2010年7月の地平線通信

■7月の地平線通信・368号のフロント(1ページ目にある巻頭記事)

地平線通信表紙

7月は、荒れ模様の日が続く。11日は勿論参院選当日。夜8時の開票とともに大荒れになった。民主党がここまでぼろ負けするとは予想していなかった。12日午前3時になると教育テレビにチャンネルを変える。ワールドカップ決勝戦が始まり、さすがにスピーディーな展開。前半の最後に、たて続けに5枚のイエローカードが出たのに驚く。

◆きょう14日は、九州北部で1時間100ミリ以上という猛烈な雨が降っている。大雨・洪水警報に加え土砂災害警戒情報が各地で出され、山陽新幹線もストップしている。

◆アメリカではメジャーリーグのオールスター・ゲーム。にわかサッカー評論家から素早くイチロー評論家に移行した私はこの地平線通信をつくりながら衛星放送をつけっぱなしにしている。第1打席が凡フライに終わったところで、ドア・ホーンが鳴り、細長い箱が到着した。久々のオモチャ、近視度つきシュノーケル・セットだ。ネットで探してきのう注文したばかりなのにもう届いたとは。

◆海に潜ることを覚えたのは、地平線会議を始める少し前、1977年頃だ。当時、ヘドロが堆積する東京の海が少しはきれいになった、という話があちこちで聞かれ、実際潜って確かめてみよう、とボランティア・ダイバーたちが動き出していた。はじめはボートの上から取材する立場だったが、じきに自分で確かめたくなり、先輩ダイバーに教わって水中を浮遊する術を覚えた。

◆お台場の船の科学館前、品川沖、浦安沖などを「定点」として1年を通じて潜り、その中でまだ無名だった水中カメラマンの中村征夫氏とも知り合った。指で押すとずぶずぶ真っ黒な土状のものが何メートルにも深く堆積しているヘドロの表面をアカエラミノウミウシやイソガニが這っている風景に感動し、深く切れ落ちた「船道」の崖に沿ってそれらの生き物を俯瞰する己を鳥のようだと思った。「あのあたりにディズニーランドができるそうです」と、何もない対岸の空き地を指して教えてもらったが、あんな場所に、まさか? と信じられなかった。結局あの場所には今も行っていない。

◆水が澄む冬場でも透明度せいぜい数メートルのヘドロの海ばかり潜っていたので、初めて真鶴の美しい海に入った時は、驚いた。こんな世界があるのか、とただただうっとり岩礁の間を浮遊して、色とりどりの魚や海草が揺らぐのに見入った。美しい珊瑚礁と熱帯魚の群れに恵まれた沖縄の海に出会うのはずっと後のことだ。

◆山口県光市に村崎義正さんをリーダーとする「周防猿まわしの会」が発足したのは、私たちが江戸前の海と格闘しているその頃、1977年12月だった。前年武蔵野美大を卒業したばかりの青年、小林淳は民俗芸能としての猿まわし復活を目指すこの挑戦の記録係として78年周防に入った。猿まわし復活の記録は1979年1月刊行の「あるくみるきく 143号」に詳しく報告された。

◆誰にとってもそうだろうが、あの頃、いろいろなことが同時進行していた。私について言えば78年暮れから地平線会議は始動していたし、80年のチョモランマ登山に向けての準備も動き出していた。当時のメモ帳には「8月16日 チョモランマ行ビザのため写真3枚、パスポート」「8月17日 探検について 宮本千晴、伊藤幸司、岡村隆、森田靖郎、江本嘉伸ほか」(この日地平線会議と命名)「8月24-26日 ダイバーたちと三宅島オニヒトデ退治」などとした走り書きが残っている。

◆「オハラII」という名が79年秋以降は頻繁にあらわれるのは、今はなくなってしまったこの四谷の喫茶店で、伊藤幸司、森田靖郎、三輪主彦、賀曽利隆、岡村隆、恵谷治らと散々口角泡飛ばしての議論をしたからだ。私がいてもいなくても力のある仲間が常に仕事の前線を支えてきたおかげでどれくらい続けられるかわからなかった地平線報告会は375回を数えるに至った。そして、初めて帰らなかった旅人をテーマに報告会(追悼会ではない)を開くまでになった。今号ははからずも旅人・小林淳を考える特集のような内容となり、報告会に寄せられた2人の仲間の文章を特別寄稿として収録した。

◆で、シュノーケルだ。実は東京の海以外で一番潜ったのは開聞岳近くの海である。以前書いたと思うが今では社会人になった当時小学3年生の「魚博士」がよく一緒に潜ってくれ、薩摩の海に病み付きになったわけである。魚博士の沖(ふかし)君と知り合えたのは、勿論、祖父である野元甚蔵さんのおかげ。この夏もできればお邪魔したく、素早く装備を整えたわけだ。その野元さんに嬉しいメッセージが届いた。通信の11ページを読んでほしい。(江本嘉伸


先月の報告会から

君のいなかった30年

小 林   淳

2010年6月25日 新宿区スポーツセンター

■地平線の中でも、今回の「報告者」小林淳(あつし)を知る人は多くはない。地平線会議旗揚げの半年前、79年3月には日本を出ているからだ。私も顔を合わせた記憶はなく、観文研(日本観光文化研究所)の機関誌『あるくみるきく』に時折り載る、詩的な旅の便りの人、という印象だった。3年後の82年、913通目に当たる3月26日付の手紙を最後に消息を絶つ。

◆淳さんの父・新さん、弟の治(おさむ)さん、そして淳さんを良く知る人々が集まっての報告会。まず、彼と共に観文研に出入りしていた丸山純さんが、その頃の観文研の様子や、「周防猿回しの会」と彼の関わりに触れ、折りしもソ連軍のアフガン侵攻やイランの革命が前後した時期で、中東の地図が品薄となり、丸山さんが貸したバーソロミュー地図を持って小林さんは旅に出た、というエピソードなどを紹介した。

◆ここで三輪さんが観文研について簡単に解説。近畿日本ツーリストの一部門として、旅の文化の研究をする目的で、宮本常一先生を所長として発足。「研究者も、そうでない人も、色んな人が集まっていた」「宮本先生の『(かつて)村々には無用の徒がウロウロしていた。それは良い所ではないか』という言葉通りの雰囲気だった」と、当時を振り返った。

◆ここから、江本さんを進行役に“兄貴たちのリレー・トーク”のかたちに。まず「最初に旅の世界に引き入れた張本人」と紹介されて武蔵野美大教授の相沢韶男(つぐお)さんが登場。「47年4月から宮本常一先生に命じられてムサビの非常勤講師に。ユーラシア大陸まわってきたばかりだから、旅は面白いぜ、と当時は本当のことを学生に言っていた。そのことに責任を感じる」と語る。小林さんが一番興味示したのは、写真の技術だったという。「暗室作るのに水道管のパイプを配管するのなんか手伝ってくれた。まさかそれが旅の手段になるとは」旅日誌には現地で小林青年が写真現像、焼付けを仕事にしていたことがうかがえるという。

◆観文研時代、民俗学調査で小林さんと組んだ人々のメッセージがここで読み上げられた。須藤護さん(現・龍谷大学教授)は、その出会いから共同研究に至る経緯を語り、『あるくみるきく』奥会津特集号の写真の多くは小林さんの作品で、これらがデビュー作となったこと、また彼がフィールドまで徒歩でアプローチすることに拘り、東京から歩こうとしたことなどを紹介。「彼は通常の民俗学の常識を遥かに超えていた。寡黙で、一人黙々と作業に当たり、その写真は、『人間が生きるとは?』『豊かさとは?』を捉えていた」と回想した。

◆歩きと写真への小林さんの拘りは半端ではなかった。印南敏秀さん(現・愛知大学教授)は、メッセージの中で、「彼は対象を遠くから近くまで見て写真を撮った」「余分なことは話さず、頑固で、調査地まで歩いてゆくのも徹底していた」とコメント。

◆続く宮本千晴さんの記憶でも、武蔵野美術大学の学生が中心となった南西諸島の民具調査に、小林さんは写真係りとして参加。その頃すでに、しっかりした技術を身に付けているな、と感じたという。「とにかく寡黙だった」 地平線でもダントツに口数の少ない千晴さんが舌を巻くほど、彼の無口ぶりは際立っていた。「いきなりボソッと現れ、ただ座っているだけ。一番肝心な部分は殆ど喋らない。彼の調査能力については知らないが、独自の興味の持ち方やアプローチの仕方を持っていることは、皆が知っていた」(千晴さん)

◆小林さんは「工夫の人」でもあった。「調査中、針生の人が色々な食糧を差し入れてくれた。が、ジャガイモなど、カレーにして食べても中々減らない。腐らせるとバチが当たる。そこで彼が擦り卸し、ピザ風に伸ばして油で揚げ、パンもどきの物を作った。これでジャガイモの山は急速に消費された」(須藤さんのメッセージ)

◆千晴さんは、小林青年の居候旅の意味を、「形に嵌った調査では見つからないものを、どうやって見つけ出すか。旅人の感覚で見るのではなく、相手の目で、その人生などが見えて来る。それ故の居候だ」と語る。その千晴さんが、「オレが云える事は殆ど云った」と断言するアドバイスの一つが、「手紙を書きなさい」だった。自分が知っている事は書かない日記と違い、手紙だとキチンと相手に説明しなくてはならず、両者は補完し合う関係にあるからだ。旅先からの900通を超える手紙と、この日、会場後方に積まれた『小林淳の旅日誌』(全413ページ、文字数にして50万字近く)は、その産物でもあった。

◆小林さんの旅のスタイルに決定的な影響を与えたのが、観文研仲間の賀曽利隆さんだ。「ぼくの73年12月から74年9月のアフリカコースに、彼は興味を持った。この時はヒッチハイク中心で、交通量の少ない場所では徹底的に歩き、3日間で120km歩いたこともある」。とことん軽装で殆ど金を使わない旅に、「10か月間、金無しで旅できるんですか!?」と彼は驚き、「アフリカ、面白ェーぞ」と熱く語る賀曽利さんの話やアドバイスを熱心にメモに取った。

◆無口ではあっても、小林さんの反応は「目の色で判った」という。「だから、こちらも何としても伝えたいと思う。彼のアフリカの旅の仕方は、寡黙な小林と饒舌なカソリが机を挟んで語り合った、あれから来ている」と賀曽利さん。それだけに「胸が痛む」と声を詰まらせた。

◆日本を出て1年9か月後の80年12月半ば、小林さんは、そのアフリカに足を踏み入れた。念願の地で彼は、出席者が「無口な彼が‥」と不思議がるほど、これまで以上に行く先々での人々との交流や居候旅の度を深めてゆく。「気易く仲良くなれない性格で、どうやって溶け込むのか。それを彼は国内で身につけたのではないか? 日誌に記された数多くの自然体の付き合いを見ると、言葉を超えて相手に伝わる何かが、彼には備わっていたに違いない。

◆千晴さんが、一言ずつ、噛み締めるように語った。「一人の若者が、段々、自分の訓練をしながら育ってゆくのだが、その時、周囲に色んなタイプの人達がいて、一人の青年の成長に関わっている。結果として、すごく色んな人がサポートしている、地平線会議も、そういう場の一つ。仲間が沢山いて、相互に教えあう。それが大切だと思う」 その点でも、小林さんは観文研の申し子であり、秘蔵っ子だった。

◆彼の現地捜索は、1回目が82年11月、5年後に2回目が行われた。「消息を絶った」との断定が遅れたのは、ご家族と観文研の双方に、「相手には連絡が入っているのでは?」との思い込みがあったためらしい。その3回目に当たる、90年秋の捜索時のささやかな慰霊祭の様子が、ビデオで流された。「『馬鹿野郎!』『ふざけんな!』という気持ち」(弟・治さん)の悔しさが我々の胸にも刺さる、本当に切ない光景だった。

◆ここから、父・新さんとの一問一答。江本:旅に出ると聞いたときは? 父:中学生の頃から寡黙になり始めた。親子の会話もなくなった。卒業後は、(民俗学調査で)一か所に長く居て、たまに家に帰ってくるだけ。アフリカに行くとは考えもしなかったが、「2年間か。帰ってこいよ」と軽い気持ちでOKした。江本:小さい頃から読書好きでしたか? 父:暴れたり、はしゃいだりしない、無口な子供だった。正月や祭りに甥、姪も沢山来たが、群れから離れて、一人で本を読んでいた。

◆続いて、赤ん坊の頃からの写真が映し出される。既に祭り好きだったと云う2歳の時の三輪車姿。5歳、蓼科高原でのキャンプ風景。そして、旅先、Kafue(ザンビア)の人々の笑顔。その手作り写真葉書には、特徴のある手書き文字で、散文詩風の文章が書き込まれている。この時期、彼は盛んに写真の現像・焼付けを行っていたらしい。それを、自分で「旅のことばの鉱脈」と名付けた便りに添えていた。

◆読書家だった彼の蔵書1000冊は、家族の手で武蔵野美術大学に寄贈され、その後、常一先生の郷里の記念館に納められた。先年、同地を訪れたお父さんは、「幻の息子に再会した気がした」という。

◆最後に、小林さんが旅先から送ってきた日誌が廻された。ページ一杯にビッシリ詰め込まれた細かな文字に、見た途端、0.15ミリのロトリングを途中で買い求め、少しでも紙面を節約しようと、私も米粒に書くように日記をつけたのを思い出した。

◆『小林淳の旅日誌』は、彼が旅先から送ってきたこれらのノートを活字に起こし、一冊にまとめて製本したもの。その「まえがき」に、「1062日間の記録から選択して、印刷、出版したもの」とあるが、それでも単行本にすれば優に4冊分のボリュームだ。これをワープロに打ち込んだお父さんの執念と気力を思い、ただただ頭が下がった。

◆お幾つでしたか? そう訊ねた江本さんに、お父さんは「57歳です」と答えたという。「もう一度アフリカへ行きたい。もしかすると生きているかも知れない」 慰霊祭を済ませた今もなお、お父さんには、その思いがあるそうだ。この日、57歳で永遠に青年のままの旅人の歩みに、私たちは静かに耳を傾けた。[(小林淳さんとは3か月遅れで同い年の) 久島 弘


報告者のひとこと

旅や旅日誌がどう評価されようと、生きて帰って来なければ、あの三年間近い旅はなんだったのかと思う

■地平線報告会で息子と縁が深かった方々が語ってくださったことを聞きながら、親に見えなかった息子の裏の面を知ることができた。息子は旅日記の中でもよく「問わず語りに」ということばを使っていた。普段は寡黙ではあったが、自分が熱中した何かについては、自分から語り出すようなことはあり、それは親の見方とある程度一致するようだ。黙々と一人旅を続けながら、寡黙でその土地、その土地の人々に受け入れられ不思議なほど親切にしてもらったのは、あの子の特性だったのかもしれない。

◆ただ、今回の報告会で息子の旅や旅日誌がどう評価されようと、生きて帰って来なければ、あの三年間近い旅はなんだったのかと思う。6月22日の朝日新聞、天声人語の結びに「どんな旅でもつつがなく帰って来ることが何よりの土産なのだから」と書いてある通りだ。だからできることなら、土産話として本人の口から語らせたかった。そうしたら、あの第2、第3の故郷、タイのバンドゥーやザンビアのカフェの話を誰かが言われたように時間を無視してしゃべったであろう。一介の名もなき若者(当時)の旅報告会を開いてくださったことに深い謝意を表します。(小林新 淳・父)


耐えながら、言葉を選びつつ、次世代に旅が教えてくれる真実を伝えるしかない

■アフリカで行方不明となったままの小林淳君の報告会に出た。我々の仲間で、彼との最初の接点を持った者としての発言を求められた。会では正直に自分の気持ちを述べるしかなかった。彼の一件以来、教壇から本当のことを言うのが恐くなったこと。次の世代に嘘をつくわけではないが、旅の醍醐味や、経験したことを話すのが恐くなった、と話した。

◆何年経っても彼のことがよみがえる。父親の小林新さんが発行した淳君の旅日誌を読んで、フィルムの現地現像ばかりでなく、印画現像までしていたことを知り、後悔が一層深くなった。私の現地現像は、少ない旅費から、節約したくて行った。しかし小林君はさらに印画現像までしていた。これが滞在を延ばさせ、小林君の帰国を妨げたのではないかと思うからである。

◆「不在者」。私には耐え難く重い言葉だった。しかし私は耐えながら、言葉を選びつつ、次世代に旅が教えてくれる真実を伝えるしかない。(相沢韶男


フィルムがない

■小林君にとって、奥会津の村々とそこに生きる人々は人間世界のひとつの原風景となったものだと思う。彼をそこに連れていった須藤護君が、そこで撮った小林君の写真について、「……その1枚1枚が、『人間が生きる』ということにたいして、また『豊かさとは何か』という問いかけにたいして、何らかのメッセージを発していた。本来の家族とは、村のお年寄りはいかなる人生を歩んできたのか、子供たちの将来は、このようなことを常にイメージし、どうしたらその思いを表現できるのか、思い悩んでいたのではないか。それが彼を寡黙にしていったのではなかったかと思われた。……」と言っている。卓見だと思う。口に出すにはあまりに多くの言葉が心の内で行き交っていたのだ。また友であった印南敏秀君は「……小林君は『写真は体力だ』といっていた。まずは対象を遠くから近くまで、また角度をかえて、よく見たうえではじめて撮影したからである……」と記している。その小林君がA4判400ページを超える旅日記を家族に残しながら、一本のフィルムも残していない。今回はカメラを持っていかないことにしました。最後に会ったときこう聞いた気がする。もしこの記憶が正しければ、これも「居候」と同様小林君がこの旅に賭けた探検の方法論だ。人はカメラで見てしまって、目で見たことを忘れる。人はカメラで見ようとするあまり、人の心を見る機会を失う。撮影は次の訪問のときだと。(宮本千晴


413ページにも及ぶ『小林淳の旅日誌』は、後世に残る!

■6月の報告会は「地平線会議」史上に残るものとなった。なにしろ報告者のいない、前代未聞の報告会だったからだ。1982年にアフリカで消息を絶った若き旅人、小林淳君に関係した宮本さんや相沢さんらの話を証言風に積み上げていき、その中から「小林淳像」を浮かび上がらせていった。司会をした江本さんの見事な構成力というほかはない。

◆事前に横浜の小林家を訪ねたとき、ぼくも江本さんに同行させてもらったのだが、その席で「私は地平線会議に命を賭けているんです」といった江本さんの言葉には迫力があり、そのひと言が小林君のお父さんの心をつかんだと思っている。

◆小林君は日本観光文化研究所(観文研)を抜きには語れない。国内の民俗調査でたぐいまれな才能を発揮していた小林君にある日、「アフリカの話を聞かせてください」といわれたときはほんとうにびっくりした。彼はこのままずっと日本国内をフィールドにしての調査行を続けていくものだとばかり思っていたからだ。ぼくはそれまでのアフリカの旅について、熱を込め、自分のすべてをぶつけるかのようにして語った。小林君は「カソリ流・旅の仕方」をメモしていった。

◆それだけに日本を旅立ってから3年、アフリカ・タンザニアの地で消息を絶ったとわかったときは「まずいなあ…」と、自責の念にかられた。その責任の一端は自分にもあると感じたからだ。その年の11月から12月にかけて小林君のお父さん、弟さんとの3人で「東アフリカ捜索行」を行なったが、彼の消息はまったくつかめなかった。

◆あれから30年、旅人・小林淳は今回の報告会によって不死鳥のように蘇ったと思っている。報告会の前日には、小林君から送られてきた旅日誌をまとめた413ページにも及ぶ『小林淳の旅日誌』も完成した。お父さんが渾身の力をこめてまとめたものである。そのページを1ページ、1ページめくるごとに小林淳の世界に引き込まれ、「これはきっと後世に残る!」と、そう直感するのだった。(賀曽利隆


旅に出る者の業をしみじみと考えさせられた報告会だった

■いまとなっては記憶がはっきりしないが、小林君と初めて会ったのは、私が初めての旅から帰ってきたばかり、そして小林君があの長い旅に出ようとしていた1979年の初め頃だったと思う。観文研の一番下っ端同士という立場からすぐに仲良くなり、猿まわしの現場を体験してきたばかりのなまなましい話を何度か聞かせてもらった。自分が仕込んだゴロウの故郷であるスラウェシ島をまず訪ねたい、猿と一緒に旅をしたいと熱く語る口調に、自分にはとうてい及びもつかない、旅人としての器の大きさを感じた。

◆ちょうどソ連軍のアフガン侵攻とイランのホメイニ革命が起こった時期。旅立ちの直前になっても、当時アジアを旅するうえで不可欠だったバーソロミューの地図が手に入らないという。そこで、前年の旅で持ち歩いた私の地図を持っていってもらった。あのくたびれた地図がまだ小林君と一緒に旅を続けているのではないかと、思えてならない。

◆今回の報告会で驚いたのは、気安く君づけして呼んでいたが、小林君が私より2歳も年上だったことだ。また、彼が寡黙な人だったというのも意外だった。猿と旅について語る彼は、あんなに饒舌だったのに。

◆小林君は早くから外の世界に関心を向け、成長するにつれて長いあいだ家を空けることが多くなっていったそうだ。何を考えているのかも伝えずに、ふらりと出かけてしまう。そんな息子をなんとか理解したいと、いまもなお当時の足跡を追い続けるお父上の思いに胸が熱くなったが、振り返ってみると、それは私もまったく同じだ。青春期から家に寄りつかなくなった身勝手な人間は、日本で暮らす家族にとっては、不可解でやっかいな存在なのだろうか。そんな兄を憎む気持ちもあったと語ってくれた弟さんの台詞は、そのまま私の胸に突き刺さった。

◆旅に出る者の業をしみじみと考えさせられた報告会だった。(丸山純


捜索開始から29年間、怒りや憤りの感情から、兄の生き様や静かなる偉業を素直に認識する時期に来たようです

■「兄の身勝手で自己中心な行動の結果がこれです。こんな馬鹿げた話がありますか。私は家族を無視した兄を決して許さない!」。20年前の9月29日、小林淳の仮葬儀での私の言葉です。仮葬儀の終了直前の「親族からの挨拶」。父親から、弟の「おまえ」の本当の気持ちを出していいからと言われ、本音をぶちまけました。葬儀の1年前、母親は肺癌に打ち勝つことができず他界しました。

◆たばこや酒には一切縁のない母が肺癌です! 他人では量りしれない心労があったはずです。父親と私、妻の3人で母が生きるための空気を肺に送り込む最後のひと呼吸するのを看取りました。心肺停止の瞬間、真剣に病室の隅々まで見渡したことをよく覚えています。この世に産んでくれた母親を部屋のどこかで淳は見ているはずだ!……冷房の涼風が白いカーテンを吹き上げているだけでした。その時から「薄情な兄」を許せない感情が続きました。

◆私は父親とは違った気持でこの度の「報告会」に出席させていただきました。事前資料のまとめ、確認等の時間を重ねることによってそれまでの感情が大きく変化してくる自分を知りました。捜索開始から29年間、怒りや憤りの感情から、兄の生き様や静かなる偉業を素直に認識する時期に来たようです。

◆このような有意義な報告会を開催してくださった素晴らしい仲間(失礼いたします)の皆様が、真正面から兄を見つめてくださることに「羨ましい」とさえ思います。ご迷惑をかけっぱなしの宮本千晴さん、いつも相談にのってくださる賀曽利隆さん、そして夢にも思わなかった報告会を実現していただいた江本さんには心より感謝申し上げます。次は兄の愛したタイ・バンドゥー村へ足跡の確認に父を連れて行きたいです。(小林治 淳・弟)


[通信費をありがとうございました]

■先月の通信でお知らせした以後、通信費(1年2000円です)を払っていただいた方々は以下の通りです。一部の方の掲載が遅れましたことをお詫びします。数年分まとめて払ってくれた人もいます。ありがとうございました。

岩野祥子 松本典子 今利紗紀 吉岡嶺二 水落公明 松原英俊 長瀬まさえ 岡朝子 河田真智子 小林新 宇津裕子


こんな本ができました!

「子どもたちよ、冒険しよう」ラピュータ社

 閉塞感の漂う世の中に、進路を見失いがちな中学生を対象に、冒険を通した 夢を語れないか、という話が昨秋に起き、地平線の仲間に声をかけたところ賛同してくれた5人の共書です。筆者と内容は、以下の通り。

★三輪主彦「恐竜化石を発掘調査」
★丸山純「少数民族の村に通う」
★中山嘉太郎「シルクロード走り旅」
★坪井伸吾「バイクで世界一周」
★埜口保男「自転車で世界一周」

 これを読んで初めて、みんなこんな子供時代だったの、みんな地理地学が好きだったの、そういう順序で旅が進んだの、と分かりました。次回の報告会で紹介したいと思います。(埜口保男)


地平線はみだし情報

■来週からイギリスの運河を漕いできます。ほぼ1か月、何ごとが待ち受けているのか楽しみです。(吉岡嶺二 6月17日)


地平線ポストから

私も続行したかったが、10人の命を預かった立場としては、来年のもっとも安全な時期に渡るべきとの判断で、中断を決定した━━縄文号、パクール号最新情報

■5月中旬に日本を発ち、フィリピンのパラワン諸島の最北端コロンに向かった。昨年の4月にインドネシアのスラウェシ島を出て、自分たちの手で大木を伐り、穿ち、削り、繋げて造ったダブルアウトリガー・カヌーの縄文号とパクール号に乗り、4か月の航海の後到達した所だ。

◆スラウェシ島から、ボルネオ島、フィリピン、台湾を経由して、沖縄まで、およそ4000kmを航海する予定だが、その中間地点がコロンだ。およそ9か月間、マキニットという小さな漁村の浜に陸揚げして、簡単な小屋を作り、保管していた。既に4月の下旬にインドネシア人クルー6人と、日本人の若いクルー前田次郎と佐藤洋平が先乗りして、点検、修理していた。

◆私と渡部純一郎、撮影班のムサビの映像科卒業生水本博之、百野健介は5月14日にフィリピンに入った。既に現地の船大工にも協力してもらって、カヌーの修復は終わっていたので、17-18日には出航する予定だった。ところが私がコロンに着いて以来、東風が吹き続けていた。

◆今回は最初に難関が待っていた。パラワン諸島とミンドロ島の間にあるミンドロ海峡80kmを渡らなければならない。今まではセレベス海、スールー海という、島々に囲まれた比較的静かな海を走って来たが、これからは、南シナ海に放り出される。うねりも波も大きくなるはずだ。真東に走らなければならないが、真正面から風を受けることになる。私たちのカヌーは基本的に風に逆らって走れないので、出航できずにいた。

◆そもそも5月中旬に出航したのは、フィリピン、台湾、沖縄の風の動きのデータを読んで、決めた。この地域は共通した風の動きをしていて、30年間のデータを見てみると、10月から4月までは北風が吹いているが、5月に風がやみ、やがて南風が吹き始める転換期になっている。その転換点が上旬なのか、中旬、下旬なのか、年によって違う。しかし下旬には南風が吹き始めると読んでいたのだが、甘かった。台湾や、同じフィリピンでは南風が吹いているのに、コロンでは東風を基本に風向きが揺れていて、南風は気まぐれに、たまに吹く程度だ。今までの航海で私たちを散々悩ませた北風になることもある。

◆22日の午後から弱い南風が吹くようになり、23日に出航することに決めた。ミンドロ海峡は南からの微風で、穏やかだった。最後は漕がなければならなかったが、無事渡れた。しかしそれから南風はめったに吹かなかった。むしろ北寄りの、前方から吹く風が多く、四苦八苦しながら進んだ。一日60km以上進んだこともあったが、20kmほどしか進まなかった日が多く、6kmしか進まなかった日もあった。マニラ湾を通過したのが、6月10日で、予定よりかなり遅れた。

◆今回は全行程の中でも最大の難関バシー海峡およそ400kmを渡らなければならない。「台風銀座」と言われるように台風が頻繁に通る海峡だ。多くの海の専門家、研究者から6月中にバシー海峡を渡るようにアドバイスされていた。5,6月はまだ比較的台風は少ないが、7月になると、頻発するうえに大型化する。台風がなくても南シナ海と太平洋がぶつかる所で、なおかつ黒潮が川の奔流の様に流れている。風もうねりも高波も高いという。ところがこのままのスピードでは6月中にルソン島の北端に着くかどうかも分からない状態だった。

◆6月11日の夜、安全対策コーディネーターの白根全から電話があった。「コーストガードのガルシア司令官だけでなく、海軍の将校、フィリピン人の海の識者も7月に入ってから私たちのカヌーで、バシー海峡を渡るのは無謀だとの意見が大勢だ」と言う。白根全も「慎重に考えて、無理をしないでください。事故がおきれば死者が出る可能性が高い航海です。10人の命を預かっているのですから、今年は断念して、来年、万全の態勢で臨んでください。お願いします」と懇願に近いアドバイスを伝えてきた。

◆翌日、日本人クルーの意見を聞いた。安全に対する嗅覚の最も優れた渡部純一郎は「もし続行するのだったら、私は遠慮しようかなと思っていました」といい、今年は中断したほうがいいという意見だが、若い前田次郎、佐藤洋平は続行したいという思いが強い。渡部純一郎を除いた9人のクルーは行く気満々だ。心配したカヌーの状態もいいからだ。私も続行したかったが、10人の命を預かった立場としては、来年のもっとも安全な時期に渡るべきとの判断で、中断を決定した。

◆ルソン北部の小さな村に竹とヤシの葉でしっかりとした小屋を作り、縄文号とパクール号を格納した。時々チェックに行くが、普段は村人たちが守ってくれる。6月27日からおよそ2週間、最難関バシー海峡の島々を巡る予定だ。どの島に寄れず、どの島に港があるのか、台風銀座と呼ばれる地域で、家や塀の厚さは1m近くもあると言うが、風や波にどのように対処しているのか、来年の航海の安全に万全を尽くすために観てきたい。

◆ところで、バシー海峡は魔の海峡と呼ばれているが、それは海が荒れ、険しい地形で、台風が頻繁に通るからだけではなく、第2次大戦中に米軍の魚雷によってたくさんの軍艦、輸送船が撃沈され数万の日本人が犠牲になったからだ。とはいえ、台風が来たら帰りはいつになるか分からない。しかし台風に出会うのもいいなとも思っている。(6月26日 関野吉晴


タコの吸盤が吸いつき、私の手を穴の奥に引き込もうとする。かなり強い力だったので一瞬すこし焦った
━━鷹匠、奄美大島に行く その1━━

■「ザバーン、ザバーン」「キョロロロ、キョロロロ」。5月末から6月初めにかけて渚に打ち寄せる波の音や淋しげに啼くアカショウビンの声で毎日朝をむかえていた。ここはアダンの実やハイビスカスの花が咲く亜熱帯の島、奄美大島。アマミノクロウサギをはじめ鳥や爬虫類、両生類等貴重な固有種が生息するこの島は東洋のガラパゴスとも呼ばれ、以前から私の憧れの島だった。

◆空港北の土盛(ともり)海岸にテントを張った私は潮の満ちた朝は野鳥を観察し、潮の引いた昼からは海に潜って魚や貝をとる日々をすごしていた。初めて訪れた島だが、やはり自然が色濃く多くの海鳥たちが干潟で餌をあさり、なかでも山形ではなかなか見ることができないセイタカシギやベニアジサシ、クロツラヘラサギ等嬉しい出会いも多く、やはり思いきって出かけたのは正解だった。

◆カワセミや鷹の仲間のミサゴが水中の魚をめがけてダイビングする姿やダイサギが浅瀬で魚を追いまわし、とうとう長い嘴で捕える様子等いくら見ていても見飽きることがない。私も彼らに負けずにヤスを持って海に潜り魚たちをねらう。透明度こそ慶良間の海にかなわないまでも、色とりどりのサンゴの間を沖縄の海で見知った多くの魚たちが泳ぎまわっていた。アオブダイやチョウチョウウオにはヤスの刺さりが浅く、惜しいところで逃げられたが、逃げ足の遅いモンガラカワハギや根魚のマダラエソをつかまえ浜に戻ろうとした時、海中の岩穴の奥に赤と白のまだら模様の生き物を見つけた。

◆すぐにその色合いからタコの足だと気づいた私は、慎重にその岩穴の中にヤスをうちこんだ。ヤスは「ブスッ」と重い手ごたえを残して命中し、その瞬間タコはすごい力でくねり、暴れまわる。かなりの大ダコだ。ヤスが抜けないように必死で岩に押しつけ、あいている手でタコの足をつかんで岩穴から引きずりだそうと試みる。するとタコの吸盤が吸いつき、私の手を穴の奥に引き込もうとする。かなり強い力だったので一瞬すこし焦ったが、岩穴はそれほど深くはないようで途中で放すことができた。

◆その後何度も穴の中にヤスを突き刺しているうちに突然タコの抵抗する力が弱まったような気がした。急所である目と目の間を突いたのだ。長い時間闘った末にようやく穴から引きずりだしたタコは約90センチほどもある大きさで私がこれまでつかまえたタコの中で最大のものだった。

◆その後磯の岩の上に引き上げタコが徐々に色を変化させてゆく様子を驚嘆しながら観察していると、夕食前の散歩なのか村のおばあたちが3人やって来て次々にしつもんあびせかける。「こんな大きいのどこでとったの」「どうやってとったの」「こんなのに噛まれたら大変だよ」「島には2種類のタコがいるけどこれはいいタコよ」「このままだとわるくするから塩茹でにしたらいい」と調理法も詳しく教えてくれ、おかげでこの大ダコはその後6日間の私の主食になった。

◆このメインとなる食糧を確保できたことであまりあくせく魚を追いまわす必要もなくじっくりとシュノーケルで泳ぎながらサンゴや魚たちを観察することができ、また岩のすき間やサンゴのかげなども丹念に捜しまわり、クモガイやタカセガイの他沖縄でも見つけることのできなかったまるで陶器のように美しく輝く真っ白なウミウサギ(タカラガイの仲間)やその複雑な幾何学模様が美しいタガヤサンミナシ(毒のあるイモガイ)なども採集できた。

◆しかし全てが順調だったわけではない。海岸の高台にテントを張って3日目。潮の中の岩の裂け目から白い2本のヒゲのようなものがわずかに動いているのを見つけた。最初何なのかよくわからなかったが、どうやらエビのヒゲに間違いなさそうだ。イセエビだろうか?ヒゲの長さからしてかなり大きいのがわかる。2本のヒゲはそれ以上岩の裂け目から出てくる様子はなく、時々裂け目の奥に引っ込んで消えたりしている。

◆これは是が非でも捕まえたいと期待と不安で胸が高鳴る。しかしヒゲが出たり入ったりするだけで頭まではどうしても出てこない。夜行性だから昼の明るい時間に穴から出ることはないのだろう。こちらもやがてしびれをきらし、頭は見えなかったがヒゲとヒゲの間にヤスを打ち込んだ。しかしあえなく失敗し、ヤスの先が岩にぶつかるにぶい感触だけが手に残った。クソーッ! 千載一遇のチャンスを逃してしまった。逃げられた後はただこの白いヒゲが消えた暗い岩の裂け目をうらめしく見つめているより仕方なかった。後にこれはヒゲが白いことからイセエビではなくてゴシキエビ(やはり高価)と判明したのだが悔しいことに変わりはなかった。

◆奄美の海狩りは、喜びと悔しさが相半ばする結果となった。しかし今回の旅はこれだけでは終わらない。島に滞在した後半は森の中にも分け入り、数多くの珍しい生き物を見つけたり驚きの出会いが待っていたのだがそれはまた次号で……。(松原英俊


[先月の発送請負人]

■6月号の通信発送に駆けつけてくれたのは以下の12名です。大いに助かりました。ありがとうございました。とくに車谷、松澤両兄は印刷作業から森井祐介さんを支えて頑張ってくれました。ご苦労さまでした。

森井祐介 車谷建太 松澤亮 今利紗紀 鯨岡美由紀 山田淳 江本嘉伸 杉山貴章 久島弘 野地耕治 妹尾和子 武田力


ベスト記録達成も1次リーグ突破ならず!
━━ダチョウスターズ奮闘顛末@比嘉

■地平線会議のハーリーチーム「地平線ダチョウスターズ」は今年3回目の比嘉ハーリーレース(沖縄県うるま市)に挑みました。今年の参加チーム総数は38組。実力差でA、B組に別れますが、新参のダチョウスターズはB組32チームの一角です。

◆ハーリーレースに使われる伝統木造漁船の漕ぎ手は10名。櫂を漕ぐパワーが必要なのはもちろんながら、10名の櫂さばきの呼吸が合わないと推進力は生まれません。「女性が2名以上いて上位に入るチームは無いよ」と初年度に聞いて以来、それなら女性3名以上でしかも大半が内地出身者の構成で予選突破し、比嘉ハーリーの歴史にエポックを作りたい(おおげさ!)と言うのが密かな目標になりました。

◆3年目の区切りの今年は、なんとしても目標達成したいと言う思いで、例年より早く、レース一週間前の6月29日から合宿練習を開始しました。地平線仲間の外間昇、晴美夫妻のご好意で、外間家の実家に合宿しています。チームメンバーは3年目の外間晴美、車谷建太、長野亮之介(団長)、2年目の新垣亜美、掛須美奈子、初参加の蔦谷知子。そして応援に久島弘。以上7名が地平線会議から。チームの牽引役に沖縄在住で「地平線あしびなー」でも協力してくれた三宮健、鎌田真の2名が参加し、さらに長野の友人の加賀浩嗣、道夫妻が初参加ながらイメトレを重ねた素晴らしい櫂さばきでサポートしてくれました。

◆全員内地出身で、半数が女性です。もちろん外間昇さんが全面的にコーチ、アドバイスで協力してくれました。今年は例年に比べてやや天候不順で、激しい雷雨の中で体育会の運動部みたいに櫂を合わせた日もありましたが、予定通り5日間の練習日をこなして本番に臨みました。

◆レース当日7月4日は晴れ。いつもは広々した比嘉漁港に応援団のテントがずらっと並び、大漁旗がはためく様を見ると緊張感で身が引き締ります。開会式に臨んだダチョウスターズはお揃いの黄色いTシャツがひときわ目立ちました。地平線会議仲間の滝野沢優子さんが手刷りしてくれたものです。

◆ダチョウスターズの初戦は第13レース。対戦相手は比嘉区長平敷勇さん率いる「ゆがふの郷」チームでした。初エントリーですが地元のウミンチュ(漁師)主体の強豪です。練習中の競争では良い勝負だったので本番は負けられません。ダチョウスターズも櫂はバッチリ合い、あとは本番でアドレナリンをいかに巡らせるかの勝負です。予選はタイムレース。120メートルのコースを一周回半する300メートルレースで、今年は2分10秒辺りが予選突破ラインの様相。

◆スタートラインに着いたダチョウスターズの舵取り役は大会実行委員長のあっちゃん。本番のピストル音と共に猛然とスタートダッシュ。快調に進みますが、ゆがふチームの影は前方に。最後まで追いつけなかったものの、タイムはチーム過去最高の2分11秒67でした。結果は惜しくも10位。目標のベスト8までたった2秒!届きませんでしたー(ちなみにゆがふチームは2分05秒台で予選突破。外間昇さんの「情熱浜比嘉22期」は準優勝)。

◆当初から3年は参加し、その後は状況次第と考えていましたが、これでは終わらせられません。来年も是非参加し、悲願(?)の予選突破を果たしたいと思います。参加希望者は今から腹、背筋強化と体力作りを!(長野亮之介


豚丸の見た目の「ごちそう感」は、世界中のどんな料理をもしのぐだろうなあ。命を食べて、命になって、という自然の循環に素直に感謝

■きっと誰もが1度は食べたい「豚の丸焼き(以下、豚丸)」を、食べるどころか作ってしまった! 清(ちゅ)ら海ファームの子豚2頭を、ハーリー準備に精を出す島民とダチョウスターズに振る舞ってくださったのだ。昇さん晴美さん、ありがとうございました! ということで、生後4か月のかわいい子豚は軽トラに乗せられて、と畜場へと運ばれていった…ドナドナ。

◆豚丸づくり経験者などいない中、手探りの準備は3日前からスタート。窯づくりのため、農場の大きな松の木の下にレンガを集めた。豚は頭〜胴で約80センチ、20キロはありそうだ。長野監督を中心に、大きさや空気の通り、強度を考えて意見を出し合い、何度もレンガを積み直す。フタにトタン板をのせ、雨よけ用テントも張り、立派な窯が完成した。

◆豚丸当日の朝。豚のお腹にじゃがいも、紫いも、にんじん、たまねぎ、島にんにく、しょうがをたっぷり詰める。針金でお腹を縫い合わせ、農場に生えていたローズマリーも喉から入れた。お尻から口に向けて、鉄棒をぐぐーっと力一杯に刺す。耳としっぽは、焦げないようアルミホイルで包む。火加減は木工作家の加賀さんが始終、熾き火で調節してくれた。

◆順調に見えるがみんな内心ドキドキ、それがまた楽しい。10分おきに様子チェック&油塗りを繰り返すこと3時間。あめ色にパリッと焼けた皮に我慢できなくなった久島さんが、とうとう豚モモにナイフを入れる。「…うまい!」すかさずみんなも味見に飛び付いた。じっくりローストされた肉のやわらかさは最高。仕上げにタレを塗りながら焼いて、完成だ。結果は上出来、イメージ通りの豚丸に一同感動〜!

◆味も素晴らしいけれど、豚丸の見た目の「ごちそう感」は、世界中のどんな料理をもしのぐだろうなあ。命を食べて、命になって、という自然の循環に素直に感謝。クリーミーな脳みそまで、ありがたくおいしくいただいた。1頭で20人前はあったかな。

◆それにしても、栄養つけてチームワークも高まって、何てゼータクな合宿だろう。ありがとうございました!(新垣亜美


特製『はまひが絵葉書』も好評!

■今年のハーリー大会は、5日前から特訓を始めるなど、例年にも増して気合が感じられました。一人応援団の私は3日目の午後遅く現地入りしましたが、その日も雷雨の中での練習。岸壁に立つと、低く垂れ込めた沖合いの黒雲から、水平線にビシバシ稲妻が刺さる凄いコンディションです。それを背景に一心不乱に漕ぎ進む光景は、圧巻の一言でした。時空の裂け目から現れた古代人の姿に見えたほど。私は上位入賞を確信したのですが……。

◆予選突破こそならなかったものの、地平線ダチョウスターズは、豚丸焼き、『はまひが絵葉書』(註)販売の下準備、『牧場ゴミ屋敷』の大掃除などにも力を発揮しました。来年は2チーム出そう、との声も上がっています。皆さん、是非ご参加を! 註:写真教室の子供たちの作品から10点をセレクトして、丸山純さんが製作。大会当日に10セット<計50枚>を売り上げました。(浜比嘉滞在をシラフで通した 久島弘


子どもたちもハーリー、頑張りました

■比嘉小学校の金城です。ご無沙汰しております。地平線ダチョウスターズも出場していましたのでもうお話は聞いているかも知れませんが、先週比嘉ハーリーがあり、比嘉小の子ども達もパレードとハーリー競漕に参加しました。昨年度より7人も児童数が減り、ハーリー競漕も例年3年生以上だったのが、今年から2年生以上になり、職員も父母の助っ人を借りないと出られない状況でした。改めて、児童数減少の影響を感じました。

◆パレードはにぎやかでしたよ。幼稚園児はダンス。1年生が鈴などの打楽器、2・3年生が鍵盤ハーモニカ、4年生がリコーダー、5・6年生が大太鼓、小太鼓、鉄琴、キーボードなどの楽器でドラムマーチや校歌、ミッキーマウスマーチ、子犬のワルツの3曲を演奏します。くり返し演奏しながら比嘉の集落をまわり、ハーリー会場に入場しました。そこでも開会式の前に演奏を披露し、大会を盛り上げていました。

◆ハーリーはA、B各10名ずつのチームに分かれて勝負しました。記録はちょっと確認できないのですが、勝負はAチームが勝ちました。練習も1回しかしなかったので、ほぼぶっつけ本番で臨んだレースでしたが、子ども達なりに声を合わせ、小さい子も一生懸命櫂をこぐ姿は見ていて感動します。

◆地平線ダチョウスターズ、合宿してこれまでで一番いい記録だったとのことでしたが惜しくも負けてしまいましたね。本当は、どなたか学校で1時間授業をしてほしいと思っていたのですが、学校側の慌ただしさでできませんでした。残念です。1学期もあとわずかとなりました。沖縄は夏本番です。そちらはまだ気持ちいい夏到来とはいかないと思いますが、体調にはご注意下さい。(比嘉小教諭 金城睦男


■海の次は山です。この夏もまた、北ア・剣岳の山小屋で働きます。今年は雪解けが遅く、雪がたっぷり残っているそう。6月中旬は桜が満開だったと聞きました。山菜採りが楽しみです。では行ってきます!(新垣亜美 7月13日)


高級ホテルで起きたこと

■ジャジャーン! 生まれて初めて仕事で海外に行きました。ヒューヒュー!(> 3 <)! アメリカのテキサス州サンアントニオという街へ、睡眠の医学学会の取材です。世界中から約6千人のお医者さんたちが来ていました。研究領域ごとに、いろいろな専門学会が世界中で年中行われているようです(大規模だと3万人以上参加者が集まる)。

◆ということで生まれて初めて高級ホテルの20階に滞在しながら、朝も夜も街を見下ろしてはアメリカンドリーム! でしたがある深夜のこと、部屋に設置されていた警報機からけたたましいサイレンが鳴り一瞬で飛び起きました。「バイオテロリズム発生、至急、階下へ避難!」と英語で言っているのが聞き取れ、目に見えない恐怖で心臓が止まりそうになりました。絶対にエレベーターを使うなと言っている。

◆夢かと思いながら部屋の外へ出ると次々人が出てきました、階段を降り始めると、もっと人が増えて来て、顔面蒼白の人の列。ロビーへやっと着き、世界各国の寝巻き姿を見れました(詳しくは忘れました)が、きちんとお化粧して来た人もいて、人それぞれでした。結局、警報機の誤作動だったのですが、地方の街でさえこんなアナウンスが用意されていることに驚きでした。さすがアメリカだぁ!(大西夏奈子


“ Big mouth die first”━━白根全の「地球・死のロード」パート2

■6月1日、ミンドロ島のカラパンを出航、最短距離でルソン島を目指す。ベルデ島からマリカバン島の北側を抜けるノース・チャネルに入るが、良い風が来ないうえ、巨大なタンカーや大型貨物船などの交通も多く危険が怖い! 逆風や渦潮で苦戦。位置は北緯13度26分24秒6、東経121度01分17秒3。

◆沿岸警備隊の伴走船は昨年と同じDF332号、全長19メートル全幅5.5メートル、38排水トン。1977年製造進水の老朽船だが機関砲も3丁装備、スペシャル・タスク・フォース(特殊部隊)隊員2名を含む計8名の乗組員により運航されている。ただし、船内外はマスコットの3匹の雑種犬を始め、鶏からヤギ(もちろん食用)、九官鳥などが入り乱れた、生活臭に満ちた特異な空間となっている。当然、機関砲は洗濯物を干す以外に使用されることはない。一度でいいから撃たせろ、と昨年から頼み込んでいるが、いまだ実現せず。

◆6月3日、マリカバン島手前の岩礁に到達したところで、突然荒れ始め。かなりな強風だが、これでも8ノットぐらいか。本日早朝のバシー海峡、バタネス諸島のバスコからの情報では、12ノット以上の風があらゆる方向から吹き乱れているとのこと。先が思いやられる。翌日、強風が続いて停滞。警備艇で対岸のバタンガスまで水と氷の補給。ついでに、市場で生鮮食料品など買い出し。何といっても、冷やしマンゴーが最高に美味!

◆昨日購入した雄鶏が、早朝からやたらうるさい。寝ぼけ眼であいつを消せっと指令を飛ばす。“ Big mouth die first”、昼飯はチキン・シグシグ・スープ。台湾方面担当のさつきちゅわんより電話。フィリピン領海へ入らずにサポートするなどなど、全般に意味不明。チャーター料金も含め、ドクトル関野氏に直接連絡するように依頼する。カモられているのか嫌われているのか、微妙なところ?

◆6月6日、午前3時スタート、大学ボート部なみに漕ぎまくって、ようやく魔のノース・チャネル脱出。ルソン島のサンティアゴ岬に到達。風間事務所より連絡、12日にはリマ到着予定とのこと。日本に連絡してリマ行き片道、およびエクアドルからキューバ、メキシコ経由でアメリカまでのチケット手配を仕込み。縄文パクールは当初の予定を10日間以上遅れ、もはや時間切れ中途離脱せざるを得ない状況となっている。それにしても、再度北上を始めたもののあまり距離は稼げず。

◆出航以来、本日までに読了した本は『サルとすし職人―<文化>と動物の行動学―』(フランス・ドゥ・ヴァール著、原書房334ページ)、『ニーチェ伝―ツァラトゥストラの秘密―』(ヨアヒム・ケーラー著、青土社382ページ)、『帝国というアナーキー―アメリカ文化の起源―』(エイミー・カプラン著、青土社382ページ)、再読で『文化と帝国主義―上巻』(エドワード・W・サイード著、みすず書房348ページ)、昨年は1か月弱で各ジャンル合計3000ページほどまとめて読みふけったが、今年はあまり捗らず。何より、1日100歩も歩かない船上拘束生活で、足の筋肉が情けないほど退化したのには驚いた。意識的に筋トレに励まないと、駅の階段がマジで辛くなる。

◆GPSや衛星携帯電話の使用法などを撮影班の若い衆にレクチャー、引き継ぎなどなどで慌ただしい夜となる。ドクトルとじゅんちゃんが泳いでお別れと業務連絡、および経費の引き継ぎに警備艇へ。予定の遅延に伴い、コーストガードには追加経費を支払わなくてはならず。やりくりしたキャッシュをお届けに行くついでに、隠し持っていたよもぎ大福、かりん糖など差し入れ。よーへーとじろー、マジに目が潤んでたぜっ。

◆6月9日、マニラ湾入り口に位置する往年の激戦地、かのマッカーサー提督が「おまーら、覚えてろよっ!」と捨て台詞を残して撤退したコレヒドール島に敵前上陸。縄文パクールのシジミチョウのような雄姿も、はるかに霞んでもう見えない。久方ぶりの陸の上、翌日マニラ市内でもっとも豪華なシャングリラ・ホテルのロビーで、登山家で冒険家、有能なオーガナイザーでもあるアート・バルデス氏と面会。彼はフィリピンのエベレスト登山隊々長で、雪氷の経験のまったくない隊員を鍛え上げて、6名の隊員を無事故で登頂させた国家的著名人だ。

◆山の次は海、というわけで、現在はバジャウの屋形船を再現し、マレー系海洋民族の拡散ルートを東はイースター島から、西はマダガスカルまでたどる航海プロジェクトを実行中。昨年のミッション・インポッシブル交渉中にたまたま知り合い、沿岸警備隊とつないでくれたり、メンバーをグレートジャーニーの航海に派遣してくれたりと、さまざまな協力関係にある。その彼が、当方の顔を見るなり「いいから今年は止めておけ」と言い出した。

◆というところで、またまた時間切れ、続きは来月に。実は現在、今年4回目の超短期一時帰国でマジに成田、20分後には空の上なのである。中途参戦の風間氏の南北米大陸縦断プラス北欧の旅はアサヒ・ドット・コムにてリアルタイムでご覧いただきたし。(ZZz 7月12日)

[念のため白根語についての注]「さつきちゅわん」は、ムサビOG・木田沙都紀、「ドクトル」はおなじみ関野吉晴、じゅんちゃんは海、川の仕事師・渡部純一郎、じろーとよーへいはムサビOBの前田次郎、佐藤洋平、のことと思われる。(E)

野元甚蔵さんにダライ・ラマから長寿を祈願するメッセージ届く!!

ダライ・ラマ色紙

■7月はじめ、鹿児島県指宿市の野元甚蔵さんのもとに封書が届いた。チベット研究者で翻訳家の三浦順子さんからで、中には一枚の色紙が。ダライ・ラマ14世直筆のメッセージだった。

 チベット語の草書体で書かれた内容は……。

 野元甚蔵様へ     2010年6月22日
(幾度生まれ変わってこようと)すべての人生において、幸福で、善くあられますよう、(仏・法・僧の)三宝にお祈り申し上げます。
    釈迦の比丘 ダライ・ラマ(サイン)

 野元甚蔵さんとダライ・ラマは71年前からの縁がある。1939年参謀本部の指示でモンゴルの活仏、アンチン・フトクトの一行とともにチベットに潜入した野元さんは、10月半ば、ラサでダライ・ラマ14世の行列に遭遇しているのだ。13世の生まれかわりとして「発見された」ばかりの4才の子ども、こちらはモンゴル人になりすましてチベットに潜入した日本の青年。

◆あの日から41年後の1980年、たまたま鹿児島を訪れたダライ・ラマに紹介する人があって野元さんは対面、チベットでのことを話した。ダライ・ラマは驚いて野元さんの話を聞き、珊瑚の指輪などを贈った。

◆三浦さんは、野元甚蔵さん、故西川一三さんをお招きして私たちが2001年12月に開いた「日本人チベット行百年記念フォーラム」の実行委員会スタッフ。5月の地平線報告会で野元甚蔵さんの元気な姿にうたれ、来日したダライ・ラマのメッセージをもらえないか、とダライ・ラマ法王日本代表部事務所に相談、願いは快諾されて法王が野元甚蔵さんにあててメッセージを書いた、というわけである。

◆突然の色紙を受け取った野元さんは「思いがけないことに驚き、感激しています。ダライ・ラマ法王とは鹿児島と東京で二回お会いしましたが、ほんとうに素晴らしい方です。私のような者に直筆でお言葉を頂き、ただただありがたいことです」と語っていた。4才のダライ・ラマ法王のラサ入りという歴史的シーンに立ち会った野元さんも今93才。一方ダライ・ラマ法王も75才。先日チベットに旅立った三浦さんは「そのダライ・ラマが野元氏のためにわざわざ長寿と健康を祈願して色紙を書いてくれたというのはなかなかいい話だとおもうのです」とのメールをくれた。野元さんにまたひとつ、宝物が増えた。(E)


「キノコとウンコが地球を救う」

■糞土師・伊沢正名大阪講演会■

日時:8月28日(土)14:30〜16:30
場所:半農半X(エックス)カフェ あらかし
  (大阪市中央区島之内2-12-28おとしより健康センター1F)
参加費:500円(ワンドリンク付)+お布施(講師謝礼、1円以上)
問い合わせ:糞土師研究会 小長谷(コナガヤ)雅子 080-2448-5718


この勝利で南アフリカに来るまでの、もやもやした気持ちが一変して最高の気分に変わってしまった。勝利というものは偉大だ
──ワールドカップ現場報告

■遠い、危険、その上代表チームは4連敗中と、まるで良い所がないままに、南アフリカへワールドカップの観戦に行って来ました。ヨハネスブルグの空港に集合したツアーのメンバーは約30人。年齢層が高い。平均40歳くらいだろうか。女性の参加者も半分近くを占め驚く。皆さんと話すと大半の人が過去の海外W杯観戦を経験しており、マスコミがどんなに危険を煽ろうとも、現地に行けば楽しい事を信じて来た人たちばかりで頼もしい。

◆翌日は日本対カメルーン戦。バスで6時間かけブルームフォンテーンへ行く。昼食は市内のショッピングセンター。突然100人近い日本人サポーターが現れ、現地の人は皆歓迎してくれた。カメラを向けると最高の笑顔を向けてくれる。サッカー会場以外でもワールドカップは体験出来る事を彼らは感じていたに違いない。

◆会場に到着すると周囲に空席が目立つ。今回のチケットは申し込めば全て購入出来たので、大勢の日本人がとにかくチケットを確保したはずだが、その後の危険報道で取りやめた人がこれほど多いとは。改めてマスコミの影響力に感心する。試合はご存知のように予想もしない勝利に、日本人サポーターは大興奮。南アフリカの人たちも一緒になって喜んでくれて嬉しかった。この勝利で南アフリカに来るまでの、もやもやした気持ちが一変して最高の気分に変わってしまった。勝利というものは偉大だ。

◆次のオランダ戦まで4日間は観光。でもバスが手配出来ないからとサファリには行けなかった。そこで実千代と二人で電車に乗って安全と言われるサントンシティへショッピングに向かう。当たり前だけれどそこは世界中からのサポーターであふれていた。何の危険も感じる事なく1日を過ごす。昨日の勝利のおかげで日本代表シャツを堂々と着て歩ける。そしてJAPAN WIN !! と通り掛りの人が声をかけてくれるのが誇らしい。

◆夜8時半からのブラジル対北朝鮮戦を観戦に行く。ヨハネスブルグの危険と言われる地域に競技場はある。確かに商店の窓や入り口は鉄格子で囲われている。個人ではやはり行動出来ない。海外からの観戦者は皆近くまでバスで送迎してもらっていた。

◆標高1500mの6月はとてつもなく寒かった。試合前に買ったビタミンウォーターをハーフタイムに飲んだら買った時より冷たかった。冷蔵庫の中での試合観戦。ブラジルが今ひとつの調子だったのは寒さのせいに違いないと思った。国歌吹奏の時のチョン・テセの涙には感動した。

◆ダーバンへはバスで8時間ひたすらにインド洋に向かって下り続ける。到着するとそこは温暖なリゾート地。海岸にはワールドカップのイベント会場が設営されて人であふれている。太鼓のワークショップや滑車にぶら下がって対岸に滑って行くアトラクションに参加したり、お祭り気分を満喫した。ダーバンは本当に居心地の良い町でした。お勧めです。

◆オランダ戦は敗れたが、1勝している余裕で皆穏やかにホテルに帰り、懇親会を開く。3試合目まで残る人に応援を頼み、南アフリカに来て本当に良かったと語り合い、翌朝3時半にホテルを出発し、約30時間後大阪に戻って来ました。もちろん次の日は会社です。(岸本佳則


記念撮影でもとカメラを向けると、その辺の人もみんな寄ってきて、ぎゅーぎゅー団子状態
──満面笑顔、明るい南アの人たち

■みなさーん、ワールドカップは楽しめましたか?サムライ・ジャパンはやってくれましたね。興奮して、寝不足になった人も多かったのでは……。ウチは、行ってきましたよ、南アフリカ!行く前は、周りの人から「なんでわざわざそんな危ないところに行くの?たぶん負けるのに……」なんてあきれ顔で言われたりもしましたが、行って正解。カメルーン戦の勝利もナマで観たし、ブブゼラも買ったし、思い切り楽しんできました。帰ってきたら、みんなにうらやましがられました。

◆私たちが参加したツアーは、大手ではなくサッカー観戦専門の旅行会社。なので、スタジアムへの往復以外は、基本的に自由行動。自分たちでぶらぶらするもよし、オプショナルツアーに参加するもよし。ただし、自己責任の取れる範囲内で行動すること。ツアーに参加している人も、Jリーグの各クラブのサポーターはもちろん、代表の試合だけを応援している人や、ただ単に南アフリカに来たかった人、選手の親戚など色々。でも、試合のときはみんな一丸となって応援しました。

◆南アフリカは、国中がお祭り騒ぎで、毎日がカーニバルって感じでした。ずっと安全地帯にいたので、危険な目にも一度もあわなかったですよ。現地の人たちも、自国で開催されるW杯を世界中から来た人に楽しんでもらおうと、一生懸命でした。こちらの人たちは、すごく純粋で明るいんですよね。つい最近まで暗い苦しい時代があったなんてちょっと信じられないです。

◆彼らにとっては、西洋人は見慣れているけど、アジア人はあんまり見たことないみたいで、興味津々。街を歩いていても、ニコッとして「ご機嫌いかが? 楽しんでね」と何度声をかけられたことか(もちろん英語)。お店でお土産を物色していたら、店員さんが「コンニチハ」とあいさつしてきたので、「こんにちは、ベリーグッドな日本語だね、エクセレント!」なんて答えようものなら、周りの仲間を呼んできて「きゃー私の日本語通じたよ」と大騒ぎ。「サンキュー」は日本語でなんて言うのかと尋ねられたので、「アリガトウ」と答えると、みんなで「アリガトウ」の大合唱(ホントは「まいど、おおきに」と教えたかったんですけどね)。

◆それじゃあ、記念撮影でもとカメラを向けると、その辺の人もみんな寄ってきて、ぎゅーぎゅー団子状態。にもかかわらず満面の笑顔でハイ、チーズ。色んな国の人たちと交流するのが楽しくて仕方ないご様子。ほんとにこのお祭りをめいっぱい楽しんでいるようでした。スタジアムの周辺では、仮装パーティなみの工夫を凝らした応援コスチュームを着た人がいっぱい。とくに日本のサムライの格好は珍しいようで、ずっとメディアに囲まれてました。

◆試合前は両国のサポーターが写真の撮りあいっこをしたり、一緒にブブゼラ吹いたり(これが思ったより難しい)、ビールで乾杯したりと和気藹々なムード。お互いに「グッドラック、いいゲームにしようね。楽しもうね」などと笑顔で挨拶。試合終了後も、お互いの健闘をたたえ、次の試合の勝利を誓い合ってお別れ。相手チームの悪口をいう人なんて一人もいない。サッカーを通じての国際交流は清々しくっていいなぁと感激しました。

◆日本の試合のない日も、国際交流。ブラジル対北朝鮮戦では、試合前にブラジル人に交じってサンバを踊って、陽気な北朝鮮人だと間違われ、ショッピングモールでは、「日本の横浜フリューゲルスにいました」とエルサルバドル人に声をかけられ、ホテルのバーではアルゼンチン、ニュージーランド、スワジランド、南アフリカの人たちと一緒に酔っ払い、みんなで「ハカ(ラグビーのオールブラックスが試合前にする踊り)」を踊ったりして、他にも色んな国の人たちとお友達になりました。本当に南アフリカまでW杯を観戦に来てよかったなぁと思いました。

◆さぁ次は4年後のブラジル大会です。今度はどんな楽しい出来事が待っているかと、今からわくわくしてます。みなさんもご一緒に、サッカーのカーニバルに参加しませんか?(ウチは行けるのかな?)(岸本実千代


夏実ちゃん、誕生!!

■昨夜九時半、無事に我が子が誕生しました!出産は4時間半と初産としてはスピード安産のようなのですが、内容はホントに壮絶でした。世の中の多くの人がこの過程を経て産まれているなんて……一つの命の誕生はなんて尊いんだろうと思いました。(三羽宏子 6月25日 写真とともに)

追伸:名前は夏実(なつみ)に決定しました。夏に実った(産まれた)子という意味と、夏の作物のようにたくましく、豊かで実りある人生を送って欲しいという願いを込めました。(7月13日)


六月詠
  うみやまのくらし
金井 重

  《筑波山》

登りきて 女体神社の 山の気に
 願ごと忘れ 合掌したり

悠久の 女体男体 神の峰
  通う岩の道 ガマ石もあり

太古の森 とびこえて 一気に登る
  ケーブルカーあり 筑波山神社

境内の 袴に太刀の 口上士
  「ガマの油」に うたう鶯

  《火焔街道》

街道筋の 火焔土器に じっと座り
  半眼のてい 無人の部屋に

火焔土器も 王冠土器も 本名は
  なんとそっけない 深鉢土器と

山と川 火焔街道の 火焔土器
  火のごとく生れ 炎のごとく燃ゆ

日本史の 古代ミステリー 火焔土器
  この川ぞいに 生まれて消えぬ

火をおこす 遠つ祖かこみ ぬくまりし
  われらの遺伝子 たき火が好きだ

  《国東半島》

鹿肉たべ 魚の手づかみ うみやまの
  くらしもおかし 国東の旅

つゆ空の 山道すいすい 海をみて
  寺も八幡も これぞ国東

アフリカの 地図が拡がり ボールとび
  地球は丸いぞ 汗がはじける

つゆ空に 豊後聖人 たずねけり
  天地を師とす 人の像やさし

海山の 人ら元気だ たのもしか
  ともに行きましょ 人生の旅

高度下げ ガタガタふるわす 双発機
  機内はシンと 旅の終章


小林淳君を想う
 6月の報告会に向けて小林淳さんをよく知る、かつての観文研仲間2人から原稿を頂いた。要旨は会場で読み上げたが、この通信にあらためてその全文を収録し、帰らなかった旅人の素顔を知る手だてとさせてもらう。書いてくれたお2人に感謝します。(E)

小林淳君のこと
 須藤 護
(元日本観光文化研究所所員)

 昭和48(1973)年、日本観光文化研究所から長期滞在が可能な機会(資金)が私たちに与えられることになった。昭和44年に、相沢韶男さんが通っておられた福島県南会津郡下郷町大内に滞在する機会を得、翌45年には、奥能登の珠洲市若山町火宮で民家や民俗の調査を体験したことが、宮本千晴さんの耳に入ったのだと思う。当時としては、また私としては思わぬ大金を手にしてしばらくの間戸惑ったが、武蔵野美大の後輩に声をかけてメンバーを募ることにした。工芸デザイン、商業デザイン、彫刻などを専攻していた7名の学生が手を上げてくれた。その中に小林淳君の名前があった。当時商業デザイン科の3年生であったと思う。

 対象地は当初から会津に決めていた。それは私が初めて民俗調査を体験したのが南会津の大内であったこと、同じ南会津の田島町には室井康弘先生という郷土の研究者と、佐藤耕四郎さんという民具の収集家(研究者)がおられたことが大きな理由であった。当時佐藤さんは数千点の民具を収集しており、民俗館設立の計画をされていた。相沢さんもこの事業にかかわっていた。お世話になることにした村は田島町針生(はりゅう)であった。針生は駒止峠という峠下の集落で、駒止峠は南会津地方の東部と西部を分ける峠であった。戸数180戸ほどのまとまりのある村で、七ヶ岳、駒止峠などをひかえて山の生業がさかんであり、また稲作も畠作もさかんに行なっていて、南会津地方の典型的な村であると感じたからである。

 最初に皆で針生に入った日は、野帳で確認しなければならないが、昭和48年7月であったと思う。当時空き屋であった農家を1軒お借りし、交代で食料の買い物をし、自炊をした。借家は月5000円の家賃であった。当時、浅間山荘事件が世の中を騒がせており、学生らしき集団が家を借りて住んでいたので、赤軍派の闘志と間違えられることもあった。実際、針生の山にその系統の集団がこもっていたらしく、時折山から下りてきて買い物をしていったという話を何度か聞いた。村に入ったといっても、買い物と炊事以外は、とくべつに役割とか分担を決めていたわけではなく、それぞれの興味にしたがって動いた。それでも何か作業が始まったら、必ず誰かがついていくようにしたので、ときには数人で動くこともあった。最初のころの写真をみると、皆山仕事に興味があったようで、材木の伐採や搬出の写真が非常に多い。冬になると杓子打ちやワラ仕事の写真が多くなる。もちろん春は田植え、秋は収穫の野帳や写真が多くなった。『あるくみるきく105号 奥会津のむら・針生の生活誌』で使用している表紙、および裏表紙の写真、また本文中に使用している写真の多くは小林君が撮ったものであり、『あるく』が写真家小林のデビュー作品になった。なかでも、村人が桜の木の下に集い、御馳走を目の前にして笑顔で語り合っている写真は傑作の一つであろう。

 会津における小林淳君は、他の6人の学生とはだいぶ変わっていた。まず彼はバスに乗らなかった。田島から針生まではいつも歩いてやってきた。距離にして12キロほどであったので、最初はとてもいいアイデアであると感心したものであった。その後、歩く距離がだんだん長くなっていく。ある日、あまり到着が遅いので心配していたところ、会津若松から歩いてきたという。若松から田島まではゆうに50キロはある。1時間に4キロ歩くとして、12時間あまりはかかることになる。その後、東京から歩きたいと言い出した。会津若松から歩くことは、会津地方の景観を観察しながらの行程であるから大きな意味があると思われたが、東京から歩く意味はどこにあるのだろうか、疑問に感じた私はさんざん彼と議論した。結局東京から歩くことはあきらめたが、今考えてみると、彼の意見のほうが正しかったのかも知れない。通常の民俗調査の常識をはるかに超えたところに、彼が立っていることが後になってわかった。

 彼のもう一つの特徴は、寡黙であることだった。何かに興味を抱いているようだが、そのことについては何も語ってくれない。いつも1人で、もくもくと何かに集中していた。メンバーの中には、どのようにして彼と接したらいいのか悩む者がついにあらわれた。なるようにしかならないのであるから、また自由に行動することが彼のスタイルであろうから、自然体のまま接することで落ち着いた。それがよかったのであろうか。彼の撮った写真は家族、子供、お年寄りが非常に多かったが、その1枚1枚が、「人間が生きる」ということにたいして、また「豊かさとは何か」という問いかけにたいして、何らかのメッセージを発していた。「本来の家族とは」、「村のお年寄りはいかなる人生を歩んできたのか」、「子供たちの将来は」、このようなことを常にイメージし、どうしたらその思いを表現できるのか、思い悩んでいたのではないか。それが彼を寡黙にしていったのではなかったかと思われた。

 針生を訪問する回数が増え、滞在期間が長くなると、村の人々が気の毒がっていろいろな食べ物を持って来てくれるようになった。「あの連中はろくなものを食っていないようだ」といううわさが広まったのであろう。朝起きてみると、借家の土間にジャガイモ、トウモロコシ、野菜類などが山になっていることが少なくなかった。村の人は朝5時ころには起きて仕事を始めている。我々は1日のまとめを終わって、そのころに床に入る。ぐっすりと眠っている間に、食べ物が集まって来るようになっていた。ところが、せっかくいただいたものを腐らせたり、捨てたりすると罰があたってしまう。なんとしてでも食べきらなければならない。山のように積み上げられたジャガイモは、1回や2回のカレーライスではほとんど減ることはなかった。

 この状況をみていた小林君は、あるアイデアを思いついたらしい。ジャガイモの皮をむいて、ダイコンおろしで擂り、ピザの生地のようにして少々味付けをして、油で揚げてパンのような、ピザのような、お好み焼きのようなものを考案した。これが意外と好評で、毎日1食は大量のジャガイモパンが主食として食卓を飾るようになった。おかげで土間のジャガイモは急速に減り始めた。

 あまり長くなるといけないので、もう一つだけエピソードを紹介して終わろうと思う。田島町塩江というところに、大竹徳一さん(明治36年生)というたいへん無口な太鼓胴職人がおられた。太鼓胴の職人はケヤキ、トチ、シオジなどの大径木が多く自生する奥山に入り、2,3人で組になって数カ月を過ごす。話し相手は限られており、対話の相手は原木になる大木であったようで、「いい製品は原木との対話の中から生れる」と考えていた人であった。この年(昭和48年)の8月、宮本常一先生が田島に来られた。その目的は、先生が住んでおられた府中の大国魂神社の太鼓について調査をされており、その太鼓胴を掘ったのが、阿久津政八という南会津郡館岩村の太鼓胴職人であった。このことから、会津までやってこられたのである。館岩村は田島町の東となりの村である。阿久津政八はすでに亡くなっていたが、現役の職人として塩江の大竹徳一さんがご健在であった。私たちは先生とともに大竹さんに面会した。

 この時びっくりしたことは先生の次の一言であった。「あんたは偉い人ですな……。あんたのこしらえた太鼓で日本中の人々が踊り、楽しんでいる。そんなことができる日本人はそういませんよ」と切り出した。すると、それまで大先生の前で緊張していた無口な大竹さんが、堰を切ったようにして山での話を語り始めた。小林君が太鼓胴に興味をひかれ、大竹さんの元に通い始めるのは、これ以降のことであった。塩江は田島の中心部と針生のほぼ中間点に位置しており、小林君は針生にやって来る途中に寄り道して、頻繁に大竹さんの家を訪れるようになった。

 寡黙な小林君と無口な大竹さんが、どのような会話を交わしていたのか、また2人の間には、どのような雰囲気が醸し出されていたのかはわからない。しかし大竹さんの仕事をじっと見つめてメモを取り、写真を撮り続ける小林君の姿が想像できた。そして、会話をしなくともお互いの心が通ずる祖父と孫のような関係になりきっていたのかも知れない。その成果が形として現れたのが『あるくみるきく196号 特集太鼓胴覚書・南会津の胴堀職人たち』である。これが文筆家小林淳のデビュー作になる。(龍谷大学教授)


小林君との旅
 印南 敏秀

 小林君との出会いは、武蔵野美術大学3年生の時に参加した沖縄の民具調査だった。近畿日本ツーリスト日本観光文化研究所の沖縄民具調査プロジェクトに参加し、小林君と組んで1ケ月ほど行動をともにした。すでに小林君は武蔵野美術大学の宮本常一研究室主催の生活文化研究会や日本観光文化研究所の福島県南会津郡田島町針生の調査に参加していた。沖縄の西表島や石垣、黒島などの離島で調査し、泡盛を飲みながら、生活文化研究会や針生での調査の魅力を語り、そして誘ってくれた。

 沖縄から帰ってからすぐ、10日間ほど小林君と針生へ調査にいった。途中で小林君がたびたび通って調査していた、太鼓の胴をつくる職人の家で見学した。職人の丸い胴の内側をくるときの見事な斧さばきに驚かされた。民宿での薄くて塩からい味噌汁には驚いたが、季節の山菜はうまかった。

 そのあとすぐ、姫田さんたち民族文化映像研究所の『奥会津の木地師』の撮影の手伝いで針生を再訪した。ここでも木地屋の見事な斧さばきに驚いた。そのあとすぐ『あるくみるきく』で針生特集号をだすことになり、私が感銘をうけた太鼓胴や木地椀ができるまでの民俗技術のイラストを担当した。図版原稿を作成する間は、小林家に泊り込んで一緒に仕事をした。このとき小林家で生まれてはじめて食べた葉生姜のことが、なぜか今も印象に残っている。

 私が参加したころの生活文化研究会は、第一世代が観光文化研究所に活動の場を移し、学生の参加者は小林君と私の2人だけが多かった。やがて生活文化研究会員が主体となり、広島県三原市の自治体史の調査に参加した。はじめは手伝のつもりが、いつの間にか調査員となり、2人とも卒業後も調査を続けていた。

 『三原市史・民俗編』では、小林君は年中行事や民俗芸能、私は石造物を担当し、一緒に調査することはなかった。それでも『三原市史・民俗編』刊行後に小林君が書いたわらべ歌の本のイラストは私が担当し、三原市歴史民俗資料館で「石造物展」をしたときは拓本の撮影を小林君が担当してくれた。小林君は、写真は体力だといっていた。まずは対象を遠くから近くまで、また角度をかえて、よく見たうえではじめて撮影したからである。三原市での石造物調査は、私のその後の『金毘羅庶民信仰資料』や、周防大島での『東和町誌』『周防久賀の諸職(石積)』調査につながった。

 生活文化研究会や日本観光文化研究所での活動以外で、今も強く印象に残っている2人での旅の思い出がある。小林君は卒業制作で北海道開拓にとりくみ、その関係で岐阜県恵那郡付知町という山里に調査で通っていた。当時は金が無いこともあって、移動はどこまでも普通列車に乗っていった。中央線の駅に降りたのが、昼ごろだったと記憶している。それから歩きはじめて付知の目的の家についたときは暗くなっていた。家では1人で住む男性の老人が、心配しながらまっていてくれた。この老人に、その日の夕食から滞在中の宿泊と食事の世話をしていただいた。滞在中も2人で毎日山村の暮らしを見て歩いた。木馬道を歩いたのも、この時がはじめてだった。小林君は余分なことは話さないし、がんこな一面もあった。調査地へ遠くから歩いて近づくことは宮本先生の教えだが、小林君はそれが徹底していた。また友人の私まで一緒に世話してくれた老人との間の強い信頼関係は小林君の人間性をなによりあらわしている。私の民俗学の先輩ではあったが、一度としてそうした態度はみせたことがなかった。

 この点でも小林君は、宮本先生の言われる、だれとでも対等につきあうことを、実践していたのである。三原市の調査のあとは、私と同様に小林君も周防大島の久賀や光市での猿まわしの調査など、現地での長期滞在調査が多くなり、会う機会が少なくなっていったのが残念だった。(愛知大学教授)


[あとがき]

■イチロー、残念ながら結局ヒットなし。たかが野球だが、1本いいところで打つかどうか、でこういうのは随分違いますね。今回のワールドカップでもどうせ日本は1度も勝てないだろう、と思っていたひとりなのに、初戦のカメルーン戦で勝ったことで私もみんなもがらり前向きに変わってしまった。この変化は何なんだろう。甲子園の応援に似ているのだろうか。それにしてもサッカー、野球を含めて刺青文化が大層普及しいることに驚いた夏でした。

◆サッカーの主審は誤審も多いが、かっこいい人もいる。とくにイエローカードやレッドカードを出す際の動作。一瞬背を伸ばし、カードを持った手をまっすぐに上げて宣告する姿はかっこいい。

◆できるだけ新鮮なものを伝えたい、とまるで新聞のようなつもりで編集していることで今回も森井祐介さんには余計な手間をかけてしまった。フロントとこの最終ページを残してほぼ前日までにかたちはできるのだが、いろいろ押せ押せになって最後の着地に時間を食ってしまう。月1回とはいえ、盛り沢山なこの通信、森井さんがいるからこそ発行できる。ありがとうございます。(E)


■今月の地平線報告会の案内(絵と文:長野亮之介)
地平線通信裏表紙

変わりゆく北極圏

  • 7月23日(金) 18:30〜21:00
  • ¥500
  • 於:新宿区立新宿スポーツセンター(03-3232-0171)

「あれ?オレなにも変わってないじゃん?」'00年に、冒険家・大場満郎さんの企画「北磁極を目指す冒険ウォーク」に参加後、半年程して、荻田泰永(おぎた・やすなが)さん(32)は気づきます。大学を中退し、変化を求めての挑戦でしたが、たった一度の“体験”では何か違う。

それまでアウトドアとはほぼ無縁でしたが、はじめての海外でもあった北極圏に通い続けてきました。来年計画している北極点への単独無補給踏破のトレーニングとして、今年も3/12〜4/17にレゾリュート〜北磁極700kmを歩きました。

「北極しか知らないから通っているけど、好きなんですね。文化や環境もずいぶん変わりましたけどね。“挑戦の場”というのが原点かな」と荻田さん。行動中に動植物や地元文化の貴重な映像も多数記録してきました。

今月は荻田さんが通い続けた北極圏の魅力と今後の計画を語って頂きます!


通信費(2000円)払い込みは郵便振替または報告会の受付でどうぞ
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議(手数料が120円かかります)

地平線通信368号/2010年7月14日/制作:地平線通信制作室/編集長:江本嘉伸/レイアウト:森井祐介/イラスト:長野亮之介/編集制作スタッフ:丸山純 武田力 中島菊代 大西夏奈子 落合大祐 加藤千晶/編集協力 宮崎紀子/印刷:地平線印刷局榎町分室
地平線Webサイト http://www.chiheisen.net/
発行 地平線会議 〒160-0007 東京都新宿区荒木町3-23-303 江本嘉伸方


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