正月明けの三日間、雪の中にいた。鷹匠、松原英俊さんの家にお邪魔したのだ。山形県鶴岡市田麦俣。隠れ里のような山奥の集落は、深い雪に埋もれようとしていた。その一角の、築100年以上というふるびた高層民家に松原さん一家は住んでいる。新年の挨拶を交わしたあと、1階の居間の電気炬燵に足をつっこんでゆったりさせてもらった。
◆冬は、鷹狩の猟期。それに備えて、雪が降る前から左腕の籠手(こて)に鷹を止まらせて歩く訓練を繰り返す。正しくは「据える」と言う。人間と鷹が一体化するに必要な儀式で、「一に据え、二に据え、三に据え、というくらい基本」だそうだ。話の途中、3階の部屋から相棒の「加無(かぶ)号」を据えて連れて来てくれた。鋭い嘴、精悍な目をしたクマタカ、8才になる。
◆正月なので多津子夫人と長男の浩平君もつきあってくれる。アルコールは一滴も飲めないあるじに代わって夫人がビールの相手をしてくれた。豪快な飲みっぷりで話が弾んだ。鷹匠として生きることを決めた松原さん、はじめは自分は結婚できるとは考えていなかった。自分には鷹がいるからいい、と。ある日、罠にウサギ、イタチ、タヌキが次々にかかっていたことがある。その時の言い表せない喜び。一緒に喜んでくれるひとがほしくなった。
◆福島県の磐梯山に登った時、声をかけてきた25才の女性がいた。ひとり旅でコースがわからなくなった、という。一緒に登り、楽しく語り合って別れたが、後日その女性に無性に会いたい、と思った。勤め先は大阪の銀行と聞いていた。いきなり銀行の某支店に電話したら一発でつながった。縁が生まれたが、遠距離なので滅多に会えない。当時、松原さんは電話も電気もない山小屋に住んでいて、大阪からの連絡は電報を打つしかなかった。ふたりは互いにひかれていったが、多津子さんの両親、親族は猛反対した。当然のことでした、とふたりは笑う。
◆結婚式も新婚旅行もやらなかったが、指輪だけは買った。「万博公園の店で、確か1000円のを」(松原)。「後日、青森にいる松原の母が自分のダイヤの指輪をプレゼントしてくれたんです。でも、その後火事で焼けてしまった」(多津子)。雪が積もると兎の毛皮に布を詰めた擬似兎を放り投げ、空中を滑空して襲い掛かる練習を重ねる。そういう時、多津子さんの存在は大きかった。
◆多津子さんは、東北福祉大学の通信教育で社会福祉士の資格を取り、現在は毎日介護の仕事に携わっている。2月にはたちになる浩平君も、解体関係の仕事で働いている。鷹匠は時に家族の協力で、時にひとりで訓練を繰り返す。
◆雪が降りしきる中、集落のはずれの森で、活餌の鶏のひなを使っての訓練が始まった。松原さんは鷹を据えたまま、斜面の上に立ち、休日の浩平君が下方でトリを雪に放り出す。タカは獲物を見た瞬間、松原さんの腕から飛び立ち、斜面を急降下、またたく間にトリを捕えた。近づいておとりの肉を見せて加無号の嘴から獲物を外す松原さん。まさに鷹狩りの現場を見た一瞬だった。
◆二度目の時、厄介が生じた。活餌のトリが小さすぎたせいだろう、加無号は、獲物を掴んだまま、低く滑空した姿勢で谷底に向かっていってしまったのだ。猟期の前のタカは、絶食を強いられるので、取り上げられる前に食べてしまいたかったのだろう。呼んでも戻ってこない。以後、1時間ほど、松原さんは加無号を求めて特製かんじきで雪の中を歩き回り、私たちはクマタカの帰還を祈っていったん家に引き上げた。もしかするとずっと帰らないのでは?と、不安が頭をよぎる。しかし、杞憂だった。間もなく松原さんの元気な声が聞こえた。ちゃんと見つけて連れ帰ったのだ。
◆団欒の時間、「珍しいもの見せましょう」と鷹匠がテーブルの上にアオゲラを載せた。この家のもうひとりの狩人、猫のユキが捕まえたのだそうだ。モモンガ、スズメ、ツグミなど冷凍庫に保存されていた猫の獲物が次々に並べられ、へへえ、とうなった瞬間だった。ばっさあーっ、と大きな羽音がしてテーブルにドスンと何かが舞い降りた。加無号だった。鋭い爪はアオゲラの凍った頭に食い込んでいる。松原さん、うっかり加無号を部屋の梁に据えたまま、冷凍鳥を並べてしまったのだった。
◆植村直己冒険賞が15年になるのを記念して兵庫県豊岡市の植村直己冒険館が2011年5月15日(日)、東京・明治大学で冒険のフォーラムを計画している。コーディネーターを頼まれた私は、松原英俊、服部文祥、永瀬忠志、それに植村さんの後輩クライマー、天野和明の各氏にパネリストを頼んだ。来月、具体的に告知します。全国の地平線会議の仲間に今から参加を予定していてほしい、とお願いします。ことしもよろしく。(江本嘉伸)
■ジャック・ケルアック(アメリカの作家、詩人)は、その代表作『オン・ザ・ロード』を書き上げるのに、タイプライターの紙を入れ替える時間も惜しんでトレーシングペーパーをつなぎあわせてロール状にしたものにタイプし続けたという。いつもの報告会会場の、机と机の間に長く広げられた伊藤幸司さんのプリントアウトを踏んづけそうになったときに、つかのまそれを思い出した。
◆「通路に並べたのはゴミです」と伊藤幸司さんはいきなり言う。「なぜかというと、これらはぼくのホームページで見られる。誰がこんなのを見るのだという長大なゴミの作り方と、昔作った『旅のメモシリーズ』というのがぼくの中ではほぼイコールだということをきょうはお話ししたい」。「あむかす・旅のメモシリーズ」とは、「だれでも書ける(手書き)の記録、ガイド、便利ノート」。日本観光文化研究所(観文研)を母体として1970年に生まれた「あるく・みる・きく・アメーバ集団」(通称AMKAS)の活動のひとつで、当初旅から帰った人の手書きの原稿をデュプロ印刷によりわら半紙にホッチキス止めの冊子にまとめたもので、後に簡易オフセット、B6版に進化して紀伊国屋書店などでも売られるようになった。
◆伊藤さん自身がAMKASに引っぱり込まれたのは、1970年6月に白馬の法政大学山荘で開かれた「たんけん会議」がきっかけだった。早大探検部でナイル川に遠征した後、報告書作成に1年がかりだった記憶も醒めないうちにこの「会議」で「報告書は出汁ガラだ」と、挑発的な発言を耳にして、伊藤さんは奮起した。それならむしろ「出汁ガラを作る」ことをやろうと。それがかたちになったのが「旅のメモシリーズ」だった。
◆伊藤さんによれば、「メモシリーズ」の最低要件は400字詰め原稿用紙50枚以上。そのまま縮小コピーすると50ページ以上の書籍になるから、国立国会図書館に献本すればそのまま収蔵してくれる。しかも携わっていた伊藤さん自身は原稿をろくに読まず!流れ作業で赤い表紙の本を作っていたのだという。
◆「50枚以上あるものは、読まなくても大丈夫だという確信があった」と伊藤さんは平気な顔で言う。「旅がどうかとか、書き方がどうかとか、それから完成度の高いものかメモに近いものか、それはさまざまだから、評価をすればいろんな言い方があるかもしれないけれど、50枚以上書いた人には語りたいことがそれだけあったということ。量を書くということがすごく大事」。
◆この後にも「量を書く」という言葉が何度も出てきたのだが、これには「強烈な記憶」があるのだという。ある時、たんけん会議にも参加した山と溪谷社の編集者がAMKASに来た。彼は単行本の執筆者を探していて、「400字400枚書けたら本にする」という彼の言葉にぱっと書いたのが関野吉晴さんと賀曽利隆さん。2人の原稿はそれぞれ『ぐうたら原始行』と『極限の旅』として結実した。「ぼくは書こうと思わなかったから敗北感とかはなかったけれど、400枚一気に書いた方が勝ちだなとそのとき思った。400枚書けるということは、文章の巧稚や旅の中身がどうかということを超えて、そのボリュームに何か大きな価値がある、と」。かくして伊藤さんは「質より量だ」という確信を得たのである。
◆「量」の魔力は伊藤さんを何度も救う。大阪のある出版社からの依頼で観文研メンバーが「五万分一地形図を歩く」という企画で分担して執筆することになった。伊藤さんが担当したのは「富士山を歩く」。取材のため富士の裾野に何度も足を運び、一番乗りで数百枚の原稿を書き上げたところが、出版社の事情で原稿がボツに。しかし「それだけの原稿があるのなら」と『岳人』で「五万分一地形図『富士山』を歩く」という連載記事になり、しかも連載終了時には単行本(『富士山・地図を手に』)にもしてくれた。
◆もともと山が嫌いで「身体虚弱意志薄弱派」を名乗ったこともある伊藤さんが1995年から山歩きの「糸の会」を始めたのも、「量」が発端だった。観文研の『あるく・みる・きく』に長く外国の地図リストを連載していたところ、山と溪谷社の編集者がそれに目をつけて、地図に関するシリーズをやってみないかと打診された。編集を野地耕治さんにやってもらい、そのうちの1冊を自分で書くことにして『地図を歩く手帳』という本になった。その後、この本を見た朝日カルチャーセンター横浜から電話があり、「40歳からの登山入門講座」に地図担当講師として参加することになった……。「山にタダで行けるならと引き受けてしまって、それが現在に至る。だから『山屋』だという意識はぼくにはまったくなくて、むしろ『探検学校』の延長」。
◆話は脱線するが、「探検学校」とは1971年から2年間の間にボルネオ、ヒマラヤ、小スンダ列島、アフガン・イラン、カメルーン、パプア・ニューギニアへ7隊、130名の参加者を送り出したAMKASの活動のひとつだった。伊藤さんは第1回のボルネオと第6回のカメルーン行きのリーダーを務めている。パッケージツアーともバックパッキングとも違う現在ではあまり見ない類の「団体異文化体験」だが、だいたいは2週間程度の行程だったのに対して、伊藤さんのカメルーンは42?60日間と長期に及ぶものになった。
◆「なぜカメルーンかと言えば、フランス語圏なので、ほとんどの日本人は言葉が通じないだろうと。言葉の通じないところで40日いれば、何か普通とは違う旅ができる」。これがおそらくAMKASが伝えたかった「探検学校」の精神なのだろう。報告会場の床上には、カメルーンからザイール川を上り、ルワンダ、そして戦乱のウガンダを抜けてケニアに到達した恐るべき「ツアー」の一部始終を伝える写真もあった。
◆登山講座の講師が嵩じて「糸の会」を始めた伊藤さんは、山で撮り貯めた写真を2冊の写真集『山の道、山の花』『軽登山を楽しむ 山の道、山の風』にまとめている。これまた随分な「量」のプリントを小さなザックに詰めるだけ詰めて出版社に話に行ったのがきっかけだが、そこで伊藤さんはメディアの大きな変動を目の当たりにする。一昔前なら写真を印刷する場合はどんな小さな写真でも1点ずつ4色分解しなくてはならず、載せる写真の数に比例してコストがかかっていたのが、いまやパソコンで作業が終わるのでその手間賃がいらない。「昔だったらものすごいコストがかかった本だけれど、いまはある種タダでできてしまう」。2冊それぞれ約400枚の写真が収められているのだそうだ。しかも書店で手に取るだけでなく、これがiPhoneやiPadから1冊分450円でダウンロードできるのだとか。かつて物質的な重さに比例した「量」は、デジタル化されることによって信じられないほど軽いものに変化しているのだ。
◆そこでようやく冒頭で伊藤さんが「長大なゴミ」と呼んだホームページの話に入る。「こんなに長くせず、細かく切って見出しをつければましになるのにと言う人がいるとは思うが、極端に言えばそう言う人は読まなくていい」。見栄えの綺麗さ、ルックスのよさを重視する時代は終わったのだ、と伊藤さんは宣言する。なぜなら、Web検索によって世界が一変してしまったから……。たとえ見栄えを整えなくても、ネットのサーバ上に保存しておけば、検索エンジンが自動的に見出しをつけてくれる。何も紀伊国屋書店に赤い表紙の本を探しに行かずとも、検索サイトでキーワードを二つ三つ打ち込めば、知りたいことが出てくるのだ。しかも正確なキーワードがわからなくても代わりにアドバイスしてくれるような人工知能化が進むだろうと伊藤さんは言う(実際、GoogleやYahoo!がしのぎを削っているのは、入力されたキーワードや訪れたサイトから個人ごとの嗜好を割り出し、より的確な検索結果を瞬間的に提供する機能だという)。「だからこれからは門構えのいいものを作る必要は何もない。誰も見ないものを、本当に隅っこに置いておけばいい」。
◆ナイル河の水源を突き止めるのが、早大探検部時代に伊藤さんと小川渉さんがのめり込んだプロジェクトだった。ところが、いま "Source of the Nile" で検索すると、豪州ABC放送のサイトがトップヒットする。伊藤さんたちが突き止めた水源にこのテレビ局が組織した探検隊がつい数年前に訪れて立派な看板を立て、それを番組にしたからだ。一昨年の日本の番組でもタレントがここを訪れ、豪州の探検家がつい何年か前に発見した水源だと伝えていた。事前にディレクターから伊藤さんたちに問い合わせがあり、資料を提供していたにもかかわらず、現地に立てられた看板の映像には勝てなかった。こうなればせめてもの対抗策は、当時小川渉さんが書いて『現代の探検』に掲載された原稿を英文で紹介したサイトが検索されるようになることだろう、と伊藤さんは言う。
◆例えば、「探検学校」で訪ねたカメルーンの写真に地名をキャプションとしてつけておけば、現地の人がネットを使って検索するかもしれない。参加者のひとりがその後のめりこんで著した新体操の本だって、せめて紹介文だけでもネットに載せておけば、取り上げられている選手やコーチに本のことが伝わるかもしれない。ホームページに載せることによって、個人であっても世界を相手にすることができる時代なのだ。
◆「そういうことでとにかくゴミをたくさん作ってもらいたいと思う。人と比べて価値を判断する必要は全然ない。書きたいのであれば書いてしまったほうがいい。それもできればたくさん書いた方がいい。こんな下手な文章を誰が読むというようなものをタラタラと書いてもらいたい。そういうことができる『時代』というのがあると思う。その時期を逃さないでほしいと思う」。
◆「旅のメモシリーズ」から35年経って、国会図書館に収蔵されるために50ページの本を作るような苦労はしなくてもよくなってしまった。ナイルの水源だって、グーグルアースで確認できてしまう。が、時代に応じてメディアが変わっても、旅をした人の情報に対するニーズはなくなることがない。表現者とそれをつなぐネットワークと。伊藤さんが創立に大きく関わった地平線会議が長く続いている理由が、ちょっとわかったような気がした。(落合大祐)
みなさま、お疲れさまでした。わたしの話を聞くとものすごく疲れるのだそうです。古い仲間の多くは「昔より分かりやすくなった」というので、疲れもほどほどだったかなと勝手に判断しています。
◆タイトルにある「宇宙ゴミ」は直径10cm以上のものは完全に捕捉されて軌道計算ができているのだそうです。直径1cm以下のものは人工衛星などの設計基準で防御できるのだそうですが、その中間のものは完全なお手上げ状態とか。そのお手上げ状態の宇宙ゴミ(にあたるもの)をインターネット空間にどんどん放り出そうという提案────でしたが、おわかりいただけたでしょうか。
◆グーグルに代表されるインターネット上のウェブ検索はものすごい進化をしています。そして人工知能化は年々高度になっているのだそうです。つまり「宇宙ゴミ」の捕捉性能が磨かれている……と考えれば、小さなゴミでも「検索」によって求めている人に確実に拾われるという時代が到来しているのです。
◆35年前に作った手書きのメモ「あむかす旅のメモシリーズ」(全89冊)では「手書き」によって編集作業をいっさい省略し、かつ「400字詰め50枚以上」という「量で質を判断する」採用基準で作りました。50ページを超えると「書籍」になり、国会図書館に入れることができるからです。つまり出版界において捕捉可能なものにもしたのです。
◆その「メモシリーズ」から現在に至る、わたしの「行動記録」に関連する話が、ジェットコースターのようであったかもしれません。反省はしていませんが。
◆最後に私事ですが、山でケガをしたらすぐに古い仲間に伝わって「ありがたい」という気持ちになりました。突っ張り棒がはずれた気分で、地平線会議で話させていただくことになりました。同時に、2か月半の自宅謹慎によってわたしが「無口」だということを発見しました。必要がなければしゃべらずに何日でもいられます。しゃべり出したら、そのときのことはわかりませんが。(伊藤幸司)
昨夜の報告会、伊藤幸司さんの「宇宙にひとつだけの輝くゴミ」はほんとうによかったですよ。地平線会議発足当時の我々の情熱が蘇ってくるようでした。「あー、あの頃は青春だったなあ…」と年寄りじみた思いにもとらわれたし、伊藤さんの「テレホンサービス・地平線放送」にかけた熱い想いも30年の歳月を越えてヒシヒシと伝わってくるようでした。
◆お話の中で何度も登場した「日本観光文化研究所」(観文研)では、伊藤さんは大先輩になります。そしてただ先輩というだけでなく、大変な恩を伊藤さんから受けることになるのです。ぼくが観文研に出入りするようになったのは、「アフリカ一周」(1968年〜69年)から帰ったあとのこと。観文研を取り仕切っていた宮本千晴さんはきわめつけの貧乏旅行だったぼくの「アフリカ一周」をおもしろがって聞いてくださり、観文研発行の月刊誌「あるくみるきく」に書かせてもらえることになったのです。とはいっても、なにしろ文章を書く術も知らないカソリだったので、大変なことになりました。
◆そんなときに、宮本千晴さんはじつに良いアドバイスをしてくださいました。「なあ、カソリ君、そんなに大げさに考えなくってもいい。(原稿を書くのは君には無理なので)旅の間で強く印象に残ったことをカードに書いてみたらいい」。宮本さんのアドバイス通り、全部で150余枚のカードに思い出のシーン、印象深いシーンを書き込んでいきました。東京・秋葉原の観文研の机で夢中になって書きました。
◆150余枚のカードを書き終えるとそれを箱に入れて宮本さんに手渡し、日本人ライダー初となる「サハラ砂漠縦断」を一番の目的とした「世界一周」(1971年〜72年)に旅立ちました。その150枚のカードを編集してくれたのが伊藤幸司さんと向後元彦さんでした。後の地平線会議誕生にも大きくかかわるお2人は、当時の日本の探検、冒険の世界をまさにリードするような方々。ぼくにとっては雲の上のような存在でした。
◆伊藤さんと向後さんは、その150枚ものカードをたんねんにつなぎ合わせ、「あるくみるきく」の1冊にまとめあげてくれたのです。書いた本人がいないのですから、お2人の苦労は想像を絶するような大変さだったと思います。こうして完成したのが「あるくみるきく」第66号(1972年8月発行)の「アフリカ一周」でした。
◆それを「世界一周」の途中、資金稼ぎのバイトをしていたイギリスのロンドンに送ってもらったのですが、異国の地で「あるくみるきく」の「アフリカ一周」を手にしたときの喜びといったらありませんでした。それを手にした瞬間、体中を駆けめぐる熱い血のたぎりをおぼえたことが、まるでつい昨日のことのように思い出されてきます。東の空に向かって深々と頭を下げ、宮本千晴さん、向後元彦さん、伊藤幸司さんにはお礼を言ったシーンが今でもはっきりと蘇ってきます。それはまさにドラマのような出来事でした。
◆「あるくみるきく」第66号の「アフリカ一周」のドラマはさらに続くのです。ぼくの帰国を首を長くして待ってくれる人がいました。八木岡英治(故人)さんです。作家の坂口安吾や壇一雄らと懇意にしていた編集者の八木岡さんは「あるくみるきく」の「アフリカ一周」をおもしろがってくださり、宮本千晴さんに「賀曽利さんに会わせてほしい」と伝えてきたといいます。
◆ぼくが「世界一周」から帰るとまもなく、八木岡さんが訪ねてこられました。会うなり、「あるくみるきく」の「アフリカ一周」はおもしろかった、ぜひとも本にしましょうと、そう言ってくださったのです。信じられないような話です。原稿用紙に原稿も書いたことのないようなカソリなのに…。八木岡さんが置いていかれた200字詰の原稿用紙1000枚を書き終えると、八木岡さんは実に丁寧に、丹念に、原稿に赤を入れてくださったのです。このようないきさつで、ぼくにとっては最初の本となる『アフリカよ』が誕生しました。
◆ゲラ(校正)が出たとき、八木岡さんは壇一雄さんに読んでもらいました。壇さんは一気に読み終え、すごくおもしろがってくれたといいます。そしてこの本の前書きに、「ここに青年の行動の原型があり、純粋な旅の原型がある。何か途方もなく大きな希望があり、夢がある。ぼくが今、二十歳で、この著者と同じことが出来ないのが、唯一、残念なことである」と、書いてくれました。
◆壇さんは『アフリカよ』のゲラを読み終えるとすぐに、ぼくに会いたいと八木岡さんに言ったそうです。しかし、なんとも残念(当時は自分の旅のことで頭がいっぱいでした)なことに、ぼくは壇さんに会うことなく、次の「六大陸周遊」(1973年〜74年)に旅立っていきました。『アフリカよ』の最後には、向後元彦さんが次のように書いてくださいました。
◆《「アフリカで一番きみが惹かれたことはなに?」。「人間ですね」。ばさっと、ひとこと返ってくる。ひとことの重さは、はかりしれない。17か月、オートバイで走りまわったというと威勢がいいし、かっこよく思われそうだが、アフリカの自然条件と人間情況はそんなロマンを許さない。彼は這いずりまわったのだ。食べものはなく、橋はなく、砂があり、戦争がある。相手は人間しかなく、自分しかないのだ。「人間」にめぐり会うための極限状況の中を彼は行ったのだ。しまいにはオートバイで走っているのは肉体をもった人間とは思えなくなり、一個の魂が青い光を放って闇の中を進んでゆくのを読者は見るに違いない。素直な笑顔、皓い歯、まっすぐな視線。どこにでもいる好青年とかわりないように見えるが、ぼくはこんなにはげしく美しい魂というものを他に知らない。賀曽利くんの本をもう一度読み直して、ぼくは人間について考えてみたい。》
◆1973年8月、『アフリカよ』の印税を手にすると、すぐに「六大陸周遊」に旅立ったのですが、この本を出した出版社の「浪漫」は旅の最中に倒産。八木岡さんも亡くなられてしまいました。しかしこの『アフリカよ』のおかげでその後、次々に本を出すことができ、著書は40余冊になりました。それらの本が、どれだけ自分の旅の原動力になったか、はかり知れません。昨夜の報告会には宮本千晴さんも向後元彦さんも来られてました。あらためて伊藤幸司さんを含めたお3方には、40年前の、1972年のイギリス・ロンドンの時と同じように心の中でお礼をいうのでした。
◆「旅はドラマだ! 人生はドラマだ!!」。報告会の会場でそう叫びたくなるような思いにとらわれたカソリでした。(賀曽利隆 感激して報告会翌日の昼には原稿が届いた)
■お久しぶりです。「インド探検」の浅野哲哉です。いつも通信を送って頂いてありがとうございます。皆さんのご活躍が垣間見れて楽しく拝読しています。12月は昔「あむかす旅のメモシリーズ」などで大変お世話になった大先輩の伊藤幸司さんの報告会でしたね。懐かしい思いがこみあげてきます。地平線通信12月号のフロントで江本さんが述べられているように、僕がまだ現役大学生の頃、法政大学で開催された関東学生探検会議の準備段階で、打ち合わせかなにかで、一度読売新聞本社を訪ねました。思えば、あの時初めて江本さんにお会いしたんですよね。伊藤さんの報告会には残念なことに顔は出せませんでしたが、報告会のテーマ=記録と情報の扱い方に関連して一文を書いてみましたのでよければつきあってください。
◆インドと付き合って30年近くになります。合計12回のインド旅行で描いたスケッチをもとに、ちょうど1年前からオリジナルの動画(といっても静止画像のスライドヴューですが)を作ってYouTubeなどにアップしています。暮れの12月22日にアップした最新の動画を含めて、約10数点の作品群です。以下のYouTubeチャンネルにてご覧下さいませ。http://www.youtube.com/user/IndiaExploration
◆僕にとってスケッチは、アートではなく、インドの人々とのコミュニケーション手段のひとつです。風景にしても人物にしても、その場で描いている「時間」を一枚の画用紙に記録しているのです。絵を描く僕を取り囲んだインドの人々(特に子供たち)の手垢や唾、汗、埃、泥などが付着した素描スケッチは、決してアートとして仕上げることができない一期一会の「記録」です。
◆人物画には本人のサインが書かれていますが、本人に似ていないと絶対にサインしてくれません。みんなの直筆サインは、描いた僕のサインよりも格段に貴重な「情報」です。これらすべてをひっくるめたような「臨場感」を表現するにはどうしたらよいか。その答えを求めているうちに、いつの間にか30年があっという間に過ぎ去ってしまった感があります。
◆90年代後半からPCの性能が上がり、インターネットの世界も急速に拡がってくる中、1999年にホームページ http://www.terra.dti.ne.jp/~t-asano/ を立ち上げて、文章・イラスト・絵本・漫画・FLASHアニメ等々いろいろな表現に試行錯誤しつつ取り組んできました。そして約5年前にYouTubeが登場してきました。遅ればせながら、2007年の暮れに自分の YouTube チャンネルを開設して、http://www.youtube.com/user/aramproject その膨大な動画の数々を閲覧したり、再生リストに登録したりして楽しんでいました。いろいろ閲覧するうちに、自分のスケッチをもとに作品にできるかも、と思い立った次第です。
◆特筆すべきは、ここ2年くらいで一般のインド人が投稿する動画も圧倒的に増えたことです。インド人のインド人による記録映像には、とても興味を覚えます。そんな中、思いも及ばない「出会い」がありました。この10月、僕の動画を観たインド人(シンガポール在住のシステムエンジニア)からメールがあり、なんと彼は、僕が約1年間滞在した南インドの村出身で、「あなたのことをよく覚えている」というのです。
◆メール交換の中でわかったことは、彼が生まれたのは、僕が村を去ってから1年後。僕もよく知っていて似顔絵も描いた彼の祖父からの伝聞みたいでした。「うう、すでに孫の世代になっているのか」と愕然としてしまいました。いずれにしても、この「出会い」を大切にして少しずつ輪を広げていきたいです。
◆YouTube もすごいですが、Wikimapia という地図共有サイトがあって、自分が訪れた土地の衛星写真上にたくさんの記事を書き込めるような仕組みになっています。道路や建物もビジュアル的に編集できるようになっていて、その土地に詳しい人々が共同で地図を完成させていくのです。はるか離れた日本から、南インドのひなびた農村を覗くことができ、その地図を編集できるなんて、ほんとに想像を絶する時代になったものです。でも、実際にその土地に行って「歩く見る聞く」のが一番ですね。ああ、またインドに行きたい……と身を捩じらせている今日この頃です。(経 麻菜=浅野哲哉)
■地平線通信といえば判じ物のような題字である。象形文字か梵語か解読を待つ暗号か。あるいは単なるいたずら書きかもしれない。読者の多くが冒険・旅行好きだから、西域か中東方面の文字かもと思ったりする。イラストめいた抽象画のような場合もある。いまだに不明なのは発行日の前にふられているEAIBCKというアルファベット符号だ。そして代表世話人編集長によるびっしり1800文字ほどの文章。どう読んでも発行日当日の文章だよなぁ、という、極めてジャーナリスティックな中身である。これだけの文をどのくらいの時間で書いているのか。
◆「先月の報告会から」は毎回レポーターが違うものの、報告の内容がきっちりまとめられているし読みやすい。話し手と書き手双方の個性が浮き出ている。ここまでしっかり話の内容をまとめられるというのは、そう簡単ではないだろうと思う。報告終了後の話し手の感想も読む。
◆そして「地平線ポストから」の各種通信。大冒険から小さな旅、世界各地や旅先からの便りに、そのまま地平線会議の人物多様性が現われているようだ。イベントの案内や報告。探検・旅行記の刊行。身の回りの雑事や悩みごとまで。就職、退職、怪我をした、病気の心配、育児、尋ね人……はなかったか。へー、そんな場所でそんな事をしているのかと、何もしない身からため息が出る。汗が流れていたり、凍えそうだったり、筋肉の震えが伝わってくる通信もある。
◆いやはやとたまげたり、このくらいなら自分にもできそうだと思ったり。この人はどうやって食べているのか、資金の捻出はどうしたと下世話な心配もする。今月の発送請負人欄をみて「お陰さまで」と頭を下げる。「通信費をありがとうございます」という律儀な囲み。しばらく送ってないぞと、このつつましい告知が身に沁みるのだ。
◆極め付きは最後のページ、才人画伯手書きの、次回報告者紹介とその全身戯画である。剽軽、意地悪、毒気、揶揄、辛辣、寸鉄、敬愛、信頼。これがあるとないとでは参加人数が大きく違うだろう。まさに地平線会議「特定多数」へのメッセージである。高等遊民、肉体派インテリ、知的好奇、自己主張、挑戦者、ボヘミアン、この人たちをどう表現するか。会議と通信両方に出入り自由の大家族とでも言えそうな雰囲気がある。それにしても30年継続しているエネルギーは何だろう。そう思いながら16ページおよそ3万字を、いつも1時間以上かけて読んでいる。(小林天心 観光進化研究所代表 日本エコツーリズム協会前事務局長 現亜細亜大学教授)
★「EAIBCK」は「EDITED AND ISSUED BY CHIHEISEN KAIGI」の略。133号(1990年11月)当時は「EDITED BY CHIHEISEN KAIGI」、158号(1992年12月)では「EDITED AND ISSUED BY 地平線会議」と和洋折衷で書かれるなどさまざまなバリエーションがあるが、「地平線通信」の題字ともども難判読路線を強めている長野画伯の趣味で160号(1993年2月)以後、略字のみの「EAIBCK」、が定着している。
◆ただし、画伯本人によると、「必ずしも判読できないことを趣旨にしてるわけでもないんです。当初は、報告者が通う地域の文字で、と思っていたんですよ。アルファベットはもちろん、ハングルやキリル、アラブ文字、米インディアン文字(記号)、手話記号、手旗信号など、ちゃんとしたものもあるんですが、なんちゃってチベット文字やなんちゃってビルマ文字など使ううちに、どんどん読めなくなってしまったわけです。やっぱり……趣味ですかね」ということである。(E)
■12月の伊藤幸司さん報告会の冒頭、どこかで聞いた声が流れた。「(ビュービューと風の音)えーと、ただいまノースコル。7007メートルのテント場です。えー、北壁の、目の前の壮大な眺めを前にしてぶっ立っています。えー(激しい息づかい)……今日は快晴」
◆臨場感たっぷりのナマ中継の音声について、司会役の丸山純君が「これが、あの地平線放送です」と紹介し、参加者は、深くうなづいて聞き入った(と思う)。「地平線放送」は、伊藤、丸山を中心に、久島弘、武田力らが加わって実行した、地平線会議草創期の斬新な試みである。当時まだオフィスでしか使われていなかった「留守番電話」を使っての2分30秒の情報サービスで、報告会の案内、会場で録音した報告者の話、旅のインタビューなど盛りだくさんな内容だった。
◆魅力的な情報装置だったが、それが裏目に出た。スタートして1年半が過ぎた頃、NHKの朝の番組で紹介された直後に、視聴者からの電話が殺到。おかげで局側の交換機が完全にダウンしてしまい、付近一帯の電話が不通になるという事態となったのだ。やむなく正規放送112本で撤退した地平線放送だが、実は、今も聞くことができる。
◆地平線会議のウエブサイトの「Chiheisen」という表示をクリックすると「地平線放送関係」というのが出てくる。そこに当時の音の世界がしっかり記録されているのだ。ただし、4本だけ。第1回の試験放送、第1回報告会での宮本千晴の挨拶と三輪主彦の話、そして今号に久々に登場している浅野哲哉がバザールでもみくちゃにされる「インド生録の旅?バラナシ」(面白い!)、最後に冒頭のチョモランマ・ノースコルからの実況である。1980年、戦後外国隊が初めてチベット入りした時の記録だから、これも貴重なのだ。
◆実は、1995年に地平線会議のウエブが開設された時からここで聞けるようになっていたとは、知らなかった。すんません。そういうわけで、皆さん、一度地平線放送の熱気に、是非是非ふれてみてください。(E=ノースコルからの発信者)
■江本さん、地平線の皆さん、いつも通信を送っていただきありがとうございます。すっかりごぶさたしていますが、どんどん若い世代が活躍する姿に感動しながら、通信もメールニュースも読んでいます。先日の江本さんの電話「たまには近況を書いてください」という言葉に、今やっていることを皆様に報告したいと思います。
◆伊豆高原に来て3年、しばらく仕事のテーマを失っていましたが、昨年、妻の父(元日本肺癌学会会長)から、インド医学の現状を、調査するように依頼されました。とりわけアーユルヴェーダやナチュロパシーなどの伝統医学が近代医学のがん治療に寄与するものを探し出すというのがそのミッションです。
◆2人に1人ががんになる時代、医者だけにがん対策を任せてはおけません。インドには素晴らしい自然医学があります。実はこれががん治療の最先端の一つにつながっていたのです。その内容はこのスペースでは書ききれません。今年もこれから3か月ほどインドで学んでこようと思っています。以下のレポートは昨年の体験記です。
◆マハトマ・ガンディーが、自然医学に関心を持っていたということはあまり知られていません。ガンディーは、インドの独立のために、文字通り一生を賭けた人物です。ガンディーは政治家として、イギリスによる三百年にわたる植民地支配によって疲弊しきったインドをどのように立ち上がらせ、発展させることができるか考えました。
◆「インドの魂は農村にある」と考えたガンディーは、極めて貧しかった当時の農村部の暮らしを向上させるため重要な活動を行いました。これは自分自身で健康な暮らしを営むことができるように、農村に暮らす人々に力を与える活動でした。そのガンディーが熱中し、生涯を通じて実践してきたのが、ナチュロパシー(自然医学)です。薬を使わず自然なライフスタイルを過ごすことで病を癒すナチュロパシーは、きっと世界のどの地域でも、医学が発達する以前から存在しているに違いありません。
◆インドにおけるナチュロパシーのはじまりは、アーユルヴェーダよりずっと古く、人類がこの地に暮らしはじめたとほぼ同じ時期に始まっていただろうと考えられています。ナチュロパシーの考え方の基本に、自然の法則にしたがって暮らすということがありますが、もっとも自然に暮らしているのは野生の動物です。
◆インドに暮らしていると、人間も動物のひとつの種として大きな宇宙の中で役割を得て暮らしているということが自然に納得できます。現代でも人間と動物が共存しているわけですから、深いジャングルに覆われた古代のインドは圧倒的に人間よりも動物が主人公として暮らす場所だったに違いありません。その動物たちの暮らしを観察していく中で、インドのナチュロパシーが生まれてきたと考えられています。
◆たとえば動物が体調を崩した場合、彼らは食事を絶って地面におなかをつけて休みます。そして体調が回復するまで動きません。おなかの調子を崩したなら何を食べればよいかということも知っており、その植物を探して食べます。野生動物はがんや高血圧などの生活習慣病を患うということはほとんどありません。もちろん、野生動物が寝たきりになるということもありえません。野生に暮らすということは、与えられた命がある限り自分の力で活動し、寿命が尽きたときにその一生を終えるということです。
◆インドにおける自然医学は、このように野生動物を観察し、その生き方や暮らしをまねることから始まったと考えられています。「ライフスタイルの改善」がインドのナチュロパシー思想の根本にあるのはこのためです。大きな脳を持つ人類は、その知恵を用いて様々な道具を発明し、高度に発達した文明を築きましたが、いっぽうで「野生」から遠く離れてしまったのも事実です。現在われわれを苦しめている病は、現代のライフスタイルに起因するものが非常に多く、野生動物には縁のないものばかりです。たとえば人類の大きな課題である「がん」を患っている野生動物を目にすることはほとんどありません。寝たきりのペットが増えているという話は聞きますが、寝たきりの野良猫などありえないのです。
◆マハトマ・ガンディーがナチュロパシーに魅せられたのはその点です。薬も医者も必要としないナチュロパシーは、現代の医学になれた目から見ると、非常に異色です。薬も医者もいらない理由は、「病気というのは、体のあちこちに汚物が蓄積しているのだという自然からの警告なのだから、医学の力を借りてそれを包み隠すのではなく、自然がその汚物の除去をやってくれるにまかせるのが知恵というものだ」というガンディーの言葉に言い尽くされています。(松本榮一 写真家 伊豆高原)
先月の通信でお知らせした以後、通信費を払ってくださった方は以下の通りです。中には数年分まとめて払ってくださった方もいます(きちんと記録しています)。万一、漏れがあった場合は、必ずご連絡ください。
河田真智子 平本達彦 長澤法隆 伊藤幸司 山本和弥 佐藤安紀子 中島恭子 阿佐昭子 横内宏美 高城満 平田寛重 梶光一
■あけましておめでとうございます。登山の世界がブームに沸いた2010年も終わり、より一層の大きな波を感じる2011年になりました。
◆2010年は登山界にとって大きな一年でした。統計上、登山人口が2倍になり、小売店は新店舗を増やしていきました。高尾山、富士山、屋久島が三大聖地として、登山専門誌ではない一般誌やテレビでも特集が組まれるようになり、まだまだ曜日間、地域間で差はあるものの、山は概ね、かなりの数の登山者でにぎわいました。登山を始めて20年になりますが、私の記憶では、過去、これだけのブームが訪れたことはありません。
◆一方、問題点も浮き彫りになりつつあります。今まで一部の地域を除くと机上の空論だったオーバーユース対策をまじめに議論する必要が出てきたこと、初心者の事故の防止、対応が一層重要になってきたこと、登山者のモラル等の啓蒙、教育を誰が担うかということがはっきりしていないこと、などでしょう。他業界との比較をすることが苦手なこの業界ですが、楽しむ人全員にライセンスを義務付けるダイビング、教える人にもプロ資格があるゴルフなどと比べると整備が遅れていることは一目瞭然(両業界諸団体あり、外野から眺めるほどは簡単ではないのでしょうが)。山には登山者のスキルを客観的に評価してくれるライセンスもなければ、義務付けられているガイド資格もありません。
◆初心者は来るべきではない、と切り捨てるのは簡単です。夏山然り、冬山然り。スキルを、モラルを学んだ人だけが山に入るべきだ、と。自然を相手にするレジャーである以上、それが当然のことというのも理解できます。ただし、大きな波として人が山に向かっているときに、「そもそも論」を語ることは何も意味しないのは自明でしょう。富士山には、予定も準備もなかったのに飲み会でノリで週末行こうと決めただけの人たちが登っており、頂上で寒くて震えています。高尾山にはふらっと散歩気分で家族連れが登っています。前者が許されず、後者は大丈夫という判断は山の知識がある程度あるからできるのであって、知らない人には同じ行為です。その2つの違いを誰かが説明しなくてはいけません。もしくは前者の人たちがもう少し安全・快適に登れるようにインフラを整備しなくてはなりません。
◆私が登山の世界に戻ってきて、というより、戻ってくるのは予定通りだったので以前より考えてきたことは、これらの問題を解決したい、ということでした。端的に言うと、「登山人口の増加」と「安全登山の推進」の両立。両方とも当たり前のことを言っているのですが、「両立」が重要です。この2つは二律背反ではない。そして、この2つがそのまま起業した会社のミッションとなっています。
◆2010年に始めたのが、「やまどうぐレンタル屋」のサービスインとフリーペーパー「山歩みち」の創刊でした。レンタルは登山者に装備をレンタルすることでより多くの人たちが登れる状況を作り出すこと、今あまい装備で登っている人たちがきちんとした装備にアクセスしやすいようにすることを目的にしています。山歩みちは、安全登山に関する情報や、次に登る山に関する情報を、レンタル事業を介在させることによって、“専門誌、専門店がリーチできないセグメント”に対し発信しています。
◆具体的にはお楽しみに、なのですが、2011年も3つほど新しい事業のサービスインを考えています。なにせ、2011年は5月に映画「岳」の公開を控えています。一足先に観せていただきましたが、登山界にくる来春の大きな波の引き金になることが容易に想像できる、いい映画でした。この大きな波の去った後、1人でも多くの人に山に登り続けてもらうために、業界を挙げて環境を整えなければいけません。既存のプレイヤーで対応できない部分について、ベンチャーとして粉骨砕身、少しでも役に立てればと思っています。
◆今回ほどのサイズではありませんが、過去、1998年?2000年ごろにも中高年の登山ブームがありました。当時のブームは今回のような爆発的な増加ではなく徐々に増えていく形でしたが、啓蒙活動が過ぎたか単純に人数が増えたためか、事故が多発し、それがマスコミに流れることでブームは去っていきました。同じ確率で起こっても登山者が2倍になれば事故も2倍。目立ち具合でいけば2倍以上になります。今まで以上に気を引き締めていろいろなことを進めていかなければならない2011年。ワクワクしながらスタートです。(山田淳)
■前から思っていたのですが、ついに2011年城めぐりの旅に出ようと思います。今、仕事をやめるなんてアホだと思われますが、ぼくももう年なので……。思いっきり生きてみよう、と思いました。いつか地平線に行きます。(山辺剣 兵庫県三木市)
■性懲りもなく続けています。2010年はロンドン?バミンガム?ストラドフォード・アポン・エイボンと、初夏のイングランド運河をゆっくりと旅してきました(ニュースダイジェスト誌に紀行記を連載しています)。2011年は欧州横断の旅の途中で知り合ったベルギー人の友が、ロンドンまで出迎えに来てくれました。勢い余って今年は一緒に、ドイツのライン河・ベルギーのレス川を漕ぐことになってしまいました。楽しみです。(永久カヌーイスト 吉岡嶺二 鎌倉)
■2011年正月、友人と旭川市内を一望できる近所の山でキャンプをした。私の住む鷹栖町には閉鎖されたスキー場がある。かつてはゲレンデであったが、すでに野生を取り戻しつつあり若木の生い茂る斜面をキャンプ道具を入れたザックを担ぎ、スノーシューで2時間ほど登る。晴れていれば旭川市街地の向こうに大雪山系と十勝岳連峰が一望できるはずだが、あいにくの雪で霞んで山並みは見ることができない。
◆今年は北海道も暖かく、旭川周辺は異常なほどの降雪不足であったが、年明けから一気に積雪が増えてようやく冬らしくなってきた。気温マイナス12度。次の北極行に向けての耐寒トレーニングにしようかと思いきや、マイナス12度では暖かすぎる。とりあえず頂上付近にテントを設置し、インスタントラーメンなどをすすりながら夜を明かした。
◆私は北極点への無補給単独徒歩での到達を目指している。しかし北極点への挑戦には金がかかる。いまはその資金の壁との格闘中である。何にいったい金がかかるかと言えば、飛行機のチャーター料。「無補給」とはいえ、スタートとゴールはチャーターフライトによる送迎付きである。果たしていまの時代に北極点へ行くことに何の意味があるのか? 江本さんにも突っ込まれるところである。しかし、挑戦したいのです。
◆私は以前より、北極の多彩な姿を見てみたいという想いがあった。真っ白に凍結した海氷が気まぐれに動き回り、あちこちでぶつかり合って乱氷が発生し、ときに引き裂かれてリード(氷の割れ目)が出現する恐ろしさ。ホッキョクグマが好奇心で近付いてきて、至近距離で向かい合いながら相手の気持ちを必死に読もうとするときの面白さ。ブリザードで何日間も停滞し、やっと晴れたときのなんとも言いようのない清々しさ。
◆昨日言っていることと今日言っていることが正反対のイヌイットに憤慨しながらも、これが彼らの生き方だと納得する。そんなイヌイットと狩りに行き、一緒に食べるカリブーの内臓の美味しさ。多くの探検隊が命をかけて挑んできた北極の歴史。90年代以前から約6割の面積にまで減少している北極海氷の変化の最前線を間近に見る不確定さ。全ては私の興味の対象となり、行く度に新たな発見と好奇心の素を提供してくれるのが北極である。
◆北極点挑戦もそんな私の好奇心の一部であり、これから先も自分の見たことのない北極を求めて旅する中で避けては通れない場所であり、より深く人に伝える上でも挑戦すべき場所だと感じている。今年はカナダ北極圏を歩くつもりでいる。北極点への経験作りと新たな北極の姿を発見するために。どこを歩くのか、何をするのか、そんなことはどうでもいいだろう。そこで何を見て何を感じてきたのか、自分のことではなく「北極のいま」を日本に持ち帰って表現することが次の私のやるべきことであり新たな興味の対象だと感じている。
◆北極点無補給単独徒歩到達という一つの目標を設定し、そこに向かって動いていった時に見える日本社会というものも私にとっての好奇心の対象である。(荻田泰永 北海道上川郡鷹栖町)
■あけましておめでとうございます。新年早々ですが、いま東京ドームで「ふるさと祭り」というイベントが開催されており、今日はそこに出場している 「飯田燈籠山祭り」に参加させてもらいました。能登キリコ祭りの一種とされる飯田の燈籠山祭りは、屋台の上に土台を高く積み上げ、その上に人形燈籠を載せた巨大な山車(燈籠山)が特徴です。驚くことに、この人形燈籠が青森のねぶたにそっくりなのです。
◆青森ねぶたの起源が眠り流しであるのに対して、燈籠山祭りは神社への奉納であり、その起源は全く異なります。にも関わらず、その長い歴史のどこかで(おそらく北前船による交流によって)両者の文化が融合し、今の燈籠山の形として残っていた、と言われています。その人形燈籠の伝統も、電線の普及によって大正末期には途絶えてしまい、長らくは屋台のみで運行されていたそうです。背の高い山車が電線に引っかかるためで、これも青森ねぶたが小型化された経緯と全く同じです。
◆有志の手によって人形燈籠が復活したのは昭和58年。大正当時の燈籠山を知る人はすでに少なく、文化の伝播の痕跡を残す貴重な風習が危うく失われる寸前だったとのこと。デモンストレーションながら今回初めて参加させてもらい、能登の人々のキリコにかけるすばらしい情熱を身近に感じることができました。それと同時に、継続して文化を伝承していくということがいかに大変で、そして重要なことであるかを考えさせられました。
◆地平線会議の30年間も、皆様方の地道な継続の努力の賜物ですね。様々な人の活動、そして世界で起こっていることを伝えている貴重な場だと思います。今年もいろいろ勉強させてください。(杉山貴章)
★キリコ(切籠)とは、切子灯籠(きりことうろう)の略称
■明けましておめでとうございます。のらりくらりと過ごしていたら、我が子に成長を追い抜かれそうです。新年早々、夫婦で危機感を募らせております。目に見える成長はもはや望めなくても、われら、悪あがきはやめません。迷走しつつ、行きたい方向へ走るつもりです。
◆今まではアトリエで四六時中作っている事で気がすんでいたのですが、最近は外に出て仕事する事が楽しくなってきていて展示会+お話し会+ワークショップをやっています。お話し会もワークショップも参加してくれた方々はとても喜んでくれます。方向性としては間違っていないことを実感できます。大のオトナが真剣に子どものおもちゃで遊ぶ様は本当に潔くそれを作った者としては痛快であります。細長いブロックを積み上げようと言えば、机の上に乗ってまで積み上げたり、容赦ない×ゲームを恐れ意地になって課題をこなしたり、開き直って×ゲームを受ける姿もまたオトナを感じさせ笑わせてくれます。
◆昨年から、「オトナにもアソビゴコロ」と題してアソビゴコロを解き放つ企画をあちこちで開催しています。普段の暮らしの中の何気ない作業や営みも楽しく遊びながらできることっていっぱいある。オトナには発想の転換なのだけれど、子どもは理屈抜きに知っている。そんな子どもたちと向かい合う為には、まずはオトナがその楽しさを知っているべきである。むしろ知っていたハズなのだから、思い出してもらおう。オトナが子どもゴコロを忘れるのはちょっとした罪である!という理屈です。最近の子ども達の無表情を彼らのせいばかりにしないで、笑わせてあげられるオトナになればいいのです。子ども達の行動は回りのオトナ達の理解に直結しているのだから。
◆日々の生活にしても、子ども相手でなくたって自分で楽しめることなんていくらでもあります。毎日の通勤や、面倒くさい家事だって遊びながらやれば世界が変わると思いませんか。そんな事をつらつらと思いながら、明日からどれだけ遊んで楽しい暮らしができるのかを考えるのです。そんなことで飛び回っているわりには私自身このところ忙しいだけで気分がすっきりしないし、たごっちは留守がちだし、ムスメは食べてばっかりだしで、なんかもんもんするので爽快感を求めて自宅とアトリエをプチ・リフォームすることにしました。
◆どっさり時間が取れないのでのろのろと進めていますが、かなり気分転換になるし、なによりすっきりして気持ちがいいです。目下私の新しいアソビです。アトリエももっとキレイにして思わず入ってみたくなるような(笑)外見なんかにもできたらな?とどこまで実現できるのか自分のウデと要相談です。今月半ばからのイベントよりもむしろリフォーム計画のことばかり考えてしまって、まるでテスト前に集中できない中学生のようです。そんな多胡家ですが今年も三人まとめてよろしくお願いいたします。(多胡歩未 木のおもちゃ作家 京都)
★追伸:1月15日〜30日 モンベル奈良店サロンで展示会+ワークショップやります。ワークショップは各週末:カレンダー制作、キット工作、時計制作。詳しくはウェブで。http://www.arumitoy.net です。
■あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いします。染織活動に専念するため地元飛騨高山に戻ったはずが、思いもかけない学校勤めとの二足の草鞋となったのが、前回の卯年。時の流れの早さに、いやはや。前々回の卯年には、会社を辞めて半年以上日本に帰らなかった……。今年も何かが起きるのかしらん。
◆染織活動の屋号は「月の舟」。月にいるはずの兎には親しみを覚えます。月で餅つきや薬の調合をしている姿を想像して。友人の飼っているリアル兎のハッピー。間違ってラッキーと呼ばれることが、度々あるとのこと。あれっ、よく似ているけど、随分違う。「幸福」と「幸運」。新年早々その話を聞き、思い出した絵本があります。
◆「バンロッホのはちみつ」。テディベアのバンロッホが主人公。やさしくてちょっとおばかさん。なんとなく歩いていると、はちみつがなめたくなりました。はちみつを探して木の上に登ると、とっても気持ちよくて、もっともっと高い山の上に登ってみたくなりました。危険を冒して険しい山に懸命に登ると、その上には広い宇宙がありました。長い長い旅をして辿りついた遠い遠い星には、好奇心をそそるものがいっぱい。しばらく過ごしたバンロッホは、はて、と思います。僕はどうしてここにいるのだろう。森に戻ったバンロッホは、やっと、はちみつを探しあてました。
◆運よく、困難をどんどん乗り越えてしまう無表情のバンロッホ。はちみつをなめている幸せいっぱいのバンロッホ。絵本はいいですね。文章だけでは、伝わらないこともありますね。素直な気持ちで、はちみつがなめたくて戻ってきたバンロッホが素敵。東京で地平線報告会のスタッフをしていた頃は「ロマンチストな努力家」がキャッチフレーズでした。バンロッホに、ついつい自分を重ねてしまいます。今年は、私もはちみつを探しあてたいなぁ。さてさて、私の「はちみつ」とは? ともあれ、今年の地平線報告会には、参加できますように!(中畑朋子 高山発)
■ぴりっと引き締まった冬らしい晴天が続きますね。お正月はどのように過ごされましたか。私は親戚一家と「たほいや」(これは広辞苑を使う知的かつ爆笑のゲームで我が家で大ヒット)で盛り上がっていました。庭には夏ミカンがたわわに実っています。今年は甘くなるのが早いです。
◆毎月「地平線通信」が届くのが楽しみです。びっしり字ばかりでひるんでしまいそうな姿なのに、読み始めると一気呵成に読んでしまいます。自分がその現場にいるような、書いている人になってしまったような不思議な臨場感。思いもよらないようなこだわりを追求している人たちを知って、読み終わるとひとまわり元気になっているんです。
◆そしてなんだか「走り」たくなります。記事に走る人がしばしば登場するからかもしれません。いろんなことを思い出します。ひとりで山に登って、帰りのバスに乗り遅れそうなことが判明し、一気に山を駆け下りたことがあります。びゅんびゅん走っていると(外からみればトコトコぐらいか)、腹の底から「ウォー」と叫びたくなるような、自分の中の野生がめざめるような経験をしました。私はきっと肉食系なんだなと思ったものです。
◆西表島ツアーに参加したときは、参加者に有名な市民ランニングの先生がいて、毎朝希望者でランニングをしたことが思い出されます。ツアーの中でのほとんどはすっかり忘れてしまったのに、そのランニング中の、路地、砂浜、学校の校庭、並んで走った人の横顔、風の気持ちよさ……結構鮮明に覚えています。
◆2年前のお正月は、今年は「走るぞ!」と決意して、近所を走りまわったら、富士山の絶景スポットを発見しました。お墓の中でした。その年はメキシコ・メリダに2か月程滞在する機会があって、出勤前後に毎日走っていましたが、走っている人は私以外ほとんど見たことがありません。道は碁盤の目で秩序立てて番号がふられているので必ず帰ってこれて安心。勝手気ままに走って、市場、教会、廃墟、動物園、古い住宅地...今日はどんなところに出会うのだろうというのが実に楽しみでした。
◆このところ「走りたいな」を実行に移しては、けっこうきつくて3日坊主を繰り返していますが、また「走りたいな」。未知の世界にふれて感心したり、忘れていたこれまでの経験を思い出したり、何かチャレンジをしたくなったり……地平線通信、今年も私を大いに刺激してください!(三好直子 青年海外協力隊環境教育サポートスタッフ ネイチャーゲーム指導者)
■2011年、年始にあたり2010年を振り返って思い出すことはふたつ。春に北極に行ったことと、12月に奈良マラソンに出て、42.195キロを走りきったこと。北極は、気の赴くままに出かけ、時間の流れるままに過ごし、静かにいろいろなことを感じた旅だった。奈良マラソンは、出場を決めたのは唐突だったが、その後はしっかり準備をして気合いを入れて臨んだ、自分にとっての大チャレンジだった。高いハードルを設定して、それに向けて精神的のみならず肉体的にも精進するというチャレンジは、社会人になってからはしていない。それだけに、年の暮れのフルマラソン完走は、ただそれだけで2010年という年を、自分の人生の中で、とても貴重な、思い出深い年にしてくれたように思う。
◆「奈良マラソン」は、平城遷都1300年祭の記念イベントとして、2010年12月5日(日)に行われた県内初の公認フルマラソンだった。一生に一度はフルマラソンに挑戦してみたいと思っていたので、去年5月に会社の友達に誘われたとき、いいチャンスだと思った。ハードルの高い目標にチャレンジする時は、タイミングが重要だと思う。去年はまさに好機だった。チャレンジしたいという気持ちと、自分を取り巻く状況、そのバランスがばっちりの年だった。
◆学生時代、スキー競技部で、L.S.D.(LongSlow Distance)という練習をしていた。話ができるくらいのゆっくりペースでとにかく長い時間を走るという練習だ。鼻水に血の味が混じるほどゼエゼエハアハア苦しく走る走り方しか知らなかった子供の頃と違って、楽しく走る走り方を知ったので走ることへの恐怖感、抵抗感はなくなっていた。今回、マイペースに終始してよいL.S.D.から一歩踏み出し、レースというものにチャレンジするわけだが、一番の問題は42.195kmという距離を走りきれるかどうか、そしてその距離を制限時間の6時間以内に走りきれるかどうかだ。それと、大会本番までにそういう身体に持っていけるか、ということ。
◆学生時代と違って仕事というものがあるので、やれる範囲で努力して、ダメなら次回に繰り越す、無理をしない、そう決めて頑張ることにした。フルを走るというのは未知の領域なので、本を読んだりセミナーに行ったりして情報を集めた。調整の過程で11月のあたまにハーフの大会に出場。マラソンレースというものを初めて体験した。ハーフとは言え走りきる自信があったわけではなく、ゴールできた感動は大きかった。達成できるかどうかわからないチャレンジをして、「できた」という結果を得るのはものすごいことだ。チャレンジをしてみるとそういうことにあらためて気付く。
◆本命の奈良マラソン。一言で言うなら「むちゃくちゃしんどかった」。そして同時に「むちゃくちゃ感動した」。一丁前に一般道を選手として走れる気持ちよさとか、見ず知らずの人が旗を振って応援してくれる心地よさというのがある。そういう嬉しさを超越し、涙が出そうになるほどの感動というのが何度かあった。エプロンをかけたまま沿道に出てきた民家のおばさんが、全国から集まった選手一人ひとりに、「走りに来てくれてありがとう」と声をかけてくれたその姿。忌野清志郎の格好をして、往路のみならず復路までも1日中ずっと、たった一人で田んぼの真ん中で踊りながら応援を続けていてくれたおじさん。遅いランナーにも最後まで元気な声援を送り続け、盛り上げてくれたボランティアの高校生たち。
◆見ず知らずの人たちから、これほど温かい気持ちや応援をもらった経験がなく、いや、きっとあるのだろうけれどもこんなにダイレクトに受け取った経験がなく、彼らの気持ちにいちいち感動した。自分がゴールできたことも嬉しかったけれど、それ以上に、大会を支えてくれた人々の姿に感動した。地元の奈良で、こんなに素晴らしい大会が開かれたことも嬉しく、大きな誇りを感じた。地元を誇りに思えるって、すごくいい気持ちだ。
◆それともう一つ、「頑張ることはかっこいい」ってこと。南島詩人で舞台演出家の平田大一さんが子供たちに伝えていること。言葉で聞いて本で読めばそうだろうなあとは思う。平田さんの活動や発言、どれも素晴らしくて感銘を受けるけれど、どれもなかなか自分のものにできない。だから羨ましくて、もどかしかった。でも奈良マラソンに出たら、そうだろうなあが実感になった。自分の体験の中にストンと落ちてきた。頑張ることは、気持ちいいし、かっこいい。行動すれば、チャレンジすれば、それに出会える。そう分かったらすっきりした。
◆さあ、2011年が始まった。奈良マラソンのすぐあとに、また走りたくなって走ってみたけど、心とは裏腹に身体へのダメージが大きいようで練習はストップ。一緒に出た仲間も大会の後に故障しているし、年末、仲間とフットサルをしたとき、もういいだろうと思っていたのにマラソンで痛めた箇所の痛みが再発。フルマラソンって、やっぱりそれなりのものなのだと思う。
◆でもじきに心がうずくだろうから、そうしたらまた走り始めようと思う。2011年は10月30日に大阪マラソンがある。エントリーはもうすぐだ。またマラソンに出るのか、他のことにチャレンジするのか。いずれにしても「チャレンジ」は私の中で2011年も大きなテーマになる予定。自分に正直に、そのときにやりたいと思うことに全力疾走する、それが私のスタイル。今年もよろしくお願いします。(岩野祥子 奈良・大和郡山市)
■箱根駅伝観戦で明け暮れるのがここ数年の正月だ。しかし20年ほど前、私の暮正月は東海道を走るのが恒例行事で、家庭ではひんしゅくをかっていた。1年ごと交互に東京日本橋から京都三条大橋まで走る「東海道五十三次遠足ジャーニーラン大会」に参加していたからだ。暮れの29日に出発し、520kmを6日間で走ろうという大会だった。日本橋に向かう年は正月2日の夜、三島で宿泊し翌日早朝箱根を越えて日本橋に向かう。箱根山中では駅伝6区の山下りの選手がもう準備運動を始めている。
◆そのワキを抜け、我々は旧道をのぼって甘酒茶屋から湯本の三枚橋に降りる。9時ごろそこにつくとあっという間に駅伝選手に追い越されてしまう。後かたづけをしている中継所の跡をよたよたと通り過ぎる。選手はタスキをつなぎながら2時前には日本橋に到着する。我々は一人でわびしくトボトボ走るが、暗くなってもまだ横浜あたり、日本橋は深夜になる。昼間の喧噪はウソのように寂しいゴールだ。エネルギーが完全に切れているので寒さしか感じない。
◆20年前に始まったこの大会は昨年が京都から、今年は京都へということで最終章を迎えた。この間ジャーニーラン大会を呼びかけてきたのはTA中義巳さんだった。1993年12月、日本人が1万8千人もホノルルマラソンを走ったという話しに関連してE本さんが「長距離を走ることになぜ現代人は興味をもつのか……他の動物は意味もなく長距離を走ることは決してないのに、人間だけは100kmどころかオーストラリアのように1000kmレースさえ考えだしてしまう。」(地平線データブック・DAS)と書いている。
◆ちょうどこんな時代に単独アメリカ横断走りをしてきたTA中さんは、日本のウルトラマラソンの底上げを狙ってこの大会を企画したのだ。この大会の中から世界を走るウルトラランナー、例えばKAI宝道義、NAKA山嘉太郎、HARA健次、OKI山健司・裕子夫妻、TA口幸子、ら、を輩出することがTA中さんのひとつのねらいだった。さらに底上げということではここを走ったランナーたちが各地でジャーニーラン大会を開き、ウルトラランニングの裾野を広げてきたことだろう。トランスエゾ1000kmを主催しているMI園生維夫もこの大会の参加者だった。
◆さらにタイムを競うのではなく走る旅、すなわちジャーニーランという新しい旅人像をひろめたことも意義深い。最近は街の中でも小さなリュックを背負って通勤走りをしたり、京都の町の仏像巡りランニング、四国ランニングお遍路などする人も増えている。まさにジャーニーランが人々のライフスタイルに新風を吹き込んだのだ。
◆最終章のコースと毎日のゴールを示しておきます。とんでもない距離ですよね。第1ステージ(12/29)日本橋・元標の広場〜三島宿・三島大社―116km 第2ステージ(12/30)三島宿・三島大社〜府中宿・札の辻―70km(府中は静岡です)第3ステージ(12/31) 府中宿・札の辻〜浜松宿・本陣―77km 第4ステージ(1/1)浜松宿・本陣〜吉田宿・本陣跡 ―71km(吉田は豊橋です)第5ステージ(1/2) 吉田宿・本陣跡〜四日市宿・諏訪神社―84km 第6ステージ(1/3)四日市宿・諏訪神社〜京都・三条大橋―105km
◆1昨年暮、3日間NAKA山嘉太郎さんと鈴鹿峠、佐屋街道、御油の松原でみなさんの追っかけ応援をした。私には一緒に走る体力知力がないと言うことがわかったが、NAKA山さんは「来年は大丈夫だ!」と言っていた。その来年、つまり昨年12月、私は29日のお昼ごろから箱根湯本の三枚橋と甘酒茶屋の間を走りながらみなさんの到着を待った。20年前からずっと参加しているIWA田、KOSI田、ASA井さんが楽々と通り越した。地平線でおなじみのWATA辺哲くんも元気そうだ。
◆SAKA本、SEKI根組も通り過ぎたが、NAKA山さんは来ない。「何やってるんだ!」と思ったが、いくら10倍トライアスロンを走った人でも日頃のトレーニングがなければとても走れる距離ではない。ASA井さん、KOSI田さんたちは「20年もウォーミングアップをしているんだから調子はいいですよ!」と走っていった。そうなんだ、今日の走りは昨日までの積み重ね。私もウォーミングアップをしなければ。
◆それで思い出した。私はここ数か月はトレーニングをしているのだ。ほとんどぼけているので忘れていたが、今私は先月地平線報告会で話をしてくれたI 藤さんの「糸の会」の臨時登山コーチをしており、毎週1回は必ず山登りをしている。そこに集まってくる中高年の方々の登山スタイルは、私がまだ山旅をしていた(今は山走り旅だ)時代から比べるととてつもなく変化している。
◆女性登山者の増加は山ガールのTA部井さんの影響が大きい。糸の会の人なら誰でもマスターしているダブルストックは20年近く前からI 藤さんが指導してきたものだ。私は杖なんか、それも2本も持っての登山なんてとんでもないと思っていた。しかしやってみると中高年になった私には大変楽だし安全なのだ。I 藤さんの言うことの方が理にかなっていた。そうなんだ。どの分野でも一つことを続けていれば自然と人は集まってきて、同時発生的に同じようなことを考える人が出てくる。それが理にかない心地よければさらに広がっていくのだ。私の身分はコーチだが、逆にいい勉強をさせてもらっている。
◆ところで昨日これも地平線会議のKURUMA谷君の師匠であるTAKA城満さんからDVDが送られてきた。みると1984年5月多摩川で行われた日本で初めての100kmウルトラマラソンのビデオだった。TAKA城城さんも参加していて、友人がとってくれたのだそうだが、大会そのものの様子も写っている。MATU島駿二郎さんが主催したシティーランナークラブが行い、私も主催者の一員で横断幕もつくり、入賞を目指して走った。映像にはTAKA城さんはもちろんウルトラランナーの先駆け的存在だったSEI和寛さん、パンダの先生MASU井光子さんも写っている。私は98km地点でMASU井さんに抜かれて11位でゴールしたことを覚えている。
◆数年前日本のウルトラマラソンの歴史を調べるときに、この大会の資料がなくて困った。地平線報告会でI 藤さんは「宇宙にひとつ輝くゴミ」という話をし、どんな行動でも記録して残しておけばいつか輝くと言っていた。まさにその輝くゴミ、いや宝物が出てきた。I 藤さんの言う言葉に「そうなんだ」と納得する昨日今日でありました。(三輪主彦)
■お久しぶりです。松尾直樹です。四万十大会の通信編集を請け負ったりしていましたが、覚えておいでの方はどれだけいらっしゃるのでしょうか…?
◆3月末のアジア会館での報告会に顔を出して、同席した友人に大声で東大生だとバラされたのが、もう10年も前の事とは、驚きます。ここ5年ほど無沙汰を決め込んでおりますが、通信、いまでも拝読し、懐かしく思っております。
◆その後も海外はおろか国内も殆ど動かず、走る事もせず、専ら仕事に忙殺される日々を送っています。大学の友人は外資だコンサルだと華やかですが、当方、予備校講師を経て、現在は弱小私塾の経営という、いかにもダメ東大生な人生を送り、はや三十路を迎えつつあります。「俊英が東大出ればただの人」とは、よく言ったものです(苦笑)
◆とは言え、物件探しに什器の吟味から人材集め、ビラ作成、果てはトイレ掃除まで、すべて自分でやる経験は、20歳代ではなかなか味わえないかなと思っています。命の危険は感じた事が無いですが、経営に行き詰まり、バンザイするしか無い?と思った瞬間もありました。これも一種の冒険か?
◆というのは冗談で、皆様のご活躍には、ただただ眩く感じるばかりです。通信を通じて、その活力の片鱗を頂き、私も自分なりに頑張って行こうと思います。(松尾直樹)
■あの筋金入りのビンボー主義者・久島弘が昨年著した『ぼくは都会のロビンソン』(イラスト・長野亮之介)が第29回雑学出版賞を受賞した。これは、1958年に設立された「雑学倶楽部」が授与するもので、同倶楽部は「好奇心が人一倍旺盛で、しかも行動力がある雑学人間の集団」を標榜し、月々の例会のほか年に一度「日本雑学大賞」と「雑学出版賞」を選んで同倶楽部主催の「雑学まつり」で授賞式を行っている。
◆今回、『ぼくは都会のロビンソン』が受賞したのは、その内容に「貧困や格差がはびこる今こそ、見習うべき生活の流儀や哲学が詰まっている」という理由からで、これは著者の久島が30年余も世の風潮に流されることなく、金に頼らぬ「工夫の生活」を続けてきた姿勢が認められたと言うべきだろう。賞自体は本を企画編集した編集者・出版社に与えるという形だが、著者あっての出版物であり、久島弘の栄誉であることは間違いない。ちなみに、過去の受賞作と著者を眺め渡してみると、『お言葉ですが……』(高島俊男)、『古池に蛙は飛び込んだか』(長谷川櫂)、『声に出して読みたい日本語』(齊藤孝)、『日本アホバカ分布考』(松本修)など、後にベストセラーとなった名著や錚々たる著者が並んでおり、久島弘がその列に加わったかと思うと、書かせるために尻を叩きまくった私としても鼻が高い。
◆ここで、『ぼくは都会のロビンソン』をまだ読んでいない人のために、その内容を改めて紹介しておくと、「日本がまだ高度経済成長期にあったころ、六畳一間の安アパートに住み、裸電球の下で眠りながら〈月給が上がること〉に怯えていた青年がいた。それから三十年――。時代は変わって〈貧困〉が語られるいま、歳を重ねた〈青年〉は、変わらず同じ六畳間にいる。バブルの時代も世の風潮に流されず、〈工夫で生きる〉をモットーに、〈自由な快適生活〉を求め続けた〈お金に頼らぬ知恵の人生〉……。そのサバイバル生活術を一挙公開する」本でアリマス。定価1500円。ご注文は東海教育研究所(電話03-3227-3700)まで。
◆ところで、授賞式は2月15日、東京の「青山ダイヤモンドホール」で行われるが、同時受賞の日本雑学大賞には、なんとまったく偶然に関野吉晴が選ばれて出席する(別稿参照)。関野をはじめ、久島弘にイラストの長野亮之介、編集の私を加え、地平線仲間が勢揃いするのも嬉しい限りだ。(受賞パーティーは会費8千円で誰でも参加可。問い合わせは私の携帯090-2919-6359まで)。(岡村隆)
■岡村隆さんの原稿にあるように「雑学倶楽部」が主催する第32回日本雑学大賞受賞者は、探検家、関野吉晴さんに決定した。地平線会議誕生以来、長きにわたりその中軸にいるおふたりがまったく偶然のことに同じ主催者から別々に受賞するとは、ほとんど前例のない、めでたいことであります。ちなみに大賞の過去5年の受賞者は、2009年、漫画家やくみつる、2008年アコーディオン漫談家、近藤志げる、2007年漫画家、西原理恵子、2006年映画監督、河崎義祐、2005年エッセイスト、阿川佐和子の諸氏となっている。関野さんの受賞理由は、「自らの力だけを頼りに人類の拡散の歴史を追って、アフリカ大陸━ユーラシア大陸━アメリカ大陸まで全行程約5万3千キロの旅を記録、現在は日本人のルーツを探る『新グレートジャーニー』に挑戦中。こうした関野さんの数々の分野でのスケールの大きなご活躍は、雑学精神を最大限に発揮されたもの」だからだそうだ。(E)
宮司さんの 育てし青菜 頂きぬ
酉の市開く 神社詣でに
ふと参りし 武蔵最古の 大社なり
催馬楽神楽の 清しめの舞
頂きし 青葉大根に 故郷の味噌
なじみて旨し 熱き味噌汁
銀杏もみじ かぶりて若やぐ かやぶきの
神楽堂なる 騎西の明神
かさこそと 銀杏黄葉に 坐すわれに
笛の音しみる 江戸里かぐら
笠石を 冠った多胡碑 六行の
文字もくっきり 読める字もあり
多胡金井塚 山上の上野三碑
文字文化伝う 東国の誇り
今にして ケイタイ持ちて あヽ忙し
電子書籍の 始まりし年に
明と暗 じりじり綱引き 午前三時
寒さもピーク 朝の始まり
乳母車と 一緒に乗りし エレベーター
一期一会に のぞきてバイバイ
■みなさん、お元気ですか? 北海道はここ数日、大雪が続いています。そんな中、正月明けから昨日9日までの3日間、学生たちと西興部村のエゾシカ追跡調査に行ってきました。この時期、明け方には零下20度近くまで気温が下がる過酷な地域です。調査は森林総合研究所等との共同研究で、西興部村猟区のシカの季節移動パターンを明らかにすることが目的です。これまでの3年間でのべ14頭のシカを麻酔銃で生け捕りし、電波発信器をつけて定期的に追跡しています。
◆シカの居場所を探すには、専用の受信機をもって数百mまで接近して、電波の方向を探らなければなりません。今回のような厳冬期には、深さ1mの雪が積もった山中を、山スキーで数時間踏査することもあります。高くて見通しのよい場所ほど電波をよく拾えるので、スキーの裏に登攀用のアザラシの毛皮をつけて数百米の小ピークを攻めていきます。このような地道な調査で、西興部村のシカも数十kmに及ぶ季節移動をすることがわかってきました。
◆調査が終わっても、270kmはなれた札幌圏まで車で帰るため気が抜けません。昨日などは運悪く吹雪に見舞われてしまい、高速道路も一部不通で渋滞となり、夜道のうえ雪で視界が悪い道のりをほうぼうの体で帰ってきました。
◆ところで、今年度から、大学に新しくできた研究室を担当することになりました。その名も、狩猟管理学研究室! 全国唯一の研究室です。絶滅危惧種(?)ハンターが減少する一方で、全国の野生動物による農林業被害は200億円にも達しています。シカの食害による自然植生の破壊も深刻ですし、クマやサルが人家近くに出没し、今や人間は完全に野生動物に押され気味です。そんな中、私たちの大学では、地域のシカやイノシシの「収獲」や、クマやサルの対策など、現場で活躍できる“ワイルドライフマネージャー”の養成を目指して行こうとしています。
◆狩猟がさかんなヨーロッパでは林学の中に「狩猟学」が学問として位置付けられ、ちゃんと大学で教えられてきました。シカやイノシシ、キジなどを代表とする狩猟鳥獣は、立派な「林産物」というわけです。それらを持続的に利用していくための学問体系が狩猟学なのです。去年視察したイギリスでは国有林に狩猟専門官がいて、自らシカ類の収獲・出荷を担っていました。個体数を適正に保つことは、生物多様性保全にもつながります。
◆また、彼らは一般ハンターのガイドも務め、狩猟が登山やハイキング等と同様、アウトドアー活動として森林の多目的利用のひとつになっているのです。こんなシステムを日本で導入してもいいのではないでしょうか? 実は、狩猟学は、明治期に日本にもドイツ林学とともに輸入されましたが、いつしか消滅してしまいました。私たちの研究室は、人間と生態系の相互作用である狩猟の価値を見直すために、日本独自の狩猟学を追及していきたいと考えています。
◆今年度は第1期生の3年生12名が配属されました。うち、(肉食系?)女子は3名。すでに全員狩猟免許を取得しています。私たちがこれから取り組むテーマは、エゾシカの生態調査、効率的捕獲手法の開発、狩猟についての意識調査、海外の狩猟制度などです。また、狩猟とは直接関係ありませんが、チルーなどチベットの野生動物調査もライフワークとして続けたいと思っています。
◆学生たちとは、できるかぎりフィールドに出ています。大学と協定を結んでいる西興部村には毎月通っていて、シカの捕獲調査をしています。公用車で山中を駆け回り、教員である私がライフル銃でシカを撃って、学生と一緒にロープやソリでシカを引っ張って回収します。エゾシカはメスでも体重100kg以上になるので一苦労です。それをみんなで解体し、食性分析のための胃内容など必要なサンプルを取ります。こうして、学生たちは狩猟の技術を学んでいます。
◆その後は、肉をとって美味しく頂くために冷蔵庫で数日熟成させます。私たちの研究室には常に鹿肉がストックされていて、学生たちは鹿肉を常食しています。また、最近は、大学の牧草地(酪農の大学なので牛が飼われています)等にも出没するようになったシカの調査や、大学の牛舎に侵入して、糞害などを及ぼすスズメ(スズメも狩猟鳥です)の効率的な捕獲手法の検討等にも着手しています。昔の人は、酒に浸したお米でスズメを酔わせて捕まえたといいますが、それも試してみたいと思っています。という訳で、今後も、生きた教育・研究ができるよう、なるべく多くの狩猟や調査の現場に出ていきたいと思っています。(伊吾田宏正 北海道江別市 酪農学園大学 )
■地平線通信12月号は、12月8日夜、発送しました。 発送作業にはせ参じてくれたのは、以下の方々でした。
車谷建太 森井祐介 松澤亮 関根皓博 新垣亜美 江本嘉伸 久島弘 杉山貴章 野地耕治 武田力
★このほか加藤千晶さんが杉山君がつくった住所録を受けて宛名シールをプリントし、レイアウト・印刷局長の森井さんに送ってくれました。毎月ご苦労様です。車谷君は、印刷を頑張ってくれた上、先月の報告会後、プロジェクターを持ち帰ってくれています。毎月プロジェクターの持ち運びは、厄介な仕事です。これからも、万一お願いできる方いれば、よろしくお願いします。受付はじめ、いつも汗をかいてくれる皆さんに年の初めにあたり、ひとこと感謝の言葉を。
■本日(2011年1月1日)で連続9593日登山となりましたが、まだまだ一生続けたいものと思っています。どれだけの寿命が頂けるか分かりませんが。一歩づつ ただ一歩づつ 山登る(東浦奈良男 毎日登山家 三重県伊勢市)
■あけましておめでとうございます。ヤギ、黒豚、アヒルにわとり・のら猫たち、そして琉球犬のゴンとポニョ。あいかわらず楽しくやっております。お願いがあります。「ちへいせん・あしびなー」の折、比嘉小の子どもたちが撮った写真を5枚セットにして「浜比嘉島?わたしたちの宝もの」という絵葉書を作りました。子ども会の支援のためです。比嘉の子ども会活動の予算は1年3万円なんですが、それはクリスマスや新年の凧揚げ大会などでなくなってしまいました。地平線の皆さん、買ってね。
★長野画伯が預かった絵葉書セット(5枚入り500円。今度の報告会で販売します。是非ご協力を)
■本年も幸多き年でありますよう心よりお祈り申し上げます。比嘉小学校の子どもたち、職員への変わらぬ温かなご支援に感謝申し上げます。(伊敷ひろみ 浜比嘉島・比嘉小校長)
■今年は息子に野宿と野糞を仕込むつもりです。読み書き計算も仕込まなければならないので、親業ってのは大忙しです。あまりにも出来の悪い親なので春からコーチングを学びに行って来ます。とはいえ見渡すかぎりの青空の下でボケッとしたい(笑)。野宿でいいからプチ家出したいものです(笑)。(青木明美 横須賀)
■昨年はお蔭様で、縄文号・パクール号と共にフィリピン・ルソン島北部まで航海することができました。今年は5月に再出航し、6月下旬頃に沖縄県・石垣島にゴールできればと思います。また地平線に伺わせて下さい!(佐藤洋平 千葉県鎌ヶ谷市)
■私たち結婚しました。これからはふたり力を合わせて幸せな家庭を築いていきたいと思います。(マタギサミット主宰者 田口洋美・亜由美 山形)
■いつもいただくばかりでただただ感謝です。工房ひきこもりの小生には地平線会議はいつも地球のひろがりをみせてくれます。今年もよろしくお声がかり下さいますようお願いいたします。(又吉健次郎 彫金師 那覇)
■新年のご挨拶。昨年9月のチリ・サンティアゴ転勤より、早4か月が経とうとしています。当地、南緯33度付近にあり、新年は真夏に入ろうという季節です。といっても、標高500m程度あるので、乾燥しており避暑地のような気候です。チリは、銅やリチウムなどの地下資源の他、ワイン、鮭の生産が有名ですが、最近では、フルーツ(さくらんぼ、レモンなど)の輸出でも知られています。2011年、皆様のご健康を、お祈り申し上げます。(神谷夏実 チリ・サンティアゴ)
■明けましておめでとうございます!!こちらは相変わらずです。犬たちは55マいます。「クエスト300」に出るので、その準備やフードドロップづくりもしなくちゃで、仕事をしながらトレーニングもしつつ、やる事が増えてきて、本当に「奥さん」が欲しいです……。(本多有香 カナダ・ホワイトホース)
■いつも「地平線通信」をお送りいただきありがとうございます。先日、ネットをひらいたら、ウェブでも通信が読めることを知りました。郵送料などご負担も多いことと思います。今後はウェブで拝見していきたいと思いますので、よろしくお願いします。
◆さて、このほどドイツのライカ・カメラAG本社が主催する探検家追跡プロジェクト「ライカエクスプローラー」にアンバサダーとして参加することになりました。2011年1月?2月に、ライカのカメラを持って歴史上の探検家の足跡を追い、写真とハイビジョン動画で追跡の日々をライカのブログで公開するというものです。10人の枠に世界中から980通の応募があり、運よく、日本からはわたしが選ばれることになりました。
◆キャプテン・ジェームズ・クックの足跡を追い、主に太平洋をめぐり、日々の様子をレポートしていきます。ブログは英語ということになりますが、ご覧いただければと思います。世界や英語に興味がある若い日本の人たちにも、夢を与えられるようなものにしたいです。
ライカ・エクスプローラー:
http://www.leica-explorer.com/
ライカ・カメラAGのアナウンスメント:
http://www.facebook.com/notes/leica-camera/announcing-the-voyage-of-discovery-leica-explorer-winners/476177587887
今後ともよろしくお願いします。時節柄、お身体にはご自愛ください。(高橋大輔 秋田)
★高橋さんは、探検家・作家。王立地理学協会(本部:英国・ロンドン)、探検家クラブ(本部:米国・ニューヨーク)フェロー会員。「ロビンソン・クルーソーを探して」(新潮社)「間宮林蔵・探検家一代」(中公新書ラクレ)「浦島太郎はどこへ行ったのか」(新潮社)などの著書で知られる。
■ポーランドの探検家フェスティバル“The 12th Explorers Festival”での講演に招待されて三週間の旅をしてきた。2010年11月19日、ワルシャワの東南に位置するポーランド第二の都会ウッツ市の大学の講堂で700人の若い聴衆を前に気分は高揚した。イベントのテーマの一つとして、高校生・大学生に地理の勉強させるためのプログラムに私の「東ヒマラヤの氷河?温暖化の影響」が組み入れられた。素人ながら足で集めた写真、地図を使って氷河後退の状況をパワーポイントで紹介した。興味を示してもらってほっとした。
◆ウッツ市は人口65万人、社会主義体制時代に繊維産業(ソ連に輸出)で栄えたが、第二次大戦中にドイツにより徹底的に破壊された。空爆をされなかった古都、クラクフとは対照的である。破壊による荒廃は後遺症として町の建物や雰囲気に残っている。探検家フェスティバルは町興しの企画としてウッツ・トレッキングクラブが主催し実行しているウッツ市のプロジェクトであるが、ポーランド山岳協会も積極的にサポートしている。
◆翌11月20日がメインイベントある。若い観客が800人は来ているというコンサートホールで「最後の辺境?チベットのアルプス」をテーマにパワーポイントで160枚のスライドを使って講演した。巨大なスクリーンなので見栄えがする。終わって国際探検家賞受賞、名誉会員の認証と、思い出に残る素晴らしい体験だった。かくも大勢の若者が講演を聞いてくれたのは初めてなので感動した。
◆プレゼンターの顔ぶれは多彩であった。オーストラリアの冒険カメラマン、エベレスト初登頂のテンジンの息子、エベレスト・ヘリコプター飛行のフランス人、オーストラリア砂漠をバイクで横断したポーランド人、2010年8,000m峰14座完登のポルトガル人、モーターバイクで世界一周のアメリカ女性、気球でアルプス越えの英国人などである。
◆異色はポーランド青年3人の「シベリアからチベット横断の旅」だった。第二次大戦直後、二人のポーランド人がシベリアに流刑になるが、彼らは脱出してシベリアからチベットを横断して遂にインドに到達し亡命する。信じがたい過酷で厳しい逃避行だった。この話は日本語にも翻訳されている。ポーランドの若い三人組がその足跡を辿る旅を実行したのである。テンジンの息子のジャムリン・テンジン・ノルゲイはアメリカに留学、ダージリンに住みアイマックス(IMAX)で山岳映画を企画、製作している。
◆国際探検家賞“ExplorerInternational Award 2010”。対象は登山、探検、アドベンチャー、研究の広範な分野にわたる。今までの受賞者はクリス・ボニントン、エドモンド・ヒラリー、ダグ・スコット、クルト・ディ?ンベルガー、リン・ヒル、マルコ・プレゼリ、日本人の舟津圭三さん(犬橇で南極大陸を横断した国際隊メンバー)などである。2010年の受賞者が私を含め4人、スイスの人力飛行士、カラコラム・ヒンズークシュの地図作成のポーランドのジェルツィー・ワラさんも受賞した。
◆ポーランド山岳協会の名誉会員の認証書授与は探検家賞受賞と同時に行われた。ポーランドの登山界は長い歴史があり、ヒマラヤでは1980年2月にエベレスト冬季初登頂(隊長はザワダ)を果たしてその存在を世界にアピールした。山岳会の母体となるタトラ・クラブが1871年に創立され、1903年にポーランド山岳協会の前身となる山岳会ができあがった。しかし第二次世界大戦後社会主義体制になって解体され、1956年に自由化とともに復活した。さらに幾度か名称を変え、分散しているクラブを統合する形で1974年に現在のポーランド山岳協会(Polskie ZwiazekAlpinsumu=Polish Mountaineering Association or Federation)となり今日に至っている。
◆世界のアルパインクラブ誕生の歴史からいうと、本家の英国についでイタリアとともにたいへん古い。社会主義体制の時代は組織の維持に苦労したと聞いた。2010年現在、傘下で45のクライミング・クラブ(メンバーは3,400人)と22のケービング・クラブ(メンバーは1,040人)が活動している。V. クルティカ、故ザワダ、J. クルチャップなど著名なクライマーを輩出し、2010年までに3人がヒマラヤ8,000m峰14座を完登している。登山文化の伝統はしっかり根付いている。
◆近年は新たな挑戦としてカラコルム8,000m峰の冬季初登頂を目指している。カラコルム8,000m峰は冬季にはまだ登られていない。世界の8,000m峰14座のうち9座は冬季に登頂されていが、それら9座は全てネパールかチベット(シシャパンマ)にある。冬季未登の8,000m峰は全てカラコルムにある。今冬、ヨーロッパからポーランドを含む3隊が冬のカラコルム8,000m峰に挑む。
◆11月25日にスペインのバルセロナに飛んだ。バルセロナ近郊のサバデルという衛星都市(人口20万人)にあるスペイン唯一の充実した「山岳図書館」訪問。薬師義美さんと親交のある館長のジョセフ・パイツビさん (カラコラムのディスタギ・サール7885m第二登、1982年)が案内してくれた。建物はサバデル市が無償で提供している古い優雅な教会、素晴らしく立派な図書館である。その後バルセロナ近郊のテラッサという人口20万の町でカタルニア山岳会支部創立100周年を記念しての「チベットのアルプス」講演を行った。110名ほど出席。ポーランドとは違った良い雰囲気の集いで、久しぶりに忘れていたスペイン語を喋れたことも楽しかった。
◆最後はドイツへのハンブルクへ、2年前に出版した Die Alpen Tibets の英語版「チベットのアルプス」の編集打ち合わせもしてきた。大幅に増補した全4巻の大書である。第1巻の内容をほぼ固めたので、2011年末には第1巻目が世にでることを期待している。また、出版社のアレンジで「チベットのアルプス」に興味を持ち、梅里雪山巡礼路一周し植物生態の本を出版したり、チベットのチャンタン高原でのバイクツアー/初登頂をしたドイツの気鋭の植物学者(女)と生態学者(男)の探検家・マウンテンバイクチームのペアと交流をした。驚くべきタフな連中です。(中村保)
■2011年最初の地平線通信を送ります。恒例の新年大特集、とまではいきませんでしたが、いろいろな文章が集まって楽しかった。とくに今回は、日頃やや遠ざかっている人何人かに原稿を書いてもらった。これからも、新しい書き手の登場を待つ(若手にどんどん書いてほしい)とともにベテランの過去に光をあて未来を見通す味のある文章をひそかに期待します。
◆先月号のフロントで「いずれにしても、(ウィキリークスの)アサンジは「Time」誌恒例の「Person of the Year」に選ばれるだろう」と自信満々で書いてしまいましたが、選ばれたのはまったく別人でした。会員制交流サイト大手「フェースブック」創業者で最高経営責任者(CEO)のマーク・ザッカーバーグという26才の青年。「フェースブック」ってそんなに広がっているとは知らず、知ったかぶりしてすいませんでした。でも、恥ずかしながら私は知らなかったな、この青年。なんでも小学生の時からかなり高度のパソコンプログラムをつくっていたそうで、超有名人なのだろうに。
◆もうひとつ、先月号の通信で訂正です。「先月の報告会から」で、報告会の日付が「11月24日」となっていました。正しくは、「11月26日」です。報告者の加藤千晶さん、いいレポートを書いてくれた久島弘さん、凡ミスをすいませんでした。
◆このページ下のレイアウト、森井さんと相談しつつ、少し変えました。しばし試行錯誤でやっていきます。(江本嘉伸)
追記:今月の通信、事情があって2日がかりの発送作業となりました。一部遅れるかも。
家船(パレ)に生まれて海に眠る
「バジャウは一度も支配されたこともなく支配したこともない自由な民なんだ。でもしたたかで、海でしか生きられないんだ」と話すのは探検家の関野吉晴さん。フィリピン南西海域を生活の場とする漂海民、バジャウと出会ったのは、縄文カヌーで人類拡散の足跡をたどる旅の途中でした。海の遊牧民とも称されるバジャウ族の推定人口は約10万人。そのほとんどが定住化していくなか、関野さんの心に残ったのは未だに一生を海の上で過ごす十数家族百人余りの一団でした。 彼等はパレと呼ぶ家船で生まれ育ち、サンゴ礁の浅い海でナマコ、サメ、エイ、貝類等を採る漁撈採取が生活の基本。その存在は地域経済に組みこまれているものの、基本的に国籍は無く、学校にも行けません。海賊と警察双方からいじめられる立場です。 男女の仕事の差がないため性差別も少なく、平和主義です。「縄文号のクルーであるマグロ漁師達と全然違う文化なんだよね」と関野さん。そんな彼等も昨年からケータイを使い出し生活が激変しつつあるそうです。 今月は関野さんにバジャウについて話して頂きます! 写真も楽しみ! 縄文カヌーの話は次の機会にします |
地平線通信 374号
制作:地平線通信制作室/編集長:江本嘉伸/レイアウト:森井祐介/イラスト:長野亮之介/編集制作スタッフ:丸山純 武田力 中島菊代 大西夏奈子 落合大祐 加藤千晶
印刷:地平線印刷局榎町分室
地平線Webサイト:http://www.chiheisen.net/
発行:2011年1月12日 地平線会議
〒160-0007 東京都新宿区荒木町3-23-201 江本嘉伸方
地平線ポスト宛先
pea03131@nifty.ne.jp
Fax 03-3359-7907 (江本)
◆通信費(2000円)払い込みは郵便振替(料金が120円かかります)、または報告会の受付でどうぞ。
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議
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