2010年5月の地平線通信

■5月の地平線通信・366号のフロント(1ページ目にある巻頭記事)

地平線通信表紙

5月12日午前7時過ぎ、携帯メールが入った。「おはようございます。昨日、明日出発する風間の壮行会でした。その為、頚椎損失のマサが来ています。ちょうどいいタイミングで通信発送の業務メールが届いて、人手が必要とのこと。誘ったら『行く!』との事なので一緒に行こうと思います」。

◆12月の報告者、今利紗紀さんからだ。マサはやはりあの時の報告者だった山崎昌範さんのこと。なんと大阪から発送に駆けつけてくれるとは、ありがたいことである。しかし、そうか。風間深志はもう明日出かけるのか。「運動器の10年」キャンペーンで障害者による日本縦断をやったばかりなのに。

◆すぐに本人をつかまえる。おいおい、日程ぐらい教えてよ。しまった、そうでした、と一応恐縮して元気な早口で当面の行動予定を話してくれた。明日13日のフライトでダラスを経由してアルゼンチンのブエノスアイレスに飛ぶ。送り込んであるスクーター(ユーラシア横断にも使った)を通関して受け取り、ただちに南端の町ウスアイアへ。「3200キロを4日で走るんですよ。今回一番きついかも。1日800キロなんで」

◆ウスアイアからチリのプンタアレナスに移動。1991年、南極大陸の冒険で訪れて以来19年ぶりだ。ここにはマゼラン公園があり、大きなマゼランの銅像が立っている。ここを訪れる旅人はその足元にさわってゆくのだそうだ。「足にさわった者は必ずここに帰ってくる、と言われてるんです。マゼランの親指は、だからピッカピカ」《→編注》

◆アンデス山脈の東側をたどりながら北上、ボリビア、ペルーと進み、うまくいけば、あのカーニバル評論家、白根全とリマで合流するのだという。白根君、今や世界のあらゆるところに出没してお助けマンをやっている。途中、キューバへも行くそうだ。ここは医療の水準が高く、「運動器の10年」でも注目されているという。

◆アメリカを自転車、ボートなどで北上した後、最後はノルウエーのベルゲンから1200キロ自転車で走り、アイスランドを経て9月10日、スウェーデンのルンドで開かれる「運動器の10年世界会議」の会場へゴールするという。

◆風間深志とのつきあいは、地平線会議の活動とほぼ軌を一にしている。最初の地平線報告会が開かれた1979年秋、キリマンジャロをオートバイで登る、というとんでもない計画を賀曽利隆ら仲間と立ち上げ、80年2月、ジャングルをバイクの吊り上げをしながら中腹まで登った。その後も、エベレスト、北極、南極と、縦横に走り回っていたが、2004年1月4日、パリダカ初日に激しい衝突事故に見舞われ、障害者となった。病院で左足に鉄の輪を突き刺したまま動けなくなった風間の姿をよく覚えている。

◆あれから6年。風間は今や己の障害を武器とするかのように立ち上がり、ガハハと笑い飛ばしながら身体に不自由を抱える人たちの間に旋風を巻き起こし、覇気のない健常者たちを脅かしている。

◆5月1日には上海万博が開幕した。しばしば1970年の大阪万博と比較されるが、急激に発展したという意味では、上海のドラマは比較にならない気がする。私の上海体験は、たった一泊でしかない。でもそれがどんなに貴重な一泊であったか、と今にして思う。1972年8月、日本と中国が国交回復していない当時だったからだ。

◆まだ文化大革命が完全には終息していない時期で、通りに出ると、人々は皆毛沢東バッヂをつけ、表情に独特の厳しさがあった。そして、何よりもそろって貧しかった。どんなに溶け込もうとしても、外国人である私は浮いて見えた。「造反有理」「四旧」という熟語が席巻していた時代である。ソ連という国家の崩壊を誰も予測できなかったと同じように、当時、私はこの貧しい上海が日本の街を追い越す時代が来るなんてほんの少しも考えなかった。

◆しかし、78年に始まる改革解放政策は中国を根底から揺さぶりはじめた。森田靖郎の処女作「上海はバイクに乗って 中国若者物語」(1987年 草風館)という本は、当時の上海の青年たちの心情をとらえて秀逸である。是非探して読んでほしい。後に出した「上海セピアモダン」(1990年 朝日新聞社)も、魔都の多面的な素顔が描かれて興味深い。地平線の根っこは、すでに30年あまり地球のあちこちに広がっている。

◆間もなく5月15日。シール・エミコさんの誕生日だ。ブログへの最新の書き込みは4月13日。「現在、代替医療の治療に毎日専念しております。私にとってこれが最後の賭けかなと思っております。とにかく3ヵ月、全身全霊で努力していくので温かく見守っていてくだされば幸いです」としている。きつい日々であろうに仲間への気遣いもうかがえる文章。エミコさん、誕生日おめでとう。(江本嘉伸

《編注》地平線通信では「アムンゼンの親指」となっていたのを、ここでは直しておきました。


先月の報告会から

糞土師は地球を救う!?

伊沢正名

2010年4月23日 新宿区スポーツセンター

■「野糞の人です」と紹介され、伊沢正名さんが登場。野糞一筋35年。一昨年、衝撃の袋とじウンコ写真付き『くう、ねる、のぐそ』(山と溪谷社)を書かれ、「糞土研究会」を主宰する「糞土師」だ。

◆「初めて『野糞人間』を見た方が大半ですね」と、野糞をするきっかけから話し始めた。20歳で自然保護運動を始めた伊沢さんは、企業が「悪」で住民運動は「善」だと思っていた。でも、し尿処理場建設反対運動を聞いた時、ウンコのことを全く考えて来なかった自分に気がつく。食べるものばかりを気にし、出したものに責任を持たない。それでいいのだろうか?

◆元々有名なキノコの写真家であられる伊沢さん。キノコが分解することで、ウンコは自然のごちそうになる、と知った。ならば自分のウンコだけでも、土に返そう。1974年の元旦より、意識的に野糞を始めたと言う。「今日してきた野糞で累計11234回。もうすぐ10年連続100%野糞です」。「ぷっ」とオナラした拍子にゲリ便を漏らしたのが、00年5月31日。今年の同日、「連続野糞記録10年」に達するのだ!

◆まずは、キノコの写真から。「見下ろすのは、見下すことに繋がるのでは?」と映写された、見上げるように撮ったキノコの姿は新鮮だ。「見方を変えれば、別の世界が現れる」。分解菌であるキノコは、落ち葉や枯れ木を土にする、なくてはならないもの。ほかにも、虫に寄生して殺す「冬虫夏草(セミタケ)」。虫が大発生した翌年、大量に見られると言う。そうやって、自然のバランスが保たれているのだ。

◆次に、共生菌のキノコ。たとえばベニテングタケは白樺と共生しており、白樺の根に菌糸が絡まり菌根ができる。そこでは白樺が糖類、キノコは無機養分を「栄養交換」している。キノコの共生した木はよく育ち、キノコの多い林は健全なのだ。

◆「これぞ食物連鎖!」と紹介されたのは、牧場での写真。馬と、馬糞の上に生えたキノコが写っている。「牧草を食べた馬が出した糞が、キノコに分解され土に返り牧草が生える」、ぐるり循環。植物、動物、菌類、それらを繋ぐのは「ウンコ」だった!

◆スコップ、蚊取り線香、水を入れたボトル。伊沢さんの「野糞3点セット」だ。穴を掘って、ウンコする。予め採っておいた葉っぱでふき、水に濡らした指で仕上げ、穴を埋める。埋めるのは「エチケット」でもあるが、なにより「分解」を早めるためだ。さらに棒を立て、同じ場所で重ねてしないよう注意すると言う。この棒、「野糞掘り返し調査」のための、目印でもある。伊沢さんは07年から「ウンコが土に還るまでの過程」を観察しているのだ。

◆ってわけで、いよいよウンコのスライドが、どーん。ここからは、ウンコ、ウンコ、ウンコの嵐。まず、これぞウンコの鏡!のような、とぐろウンコが登場。すると、「すごい!」「なぜ?」と羨望の声が。それを受け、「基本的にウンコはとぐろを巻くものです」、伊沢さんは言い切った。「おお!」、どよめく会場。ほかにも、出したばかりの真っ黒なイカスミ(を食べた時の)ウンコの写真。ごちそうだ!とばかりに、ハエがたかり、生みつけられたウジが這いまわっている。

◆次は、埋めてからの観察。まるで遺跡の発掘のように、そっとそっと掘ってゆき……。まず6日後に掘り返した写真。ウンコに含まれる腸内細菌に分解され、泥状になっている。匂いはヘドロ臭だ。表面に白いカビが付き分解されているのは、8日後のウンコ。断面は泥だが、表面は固くなり、弾力のあるゴムボール状。この時は、エビ・カニ臭がしたそうだ。

◆さらに、9日後に掘ったバナナ(型)ウンコ。いいウンコで、分解が早かった! 包丁でスパッと切れ、断面もキレイ。香辛料のクローブのような匂いがして、質感はチーズ。「皿に載せたら、誰か食べちゃうかも」、伊沢さんがいたずらっぽく笑う。聞いている人もノッて来た。「チーズにも種類がありますよね? プロセス? カマンベール?」なんて質問には、「ちょっと硬めのカマンベール」。「いいウンコと悪いウンコはどう違うの?」、それを受け、じゃーん、「ウンコランク付け」の発表だ。よい順に「バナナ→上とぐろ→下とぐろ→半練り泥状」、最後が「完全ゲリ便」なのだと言う。なぜって、水分が多いと分解に時間がかかるから。ここでも伊沢さんの基準は、「人間」ではなく「自然へのお返し」だった!

◆ほかにも、45日後の分解後の土には、木の根がもじゃもじゃ。80日後には木の根に菌根が付き、3か月半にはもうほかの土と変わらない。ウンコが土に還ったのだ! これまでは、夏場の調査。次は冬だ。この時期、虫は少ないが、貴重な栄養源のウンコは、獣に掘って食べられる比率が高まるそうだ。分解はのんびりで、春までなかなか進まない。

◆6月にまた調査をすると、冬のウンコはミミズやそれを狙うモグラが土を耕し、園芸に最適の団粒土になっていた。正確に掘るため、出した時のウンコの写真を見ながら掘っていた伊沢さん。「あれがこの土に!」と、食べてみる。「無味無臭」。普通の土はジャリジャリして不快感があるが、よくよく味わうと唾液に溶けてねっとりまろやか、コクがあったと言う。元を辿ればウンコはごちそう。食べて「木の根っこの気持ちが判った!」。

◆ここであっという間に、前半終了。休憩時間も、伊沢さんの周りには人が集まる。私がトイレから戻ると、大きな人垣に! なんだなんだ、もう始まっちゃったの? 慌てて近寄ったら、みんな興味津津。様々な葉っぱを、ちり紙と比べながら触っていた(葉っぱ、負けてなかった!)。さあ、後半。

◆冒険や探検に比べたら小さいことに思われるかもしれない。でも「『人間の基本』がここにある」との思いでこの場にいるのだ、と、伊沢さんは言う。生きるために食べるのは仕方ない。だったら、責任も果たそう。熱っぽく言う。一時「生きていることが悪」とまで思いつめた伊沢さんが、自分も自然の循環の中にいられる。「生きていていいんだ」と思えたのは「野糞」のおかげだったからだ。

◆それから、面白くためになるお話がたくさん! この日、伊沢さんは朝に今日の分、昼過ぎに明日の分を出し、東京に来た。これ「明日のウンコを今日出す」、秘儀「排便コントロール」。朝までもつよう、寝る前におしっこする。それと同じ感覚でできるはず、とのことだが……。

◆あるいは、安全な野糞に大事なのは「他人に会わない」こと。でも会ってしまったら「居直っちゃえ」。野糞は「戦い」なのだ! 大木を背に、開けた場所を前に。先んじて人を見つけ、自分から声をかけよう。そうすれば、9割は「変なヤツ!」と逃げてくれる。それでも逃げない人とは、ウンコ座りのまま話すのだ。

◆ほかにも「都会の野糞は早朝に限る」。都会では暗闇の中、奥へ奥へ行ってしまうと、ホームレスの人が寝ていたりする。薄暗い早朝なら見えて安心だし、藪に入れば道路からは見えづらいからだ。

◆菌学会で講演を頼まれた時のこと。分解の専門家の前で、ウンコの話をしたいと言うと、「一言も言ってはダメ」。現在の法律では、食品添加物や薬、抗生物質などを含んでいる人糞は下肥に使ってはいけない。「ウンコは悪である」と、全否定されてしまったのだ。「ウンコが悪いのではないのに……」、伊沢さんの声が僅かに揺れ、ほんの一瞬つまった。「まず、抗生物質などをどうにかしようと考えるべきじゃないのか」、とすぐ話し始めたのだけど、伊沢さんの「ウンコ愛」が伝わってきて、私はうるっとしてしまった。

◆ダイオキシンを分解するキノコすらある、自然界のことを知ろうともせず、ただ汚いものとしてウンコを扱う。これが日本の常識なのだ。「それは、とんでもないこと」、伊沢さんがそう言えるのは、分解の過程を自分の目で見ているから。「みなさんもぜひ一度、野糞をしてそれを掘り返してみてください」。

◆お尻を出し(猥褻)、誰かの土地で(不法侵入)、ウンコする(廃棄物処理)。野糞は軽犯罪にあたる。だから、いっそ捕まって「野糞裁判」をしたい。そうして「野糞の正しさを主張したい」とまで、伊沢さんは言う。「その時にはどうか皆さん、牛乳パックを差し入れて下さい」。拘置所でもトイレを使わず、ウンコを持ち帰るためだ。長く拘置されたら、温まって発酵。爆発すれば、ウンコ爆弾だ! 

◆近ごろは、お尻のための「葉っぱ図鑑」を創ろうと「尻触り、使い勝手、吸着力」の記録をとりながら、野糞をしているそうだ。季節により同じ葉っぱが、全然違う。晴れと雨でも違うし、朝と夕ですら、違う。尻ふきに使い、いろんな表情をする葉っぱを知れば、「たかが葉っぱ」と思えなくなる。有り難いなあ、と思う。それを体感してほしい。「葉っぱ野糞」は、本当に楽しいから。

◆みんな、生きて行くため必要な知識をどれだけもっているのか。「災害時にも野糞ができる」、それは「生命力」だろう。伊沢さんは言った。一方で、しみじみ「ウンコに対する偏見はすごい」「日本社会とケンカする気でなくては、やっていられない」と。「だからね、目の前は真っ暗。でも野糞をしていれば、私の人生バラ色なんです」。

◆決して深刻になり過ぎはしない。この、ユーモアだと思う。私が、伊沢さんに惹かれるのは。「今日で我々は、だいぶ洗脳されましたよ」と、江本さんが言ったけど。本当だ。本当に、洗脳されちゃったよ!(恥ずかしながらまだ野糞をしたことがない、加藤千晶


報告者のひとこと

地平線会議との出会いは、百万の味方を得たような喜びだった

■3月下旬、地平線会議で野糞話をすることが突然決まり、間もなく見本の地平線通信が江本さんから送られてきた。エッ! 報告者ってこんな凄い人だらけなの?! 初めて知る地平線会議の実体。片や近所の林で毎日野糞をしているだけの私。あまりのレベルの違いに茫然。しかし出始めたウンコは引っ込まない。腹をくくった。皆さんが雲の上を翔ける超人なら、こちらは徹底的に下へ下りきった糞土師だ。地平線人ならぬ地の果て人?

◆報告会の晩は四谷の江本さん宅に泊めて頂くことになった。初めての知らない町での野糞は難しい。23日朝、一日一便の私は林へ行き、トイレ使用回避のため昼食後もう一度林へ行き、明日の分の野糞(通算11234回目)を済ませて駅へ向かった。

◆世間の、とくに公の場ではウンコや野糞に対する偏見は想像以上に激しい。一方私は目鼻指、さらに舌まで駆使した200近い野糞跡掘り返し調査の経験から「尻の穴から覗き、ウンコになって考える」という思考法に到達した。そこから導き出される野糞道は、人の生き方や死生観を変えるだけでなく、人間社会の良識や人権などのいかがわしさまであぶりだす力がある。それだけに、天動説が信じられている時代に地動説を唱えるような魔女狩にあう危うささえ感じている。

◆報告会では初めての人がほとんどで、分解や葉っぱ野糞という基本的な部分しか話せなかったが、私の野糞論は皆さんにしっかり受け止めて頂けたようだ。これならば野糞道の深部も安心して話せそうだ。この地平線会議との出会いは、むしろ私にとって百万の味方を得たような喜びだった。私も仲間に入れてください。よろしくお願いいたします。(伊沢正名


地平線ポストから

「濃紺の空に一番星の宵の明星が現れ強い光を放っていました。真上にはオリオン座が輝き、しばらくすると、空一面に星がまたたきはじめました。この光景は、スンダランドが水没して以来数千年間、太古の人々も見てきた、変わらぬ光景のはず……」
−−再出航を前に、コロンの高台の夕暮れを思い出しつつ

■「僕たちのカヌーができるまで」の上映が4月30日で終わりました。2週間のレイトショウ上映で、954人の方々に見ていただきました。ポレポレ東中野のマネージャーも大成功だと言っていました。地平線会議の方々にも多くの人に見てもらいました。ありがとうございました。

◆金井重さんがいらした時、世界炭焼き協会会長の杉浦銀二さんがいらしていたので、お二人を紹介しました。杉浦さんは私たちが岩手で炭焼きをする時に、ワゴン車で同行してもらい、指導してもらいました。現在85歳ですが、まだ世界中を炭焼き指導しながら駆け廻っています。95歳まで続けると仰っています。夢はナイル河流域を緑化して、炭焼きをして、いかだでナイル河を下ることだと仰っています。いつか地平線報告会で金井重さんとの老老対談ができたらいいなと思っています。

◆黒潮カヌー・プロジェクトの縄文号とパクール号は現在補修中です。前田次郎と佐藤洋平は先発し、インドネシア・クルー6人と合流して、一緒に修理にあたっています。5月16日〜20日の天候がよくいい風が吹いている時に日本列島に向かって出航です。

◆今カヌーを置いてあるコロンのあるブスアンガ島は、スンダランドの北端です。スンダランドは最終氷期にアラスカとシベリアの間にあったベーリンジアと同じように、亜大陸を作っていました。約7万年前頃からはじまる最終氷期には、海水面が低下したり上昇したりをくりかえしました。海水面が低下したときには、今の海面より百メートル以上低く、現在のインドネシアの西の島々、マレー半島、インドシナは、ひと続きとなってスンダランドと呼ばれる陸地になっていました。

◆海水面が上昇したときには、今と同じような島々に分かれました。アフリカからきた新人(ホモ・サピエンス)は、陸上の食物だけでなく、丸木舟やイカダを使って海洋の食物を利用し、徐々に人口をふやしていきました。やがて、彼らは、ここスンダランドを新しい故郷として、アジア各地に移住・拡散していきました。丸木舟で黒潮に乗って北上した人々の足跡をたどるのが今回の航海です。

◆コロンの高台に展望台があります。そこから太陽が沈んでいく様子を眺めました。太陽の手前にいくつかの島が連なっていました。パラワン本島の北は小さな島が連なった群島を形成しています。いずれ次の氷河時代がくれば、またスンダランドは復活するかもしれませんが、今は人工的なエネルギーの使いすぎも加わって海水面は上昇しています。

◆夕刻時、空の色もそれを映す海の色も刻々と変化していきます。太陽に向かっていると海にギラギラに反射して眩しいのですが、やがてうっすらとある雲はピンクからオレンジへと変わっていきます。水平線近くにやや厚い雲の層があり、そこに太陽が沈んでいきました。太陽は隠れてしまうかと思ったが、雲は薄いようで、熟した柿のような色になりました。鏡のような海面も落ち着いた黒ずんだオレンジ色になりました。

◆ゆっくりと水平線に太陽が沈んだ後、雲はさらに濃いオレンジ色になり、空は青みを増していきました。次にうすい紫になりました。海と島影の境がまだ分かる間に、濃紺の空に一番星の宵の明星が現れ強い光を放っていました。真上にはオリオン座が輝き、しばらくすると、空一面に星がまたたきはじめました。この光景は、スンダランドが水没して以来数千年間、太古の人々も見てきた、変わらぬ光景のはずです。この光景を見ながら太古の人々は何を考えていたのだろうかと、想像を膨らましていました。(関野吉晴

自分達が生活しているミクロな空間と、天体の起こすマクロな現象が関わっているのは、とても当たり前のことなのですが、それを意識した瞬間になぜか胸が躍ります

■地平線会議の皆様へ 「僕らのカヌーができるまで」の上映期間に、映画館まで沢山の方に足を運んで頂いてありがとうございました。4月30日に無事に最終日を迎えられたようで、今頃メンバーのみんなは一息ついていることと思います。

◆僕と前田君は出航準備の為に、舟を保管していたフィリピン・パラワン州のブスアンガ島に来ています。マキニットという船大工や漁師の多い村に滞在し、インドネシア人クルーや村人と一緒に舟の修理や出航準備を進めています。船大工のティトン・バシッグという方の家の倉庫に居候させてもらっているのですが、目の前には多島海が広がり、その先に絶壁の島が臨まれ、朝夕には神秘的な光景が見られます。ここ数日は村の子供達とレパ(石灰とココヤシ油を混ぜた漆喰)作りをしたり、近くの先住民(タグバヌア族)が住む村に小舟で木材を分けてもらいに行ったりと、忙しくも楽しい日々を過ごしています。

◆先日、明け方に久々に雨が降りました。今まで乾季でしたが、空気も湿気を含み始め季節の変わり目に入ったようです。12月にこの島に来た時には北東の強烈な季節風(タガログ語でアミハンという)だったのが、その風も弱り始め、もうすぐ南西の季節風(ハバガット)になるそうです。日本へ航海する為に、風頼りの僕達はこの時期を待っていました。

◆この季節風は南半球のオーストラリア大陸近辺が冬に入り、大気が冷えて比重が大きくなると高気圧が形成され、そこから海洋の低い気圧の方へ風が吹き出すことで生まれるようです。北半球へは、カプアカン(インドネシア・マンダール語)やハバガット(フィリピン・タガログ語)、夏至南風(カーチベー・沖縄方言)とそれぞれの土地で風は名前を変えて日本まで到ります。自分達が生活しているミクロな空間と、天体の起こすマクロな現象が関わっているのは、とても当たり前のことなのですが、それを意識した瞬間になぜか胸が躍ります。

◆壮大なスケールの出来事が子供の頃に学んだ基本的な知識と繋がっていることも不思議ですね。思えばこのプロジェクトに関わってから、知識と経験の往復作業をずっと行なっていた気がします。何か困難な状況に遭遇した時に、自分の持っている僅かな知識や経験をもとに考え、現地の人に尋ね、新たな経験をして、さらに必要な知識を取り込んでいき……、という繰り返しを続けていました。その過程で、知恵というものが育まれてきた道を追体験している気分になりました。

◆自分が子供の頃は頭でっかちに過ごしてしまいましたが、本当は知恵というものを育てることが大切だったと感じています。この先、もし自分に子供ができたら、そのような環境を一緒に作ることができるだろうか。ふとそんなことを考えてしまいました。ただ、今は自分のことで精一杯です。この旅を通して子供から老人まで沢山の人に出会い、その生き方の多様さに豊かさを感じつつ、人の一生の短さや儚さも見てきた気がします。

◆自分の持ち時間を想像した時に、これからどう生きていこうかと少しあせりも感じています。今日の夕方に船体のレパ塗り作業を終え、出航予定日の5月17日〜20日頃までには準備が整いそうです。縄文号とパクール号は浜辺でフィリピンの舟に囲まれるように出発の日を待っています。夜中に静まり返った海岸に出ると、僕らの舟と異国の舟とのささやきが聴こえてくるようです。今晩も南十字やケンタウルスの星々が美しく輝いています。(2010年5月5日・海のグレートジャーニー遠征スタッフ、佐藤洋平

水たまりにぽとりとしずくが落ち、やがて波紋が広がっていくように、ひとつの発言が大勢の人たちを引き込みながら、具現化されていくおもしろさ

■954人。これは、「僕らのカヌーができるまで」ポレポレ東中野での上映の入場者総数です。2週間の上映期間中は、時に102席ある座席が満席になり、通路に座布団を敷いてご鑑賞いただくような状況でした。この映画は製作から広報活動、上映までの約2年間、本当に沢山の方々に支えられてきました。江本さんをはじめとする地平線会議の皆々様にも心より、「どうもありがとうございました!!!」

◆2008年6月半ばから黒潮カヌープロジェクトに関わり始めた私は、当初、プロジェクトのマネージメントという立場でした。大それたことを言ってしまうと私の任務は関野さんの代理で、その年の7月から大学の仕事を1年間休職してインドネシアに渡っていた関野さんと学生・卒業生たちを結びつける役割でもありました。

◆今だから笑い話ですが、参加したばかりで右も左も分からないような私に関野さんは、「じゃ、あとはぜんぶ沙都紀に任すから、よろしく〜」と言い残して満面の笑みで手を振りながらインドネシアへと旅立ってしまいました(本当です)。実際任された仕事は私が想像していた以上に多岐にわたり、そのうちプロデューサーとして映画の進行を引っ張っていくことにもなりました。

◆今思うとてんてこまいな日々でしたが、そんな大役をいただいたおかげで、私はプロジェクトの活動から生まれた全ての出来事に関わることができました。この一連の経験は大きな自信になっています。

◆水たまりにぽとりとしずくが落ち、やがて波紋が広がっていくように、ひとつの発言が大勢の人たちを引き込みながら、具現化されていくおもしろさ。これまで私は一匹狼のアーティストでした。私にとってアートとは、この世界を受け止め、吟味し、昇華させて、自分を生かす原動力にするための器です。今年の4月初めに父が急逝し、それは大きな衝撃を私にもたらしました。表現というアクションを起こすことでしか乗り越えられないものがあるのなら、器の中で大きな波紋を生み出してみたらどうだろう。

◆以前ある新聞記者の方から、「関野さんの“教育”は、関わったひとりひとりが自ら考えて行動していくことに大きな意味がある」というお言葉をいただきました。誰も言ってくれないので思い切って自分で言ってしまいますが、関野さんの「愛弟子」として、黒潮カヌープロジェクトを通じて学んだエッセンスをもとに今後の人生を切り開いていきたいと思っています。(黒潮カヌープロジェクト・マネージメント 僕らのカヌーができるまで・プロデューサー 木田沙都紀


加無号は兎を捕まえたのだが、急所である頭や首を掴んでいなかったため、兎に木の下に引きずり込まれたのだ−−鷹匠流“しあわせの瞬間”

■山形県のほぼ中央に位置する月山。その中腹のブナ林は例年4mを越える深い雪でおおわれ、吹きわたる風の音だけが雪上を通り過ぎていく。こんなひっそりと静まりかえった森にも様々な動物たちが木の洞や雪の中に隠れひそんでいる。この静かな森を大型のクマタカを腕に据え、カンジキで一歩一歩雪を踏んで獲物を追い求める。クマタカはその鋭い目で私には見えない遠くの小動物でも発見し、ものすごいスピードで急降下し、強大な爪で獲物に掴みかかる。クマタカでの狩りは、まさに自分が一匹の獣になったような激しい興奮を私に与えてくれる。

◆クマタカで狩る獲物はタヌキやテン、リス等の小動物だが、中でも兎がほとんどを占め、その肉は鍋にしても刺身にしてもこの上なくうまい。しかし、そして簡単に捕まるわけではない。冬になると耳の先だけ黒く残して白一色に毛の色を変えたり、木の下に寝る時は自分の足跡通りに戻って敵の目や嗅覚をあざむいたり、またカンジキの役目をする大きな足、敵の足音を早くから察知する耳、その逃げ足の速さ等彼らに備わった能力は実に素晴らしく畏敬の念さえ覚える。

◆このあいだも近くの木の下から飛び出した兎に、加無(かぶ)号が鋭く反応して腕から飛び立った。低い雪の尾根を越えてまさに脱兎のごとく逃げる兎。猛然と追う加無号。尾根のかげでこちらからはもう兎の姿も加無号も見えない。じっと耳をすます。鷹に捕らえられた兎は必ず「ギャー、ギャー」と大きな悲鳴をあげるのだ。だが、静まりかえっている。

◆逃げられたか。急いで加無号と兎のあとを追う。姿が見えなくても雪の上には足跡がくっきりと残されているから追いかけるのは容易である。100mほど兎の足跡をたどって追いかけたが姿が見えない。すると足跡が途絶えているあたりの雪の上に赤い血が少し付着しているのに気づいた。さらに注意深くその付近を捜すと、近くの腕ぐらいの太さの木の下の雪穴に、すっぽりはまっている加無号を見つけた。

◆加無号は兎を捕まえたのだが、急所である頭や首を掴んでいなかったため、兎に木の下に引きずり込まれたのだ。小さく狭い雪穴の奥でいかにも窮屈そうに体を縮めている加無号は、それでも兎を掴んで放さない。しかし兎の方も死に物狂いだ。凄い力で掴まれながら穴の奥に逃げこもうとしている様子が手にとるようにわかる。私も小さなスノースコップで周りの雪を掘って加無号に加勢しようと試みる。しかしそうしている間にも兎はさらにジリジリと奥にもぐり込み、とうとう加無号の爪を外してしまった。

◆そこでまず1mほど穴の奥にいる加無号を外に出してやり、今度は私がその穴に入り、スノースコップや手で雪穴を掘り進む。途中で雪の中から出てきた邪魔な細い枝は山刀で切りながら掘り進むのだが、狭く窮屈な体勢なので掘れるのはほんの少しずつだ。1時間掘ってもまだ兎のお尻も見えない。穴の奥はさらに細く狭くなり、もうスノースコップも使えず手で少しずつ雪をかきだしていくしかない。もう夕方近くなり下山しなければならない時間も迫っていた。せっかくの加無号が穴に追い込んでくれた兎だが、あきらめるしかないのか。

◆そこで少し考えた末に、明日もう一度ここまで登ってきて、今度は大きなスコップを持ってきて再度雪穴堀りに挑戦することにした。そして今度は逆に雪を入れて兎が出られないように踏み固めていく。しばらくの間、掘り出した雪や足元の雪を穴に入れて長靴で踏み固めていると、突然雪の下に何か柔らかいものを踏んづけたような感触が伝わってきた。

◆「ん……?」その直後足元の雪の中から目の前に大きな兎が飛び出してきて、私のすぐ横を走りぬけようとした。兎は穴の奥ではなく、手前の足元の雪の中に隠れていたのだ。私も今までこれに近い体験は何度もしているので、兎の動きにすばやく反応して逃がさずに手掴みにできたのだが、まさに予想外の展開だった。手の中で激しく暴れる兎のフワフワした毛を通して、全く脂肪のない筋肉の動きが伝わってくる。

◆やはり私には高性能のライフル銃や散弾銃を使う狩りよりも、雪山に静かに分け入り、鷹を飛ばしたり、手掴みにしたりと最も原始的な狩りのほうがお似合いなのであろう。誰もいない雪山を鷹と二人で狩りをする日々。これ以上のしあわせがあるだろうか。

◆ところで、私の鷹狩りを5年間かけて撮影した『出羽の鷹狩』というDVDが今年の冬完成しました。全くやらせのない訓練と実際の狩りの様子を淡々と追ったものですが、いい作品に仕上がっていると思います。DVDの問い合わせは、「イヌワシの森倶楽部」(0234-64-2932)へ。(松原英俊


[通信費をありがとうございました]

■先月の通信以後、通信費(1年2000円)を払って下さった方々は以下の通りです。中には数年分まとめて振り込んでくださった方もいます。万一通知漏れがあった場合は是非ご指摘ください。

 中橋蓉子 天野賢一 奥田啓司 山本千夏 木下聡 伊藤栄里子 今福洋子 高野政雄 中村易代 斉藤孝明 橘高弘 山口尚紀 三羽望 伊沢正名 藤本亘


まるでちいさな村のよう−−南極観測船「しらせ」に乗った!!

■4月15日。冷たい雨の中、晴海ふ頭に全長138メートルの巨大な船が停泊していました。南極観測船「しらせ」。岩野祥子さん(南極観測に2回参加)のコネクションで、今日は動くこの船に体験乗鑑できるのです!「こんなチャンスめったにないぞ!」と勇んで参加した地平線関係者は10名。江本さん、風書家の月島さん、久島さん、坪井さん、緒方さん、たいしょー、小関さん、和歌山の美術館職員シマさん、奥多摩山岳警備隊の宮本さん、新垣。案内役のハンサムな菅原さんは元海上自衛官で、「今すぐにでも南極に行きたい」とおっしゃるくらいの南極好き。もう7、8回も行ったとか。いいなあ〜!

◆「しらせ」は、ぶ厚い氷に乗りあげ、艦の自重で氷を砕いて進む砕氷艦。オレンジ色と白の明るい色調で、氷の世界で目立ちそうです。10時、汽笛と共に出港。中に入ると、食堂は海上自衛隊OBとその家族、極地研関係者であふれています。この「しらせ」は2代目で、昨年の第51次南極観測で初めて就航したというだけあり、船体も設備もきれいでした。過ごしやすそうだけれど、航海中はものすごく揺れるのでしょうね。

◆日本に帰ってきてまだ1週間の「しらせ」には、そこかしこに生活のにおいが。居住部の部屋のドアには、気象長、飛行士、補給士3佐、機関長2佐、船務長、航海2曹などという肩書きと共に船員の名前もかいてあったりして。と、緒方さんが自転車を発見。「えーっ、南極で!?」と一同おどろきましたが、菅原さんによると、途中で立ち寄るオーストラリアで乗るそうです。そりゃそうか。

◆施設も充実していて、手術ができる立派な医務室、歯科治療室、理容室(理容師は船に乗っていないそうですが)、トレーニングルーム、貴賓室などもあります。ポストの横では切手が売っていて、年賀状受付期限のお知らせ用紙も張ったまま。うーん、乗務員180名、観測隊員80名が数か月間暮らすのだから、このくらいの設備は必要なのか。「しらせ」の艦内は、まるでちいさな村のようでした。

◆15時前に横須賀港に入港。南極と聞くとアーネスト・シャクルトンの漂流記なぞを思い浮かべ、別世界という感覚でいたけれど…「しらせ」の中で、地平線ギリギリを転がる太陽の写真を見たり氷に触ったりしたら、なまなまと、行きたい気持ちがわいてきました。いまも自宅の冷凍庫に保管している(展示用のをもらってきてしまった!)南極の氷を見るたびに、遠いけれど確かにある世界に思いを馳せています。(新垣亜美

そんな時、私はその人の手の甲と首の皺を見るようにしています
−−車内で席を譲るか譲らないか、日常的苦悩に関する一考察

■こんにちは。夏を思わせる天候ですね。出かける機会も多くなりますが、江本さんは電車で座っている時、前に立っているお年より(と見える人)に迷わず席を譲りますか? 私は譲る前にもうほんと、色々考えてしまいます。この人は顔ほどお年じゃないかもしれない、席を譲ってはかえって失礼にあたるかも、健康維持のためにあえて立っている人だったらどうしよう……などなど。

◆そんな時、私はその人の手の甲と首の皺を見るようにしています。顔や頭髪以上に、手と首には年齢が現れるような気がするんです。皺の具合、シミの出方などを見てこの人はけっこうお年がいっていそうだな、そして体力も落ちていそうだな、と(勝手に)判断したら「どうぞ」と席を立つことにしています。これも、タイミングを逸してしまうとしらじらしいので、ある程度のスピードが必要な作業なのですが…。もっとも、それが煩わしく感じて、席が少ない時は座らないことも多いです。結構混んでいる電車内で、一つだけぽつんと席が空いていたりするのも、無意識にそうしている人が多いからかもしれません。

◆一方、現在妊娠中の私は一時的に「席を譲られるべきと世間では奨励されている側」にいます。それはそれで気を揉んでしまいます。もうすぐ妊娠9か月に入る私のお腹は見れば妊婦と分かります。しかし私の場合は通勤時間も短く幸い体調も順調なので、それほど「あー座りたい!」という時は無く、立っていられます。出勤・帰宅時に苦労してやっと獲得した席に一息ついて座っている人の前で、堂々とお腹を見せて立つことは何だかはばかられます。

◆それで色々気を揉む自分がやはり煩わしく、大体は席と席の間のドア付近の空いたスペースに立つようにしています。やむを得ず席の前に立つことになった時は、駅などで配られているマタニティマーク(=赤ちゃんとママのイラストがついたキーホルダー。「おなかに赤ちゃんいます」と書かれている。優先席に同じ絵が貼ってある車両もある。私は席を譲って欲しいというより、“人込みの中でも速く歩けないんですマーク”としてつけている)や、お腹が見えないよう隠し立っています。

◆電車の揺れでお腹が出てしまった時は「しまった!」と思い、すぐに隠してしまいます。それでもわかる人にはバレてしまうこともあり、譲って頂くこともあります。そういう時は嬉し恥ずかし、座らせて頂いています。人の気持ちや体調やそれぞれの事情は外見だけでは一概に判断できないので、難しいですね。(出産予定日まであと2か月弱 三羽宏子


北磁極から環境調査隊の飛行機に便乗させてもらう形でレゾリュートに戻りました

■こんにちは、レゾリュートより荻田泰永です。このたび、北磁極からの復路途中ではありましたが折り返し地点の北磁極に引き返し、現地で調査を行っていたイギリスの環境調査隊の飛行機に便乗させてもらう形でレゾリュートに戻ってきました。

◆今年はレゾリュート周辺の海氷状態が異常に悪く、すでに私が復路に歩くべきルート上にはオープンウォーター(氷の割れ目)が発生し始めています。5月18日ごろには戻れるだろうと考えていましたが、このままでは間違いなくレゾリュートまで辿り着けなくなる状態になってしまいました。

◆通常6月中旬に溶け始めるレゾリュート周辺海域が、今年は4月の下旬に溶け始めてしまいました。北磁極から歩いて戻ろうと出発しましたが、レゾリュートの気象観測所で30年気象と海氷の研究をしている友人のウェイン・ダビッドソン氏から「今年の海氷状態では無理。危険性が高すぎるし、すでにレゾリュートの周辺は氷が割れ始めているので絶対に歩いて戻ってくるべきではない」という助言もあって今回の決定となりました。レゾリュート沖の海氷は、例年よりも1か月半から2か月早く割れ始めている状態です。

◆往復という当初の目的は果たせませんでしたが、とりあえず無事に五体満足にレゾリュートに戻ることができました。北極点へのトレーニングとしては北磁極までの前半戦がメインであったので、復路は途中で引き返すことになってしまいましたが8割がた満足しています。トレーニングとして考えればかなりの収穫を得ることができました。反省点や改良点も多数見つけることもできました。

◆しかし、今年の北極は異常でした。気象条件も海氷条件も、以前では考えられなかった変化が現実に発生しています。帰国予定は5月21日です。戻ったらまた連絡します。取り急ぎ、帰還のお知らせまで。(荻田泰永 5月4日)

中身はもう無茶苦茶。しかも素人ばかりなので総大将を守る者もいず、上杉謙信は20人ぐらいの兵に襲われていた−−「時空を超えた」川中島合戦参戦顛末

■「坪井さん、合戦に出てください」去年の3月、報告会会場で山辺君に声をかけられた。彼が戦国武将オタクなのは知っていたが、はて合戦とはなんぞや? 聞くと、山梨県の石和温泉を流れる笛吹川の河川敷で、1000人ほどが武将の衣装を着て、川中島の合戦を再現するのだそうだ。その戦に野宿党山辺隊は会場近くの公園で野宿してから出陣するとのこと。もうひとつ意味がよく分からないが、面白そうなので参加。

◆メンバーは報告会によく来る野宿党、プラスその知人の11名。部隊はなんと上杉軍のNo.2、景勝隊。実は景勝は川中島の戦いには幼少で参加していない。突然の参戦は大河ドラマで直江兼続の人気が出たため、城主の影勝も、という主催者側の都合。で、どうすんの? と思ったら「時空を超えて参戦いたす」というムチャなナレーションで一気に解決したのには驚いた。

◆さて今年は……というと、くじで武田軍になった。僕は山辺君に頼まれて一条信龍という聞いたこともない武将の役を引きうける。気になったのは大将クラスの鎧は脱ぐと自分で着れない。つまりトイレにいけないことだったが、信龍の袴はいい具合に破れていてトイレには支障はなかった。衣装とは不思議なもので鎧をつけ兜を冠ると自然と大将の気分になり、そんな顔になる。昨夜の公園野宿で伸びたヒゲのおかげで、普段より少しは強そう……かな。

◆当日は本当にいいお天気だった。前日は4月半ばとしては記録的な雪が降りどうなるのかとヒヤヒヤしたのがウソのようだ。笛吹川の川原で陣を整えた両軍の前で、まずは山形県米沢市の砲術隊による火縄銃の模範演技。この火縄銃が凄い。50メートルほど離れた敵陣から撃ってくるのに、空気の波動に体が押されてしまうのだ。それゆえ銃口を向けられると本気で怖い。

◆武田軍の「三献の儀」、上杉軍の「武締式」と続き、いよいよ本戦。武田軍火の軍団に属する僕らの一条隊は妻女山に陣取った上杉軍の背後にこっそりと回り、後から攻撃を仕掛ける。最後は500対500の総力戦。全軍入り乱れての戦い。これだけの人数が雄たけびをあげて走ると、迫力は相当なもの。ただよく見れば、伊達政宗はいるはダースベイダーみたいなのもいるはで、中身はもう無茶苦茶。しかも素人ばかりなので総大将を守る者もいず、上杉謙信は20人ぐらいの兵に襲われていた。

◆さて僕が演じた一条右衛門大夫信龍とは何者か? 後からインターネットで調べてみたら武田信玄の弟で、信玄がもっとも信頼していた武将。「伊達者にして華麗を好む性質なり」と言われ、武術、芸術に秀でた文武両道の風流人だった。最後は降伏を促す徳川軍1万に300騎で切り込み、討ち死にしたとなっている。無名の武将だなんてとんでもない。演じられて光栄でござる。(坪井伸吾


国境の駅で大相撲中継を見た!! 稀勢の里、応援中です

■江本さんへ 町田優子です! 「モンゴル旅行をするかどうか?」で迷っていたとき、ずいぶんご迷惑をおかけしたのに今まで連絡を怠っていてすみませんでした! ネパールで山本千夏さんから詳しいメールをいただくことができ、その情報を頼りに滞在僅か2泊3日でしたが行ってまいりました。

◆今回の旅程は、インド、ネパール、中国、モンゴルの4か国を「1か月で無理に観光する」というもので、いつもながらのインド旅行に何か新しい要素を加えたいという気持ちと、大相撲への右肩上がりの興味が相まった結果でした。

◆私はもともと力士より観客の顔を見るのが楽しくて大相撲のテレビ中継を見ていたのですが、ここ1年半、力士1人1人の個性が分かってきて、相撲自体を急激に好きになりました。ただの格闘技ではなく伝統を体現する演技者であるところも魅力ですし、特に稀勢の里を贔屓力士として応援するようになってからはどんどん熱が入ってしまいました(ちなみに夏場所は22日に見に行きます。とっくに勝ち越してくれているといいのですが……)。

◆で、「せっかく大陸に飛ぶんだし、幾人も強い力士を輩出しているモンゴル国までインドから行ってこよう」という思いつきの旅だったのです。が、2月末〜3月末のモンゴル行きということで、実はひそかな目的がありました。「現地で大阪場所の大相撲中継を見る」ということです。と言うのも、相撲を見ていると「この番組はモンゴルでも放送されています」という解説が度々入るのです。「モンゴルで見ているお母さんに一言」と促すこともあります。私の中で、モンゴルで流されているらしいNHK、に対する興味と若干の猜疑心が高まっておりました……。

◆列車で中国国境の二連浩特(エレンホト)〜ザミンウデというルートで入国しました。駅でウランバートル行きチケットを購入し、待ち時間に「さてモンゴルとはどんな国だろう」とぶらぶら歩こうとしたその時……ふと待合所のテレビが目に入りました。

◆さっそく、しかもいたって普通に流されてました、大相撲!! いきなりでしたが、私はこれで「もう満足……」でした。首都にも行かずして入国後10分で満足でした。本当に本当に放送されていたんですね〜(後で気づいたのですが、この時間はモンゴルの民放各局がこぞって大相撲を流しているんですね)。

◆そこにいた人たちの反応が「当たり前よ」という感じだったのも面白かったです。通訳は入っていましたが、同じ時にNHKを待合室で流していた日本の病院でも、ここザミンウデと全く同じ光景が見られたんだろうな〜と思います。しかしゲルでも砂漠でもなく、こんな感想ですみません……。

◆3月末に帰国してすぐに埼玉から福岡へ越してきました。職場は市内の行政書士事務所で、週5日9時〜17時で見習いとして働いています! 求人は皆無だったのに働けるからくりとしては、無給だということです。3か月続いたら時給700円くらい出してもいい、と言われました。今は修業ですね……。

◆では、自分の収入を得るまではあまり頻繁に地平線に行くこともできなくなりそうですが、今後ともよろしくお願いします!(町田優子 ウルドゥー語劇団座員)

四月詠 金井 重

 書を持ちて さくらの下で 開きけり
  「爆走中国」 われらが隣人
     −−『爆走中国』森田靖郎著

 北宿坂 いつもの道の 華やぎて
  櫻の下を 花あびてゆく

 見沼べり 川面のさくら それぞれに
  流れにまかせ 急ぐでもなし

 花いかだ 三三五五と 流れつつ
  並木の櫻に 「お先に」と合図

 駅までに 小・中・高と 三校あり
  心若やぐ 校庭の花見

 さくらばな 浮かれうかうか はや晦日
  おあとに五月 控えてござる

 修善寺に きて雨やまず 寺ひとつ
  おがみて湯治の 客となりけり

 雲動き 岩山にょきり 顔を出す
  あごひげのごと みどりの濃淡

 糞土師の 野糞の講演 熱ありき
  紙は厳禁 拭き草多種

 いとしけり トイレの惜別 外っ国なら
  大地に肥料に 動物の餌を

 さわやかに 昨日に続く 快便よ
  今朝の曇天 何ほどのこと


[先月の発送請負人]

■地平線通信4月号の印刷、発送、の仕事をしてくれたのは、以下の方々です。今回は、噂の「エモカレー」が目の前で作られ(実は毎月ほとんど調理室を使って作業をしているので調理も可能なのです)、みんなに食べてもらったら、まあまあの評判でした。ありがとうございました。(E)

森井祐介 車谷建太 松澤亮 江本嘉伸 平田裕子 新垣亜美 久島弘 坂出英俊 関根皓博 杉山貴章 竹村東代子 山本豊人 野地耕治 武田力 落合大祐 埜口保男(16名)


伴走車に乗っている私はうらやましくて仕方なかったです−−障害者127名による日本縦断キャンペーン無事終了!! 風間深志隊長はいよいよ南米ヘ

■4月16日(金)関東・東北は寒く雪や雨の降る中、風間率いる障害者チャリダーズが降り立った北海道・苫小牧港は我々のゴールを祝福してくれるかのように穏やかで抜けるような青空だった。総勢127人の障害者が参加し、今回の運動器の10年・第3.5弾日本縦断キャンペーンは無事札幌テレビ塔でゴールを迎えられた。参加者の障害は切断や関節の機能障害、麻痺、頚椎損傷、脊髄損傷などさまざま。障害にあわせて使うアイテムは違えども自転車でも、かっこいいハンドサイクル(手でペダルを回すような自転車。下肢が不自由な人がよく乗る)でも、車椅子でも、個々で目標を決めて本当に楽しそうに走る。伴走車に乗っている私はうらやましくて仕方ない。

◆下肢に障害がある者は特に車での外出が多くなる。でも自転車なら普段車で通っている道でも速さが変わり、目線が変わり、空気が変わる。キャンペーンに参加するにあたり受傷後初めて自転車に乗った人、初めてのアイテムを挑戦してみた、という人は多い。これをきっかけにまた運動を始めてみようかなーなど多くの人が言っていた。走り終わった後の顔はキラキラしていて笑顔が格別なのだ。

◆今回広報として毎日ブログを書いていた為、参加者に話を聞いていて感じたことがある。それは、障害者になってから行動力が衰えている人が多いということ。「受傷後初めて自転車に乗りました。怖くて心配で。乗れるとは思ってなかったです」と。いかに「障害」という言葉を盾にやろうとしてこなかったか、自分の可能性を自分で潰してきてしまっているのか……。「障害」とは、こころが障害なのだ。

◆運動をするというのは習慣付いてないと1人で実行し、継続するのはなかなか難しい。体が不自由だと補助が必要となることもあるのでなおさらのこと。けれど、気持ちよさを味わってしまったなら夢中になるはず。特に中途障害の人には挑戦することを恐れないで、忘れないでもらいたい。

◆ただ、オーストラリアと比べ日本を走ってみて感じたのは日本はとても走りにくい。道がせまい。交通量は多い。自転車道はほとんどない。トラックが幅寄せしてくる。道交法が変わったというのに自転車は歩道を走れ、と警察が言う。この道交法についての周知は最低でも指導している立場の警察には徹底してほしいとつくづく思った。

◆さて、桜前線とともに北上するかと思われた第二ステージの東京から青森間で桜が見れたのは栃木までだった。初日の東京から雨に見舞われ、その後ひどい荒天続きで岩手では吹雪に見舞われしかも気温は0度。それでも風間隊長と片足サイクリストのテツ(田中哲也)は普段と変わりなく淡々と走る。今回はマネージャーだった酒蔵旅人マサ(山崎昌範)は関節が固まってロボットのように歩く。頚椎損傷のマサは寒さに弱いんです。人工関節のサキもですけれど。

◆そんな逆境でも笑って過ごせる仲間たちが面白い。きつい入院生活やリハビリの時のことを考えればその程度はへっちゃらになってしまうんですね。こんな荒天の時一番困るのはサポートのお医者様方。ちょっと雨が降ってるだけで「今日は走るんですか?」と朝からやる気が削がれる電話がくる。「別に来なくていいですよ」と言いたくなるのをグッとこらえ笑顔でご挨拶。これが上からの指示だからとやらされているか、自発的に協力してくれているのかの違い。積極的な地域は参加者もよく集まるし(集まりすぎて困った県も…)こちらも手伝っていて楽しくなる。

◆さて、このあとこの「国際親善大使」という、ちょっと異色な肩書きを背負った冒険家・風間深志は5月13日に「運動器の10年・第4弾」として南米に出発し北米を経て、9月中旬に「運動器の10年」国際会議最終総会が行われるスウェーデン・ルンドへと向かう。途中なかなかの医療先進国もあるらしい。私もゴール地点付近で出没して驚かせようかと秘かに考えている。(骨肉腫のサキこと今利紗紀

■追記:普段私は「障がい者」と書いているのですが、今回はキャンペーンで統一しているので「障害者」と明記してきました。英語では障害者のことをチャレンジドと言うらしいです。初めて聞いたとき素敵な言葉だと思いました。「障害者」他にいい言葉ないですかね。チャレンジドのサキはまた新たなチャレンジ探してます。まずは忙しくてゆっくり見れなかった日本を一周りか二周りしようかなー。

「プージェーの祖母、スレンさんに羊を! カンパ上映会」16日もやります

■5月9日(日)、第1回スレンさん支援「puujee」上映会が無事終了いたしました。おかげさまで160人の方が観に来てくださいました。初めて「puujee」を観る方が半数ぐらいでしょうか。リピーターの方が多いのがこの映画の特徴です。

◆今回の上映会は、家畜を失って窮状に陥っているプージェーの祖母、スレンさんへのカンパ集めが目的でした。上映後、関野吉晴さんと山田監督が昨年秋に訪れたモンゴルの写真を観ながらスレンさんやバーサの様子、プージェーの同級生の話しを伝えました。モンゴルでの厳しい遊牧民の生活や遊牧の生活の知恵を紹介した後、カンパのお願いをしました。

◆もう一度草原に戻り、遊牧の暮らしをしたいというスレンさんの思いを会場の皆さんがしっかり受け止めてくださいました。カンパの呼びかけにたくさんの方が応えてくださいました。モンゴル人留学生もカンパしてくれました。留学生の経済的なご苦労を思うと、とても有り難いことです。

◆16日(日)に2回目の上映会があります。関野さんは今週末、航海のためフィリピンに出発するので、ゲストに春風亭昇太さんをお呼びしました。昇太さんはプージェーのファンでいつも応援してくださっています。まだまだカンパも呼びかけ続けていかなければなりません。 引き続きの応援お願いします。(puujee製作委員会 本所稚佳江


《ライフワークとして「天空の旅人 日本の空を旅する」をスタートさせました!−−木のおもちゃ作家との「そらともり株式会社」設立1周年経緯》

■Air Photographer の多胡です。福島での桜空撮を終え自宅に向かうフェリーの中で書いてます。今回は子豚さんこと天俐(8か月)の話はおいておき、父親となった今の心境および近況を書くべしだと思い投稿しました。まず、我が妻こと歩未の腹に天俐が宿ったことが決定打となり、ずっと遠ざけていた自分の空撮活動に対するある決着をつけました。それは「子は親の背中を見て育つ」ということを自分なりに考えた結果です。

◆一つ目。多胡の活動である「Air Photograph」と歩未の活動「arumi toy」をくっつけ「そらともり株式会社」を設立しました。我々の創作活動をより深める、それが目的の会社設立です。二人の歩みに一本の筋が通り人生において新たな展開が始まった感じです。「やりたいことをやり続けるための会社」は今年の4月でなんとか1周年を迎えられました。

◆二つ目。ライフワークとして「天空の旅人 日本の空を旅する」を2010年2月より開始しました。写真と映像で日本を空から記録しアーカイブスとして保存する活動です。背景には撮影活動のベースであったカナダから帰国するたびに日本の自然の持ち合わせる繊細さにひかれ、ここ5年にわたり日本を空撮してきました。その経験から、飛ぶほどに自分は日本人として本当に日本を知っているのだろうかという疑問と、有名無名に関わらず日本の今をしっかりと記録撮影すべきだという思いが爆発し実行にいたりました。

◆撮影対象は100でも200でもありません。気が済むまでやります。当初100か所をリストアップし撮影行にとりかかりましたが、1カ所目の厳冬のサロマ湖撮影に挑んだ時、日本とは思えないほど大きな空間を意識したんです。そしたら100か所なんて区切っている自分にあきれかえってしまい100は取り消しました。呼吸をするかのように飛んで撮ってを続けていくんだと決めました。

◆撮りたまる素材は個展、写真集やDVDなどを通じてアウトプットしていきます。この活動があるから、きっと対外的な撮影の仕事も今まで以上にできる、また飛び人生の起点となったマッケンジー川はじめ、日本人として世界の空へ自分の物差しと共に挑戦もできると僕は整理しています。これを一つの答えとし再び自分で自分のリズムを作りながら前に進みます。例の紺色のハイエースにモーターパラグライダーとカメラとキャンプ道具を詰め込み、車中泊で日本全国飛んで撮る。先日は車に自作の網戸を装着したのですよ、快適快眠。

◆パラの色は白、赤と白の吹き流しも側に立ててあります。どこかで見かけましたらどうぞお声かけください。コーヒーぐらいしかありませんが、一緒にすすりながらご当地の話を聞かせてもらえたら幸いです。皆様との出会いやお便りが次なる空撮につながることを切に願ってます。長くなりましたが、以上が父親となった多胡の一言です。これからもどうぞ三人まとめてよろしくお願いします。

[P.S]5月に開幕した上海万博日本政府館にて上映される展示映像の空撮を多胡が担当しました。新潟松之山の重なり合う棚田をRED ONEという映画用カメラで撮りました。そのクオリティはフルハイビジョンの4倍(4K)の解像度です。世界初のモーターパラグライダー4K映像。上海に行かれることございましたら日本政府館に足を伸ばしていただけたら幸いです。(多胡光純


伊沢正名さんの写真展、新宿で月末に開催!!

■写真家はやめたはずなのに、なぜか急に写真展をやることになりました。《東京写真月間2010「森はふるさと」》という催しの中で、『キノコの世界〜森の循環〜』を行います。

◆5月26日〜6月7日 ペンタックスフォーラム(新宿センタービルMB)10時30分〜18時30分 火曜定休

 もちろん、キノコ写真家として出展を要請されたのですが、私の頭の中には糞土師活動しかありません。主催者側との初顔合わせの席でいきなり、糞土講演用生ウンコ写真入りのスライドを映写しました。反応は当然のごとく×。ちょっと過激な私は直球勝負ばかりにこだわってきましたが、還暦を迎えてようやく、世間の良識? の壁を破るには、時に変化球やスローボールも必要だと認識し始めました。説得と妥協を重ね、お互いにこれならばという所まで歩み寄り、なんとか実現の運びとなりました。この写真展では、大っぴらには展示しないナイショの仕掛けも少々あります。是非お出かけください。(伊沢正名

★展示内容は次の通りです。

●見方を変える ●丸いキノコ ●菌輪 ●共生 ●寄生 ●分解  再生と循環 ●ニュージーランドのキノコ そしてこっそりと●糞の分解


「やっぱり南極と北極じゃあ全然違った。北極の方が南極より真っ白だ。北極の方が南極より平らだ。北極は人が住んでる」−南極女子の北極初見参報告

■北極に行ってきた。北極探検家の友達から北極のことをいろいろ聞いているうちに、自分の目で見てみたくなった。南極のことはちょっとだけ知ってるけど、同じ極地でも北極は南極とはきっと違う。それってどんな感じなんだろう? 自分のトークショーで「南極と北極は何が違うとおもいますか?」なんてよくお客さんに聞いてみるけど、そういや私、北極見たことないやん。

◆それで、現地たった一週間だったけど、行ってみて納得した。うん、やっぱり南極と北極じゃあ全然違った。北極の方が南極より真っ白だ。北極の方が南極より平らだ。北極は人が住んでる。北極のブリザードは南極より明るいぞ。南極より北極の方が自力で行きやすい。あ。北極北極ってさっきから言ってるけど、人の住んでる村まででエクスペディションはしてません。北緯74.5度のレゾリュートという村。南緯69度の南極昭和基地よりは高緯度なんだな。

◆いちばん嬉しかったことは、アザラシを食べたこと! 北極探検家のいるところまで片道250kmくらい、イヌイットにくっついてスノーモービルで物資補給に行くかも、という計画があったけど、着いて3日間(明るい)ブリザードだったから計画は没。レゾリュートでのんびりぶらぶらしていたおかげで、誰でもおいで! の村の食事会に行けた。

◆行ってみたら、体育館の真ん中にダンボールがしいてあって、まわりに村人が座ってる。ダンボールの上にいろんな肉の塊がおいてあった。村人たちは扇形をしたナイフを各自持って来ていて、肉を切りながら食べている。これこれ! これを見たかったの! 食べたかったの! わーい! と思って写真をパチパチ撮っていたところへ、イヌイットのおばちゃんが新顔(わたし)をつかまえて、「食べてみる?」「うん、食べる食べる」。

◆おばちゃんはよくわかっていて、どの肉もすっごいちっちゃく切ってくれた。だからとってもトライしやすかった。体育館に入った瞬間にツーンとする独特なニオイを発していたのがイグナック。セイウチを地下に1年間埋めて発酵させたものだ。よく聞くキビャック(海鳥をアザラシの中につめて地下に埋めて発酵させたもの)にはお目にかかれなかったけど、アークティックチャー(北極マス)、カリブー、アザラシ、マクタック(鯨の皮)を食べた。あっちの人は、鯨は皮だけ食べて肉は食べないんだって。

◆カリブーはスープも作ってあったけど、他は生だった。泊まってた家に、犬の餌用にと頭をぶち抜かれた子供アザラシが届いたり、泊まってた家の燃料タンクが空になってセントラルヒーティングが活動停止になったり(滞在中はすごく暖かかったけど気温はマイナス10℃台)、久しぶりに村にアルコールが入ってきたとたんに酒に酔った若者が殴りあいの喧嘩を始めたり、家の玄関で飼っていた子犬を屋外の巣穴に引越しさせる試練の手伝いをしたり、郵便局に勤めてる彼女は人を殺してるからさと聞かされたり、何をするでもなく過ごしていたけどまったく飽きなかった。

◆村の人口はざっと200人。よそ者も入れてどんな人たちがいたかというと、イヌイット、カナダの南部から来た白人、アメリカ・ヨーロッパ・アジアから来たエクスペディションの人たち、日本人女性が3人(カナダ人に嫁いだ嫁がふたりと私)、金を稼ぎまくってるインド人、インド人に雇われてる黒人など。

◆そのうち半分が子供。10代のママパパは普通にいるし養子も簡単。母違いの子供が3人いるよ、とか、その逆も珍しくない。楽しくおしゃべりしたリサは、若くてきれいで明るい素敵な女性。リサは、何百kmか離れた村に嫁いだんだけどレゾリュートに帰ってきたんだとか、26歳までに6人子供を産んでるなんて聞かされてもなんだかピンとこない。いろんな話をつなぎ合わせると、みんな結局どっかで親戚なのねって結論が簡単でいいと思った。

◆結婚はしたりしなかったりするみたい。かの偉大なアムンゼンが北西航路を開いたとき、まさにレゾリュート近辺を航海しているけれども、アムンゼンが残したイヌイットの記録が実におもしろい。それを読んで、今のレゾリュートの人たちと比べたときに、本質的にはほとんど変わってないんだと思って笑ってしまった。

◆日本って国は、たいていのことがon scheduleで動いていくでしょ。極地に行くと、スケジュールなんてあってないようなもの。私も今回、たまたま予定してた日にレゾリュート入りできたけど、一日ずれてたら、3日間は飛行機が飛ばなかった。帰る日は天気は大丈夫だったけど、機体トラブルで乗る飛行機が前日レゾリュートに辿り着かなかったから、その後のスケジュールは全部チャラになった。

◆アイスランドの火山噴火でも多くの人が影響を受けてますね。自然の力っていうのは、人間には計り知れないもの。南極に28か月もいると、そういうことは当たり前の感覚として身につく。けど生きてる社会が日本社会だから、日本の常識、日本社会の約束から切り離されるわけにはいかなくて、不安や焦りが生じるとすればそういうところから生じるんだと今回もあらためて思った。日本からオタワに飛んで、オタワからイカルイト、レゾリュートと極域に入っていたわけだけど、オタワを境に「予定」ってものの存在感がこうも違うのかと、そこもおもしろいポイントだった。(岩野祥子


一歩郊外に出れば緑に覆われた森林国だろうと想像していた。ところが、行けども行けども広大な牧草地ばかりが目につくのだ−コスタリカはエコ優等生か?−

■日本でNPOを主催している知人に誘われ、中米コスタリカを訪れた。世界有数の生物多様性に恵まれ、エコツーリズムの発祥地と言われている、一度は訪れたかった国だった。聞けば政治も比較的安定し、軍隊を持たず、かつては中米のスイスとも呼ばれたという。憧れの一方で、ヘンに優等生っぽい情報がなにやら気になりつつ機上の人に。

◆首都サンホセ市に着いて、意外とごちゃごちゃした猥雑さにちょっとホッとした。確かに町並みは整然としている。走っている車もバスの車両も奇麗だし、クラクションの洪水も無い。でも町の中心部は多彩な顔つきの人々で溢れ、様々な物売りが闊歩していた。やっぱりラテンのエネルギーに満ちている。

◆物価はけっこう高い印象だ。スーパーで買う単品のパンが百円前後はする。日本とそれほど変わらない。とはいえ庶民の収入が高いわけではなく、工業生産を中心とした経済成長で所得格差が広がっているとか。車は平均年収の何倍かするはずなのに、市内の渋滞は激しい。この春からはナンバープレートの末尾番号で市内入域制限が始まった。借りたレンタカーが早速それに引っかかったが、担当者は「まあしょうがないよねー」と、どこ吹く風なのもラテン系気質か。

◆コスタリカは国土の3割近くが国立公園で、30箇所以上の自然保護区がある。今回の旅ではそうした保護区をいくつか訪ね、スタッフや研究者の方々と交流を図るのが主な目的だ。最初の訪問先サンタロサ国立公園を目指して、パン・アメリカン・ハイウェイ沿いに北上する。なんといってもエコの聖地(?)。首都はともかく、一歩郊外に出れば緑に覆われた森林国だろうと想像していた。ところが、行けども行けども広大な牧草地ばかりが目につくのだ。柵の向こうにはインドでおなじみの白いこぶ牛がのんびりと草を食んでいる。

◆コスタリカでは19世紀頃からコーヒーとバナナのプランテーション開発が進んだ。さらに1960年代から80年代にかけて、主にアメリカ向けのハンバーガー需要に応じた肉牛生産業が急成長する。熱帯雨林は次々と伐採され、牧場に換わった。中南米全域で同様の「開発」が進んだが、中でもコスタリカは治安も良く、インフラも比較的整っていたため、生産に拍車がかかったのだ。

◆こうして森を食い尽くす勢いで発展したコスタリカの経済は、様々な要因で80年代初頭に重大な危機を迎えた。その頃から普及しはじめた「生物多様性」という概念は資源の少ないコスタリカには天啓だっただろう。80年代半ばからは、熱帯林の急速な喪失が世界的な社会問題になりつつあった。世界が求める生物多様性。そのホットスポットが実は足元に有ったとは。気が付いてみれば、幸福の青い鳥は青息吐息ではないか…。

◆コスタリカにとって幸いだったのは、国の中央に脊梁山脈が聳えていたことだ。標高の高い地域に成立する「熱帯雲霧林」は過度の開発には晒されていなかった。低地の「熱帯乾燥林」にもまだ原生的な森が少しは残っていた。そうした場所を自然保護区に指定し、環境調査を始めたのが今のコスタリカに至る第一歩だ。NPOが運営する自然保護区も多いのは、自然を搾取しすぎたことへの危機感が国民全体に有った証だろう。

◆「生き物同士の助け合いが無かったら、ヒトだって生きてられないでしょう。種と種の関係性が多いほど環境は安定するんです」。生物多様性をそんなふうに解くのはコスタリカの自然保護政策に多大な影響を与えた世界的な昆虫学者のジャンセン教授だ。

◆教授が現在主なフィールドにしているサンタロサ国立公園の大半は、かつて牧草地だった。試行錯誤をしながら本来の熱帯乾燥林を再生しつつある。その森に生息する昆虫種の標本をできる限り集めて分析し、DNAのレベルに至るデータシステムを構築するのが教授のライフワークだ。「字を知らなければ、どんな面白い本でも価値がわからないですね。生物の多様な種を調べる研究は、秘密に満ちた自然という本を読む為に、字を習っているような仕事じゃないかな」と教授は言う。

◆こうした地道な基礎研究をへて少しずつ得られた知識は、研究室に仕舞い込まず、大勢で共有してこそ意味を持つ。専門知識を持ったガイドに導かれて、自然が繊細に連携している様子を垣間見るエコツーリズムは、生命のヒミツのプレゼンテーションのようなものだ、本来は。「エコツーリズムが脚光を浴びたおかげで無茶な森林開発が減った反面、食える観光資源として、ピンからキリまでの業者が森に群がっているのも実情だけどね」と現地NPOスタッフのぼやきも耳にした。

◆傷ついて倒れて試行錯誤しながらエコロジーにたどりついたコスタリカは、ただの優等生や完成されたエコ先進地ではなく、まだまだ迷いながら前に進んでいるようだ。(長野亮之介 地平線イラストレーター、時に高尾をフィールドとする森林保全ボランティア団体「五反舎」首謀人)


地平線会議なじみのあの村で「伊南川100kmウルトラ遠足(とおあし)」をやりまーす !!

■紅葉真っ盛りのはずの10月23日(土)、福島県の南会津町の伊南川沿いの沼田街道を行き来する「遠足」を企画しました。企画、主催は海宝道義、酒井富美、三輪主彦の地平線会議仲間です。コースは旧伊南村の古町の大イチョウの下をスタートし伊南川を遡り、大桃の舞台を過ぎ、檜枝岐村を通り、七入から旧沼田街道の山道を登ります。ここは尾瀬国立公園内、走ってはいけないので歩く約束になっています。

◆沼山峠まで高度差700mは、他の大会ではありえないものです。地元の方は「そのころ沼山峠は雪だよ!」と心配してくれます。でも同じ時期、私は何回も登っていますが、ちょっと滑るけど大丈夫。燧岳を見ながらバス道を御池に降りて再び檜枝岐に下り、60キロ地点から小峠に向かって再び上り、木賊温泉に下ります。ここは賀曽利軍団御用達の露天風呂です。100km遠足なら、ちょいと足湯ぐらいできます。

◆さらに下ると地平線仲間の河村安彦さんのログハウス。この前がエイドステーション、ご接待してくれるそうです。舘岩川に出て内川で伊南川に合流すると、残りは5キロ。いったん大イチョウを通り越し、真っ暗になった久川城の裏を回って高台に出ると目の前にライトアップされた大イチョウのゴールが飛び込んできます。

◆普通の100kmマラソンよりきついコースなので、健康には悪いでしょうが、ゴールする気分は倍加すること請け合いです。どうぞご参加ください。あるいはエイドステーションのお手伝いお願いします。終わったあとはもちろん宴会もあります。

◆2000年9月、シドニーオリンピックの最中でしたが、当時の伊南村にあった重要文化財「大桃の舞台」で「地平線会議in伊南村」と称する250回目の報告会を行いました。伊南村は地平線会議にとっては思い出の場所で、現地事務局をしてくれた丸山富美さんは、酒井富美さんとなり地元に溶け込んでいます。ご存じ海宝さんはアメリカ横断レースを2回も完走したウルトラマラソンの神様、浜比嘉島では「海宝うどん」を皆さんにふるまってくれました。この二人が、地平線なじみの伊南川でウルトラ遠足をやろうというのだから、私は応援しないわけにはいかないし、地平線の皆さんも恩返しをしなければ仁義が成り立たないと思い、ちょっと先の話なのですがこの紙面を貸してもらいました。

◆アッ忘れてた! 10年前、江本さんが記念植樹した地平線桜(私が勝手に名付けた)も名木になりつつあります。コースはその桜の前も通るように設定しました。交通不便、宿泊施設少ない場所です。でもそれだけに「どうやって行こうか、どこに泊まろうか」などいろいろ楽しみもあります。三輪、江本、中山嘉太郎3人組は5月スキーで尾瀬ケ原を越えて伊南村まで歩いたこともありました。野宿野郎たちは昨年久川城跡で野宿をしたとか……。私は帰り際に、会津のマッターホルン、蒲生岳に登ろうと考えています。

◆問い合わせは0241-76-2680 〒967-0506 南会津町小塩字下平51 「上台の喜」酒井富美 http://www.tagosaku-ina.com/です。

◆富美さんは専属ではなく日中は仕事にでていておばあさんが対応しているようなので、地平線の方のお問い合わせは、  にお願いします。(三輪主彦

映画「僕らのカヌーができるまで」を観て

■「創る」ってどういうことだろう。「創作」って「表現」って?「手作り」ってどういうことなのか? なぜ? なぜ創るのか? なぜ 向き合い語り合うのか? そういった想いに率直にこたえてくれる映像作品でした。創作者にとってなぜ「創る」のか? を問われることは旅人に なぜ「歩く」のか? と問うことに 似ていると思います。いえ、思うように成りました。地平線会議に参加させていただくようになってから、旅人の方々にさまざまなことを話していただいているうちに。

◆「旅と創作(表現)」は 近接していると思います。舟を造る道具を得るために砂鉄集めから…ということだけでもワクワクドキドキします。ときめきの純度が違う といえばいいのか…。人間がつくることが成せる最初の単位地点から始める。構想や準備から「旅全部が作品」だと思いました。

◆参画した人すべてにとっての それぞれの本気の「かけがえのない」「これこそは」表現したいこと。つくった鉄の斧も カヌーも 帆も なにもかもが 特別な斧であり特別なカヌー。その舟に乗って 島の日本へやってくる全体作品はもちろん素晴らしいけど 物語の部分細部に近寄って見ると個人個人の真摯で熱い想いが輝いてる作品だと思います。 それぞれの人たちの さまざまなすべてが特別な時間  すごく大変そうだけど すごくすごく楽しそうです。

◆なにもかものすべてが「生きた伝説」になるような作品だと思います だれも止まらない今 カッコイイです。このタイムラグの介入の余地の無い物語 ここに追いつく言葉は無いだろうと思った。旅人は体をはって表現する。歩ききる 走りきる 登り切る 創りきる 描ききる。自分は なにかを やりきったことがあっただろうか…

◆夢みたいなことをする人たちがいる その夢はうつろわない 夢と等速に生きている人たちがいる (緒方敏明 彫刻家)


「ピオレドール(金のピッケル賞)は、次に続く君へのメッセージ」−−シャモニからの徒然報告

★フランスのシャモニでの「ピオレドール(金のピッケル賞)」審査に参加した1月の報告者、谷口けいさんからメールが届いた。アイスランドの火山噴火でシャモニに足止めされた間に「2010ピオレドール徒然独り言」として書いてくれたのだ。ことしの「ピオレドール」には5隊がノミネートされ、その中でカザフスタンのデニス・ウルブコ、ボリス・デデシコのチョーオユー南東壁の登攀、そしてアメリカのジェット・ブラウンら3名による中国新疆ウィグル自治区にある雪蓮峰北壁登攀に与えられた。文中、アルピニズムの世界を知らないとわかりにくい表現もあるが、そのままとした。(E)

■No matter which country you are from, we are all from same place“mountain”. We all speak same language from“mountain”. 今回のピオレドールで一番印象的だった言葉はこれ。どこの国の人かなんて関係ない、山を愛している僕らは皆同じ言葉(山語?)を喋っているんだ。そう、目的と思いが同じならば、体の中からあふれ出てくる言葉は同じなんだよね。だから競争も無いし、オリンピックのような国対抗の競い合いも無い。そんなのナンセンスだ。

◆シャモニに来てやっぱり思うことは、国境なんて誰も意識しないで一緒に登っているってこと。当たり前なのだけど、なんかいいなーって思っちゃう。やっぱりアジア人にとっては言葉の壁や文化の違いはどうしても意識してしまう、もしくは意識せざるを得ないところなのかも知れない。だから、国境を越えて、共にアルパイン・クライミング遠征をすることは、私の今一番やりたいChallengeの一つ。

◆今回の第18回ピオレドールに我々が選んだ登攀の一つ、Xuelian(雪蓮)隊は、別々の土地に住む4人が一つの目的のために集まり、体と心のコンディションが同じだと確認した3人による熱い登攀だった。“Respectfor Climbing Partners”というポイントは、今回強く感じたこと。これは、Cho Oyu隊のDenis & Boris(カザフスタン)のプレゼンからも強いメッセージがあった。BorisがいたからDenisはCho Oyuのあの南西壁登攀に向かえたのだし、このペアで無ければあのルートは無かったかもしれない。

◆もう一つのポイントは、“Boldness(大胆さ)”+“Respect for Life(命の尊重)”。このどちらも重要で、冒険性無くして新しい登攀はあり得ないし、だけれども、命を尊重することは絶対忘れちゃいけない。この2つのポイントに審査員達は重きを置いていたと思うし、それを私はすごく嬉しく思う。

◆ところで、ソロ・クライミングはどうか。私には出来ないものの一つ。審査員メンバーのJordi(西)やRobert(墺)、Xuelian隊の一人、Kyle(米)はソロを幾度かやっている。そんな彼らだからこそ、BoldnessとRespect for Lifeの意味を重く受け止めているのだろうな。Kyleとはソロについて彼の意見を聞いた。パキスタンのタフラトゥンで命の限界までいったストーリー。

◆彼の言葉でいえば“At the edge”。そして彼はもうそこには戻らない、at the edgeは繰り返したくないと言うけれど、やっぱりソロにはソロからしか得られないものがあると。それも分かる気はする。一つは、自分がたった一人で成し得る可能性を見ること。そして、本当に一人になった時、命の境界線に立った時、本当に自分にとって大切なものが見えるのだってこと。それは家族であり、愛する人や場所であり、仲間であり、そして自分自身の命だ。

◆今回、自分が審査員としてシャモニに来た意義は何か。山の経験も未熟だし、登攀の歴史に精通しているわけでもなく、世界中のいろんな登攀スタイル全てを理解してもいない。でも、自分に出来ることは、今登っている彼らの中に入って行って共に語り、同じ目線でしかし違った角度から彼らの登攀を見、理想のクライミングスタイルについて意見交換する。自分のやりたい登攀や遠征、理想のスタイル、これからの世代へのメッセージは何かを語り合うこと。そして彼らの山/登攀に対する熱き想いを知りたい。

◆ノミネートされた登攀を評価する為というよりは、これからのアルピニズム(アルパイン・クライミング)がこうあって欲しいというのをディスカッションするためにピオレドールはある。そこにある自然・文化・人を尊重し、共に登る仲間を尊重し、シンプルに、自分の持てる能力(技術)と想像力で、アートを描くこと。“Spirit of Exploration”+“Imagination”これをベースに置いて、次の世代へのメッセージとすること。

◆まあつまりこの想いを持って、ノミネートされた登攀を理解し、評価すること=これからのアルピニズムのあって欲しい姿を皆に伝えることだったと思う。それが今回の審査員全員の共通した想いだった。だからこそ、自分がこの場にいられたことを本当に誇りに思う。ここに存在することのできた全ての幸運と出会いに感謝。

◆そして去年のシャモニ訪問が無かったら、自分は審査員を受け入れなかっただろう。(もちろん主催者側も声を掛けなかっただろうけど!)例え去年のピオレドール受賞があったとしても、ここシャモニに来て、時間と空間を共有していなかったら、未だに私はきっとピオレドールの意義を理解していなかったと思うから。運は逃すべからず! こうしてまた夢が広がっていく。(シャモニにて 谷口けい


[あとがき]

■鹿児島におられる野元甚蔵さんとはよく電話で話す。93才というのに耳はしっかりされていて、会話も筋道立っていて話のやりとりに困ることはない。次女の菊子さんによれば、最近健康チェックを受けた際も医師は大丈夫、と太鼓判をおしてくれたとのこと。そんなわけで、もう一度地平線会議に行きましょう、と言ってくださった。

◆38年前の上海の1日を今の私はつぶさに語ることができない。当時書いた記事やメモがあるからなんとか思い出せるが、人間の記憶とは案外頼りにならないものだ。チベットの入り口に立ったところで時間切れとなってしまった前回の続きを是非、とお願いした時、野元甚蔵さんが一瞬逡巡したのは、だから当然のことだ。

◆でも、私は可能なら何度でも野元さんのような方には地平線会議で話してほしいと思う。本で読むのと本人の肉声で聞くのとでは大きな違いがあるからだ。たとえば、あなたは「陸軍特務機関」という名にどんなイメージを持ちますか? 私はなんと厳しい響きか、と最初は思った。が、野元甚蔵さんという人間と出会ってその優しい人柄にふれ、根本から考えをあらためましたね。

◆人生、肩書きでは、何もわからない。それを知ることは結構大事なことだと思う。(江本嘉伸


■今月の地平線報告会の案内(絵と文:長野亮之介)
地平線通信裏表紙

ノムタイの宇宙 〜70年前のチベットからニッポンへ〜

  • 5月28日(金) 18:30〜21:00
  • ¥500
  • 於:新宿区立新宿スポーツセンター(03-3232-0171)

 日支事変さなかの1940年2月。モンゴル人になりすましてチベットのシガツェに滞在していた22才の野元甚蔵青年は、正体がばれそうな危機感を覚えて、ウジェンゾンという農村へ脱出します。中国政府の高官がチベット入りしたのが原因でした。当時、日本陸軍特務機関員としてチベット“潜入”中の野元さんの専門は農業研究。ウジェンゾンではチベットの農村生活をじっくり見すえつつも、緊張した日々を送りますが…。

 今月の報告会では70年前のチベット文化の生き証人、野元さんを、昨年に続いて再度お招きし、前回語りきれなかったチベット体験をお話しして頂きます。また故郷、鹿児島に戻られてからの人生についても語って頂きます。この3月で93歳になられた野元さんを囲んで、堅苦しい会ではなく、参加者と自由なやりとりができる場にしたいと思っています。ふるって御参加を!


通信費(2000円)払い込みは郵便振替または報告会の受付でどうぞ
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議(手数料が120円かかります)

地平線通信366号/2010年5月12日/制作:地平線通信制作室/編集長:江本嘉伸/レイアウト:森井祐介/イラスト:長野亮之介/編集制作スタッフ:丸山純 武田力 中島菊代 大西夏奈子 落合大祐 加藤千晶/印刷:地平線印刷局榎町分室
地平線Webサイト http://www.chiheisen.net/
発行 地平線会議 〒160-0007 東京都新宿区荒木町3-23-303 江本嘉伸方


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