3月10日。鎌倉市の鶴岡八幡宮境内にある大銀杏(イチョウ)が倒壊した、と聞いて驚いた。皆さんは、知ってますか?。幹回り6.8メートル、高さ約30メートル。樹齢1000年とされるこの銀杏は、鎌倉幕府三代将軍、源実朝(さねとも)の暗殺事件の際の「隠れ銀杏」として知られる。小学校の遠足で木炭バスに乗って行った初鎌倉でも、大仏とあの銀杏のでかさに何よりも驚き、おいの公暁がこの銀杏に身を隠した、と聞いて子ども心に納得した記憶がある。
◆貴重な県の文化財である。樹齢は高いが暮れの巨木健康チェックではまだまだ大丈夫と診断されていたそうだ。倒壊した午前4時過ぎは12メートルの強風が吹いていたというからよほどの遠心力が加わったのだろうか。自然の力とは、しばしば理解を超える。
◆2月27日の東京マラソンの日は、朝からテレビに釘付けとなった。マラソンの中継にではない。チリ方面に起きた大地震で太平洋沿岸に大津波警報、あるいは津波警報が出されたからだ。NHKではすべての番組を中止し、はるか彼方から伝わってくる情報を伝え続けた。私はマラソンの主催者も日本テレビもある程度の人がゴールしたら最後には大会を打ち切り、津波情報への協力体制を取るものと見ていたが、そうはならなかった。
◆津波の怖さについて私自身は知らないが、那覇にいる長濱静之さんが地平線通信に書いてくれたことがある。長濱さんは勝連半島で生まれ、石油備蓄タンクも、海中道路も、各離島に架かる橋梁も、浜比嘉大橋もなかったころのことをご存知の方で、「ちへいせん・あしびなー」にも参加してくださった。
◆開発がされていなかったころの自然、原風景を回想して「特に強烈に印象に残っているのは、1959年の伊勢湾台風、1960年のチリ津波です。当時11歳と12歳のころですか。その時の荒れ狂う自然の猛威のすさまじかったこと。目の前で、『何もなしえぬまま、ただ逃げ惑い、死んでいく、怪我する、何もかも流れ尽くす、平伏す人々のむなしさ』を、原自然の『恐ろしさ』を体感しました。」(地平線通信2008年10月号)と書いている。
◆太平洋に向き合っている浜比嘉島のことが今回も気になって外間家に電話してみた。まだ情報を聞いているさ中だったが、今号で晴美さんが書いているように、島の人々は避難の指示で高い丘にある比嘉小学校に避難したという。何事もなかったが、津波という想像を絶する猛威にはどんな気遣いも無意味ではないだろう。
◆さて、ここに来て本題である。その浜比嘉島で08年10月にやった「ちへいせん・あしびなー」と09年3月、1か月行なった写真展「わたしたちの宝もの?比嘉小12名の児童が撮った浜比嘉島のいま」の記録がようやく出来上がろうとしている。正確に言えば、本日3月10日、すべての原稿を印刷入稿し、私たちの手を離れた。
◆この記録を『あしびなー物語×わたしたちの宝もの』(略称として「あしびなー物語」)と命名する。右側からは08年10月の「ちへいせん・あしびなー」の記録、左側からは09年3月の写真展の記録と、2冊の本を真ん中であわせて一冊とするユニークな作品である。制作作業のほとんどすべてを丸山純が負い、浜比嘉の海をテーマとした2つの素晴らしい表紙を長野亮之介が描いた。島んちゅの皆さん、参加した地平線仲間たちの有形無形の協力がこの本を支えた。
◆琉球開闢の歴史を讃えるあの島で私たち地平線会議がどんな発見をし、島んちゅや子どもたちに何を学んだか、116ページ、オールカラーの全ページに込められている。「ちへいせん・あしびなー」自体についてはすでに地平線通信の特集というかたちで記録されているが、今回の本は外から押しかけた私たちのような者が島とどのような交流をし、共に行動できるか、終わった後、どんな記録を残せるか、への挑戦でもあった。
◆とりわけ、子どもたちの写真をこのようなかたちで世に残せることが嬉しい。できればこの本をまず浜比嘉島の皆さんへ、そして3月20日に卒業式を迎える比嘉小学校の皆さんに届けたい。そして、可能ならば、周辺の島々を含む教育の現場にもお贈りしたい、とひそやかな思いを抱いている。私たちの活動が何かのヒントになれば、という願いをこめて。
◆30年以上の活動を通じて、地平線会議が今回のような本を作るのは実は初めてだ。自分たちのためでもあり、でも自分たちだけが楽しむのではない仕事。あのイベントに参加しても、していなくても、見て、読んで、ふと考え込むような面白い内容を目指したつもりだ。皆さんの協力に感謝するとともに、 是非、手にしてこの本を広げることに知恵をお貸し頂きたい。 (江本嘉伸)
■誕生日を聞くのを忘れてしまったけれど、角幡さんと私は1976年生まれ。私は、同い年の人が何をしているか、というのが妙に気になるタチで、角幡さんが書いた前号の通信の扉ページも一気に読んだ。「退職直後の不安や恐怖」という一節に、大会社、30を超えての決断、男性であること、の重みを感じた。私は大学を出て、ほどほどの企業に2年勤めたが、あちこちに行きたくて辞めた。当時は、全てから解放されたような喜びしかなかった。
◆角幡さんは、朝日新聞記者だった。「アホ枠で取ったんだ」と採用担当者に言われてしまったそうだが。2002年12月から翌2月にかけて、1回目のツアンポー峡谷行を終えた4月に、入社した(直前の3月に地平線で報告会やったんですね)。5年ほど地方支局を回り、そろそろ本社という声がかかった時、「今、本社に上がったら辞められなくなる!」と考えて辞めた。「本社に上がる」という言い方を、角幡さんは気にするそぶりを見せながらも使ったのが、印象的だった。本社は「上がる」という動詞にふさわしい職場なのか。なお、ご本人が前号に書かれたとおり、辞めた理由は2つ。ツアンポー峡谷にもう一度行きたい。そして、自分の旅を書いていきたい。
◆ツアンポー峡谷へは2009年夏に下見に行き、2009年12月から今年の1月にかけてが、本番となった。今回の報告会の主眼である。内容の前に、角幡さんを惹きつけて止まないツアンポー峡谷とは何? チベット東部のコンポ地方、ヒマラヤ山脈から流れるヤル・ツアンポー川の大峡谷。シャングリラ(桃源郷)はここだと言われ、ベユル(隠れ里)伝説という伝承も残っているそうだ。
◆ベユル伝説とは、チベットに密教をもたらした聖者パドマサンババが、その土地の守り神に任じた神々を住まわせた場所があるというもの。角幡さんによると、ツアンポー周辺の村には、こうした伝承を信じて移住してきた人たちもいる。
◆1924年に植物学者のキングドン・ウォードらが、5マイルの空白地帯を残してツアンポー峡谷を踏破。その後、中国共産党によって外国人立入り禁止地域となったが、1990年代に立入りが許可される。1998年イアン・ベーカー(米)らは未知の滝(「幻の滝」)に到達。このニュースは、滝を見つけようと準備を進めていた大学4年の角幡さんに大きな衝撃を与える。
◆角幡さんは、辿りつくのが難しい地理的な空白地こそが、理想的な探検対象だと考えている。早大探検部に所属していた時に「ツアンポーの空白の5マイル」を知り、詳細を調べた。いよいよ探検を実現するべく、早大探検部でツアンポーへ下見に行ったばかりだったのだ。がっかりはしたが、めげない。2002年12月、角幡さんは単独で、ベーカーらが立ち入らなかった地域を見ようと出発する。ちなみに中国政府はベーカーらの探検の後、再度外国人の立入りを禁じたため、無許可での探検となった。
◆峡谷の北部にあるガンラン村からヤル・ツアンポー川沿いに空白の5マイルを歩き、大屈曲部で西に向かい、ギャラ村を目指す予定。しかし、道はなく、滑りやすい危険な斜面を進んでいく状態に。結局、ガンラン村に2、3か月居候し、泊まった家の主人をポーターに雇い、3回に分けて峡谷を探検した。この時、空白の5マイル地帯で、奥行き50mほどの洞窟を発見する。35mほども懸垂下降して洞窟の入り口に立ち、ベユル伝説の記述との符合に驚く。それまで、あまり伝説を信じていなかったが、認識を改める契機になった。
◆そして2009年夏。前回は行けなかった、大屈曲地帯の全域踏査のため下見へ。2008年3月のチベット大暴動の影響を考慮し、どこまで行けるかを偵察した。お世話になったガンラン村まで徒歩2日、という距離の村まで、雇った車で行く。顔見知りとの嬉しい再会もあったが、近くの検問で外国人の立入りを止められた。このルートからガンラン村に入ることが難しいと分かる。
◆そこで2009年冬。ヤル・ツアンポー川沿いを西から歩くことにした。トゥムバツェ村からギャラ村を通り、ナムチャバルワ峰、ギャラベリ峰を横目に、ガンラン村を目指すルート。今回も単独、無許可である。トゥムバツェ村でポーターを雇うつもりだったが、交渉はうまくいかない。写真で見る限り、相当の田舎だが、携帯電話は普及している。無許可の外国人を案内したら、いつ誰に通報されるか分からない。村人はそれを恐れているのだ。
◆結局、迷いにくいところまで連れて行ってもらい、単独で2日歩いて、戸数2軒のチベ村に。ここで、ギャラ村までのポーターを雇えた。ギャラ村の近くにあったという、豚の天日干しの写真が強烈だ。内臓を抜かれた一頭丸々の豚が、木の枝に何頭も引っ掛けられている。渋柿色の体が、太陽の下でピンと突っ張っている。
◆ベユル伝説の聖者パドマサンババの手形やら足形やらが残っているギャラ村(戸数8軒)でポーターを雇えたが、1日歩いてから無許可であることがポーターにわかって、村に帰ってしまった。無許可であることへのこうした反応は、予想外だったとのこと。もともと、ギャラ村から、空白の5マイルの入り口までは、ポーターを雇うつもりだったのだが。
◆この時点での手持ちの食料は次のとおり。アルファ米とラーメンで19日分、チャパティ2枚、生米3合も合わせると22、3日分。さらに1日100g程度の行動食(カロリーメイト、ナッツ類)があった。1日1000kcal程度の計算になる。この他、イラクサを採って、スープや丼にして食べた。
◆ギャラ村から先は何もない。だから村人もほとんど行かない。藪が多く、道の踏み跡がすぐ分からなくなる。前に歩いた誰かが、鉈で草木をないだ跡が分かるところまで戻って、歩き直したりしたが、1日分で踏み跡を見失った。ギャラ村から次の目的地ペマコチュン(50年位前までは居住地だったが、今は掘っ立て小屋が1軒あるだけ)までは、通常4日だが、角幡さんは6日かかった。
◆モンスーン明けだが、しとしと雨が降る。スクリーンに映る写真は、どれも曇りがちに見える。人の気配のない冬の谷沿い、道なき道を一人で進む。どこで滑落してもおかしくない。ミスの許されない、厳しい状況が続く。河原に下りられるなら、懸垂下降して河原を歩く。
◆100円ショップで買ったレジャーシートをタープ代わりに、ツェルトを張る。荷物を軽くするため、ガスも持参せず、毎回焚き火。すぐ拾えるシャクナゲは燃えにくく、火が大きくなるまで2、3時間かかった。2002年の探検の経験を生かし、ヒル退治のスプレーを持参。今回はマダニに5箇所くらい刺された程度で済んだ…とのことだが、刺された痕の写真は今もなお「刺されたて」に見えるほど痛々しい。ちなみに、夏は雨が多く、川の水が増えるし、害虫も多い。だから天気が良い(はずの)冬に行くのだそうだ。
◆ギャラ村を出て12日目。雨がひどくなった。川沿いに進む予定だが、ルートの険しさを考慮し、峠を越えて迂回しようと判断。ここで、雨が雪に変わった。雪で埋まる前にと、峠へ急ぐ。4日ほど降り続ける。途中で見つけた洞窟で3日間、寒さに耐える。食料の残量が厳しくなってきた。
◆予定していたルートを諦め、ツアンポーからの脱出を目指す。生きて戻ることを優先する。角幡さんは、雪山用ではなく、通常の登山靴を履いていた。凍傷で足が痛むまま、避難していた洞窟から800mほど上がって、峠を越えた。峠も越えられたし、食料も食い延ばせば1週間ほどは大丈夫。助かったという気持ちになる。
◆とは言っても、目的地ガンラン村までは食料が足りない。少し先にあるはずのルク村で、調達しようと考えて進む。ギャラ村を出て22日目、辿りついたルク村は廃村になっていた。3日ほど前から体は衰弱しており、食後1時間くらいしか体力がもたない状態だった。
◆ルク村(廃村)の対岸に、ガンテン村がある。しかし道がない。食料も体力も残っていない。一泊した翌日、地図にある橋もないことが分かり、愕然とする。少し泣きそうになり、死を意識する。探しても、探しても、向こうに渡る手段が見つからない。川幅は50-60mだが流れは緩やかだ。泳ごうと決意する。
◆と、ここで奇跡的にワイヤーブリッジを発見、ご本人曰く「腰が抜けそうに嬉しかった」。地元の人はワイヤーに滑車をかけて渡るが、角幡さんは土のうの袋でロープが切れないように保護しながら、ハーネスを組み合わせ、1時間かけて、ちょびちょび渡る。ワイヤーブリッジ(川が荒れても流されないため多く設置されている)には慣れているそうで、途中で下の川を写した写真がある。スリリングだ。川面から30m上でロープにぶら下がっているのに、何故、下を向いて写真を撮ろうと思えるのかは、分からない。
◆川を渡りきり、ガンラン村へ。緊張から解き放たれたせいか、普段あまり吸わないタバコが欲しくなる。雑貨屋に買いに行くと、最初に会った人が警察だった。「漢族か?」と中国語で聞かれ、チベット語で答えてしまったのが運の尽き。警察に捕まりはしたが、よくぞこんな所まで来てくれたと歓待を受け、不快な思いはしなかった。しかし目的地であるガンラン村へは行けなくなってしまった。
◆何日も警察と一緒に移動し、大きな町まで出て、罰金500元を払って釈放される。撮りためていた写真のうち、人物が写っているものは角幡さん自ら消去している。だから、報告会でも人が出てくる写真は数枚しか見られなかった。それが余計に、単独行であることを印象付けた。
◆人里まで10日ほども離れた地域を一人で歩き、間違いのないようコントロールして、生き残れた経験は大きかった。過去の探検家が入らなかった箇所まで足を踏み入れた満足感もある。その一方で、ツアンポー峡谷のあるコンポ地方は、観光開発が進んでいる。2002年の探検時とは変わっていた。人々はあか抜け、建物もきれいになっていた。チベットと四川を結ぶ川蔵公路(せんぞうこうろ)はもう、凸凹道ではない。角幡さんは、もうすぐニューギニアに行くそうだ。なんて意欲旺盛なんだ!どうぞご無事で。
◆ところで私は、ブラジルで日本語教師の面白さを知り、痛切に「プロになりたい」と思った。皆さん、何歳になっても大学院って入れるんですよ。昼は日本語を教え、夜は大学院へ行くという怒涛のような2年間が、今月終わる。「日本語教育修士」の学位は頂くが、良い教師であり研究者であるために、大事なのはこれからだ。探検家でありジャーナリストの角幡唯介さん、トレイル・ランナーの鈴木博子ちゃん、三味線弾きの車谷建太君。1976年組は、他にもいませんか? 違うフィールドにいる同い年の皆さん、お互いの健闘を祈ります!(後田聡子)
■報告会の前日、僕はあたふたと写真を用意し、カンニングペーパーを7〜8枚そろえ、どの写真でなにを話すかある程度イメージし、かなりばっちりと事前の準備をしたつもりだった。考えてみると2時間半もしゃべるなんて、こりゃ無理だと思ったのだ。大学の講義だって(もう10年も前になるが)1時間半しかなかったのに、聞くのはあんなに苦痛だった! でもやはり慣れないことをするものではないらしい。自分の冒険を分かりやすくしようと思って用意した探検史の説明が長すぎて、肝心の今回の旅の説明が不十分になってしまった。
◆それにしても報告会の最後の方で感じた、旅の途中で思ったことをうまく言葉にできないあのもどかしさは一体なんなんだ? 僕にとって今回の旅は、本当に生きて帰れるかどうかという強烈な体験だったので、その時の状況や気持ちなどすらすらと口をついて出てくるものだと思い込んでいた。
◆でも実際は意外と突っかかってしまい、うまく話せない。振り返ってみても、考えていたことの一割くらいしか話せなかったと思う。書くことに比べて話して説明することに慣れていないからだろうか(なにせ帰国してからはほとんどひきこもりで人間としゃべった記憶があまりない)? それとももしかして、まだまだ体験として甘いということなのか? だとしたら恐ろしい……。うまく語れるようになるには、もう少し生死の瀬戸際をのぞかなければならないということじゃないか。でもツアンポーはもう行かないよ。
◆いずれにしても報告会では伝えきれなかった部分があったと思うので、関心のある方は雑誌『岳人』4月号(間もなく発売!)に目を通してください。(角幡唯介)
■進む道路整備の一方、増える検問、携帯の普及による密告…。チベット自治区の旅にはまだ制限が多いというより、むしろ厳しくなっていると角幡さんの報告を聞いて感じた。
◆この3月は1959年のラサ蜂起から51周年。2008年3月にはチベット全土に拡がった騒乱が起き、中国政府の発表では死者21人、チベット亡命政府の発表では200人以上が当局の弾圧で殺されたという。旧正月直後にダライ・ラマ14世がオバマ米大統領と会談したこともあり、当局は民族意識の高まりを警戒している。まだ拘束されている家族や僧侶の解放を求めて、座り込みやデモが行われたという情報も携帯電話から海外に伝えられる。ラサ市内は私服の警官で厳戒態勢だと、Twitterのつぶやきが漏れてくる。3月中は外国人に対する入域許可が出ないという。
◆救いは中国の若者たちによる自転車旅行がブームになっているという話。チベットを「中国化」してゆく政府の功罪を、若い世代の人たちに考えさせるきっかけになればと思う。もちろん私たちも、知恵を使って果敢に「挑んで行きたい。」(落合大祐)
■みなさんはじめまして。2/26の報告会に、初めてお邪魔させていただきました。お茶の水女子大学の竹内詩織といいます。大学は違いますが、早稲田大学探検部に所属し、その後約一年間のイスラエル留学を経て、ただいま就職活動中です。
◆地平線会議を訪れるきっかけは、今回の報告者である探検部OBの角幡さんのブログでの告知です。チベットという土地は、私の初海外の地であり、完全に惨敗した苦い経験のある、色々な意味で思い出深い場所です。そこでの探検! そして報告会! というと、もう行くしかない! となった次第です。とはいうものの、「私なんかが行ってもいいのかな」という気持ちが強く、数えるほどしか会ったことのない探検部の先輩に相談した末の、緊張とドキドキの報告会参加でした。
◆ヤルツァンポー川踏査報告中は、初めはにやにや笑いがおさまらず、最後の方は口をぽかんと開けたり目を丸くしたり、私の顔を記録したらきっと面白いものができるだろう……というくらい、刺激の強い時間でした。まず、どうしてそこでまだ進むんだ?! 普通の人の感覚からしたら“おかしい”行動に、なぜだか嬉しくなって、次にここまで生死の境をリアルに感じたことのある人は、一体どれくらいいるんだろうかと考えたり、ロープブリッジを見つけたときに「助かった」と思える角幡さんって、どんな人なんだろうと思ったり。角幡さんはロープブリッジ発見の際、「腰が抜けるほど嬉しかった」と淡々と語っていたけれど、私には想像を絶していて、一生感じる「嬉しい」の何倍になるかもわかりませんでした。
◆正直なところ、わざわざ自分の命を危険にさらしてまでする行動は、未だに理解できない部分があります。探検部に所属していながら、基礎的な山岳活動しか行わず、文化探求に惹かれて、探検部の活動を休止、イスラエル留学をしてしまった私は、地平線のみなさんがするような死の確率の方が高い探検をすることは、おそらくないだろうと思います。
◆ただ、それに果てしなく魅力を感じ、憧れるのは、すごく素直な自分の気持ちでもあります。“自分が見たことのないものを見たい! それが他の人も見たことのないものだったらなおさら”。これは、私が留学を決めた理由の一つです。だから、もしかしたらのもしかしたら。何年後かには、少し、地平線のみなさんの世界に足を踏み入れていたりもするのかなとも思っています。次の夏はガザから毎日カチューシャが届くイスラエル南部スデロットにでも行こうかしら。
◆最後になりますが、初めて来た私にも友好的に話しかけ、歴史ある地平線通信に寄稿する機会を与えてくださった江本さん、ありがとうございます!(竹内詩織)
■エジプトのサハラに続く砂漠の谷間(ワジ)は、最近化石の谷として有名である。カイロにも近いワジ・ヒタンは「クジラの谷」として世界遺産に指定され、バシロサウルスと呼ばれるクジラの先祖が数多く見つかっている。クジラと言ってもワニのような鋭い歯をもち、前後に足も残っている。水辺で獲物をとらえ、浅い海で生活をしていたらしい。またバハリヤオアシスの白亜紀の地層ではアメリカの大学チームが大々的な発掘をして肉食恐竜スピノサウルスや「渚の巨人」の大型恐竜パラリスタンを見つけている。これはつい最近2000年のことで、その発見記録は「失われた恐竜を求めて……最大の肉食恐竜をめぐる100年の発掘プロジェクト」として発表されている。エジプトはピラミッド観光だけでなく砂漠と化石をテーマにしたエコツアーを推進しようとしている。
◆今回私が参加したツアーは、向後元彦さん、紀代美さんがワジ・ヒタンを訪れて、マングローブ化石をたくさん見つけたことにはじまる。マングローブ植林・研究を30年間続けている向後夫妻にとってマングローブがいつごろからあったか、どんな環境下にあったかを知ることは重要なテーマだった。昨年幕張メッセで行われた「恐竜2009─砂漠の奇跡」では、なんとマングローブの森にスピノサウルスが展示されていた。
◆向後さんは、本当に恐竜とマングローブが共存していたのか? それを自分の目で確かめてみようとマングローブ専門家や私のような恐竜愛好家に声をかけた。さらにエジプト大使夫妻、環境省の元大臣さんも興味を持って応援に来てくれた。もし恐竜とマングローブが一緒の地層から出てきたら、これは恐竜研究にとっては大大発見になる。私もそんな場所に立ち会ってみたいと、老骨にむち打って出かけた。
◆今回目指すところはアメリカ隊が発掘調査をしたバハリヤオアシスとワジ・ヒタンである。カイロから350kmのバハリヤには4輪駆動の車で行くことができる。オアシスには日本人女性が経営するホテルや天然温泉もある。ちょうど100年前、のちに「失われる恐竜」を発見した恐竜探検家ストローマーは多くの苦難のすえにここにやってきた。
◆砂漠の厳しさに敬意を表するかのように最近のエコツアーの4輪駆動車は、砂漠でスタックした時の用心にタイヤの下に敷く板や数日間の野営生活に耐えるような装備を備えている。われらの準備はちょっと心もとないのだが、砂漠経験者も多いので、これでオーケー。私は一人迷子になっても大丈夫なようにひそかにGPSを借りてきた。これは正解。安請け合いした現地の案内人が、場所を見失ったが、GPSを頼りに、砂の中を3kmほど歩きまわって目的の場所を探し出した。今の時代、砂漠を行くのにGPSは必需品だ。
◆バハリヤオアシスから恐竜の発掘地までは砂の中を行く。車は新雪の中を行くスキーヤーみたいに、砂の上を浮いたような状態で進んでいく。ハンドルなど全く役に立たない。さらに最初の砂あらし。そろそろハムシーン(砂嵐)の季節らしい。この日はまあなんとか歩けたが、ヒタンに移動した2日目には砂が飛ぶだけではなく雨が降り、雷も鳴った。テントは入口のチャックが壊れていたので、荷物は水没ならぬ砂没した。当然私は唯一の建物、物置小屋に避難した。今考えればトイレの方が砂除けにはなったかなと思うのだが。
◆砂が飛ぼうが、雷が鳴ろうが、マングローブ化石発見の意欲がまさり、みなさん崖下にたたずんで地層を丹念に観察する。私は、地層のつながりの方に興味があり、どこまで続くかずんずん歩くか、崖を登って行く。恐竜化石が発見された層からマングローブ化石を見つけようという共通の目的があるが、それぞれの方法は違っており、おもしろい。いずれにしても化石ハンターは目と足の体力勝負。
◆幕張メッセでマングローブと恐竜の組み合わせをした富田さんという恐竜探検家が一緒しており、みつけた化石の鑑定をしてもらう。化石のかけらでも一目見るなり「これは何々です」と答えてくれる。あいまいな場合、電子辞書を駆使して同定してくれる。10日間、3か所で観察を続けたが、マングローブ化石らしきものはいくつかあったが、それが恐竜と直接結びつくかはわからなかった。今の時点では華々しい成果はなかったが、私はモンゴルの恐竜化石(プロトケラトプス)の発見以来のぞくぞくするような気分で、うれしさいっぱいのツアーだった。
◆それともうひとつ富田さんのとの出会い。恐竜の生態を知るために家にイグアナを放し飼いにしている。彼は恐竜発掘現場ならどんなにしても飛んでいく。トカゲのえさ代稼ぎのためには、なんでもするというワーキングプア探検家。インディージョーンズの大探検とは違った小探検だが、すごくておもしろい探検家だと思う。地平線報告会で恐竜探検の話とあわせて「犬よりもイグアナの方が頭がいい、恐竜は人間よりも賢かった」という説を聞いてみたい。(三輪主彦 恐竜愛好家)
森井祐介 車谷建太 松澤亮 新垣亜美 江本嘉伸 橋本恵 杉山貴章 久島弘 満州 埜口保男(二次会の「北京」だけ参加も含む)。いつもありがとうございます。ご苦労様でした。
■沖縄の守礼門前を21日に出発した我ら風間率いる障害者チャリダーズも3月9日ようやく静岡入りした。今日の静岡は雨が降ったり止んだりの不安定な空模様。気温は4度。午後からは雪の予報も。行く先の空を見ながらひたすらペダルを漕ぎ続ける。静岡も山梨に向かって走って行くとさすが富士の麓。横目に清流を見ながら、アシスト(電動補助)の有り難さを心から感じる峠道を登ったり下ったり。『運動器』だけでなく『呼吸器』も鍛えられた。そして白糸の滝を目指していると空から白いものが。とうとう雪がチラつき始めた。
◆直後、隊を離れて500メートルほど先に行ったクルーから無線が入り、すぐ上は路面がシャーベット状だと連絡が入る。ギリギリ上がれる所まで上がったが、白糸の滝2キロ手前で終了。自転車を回収し、時間が経つにつれ雪はますます激しくなり、まるでスキー場に向かうような景色と化した。気温はマイナス3度。納得の景色だ。
◆予想もしない自体に、急遽クルーは久しぶりの休息の1日を河口湖にて迎える。ここまでの障害を持つ参加者は74人。アシスト自転車のみならずハンドサイクルや車椅子の参加者もずいぶんいる。走る距離は個々の技量に合わせて変わるがどの参加者も自分の走る距離を精一杯走る。
◆そしてゴールを迎えた時の満面の笑顔。我々サポート隊が走り続けてきてよかった、と思う一瞬だ。その笑顔をもっとたくさんの人に見てもらいたい、スポーツって素晴らしいと感じてもらいたいと思う日々を送っている。(今利紗紀 3月9日)
★追伸:今朝はドサッドサッと雪が落ちる音で目が覚めました。河口湖周辺はすごい雪景色です。この雪でノーマルタイヤの車が小田原まで移動できるのかしら?と心配です。テツと私はスキー行きたーい、とうずうずしています。(3月10日朝)
[注]今利さんは、12月の報告者のひとり。2月20日の朝日新聞「ひと」欄で、「骨肉腫、肺転移、そして日本縦断」との見出しで紹介された。「障害者100人による日本縦断駅伝」のレポーター兼走者として翌21日風間深志隊長らと那覇の守礼門をスタートし、北上している。毎日の行動について「運動器の10年キャンペーン」のブログ(http://bjdcampaign.info/35news.html)に書き続けているので一読を。12日には東京の国際フォーラムで縦断行の前半終了を祝って歓迎セレモニーが開かれる。同日朝には日本テレビ系「ズームイン!!SUPER」生中継(7:40頃〜 時間変更の可能性あり)が予定されている。(E)
■極めて遺憾であり心外であるが、現在トイレで野宿している。トイレで野宿するようになっては人生おしまいだと思っているが、北海道の道の駅のトイレは設備がすばらしすぎる。暖房、パソコンできちゃうコンセント、水道にもちろんトイレ。よく掃除され芳香剤まであり、学生時代の下宿やアジアの安宿より遥かに豪華だ。峠から見下ろすクッシャロ湖の景色も最高だ。外は零下10度以下で、今日の午後は暴風暴雪注意報が出るだろうけど、トイレの中は天国だ。車もほとんど通らないので誰も来ない。ビバークするつもりが誘惑に負けた。そんなことでいいのか? それでも冒険野郎なのか?
◆日本一の透明度を誇る湖は空から見ても神秘的で、気球による摩周湖越えはうまくいきました。高度をかなり上げたので、国後島も見渡せた。次は国後島まで飛ぶしかないな。あそこもロシアの軍事基地があるので、勝手に飛べば打ち落とされる。政治力が必要になりそうだ。確か国後には西牟田さんが行っていたはず。うまくいけば間宮海峡の飛行許可の突破口にもなるかも。
◆無料の露天風呂も冬は貸切状態ですよ。養老牛温泉は夜に浸かっていると、クロテンがすぐ近くまで来て、ライトで照らしても逃げない。かわいいのだな。シマふくろうの重低音の鳴き声にもしびれる。クッシャロ湖畔コタン温泉は、湖は凍っているが、温泉の周りだけ凍ってないので、何十匹もの白鳥が集まっている。
◆気球からは丹頂やキタキツネやウサギも見下ろせた。先週はケニアのアセンボリ国立公園でライオンもゾウもカバもいたが、望遠レンズでようやくみえるほど距離が遠い。サファリカーもたくさんいてちょっと興ざめ。だが冬の北海道は静かで美しく動物たちも近い。すばらしいね。
◆流氷はもう去ってしまったようだ。紋別のハタノ食堂も行きたかったがもう帰る。女満別からの飛行機が吹雪で欠航しなければ、今日の通信の発送作業に行けるかもしれないし、行けないかもしれない。今月も来月も報告会時にはネパールなので、こういうときは発送作業くらい行きたいけど……。ではでは!(安東浩正「野宿党ML」 3月10日朝 美幌峠@北海道プチ自転車ツーリング中)
■皆さんは、花見に纏わる楽しい思い出はおありだろうか。12年前のちょうど今時分、僕は友人に誘われて狛江にあるラーメン屋に何気なく遊びに行った。聞けば、その店の大将は趣味で津軽三味線をやっていて、友人も最近そこに通って三味線を習っているのだという。
◆都会育ちの当時学生だった僕は、休暇を利用してはザックを背に電車に乗り、知らない土地を歩いては農家の畑や山間の宿泊施設を手伝ったりしながら、人との触れ合いを極力重視した行き当たりばったりの旅に没頭していた。それには“今の暮らしに繋がるルーツに触れたい”という僕なりの切実な想いがあったこともあり、この日も興味津々で店に入ると、物凄く江戸っ子気質な大将とすぐに意気投合した。
◆2人は僕に“じょんから節”を聴かせてくれた。音楽好きでありながらも、それまで日本の民謡はどこか取っつき難いイメージがあり、それとなく距離を置いていたのだが、初めて耳にする三味線の生演奏は鮮烈だった。楽器を触ることは全くの苦手であった僕は、初めはただただ感心して聴いていた。
◆ところが、である。その三味線の音色と旋律に聴き入ってゆくうちに、それまで自分の旅先で、歩く道すがら流れるように見てきた風景、畑で土に触れながら聴いていた鳥や虫の声、世話になった方々と夕食を囲んで過ごした家族団欒のひととき、山に沈むまんまるの夕日……、それらがまるで走馬灯のように浮かんでは消えてゆく。言うに言われぬ不思議な気持ちを抱えながらも、その後も夜更けまで日本のこと、旅の話などを熱く語り合った。ひとしきり盛り上がったところで大将が笑いながら一言、「お前もやれ」。店の外の桜は満開を迎えていた。
◆翌日の土曜日、3人は多摩川の溢れかえる花見客の渦のなかにいた。三味線を持って。戸惑いを隠せない僕に「演奏に合わせて、チンチロやってりゃあいいんだ」とのざっくばらんな説明があるや否や、いきなり演奏は始まった。全長2kmと続く土手を端から端まで流して歩くのである。僕はたった2つの音を外さないように繰り返すのが精一杯だったが、ふと顔を上げると皆酒を呑みながら桜と音色に酔いしれて笑っている。曲が終わると、2,30m風下で音を聞きつけた宴の輪が手招きして僕らを呼んでいる。そんな風にご馳走になりながら転々としてゆくうちに、辺りはすっかり夕暮れになっていた。
◆どこまでも続く桜にぼんぼりが灯り、眼下には川がゆっくりと流れている。“一体ここは何処なんだろう!?”タイムスリップでもしてしまったような感覚。僕は完全に酔っ払ってはいたのだが、紛れもなく日本の唄の原風景のなかにいた。東京にいながら、田舎の旅でしか触れることの出来ないと思っていた人々との交流がそこにはあった。かくして、僕の三味線デビューは酒と桜と笑顔のなか無事に幕を開けたのであった(開けてしまった!?)。
◆花見の三味線流しはその後5年間続いた。本場津軽の師匠に弟子入りし幾度も通うなかで、本来の唄のなかにこそ、その土地を生きる人々の切実なものが流れていることを痛感し、やがて唄は僕のなかで世界を見つめる上での大切な指針となっていった。“自分の広げてきた世界を皆で共有すること”。これは地平線会議で教わった。いつしか三味線は旅の杖となり、演奏に自分の伝えたい想いを込めることで、巡り逢える人々と分かちあうことの出来る大事なツールとなっている。
◆最近ようやく演奏でお金を頂けるようになった。毎年、満開の桜を見上げる度に人生の不思議さを感じてしまう。もし三味線との最初の出逢いがあれほどまでに絶妙で強烈でなかったら、今まで三味線を続けることはなかっただろう。これからも“世界は唄でつながっている”という想いを胸に、自分の道のりを昇華させてゆきたいと願っている。(車谷建太 津軽三味線弾き)
■地元の江戸川区南葛西の和太鼓チーム「なぎさ太鼓」が20周年を迎える。スタートの頃から参加しているが、最初は隣町から借りてきた和太鼓1基と練習用に古タイヤにゴム皮を張ったものが数其あっただけで、本物の太鼓に触れられるだけでもドキドキした。その後、全国津々浦々ドサ回りを経た結果、今では和太鼓数十其と、風神雷神が描かれた巨大太鼓(近所の寿司屋のおじさんが絵付けしてくれた)や締め太鼓(甲高い音が出る小太鼓)や鳴り物など揃うまでになった。
◆毎週末に準備して練習して片づけて、帰り道に酒盛りして、夏に納涼祭がやってくる。これまでたくさんの人が仲間に入ったり出たり、色々な人生模様が交錯した。誰もが昔より大人になったのにみんな全然変わらない感じもするけれど、仲間に赤ちゃんがたくさん生まれてすくすく大きくなっているのでちゃんと時間が流れているんだなあと思う。
◆小学5年生の夏休みに、地元のなぎさニュータウンの管理棟で親友が太鼓を習っていたのを見かけて、中からおいでよと呼ばれ、その時一緒に遊んでいた弟と参加した。すでにキャリアがあった2才年上のお姉さん4人組の「流れ打ち」という演目が華やかでまぶしかった。小学生から見ると中学生は、足も長く、骨格もしっかりしていて、同じ未成年なのにおじさん達の宴会に参加してお酌してたりして、私達とは一線を画したオトナに見えた……。演奏も迫力があり彼女達みたいに早くなりたいのに、隣町から来てくれる太鼓の先生(平日は大工職人)から命じられるのは基礎練習ばかり。両足を大きく開き腰を低く落とす姿勢で足がしびれ、腕は燃えるようにほてり遠心力で根元からもげそうになる。練習翌日は筋肉痛でよたよたと学校に行く。でもいつか「流れ打ち」をやりたい! それが私達同年代の女の子5人組の共通の夢だった。
◆私が中学校を卒業する頃、お姉さん達は高校生活で忙しくなり、花形演目の「流れ打ち」をついに自分達が演奏できる時がきた。横並びにした和太鼓で流れるように色々なリズムをたたき、1人ずつ複雑な技を披露して、終盤はスピード感が最高潮に達して一気に終わる。不思議な力のある演目で、仲間と自分の存在が一体化して空気の粒子がキラキラ見える気がする。高揚して意識も飛んでいく。ずっとこの演目に恋焦がれてきたぶん、お客さんの心にも響いて必ず盛り上がる。地元や国内外の祭りやイベントで何度もたたいてきた。
◆社会人になると私は地元を離れて時間がなくなり、以前のように頻繁に練習に通えなくなった。5人組の他の仲間も結婚や子育てや仕事で大変になった。そうやってだんだん離れていくのかもしれないが、気になるのは下の世代の子ども達のこと。先生から直接指導を受けた最後の世代が自分達で、次の世代の子は年齢が離れて多くがまだ小学生。先生がいなくなり仲間内で指導し合うようになった今、彼らに技を伝えきらなくちゃという思いがある。「流れ打ち」は24以上の独特の技を習得する必要があるからだ。
◆2年前の浜比嘉島のあしびなーに行けてよかった。「継承」というテーマにも強い関心があった。島の青空の下で子ども達が広場いっぱいに広がって踊っていたパーランクーを見て、うわあすごいなあ!と思った。きれいな衣装に身をつつんだ子ども達と、彼らを熱く見つめていた大人の先生達。踊りが脈々と受け継がれていて、人口の多い少ないに関らず、そこに暮らす人たちが積み上げてきたものがリレーのように確実に未来につながっていることに感動した。
◆去年は練習にほとんど出られなかったので、夏祭りの太鼓を観客の立場で見に行った。夕方の本番舞台で、小学生を含む女の子5人組が、きゃしゃな体で「流れ打ち」を演奏し始めたので、いつの間にできるようになったんだろうと驚いた。聞くと、昔の演奏ビデオを何度も見て、他の大人メンバーと一緒に研究したと言う。まだぎこちないけれどこれから自分達のものにしていくんだろうな、もう私達は「流れ打ち」を完全に卒業したんだなあと、嬉しくて少し淋しくもあり感慨深い気持ちになる。浜比嘉島の皆さんにも報告したくなった。まだ歴史のすごく浅い私達の太鼓ですが、やっと次の世代につながりました〜! 夏祭りの夜風がよけい心地よくビールが美味しかった!(人生も30周年 大西夏奈子)
■野々山君は毎年2月に新宿にやって来る。屋久島でネイチャーガイドをしている彼は、シーズンオフの冬になると1週間ぐらいは東京で飲み続ける。毎日毎日違うメンバーと会うので、1週間飲み続けるらしい。新宿で会う彼は、身なりはまったく構わず、冬なのに足元は便所サンダルだった。最近の新宿のホームレスの方がよっぽどこざっぱりしている。
◆それが、一昨年の2月は違った。ピシッとしたYシャツを着ている、髪を黒く染めている、そして靴を履いていた。どうしたのかと驚いて訪ねたら、彼女ができたという。その彼女と結婚するために、浴びるように飲んでいた酒も慎み、小奇麗になり靴も履いたのだそうだ。遅れて居酒屋にやってきた彼女が直子さんだった。短大を卒業後OLとして働いた後、理学療法士を目指して専門学校で勉強している直子さんは、探検部関係者の破廉恥な飲み会に全然動じなかった。
◆最初私たちは、野々山君の良いところをつとめて話していたが、酔いがまわるにつれて、失敗談や笑い話が止まらなくなってしまった。でも彼女は、「野々山さんは野々山さんですから、私がいつまでも面倒みます」と一切かまわない。いい彼女を見つけたと思った。
◆ご存知のように、野々山君は駒澤大学探検部出身、長江源流域航下隊に参加して以来、農大探検部との繋がりも深い。一時は農大生よりは農大生らしいと言われていたし、その宴会芸は知る人ぞ知る、ものすごいものだ。詳しくは書けないが、「焼畑」は火を使う危険な芸だ。今回のパーティで酔った新郎がその芸を披露するのではないかと心配していたが、会場が火気厳禁で本当に良かったと思っている。
◆その後、「怪獣モケーレ・ムベンベ」を探しにアフリカのコンゴへ行ったり、NGO「緑のサヘル」のスタッフとなってチャドでカマド造りに励んだこともあった。現地の人にとても人気があって、「nono」と名づけられた子どもさえいる(野々山君の子どもではない)。
◆緑のサヘルの日本一周サイクルキャンペーンで屋久島にたどり着いたのが1995年、そのまま島で暮らしている。ネイチャーガイドとしてとても評判がよく、昨年の9月には「縄文杉行9連戦」を敢行した。朝4時に客をホテルに迎えに行き、縄文杉まで往復22kmを10時間で歩くツアーを9日間も続けたのだ。その体力に脱帽である。
◆今年の2月は、そう、27日に東京都庁45階のカフェで野々山富雄君と澤田直子さんの結婚披露パーティが開かれた。160人も集まったのはやっぱり野々山君の人柄なんだと思う。各大学の探検部OBをはじめ、地平線会議、NGO関係、子どもキャンプ(若い女性がたくさん来ていたが、キャンプに参加した子どもたちが大きくなったんだそうだ)が二人の結婚を祝福した。ネパール舞踊あり、農大の大根踊りあり(野々山君は真ん中で踊っていた)で、和気藹々と楽しいパーティだった。
◆これからは、野々山君はネイチャーガイドとして、直子さんは言語療法士として屋久島で生活していく。直子さんの仕事を通して見た屋久島の話が楽しみだ。来年の2月は二人で新宿に呑みに来て、屋久島での新しい発見の話しをしてほしい。(本所稚佳江 農大探検部OG)
■前号で塚田恭子さんがカレーの話題を書いていたので、私からも。
◆実はこのところ我が家ではレトルトカレーがちょっとしたブームだ。事の発端は一昨年のGWに能登半島へツーリングに行った時のこと。立ち寄った道の駅で「氷見牛カレー」(富山県氷見市)なるものを見つけた。レトルトカレーなのにたしか700円ぐらいした。その値段の高さに、こんな高いの買えるかと思うと同時に、こんなに高いのならそれなりにおいしいハズ、という思いも生じた。で、ちょっとしたおやつをそこで食べた後、やっぱりせっかくだから買ってみるかとその売り場に戻った時、それはなかった。えっ!? 10箱以上はそこにあったハズなのに。店員さんに聞いてみたら、団体客が来てあっという間に売り切れとなり、在庫もないという。あぁ、最初に心をくくって買っていたら…。
◆そんな事件がきっかけで、旅先では目についたご当地レトルトカレーをポツポツと買うように。昨年11月に用事で大分県までバイクで高速を往復した時は、現地滞在も短かく、なにか楽しみの要素を入れたかった。そうだ、普段は必要最低限しか立ち寄らない高速のSA・PAに立ち寄ってお土産でも物色するか。ETCを付けて高速代も激安だし、高速走行中の宿は¥0のテント泊だし。
◆そんなこんなで見るだけでも楽しいが地域限定や季節限定に実は弱い私、お土産をこの時、バイクの荷台にあふれんばかりに買った。そのお土産の中にも当然レトルトカレーは入っていた。そして、この年末年始に出かけた東北旅行は、珍しく車だった。荷物がいっぱい詰める、車…。全部とは言わないが、だいたい目についたレトルトカレーは買いまくった。買いまくり、まで至ったのは、今年早々から私の仕事が超忙しいということが明瞭で、稀に家にいられる時には夕食作りに時間をかけてる時間が惜しい、でも、これだったら簡単だし、ダンナと一緒に旅の思い出と共に楽しく食べられるぞ、という理由もある。
◆かくして今まで買ったご当地レトルトカレーは、山形:いも煮(実は今晩これを食べます)、山形:さくらんぼ、山形:ラ・フランス、山形:米沢牛、岩手県陸前高田:ヤーコン、青森:ほたて、青森:にんにく、岩手:前沢牛、鹿児島:鹿児島ラーメン豚とろ白カレー、岡山:桃、熊本:レンコン、山梨県道志村:クレソン、など他にもたくさん。各地域の特産品を素材に使っているのがミソですね。一番ウケたのは、最近ダンナがツーリング先でお土産に買ってきてくれた水戸の納豆カレー。ちゃんと「だるま食品」という納豆メーカーが作っているのだが、パッケージがイマドキの萌えキャラ。パッケージの裏には、「ドジッ子メイドなとか」(「なとか」って納豆カレーをもじったネーミングだ!)のストーリーが載っていて、最後は「続く」で終わり、さらに中にはイラスト付き「なとかの納豆カレーレシピ」のカードが入っていて#2とか番号がふってある。これ、その手が好きな人は、コンプリートしようと次々と買うのでは。いや〜、商売うまいなぁ。味? カレーと納豆は合う、と思った! 私は萌えキャラとは関係なく、これはおすすめの一品。
◆それにしても、ここまでご当地レトルトカレーがある国って、日本しかないんだろうな。日本てこういうところが凄いぞ、と思う。
◆ちなみに、冒頭の氷見牛カレーをネットでちょっと検索してみたら、2008年にTVでギャル曽根さんがご当地レトルトカレーの中で一番とランクし、そのおかげで品薄状態が続いているらしい。果たしていつの日か私がこれを手にする日が来るのだろうか? ちなみにネットでは買いません、今のところは…。(旅する主婦ライダー・もんがぁ〜さとみ 3月4日)
■はいさい、前にも書きましたが浜比嘉島はじめ、橋や海中道路でつながれているこのあたりの4島の小中学校を廃校にしてまとめて統合させてしまおうということをうるま市教育委員会は計画し、さっさと2月の議会にあげようとしていましたが、そのあげるかあげないかを決める教育委員の会議を傍聴してきました。
◆結局会議では「教育委員会としてはやるべきことはすべてやりつくしたが地域の皆さんがこんなにたくさん傍聴にきたことからもわかるように、いまだ地域の理解を得られていないようだから今後住民説明会などを重ねて行き理解を得るようにしていくということで今回の議題は継続審議とする」という結果になりました。
◆まあ、要するに廃案や修正案にはならず先延ばしをされただけで、私は大いに不満でこの先も不安で一杯な気持ちだけでしたがとりあえず2月の議会に提出されることは阻止できました。でもまだまだ安心はできません。私はなんとかこの島しょ地域の学校を「地域の特色を生かした学校」ということで特区に指定させ学区外からも生徒を入れられるようにすれば子供は絶対に増えると考えています。これは文科省も推奨していることです。
◆まずは廃校ありきで進めるうるま市教育委員会のやり方を白紙に戻す手だてはないか。思案のしどころです。教育委員の人は「やるべきことはやり尽くした」と言っていたけど教育委員会はやるべきことはほとんどやってません! その進め方のずさんさの事実を明らかにしていくという手も考えています。
◆これからも四島がスクラムを組んで子供たちの学習環境を守るために行動し話し合いを重ねていくことになっています。こんなことがなければ4島が集まって知恵を出し合うなんてことはなかったでしょうし、地域の人も学校の大切さをあらためて感じ関心を持つことになったいい機会と思います。ピンチをチャンスと思って、及ばずながら私たちもできることはどんどんやっていきたいと思っています! この島から子供たちの笑い声が消えないように!
◆さてそれはさておき江本さん、先日はわざわざ心配して電話をいただきありがとうございました。いやー沖縄で震度4(糸満は震度5弱)の地震に続き、2日連続の津波警報! まず土曜日明け方の大きな地震。隣のにいにいの話ではこんな大きな地震は30年ぶりとか。みんな怖かったと言ってました。かなり長く強く揺れましたよー。そのあとは津波注意報が出ましたがすぐに解除になりました。でも勝連城が一部崩れてしまいました。
◆うちの前で近所のおばあが「チリ地震の時はこの道が潮でいっぱいになったさあ」と言ってました。そしたら! その日の午後にホントにチリで地震とニュースでやっているではないですか! そして翌日、またまた津波警報が発令され午後には海中道路は通行止めになり避難指示が発令され島の人はほとんど比嘉小学校に避難しました。
◆私達は取り急ぎ犬たちを連れて牧場へ。預金通帳や三線も持ち出しました。そして牧場の上の高台にあがり津波観測しようと待ち構えました。鎌田君も猫や馬たちを連れて来てました。昇はラジオの他懐中電灯、カップヌードル、お湯ポット、着替えなど持ち、鎌田君は一晩過ごせるようにシートや防寒着を持参してました。上から海岸見てましたが大きな変化はなかったけど不自然に潮位が上がり下がりするのはわかりました。
◆私は暗くなる寸前に犬たちと下山しましたが鎌田君と昇は海からあがってきた満月を眺めながらしばらくのんびりしていたみたい。9時前には家に戻って来ました。また避難場所の比嘉小学校では弁当が配られたようでしたがまもなく避難指示は解除されみんな家に帰ってきたみたいです。夕方の時点で最大90センチの潮位の上昇があったと聞きましたが特に被害はありませんでした。
◆翌日、聞いたら海んちゅは港にいたらしいし、なんと一部の人はうちで平然と年祝いをしていたという!(てっきり避難していたと思っていた昇のお父さんも実はお祝いの宴に参加していたらしい)まあ何事もなくてよかったです。(浜比嘉島 外間晴美)
■沖縄を旅した。テーマは阿麻和利。「踊る大地平線」のステージで「ダイナミック琉球」を踊ったときから、いつか「肝高の阿麻和利」の舞台を見たいと思っていた。県外公演ではなく、「きむたかホール」で。そして願わくば、卒業公演を。
◆「肝高の阿麻和利」は、うるま市の中・高校生が集まって作り上げる組踊の舞台だ。組踊というのは、音楽・舞踊・台詞を混ぜ合わせて物語を演じていく沖縄独特の演劇。「肝高の阿麻和利」では、勝連の王様、阿麻和利の生き様を地元の子供たちが演じている。今年の卒業公演は、2月19日(金)から21日(日)の3日間、昼と夜で計5公演が行われた。私は、土日の夜の2公演に行くことにした。
◆沖縄を訪れたのは、浜比嘉島の「ちへいせん・あしびなー」以来、2回目だった。いわゆる観光や買い物にはほとんど興味がないので、どこで何をしようか悩んだ末、読谷に向かった。読谷には、阿麻和利の墓がある。那覇から路線バスに揺られること70分、古堅小学校入口というバス停で下車。本格的にお墓を探す前にコンビニに寄ってトイレを済ませ、買ったシュークリームをむしゃむしゃ食べながら歩いていた。さあ探すぞ!と気合を入れていたら、あれ?もしかしてあそこ?と思わせる茂みを発見。むしゃむしゃやりながら近寄るのはなんだか失礼な気がして、急いで食べ終え、口をぬぐって茂みに踏み込む。石碑には「阿麻和利の墓」。拍子抜けするくらいあっさり見つけてしまった。
◆実は沖縄の歴史を勉強することもなく、阿麻和利の物語を予習することもなく、まず、ただ、お墓に行ったのだ。見つけたお墓はなんだか墓らしくない。これが墓なのか?本当にそれでいいのか?という思いを抱きつつ、4kmほど北にある座喜味城へ向かう。時間切れで、結局道路から城壁を見上げただけで座喜味城を後にしたのだが、城を目指す途中で目にしたお墓の立派さに驚くにつけ、阿麻和利の墓が本当にあれだけなのか?という疑問はぬぐいされない。聞いた話によると、沖縄の人は生きている間に住む家よりもお墓にお金をかけるのだそうだ。
◆その日、泊まることにしていたのは安慶名の民宿。自分ひとりの夜はテント泊もありだと思っていたのに、お金を払ってまで民宿に泊まったのは、そこがとても安かった(1泊2食で4500円)こともあるけど、宿のおっちゃんが沖縄のことをいろいろ話してくれるとwebに書いてあったからだ。沖縄の歴史も、どこを訪れてみるといいかも、おっちゃんにいろいろ教えてもらおう。そして翌日の行動を決めればいいと思っていた。
◆行ってみると、おっちゃんは期待していたほどのおしゃべりではなかった。「観光か?目的は?」「肝高の阿麻和利を観に来た」「ああ、明日も阿麻和利を見に来るお客が泊まるが、それにしてもアレは高い。プロと同じくらい金を取る」。どうやらあまりいい感触を持っていないらしい。私がバスと徒歩で旅行していると言うと、「沖縄では車がないとどうにもならんよ。バスと徒歩でどこかへ行くと言ってもなぁ…」とおっしゃる。ネガティブなおっちゃんやなぁ、なんて第一印象を抱きつつ、内心残念がる私。それでもいろいろ聞いてみる。期待しすぎていたかなと諦めかけた頃、別のお客が帰ってきた。
◆この客が大当たり。定年退職した60代男性、といったところだろう。このお方がたいそうな話好き。この人のテーマは沖縄の離島で、なんと今回の旅で離島めぐりが終わるのだという。一体いくつあるのかと聞いたら、離島の定義の仕方で数が変わるけれど、自分が目指すと決めた離島の数は47とのこと。このお方の離島めぐりのモチベーションのひとつが旅の記録をwebで発信していくことで、書くために地域・風土・歴史などをたくさん調べるのだそうだ。おかげで彼の沖縄知識といったらすごいものがあった。
◆この旅のお方も翌日の阿麻和利公演に行かれるとのこと。さっそく、肝高の阿麻和利にまつわる歴史的背景について教えてもらった。宿のおっちゃんもここで本領発揮。宿のおっちゃんはこのあたりの観光ガイドもしている人なので、歴史的な知識が頭の中で整理整頓されていて実に分かりやすい。この2人のおっちゃんの事前講義のおかげで、初めて観た「肝高の阿麻和利」が非常に分かりやすくなった。この旅のお方とは、ここには書ききれないたくさんのお話をしたが、一期一会だからこそ聞けたのだろうという話もあった。旅というものは面白いとあらためて思う。
◆さて、不勉強のまま踏み込んだ沖縄4日間の旅。思いがけない出会いと、その後合流した地平線の仲間たちのおかげで訪れることのできた場所は4日間で次のとおり。阿麻和利の墓。座喜味城。安慶名城。勝連城。中村家住宅。護佐丸の墓。うるま市四島の小中学校統廃合問題の現状を見たくて平安座島、宮城島、伊計島。伊計島では共同スーパー、伊計小中学校、地元の人ですら行ったことがないという伊計グスクを(探し出して)訪れた。そしてメインの「肝高の阿麻和利」卒業公演。公演については、肌で感じるものだと、観てなおさら思ったので、行ってみてねと一言だけ。
◆普段、会社勤めをしながら過ぎていく4日間と、阿麻和利をテーマに巡った沖縄の4日間が、同じ4日間とは思えなかった。旅はいい。そして、歩く旅が面白いとあらためて思う。沖縄で、歩いて巡っている人に会うことは少ないのかもしれない。あっちに行こうと方角だけを定めて進んでいくような歩き方をしていたのだが、そんな中で出合ったサトウキビ畑、その収穫の様子、子供たち、おばあ、沖縄には珍しいホームレス、新旧の建造物などなど。たった4日間でも本気で書いたら簡単な小冊子が作れるぞと思った。たまにはこういう旅をしなくちゃね。(岩野祥子)
少し旧聞だが、第14回植村直己冒険賞は、11年かけて自転車で地球を2周した兵庫県川西市の中西大輔さん(39)が受賞。
■自然から、すべて自分達の手で作る。このコンセプトに惹かれたわたしは「黒潮カヌープロジェクト」に参加し、棕櫚の樹皮で約80メートルの強靭な縄を作った。その縄は一昨年の冬、探検家に手渡され、飛行機でインドネシアに渡り、昨年の夏、今度は舟で日本に向かっていた。舟の舵と本体をつなぐ、とても重要な役割を担って。
◆それから半年経って、わたしはいま雪国・山形の農業生産法人に勤めている。農閑期の冬は8時出勤。仕事場の作業小屋に着いたら、まずストーブ用の薪を準備。それから床を箒で掃いて、掃除を終えたらPCの前に座り、東京本社へあてる日報を書く。
報告者:ガールズ農場 田中里子 報告日:2010/03/04●今日のトピックス
ほうれん草・小松菜収穫、出荷(道の駅)。毎日、むらやま道の駅にほうれん草20袋と小松菜を5〜10袋出荷しています。ほうれん草は毎日完売しているので、30袋出荷に変更。しばらく続けて、様子を見ます。
★ミニトマト各種(イエローアイコ、イエローミミ、メグちゃん、トスカーナバイオレット、チェリーゴールド、スノーホワイト、グリーングレープ)、ひとりじめすいか播種。
★なす畑用の土準備。籾殻燻炭、牛糞堆肥、ホタテ殻、焼土を混ぜ合わせた。
★里芋企画書
●問題点 ほうれん草ハウスに雑草がはびこり、収穫するのに雑草が生えていない状態の倍以上の時間がかかります。◆ ◆ ◆
■手で何かを作る事が好きで武蔵美に入学。こどもの頃から手を動かして、ものを作ることが好きで、将来は何か「作る」ことを仕事にしたいと思っていた。大学では染織を専攻したが、良い品物は既にデザインされ、生産されていた。そこで更に新しいものを考えて生み出す行為に、思ったほど熱くなれなかった。しかし「作りたい」という理由の無い欲求は確かにわたしの中にあり、欲求には従うべきである。
◆就職活動もせず、「何かないかな」と、ぼんやりアンテナを張っていたときに出会ったのが今の会社「山形ガールズ農場」の社長であった。「農業のイメージ改革」をスローガンに掲げるこの会社は、社長も私も含めて20代女性3人だけの農場。「何か作りたいけど、無駄な物を生み出したくない」という考えの私には、農業という仕事はうってつけのように思えた。
◆今は忙しくもないが、春・夏・秋と仕事はハードだ。朝は6時から、夜は日没と共に仕事も終了かと思ったら、夜は夜で市場出荷用のナスの箱詰作業やほうれん草の袋詰め、経費精算などの事務作業、「農家は大変」というのは嘘ではなかった。どんどん成長する野菜の収穫に追われ、収穫したら出荷しないと! のループで心の余裕はどこへやらの繁忙期。これだけ働いても、資金繰りに余裕はない。ある程度の量は作らないと、やっていけない農家経営。農業ど素人の私は、次から次への師匠(その道30年の、社長の父)の指示に従って、作業するのが精一杯。
◆長い目で見れば、循環農法が自然にも人間にも一番良いのはわかっている。農薬は基準値を守れば消費者には問題無しとされている。しかし、農薬を扱う農家自身は、自身が散布する農薬を直に吸ってしまう。更に、田畑に使われている農薬はすぐ近くを流れる最上川へ流れていく。この地区で近代農業が始まってから約40年経つ。「最上川の魚が死んだとか、農薬のせいでこの辺りに被害が出たのを聞いた事は無い。基準を守って農薬を使うのは必要な事。」と、28年間この土地の農家の娘をやってきた社長は言うが、何十年も後に影響が出てくる可能性もある。農薬使用基準は、そこまで考慮しているのかどうか、疑問だ。しかし農薬を使い、安定して野菜を生産することは、彼女や彼女の家族は生きて行くために確かに「必要な事」であった。今では私の生活のためにも、必要な事なのである。
◆そして、多くの農家の安定生産が、自給自足している人以外のみんなの生活を支えている。普通の農家さんこそ日本のお母さんなのだ。ごく個人的な、つくることへ探求のために農業を始めた私の前には今、そんな「農家の現実」がでーんと横たわっている。農業界で赤児同然の私は、もはや与えられる母乳を飲むしか無い。というのは言い過ぎだが、自分の思うような「制作」は到底できず、正直戸惑っているというのが現状である。
◆生きて行くための、さまざまな“ものづくり”のかたち。今私がいるのは、生活の為の“ものづくり”の現場だと考えている。航海の為に、何本かの棕櫚の木の皮を剥ぎ、それを解し、撚り、縄をつくることは、言ってみれば生きる為に今、まるで必要のない“ものづくり”。しかしその、一見して徒労にも思える過程には、「やる」ことでしか得られない実感が、確かにあった。(田中里子)
関野吉晴とムサビ生たちの壮大なカヌーづくり!
ルールは一つ。「自然から自分たちの手で」
「僕らのカヌーができるまで」 劇場ロードショー決定!■2010年4月17日(土)〜30日(金)
◆ポレポレ東中野にて20時50分よりレイトショー開催
前売り券/1,200にて絶賛発売中!(当日一般/1,500)★次回3/26(金)の地平線会議で出張販売を予定しています
チケット等に関するお問い合わせは
info@bokuranocanoe.orgまで(http://bokuranocanoe.org/)〈関野吉晴特別対談〉
4月18日(日)長倉洋海 写真家
23日(金)大島新 映画「シアトリカル」監督
24日(土)山田和也 映画「プージェー」監督
25日(日)江本嘉伸 ジャーナリスト
28日(水)江藤孝治 本作総合演出※上映終了より開始 23時10分頃終了予定
■ご無沙汰しております、恩田真砂美です。2月中旬に韓国へ氷登りに行ってきました。一昨年の2008年夏にペルーの山を登りながら、さらに美しい山に登りたくなってはじめたアイスクライミング。今年2年目です。中国やパキスタン、インドやモンゴルの山々にはスケール感と土地の文化に大いなる魅力を感じていて、正直なところ技術的な難しさを追求したいと思ったことはなかったのに、ペルーの山々の美しさに出会ってから考え方が変わりました。あの山々の美しさときたら、氷技術なくしては語れないものがあります。
◆去年の冬は、最新の技術を学ぶためコンペクライマーのメッカである八ヶ岳の赤岳鉱泉や六合村の人工氷壁に通いました。アイスクライミングの分野は、ここ数年で大きく成長したスポーツで、道具から登り方まで飛躍的に変化しています。その技術的な先端にいるのがコンペクライマーで、気さくな彼らから実に多くを教えてもらいました。
◆そして、去年は高価なギアをより安く入手するため韓国にも行ったのですが、たまたま入った定食屋のおかみさんが、なんとクライマーかつ日本語が上手な女性。買い物目的だった私を、外の人工氷壁へ連れて行ってくれ韓国アイスの洗礼を受けたのでした。韓国は健康志向とあいまって登山人口が多く、それに比例してアイスクライミングの人気も高いようです。
◆冬にはコンペがいくつか開かれ、各コンペに100人もクライマーが集まると言われており(日本は30人くらいの規模です)、今年2月にルーマニアで開催されたアイスクライングの世界選手権で優勝したのは男性、女性とも韓国のクライマー。明らかにアイスクライミングに関しては日本よりも韓国が優勢で、来年1月には世界選手権がアジアで初めて韓国で開催されることが決定しています。
◆私は韓国に続いて、去年夏に南半球のニュージーランドでSteep Ice講習を受けましたが、講師がスコットランド出身だったこともあり、イギリス式トラッド(岩や氷など自然物に自分で支点を作りながら登る)の流れを汲む講習会でアルパインアイスの初歩技術を学びました。その後ザイルパートナーを探していたところやっと氷を登ってもいいよという奇特な女友達が見つかって、今年の冬は二人で試行錯誤しながらアルパインアイスの超初歩から登っています。
◆でも、自分たちの力だけで登ることになると、なかなか思い切ったことができないため、技術的なテコ入れが必要だと考えて今回再び韓国に行くことにしました。去年出会った韓国の太(テ)さん(50代女性)と田(ジェン)さんに相談すると、二つ返事でつきあってくれることに。彼らとは5月の立山に登りに来た時、そして田さんが秋に東京に遊びに来て以来です。今回は2か所の人工氷壁に連れて行ってくれるということで、空港から直接現場へ向かいました。
◆韓国には、川から水をポンプで汲み上げて作られる人工氷壁がいくつかあります。まずはソウルから南へ約200キロのところにある韓国最大のソンチョン氷場へ。高さ最高80メートル、幅100メートルの規模で、週末にはなんと400人も集まるとか…。利用料は1万ウォン(約800円)、直接施設には支払わず、地方で発行している商品券を事前に購入し地元でお金を落とすようになっています。建設費を自治体が負担し、地元にとっては大きな観光資源のようです。
◆登り始めると田さんから「去年教えてあげたN-Body(身体をNのかたちにしてクライムする韓国式の登り方)が全くできてないじゃない」とダメ出しが。とにかく何本も登り込みです。夜宿(オンドル雑魚寝)に帰ってからは、道具に関する疑問について質問攻め。3日目はソウルから東へ約100キロのところにあるパンデ氷場へ移動。ここでは垂直の氷を、田さんのリードで登らせてもらいました。斜度が垂直に近い氷は技術的に難しく、N-Bodyや最新のギアで登らないことには消耗が激しくて100メートル登りきるのはかなり厳しいことを身を持って理解できました。太さんからは「去年より格段に上手になったね」とお褒めの言葉が…。自分の持てる力で一歩ずつ技術を上げていくと同時に、たまに厳しいルートに出るのも、技術を上げていく上では必要。つきあってくれた友達に感謝です。
◆ところで、1月の谷口けいさん報告会に参加できなかったのはとても残念です。昨年暮れ日本山岳協会での報告を聞いて感激し、各国にちらばる山の友達に「技術と人柄を兼ね備えたすばらしいクライマーだよ!」とメールを送った私でした。以前からけいさんの功績を知っていたのですが、直接話を伺うとそのすばらしさがわかります。地平線ではさらに幅広い話が聞けたようですね……。貴重な機会を逃しました! 江本さんの『岳人3月号』の記事で知ったのですが、今年はピオレドールの選者としてシャモニへ行かれているとか。けいさんのような日本人の存在が、広く世界に伝わるのは本当にうれしいですね!(恩田真砂美 アイスクライマー)
先月の通信でお知らせした後、通信費を払ってくれた方々は以下の通りです。通信費は年2000円です。数年分まとめて払ってくださった人もいます。万一、記録漏れがありましたらご指摘ください。
■新堂睦子 吉竹俊之 西嶋錬太郎 新垣亜美 北村昌之 小関琢磨 笠島克彦 加藤千晶 大槻雅弘 虎谷健 稲見亜矢子 辻野由喜 寺本和子 網谷由美子
■今冬は中止したけれど、それなりに感慨深い旅だった。話がややこしくなるので順を追って説明したい。2月上旬、カナダ中央平原北部に入る。ところが現地は暖冬だった。2月の最低気温がマイナス36℃。この地では冬季とはいいがたい。こんな甘っちょろい条件下で踏破しても価値ねえ。勝算が3割以上あったら、挑戦ではなく単なる作業だ。いずれにしても、厳しい条件下での踏破という当初の目的は実現できない。現地入り直後にそうかんじたものの、中止決定までには日数を要した。
◆北の町での激しい葛藤、そして外こもりがはじまった。遠路はるばるやってきて何もせずに帰国するのはもったいない。いや、安易な条件下で「○○踏破」の結果を得たところで、ジレンマが膨らむだけ。寝ても起きても、心はこの2つを動きつづける。ストレスは日に日に増大。ストレス緩和のために、コーヒーを何度も飲みポテトチップをボリボリ食べつづける。東京より物価の高いカナダ北部だが、なぜかコーヒー1杯が約100円、ポテトチップ大袋250g入りも約100円と安い。コーヒーとポテトチップが主食という不健康な生活。日に日に頬がこけてゆく。この調子で廃人と化してゆくのか。さらに自殺に追い込まれるのか。太宰治の世界を思った。
◆外こもりは堕落だ逃避だとよく批判される。しかし身体が前へ前へ(上に上に)と望むほど、心は内へ内へ(深みへ深みへ)と向かうようだ。相当なエネルギーを要する。すくなくとも夏の富士山を毎日連続で登るよりはハード。とにかく悩みつづけること10日間余。やっぱり中止となった。
◆でもせっかく来た。少しだけ出かけてみよう。雪の上を自転車で何日か走った。でも、予想どおりだった。簡単すぎて、退屈すぎて、ドラマが起きない。もちろん暖冬とはいえ極寒の地。それなりの苦労はある。でも、しょせんは時間と暇と少しの努力で達成できる、大変だなどといって欲しくないていどの大変さしかない。このていどの挑戦なら、身体がボロボロになってからでもできるわな。
◆酷い凍傷でひと冬のほとんどを入院と通院に費やしながらも行動をつづけた2年前の冬。完治せぬ凍傷が再発しスタート初日に救急車が出動した昨冬。あのときの熱き思いはまったくなかった。結果的に、自分のなかで『平凡すぎる旅ベスト3』?「オーストラリア自転車横断」「ユーコン河カヌー下降」、そして「今冬のカナダ中央平原北部自転車旅600km(あとで計算したらいちおうそれなりに踏破していた)」?が完成しただけだった。
◆じゃあ、今回の旅は外こもりしにいっただけ? そんなことはない。たしかに踏破においては、感動も成果もなし。でも、少しだけ出かけてみよう、と訪れた先住民の村での居心地はよかった。
◆村はずれにテントを張って滞在した。朝になると誰かしらがやってくる。「寒くないか?」「コーヒー飲みに家へ来ないか?」「腹へってないか?」。無愛想だが、はにかんだ笑顔がやさしい。媚びないところがまたいい。アイスフィッシングにも連れて行ってくれた。私は一匹も釣れなかったけれど(笑)。あるいは訪れた小さな町のカフェでは、食事をしていると誰かがそっと精算してくれていた。値段はそれなりに高い。サンドイッチ、ポテト、コーヒーのファーストフード3点セットで1000円を越える。値段云々の問題ではないけれど、これもまたホスピタリティの一面だ。
◆カナダ中央平原の土地そのものもまたいい。大雪原に沈む夕日は圧巻だ。雪原のむこうに夕日が重なるころ、逆光に照らされた雪面がうすいオレンジ色に輝きはじめる。遠くの針葉樹林の一本一本が黒いシルエットになる。日が遥か雪原に隠れるころ、その色調は最高になり、あたりを濃いオレンジ色に染める。やがてあたりの空気はうす紫色につつまれる。ほんとうに好きな土地とは、何もしなくても満たされる。自然と闘い自己に打ち勝つ挑戦とは対極の、もう一つの魅力があった。
◆これまでにもカナダ中央平原では、先住民とは何回も交流している。同じ光景だって何度も見ている。しかし、目的が達せられなかったからこそ、その土地と人の魅力がよりいっそう見えてきた。何年も通いつづけた厳冬カナディアン・ロッキーでは、踏破以外の魅力はとうとう見出せなかった。計画断念イコールすべて無意味だった。カナダ中央平原では自分の旅が少し深まったのかもしれない。試行錯誤をくり返して、いつか自分の理想へと辿り着くのだろうか……。計画は中止したけれど、白いキャンバスに自らを描くことはできたのではないかな……。(田中幹也)
フロント・ページでふれたように、2008年10月、浜比嘉島で行なった「ちへいせん・あしびなー」と写真展「わたしたちの宝もの」のレポートがついに刊行されます。
116ページ A4版。オールカラーです。
この本は、二つの記録を合わせたつくりになっています。右側から縦組みのページは、地平線会議が島の人たちと協力して3日間にわたり催した「ちへいせん・あしびなー」の記録であり、左側からヨコ組みのものは、比嘉小学生たちが自分の島をテーマに撮影した写真をもとに構成した写真展「わたしたちの宝もの?比嘉小12名の児童が撮った浜比嘉島のいま」の記録です。なので、表紙もふたつあります。頒布価格は1000円。詳しくは次号でお知らせします。
目次から内容を紹介すると。
《あしびなー物語》★ ★ ★
『わたしたちの宝もの』その飄々とした生き方が、一部に強烈なファンを持つ、あのビンボー主義者、久島弘さんがついに処女作を刊行した。月刊誌『望星』に昨年夏まで2回に分けて連載していた『ぼくは都会のロビンソン』を全面的に加筆した力作。
「まえがき」からして、心ひかれる書き出しだ。
〈そのアパートは、駅から10分、小柄な不動産屋のセカセカと動く足なら、店頭の貼り紙どおり「徒歩八分」の場所にあった〉
どうせ仮住まいだ、と思っていた久島は即決して「六畳一間・風呂なし」の部屋を借り、「畳の上にテントを張り、寝袋で眠り、キャンプ用のコンロと鍋で作った粗末な食事を突っつく暮らし」が始まった。
お座敷キャンプという意表をついた、ゴキゲンな日々が続くがー。
〈けれど、そのときは夢想だにしなかった。
まさか、自分が30年後もこの同じ部屋で寝起きしていようとは……〉
そう。20代だったビンボー主義者は、今も同じアパートで暮らしている(さすがにモノは増えてテントは張りにくい状態と聞く)のだ。
「序章」は、「被災者とバックパッカーのサバイバル─モノのないところで生きるということ」というタイトルがついている。多くの親族がいる神戸に1995年に起きた大震災の現場で感じたことをバックパッカー旅の体験と照らしながら率直に綴っている。
以下、章立ては次のようなものだ。
第1章 食って、生きる!─何をどう作って食べるのか/第2章 住んで、生きる!─火と水と衣と寝床の家政学/第3章 動いて、生きる!─生活道具を持ち歩く暮らし/第4章 思って、生きる!─放浪と「社会復帰」から見えてきたもの
全240ページ。随所に挿入された長野亮之介画伯のイラストが見事に久島流生き方を描いて別の楽しみを与えてくれる。
本人はさぞ嬉しいだろう、と思うが、実はああ書けばよかった、こう書くべきではなかったか、と思い出すことばかりで、いまだに刷り上った本を見るのが怖いんだそうな。連載と本にまとめる作業の違いも今になって痛感しているとも。
「連載している文章は雑誌を買ってくれた人が偶然にしても読んでくれる。しかし、単行本は本屋で手にとってもらえるかどうかからですから」
「あとがき」の最後で久島は「精神的セーフネット、『地平線会議』の仲間にも感謝したい」と書いている。「精神的セーフネット」、最上級の評価ではないか。その心を知るためにも是非、久島弘の本を買い、友人にもプレゼントしよう!
1500円+税。発売は3月15日の予定。問い合わせは03-3227-3700 東海教育研究所へ。(E)
■地平線会議をできれば「年齢不詳」のネットワークにしたい、とかねて考えている。年寄りだから言うのではなくて、若手にどんどん書いてもらいたいから。
◆どんな場でもはじめは敷居が極端に高いものだ。思い切って中に入っても、受け入れられないのでは、と感じ、遠くにいってしまう人も時にはいるだろう。どうか、遠慮なくいろいろなことに挑戦してほしい。
◆カヌーつくりを映画にしてしまったムサビ出の若者たちの活躍が頼もしい。とはいえ、せっかくの上映に人が入らなければ、実績とならない。今月の報告会にチケットを持ってくるはずです。どうか皆さん、前売り切符を買って、青年たちを後押ししよう。何よりも、見逃してはもったいない、考えさせられる映画なんです。
◆『あしびなー物語×わたしたちの宝もの』の1ページ、1ページがPCを通じて丸山君から送られてくるたびに新たな発見があった。わかっていたと思っていたことの中にいつも新鮮な何かがあるのである。これは、記録をつくることの真髄なのかもしれない。1年5か月が経ってしまったのに、色あせない、新たな物語がそこには展開されている。
◆地平線会議の周辺には多くの面白い個性がいるのは皆さんご承知の通りだが、丸山純、という異才(奇才というべきか)がいることをどうとらえるべきか。26日の報告会ではその成果を見てもらえるはずだ。ほんとにご苦労様。(江本嘉伸)
黄雀が飛んだ季節
「あれから20年経って、ようやく天安門事件の意味や影響が見えてきたんだ」と言うのは、作家の森田靖郎さん。'89年6月4日に起きた同事件は、中国のみならず、それ以前の社会のしくみを全部リセットした革命的な出来事であり、その後、今に至る世界の流れを決定づけた原点だと森田さんは考えています。 当時の中国民主化運動のリーダー達は、闇ルートを通って国外へ逃亡しましたが、それを支えたのは「黄雀行動」と呼ばれる反政府運動でした。その実体を追う中で知った“蛇頭”という秘密組織は、森田さんの作家活動の大きなテーマとなります。「今の中国を動かしているのは、当時の民主化運動世代。彼らが得た“経済的自由”の意味は深い。中米関係を理解するには彼らの行動原理を知らないと」。 今月は森田さんに、天安門事件にまつわる秘話を混じえ、その読み解き方を語って頂きます! |
通信費(2000円)払い込みは郵便振替または報告会の受付でどうぞ
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議(手数料が120円かかります)
地平線通信364号/2010年3月10日/制作:地平線通信制作室/編集長:江本嘉伸/レイアウト:森井祐介/イラスト:長野亮之介/編集制作スタッフ:丸山純 武田力 中島菊代 大西夏奈子 落合大祐 加藤千晶/印刷:地平線印刷局榎町分室
地平線Webサイト http://www.chiheisen.net/
発行 地平線会議 〒160-0007 東京都新宿区荒木町3-23-303 江本嘉伸方
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