2010年6月の地平線通信

■6月の地平線通信・367号のフロント(1ページ目にある巻頭記事)

地平線通信表紙

6月16日未明、この通信の最後の編集作業に追われているさ中、メールが入った。「メールニュースありがとうございます。ちょっと心を動かされて、お返事しています。私は何を隠そう、周防猿回しの会の故郷、山口県光市の出身です」。綾さん、ことチベット学者の貞兼綾子さんからだった。そうだったか、彼女光市の出身なんだ。

◆「1970年代後半、カトマンドゥの日本人たちが集まる小さな家の留守番をしていたことがあります。私もそのころはまだ留学生。そこに旅の途中の若者がやってきました。まだ旅慣れてなくて、恐らく日本を出発して間もなかったのではないでしょうか?名前も覚えていません。周防大島や周防猿回しの会に出入りしているなどのお話が出てきました」。えっ? 周防猿まわしだって? じゃ、彼ではないか。

◆「私の名前を言うと、その名字はあの人たちの間では敵だみたいなことを言われました。まあ私もそう思ってましたから、大いに田舎の話で盛り上がったのでした」。貞兼さんの親戚筋に保守系の政治家がいたらしい。猿まわしの会は部落解放を掲げ、革新の旗印を鮮明にしていたから敵みたいに思われた、ということなのだろう。綾さんは続ける。「1982年からミッシングノノやはり、あの時の彼は小林淳さんだったのかも知れません」

◆小林淳(あつし)。最終ページに長野亮之介画伯が「君のいなかった30年」と、告知しているように、今月の報告者だ。ただし、本人はいない。1982年2月13日、タンザニアからの便りを最後に消息を絶ったままだから。綾さんのメールに、あわてて小林青年の「旅日誌」を広げた。1979年3月19日にスタートした旅で青年は丹念に綴った旅日誌を自宅に送り続けた。それをおととし秋、父上が「小林淳の旅日誌」として三部作にまとめて自費出版され、私にもその一部を送っていただいたのだ。

◆貞兼さんの「もしやノノ」は、正しかった。小林青年の日誌にこうあったのだ。「80年2月23日(土)Kathmandu 12時半ひさびさに『平和小館』訪問。途中リキシャに乗ったマダム(貞兼さん)とあいさつノノ」。すぐに貞兼さんに電話して内容を伝える。「やっぱりそうでしたか。普段はあまりしゃべらないほうなのに、猿まわしの復活については熱心に話したのをよく覚えてるんですよ。小沢昭一さんも参加しての活動だった、と。ニコニコして怒らない青年だった」と回想して、こう言った。「エモノトモシャ(貞兼さんは私のことをそう呼ぶ)のメッセージ、心にしみました」

◆「世話人ニュース」は、通信の発送助っ人をお願いする時などに私が発信する簡単な情報レターだ。毎月の報告会の予告も書く。6月13日付のメイルニュースの最後をこう結んだ。「地平線会議の周辺には帰れなかった仲間たちが何人もいますが、報告会のかたちで登場願うのは初めてのことです。帰ってこれなかった旅人の心に、耳を傾ける場としたい」。

◆何度も書いてきたことだが、地平線会議が当初の活動の主軸としていたのは探検・冒険年報『地平線から』の発行だった。176ページから成る記念すべきその第1号『地平線から 1979』に「無名の旅・小林淳」という7ページの原稿が載っている。青年がすっかりお気に入りの場所としていたタイのバンドゥーという村の滞在記で、以来、小林青年は当然地平線報告会で話してもらうもの、と考えていた。

◆小林君自身も地平線会議のことは意識していたようで、後に81年9月8日、ジンバブエのShanguniBulawayoでこんなふうに書いている。「7:15起床。6時すぎからトラクターや牛追いの声。きょうも快晴。青空くっきりと深い。空気は澄み、きょうも地平線がくっきり冴える。『地平線会議』実践一人部隊はきょうもあるくノノ。」

◆この5日前、9月3日の日誌にも地平線会議のことが出てくる。「6:45起床。きょうも終日ドンヨリくもり寒い風吹く。7時朝食。外出。Y.Hをたずねたらもう日本人はいなかった。8:45〜11:00、日本大使館にて朝日新聞を読む。ヒト欄に地平線会議の三輪主彦さんの記事」とある。小林君、少し時間は経ってしまったが、どうか地平線報告会でメ『地平線会議』実践一人部隊モの思いを伝えてほしい。

◆小林青年の仮葬儀は消息を絶って8年後に営まれた。その席で読み上げられた宮本千晴氏の文章をこの通信で紹介させてもらう。6月25日、帰ってこれなかった旅人の声を若い旅人たちに静かに聞いてほしい、と願う。(江本嘉伸


先月の報告会から

ノムタイの宇宙
 〜70年前のチベットからニッポンへ〜

野元甚蔵

2010年5月28日 新宿区スポーツセンター

■はじめて日本人がチベットに渡ったのは僅か110年前…!? しかもその旅の内容は仏典を求めての旅…!? 子供の頃から『西遊記』が好きだった僕にとっては衝撃的な事実だった。同じ仏教の国なのにチベットと日本は、そんなに新しい関係なのか、と。その最初の旅(河口慧海)から40年の時を経て、8人目にしてチベットの地を踏んだのが野元甚蔵さんだ。今年で93才(祝・地平線報告者最年長記録更新!)。1年ぶりにはるばる鹿児島からご家族と共に来て下さった。温かい拍手と共に報告会の幕は上がった。

◆初めにドキュメンタリー映像が上映された。チベット人が語りかけてくるような、范文雀さんのナレーションに乗せて流れるチベットの風景。遊牧の草原、ヤクや皮舟が印象的な農村、僧院、森の暮らしなどをとらえたモノクロ写真(江本さん撮影)からは、自然と共に生きる、チベットの人々の営みが伝わってくる。

◆聞き手兼進行役の江本さんが前回話されたことのあらすじを語る。鹿児島県山川町の農家に生まれ、農業高校を卒業した野元さんは、縁があって内モンゴルのアパカ地方に特務機関蒙古研究生として赴き、3年間でモンゴル語を習得。一方、日本の参謀本部ではアンチン・フトクトという親日的なチベット仏教の高僧の従者としてモンゴル人になりすました日本青年を送り込もう、という案が出ていた。野元さんに白羽の矢が立った。現代とは違い「情報がないから行く旅」である。当時22才、チベットの知識は何もなかった野元さんだったが「日本とチベットとの交流に貢献出来るのなら」と決意する。時は大戦直前の1939年、ちょうどダライ・ラマ14世の即位のタイミングでもあった。

◆ひとつの指輪を手に、野元さんが話し始めた。「これは14世に頂いた指輪です」。青海省からわずか4才でやって来たダライ・ラマ14世を乗せた4人担ぎの輿の行列に、所用でラサに来ていた野元さんは遭遇している。「その時はお顔を見ることは出来なかった」が、40年後に鹿児島で再会し、初めて握手をして語りあった際、頂いた。白金と珊瑚が施されたその指輪は、時を越えても尚、輝きを失ってはいない。

◆野元さんが1年あまり滞在したシガツェでは、王氏の実家にお世話になりながら、フトクトから託された漢字、モンゴル文字、チベット文字の三体で書かれた般若心経を読経するなどして、熱心にチベット語の習得に励んだ。内モンゴル時代はノムタイ(本を持つ人)というあだ名を持っていた野元さんは、チベットでは王氏にツンドゥィラ(努力する人)のチベット名をつけてもらった。タシルンポ大僧院ではモンゴル人のラマ僧達にも歓迎され、「いつかはラマ僧として寺院に入りさらに詳しく現地の事情を知りたい」との思いも芽生えていた。

◆ダライ・ラマのラサ到着のお祝いに、中国の代表として蒙蔵委員会の呉忠信という要人がラサに来て、僧院にお布施をするなど懐柔する行動が目立っていた。多くの高僧や要人達が敬意を表しに赴くなかで「フトクトだけが会いに来ない事に不機嫌な様子」更には「フトクトは日本と親交を持っているらしい。日本人を連れて来ているのでは」との疑心を抱いているとの噂が。野元さんの身辺は慌ただしくなる。急遽、王氏は釈明の為にラサへ出向くこととなり、野元さんはシガツェの西方約80kmにあるウジェンゾン地方の農村で避難生活を送ることに。

◆農家出身の野元さん、滞在中、チベット農業の実情を深く知ることになった。「ウジェンゾンでの間、一番思い出すのは何ですか?」との質問に、「日常生活のすべての行動が興味津々でした」。大昔の大噴火の影響で、土壌が浅いことに加え乾燥地でもあるその土地では、ヤクが大活躍する。春になると、ヤクが農具をつけて畑を耕し、水を加えては鋤き起こす。溝を作り麦や菜種など数種類の穀物を同時に蒔く。鎌で収穫し、乾燥させたら地面に並べてヤクに踏ませて脱穀を行う。その後熊手で女の人が唄を歌いながら放り上げ、風を使って取り出す(風選という方法)。篩(ふるい)に掛けて麦や菜種をより分ける。麦は大きな釜で火を通し、集落を流れる川を利用して水車のような石臼で粉にする。「これに水を加えて練ったものが主食のツァンパです」。江本さんと共に愉しげに解説してくれた。

◆村での日々が6か月程過ぎたある日、野元さんの所在を、タシルンポのラマ僧が聞き知ってしまったことから「どうも本当のモンゴル人ではないのでは?」との疑いがかけられてしまう。フトクトをはじめ、優しくしてくれた村人や王家の人達に迷惑をかける訳にはいかない。帰国を決意する。

◆「一番怖かった」のは帰途の船でのこと。「日本人らしき者がカルカッタに潜入」との警報が流れ、英国警察が日本船を徹底マーク。船長の上陸許可証がなければ船員ですら上陸も乗船も許されない状況となった。日本郵船の日本人が知恵を貸してくれた。顔の割れていない新人の船員に船長から白紙の許可証を持って来て貰い、なんとか乗船。機関室の横、人間ひとり通れる位の外壁との隙間に身を潜めて警官をやり過ごした。外から電灯の光が見えて「もういいぞー、出てこーい」と呼ばれて這い出したが、その後も機関室から出る事ができない。用便に困ると機関員の「やってしまいなさい」の一言。燃料の石炭の上で済ませると、それをスコップですくい上げ火に放り込んでくれた。「これは緊張の後の笑い話になったが、助けて貰った彼らとの日本人同士の同胞愛をしみじみ感じました。」と話す。

◆チベットを無事脱出した野元さん、密かに取っていたメモは、ヒマラヤの国境検査を懸念して焼却してしまったので、1年半の記憶だけを頼りに報告書を作成することに。ハルビンで半年を費やして報告書を提出した年には太平洋戦争が始まった。野元さん不在の僅か2年間で、世界は大きく揺れ動き、日本も重大な局面を迎えていた。

◆これらの体験を、野元さんが近年まで公表することはなかった。自身を助けてくれた恩人に迷惑がかかるのを恐れてのことだった。野元さんの誠実さだろう。鹿児島で再会したダライ・ラマ14世の「もう40年経ちましたよ。そろそろ良いのでは」との言葉に決心がつき、『チベット潜行1939』が刊行されたのは21世紀の節目の年であった。

◆今回の報告会には「チベットの野元」だけではない、野元さんの人生の別な面を伝えたい、という意図が進行役の江本さんにはあったようだ。後半はみんなでアルバムをめくりながら野元さんの生きてこられた時代をたどる展開となった。明治の日本人の雰囲気をたたえる野元さんのご両親のポートレートにはじまり、1931年、徳光小学校の卒業写真、1933年、鹿屋農学校時代の集合写真などセピア色の貴重な写真が次々にスクリーンに映し出されると、野元さんは歩み寄って見入った。

◆アルバムの説明役は、江本さんも予想外の飛び入り参加、次男の龍二さん。このアルバムを作成した功労者で、この日、鹿児島から飛んできて下さった。弁髪姿(北京にて)、ブリヤートモンゴル人の服装姿(内モンゴル)、普通の髪型(満州)と青春の野元さんが次々に登場した後、奥様の幸子さんがクローズアップされる。「私が一目惚れしたんです(一同笑)」江本さんがすかさず「すぐに迫った?」「時間がかかった(一同笑)」「チベットのことは?」「言えなかった」。

◆今回見つかった履歴書にはチベットのことは一言も記載されていない。30年勤めた山川町の農協時代も、同僚は誰も知らなかったという。写真はやがて白黒からカラーに。ご家族は現在17人。幸子さんと出逢ってから可愛いひ孫さんまで、家族の思い出写真に「ほぉ〜。」と懐かしんでおられる。まるで野元さんの周りに笑顔がどんどん集まって増えてゆくかのようだ。野元さんにとって、ご家族は人生の一番大切な宝物なのかもしれない。

◆最後に郷里の山川町の風景が。野元さんは開聞岳を眺めて育ち、その山はいまも変わらぬ姿で野元さんの家を見下ろしている。自分の“想い”に忠実に、差し出される一筋の道のりを、一歩一歩大切に歩んでこられた野元さん。本のなかの世界のようなお話が、目の前でご本人の口から語られる迫力。野元さんが、遥かな時代の遠い世界から永い時間をかけて、この地平線会議にその“想い”を伝えに来てくれたことが、どれほど嬉しく、どれほど素晴らしいことか。報告会の最後には感謝と敬意を表して、加藤千晶さんからは花束が、江本さんからは宮澤美渚子さん(230回報告者)から託された白い“カター”(チベットでお祝いの時に首に掛けるシルクの布)が贈られ、盛大な拍手のなかで“ながいながいお話”に幕が降ろされた。

◆「いま何が一番楽しいですか。」2次会で尋ねると、野元さんは「あなた達のような若い人達とお話しをすることです」と微笑んだ。アドバイスは?「“真実一路”。真面目に、騙したり誤魔化したりせずに、自分に恥じない人生を送ることです。」野元さんだからこそ言える言葉なのかも知れない。野元さんの旅から70年経ったいまでも、チベットも日本も時代の流れの渦中にある。二度と同じ時間は流れない。無常なこの世のなかで“いま”という時間を大切に生きてゆきたいと思った。(車谷建太


報告者のひとこと

つくづく妻の幸子にもっと生きていてほしかった、と思いました

■お世話になりました。終わってみて、皆さんがあれほど喜んで下さるとは思ってもみませんでした。今回はどんな話をしたらいいものか、正直迷い、悩みました。もしかしたら家から同行してくれる菊子に恥をかかせることになるんじゃないか、と。あらためて自分の本を読み返して一応準備してみたのですが、どんな話をすれば皆さんに喜んでもらえるか、この年齢ですからなかなか自信が持てないわけです。結果的には司会の方と江本さんのご配慮でなんとか話し終えられて、ほんとうにほっ、としました。

◆龍二が駆けつけたのはまったく予想外でした。家族のものを含めて今回披露された写真のどれもが、私には貴重です。そして、つくづく妻の幸子にもっと生きていてほしかった、と思いました。今回もうひとつ印象深かったのは、私にチベット行をすすめた泉鉄翁大佐のご子息、泉紀彦さんが尼崎から来てくれたことです。泉大佐にはほんとうにお世話になりました。そのご子息が私の話を聞きに遠路来てくださったのです。嬉しいことでした。

◆2次会での若い人たちとの語らいも楽しかったです。私に料理をいろいろお皿に盛ってくれるのですが、若い人との話が終わらず、餃子をいくつか食べただけでした。江本さんちに帰ったらお腹が減っていましたが、滅多にない若い人との語らいは何よりでした。(野元甚蔵)(で、サンドイッチを召しあがった)


鳥肌が立った、父の履歴書

■こんにちは!先日は突然の訪問にもかかわらず歓迎頂き有難うございました。今回、地平線報告会での父の報告にあたって江本さんから私に頂いた宿題は、「チベットから帰ってからのこと、鹿児島に引き上げた以降のこと、写真を通じて昭和の時代を紹介したいのでなんとか資料を探してもらえないか」ということでした。お引き受けしたものの、写真や資料が整理できていなかったので、結構手間と時間のかかる作業になってしまいました。

◆週末に父のもとに帰った際に、妹や父が探しあてたものをスキャニングし、持ち帰っては毎晩、芋焼酎を片手に、少しずつ何時のものか、何であるかを特定しデータを整理する作業をすすめ、翌週末、父に確かめることを繰り返しました。この作業は、父がたどってきた足跡を写真や資料で探し出し、何であるかを特定し、記録していく作業でしたし、父を支え、ともに生きぬいてきた母のことをも記録する作業でした。この作業のお陰で、私自身と家族を振り返る時間ができたことに感謝しています。

◆引き上げ後の両親は、農業に従事しました。身重で苦労の末、引き上げた母は肉体労働など経験したこともありませんでした。慣れない農業に携わりながら、きつかっただろうな……。その中で常にいろんなことに好奇心を持って前向きに生きてきたことにも思いをはせました。また、引き上げ直後は父の兄の家族などと一緒で10人を超える大家族での暮らしだったと聞いており、物質的にも、経済的にも、精神的にも苦労が絶えなかったのではないかと。

◆大家族の担い手となった父は、農協の勤めをしながら、畑作もし、乳牛も飼っていました。早朝の搾乳作業のあと10キロ以上も離れた集乳所に自転車で重たい牛乳を運ぶ毎日だったそうです。家族を守ることと、母乳の出のよくなかったため兄が飲むための乳を確保するために始めたという酪農でした。

◆兄は、乳首をつけたサイダー瓶を見ると欲しがって泣いたそうです。そんなことを思いながらの作業でした。そういえば、父は朝早くから夜遅くまで働きづめで、一緒に晩ご飯を食べたことはなかったし、遊んでもらった記憶もありません……。

◆報告会で皆さんにぜひお伝えしたい写真や資料がありましたのでいくつか紹介します。[その1]長兄の啓一が、中学を卒業してすぐに大阪に旅立つ朝、母方の祖父と一緒に写った写真〜私は、その写真を見つめながらしばらく考え込みました。父や母、そして兄がどんな思いだったのだろうと。きっと、あとに残る兄弟と家族が生きるために、親が苦渋の選択をせざるを得なかったのだろうと。[その2]1980年に鹿児島を訪れたダライ・ラマと父の再会を報じた地元の南日本新聞の記事があったはずだと探しましたが見つかりません。県立図書館に行ってマイクロフィルムの新聞の検索でも見つからず、家を必死に探してやっと見つけることが出来ました。[その3]最大の発見は、昨日清書したかような真っ白な和紙に、濃い墨でしたためられた父の履歴書です。これは何かな?と妹が見つけ出した時は驚きでした。大陸から引き上げ、しばらく農業に従事していた頃、地元の農協に就職する際に準備した履歴書の下書きです。それを見た父は、一瞬、信じられないことを話し始めました。「嘘をついていたんだよ。チベットに行っていたことは書いていないし、勤め先のことも」。そして「お世話になったチベットの皆さんに迷惑をかけるようなことだけはしたくなかった」と。初めて聞いた事実に、鳥肌が立つほどの震えを覚えました。「正直、誠実に生きろ」と子供たちに教え続けてきた彼が、あえて隠し続けて来なければならなかった過去を思う時、日本の歴史が強いたこの時代に生きた多くの人たちの肩に重くのしかかっているものがあることを改めて思い知らされる瞬間でもありました。

◆このようにいくつもの新たな発見や再認識があった江本さんの宿題でした。父への今回の地平線会議報告会へのご招待については、江本さんが「居てくれるだけでもいいんです」とおっしゃられても、特に今回93歳になって目も、耳も、足も、記憶もと父の不安は隠せませんでした。しかし、行くからにはいい加減なことはしたくない、誠実に正確に事実をお伝えしたいと言い続けていました。当日は、報告会、二次会と皆さんと夜遅くまで精一杯、父にお付き合いいただき、お声掛け頂きましたが、いつの時でも変わらない態度や前向きな姿勢には、身内ながら感心します。

◆皆さんの熱心さに元気をいただき100歳は生きると宣言していたようです。さすがに、歳相応に疲れがたまったようですが、鹿児島に帰って元気を回復していますのでご安心ください! 今回、ご参加いただきましたみなさまに改めてお礼申し上げます。父にこのような機会を与えていただき有難うございました。報告会や二次会でお会いした皆さんが、すごく輝いていて、改めて地平線の仲間たちってすごい人たちの集まりだなって……感じるひとときでもありました。(野元龍二 甚蔵次男)

■追伸:ところで、パソコンに向かってこんなことをしていられない事態が迫ってきました。宮崎県えびの市の口蹄疫が収束に向かったと安心した途端に、今度は鹿児島県との県境の都城で発生が確認され、鹿児島県も準非常事態制限で道路の封鎖や検疫体制強化が図られ、私の勤めている事業所でも一定の対応をせざるを得ない状況になっています。産直牛肉の生産者から届いた計り知れない不安、悲痛な叫びが込められたメッセージには胸が締めけられそうです。


地平線ポストから

ふわり、ふわり闇に舞う蛍、木の香りのする宿、眠ったり起きたりしながら全ての行程に参加した8か月の天使ゆうちゃん、「縄ない」体験、四万十の流れで体験した人生初沈、そしてそして、ドラゴンラン、めっちゃおいしいで。

■30周年記念大集会で、山田高司さんより四万十ドラゴンランの力強い告知を聞いて、「今度こそは」と気持ちを固めた昨年の11月から半年あまり。なんとか参加にこぎつけ、前日夕方の四万十川に間に合った。先に始めていたえもーんたちと合流し、沈下橋の上で、刻々と光が変わる夕暮れをビール片手に楽しんだ。闇に包まれる頃、散歩へ。「最初に見つけた人が幸せになる」なんて言いながら、蛍を探す。1匹見つけた後は、次々と見つかる。ふわり、ふわり、闇の中で舞う。今夜の宿、木の香りがする「川辺のコテージ」に戻り、オーナーの宮崎夫妻と8か月のゆうちゃんや先乗りスタッフのもてなしを受け、前夜祭気分で夜が更けていった。

◆翌朝は車に揺られ、標高660mの若葉橋登山口へ。四万十川の支流である清流・黒尊川の源流を目指して、参加者8名とスタッフ8名、いざ出発! 幸運の天使ゆうちゃんも、お父さんの背中でスタンバイ!

◆せせらぎの音を傍らに、ふかふかの小道を登ってゆく。猪が掘り返した跡があちこちで見られる。沢を渡ったり、ウツギの花を愛でたり、光がスポットライトのように照らすのを眺めたり、ふわふわの苔を触ったりしながら潤った森を抜けていくと、やがて水流は大きな1枚岩をつたうようになった。先頭で案内してくれているロクさんが「明日のそうめん流しはこのイメージでやります」と突然の予告。ほどなく源流点へ到達した。約2時間の道のりだった。

◆少し登った「熊のコル」で昼食。ツツジの艶やかな色が目に飛び込んでくる。用意してもらったおむすびを頬張り、きゃらぶきや三五八漬けをつまみ、源流コーヒーに手作りケーキまで堪能。しっかりチャージした後は、ブナの原生林で遊び、標高1,116mの八面(やつづら)山山頂を経由し、大久保山登山口まで下る。第2ステージ、自転車ツアーへ。

◆ほとんどブレーキしか使わない道は、同じ体勢がけっこうつらい。無意味な空こぎを交えながら、プログラムのひとつ、「縄ない」を体験するため、専用の機械があるお宅にお邪魔した。藁を手で差し入れ、足踏み式で縄に仕上げていく。炭焼き窯も見せてもらい、昔からの「人の暮らし」に触れることができた。集落の棚田には水が張られ、青い苗が美しく植えられていた。できればゆっくり歩いてみたい、と思いながらどんどんこいで、四万十楽舎に到着!

◆聞いてはいたけれど、ほんとに学校だった。清潔で気持ちがいい。交流会1日目となる夜のメニューは石釜を囲んで。ピザ三種、シイラの丸焼き、手作り刺身こんにゃく、鹿肉のグリル…。たくさんの野菜が溶け込んだえもーんカレーもふるまわれ、食欲をなお刺激した。交流会後半は「四万十水生生物クイズ」。ひのき雑貨の景品もあり、白熱したひとときだった。

◆翌朝は、おにぎりや味噌汁にゆうべの残りをアレンジしたカレードリアなんかもあって驚く。食材が無駄なく、おいしく出てくるのが、ドラゴンの特長のひとつでもあるようだ。満腹後、楽舎のすぐ脇より四万十川下り。ここが小学校だったんだよなぁ、子どもたちは幸せだったよなぁ、などと思いつつ漕いでいると、瀬で舳先がくるんと流れの逆方向に向き、あれ?カヤックの側面が見えてる??と思ったら水の中。人生初沈は、それまでカヤックをしていた屋久島でも西表島でもなく、四万十川でだった。すべては旅のエッセンス。このツアーがますます忘れられなくなりそう。

◆昼食は予告どおり流しそうめん。軽トラの荷台から高さをつけて組まれた割り竹の上を、次々とそうめんや時々うどんやはたまたイチゴまで流れてくる。一枚岩を流れる清流のごとく…。トッピングは川エビ。差し入れの田舎寿司や蒸パンも美味だった。そしてまだまだ下り、佐田沈下橋ほとりの川辺のコテージへ。炭火でお肉や野菜が次々! 更にアオリイカ・タコ・マグロ・ヨコの刺身、川エビ唐揚げ、シイ貝、ニナ貝、ひしお味噌きゅうり、うなぎの白焼きが登場。連夜の夜更かしがたたり、早々に寝てしまったのが悔やまれる。

◆3日目も朝から漕ぎ出し、途中の川原でオープンサンドの朝食。具はそら豆チリビーンズ、シイラフィレ、キンピラゴボウ、クリームチーズ、ゆで卵、レタス、キャベツ、トマト、タルタルソース。ついつい手が伸びる。そんな食べては腹ごなし、のドラゴンランもクライマックス。のっぺりした水面を漕いで漕いで、無事河口に到着、乾杯! 近くの温泉でさっぱりし、最後の食事は、お知り合いカフェ提供の、手作り豆腐ランチ。玄米おむすび、野菜サラダ豆腐ドレッシング添え、豆腐の味噌汁、おからのコロッケ。デザートはすっかりおなじみの小夏。

◆眠ったり起きたりしながら全ての行程に参加しているゆうちゃんを見るにつけ、おいしい食事とスタッフや参加者の温かさに触れるドラゴンランが、シンプルで豊かな生活そのものに思えてくるのだった。ドラゴンラン、めっちゃおいしいで。 次一緒にどう?(中島菊代


[通信費をありがとうございました]

■先月の通信以後、通信費をお支払いくださった方々は以下の皆さんです。万一、抜けていたらご連絡ください。

秋元修一 村田憲明 八木和美 菅原強 足立洋太郎 浅井信雄 原健次
[1万円カンパ追加] 八木和美(5月12日)
ありがとうございました。


〈速報〉関野吉晴チームの縄文号、パクール号 今期の航海のヤマ場へ

5月23日にフィリピンのコロンを出航した関野吉晴さんの黒潮カヌープロジェクトの「縄文号」「パクール号」の2隻について、事務局の野地耕治さんから緊急連絡があった。

■6月15日10:00pmに関野から、携帯の電池が切れそうだというので、手早く話しました。台湾から2隻の伴走船を呼ぶのはあきらめ、フィリピンで伴走船を探す。ただし可能性は低い。明日少し大きな町に着くので、そこで停滞し船を探す。本日は風に恵まれて約70キロ北上とのこと。6/15の現在地は、北緯16度26分57秒、東経119度56分23秒。この日の移動距離は73キロ。明朝出発は4時を予定。

◆今回の航海はフィリピン・コーストガード(PCG)がこのままでは6月中にバシー海峡を渡りきるのが難しくなり、もし台風発生などがあれば、安全が保証できない、来年5月に延期すべき、と主張しているとのことです。今年は3月の台風1号以来、まだ台風が発生していないという、関野にとっては非常に好条件だったのですが、これから台風シーズンになります。

◆なお、クルーメンバーは昨年と変わらず、インドネシア人6人、日本人4人の 2隻に伴走船としてフィリピンのコーストガードがついています。伴走船にはコーディネーターの白根全(途中で下船)と撮影班2人(武蔵美OB)が乗り込んでいます。5月23日に昨年の中断地コロンcoronを出航、ミンドロ島の東海岸を回り、ルソン島の西海岸に出てから、6月9日にマニラ湾口を渡り切りました。今のところ、とくに体調を崩しているなどという情報は入っておりません。引き続き連絡がありましたらお知らせいたします。どうぞよろしく。(野地耕治


みなさまのご協力に感謝!
  スレンさん羊支援、123万円に!

■スレンさん羊支援はおかげさまで123万円が集まりました。目標の倍の金額です。現地はこの冬の雪害(ゾド)による大被害のため家畜が減少し、思うように羊・山羊の購入を進めることが出来ません。現地では、仲間の平田裕子と「puujee」のモンゴル上映会のコーディネーター、アンハさんが調査を始めています。貴重な支援金を無駄にしないために、支援計画を再検討しています。羊、山羊以外に、乳製品がまかなえる牛、馬も購入したり、支援金の一部を銀行に預け、その利子をスレンさんの生活費の足しにしてもらうことなど考えています。また、どの家も等しく雪害の被害を受けているので、スレンさんにだけ支援しているという印象は好ましくありません。別の基金を設けて、地元の図書館に本を贈るなど、地域への支援も考えています。みなさまのご協力に感謝いたします。(puujee製作委員会 本所稚佳江

■サインバイノー! アンハさんとスレンさんのところへ行ってきました。雨の降る中でしたが、草原にとっては恵みの雨。しかし、気温はぐっと下がりました。途中、家畜の死骸が草原にあり、また今でも弱っている家畜もいてこの春を迎えることがどんなに大変だったかを想像しました。スレンさん家族はみな元気です。いつものようにあたたかくスレンさんが迎えてくれて、嬉しかったです。

◆本題、調査報告です。スレンさんの家の近く(およそ10キロ圏内?)3軒の遊牧民を訪ねました。羊は近くで買うのがいいそうです。遠くから来るとその草原に慣れるまで2,3年かかるそうです。日本で言えば水が違うということでしょうか、なるほどと思いました。それから草原の遠くの山には雪が残っていました!それほど寒さが残っているということでしょうか。

◆羊は、雪害で値上がりしただけではなく、去年生まれた2歳羊はほとんどが死んでしまって買うことはできません。羊と山羊をあわせて100頭(その割合も、なるべく山羊がすくないように交渉が必要)くらいなら用意ができるとのことです。値段は、3,4歳のメス羊 50000〜60000ツルグ(3400円〜4000円)、山羊45000ツルグ(3000円)。スレンさんのところに去年いた牛はすべて死んでしまいました。今年は乳製品も作れません。ほんとうに残念です。

◆アルタンボラグはもともと乳牛で生計を立てている遊牧民の多い土地だそうです。しかし、今日の調査では牛を売ってくれるところは見つかりませんでした。スレンさんは本当に支援を待っていたんだとひしひしと感じました。「皆さんは後から来るの?」と仰っていました。支援していただいたお金が、スレンさんが本当に必要とするものに形を変え、皆さんの気持ちがちゃんと伝わるようにしなければと思います。

◆後で聞いたのですが、スレンさんが私に「私が草原で羊達の面倒をみるよ」と言っていたそうです。そのときにモンゴル語がちゃんと理解できていたら、もっともっと強く手を握りかえしたのに!ああ、情けない言葉が分からなくて。頑張って勉強します! 2010年6月9日 アルタンボラグにて平田裕子


青海省の草原に播かれた日本語の種育つ━━
  『坊っちゃん』のチベット語訳、ついに完成!!

■北京五輪の開会式に関連して駄文を地平線通信に掲載して頂いて以来、「一刻も早く書き上げよ」と江本さんから厳命を受けている次回作の草稿さえも書き上がらず、時々、13世紀の闇の深さなどを縷々並べた言い訳メールを送って御機嫌伺いをしておりましたところ、6月7日の夕刻、保育所から連れ帰った2才2か月の娘を遊ばせながら夕餉の支度をしていた小生の携帯電話に、江本さん御自身から着信! そろそろ近況を書いて貰おうかな? と野生の勘が働いたのだそうですが、同日午前10時に四国松山から嬉しいメールを受け取っていた小生は腰が抜けるほど驚いたのでした。

◆5月31日に松山の愛媛大学から「彼らが、このほどついに『坊っちゃん』のチベット語訳を完成させ、これを対訳本として刊行する運びとなりました。つきましては、刊行によせて先生の元教え子である彼らのために、ひとことメッセージをいただきたいのです。もしもご承諾いただけましたら、対訳本の巻末に掲載したく存じます」との晴天の霹靂メールが届き、夢中になってチベット史における翻訳文化やら有名な師弟関係の話などを織り込んだ長文を書き、正気に戻って編集し「献辞」の体裁を整えるのに数日を費やして送信。6月7日に届いたのが、その受信確認メールだったという次第。

◆拙著『チベット語になった「坊っちゃん」』が世に出て既に5年、四国松山にチベット人生徒6名と共に招かれたのは3年前の春で、我々を待っていたのは未完で終わった『坊っちゃん』のチベット語訳を完成して欲しいという多くの声と、地元有志から浄財が集まっているとの寝耳に水の話でした。されど生徒達の留学滞在先は一箇所ではなく、元教師の小生は更に遠くに暮らしている地理的難題に加えて生徒達は就職活動を間もなく始める時期でもあり、何より彼らは理系の学生ですからチベット語文化の偉大な伝統に恥じない作品に仕上げるのは荷が勝ち過ぎると、元教師は大いに心配したものです。

◆しかし、拙著に「中国・青海省 草原に播かれた日本語の種」と副題を付けた手前、種がこれ以上は望めない松山の地で芽吹いて根を張り、新たな種が青海省チベット語地域に播かれる可能性が見えたからには、再び陣頭指揮を執って偉業を達成せねばならないところでしたが、未完に終わった「てにをは」と語順の共通性を極限まで強調した実に不自然な「日本語みたいなチベット語」の翻訳とは別物のチベット人達が楽しめる「チベット語らしいチベット語」の新たな『坊っちゃん』の訳出は目も眩むような大事業。無力な元教師としては各自の生活に支障の無いように作業を適切に分担すること、一時帰国の折には信頼の置ける権威に監修を依頼すること、漱石一流の駄洒落や比喩に拘泥せずに思い切って無視すること、等々の助言をするのが精一杯でした。

◆松山からのメールには「今回の対訳本は、刊行とは申しましても書店で販売するようなものではなく、私家本に近いものです(ただしISBNは取得しました)。完成した現物は,主として翻訳者のみなさんにお渡しし,チベット現地での日本語教育などに活用していただこうと考えています」とあり、小生は以下のような献辞を贈ったのであります。

◆「平成19年(2007年)3月11日の夜、楽しい思い出と共に『坊ちゃん』のチベット語訳の完成という大仕事を土産に「汽船」ならぬフェリーで元生徒達が松山を去るに当たり、翻訳の苦労と挫折を危惧しつつも大任を負ったチベット人に相応しい小さな最後の授業にと、私は元教師としてチベット大蔵経にまつわる「砂金の話」をしました。チベットが世界に誇る大蔵経は修行僧が硬い板の面に彫刻刀で正確に一文字ずつ仏説経典と各種論書を忍耐強く浮かび上がらせるという気の遠くなるような作業で完成させたものです。僧や信者のために何万回も印刷するうちに盤面が磨り減るのは避けられませんから、一枚でも多くの経典を刷って釈尊の教えを広めるために、この大事業に資金を提供した施主達は一計を案じた話です。

◆施主達は彫り上がった版木にさらさらと流し込んだ擦り切り一杯分の砂金を翻訳・製版の対価としたのです。都市のような巨大な寺院を運営するための莫大な資金を得るために僧達は自然に盤面を深く彫り、浮き立った文字は長期間に亘る印刷の磨耗に耐えてチベット仏教文化を支え続けるという一石二鳥の慣習が生まれたというわけです。松山の有志の皆さんの期待に応えて、多くのチベット人が長く楽しめる『坊っちゃん』の翻訳に挑む心構えとして、砂金がたくさん入る木版を作るつもりで頑張って欲しい、そんな元教師の願いが叶ったことを心から嬉しく思います」

◆手元に届いたA4判66頁の新『坊っちゃん』の翻訳原稿を眺めつつ、これを読んだチベット人が更に改訳を試みるか? 或いは風刺の効いた学園小説を独自に創作するか? と一人悦に入っていると、あちこちから次回作を急かすお叱りの声が聞こえて参ります。嗚呼、耳が痛い痛い……。(中村吉広 第306回報告者)


[先月の発送請負人]

■先月の通信発送に汗をかいてくれたのは以下の方々です。ありがとうございました。

森井祐介 車谷建太 松澤亮 新垣亜美 今利紗紀 山崎昌範 落合大祐 江本嘉伸 久島弘 杉山貴章 坪井敬子 妹尾和子 埜口保男


上陸から帰海まで、約2時間。月や星明かりのもと、波の音を聞きながら、ちょうど映画を1本見たような不思議な充実感に包まれる──屋久島カメ当番日誌

■ここ半月、屋久島の小さな集落で「カメ当番」の手伝いをしている。夜中、産卵のために浜に上がってくるウミガメ(絶滅危惧種)の卵をふ化場に移し替えるのだけれど、すぐ間近で見る命の迫力にすっかりとりつかれてしまった。

◆毎日20時に浜にでる。目を凝らして白い波打ち際を見ていると、大きな黒い塊が現れ、じわじわと浜に上がってくる。「カメ上がりました」とボランティア監視員が無線でやりとり。カメは産卵場所を決めると、砂をならし、後ろ足をスプーンのように使って、器用に穴を掘っていく。この作業が実に感動的! 何十回見ても、野生の本能のすごさに感心してしまう。

◆穴が深さ60センチに達すると、両足を踏ん張っていきみはじめる。やがて産卵管から、白く丸いピンポン玉のような卵が、ぼとっ!と生み落とされる。触るとわずかに硬く、ヌルッとした粘液で手はべとべと。砂でこすって手を洗う。約120個の卵を集めた袋を持つとずっしりと重く、母ガメの苦労を少し実感できる。穴を埋め、カモフラージュの掘りあとを作ると、カメはさっさと暗い海に消えていく。上陸から帰海まで、約2時間。月や星明かりのもと、波の音を聞きながら、ちょうど映画を1本見たような不思議な充実感に包まれる。遅いと明け方4時すぎまで浜にいる生活だ。

◆はじめは、山登りのために数日間だけ滞在する予定の屋久島だった。それが偶然ウミガメ監視員の方と知り合い、カメ当番が面白く、1か月延泊することに。今は昼間に草刈りのアルバイトをして、宿は移住者の方の家に居候していて、なんだかもう暮らしているような感じだ。

◆しばらくカメ当番を続けていると、楽しいだけではない現実も見えてくる(というか、それが見たくて延泊した)。ウミガメ保護活動をめぐった地域内や島内での抗争もあり、口論が起こることも。文化的、人間的に複雑にからんだ問題が解決するのは難しいだろうけれど、各々のポリシーを持って頑張っている人たちから、たくさんの刺激を受けた。

◆いま暮らしている所はテレビもパソコンも冷蔵庫もないし、スーパーまで車で30分という環境だけど、山も海も目の前にあり、動物もいて、私は充分に幸せだ。ほんとうに自然はお金にはかえられない、かけがえのないものだと思う。「自分は何を大切にして生きたいのか?」モノがあふれる都会を出て、改めて自分を見つめ直す旅ができていると思う。(新垣亜美


Shall we dance? 〜肝高の詩(きむたかのうた)を〜

■地平線通信の読者の皆さま、こんにちは。妹尾和子です。昨年の地平線会議30周年記念集会で踊らせていただいたダイナミックメンバーを代表して、お誘いです。沖縄の子どもたちの舞台「肝高の阿麻和利」のテーマソングである「肝高の詩」を一緒に踊りませんか〜?

◆「まだやるのか!?」という声が聞こえてきますが、はい、まだやるのです。すみません。今のところ決まった発表の場はありませんが、発表の場などなくても踊れるようになりたいというメンバーの思いに突き動かされるように、講習会を企画してしまいました。7月4日(日)の夕方に、あまわりの舞台の卒業生であり、ダンスインストラクターである具志堅智美さんを招いて講習会を予定しています。お忙しいとは思いますが、歌いながら踊って、楽しく汗を流しませんか〜。

◆今回は、遠方から講師を招いての講習会ですので、参加費が5000円ほどかかります。参加人数が増えるほど参加費は安くなりますので、皆さんふるってご参加くださいませ。参加希望者は事前に をいただくか、江本さんまでご連絡をお願いいたします。

【肝高の詩の講習会】7月4日(日)16時半〜
 新宿スポーツセンター大会議室にて

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沖縄の子どもたちの舞台がやって来る!
  「鬼鷲〜琉球王 尚巴志伝〜」東京で上演

■続きまして、沖縄の子どもたちの舞台のご案内です。この夏、現代版組踊絵巻「鬼鷲(うにわし)〜琉球王 尚巴志伝(しょうはしでん)〜」が東京で上演されます。尚巴志は、14世紀に琉球を統一した最初の国王。首里城を築いて海外と積極的な交易を行い、「鬼鷲」と呼ばれた尚巴志を中心とした歴史物語を、沖縄全域の中高生や舞台卒業生が演じます。演出は、沖縄在住の詩人・平田大一さん。「肝高の阿麻和利」や「オヤケアカハチ〜太陽の乱」同様、琉球の空手や舞踊、音楽などが盛り込まれたミュージカル仕立ての構成。昨夏のロサンゼルス公演で大好評を得た演目をさらにバージョンアップさせた迫力のある舞台です。ご都合のつく方は、ぜひ足をお運びください。大阪公演もありますが、チケットが残り少ないとのこと。ご希望の方は直接事務局にお問合せくださいませ。

【東京公演】8月12日(木)昼・夜公演 よみうりホール(有楽町) S席5000円、A席4000円 
◆問合せ先:尚巴志東京公演事務局 TEL 03・5954・8037(平日10〜18時)
 公式サイト:http://shohashi.com
妹尾和子


登山文化が風化せずに根付いている国、時空を超えた山仲間の付き合いの素晴らしさ━━イタリア講演旅行(2010年4月19日〜5月15日)余談

■旅の出だしでは難儀しました。4月19日、アイスランド火山噴火の影響が収まらぬなか、アリタリア航空だけが飛び立ちましたが、噴煙を避けるため飛行ルートを南に変更、ミラノに下りることができず、ローマに着陸しました。ミラノへは鉄道(特急で3時間強)で行くことを余儀なくされ、ローマ駅の雑踏の中で家内がスリに遭い大金(ユーロ15万円相当)とクレディットカードを盗まれてしまい前途多難かと憂いましたが、22日の講演にはなんとか間に合い、後はすべて順調でした。

◆イタリア講演「ヒマラヤの東―チベットのアルプス」は4か所で5回行いました。『大岩壁の50年』のリカルド・カシンの根拠地、湖水地方のレッコ(聴衆400人)、イタリア山岳会の本部トリノ、ベルガモ、そしてトレントです。4か所での講演を終えて振り返ると、イタリアにはしっかりと登山文化が風化せずに根付いていることを知ったことの意義は大きく、多くの新しい友人を得たことも得がたい収穫でした。

◆欧米で講演をするたびに感じることは、いつも「1人旅(日本人1人)」であることです。そのことを歴史家・金子民雄さんに話したら「これまでの私の乏しい経験でも海外での発表の場合、日本人はたった1人というのが多く、自分が日本人であることを忘れます。それでも疎外されたり、排除された経験がなく、むしろ帰国してからの方が孤独に感じます。……最近の日本人はすっかり消極的になり、海外への関心が薄れているような気がします」とお手紙を頂きました。全く同感です。最近若手の気鋭クライマーが海外のクライミング・フェスティバルに参加し、昨年はフランスの「黄金のピッケル賞」を受賞し久しぶりに日本の存在感を示したことはたいへん明るいニュースですが、単発的で総じて日本からの発信は少なく、海外の登山界から孤立している状況は変わりません。そのことが日本登山界の低調の一因かもしれません。

◆私の業績が海外で注目されるようになったのは、日本山岳会の英文誌“Japanese Alpine News”や海外のジャーナルへの寄稿、および拙書"Die Alpen Tibets"です。英文で海外に発信を始めてから12年、ようやく欧米に「ヒマラヤの東・チベットのアルプス」が定着しました。64才で企業戦士を卒業して10年という歳月は新しいライフワークを一つ形にまとめ上げるには適当な時間だと思います。英語圏はすでに一巡し、フランス語、スペイン語、イタリア語、ポーランド語、韓国語でも紹介されました。今年の11月にはポーランドで開催される第12回世界探検家フェスティバルに招聘されています。その後もスペインのバルセロナから招待されています。このあたりも「未知の世界・探検」への希求が日本より強く感じられ、伝統的な登山文化が継承されている土壌があるからでしょう。

◆山岳関係ではヨーロッパで最大の行事である58年の歴史のある「トレント・フィルム・フェスティバル」では講演に先立ち3回のメディアとのインタビュー(新聞、テレビ、インターネット)がありました。インタビューでいつも感じることですが、難しいのは東チベットの地勢学的、文化的かつ歴史的背景を理解してもらうことです。

◆登山探検にかかわることでは、スライドショウの冒頭に解説することですが「チベットのアルプス」には250座以上の未踏の6,000m峰が残されており、世界に残された最後のフロンティアであることを強調して、この山域の吸引力をアピールします。チベットのアルプスは登ること以前に許可を取ることが厄介であり、中国側からみて東チベットの登山・踏査は売り手市場なので値段の交渉がきわめて難しいとも付け加えます。

◆イタリア山岳会Club Alpino Italino(CAI)について触れておきましょう。山岳博物館としては世界一と彼らが自慢する「Museo Nazionale dellaMontagna-Duca degli Abruzzi-CAI Torino」にあるイタリア山岳会国立図書館は140年の歴史を持つヨーロッパにおけるユニークな山岳文化のセンターと自負されています。英国アルパインクラブ(1857年設立)に倣いイタリア山岳会創設直後の1863年につくられました。

◆イタリア山岳会は1866年には英国アルパインクラブと友好関係を結び、以後海外の山岳クラブとの連携を深め図書館の充実を図ってきました。16,500冊のジャーナルを含む40,000冊以上の蔵書があります。歴史的に価値の高い資料が収集されていることは言うまでもありません。山岳会やクラブの最も大事な使命・役割のひとつが図書館と良質のパブリシティーです。ところが現在の日本山岳会はこれを軽視しています。図書館の充実とは逆行して貴重な資料を平気で外部に流失しようとしています。イタリアを含め海外のクラブの図書館の充実ぶりは、日本山岳会の図書館に対する無定見さと比べて羨望を禁じ得ません。

◆トリノは19世紀後半までイタリアの首都だったところで、歴史的建造物の多い良い街です。少し前に世界フィギュアスケート選手権大会で浅田真央が金メダルを獲りましたが、そのことを訊いても殆んどの人が知りませんでした。日本とのギャップを感じました。トリノでは半世紀ぶりに1961年ペルーアンデス・コルディエラブランカ遠征のときに、リマで知り合ったイタリア・ベルガモ隊のメンバーであったGiuseppe Garimoldiさんと旧交を温め、美しいポー河の辺で昼食をとりました。80歳になる温厚なGiuseppeさんは2001年まで山岳博物館の館長を務めた人で、多くの写真集を出版、その中に小生の写真を掲載してくれています。時空を超えた山仲間の付き合いは素晴らしいです。(中村保


めぐりめぐって不思議な出会い……

■先日、とても久しぶりに隣村(檜枝岐)の星寛さんのところに顔を出してきました。寛さんは2000年の「地平線報告会in伊南村」に出てくださった方です。報告会では、サンショウウオ捕りの格好で、森田靖郎さん、賀曽利隆さん、山田高司さんと「川に流れて川を喰う」というテーマで含蓄のあるお話をして頂きました。「久しぶりです!」と家に入ったとたん、寛さんから『これ見せてやる』と、手渡されたのは、1冊の冊子。

◆なんと『あるくみるきく』No. 156(1980年2月発行)。思わず大きな声で「何でこれ、寛さんのところにあるの?」と聞くと、寛さん、『これが俺だ!』と表紙ページ写真の人物を指さして『この頃、須藤さんっていうおもしろい人(注)が何度もここに通ってきただ。』と。30年前を振り返りながら、色々な話を聞かせてくれました。観文研(日本観光文化研究所)と、地平線会議とのご縁が深いということは頭にあったので、30年も前に寛さんがその冊子に取り上げられていたことに本当に驚き感動しました。と同時に、伊南川の上流で暮らす寛さんとは出会うべくして出会えたのかもしれないと不思議な嬉しさがありました。

◆その数日後、突然、高知の四万十川流域にいる江本さんから電話が入りました。ちょうど民宿の夕食準備でバタバタしていましたが「これは大事な用かも……」と思って出たら、なんと江本さんにかわって出たのは、数年前に栃木県のハローウッズ(ツインリンクもてぎ内にある施設)で一緒に働いていた同期の親友でした。かれこれ10年ぶりに声を聞いてみると「昨年から土佐清水で働いていて、今、四万十川ドラゴンを手伝っているんです」と。これまた不思議な感動でした。

◆そして、先月号に三輪主彦さんが書いてくれていますが、もうひとつ地平線会議とのつながりで、この秋『伊南川100Hウルトラ遠足』を実施することになりました。本日6月12日現在230件あまりのエントリーがあり、昨日6月11日から海宝道義さんと三輪主彦さんが下見に来て下さっています。今日は桧枝岐村の沼田街道を一緒に歩かせてもらいました。新緑のブナ林や広葉樹林の光の中を歩いたり(走ったり?)快晴の森の中で過ごした時間は本当に貴重な体験となりました。伊南川100Hウルトラ遠足の申し込みは現在も受け付けています。以下のURL(http://www.tagosaku-ina.com/event2/index.html)で要項を見ることもできます。コースを作られた三輪さんと海宝さん曰く「日本のウルトラマラソンの中では最も高低差のあるコースだ」と。ぜひご参加&応援にお越し下さい。(梅雨入り前の伊南川から 酒井富美

追伸:あと、もうひとつ書かせて下さい……先日、シールエミコさんから“幸せを呼ぶ朝顔”の種が届きました! エミコさんからのメッセージとても嬉しかったです。ありがとう、ありがとう。大切に育てます……。

[注]「須藤さん」は須藤護。観文研の所員として会津はじめ日本各地で民俗調査を行い、多くの民俗報告を残している。今月の報告者である小林淳さんとも会津などで共同作業にあたった。現龍谷大学教授。

ダチョウスターズ、三年目の勝負!

■沖縄県浜比嘉島の比嘉区ハーリーに、今年も「地平線ダチョウスターズ」が出場します。2008年の「地平線大集会in浜比嘉島」の年に、地元との交流を目的に始めた地平線会議チームのエントリーも、今年で3回目。沖縄県人チームばかりの中、今回も本土出身者主体の男女混成チームで勝負に臨みます。10名の漕手は外間昇、晴美、三宮健、車谷建太、新垣亜美、掛須美奈子、蔦谷ともこ、加賀道、加賀浩嗣、長野亮之介の顔ぶれ。例年3日間だった合宿練習期間も今年は5日に増やし、予選突破を目指して意欲満々。チームTシャツも長野亮之介デザイン、滝野沢優子製作で準備中。レースは7月4日です!当日浜比嘉方面に行ける方は応援よろしくお願いします。結果を出して美味しいビールが飲みたーい。(長野亮之介


メープルカードが取れました!──カナダから元気マッシャーの便り

■移民権と言うか、永住権というか、アメリカで言うグリーンカードが無事に取れました。こちらでは、メープルカードというそうです。中国人の友人が言ってました。取るまでには色々あったんですが、なんだかあっけなくおわりました。日本での仕事の欄を埋めるのに、毎年違うバイトをしていたコトを正直に書いたら、枠に入り切らないので、毎年同じ塾の講師のみをしていた事にして塾長に雇用証明を書かせたり、銀行口座の預金額を多く見せるためだけに、お金を借りたり……細かいインチキをいっぱいしました。終わって良かった……。

◆ようやく何も気にせずに生活ができます。仕事も、もっと割のいいところに移りたいです(秋くらいには?)。そして、いよいよローンを組んでトラックを買って、それを犬トラック仕様にしないとです。いい犬を仕入れにも行きたいし。やることいっぱいで、借金も膨れ上がりそうで、ドキドキですね。

◆こっちは今、蚊が漫画みたいに多くて、殺しまくっています。1日200匹くらい。最近は薪置き場づくりをしていますが、それが終わったら、犬小屋づくりです。あと、できれば冷蔵庫がわりに大きな穴をほって、ちょっと保存ができるようにする予定ですが、忙し過ぎてちっとも進みません。それに、砂利を毎日砂利置き場から盗んできて、私のひどい道に敷いていますが、これも全然進まないんですよ〜。宝くじが当たったらねえ……。それではまた!(6月2日 本多有香


「せめて日本に3泊できれば……」
  ──“冒険助っ人”白根全の信じられない『地球・死のロード』顛末

■「成田のラウンジで洗濯してたら……」なんてアホなネタではなく、このところほんとに寝る暇も洗濯物の乾く暇もないほどの超短期滞在型一時帰国者と化している。この場合、2泊3日と3泊4日の格差は、絶望的にまで大きい。

◆カリブ海はトリニダード・トバゴのカーニバルと、大震災後のハイチの、天国から地獄を巡る5週間の旅を終えた後、ふと気がつけばもう4月。すかさず昨年の続きで、グレートジャーニーの丸木舟航海の仕込みに出撃だ。以降、3泊以上日本に滞在することなく、この秋10月まで続く「死のロード」突入となった。

◆4月7日、朝一でマニラ出撃。夜、ドクトル関野氏と打ち合わせ。8日、舟のデポしてあるコロンへ移動。コーストガードの現地ステーション・コマンダー、チーフ・バラテロと会談。まったく使えないヤツでらちがあかず。翌日マニラに戻って、ガルシア司令官に面会。シビアな戦いとなる。

◆4月10日、ルソン島北部のラオアグまで飛び、現地で伴走船が調達できないか走り回る。が、小さな漁船だけで目ぼしい成果なし。そもそも、まっとうな港がない!

◆4月13日、マニラに舞い戻り、再度ガルシア司令官と交渉。さんざん粘って、台湾側の伴走船のフィリピン海域でのサポートを許可してもらう。ミッション大成功?大まかな費用を計算し、ついでに値切りまで……。4月14日午後、東京着。

◆4月17日、東中野ポレポレ座の「僕らのカヌー……」のオープニングで、ドクトル関野氏とクルーの佐藤洋平、前田次郎をつかまえて、すれ違い気味の打ち合わせ。E本氏や応援団長の岡村氏に軽くさわりをご報告。完全徹夜のまま、翌日よりペルー出張。久しぶりのアマゾンへ。

◆客仕事をやっつけた後、北部ペルーのチャチャポーヤスへ移動。クエラップ、カラヒア遺跡など、あまり知られていない遺跡群を一回り歩いて撮影。帰路カハマルカのインカ皇帝ご用達の温泉に。5月7日リマ帰着、UNDP(国連開発計画)の友人がブラジル出張の帰路リマに寄り道、久しぶりに再会。翌日は終日、天野博物館で土器の撮影、ポストカード作成。9日、リマの中華街カポンで北京ダック、夜の便で成田へ。

◆12日、精算を済ませたあと、丸の内のオイスターバーにてうっふっふ。知らない間に、フィリピン出撃は14日からとなっていてびっくり!5月13日、朝日新聞社にて南米関連イベントの打ち合わせ。筑波技術大教授氏からさんざんグチを聞かされる。

◆風間深志氏(運動器の10年キャンペーンで南北アメリカ大陸縦断に挑戦)は本日アルゼンチンに出撃とのことで、成田から電話。6月13日までにリマで合流せよとの指令。またまた完全徹夜で14日16時、成田のデルタ航空カウンター前に集合。台湾側の手配の進行状況が気になる。ラウンジでシャワーを浴びて、機内失神。マニラ一泊でコロンへ。洋平や次郎、インドネシアン・クルーと合流。

◆舟の整備と出航準備、フロートの修理など。ただし、南風はまだ吹かないまま。デポしておいた装備類の整理、買い出しなどを片づけていく。世界一通話料金が高いとされる衛星携帯電話スラヤの充電器が行方不明、どうやらドクトル関野氏が日本に忘れてきた模様。取り急ぎ東京の野地氏に連絡して、DHLで送ってもらうよう手配。

◆5月20日、DHLいまだ届かず。トラッキングしてみても、マニラまできているのは確かだが、その先が行方不明。さんざん電話をかけまくった結果、パラワン島のプエルト・プリンセサのオフィスに置き去りになっていることが判明。転送はさらに時間がかかるとのことで、急遽回収に出撃決定。チケットの手配などでドタバタ。21日早朝、プエルトに飛び、ようやくゲット。ついでにガルシア司令官を捕まえて、台湾側との受け渡し場所など、再度細かい打ち合わせ。バシー海峡に浮かぶバタネス諸島の県知事の従兄を紹介される。現地の気象情報などの収集に使えそう。

◆5月22日、コロン行きフライトがエンジントラブルでキャンセル、さんざん戦うが当日移動は不可能でしかたなく1泊。翌日、コロンの空港に着いたところで、ガルシア司令官より電話。日本人2名を残して、丸木舟は出発したとのこと。コーストガードに何も連絡がないまま、勝手に出て行ったと激怒している。こちらも意味不明。どうやら、待望の南風が吹き始めたので、さっさか出発してしまった模様。ドクトルのフライング?司令官を取りなすのにもう大変っすよ〜!

◆5月25日ミンドロ海峡横断、結局35時間がかり。北緯12度14分13秒3、東経121度00分40秒6、あまりいい風は吹いてきてくれない。5月28日、ようやくミンドロ島南岸を回り込み、北上開始。29日、今までの最長記録67キロをマーク。ポーラベイ北側。カラパン港着後、ビザが切れてしまうためイミグレへ。「月曜から水曜は60キロ先のプエルト・ガレーラで営業」とのことで、5人分のパスポートを預かりビザ取りに出向く。

◆と、ここまで書いたところで時間切れ、風間氏のサポートでこのままペルーに飛ばねばならぬ。えーい、この続きは来月じゃい!「死のロード」はまだまだ続く。(ZZZ


天中殺と大殺界が一度に来たようだった5月末
  −ワーキングマザー奮闘記

■ご無沙汰しています。青木明美です。なかなか報告会にも北京の餃子にも行けませんね!通信を楽しみに読んでいます。蓮舫さんとはいきませんが私もワーキングマザー奮闘中です。近況ですが5月下旬は手術が二つあり、ひとつは娘(3才半)の外斜視の手術でした。

◆娘の目つきがおかしい事に気が付いたのが1年くらい前だった。最初はまだ目の筋肉がちゃんとできあがってないだけかなと思っていた。でも脳腫瘍とかだったら?とかって心配になっちゃって眼科にかかってみると「間歇性外斜視(ときどき黒目が外側に行っちゃう)」と診断された。まだ左右も言えない幼児だったため、視力検査(Cのどっちが開いてる?ってやつ)も出来ず、視力検査の練習を自宅で始めた。手に持てるくらいのでっかい「C」をボール紙で作って娘に持たせ、3mくらい離れて私が持っている「C」と同じ向きになるように見せてぇ!という練習だった。毎晩、ご機嫌を伺いながら褒めちぎりつつ少しずつ練習したが、結局まともに視力検査できるようになったのは3才になる頃だった。(医師にもそんなもんだと言われていた。)視力検査が出来るようになって、乱視と遠視があることもわかり、12月からメガネをかけることになった。遠視の場合、メガネをかけることによって視力が育って来るのだそうだ。うちの娘は調子がいい時は裸眼で視力が1.5とかでるが、遠視&乱視なのでメガネをかけている。目がよく見えるのにメガネってなんだか不思議だ。

◆娘は去年の夏に耳ろう孔(じろうこう)の手術もしている。耳ろう孔というのは、上側の耳の脇(耳ではなく、こめかみの延長上の耳の脇)にピアスの穴のような先天性奇形の孔だ。80人に一人くらいはいる割とポピュラーな奇形だそうで、両耳の場合も片耳の場合もあるそうだ。初期の胎児の時に耳が形成される際に普通はふさがって皮膚になってしまうところが、ふさがらず孔になって残ってしまったという状態だそうだ。浅い穴もあれば、深い井戸、アリの巣状に枝分かれもあるそうだ。うちの娘の場合、片方は深い井戸、片方はアリの巣でだった。孔の開いたまま一生すごす人も沢山いるようだが、膿んだりする人は手術で取る。大人は部分麻酔の日帰り手術だ。奥歯の親不知のように、受験や疲労困憊の時に痛み出したりするそうで、うちの娘も臭いのする分泌物が出ていたので、かかりつけの小児科の先生が「今だったら市立病院に小児外科の名医がいるけど、手術しちゃったら?」と勧めて下さったので、まだまだ先だが受験の時に痛くなったりするとかわいそうなので、名医(?)がいるうちに手術してしまった。全国どこでもそうだろうが、私が住んでいる地方都市も医師不足で、市立病院や大病院でさえもしょっちゅう、いろいろな科が縮小や閉鎖に追い込まれているし、名医と言われる人はすぐに別の病院(他県)に行ってしまうので、また今度はあてにならない。医者のいるときに即GO!だ。

◆というわけで、今回の外斜視の手術は娘は3歳半にして2度目の全身麻酔手術で、夫などは前回同様かなり心配していたが、眼科から紹介された東京の大学病院の小児病棟にはたくさんの子ども達が厳しい病と向き合っており、2泊3日で帰れるうちの娘なんぞは蚊に刺されたようなもんだった。(子ども達はみんながんばっていて本当に偉いと思った)

◆医学的なことはわからないがうちの娘は耳ろう孔、外斜視を持って生まれてきたので、目や耳ができる妊娠初期になんかうまくいかなかったのかなと、なんとなく申し訳ない気持ちになった。

◆ふたつめの手術は息子(まもなく6歳)が保育園で怪我をして唇を表3針、口内2針、唇の中(肉)2針の合計7針縫った事だ。勤務先に「口を切って市民病院に救急で行った」と連絡があり、病院に駆け付けると、副園長がごめんなさいと駆け寄って来た。外科の先生が手術中で歯科(口腔外科)に回されていた。歯科の診察室の前に保育園の看護師先生がいて「お母さん、かなりひどいからびっくりすると思うから」と伏線を引いてくれた。「ははーんすっころんで歯の2・3本折れたか?でも乳歯だしな」とおもいつつ、そのわずか数秒でふんどしをしめ直して診察室に飛び込んだ。まな板の鯉状態の息子は泣いていなかった。所在なげに歯科によくある治療用のリクライニング椅子に座っていた。私の顔を見るなり大泣き! その顔を見ると上唇がぱっくり縦に裂けて歯が見えていた。上唇が七三くらいでモーゼの十戒状態で左右に別れていたのだ。一秒間くらいものすごい動揺したが、息子に悟られない様、「ママが来たからもう大丈夫!」と息子をはげましつつ、でも内心は「これ、くっつくの?唇にならないかも?ひどいなぁどうしよう」ってかんじ。すぐさま、私を待っていたかのように医師が来て 「唇が裂けていますから、縫いますから」と説明し、息子にも「これから治すからね。がんばれるか?」なんて聞いている。息子は「イヤー怖い!何にもしないで〜大泣き大暴れ」。てっきり手術室行くのかと思いきや、そのまま歯科の椅子の上で…(オイオイ)。てっきり「お母さん外に出ていて!」って言われるかと思いきや…動かないようにからだを押さえる係に…マジ?!(副園長は足を押さえる係に!笑)。目の前で傷に麻酔を打たれ、チクチク7針縫われる息子…でもみるみる唇に…へェ〜ちゃんと唇に戻ったよ!すごいね!「ハイ明日は消毒に来て。来週に抜糸ね。歯はちゃんと磨いてあげてね。口の中はバイ菌多いから!若いからたぶん傷は残らないとおもうよ」と言われた。息子には2歳半の時にベビーベッドからダイビング失敗?で左ほほに5センチくらいの傷がある。子供の顔は小さいから、5センチと言ったら結構な「切られの与三」だ。その時すぐに医者に見せたが医者は傷は残らないと言ったが、3年以上経た今でも傷はちゃんと残っている。たぶん大人になるまでには消えそうだが、医者の傷は残らないというのは、素人の考えるスパンよりかなり長めで、今回もたぶん大人になるまでには目立たなくなるくらいの覚悟はした方がよさそうだ。男の子だからこれからも骨折だのなんだのといろいろあるのだろうな。とほほ。

◆息子は病院の売店で買ったウィダーインゼリーを唇の端で吸いながら、頑張ったご褒美に帰りに公園で遊ばせろと言う。すごいね子供って…私は足が震えたってのに…やれやれ。副園長から説明は受けていたが、帰り道の車の中で、どうしてこんなことになったのかを本人の口から聞く。部分麻酔の残る腫れあがった口で冷静に説明する息子。「まあ子供同士の些細な喧嘩で相手の子がたまたま投げた大きなブロックが口に当たって口が裂けた」という事だった。

◆相手の子とは保育園のよちよち歩きからのつきあいでよく知っているし、息子の仲良し友達の一人だった。「これは事故で、友達を恨んじゃいけない。これからも仲良くしようね。今回は痛かったね。よく頑張ったと思う。痛かったからわかっているだろうけど、お友達に痛いことをしないでね」というような話をしながら家に帰った。

◆ちょっと落ち着いてから夫に連絡すると、夫は相手の子が許せないとすごい剣幕だ。「素手の喧嘩で負けたんならいいけど、物を投げるとは何事だ」という主旨だった。「何事って言ったってもう起きちゃったことだし、お互い様だし、今回はうちの子がやった方じゃなくてよかった。あー唇がくっついてよかった」と思っている私。それに朝から病院、息子のケア、保育園との対応、相手の親との対応、仕事の段取り、下の娘の世話、家事を怒涛のようにこなしていた私はもうへとへとで、夫とは確実に温度差があった。

◆ひどい目に遭った子供をかわいそうに思う気持ちや子供に対する深い愛情は理解できたが、あまりに怒っているので面倒になって「私に怒ったってしょうがないでしょ。何がしたいの?訴えるの?金でも取るの?それともどうしてくれるんだって怒鳴りこむ?あなたの好きなようにすればいいじゃない」と言ったら、後ろで息子が「パパ!お願い怒鳴りこまないで!」と言った。それでやっと夫は黙ったが、しばらく許せねー許せねーと言っていた。保育園の担任に「訴えたりする気は無いが、気持ちの上で許せないとはひとこと言ってくれ」と言うのでそのまま報告した。あーめんどくさい(笑)

◆病院で息子と息子を連れてきた副園長と保育園の看護師先生に会った時から、一貫して保育園の対応は平身低頭だった。医療費から送迎まですべて引き受けるからと言われてしまった。40人近い年長児を二人の担任で見ているのだから、いきなり投げたブロックから子供を守れないのは仕方のないことだと私はおもう。でも担任はもとより給食の先生に至るまで超申し訳ありませんモードなのだ。モンスターペアレンツが横行する昨今、これがマニュアルなのかなと、あまりの厚遇にちょっとひいた。今の世の中ってこんななんだ。うちの子に限って(笑)ひとさまに怪我をさせるようなことはないと思っているイヤ願っているが、今回の件で何時うちの子もやらかすかもと急いで傷害保険に入ってしまった。(小心者)

◆6歳にもなると、結構オトナな考えをもっていたりするので、息子の中ではいろいろ葛藤や消化するものがあった上で、相手の子と元通り?仲良く遊んでいる。娘も痛い痛い夜を乗り越え、一皮むけたかんじで成長した。

◆二つの手術が一週間くらいの間にあり、超バタバタしている時に、夫は風邪をひいてウイルスが脳に入り、超激しい頭痛に七転八倒!救急に連れていったり、CTを2回も撮ったりという事態になり、私一人がてんてこまい。天中殺と大殺界が一度に来たようだった。願わくば盆と正月が一度に来てほしいもんだ。(野糞愛好家 青木明美


5月詠
     金井 重

  その名もしげさん

毎朝の「ののちゃん」家の おかしさよ
 ばばも生き生き その名もしげさん
   ――ののちゃん…朝刊に連載マンガの主人公

稲荷山 古墳の上に のぼり立てば
 五世紀の風 どっとおそい来

登りたる 古墳の上に もののふの
 礫槨のあり 五世紀末の
   ――礫槨…古墳の石室の中に棺を納めた石の囲い

陽がのぼり 東の空に 鳥かしまし
 白き残月 南西に高し

陽がさして 青き風あり 連休の
 無人の街路 手を振ってゆく

よき土偶 弓矢で狩猟の 縄文期
 いまも世にある 鷹匠たのもし

戦時下の チベット潜行 語る翁
 痩身のばし 亡き人多しと
   ――誠実な人柄の野元さんに再会して

せかせかと 歩けど遅しと 笑わせる
 蟹の如しか われら朋友

バス停で 無心に指折る 三十一文字
 女の遊行期 旅うた日記


 1990年9月29日、小林淳さんの仮葬儀が営まれた。タンザニアで消息を絶ってから8年がたっていた。以下は、その日読まれた弔辞である。小林淳とはどんな旅人だったかよくわかる文章と考えるので、親族、執筆者の了解を得て全文を掲載させて頂く。(E)

………………………………………………………

弔  辞

 小林君、お帰りなさい。

 長い旅だった。ほんとうにお疲れさまでした。ようやくふるさとの山河に、お母さんのところに、お父さんやご兄弟のところに帰ってきたのだから、ゆっくりお休みなさい。

 ほんとうは何日も何日も君の話を聞きたいのだけれど、そして頼まなくても、何日もほとんど言葉を使わずに聞かせてくれたはずなんだけど、残念ながらそれはかないません。

 君はぼくなぞにはない何かを持っていた。ぼくなどの及ばないどこか深いところからものの根本を見ていた。だからだろうね、君は無口だったけれども、君が話すときにはいつもまじめに耳を傾けなければならなかった。

 だから、ほんとうに楽しみにしてたんだ。君が世界をどのようなものと理解して帰ってくるかをね。小林君が何をもっとも大事なものだと見定めてくるか、それをとても聞きたかった。それから、その後で何をやりはじめることになるかを見たかった。

 ほら、あれはたしか79年の2月だったのかな、最後に家にきてくれたのは。あのころたいていそうだったように、君は突然やってきて、夜中まで黙って食卓のそばに座っていた。君はほとんど話さなかったし、ぼくの方もあまり話すことはなかったように思う。家は酒もないから、よく退屈しないものだと感心してた。

 いや、それでいて迷惑だとかは感じなかったんだ。あれは君の人徳だ。そう、居候の名人だったよな。ほんと、どこにでもほとんど邪魔にならずにいつづけることができた。

 だからいよいよ旅に出ると聞いても、大筋では心配していなかったね。外の世界も見てこいよといったのは何年も前のことだったと思うけど、それにあおられてすぐ出掛けるような男じゃなかった。黙って独りで長い準備をしてたんだなあと知ったからね。

 だからあのときももう話すことはなかったんだ。肝心なことはもうみんな分かっているという感触があり、君にしかできない旅をしてくることも分かっていた。

 話したことで覚えているのは、こまめに手紙を家に送っておけよとしつこくいったことぐらいかな。手紙は他人に語るものだから、日記には書きもらしてしまうことを書く。それが君にとって大事な記録になるのだからと。それに、異境の旅ではやはり何が起こるか分からないから、せめて足跡をたどれるようにはしておけよと。

 小林君はできればスラウェシに寄って、ムーアモンキーの子供を手に入れ、それと一緒に旅をしたいといってたよね。君が子猿を連れて歩いている姿が目に浮かぶようだった。 しかしもっと驚いたのは、これから一月かけて各地の友人たちに別れの挨拶をしてくると聞いたことだ。この男はぼくの届かないところまでいってしまうことになるのだろうとそのとき思った。

 君は不思議な人だったね。静かな「少年」だった。ぼくらはよく小林少年と呼んだ。少年の心を持ち続けている人だったから。しかしどうして静かで深い観察者だった。深く本を読む青年だった。そして一方で強靱な神経と思考と意志をもった男だった。誰もがそこから何か君ならではのものが生みだされつつあるのだと感じていた。

 ぼくが君のことを知ったのは日本観光文化研究所の沖縄の民具調査で君がとってきた写真を通じてだ。印南君が見せてくれた写真の粒子が見たこともないほど細かく、それを現像したのが小林君だと聞いてその名を覚えた。武蔵野美術大学の生活文化研究会に出入りしはじめてたんだよね。

 それから奥会津の調査、とくに木地屋の調査で須藤君たちと一緒にいくようになってから名前をちょいちょい聞くようになった。

 でも観文研にはほとんど顔を見せなかったから、ぼくが君にはっきり興味を持つようになったのは、相沢君の依頼でぼくの郷里の島の久賀町歴史民俗資料館の収蔵民具の作図作業をひとりでやりはじめてくれてからだ。泳いだり、魚を釣ったりしながら、黙々と半年あまりやりつづけてただろ。郷里の家へもちょいちょい寄っていた。遠くからそういう話を聞いていて、これは並みの男じゃあないなと思うようになった。

 だから、光市で村崎義正さんを中心に周防猿まわしの会が結成されて、猿まわし芸を復活してみようということになり、姫田さんたちがその記録映画もとろうという話になって、誰か経過を記録する人が必要だという話になったとき、すぐに君の名前を思いついた。これは小林君でなくてはできないと。まあ、まだ自由の身の上だからというのもあったけどさ。

 大きな困難が山積していて、どう転ぶか分からない仕事だった。そのそばに居続けて、赤の他人がじっと見ていることもまた大変きつい仕事だったはずだ。君はそれを黙ってちゃんとやってのけた。

 最初の試みがうまくゆかず、みんなが途方に暮れている頃だった。君はまだ居座っていた。いま何をしているんだいと聞くと、猿のめんどうを見る人がいなくなったから離れるわけにいかないんです。毎日猿と遊んでますよ。猿は虫が好きだから、せっせと蝉取りにはげんでます。合間には自転車で室津半島を歩いてますよといってたのを覚えている。

 自分の役目をすうっと見つけられる人だったからだね、君がどこにでも居候ができたのは。

 ちょうどあの頃だったんでしょう、家の子供たちが田舎に帰って、小林君に蝉取りに連れていってもらったり、父や光たちといっしょにお宮で写真をとってもらったのは。ぼくが写すよりもずっといい顔で写っていた。

 考えてみるとみんな実っているね、小林君の手伝った仕事は。奥会津の民具も久賀の民具も国の重要文化財になった。猿まわしもみごとに復活して世に認められてる。

 今度は縁の下の力持ちではなくて、自分のための旅の番だった。しかもうずくような予感があったに違いない。旅の途中から君は自分の旅を「大いなる旅」と呼んでいた。

 こまめに子供たち宛にくれる絵はがきを見ると、案の定、とてつもなくゆっくりとした金を使わない旅で、さんざん居候を楽しんでいるようだった。

 とくに北タイのチェンライの近くの農村バンドゥーは特別に気にいって、何度もそこに戻っていた。サンティ一家は第二の家族といってもいいほどだったようだ。君はこの旅で見るべきものが何なのかをあそこで見つけたんだと、いまではよく分かる。いつかぼくもたずねてみよう。

 そういえばアフリカへ入る前だったと思う。そろそろ『あるくみるきく』のために大いなる旅を語ってくれないかと手紙で山田さんだか矢島さんだかに言づけを頼んだことがあった。君はそれまでの長いアジアとヨーロッバの旅には目もくれず、ぼくはバンドゥーのことしか書くつもりはないといってきた。

 あのときはその頑なさにちょっとむっとしたけど、今はそうとしかしようがないと考えたのが分かる気がする。

 旅がはじまってほぼ二年たって、小林君はアフリカに入ったよね。ほんとにゆうゆうたる旅ぶりだった。

 サハラを抜けて西アフリカでぼくの父が亡くなったことを聞いた。それからザンビアのカフエがもうひとつの基地となった。

 美しい土地だそうだね。人びとは貧しいけど明るくて。この地球の上で人がどのように生きているべきものか、北タイと同じようにアフリカ南部の農村部でもある確信をもったのかと想像している。

 ひとつには子供たちだろ、君の視点は。あそこでも小林君はやはり子供たちになつかれていた。居候のお礼に写真屋さんをやってるといってたね。君がとると子供たちはなぜあんなに無垢でやさしい顔を見せるのか、ほんとに不思議だ。

 でも、あまりにも長くて遠い旅だった。いや、旅の長さのせいにするのはずるい。ぼくらがあまりにも自分のことに追われ、身のまわりに気を取られてよしとする生活を送っていたことを、あのとき知った。そしていまはもっとはっきりそれが分かる。

 小林君が旅先でお世話になった人たちの方がずっとやさしくて、温かかった。3月18日にタンザニアのアリューシャから絵ハガキをくれて、その後ずっと音信が途絶えているのに、広瀬さんをのぞいてぼくらは気付かなかった。

 ほんとうにごめんなさい。申し訳けないことだった。君が「大いなる旅」を通して探し求めていたのは、まさにそのような共感の薄い世界の反対の世界、真に人間らしい暮らし方があり、真に人間らしい人々がまだ世界の中にいることを確認することだったのだと思う。

 ぼくらには確信をもってそれを見極めることができない。だから、小林君がそういう小林君にしか見えない世界を見極めてきてくれることに期待したんだ。

 旅は人にいろいろなことを教えるよね。ぼくも多くを教えてもらったし、友人たちもみんな旅から学んだ。そして見知らぬ世界へ出ていかないと、しかも孤独で頼り無い旅を通してでないと学べないようなことが、日本にいま一番必要なものだとも思っている。

 ただね、やっぱり他の人には見えない深みまで見てくる人は多くはないんだ。だからほんとうに小林君が何を見てくるかが楽しみだったんだよ。

 事故は避けようのないものだったのだと思う。辛くて無念だったに違いない。でもね、知ったようなことをいうと笑われるけれども、そして人間は薄情にもどんどん忘れてしまうものだけれども、川岸のどちらがわにいてもあまり違わない気がしてしかたないんだ。

 小林君から直接に聞けない話も少しずつ自分で聞くことができる気がする。うん、君の助けがあればね。

 だから、どうか辛かったことはみんな忘れて郷里でゆっくり休んでください。それから、ぼくらのところへもときどきは話しに来てください。

ご冥福を祈ります。合掌

 平成二年九月二十九日

    観文研友人を代表して 宮本千晴


[あとがき]

■6月3日から7日まで、3回目の四万十ドラゴンラン参加のため四万十川にいた。日本エコツーリズムセンターを支えている広瀬敏通、中垣真紀子さんも一緒で、中島菊代さんが書いているように、スタッフと言ってもすっかり仲間うち。家族的な雰囲気の中で大自然とのふれあい(じゃれあい?)を満喫した。簡単なハイキング登山、自転車、カヌー漕ぎなので存分に楽しめたのだが、ある時、ふと考え込んでしまった。

◆「年齢」についての周囲の気遣い、のことである。なかなかうまく表現しにくい問題だが、私は王貞治と同じ1940年生まれで、ことし「古希」を迎えるのである。年齢で言えば、おいおいそんな年寄りが何がドラゴンランだよ、と言いたくなる爺いなのであろう。が、幸か不幸か本人は今までとあまり変わりなく面白がることができるため、なんだか周囲との“ずれ”で浮いてしまうようなのだ。

◆先月の通信で三羽宏子さんが「車内で席を譲るか譲らないか、の苦悩」について面白い文章を書いていたが、身体がしんどそうな年寄りを前に私も立とうかどうしようか、悩むことがよくある。自分自身がとっくに譲られる対象の年齢になっているから、これは結構ややこしいテーマなのだ。お前には譲られたくないよ、と言われそうで。

◆まあ、どう老いてゆくのか、は私が今後検証できる格好のテーマなのでおいおい書きます。言えるのは、40才になったら、一度うまくギアチェンジすべし、ということかな。私の場合はランニングを始めた年だ。

◆先月の通信のフロントで「マゼラン」とするべきところ「アムンゼン」としてしまった箇所があります。お詫びして訂正します。(江本嘉伸


■今月の地平線報告会の案内(絵と文:長野亮之介)
地平線通信裏表紙

君のいなかった三十年

  • 6月25日(金) 18:30〜21:00
  • ¥500
  • 於:新宿区立新宿スポーツセンター(03-3232-0171)

1979年3月、一人の若者が片道切符を手に海を渡りました。小林淳(あつし)さん、当時26歳。武蔵野美術大学商業デザイン科在学中に、民俗学者宮本常一さんの薫陶を受けました。常一さんが所長を務める日本観光文化研究所(観文研)に出入りし、奥会津や山口の民具調査、そして“周防猿回しの会”の記録などに貢献し、いよいよ「自分のテーマを探す旅」へと歩を進めた旅立ちでした。

東南アジア〜南アジア〜中近東〜欧州を経てアフリカに辿り着いた小林さん、一年半で居候をした家が94件304泊という報告が残っています。しかし82年3月、タンザニアのアルーシャからの手紙を最後に消息を断ち、今に至っています。

今月の主役は、ここにいない小林さんです。観文研所員だった宮本千晴さん(常一氏長男)、賀曽利隆さん、三輪主彦さん、同期の丸山純さん、そして小林さんの父上を迎え、小林淳さんの30年の不在を検証します。地平線会議の歩みとも重なる歳月を考える試みです。乞う御期待!

《編注》地平線通信では「民族学者」「観光文化研究所」となっていたのを、ここではそれぞれ「民俗学者」「日本観光文化研究所」と直しておきました。


通信費(2000円)払い込みは郵便振替または報告会の受付でどうぞ
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議(手数料が120円かかります)

地平線通信367号/2010年6月16日/制作:地平線通信制作室/編集長:江本嘉伸/レイアウト:森井祐介/イラスト:長野亮之介/編集制作スタッフ:丸山純 武田力 中島菊代 大西夏奈子 落合大祐 加藤千晶/印刷:地平線印刷局榎町分室
地平線Webサイト http://www.chiheisen.net/
発行 地平線会議 〒160-0007 東京都新宿区荒木町3-23-303 江本嘉伸方


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