2010年8月の地平線通信

■8月の地平線通信・369号のフロント(1ページ目にある巻頭記事)

地平線通信表紙

「32年目の夏の、反骨」──知らなければ、消されることはなかった……。

 中国が閉ざす3つの村(エイズ村、臓器狩りの村、日本人が作られている村)を訪ね、さらに毒入りギョーザ事件の真相に迫った矢先に、僕は信頼する取材パートナーを失った。彼は、遊学した先の異文化に過適合しすぎたために、自国文化に戻った時のエントリー・ショックが激しく、ナショナリズムに沸く中国の「異端狩り」の対象となった。身から出たサビ? 自虐的な言い回しではない。ダンマパダ(法句教)の教えでは自らの行為の結果を自ら引き受ける覚悟のことだ。僕らが情報をやり取りしていたグーグルのGメールがサイバー攻撃に遭い、メール通信も断たれた。「ネットの自由」を掲げて中国から撤退をするとまで闘いの姿勢を見せ、頼りにしていたグーグルも巨大市場を前に腰が砕けた。

 ギョーザ事件の背景には、日本企業の買収という国家戦略(走出去)が隠されている。事件の発覚する二日前に日本の発売元JTは株価を4万5千円以上も一日で下げている。クロスボーダー取引という空売りを乱発して、ハゲタカはシンガポール市場を飛び立った。「国家の犯罪……」。パートナーの身の安全と行方を、胡錦濤の後継者といわれる旧知の習近平副主席に求めた。その直後に毒入りギョーザ事件の実行犯が、電撃的に逮捕された。

 同時に、僕は「CNN(チャイナ・ネガティブ・ニュース)」と「アンチCNNドットコム」に名指しで非難を受け、気がつけば権力を敵に回してたった一人抵抗していた。

 32年前の夏、生野暮熱鈍(きやぼねつどん)、生真面目で野暮で熱っぽく鈍くさい人間たちが集まって手弁当で「地平線会議」を立ち上げた。既成のメディアや団体そして権力に媚びないと、あの時の反骨を僕は忘れてはいなかった。

 北京オリンピック後、「好都合な事実」だけを積み重ね、中国は爆走している。安保の危機さらに領土(領海、領域)への脅威が同時並行的に日本を襲っている。日米中のそれぞれの関係は「Frendmy」、Frend(友人)とEnemy(敵)を使い分け、リスクを回避し合って、真の関係は一面では測りえない。

 「やさしい戦いで勝つより厳しい相手に負けた方が強くなれる」と、僕は中国語で出版することにした。中国人に次のように語りかけた。「中国は経済、軍事などパワーでは日本を追い抜き、やがてアメリカに並ぶマイティ・キングダム(強大国)になるだろう。だが、真のリーダーとして問われるのは数字に表せないソフトの力だ。東洋の古来より根付いた宇宙観『徳』を提唱したのは孫文だった。徳という人間力を日本人に教えてくれたのは蒋介石だった。65年前の8月15日の終戦日、多くの中国人が旧日本軍の犠牲になったにも拘わらず、『同胞よ、中国には“人の旧悪を思わず”と“人に善を成す”という高い徳性がある』と、日本に対する損害賠償権を放棄した。『怨みに報いるに徳をもってす』という老子の『以徳報怨(いとくほうえん)』の東洋的空観をいまの中国人は忘れていないか」

 「徳」という「他人の痛みを知る」慈悲観は、国境、文化、民族を超えて東洋人には共通に持ち合わせている最も身近な安全保障であることを中国人にも、日本人にも言いたい。

 40年ほどの中国との行き来のなかで、中国との関係を僕なりに恋愛観で喩えてみた。恋人時代は「異質性に出会い、心をときめかす」相手であるが、愛が芽生え「同質性を求めることで安心を共有する」相手となると不安になってくる。いまの日中関係は、「恋人以上、結婚以下」ということか。中国の異文化に遭遇し、「日本人離れ」という言葉で、その異質性に驚かされたこともあった。職場や学校そして家庭……日本社会に浸透する中国人に同質性を求めて安心感を持ち合うまでにまだ時間がかかるだろう。

 生物的に言えば、「免疫」の次に「寛容」が起こるらしい。生き物は、異物を拒絶する「免疫」という作用でまず自衛する。人間社会も同じで、国境紛争、異教徒や文明の衝突、また家庭では嫁と姑の諍いなどは「免疫」がなせるワザである。「免疫」は自分の他の存在に気づくと、受け入れようと「寛容」を生む。寛容=トレランスが共生社会の枠組みを生み出してくれる。9のつく年はやはりナイン・シンドローム(波乱)が起きた。0のつく年、その政権交代も初期化された。時代の産みの苦しみに、もう一度くらい立ち会ってみてもいいか。(森田靖郎・作家)


先月の報告会から

変わりゆく北極圏

荻 田 泰 永

2010年7月23日 新宿区スポーツセンター

■第375回の報告者は、今年北磁極まで徒歩で行ってきた荻田泰永(おぎた・やすなが)さん。来年は日本人初の単独無補給北極点徒歩到達を目指す北極冒険家が、変わりゆく北極圏の現在と、自身の活動の軌跡を語った。

◆はじまりは、「とにかく自分を変えたくて」2000年に大場満郎さん企画の「北極圏を目指す冒険ウォーク」に参加したこと。その時の自分にとっては北極での冒険じゃなくても、どこでも、何でもよかったのだと言う。当時荻田さんはアウトドアの経験も無く、海外旅行も初めてという全くの素人だったが、同じく素人の若者を中心とした9名の参加者と一緒に大場さんに引率されてレゾリュートから北磁極まで700kmを35日間で歩いた。北極圏でカルチャーショックを受け、帰国後しばらくは貴重な体験の余韻に浸っていたが、半年ほどして、荻田さんは以前と何も変わっていない自分を発見する。

◆そして今度は自分1人で行ってみようと思い立ち2001年にレゾリュートを再訪。しかし、北磁極まで1人で歩く実力はないことを痛感し、レゾリュートでの訓練に切替えた。この1か月の滞在中に河野兵市さんや各国の冒険家と出会い、刺激を受けた。これが荻田さんにとってはもう一つの始まりだったのかも知れない。

◆北極通いの資金はガソリンスタンドやガードマン、都内の某高級ホテルでのルームサービス等のアルバイトを掛け持ちして貯めた。6か月間休みなしで毎月25万円蓄えたというから大した実行力だ。もっとも現在は北海道の鷹栖町に移住し、次に目指している北極点となると今までとは桁の違う費用が掛かるので、スポンサーを募る事にしたという。

◆翌年の2002年にはレゾリュートからグリスフィヨルドまでオールドエスキモーの道を500km単独徒歩踏破。2003年はカナダ北極圏ビクトリア島の単独徒歩行をした後、夏にはビクトリア島へツンドラトレッキングに行き、野生動物の観察や現地のイヌイットの人々との交流等、北極圏での活動の幅を広げていった。さらに2004年はグリーンランド(シオラパルク?アンマサリク間)の内陸氷床2000kmを小嶋一男さんと共に犬橇で52日間かけて縦断した。この小嶋犬橇隊での日々は、山岳部等の経験が無かった荻田さんにとっては良い経験になったという。

◆2006年にケンブリッジベイに1か月滞在してカナダ北極圏の情報収集。2007年にはレゾリュートからケンブリッジベイまで1000kmの単独徒歩に出発するが、500km地点で断念。2008年には再び夏のビクトリア島へ、野生動物とイヌイットに加えて今度は皆既日食も観察した。そして2010年、北磁極まで単独徒歩行。10年ぶりに今回は1人で北磁極に到達した。

◆映像に映っている荻田さんの装備はすごい。まるでFRP製ボートの様に見える橇は、大場さん企画の時に作って貰った物がレゾリュートに置いてあり、それを使用している。装備を満載すると約120kgあるというこの橇をロープで体にくくり付けて引く。足回りは歩行用スキーにシールを釘で打ち付けた物、ただし雪が少なくて氷の状態がよければスキーを外して歩いた方が速い。食糧は1日約5000kcal、テントは注文生産、ブリザードで停滞するとき等には短波ラジオに5mのアンテナコードを付けて日本のラジオを聴いた。

◆今回はこれらの装備にJAMSTEC(海洋研究開発機構)から委ねられたブイが加わった。バレーボール大のブイはGPS内蔵の小型気象観測装置になっており、荻田さんと共に移動している間も、3時間ごとにデータを送り続けていた。荻田さんの手によって北磁極に設置された後も、バッテリーの寿命が尽きるまで半年位はデータを送信し続けるそうだ。

◆今回の北磁極行では映像はあまり撮影しなかったという(バッテリーは1セットも使い切らなかったほど)が、報告会では前回の遠征の分と併せて貴重な映像が紹介された。北極はけして平坦ではない。-30℃程度の寒さは当然としても、向かい風が強くて橇が前に進まない、島の上にはアップダウンがあり積雪も柔らかくてきつい、海上にも乱氷帯や水平線の彼方まで一直線に伸びるプレッシャーリッジ(諏訪湖の御神渡りの様に氷が割れて盛り上がったもの)、氷山、海氷の割れ目等の障害物が次々にあらわれる。

◆しかもこれら氷の割れ目の周囲には水面の出ている部分があり、そこへ空気を吸いにやってくるアザラシを狙ってホッキョクグマが出没するので、危険である。このような場所ではキャンプをしてはいけません、というお役立ち情報(?)を交えつつ、映し出された映像にもホッキョクグマのオシッコが凍って15cm位の氷柱として雪原に突き立っている珍しい写真や、荻田さんに興味を持ってうろつくホッキョクグマと、それを一生懸命に追い払う荻田さんが写っていた。

◆今年の帰路は海氷の状態が悪くて途中で断念、イギリスの環境調査隊のキャンプまで戻って37日間の単独徒歩行を打ち切り、彼らと合流、帰りの飛行機に乗せてもらって帰還した。総勢7人の調査キャンプは快適そうで、氷に切った穴にプランクトンネットを入れたり、200mの水深から採水したりといった調査をやっているかたわらで、荻田さんは有り合わせの材料で餃子を作って振舞った。それまでの単独行中とは打って変わってアットホームな雰囲気だ。美しい映像と荻田さんの語り口からは、北極圏の厳しさよりも楽しそうな印象を強く受ける。しかし歩いているときには何でこんな事をしているのかと考え、やめたいと思うと語るとおり、やはりつらく厳しい事なのだ。37日間の単独行を終え、調査キャンプにたどり着いたときの荻田さんの涙が印象的だった。

◆報告会後半では、野生動物やイヌイットの生活も含めた北極圏の現在が紹介された。北極海の氷の厚みは1978年頃には4?5mはあったはずだが、現在では1?2m、それが水深4000mの海水の上に乗っているだけなのだから非常に割れやすくなっている。氷の大きさも2007年が最小になったが、今年2010年は最小記録を更新する勢いである。このように激変する北極圏のデータを欲しがっている研究者がいれば、荻田さんは現地へブイ等の観測装置も持って行くし、降雪サンプルの採取も行っている。これは自分の活動に社会性を持たせたいと考えているからでもある。

◆氷の上ではアザラシ、ホッキョクギツネ、ホッキョクグマとも遭遇する。今年は遠くで1頭目撃しただけだが、3年前には24日間で10頭ほど見た。70mの距離で撮影した大きなオスの映像は迫力があるが、前足が汚れているのは最近アザラシを食べて空腹ではない事を示しており、比較的安全なのだと言う。また、親子連れのホッキョクグマは、子供が親の背中に登ったりしていて、美しくも微笑ましくもあり、こんな映像は見たことがない。

◆一転して夏のツンドラには多くの生命が溢れていて、世界最大(バスケットボール大)のウサギ、ライチョウ(イヌイットは煮て食べているが、臭みがある)、牛より少し小さいジャコウウシ(一度絶滅してグリーンランドから移入されたもの)等のほか、オコジョがレミングを捕獲した瞬間を捉えた貴重な映像も紹介された。

◆荻田さんもイヌイットと一緒に、カリブー狩りに行った。スズキ製でも「ホンダ」と呼ばれる4輪バギーに乗って、ライフルで撃つ。獲ったカリブーは15cmぐらいの小さなナイフ1本でその場でみるみるうちに解体。秋のカリブーは脂がのっていて一番美味だというが、映像を見ているだけでも美味そうだ。網を2?3日間仕掛けておくとアークティックチャー(ホッキョクイワナ)が簡単に獲れる。これをさばいて干物を作る。マクタック(鯨の皮下脂肪)や、ゴムの様な食感のカモの胃袋も食べてみた。調理は基本的に塩茹でだけでそれをダンボールの上で切って食べる。魚をさばく時や、調理用に肉を切るにはウルと呼ばれる扇型のナイフを使う。基本的に女性が調理に使う物らしいが、ステンレス製らしきウルは見た目もユニークで、調理器具にうるさい、あの久島弘さんは興味津々だった。

◆現代のイヌイットの生活には自然の中で生きてきた伝統的な部分と、近代文明の利器、ライフスタイルが入り混じっている。荻田さんが撮った映像にはその混交ぶりが良く現れていて、それ自体資料的価値も高いものだ。行動者としてだけでなく、表現者としての今後の活躍にも期待がふくらむ。(氷河洞窟探検家 松澤亮


報告者のひとこと
真剣勝負がしたい━━北極点への旅というのは、自分の中では「一人称の旅の一区切り」という位置付け

■北極に通いだして10年。北極の海氷上を歩いているときに常に考えていたことは「なんでオレってこんなことやっているんだろう?」ということだった。考えても考えても、明確な答えは出ず、そのたびに現状を納得させるような場当たり的な結論に終始していたように思う。

◆北極に行くようになったきっかけは大学を辞め、無目的に生きていた自分自身の現状を打破して一つのことに全力を注ぎたいという思いを満たしたかったからだ。それが偶然に北極であっただけのことで、一歩間違えば砂漠だったかもしれないし、十歩くらい間違ったら宇宙飛行士を目指していたかもしれない。これまでの10年間は「自分だけの旅」を行ってきたつもりだ。自分で立てた目標を自分でクリアして、いかに消化していくか?というものであって、全て一人称で完結していた。それが良いとか悪いとかいう話ではなく、これまでの旅は「一人称であるべき」という思いを持っていた。

◆これまでも「自分の思いを伝えたい」という願望はあったが、アウトプットするにはそれ相応のインプットが必要である。自分のやっていることは人に自慢できるようなことではないし、それほど広い世界を見てきたわけじゃない。まだまだ足りないと自覚していたが、ようやく今になって広くはないかもしれないが一般の旅行者よりは深く北極を見てきたんじゃないかという思いが出てきた。そろそろ単なる「一人称の旅」にもケリをつけたいという思いが出てきた今日この頃である。

◆ダムだって雨が続けば放水するのだ。世間一般の人が気軽には行かない場所に行く我々のような者の存在意義の一つは「伝えること」であると、最近はより一層強く感じる。しかし!「じゃあ、お前は誰かに伝えるために北極に行くのか!?」と問われるならば否である。その質問の明確な答えは氷上で僕の頭の中をグルグル回っていたように、今もって回転中かもしれない。

◆今回の報告会の中では、最後に江本さんから「北極点に今更行くことに何の意義があるんだ?それほどのリスクとお金を費やしてやるべきことなのか!?」という投げかけを頂いた。次に考えている北極点への無補給単独行は、行動それ自体には意義はないかもしれない。それは自分自身でも分かっているつもりだ。

◆北極点への旅というのは、自分の中では「一人称の旅の一区切り」という位置付けだ。やはり北極海(島嶼部や沿岸部ではなく)をこの目で見てみたいし、体験してみたい。僕はずっと前から「北極の全てを見てみたい」という願望があり、やはり北極海を経験しないで終わるのは片手落ちであるという気がしてきた。その経験も大きなインプットの一つであり、この目標をクリアすることで次のステップに安心して進める気がするのだ。

◆正直、今回の報告会は言いたいことの10分の1くらいしか言えなかった気がする。話したいことは山ほどあったから時間も足りないし、本当はもっと真剣勝負をしたかった。最後の江本さんのツッコミのような「僕の化けの皮をはがす」強烈な一撃をドンドン放ってほしかったのだ。きっとその価値観の攻防戦のなかで多くの刺激を得て、新しい世界を見ることができるのだと思うから。でも、それをやり始めるときっといくら時間があっても足りないんだろうなー。(荻田泰永


地平線ポストから

毎日は一日も同じ日はなく、ちいさなドラマの連続だった
━━モンゴル遊牧民修行1か月の記

■ウランバートルのアパートに約1か月住んだ後、バヤンチャンドマニの草原にもどっているスレンさん家族を訪ねた。6月27日のことだ。そして家族5人が住む草原のゲルで遊牧生活をともにさせてくださいとお願いしたのでした。

◆ゲルは、「羊基金」から購入した中古の4枚壁ゲル。昔のゲルは、材質もよく組み立てやすいから良いと家族が言って選んだもの。草原にたたずむそのちいさな白いゲルはもうずうっとそうして住んでいたかのよう。そして、スレンさんがゲルの日陰に座り羊を見守る眼差しは遊牧の長い経験を想像させる落ち着きがあった。わたしは「指さし会話帳」と分厚いモンゴル語辞書だけを持ち、モンゴル語ほぼゼロからのスタート。

◆着いたばかりのころバーサに手綱をひいてもらい馬に乗って草原を案内してもらった。楽しそうに話をしてくれる。大好きな馬のこと?もうすぐのナーダムのことだろうか。内容を想像して聞いていると歌のように心地良い。けれど話してくれているのにその何か、が全く分からないのは申し訳なかった。その後、私の下手なモンゴル語を家族に通訳してくれて、ユーコ・エナー!(お姉さん)と呼び始めてくれたのもバーサ。13歳の好奇心とバーサの優しさにいつも感謝だった。

◆はじめは、遊牧生活のリズムがまだ分からなくて朝のスーテーツァイができるころまで寝ていたのだけれど、ある時ヤンバさん(バーサの母)とバーサが外泊しゲルを留守にしたことがあり、それまで見よう見まねだったことをやることになった。そんな時スレンさんは、次からつぎへと仕事をやってみせてくれた。訊ねると「ティ」(そう)、目を見てにこりと笑った。

◆朝一番早く起き、かまどに火をおこしてお茶を沸かす、遠くに行った牛を迎えに行き乳搾りの準備(乳搾りはあまりにも下手でスレンさんがやってくれた)、子牛や母牛の放牧のあと、ゲルの周りや羊の囲いの糞の片付け、鍋・茶碗を洗ったり、掃除、ご飯の支度、ウルムを作る、アルガリ(乾燥糞の燃料)を草原に拾いに行く、バーサの弟3歳のバーサンダワーと一緒に遊ぶ。来客にはスーテーツァイをいれ「ウヌードゥル・ハローン・バエナー」(今日は暑いですね)、と片言のモンゴル語をつかってみる。仕事はたくさんあった。

◆わたしは自分のできることを積極的にするようになった。夜中の雨音にも目が覚め、天窓を塞いだりもした。ある朝、「ユーコ・バーサ・ボソレー!(起きて)」と言われた時はびっくりしたけど、このゲルに住む一員になったような感じがしてうれしかった。毎日は一日も同じ日はなく、ちいさなドラマの連続だった。

◆ある日、近くの小高い山を散歩した。ひとりで行こうとしたら、バーサたちが一緒に行くとついて来た。そこはバーサたちが羊を放牧しに馬で行き、私がいつも眺めていた場所。少し高いところに行っただけなのに草原から見る風景とは全く違った。連なる山並み、草原は様々な緑色をしている、流れる川には空が映ってひかり、たくさんの馬や牛、羊の群れが見える。放牧をしながらいつもこんな風景を見ていたなんて。もっと早く来れば良かったなあ。

◆バーサがたくさんバッタをつかまえて来てせーの!で飛ばして遊ぶ。これは食べられる草だよとおいしそうにして、私の目をのぞきこむ。味は不思議だけど山の上で食べると格別。バーサがバーサンダワーを抱っこして馬に乗り歌っている。大きな雲がぐんぐん移動して草原は雲のこもれびのよう。……こんな時を過ごせるなんて、しあわせを体中で感じる。

◆遊牧生活はモノは少なくても工夫があった。紐は細いミシン糸を4本取りにして端と端でねじってから半分にして撚りをかけて作った。アメが一つでもバーサはそれを歯で割って二つにした。一つの鍋で一つの食事、一つの茶碗でおかわりをする。

◆食事が終わったらスーテーツァイをいれて飲む。タラグ(ヨーグルト)は最後にきれいに茶碗をなめる。いつも心が満ち足りるように感じるのは、家族に笑顔があり涙あり、搾ったばかりの牛乳でつくるスーテーツァイがあり、夜はゲルに包まれるような揺れるろうそくの灯り、みんなの寝息に安堵し、家畜を守って過ごす、そういう中で生きている実感が常にあったから。

◆幼くても仕事があり、年老いてもその経験を伝える仕事があり、体力のあるものは力のいる仕事をし、それぞれが尊重されるものを持っている。遊牧の暮らしは、助け合って成り立つ暮らしなのだなとつよく感じた。

◆ずっと続くように思えた時間も終わりがきて、私はウランバートルに帰ってきた。お別れもつらかったけれど、アパートの部屋で一人きりでいることがこんなに寂しくなるなんて想像していなかった。ゲルの扉を少しかがんで入るといつも誰かがいた。外にいるとユーコ! と呼びにきてくれた。草原にもどりたかった。

◆放牧が終わった頃の時間帯を選び、携帯に電話をかけた。三日目の晩、やっとつながり「バエノー? ビー・ユーコ・バエン」(もしもし、ゆうこです)と言うと、アルジル兄さんが驚いた声で私の名前を呼んだ。電話の向こうが賑やかになっている、ああ、楽しそう。ヤンバさんは最後に明るい声で「マルガーシ・イレレー!」(明日いらっしゃい!)と言った。

◆スレンさんの言った「草原にもどりたい」という意味は「家に帰りたい」と同じことだったのだ。そのことに気づいた時、アパートの部屋で自分でもあきれるくらい、まるで子どものように泣いていた。(平田裕子


平田裕子さんの「羊基金」報告会のお知らせ

■モンゴルでスレンさんへの支援活動を手伝ってくれていた平田裕子さんが7月26日に帰国しました。家畜やゲルの購入に奔走し、その後、スレンさんのゲルに25日間滞在していました。今回は、ひつじ支援の報告とスレンさん家族の遊牧の生活をご紹介します。報告会後半では、モンゴル事情に詳しい江本嘉伸さんから「社会主義から市場経済に移行したモンゴルの真実」のテーマでお話をしてもらいます。平田さんがバーサたちと作ったアーロール(乾燥ヨーグルト)を用意してお待ちしております。(本所稚佳江 puujee製作委員会)

★日時:8月26日(木)午後7時(開場6時半)
★会場:北沢タウンホール 3階ミーティングルーム(世田谷区北沢2-8-18 TEL:03-5478-8006 小田急線、京王井の頭線下北沢駅南口徒歩4分)
★参加費:500円


相変わらずメディア受け、一般大衆受けとは対極のことをぐだぐだ考えながら、飯豊連峰を60キロの荷物を担いで縦走

■7月末、高温多湿の飯豊連峰を60キロの荷物を担いで縦走した。ヒザも腰も全身もボロボロだけど……。疲労の極にあっても、気分は妙に落ち着いて、集中力は高まった。千日回峰行などの荒修行でも似たようなことが起きると聞いた。無我の境地ってやつかなぁ。自分が求めているのは、松尾芭蕉の漂泊の旅と千日回峰行の荒修行がないまぜになった山行なのだろうか

◆そして……登山を追求したその先にあるものは、他のスポーツ同様の数値だろうか、それとも奥義のような世界だろうか……といったかんじで、相変わらずメディア受け、一般大衆受けとは対極のことをぐだぐだ考えてます。(田中幹也

★追記:(60キロも何のために背負ったの? 信じられないよ! との真っ当な質問に対して)「仕事で飯豊連峰主稜線縦走です。荷物の内訳は、他のガイドとお客さん計15人分×2泊3日の食料、燃料、コンロ、コッフェル、テントなど。乾燥食品主体では味気ないから、メロン、スイカ、生野菜、イワナまで担ぎ上げる。単独だったら2か月間くらい補給なしで歩ける分量。乾燥食品主体では味気ないのでメロン、スイカ、生野菜、イワナまで担ぎ上げた。皆さん大満足だった。でも、大名登山にぜんぜん興味ない私は、3日間ビスケットとお茶だけで通した」


あのショクダイオオコンニャク、指宿でも開花!! 父もしっかり観察しました……

■南の町からこんにちは、野元菊子です。先月小石川植物園で話題になったショクダイオオコンニャク(燭台大蒟蒻)が、こちら指宿でも8月2日開花したんですよ。一昨年にも2株開花し、なんと2年後の今年、そのうちの1本が開花するというんです。前回見れませんでしたので、今年こそはと7月30日からインターネットで朝夕チェックし、ついに8月2日朝開花が始まる、とお昼のテレビでも確認しました。

◆父と夕方5時半に家を出て車で5分の「フラワーパークかごしま」の温室に会いに行きました。93歳の父の足取りがゆっくりで、入り口からたった200mを多くの人に追い越されやっと温室に入りました。そのとたん、モアーとした臭いが広がり、さほど広くもない温室の回廊のようになった階段の下の段には、大きな木製の鉢に3mほどに伸びた1本のオオコンニャクの葉が出迎えてくれ、その上の踊り場に置かれたもうひとつの鉢に2.42mの巨大な花が。

◆近づくにつれ臭いも強くなり、私としては臭いの分析をと鼻を最大限働かしたのですが、やはり魚、肉、生ごみの腐敗したような臭いに、山川漬けの臭いも混じっていたのはもしかして地域柄?

◆この花を93歳にして初めて見る父は、大勢の人達の中、一番近い所まで行きじっくり見ていましたが、父の鼻は歳のせいか臭いを感じなかったとのことでした。帰りはさすがに疲れたらしく、園の出口まで2回休みを取りながら歩きました。いつも、いろんな事に興味を持つ父に兄達と感心しています。

◆その後9時半に行った友達は結構並んで見て、臭いもしっかり嗅ぎ、近所の方は翌朝3日開園に合わせて行って、花はすでに閉じ始め、臭いは全くしなかったそうです。あっという間の開花でしたが、強烈な臭いで甲虫を誘い短い時間に受粉を手伝ってもらい子孫を残そうとするパワーに圧倒されました。

◆「実家」の小石川植物園からの花粉で人工授粉したそうで、種ができるのが楽しみです。世界最大の単体の花はラフレシア。ショクダイオオコンニャクは世界最大の花序、長い心棒の下部に小さな花の集まりが仏炎苞という葉の変形したものに隠れています。この仏炎苞、血の色ともいうそうですが、深いエンジに芸術的なヒダ、自然の造形美に感激しました。江本さんもこちらにいらっしゃるのが2週間早ければ、この開花ショーに立ち会えましたのに……残念でした。

◆後日談です。鰹節工場の社長家族が仕事場から直接見に行っていたそうなんですが、その場で別な見学者の間からこんな声が。「とっても臭いと聞いていたけど、鰹節の匂いがするのね」。で、誰も自分たちが匂いの発生源とは言えなかったそうです。地元の人でしたら気づいたと思いますけどね。(野元菊子


本のタイトルは「知力が衰えた人の言葉は無視しよう」にすればよかった
━━年寄り蹴球人、炎暑のたわごと

■ワールドカップも終わり、日本ではサッカー熱がもうすっかり冷めた感じだ。戦前はさんざんだったが、カメルーンに勝ったとたん手のひらを返すように岡田監督は大礼讃された。「目標に達しなかったじゃないか!」などと野暮なことは誰も言わない。ベスト8に行き、大いにワールドカップを盛り上げたアルゼンチンのマラドーナ監督はクビになったというのに。「世界の壁は大きかった、どうしたらそこを突破できるのか!」という議論はほとんどない。日本のサッカーの先行きは暗いなあというのが現在の感想だ。

◆そんなことを言いながら、わが高齢者チームは40℃を超える「くそ暑い」なか江戸川や新小岩、夢の島の芝生グランドで練習試合をしている。ワールドカップでサッカーが終わったのはニワカ応援団だけで、代表選手はもうそれぞれの新天地で活躍を始めている。私たちだって(オイオイ代表と一緒にするなよ)暑かろうが寒かろうが芝生の上で走り回れる幸せを感じている。

◆わがチームのユニフォームは日本代表に似ている。ワールドカップの寝不足がたたってここ2か月ほど、オランダ色や青の縦縞チームにたてつづけに負けている。私が60歳になった時に、高校OB仲間でチームを作った。都内にはたくさんのオーバー60歳チームがあるので、対戦相手には事欠かない。ほとんどがメキシコオリンピック時代にサッカーをやっていた年代だ。高校時代授業をさぼって、東大本郷キャンパスの御殿下グランドまで川渕、杉山らのプレーを見に行ったものだ。青の縦縞チームにはメキシコ3位の立役者釜本と一緒にやっていた連中もいる。でもいま私の方が走れるかも!

◆正月には国立競技場でオーバー60歳の全国大会も開かれている。東京はオーバー70歳が元気で、60歳代の「若手」は球拾いだ。というわけで私はまだ国立競技場の芝生のピッチに立ったことがない。還暦過ぎた賀曽利隆さんも時々わがチームに助っ人に来てくれる。彼は現役時代その後のイナリクラブでも名センターフォワードで、試合数よりも多い得点が自慢だった。まだ得点はないが、まだまだ現役で試合をこなしている。さすが鉄人カソリ。

◆私はマラソンで鍛えているのでかなり走れると思っていた。しかし長距離とサッカーの走りはまったく違う。短いダッシュを繰り返す筋肉は衰えており、創設2年目に急加速してアキレス腱が断裂した。整形外科では「60歳にもなってアキレス腱を切るような運動をする人はめったにいません」とあきれられた。それでも松葉杖をついてダッシュの練習をしたおかげで、10か月で復帰。その後は突き飛ばされても足をかけられても上手に転ぶことができるようになった。サッカー選手は派手に転ぶが、ほとんど怪我はない。相撲だってあれだけブン投げられても大丈夫なのは慣れているからだ。

◆10月23日(土)に南会津から桧枝岐で100kmウルトラ遠足をやることになり、その手伝いをしている。私の仕事はコースづくり。自分が走りたいコースなのだが、スタッフなので当日は走ることができない。先日一部だけ試走をしてみたが、尾瀬の入口沼山峠までひたすら1200m登る。「こりゃマラソンではなく登山だね!」と言われる始末。「10月末には雪が降るよ!どうするの?」と地元の人から言われる。

◆代表の海宝さんは「おれが責任をとるから大丈夫」と言うが、300人もの参加申し込みがあるので少々心配。登山中に立ち往生したランナーを連れて下ろせるトレーニングもしておかなければ。サッカー日本代表で証明されたように高地トレーニングが効果的とのことなので、先日から富士山、乗鞍岳と3000mの高山で心肺機能を強化している(秘密情報では最近E本さんも3000mの高山でトレーニングをしているらしい)。8月2日からは奥さまとの観光を兼ねて黄龍、チベットのラサと3500m以上の地を歩いてこようと思っている。

◆地平線会議でも「体力さえあれば知力もついてくる」と言い続けてきたが、「体力をつけ過ぎると知力は減退する」ことが体験的に近分かってきた。この言葉を信じて、体力強化に励んできた人たちには謝らなければならない。ここのところ自分の過去の言動に反省しきりだ。「明日できることは今日やってはいけない!」が信条です、とのメールがアメリカ在住の恐竜学者から届いた。「これからは農の時代だ!」との教えを実行している連中もいる。「CO2の増加が温暖化を招いた」(温暖化したからCO2が増えた)などと、さんざんウソを教えてしまった。「もうそんな言葉忘れてくれ!」、なのに今回埜口さんにのせられて「こどもたちよ冒険しよう!」と言う本に参加させてもらった。タイトルは「知力が衰えた人の言葉は無視しよう」にすればよかったのにと反省をしている。(三輪主彦


[先月の発送請負人]

地平線通信7月号の印刷・発送作業に汗をかいてくれたのは、以下の方々です。

森井祐介 車谷建太 海宝道義 今利紗紀 江本嘉伸 三上智津子 落合大祐 杉山貴章 埜口保男

★久々に海宝道義さんが来てくれ、ほにゃらかうどん、海宝流特製ベーコン入りレタススープ、たこの燻製などの珍味を振舞ってくれました。ありがとうございました。


重そうな大型の冷凍トラックがゆっくりとだが、センターラインを越えてこっちへ突っ込んでくる!
━━太平洋岸西進「尺取虫」方式父子自転車旅2010年夏恐怖瞬間

■まだ工事してて未供用のトンネルに阻まれ、国道260号線が慥柄浦(たしからうら)の集落を避けるバイパスから海沿いのつづら折れ旧道に戻ると、眼下には贄湾(にえわん)の青い海。きょうは少し波が立っているようだ。260号線は、太平洋岸を伝う国道の中でも指折りの「酷道」だが、改良が進んで虫食い状態で整備が進んでいる。

◆写真を撮っているうちにモトはさっさと坂道を上がって行ってしまった。上り坂はイヤだ、と言っていたモトが、ことし中学生になってからどんどん先に行ってしまうようになった。口では相変わらず「もうイヤだ」と言っているが。

◆坂の頂上で待っていたモトに追いつき、先に行ってよいと手を振って合図する。後ろからも前からもクルマは来ない。カーブが多いので見通しが悪いが、海沿いの爽快な坂道を下って行く。

◆贄湾の景色によそ見をしていたら、右ブラインドカーブからトラックが上がってくるのに気付くのが遅れた。重そうな大型の冷凍トラックがゆっくりとだが、センターラインを越えてこっちへ突っ込んでくる!

◆狭い下り坂の急カーブ、あわててブレーキをかけたモトのMTBは後輪が路肩の外側へ滑って、バランスを崩しかけている。トラックを避けようとガードレールぎりぎりで私もブレーキをかけたが、路肩に散らばった砂利で滑る滑る! モトは何とか転ばずにトラックとすれ違った。滑る私のMTBとも、トラックの前頭部はぎりぎりでかすめて行ったが、今度は迫り来るガードレール。あわや白い鋼鉄の生け贄になるかと思うところで、なんとかバランスを取り戻した。

◆「危なかった。死ぬところだった」とモト。いや、ホントやばかった。親子ともケガひとつなく済んでよかった。「もしあそこで死んでいたら、自転車の旅に連れ出した父をずっと恨んで、呪って出てやる」。

◆モトがそう話すこの夏の自転車旅は、2年前の夏の旅の終点だった三重県志摩磯部から、昨年の出発地、尾鷲までの約95キロ。慥柄浦はその中間の旧南島町、いまの南伊勢町にある。

◆2007年に東京の我が家から品川まで走り始めた太平洋岸を西へ「尺取り虫」で進む旅は、スキップしていた区間を埋めて、これで和歌山県の日ノ岬まで約1200キロがほぼつながった。あとは伊豆西岸の北部、険しい山道56キロほどを残すのみ。自転車の旅、楽しいと思うんだけどなあ。(落合大祐


コラム・地平線
どこ行ってもいいよ。

■北米を走って横断したときに、暑さのために一度はバスで越えてしまったカリフォルニアのモハベ砂漠が最後に残った。再びその場に戻ってきたのが11月。気温はもうあがっても35度もいかなかった。砂漠を越える道は2本。どちらも高速道路。仕方ないので路肩を走るとすぐに警察に捕まる。

◆水を補給するためにガソリンスタンドに寄り、オーナーに道を尋ねる。自分の足で砂漠を越えようとしていると知ると、「正気か?」とか「そんなことできると思ってんのか?」とよく言われた。高速道路以外の道が本当にないのか、というと、そんなことはない。砂漠を走る送電線の脇には数か月に一度、補修点検のために四輪が入る。そのための荒れた道がある。ところが高速道路しか使わない彼らは、その道が自分の家の裏を走っていても知らないのだ。それでいいのか? もし何らかの事情で道路がふさがれたとき、このガソリンスタンドは陸の孤島と化す。そのときに自力でここから抜け出す手段ぐらい知っておくべきじゃないのか。

◆高速脇の乾燥しきった岩山に上って砂漠を見下ろす。物凄いスピードで走り抜けていく車が見える。きっとクーラーの利いた車内でドライバーは「砂漠ってきれいだな」とか思っているのだろう。そんな人ばかりでいいのか? 全員が同じ道に乗ったら、道が使えなくなったときに誰も対処の方法が分からない。「あ、オレ、道路は嫌いだから砂漠行くわ」という変人が世の中には必要なのだ。

◆砂漠に踏み込んでみてわかった。刺の鋭い木がチクチクするけど、それでも進めないことはない。枯れた川の跡を進めば楽チンだ。塩湖なんて、すべてが道やん。なんで今まで道路にこだわってきたんだろ。こんなん全部、道と思えば道やし、そもそもなんで道を走らんとあかんのや。

◆「子どもたちよ、冒険しよう」って本を地平線の先輩たちと書いた。その過程でいろんな人にインタビューして、今の子どもたちって大変だって思った。でも全員が同じレールに乗ってスピードを競おうとするから大変なんで、自分だけの荒野は高速道路の脇に無限に広がっている。どこを走っても歩いてもいいのだ。だけど自分の意志で道を降りたなら、言い訳は無しだ。(坪井伸吾


印象的だった“小林淳報告会”と「小林淳特集」といってもいいような地平線通信7月号

■昨夜(7月15日)、江本さんと一緒に横浜の小林家を訪ねた。6月の報告会の報告者、小林淳君の実家だ。江本さんはできたての「地平線通信」を持ってきてくれた。なんとそれは「小林淳特集」といってもいいような号で、小林淳君のお父さんともども、その場で読みふけってしまった。久島さんの「先月の報告会から」はじつに力のこもったものだし、相沢さん、宮本さん、丸山さんがそれをフォローするかのようなコメントを寄せている。寡黙な、いや寡筆な宮本千晴さんがよくぞここまで書いたものだと感心したが、それは小林淳君だからこそのことなのだ。

◆驚いたのは淳君の弟さん、治さんのコメントだ。冒頭で「兄の身勝手で自己中心な行動の結果がこれです。こんな馬鹿げた話がありますか。私は家族を無視した兄を決して許さない!」といっている。これは20年前の小林淳君の仮葬儀のときの言葉だという。ぼくはそのとき、50ccバイクでの「世界一周」の最中で、淳君の仮葬儀には参列できなかったので初めて聞く言葉なのだ。なぜ治さんのこの言葉に驚いたかというと、淳君が東アフリカで消息を絶ったあと、お父さんと弟さん、それとカソリの3人で6000キロにも及ぶ長く辛く苦しい捜索行の旅に出た。そのときの治さんは終始、穏やかで感情を顔に表さず、淳君に対してもすべてを許しているかのように見えたからだ。

◆「地平線通信」の最後では、「小林淳君を想う」と題して日本観光文化研究所(観文研)の仲間だった須藤護さんと印南敏秀さんが胸にジーンとくる長文を寄せている。これを読んでお2人の心の中にはいまだに「小林淳」が生きていることを知った。余談になるが須藤護さんは龍谷大学の教授、印南さんは愛知大学の教授。観文研が解散したのは1989年3月31日のことだが、それ以降、何人もの観文研のメンバーが大学教授になっている。これは宮本常一先生の血を受け継いだ観文研メンバーのレベルの高さの証明だと、ぼくは思っている。6月の報告会では小林淳君を蘇らせただけでなく、観文研にも改めてスポットライトを当てる結果となった。

◆今回の小林淳君の報告会のそもそものきっかけは4月29日のことだ。ぼくは治さんに呼ばれ、小林家を訪ねた。お父さんがどうしても、淳君の足跡を追ってアフリカに旅立つといってきかないのだという。高齢のお父さん一人が何日ものアフリカの旅をつづけるのは、残された家族にとってはたまったものではない。何とか思いとどまらせてほしいという。ぼくとお父さんは戦友のような関係といったらいいだろうか。40日間の東アフリカ捜索行ではお互いに命を張ったので、強い絆で結ばれている(と思っている)。お父さんはぼくが行くと幾分、気持ちがほぐれたようで、久しぶりの再会を祝して酒宴になった。ホロ酔い気分になったところで、ぼくはその場の思いつきで江本さんに電話した。地平線会議の報告会でお父さんに話してもらおう、とことん「小林淳」を語ってもらおうと思ったのだ。

◆江本さんもさすがだ。「ちょっと待て、カソリ」といって、いったん電話を切った。それから20分ほどしてから、今度は江本さんから電話があった。「小林淳を主役にしての報告会をやろう」というのだ。思ってもみなかった江本さんの言葉。見事な発想の転換ではないか。こうして前代未聞の、報告者のいない6月の報告会になった。

◆6月の報告会を成功裏に終え、こうして「小林淳特集」といっていいような「地平線通信」に目を通していると、地平線会議発足当初の報告会が思い出されてならなかった。報告会はカソリの担当だったが、その狙いは2つあった。1つは様々な体験をした人の生の声をより多くの人たちに伝えたいということ。もうひとつは報告会を取り仕切る我々が、報告者の報告に刺激を受けて、よりアクティブに行動していこうというもの。その流れを変えることなく、報告会はつづいてきていると思う。それが今回、報告者のいない報告会をやったことによって、いままでにはない効果を目の当たりにした。小林君のお父さんは生きる自信を取り戻したかのようで、歳が2つも3つも若くなったように見える。小林家に笑いが戻ったようにも見える。

◆昨夜、小林家ではまたしてもご馳走になり、酒宴になった。ホロ酔い気分になった江本さんは、「小林淳の本を作ろう。売れる本を作ろう。後世に残るような本を作ろう」と言いだした。「どうせ出すなら大手(の出版社)がいい」と威勢がいい。酒宴からはじまった小林淳君の報告会なので、今度は酒宴からはじまる小林淳君の本となるかどうか…。これは見ものだ。江本さん、ひと肌、脱いでくださいよ。(賀曽利隆


ヤルンツァンポにしのびよる開発を映像化!

◆ロンプラ(Lonely Planet)『チベット』の著者、マイケル・バクリーがチベットで進む開発と、ダム建設による水資源争奪戦を映像化した『メルトダウン・イン・チベット』の上映会を行います。氷河・永久凍土の融解と砂漠化、巨大ダム建設による下流国の漁業被害には目を覆うばかり。フォトジャーナリスト野田雅也さんの独自取材報告も。(落合大祐@SFT Japan)

★日時:9月5日(日)14時半〜
★会場・協賛:JICA地球ひろば(東京・広尾)
★参加費:500円

地平線通信ではこのお知らせのタイトルが、「平田裕子さんの『羊基金』報告会のお知らせ」のところについていました。web版では訂正しておきます。

フィリピン、ペルー、エクアドル、キューバ……。
トロント発「死のロード」簡略版ログ その3

■アート・バルデス氏のバランガイ・チームは、マストを超す高さの荒波と強風、太平洋からの潮流が直撃するフィリピン南部の外洋で沈没の危機にさらされたとのこと。悪天候に耐えられるような強度はないひ弱な縄文パクールで、これからのバシー海峡越えは致命的な事態になり兼ねないと心配している。翌6月11日、朝から昨年のミッション・インポッシブル交渉の際に知り合った海軍や気象庁、マスコミ関係者とコンタクト。もうとっくに台湾に着いていたかと思っていたらしく、これからバシー海峡越えといったら全員が声をそろえて遭難は間違いなしという反応だ。

◆午後、コーストガードのガルシア司令官と面会、丸2時間がかりで中止を勧告される。裏読みすると、フィリピン側も台湾側も付き合うのは危険すぎるということで伴走を押し付け合ったのかも知れない。ドクトル関野氏に電話連絡、状況を伝える。ヘタをすると声を聞くのもこれが最後になるかも? 不足分の経費支払いを済ませ業務終了、徹夜で経費精算。

◆12日午後、一時帰国。ドミニカでお世話になったJICAのスタッフが一時帰国中で、カーニバル関係者と高円寺のメキシコ飯屋にて歓迎会。翌朝、ドクトルより電話で、中止を決定との連絡が入る。やれやれだが、テレビ局の担当者へ2時間がかりの状況説明で苦戦。2日間で後始末と買い出しなど準備を済ませ、ペルー関連の会議を2つこなして成田へ。出がけに釣り具屋で風間氏からのリクエストのテンカラ糸を購入。成田のラウンジから、リムジンバス車内で殴り書きした地平線通信お原稿を送付。

◆15日23時、リマ着。預かってきたバイクのタイヤが引っ掛かり、通関に手間取る。交渉の結果、80ドルで手打ち。居候先で2時間の仮眠後、早速バイク旅がスタート。どこでも変わらずガッハッハの風間氏とマネージャー氏、サポートのフランス人チェリー氏とドライバー役のペルー人2名の合計6名で、トルヒーヨまで一気に移動となる。夜、マネージャー氏がパスポートが無いと大騒ぎ。結局見つからず、一人リマまで戻って再発行手続き?。

◆3日間でエクアドル国境に近いトゥンベスまで走破。首都キトまでの伴走車さがし。6月19日、久しぶりのエクアドル入国。バナナ畑の中を走り抜け、2日間でキト着。旧市街や赤道記念碑で証拠写真撮影後、バイクをヒューストンまでエアカーゴで送る手配にかかる。何とか時間をやりくりして、アンデス東側斜面のパパヤクタまで、レンタカーで釣りに出撃。あいにくの小雨の中、国立公園の管理小屋に寄ると、ワールドカップのデンマーク戦でちょうど日本が勝ったところであった。標高3500メートルの湖で風間氏はルアー、清く正しいフライ・フィッシャーマンの当方はストリーマーを分投げるが、ターゲットのニジマスは水底についているらしく、フライに反応なし。結局、ガッハッハの風間氏が3本ヒットで敗退となる。

◆25日、マンゴーやグラナディー、ピタハヤなどトロピカル・フルーツを食いまくってから、空港へ移動。バイク送付がやや不安だったが、あとは任せてパナマ経由キューバへ。ハバナの空港で後発のドクターと合流。翌日、外務省報道局でプレスカードをゲット。ハバナ市街を一回りし、文豪ヘミングウェーが入り浸っていたダイキリ発祥の店フロリディータで3人そろって沈没。

◆28日、元ボスが調達してくれた中国製人民自転車で市内を一回り、スティールとビデオ同時撮影は難しい。終了後、共同通信ハバナ支局のインタビュー。メールで写真を2点送付するのに2時間以上かかる。翌日、国際的評価の高いフランク・パイス外科病院とラテンアメリカ医科大学を訪問。風間氏はキューバでの再手術を決定した模様。医療先進国キューバの高度な技術と医療システム(しかも無料!)には、両氏とも感嘆したご様子で、仕込み甲斐があったというものだ。ついでに裏技を駆使して仕込んだキューバ革命の英雄、チェ・ゲバラの娘アレイダ女史(小児科医)との面会にも成功。午後、両氏はメキシコ経由で帰国。

◆風間氏は地球元気村のイベントなどで7月13日まで2週間ほどの帰国となり、その間はどこかで暇をつぶしているべしとの仰せ。当初は震災後半年がたつ近場のハイチの現状を視察しに行こうかと思っていたが、日本での業務が山積みのため自腹で一時帰国を決定する。ゲバラの長男カミロ氏に会って極秘計画の打ち合わせを済ませ、メキシコシティーで本屋巡りと露店のタコスを満喫した後、アトランタ経由で東京着。

◆国際免許証の更新、魚眼レンズ買い出し、クレジットカード再発行その他事務処理に走り回り、大宮で9月中旬からペルーでの学術調査に参加する各分野の学者5名と事前の顔合わせ。東チモール出撃のお話が来ていたが、残念ながらスケジュールがあけられそうもない。参院選投票日、超泡沫候補に貴重な一票を投じ、翌日またまた成田のラウンジから通信お原稿を送付しヒューストンへ飛ぶ。着いてみたら、なんとまだバイクは到着していなかったという想定外の展開にびっくり!

◆というところで、簡略版ログもきりがないので、これにて終了。死のロードはまだまだ続く!(ZZz


僕が生まれ持って備えていた、親としての本能をようやく使う日がやってきた
━━西牟田夏柚(なゆ)ちゃん誕生の一瞬━━

■7月16日、僕と妻の間に初めての子どもが生まれました。2500グラム弱。僕によく似た目の細い女の子です。このまま僕に似ずに、目のくりっとした妻に似てくれることを祈るばかりです(苦笑)。2月や5月の報告会には身重の妻と二人で参加したのですが、妊娠していることに気がついたのは落合さんだけでした。一人をのぞいて誰にも指摘されないことが、正直なところ、僕にはとっても意外に思えました。

◆話は出産前日の7月15日にさかのぼります。就寝後、陣痛が5分間隔で訪れるようになったところで、病院へ向かいました。15分ほど車を走らせた午前1時すぎ、病院に到着しました。まずは大部屋をあてがわれますが、陣痛がじわじわと強まって来たため、午前2時頃、慌ただしく陣痛室へ移動しました。

◆陣痛室には3?4つベッドがあり、カーテンで仕切られています。ほかにも1人、陣痛に苦しむ女性がいるらしく、うめき声が聞こえました。ベッドの横には背もたれが1メートルほどの大きな椅子がありましたが、妻が痛がるせいもあって心配で眠るどころではありません。

◆翌朝、6時台に助産師が検診にやってきました。このころ陣痛は約3分の間隔でした。その後、うつらうつらしたり、朝にやってきた妻の母親と話したり、検診の時は席を外したり。妻のためにすることといっても、陣痛促進のために廊下を歩くのに同伴したり、赤子を押し戻すような気持ちで妻のお尻をぐいぐい押したり、手を握って元気づけたりぐらいしかすることがなく、お産の現場では男がいかに役に立たない存在なのかを思い知らされます。

◆午後3時頃、助産師がやってきて、陣痛が6?10分間隔になる一方、破水したという旨を伝えてくれました。疲れて寝てしまったところ、陣痛が弱まったのだそうです。それを聞き、本当に今日中に出産があるのか心配になりました。

◆時を同じくして向かいの妊婦が分娩室へ向かいました。野生動物の咆哮のような声が閉じられたドアの奧から聞こえます。1?2時間ずっと聞こえるので、知らなかったらどんなにひどい拷問が行われているのか心配になったのかもしれません。午後5時頃、咆哮は止み、代わりに赤ん坊のおぎゃあおぎゃあという元気に鳴き声が聞こえました。出産に安堵する一方、次はいよいよ僕らかと観念します。

◆5時半頃、出産を開始すると助産師に告げられ、除菌用の服を着て分娩室へ入ります。助産師が5人ほどいます。部屋に入ると妻は「ふーふー」と腹式呼吸をしていて、お産に集中している様子です。痛くてベッドに寝ているしかないといった感じでしょうか。僕の話を聞くことはできますが、彼女の方から込み入った話はもはや出来ません。妻は横を向かされ、陣痛促進のための点滴を打たれます。担当の医師が登場すると、助産師は妻を仰向けにしました。

◆歯科医院のような台が足の部分だけ左右に開きます。医師はとても手際がよく、麻酔の後、すぐにメスで開陰します。妻は痛い痛いと顔をゆがめ、呼吸は「ハァーハァー」と我慢強い妻にしては、かなり辛そうな声になります。直後、助産師の一人が分娩台の上に乗り(乗らずに押していただけかもしれない)、妻のお腹を全体重を乗せるようにして上から押します。

◆妻も「うおーうおー」という理性の吹っ飛んだ声になりますが、さっきドアの向こう側から聞こえた獣の咆哮に近い声に比べると、野生に帰りきっていない様子です。その間に医師は便所掃除のパッコンのようなものを使って赤ん坊を吸い出して、頭が出たところで台の前から退きます。そしてかわりに、太っていて力のありそうな柔道家風の助産師さんがまだ内蔵の一部といった感じの血みどろの赤ん坊を引っ張り出します。赤ん坊はへその緒を切られ、四角いアクリルのトレイのようなものに入れられました。

◆2時間ぐらいかかるはずだと思っていたこともあって、あまりに早い出産に拍子抜けしました。運命の転換の早さに気持ちがついて行けませんでした。生まれたのは入院してからは20時間後のことで、分娩室に入ってからは約20分後のことでした。陣痛が弱かったため、自力ではなかなか押し出せず、疲れた赤ん坊は心拍を落としてしまいました。このままでは赤ん坊の命が危ないということで、医学の力を使って無理矢理、赤ちゃんを外に出したようです。30代半ばの勤労妊婦が自然分娩で子供を産むということは難しいということなのでしょう。

◆「抱いてみますか」と助産師さんがいうのでアクリルケースに近づきます。すると赤ん坊、黒目がちな瞳であたりを見回したり、岡本太郎のように「芸術は爆発だ!」と両腕をびろーんとのばしたり。はたまた、舌の感じを確かめているのか口を開けて舌を出したり引っ込めたり、タオルをくわえようとしたり。そうした不思議な動きを見せます。小さくて猿のようで正直、あまりかわいいとは思えません。だけど、抱いているとなぜか愛情がわいてきます。僕が生まれ持って備えていた、親としての本能をようやく使う日がやってきた、ということなのでしょう。

◆助産師にお願いして胎盤をみせてもらいます。シャーレに入れられて出て来た胎盤は裏表が逆で、へそを中心とした肉の花のように見えます。重さは550グラム。さわり心地や見た目はレバーに似ていなくもないですが、へその管に栄養が集まるように血管が集まっている点でまったく違います。内側についている3つの膜に守られて、赤ん坊は育ったようです。

◆「いままで、赤ちゃんを守ってくれてありがとう」僕は胎盤に手を合わせます。昨年、この膜が破れたために、4か月の胎児を亡くしたという苦い経験をしています。だからこそ最後まで赤ん坊を守ってくれたことが、本当に嬉しかったんです。夕食後、陣痛室に戻り、初の授乳を見届けました。教えてもいないのに、赤ん坊は妻の乳房に吸い付きます。これもまた、人間が備えた生きのびるための本能なのでしょう。赤ちゃんの誕生は僕の今までの人生ステージを別の局面へと誘うものに違いありません。だけど、人生が変わったという実感はまだまだわきません。(西牟田靖

★追記:さて、妻が子供を産んだ日から約1週間後、拙著『僕の見た「大日本帝国」』の文庫版が角川学芸出版から発売されました。税込みで940円、よろしくお願いします。


車をゆっくり走らせていた彼女が突然「ハブ!!」と叫んだ。前方に目をこらすと、まさしく1メートル60センチもあるような大きなハブでライトに照らされて枯木のように山道に横たわっていた
―鷹匠、奄美大島に行く その2―

■むし暑い夜だった。その日(6月4日)私は車の助手席に乗せられて奄美の森の奥深くの山道に生き物たちを捜して分け入っていた。ライトに浮かびあがる周囲の森はスダジイやヒカゲヘゴが生えるうっそうとした亜熱帯の原生林。車谷建太一台が通る狭い林道には様々なシダ植物がおおいかぶさり、夜の森を一層不気味なものにしていた。

◆運転しているのは埼玉から奄美に移り住みアマミノクロウサギなど希少動物の生態調査をしている36才の独身女性。たまたま奄美に出発する3日前に、一緒に猛禽調査をしている友人から紹介されたのだが、以前は奄美の野生生物保護センターにも勤務し、爬虫類や両生類、とりわけカエルが一番好きでカエルの皮で作ったサイフを持ち歩いているという。

◆奄美の珍しい生き物を捜すには、夜の山道を時速20キロぐらいのゆっくりしたスピードで車を走らせ、道路上や道端に出てきたのを車のライトで照らしながら観察するというやり方だ。夜もふけた9時、奄美大島中部の深い森は闇に包まれ、車の前方の細いジャリ道だけがライトに浮かびあがる。まるで獲物を狙う1頭のクロヒョウのようにゆっくり車を進めているとまもなく「アマミハナサキガエル!」と教えられた。なるほど道路上に小さなアオガエルがそのとりわけ長い足でジャンプしている。さすがに目がはやい。さらに進むと今度は道端に赤と白のまだら模様のアカマタという大きなヘビを発見した。これも初めて見る種類だ。その後もまるまると太ったオットンガエルや側溝の中でとぐろをまいているヒメハブ、奄美にしかいない珍鳥アマミヤマシギ等を見つけて私を喜ばせてくれた。しかし、その一方で私は自身の狩猟本能をおさえるのに懸命だった。奄美野鳥の会にも所属し、自然保護意識の高い彼女の前で「獲りたい、食いたい」などとは口が裂けても言えないではないか。さらに森の奥に車を走らせていくと、今度は道端の草むらの中にいる奄美の生き物の代名詞ともいうべきアマミノクロウサギを見つけてくれた。本州のノウサギよりもひとまわり小さく、その毛色は黒というよりも灰色に近い黒褐色で、ライトに照らされた目だけが小さく光っていた。世界中のウサギの中で最も原始的形態を持つことから生きた化石と呼ばれ、奄美大島とその隣の徳之島だけに奇跡のように生き続けている。その後もクロウサギは何度も道端や道路上に現われ、3時間ほどの間になんと7回もその姿を見せてくれた。私ひとりではこんなに多くの希少動物を見つけることなど到底不可能だったろう。

◆一晩時間をさいて案内してくれた彼女にただ感謝していた。しかし、この日はさらなるサプライズが待っていた。車をゆっくり走らせていた彼女が突然「ハブ!!」と叫んだ。前方に目をこらすと、まさしく1メートル60センチもあるような大きなハブで、ライトに照らされて枯木のように山道に横たわっていた。それを見たとたん、もう私のおさえはきかなかった。すぐに車から下りて「これは獲らないと」というと、「えーっ、獲るんですか!」「吸引器も持っていないのに……」「咬まぱたらシャレにもならない」と明らかに止めたい口ぶりだったが、もう戦闘モードに入った私は彼女の制止の声も耳に入らない。確かにハブの恐ろしさはすさまじく、これまで多くの人命を奪い、たとえ血清を打ったとしても肉が腐り、重度の後遺症が残るといわれている。私にしても小柄なサキシマハブは石垣島や西表島で何度か捕まえたことがあるが、本物のハブとは初めての遭遇である。捕まえる道具など何も持っていなかった私はいつものマムシを捕まえる要領で、近くに落ちている1メートル位の長さの木を拾い、それでハブの頭を押さえることにした。ハブは自分の強さに自信があるのか私が近づいていっても逃げないで泰然としている。私はハブの横のほうから木を差し出し静かにソーッと頭を押さえた。と思ったらボギッ、と木が折れた。枯木だったのだ。一瞬「まずい!!」と思ったが、ハブは反撃をもせず、少しヤブに逃げ込んだだけでまたジッと動かずにいる。

◆そこで70センチ位に短くなった木を持ってまた近づき、後から彼女の「短かい!」と危険を告げる声が聞こえたが、そのまま頭を押さえ込んだ。そしてハブを入れるものもないのでザックの雨ブタの中に直接入れてチャックを閉じたのだったが、こんな時いつも思い浮かべるのは雨ブタの中から逃げ出した毒ヘビが私の首にからみつくという光景でそれは背筋が凍るような恐ろしくも楽しい想像だった。大ダコと格闘した海や猛毒のハブを捕まえた森、奄美に残された自然は私の野生をかきたててやまない、野生の王国だった。

◆もう深夜の12時近くになっただろう。山道を下っていく私たちの背後には多くの魅力的な生き物を棲まわせている奄美の樹海が黒々と広がっていた。(なおこのハブは観光ハブセンターで4000円で買い取ってもらったのだが、ザックの雨ブタから取り出す時、牙をむきすごい勢いで飛び出してきてその攻撃のすさまじさをまざまざとみせてくれた。)(松原英俊


地平線通信持って、中印国境の未踏峰へ

■「何持って行こうかな」でBCのテントからつまんだ地平線通信2010年6月号、パンゴン山脈マリ峰6587m(中印国境・未踏峰)の6000mのC2のたった一人のテントでイザーク・パールマンの演奏を聴きながら読ませてもらっている。明日は3年前ともにマリ峰をめざして果たせず、2年前浜比嘉島の「あしびな?」を皆さんとともに楽しみ、昨年春雪の黒部に逝った岳友の遺骨をザックに入れて共に頂上、そして西峰への縦走に向かいます。無事帰ったら第5回白山神駈道走破のとりくみ、ふるさと石川の山の古道復活作業が待っています。(7月11日マリ峰C2 登攀具に腹ばってメール・「白山神駈道登山文化振興会」おじ児こと西嶋錬太郎 テント内に置かれた地平線通信の写真を添えて)

★後日談:余りにも複雑峻険なマリ峰、結局、またしても登れず、7月12日登頂した6513m峰をバルマカンリと命名しIMFに届けました。しようもないですね。頂上からパンゴン東端とその向うのチベットアクサイチン方面が見えました。


彼らは気楽な格好でやってきて、あちこちで高山病で倒れています

■黄龍というところを知ってました? 九寨溝は有名ですが、飛行場をはさんだ南北40キロほどのところにそれぞれの珍しい地形があり、世界遺産になっています。黄龍はトルコのパムッカレと同じ石灰棚地形なので、ぜひ見たいと思っていました。黄龍の宣伝はあまり見ないので、たいしたことはなかろうと見くびっていましたが、行ってみたら驚き。トルコびいきの私ですが、こっちのほうが規模も大きく、周りの景色もすばらしい。

◆しかし、ここまで来るのは結構大変です。今は九寨溝空港があるのですが、むかし関根皓博さんが来たころはバスで10時間もゆられたそうです。今も中国人たちは大挙してバスを連ねてやってきます。3600mもの高地なのですが、ロープウェーがあるので彼らは気楽な格好でやってきて、あちこちで高山病で倒れています。

◆私たちは九寨溝(高いところで3100m)で高度馴化をしたので、快調にすばらしい石灰岩地形、すなわちCO2削減でできた地形を堪能しています。黄龍にはホテルが2軒しかありません。中国人たちは3万人が泊まれるという一大リゾート地の九寨溝に移動して行きました。九寨溝はチベット族の村で、チベット服の人たちが大勢いますが、ホテルや土産物屋はほとんど中央の資本です。

◆世界的な景色をお金持ち外国人だけが見る時代は終わり、ふつうの中国人も来られるようになりました。こんな山の中のホテルで、NHKの美空ひばり塩屋岬を聞きながら、メールしています。この地方にとって今はどういう時代なんだ、そんな思いでいます。これから成都経由でラサに行き、青蔵鉄道で西寧に行きます。(8月7日 三輪主彦


かわいい家族が増えたから、お金が欲しくて、カフェの皿洗いも始めました。ホテルのジェニターの仕事もまだ続けています

■こんにちは。ご無沙汰してます。こちらは、蚊ばかりだったシーズンが終わり、蜂に首を刺されて騒いでいたら、今度はブラックフライというアブの一種がはびこるシーズンが到来しました。夏は兎に角、虫だらけです……

◆最近、アラスカに久しぶりに行ってきました。ランスから5匹(うち3匹はちょっと不安ですが)の子犬と、アリーから2匹(うち1匹は6歳のリーダー)を買いました。両方とも有名なマッシャーで、いい人達です。ということで、現在は合計13匹の犬舎です。犬小屋を作ったり、木を切ったり、ポールを立てたり……色々頑張りました。

◆で、かわいい家族が増えたから、お金が欲しくて、カフェの皿洗いも始めました。ホテルのジェニターの仕事もまだ続けています。忙しいけど、短くなっては来ましたがまだ日が長いし、冬にはできないことをなんとか片付けてます。もう少ししたら、軽いトレーニングも始めます! あ、まだ薪の準備が手つかずの状態です。やる事満載の我が家へ是非手伝いに、いえ、遊びに来て下さい。それではまた!(カナダ・ホワイトホース 本多有香


久見の夜神楽
金井 重

草ふみて 風土記の丘の 昼下り
 鶯の声 遠く近くに

ざわざわと 右に左に 身をゆらす
 波のりさやか ぶなの木の森

ごつごつの 古木の枝葉 しなやかに
 涼しくゆれて 生命のつながり

みちのくに 銅鐸銅剣 出土なし
 自然を崇めし わが祖たちよ

鈴・太鼓 笛の音高く 夜神楽の
 白き幣 巫女の舞清し

まんまるの 中天の月 しみじみと
 猿田彦の舞う 神楽を照らす

黒き海 船をはばむか 波音高し
 南硫黄島 いま明けんとす

姿かくし 水平線を 赤々と
 染めし太陽 蚊帳のなか

平べったい 硫黄島の上にむくむくと
 白雲重なり 仁王現る

海鳥の 群舞とソロと さまざまに
 北硫黄島の 海と空の青


アララット山に蛇を見た

■アララット山(5137m)はトルコ、イラン、アルメニアの国境に位置するアナトリアの名峰である。近年まで、軍事的問題やクルド族の問題が外国人の登山を閉ざしてきた。しかし、最近は政府の政策転換もあり、比較的容易に政府および地元軍隊の許可を得ることができる。

◆アララット山は「旧約聖書」に出てくるノアの箱舟伝説の山として有名であるが、個人的にはシュメール神話そして日本神話へと続く流れを紐解くヒントが隠れている地域として、文明史的な視点から興味を抱いていた。馬による荷の搬送が可能となる雪解けを待って、この6月に5人の仲間たちとアララット山を訪れた。

◆登山開始から4日目、未明のアタックキャンプ(4100m)から山頂を目指した。眼下には山麓の街ドゥーバヤジットの灯りが瞬き、月の光が蛇の目のように皓々とアララットの山肌を照らしている。ここから上部は雪と氷の世界。アイゼンを利かせながら着実に高度を稼いでいった。ところが、白々と夜が明け始めるころになると、濃厚なミルクを流したような白い霧に覆われて、ほとんど視界が利かなくなった。ホワイトアウトの冥界に入り込んでしまったのである。先行していた数隊が、頂上を確認できずに下山してきた。

◆風はそれほど強くないが、立ち止まっていると凍えるような寒さを感じる。酸素飽和濃度は80%台前半。それでもズキズキとした頭痛やパクパクと酸素を求める喘ぎは感じない。ドーム状の岩峰を巻いてやや急な斜面を上り詰めると、そこは頂上稜線に繋がるのっぺりとした雪面である。隊列を組んで歩き続けると、程なく山頂に立つことができた。6月23日AM10:30。優秀なガイドとGPSのお陰であった。

◆メンバーと抱き合って登頂を喜ぶあいだにも、雲行きはさらに怪しくなった。下山を急がねばならなかったが、沸くようにして闇は運ばれてきた。雷鳴が轟き、稲妻が大気を切裂く。そして嵐のような降雹。上昇気流に舞い上げられた氷粒は宙返りを繰り返しながら成長し、やがて上昇気流で支えきれなくなるまで成長すると、雹粒となってばらばらと落下してくる。会話の声が聞こえないほどの騒音である。ピッケルは青白く光を放つ。渦巻く雲粒が擦れあって静電気が生じているのに違いない。雹とともに冷たい強風も吹いてきた。もしかしてダウンバースト? 墜落したヘリの事故を思い出し一瞬身構える。私たちは完璧に雷雲のド壺に捕らえられていた。

◆雷雲が去るまで動かないことだ。どんどん伸びてゆく雲頂。その飛龍乗雲の勢いも時間が来れば衰退してゆく。

◆雷雲の寿命を1時間として、雷と雹の続く時間はせいぜい20分ぐらいであろうか。発雷数は多くないが不気味な数分間をじっと耐える。稲妻が近づかないことを祈るのみ。両足をそろえてしゃがみ込み、低い姿勢をとる。ピッケルとストックは体から離して雪面に寝かせて雷鳴が遠のくのをひたすら待った。

◆ヒトの皮膚は絶縁性だが、皮下には血管があるから、電導体となっている。もし直撃や側撃を受けるとしても、どうか脳や心臓を流れないで、体表面を流れてくれますように。恐怖心はなかったがそんなことを考えていた。

◆アララット山は天候さえ許せば技術的には容易な山であろう。しかし、ひとたび天候が急変すると話しは違ってくる。5000m峰といえども独立峰である。決して侮ることのできない山であることを改めて思い知った。神の怒りが鎮まるのを待って下山を開始した。積乱雲の底に達すると、唐突に視界が開けてベースキャンプが見えてきた。あたり一面が新たに白く化粧をほどこし、雹に埋もれた高山植物が寒さに震えるように身をかがめていた。振り仰ぐと、アララット山は身を守るかのように笠雲で頭を隠している。沖縄のある地方ではビロウの蓑笠は蛇の化身であるという。蛇をあらわす笠を纏った山はまさに蛇と化して、一種の不気味さと冒しがたさを醸していた。蛇のようにヒトを飲み込む霊力を感じさせるのだった。

◆やがて、頂を覆っていた雲はすっかり霧散し、山体の全貌があらわれた。今までの殻を脱ぎ捨て、脱皮をしたかのように辺りはすっかりと晴れ上がった。打って変わって貴婦人のような美しいアララット山の姿が暮色のなかに浮かび上がった。

◆この山について語られるのはノアを巡る話がもっぱらであるが、ノアの依代であると同時に、実は蛇神の依代なのである。蛇の山としての神話にあふれているのだ。アララット山と蛇神信仰の結びつき。これを体感できたことは大きな収穫であった。アララットの山麓に立つと、蛇のイメージはすぐに湧いてくる。アナトリア高原からは、この山の磁力に引きずり込まれるようにして風が流れてくる。まるで生き物のように山腹を駆け上がる気流の造形から連想されるもの。竜巻であり、虹であり、雲柱は、鎌首を擡げた蛇の姿そのものに他なるまい。さらに、美しい円錐形の山体は蛇のとぐろの相似であり、ユーフラテスの源流となる雪解けの水は、流域に恩寵を与える水神=蛇なのである。そして、シュメールと日本の神話を結ぶキーワードもまた蛇なのである。

◆下山後、宿泊したホテルのロビーにも蛇の意匠は現れた。二匹の大蛇が大鏡を縁取るデザインの工芸である。二匹の大蛇が螺旋を描きながら鏡を巻き込み、赤く見開く目(カカ)で心を射抜く光を放っている。鏡に映った自らの姿が蛇に飲み込まれてゆく。そんな不思議な感覚に陥るのであった。二匹の蛇が絡み合いながら螺旋状に上昇して統合する。善と悪、光と闇、天と地、太陽と月、男と女、陰と陽、そして大アララットと小アララット。そこにはゾロアスター教的な二元論の原型が潜んでいるような気がした。(神尾重則 医師)


知り合いになったばかりの日英の老人の息が合って、歌声は繰り返し大きくなっていった
━━“永久カヌーイスト”欧州運河カヌー行第2弾イギリス編顛末

■欧州運河カヌー行の第2弾はイギリスにした。2年計画で、初年度の今年はロンドンからグランドユニオン運河北西のバーミンガムに進む。そこから南下してストラトフォード・アポン・エイボンまで300キロ程の航程は距離は短いが、ロック(「閘(こう)門=水位の異なる河川間で船を航行させる装置」)が150か所もある。

◆ロンドンに着いた翌日、リトルヴェニスのBWW(ブリティッシュ・ウォーター・ウェイ)を訪ねて、航海のライセンスを取得してきた。グランドユニオン運河は産業革命を支えた道だ。鉄道の発展とともに衰退したが、今はナローボートが行き来する道として人気が高い。

◆6月25日、リトルヴェニスの船溜まりを漕ぎ出した。ナローボートがぎりぎりにすれ違っていく。運河に合わせて設計された7フィート巾の船をかわすには、その都度待機するしかない。最初のロック越えは感激だった。BWWで買ってきたロックキー(ウインダラス)の使い初め。自分自身でロックを操作して越えていったのである。

◆ロングトンネル越えは恐怖だった。パドルの先が壁を叩き、あわてて進路を修正する繰り返し。右舷をべったりと壁に押しつけて、対向船がすり抜けていく時間が長かった。アクアダクト(水を流すための橋)は初体験だった。高低差の著しい地形は、ロックを築くよりもと考え出された水道建設技術であり、ボートが通過する度にロック内に注水する大量の水を確保するよりもと考え出された結果だった。凹字型の樋のような橋の中を水が通っている。眼下を通り過ぎていく列車を眺めて、わくわくしながら漕ぎ進んでいったのである。

◆7月3日、バーミンガムに着いた。パート2の出発地になるから、観光よりも別の目的がある。カヌーを局止めで送る郵便局やアウトドアショップ等を詳しく調べてきた。翌日からはストラトフォード・アポン・エイボン運河に入った。キロチンロックやスウィングブリッジが残る古い道だった。

◆8月6日、ストラトフォード・アポン・エイボンに到達した。最後のロックを過ぎてエイボン川に漕ぎ入れた。シェークスピア劇場を眺めながら、清流の自然河川を行ったり来たり、12日間の出来事を思い返していた。いろいろあったが、フィニッシュの後に二つのクライマックスが待っていた。

◆旅の終わりには艇を洗い、干してたたみ、送り返す仕事が残っている。一連の作業を見ていてくれた老人がいた。後に、同年齢の72歳と分かったが、アイルランド出身で、イングランド北部のニューキャッスルからボートで来たレイモンド・ヘイさんだ。昼食を共にし、日中の時間を一緒に過しての別れ際、イギリスでは「ゴッド・ビー・ウィズ・ユー」と言うんだと教わった。

◆後刻、パブで飯を食っていて突然思い出した。この後に「ティル・ウィ・ミート・アゲイン」と続く、日本では「神と共に居まして」と歌われる讃美歌の出だしの一節だ。それで再びレイモンドさんのボートに戻った。ぼそぼそと歌って聞かせた。まさか日本から来た旅人が、この歌を知っているとは思わなかっただろう。びっくりして尋ねられた。「お前はこの歌をどこで覚えたんだ」。

◆聞かれたって思い出せない。クリスチャンではないから教会へ行ったことはないし、「多分、高校生の時」としか答えられなかった。この後二人で合唱になった。お互い歌詞も通しては覚えていない。ただ「アット・ザ・ジーザーズ・フィート」の部分だけは、膝を叩いての共通の動作になった。70過ぎの知り合いになったばかりの日英の老人の息が合って、歌声は繰り返し大きくなっていった。

◆もうひとつ、旅が終って家に電話を入れた。ベルギーの友人からメールが入っていると聞いた。縦断旅の折、途中で知り合ったエチエンヌ・グランシャからだった。その時には彼の家に泊めてもらい、翌日はアルデンヌ高原というベルギー、フランス、ルクセンブルグの国境近くのレス川へ案内された。翌年のパート2の旅の際には、途中で落ち合ってブルゴーニュ運河を漕いできた。今年もユニオン運河に同行したいと言ってきたのだが、50歳の働き盛りでの実現は無理だった。

◆メールでは12日の朝、レイジが滞在している宿に訪ねていくという。それで放浪旅を切り上げて、前日夜ロンドンに帰ってきた。エチエンヌは、約束通り奥さんと末娘を連れてやってきた。仕事のついでかと思っていたのだが、なんと再会だけの目的で来てくれて、その日夕刻のユーロスターで帰っていった。

◆女性軍はショッピングに分かれて、二人で大英博物館を見学しながら、来年の計画が決まってしまった。「ドイツへ行って、ライン川を漕ごう」、「ウィ」。「そして、もう一度レス川へ行こう」、「ウィ」。「今度は奥さん連れて来い」、「アベック・プレジール」。せっかく下見をしてきたイギリス運河のパート2は延期になりそうだ。今年の旅の最後を締めくくる温故知新の出会いだった。(吉岡嶺二


[通信費をありがとうございました]

■先月の通信でお知らせした以降、通信費を払ってくださった方々は以下の通りです。万一、漏れがありましたらお知らせください。通信費は1年2000円です。

川島好子 山崎哲秀 北村敏 高橋千鶴子 泉紀彦 田中良克 石原卓也


[1万円カンパその後] ありがとうございました。

 田中良克 泉紀彦 山崎哲秀


地球46億年の歴史の最先端に生み出された高度情報化社会において、西武池袋線東長崎駅から徒歩7分、南向きで日当たり良好のアパート2階角部屋で猛暑の中、汗水たらしてキーボードを叩いているわたしは一体なんなのか
━━「開高健ノンフィクション賞」に選ばれて思う

■イギリスの哲学者マーク・ローランズの「哲学者とオオカミ」(白水社)という本に、最近かなり強い印象を受けた。ローランズは90年代から00年代にかけて、ブレニンという名のオスのオオカミと暮らした。その共生生活を通じて得られたダイナミックな哲学的論考を、彼は著書の中で展開している。

◆ブレニンとの生活を通じてローランズが新たに見い出したひとつの結論は、人生の意味は瞬間に宿っているというものだった。幸福とは何か、人間にとって良い人生とはどのようなものかという問題を考える時、わたしたちは未来に向かって目標を設定し、それに向かって金銭や時間、労力などを投資するといった、何かを達成しようとして努力する過程に生きる意味があると考えがちだ。だがローランズはブレニンとの生活を通じて、こうした常識的な人生観を否定する。あらゆる目的は達成された瞬間に無意味に陥り、完璧な達成を求めても、そこには目的設定と達成を繰り返す不毛な沙漠しか広がっていないことに気づくのだ。

◆オオカミはそんなバカなことはしない。オオカミは、オオカミというDNAによる鋳型で切り取られた枠の中で連続的な瞬間を生きている。オオカミが生きる目的はオオカミであることであって、何かを達成したり所有したりすることを求めてはいない。瞬間の連続的輪廻の中にオオカミの行動は完結する。

◆こうしたローランズの挑発的な問いかけは、つよくわたしの心を揺さぶった。わたしの今の最大の関心事は、ひとはなぜ山に登ったり冒険をしたりするのか、ということにあるのだが、ローランズのこの論考はわたしのそうした疑問に大きな示唆を与えてくれると思ったからだ。コマーシャリズムにのったプロやガイドによる登山はまた別として、登山や冒険という行為は、そこに内在するリスクに比べ、行為者が得られる外面的なリターンは圧倒的に低い。得られるものは内面的なもの、つまり満足感としかいいようがない曖昧な実感しかもたらされない。

◆しかし過程には命をかける何かがある。その何かとは何か? そのことを筋道だてて説明できた冒険者や作家はおそらくまだいないが、野生から得られた「瞬間に生きる」というローランズの結論は、人間の冒険的行動を理解するための有効な手がかりになりそうだ。死の淵を時々のぞきこみながら、つまらない一連の動作を冷静にくりかえしている時、冒険者は完結した瞬間を生きているのではないだろうか。

◆冒険者のエクストリームな世界観は、冒険とは無縁な一般の人たちには受け入れにくいものだろう。社会からはみ出た異端者、命を顧みないリスク中毒患者による狂気じみた一連の行為、そんなふうに思われているかもしれない。しかしわたしは瞬間に生きる冒険者の行為の意味は、ひろく社会一般の位相にまで高めることができると考えている。テストでいい点を取りたい、金持ちになりたい、いい女を抱きたい、それぞれの人間が局面的に抱く願望がなんであれ、それはとどのつまり、いい生き方をしたいという望みに収斂される。

◆瞬間に生きるというローランズの人生観がもし正しいのであれば、人生の意味をすべて奪ってしまう死という世界を背後にかかえながら行為をしている冒険者の瞬間は、あらゆる人々の生の意味を包括しうると思えるのだ。彼らが体験する瞬間は、快楽や一般的な幸福感とは無縁で、意味が付与されておらず、あるがままの生を感じるという点で、あらゆる人間の生を代弁しうる。そうした瞬間に人間はあらゆるくびきから解き放たれ、初めて独立した存在に立ちかえっているのではないか。

◆それが本当なのかどうかを、わたしは今後の旅や冒険を通じて知りたい。それが書き手としてのわたしの当面のテーマだ。2月の地平線会議でツアンポー峡谷の単独行について報告させてもらったが、基本的にあの報告会で話した内容を詳しくまとめた作品が先日、開高健ノンフィクション賞に選ばれた。うれしいし、文筆業を続けていくうえでの足場を築けたという意味でホッとはしているが、それ以上の感想はない。受賞した作品は、悪くはない出来だったとは思うが、書き切ったという充足感からはまだまだほど遠いからだ。

◆なんのために自分が生きているのか、という問いはあらゆる人間にとって究極の関心事であり、謎である。地球46億年の歴史の最先端に生み出された高度情報化社会において、西武池袋線東長崎駅から徒歩7分、南向きで日当たり良好のアパート2階角部屋で猛暑の中、今現在、汗水たらしてキーボードを叩いているわたしは一体なんなのか。冒険における瞬間の連なりは、この謎のわずかな部分に光を当ててくれているような気がする。その光が当たった部分に何があるのか、冒険の瞬間がはらむ何がそこに光を当てるのか。それは、書き手として社会に何を問えるかを、わたしが自分自身に問うていることでもある。(角幡唯介


あとがき

■7月28日早朝、尾白川渓谷のテント場を出て黒戸尾根にとりついた。甲斐駒ケ岳の本道ともいうべきルートだが、北沢峠までバスでアプローチが可能となった昨今は、めっきり静かなのがいい。4歳若い相棒とテント、食糧を背負って高度差2200メートルの急峻な尾根を行く。ロープ、梯子、鎖などが次々にあらわれる。左右に切れ落ちたリッジは「刃渡り」と呼ばれ、かっての修験者たちの苦闘がしのばれる。この日は七丈小屋のテント場に幕営。2張のみの静かな夜だった。

◆29日登り始めると間もなく、雨。甲斐駒の頂上は寒かった。強風に震え上がり、早々に北沢峠へ下る。夜半テントは激しい雨に叩かれた。30日、仙丈岳への登りは快適だった。晴れ間をとらえて小仙丈で濡れたテントを干す。仙丈岳の頂上は3032メートル。なぜかこれまで縁がなくて、初めての登頂。日本には21の3000メートル峰があるが、これでそのすべての頂きに立ったことになる。

◆ここからの仙塩尾根が静かで長かった。南アにも人気(ひとけ)のない、いいルートはあるのだな。尾根から外れ滑りやすい急な道を両股小屋のテント場まで下りきった頃、また雨が降り出した。31日、中白峰沢ノ頭取り付き点まで流れを渡渉、岩を飛び越えながら進む。計12箇所。結構バランスを強いられた。取り付き点からは急登が続き、いささかバテた。北岳を前に去年同様光岳まで目指す相棒と別れ、この日は人でごったがえす肩の小屋に素泊まり。8月1日、ご来光を見て下山した。北岳から光岳まで歩いた昨年の夏とあわせて2年がかりの南アルプス全山テント縦走。心満ちた、夏の日だった。(江本嘉伸


■今月の地平線報告会の案内(絵と文:長野亮之介)
地平線通信裏表紙

ボーケンが目覚める時!
〜子どもたちよ、冒険しよう!〜

  • 8月27日(金) 18:30〜21:00
  • ¥500
  • 於:新宿区立新宿スポーツセンター(03-3232-0171)

独創的な旅をいくつになっても続ける大人がiいます。彼等をボーケンに駆りたてるココロはどう育ち、いつ目を覚ましたのでしょう!そして、ボーケンをはらんだ人生の味は?

今月は8月恒例の納涼豪華特別企画として、5人の“冒険者”が登場します。この7月に共著「子どもたちよ、冒険しよう」を出した5人を俎上に、地平線シスターズ(?)がボーケンにツッコミを入れます。

冒険心とアソビゴコロの関係は? 子供の参加、大歓迎。永遠のコドモも必聴です。何が飛び出すか、お楽しみに!

  ST(バイク、自転車、筏、ランニング…オールマイティーの旅人)
  KM(ジャーニー・ランナー)
  YN(国内外36万キロを走るサイクリスト)
  JM(パキスタンの少数民族の村に32年通う)
  KN(超絶ウルトラ・ランナー)

地平線通信に報告会の日時、場所が記載されていませんでした。ごめんなさい。

通信費(2000円)払い込みは郵便振替または報告会の受付でどうぞ
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議(手数料が120円かかります)

地平線通信369号/2010年8月11日/制作:地平線通信制作室/編集長:江本嘉伸/レイアウト:森井祐介/イラスト:長野亮之介/編集制作スタッフ:丸山純 武田力 中島菊代 大西夏奈子 落合大祐 加藤千晶/編集協力 横内宏美/印刷:地平線印刷局榎町分室
地平線Webサイト http://www.chiheisen.net/
発行 地平線会議 〒160-0007 東京都新宿区荒木町3-23-303 江本嘉伸方


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