富士山で片山右京のパーティーが遭難していた頃、ぼくはチベットのツアンポー峡谷でひどい大雪に見舞われていた。2009年12月17日のことだ。遠く離れたチベットと日本であるが、地球規模の気象変動の中ではその距離は所詮アジアの中という近所レベルにすぎず、どうやら同じ「この冬一番の寒さ」につかまっていたらしい。そこは世界最大の峡谷の、ヒマラヤの雪山に囲まれたまさに奥の院で、上流の村に戻るにしろ下流の村を目指すにしろ10日以上はかかるというところであった。世界一巨大な牢獄みたいなもので、脱出するのは命懸けだった。雪に閉ざされた峠を越え命からがら村にたどり着いた時、脱出という言葉が持つ本当の意味をぼくは自分の肉体をもって知った。実に24日間ツアンポー峡谷を一人でさまよっていたのだ。
◆旅が悲惨なことになるかもしれないという予感は、実は出発前からあった。最奥の村からひとりで谷の中を歩き始めてからも、生き残れないことに対する不安はつのるばかりだった。村人の案内もなしにツアンポー峡谷の無人地区約60キロを一人で踏査しようという試みなど、論理的な結末としては生き残れないほうが必然なのだ。それでも無理を承知でやったのは、一つには過去を引きずっていたからだろう。山岳部ではなく探検部出身のぼくにとって、登山とは少し違ったハードな冒険旅行をおこなうというのは学生の時からのテーマであり、ツアンポー峡谷はその格好の標的だった。今回の旅は10年以上前からの夢の実現やら目標の達成やら青春への訣別やら、そういった意味合いも含んだものだった。
◆そして今振り返ると、その「無理」へのレールは2年前に会社を辞めた時にいっそう太くなっていたと思う。ぼくは2003年から5年間、朝日新聞で記者をしていた。新聞記者というといい給料をもらう身分だと思われがちだが、それは本当で、朝日新聞社というのは実にいい給料をくれる会社だった。朝日の記者は高給取りなので給料をいくらもらっているのか話したがらないものだが、ぼくの場合は31才だった最後の1年間で、たしか998万円ももらっていた。それでも退職したのはツアンポー峡谷に再び挑みたくなったことが大きな理由としてあった。つまり今回の無理な旅を完遂できたのは、998万円の年収を棒に振ってここに来たのだという引くに引けないモチベーション、積極的なマイナス思考に背中を押されたからでもあった。
◆純粋だろうが、不純だろうが、前向きだろうが、後ろ向きだろうが、会社員にとって退職は今後の人生を揺さぶる大きな決断である。退路を断つということだ。探検をしたいから会社を辞めましたというのは、聞くほうにとっては格好いいと思うかバカじゃないかと思うかのどちらかだろう。
◆でも他人から見るとそういうあり得ない理由でさっそうと会社を辞めたくせに、退職直後のぼくは引っ越したばかりの部屋の片隅で将来の不安にガタガタ震えていた。ツアンポー峡谷で生きるか死ぬかという切実な環境の中で感じた不安よりも、開き直りが甘かった分、退職直後に感じたこの不安のほうが恐ろしかったかもしれない。会社という堅固な土台から離れて初めて、ぼくは自分の目指す将来像が社会に受け入れられる、その可能性のわずかさに気がついた。
◆ツアンポー峡谷に行きたいから退職したと書いたが、それが会社を辞めたすべての理由ではない。ぼくの名刺の肩書はライターで、一生ライターで食っていきたいし、そのつもりだ。今の僕にとって、探検や冒険旅行というのは書いて売るという仕事意識を抜きにしては考えられない。世界にはまだこんな面白いところがあるということを、体と言葉で表現するのがぼくの目標で、ツアンポー峡谷も書けると思ったから迷うことなく行けた。その意味では探検部的な目標と新聞記者的な書くという作業をハイブリッドさせることが今度の旅の正体であり、これまでの人生の総決算的な色彩を帯びていた。そしてこれからも書けないところに行くつもりはないし、書かない旅はしないだろう。
◆今は退職直後に感じたような不安や恐怖はあまり感じなくなった。別にメジャーな雑誌に連載をもつようになったわけではないし、安定した職に就く若い彼女ができたわけでもない。退職してから状況は一向に好転していないのに、なぜだろう? 一つの答えとしては、やや面白みに欠けるが、今の生活が充実していることがたしかにある。今回の旅が終わっても行きたい場所や取材したいテーマは山ほどあって、おかげさまで会社を辞めなければよかったと思ったことは一度もない。なんで朝日を辞めたの?と今でも時々訊かれるが、ひょっとしたらこれは、なぜ山に登るのかというのと同じくらい答えを理解してもらうのが難しい質問なのかもしれない。(角幡唯介)
■未知への興味をエネルギーにして、元気いっぱいに世界中をかけまわる! それが今回の報告者、谷口けいさん。いま、世界の第一線で活躍している女性クライマーだ。2008年のインドのカメット峰(7756m)新ルート登はんが認められ、昨年、世界の優れた登山家に贈られるピオレドール(黄金のピッケル)賞をパートナーの平出和也さんと共に受賞した。日本人初、女性では世界初という快挙だ。でも当の本人は、「いただいた黄金のピッケルは、飛行機に乗せるのにもお金かかるし使えないし、役にたたないんです〜」なんてあっけらかんとしている。とにかく底抜けに明るくてよく笑う、ハッピーな空気の持ち主。
◆まずは登山をはじめるきっかけの話から。スクリーンには白い山脈と氷河の写真が映る。「これはアラスカです。私は小学生のころから植村直己さんが好きで…」“冒険”にあこがれる少女だった。大学卒業後に入った社会人山岳会で、先輩から翌年のマッキンリー登山に誘われたときは、運命だと思った。初遠征でまだ新人のけいさんだったが、6000mの高所で高山病に倒れた先輩を逆にサポートしながら、2日連続の登頂に成功(1回目はたった1人で)。「もしかしたら自分ってまだ何かできるんじゃないか?」ゴールだと思っていたマッキンリーで、世界が開けた。
◆その後も冒険がしたくてたまらずに、世界各地のアドベンチャーレースに出場する。「サイコーにアホな遊び!」と言うだけあって、内容はてんこ盛り! 登山、マウンテンバイク、乗馬、シーカヤック…その土地に即した手法で、長いと10日間も自然の中をさまよう。夜じゅう歩き続けたり、他のチームに見つからないよう隠れてチェックポイントを通過したり……聞いているだけでワクワクする。
◆ヒマラヤとの出会いは突然だった。ひょんなことから野口健さんと知り合い、2003年のエベレスト清掃隊に参加することに。翌年にはパートナーの平出さんと共にパキスタンのゴールデン・ピーク(7027m)へ向かう。ここで新ルートを開いた勢いに乗って、ライラ・ピーク(6200m)にも登頂。写真では天に突き刺さる姿が美しい鋭鋒だが、雪崩がひどく、行動できるのは午前中の数時間に限られる。しかしゴールデン・ピークで高所順応ができていたけいさんたちは、スピード登はんに成功した。「難しい山でも、先にちょっと高い山に登ってから行けば、意外に行動できる」。この経験が、次の遠征に繋がっていく。
◆いよいよ今回のテーマ「タテとヨコのハイ・ブリッド」な旅が始まる。2005年、目標とするインドの6000m峰の前に、前年の経験を活かしてムスターグ・アタ(7546m・中国)に登ることに。目指す東稜(バリエーションルート)は一般ルートの西稜とちがって山をぐるっと回り込んで取り付くため、登る前に長い旅が必要だ。でも、そういう時間こそ大切。「その土地の人と旅をして、一緒に山に近づいていくと、その土地も山も自分を受け入れてくれてるなーという感じがします」
◆この頃から平出さんが撮り始めたという映像が流れる。ラクダに荷を積み、砂ぼこりの大地を歩く一行。景色は草原に変わり、川を渡り…。ヤギをひっくりかえした次のシーンは、お皿に山盛りのヤギ料理! ちょっと衝撃的だけど、「おいしそー、いっただきまーす!」と相変わらず元気なけいさん。氷河歩きが始まると、ラクダも役人もみんな帰ってしまう。2人だけで大きな荷物を背負い、ひたすら進む。クレバスにロープを張り、荷物を渡す。ううー、大変そう。次にけいさんが腰にロープをつけて、クレバスをえいやっと飛び越える。まだ登はん前なのに、ヒヤッとする映像だ。
◆雪の急斜面をアイゼンとダブルアックスで登る場面で、「ここからドラゴンリッジ(アップダウンの激しい雪の稜線)が始まります」と平出さん。本当に、こんなところでよく撮ってるなあ! 食事は軽量化のため、1日に1つのアルファ米を2人で分け合う。「シュラフあったかい」と、テントでひとときの休息。再び登りだし、頂上手前の大セラック(氷の塔)を越え、ついに登頂(第2登)! 眼下には歩いてきた氷河が見える。一般ルートをスキーとスノーシューで下降。BC(ベースキャンプ)にはキルギス族の友達が迎えにきてくれていた。「コングラッチレーション!」「ありがとう〜!」下山はなんとバイクで。ちょっとしたドキュメンタリー映画みたいな映像だった。道も時間も経験も、全ては繋がっている……これがタテとヨコのハイ・ブリッドな旅か。すてきな映像で疑似体験させてもらった。
◆さて、次はインドへ移動し、目的のシブリン北壁(6543m)へ。シブリンはヒンズー教の破壊と創造の神、シヴァ神の象徴とも言われる山。あこがれの「神様の山」だったけれど、男の神様なので、女の自分が登っていいのか考えたというけいさん。だがこのときも旅を重ねて行ったので、山に登って帰ってきたときに地元の人たちが「神様と仲良くしたから登れたんだよ、おめでとう!」と言ってくれてすごくうれしかったそう。
◆またまた映像。5000m、6000mという高所の世界で繰り広げられる会話と行動には、1つひとつに命の重みがにじみ出ている。そしてサミット! 山頂でけいさんが語る。「お前なんかに登れるわけがないって、日本で言われてた。でも自分にだからできることがあるって信じてて、絶対登れるラインがあるはずだって思ったんだよね。楽じゃなかったけど、できる限りの力を出したかな。シブリン最高。登らしてくれてありがとう」
◆この後、下降中に食料と燃料がなくなり、2人は足にひどい凍傷を負う。平出さんは足の指4本を失った。しかし彼、今では山岳耐久レースを、足の指が5本あったときよりも早いタイムで走っているという。「何かが無くなったり失敗したりすると、もっとやりたいとか悔しいとかそういうのがきっかけになって、人のモチベーションがあがるのかなと思うんです」
◆2006年はマナスル(8163m)へ。2007年のチョモランマ(8848m)では、なんとけいさん、仲間がBCへ降りて休養している間もシェルパと共に荷揚げ隊となって上を目指した。頭にあったのは“冒険”の文字。危険を冒す、ということではない。ここで自分にできることは何? と考えた結果、せっかくなら行ける所まで無酸素で行ったほうが自然だよな、という答えが出たからだ。一緒に荷揚げをしていたシェルパが、兄弟が遭難した山を振り返って見ながら登っていた話や、公募登山で亡くなった方の写真などが紹介される。7000m以上というデス・ゾーンにいながら、他の人よりも周りの状況がよく見えたという。無酸素で登ろうとして高度順応を頑張った効果だ。好きなことに努力を惜しまない、けいさん。こういう素直さってすごいなあ。
◆2008年、再び平出さんとパートナーを組んで目指すのは、インドのカメット峰(7756m)南東壁新ルート開拓。冒頭のピオレドール賞を受賞した登はんだ。ここでも映像が流れるが、今回はちょっと違う。平出さん、魚眼レンズで自分を入れて撮っているのだ。けいさんが登る姿や景色を撮るときも、いつも画面の半分をどアップの日焼け顔が占めている。あまりのしつこさに、会場から笑いが起こる。でもすごい根性だなあ、とますます感心。今回は、世界中の人に見てもらうための英語字幕つき。
◆ヘルメットにカツカツと氷の破片があたるチリ雪崩れの中を進む。氷を削ってビバークサイトを作る。一歩一歩、氷の壁をよじ登る。こんなに大きな山に、小さな2人だけ。迫力の映像だ。ようやく山頂にたどり着いた2人の口からでた言葉は…「次は? What 's next?」。3泊4日の予定が6泊7日になったが、不思議と悲壮感は無かった。苦しかったけど、楽しかったという。2人は南東壁のど真ん中をまっすぐ空に向かって伸びるこのラインを、サムライダイレクトと名づけた。
◆2人の冒険は続く。ネパールとチベットの国境にあるガウリシャンカール(7135m)、未踏のチベット側からの登頂を目指す。結果的に頂上直下でロックバンドを越えられず敗退するが、「やらないで行けたかもって思うよりは、今の自分の力で行ける所まで行ったってことが大きな結果。で、このままじゃ終わらせないっていうのが、次の挑戦へのエネルギーになるのかな」
◆「冒険の前に、なぜそれをやりたいのか考える事が大切」と、けいさんは言う。それは自分と向き合うこと。生死に関わるギリギリの判断を経験することは、自分の限界に向き合うことであり、同時に可能性を見つけることでもある。強さとは、自分の弱さを認めながら前に進むことかもしれない。人生も人それぞれの「新しいライン」を引くようなもの、「楽しい」とか「好き」という好奇心を大切に、色んなことに挑戦しなきゃもったいないですね!それにしてもけいさん、ほんと、すごい元気印でした。二次会でどんぶり飯食べてる報告者、初めて見ましたよーっ(笑)!(新垣亜美)
■2時間半は、あっという間だった。結局、伝えたいことっていくら時間があっても足りないってことだ。冒頭でも触れたのだけど、山ヤの中で積極的に「伝える」を実践している人は少ないと思う。言葉で伝えるのが苦手だから、山というキャンバスを相手に自己表現をしているのだと思うのだ。それは、描いたり、造り出したり、奏でたりする表現者達と同じことなのではないかなと最近感じている。
◆有形の物は人に伝わりやすいけれど、自然を相手に描いている無形のアートは、もしかしたら誰にも知られないまま。素晴らしい感動との出会いを、私は多くの人と共有してみたいと思ったのが「伝える」ことを始めたきっかけかな。あの場にいた皆さんの其々に、少しでも新しい風を吹き込むことが出来たなら、とても嬉しい。それは、疑問・同感・反感・驚きetc.どんな形でもいい。
◆「ケイさんは落ち込むことってないんですか」と聞かれた。何言ってんのー、しょっちゅう壁にぶつかっては落ち込んでるよ。「例えば何に?」色々あるけど、自分の存在意義って何だろ、とかさ。って言った瞬間、そこにいた人達の疑わしげな表情が崩れて、嬉しそうにウェルカムされたと感じてしまった。
◆つまり、地平線会議には自分の存在意義を探し求めて旅を続けている輩が多いってこと? う〜ん、同じ匂いを感じるわけだ。それから貧乏って言葉使ったけれど、風呂無し共同トイレの四畳半に住んで低収入だからって=貧しい、じゃないよね。誰よりも贅沢に生きているんじゃないかと思うのだけど。(谷口けい)
■けいさん、すばらしい登攀の話をありがとう。核心部だけでも一週間もかけて、あるいは一月以上もかけて、考えついてからの時間でいえば何年もかけて登った行為を、わずかな時間の中で語るのだから、けいさん自身があまりにも語れないことにがっかりしていたでしょう。でも、あのたった二人の自分たち自身を写しつづけた平出さんの映像と、いつも冷静な彼のナレーションの助けもあって、はしょりにはしょったことばのひとつひとつが素直に、その場の感覚のままに伝わってきてました。そう、あの平静さで淡々とこなしていけなければ、あんな大きな登攀はできない。
◆だから、話を聞く間ずっと背筋がぞくぞくしてた。自分では12本爪だの14本爪だのというアイゼンは履いたこともなく、終日その前歯だけで登るような登攀もしたことがないのに、けいさんがアックスにつかまって立っている感覚や、ふくらはぎのこわばりが感じられて、自分の足の裏もむずむずしていた。けいさんてすばらしいバランスと身のこなしの持ち主ですね。
◆聞きながら、見ながら、半世紀近くも前の感覚がいくつかよみがえっていました。けいさんたちの山のように氷の粒ではなかったけれども、落ちてくるスノーシャワーを浴びながら一人登っていく壁の印象。ホールドも見当たらず、ピッケルも支えてくれないベルグラに覆われた壁を8本爪アイゼンの前歯だけで立ち、氷ごと外傾ホールドをつまんでずり上がっていく体重移動の感覚。不思議に恐怖はありませんでした。そして墜落しはじめたときに見下ろした雪の降りしきる静かで美しい壁。
◆いやあ、すごいクライマーたちが育っているんですね。何よりああいう途方もない壁たちを前にしての勇気に感嘆しました。けいさんは「登れるって感じたから取りついた」とおっしゃった。それは分かる。でも相手は誰も触れていない未知の山だし、第一途方もなくでかい。しかも天気が崩れなくても、たとえば4日の予定が7日かかってしまうほど悪い。
◆それをまるで縦走でもするかのように、すべての重量を身につけて、シュラフもないビバークを重ねて体力を失いながら、ただ上へ上へと登り続ける。なんという心身の強靱さ。しかも登攀中ずっと楽しかったと。それは分かる。そうだったに違いないと思う。あんなところを登りつづけていけてる解放感と自由さ。なんていい山。なんていいルート。それが何日も続いていてなお生きているという実感。表現のしようもないものだったでしょうね。それでも……。
◆実は話が最後のガウリサンカール東壁上部の悪場で退却を決めたところまで進んで、ほっとしたのです。ああ、この人たちは登れるところだけを登っているんだ、自分たちが登れるところと登るべきでないところの境がちゃんと見える人たちなんだ、と。なんというか動物としての確かさを発揮できる自由をちゃんと保持している人たちなんだ、と。そうか、それならいい。どうかその基準を外さないでほしい、と。そういう思いの一方で、あの場所からあれだけのスケールの氷壁を、身につけただけの装備で下るという凄さに慄然としていたのです。その話も聞きたいという思いでも一杯でした。
◆ごめんなさい。こんなことを言って。いや、しっかり年寄りですからね。話が進むにつれて、そのクライミングのすばらしさや凄さ、それを創り出しているクライマーそのもののかけがえのなさが胸の中に重くなっていったのです。この人たちは宝だな。われわれの宝。この人たちのこれからの登攀はどういう風に展開していくのだろう。すばらしい登攀を重ねては欲しいが、それにも増して生きつづけていて欲しい。この人たちは絶対に生きつづけていてほしい。植村さんのようなことにはならないで欲しい、と。
◆昔、植村さんがグリーンランドからアラスカに抜ける犬ぞりで横断する前、たまたまその途中のある地域について多少経験があったので訪ねていらした。ちょうど私のいた観文研の引っ越しの最中だったので、荷物を運びながら、知っているだけの情報を伝え助言をして、「植村さんはこれまでの歩みを見ていると、すべて自分の足元から発想して、丁寧に積み重ねてきている。だからいま話した危険も植村さんなら克服できますよ。大丈夫ですよ」と自信を持って言った。しかし冬のマッキンレーのときは植村さんの足元からの発想だけとは見えない不安、植村さんの自由を奪ってしまっているかもしれないものへの不安があった。
◆山ってやっかいですよね。深田久弥さんが遭難に対する新聞の論調の的外れさを笑いながら話しておられたことを思い出します。初心者ならめったなことで遭難はしない。山はベテランになるほど危険になるんだと。そもそもその危険や未知を抜きにしてはそこで生き、思うように行動している喜びが半減するのだから。
◆でも、けいさんたちにはそんな矛盾を無意味にしてしまうような健康さと純粋さがある。未知や困難の誘惑には弱そうだけれども、それに劣らぬ自分に対する忠実さというか正直さがある。そういうクライマーが日本に育ちつづけていてくれるんだなあ。死ぬなよ。(都立大山岳部OB 宮本千晴)
■昨年の通信3月号にカラファテのことを書いた。ブルーベリーのような実がなるパタゴニア特有の木だ。風の大地の味がするこの実を食べた旅人は、再びここに帰ってくると言われている。その伝説は本当のようで、安東は再び地球の裏側にやってきた。南極を除けば日本から最も遠い土地だろう。できればパタゴンを見つけたいと思っている。マゼランがこの地を初めて訪れた時に目撃したという、人間の2倍の身長の巨人であるというが、マゼラン以来目撃した者はいない。巨大な足跡よりパタゴン(でっかい足)と呼ばれたが、それがパタゴニアの語源になっている。
◆でも本当は山の撮影が目的であり、パタゴンはついでなのだ。見つかるとも思ってないけど、もしかしたらまだいるかもしれないと思うと、わくわくしてくるじゃないか! かなりいいかげんな探検だけど、好奇心さえあれば、地球はまだまだ未知に溢れている!
◆さて、先月の谷口けいさんの報告会、久々のクライミングシーンでした。ヒマラヤのクリアな映像にめちゃくちゃ迫力があった。今まで見た中で、一番臨場感のある報告だったと思う。行動者は同時に表現者でもあり、行動者にとって報告の場はひとつの見せ場なのですね。行動したことをどう表現できるかが、行動そのものを評価する手段となるのでしょう。いくら新聞やテレビで報道されたって、本人自らの言葉や文章で表現されなければ面白くない。今の時代は行動だけではちやほやされないのだ。斬新な映像とともに自分の冒険を伝えようとする谷口さんは、これまでのクライマーにない新しい手段を持った表現者なのだなあ、と思ったのでした。
◆報告者だけでなく、聞きに来る人も面白い人ばかりだ。1次会は報告者の発信の場であるが、いつもの中華料理屋での2次会は、地平線にやってきた連中のネットワークの場なのでしょう。先月の2次会で安東が初めて話をした人だけでも、徒歩でユーラシアを横断したり、探検のNPOを立ち上げようとしてる者がいたりと、普通だったらその辺にいないような若者が、何気にぞろぞろといたりする。クラブ組織でない地平線会議にとって、2次会こそは本来のネットワーク作りの舞台かもしれない。
◆だが行動者というのは貧乏であることが多い。好きなこと優先で生きているので貧乏があたりまえなのだ。悲しいのは2次会に行きたいけど、次の行動のためにお金を節約しなければいけないとか、冒険から帰ってきたばかりで本当に金欠だからやめておこうという場合。そういう人こそきっと本物だ。そういう人が参加できない2次会なんて、たんなる烏合の酒飲みだ。そういう人は某代表世話人にご相談ください。ビールを控えれば料理代だけで参加できますよね?
◆地平線というネットワークから、どんどん新しい表現者が出てくるといいですね。さて、次は何をどう表現していこうか? 迷ったら地平線会議の2次会へ! (2月8日 人類の最南端パタゴニアより 安東浩正)
■息子を青空保育に送る車中で、「ママ、今日お友達のお話会に行きたいんだけど、静かに座ってられないよね〜」と諦め口調で相談してみると、「いいよ。でも、ばあばに預ければいいじゃん」と珍しくききわけのよいことを言う。あまり体調のよくない義母に頼ることは遠慮してきたが、ダメ元で電話してみると、なんとOKの返事。かくして、子供が大きくなるまで行けないと思っていた平日夜の地平線報告会に、産後初めて出席することができた。
◆けいさんとは、2006年の夏にDVD撮影の仕事で北鎌尾根を一緒に登ったのだが、その人となりに一発で惚れ込んでしまった。きっと野口健さんもそうだったに違いない。その強さと明るさ、思慮深さ、しかも美しさと女性らしさも兼ね備えていて、今まで出会った中では、一番理想に近い女性かもしれない。
◆印象に残っているのは、見晴らしのいいところに来ると、湧きあがる気持ちを抑えられないといった様子で、「ヤッホー!! 次はどの山が私を呼んでいるのかなー!?」と、心から楽しそうに雄叫びを上げている姿だ。かと思えば、「家に帰ったら、デッキに水色(だったっけ)のペンキを塗ろーっと!」なんて言い出したりして、生活もちゃんと楽しんでいる。素敵だ。
◆だからどうしても彼女の話を聞いてみたいと思ったのだが、期待どおり報告会は無理をしてでも行った甲斐のあるものだった。海外登山歴の順を追って話す中で、2003年のエベレストと2004年の2つの登攀に大きなギャップを感じたので、その辺を聞きたいと休憩時間に言うと、特別なトレーニングを積んだわけではなく、ただ、行きたい、やりたい、自分ならきっと楽しめるという自信がある、その気持ちに従っただけ、というのが答えだった。前例や慎重論にとらわれない、でも無謀ではない、それはキタカマを登っていた時にもよくわかった。彼女は慎重だけど、恐がりじゃない。なぜなら、ただやりたいことをやっているだけだから。
◆平出君とも、2002年に鹿屋体育大学の山本正嘉先生の実験でご一緒したことがあるのだが(今思えばすごいメンバーだった。他は天野和明君、花谷泰広君、松原尚之さん、奥田仁一さん)、彼とコンビを組んでいるというのがまたギャップがあって面白いというか、彼女らしいというか。撮影魔の平出君がビレイ(注:ロープでの安全確保)をしていない事実がバッチリ映っていることを笑い飛ばせるけいさんの大らかさに、また一層惚れ込んだ報告会だった。(大久保由美子)
■パーンと銃声が轟いた。乾いた音が沢地形にこだまする。瞬間的に音の方向に顔を上げる。カラマツの林間、黒い大きなシカが斜面を駆け上る姿が視界に入った。歩き出して2時間、これまで気配もなかったのに、突然どこから現れたのだろう。パーンと第二弾の炸裂音。影は稜線の向こうに消えた。二発の間隔は0.5秒くらいか。私から、発砲した猟師のタカオさんまでの距離は20メートル。タカオさんから獲物までは30メートル程だろう。
◆タカオさんが尾根から谷側に下りたのを確認し、後を追う前に一息ついたときの銃声だった。不意をつかれ、一気にアドレナリンが駆け巡る。近くで銃声を聞いたことは初めてではないし、自分で引き金を引いたこともあるが、やっぱり銃の音は怖い。心臓がドキドキと脈打つのを感じながら、斜面を登るタカオさんを、あわてて追う。
◆尾根の上に出ると、雪に頭から突っ込むようにシカが倒れていた。先にたどり着いたタカオさんが振り向いてガッツポーズをする。雪まみれのシカはすでに目がでんぐり返り、紫色の舌がはみだしていた。頭部の周囲に赤黒い固まりが落ちている。肉片かと思ったら、血が雪を溶かして瞬間的に凍りついたものだ。鼻からはまだゴボゴボと朱色の血が泡吹いていた。
◆心臓が最後の拍動をしているのだろう。雪上の血に比べて、鼻から出る血の色は艶やかなほどに明るい。シカの体はもうぴくりとも動かないのに、明るい血だけが生き生きとしていた。この状況にどう反応していいのかわからない。タカオさんは無造作に後肢を掴んで雪の中からシカの躯を引き出し、軽く手を合わせると、首筋にナイフを突き立ててとどめを刺した。コップ二杯分くらいの濃い血が力なく雪を溶かす。
◆ウィンチェスター3.8ミリのライフル弾は、シカの右耳辺りから入り、左目の下に抜けていた。衝撃で左目玉は破裂し、裏返したズボンのポケットのように眼窩から垂れている。右の角の根元が縦に5センチほど裂けているのは頭蓋骨が砕けた証拠だ。ほぼ即死状態だったはずだが、勢いで尾根を越えたのだろう。
◆「一発目も、あの距離で外すわけないんだけどなあ。火薬が少なかったかな」とタカオさん。別のルートから攻めていたアキオさんとシンイチさんも駆けつけ、口々に獲物の大きさを讃える。県内でもこの地域は山が深く、大物が獲れる可能性が高いらしい。「たぶん6、7歳くらいじゃないかな」と角を調べながらタカオさんが言う。
◆シカを囲んで記念写真を撮る。正確には「記念」ではなく、「記録」の意味だそうだ。その後すぐに解体作業へ。腹部にナイフをいれたかと思うと、あっという間に湯気の立つ内臓が雪上に鮮やかな色彩を加える。黄色いゴム手袋をはめた手が、あちらでは腸をしごいて内容物を出し、こちらでは肝臓の血を絞って雪で締めている。「新鮮なホルモン(内臓)は猟師しか食べられねえ御馳走だ」とシンイチさん。コブシ二つくらいの大きな心臓は、さっきまで漲っていた生命力を主張していた。
◆歩いていたときは感じなかったが、立ち止まっていると寒さが沁みる。毛の手袋をしていても、シャッターを押す指先の感覚がない。手際よく30分ほどで内臓の仕分けが終わった。山中での解体はここまで。大型ポリ袋のような大きさの胃と、肺臓などが、カラスや小動物へのお裾分け。それ以外は全てお持ち帰りだ。
◆内臓を取ってなお100キロ以上あるシカを引きずって山を下ろすのだ。大型獣の肉を食べるとは、こういう行為の末に成り立つことなのだなと、大汗をかいてシカを引きずりながら思った。撃つまでの仕事は、マラソンで言えば中間地点。山を下ろして30キロ地点か。残りの12.195キロに当たるのは本格的な解体と、その保存かもしれない。
◆今回私が同行させていただいたのは、岩手県のマタギグループ。リーダーのタカオさんとは4年前のマタギサミットで知り合った。三人とも狩猟歴は30年以上のベテラン。多人数で獲物を包囲する「巻き狩り」ではなく、少人数で獣影を追う「忍び猟」を行っている。猟場の地形を熟知し、足跡、食痕、糞等の痕跡情報を読み取り、シカの行動を予測する狩りだ。穏やかな紳士という印象のタカオさんが、山では顔つきも変わる。5キロもある銃を軽々と抱えて慎重に雪を踏み、シカとの知恵比べに集中する姿は別人のよう。
◆結局二日間で二頭を仕留めた。とても順調な猟だ。獲物を捕った日の夜に食べたレバ刺しはびっくりするほど甘くてうまかった。三日目はシンイチさん宅のガレージで本格的な解体。あまりに寒くて私は途中でリタイアしたが、もちろん彼らはびくともしない。「銃の有無に関わらず、猟に同行したものは皆均等に獲物をわける習わしだから」と、私も肉の分け前に与った。「肉を食う」ということの意味を考えさせられた旅だった。(長野亮之介)
■岡村隆です。30周年大集会以来ご無沙汰して申し訳ありません。今年に入って本業とスリランカのジャングルへ遺跡探査に行く準備に追われ、バタバタする毎日が続いています。さて、そのスリランカ絡みの話ですが、小生が理事長を務めるNPO「南アジア遺跡探検調査会」が近日(2月13日)、公開講座を開きます。テーマは「村の寺と村人たち〜スリランカ南岸の村における仏教寺院の歴史と現状」。講師は首都大学東京の教授で20年以上もスリランカに通い続ける社会人類学者・高桑史子さんです。
◆古い仏教国として知られるスリランカですが、じつはこの国で仏教が再興隆したのは19世紀も半ばになってから。それまではイギリスの植民地下にあって仏教は瀕死の状態でした。その後、独立の原動力にもなって力を盛り返した姿は、スリランカを訪れた人なら目の当たりにしていると思います。ところが最近では、村々の寺に衰退の兆しが現れ、寺はさまざまな生き残り作戦を展開しなければならなくなっているそうです。長い内戦の間に、スリランカの人々の間で仏教はどんなことになっているのか。そのあたりを高桑さんにわかりやすく話してもらいます。
◆高桑さんはスリランカ南岸の漁村をフィールドとする社会人類学者ですが、先年の津波被害からの復興と今後の防災のためボランティアで同国の沿岸緑化にも取り組んでいるほか、日本で犯罪を犯して服役中のシンハラ人と家族との連絡を仲介するなど多彩な活動を続けています。広い視野でスリランカの人々を見つめてきた経験から、私たちの知らない興味深い話が聞けると思います。小生自身、NPOの活動の視野を広げるために、村々の暮らしとお寺、そして僧侶たちとの関係などを学びたいと思っているところです。
◆また、当日は併せて、NPOで今夏予定している遺跡調査計画について、概要説明や隊員募集の話もあります。スリランカや南アジアの暮らし、仏教、遺跡などに興味のある人は、浅草や墨堤散歩のついでにでも、ぜひおいでください。入場無料で、出席通知も不要です。講座終了後は近くで懇親会も予定しています。(岡村隆)
◆日時は、2月13日(土曜日)午後3時から。場所は、墨田区役所隣接の「すみだリバーサイドホール」会議室(地下鉄銀座線浅草駅または都営地下鉄浅草線本所吾妻橋下車)。問い合わせは、電話090-xxxx-xxxx(岡村)まで。よろしくお願いいたします。
■江本さん お久しぶりです。朝青龍が引退してしまいました。突然のことでまだ混乱しています。寂しい気持ちと、残念な気持ちと、心が痛む気持ちと、なんとかならないものかとまだ期待する気持ちと、まぜこぜです。
◆午後、叔母から来たメールに「朝青龍辞めちゃうんだね」と書いてありました。引退勧告されていることを言っているのだろうと思っていたところ、友人・関係者からの電話・メール、会社の同僚からも朝青龍が引退した、という知らせが次々と入ってきました。胸のざわめきを抑えながら帰宅した後、夜のNHKのニュースを見て事実であることを目の当たりにしました。相撲を愛していた、土俵で姿を見せることがその愛を見せることだった、と静かに単独インタビューに答える朝青龍を見て、人目(夫の目)を憚ることなく号泣してしまいました。
◆2000年〜2001年のモンゴル留学を終えて帰国した後、なかなか日本の暮らしになじめなかった私は朝青龍が土俵上で勇ましく勝つ姿を見た時、涙が止まりませんでした。異国の地で、現実と向き合いながら結果を出す姿がとてもまぶしく、強く励まされました。それ以来、朝青龍の存在は私の心の支えだったといっても過言ではありません。社会人になってからも、場所中は会社の食堂のTVに走り(もちろん定時後)、朝青龍の取組を見て、日々の心の糧にしていました。負けた時は悔しくてしばらく茫然としてしまうのですが…。
◆確かまだ横綱になる前、東京で行われたモンゴル音楽のコンサートで、たまたま朝青龍と近い席に座りました。思い切って開演前に話しかけてみたところ、冗談を交えながら気さくに楽しく話してくれました。コンサートの後改めて、ファンになったいきさつを手紙に書いて送ったところ、わざわざお礼の電話をしてくれたことは私の生涯の宝物の出来事です。モンゴル−日本間の飛行機や空港で何度か会うこともあったのですが、いつも気軽に挨拶してくれたりもしました。
◆いわゆる「品格」というものが問われ始めた頃は、朝青龍の取組相手を応援する声が大きかったような気がしますが、最近は確実に朝青龍を応援する声が大きくなり、増えて来たと感じ、喜んでいた矢先でした。土俵上の真剣さは誰にも負けないものがありましたよね。私はそんな朝青龍が大好きで、尊敬していて、目標にもしていました。真剣さ故の行動や言動がいつも批判の対象になってしまうことが私にはとても悔しかったです。先月の初場所は七日目に観戦しました。既に朝青龍が一敗している中、白鵬が初めて一敗目を喫した日で、大盛り上がりしました。あれが最後の場所になるなんて…!
◆ここ数年、東京場所は毎回行っていましたが、朝青龍のいない場所はなんと寂しいことか。色を失ったようになるでしょうね。いつも冷静な白鵬関も、今日のインタビューでは泣いていましたね。相撲界は本当に寂しくなります。国技館中が割れるようにわっと湧くあの興奮の瞬間はしばらく、無いかもしれません。少なくとも私は国技館で叫ぶことは無くなってしまいそうです。とにかく朝青龍話は尽きないので、この辺で筆を置きます。
◆私の方の近況ですが、妊娠5か月になり、この間の戌の日(朝青龍が優勝した千秋楽の日)に日本橋の水天宮で安産祈願をしてきました。子はナーダム(7月11日頃)の前後に生まれる予定です。(三羽宏子 2月4日 朝青龍引退当日メール)
■「プツンッ」突然PCへネット通信がこない。「何で?」。PCに詳しい友人に聞いても分からない。だってここには日本語を理解できる人がいないから。スペインに滞在して1か月目のことでした。
◆Hola! Soy Ume.(オラ!ウメです)スペイン!? 何で? そう思う方は多いと思います。実は4か月間スペイン、カディス大学に国費を頂いて研究留学していました。理由は簡単。大学間に交流協定があり国費奨学金をもらうためにはそこしかなかったからです。そしてこの海外への旅が私の初海外。マドリッドに着いた時には見る顔、大気の匂いが違う!当然東洋人はおらず、外人さん慣れしていない私、彫りの深い彼らの顔に緊張していました。
◆「私、こんなに臆病だったのか……」留学初期はよく思いました。文化が違えば雰囲気も違う。ジェスチャーや表情だけではその場の空気を読めず、怒られているのか、からかわれているのか分からず、とりあえず笑い、リアクションは大きく! を心がけていました。でも気さくなで陽気な友人に助けられ、今では電車の隣の人とも気軽に話せるまでに(もちろんスペイン語で!)。
◆さて、スペインといえば、情熱! 太 陽! 青い海に白い村! といったところでしょうか。私が留学していたスペイン、カディス大学はまさにその象徴であるアンダルシアの南の南。大陸から海に突き出たカディス市は約10Kmのビーチ、歴史あり、温かい人ありののどかな田舎町です。そんな町に突如スペイン語も知らず、初の海外へ飛び込んだ私。ここでは見知らぬ人でも気さくに話し、リアクション大! 笑い豪快! 冗談ばかり言って笑っています。
◆さて冒頭の話に戻りますと、突然、ネット回線が使えなくなってしまいました。この際だ、と「日本語断ち」を始めました。元々ほぼ日本人のいない町、洋曲しか聞かない、ネットは必要メールのみ学校で使うという日本語断ちです。寮では毎晩誰かとお話したりティーパーティーやお国自慢料理で晩餐会をしたり…お蔭様でアフリカ(モロッコ、タンザニア、ナイジェリアにエチオピア!)、南アメリカ(コロンビア、ベネズエラ、キューバ、ブラジル、チリ、ボリビア……)、イタリア・フランスに沢山の友達が出来ました!
◆スペイン語も簡単なことぐらいは話せるようになり、かえって良い結果に。また私の目的は勉学。ボスのPrf.マシアス率いる有機化学科にて天然物を合成し、その生物活性を調べていました。「なんのこっちゃ?」ですよね。簡単です! 実験室で物質を作り、出来たものを種子・がん細胞などに加えて数日待ち、それがコントロールとどう変化があるか?を調べることです。
◆7つの化合物を作ったうちの1つから強い活性が見られ、種子の発芽の抑制、がん細胞を殺す働きがありました。言うのは簡単ですが、種子の伸張を調べるのに一種類の物質で約5000個の種子の根と茎を数える作業はもう大変。「Un poco tiempomucho trabajo pero no dinerito!(少ない時間で沢山の仕事。けどお金が無い!)」これ、実験中よくみんなで叫んでました。
◆さて、スペイン滞在中、留学生仲間と色々な町に行きました。有名どころから小さな村まで、中でもロンダは壮大な自然の町。ウン十万年かけて作られた渓谷の上に聳え立つ堂々としたたたずまいに感動し、その後の観光地も感動の連続ですが、ロンダよりインパクトが薄い! と感じてしまうほど。スペイン語がだめでも熱意を持って片言で話すと分かろうとしてくれます。スペイン人も他国の人も温かい!いっぱい話して笑ってコミュニケーション・スキンシップを大事にし、日本人としては羨ましい……。もっと滞在していたかった! 次はもっとスペイン語を勉強していくぞ!っと決意しています。(帰って早々就職活動に追われるウメ、こと山畑梓 香川大学大学院 「何で帰ってきてしまったんだろう…」)
「狩猟サバイバル」を読んで
今の世に けもの撃ちて食う 壮士あり
生命あふれる 縄文期想う
★
反基地の 選挙の声に 立ち止まり
チラシを手にす ひるの駅前
「土偶展」にて
縄文の ビーナスの前に 立ちつくす
「出っ尻土偶」の 大地の光り
立ち姿 しゃがむ姿の どっしりと
重き口あけ 土偶は語る
狩猟時代の 土偶はすべて 女なり
祈る姿に 縄文文様
あふれでる 狩猟時代の エナジーの
生命いっぱいに 土偶のゆたかさ
★
女正月 帰国の友と 甘酒くみ
はなしの果ての 今年の初歌
インディオの日々の暮らしを語るとき
われ若き日の ハポネッサとなる
※インディオ(中南米の先住民)
※ハポネッサ(日本人女)
粉ふきて ぷっくりメタボの 吊し柿
喰みてひろがる 安達太良の里
海図なき 道草の旅 その後の
おなごどち立つ スローな旅に
■地平線会議のみなさん、こんにちは、荻田泰永といいます。私は地平線会議には河野兵市さんの追悼報告会に参加させていただいた後、何度か報告会には行かせていただいたことがありますが、最近は北海道に住んでいることもあって足を運べていません。今回は安東浩正さんの勧めもあって、私が10年前より取り組んでいる北極での徒歩冒険行について書かせていただきます。
◆私は現在、北極点への無補給単独での徒歩到達を計画しています。これまで夏冬あわせて9度の北極行を行い、その旅の中で長距離の徒歩行や、北極に住むイヌイットの人々と交流をしてきました。私の最大目標は前述の通りの北極点無補給単独徒歩到達です。一人で北極点まで、途中で外部からの物資補給を受けることなく歩きます。
◆北極点挑戦を2011年に設定し、今年2010年はトレーニング行としての北磁極往復1400km無補給単独徒歩行を行ないます。カナダ北極圏の北緯75度付近に位置するレゾリュート村より、凍結した海氷上を一人ソリを引いて片道700km先の北磁極まで歩き、折り返してレゾリュートへ戻ります。
◆マイナス40度の氷原にはホッキョクグマがアザラシを求めて徘徊し、ブリザードが吹けば風速30m以上の暴風に見舞われます。重量100kgを超えるソリを曵きながら、60日かけて1400kmを往復する計画です。ちなみに北磁極は皆さんご存知の通りにコンパスが指す地磁気の北の極のことで、年々移動していきます。今年のルートは私がグループで初めて北極を訪れ、レゾリュートから北磁極までを歩いた2000年当時のルートを往復するものです。
◆2月19日に日本を出発し、バンクーバーで準備を行なってからレゾリュートへ入ります。耐寒訓練やソリ引きのトレーニングを行なった後、3月11日頃から徒歩行をスタートさせる予定です。レゾリュートに帰還するのは2か月後の5月10日前後です。
◆完全無人地帯のために、徒歩行中の2か月間は誰とも出会うことはありません。今年の旅では、ソリに可搬型の小型気象観測装置を搭載し、移動しながら気象データを採取します。データはアルゴス衛星を利用して横須賀に本部がある海洋研究開発機構(JAMSTEC)へリアルタイムに送信され、データの少ない極域の気象研究に協力します。
◆今年の1400km徒歩行を成功させ、来年の北極点無補給単独徒歩到達に繋げたいと思っています。今後、北極点挑戦には多くの課題が山積していますが、なんとか夢を現実のものにできるよう、ジタバタしようと思います。この場を提供していただいた江本さん、紹介していただいた安東さん、ありがとうございます! 最後まで読んでいただいた皆さん、読んでいただきありがとうございます! では、行ってきます!(荻田泰永 北海道上川郡 詳細はhttp://www.ogita-exp.comで)
■12月に報告させていただいた風間一味ゴーゴーチャリダーズのサキです。「運動器の10年世界キャンペーン」の一環で、ユーラシア、アフリカ、オーストラリアに続き今回は日本各地にいる元気な障がい者100人を巻き込んで電動アシスト自転車(今回はヤマハ製)や車椅子、ハンドサイクルを使い駅伝形式で日本縦断を試みます。テツ、マサ、サキの「オーストラリア軍団」もサポーターとして、そしてもっと多くの方に『運動器』というものの大切さを知っていただくために全行程お供します。
◆第1ステージは2月21日午前9時、沖縄守礼門近くで、エイサーの元気な踊りに見送られて出発、23日鹿児島に入り、日本列島を北上します。3月12日東京に到着する際には東京国際フォーラム前広場で自転車チームの第1ステージのゴールを迎えるイベントが予定されています。
◆第2ステージは4月7日東京駅前を出発し、11日は仙台にてイベント、16日には札幌に到着の予定です。みなさんの頭の中に日本地図は描けたでしょうか。そこで旅のプロ、地平線会議の皆さんへ挑戦状です。走っている私たちを見つけにきてください。そして盛り上げていただけると幸いです。
◆参考までに九州上陸以後の日程はこんな具合です。24日・熊本、25日・福岡、26日・佐賀、27日・福岡と走り、28日に四国の愛媛へ。3月1日に広島、岡山と本州に入った後2日は四国に戻って、香川、徳島。3日に近畿地方の兵庫入りし、4日19時から神戸市医師会館でイベント。5日は兵庫、大阪、京都と走り、6日滋賀、7日中部地方入りして岐阜、愛知、8日に静岡、9日山梨、10日再度静岡、そして11日神奈川というふうに走ります。道のヒントはブログの中に! あたたかいご声援お待ちしております。
◆さて、今回オーストラリア軍団は準備にも駆り出され事務所内外はテンヤワンヤ忙しさのあまりにお祭りのようになっております。かくゆう私も歯科助手の仕事を辞してまでこのお祭りにどっぷり浸かり忙しさを楽しんでいます。旅の醍醐味は準備にあり。地図を広げ見知らぬ土地に想像を膨らまし、日本各地でどんなパワフル障がい者と出会えるか楽しみにしています。
◆それにしてもオーストラリアの環境と違って日本は道路も狭く自転車が快適に走れる環境はなかなかないものですね。かといって田舎道を走ってはキャンペーンを知ってもらえない! あぁ困ったものです。「障がい者スポーツ」のひとつとしてだけではなく健康のための「生涯スポーツ」のためにもサイクリングロードや自転車通行帯が整備されるといいですね。(今利紗紀)
★風間深志隊長によると、一行の行動は「運動器の10年キャンペーン」のホームページ(http://bjdcampaign.info「ボーン&ジョイント・ディケード」の頭文字を取った)に「自転車日本縦断の専用のブログ」を設置、そこでサキさんが日記風に発信する予定という。
■航海を中断し何か月が経ったのだろう。随分と長い間、あてもなく漂っていたように思う。舟を造るべくインドネシアを奔走した6か月。太陽と風を頼りに海の上で過ごした4か月。あの光景が果たして本当に自分の体験だったのか。日本にいる自分と旅をしていた自分。どうも合致しない。関野さんが立ち上げた黒潮カヌープロジェクト。かれこれ2年が経とうとしている。
◆多くの学生や卒業生が関わり、多くの気づきを得た。鉄器づくり、縄づくり、保存食づくり、カヌーづくり、映画撮影、資料作成、web制作、運営管理…。関わった多くの者たちに大きな影響を及ぼしたのではないかと思う。僕の人生は大きく変わった。そして戸惑っていることも確かだ。このプロジェクトを通して得られるものが何であるか。予想していたことも予想外のこともあった。
◆しかし追い求めてきたものをいざ手にした時、この手からこぼれ落ちていったものがあった。それらはきっと僕が世の中に委ねていたものだったのだろう。そもそも自分が獲得したものではなかったのだ。それらを当たり前として暮らしていくことも出来たかもしれない。けれど幸か不幸か、自らの目で、体で物事と向き合うことを覚えてしまった。そんな自分を、僕は果たして手に負えるのだろうか。
◆スクリーンに映し出された自分の姿は、必死ながらも実に楽しそうだ。先のことはわからない。ただ、この夏沖縄にゴールした時の自分が楽しみだ。(海のグレートジャーニー遠征スタッフ 前田次郎)
〈お 知 ら せ〉
今春 劇場ロードショー決定!
『僕らのカヌーができるまで』
2010年4月17日(土)〜30日(金)
JR東中野駅前、ポレポレ東中野にて
20時50分よりレイトショー!
http://bokuranocanoe.org/
■江本さん今晩は。今日比嘉小学校で学芸会がありました。幼稚園から6年生まで35人がみんな重要な役割を果たし、のびのびと演技して感動しました。また校長先生が沖縄空手の有段者なので子供たちによる空手の演目もありみんなとても上手でした。夕方からは、平安座島での学校統廃合反対集会があり600人くらい集まったそうです。その後それぞれ4島からの代表を出し学校存続連絡協議会が立ち上がりました。比嘉からは代表3名の中に私も入りました。うるま市議会は2月24日に開かれ、教育委員会は学校統廃合案を提出しようとしています。まずはそれをさせないための4島合同学校存続決起集会を2月11日に平安座島で開くことになりました(1月31日)。
■こんにちは。教育委員会が議会に提出するかどうかは今週中に決まるらしく、島はあわただしい空気に包まれています。ようやくPTAも動き出したみたいで4島合同会議を持ったりしているようです。とはいえ私達は最近ヤギの出産ラッシュに加え毎日毎日天気が悪く雨続きで、牧場仕事にかかりっきりで、さらに14日は旧正月で家や実家の掃除もしなければならず、かなり忙しくなかなかそっちまで手が回らない状態で心は焦るばかり。とりあえず11日の決起集会はたくさん人を集めるためがんばりたいと思っています。(2月9日 外間晴美)
追記:さっきあった4島協議会で、明日は教育委員会に傍聴に行くことになりました。明日の教育委員の会議で議会にあげるかを決めるらしく、会議は一般人も傍聴できるということでなるべく多くの人間で傍聴に押しかけようというのです。教育委員にプレッシャーかけてきます。(2月9日夜)
■我が家は週の半分はカレーを食べているが、先日あらためてカレーについて考える機会があった。空気はきりりと冷たいものの、青空が広がる東京晴れの1月某日。荒木町の“エモの巣”で噂のエモカレーをご馳走になった。参加者は、地平線会議に誘ってくれた、仕事仲間でもあるカコさん(妹尾和子さん)、わたし、そしてこの4月で来日20年目に入るネパール人のわが相方の3名。
◆「アジャルにカレー? 少しプレッシャーだが」といいつつ、カレーの国のひとの反応を見守る……そんな江本さんを前に、エモカレーを一口食べるや「あ、甘い」と相方。決してグルメではないのだが、野生児の味覚は素材に敏感で、こういうところでやけに鋭い。いやいや充分、辛さもあるじゃないのと思いつつ様子をうかがっていると、「最後にリンゴを丸ごとすりおろして入れているから」と、江本さんがあっさり秘伝を公開。さらなる説明によれば、すりおろしリンゴに至るまで、玉ねぎやセロリ、おくらをはじめ、煮込んで煮込んで、姿を消してしまった野菜が何種類も入っているという。溶けるまで煮込んで、野菜の旨みを凝縮する。これがエモカレーの極意であるらしい。
◆たしかに日本人にとってカレー=コトコトじっくり煮込むものというイメージが強い(本格的になればなるほど)。ところが「そんなに火を使うなんて贅沢だなあ」というのが、ごく一般的なネパール人の感覚だ。頻繁にカレーを食べている我が家だが、簡単なメニューなら、野菜をむく、切るという準備段階も含めて所用時間20分。時間がかかるものでも1時間もあれば出来上がる。ネパールでは、1つのカレーにそれほどたくさんの具を入れることはなく、生姜、ニンニク、玉ねぎなどの香味野菜をのぞくと、使う具材はだいたい2〜3種類。野菜(と肉)の組み合わせ方も、だいたい決まっている。
◆カトマンドゥの緯度は奄美大島とほぼ一緒、と聞くと驚く人が多いけれど、そんなわけでゴーヤー、へちま、冬瓜など瓜科の野菜はひととおりあるし、よく食べる(もちろんカレーとして)。JICAの農業指導などもあって、カトマンドゥ周辺では野菜の種類は年間を通して豊富になっているものの、葉物野菜を中心に季節感はまだまだある。カボチャの茎と枝豆のカレーは夏場の味だし、カリフラワーが抜群においしいのは秋から冬。だから路上の野菜売りから買ってくるのも、安くておいしい旬の野菜が中心になる。
◆相方いわく、日本カレーの最大の特徴は小麦粉にある。あのとろみを指して、「ルーのカレーはヘビーだよね」といいながら、インスタントラーメン同様、時々無性に食べたくなるらしい(翌日、カレーうどんにするのがお気に入りの食べ方)。ネパールにはルーやカレー粉というものはなく、つくるカレーの具材によって、使うスパイスがいくつか入れ替わる。どのカレーにも使う、味つけの基本になるのがクミンパウダー、ターメリック、レッドペッパーで、あとは肉、魚、卵など、たんぱく質の匂いを消すため、それぞれに合ったスパイスを使い分ける。
◆辛さは、熱した油に入れる鷹の爪の量で大方決まるのだが(油に馴染んだ辛さは消えません)、味を左右するのは、香辛料と塩を入れるタイミングと量。それぞれの野菜(具)を火にかけるときに、適量の香辛料と塩を入れず、足りないからと最後に香辛料を加えたり、やっぱり味が濃いからと水を加えると、味がしまらない(と力説する)。
◆エモカレーにアドバイスがあれば、という江本さんに「説明するより、つくるのを見てもらった方が早いです」と相方。「うちでもつくってもらいましたよ」とカコさん。そんなわけで、近いうちにどこかでネパーリーカレーの会なるものが催されるかもしれません。
◆実は相方がいちばん反応したのは、モンゴル・スペシャリストの江本さんが秘密兵器のように出してくださった、草と乳の香りがするモンゴルのお酒、シミーン・アルヒと乾燥モンゴルチーズだった(カレーといわずにごめんなさい!)。お酒もチーズも、その原料は馬乳や山羊の乳とのこと。いずれも乳臭さに酸味が混ざった日向臭さが鼻にツンとくるものの、これがまたクセになる。姿かたちでは性別の判断をしがたいほど離れた場所にいても、その雌雄を彼らの体臭で判断できるくらい山羊を身近な存在とし、ゴートチーズに目がない相方の前では、司馬遼太郎夫人のみどりさんから贈られた大吟醸「坂の上の雲」(この日、開けていただいた貴重な一品。すばらしい美酒でした)も、スコッチウィスキーや南極ウィスキーも前座に過ぎなかったようで、江本さんが持ち帰った貴重なモンゴル酒とチーズは、あっという間に彼のお腹におさまっていった。
◆さんざんチャンポンしたにもかかわらず、最後にいただいた、すでにクース(古酒)化した梅酒に薬効があったのか、翌日は二日酔いもなし。ネパールの政治の話にも付き合ってくださった江本さん、カコさん、どうもありがとうございました。(塚田恭子)
先月以後、通信費(年2000円)を払ってくださった方々は次の通りです。中には数年分、まとめて払ってくれた方もいます。万一記載漏れがありましたらご連絡ください。
シール・エミコ/平田裕子/一柳百/福原安栄/川本正道/長澤法隆/下地悦子/古山隆行・里美/藤木安子/渡辺泰栄/米満玲/杉山貴章
30周年記念カンパへのご協力ありがとうございました。
宮本千晴 宮澤美渚子
『地平線月世見画報−地平線通信全予告面集 1979.9.28〜2009.11.21』好評販売中。A5判・本文288ページ。1ページに2点ずつ地平線通信に掲載された案内を収録。頒布価格:1冊1000円 残部僅少!
■先月の地平線通信ではスペースが足りなくて紹介できませんでしたが、長野亮之介+丸山純コンビによる恒例の「地平線カレンダー」、2010年分が昨年末に完成しています。今回のタイトルは『琉風本草図会』。以下は、表紙に配した画伯の「絵師敬白」から。
「絵師啓白:沖縄シリーズ第三弾です。地平線会議にも縁の深い浜比嘉島(うるま市)でのスケッチをもとに、野生種も栽培種も含めた沖縄の有用植物を描きました。それぞれの絵の片隅に、動物たちがワンポイントで登場します。」
判型は例年と同じA5判(横21cm×縦14.8cm)。2ヵ月が1枚のカレンダーになっていて、それに表紙を付けた全7枚組です。頒布価格は1部あたり400円。送料は8部まで80円。
地平線のウェブサイト(http://www.chiheisen.net/)から申し込んでください。葉書での申し込みも受け付けています(〒167-0041 東京都杉並区善福寺4-5-12 丸山方「地平線カレンダー・2010係」)。
★お支払いは、郵便振替で。カレンダー到着後にお願いします。混乱を防ぐため、いきなりご送金いただくのではなく、かならず先にメールや葉書で申し込んでください。「郵便振替:00120-1-730508」「加入者名:地平線会議・プロダクトハウス」。通信欄に「地平線カレンダー2010代金」とご記入ください。 地平線報告会の会場でもお求めいただけます。
1月号の地平線通信の発送に駆けつけてくれた皆さんは、以下の通りです。大いに助かりました。ありがとうございました。
森井祐介 松澤亮 橋本恵 新垣亜美 江本嘉伸 杉山貴章 妹尾和子 山辺剣 尾関裕思 武田力 満州 中山郁子 加藤千晶
■朝青龍の引退。いろいろ考えさせられる出来事だった。再三事件を起こした当人に非があるのは当然だが、彼が登場する時の、土俵の面白さ、あの緊張感。「ヒール」というだけでは済まされない、「熱」の持ち主だったから。
◆モンゴル語が堪能で映画「プージェー」の字幕を担当した三羽さんに思わず電話したら、すぐに原稿が届いた。「あいつだけは許せない」という人が多い中で、こういう見方もあるのだ、と知っていてほしい。
◆浜比嘉島のスタッフ専用炊事係として多少の評価を得た我がカレー、ネパールの知識人に一蹴されてしまった。「カレーは塩で食う」が常識らしく、確かに大量野菜の独特の甘みが売りのエモカレーは、基準外なのだろう。その彼がモンゴルの乳の酒、シミーン・アルヒ(滋養ウォッカ)に反応したのは、さすがだった。日本人であの味をわかる人は稀だ。苦労して持ち帰った貴重品を評価してもらい、嬉しかった。
◆通信を読めばわかるように、先月の谷口けいさんの話、映像とともに素晴らしい内容だった。このようなレベルにまで私たちの報告会は来ているのだ、と聞きながらしみじみ思った。けいさんはじめ1円のお礼もできない地平線報告会という場で最高の話をしてくれる毎月の報告者に心からお礼を言います。
◆シール・エミコさんと時々、連絡を取っています。アップダウンが激しい日が続いてるとのこと、地平線の皆さんにくれぐれもよろしく、とのことでした。静かに祈るのみです。
◆先月号の通信9ページの「山のドクター“雪崩”埋没生還記」の書き手が「神」とだけなっていました。正しくは「神尾重則」です。お詫びして訂正します。また、同じ号の「先月の発送請負人」で「1月号の」とあるのは「12月号の」の誤りでした。(江本嘉伸)
石楠花(シャクナゲ)峡谷からの脱出
「90年も前のウォード(英国の探検家)を上回る旅を、その後誰もしてないんですよ。これはやるべきだと思って」と言うのはフリージャーナリストの角幡唯介さん(33)。昨年12月東チベットのツァンポー峡谷を単独で踏査しました。ウォードがこの谷の中でも近づけなかった「空白の5マイル」地帯を、角幡さんは'02年に踏破しています。 今回の計画では西側のギャラから「5マイル」までをつなぎ、ヤル・ツァンポー河の大屈曲地帯の全域踏査とする予定でした。目標域は未解放区のためガイドはつけられません。地図一枚を頼りに踏みこんだ谷は、シャクナゲのヤブと積雪で思うように進めない。そのうえ、予想外の寒波に襲われて停滞。食料も底をつきはじめ、計画の遂行よりも、生きて脱出することが最優先課題となってしまいます。 今月は角幡さんに、このサバイバル脱出行の顛末と、ジャーナリストとして退路を断った生き様を語って頂きます。 |
通信費(2000円)払い込みは郵便振替または報告会の受付でどうぞ
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議(手数料が120円かかります)
地平線通信363号/2010年2月10日/制作:地平線通信制作室/編集長:江本嘉伸/レイアウト:森井祐介/イラスト:長野亮之介/編集制作スタッフ:丸山純 武田力 中島菊代 大西夏奈子 落合大祐 加藤千晶/印刷:地平線印刷局榎町分室
地平線Webサイト http://www.chiheisen.net/
発行 地平線会議 〒160-0007 東京都新宿区荒木町3-23-303 江本嘉伸方
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