことであり、情報が届いてないのかー」と思った次第なのだ。
◆そんなはるか極東の島国ニッポンからやってきた私達が、2チームも山岳界のアカデミー賞(ということにしておく)ピオレドール(金のピッケル賞)を受賞したことは、誇り高きアルプス周辺諸国のクライマー達にとって衝撃的な事件だったのかも知れない。と同時に、山岳界において日本クライマーも市民権を得たような気がした。
◆当然、これまでだって日本ではアルパインクライミングというものが行われてきていたのだけれど、何だって突然日本人がそんなクライミングをするようになったんだ?って聞かれちゃったのは、私達が今まで世界に向けて自分たちのやっていることを発信してこなかったからなんだな、と気付かされた。
◆更には、欧米諸国のクライマー達から「韓国人がアルパインクライミングをやっているって、本当か?そんな情報今まで聞いたことも無いから信じられない」と言われたので、早速、パキスタン遠征中に仲良くなった韓国隊のキム隊長に、あなた達も自分たちのやっている韓国スタイルクライミングを世界に向けて発信したら、もっと欧米クライマー達に知ってもらえるし、自分たちの世界も情報も広がって、もっと楽しいことがきっと出来るよ、と提案した。日本人にとっても韓国人にとっても、国際交流の障壁となるのは言葉。でも本当は、言葉を越えて出来ることは幾らでもあるんだ。
◆そんな経緯があって、ついにこの冬、第一回韓国冬季クライマーズミーティングが行われた。キム隊長らが主体となって開催されたこのイベントは、共に登り、飲み、語り、韓国のアルピニズムの将来について展望しよう、というもの。世界へ向けた発進への第一歩として、近くて遠い(山岳文化や歴史がまるで違う)日本から私達を招待してくれた。
◆イベント開催に先立って、友人の恩田真砂美さんと早めに韓国入りしてアイスクライミングと食と飲みと語り(と風呂やとアカスリ)をたっぷり満喫することにした。ミーティングに関わっていない人達との交流から、様々な韓国人の考え方や価値観の違いに触れた。
◆これまでも、韓国クライマーと接触する度に気になっていたことは、自分の属しているグループ以外の人間のことを受け入れようとしないというか、批判的というか、自分とは関係ないという態度をとること。なんだかそれがちょっと残念な気がして仕方がないのだ。だって、自国の人間同士がお互いを受け入れて一緒に何かをしよう、という気運がなければ、いわんや世界の岳人と共に何をするや、だ。だから実は私も、韓国でクライマーズミーティングというものが実現するのはまだ数年先のことだろうな、と思っていた。
◆さて、実際のミーティングでは、韓国じゅうからやって来たクライマーの何人かはヒマラヤよりも寒風厳しい中で氷瀑(凍った滝)を登り、夜はヒマラヤ遠征経験者たちからのプレゼンテーションと質疑応答、アルピニズムに関する各々の見解からの議論など、有意義な時間が持たれた。これまでの私の韓国クライマーに対するイメージは、「完登あるのみ。サミット(登頂)せずしてお国へ帰れません」的なものを持っていたのだけれど、その彼らの精神と肉体の強さは、今回一緒に寒さ厳しい中で鋼のように硬い氷と向き合う姿に触れて、思わず納得。
◆そしてプレゼンの中では、ヒマラヤ遠征中クレバス(氷河の割れ目)に滑落しつつも生還した若いクライマーが、事故から5年目にして「何よりも大切なのは、登攀の成功よりも、生きて無傷で家族や友人の元に帰ること」と、今だからこその彼の本心を明かし、それを聞いた聴衆がうなずいている姿に、なんだかとっても嬉しくなった。そうだよ、いくら鋼鉄の精神と肉体を持った韓国人だって、心は私と一緒なんだって思ったのだ。
◆ところが、この会話がセミナーハウスでなされていた同じ時に、下山約束の時間を過ぎても登り続けていたクライマー達が事故(結果として死亡事故となってしまった)を起こしていた。登山は自由意志であり、自然が相手。いつだって事故の可能性がゼロになることはないのかもしれない。けれど、予測して避けられる危険はいくらでもあるし、お互いを助け合えることもきっともっとある。
◆この事故が起きた時、すぐ近くに別のクライマー達がいたそうだが、彼らはレスキューせずに(出来ずに?)下山している。登ることだけでも命がけのこの氷瀑の事故現場に、レスキューチームが辿り着いた夜中、宙吊りだった事故者の一人は既に凍死していた。約束の時間までに下山していれば、自己レスキューが出来ていれば、または目撃者がその場でもっと何かしていれば、もしかしたら死は防げたかもしれない。
◆登り続けた彼らは、目標の完登よりも、心配している家族や友人のことをもっと考えても良かったかもしれない。そう思うととても残念だ。今回の訪韓では、彼らの尊敬すべき精神と肉体の強さに触れると共に、これからの課題がまだまだあるなーということも改めて考えさせられた。今のタイミングで韓国クライマーズミーティングを開催したのが妥当だったかどうかは分からない。でも、何かを行動として始めなければ、いつまでたっても何も変わっていかない。「極東の双翼」として、これからは登山界でも協力し合える存在となって行ければいいなと思う。(谷口けい 1.31)
■オーケストラでビオラを弾くことにのめり込んでいったのは何時の頃からだっただろうか。小学生の一時期、祖父が好きだったからとバイオリンを鈴木メソッドで習わされた時期があった。本人には習いたいという意識が薄かったのでモノにはならなかった。高校1年の時、九州大学文学部を卒業したばかりの新人国語教師が担任になった。彼は日本で一番古いアマチュア・オーケストラ(九大フィルハーモニー オーケストラ、昨年創立100周年)の指揮者をやっていたということで、国語の授業の間に音楽の話もしてくれた。
◆特にバッハのブランデンブルグ協奏曲の話は刺激的であった。父が農芸化学の大御所、坂口謹一郎博士の門下生だったことから、私も同じ分野の大学に進学したいと思っており、九州大学の農芸化学に進み、オーケストラに参加しようと決めた。運よく入学出来、さっそく入部した。はじめはバイオリンを弾くつもりでいたが、手が大きいからビオラを担当して欲しいと頼まれ、その後、ビオラが性格的に合ったのか、それ以来47年間、ビオラを弾いている。
◆ビオラはバイオリンよりやや大きく、その音域はバイオリンより5度低い。イタリア語で「アルト」と呼び、女性のアルトの音域で、オーケストラの女房役であることが多い。オーケストラの魅力は、大勢で各自が責任を持ちながら、共同で音楽を作り上げてゆくことで、ソロにはない醍醐味がある。
◆大学4年生の最後の演奏会が第99回定期演奏会だった。第100回定期演奏会にどうしても出たいとの気持ちから、大学院に進学。その演奏曲目はベートーベンの第九交響曲だった。その後は研究、未知との遭遇に目覚め、博士課程を修了し、助手を務めたのち、アメリカに渡った。もちろんビオラは手放さず。
◆演奏は気をいれてやると、運動後と同じで、終わると汗びっしょりになる。テレビでみる指揮者は何時も汗だくだ。かなり激しい動きを伴うためか、指揮者には長命のヒトが多い。私は、演奏は格闘技と同じだと思っている。それはマラソンではなく、何度ものインターバル走がある中距離走に相当する。常に魂を込め、自分がどのようにその音楽を表現したいのか、一瞬のミスも許されない、楽譜との闘いである。
◆オーケストラにのめり込んでいたころ、演奏に当たってはその作曲家のプロフィール、曲の成り立ち、作曲時の作曲家の環境、境遇、思想、周囲の状況を勉強し、曲を可能な限り理解したうえで演奏するよう努めていた。それが次第に、演奏のテクニック、上手く弾くこと、演奏を楽しむ方に傾いていたのだろう、何時の間にか初心を忘れてしまっていたようだ。
◆先日、演奏は上手いのだが、何か物足りないと感じていたところ、多分指揮者も同じことを感じたのだろう、この曲が作られた背景には作曲家の苦しみ、時代背景などはこうだった、などなど具体的に解説をしてくれた。その直後の演奏では、出てくる音の質に変化が認められた。団員の多く?が演奏することに慣れてしまって初心を忘れてしまっていたのかもしれない。少なくとも私は目を覚まされたという感じで新鮮な気持ちがよみがえり、良く知ることは悪いことではないことを再確認させてくれた。
◆「知識」は単にものごとを記憶するためにあるのではないと思う。それは、考え方を一般化し、関連づけるための、すなわち考えるための道具なのだと思う。考えることによって感性がさらに豊かに広がるからである。知識を体系化することによって面白さが具体的に味わえる。音楽のみならず、すべての事象を深く、豊かに捉えることが出来るようになる。すなわち、この学びは知識を身につけ、自分でそれを使うことである。
◆たとえば音楽の場合、音楽は音を楽しむだけではなく、学ぶものでもあることを知り、植物を好きな人が本当に好きになった時、ただ鑑賞しているだけでなく、それを育てようとしたり、名前を調べたり、もっと深く知ろうとする姿勢だろうか。そのとき、その人の植物への愛はいっそう深まるだろうし、さらに、学ぶこと、知ることは人生をより楽しくする。自分がやりたいと思って始めたことにはこれまでの経験から必ずのめり込む時期がある。その時期、少なくともそれを3年間必死でやれば、なんとかモノになる。私の場合22歳からのオーケストラ、24歳からの研究、33歳からのテニス、47歳からのランニングでいずれも今も続けている。
◆進行性胃癌で胃を全摘出してから丁度1年経過した。胃がないこと、抗癌剤の副作用でまともに走れる以前の状態には戻ってはいない。しかし、もう少し生きていたいと思っている。それは、少しでも長く知的生産活動(我が人生の編集、書くという行為、楽器演奏)と良質の知的消費活動(良質の読書、良質の芸術鑑賞活動、頭をかなり使わないと出来ないこと)を維持したいためだ。これらが出来なくなったときには、もう諦めるより他ないと思っている(宇都宮・ウルトラじいじ・原健次)。
1月の通信以後、通信費を払っていただいたのは、以下の方々です。中には数年分まとめて振り込んでくれた方もいます(通信費は1年2000円です)。万一、漏れがありましたらお知らせください。
近藤淳郎 北川文夫 大久保由美子 上延智子 福原安栄 宮崎拓 大槻雅弘 小関琢磨 古川佳子 吉竹俊之 妹尾和子 長濱静之・多美子 安藤巌乙
■毎年2月になると、きまって思い出すこと(日)がある。それは我が「日本旅の原点」といっていい「2月21日」だ。
◆20歳のときに旅立った「アフリカ一周」(1968年〜69年)、それに続いての「世界一周」(1971年〜72)、「六大陸周遊」(1973年〜74年)と20代の大半を費やしてバイクで世界を駆けめぐったカソリだが、「六大陸周遊」から帰ったときは大きな壁にぶち当たった。それまでの、命を張って世界を駆けめぐってきたことがまるで無意味なことのように思え、何とも虚しい気分に襲われた。あれは一体、何だったのか…。
◆「もっと、もっと世界を駆けめぐりたい!」という焼けつくような気持ちは萎え、旅への憧れも消えようとしていた。このときカソリ、27歳。我が旅人生、最大のピンチ。このピンチを救ってくれたのが日本であり、日本観光文化研究所(観文研)だった。「よーし、今こそ、日本をまわろう!」と心に決めたとき、うそのように気持ちがスーッと楽になった。日本に目を向けたことによって、ぼくの体内にはまた新たな力が蘇ってきた。旅への意欲が湧き上がり、今度は無性に日本をまわりたくなったのだ。
◆観文研にはより頻繁に出入りするようになり、所長の宮本常一先生のお話を聞く機会が多くなった。観文研のあった東京・秋葉原から新宿までの電車の中でも、何度となく先生のお話を聞かせてもらった。観文研を足場にして日本をまわろうという気持ちが次第に強くなり、観文研を取り仕切っていた宮本千晴さんに頼み込んだ。「先生と一緒に日本を歩かせて下さい!」。すると千晴さんは「なあ、カソリ君、それだったら親父よりも神崎君と熊ちゃんがいい」といって宮本先生の一番弟子といってもいい神崎宣武さんと熊ちゃんこと工藤員功さんと一緒に日本を歩けるようにしてくれたのだ。
◆1975年2月21日、広島駅で工藤さんと落ち合った。この日が我が「日本旅」のすべてのスタートになる。まさにカソリの日本デビュー。広島駅からバスで湯来(ゆき)温泉へ。ぼそぼそと雪の降る日だった。湯来温泉の国民宿舎「湯来ロッジ」にひと晩泊まり、湯から上がるとビールで乾杯。夕食を食べながら工藤さんとはおおいに語り合った。これから先、何をするのか、何が起きるのかまったくわからなかったが、とにかく胸の中は期待ではちきれんばかりに膨れ上がった。
◆翌日は中国山地の戸河内(現・安芸太田町)に行き、そこから歩いて那須という集落に向かった。大雪で1メートルを超える雪が積もっていた。那須への交通は途絶え、我々は雪をかき分けて歩いた。途中で出会った那須の人たちはユキワ(カンジキ)をはき、手には杖を持っていた。「よくもまあ、そんな格好でここまで登ってきたものだ」と、地元のみなさんを驚かせたが、我々はかろうじて那須の集落にたどり着くことができた。ここではみなさんにあたたかく迎えられ、昼食を出してもらい、酒をふるまわれた。「すごいなあ!」と感心したのは工藤さんだ。つがれるままにかなりの量の酒を飲んでいるのだが、きちんと村人たちの話を聞いている。
◆那須はかつては木地師の村だったこと。木は主にトチを使い、椀や盆などを作っていた。漆は中国産を使っていた。トチのみならず、ブナでは高下駄の歯を作り、スギやヒノキでは板箕(いたみ)を作っていた。そのようなことを次から次へ聞いていく。その間、工藤さんはほとんど口をはさむことはない。「おー、これが宮本常一流なのか!」。ぼくは感動した。宮本先生から工藤さんへと、確実に伝わった「聞き取り術」の真髄を見た。
◆そのあと広島から岡山へと舞台を移し、神崎さんの故郷、吉備高原の美星町(現・井原市)を訪ねた。神崎さんの実家は何百年もの歴史を持つ宇佐八幡系の神社。ゆるやかな峠上に社がある。そのため神社のある峠は「宮んタワ」と呼ばれていた。「宮の峠」の意味。ここでは峠への猛烈な興味が湧き上がってきた。
◆工藤さん、神崎さんとまわったこの時の旅は、深く心に刻み込まれた。「日本はおもしろい!」と心底、思った。このあと観文研では「日本の山地食文化」というテーマで日本中を歩かせてもらうようになる。また「ライダー・カソリ」としては、どのようにしてこれから日本をまわろうかと考え、結論を出した。それが「温泉めぐり」、「峠越え」、「日本一周」の3本柱だ。「温泉めぐり」では日本の全湯制覇を目指し、工藤さんと一緒に入った広島県の湯来温泉を第1湯目にし、現在までに3500余湯の温泉(温泉地)に入っている。「峠越え」をはじめたのは翌月のこと。1975年3月28日に「奥武蔵の峠」で越えた国道299号の高麗峠(埼玉)を第1峠目とし、日本の全峠踏破を目指し、現在までに1600余の峠を越えている。
◆「日本一周」の方は1978年の「30代編日本一周」を皮切りに、「40代編日本一周」、「50代編日本一周」とつづけ、「60代編日本一周」は2部構成にした。2008年の第1部では日本列島の海岸線をメインルートに2万キロを走り、日本の117岬に立った。2009年の第2部の「巡礼編」では四国88か所、西国33か所、坂東33か所、秩父34か所の札所をめぐった。「奥の細道編」では東京・深川から結びの地の大垣まで、芭蕉の足跡を追った。「北海道遺産編」では全部で52件の北海道遺産を見てまわった。それとは別にテーマ編の日本一周では「島めぐり日本一周」(2001年〜2002年)で188島の島々をまわった。「温泉めぐり日本一周」(2006年〜2007年)では300日で3063湯(温泉地)に入った(これはギネスの世界記録)。昨年の「林道日本一周」では日本の林道313本を走破した。
◆これら一連のカソリの「日本旅の原点」が1975年の「2月21日」にある。2月21日はまさに我が日本旅の記念日、この日が近づくと今でも血が騒ぎ、体中が熱くなる。(賀曽利隆)
■ 2011年最初の号ということで18ページといつもより原稿が多め、さらにイラスト送信に技術的手違いがあり、2日間かけて印刷、発送することに。汗をかいてくれた人は以下の通りです。皆さん、ご苦労様、そしてありがとうございました。
★12日 森井祐介 村田忠彦 満州 車谷建太 新垣亜美 坂出俊英 山本千夏 江本嘉伸 松澤亮 杉山貴章 落合大祐
★13日 森井祐介 満州 村田忠彦 落合大祐 長野亮之介 江本嘉伸 車谷建太 山本千夏
■昨年12月に一人でのんびり暖かい台湾で温泉三昧してきましたが、帰国してからは雪山三昧の日々です。毎年のこととはいえ、雪のある時期は夫の趣味であるバックカントリースキーに撮影のため同行しなければならず、5月初旬まではスキー奴隷のような生活になります(付き合ってあげないと「俺も仕事を辞めてオマエと一緒に旅に出る」と言いだすので。→前例あり)。
◆とにかくわが夫はテレマークスキーが大好き。休日は必ず雪山に繰り出します。スキー場がオープンしている期間はリフトを利用してスキー場のトップから登り始めるので少しはラクですが、スキー場のない山や春は下から登るのでけっこう体力が必要です。大変です。活動エリアは現在住んでいる福島県の山を中心に、立山、信州、北東北、ごくたまに北海道など。遠征費用や道具に費やすお金もバカになりません。道具もいちいち高価なのですが冬山に入るわけなので命に係わると思うとケチもできず。スキー係数が異様に高い我が家です。
◆余談ですが、普通のスキー場では40代の我々は年長組なのに、バックカントリースキーエリアに行くと先輩方がたくさんいらっしゃって恐縮します。やっぱり山の世界は年齢層が高いようで、30代は若者扱いで20代は少数派。巷で増殖中らしい「山ガール」もまだ東北の雪山ではお目にかかっていません。お気楽な考えと気軽な装備で来てもらっても困りますけど。あれっ、もしかして私も「山ガール」? ちがうか。またまた余談ですが、先日行った台湾で、日本の山ガール専門誌「ランドネ」の中国語版が売られているのを発見! 山ガールブームはアジアを席巻するかも?
◆というわけで、福島県・天栄村に移住して6年目、雪山ライフを存分に満喫していますが、今シーズンはちょっと行く先に変化が。例年なら会津側にある箕輪山や裏磐梯方面、吾妻連峰などへ出かけている時期なのに、今のところ安達太良山、赤面山、泉ヶ岳など太平洋側の山がメインです。とにかく雪が多すぎて会津の山はラッセル地獄で下りも雪が深くてあまり滑れないとのこと。先行者のトレースが期待できない平日に行動する我が家としては余計に避けたいところなのです。
◆2月に入って寒さが少し緩んで天気も良くなってきたのでそろそろ会津方面へ出撃しますが、気温が高いと今度は雪が重くなるのが悩みのタネ。まあ、いくらパウダースノーでもガスで視界がなかったり吹雪の中を滑るよりは多少雪が悪くても天気がいいほうがありがたいですけどね。こんな我が家ですが雪山で遭遇したらぜひ声をかけてください。そういえば、秋田・後生掛では恩田真砂美さんにお会いしたんでしたっけ。お元気ですかー? 今回はスキーの話ばっかりでスミマセン。機会があれば次回は台湾の温泉話でもさせていただきたいと思います。(滝野沢優子 地平線犬倶楽部会長)
■今冬は京の町にも実に雪がよく降る。京の都の東に比叡山、西には愛宕山。その両山とも1月は殆ど山頂が白い。毎朝6時40分頃から桂川沿いに自転車で犬を散歩させる。茶色のスタンダード・プードル。女の子。2才半。散歩というよりは自転車のトップギアーでも引っ張られるぐらいの疾走である。この堤防沿いの遊歩道からは、朝日に照らされる愛宕山が、とても1000mに満たない山とは思えない程に輝くのが見える(注:愛宕山の標高は924m)。
◆その愛宕山に今年は1月2日「京都愛宕研究会」なる人達と初登山した。7合目を過ぎ「水尾分かれ」(保津峡駅に近い水尾村を登山口とするコースとの分岐)と言われる700m辺りからは、雪一色でアイゼンもいる。ご存知の方も多いと思うが、この愛宕山は「伊勢に七度 熊野に三度 愛宕さんへは月参り」とうたわれた800社余りの愛宕神社の総本山である。神社で「火迺要慎(ひのようじん)」のお札を受けて、自宅の台所に貼ることで火除けになるという。火伏せの神であるとともに、一方その昔かって戦国武将の戦勝祈願の場でもあった。この山へ登り5日後織田信長を討った明智光秀や毛利輝元等多くの武将の崇敬を集めたことでも有名である。
◆数年前、江本氏と登ったのは雪のない暑い時であったが、京の町から30分もすれば、雪の山に入れる近場のせいか、この1月は頓に中高年に、いま流行の山ガールも混じり毎日多くの人で山が賑わっている。山頂にある愛宕神社では見事な樹氷も出来て近畿で樹氷で人気のある台高山脈の高見山にひけをとらない山容を見せてくれる(ついでながら「台高山脈」は、大台ケ原と高見山を結ぶ稜線のことで昭和33年冬、私たち京都市交通局山岳部が冬季初縦走をやったところとして思い出深い)。
◆愛宕山へは、登山口の清滝まで私の家から車で15分程だから、年を通してよく登る。最近は月1〜2回は登っているが、やはり雪の愛宕山がいい。いま、1年365日のカレンダーに元旦から大晦日まで、山行日を埋めるのを一つの目標にしている。
◆記録を見ると、この1月で191回登っているが、同じ日に重複しているのがあり、実際は120〜130日ぐらいの日しか埋まっていない。あと、365日総て埋めるのに何年かかるか判らないが、他の山行も忙しいので慌てず、楽しみながらカレンダーの空白を埋めていこうと思っている。この1月は3回登ったが、いずれも山頂は氷点下の雪の寒い日であった。(1月25日 京都・大槻雅弘 一等三角点研究会会長)
■15年前、仕事で東京・大田区の工場を集中的に取材した。切削から鍛造、めっき、塗装、プラスチック、精密機械など数十の工場を巡った。親父さんと呼ばれるような社長がいて、奥さんが経理をやり、職人さんたちが黙々と作業をこなすというところばかりだ。でもやっていることは半端じゃなかった。熱い鉄が目の前に飛び出し、最先端のNCで制御された旋盤がうなりを上げ、シリコングラフィックスのCGマシンに設計図を入れれば、そのとおりにプラスチックの部品ができあがる。まるで魔法だった。
◆日々動く事件や株価だけでなく、日々変わらないようでいてじんわりと進化していく世界もあるのだと教えられた。こういう工場の多くは操業規制のために港区や品川区から移転してきたのだという。そうした歴史的な背景を親切に教えてくれたのが大田区郷土博物館の北村敏さんだった。その北村さんと先月の報告会でばったり再会して驚いた。
◆2008年に沖縄・浜比嘉島で丸山純さんが行った「デジタルカメラ教室」に北村さんはヒントを得て、丸山さんの協力で大田区版デジタルカメラ教室をやったのだという。題して「大田区工業ふしぎ探検隊」。鋳造、金属加工、ねじ製造など区内の工場4社を8人の小中学生が1月上旬にEOS Kiss X4を持って取材したそうだ。2月3日〜5日に蒲田で行われた「おおた工業フェア」で、彼らの写真が展示された。経験がにじみ出る職人の手のひら、防護マスクの向こうの作業員の真剣な表情、みるみるうちに形を変えて行く金属素材への驚きがストレートに伝わってくる。
◆浜比嘉島で小学生たちに身近なものを撮ってもらうことによって、私たちの島の暮らし、風土への関心が、彼らによる再発見をもたらした。今回の大田区工業編に参加した8人にもきっと「じんわりと進化する世界」が見つかったに違いない。(落合大祐)
■正月のTVでラインホルト・メスナー(66才)の髭面があらわれた。故郷のドロミーティ地方の紹介のためである。地平線会議の多くの皆さんはむろんご存知でしょうね。メスナーはイタリアの登山家、世界初のエベレスト無酸素単独登頂とか、人類はじめてヒマラヤの8000m峰14座すべてを登頂した超人的なひとです。
◆私もすごい人だとおもってはいたが、特にメスナーに興味をもったのは数年前、『メスナー自伝』(山と溪谷社)を読んでからだ。山に衝かれた彼は、ナンガ・パルバットに同行した弟の死への世間の非難、母の「登山を止めてくれ」との懇願、愛する前妻との離婚などの手痛い代償もはらっているのですね。そしておもしろいと思ったのは彼の後半の人生での、次の2つのことばです。
◆その1は「遠征を実現するための資金集め、講演、著述などから解き放たれて、南米パタゴニアなどの徒歩旅行では、ほとんど写真も撮らず、日記もつけていない。目的は旅そのもの、自分だけの旅であった」。その2は「南極大陸縦断旅行を思い立ったのは科学への貢献のためでも国家の威信のためでもない。ぼくは自分自身にとってのものさしを見つけたかったのだ」。これらに、すでに地平線の仲間たちが世界各地で実践している新しい冒険のかたちを見たからです。
◆そして近年、彼は旅と放浪の合間に故郷の南チロルの山の農場主として有機農業を実践し、古いお城を改修して住んでいることを知った。そんな彼の生き方をこの目で見たくてメスナーの故郷へ出かけたのは2008年の初秋のこと、夫の元彦も一緒でした。まず訪れたのは、メスナーのJUVAL城。果樹園の中の道をあがった丘の上にある中世の小さな城。彼が最初につくった山岳博物館である。ちなみに彼は南チロルに4つのメスナー山岳博物館(MMM)をつくり、2010年さらにもうひとつ完成させると、聞いた。受付の少女の話によるとこの博物館は夏には閉鎖するという。「観光客の最も多い季節に一体なぜ?」とたずねると「メスナーが子供と夏休みを共にすごすため」だという。それを聞いて私は自伝の一節を思い出して胸が痛くなった。ヒマラヤ登山を終えて帰国したメスナー。空港には愛妻がいた。しかしそれは出迎えではなく彼との離婚を告げるためだった。
◆この博物館は涼しいので彼の夏の住まいにもなっており、彼の書斎も見学できる。少女の家族がじゃがいもやミントを収穫しており、後ろの山腹では羊がのんびり草を食べ、にわとりがレストランのまわりを走りまわっていた。近くには民宿もある。この地方に住んでおられる日本人のYさんの話によると、この城は、行政による入札に応募して彼が手にいれたものだという。荒れていたのを自分でこつこつ大工仕事をして修復したのだ。
◆外見とはちがって中の展示は壮大な構想にもとづいている。ヒンドゥー教、仏教、キリスト教、イスラームと各種宗教の像などを集めたコーナーでは、ジョン・レノンの音楽「イマジン」を思い出した。また山の絵の展示コーナーには日本の富士山、インカのひとの幻想的な絵などもあり、『山は天と地の架け橋である。聖なる山は高いからでも、美しいからでもない』と説明にあった。庭に点在するチベットなど東洋美術品と山とは関係がないようにみえる。しかし、「自由な魂を得るため」「平安」「無」といった哲学を山に求める現在のメスナーからすれば、これぞ山岳博物館なのかもしれない。
◆他の3つのMMMには山道具などもあり、より一般的な意味の山岳博物館になっている。しかしどれも一工夫してあり、個性的かつ魅力的である。私たちが訪問した時、メスナーはアラスカとパキスタンに映画を撮りに行っているとのことだった。それと関係あるかわからないが昨年メスナーは「裸の山」というナンガ・パルバット登山の映画を完成した。和訳本も出版された。裁判ざたにもなった弟の遭難についてメスナーの立場がかかれている。近く映画は日本でも上映され、それにあわせてメスナーが来日すると聞いた。
◆地平線会議の関係では江本さんや山田和也さんが本人に会っている。どんな人なのかな? 地平線で話してもらうことはできるのかな?メスナーの人生から学ぶべきことは多い。(向後紀代美)
■昨年4月の報告会では世にはばかる野糞話をさせて頂き、ありがとうございました。実はその1か月後、10年連続野糞の記録達成を目前にして、ひどい腰痛に倒れてしまった。立ち上がるのもままならない状況で、いつものように人目には付かない林まで行くのは不可能。しかたなく昼日中、林にすがって庭に出て、痛みをこらえて穴を掘り、外から見えないように傘を2本広げて目隠しを作る。竹にしがみついてしゃがんでも痛くて息ばれない。自然に降りてくるのをじっと待っていると、いきなり目の前の窓が開いて「だいじょうぶぅ?」カミさんが覗き込んできた。ほうほうの態で脱糞が済んでも、痛くて肛門まで指が届かず、尻を拭くのも洗うのも四苦八苦。そんな困難を乗り越えて5月31日、ようやく10年連続野糞の輝かしい糞字塔を打ち立てた。
◆これほど糞骨砕身の努力をするのも、けっして記録達成だけが目的ではなく、生きている責任を果たしたいとの思いからだ。ここで糞土師の主張を簡潔に書いてみると
★人は生きるために食べる。食は、他の生き物の命を奪って自分の命にすること。しかしそれは人の宿命であり、生きる権利でもある。食べたら出す。そのウンコには、多くの命を奪った責任が詰まっている。
★人糞には消化吸収できなかった栄養がたっぷり残り、他の生き物にとっては極上のご馳走になる。生態系の循環にウンコを組み込む野糞は、奪った命を他の生き物に返すこと。権利を行使するなら、責任も果たさなければならない。
★『食は権利、ウンコは責任。野糞は命の返し方』
◆報告会の後もあちこちで講演を行い、様々な感想や反応があった。そんな中で特に強く心に残っているのが、「糞土師伊沢はアナーキストだ」という批判的なものと、「ウンコと野糞の話を聴いて、輪廻転生が理解できた」と有り難がられたこと。
◆多くの人が嫌がるウンコを武器に世間の常識や良識を批判したり、野糞をして軽犯罪で捕まり、裁判闘争も辞さないなどとちょっと過激な発言もしている私は、ある意味アナーキストに違いない。ただし、良識人が批判的に考えているような「社会秩序を暴力的に破ろうとする無政府主義者」ということではない。本来のアナーキズムは、法律などで規制されなくても自覚を持って生活し、自由と自立、そして自律を目指した生き方だと私は考えている。
◆そこで最も重要なのは、権利の主張よりも、生きている責任を果たすこと。その一方で極端な見方をすれば、法治国家では法という基準を破らなければ良いわけで、かえって一人々々の責任への自覚は薄らいでしまわないか? 法が本当にしっかりしたものならばそれでも良いかもしれないが、自然のままを低級とみなし、自然から離れることが発展だと思い込んでいるこの人間社会では「生き物として生態系の中で生きる責任を果たす」ことなど、法の精神にすらほとんど望めない。
◆また、人の力が弱くて自然が豊かな時代なら許された欲望も、科学などの発達で人間の力がモンスター化し、自然が危機的状況に直面している現在、物質的豊かさや利便性などこれまで目指してきた価値観は、いいかげん見直さなければならないと断言できる。旧態依然の良識?人にアナーキストと批判されても、糞土師の信念は微動だにしない。
◆輪廻転生と生態系は、共に命の循環を表したものだが、魂が生まれ変わる輪廻転生は観念の世界で、ちょっと難解だ。それに対して、多くの生き物が命を受け継いでゆく生態系は、目に見える現実世界のことで判りやすい。さらにそこにウンコが加わることで、食べ物とウンコを通して命が巡る生態系の循環が、より身近に鮮明に見えてくる。以前札幌で行なった講演会では、「学生の時の生物の授業よりも、この2時間の方が生態系の動きや植物連鎖について良くイメージがわきました」という感想を頂いている。
◆さて、ウンコになって考えるというのは、ウンコの視点で生態系や輪廻転生の世界に入ることだ。野糞をすれば、ウンコは獣やフン虫などの動物に食われたり、菌類に分解されて吸収され、最後に残った無機物も植物に吸収されて無くなってしまう。しかしそのことで、ウンコは動物・菌類・植物の体となり、命となって蘇る。ウンコになるということは、自分の消滅と引き換えに、これまでの自分を生かしてくれた多くの生き物に命を返すことだ。これこそ自分が生きてきたことへの責任の果たし方ではないか。そしてウンコを死骸に置き換えてみれば、たちまち輪廻転生の世界が明らかになる。死や消滅を「終わり」と捉えればマイナスイメージになり、それを忌み嫌うのは当然かもしれない。しかしそれを、循環の一過程とか責任を果たすことと見れば、満足感もあれば幸せでもある。
◆介護や臓器移植、死刑、死の定義などなど、このところ命を巡る議論がさかんだ。糞土師の主張の根底にあるものは命だ。命を大切にという思いに変わりはないが、世間の良識や人権感覚には大きな違和感がある。一つの命を生かすためには、その裏で他の多くの命が犠牲になっているが、その部分を見ようともせずに正義面して命を喧伝するいかがわしさだ。そこには生きる権利ばかりがはびこり、生きる責任は見当たらない。もちろん、生きたい人は生きたい努力をすれば良いが、私は介護されたり、ましてや植物人間になって延命処置されて生き続けることは絶対に拒否する。だから私は、生きる責任を果たす野糞ができなくなったら、どこかの山中に穴を掘って即身仏になり、土に還る覚悟だ。生き続けることばかり求めるのではなく、意義のある死を論じ、尊重することも重要だ。
◆世間の常識からはだいぶ隔たった価値観を持ち、行動する私は、変人扱いやアナーキスト呼ばわりされたりもするが、これでも社会人としての自覚は人一倍強いつもりでいる。社会が成熟するには、私は多様性とバランスが大切だと考えている。ウンコや野糞を強く主張するのも、それが最も重要だというよりは、世間で最も軽んじられ、見下されているからだ。そして生きることの根本を見つめ、うさん臭い世の良識を打ち破り、生き物社会のバランスを取り戻す手段として、ウンコが最適だという結論に達したのだ。
◆そんな思いで糞土師になり、講演活動に力を入れているのだが、世間の偏見に阻まれておいそれとは日陰から抜け出せない。そんな中で昨年夏と秋には、地平線会議のメンバーでもある久島弘さんや小長谷雅子さん、古山里美さんなどのお陰で、大阪と厚木で糞土講演会が実現できた。さらに多くの人に聴いてもらえるよう、皆さんに協力をお願いする次第です。たとえ数名の参加でも講演会を企画して頂ければ、スライド映写機を担いで出掛けます。ただ、写真家をやめた現在、自腹を切る余裕がなく、最低限の旅費だけは用意して下さい。〒309‐1347 茨城県桜川市富谷1014 TEL&FAX:0296-75-2384 までご連絡頂ければ幸いです。よろしくお願いいたします。(糞土師:伊沢正名)
■2月3日。今年の旧暦の正月は節分だった。節分と云えば、“鬼は外、福は内”が通例であるが、とある地方に“鬼は内”とする習わしがあるのを皆さんはご存知だろうか。青森県の鬼沢というところ、その名も“鬼神社”がそこである。約400年前、その一帯の人々が隠れキリシタンをかくまっていたことが、その名に由来している。そして、その頃から旧正月には“裸参り”が行われているのだが、今回はその体験レポートをお届けする。
◆最近は津軽三味線も国際的になってきていて、僕の兄弟弟子には弘前市在住のギャレスという名のアメリカ人の青年がいる。昨年僕は、まるで鬼に招待されるような格好で、彼に誘われるままにこの行事に参加し、今年もまたやって来たというわけだ。
◆早朝の神社の鳥居の真下には、たっぷりと冷水を湛えた樽が三つ並んでいる。ここで水垢離(ごり)という神事が行われるのだ。はちまき、タオル、ふんどし、足袋、草鞋を手渡され、社に入るや否やふんどしに着替える。今年の参加者は34名。狭い社のなかに男衆が全員ふんどし一丁というだけで、荘厳な趣がある。皆が整列するとミソギの唄が始まる。代表者に続けて唄をうたいながら、櫂を漕ぐように身体も動かす。ここで手を抜くと、後々自分の命に関わってくるので必死に声を出す。「エーイ エイッ!」身も心も皆がひとつになってゆくような、熱を帯びた感覚だ。
◆いよいよ外に出る。精神が高まっているせいか、寒さはもはや全く感じられない。樽から後方にある焚き火まで、雪の上に敷かれた藁の上に3列に並ぶ。周りは黒山の人だかり。なかには雪ん子のような地元の子供達が声援を送ってくれている。報道陣にも取り囲まれているが、カメラを気にしている余裕などは全くない。桶の前に立ち、真正面に昇り始めている朝日を浴びながら、「エイッ!」さらに喝を入れてザブンと胸まで入る。するとすぐさま大盛りの雪の塊がドサッと投げ込まれ、歓声が湧く。10秒程で次の人と交代し最後尾につくのだが、これが一人あたり8回まわってくる。上半身が真っ赤になるまでが目安ということらしい。
◆水から上がると、みるみるうちに身体からは湯気が立ちのぼり、士気を鼓舞するように皆お互いに身体を叩きあったり、声を上げたりする。自分も自然と驚く程に声が出る。瞬時に共有してゆかなければ、いてもたってもいられないといった感がある。初めは高揚で気が付かなかった寒さも、5回6回と重ねるごとに人によっては抑えようの無い全身の震えがまわってくる。そうならない為にも声量は高まってゆく。僕はただただ「三味線の良い音色が、出せますように…」という願をかけて挑むのが精一杯だった。
◆これからが本番である。身を清めた男衆はマワシと草鞋を身に纏い、鬼神社とそれを取り囲む12の神社(山の神様)を表す大きなしめ縄(地元の職人が2週間を費やしてこしらえる)と奉納品(酒や野菜)を担いで歩き始める。男衆の後にはお囃子が続き、「サ〜イギ、サ〜イギ〜♪」という岩木山登山囃子の唄と共に4キロ程離れた奉納場所へと向かう。沿道にはお爺さんお婆さんをはじめ、近所の住人達は行列を迎えて手を合わせる。この日一日は、男衆は神様になるのだという。
◆ようやくお勤めも終わり、宴会の席では師匠と共に三味線を披露することで、地元の方々や神様にも恩返しが出来た。やはり、ミソギをすると心身共に引き締められるようで、たとえようの無い爽快感に包まれる。実は今回、風邪をひいての参加であったが、終わってみればなかなかの荒療治であった。聞けば、昔は10日前から掘っ立て小屋に集まり、朝昼晩のミソギを素っ裸で繰り返していたという。
◆雪のしんしんと降り積もる静かなこの道を、400年前と変わらない姿で、人は五穀豊穣や家内安全を願って歩き続けてきた。いつの時代であれ、真に願うことは同じなのかも知れない。必死に応援してくれていたあの子供達の心には何が映っただろう…。この度の体験で僕は肌身を通して、優しくて力強い灯火のような、元来この土地に暮らしてきた人々の想いが、心に染み入ってくるような気がした。そのような想いこそ、三味の音色に乗せてゆかねばなるまい。来年も参加すると3年連続出場となり、「表彰状」を受け取れる事になっている。尚、翌4日の東奥日報のカラー写真には、僕とギャレス青年の修羅場がしっかりと映り込んでいたのであった。(車谷建太)
僕はこれまで「ノーベル平和賞」に関心はありませんでした。そもそも「平和」を真剣に考えたこともありません。戦争の反対側で国家体制が決めることくらいの認識しかもっていなかったのです。身近な存在の劉暁波(リュウシャオポー)が平和賞を受賞して初めて、「平和」を意識しました。僕は、これまで犯罪者、密航者、亡命者、また社会の裏で生きる人など数々の「ディープ・ゾーン」を取材してきましたが、あらためて「平和とは何か?」を聞かれると、「……」答えに詰まる。その答えを見出すまでに至っていない自分の未熟さのレベルに気がつきました。つまり、「平和とは、人間としてのファイナル・アンサー」なのです。
この原稿は、あの国にとっては取り扱い要注意です。あの国は、4億数千万のネット人口があり、それを検閲するネットポリスも数十万人います。この原稿がネットで配信されればたちまち、検閲ブロック「黄金の楯」でフィルタリングされます。僕自身、苦い経験があります。取材パートナーとのメールを検閲され黒客(ハッカー)攻撃を受け、パートナーは行方不明になりました。反撃のために、中国の新聞で連載4か月16回続きましたが、劉暁波のノーベル平和賞の受賞とともに、編集部の判断で中断されました。僕の原稿によって地平線会議への災厄を予測できません。劉の受賞を祝う亡命者たちとの集会内容や劉夫妻の近況など詳細部分をカットせざるを得なかったことをお断りします。
劉暁波と初めて会ったのは22年前、天安門事件で揺れる北京でした。
コロンビア大学の客員教授だった劉は、身の危険も顧みず急遽北京に戻ってきました。「ココスバー」と名づけられたカウンターだけの酒場は、反体制たちの拠点で北京へ行くたびに、僕は通い詰めていたのです。
「ニューヨークから、いま着いたばかり」と酒場のオーナーで一匹狼の活動家・陳軍(チェンジン)が紹介してくれたのが、劉暁波でした。劉は、文革時代に少年期を吉林省で過ごし、吉林大学文学部を出て、北京師範大学で博士号を取得(88)、その後ノルウェーのオスロ大、米ハワイ大で中国文学の講義も行っていました。無口で目立たない劉は、「文学界のダークホース」と言われていました。
「79北京の春」の元祖民主活動家がニューヨークから天安門広場の学生たちにメッセージをファクスで次々と送信します。それを当局は、「紙爆弾」と恐れていました。ファクス機を提供したのは中国のIBMといわれ、北京大学の学生たちの間で就職希望ナンバーワンと人気の高い「四通公司(スートンコンス)」の創業者・万潤南(ワンルンナン)です。彼は毎週「ココスバー」にやってきて、10万元(約160万円)相当の金品を天安門広場で座り込んでいる学生たちに支援として送り届け、当局は民主化運動の陰のスポンサーとしてマークしていました。
『われわれはハンストを行う。この最も美しき青春の時に我々は一切の生の美しさを後に残していかざるを得ない。心の残りで不本意であることか』学生の下書きを劉が仕上げたという『ハンストの書』のオリジナル原稿を読んだのも「ココスバー」でした。弾圧が厳しくなり「ココスバー」は当局によって閉じられ、陳軍はアメリカ国籍を持つ妻と国外追放となり、ニューヨークへと去りました。
「撤退か死守か」広場の学生たちは二分して揺れました。黒い髪を束ね、丸顔の小柄な女子学生・柴玲(チャイリン・23)が天安門広場保衛総指揮部リーダーに選ばれ、「死守」を貫きハンストを指揮して「民主の女神」と呼ばれました。
そして、運命の「血の日曜日」を迎えます。
6月4日の未明、午前3時を過ぎた頃です。戒厳部隊が学生たちを排除するために天安門広場へ侵攻を開始し、広場へと続く大通りは装甲車で埋め尽くされました。暗闇の空に向けて照明弾が打ち上げられると、北京の夜空が赤く染まりました。それを合図に、人民解放軍がバリケードを壊しいっせいに広場へと突き進み、学生たちを包囲。学生たちは抵抗することもなく、戦車の地響きに声をなくして座り込みました。
学生たちを死の崖から救ったのは「黄雀行動」と呼ばれる香港の地下組織が密かに行った「イエローバード作戦」でした。劉暁波は作戦の仲介役として戒厳部隊の将校と交渉し、学生の逃走ルートを確保し、流血の事態を最小限に食いとめたのです。
僕は、パリに先回りをして劉を待ちました。パリでは、イブ・モンタンが国連の難民ビザを持って待っていました。しかしパリへ劉はやって来ません。事件後、劉は当局によって身柄を拘束され、1年8か月の獄中生活を強いられ、釈放後も民主化を求める言論活動をやめず、その後2回、悪名高き「労改(ラオカイ・労働改造所)」に送られたのです。
「中国を救うのは、資本主義だけ」
パリの亡命者たちは、中国人を救うのは経済だと、「下海(シアハイ)」を合言葉に、ビジネスに身を投げ始めました。一方、中国国内に留まった劉は「中国人を救うのは、文化」をとりました。それが自由と人権「08憲章」につながります。「中国国民は、自由・平等・人権が人類共通の普遍的価値であることを認識した」(前文)。「リンパー(零八憲章)」がネットで公開されると、「ネット天安門事件」のような衝撃波が中国を覆いつくしました。劉は中国立憲100周年、世界人権宣言公布80周年などにあわせて「08」の年を選びました。また世界人権宣言(48・12・10)を意識して起草日を12月10日にしましたが、阻止されると予測して前日に公表したのです。劉は即刻身柄を拘束され、国家転覆を扇動したとして懲役11年と政治権利剥奪2年の刑で、いまも保釈されていません。天安門事件に関わった民主活動家や作家たち303人がリンパーに署名し、僕も続きました。劉暁波の平和賞受賞は、「08憲章」を発して中国共産党独裁反対と人権保護を訴えた功績を認めたものですが、天安門事件後も国家の弾圧に耐えながら国外に脱出せず言論活動を続けたことと、中国政府に対する警鐘を鳴らすという意味もあったと思います。
劉暁波より先に、ノーベル平和賞の候補に上がった中国人がいました。国民党・蒋介石の弾圧に抗議した魯迅です。魯迅は「私の目の前にあるのは依然として暗黒であり、これから創作活動が出来るか未知数です。もし、私が受賞してももはや筆が進まなければ、申し訳なく思います」と、受賞が見送られると予測していました。
「劉の言うとおりにすれば中国はどうなる?」僕は亡命者たちに聞きました。
「中国は混乱に陥る」と、亡命者たちは頭をうなだれました。
劉がノーベル平和賞を受賞したことで、中国の暗黒はさらに強化される恐れもあります。
年収3万円に満たない貧困層が8000万人もいます。生まれながらにして戸籍のない黒い子供たちは5000万人もいます。貧困のあまり臓器を売る人や、売血でエイズにかかり死ぬ人に救いの手を差し伸べているのは、政府の認めない地下教会くらいなものです。
中国がGDP(米ドル換算額)で日本を上回った(超日)というニュースが亡命者たちとの集会で飛び込んできました、10年後にはアメリカをも追い抜く(超美)と記事にありました。
「資本主義を救うのは、中国だけだ」亡命者の一人が呟きました。
僕は最近、中国人に出会うと次の質問を繰り返してきました。
「ユダヤ人には伝統、移民のアメリカ人には故国がある。そしてイタリア人には教会、日本人には四季と四海がある。中国人には何があるのか?」僕の質問に、劉から答えをまだ貰っていません。
劉なら、「中国人には天子がいる」と答えるに違いありません。中国では、古来から「天子」が「天下」を支配し、五千年の知恵を授けてきました。天の教えには裏返しとして「天の怒り」があります。支配者の統治が悪ければ天罰つまり天の譴責(けんせき)を受けるのです。近年、中国には四川大地震をはじめ大洪水、旱魃など自然災害が相次いでいます。天災はじつは人災です。こういう場合、古代中国では「天の怒り」だと「天命を革(あらた)める」として支配者は反省し君主としての徳がないと座を譲ったのです。
「発展すればするほど謙虚であるべきで、無思慮に他人を批判してはならない。
分を越えたことは言わず、分を越えたことをしてはならない」トウ小平の「平和」へのファイナル・アンサーです。
「平和とは何か?」、僕はいまこそ中国人ひとりひとりにファイナル・アンサーを聞きたいと思います。そして自分自身でも、いつの日かファイナル・アンサーの答えを見出す領域へ到達したいと願っております。(作家 森田靖郎)
元旦の 鈴の音さやかに 浦安の舞
みやびの薫り 香取のお社
どんどのつよ火に 焦りつつ もちやきて
あつあつを食む 境内の森
《関三刹(関東の三寺)》
経蔵庫の 古壁の浮彫 あざやかに
帰国の道元 馬の背に経典
――龍穏寺・埼玉
山腹を 登り本道 粛々と
石塔ひとり 冬陽ほしいまま
――大中寺・栃木
寺の道の 江戸川海へ 十余キロ
流れゆうゆう 旅の修行僧
――総寧寺・千葉
ケイタイを 忘れて街に 飛び出して
会えるでしょうか 運の神様に
物忘れ ふと思い出す その一瞬
主も知らぬ 不思議な回路
医者の云う グレーゾーンに 迷いけり
脳の中なる 越境者のかげ
治水橋から くっきりと 雪の富士
思いかけない 今日のしあわせ
海へだて 母への思い 獄中から
くしゅんくしゅんと 読初めのご縁
――郷隼人の歌文集をよむ
■この「あとがき」を16時過ぎに書き終えた。イラストの到着も遅れて、今号もアンカーの森井祐介さんには迷惑をかけることとなった。それにしても今号も、読ませる原稿が多くて、編集しながら感動した。文章を書くのに手を抜く、ということは本来ないのだが、地平線通信の書き手たちは、「ほんもの」を投げてくる。そういうレベルに地平線通信がなっていることが不思議でさえある。ともかく皆さんに感謝したい。ありがとう!
◆5月15日にお茶の水の明大駿河台キャンパスで予定している冒険フォーラムのタイトルが決まった。「冒険の伝説・未来―こんな日本人がいた そして 今もいる」。無料だが事前申し込みが必要です。25日の報告会で多分チラシを用意できると思うのでその際、説明します。冒険者は、松原英俊、服部文祥、永瀬忠志、そして天野和明の4名。ユニークな内容になるでしょう。是非参加ください。詳細は次号で。(江本嘉伸)
好きでたまらない山
「ギリギリボーイズ(GIRI GIRI BOYS)」を知っていますか? インドヒマラヤのカランカ(6931m)北壁無酸素初登攀により、登山界のアカデミー賞とも呼ばれる「黄金のピッケル賞(Piolet'd Or Francia)を'09年に受賞して世界的に注目されている日本人若手クライマーユニットです。 今月報告して頂く登山家の天野和明さん(33才)はメンバーの一員。冒険家の植村直己さんに憧れて明治大学山岳部に入り、本格的に登山を始めました。少人数軽装備で山頂を目指すアルパインスタイルで数々の難峰に挑んできました。国内では富士山をはじめとする山岳ガイドとして活躍しています。 山岳誌のインタビューで「今は何よりもクライミングが面白くて、麻薬的にハマっています」と語る天野さん。植村さんの背中に何を見ているのでしょうか。 |
地平線通信 375号
制作:地平線通信制作室/編集長:江本嘉伸/レイアウト:森井祐介/イラスト:長野亮之介/編集制作スタッフ:丸山純 武田力 中島菊代 大西夏奈子 落合大祐 加藤千晶
印刷:地平線印刷局榎町分室
地平線Webサイト:http://www.chiheisen.net/
発行:2011年2月9日 地平線会議
〒160-0007 東京都新宿区荒木町3-23-201 江本嘉伸方
地平線ポスト宛先
pea03131@nifty.ne.jp
Fax 03-3359-7907 (江本)
◆通信費(2000円)払い込みは郵便振替(料金が120円かかります)、または報告会の受付でどうぞ。
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議
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