2010年11月の地平線通信

■11月の地平線通信・372号のフロント(1ページ目にある巻頭記事)

地平線通信表紙

11月。ウランバートルは、スモッグに覆われていた。外に出ると独特の匂いが鼻をつき、一瞬目が痛くなる感じだ。モンゴルに通い始めて23年になるが、日課としていたジョギングが気軽にできなくなったのはいつの頃からだろう。「オラーン(赤い)バータル(英雄)」ではなく「オター(煙)バータル」とモンゴルの友人は言うほどで、たまに訪ねる立場だから余計空気の悪さが身に沁みる。

◆「ほら、我々が東京について教えられた有名な話があったろ? 今のウランバートルはまさに、その東京だよ」と言うのは、長いつきあいのある学者のひとりだ。そうだった。社会主義時代、モンゴルでは東京について「空気が悪くて、人々は特殊なマスクをして歩いている」という情報がもっぱら流されていた。

◆火力発電所の出す煤煙などで冬のウランバートルがスモッグに覆われるのは以前からのことだが、民主化が成り、国全体が市場経済に移行して一気に汚染度が増した。車が急増したための排ガス汚染、草原の遊牧生活が立ち行かなくなった地方の遊牧民たちがウランバートルに流入したための人口過密(周辺にゲルや簡単な木の家を建て、石炭や薪を燃料とするため排出する煙が問題)、モンゴル全体では加えて金など地下資源の乱掘による草原の砂漠化が進む。

◆あまりの急激な環境の劣化に日本から技術的資金的支援を、という話もあったようだが、意外にこれが簡単ではない。「“青空の国”に環境問題などないだろう」と、あっさり否定されてしまうのだそうだ。なるほどね。私たちはあまりにも単純に「草原」「満天の星」「チンギス・ハーン」だけでモンゴルをとらえ過ぎてきた。今のモンゴルは、残念ながら違うのだ。

◆民主化後、初の大統領に選ばれたオチルバト氏にインタビューした時、僭越ながらおそるおそる申し上げたことがある。新憲法の草案がまとまろうとする時だった。「モンゴルは、国の財産として草原を守る」と、憲法の前文に明記してはどうでしょうか、と進言したのだ。大統領は興味を示してくれたものの、日本の一新聞記者が言うことがまさか憲法に及ぶとは考えなかっただろう。前文には勿論、「草原」の文字は入らなかった。

◆今回も滞在中、「ニンジャ」たちの“仕事場”を訪ねた。金鉱のある、あるいは以前金鉱山であった土地を自分たち流に掘り、明日の現金を得る仕事。違法であることが多いので「ニンジャ」と呼ばれる。昨年は草原の一角を採掘している人々の現場を訪ねたが、今回はウランバートルから西に130キロ離れた山の中だ。

◆白樺林が美しい山の道を四輪駆動車でそろそろ登る。最後には道はほとんどなくなり、辛うじて残る轍(わだち)の跡をたどる。標高1500メートル。こんな美しい山のどこに?と思ううち、突然岩石が掘り返された跡があらわれ、2つのゲルの前に出た。5、6人の男たちがいて、すぐわきには人ひとりがどうにかくぐれるほどの横穴が掘り進められ、若者が水をポンプで吸い上げていた。少し登ると、いくつも穴が掘られていた。チリの鉱山事故を連想する深い、狭い穴。梯子もロープもない。中を見たかったが、「日本のジャーナリスト、ニンジャの穴に死す」の見出しが一瞬頭をよぎり、ためらわれた。

◆このあたり、社会主義時代に東ドイツ人たちが秘密裏に金を掘っていたようだ。民主化後、遊牧では喰えなくなった人たちが偶然鉱山跡を見つけ、現金稼ぎのためニンジャとなった。「もう10年ここで働いている、当分ここで仕事するしかない」見るからに劣悪な作業条件の中で1人は言った。多い時は700人もがこのソム周辺で金採掘の仕事をしていた、という。金鉱山の多くは水銀を使う。その汚染がモンゴルのあちこちで問題となっている。

◆モンゴル最後の日の朝、ウランバートル郊外のゴミ処理場に行ってみた。そこに暮らす人たちがいる、と聞いたからだ。木、ダンボール、トタンでつくった小さなバラックが3つ、4つ。30年前、北のアイマグ(県)からウランバートルにやって来たという59才の婦人は、ゲルを火事でなくしてやむなくこのゴミ捨て場に住み着き、もう11年になると言った。壜、カンなどの分別をして業者に売り、細々と暮らしているが、目前の冬の厳しい寒さをどう乗り切るか、まさに命がけだ。広大なゴミ処理場の住人、ただいま6人。

◆各国からの投資を受けてビルが乱立し、資源獲得のため草原が乱掘されているモンゴル。表面的な繁栄の陰で、環境汚染、そして貧困との戦いの日が続くこの国を訪ねるたび、18年前、オチルバト大統領に申し上げたことはやはり正しかったのではないか、と考えるのである。どうした、モンゴル!(江本嘉伸


先月の報告会から

タンケンの未来

岡村隆

2010年10月22日 新宿区スポーツセンター

■うっそうと繁るジャングルに、突然現れる未知の巨大遺跡??。そんな映画のようなドキドキするシーンを、この夏実際に体験したNPO法人南アジア遺跡探検調査会の「スリランカ密林遺跡探査隊」。報告会会場には隊長の岡村隆さんをはじめ、探検調査に参加した19歳から68歳までのメンバーが駆けつけた。

◆岡村さんのスリランカ仏教遺跡調査は、法政大学の探検部員だった41年前からはじまった。第7次隊まで調査が行なわれていたのに、なぜ今、大学探検部の枠を越えNPO法人として活動をはじめたのか? 岡村さん曰く「一大学の探検部では活動に限界がある。探検調査だけでなく、幅を広げないとこれ以上続いていかない」とのこと。マンパワーや資金の問題のほか、近年は盗掘が相次いでおり、せっかく発見した遺跡が次々と破壊されてしまう悲しい現状がある。これを食い止め、遺跡の保護・保存・修復に向けた手伝いができないか。住民に対しても、何がしかの手伝いができないか…。そんな思いを形にするため、NPO法人『南アジア遺跡探検調査会』は2008年2月に発足した。「今までの活動を無駄にしないため」とも言えるのかもしれない。NPOとしてのスリランカ遺跡調査は、昨年に続き2回目となる。

◆学生が作成したパワーポイントを映しながら、岡村さんが語った探査隊の目的は5つ。[1]密林に残る未知の遺跡の発見と調査。[2]過去に探検・調査した遺跡の現状調査。[3]遺跡保護の大切さを地元民に訴える啓蒙活動。[4]遺跡に関する地元民の意識調査。[5]村の児童に学用品を贈呈。

◆スリランカの気候と歴史も解説された。全土の4分の3がドライゾーンであり、現在人口はウエットゾーンに集中している。だが古代シンハラ文明は、ドライゾーンで栄えていた。仏教を精神的な基盤、貯水灌漑農業による稲作を経済的な基盤としており、各地に仏教寺院が建立され、多くの貯水池と田んぼが広がっていた。しかし13世紀を境にドライゾーンは過疎地、あるいは無人のジャングルと化していく。原因は過開発、疫病の流行、タミル民族との抗争など。シンハラ王朝は南へ落ち延びていき、16世紀以降はポルトガル、オランダ、イギリスの侵略を受けて植民地下に置かれることとなる。

◆今回の調査対象は、ドライゾーンのワスゴムワ国立公園。スリランカ中東部、マハウェリ川中流域の西側に広がるジャングル地帯だ。ここはイギリス植民地時代からの自然保護区で、野生動物・植物の宝庫。特に野象の聖地と言われている。野生動物保護局の厳しい入域制限がかかっているため、政府考古局を通じて野生動物保護局に特別許可をもらい、活動を行なった。

◆隊員は14名。岡村さんのほか、50代の法政大探検部OBが3名と、最年長68歳の早大アジア学会OB西山昭宣さん、小学校教師の松山弥生さん、そして現役大学生8人という顔ぶれだ。大都市コロンボで考古局との打ち合わせや食糧・装備の買い出しを済ませ、ベース基地のヤックレ村へ向かう。この村では、地元民に遺跡保護の大切さを訴える啓蒙活動という大切なミッションがあった。学校を借り、集まった子どもと先生たちに話をする。松山さんが持参した日本の子どもが描いた絵の展示や折り紙教室も好評だった。

◆村で案内人と料理人を雇い、いざ密林へ! 遠い道を迂回して、やっとたどり着いた国立公園だが、なんと入口でヤックレ村民の入域を拒まれてしまう。村民による盗掘や密猟を阻止するため今年からとられた措置だったが、遺跡情報を持つ案内人を連れていけないのは大きな痛手だった。

◆そんなアクシデントもあったが、3日後には運よく露岩の上に築かれていたアリベーセマ遺跡(仏教寺院遺跡)の発見に至る。アプローチに苦労し、道をふさぐ木や倒木を斧で切り開いて進んだ結果だった。遺跡では気温40度以上という炎天下の中、いばらのトゲと格闘しながら建築物の距離と方向を測量した。すでに盗掘された跡があり、風化と崩壊も激しいが、なんとか配置図を作成できた。150メートル四方に仏舎利塔3つと菩提樹祭壇のようなものを確認。大きな沐浴場ともいえる池の跡もあり、調査を進めれば更なる発見も期待できる。

◆ところで遺跡って、ジャングルをがむしゃらに歩いて見つかるようなものなのか? 実はそうではなく、猟などでジャングルに入る地元民の目撃情報をもとに探していくという。このように場所の目星はつけていくが、初めて調査してレポートを作成したという意味で「発見」という言葉を使っているそう。

◆2週間が過ぎ、一行はフィールドを移動する。一部のメンバーは帰国の途につき、OB2名と学生7名での活動となった。OBの人類学者、執行(しぎょう)一利さんは地域民の遺跡に対する意識調査に向かい、岡村さんは学生たちの「自分たちで新しいフィールドを作りたい!」という意欲に応えて西側から国立公園を調べることに。

◆川を渡渉し、斧や鉈で道を切り開いていくと、突然、大きな階段が目に飛び込んできた。どうやら沐浴場の水面に降りていくガート(川岸に設置された階段)のようだ。13段あり、右から左まで約30メートルの大スケール。これが今回の大発見『スドゥカンダ遺跡』だ。スドゥカンダとは、シンハラ語で「白い山」。ちいさな尾根がいくつも寄り合う複雑な地形をしており、6つの尾根それぞれに擁壁、テラスが作られ、その上に経堂や講堂が作られている。テラスに登ると、建造物のなごりである石柱が散乱していた。寺院本殿の玄関にあるガードストーンや、半月形の踏み石・ムーンストーンも残っていた。

◆どうやらこの遺跡は“水”がテーマのようだ。階段に並行し、石を掘りこんで作った水路が走っている。勾配を緩やかにして小さな滝をいくつも作り、上部テラスから下部テラスまで水を流していたらしい。上部には石を組んで作った貯水池もあった。写真では水路に降り注ぐ木漏れ日が美しく、ここに水の音が合わさったら最高の空間になるのだろうなあ。このような装飾的な水路があることから、王族や地方権力などの関与も類推できる。ちなみに建造物はだいたい6世紀?8世紀くらいのものだという。

◆遺跡の分布範囲は、東西に500メートル、南北に200メートル程と非常に大きい。この国ではポロナルワなどの古都以外では最大級の広がりをもつ僧院遺跡だ。「崩壊しているが、形は非常によく残っている。こんなに巨大で複合的な遺跡に出会ったのは、この国の調査をしてきた41年間で初めてです」。

◆驚くことに、岡村さんは貴重な遺跡の測量を学生だけに任せた。後継者を育てる目的というが、江本さんがただちに「真意は?」と質問を投げる。岡村さんが答えた。「正直、全部立ち会いたいという我欲はありましたよ。すさまじく。でも探検はこれっきりではない。私はまたこの場所に行きますから」。岡村さんは走り回って見取り図を作成し(さらっと言うのがすごい)、調査のポイントを告げると、学生を現場に残してコロンボに引き揚げた。「学生たちに、自分たちもできると実感してほしかったから」。そして7名の学生たちは5日間、自分たちの力で測量を行なった。

◆ここからは各隊員の話。学生リーダーを務めた東洋大学探検部主将の佐賀見拓也くんは、昨年に引き続いての参加だ。昨年は仏像発見など成果はあったものの、自分自身は何をしたかったのかがはっきりせず、消化不良だったという。今年は計画立案などのノウハウもしっかり覚え、調査の後半では西部に行きたいという自分の意見も主張できた。

◆法政大学探検部OB・副隊長の甕(もたい)三郎さんは、ODAの現場で働いた経験を踏まえ、NPOとしての活動で意識した点を語った。それは仕事のつもりで行なったということ。「仕事」という言葉を使われた理由はいくつかあるだろうが、成果を必ず形として出すという意味も大きいだろう。何が何でもやる!という甕さんの熱意を感じた。

◆青年海外協力隊OGの小学校教員、松山さんは、シンハラ語の通訳を担当。探検部ではなかったし遺跡も詳しくはないそうだが、スリランカが大好きだという。岡村さんによると「啓蒙活動での活躍を期待していたが、意外にも過激にジャングルに突っ込んでいったよね。学生にもゲキを飛ばして」。会場から笑いが起こる。さらに岡村さんが言う。「探検なんて、学生でなくともできるんだよ」。

◆東海大学で考古学を専攻する菅沼圭一朗くんは「現地で実物を見て、モノを作った人間が見えてきた。考古学はモノだけでなく、背後の人間を見ることが大事だと思った」。こういう思いに体験を通してたどり着けたことは、彼の将来に大きくプラスになったことだろう。

◆「今どきの若いモンを見直した」と語ったのは、最高齢メンバー、68歳の西山さん。「岡村もよく自分を抑えて、時には怒り役になって、隊をコントロールしていたなあ」。しかし、実は西山さんが現地でいちばん周りを叱り飛ばしていたというウワサも!?

◆「行く前は、水が腐ることも知らなかった」と言う滝川大貴くんは、最年少の19歳。法政大学探検部1回生だ。大学に入学して間もなく、探検もNPO活動も初めての彼に下った指令は「モンベルに企業協賛をお願いし、タープをもらってこい」。ここで学んださまざまなことを、今後活かしていきたいという。

◆2人目の女性隊員、立正大学探検部3回生の家崎晶さん。スドゥカンダ遺跡に出くわしたときは驚きと感動で声がでなかったという。細部の計測を担当し、その精密な記録は大いに隊の役に立った。

◆人類学者の執行さんは、遺跡保護に向け、村民の遺跡に対する意識調査を3つの村で行なった(結果はNPOの報告会で)。昨年5月にスリランカで22年続いていた内戦が終結したため、次は南東部も調査したいと今後を語った。

◆本来、探検の仕方は教えたり教えられたりするものではないだろうけれど、だからこそ岡村さんは学生に任せるところはどんと任せ、学生も自から学ぼうとする関係ができたのかもしれない。きっと学生たちにとっては、岡村さんをはじめとするベテラン勢の情熱に触れたことこそ、何よりも大きな糧となっていることだろう。(新垣亜美


スリランカ隊「報告会」のお知らせ

 NPO法人「南アジア遺跡探検調査会」では、今夏のスリランカ密林遺跡調査と付帯事業の報告会を開きます。地平線報告会では報告しきれなかった村人との交流や、37年前に発見し、調査した遺跡の現在の姿、ビデオ映像による「探検」と「密林遺跡」の詳細記録などを含め、活動の全貌を報告します。質疑応答や二次会での懇談なども予定しています。場所は話題の「東京スカイツリー」のすぐ近く、浅草や隅田川にも近いので、見物や墨提散歩を兼ねてでも、ぜひおいでください。入場無料です。

■日時 11月27日(土) 午後2時半から5時
■場所 すみだ女性センター 東京都墨田区押上2丁目12番7-111  電話 03-5608-1771
   (地下鉄半蔵門線・都営浅草線・京成押上線の「押上駅」下車)
■問い合わせ 岡村 090-2919-6359 まで


14名の「ひとこと」
報告会には14名全員が参加した。そのひとりひとりにスリランカ探検への思いを書いてもらった。順不同で掲載する。
《NPO設立と今後の「仕事」》

■1973年、法政大学探検部が初めての遺跡探検隊をスリランカに派遣しました。今から37年前のことです。それ以後2003年までに7回遠征隊を送り出しましたが、6次隊から7次隊までの間に10年間の空白があったように、隊を組織するにも人的・資金的な限界が生じ、大学探検部単体での遺跡探検継続は難しくなっていました。また、その他にも大きな問題がありました。遺跡の「破壊」と「盗掘」です。何とか組織をつくり、やっと出発する遠征隊が遺跡を「発見」したとしても、それが「破壊」と「盗掘」される構図。根本的な長期的対策を講じなければいけなかったのです。

◆スリランカ側のカウンターパート「考古局」には初回からお世話になりっぱなし、そろそろお返しをする頃でもあろうと思う中で、誰でも参加できる母体として、別の組織の設立が必要だったのです。広く社会の中から探検に従事する人を集め、また活動に賛同される方々からの寄付や公的助成金などで資金的問題を乗り越え、活動を継続する組織、すなわちNPOです。今夏の活動を手がかりに、今後、考古局との連携や、遺跡の発見と保護の活動を深化させることを「仕事」としていかなくてはならないと益々感じております。(副隊長・法大探検部OB 甕 三郎


《新しい探検の可能性》

■現地での調査で一番強く感じたことは、「探検」だけでは自分たちの自己満足に終わってしまうということです。私は昨年と今年、連続してスリランカの遺跡調査に行きました。しかし去年「発見」した遺跡を今年も調査したところ、元々あった盗掘がさらに進んでいました。「大学の探検部」では、準備、現地活動、報告で探検が終わってしまいます。日本にいる我々が、それ以上、何をどこまでできるかわかりません。しかし、今回はNPOの隊として活動したことで、現地では探検活動だけでなく遺跡の盗掘の現状を連続して調べたり、学校に出向いて遺跡保護の大切さを説いたり、別働の隊員が住民の遺跡に対する意識調査をするといった広がりがありました。

◆今後、大学探検部とNPOという新しいつながりが形作られていった場合、探検部の側にも、昔ながらの探検的活動だけではなく、継続しての調査や、それを遺跡や自然の保護、啓蒙活動などに広げていく「新しい探検」が形成されていくのではないかと思います。自分たちがやりたいだけの探検から、将来、多くの人々の役に立つような探検へ。今回は、これまでとは別の新しい探検活動という可能性に、一歩近づけた瞬間ではなかったかと、私は強く感じました。(副隊長・東洋大学探検部主将、3年 佐賀見拓也


《野象の近くで》

■調査地は、アフリカで云えばセレンゲティー国立公園内のようなものだ。テレビで観ればわかるが、サファリのジープに乗ればライオンやヒョウの近くまで行くことが出来る。スリランカでも同じで、サファリジープで行けば象やバッファローの群れを近くで見ることが出来る。ところが遺跡調査で同じ動物保護区内を歩いていても、鹿に出くわすくらいで、なかなか動物の写真を撮るほどには遭遇しない。なぜならば、隊員たちは団体で行動し、ザックに鈴などを付けて危険動物と遭遇しないようにしているからだ。動物は人間より遥かにはやく危険を察知して逃げてしまう。

◆私は前回のスリランカ遠征(1993年)に、遺跡調査のほか動物写真の撮影を個人的な目的として参加したが、このことに気づかず失敗してしまった。今回は一日だけ隊活動から離れ、サファリツアーに出かけてまずまずの動物写真を撮ることが出来た。それにしても、予想以上に象の密度の濃いことと、警戒してピタリと動きを止めた象には十メートルの近さでも気づかないことに恐怖を感じた。こんな実体験のない隊員たちは、そんな象たちの近くで呑気に巻尺を伸ばしていたのだ。(法大探検部OB 武内 勲


《ビールなしでも過ごせた夏》

■この20年来、夏の生活には、エアコンと冷たいビールが不可欠。ジャングル内では、その両方ともがダメと言われて、参加表明をしばらく躊躇。その後のミーティングでは、痒いのや痛い虫がいて、毒ヘビがいて、怖そうな野生動物も少なくないと。いきなり出てこられて、“よっ、ゾーさん!どうも憎いよ!”奴らには、ヨイショが効かないし。出発前の東京の暑さ。熱中症で年寄りがバタバタ。でも、“スリランカの暑さは、そんなものじゃナイ!”とか。かなり、後悔していました。

◆体が想い出したのか、天井で回るファンで充分だったし、マハウェリ河を渡る風の心地よさ。蚊は、何故か僕には寄ってこなかった(誰か体に酒を塗って、側で寝てくれたかナ?)し、ダニやサソリ、毒ヘビにも出会わず(単なる幸運デス)に。熱中症も、水ガブガブと梅干しの種しゃぶりとで。ジャングル内を歩くときには、出来るだけ列の真ん中近くに。前や後ろがやられている間に……と。テントサイトでの大排泄時は一人だから。近すぎても。といって、離れすぎると。中腰の姿勢と微妙な距離調整も覚えました。

◆結論。冷たいビールを我慢できた自分を“ホメテアゲタイ”。余談としては、早朝のウォーキング(僕の場合は、徘徊)で、手袋をしていても指先が痺れるほどに冷たくなって、回復に時間がかかるようになりました。この、数年来のことです。昨冬は簡易カイロも使ってみたのですが、効き目がイマイチ。有効な防寒方法はないものでしょうか?(暗駝亭こと西山昭宣


《私を魅了したスリランカ遺跡探査》

■「なんて美しいんだろう」、「ジャングルの中に本当に遺跡が放置されているんだ」、「この人たち、すごい!」。これが、今年も私を遺跡探査に引き戻したものです。私は、1997年、青年海外協力隊員として初めてスリランカを訪れました。それ以来、何度かスリランカに足を運んでいますが、どうせスリランカに行くならちょっと参加してみようかなと、軽い気持ちで参加したのが始まりでした。ジャングルで野生の象の親子を見たとき、美しいと感じました。そんなジャングルに大規模な遺跡が残っており、かつてここに人々が生活していたのだと考えると、“世界ふしぎ発見!”の何倍も、壮大な世界へ引き込まれました。

◆また、ジャングルを熟知し、地図もコンパスもなく道案内してくれる村人、物がなくても困らない村人の知恵に驚嘆させられました。裸足でいばらのジャングルを歩く姿は日本人にはないかっこよさがあります。そんな人々とまた一緒に生活し、いろいろな話を聞いてみたいと思うのは、学生時代少しばかり文化人類学をかじったせいなのかもしれませんが、遺跡発見はしかり、村人との出会いが私にとっては探査活動の魅力となったのです。2年間、こんなわくわくした気持ちを感じながら遺跡探査に参加させてもらいました。(小学校教諭 松山弥生


《スリランカ人の似顔絵》

■「次は俺の顔を描け」「いや、俺が先だ」??。数人に囲まれて、そんな風に迫られるのは初めての経験だった。出国前や現地での様々な準備にほとんど協力できなかったぼくは、もっとも役に立たなかった隊員と言ってまず間違いないが、それでも今回、ひとつ大きな収穫があった。スリランカの人々の絵を描いたという経験である。ぼくは漫画家を志していることもあり、暇なときに村人や役人の似顔絵を描いていた。スリランカ人は彫りが深く、また性格が顔によく出ている(優しい人間は優しそうな顔をしているし、助平な奴は助平な顔をしている)ため、日本人より描きやすい。そんな発見もあったが、それより面白かったのは、相手の反応だった。

◆ある者は無言のまま鋭い眼光でこちらを睨みつけてくるし(強そうに描いてほしかったのだろう)、ある者は似顔絵を描くまでどこまでも後をついて来るし、ある者は「俺を描け」と言っておきながら好き勝手動き回るし……。日本に帰ったらその絵をコピーして送れと言う人がいれば、その場でスケッチブックをひったくって近くのコピー屋まで走って行く人もいた。何にせよ、誰もが非常に喜んでくれたというのが驚きであり、非常に嬉しかった。(早稲田大学4年 佐々大河


《やっぱり遺跡がすき》

■最初にスズカンダの遺跡を見た時。あの衝撃は絶対に忘れられないと思う。ジャングルの中、突如として現れる13段の大石段。凄い! 鳥肌が立つくらい、わくわくした。この先にはこれ以上の遺跡が待っているのかと思ったら、45度の暑さだろうが、刺付のやぶだって、そんなもの飛び越えて行ける気がした。やっぱり遺跡がすき、と実感。スリランカに来るまでの活動はどれも誰かをなぞっただけ。けれど今回、自分の足跡が残せた。私が果たした役割が大きかったかは分からないが、この探査が私に果たしたものは大きかった。何かを成し遂げるということ。自分が何かの役に立てるということ。どうしても自分に自信が持てない私が、少しだけ自分を誇りに思えたこと。他人にとっては些細な事だが、私にとっては踏み出せる勇気をくれた気がした。

◆そして支えてくれた人たちと仲間。立ち塞がるトラブルを1つずつ回避していく中で、どれほど沢山の人の力を借り、人の温かさに心しみたことか。また1か月弱、私が探査をやり遂げられたのは、一緒にいた仲間のお陰にほかならない。毎日毎日ちょっかいを出しては笑い合って、存在が支えになっていた。この活動に参加できたこと、そして出会った全ての人に感謝を。(立正大学探検部3年 家崎 晶


《遺跡探検から学んだこと》

■南アジア遺跡探検調査会の隊に参加して学んだことは、自ら行動することの大切さです。今回の探検は私にとって初の海外で、隊員の方ともあまり面識のないまま活動が始まりました。私は英語やシンハラ語はほとんど話せず、現地での交渉はもっぱら他の隊員に任せていました。遺跡探検も当然、経験したこともなく、先輩に言われるがまま行動していました。そんな受身な活動が半月続き、さすがに考えるようになりました。せっかく隊員になったのに、自分は隊に貢献しているのか、もっと自分からやりがいを求めることで、自然と隊に貢献できるのではないか……と。

◆それからの活動は、自ら仕事をもらいにいく行動をとり、なるべく受身をなくす努力をしました。そうすることで作業のやりがいが生まれ、より探検が楽しくなりました。また自ら行動する中で気づいたことは、普段のコミュニケーションによって信頼関係を築くことの重要性です。仕事の役割にも向き不向きがあり、得意な分野で隊に貢献することがより楽しいことがわかりました。今回の探検で学んだ多くは、社会に出ても大いに役立つと思います。(麻布大学探検部3年 杉田翔一


《なぜ盗掘が起きるのか》

■遺跡が盗掘されている。話には聞いていたが、実際に見てみると印象が変わる。ジャングルのまっただ中で地面に大きな穴が空いている。穴の中は空虚で何もなかった。なんて罰当たりな、と感じた。それと同時に、仕方がないことだとも思った。世の中、お金のためなら何でもする人は、いくらでもいる。現地の水準からすると、一発当たれば大儲けだろう。ジャングルは切り開かれ、そこに人が住むようになった。そのすぐ近くに遺跡があり、そこに莫大な価値のある何かが眠っているとしたらどうだろう。掘ってみたいと思うものだ。我々だって、そこに何かがあるから探検する。一方的に非難ばかりしてはいられない。そう考えると、体の奥から虚しいものが込み上げてきた。どうしてこんな事が起きるのか。

◆たぶん速度が違うのだろう。遺跡のまわりに流れる時間と現代の人間に流れる時間の速度のズレが、問題を起こしている原因なのだろう。現代は変化が速い。人里に出てみても、貨幣経済の象徴であるカデ(小さな雑貨店)が至る所にある。これからも速度は増すばかりなのだろうか。今回、発見した遺跡もこれからどうなるのか、期待すると同時に不安も覚える。(東洋大学探検部2年 茶川直樹


《ジャングルは心地よかった》

■私のなかで探検といえば、ジャングルであった。幼いころからジャングルの密林をかきわけ、まだ見ぬ何かを発見したいとの思いは非常に強かった。ある日、探検部の先輩からスリランカ密林遺跡探査の話を聞き、胸が躍った。いまだ誰にも発見されずジャングルに眠っている遺跡を探査しに行くと聞いて、そのことを考えただけで、今までにないほど興奮した。そのとき私はこの計画への参加を固く決めた。正直、参加を決めた時点では、遺跡そのものへの興味は薄かった。しかし実際参加することとなって、さまざまな準備を進めていくうちに、遺跡への興味もだんだんと大きくなっていった。そして8月4日、私はスリランカへ向け出発した。

◆到着後、現地で買出しや交渉等をすませ、いよいよまだ見ぬ遺跡の眠るワスゴムワ国立公園へと出発した。ジャングルへ入り、遺跡を探査しているときの心情は、まだ見ぬものへの期待感や、現実にジャングルを歩いていることへの興奮、すぐそこに危険な生物がいるかもしれないという緊張感とがまざりあった、これまでに経験したことのないものであったが、どこか心地よかった。今回の遺跡探査を通して、様々なことを発見し、経験することができた。またひとつ人として成長できたのではないかと思う。(東洋大学探検部2年 山口 純


《「過去」との対面》

■今日の社会が存在するのは、昨日の社会が存在したからである。それが忘れ去られようとも、存在の痕跡は未来に繋がれる。人間も同様、相乗的かつ累積的な死によって世代が繋がっていく。スリランカの密林で、自然による侵蝕を受けながら、途方もない年月を耐えた遺跡。そこにあった石段、水路、建造物跡。それらは幾世紀前そこに在った社会が大自然に刻みこんだ人間の「生きた証」である。かつて生き、消えた彼らは、永い年月を経て再び私たちの前で人間としてよみがえる。遺跡、遺物を眼前に置くことは、それと関係を持っていた人間と対話することである。歴史に描かれることのなかった彼らは、我々と対話することによって、今日の社会へよみがえる。そうして我々は未来への土台を得る。

◆過去の積み重ねが現在の自己の肯定を許すように、先祖の累積的な死が現在の我々の生を許すように、今日の社会もまたそのように成り立っている。過去からの土台が無ければ、正常な現在を歩けるはずもなく、未来に手を伸ばすことも困難になるであろう。「過去」と対面し、対話すること。この仕事は、現在の社会を生きる誰かが為さねばならぬことである。加えて歴史上、誰もそれをしなかった時代はない。なぜならそれが歴史だからである。(東海大学探検会2年  菅沼圭一朗


《熱中症で倒れた日》

■前半の活動の準備地であるヤックレ村に入って間もなく、私は熱中症でダウンして、情けない話だが、一日休養をとらせていただくこととなった。暑さでボウっとする頭で、ゴザを敷いただけの寝床に伏していた。陽が当らない部屋の隅で、頭の数センチ先を列をなして動いている黒蟻を眺めていると、キッチンの方から話し声が聞こえた。その時私以外に日本人はいなかったので、声の主は現地で雇用した料理人たちだ。なにしろ都会のコロンボとは違い、ヤックレ村の住人は荒っぽい風貌の男が多い。そのことと何を話しているのかわからないことが私の不安を増す。

◆暫くうつらうつらとしていると、声の主が私を起こした。手にはコップを持っている。彼はゆっくりとしたシンハラ語で私に話しかけてきた。この水を飲め、と言っていることは判る。初老の彼の目が、親が子を見る時のそれであったことが印象的だった。

◆中身は煮沸された水で作られたポカリスエットだ。ジェスチャーで何とかお礼の意を伝え、口に含む。物につられたようで良いイメージはしないが、これ以来、私の彼らへの不信感が消え去ったことは事実である。熱いポカリを口の中で転がしながら、私は明日からの探検に思いを馳せた。(法政大学探検部1年 滝川大貴


《遺跡への住民の意識を探る》

■昨年はNPOとして初めて遠征隊を派遣したため、様々な困難と苦労がありました。今年は2回目(ワスゴムワ遺跡探査隊の最終年度)であり、昨年に引き続き多くの成果を挙げることができました。さて、今回は14名の隊員の中で、ただ一人ジャングルには入らず、村の中で住民の遺跡に対する意識調査をしてきました。私たちはこれまで何回もスリランカの密林遺跡探査活動を行ってきましたが、残念ながら、いたるところで遺跡の盗掘や破壊を目にせざるを得ませんでした。こうした遺跡破壊を何とかして止めたい、という思いは絶えず持っていましたが、外国人である我々が具体的に何をどうすればよいのか、今まで分かりませんでした。

◆こうしたなか、私個人としての思い(長文の説明が必要)、そして長年お世話になってきたスリランカへのお礼の意味をこめて、NPOとしてこの問題にこれから本格的に取り組んでいきたいと考えています。その第一歩として、今回は、村に住む住人が遺跡のことをどのように考えているのか、3カ村でインタヴューと調査票を用いた調査を実施しました。一人で調査を行ったため、十分な資料が得られたとは思いませんが、この調査結果を元に、これからの活動に役に立てていきたいと思います。(昨年隊隊長・法大探検部OB 執行一利


《「多彩な隊員」こそが最大の成果》

■地平線報告会で話をさせてもらうたびに思うことだが、「探検の報告」であっても、その場では、本来の眼目であるはずの「成果」や、そこに至る経緯(行動)の報告だけでなく、さまざまに「人間的な要素」の報告が求められて、なかなか話の流れを作ることが難しい。というより、聴衆には登山・探検界の長老から他分野の旅のベテラン、さまざまな人生の達人、あるいは今後を夢見る若い人までが混じっているから、「どんな人間がそんなことをやっているのか」が自ずと注目点となり、たてまえはともかく、本音の動機や実感までを吐露しなければ許されない雰囲気を感じるのである。

◆だから今回は事前の打ち合わせの上、まず隊の公式(?)な成果報告を半分の時間のパワーポイント発表にまとめ、残り半分の時間で14人の隊員たちを1人ずつ登壇させて、隊組織や活動や個人的動機や印象に関する「ひとこと本音トーク」を展開する予定にしていた。それが結果的には小生の計算違いから、最後に時間切れで登場させられない隊員が出たことは、その当人たちにも聴き手の皆さんにも申し訳なかった次第だった。

◆それでも、初の「NPO探検隊」として、私が活動の成果以上に重視した「活動母体の広がり」という点では、多彩な参加者(隊員)の顔ぶれをご覧いただいたことで、少しはおわかりいただけたのではないかと思うし、若い学生隊員たちが、来年もまた「主体的に」今回の遺跡探検の続きをやりたいと語ったことで、「このプロジェクトを、これまでとは別の場の若い人が乗っ取ってくれ」と言い続けてきた私の願望の行方も、曙光だけでも見せられたのではないだろうか。

◆私たちNPOの、しかも年輩者の責務は、彼らの行動にどれだけ多くの付加価値(学術的な評価や発掘・復元への橋渡しなど)をつけられるか、遺跡保護の啓蒙活動など関連活動の枠を広げていけるか、またそのための予算をどう工面できるか、そうしたことに集約されると思うから、私としてはその思いをこそ伝えたかったのだ。

◆ともあれ、今回のNPO探検隊の最大の成果は、大規模遺跡の発見とともに、あの若い人たちを含む幅広い「参加者」を得たことにあった。41年前に私がスリランカで将来の遺跡探検を発想したときと同じように、今度は新しいことのすべてがそこから始まっている。その「顔ぶれの多彩さ」という「スタート地点」を、地平線会議の皆さんに見ていただけたのは幸せなことだったし、そこから新しい仲間が増えるなら、さらに嬉しいことである。皆さん、本当にありがとうございました。(岡村 隆


[通信費をありがとうございました]

先月以降、通信費(年2000円)を払ってくださった方々は、以下の通りです。万一漏れがありましたらご一報を。
菅野弘幸 小高みどり 渡邊朋和 加計千穂 後藤正 小尾靖 島田利嗣 深瀬清治 執行一利

[1万円カンパその後]
川堺恵生   ありがとうございました。


地平線ポストから

今こそ、「国境」を知ろう!
山羊が増殖している魚釣島。「ウニタコイクラ」と話しかけてくるロシア人。尖閣と北方領土。どちらも簡単には日本人が行けない場所にぼくは空と海から訪ねたことがある。

■ここ数か月、日本の国境に関する報道が新聞やテレビを賑わせている。9月に尖閣諸島で11月に北方領土で日本の外交や防衛の根幹を揺るがすような出来事が立て続けに起こったからだ。論評や解説は新聞や雑誌にゆずることにして、ここでは訪問記を中心に記してみたい。

◆尖閣諸島への上陸を試みたのは06年から翌07年春にかけてのこと。近隣の島から漁船で行けないかを探ってみたり、海上保安庁の巡視船に乗れないか企画書を送ったりした。上陸OKの漁師は皆無で、海保は門前払いだった。接近してもいいと言った漁師は一人だけ見つかったが「客を乗せると罰金」という過去の事例にびびったのか結局は断られた。「何人の上陸も禁止する」という国の方針が壁となり、上陸を断念させられてしまったということらしい。

◆そこで僕はプロペラ機をチャーターして接近することにした。小型のプロペラ機。那覇発着で6時間ほど借りて120万円。有志をつのり、応募者で割り勘としても多額の出費となる。それでもチャーターを申し込んだ。国境で行っていないのは尖閣ぐらいになっていたので、しばらく借金を背負い込む覚悟であった。

◆07年3月、那覇から南西の方向へと飛んだ。2時間ほどで300メートル級の峰が連なる大きな島があらわれた。尖閣諸島の中心である魚釣島らしい。基本的には緑に覆われているが、あちこち土がむき出しになっている。政治団体が食糧確保のために離した山羊が増殖したからだ。山羊らしき白い点々が緑の上に見えた。戦前に操業していた鰹節工場の石組みや岸を掘って作った簡素な港湾施設といった人が住んでいた形跡がかすかに確認できた。

◆太平洋戦争を始める前の昭和15年、燃料統制のあおりで石垣島と尖閣の間を船で往復することが難しくなり、島民は島を放棄、その後、無人島となり、現在に至っている。生計をたてることが難しく、政治的な理由で近づくことすら困難なこの絶海の孤島に今後おそらく人が住むことはない。だが同時に注目を浴び続けることも間違いない。島そのものにこれといった価値がなく、国境に位置しているという特徴があるからこそ、日中の人々は愛国心を燃やす対象として尖閣を象徴化し、両国政府は外交や防衛の綱引きの場として利用する。そのような構図が見えるのだ。

◆北方領土には03年、06年の二度、いずれも国後島、色丹島の二島を訪れている。返還運動に関わっていない僕は毎年行われるビザなし交流という官製のツアーには参加できない。だからロシア経由で上陸した。

◆サハリンと各島(択捉、国後、色丹)を結ぶ定期船に乗った。話しかけた乗船者の誰しもが日本に関係していた。「ウニタコイクラ」と話しかけてくる体格のいいロシア人密漁者や「あの海は宝の海だ」とうそぶく日本人海産業者。「小樽に行って洗濯機を買ってきた」と話した択捉島島民、ビザなし渡航の思い出を語る国後島民など。島々と日本本土の距離が不可分なほどに近いということを上陸前に実感した。

◆上陸すると、島の自然環境や気候が知床と地続きではないかというぐらいに似通っていた。知床が晴れていれば国後も晴れる。国後でナナカマドが色づけば、知床や野付半島でも色づいているといった具合。国後島の南端付近にある泊村(ゴロブニノ)に行けば、ローミングしなくても日本の携帯が通じるし、テレビ番組もうつる。

◆泊村にある家庭にお邪魔し、日本の局にアンテナを向けてもらうと画面には「笑っていいとも」が映し出された。「天気予報は日本の局を参考にします」と言った。地デジ化すると見られなくなるのかもしれないが、そのときはどうするのだろうか。

◆ムネオハウスは日本本土そのものだった。ベッドなど備品はすべて日本製。ここをはじめとする島のごく一部を日本は実効支配しているのだ。領土問題は結局、どちらが実効支配しているのかが決め手となる。鈴木宗男や佐藤優はそのことをよく理解した上で日本化という実効支配を進め、領土問題解決の糸口を探ろうとした。しかし「国策捜査」によって失脚し、返還は遠のいてしまった。そして近年、空港や道路、学校など、むしろ最近ロシアの実効支配が強化されている。

◆ロシア大統領の上陸報道を目にしたとき、彼らが失脚してなければいくつかの島はすでに還ってきてて、根室から定期船で気軽に渡れたりしてたのではないか。そのように夢想し、なんだか残念な気分になった。尖閣と北方領土。どちらも簡単には日本人が行けない領土である。これら国境の島が話題になっても、島そのものの報道は皆無で、一般的な関心は集めない。

◆拙著『誰も国境を知らない』(情報センター出版局)のタイトル通り誰も日本の国境のことを知らないでいる、というのが現状なのだ。そんなわけで拙著はあまり話題になっていないし重版がかかる様子もない。生後4か月になった夏柚(なゆ)のおむつ代を稼がないといけないというのに。参ったなあ……。(西牟田靖 日本国境探検人)

《紅葉の尾瀬を走る》
−皆、地元に根を張って生活を楽しみながら長久の時をそれぞれ楽しんでいるようだった。遠足(とおあし)は遠足(えんそく)とは違うのだと大声で話している地元の若者もいた……。

■地平線会議のメンバーである海宝さん、三輪さん、そして伊南村在住の酒井富美さん企画の2010年伊南川100kmウルトラ遠足(とおあし)に先月23日、参加した。スタート地点の伊南小学校は東京からは交通の便が悪い福島県の南西の南会津町で、伊南川は桧枝岐村を源流に中流から只見川となり、その流れは下流で阿賀野川と名前を変え、日本海に注いでいる。

◆伊南小学校校庭の樹齢800年の古町の大銀杏の前を未だ夜の明けない午前5時にスタート。伊南川沿いに尾瀬・沼山峠への登山口、桧枝岐村七入まで遡上する。七入から沼山峠までは、樹齢100?200年位のブナ林の中の黄色く染まった登山道を登ってゆく。ヒトの道とシカ道が一緒になるところがあり、ニホンジカの足跡が点在し、時折、オスのピューという鳴き声が聞こえる。これは結婚相手を探している鳴き声だ。

◆ゆっくり登ってゆくと、ブナの森の黄金を独り占めしたような気分に浸れると共に落ち葉を集めて焼き芋をしたい気になる。この登山道の森のなかには、紅葉中の落葉樹と常緑樹が見られ、何時葉を落とすべきかという樹木それぞれの損得勘定の違いが、彩豊かな景色を作り出しているのだ。岩の上には、イタチかオコジョの置き土産があり、うっすらとカビが生えている。沼山峠まで上がると、木々の葉はすっかり枯れ、強い風が吹けば黄金の札束が宙に舞うようだ。沼山峠から御池まではシャトルバスの道路を下る。途中の枯れ葉から紅葉への移ろいが侘しい。

◆前日の大会受付に早めに到着した小生は、平野物産店さんから伊南特産の漬物の販売を依頼された。丁度特産の赤カブの収穫時期で、その漬け込みに忙しく人手が足りずお願いしたいとのことで、人助けとひきうけた。舘岩のカブ漬は南会津の冬の食卓に欠かせない、甘酸っぱい赤カブの漬物で、このカブはここ南会津村舘岩でしか赤くならないという不思議なカブだそうだ。ランナーの顔見知りも多いことから声を掛けると快く買ってくれ、その売り上げは驚くほどだった。

◆販売中、ほかの店の販売員さんともお話をしたが、皆、地元に根を張って生活を楽しみながら長久の時をそれぞれ楽しんでいるようだった。遠足(とおあし)は遠足(えんそく)とは違うのだと大声で話している地元の若者もいた。話をしていると、大都会のように情報伝達手段が発達して社会に飛び交う情報の量がどんどん増えていくと、伝えたい情報を特定の相手に伝えることがかえって難しくなると思うが、こういう時代には、直接面と向かっての原始的なコミュニケーションの価値が高くなると感じた。

◆販売のお礼にと、珍しい日本ミツバチの栃の花と思われる蜂蜜、手作り味噌、もちろん赤カブ漬も頂いた。心温まる対応だった。参加賞の「川の石ころ」(阿久津製菓製)も絶品だった。伊南川の丸石はその美しさから観賞用としても知られているが、その川原の石を模したお茶菓子だ。小豆餡に黒胡麻、クルミ、こうせん(麦こがし粉)などを混ぜて丸めたもので、噛むと口の中でほろりと崩れ、香ばしさに包まれる、懐かしい味だ。縄文時代から綿々と続いてきた農村の定住社会、それを短期間に壊してしまった現代文明の威力、この国で土に根付いた暮らしをずっと営んできた人々が追い立てられるように移動し始めたのはほんの50年前だ。当時の自分の足で移動できる半径数十キロの人生は、今の時代から考えれば惨めかも知れない。けれども東京から関西、九州に日帰りの出張も、諸手を挙げて良いとは言えないと思う。少なくとも、そういうとんでもない暮らし方を異常と感じる感性だけは失ってはならないと走りながら考えた。(原健次

第1回伊南川100キロウルトラ遠足、賑やかに終了

■平成22年10月23日(土)朝4時半、まだ真っ暗な伊南小学校には、第1回伊南川100キロウルトラ遠足の参加者300名余りが集まっていました。南会津町の伊南は、首都圏から電車とバスを使って4時間余り、関西方面からは丸一日かかってしまうほど、交通網が不便なところでもあり、不安を抱えながら募集を始めました。が、そんな心配もよそに、北海道から沖縄の(20歳から73歳)374名がエントリーし、当日は夜明け前の校庭を341名が出走しました。

◆今回の大会は、地平線会議の報告者・海宝道義さんと世話人・三輪主彦さんの提案(思いつき?)から計画が生まれ、地元在住の私(酒井富美)が事務局を担当させて頂くことになりました(ちょうど10年前の今頃、地平線報告会IN伊南村を開催させてもらったことを思い出しながら地平線との縁を痛感していました……)。

◆本番は、海宝さん・三輪さんをはじめ首都圏や愛知県からのウルトラ熟練スタッフはもとより、地元からも沢山の協力がありました。スタッフとしては、トマト農家、旅館民宿組合、青年会、商工会、食料品店、建築業、伊南小卒業生(今は社会人)、農協、郵便局、役場から50名余りの人が関わり、消防署の知人は救護班として動いてくれました。

◆舘岩の木賊地区のエイドでは、地平線会議の河村安彦さんも娘さん&友人と別荘前で協力をしてくれました。中間地点のおにぎり&トン汁は婦人会と中高生20名余りが朝5時ごろから調理してくれました。そして夕方5時過ぎから真っ暗になる伊南の中心街(?)では、玄関の電気や街灯をつけながら家の前で応援してくれたり、95キロを超えた最後の上り(久川城跡)のある青柳地区では、沿道に出て祭りのように(?)太鼓や鐘をたたきながら声援してくれたようです(ゴール地点にいた私は直接見られなかったのが残念)。

◆とにかく伊南にとっても、地域をあげての大きなイベントになったことは間違いないようです。結果的には、341名中、269名の完走者となり、海宝さんと三輪さん曰く『日本で最も高低差(約1100m)のある100キロ遠足』の第1回大会としてはかなり高い完走率だったようです。この地域にとってはこれまでにない素晴らしい大会になりました。それは海宝さんと三輪さんの、人脈、体験、知識、労力の賜物だと思っています。そして私にとってもこれまで体験したことのない大変さと感動がありました。まずは、無事に初めての大会を終えることができそうで嬉しいです(まだ残務処理はありますが……)。

◆来年度の開催については、地域の協力者たちとの反省会をもって検討していきたいと海宝さん、三輪さんとも話をしています。ところで、10月23日(土)の秋晴れが嘘のように、次の日から10日あまりかなり寒くなり、大会の4日後には山の上に雪が積もりました。ということはコース上にも積雪がありました。あらためて、海宝さんの「晴れ男ウルトラパワー」に感服しています。はっはっは。とにもかくにも、今朝も気温は3℃ほど! こちらは一気に冬に向かっています。(伊南から 酒井富美

新垣亜美さんの旅の話、素敵でした

■こんにちは。下関の河野です。3月末から体調を崩して仕事もずっと休んでいました。その間も江本さんや皆さんからの地平線通信は楽しく読ませて頂いています。今回の371号11ページの新垣亜美さんの旅の話、素敵でした。私は今は子育て中心の生活なので、ナースの仕事はやめられないし、長期休みもとりにくいため旅はできませんが、いつか新垣さんのように1シーズン山小屋で働いたり南の島で生活したりしたいと思っています。下関も田舎ですが、もっと違う土地に行ってみたいです。今後も「地平線ポスト」に近況を教えて下さい!! と新垣さんにお伝えくださいませ。通信、これからもよろしくお願いします。(下関 河野典子

十月詠
 でんでら野の段丘に立つ

金 井  重

「一握の砂」「遠野物語」
  うたい語りて 百年に出会う

各駅停車の ゆるりがよろし 遠野ゆく
    りんどうの咲く めがね橋のぞき

「天と海と オーパルの雲 その質は
    蛋白石」と 虚空(そら)の賢治が

姥捨の でんでら野の 段丘に立つ
    里の刈田は 手のとどくごと

風の夜じゃ 遠野の宿(しゅく)に 神隠しの
    サムトの婆は まだこんかいな

早池峰の かぐらのししの がくがくと
    邪悪噛む音 怪しく高まる

わが頭 がばと食む獅子の 一咬みに
    内なる鬼消え 軽々となりぬ

たらちねの 山に向いて 野路の秋
    ひとりの道行 自在の天地

あの世行きで とぶように家も 田畑(でんぱた)も
    ひとり大河の 流れゆうゆう

赤白の 煙突の煙り 雲のよう
    でものんちゃんの 姿はないよ

吉野山 笠なしわらじの 白尊女(しろとうめ)
    役行者の 素なる母者像

しみじみと 耳成うねび 香久山の
    飛鳥をめぐる 秋色ふかし

秋雨の 橿原神宮前で 降りにけり
    この地ひらきし 人らしのびて

★「でんでら野」では、60才になって捨てられた老人たちが、日中は里に下りて農作業を手伝い、夕方わずかな食料を得て野の小屋に帰り、寄り添うように暮らしながら、命の果てるのを静かに待ったと伝えられる。

「ドクターフーなら夢をかなえるハーブだって調合できるに違いない」

−センチメンタル・シャングリラ− 麗江・大理、雲南省のなつかしい町を再訪した旅

■中国の南の果ての雲南省はいたって平和である。1か月ほど前から雲南に来ているが、日本や中国各地でデモが起こっているらしいことは、風の便りで聞く程度だ。雲南ではかつてそういった乱暴なことは起きたことがない。ここは少数民族の国である。今では多数を占める漢民族も穏和な民族の風潮が伝染し、雲南は中国であって中国でないのである。そんな雲南にシャングリラは存在するのだ。

◆雲南最高峰の梅里雪山は、それはそれは美しい山々で、チベット仏教の聖山として巡礼者があとを絶たない。9年前、鳥取大学山岳部の偵察隊として、その6700mの未踏峰の登山の可能性を探りに麓の村々を訪れた。歩いているとあちこちの家に招き入れられ、裸麦の焼酎がでて、ちょっと散歩のつもりが50mも進めないほど。泊めてもらった民家にも人々が集まり、酒盛りはいつまでも続くのであった。人々の歓待に感動し、聖山を信仰する彼らの気持ちを考えると、登山計画を撤回することになった。

◆映画「失われた地平線」で理想郷として描かれるシャングリラは、チベットの奥深い渓谷にある。梅里雪山から麓までは標高差4500mの大渓谷で、温和な人々ともあいまって、本物のシャングリラのように思えた。だけれどこの10年で村々にも観光と開発の波が押し寄せ、人々の家は新しくなり、ホテルもでき、もう見知らぬ旅人が家に招かれることもなかなかない。だけど9年前の写真を頼りに、家々を訪れてまわると、とたんに人々の表情が10年前に戻った。そして裸麦のお酒がでてくる。失われたように思われたシャングリラが、まだそこにあることが涙が出るほどうれしかった。

◆雲南第2の高峰の玉龍雪山の麓に、ナシ族の都の麗江がある。いまや中国最大の観光地で、街の人口の3倍の観光客が連日訪れ、世界遺産の古城はすべて土産屋となり、夜の新宿歌舞伎町を超えるにぎわいだ。昔の面影はもはやなくちょっと悲しい気分になったが、郊外の村でようやく昔と同じものをみつけた。ドクターフーが生きていたのだ。

◆彼は昔も今も、外国人が村にやってくるのを待ち構えていて、話好きで、どんな病気も治せる魔法の漢方ハーブティーを調合できるのだった。15年前、安東は何も悪い部位がないので視力をよりよくするハーブを調合してもらった。本当に効くかどうかは重要でなく、じいさんに会いに行くのが楽しかった。とっくに死んだと思っていたのに、先日偶然会えた。じいさんは15年前と同じように、大喜びで家から出てきた。ぼくもうれしくなった。麗江で変化してないのはあんただけだよ。ドクターフーなら夢をかなえるハーブだって調合できるに違いない。あなたなら何に効くハーブを調合してもらいます? 

◆省都の昆明は600万人の大都市だ。古い建物はことごとく壊され、高層ビルがにょきにょきと生え、これまた大変な変わりようだ。一番の変化は大学街で、若者向けの商店やパブが林立し、雲南一のおしゃれスポットに変化している。かつて雲南大学周辺は自分の庭だったが、その時の方向感覚ももはや通用しない。だけどキャンパス内の多くの建物は昔と変わらず、15年前の記憶がよみがえる。

◆会澤院という建物の前庭で、一人の西洋人が中国拳法の自主トレをしていた。きっと留学生だ。そうだ、ぼくらも15年前に留学生だった頃、ここで老師に拳法を教わった。その西洋人に15年前の自分を見るようで、ちょっと気分はセンチメンタル。

◆安東が世界で一番好きな街が大理。この街はあんまり変わってない。メインストリートは観光客向けにこぎれいになったけど、裏通りをいけば昔と雰囲気は変わらず、古びた建物の屋根にはペンペン草が生え、猫がひなたぼっこし、ペー族のおばさんが鶏の入ったかごを担いでいる。でもやっぱり何か違う。そうだ、西洋人や日本人がすっかり減ってしまった。洋人街というおしゃれなストリートは、かつて大理が大好きで住み着いたぼくたち外国人が作ったようなものだが、今では中国人客ばかりだ。

◆だけれど過去を振り返ってばかりもいられない。かつての雲南には秘境が身近にたくさんあり、それがぼくにとってシャングリラだった。今、開発が進み桃源郷は消えつつあるが、まだ謎も存在するようだ。ロシアの衛星写真によると、深い渓谷の奥に知られざる村が写っており、調査されたが未だにその村を発見できないでいるらしい。そここそシャングリラかもしれない。今回は大理蒼山最高峰の登山ルートの調査などしてきた。来年は梅里雪山の裏に謎の村も探しにいきたい。シャングリラは見つけてしまうものでなく、いつまでも追い続けるものに違いない。さあ、あなたのシャングリラはどこですか? (11月9日上海より、安東浩正


年末恒例『地平線カレンダー』間もなく完成!!

 長野亮之介、丸山純コンビによる名物地平線カレンダーの制作が進んでいます。今年はもしかしたら11月の報告会に間に合うかも、との情報。テーマは、意表をついてコスタリカ。ご期待ください。そして、是非購入を!

■2011年地平線カレンダー■
★テーマ:コスタリカの自然
★版型:A5版7枚組(例年と同じ規格です)、月齢表示あり
★予定頒布価格:500円


報告会、ひじょうに、恐ろしいです。来月は、いっそ二次会から、みんなで野宿しちゃうのはどうでしょうー

■9月下旬に、ゆるゆると野宿にお誘いする、『野宿入門』(草思社)という本を書きました。もう5年も前のことですが、「野宿を好んでしている人」ということで、新聞の地域版の取材を受けました。それは、東京で暮らしている様々な人を取り上げるという作家さんの連載記事で、初めて受けた取材だったので、面白かった。のだけれど、野宿をすることに対する批判や、わたしの安全が脅かされることの危惧を理由に、編集部からダメが出た。それで「顔写真なしの匿名で取り上げるなら、ぎりぎりどうにかなるかも……」という話になりました。

◆取材をしてくれた方は、「そういう人がいる」ということを伝えられるのだから、匿名でも変わらないのでは?と云っていたけど、その回だけ匿名では「それは顔を出せないようなことをやっている(と、本人も考えている)」と読む人に捉えられるんじゃないかなあと、わたしは、いやだと思った。

◆それでボツになったのですが、そもそもその取材は、やっていることを伝えたいわけではなく、作っているミニコミ誌『野宿野郎』の宣伝になるかなあという不純な動機で受けていたので、名前に拘ることについて、それは誠実な判断だったのかなあとか、やっぱり顔を出さないでこっそりとやっていったほうがいいのかなあとか、判らず、長いことくよくよしていたのでした。

◆その後も、同じようなことがちょこちょこあったりして、おおやけに「野宿が好き」と云うのは「難儀なこと」なんだなあ、と感じていた。で、マスコミめ、けっ、と思っていました(マスコミがなんだか判ってないくせに適当に云っているんだけど……)。

◆だから、最初『野宿入門』もミニコミとして、じぶんで出そうと思っていた。ところが、出版社で出してもらえることになって、それは、少し複雑だけれど、嬉しいことでした。また、もうここらで腹を決めてやっていかなければいけないぞ、とも思いました。とはいえ、じゃあ何をやるのか、と考えて思いつくのは、「のらくらと野宿をやってゆく」ってことであって、それっていままでと、べつだん変わりがないのですが……。

◆来月、報告をさせていただけることになりました。ひじょうに、恐ろしいです。じぶんでもよく判らないうちに、野宿というものが、切っても切れない、大きなものになっていました。どうして野宿をすることを好きになって、いままでやっているのか、とか。ものすごく個人的で、小さなことしか、喋れないように思います。というか、わたしは人前で、ものを喋れるのでしょうか。心配です。がんばらなければ。……あ、来月は、いっそ二次会から、みんなで野宿しちゃうのはどうでしょうー。(加藤千晶


■地平線はみだし情報 ■西牟田靖さんの話題の著書『誰も国境を知らない』(情報センター出版局)間もなく品切れ。至急購入を。1785円なり。


地平線犬倶楽部、断然入会希望!!

■お元気ですか? そちらも寒くなってきましたか? 私の方は、5匹のアクシデント・パピーが産まれて、ばーさんの気分です。この子達がいい子だといいのですが、こればっかりは神のみぞ知るってやつです。でも、可愛いです!

◆今度の2月の300マイルのレースに出ることを考えています。ただ、1才ちょっとの子ばかりの犬舎ですから、練習として、です。今はトレーニングにバギーを使ってしています。もっと雪が降ってちゃんとトレイルができれば、ソリが使えます。老犬の11才の子(私のベイビー)も、まだ現役で走ってくれていますが、今はまだ15マイルだからいいけれど、これから距離を延ばしたら、多分もう走れないと思います。なんだか寂しいですよね。

◆あ、ドッグボックス作りは無事に終了しました。側面には、長野亮之介画伯の絵を、こちらに在住のケイコさんというグラフィックデザイナーに頼んで、うつしてもらっています。まだ途中ですが、いい感じです。出来上がったら写真送りますね! ただ、寒くなってきたので、彼女の筆があまり進みません。赤ちゃんが生まれたばかりだし、この冬完成は無理かも?

◆頂いた地平線犬倶楽部シャツ、とっても気に入ってます。会長の滝野澤優子さんに、私を是非会員に入れて! とお願いしておいてください。(カナダ住民 本多有香

四国は起伏の多い土地! 自転車遍路88か所巡りの旅の途中で

■こんばんは。モンゴルからはもう戻られましたか? 10月22日からスタートした私の自転車遍路88か所巡りの旅も、残る道のりは高知県の23ヶ寺、150キロ。一周が約1400キロなので、あともう一息、というところです。

◆今春亡くなった父親の供養として始めたこの旅ですが、結果としては自分自身のこれからの生き方を考える良き時間となりました。お寺や民家に宿泊させてもらい、たくさんの出会いと対話を繰り返しながら、感慨深い日々を過ごしています。

◆四国の土地は思っていた以上に起伏があり、いくつかのお寺は奥深い山のてっぺんにあります。上り坂は歯を食いしばってひたすら頂上を目指すのですが、ふっと見渡した風景や音、匂いに心を奪われる瞬間が確かにあって、そんな時、何か大きな見えない力に動かされている自分を感じます。この遍路道を世界遺産にしようという運動が、愛媛県にある仙遊寺の住職を中心に行われています。

◆住職曰く、「目に見える物質の魅力ばかりに着目するのではなく、この道の上で繰り広げられている営みの素晴らしさを人類が持つ財産として認めてもらえたら」とのことでした。今のところ基準を満たしていないため、可能性としては低いそうですが、もし認定されたとしたら…そんな、私たちの生きる世界は素敵だと思いませんか? 東京には今月半ば頃もどる予定です。帰ったらまたご連絡しますね。それでは。(木田沙都紀

テンションを保ったままそろりと近づくと、海底の穴から延びた腕がイモ貝を掴んでいる。しかし見えるのは腕だけだ。どうすればいい、動悸が高まる
坪井伸吾の“ンヌジグワァー攻略法”

■10月、沖縄に「肝高の阿麻和利」を家族で見にいった。勝連城そのものを舞台に演じられた王の物語は、贅沢な時間だった。もちろん僕はそのために沖縄に行ったのだが、実はもうひとつ重要な裏テーマがあった。それがンヌジグワァー(アシナガカクレダコ)漁である。

◆イモ貝を数個付けただけの針すらついていない仕掛けを、頭の上でクルクルまわして放り投げ、それをゆっくり引くとタコがしがみついてくる。2年前、地平線浜比嘉集会の際に、その特殊な漁を見たときには相当な衝撃を受けた。当然、挑戦してみたくなり、仕掛けを作ろうと浜でイモ貝を探したのだが、あのときはひとつも見つけられず、とうとう手も足も出なかった。

◆今回、どうすればタコ漁ができるのか、まずは宿のおじさんに聞いてみた。おじさんは興味がないようで知らない。次に島在住の外間さんに聞くと、ンヌジベントウ(タコ仕掛け)は釣具屋で1500円で売っているという。そうか、釣具屋か。民宿に戻りカレンダーを見ると今日は大潮、しかも干潮は午後2時。あまわりの公演、6時までにはまだ時間もある。条件は完璧だ。最後の壁は「家族で来ているのに何自分のことばかり考えてるの!」と嫁さんを怒らせないように、タコ漁の凄さを説くこと。その壁も以前からボソボソと言い続けてきたのが効を奏し、クリアーできた。おっしゃああ。

◆民宿のおじさんに本島と浜比嘉の間にある平安座(へんざ)島の釣具屋に車で送ってもらう。釣具屋の兄ちゃんは、ちょうど仕掛けを作っているところだった。「浜比嘉では黒と白の小さいイモ貝を使っているけど、へんざでは昔からこのオレンジのイモ貝を使ってます。投げ糸はマグロの延縄用。今どきこんなもの他じゃ誰も使いませんよ」。いいねー、この仕掛けにはへんざ島の伝統とプライドがバリバリ詰まっている。「でも糸はPE素材の方がいいのでは」、もっと本質に迫ろうと軽く伝統をひっかいてみる。

◆すると「そうかも、でもオジイがこの仕掛けでないとダメだと言うんです」と兄ちゃんから自信に満ちた答がくる。そのこだわりに惚れて、仕掛けを購入。腰に付ける網まで揃える。一式3500円とかなり高いが、まあこの際値段は気にしない。

◆へんざの岸壁に立ち、数百メートル先の干潟にいる3人の漁師を見る。即座に海を越え「こっちに来るな」の殺気が飛んでくる。しかし技術は目で盗むしかない。KYなフリをして、漁師の手つきがしっかりと見える距離まで近づく。よしやるか、と仕掛けを投げるといきなり糸が絡まった。まずは投げる練習からスタートだ。

◆何度か試すとコツが分かる。これは投網の要領だ。次は引く速さか。隣の漁師の手の動きに合わせると、イモ貝が海底をこする感触が伝わってくる。フムフム、これは投げ釣りの引き釣りだな。タコが触れば、きっと東京湾のマダコの手釣りに似た手ごたえが来るはず……、と思ったのだが、そこからが分からない。

◆釣具屋の兄ちゃんはきのう3人で200匹捕った、と言った。しかし3人の漁師には捕れている気配がない。場所が悪いのか。そういえば兄ちゃんは「どこででも捕れますよ」と言った。一番大事な場所は、さすがに教えないか、と思ったが、そうなるとどこで200匹も捕ったのかが気になる。

◆引いてきた仕掛けが止まった。んんっ、と少し力を入れると、岩を乗り越えるゴリッという感触ではなく、引き戻されるような弾力ある手ごたえが返ってくる。こ、これは……。テンションを保ったままそろりと近づくと、海底の穴から延びた腕がイモ貝を掴んでいる。しかし見えるのは腕だけだ。どうすればいい、動悸が高まる。もっと力を入れてタコの体を穴から引きずり出す。

◆そう決めて力を加えた瞬間、タコの腕が仕掛けから離れた。くっそー、判断ミスか。やがて潮が満ちてきた。水位が上がるのに合わせ漁師たちもジワジワ岸に戻ってくる。中の一人が諦めて帰りだしたので、その後ろを追いかける。

◆「こんにちは」と声をかけると、いきなり体の前で手を振り「ダメダメ」と言う。負けずに近づき、自分は一匹も捕れなかったので、せめて姿が見たい、と食い下がると、「本当はダメだけど」とビクの中身を見せてくれた。タコは3匹。確かに異常に足が長い。「コツは」と聞くと「そんなん自分で考えろ」ととりつく島もない。「本土の人? やるなら本島寄りのほうがいいよ。ここまではまだ来てないから」地元漁師の言葉は永田町の言葉と同じで翻訳がいる。

◆前半の「あっちがいい」は、向こうに行け、だ。あっちがいいなら、この人もあっちに行くはず。しかし後半の「まだ来ていない」はタコがこの季節、水温やなんらかの条件によって、沖、もしくは海岸沿いに移動してくる、という意味で事実だろう。それにしてもここまで嫌われるのはなぜだ?漁を続けながら、戻ってくる漁師たちを岸から見ながら違和感をもった。なぜ誰も横の移動はしないのか?

◆そういえば僕が注視していた3人もほとんど横に移動せず、3人の距離は一定のままだった。この漁は幅広く歩きまわるほど有利なはずなのに……。これは、それぞれの漁師が自分の漁場を持っているのかも? それなら極度に嫌がられるのも納得がいく。海中道路を走り、勝連城に向かう。すでに潮の満ちた海を車から見ながら、昼間の光景を思い浮かべた。3人の漁師の中で、真ん中の人だけは右手で投げた後、仕掛けが着水前に左手を糸に添えていた。

◆あれは癖? そうか、分かったぞ。こんなの基本中の基本じゃないか。あの人は仕掛けが海面に落ちる瞬間にソフトにスピードを殺して着水音を抑えたんだ。ここは膝下までしか水深がない。そんなの当然だ。相手がタコだと舐めていたから気がつかなかったんだ。しまったぁぁぁ。ふっふっふ、覚悟しろ。ンヌジグワァー。次は食ってやる。(追記:浜比嘉のタコ漁、なんだか書かずにはいられなかったので書きました。すっきりしました。坪井伸吾 時に本格的釣り師)


[先月の発送請負人]

■地平線通信10月号の発送作業に汗をかいくれた方々は、以下の通りです。ありがとうございました。

今利紗紀 森井祐介 車谷建太 安東浩正 江本嘉伸 杉山貴章 久島弘 落合大祐 埜口保男 米満玲


都市計画がむちゃくちゃ。モンゴルのこのような現状を見て無計画、あるいは計画のなしくずしの恐ろしさについて考えさせられました

■モンゴルにやってきました。2年振りです。ゴルバンゴルの通訳を務めたというナラントヤさんと飛行機いっしょでした。

◆この2年で街はまた一段と変わりました。土曜日なのに裏道が渋滞でした。宿舎にたどりつくまでに大変でした。迎えにきた友人によれば、市は都市計画を有していたそうです(現役時代たしかに市長から説明を受けました。=注:花田さんは元モンゴル大使=)。ところが、米国にせまられすべての土地の私有化(国有、共同所有は社会主義的であり、その芽を断つねらい)をすることになり、その過程で市役所の役人が賄賂をとって勝手に土地の販売をしたそうです。今では都市計画がむちゃくちゃになり、道路拡張もままならないことになってしまったそうです。なんか敗戦後の日本みたいです。

◆それでも多少の整理はしているようで、たとえば韓国大使館の門前の道路の真ん中に建てられた文化教育大学は見事道路によって半分に裂かれていました。それにしてもモンゴルのこのような現状を見て無計画、あるいは計画のなしくずしの恐ろしさについて考えさせられました。

◆急に話が大きくなって恐縮ですが、いつも不思議に思っていたこととここの道路は関係あるように思えますので話につきあってください。よく二国間で戦略的関係の促進みたいなことが取り決められていますが、中露の関係を見ると確かに、将来計画を双方がもっていて、その上で戦略を立ててこの30年間やってきているように見えます。あいだにソ連崩壊があるにもかかわらずです。

◆気がつけば中国も中央アジアへの鉄道アクセスがあり、経由してロシアにつながっていますし、いつの間にか国境問題も全部片付いています。国境自由貿易地区も各地で設置されて国境貿易も飛躍的に伸びています。確かに戦略的な関係が両国にあるようです。でもモンゴルも同様の立場にあるにもかかわらず、その御利益は相手国にばかり差し上げているように見えます。この地域でどう生きるかの戦略を歴代政権も民間の方々もみんなそれぞれ立ててはいますが、政権交代、私利私欲でどの計画もなしくずしのようです。さて、わが国は。

◆今ウランバートルで見ているテレビは中国奥地の反日デモを放映しています。わが国は敗戦後65年中国との関係を促進するどのような戦略をもってやってきたのでしょうか。場当たり的にやってきた結果がこのような画像を見ることになったのでは。中国と戦略的に関係を促進するといって約束はすれど、相手はしっかり長期目標をたて戦略的に発展してきている(たとえば経済を優先開発するまではくやしくても我慢して各国の援助をもらってやっていこうという小平の教えを守り、国力がついたら空母を建設し近海の諸島を紛争地として領有権を主張する)。

◆しかし、こちらは政権がくるくる変わり、そのたびに長期計画も変わり(それどころか中国との関係で政権が長期目標をもっていること自体も疑わしい)、ご破算ばかりが得意なわが国に実は戦略がないので一方的に相手に御利益を与えているように見えます。どうも長期目標があるのと戦略を立てることとは不可分の関係にあるようです。どちらかが欠けていたり、両方とも欠けていてはお手上げですよね。この目先しか見ないお気楽さ、目先の利益優先はまさにいとしのモンゴルと同じように思えました。これからお互い戦略とは無縁に行き(生き)ますか、と思わずモンゴルのみなさんに声をかけたくなりました。

◆それにしても、どの政権も各国とよく簡単に戦略的にと関係促進の文書を書くものですね。どんな戦略とそれに伴う確固とした長期目標が日本側にあるのでしょうか。それも教えてほしいものです。(2010年10月18日 ウランバートルにて 花田麿公


師走の一夜、長岡竜介ケーナコンサートへ!!

 地平線会議の節目の大集会に必ず出演して迫力ある演奏を聞かせてくれるケーナ奏者、長岡竜介さんのケーナセッション『エル・コンドル』の演奏会が開かれます。

■期日 12月2日(木)18時30分開場 19時開演
■場所 ルーテル市ヶ谷センターホール(新宿区市ヶ谷砂土原町1-1 03-3260-8621)
■演奏曲目「サンアンドレアスの壷(ベネズエラ)」「情熱の祭り(アルゼンチン)」「帰っておいで(ボリビア)」「コンドルは飛んでゆく(ペルー)」ほか盛り沢山。
■チケット(全席自由)前売り券3500円 当日券4000円
■予約・問い合わせ 03-3709-1298 長岡音楽事務所


■地平線はみだし情報 ■服部文祥さんがまたまた新刊を出しました。『百年前の山を旅する』(東京新聞 1714円+税)
「山が文明に冒されていなかった時代へ」との帯にある通り、文字通り、1世紀前の登山を身をもって再現した異色の記録です。


[あとがき]

■フロントページに書いたことの補足だが、今回のモンゴル行の第一の目的は、「ゴルバンゴル学術調査」20周年を記念する考古学者たちの学術討論会に出席することだった。モンゴル科学アカデミーと読売新聞の間で1989年8月に調印された、チンギス・ハーンの陵墓を日モの学者たちが科学的手法で探る試みで、「ゴルバンゴル(三つの川)」とはチンギス・ハーンが誕生したとされる地の呼称だ。

◆「土はいっさい掘り返さない」ことを条件としたため1990年4月に始まった当初は地下探査、衛星情報をはじめとする物理探査的手法を強調したものだったが、結局は考古学者たちの地道な活動が中心となった。この企画の推進者だった私は10月30日、ウランバートルの日本センターで開かれた討論会の冒頭、当時の経緯を説明する役割で参加したのである。

◆日モの学者たちだけでなく、運転手、コック、会計担当者などおなじみの顔ぶれが揃って、ああ、なんとも懐かしかった。長いフィールド・ワークなので、いろいろ厄介はあったが、20年という時間はいい思い出だけを残すようだ。

◆驚いたことに、この学術フォーラムでモンゴル科学アカデミーは私に「特別功労賞」なる立派な楯を贈ってくれた。まだチンギス・ハーンそのものがタブーだった社会主義の時代に提案したゴルバンゴル調査。民主化によりチンギス・ハーン崇拝が高まり、実行段階では逆に批判にさらされもしたが、20年を経て初めて誉めてもらい、素直に嬉しかった。(江本嘉伸


■今月の地平線報告会の案内(絵と文:長野亮之介)
地平線通信裏表紙

歩いて野宿して歩いて野宿して青春して野宿!

  • 10月26日(金) 18:30〜21:00
  • ¥500
  • 於:新宿区立新宿スポーツセンター(03-3232-0171)

「趣味、ノジュクですゥ!」と言い切る野宿愛好家。加藤千晶さん(29)が初めて星空の下で夜を過ごしたのは高1の春、友人と歩いて横浜から熱海へ向かう途中でした。映画「イージー・ライダー」や「スタンド・バイ・ミー」を見て憧れていた初野宿は道端の側溝の中。

「こんな所でもヒトは一夜を過ごせるんだ!」と朝日を浴びながら感動に浸る千晶さんの脳裏には「青春」の二文字が輝いていました。歩いて野宿して……を続ければ、どこへでも行けるかもしれない。高3の夏休みに青森県竜飛岬から山口県下関まで53日間の野宿旅を決行。時にオマワリさんに怪しまれつつも、大勢の“旅の達人”に出会った千晶さんは野宿のスキルが旅の技術につながることに気づくのでした。

先月(10月)に初の著書「野宿入門(草思社)」を上梓した千晶さんに、野宿の魅力についてお話しして頂きますよ。お楽しみにっ!ウヒョ。


通信費(2000円)払い込みは郵便振替または報告会の受付でどうぞ
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議(手数料が120円かかります)

地平線通信372号/2010年11月10日/制作:地平線通信制作室/編集長:江本嘉伸/レイアウト:森井祐介/イラスト:長野亮之介/編集制作スタッフ:丸山純 武田力 中島菊代 大西夏奈子 落合大祐 加藤千晶/印刷:地平線印刷局榎町分室
地平線Webサイト http://www.chiheisen.net/
発行 地平線会議 〒160-0007 東京都新宿区荒木町3-23-303 江本嘉伸方


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