10月13日、チリの鉱山落盤事故現場でついに、救出作戦が始まった。「フェニックス」と呼ばれるカプセルが地下620メートルまで下がり、ゆっくりゆっくり滑車で引き上げられる。午後12時12分、1人目の作業員、フローレンシオ・アバロスさん(31)が17分かけて上がってきた。予想をはるかに超えてしっかりした足取り、物腰。7才の息子、妻と抱き合う姿に涙がにじんだ。世界が注目した33名の奇跡の生存。私は自分があの中のひとりだったらどうするだろうか、と何度も自問しながら見守っていた。
◆まったく別なジャンルの出来事だが、「ハドソン川の奇跡」を連想する。2009年1月15日、ニューヨーク発シャーロット経由シアトル行き、乗客乗員155人が乗ったUSエアウェイズ1549便。離陸直後、バードストライクで両エンジン停止となったのだ。機長は冷静な判断でハドソン川への不時着水を敢行、乗客乗員全員が無事脱出に成功した。
◆世界でどんな悲痛な、あるいは感動的な事故が起きても、人間は自分たちの日常を淡々とこなすものだ。10月5日、私は静岡県田子の浦の海辺を歩き出した。海抜ゼロメートルから最高峰の富士山に登る、山好きなら一度は考える(考えないか)試みを7日の誕生日に向けてやってみよう、と思い立ったのだ。海から歩く以上海水に手を浸してからにしたかったが、富士川河口付近はテトラポットで覆われて、砂浜がない。富士川河口で写真を撮って、ここ数年、北アや南アの縦走を共にしている神戸在住のタフな後輩T(といっても66才)と歩き出した。
◆吉原駅を越え、富士宮市の村山浅間神社を目指す。悪天に備えてテントのほか、ピッケル、アイゼンまで持った重装備というのに、初日は、舗装された、なんということもない一般道を行く。実は今回の課題は太平洋から歩くことだけでなく、最近復活が注目されている「村山古道」をたどる目的があった。
◆富士山は、信仰登山の霊場として平安時代末期には、登拝の対象となっていた。山への崇拝は山岳信仰として根付き、仏教の山林修行の風習、道教の神仏思想などの融合によって富士山を修行の場とする修験道が成立してゆく。その思想は平安末期には完成し、一般民衆の間にもひろがっていった。南北朝時代には須走口(東口)、次いで村山(表口)、河口、吉田口(北口)、須山口という5つの登山口が順次開かれてゆく。
◆現在の富士宮市村山の村山浅間神社を起点とする村山古道は、関西方面からの道者(登拝者)がもっぱらたどった修験の道とされるが、明治のはじめ、明治政府の神仏分離令により、大きな打撃を受ける。外来の仏教を排斥し、神道を国教にしようとする方針は庶民の間に「廃仏毀釈」の動きとなり、神仏混交の仏体はあちこちで無残に破壊された。村山古道の場合は、加えて1906年、近くに近道の大宮新道ができたことでほぼ廃道状態となっていったのである。それを近年復活させようとの試みが藤沢在住の畠堀操八さんによって始まり、『富士山 村山古道を歩く』というご本人による本も刊行された。この際、そのいにしえの道を辿ろう、と考えたのである。
◆村山浅間神社まで20数キロを歩いて、静かな森に野営。翌6日、5合目までのルートファインディングが勝負、という1日を迎えた。ある程度、標識はあったが、何箇所か肝心なところになく、ヤブを漕ぎ、火山礫でできた溝道をたどるうち、3箇所で迷ってしまった。少し慌てたがそれもよかった。深い森を彷徨いつつ、富士山は5合目から下にこそ味わいがあるな、と痛感する。相棒がいたのがいい。ひとりだったら、気分的にも厄介だっただろう。
◆ザックの重さも加わって、ばてばてで抜け出たのは18時過ぎ、日はとっぷり暮れていた。2500メートルの6合目の小屋わきにテントを張らせてもらった。東富士演習場で闇の中、砲弾が飛ぶ模様を眼下にして不思議な気分だった。
◆3日目の10月7日は、私の古希の誕生日だ。普段の倍の6時間もかかって3776メートルの山頂に立ち、ほんの一瞬だけ、元気で「古来稀なる」年寄りになったことを祝う。海から歩いてきたことにささやかな達成感はあるが、ひどく感動したわけでもない。ムダな抵抗と知りつつ、なんとなく、まだホンモノのじじいにはなりたくないよな、という気分。強風に吹かれながら急いで吉田口に下り、5合目の林にテントを張った。翌8日、吉田口浅間神社までさらに歩く。馬返しまでの樹林の山道が見事に整備されているのに驚く。スバルラインをバスやマイカーで飛ばしてしまっては、富士山はもったいないぞ、ほんとに。
◆2010年10月13日。この通信をつくりながらテレビ中継に釘付けになった、チリの落盤事故33名の69日ぶりカプセル救出劇。仕事場で現代史の新たな1ページに立ち会った気分だ。(江本嘉伸)
■世界最年少セブンサミッター(当時)で今年登山用品レンタルの会社を起こした山田さん、今回はスーツ姿で大きなアタッシュケースを持って登場した。それは講演会用の正装ではなく、起業家としての営業周り用という訳でもない。実は外資系コンサルタント会社で3年半サラリーマンとして働いていたときのスタイルだ。過去の地平線報告会でも浴衣姿やチベットの羊毛皮服を披露していたが、そのコスプレ魂は今も健在である。
◆東大を卒業し、世界一のコンサルタント会社でエリートサラリーマンとなったが、それは山にウツツを抜かしていた青年が「社会復帰」した姿ではなく、今度の退職と起業も、再びドロップアウトして山の世界に戻ったのではない。他人から見ると飛躍の多い人生だが本人は「ブレてない」と言う。ではその一本通った筋とは何なのか。
◆予備知識のない我々の為に、まずはセブンサミッツの話から。セブンサミッツとは、言わば日本100名山の世界版である。いずれもガイド登山で登れる山で、スタンプラリー的な山の楽しみ方。山田さんがセブンサミッツを目指したのは大学1年生の時。登山をするために経済学部を選んだのに(大学に入ってから勉強しなくても済むから)、山岳部は不活発でヒマラヤへは行けそうもない。そこで自分で行く方法を考えた。あげくエベレストに登るためにセブンサミッツを最年少でやるという方法を選んだ。6座まで自分で登れば、スポンサーを募るなり何らかの道が開けるはずだ。
◆中学高校から進学校でエリートコースに乗った山田さん。体の弱さを克服するために屋久島で体験した登山を、納得できるところまでやろうと思った。セブンサミッツの手始めとして「地球の歩き方」に載っていたキリマンジャロへ行った。大した山じゃないとナメていたが、しっかり高山病の洗礼を受けた。次はちゃんと高山病対策をしてアコンカグアに登った。これは順調だった。
◆2000年当時、アコンカグアのベースキャンプにあったテントは8張、ハンバーガーやピザを出す店があり、インターネットもできた。これでもすごいと思うが、2010年にはテントは20?30張に増え、バレーボールコートやシャワーまでできていた。セブンサミッツの現状も日本100名山と共通する部分があるのだ。
◆マッキンリーは最も印象深い山で、山と対話しているという感覚を初めて味わった。この時は慢心して、なんとフリーマーケットで買ったフードの無いジャケットを着て行って凍傷になったという。当時は一体どんな装備で登山していたのか。その同じ人が後、登山用具のレンタル業を始めたのである。
◆ヨーロッパ最高峰のエルブルースは慢心することもなく問題なく登頂。オーストラリア最高峰のコジウスコは情報がなく、1週間の予定で現地へ乗り込んでみたら、サンダルでも登れるような山で翌日には登頂できてしまった。南極最高峰ビンソンマシフは、費用の事を抜きにすれば最も再訪してみたい山だ。悪天候による待ち時間が長いこと、紫外線が強いので対策が必要なことを除けば、楽をして感動が得られる。ブリザード等環境は厳しいがテント等の装備も業務用のしっかりした物を使用するので快適に過ごせる。青い空と青い氷の間に挟まれたブルーアウトの世界を味わうこともできる。ビンソンマシフの標高は5140mだが実際には厚い氷のおかげで1800m程度登るだけで登頂できる。しかし飛行機代を含む費用は高額だ。マッキンリーのパーミッションが120$だったのに対し、300万円もかかった。富士山ガイドで稼いだ金をすべて南極につぎ込んだ。
◆南極で会った作家のジョン・クラカワーに、オセアニア最高峰のカルステンツピラミッドへ登らなければ7じゃなくて6.5サミッツだ、と言われてニューギニアへ。ここは岩登りをしなくては登頂できない山で、セブンサミッツにクライミング要素を添えた。
◆ここまで6座(6.5座?)は順調に進んできたが、最後に残されたエベレストの困難さは標高だけでなく、費用、拘束期間の長さ(2か月)など、どの要素をとって見ても別格だった。しかも最年少のタイムリミットは迫っているので、また来年と言う訳には行かない。そこで問題を幾つかの要素に分析し、個別に解決していった。まさにコンサルタント的な方法論を展開していったのであり、報告会はにわかにビジネスプレゼンテーションの雰囲気になってきた。
◆費用面では、独自の登山隊を組織できるほどの大きなスポンサーをつける事ができず、公募登山隊に参加して予算を抑えた。期間の長さは社会的問題だけでなく、BCにいる間に精神的に参ってしまうケースが多いこともあり重要なのだが、山田さんは学生だったこと、スポンサー等のプレッシャーが少なかったことが幸いした。
◆自身プロ意識を持って臨んだ。トレーニングは特殊だ。脂肪が多くて筋肉量が少ない方が良いなどというスポーツは高所登山ぐらいしかなく、従来のスポーツ理論は応用できない。もちろん全体のバランスも大切で一歩間違えばただのデブになってしまう。高山病対策は国内の低酸素室でのトレーニングをすることで準備をした。バランス感覚を養うために乗馬もやった。これらの準備をしている間、特にエベレスト本番の前半年位はほとんど山へ行っていない。行けなかったのではなく行く必要が無かったのだ。エベレスト登山のためのトレーニングメニューに登山が入っていないなどということは、登山界の常識とは全く逆だった。また、高度順応のためにエベレスト直前にヒマラヤの高峰に登るという方法も、山田さんは体力の無駄だと考えて行なわなかった。
◆そしてエベレスト登頂は「全て想定の範囲内で」順調に終わり、山田さんは世界最年少セブンサミッターとなった。単純に登山の延長線上にエベレストがあったのではなく、エベレストに登るために必要なことを見極め、そのためには山から離れることも辞さなかった姿勢、それこそがプロ意識を持つと言うことなのかも知れない。
◆セブンサミッツの後、K2等の話もあったが強力な推進者がいなかったためいずれも流れてしまった。そうこうするうち24歳のときに腹膜炎で手術をし、8000mに登るのはもう無理だと判断、アルピニストとしては引退を決意し、ガイド業に専念する事にした。
◆しかしガイドとして活動するうち、次第に個人レベルで登山者や登山界に対して与えられるインパクトに限界を感じ始める。自分が直接出会って接したお客さんに対してしか働き掛けることができないのだ。そこで次に自分がやるべきことは、メディアに出たり本を書くことではなく、ビジネスを通じてそれをやることだと考えた。
◆そうしてビジネスを勉強するために入社したマッキンゼーだが、コンサルタントの仕事が合っていたらしく、楽しくてやめられずに3年の予定が3年半に。すでに学生時代に、エベレストを目指すにあたって明確な意識を持って現状分析と問題解決をやっていたぐらいだから、もともとコンサルタントの仕事が向いていたのかも知れない。
◆サラリーマン時代にも時たま富士山のガイド等はやっていたが、去年7月のトムラウシの遭難事件がきっかけとなった。退職して「登山人口の増加」「安全登山の推進」を目的とする会社「フィールド&マウンテン」を設立。そしてマーケティング理論をはじめとするコンサルタントとしてのノウハウを駆使して事業を立ち上げていった。
◆マーケティング理論のうちファネル(漏斗)という考え方でいうと、「認知」「関連」「試用」「継続」の4段階のうち、認知度は登山に関しては充分。関連と言う登山に興味を持っている潜在的登山人口もまずまずだ。しかし現状では試用段階がネックになっている。つまりちょっと登ってみるには敷居が高く、またTシャツにジーンズでいきなり富士山などのハードな山に登ってしまってイヤになってしまい、登山の継続に結びつかない場合もあるのだ。試用段階にターゲットを絞り込んでみると、この層(若い女性が中心)では財布の紐が固く、しかもランニングや自転車、ヨガなどの趣味と競合関係にある。この人達を登山に引き込むためには、安い(または無料の)サービスやインフラの整備が必要なのだ。
◆そこで山田さんが打ち出したのが、登山用品レンタルである。一度登山をやってみようという人にとって装備を買い揃えるのは高すぎる(何しろ二度と使わないかも知れないのだから)。レンタルならば安価で良質な装備が使えるので、敷居が低くなると同時に、継続登山への布石にもなる。今シーズンは試しにマーケティングデータを取るつもりで、ホームページを作って自宅から宅配便で発送するだけで始めた。宣伝も大口顧客への営業も行なわなかったが、ニュースサイト等で紹介されたこともあって注文が殺到、ピーク時には150セット、その時の富士登山者の3%弱を占めるまでになった。さらに利用者のアンケート回答率55%、顧客満足度90%以上、これは驚異的な数字である。いかに大きな潜在需要が有ったかという事だ。もしかすると我々は新たな市場が成立する過程を見ているのかも知れない。
◆以下は主に2次会で訊いた話。富士登山に特化した感のある「やまどうぐレンタル屋」だが、元々はもっと幅広い登山を想定しており、それに対応できるラインナップを用意している。山用具レンタルのアイデアは、前述の考えから導き出されたものだというが、これは山田さんが富士山ガイドとして多くの顧客と接してきたことと無関係ではあるまい。彼らのニーズを掬い上げるには一番近い場所にいたのだから。ガイドは一般的な登山技術の他に、その山と、顧客を熟知しなくてはならないのだ。なお、山田さんにとってレンタルは目的達成のための手段であり、金を儲けることが目的ではない。このケースでは商業ベースに乗せることで、拡大再生産によって多くの人にサービスを届けることが有効だと判断した結果だろう。価格設定もその辺りを踏まえて充分に計算されている。またビジネスとして有望だと思われるガイド登山の団体客等についても、来シーズンから拡大してゆく予定だ。
◆今シーズンの予想外の成功によって、「試用」段階で登山の間口を広げられる事には手応えが感じられたが、山田さんの視線はその先にも向けられている。一生に一度の富士登山だけで終わらせずに、登山を継続しやすくするための方法も考えている。そのためには安価で良質な登山用品等が容易に手に入る様にしなくてはいけないし、情報の発信も必要である。
◆情報発信のために山田さんが創刊した「山歩みち」はカタログ的な面もあるが、フリーペーパーである。それも登山についての情報を届けたい対象が、既存の登山専門誌を買わない層だからだ。今までの登山界(雑誌やメーカーも含めて)が対象にしてこなかった、あるいは否定的に接してきた大衆の中にこそ、大きなビジネスチャンスが眠っている。それを掘り起こす事によって潜在的な登山人口と登山業界の間にWin-Winの関係を構築することができる、と山田さんは提案しているのではないだろうか。(洞窟探検家 松澤亮)
久々の地平線会議。3回目。内容は「アウトドアの抱える課題とそれらに対する私の取り組み」。昨年来ブームとなっている登山。一昨年の600万人から一転、1200万人の登山人口を抱えるまでになった。しかし、だ。冷静になって考えてみれば、これだけ自然が豊かな国にいて、人口の1割ほどしか登山に行っていない。その状況でブームと呼べるのだろうか。
◆一方で、ブームとなっていることへの懸念もある。数年前、ゲレンデスキーはブームで、冬に新宿に行けば、バス待ちのスキー客でにぎわっていた。映画「私をスキーに連れてって」も制作され、永遠に続くブームかに思われた。が、今の状況はどうだろうか。スキー場はどこも経営に苦しみ、専門誌も売れなくなってしまった。富士山シーズンになると新宿に列をなし、五合目に集合する今の状態とよく似てはいないか。
◆来年映画「岳」が公開となる。数年後にこの登山ブームが去って、確固たる登山愛好者をつかんでいるか、誰もいなくなってしまっているか。今、山の業界に突き付けられている課題に業界を挙げて取り組んでいかなければならない。
◆取り組まなければならない課題はいくつもある。初心者に対する、ヒト(指導者)、情報、そして装備をインフラとして整えなければならない。「登山者」の視点でない一般の人の視点で、登山を始めやすい環境を作らなければならない。「登山者」目線で初心者に優しいと思っている「登山道具店」も「登山ツアー」も敷居が非常に高いことを認識しなくてはいけない。
◆今年6月から始めた登山道具の宅配レンタル。電話、ネットで受注して装備を貸し出す仕組みだが、PR活動もせずに口コミで2か月で2,000人の利用があった。「登山道具店で装備揃えようとすると、『今後も使うんだから』と言われて5?6万円もする装備一式を勧められた。本当に最低限必要なモノはどれですか?」という問い合わせが多く、求められているものと業界の提供しているもののギャップが浮き彫りになった。富士山は一生に一度の富士山、でしかない。
◆では、そういう人たちを登山業界は1回限りだから取り込む必要はない、のだろうか。アンケートではレンタルしたお客様のうち、8割以上が今後も山登りを続けたい、と書いている。きちんときっかけを作って楽しんでもらい、継続してもらう。私の取り組みは始まったばかりだ。(山田淳)
■はじめて山田淳君の話を聞いた。すばらしい話だった。最初はそれ何の話なの、という感じ。それから、ふ?ん、という感じ。それが、へぇ?、そうなの、に変わり、終わったときには目からうろこの印象。その余韻の中で山田君が語らなかったその先のビジョンを垣間見た。
◆なるほど、それでいい。われわれ日本人がかつてアルピニズムという新しい山の楽しみ方を教えられて山に熱中してきたように、こいつは自分の内にある山や自然への憧れを共通の原動力と信じて、今度はわれわれ自身に山への新しいアプローチ、山との新しい関係、山の新しい楽しみ方を創造させようとしているんだ。大量に大衆レベルでアクチベイトすることで。なるほど、それならばその先にもやるべきことは無数にある。新しい地平への草分け。
◆とはいえ、山田君の語ったセブン・サミッター最年少、スタンプ・ラリーと同じだという発想のしかたに違和感がなかった訳ではない。そこまでゲームとして割り切ってもなお登山なのかと。同じ違和感は過去にも出会った。「エベレストが登られたいま、山でなすべきことは何もない」と聞いたときだ。
◆山に登る者にとって「初めて」には特別の喜びがあり誇りがあり憧れがある。そして世界最高の頂きの「初めて」はかけがえがない。それでもその言い方に違和感を持ったのは、山登りが人間にとってもっと大きな意味や内容を持つ行為、あるいは表現だと感じていたからだが、つまるところそれは何に価値を置くかという個人々々の好みだ。
◆だがそんなことにこだわっている暇のない実践の話がつづいた。これから向かう山と問題についてのあっけないほど明快な分析、チョモランマに向けての冷徹に割り切った金づくりと体づくりのトレーニングの組み立て。その分析と処方には疑問は残るが、考え方は目からうろこ。結果として、一人他の人たちより2時間早く頂上に着いたという事実に感服するしかない。
◆それから自分にとっての新しい山登り開拓前線。山の世界にどうすればもっと多くの人が入れるようにできるか。根拠は金づくりのための富士登山ガイドという現場での確信。で、とりあえずはネットを使った貸し装備屋だが、この先こうした誘い込み支援のポイントと内容は山田君ならではの発想でどう展開していくか、結果としてどんな山登りの世界が開けてくるのか。短い時間でのはしょりすぎての話だったが、そこまでをつい夢見させてしまう話だった。存分な活躍を祈りたい。(宮本千晴)
■地平線の報告会といえば、二むかし前、伴侶と出会ったゆかりの場なのに、このところ、すっかりご無沙汰していた。懐かしい方々とお会いできたことも、もちろんうれしかったが、山田さんの報告に心底感動し、ほんとうに行ってよかったと思う。
◆私は12年前、報道系の番組制作会社を立ち上げたのだが、今やテレビ不況をまともに受けて青息吐息の状態。資金繰りやリストラ策に追いまくられる「タコ社長」の日々だ。もうテレビはだめなのか、私の会社は世の中に必要なのか、これからどんな仕事をしていけばいいのか……拉致問題の追及に忙殺されていた数年前までは考えもしなかった、自分の生き方についての疑問が、いま50歳代後半になって押し寄せてきた。
◆今回、久しぶりに報告会に足が向いたのは、エリートサラリーマンから山の世界に戻った山田さんの「転身」に、私の聞くべきものがありそうだと、漠然と直感したからだ。報告を聞いて、山田さんが、人生を戦略的に組み立てていることに感じ入った。個人で登山ガイドをやるだけでは、世の中にインパクトを与えられないと気づき、ビジネスを学んで世直しの仕組みを作ろうと山田さんは考えた。そこで、はじめから「3年だけ」と決めて就職したという。人もうらやむ名門の外資系企業なのに、就職は手段にすぎないのだ。
◆それだけでなく、山田さんにとっては、登山自体がある意味、「手段」なのである。山田さんは、単に「好きだから」山に登るのではない。登山を通じて世の中を動かすことを目指している。見据えているのは、大量の外国人が日本に、美しい山と自然を楽しもうとやってくる未来=観光立国。そのためには、まず日本の老若男女が山に親しむ登山大国にならなくてはならない、と山田さんは言う。
◆山田さんは「使命」に生きている。すばらしい生き方だ。帰路、自分にとっての「使命」とは何だろうか、自分ならではの形で世の中に貢献するにはどうしたらいいのか、と考え続けた。私が、まさに今、聞くべき内容の報告会だったのだと思う。山田さん、世話人のみなさん、ありがとうございました。これから頻繁に顔を出しますので、どうぞよろしく。(高世仁 ジン・ネット代表)
■当日一番の印象的光景は、報告会終了後だったかも知れない。時間ピッタリに話し終え、「はい、質問は?」と、自信に満ちた笑顔の山田さん。一方の客席は、気を呑まれて暫しの沈黙。私も口あんぐりで、「アタマとは、このように使うものなのか」「俺の脳ミソは単なる首の重しだったんだな」と感嘆し、悲しくなった。
◆彼の話の衝撃的かつ時を忘れる面白さに、「この感覚、何かに似ている」と考えてハッとした。緻密な構成ながら奇想天外の展開を見せる、極上のミステリーそのものだ。
◆山田さんの役は新米刑事。周囲のベテランの冷たい視線を浴びつつ、常識破りのアプローチで目標に迫ってゆく。「お前、聞き込みにも回らず、そこの吉野家で牛丼(並)3杯食ってたそうだな」「私のプロファイリングによると、高所登山に最適の体は、高脂肪・低筋量です。その体作りで、ソイのプロテイン補給に行ってました」「エベレスト落とすのに、プロファイリングだと!? バカかお前は! それに低酸素室にも通ってるらしいな」「はい。山に通って高度順化やってると、本番前に体力消耗しますから」「馬鹿野郎! 現場が捜査の基本だ。山に通わずにヤマを取れるか!」。そんな罵声を浴びながらも、『畳の上の水練』で、他隊を2時間引き離してのブッチギリ登頂を果たしてしまう。
◆第2部の『起業編』でも、ナゾ解きのワクワク感は続いた。データが語る意外な真実の数々。それに基づく起業と、予測を超える売り上げ……。もちろん、会社員時代に培ったマーケティングの手腕ゆえの成果だ。しかし、山田さんは触れなかったが、問題解決に白紙で臨む彼の姿勢も成功の鍵に違いない。先入観を抱えてのスタートでは、その時点で既に常識の虜となり、視野も狭くなる。
◆この夏、NHKの朝ドラ『ゲゲゲ』の人気に、私は苦々しい思いを抱いていた。なぜ、あのようにチープで幼稚、粗悪で薄っぺらな子供騙しに世間は夢中となるのか。「情」にすり寄る輩に脳ミソを吸い取られているのが判らぬのか、と。今回の報告会は、そんな私憤をも吹っ飛ばしてくれた。
◆会場には、奥さんと子供も姿を見せ、彼の「よきパパ」ぶりが目に浮かんだ。私がNHKの会長なら、朝ドラに、迷わず『山田の女房』をぶつける。そしてドラマ仕立てで彼の並外れた問題解決の手法を全国に知らしめ、巷に蔓延する安っぽいセンチメンタリズムや予定調和趣味を、完膚なきまで打ち砕くのだ。(久島弘)
■先月以降、通信費(年2000円)を払ってくださった方々は、以下の通りです。万一、漏れがありましたら、ご一報ください。
桐原悦雄 田中聡 小河原章行 永田真知子 嶋洋太郎 大嶋亮太 黄金井直子 松本敦子 金井重 川堺恵生
■地平線はみだし情報 服部文祥さん主役のTBS「情熱大陸」10月31日23時放映予定。(変更もあり)
■私の住む月山山麓でも、今年の夏は連日35度近い異常な暑さが続いた。そんな暑さに耐えかねて8月28日から4?5日かけて、避暑がてら北アルプスの白馬岳から針ノ木岳への後立山連峰縦走を計画した。白馬岳、唐松岳、五竜岳、鹿島槍ヶ岳と別々に何度か登っているが縦走したことはなかったのと、ライチョウやイヌワシ、オコジョ、イワヒバリ等高山に棲む生き物たちに会いたいと思ったのだ。
◆が、この計画は初日から大きな変更を余儀なくされた。車で日本海沿いに長野に向かい、白馬村の猿倉口から入山して白馬の大雪渓を登っていったのだが、途中で車の中に寝袋を忘れてきたのに気がついた。だが冬山の雪洞泊まりの時でさえ寝袋なしですませた私だ。「どうってことないや」と思い、そのまま登山を続行する。そして大雪渓を登りつめ、通称“お花畑”という7月?8月には多くの花を咲かせる草原にさしかかった時、登山道右側の急斜面の草むらを登っているクマを見つけた。
◆まるまると太った大きなクマだ。すぐにザックから双眼鏡を取り出してのぞくと、さらに少し離れたところに2頭の子グマもいるではないか。私との距離は約100m。こんな3000m近くの高山まで子グマを連れて登ってくるのにまず驚いた。今年の春生まれた子グマは、まだ小さくてとても可愛らしく、草地の斜面を上へ下へと走りまわったり、石の下にいるアリ等の虫を探しているのだろう、急斜面の石をひっくり返しては、ガラガラと下に何個も石を落としてよこす。
◆すると、そのうちどこからか大きな叫び声が聞こえてきた。おそらくクマを見つけた登山者が、追い払おうとして大声を上げているのだろう。「余計なことをしやがって……」と思いながら、その声の主を捜してみるが、どこにもその人物の姿は見つからない。そして私もようやく気づいたのだが、「コエーッ、コエーッ、コエーッ」と断続的に大声を上げていたのは、人間ではなくてヤブの中にいる母グマだったのだ。
◆子グマが自分から離れすぎたので(約50m)、大声をあげて呼び寄せている声に違いない。確かに子グマを見ていると母グマの呼び声を聞くと、頭を上げて耳をすまし、やがて一目算に母グマの方に駆け寄っていった。クマはその後も登山道の近くの草むらをウロウロ徘徊した後、ヤブの中に入りこみ、日が落ちるまで出てこなかったのだが、私にとって都合のいいことには、“お花畑”の登山道わきには最近建てたばかりのようなまだ木の香りのする緊急用避難小屋があるではないか。
◆まさに緊急用といった小さな小屋で、鍵がかかっている管理人室を除くとわずか2畳半位のスペースしかないのだが、さっそく今夜の宿にこの小屋を拝借することにする。入り口にはご丁寧に『緊急時以外使用しないこと』と書いてあるが、子連れのクマが登山道近くのヤブにひそんでいるというのは立派な“緊急時”になるだろう。私にとっては嬉しくて仕方のない“緊急時”なのだが……。
◆母子グマは、おそらくこの小屋近くで夜をあかすだろう。夜中子グマたちが小屋の戸を叩いて遊びにこないかと夢想する。母グマはちょっとこわい気がするが、子グマなら大歓迎だ。標高2500mにある避難小屋の夜はさすがに寒く、テントにくるまってふるえる一夜を明かしたのだが、クマが近くにひそんでいるというだけで、私にとってはゾクゾクするくらい嬉しい、忘れられない一夜となった。翌朝もやはり私の予測したとおり、避難小屋上部の稜線に近い草地に姿を見せ、大きな岩の上に登ったり、急斜面に残った雪渓を登山家以上にうまく登ったりして、かなり長い時間、自然界でのびのびしたクマの生態を堪能させてくれた。
◆そしてクマが白馬岳から杓子岳へと続く稜線を越えて遠くに去った後も、ライチョウの母子を観察したり、日本で一番小さいツミという鷹が稜線上を舞うのを観察したりで、結局針ノ木岳まで縦走する予定が五竜岳までしか行けなかったのだが、今回も生き物を捜し追いかけるという私流の山旅ができたことを心から喜んだ。(松原英俊)
■かねてより、松原さんとそのうち飯豊にと言っていたのが、この週末(10/2-3)に実現。2日午前5時半に途中の道の駅集合で車を一台にまとめることにしたのだが、現れた松原さんは既にロードキルのタヌキを拾っていて、さて、どこに置いていこう? 私も途中で一匹見たのだが、これから一泊だしなぁと素通りしてきたのだが、そこは松原さん、むざむざ捨て置かないわけです(ワシ、タカのご飯確保)。
◆しかし、積雪期ならともかく、涼しくなってきたとはいえ晴れたら日中はかなり暖かいから、このままでは腐ってしまうのでは心配していると、松原さんは近くに水路を見つけて、水に沈めておけば大丈夫と言う。なるほど、その手があったか。ちょうど大きめの石もあり、タヌキを完全に水没させて一安心。
◆早朝の道の駅は人目がないが、帰りに回収するときは大勢人がいそうだが……。「クマが出たら登山より観察優先」で意見は一致していたのだが、クマは現れずに計画通りに登山できたのだが、歩き始めて早々にマムシを発見し、当然のごとく捕獲。二日間マムシと行動をともにしたのだった(笑)。
◆松原さんに限らず、東北では山菜採りに行くおじさんはマムシは捕まえて食べるものだと思っている人が少なくないが、松原さんの恐ろしいところは、生け捕りのマムシをそのままザックの雨蓋に入れてしまうところだ。そのまま家に帰るだけならよいが(よくないか?)、その日は他の登山者も泊まる避難小屋泊の予定だったので、万が一脱走されたら大変なことになってしまうので、あわてて小物入れにしていたジップロックの袋の中身をあけて「マムシ入れ」にしてもらった。
◆呼吸できるくらいに少し隙間をあけてジップロックにマムシを入れてから雨蓋へ収納。これで安全にこっそりとマムシの安否確認ができた。いずれ松原さんちのワシかタカのご飯になるのだが、なんとなく愛着が出てきて、何度も「マムシ元気かな?」と聞いてしまうのだった。翌日も雨には降られず、景色を楽しみながら順調に下山し、温泉に入ってからタヌキの待つ道の駅へ。
◆日曜の午後とあって、駐車場はほぼいっぱい。幸い水路近くには人がいなかったので、松原さんタヌキの回収作業に突入……と、女の子とお母さんが近づいてきた。女の子は走って通り過ぎたが、お母さんは水路に降りる松原さんに注目して足を止めてしまった。まずい! もう松原さんはタヌキの尻尾に手をかけている。なにか言ってくれればよいのに、女性はすごい顔して凝視しているだけ。知らない人のふりをするしかない私であった……ま、騒ぎにはならなかったからいいか。
◆無事にタヌキ回収。水没させていたおかげで状態はよさそう。生活の知恵だなぁと感心。初飯豊は天気に恵まれ、紅葉の美しさと迫力ある山容を楽しめたが、それよりも松原さんのごく自然に発揮されるワイルドさがおもしろくて喜んでいた二日間でありました。(網谷由美子)
2008年チベット蜂起をきっかけに始まった「チベットの歴史と文化学習会」。3か月に一度、地平線報告会スタイルで続けていますが、ようやく第10回を11月に開催することになりました。第10回目は「周縁からのチベット」をテーマに、モンゴル編の講義2本立て。そして、ジェクンド(青海省玉樹)地震の被災地を訪れた渡辺一枝さんのお話です。(O)
■2010年11月27日(土)18:00〜21:20(開場17:50)
■文京区民センター 3-A会議室(東京都文京区本郷4-15-14)
■参加費:¥1000
■プログラム(予定)▼「民族と自由 ーモンゴルとチベットー」田中克彦[言語学・モンゴル学/一橋大学名誉教授]▼「ダライ・ラマの外交官ドルジーエフ 〜激動の内陸アジアを駆け抜けたブリヤートモンゴル人」棚瀬慈郎[文化人類学/滋賀県立大学人間文化学部教授]▼チベット最新情報「被災地を訪れて」報告:渡辺一枝・司会:長田幸康
■主催:チベットの歴史と文化学習会
「20代の出会いは人生に深く影響する出会いが多いから大切にしろ」。そう恩師に教わった。その通りだ、と実感したのは就職活動中のことだった。皆様お久しぶりです、香川大学の大学院に進学し、スペイン留学から帰国してすぐ就職氷河期以下と言われる就職活動に突入、難航していたうめです!
◆中々決まらない就活中で私はいったい何がしたくてどうしたいのかと頭を悩ませた後に、幸運なことにも内定を複数頂いた。しかしどの進路を選択すればよいのか、活動中以上に悩み苦渋の選択を迫られていた。それに耐えきれなかった私は、沢山の人の意見を伺った。両親、友人、先輩、後輩、えも?ん(人生の大先輩江本氏)、今振り返ってみると、相談していく中でこれまで築いてきた人との繋がりを再認識することができた。全国に散り、疎遠になりかけの知り合いと再びコンタクトをとるきっかけになり、新・ベテラン社会人の皆の胸中も聞けた。自分が歩んできた道と人を再認識する中で、普段意識していなかった宝箱を開けた気持ちになった。
◆さらにそんな最中、現在瀬戸内海を燃えたぎらせている「瀬戸内芸術祭」に手伝いに行った際出会った女性(爽やかでいて芯が強く、只者ではないオーラを発する)と出会い、思いを相談した。この時、恩師が言ってくれたのが冒頭の言葉である。複数頂いた内定に対する私の対応に叱咤をしてくださり、自分に正直であることの大切さと難しさを感じた。結果的にはこれまで大学で学んできた有機化学の分野に近い会社を選択することにした。この結論に至るまでの経緯で実に「いい大人」の人々に巡り会えて、えも?んを始め信頼できる大人が多いことに改めて気付く。人生の先輩が多いことは非常に有難く、幸せだと思う。
◆さて、先程少し触れた「瀬戸内芸術祭」なのだが、これが今西日本では一番Hotなイベントだろう。世界中の注目を浴び、いつもは閑散としている高松港周辺が連日すっごい人だかりである。関東では「越後妻有」を知っている方が多いと思う。それが瀬戸内海に進出したのだ。
◆元々アートで有名な直島や小豆島に加え、これまで観光と言う言葉と無縁だった島々である豊島(過去最悪の産廃現場がある)や女木島(鬼が島)やその隣の男木島、ハンセン病の方が隔離されていた悲惨な歴史をもち、めったに入れない大島、昔製鉄所があった犬島、等の島の廃墟が芸術作品になり、道に突如作品が現れる。男木島の人口は約200人程度、三人の中学生が卒業すると島に子どもがいなくなるらしい。豊島のある集落では15年(確か)ぶりに子どもが生まれたそうだ。そんな地に芸術作品が入り、世界各国から人が集まり開催期間半ばにして来場者数が40万人を超えた。ものすごい! これを期に過疎化の進む地方が「元気」になってほしい。日本の綺麗な景観に感じる事は多いと思う。その芸術祭は10月末まで開催中! この夏は色々な出会いがあり、沢山の事が同時に舞い込んできた。しかし、その分あった出会いは今後の人生に大きく関わる出会いだった。 (来年の勤務地は関東かも!? その時はよろしくお願いします!(うめ、こと山畑梓)
やれやれ、ようやく帰って参りました。足かけ5か月の旅でした。長かったと言えば長いと言う気分もありますが、終わってしまえば、あっという間の出来事です。帰国して、しみじみと「良かったな」と思ったのは、留守中日本を襲っていた連日の「地獄のような猛暑」を知らないで済んだこと! 一体それが、どれくらいの暑さだったのか、想像する他はないのですが、聞けば、皆、口々に「あれは耐えられない暑さだった」と言い、ぐったりとした顔をする。
◆その頃、北米からカナダ、そして北欧を旅していた僕たちは、連日、涼しい毎日。たとえば、東京が8月の最高気温を記録した5日(38.6℃)は、こちらは24℃だった。その日の日記?。「今日は、この旅始まって以来の気持ちのいい追い風。ケベック・シティーを出て200km、周囲の風景にメキシコ湾を出て以来、とんとお目にかかっていない“山”が見えてきた。そして、樹木の種類も針葉樹や白樺へ。そんな中を、追い風に乗って快適に走るテツと二人。『白樺あ、青空あ、南風ええ』と、思わず喉を突いて出てきた何処かで聞いたことのある歌のフレーズ。南からの涼しい風に押されて、身も心も、まるで“青空”のように晴れ渡る一日だった」。
◆んな訳で、涼しい思いをしながら、2007年から続けてきた「運動器の10年・世界キャンペーン」(WHOの承認活動)の旅も、今年9月9日の最終目的地スエーデン・ルンド市(人口10万人)をもって最終ゴールした。五大陸を66300km、350日を費やしての世界一周だった。
◆思い起こせば、「果たして、僕の足は再び歩けるようになるのだろうか?」と、2004年の事故(第26回大会のパリ・ダカ出場で左足に大けがを負った)以来、通算13か月に及ぶ病院での闘病生活の中では、毎日そのことばかりを考えていたものである。そんな僕にある日、回診にきた医師が「運動器の世界キャンペーン」のことを話してくれた。<健康寿命の増進と健康に対する意識の普及、それを側面から支える整形外科医療の向上>を訴えるこのキャンペーンの内容は、フランスなどの諸外国から比べて、国内の同医療のレベルの低さ(そのシステムや技術格差)にすっかりと落胆していた僕には、ぴったしの提唱内容だった。
◆医療の改善は、それを必要とする一人一人の医療への強い関心とニーズ、そして、問題意識があってこそ前進(国の取り組みなど)する。関心なきモノに前進はなし。事故以前の僕はと言うと、人生まっしぐら、元気と健康は元より俺のモノ。医療になんかまったくの関心も問題意識もなし! だった。
◆が、いつかは必ず自分にもお鉢は回ってくるもの。気がつけば、欧米のどこの国にもある、怪我をしたら先ずは運び込まれる外傷治療の専門病院が日本には一つもない現実(もちろん、そんなことだって知らなかった)。結果として、自分にも記憶のあるあの悲しい体験……となるのだが、一度抜いてしまった歯は治らないように、自分の無くなってしまった膝のお皿も、戻ってはこないのだ。後の祭り。四の五の言ってたってしょうがない。
◆今は足で「走る」事は出来ない自分になってしまったが、バイクでなら走る事は出来る。足の「無念さ」をはらす意味においても、社会性のある活動と長年の夢だった「世界一周」を兼ねたこの行動は、僕の心をガッツリと駆り立てたのだった。
◆そして、あれからもう4年が経った。足の具合は依然と同じような状態だが、ユーラシアの横断18000km(スクーター)から始まった活動は、次のアフリカ縦断21000km(SUVとトラック)に繋がり、その次のオーストラリア横断5150km(他の障害者三人と自転車)、さらには日本縦断2300km(127人の障害者と共に自転車、車椅子、手こぎ自転車で)、そして、今回の南北アメリカとスカンジナビアの縦断19850km(アシスト自転車)。
◆国で言うとロシア、ウクライナ、ポーランド、ドイツ、オーストリア、リヒテンシュタイン、スイス、フランス、スペイン、ポルトガル、エジプト、スーダン、エチオピア、ケニア、タンザニア、マラウィ、ザンビア、ボツワナ、ナミビア、南アフリカ、オーストラリア、日本、アルゼンチン、チリ、ペルー、エクアドル、キューバ、アメリカ、カナダ、ノルウェー、スウェーデンの31か国。
◆世界の各国の医療事情に触れながら、沢山のお医者さんや身体の一部を失ってしまった多くの仲間たちと出会い、あらためて気づいた。身体機能の健全は大切な事だが、健康は必ずしも身体だけではなく「心」に多くのウエイトがあり、健常者とはむしろ心と気持ちの元気者である、と。
◆そして、旅のおしまいは、考えもしなかった「インターナショナル・アワード・フォー・スペシャル・アチーブメント」の運動器の10年・世界委員会からの授賞。僕に良い「罠(?)」をかけてくれた本部のリドグレン博士に直接、初めてお会いして「よくやったね!」と、褒めて貰ったことが、何にしても患者としてのケジメがついたような気がした。(風間深志)
地平線のみなさま、ご無沙汰してます。山梨の田中千恵です。昨年11月にラフカイが逝ってしまったときには、何人もの方が心優しいメールを下さって、本当にありがとうございました。かつさんも私も痛手がかなり大きく、立ち直るまでに時間が少々かかりましたが、おかげさまで、ウルフィー含め3人で今はとても元気にしています。いなくなってみて改めて、長い間旅と人生をともにしてきたラフカイは、パートナーであり、自分たちの一部のようでもあったのだなあ、とその存在の大きさを感じています。
◆個人的な近況ですが、今年の5月に4年間通い続けたヨーロッパのヒーリングの学校をようやく卒業し、めまぐるしい日々から解放されました。6月には念願だった山の中の借家に引っ越しして、トンカントンカンと大工仕事に励んでいます。最近、山水を配管して、水洗トイレまでつけちゃいましたよ。結婚8年目にして、家の中にトイレがある(しかも水洗)ところに住むのは初めてなので、出来たときは本当に感動でした。日々進化ですね。それから、昨年1月に出版された「ウィ・ラ・モラ」が、なんと先月台湾の出版社から中国語版として翻訳出版されました! 中国語タイトルは、『為什麼要一直旅行 ? 與狼犬威爾菲的閃閃發亮之旅』で、『なぜ旅を続けるのか──オオカミ犬ウルフィーと光り輝く旅路』という感じだそうです。なんとも立派なタイトルですが(笑)、デザインなどはほとんど日本語版同様で、丁寧に作られたとてもいい本になっていました。しみじみと嬉しいです。今年は穏やかな冬を迎えられそうです。(山梨 田中千恵)
と き:2010年11月3日(水・文化の日)
12:30 開場
13:00 第1部 講演 『生態系の要はウンコ』
15:00 第2部 近くの里山にてフィールドワーク
(小雨決行)
17:00頃 現地解散(神奈中・一本松バス停)
18:00 懇親会(参加自由、会費別途)
ところ:東京工芸大学 厚木キャンパス 本館3階 031教室
(住所:神奈川県厚木市飯山1583 )
参加費:1000円(お茶つき、中学生以下無料)
定 員:30名(要予約)
◆詳細や申し込み方法などは、伊沢さんのホームページ、『ノグソフィア』http://nogusophia.com/をご覧下さい。
皆様お久しぶりです。香川大学OGのクエです。物事は一度や二度の失敗つきもの、三度目に成功する。言い換えれば三度目の失敗は許されない。そんなプレッシャーを自分にかけつつ挑んだ平成23年度静岡県教員採用試験……。やりました! 三度目の正直! やっと「合格」することができましたー!! 応援してくださったみなさん、本当にありがとうございました。今回は、無事仕事に就くことができた私の近況報告をしたいと思います。
◆大学を卒業して1年半の間、私はずっと静岡県のある中学校で講師(理科)として勤務してきました。昨年度は1年生の学級を持っていましたが、今年度は2年生に付く教員として勤務しています。授業はまだまだ不安定で、「わかりやすく」教えるために、授業の展開や板書計画の準備をしていると毎日夜9時過ぎくらいまで学校にいます。おかげで学校の警備セットはお手のものです。土日も部活が半日ずつあってしっかり休めないことが多いですが、夏休みなどの長期休みがあるため、プラスマイナスゼロかなぁと思っています。
◆中学生の子どもたちは‘取り扱い注意’です。傷つきやすく、周りの人間とトラブルが絶えません。私たちがくだらないと思っていることでも彼(彼女)らは真剣に悩んでいるし、困っています。その気持ちが裏目に出る(反抗的な態度)こともあります。人格形成途中でよくあることですが、時には中学生のきつい態度に私は心が折れそうになり、その度に「学校行きたくない」と親に愚痴を言うようになっていました(中学生みたい…)。
◆そんなとき私の母は「じゃあ休めばいいじゃん」しか言いませんでした。そう言われると、私はその後必ず「行くよっ!」と怒って本当に休むことはしませんでした。母は私の取り扱いが上手いです。こんなやりとりがあったからこそ続けてこられたのかもしれません。
◆講師をしている間には気づかなかったことに、「合格」(採用)が決まってから気づけるようになりました。1つは、自分は一人で生きていないということです。両親、家族、職場の先生方や友人たちが、私以上に採用を喜び、祝ってくれました。自分が主役の人生だけれど、支えてくれる人がいて、その人たちに感謝したりつながりを大切にしたりすることを忘れないようにしたいです。2つめは仕事に責任を持つことです。今までは「講師だから」といって許される、甘えられるところが何度かあったと思います。しかしもう来年の4月からは「教諭」として正規の職員として働くので、言い訳はできません。残りの講師生活で、学級づくりのイメージをできるだけふくらませておきたいです。
◆講師として働くのは、今年度いっぱい(2011年3月30日)までの予定です。合格後は健康診断や身分証明書などを教育事務所に送ります。また、合格者を集めて勤務地の希望や結婚の可能性があるかないかなど聞かれる面接が11月にあります。勤務する学校は基本的に4月1日に発表なのですが、引っ越しをしなければいけない場合はもう少し早い段階で連絡があるそうです。どんな所に行くのか、どんな出会いが待っているのか、ドキドキワクワクしています。少しだけ残念なのは、今担当になっている学年の卒業を見届けられないことです。離任式に泣けるように、精一杯生徒のために働きます!! また壁にぶつかったときは、えもーん、地平線の皆様、相談に乗ってください!!(クエこと、水口郁枝)
10月9日・10日、沖縄県うるま市の中高生による“現代版組踊「肝高の阿麻和利」”が、本来の舞台である沖縄県勝連城跡で上演された。前夜から激しく降った雨も当日午後には上がり、開演前にはグスク(城)の向こうから夕陽が射した。グスクのもとで、演じる者と観る者との境界は消え、そこに居合わせた人たちがつながる気がした。石垣や傾斜、階段、そして火を有効に利用し、160名が歌い踊り、演じる趣向を凝らした舞台は、グスクが会場ならではのものだ。計2000人以上を動員したこの公演に駆けつけた、地平線関係者ほか仲間たちの感想を、簡単にではあるが紹介させていただく(順不同、敬称略)。
◆ずっと見たいと思っていた舞台。ようやく見ることができました。世界遺産を舞台(背景)にした壮大なスケールのなかで歌い踊る姿に感動。役者さん一人ひとりの熱さが伝わってきました。(南澤)
◆二晩とも舞台の時間が近づくと空模様が良くなって、舞台のクライマックスに思わず空を仰ぎ見たくなる時にはいつも星が輝いていて、奇跡みたいな気持ちがしました。勝連城での公演は迫力が違います。ホールで見るよりずっと身にせまる思いがしました。(岩野)
◆初めて観ました。とっても楽しい時間を過ごせました。勝連城の石垣が雰囲気を盛り上げていました。最後の勝連城に向かって頭を下げるシーンではぐっときました。(古山隆行)
◆ライトで幻想的に浮かび上がる勝連城と「肝高の阿麻和利」の組み合わせは、最高にドラマチックだった。地平線のメンバー達(約10人)ともこの感動を分かち合え、感動がデカかったぞ?!(古山里美)
◆舞台を観るのは2回目。でも東京で観た時とは力がまるで違う。ここまで来た値打ちがあったというより、来た人しか味わえない特権。最後に死に神が阿麻和利を連れていくシーンは何度観てもこわい。運命とはこんなふうにどうしようもないものかと打ちのめされる思いがした。(坪井伸吾)
◆きむたかバンドの演奏で踊りたかった。勝連城はすばらしい舞台だと思います。流星も美しく印象的でした。阿麻和利の死のシーンでひとつ流れました。(坪井敬子)
◆初めて観て衝撃を受けました。キラキラした彼らの目を見て、自分ももう1度頑張れることがあるんじゃないかという思いにさせられました。あんなに大切にできる思いがある彼らがうらやましく、尊敬の気持ちでいっぱいになりました。(長田)
◆勝連城で昔あったであろう合戦を現代の若者たちがお城で再現しているのを観て、草場の陰から昔の人が出てくるのではないかと思った。死んだ人も報われていると思った。(山辺)
◆初めて公演を観てとても感動しました! 歴史のドラマや物語は目には見えないけれど確かにその土地に息づいているんだと気付かされました。(奥村)
◆公演終了後、客席だけでなくグスクに向かって礼をした出演メンバーを見て、本当にこの経験が彼・彼女らの誇りになっているんだなぁと思いました。地元を、人を大切にできる人は幸せだ! と感じました。(新垣)
◆念願叶って観ることができて、よかったです。スバラシかったです。(加藤)
◆出演している子ども達が本当に“いい顔”をしている、それがすべてを物語っていると思います。エネルギーがグスクに満ちあふれるのが見えました。(杉山)
◆初めて観ました。とっても幻想的、神秘的でした。東儀秀樹さんの音色もすごかったです。阿麻和利という人物のことも今回初めて知りましたが、人物像にも興味がわきました。(森崎)
◆約550年前にこの場所で起こったであろう出来事を体感し、タイムスリップし過ぎてしばらく現世には戻れず……。そんな夜でした。グスクで演じることの意味の深さを感じ、その時代に思いを馳せた連夜でした。(村松)
◆2008年に浜比嘉島で行われた大集会「地平線あしびなー」をきっかけに、地平線メンバーと交流が始まった「肝高の阿麻和利」。今回の地平線メンバーの県外からの集合には、主催者側も驚いていた。会場には上記の他にも、あしびなーの参加メンバーでもある沖縄在住の高尾さんや関西在住の遊上さん、加藤さん、また沖縄の金細工職人である又吉さんやマングローブ研究家・山上さん(向後さんの著作を読んで感動し、マングローブの世界に進んだという女性)の姿があった。
◆今回の公演は、平田大一氏総合演出による「世界の宝10周年記念大祝祭?城ロマン連続公演プロジェクト?」の一環。勝連城跡での「肝高の阿麻和利」の翌日には、読谷の座喜味城跡で、現代版組踊絵巻宴「読谷山花織の宴」が上演され、これまた大勢の観客を魅了した。そして翌週16日には、北部の今帰仁城跡にて「北山の風?今帰仁城風雲録?」が上演予定だ。
◆10年ほど前までは、お化けがでる怖い場所として地元の人にも怖れられていたという勝連城跡。「肝高の阿麻和利」の舞台活動を通して、そのグスクが「地域の宝」として見直されたことの意味は大きいと思う。「世界の宝は地域の宝」を実感する、その祝いの場に参加できたことを感謝したい。(中島菊代・妹尾和子)
今年の夏は国籍を持たないバジャウの家船に居候していた。ある日、船に電話がかかってきた。インシライニがLOUD(LOUDと書いてあるボタンを押すと、電話機のスピーカーから相手の応答が聞こえる)で応答した。こうすると電話のやりとりが皆に分かる。彼らはヒソ ヒソ話しが好きでないのか、LOUDで話すことが多い。
◆いきなり「あんたは誰だね」という電話だった。応答したインシライニではなく、電話をかけてきた相手がそう言うのだ。インシライニは自分の名を告げた。すると、「そうか、マルイライニはいないのか?」と訪ねるので、「マルイランニは別の船だ」と答えると、「じゃ、またかけるよ」と言ってしわがれた声の男は電話を切った。
◆インシライニは相手の名前を聞かなくても声で相手が誰だか分かっている。各自携帯電話に知り合いの名前が登録してあるが、彼らは学校に行っていないので、ローマ字が読めない。イラストのキャラクターで電話番号の主が誰であるか峻別しているのだが、登録件数が多いと何人もに同じキャラクターを使うことになる。そこでちょっと当てずっぽうに電話して、「あんたは誰だい」と尋ねることになるわけだ。間違っていても皆が同じ状態なので、慣れてしまっている。
◆SNS(ショート・メール・システム)もあり、用件を伝えるだけだったらそれを使うと安く済む。しかし、こちらも字の読み書きができないと使えない。マレーシアに親戚や友人がたくさんいるが、国際電話は高くつくし、知り合いのバジャウで持っている者は少ない。電話の相手は16隻の船の仲間か、インドネシア領内のバリバック島や、パンタイハラパン、バトゥ・プティの知り合いということになる。
◆今年の3月に居候させてもらった時は誰も携帯電話を持っていなかった。3月に不法滞在で警察に拘束され、1か月後に解放された。その時NGOや人権擁護団体が解放に一役買ったが、一番精力的に動いたのは自身もバジャウの血を持つバトゥ・プティの村長だ。彼はいつでも連絡がとれるようにと、リーダー格の二人に携帯電話をプレゼントしたのだ。
◆今は電話で話しをできることが楽しくてしょうがないようで、着メロが鳴ると、横になっている者もガバッと起きて、電話に注目する。国内電話ならば高くないし、プリペイドなので、1万ルピア(およそ100円)分登録しておけて結構話せる。なかなか16隻が一緒になることはないので、連絡に重宝しているが、それ以上に、10km以上離れている者の声が小さな器械一つで明晰に聞こえるということはやはりすごいことなのだ。最近、ギガンガの義母カンキライニの体調が悪いのだが、離れていてもその容態を知ることができる。
◆携帯電話の機種はほとんどNOKIAが独占状態だが、中国製も店に出始めた。中国製は安くて、機能がたくさんついているので、若者に人気がある。電話だけでなく、音楽が聴ける。電話機を買うときに頼めば音楽を入れてくれるのだ。カメラ付きはもちろん、テレビ付きもある。録音もできる。私が子供の頃、父が買ってきたトランジスターラジオに興奮した。兄がテープレコーダーを買ってきて、自分の声が録音再生できたり、好きな音楽を録音再生できることに身震いしたのを思い出した。彼らにとっての携帯電話はそんなレベルははるかに超えていて、特に読み書きができない彼らにとっては情報、通信の革命といえる。
◆携帯電話と通信料は彼らにとってもそれほど高いものではない。活魚やサメ、エイをいつもよりやる気をだして捕れば買えるものだ。より強力なエンジンを買う為とか、杭上家屋を作って、テレビやステレオを欲しくなって、ダイナマイト漁を始める可能性はあるが、携帯電話のためにダイナマイト漁に手を出して自分たちの生活環境を破壊することに手を染めるとは思えない。現在、1年間のうち365日間を家船で過ごすバジャウは彼らだけだろう。携帯を持つことによって、情報革命は起こるが、文化の芯を変えるほどのことはないと思う。(関野吉晴)
相変わらず、各地を転々としています。「働きながら」というのが面白いのです! 7月中旬から9月中旬までは、北アルプス剣岳の山小屋。スタッフはオーナーと私だけというちいさな小屋で、雪に囲まれて夏を過ごしました。
◆下山してすぐに向かった屋久島では、縄文杉の上の小屋からし尿を担ぎ降ろすアルバイト。タンク1本が20?25キロで、1度に2本担ぐ人もいます。ちなみにこの仕事をいやがる人もいますが、私は大丈夫です。多いと1日に800人が来る山で、出したモノの行き先はどうなるのかという興味があって。当たり前のことなんだけど。「いつも食べているものがどう作られるのか?」という疑問と同じ感覚です。
◆そのまま10月4日から沖縄に来て、いまは浜比嘉島の外間家でお世話になっています。新しい畑の土づくりは、雑草の根っこが生姜みたいで手強い! 昇さん晴美さんを見習いながらマイペースでやっています。
◆田舎での「仕事」は、その土地の「暮らし」と密接していて好きです。生きること、という本質に近い所にいる安心感もあるのかも? もうちょっとこんな旅を続けたいと思います。(新垣亜美)
8月の報告会の中で、ジャックさんについて30秒で話した。なんだかとっても失礼なことをした気分になったので、もう少し話させてください。
◆1989年夏、僕はバイクで北中南米を縦断しようとアラスカのアンカレッジに来ていた。運よくバイクはすぐに買えた。しかし保険に入るには北米の免許が必要らしい。試験は週に2回。その貴重なチャンスが何度も雨で流された。落ち込んでいたらYHで会った日本人が、ヒマなら面白い毛皮屋があるから行けよ、と勧めてくれた。
◆その店は町の東はずれにあった。扉を開けると、カウンターの奥にトニー谷(ふ、古い)に似た東洋系の店主がいる。彼は嬉しそうに両手を広げ、日本語で「いらっしゃいませ、まぁどうぞ」と言った。なぜ日本語を? 店主に聞くと、父親が韓国人、母親が日本人だからだという。さらに奥さんがフランス人で、なんたらかんたらで8カ国語話せる、と聞き、この人に俄然興味がわいた。ついでもらったコーヒーを飲みつつ、壁一面に貼られた名刺や寄せ書きに目をはせると、日本の山岳会や大学山岳部の名前の中に「植村直己」という名がある。
◆「植村さんですか、何度か来ましたよ。貴方の座っている椅子に座ってました。静かな人でした。マッキンリーで行方不明、の報が出たとき、私も信じられなくて、自分のセスナで探してみたんですけど……」。そんな話をされたら帰れない。もっと聞きたいと思っていたら、向こうも同じ気持ちだったらしく、「アナタは面白いですね。うちに来てくださいよ」と声がかかり、それから3日間、二人で「世界」の話をした。
◆その中で強く記憶に残っている言葉が二つある。ひとつは「世界を知れば、アナタは寂しくなる。誰もアナタのことを理解できなくなる」もうひとつは「シンゴさんに伝えたいことはたくさんある。なのに私の日本語ではこれ以上は無理だ。今度はアナタが英語をマスターして、来てください」。2年後、僕は南米の端までたどり着き、ジャックさんに絵葉書を出した。それがジャックさんと接点のあった最後だった。
◆時は流れて2001年。河野兵市さんが北極で亡くなった後、河野さんのHPにアラスカの毛皮屋という書き込みがあった。これはジャックさんだ、と思った。あれから10年……、もう一度話してみたい。そんな思いがよぎった。だけど河野さんの訃報のダメージは大きく、こんなきっかけを利用する気にはなれなかった。
◆2003年、アラスカにいける機会が巡ってきた。日本旅行にいる後輩が「坪井と行くアラスカ釣りツアー」という企画を作ってくれたのだ。思い切ってジャックさんにメールしてみると「もちろんアナタのことは覚えている」とすぐに返事がきた。久しぶりに会ったジャックさんは何も変わっていなかった。昔は話に出なかった河野さんや写真家の星野道夫さんのことも、ジャックさんは知っていた。知っていたどころか二人が20歳前後の頃からの付き合いだったそうだ。「いい人はなぜか早く死ぬ。とっても残念です」。ジャックさんのつぶやきが今も耳に残っている。(坪井伸吾)
九月詠送らせて頂きます。
それにしても九月の報告者さわやかでしたね。ほれぼれです。くるくるかけ回る2才のお兄ちゃんも赤ちゃんをおんぶしたおくさんも。いい家族ですね。ではあらあらかしこ。
お囃子の 響きにのりて ありありと
八岐大蛇の 神代あらわる
うねり猛る かぐらの大蛇 黒衣をつつみ
世に伝えきし 和紙のちからを
(石州和紙はユネスコ無形文化遺産)
登り来て 座禅断食の 館につく
眼下に拡がる 相模の海原
対岸の 緑の山に 鳥居見ゆ
陽光ゆれて 海面輝く
秋に入り 喰わずに 坐るもひもじからず
小鳥の声の 無心に響く
健やかな 気とからだ希い 坐す人ら
場の力生まれ 人の和ひろがる
ようやくの 雨滝のごと 激しかり
変動の地球 おさまるか秋
今朝の秋 このさわやかさ この哀しさ
水の惑星よ まだもちますか
CTの 骨蓋骨の中の 細胞に
「もう少しぢゃけん よろしくたのむ」
ステッキと めがねと 歯を入れ補聴器と
フル装備して 今日も旅ゆく
■地平線通信9月号の発送作業に駆けつけてくれた方々は以下の通りです。ありがとうございました。
森井祐介 村田忠彦 江本嘉伸 山辺剣 杉山貴章 緒方敏明 野地耕治 武田力
地平線はみだし情報 「野宿野郎」編集長、加藤千晶さんの初めての本。「野宿入門」草思社から出版される。1000円(+税)
ご無沙汰しております恩田真砂美です。遅めの夏休みのお出かけ直前に通信370号が届きました。サバイバル登山家服部文祥さんの手記におもわず唸り、すぐさま編集長の江本さんの携帯へ電話を入れたのですが、連絡とれずにそのまま米国に出発しました。
◆実は、私も約10年前に奥秩父の沢登りで下山途中に滑落し、15メートルほど落ちたことがあります。滑落しはじめたときは『草をつかめば止まるだろう』とタカをくくっていたのですが、掴んだ草がべろりとはがれてザックの重みで頭が下になって回転し、加速して落ちる自分を感じながら『あー、今回こそだめかもな』と思った記憶があります。
◆急な斜面は岩盤でできていてそこに泥の草付が張り付いていました。そう、掴んだ草がごっそりとはがれたのでした。その時はカスリ傷程度で助かったのですが、全く服部さんの話はヒトゴトではなく、手に汗握るように読みました。しかし、よくあそこまで冷静に表現できるなあと思います。私は、その時の経験がトラウマになってしばらく山に行く気にならず、未だに沢登りは恐くて行けません。なにより服部さん、無事でよかったですよ。同時代を生きる貴重な表現者ですから。
◆私は山を始めたばかりのころはどちらかというと恐いもの知らずで、1年生の頃からかなり急な雪壁も平気で登り下りし、まわりから「山登りに向いている」とかおだてられていい気になったこともあります。若さや無知はときに強さでもありますね。でも、山登りも20年以上やっていると、いろいろな場面に遭遇します。特に、前記した滑落の経験は、どんなところでもあっという間にやられてしまう可能性がある、ということを刻みこんで、今ではすっかり自分でも持て余すほど恐がりになってしまいました。
◆今年の夏休みは9月中旬から10月の初めまで約2週間米国に行っていました。一昨年から目標としている山に登るために、昨年のニュージーランドに続いて今年もトレーニングです。ワシントン州にあるアメリカン・アルパイン・インスティテュート(AAI)のアルパイン・アイス講習会に参加しました。
◆AAIは1975年にワシントン州べリングハムに創設された米国内で高い評価を得ているクライミングスクールです。登山には攻撃と防御という2つの面があります。登るための技術力を上げることと、万が一の場合の確保技術を上げることです。より安全に攻撃するためには、高い防御技術が必要で、特に不安定な性質を持つ氷を登る防御技術は、2冬目を過ごしてなかなか独学では学ぶことができないと実感しました。確信を持って難易度の高い氷に向かうためには、より高い防御技術を身につける必要性を感じていました。特に、それを登山の一環としてやるためには総合的な技術が不可欠です。
◆結果として、今回の講習会は正解でした。参加者は4人で19歳から43歳(私です)という年齢の幅がありましたが、学生時代の合宿を思い起こすようなすばらしいチームワークと内容であったと思います。講師は30歳のクライマー。アラスカやノースカスケードの山々に初登ルートを持つ現役です。ノースカスケードの山域は秋から冬には不安定な天候が続くようで、雨の中氷河の氷を使って連日講習を行い、最終日は快晴の中をベイカー山に登頂しました。
◆氷を見る目や、支点の作り方や下降技術、氷河での確保や救助技術など基礎技術の中にも現役クライマーとしてのコツが散りばめられた内容でした。今回なによりうれしかったのは、講師から「ケイ(谷口ケイさん)のこと知ってるか?」と言われたこと。聞けば、2年前にアラスカのルース氷河で会ったのだとか。「もちろん知っているし、今度一緒に登る約束をしているので、私は技術を上げないといけないんだ」というと、喜んで実践的な技術を教えてくれたんですよ。今、彼ら海外の若手のクライマーにとって日本人のクライマーは憧れの対象でもあるようです。「GIRI GIRI BOYSの市村(文隆さん)、横山(勝丘さん)、裕介(佐藤さん)、天野(和明さん)はすごい!」としきりに話していました。
◆そして、日本に登りに行きたい、とも。日本人として、同時代の現役クライマーが個人名で評価されるのは、今まであまり聞いたことがなかったし、とてもうれしいことだと思います。日本人クライマーの強さは何かと聞かれたので「日本の冬山は悪天の中を登攀することが多く悪条件に強いのが一つかもしれない」と話しました。確かにそうかも、ということでお互い合意しました。
◆強いクライマーを輩出すると言われるスコットランドも、そして今回知ったノースカスケードも、いずれも悪天の中を登らざるをえない山域を有しています。強いクライマーは、悪条件の中で登り込んでいるということなのかもしれません。今回は講師のケビンから、アイスクライミングを本当にやると覚悟するには3年かかるよ、と言われました。「アルパインでのアイスクライミングは絶対に落ちてはいけないスポーツ。2年やれば向いているかどうかわかり、3年目で自分にリードの準備ができているかわかる。4年目で登り込み、5年たってやっと全体像を理解できる」と。うまくなるかどうかは「やりつづけるかどうかにかかっている(If you stick toit.)」とも。私も次の冬で氷登り3シーズン目です。恐がりの私がどこまでできるのか。今年こそ正念場になるかもしれません。(恩田真砂美)
チリの救出劇、このあとがきを書いている時点で「4人生還」と伝えられている。33名全員の脱出には48時間かかるというが、生還者の表情に意外な沈着、冷静な印象を受けるのは、2か月あまりの完全な「外界断絶生活」で体得した何かがあるのかもしれない。二度と味わいたくない状況だろうが、そういう中で得るものとは、何であろうか。
◆勝連城での「キムタカ」公演、大いに心が動いたが、フロントに書いたようにその時期、富士山にひかれてしまった。参加した皆さんの感想で雰囲気がよくわかった。少し悔しいが、どれもこれもはできないよね。「キムタカ」の心をここまで広げたリーダーの平田大一さんに、ただただ拍手を送リたい。(江本嘉伸)
10/15日(金)…開場 18:00 開演 18:30
トーク:関野吉晴
10/16日(土)…開場 14:00 開演 14:30
トーク:関野吉晴
◆トークショーは上映後40分
[入場料]大人1000円・大学生800円・高校生以下500円・モンベル会員800円
タンケンの未来
「俺はコーディネーターで参謀本部。今回はあえて、自分でやりたい気持ちを抑えて、チームワークで臨んだ結果の大発見だから、このプロジェクトの未来が窺えてうれしいんだ」というのはNPO法人南アジア遺跡探検調査会理事長の岡村隆さん。この7/28〜9/6の遠征隊を出し、スリランカ、ワスゴムア国立公園内の密林で大規模な仏教僧院遺跡を発見しました。 探検隊長でもある岡村隆さんが同国の仏教遺跡探査に関わったのは、法政大学探検部時代の予備調査から41年。プロジェクトとしても'73年の初調査以来37年という長きにわたります。一大学のOB会中心の調査から発展し、'08年にNPOを結成。今回の隊は6つの大学探検部をはじめ、19才から68才までの幅広いメンバー構成となりました。 総勢14名、一ヶ月に及ぶ活動内容も、密林探検のほか、地域への遺跡保護啓蒙活動や地元児童への学用品援助など多岐にわたりました。「スドゥカンダ遺跡」と呼ぶ今回の大発見のいきさつを中心に、長期探検プロジェクトの未来を探る岡村隆さんの試みを、今月は話して頂きます。当日は数名の隊員の参加も予定しています。密林探検の映像もたっぷり。乞御期待!! |
通信費(2000円)払い込みは郵便振替または報告会の受付でどうぞ
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議(手数料が120円かかります)
地平線通信371号/2010年10月13日/制作:地平線通信制作室/編集長:江本嘉伸/レイアウト:森井祐介/イラスト:長野亮之介/編集制作スタッフ:丸山純 武田力 中島菊代 大西夏奈子 落合大祐 加藤千晶/印刷:地平線印刷局榎町分室
地平線Webサイト http://www.chiheisen.net/
発行 地平線会議 〒160-0007 東京都新宿区荒木町3-23-303 江本嘉伸方
|
|
|
|