2010年1月の地平線通信

■1月の地平線通信・362号のフロント(1ページ目にある巻頭記事)

地平線通信表紙

「1月1日。きのうの夜、山から帰った。8日に出たのだから3週間以上の山だった。北穂のてっぺんで良き者たちの無事を祈った。雪崩はいやだ。悲しみ、悲しませたくない。晴れた日、山々は美しかった。吹雪く日、瀧谷を吹き上げる風雪は厳しさそのものだった。遭難を聞き、家で読んだ。専大で6人やられた。明大でひとり死んだ。今朝、立命館が危ぶまれていた……。」

◆万年筆でたて書きの文章。1960年とあるから、ちょうど半世紀前、19才になったばかりの自分の日記だ。山岳部の新米として初めての本格的冬山。雪の穂高岳を南稜から登り、北穂の頂上に張ったテントと小屋で直下の滝谷の氷壁を登りにゆく先輩たちのサポートにあたった。実際にできたことは、涸沢小屋からの荷揚げ、それにブロック切りと水作りと飯炊きぐらいだったが、雪の山をほとんど知らない19才にとって、3000メートルの山を登下降、滞在するだけで、冒険だった。

◆大学山岳部が元気な頃で、私たちの外語大山岳部は滝谷の初登攀ルートの開拓に情熱を燃やしていた。この時も第二尾根P1、P2フランケに2パーティーが取り付いたが、P2パーティーのひとりが転落する事故が起きてしまった。幸い捻挫だけで済み(勿論、軽くはなかった)、本人は仲間に支えられ、這うようにして深夜山頂のテントまで帰ってきた。

◆遭難は、いつもすぐ隣にあった。日記の中で「専大で6人……」というのは、槍ヶ岳に突き上げる北鎌尾根を目指した専修大学山岳部員6名が北鎌沢で雪崩遭難したことを意味する。当初は私たちも冬合宿を北鎌尾根としていたので、他人事ではなかった。12月21日の山日記。「−17℃ うすぐもり。7時のニュースで昨日の専修大の北鎌沢雪崩遭難を知る。9人のうち3人を残して死亡したものらしい。いやな気持ちである」

◆滝谷にはその後も通い続けた。北穂の頂上から下りて登るのではなく、飛騨側の蒲田川出合から一気に登る。蒼氷のシャンデリアを見ながら、ブルーアイスの雄滝を越え、第一尾根、第二尾根、D沢、とアイゼンをきかせて登り続けた。とりわけ末端(蒲田川出合から)からの第一尾根登攀は山岳部の宿願だっただけにひとつの課題をやりとげた充足があった。1962年3月19、20日のその記録は今も自分のノートに17ページにわたってびっしり書かれて残っている。

◆新年早々、昔の山登りの話を自慢げに書いているが、実は先月に続いて「記録しておくこと」の面白さを言いたいからだ。私はモンゴル、チベット、ロシアなどの旅についてはその都度詳しい旅日誌を書いているが、普段は日記をつける習慣はない。しかし、青春前期ともいうべき10代のなかばから20代はじめまでは、なぜか書くことに熱中していたようで、今も当時の克明な日記が残っている。

◆そんなのは恥ずかしいものだから、さっさと焼いてしまえ、という人も多いであろう。実際、かなりの部分焼き捨ててしまいたい内容だ。でも考えてみよう。当時は、50年後の自分が一体何にひかれ、どんな思いを抱き、どんなふうに生きているか、想像もできなかったのだ。お前は一体何なのか。どのように生きてきたのか。青春の日に書いたものの中には、半世紀という時間を経てあらためて老いた自分に発信してくるものがあるのである。

◆ただ、大事なことは書くものの中にしっかり「情報」を残すことである。単に美しかった、楽しかった、感激した、というだけでは記録する意味は、ほとんどない。時間、場所、いでたち、食べたもの、周辺の地形、聞いた音楽、匂いなどなど。その意味では登山の記録というのは、ひとつのモデルとして記録の方法を示唆しているようにも思える。

◆記録といえば、今号の通信の賀曽利隆、角幡唯介、神尾重則各氏の文章に注目してほしい。モチベーションも行動のスタイルも状況もまったく別々でそれぞれ自分の体験を書いているだけなのだが、何かつながるものがあるのである。それは、死と隣り合わせになった一瞬を体験し、そこから見事に生還したという厳粛な事実だ。そういうテーマを考えていたわけではないのに、3人の書いてくれた内容は、偶然にも2010年最初の地平線通信を迫力あるものにしてくれた。

◆鷹匠・松原英俊さんのノグチゲラ発見の文章も深い。こういう文章が無造作に載るメディアは滅多にない、と思う。地平線会議という「場」の贅沢さであろう。いま、20代、30代の若手たちが、記録することにもっと貪欲であれと希う。ただし、彼らが50年後、どんなふうに自分の足跡を振り返り、何を感じるのか、私は聞くことができない。2060年、地平線報告会は、続いていればだが、969回を数える予定だ。(江本嘉伸


先月の報告会から

ハンディキャップチャリダーズ ゴーゴー豪州!

風間深志 田中哲也 今利紗紀 山崎昌範

2009年12月25日 新宿区スポーツセンター

■中国でのバイク事故から奇跡的に生還!という速報が2週間前にあったばかりの賀曽利隆さんが、「皆さん、こんにちはー!」と元気な笑顔で現れ、報告会冒頭で報告者の風間深志さんについて熱く語ってくださった。なんとしてでも駆けつけたかったのだと思う。「風間さんは神の目をもった人!」と、1982年のパリ・ダカール・ラリーを振り返って語る賀曽利さんの話を、風間さんはくしゃくしゃに笑いながら聞いていた。

◆40年間近く、共に冒険の夢を抱き情熱を焦がして地球を走りまくってきた賀曽利さんと風間さん。当時、読売新聞の記者だった江本嘉伸さんが、20代だった2人のキリマンジャロのバイク登頂計画を取り上げた記事がきっかけで、風間さんは会社を辞めて冒険家へと一気に転身した。その後数々の世界記録を打ち立て、二度目の挑戦となった2004年のパリ・ダカで大事故に遭う。

◆左足の治療は難航し、見るからに豪傑の風間さんでさえ入院中は笑顔が消えかけていたと聞いた。しかし、風間さんは今まったく新たな地平を切り開き、運動器(骨・関節・筋肉・靭帯・腱・神経など、身体を支える器官)の大切さをアピールするキャンペーンに呼応した、世界一周の旅に4年がかりで挑んでいる。第1弾は2007年のスクーターによるユーラシア大陸横断18,000km。第2弾は2008年の四駆車でのアフリカ大陸縦断。そして第3弾が2009年8〜10月、足にハンディキャップをもつ3人の仲間と自転車で走ったオーストラリア横断5,150kmの旅だった。

◆スライドを見ながら風間さんが話し始めた。前回訪れたアフリカでは義足センターを訪れ、義足の出来上がりを待ちわびる少年と出会う。「アフリカの子たちって普段の生活が厳しくて、足の一本くらいなくても治療してもらえて嬉しいくらいっていう感じで、次元を超えた元気さがあった」。

◆またある時は、現地の少年2人組に突然あざ笑われて驚いた。足が不自由になってから他人の目線に敏感になったという風間さんは、彼らが自分の足をばかにしているのだとすぐにピンときた。カメラをぶら下げて歩き、どこか先進国の人間気分でいた自分が、貧しい国の人に見下げられている。その図にはっとした。下から世界を見るって面白いな!と、新しいベクトルに出会えた興奮を感じた。この土地では、五体満足で元気に歩けることが何より重要な現実だった。

◆場面はいよいよオーストラリアの旅に突入! 公募などで集まったメンバーは、自称イイカゲーンな風間隊長らしく事前打ち合わせなしに成田空港で初めて対面。出発地点のパースでは「今回の旅ではみんなカミングアウトして本音で話そう。喜怒哀楽も隠さず出して自分の障害と立ち向かって行こう」と約束した。53日間にわたる旅は、1,000kmごとに交代で計5人の医師が同伴するが、健康面の自己管理が重要になるためそれぞれに緊張があった。風間さんは「決して背伸びしないで今の体でやる。そのうち慣れてくる」を自身の心得として出発した。

◆メンバーの“マサ”さんこと山崎昌範さんは、48歳。8年前に勤務先で車の部品に押しつぶされ、頚椎の4・5・6番目を損傷。当時は首から下が動かない重症だったが、「リハビリと運と先生に恵まれて」杖をついて歩けるまでになった。リハビリに飽きると病院を抜け出し、パックとテントを持って日本中旅したこともあるマサさん。しかし今回は出発2週間前に風間さんから「オーストラリア行くか?」と突然の誘い。2人の若いアスリートたちに“普通の障害者”である自分がついて行けるのか。正直心配だったが、遅れるのは嫌だ!と負けん気一本で進むうち、気がつくとゴールしていた。

◆左手足は今でもしびれや麻痺があり、オーストラリアのザラメのような凸凹道では自転車の振動が楽ではなかったのも本音。でも今の現状と向き合おうという一心で前へ。「異国の地でマサの関西弁を聞くと、日本を思い出して癒されたよー」と風間さんが嬉しそうに笑った。旅では夜な夜な居酒屋マサを開いていた酒盛り番長だ。

◆紅一点の“サキ”さんこと今利紗紀さんは、歯科助手をしている26歳。「初めて会ったとき、美人でビックリした! 俺ってやっぱりついてるなあ」と風間さんが話すように、とても可愛い女性。外見は健康体に見える彼女は大学の体育学部にいた20歳のとき、骨のがんである骨肉腫を発症し休学して手術。大好きな運動をあきらめなさいと医師からは言われ、抗がん剤治療を受けながら毎日病院の白い天井ばかり眺める日々。

◆心まで壊れてしまいそうなサキさんに、主治医から「もう何でも好きなことやっていいよ」との一言。すぐ復学して見事に教員免許を取得した。手術の際は足切断か人工関節か選択を迫られ、運動を続けるため義足を履ける前者を選びかけたサキさんだが、周囲の薦めで足を残すことにした。必死のリハビリで、今はスキーも100m走もやれる。「前例がないなら私がやってやる!」、サキさんからは負けるもんかの信念が伝わってくる。

◆がんが肺に転移し、両肺の手術も経験済み。今も3か月ごとにがんセンターで検査があり不安は消えないが、今回の旅の企画を知り「これなら楽しそうじゃん!」と思った。同時に、骨肉腫をもっている人たちに、運動をあきらめなくても平気だよと希望をもってほしくて、それを前面に出していこうと思った。「サキは気丈夫。崖っぷちに立った人の腹の座り方がある。女は年じゃないね、強さがあるよ」と風間さん。彼女のガッツで旅のムードがさらに勢いづいたことは何度もあった。

◆最後は“テツ”さんこと田中哲也さん、38歳。チームの顔とよばれる理由は、片足にサイボーグのような金属製の義足をつけていて、見た瞬間に足がないとわかるからだ。「僕は見た目はこの4人の中で一番重いけれど、進行もないし痛みもないから本当は一番軽いんですよ」とテツさん。19歳のときにバイク事故に遭い手術。病院のベッドに寝ていても片足がないことに気づかなかった彼に、「足がつかなかったんだよ」と母親が告知した。ショックで1週間落ち込んだが「考えてもしょうがない! 楽しもう!」と、障害者スポーツにのめりこんだ。

◆長野とソルトレイク五輪ではパラリンピックのアルペン日本代表選手として出場。小さい頃から青森の実家で畑仕事をして鍛えた体力には自信がある。トリノ五輪代表の選考大会では、気合が入り加速しすぎて転倒、唯一の一本足を骨折して冷や汗! 今は引退してスキーインストラクターとして活躍している。風間さんが「旅の出発前にテッちゃんに電話したら、今墓参り中だって言うんだよ。誰のお墓って尋ねると、自分の足が埋まってるって言うんだよ。驚いた!」。

◆もう1人紹介したい人がいる、と風間さん。現地のサポートチームの一員である帝京大学医学部整形外科学講座教授の松下隆先生だ。“運動器の10年”の提唱者で、日本支部の運営委員長でもある。治療が上手くいかず13ヶ月間苦しんでいた風間さんを1週間で治した恩人。「俺の“治しの親”。医者を超えてお父さんのような存在です」と風間さん。松下先生曰く「外傷分野だけに限って言えば、先進国では日本の治療は飛びぬけて最低。なんとかしなければいけない」。それはまさに風間さんが身をもって感じていたことで2人は意気投合し、風間さんが“運動器の10年”を知るきっかけになった。

◆旅のスライドが続く。空が大きい! 大地も大きいし海も大きい! 山火事で焦げた森林地帯や、穀倉地帯、放牧地を、電動アシスト付き自転車のペダルを漕いでひたすらに進む4人(バッテリーは太陽でチャージ)。遠目では普通のサイクリストに見えるが、通り過ぎるトラックの運転手たちは、テツさんの一本足を目にしたり、キャンペーンだと知ると、ピースサインや時には10ドル札でエールを届けてくれた。「義足は生足の回転の速さについていけないので、全部一本足で走ったんです、ハッハッハー」と笑うテツさんに「なんのための義足だよォー。ずっと肩にかついでるんだもん。ワハハー」と風間さんも大笑い。珍道中のエピソードと掛け合い漫才のようなチームワークで会場にも笑いが絶えなくて、エネルギッシュな4人に圧倒された。

◆この旅の大事な目的の一つである外傷治療施設の訪問では、高級デパートのようにきれいな施設に驚いたと話す風間さん。松下先生は「スタッフも大事。日本でも、ヘリが着陸できる場所を確保したり、医師を分散させず集めて24時間体制をつくることが必要」と話していた。

◆最後に一言ずつお願いすると、「自分が動けば、チャンスはたぶんどこかに転がってるんだと思う。健常者も身障者も関係ない、チャンスがあったらつかんでみましょうや!と感じたのが一番の思い出です」とマサさん。

◆続いてサキさんが「道中で死んでいるカンガルーを見たり何もないところを走っていると、ああ私は生きているんだなーと思う。再発の危険性と闘いながらハラハラしているし、苦しくても生きて自転車をこげることにありがたさを感じた。生きてるって感じながら、今も生きてます!」。

◆テツさんは「何もない146kmのストレートラインのナラボー平原をまた走ってみたい。この片足でどこまで自分の可能性を最大限に活かせるのか、健常者にどこまでくらいついていけるのか、逆に追い越していけるのかが僕の目標。障害者がなんだって言われないようなスポーツ選手を目指していきたいですね!」。

◆最後は風間隊長。「つくづく思ったよ〜、元気っていいなあ!って。何かに挑んで頑張るっていいなあ。障害者も健常者も関係ないよ!」。

◆報告会の余韻は続き、2次会でも大騒ぎ。テツさんの義足を外して触らせていただく機会もあった。女優さんのように美しい風間夫人恵美子さんにも会えてドキドキした。太陽みたいな風間さんの大カムバックと、陽気なマサさん、サキさん、テツさん3人の登場で報告会は常夏にパワフルだった。報告会のあとにはずっしり勇気が残り、年が明けた今もずっと命と体と心について考えさせられている。(大西夏奈子


報告者たちのひとこと

「行動を公明正大に“讃え”評価(時には厳しく)してくれる場が『地平線会議』なのだな」

■冒険(旅)の成果は、後に報告を終えてこそ完結する、と常々思っています。誰にも頼まれもしない冒険(旅)に、勝手に出掛けて行って勝手に帰って来て後「どうだった?」と人様に聞いてもらえるなど、とてつもない幸せと言っていいでしょう。旅先での自分の興奮と感動を、帰ってから他の人達にも共感(理解)して貰えるなどは、旅を2倍にも3倍にも楽しむことに等しいのです。

◆お陰さまで、今回の私たち障害者4人によるオーストラリア自転車横断の旅は、現地において十二分に手応えの有った成果に加えて、帰国後の新宿スポーツセンターの地平線会議の報告会で、すっきり「実」を結んだ感がありました。熱心な皆様の聴聞に対して心から感謝を申し上げます。

◆実は、旅の専門家を前にしての報告会だったから、最初はやや緊張ぎみでした(取り調べされるようで?)が、始まってみれば、逆に「旅心」というものをちゃんと理解しくれている人達だから、普通の人たちよりもずっと深く内容を理解をして貰えたような気がしました。私たちの今回の旅の本音は─「運動器の十年」という社会貢献活動を踏まえて、それぞれの障害を乗り越えて目標に向い頑張ること、(健常者に負けないくらいの)夢を実現する勇気を持つこと─にありました。そして、癌と闘うサキも、左足だけのテツも、脊髄損傷のマサも皆、申し分の無い頑張り様でした。

◆活動の成果の方は、現地でどれほどの人達と出会い実績を積めたか、に見る事が出来ますが、一方の見えない自分たちの頑張りや勇気となると、実感としては旅の途中の苦しみや最終ゴールの感動の中にあっても、所詮は自分達にしか解らない? そんなジレンマを、沢山の方達によって公明正大に“讃え”評価(時には厳しく)してくれる実に有り難い場が「地平線会議」なのだな、とつくづく感謝の気持ちでいっぱいの報告会でありました。

◆当日出席の皆様、スタッフの皆様、本当にありがとうございました。これでやっと「オーストラリア自転車横断」の荷を下ろすことが出来ます。やれやれ……。(風間深志

「皆さんにお会いでき又ひと回りデカクなりました」

■世間知らずで…「地平線会議」ってなんだ? とはじめ思いました。風間さんから聞いたのと地平線通信を見てはじめて知りました。もう30年も続いてる!! ビックリ! です。風間さんの冒険活動をはじめさまざまな冒険活動をされてる方々ばかり。地平線通信を見ているとあんな所やこんな所自分も行ってみたい!所ばかりで……二次会でも沢山の人達とお話ができあっ!という間でした。こんな時間ってホントにあっ!という間ですね!

◆地平線会議では今回のオーストラリア自転車の旅の話はあまりできませんでしたが僕たち障害者、風間さん、やまちゃん、サキちゃんの話はなかなか発表できる機会もなく皆さんとお話でき嬉しくおもいます。8月25日パースを出発しシドニーを目指す! あの広い大陸でしかも自転車! 癒されるのは仲間の声と、菜の花畑の花の香り牛や羊の鳴き声カンガルーやエミューの野生動物でした。53日かけてシドニーにゴール! 5153キロの自転車旅! オイラは右足はありませんが自転車という最高のパートナーと自由自在に動き回れる。オーストラリアのデッカイ大陸のように心身共に成長しました。そして地平線会議で皆さんとお会いできお話ができてさらに成長しました。また皆さんにお会いできる日を楽しみにしています。何かあるのが人生。何もない人生なんてある訳がない。明るい気持ちで毎日、楽しく生きることこそ人生。(田中哲也

「人の記憶に残る人間になりたい。そして、私自身も楽しい記憶を含め喜怒哀楽をより経験し感じたい」

■無事終電にも間に合いました(走れる足に戻ってよかった!)。帰国して2か月。話す相手は友人くらいでもっともっとたくさんの方に伝えたく、うずうずしていたんですワタシ。今回障がい者であるからこそ参加できた企画でしたが、以前の私だったら『差別されてる』って思っていたでしょうね。今は『機会は生かせ。楽しく生きなきゃもったいない』という気持ちで生活しています。

◆報告会で触れたように私を救ってくれたのは闘病の戦友であり医師であり仲間でありスポーツです。自転車がなければ私はただ息をして生かされてるだけでしょう。あぁ身体が動くってなんてすばらしい! 発病当時のことを江本さんに質問されましたが、もう5年も前のことなのに今回のオーストラリアよりも鮮明に覚えていることが多々あります。

◆人間の記憶はなんて残酷なんだろう、直ぐに忘れられたらいいのにと闘病時は思っていましたが、今は人の記憶に残る人間になりたい。そして、私自身も楽しい記憶を含め喜怒哀楽をより経験し感じたい。行動せねば! 伝えたいことがうまく話せず不十分で申し訳ない気持ちがありますが、今回報告会の機会を下さった地平線会議の皆様ありがとうございました。(今利紗紀

「あの地平線会議でまさか、私がお話をさせていただくとは」

■地平線会議のことは、ネットで植村直己さんのことを検索中に知りました。小豆島で隣りのテントの方と地平線会議のことが話題になり、それ以来ホームページを拝見していました。その地平線会議でなんと、まさか、私がお話をさせていただくとは、まったく考えていませんでした。まして自分の障害についてあの様に真面目に語るとは……。

◆いままでは、仲間や、旅の途中で出会った方々に酒の肴として話した程度です。はたして皆さんには退屈せずに聞いていただけたのでしょうか? 自分の中にたくさんの?が浮かんでいます。次回、この様な機会があればもう少しうまく話せるかも……。ですが今回、江本さん、スタッフの皆さん、そして話を真摯に聞いてくださった参加者の皆さんに出会えた事を、たいへん喜んでいます。

◆そして2月にスタートする、風間深志さんの「障害者100人による日本縦断駅伝」(スタートは2月21日、沖縄を出発し各県の障害者が、たすきをリレーして札幌にゴール)に私たちオーストラリア組は、サポート隊として、また私は、マネージャー兼サポートとして全行程に参加します。また何時か、皆さんと会えることを楽しみにしています。(とくに2次会には是非!) (山崎昌範


回想・風間深志さんとの「キリマンジャロ挑戦」

■昨日(12月25日)の報告会での風間深志さんの話には胸を打たれた。何度か涙ぐむような思いをしたが、「風間さん、よくぞここまで回復したねえ…」と、声をかけたくなった。さらに驚かされたのは、「オーストラリア横断」に同行した昌さん、哲さん、紗紀さんの3人。重度の障害をかかえながら、それをちっとも顔に出さず、底抜けの明るさだった。風間さんが3人に大きな影響を与えただけでなく、3人から風間さんが得たものも、すごく大きなものだったと容易に想像できた。風間さんは以前の元気さを完全に取り戻していた。それが嬉しかった。

◆「カソリ&カザマ」がバイクでアフリカ大陸の最高峰、キリマンジャロを登ろうと思いたったきっかけは、なんともたわいのないものだった。ぼくが『月刊オートバイ』誌で「峠越え」の連載をはじめたのは1975年春のこと。そのとき、編集部に風間さんがいた。風間さんは「峠越え」をおもしろがり、「カソリさんがどんな風に峠越えしているのが、同行取材をしてみたい」ということで、その年の晩秋に甲州と信州の境をなす奥秩父連峰の峠をバイクで越えた。賀曽利隆28歳、風間深志25歳のときのことだった。

◆雪の降る標高2360メートルの大弛峠を越え、信州峠を越えて一晩、甲州の温泉地、増富温泉で泊まった。温泉宿では湯上がりのビールを飲みながら、話のボルテージをどんどんと上げていく。「カソリ&カザマ」は波長が合った。「オレはね、日本中の林道を全部、走破したいね。自分の走ったコースを地図上に赤く塗ってさ。日本地図をまっ赤にしてやる!」とカザマ。「ぼくはね、日本中の峠を全部、越えてやるんだ。何年かかっても絶対にやってやる!」とカソリ。「でもさ、カソリさん、日本なんて小っちゃいよ。どうせやるなら、世界で一番高いところにバイクで登ろうよ。オレたち男なんだからさ」。「カザマさん、でもエベレストは無理だな。アフリカのキリマンジャロならバイクでピークを極められるかもしれないよ」。「いいねー、カソリさん、やろう、キリマンジャロにバイクで登ろうよ」。結局、この増富温泉での“ほら話”がバイクでのキリマンジャロ挑戦のきっかけになった。

◆増富温泉からの帰り道では「よーし、バイクでキリマンジャロに登ろう!」と、風間さんと気合を入れて語り合った。東京に戻った後も、風間さんに会うたびにキリマンジャロの話をしたが、それはしょせんは夢物語でしかなかった。夢を弄んでいる楽しさはあったが、キリマンジャロ計画はすこしも進展しないし、それにともなう苦労も苦痛もまったくなかった。月日はどんどんと流れていったが、キリマンジャロはあいかわらずぼくたちの手に届くところにはなかった。風間さんと一緒に奥秩父の峠を越えてから4年後の1979年の初夏、『月刊オートバイ』の風間さんの担当している「オフロード天国」というページの企画で、南アルプス・スーパー林道の北沢峠を越えようと試みた。開発か、自然保護かで大もめにもめた峠だ。

◆一晩、山梨県側の峠下の広河原で野宿し、翌朝、夜明けと同時に出発した。このとき林道はまだ完成していなかったので、工事のはじまる前の時間帯をねらっての北沢峠の峠越えであった。峠道を登るにつれ、甲斐駒ヶ岳が目の前に迫ってくる。残雪が朝日を浴びてキラキラ輝いていた。想像していたほどの苦労もなく、山梨・長野県境の標高2032メートルの北沢峠に立った。峠を越え、長野県側に入り、峠下の戸台に下った。「オレたち、日本で最初にバイクで北沢峠を越えたんだ」。このときの北沢峠を越えたという感激がキリマンジャロに対する気持ちをメラメラと燃え上がらせた。ぼくたちはさっそく具体的な「キリマンジャロ計画」をまとめあげ、「チーム・キリマンジャロ」を結成した。

◆計画がかなり具体化したころ、読売新聞夕刊の社会面に5段抜きの大きな記事で、ぼくたちの「キリマンジャロ計画」が報道された。江本嘉伸さんが書いてくれた記事だ。この江本さんの記事が冒険家、風間深志を誕生させることになる。

◆読売新聞の記事の直後に、風間さんは会社の副社長に呼ばれ、その席にぼくも同席した。「いやー、読売の記事を見たよ。なんとしても成功するようがんばってくれ。会社としても全面的にバックアップしよう」と、そのぐらいのことを言ってもらえるのではないかと期待したが、甘い期待は見事に打ち砕かれた。

◆副社長は風間さんに「どうしてもキリマンジャロに行くのなら、会社を辞めてもらわなくてはならない。風間君だけに特別な休暇を出すことはできない。考えてもみたまえ。もし私がここでキミの休暇を認めていたら、同じようなケースが次から次へと出てくるのは目に見えている」と、まさに企業の論理でそう言った。副社長には考え直してくれるように頼みこんだのだが、ムダに終わった。風間さんはキリマンジャロをとるか、会社をとるかでずいぶん悩んだが、結局、会社を辞めてキリマンジャロを取った。風間さんにとっては、まさに一世一代の、人生を賭けてのキリマンジャロになった。

◆「キリマンジャロ挑戦」はキリマンジャロがナショナルパークになったこともあって、バイクではマラングーからのメインルートに入っていけなかった。で、真南のムウェカからの直登ルートに突入。ジャングルを抜け、氷河地帯を見上げる標高4000メートルの地点で引き返した。ぼくにとってはキリマンジャロはもうこれで十分だったが、風間さんは違った。その後、バイクでネパール側と中国側からエベレスト(チョモランマ)に挑戦し、さらに南米の最高峰、アコンカグアにもバイクで挑戦することになる。

◆「カソリ&カザマ」はキリマンジャロの2年後、1982年には「チーム・ホライゾン」を結成し、「パリ・ダカール・ラリー」に参戦。日本人ライダーとしては初めてのことになる。「地平線会議」を意識しての「チーム・ホライゾン」。ぼくは大会10日目に九死に一生を得る事故を起こし、サハラからパリに空輸されたが、一人きりになった風間さんは残り10日間を見事に完走。まったくサポートのない中で、総合17位に輝いた。これは長らく日本人ライダーの最高位になっていた。

◆サハラの地平線を走り抜いた風間さんは、「パリ・ダカ」で新たなる力を得た。そして信じられないような「神の目」をも持った。その後、風間さんは超人的な力と神の目でもってさらなる地平線を求め、前人未踏のバイクでの北極点到達、南極点到達という快挙を成しとげることになる。それらはすべて、読売の、江本さんのあの記事からはじまったことなのである。(賀曽利隆 12月26日)


地平線ポストから

どうしようもなく不器用でただ武骨に生きるノグチゲラ。それはまるで私を見ているようだ
━━鷹匠、やんばるの森潜入報告

■12月18日、日本海側は吹雪で大荒れの天気が続いているのに『超割』というおそらく最も安い航空券を手に入れたので、また仙台空港から沖縄に旅立った。私にとって12月の沖縄は初めてなので泳げるかどうか一抹の不安があったのだが、やはりというべきかフリースを着ていても肌寒く、太陽は雲にかくれ、海は風が強く白波が立っていた。

◆これではとても海の方は無理と早々にあきらめ、すぐに頭を切りかえ以前から気になっていた沖縄の北部に広がるやんばるの森で生き物たちを捜すことにした。山の標高こそ低いが(最高峰の与那覇岳で503m)、このうっそうとした亜熱帯性の常緑広葉樹林にはヤンバルクイナやキツツキの仲間のノグチゲラ、ケナガネズミ、ヤンバルテナガコガネ等この森だけに棲む珍しい生き物も多い。

◆初めての土地でこんな数少ない生き物を捜すには、現地の専門ガイドをやとえば一番手っとりばやいのだが、そんな予算もなく、何より私自身が人から教えられたり案内されたりするのではなく、自分の目や耳、手足の全てを動員して彼らに会いたいという気持が強い。そのためこの広い森を歩きまわるには機動性も必要と考え、私としてはとてもぜいたくな出費だったが、格安のレンタカー(1日全て込みで3000円)を5日間借りて動くことにした。

◆空港から西海岸を車で北上し、途中で立ち寄った沖縄随一の景勝地万座毛では、私を待っていてくれたかのようにハヤブサが頭上に現れ、最北端の辺土岬では強風に翻弄されながらも2羽のミサゴが上空を舞っていた。また70mの断崖絶壁で知られる“茅打ちバンタ”では自殺騒ぎがあり、多くの警察官や消防団員、さらにはドクターヘリまで動員して死体(?)を捜索していた。

◆辺土岬近くの海岸で泊まった次の日、東海岸沿いに車を走らせていると岸にほど近い小さな島の頂きでミサゴが海面を見下ろしながら獲物を捜しているのを見つけた。私ももしミサゴが魚を捕まえたらすぐに駆けつけて横取りしようと長時間粘ってみたがとうとう獲物を捕ることはなく飛び去った。

◆東海岸沿いの県道70号線ややんばるの森を横断する2号線には『ヤンバルクイナに注意』という標識があちこちに立っている。私も車を走らせながら注意深く捜すのだが、道端に出てくるのはカラスとキジバトばかりだ。そして時々自分の勘をたよりに車を止めて山道に踏み込んでいくのだが、その姿は沓としてとらえることはできなかった。森の中ではヒヨドリがかしましく騒ぎたて、ズアカアオバトが「オーアーオー」と不気味な大声を上げ私を驚かせる。さらに山道をたどっていくと、道端のあちこちにヤンバルクイナの天敵であるマングースを捕獲するための檻が仕掛けられ、私が5日間森を歩いただけでも約40個ほどの罠を見つけた。

◆毎日車の中で寝泊まりして海岸や森を歩きまわり、多くの野鳥を観察したのだが、特に本州では見られないリュウキュウツバメやシロガシラ、また天然記念物で南西諸島にしかいないアカヒゲの美しい姿を間近で見られたのは収穫だった。そして私がなによりも興奮したのは、やんばるの森に入って3日目だった。

◆その日も雲が低くたれこめほとんど人も通らないような山道を歩いていた。まわりはヒカゲヘゴやシダ植物がおいしげりスダジイの林も混生している。私の近くの木にはメジロやヤマガラの群れが飛んできて木の実や虫を捜す。アカハラやヒヨドリも集まり、キツツキの仲間のコゲラの特徴ある鳴き声も聞こえる。その時かなり近くでキツツキが木を打つドラミングが聞こえ、その直後暗い林の中を黒っぽい中型の鳥が低く飛んだ。

◆一瞬だったので何の鳥か識別できなかったが、「もしや…」という思いはあった。心臓が高鳴る。黒い鳥が飛んだあたりは林が混みあってあまり見通しがきかないが、一本一本幹の中段付近を双眼鏡で捜していく。「あっ!!」それは突然のように視界の中に入ってきた。一本の太い木の幹にたてに止まっている黒褐色の鳥。「ノグチゲラだ!!」。私が確認した直後ノグチゲラはツツッと幹を少し登り、パッとまた林の奥へと飛び去った。その間わずかに2秒。一瞬の遭遇だった。目頭が熱くなった。こんな一瞬のチャンスをものにした自分の運の強さが嬉しかった。

◆こんなわずかの日数で、出会うことなど不可能と思っていた珍鳥中の珍鳥。世界中でもこのやんばるの森だけに棲み、その個体数もヤンバルクイナの約1000羽に対してわずかに100羽ともいわれ、トキの次に絶滅の危機に瀕している。羽の色も全身が黒っぽいこげ茶色でなんの華やかさも愛嬌もなく、うす暗いスダジイの林の中を低く飛びまわるだけ。どうしようもなく不器用でただ武骨に生きるノグチゲラ。それはまるで私を見ているようだ。ニホンオオカミやトキのようにただ滅びへの道を突き進んでいるおまえが哀しくとても愛おしい。ただ願わくば、おまえの好きなやんばるの森で滅びるその日までおまえらしく自由に生きろ。(松原英俊

“さや、すずか、たむら”のごろ合わせで、東海道五十三次ジャーニーランに参加した!

■暮の27日早朝、京都三条大橋から東京の日本橋を目指して十数人の人が走り出した。日本のジャーニーランの草分けである田中義巳さんが呼びかけた東海道520kmを走ろうという大会だ。16年前にも彼の呼びかけで、私は地平線最強ランナーの松田仁志さんと一緒に参加したことがある。途中静岡県の清水で我々とは逆に京都を目指して一人で走っている青年と出会い、夕食を共にし、東西に分かれた。シルクロード1万kmを走った中山嘉太郎さんとの出会いだった。

◆今回その中山さんを誘って参加した。練習はしていないが3日間ぐらいは走れるだろうとタカをくくっていた。しかし1日平均で75kmもの距離は今の我々にはきつすぎた。初日の宿泊地、亀山宿で彼は「ちょっとムリみたいだから明日は電車で熱田まで行く」と言う。私はその前にすでに電車とバスを使って土山まで行き、田村神社からは歩いて鈴鹿峠を越え、坂下から関宿経由で亀山宿までは、いかにも走ったような顔をしてホテルに到着していた。

◆多少後ろめたい気もあったが、もともと大会とは言っても田中さんは呼びかけ人で、主催者ではない。それぞれが自主自立でこの期間を一緒に走ろうということだから、走り方は自己責任。しかし7日間フルタイムで完走を目指している人たちは、田中さんがたてた設定時間内に走っており、リタイヤする人はいない。最初から気合いが違うのだ。

◆翌日は電車で先回りして庄野、石薬師宿、佐屋街道などを皆さんと走った。昨日の鈴鹿峠から関宿、亀山宿の間は昔の東海道が復元されており、歴史が重なったようないい道だった。今日の四日市の杖衝坂は足には優しくない急坂で、目の前で芭蕉さまが落馬した様子が目に浮かぶ。案内板によれば、かの古事記にはヤマトタケルがこの坂を敗走したとき「吾足如三重勾而甚疲」(吾足は三重に折れ曲がって、甚だ疲れた)と嘆き、これが三重県の由来と書いてある。

◆芭蕉さまはヤマトタケルの命でさえ歩いたのに、馬で登ろうとした私が悪かったと反省し「歩行ならば杖衝(つえつき)坂を落馬かな」という句を詠んだという。ジャーニーランをすると教養豊かになる。

◆完走を目指すランナーの中には16年前に一緒に走った越田、浅井さんたちがいる。浅井さんのことは「地平線DAS」(1994.9)に、旅人派ウルトラランナーの代表として取り上げた。そのころから今までずっと走り続けている。53日間連続フルマラソン完走でギネスブックに載った人がいるが、旅人派の人たちはアメリカ横断、ヨーロッパ縦断、シルクロードなどでは、毎日フルマラソンの倍以上の距離を2か月も3か月も連続で走っている。まるで映画のフォレストガンプだ。彼らにとっては京都−東京520kmぐらいの距離は余裕なのだ。久しぶりに一緒に走った浅井さんは「鈴鹿峠で世界の中山を振りきったよ!」とうれしそう。

◆昔の東海道は熱田神宮の宮宿からは海路で桑名宿へ渡った。桑名港には伊勢神宮の一の鳥居がある。海路は「七里の渡し」と呼ばれたが、天気や潮の様子で不安定だったので内陸をとおる路も使われた。それが佐屋街道だ。今は大半が名古屋の市街地になっているので走るのに快適な路ではない。しかし今回ここはぜひ走ろうと考えていた。昨年10月、娘一家に2人目の子が生れた。名前は「さや」、じつは1人目の子の名前も「すずか」。これは東海道の名所、宿場の名前じゃないか。

◆ついでに奥さんの旧姓は田村、鈴鹿峠の土山宿には田村神社がある。さらに三輪神社があるといいのだが、そこまではそろっていなかった。さや、すずか、たむらのごろ合わせが今回の東海道遠足参加のおおきな動機だった。夕闇が近づいた佐屋街道は景色も足元も悪くなったが、気分は快適でスピードを上げて名古屋に着いた。快適ランニングはいかにモチベーションを高めるかが大事なのだ。

◆3日目は豊橋吉田宿まで、一番短い65km。私は鳴海、有松のすばらしい街道に先回りして、皆さんの応援走り。その後、東海道名所の松並木、池鯉鮒宿、赤坂宿、御油宿を堪能して、豊川稲荷経由で東京へもどった。しかしこれで終わりではない。

◆年明の2日、箱根駅伝をテレビで見て、小田原から走ってくる皆さんを迎えるために品川宿に行く。予想では8時ごろに日本橋到着だから、品川宿は6時から7時ごろのはずだ。旧東海道を蒲田まで何回か行ったり来たりしてほとんどの人に出会った。それぞれの間隔は空いていたが深夜までには皆さん、翌日箱根駅伝で賑わうであろう日本橋にひっそりゴールした。来年はここから京都三条大橋へ向かう。フルに参加してみようかな。(三輪主彦

「衝突の瞬間、ぼくは一瞬たりとも目を閉じることなく、目をカーッと見開いたままトラックに突っ込んでいった」
━━賀曽利隆・奇跡の「中国ツーリング」顛末

■「広州→上海」2200キロの中国ツーリングから帰ってきた。今回の中国旅はいろいろな意味で、すさまじいものだった。またそれを成しとげたことによって、自分が新たなステップを踏み、別な世界に昇っていったような気もする。

◆12月2日、広州到着。人口1500万の広州上空はすさまじいばかりの大気汚染。息をするのも苦しいほど。世界第2の工業生産地帯、珠江デルタの中心都市だけあって、町は車の洪水。いたるところで大渋滞。そんな広州を出発。125ccスクーターのスズキ・アドレスV125Gを走らせ、上海を目指したが、驚いたことに国道324号沿には途切れることなく市街地がつづく。ちなみに国道324号は福建省の福州から広東省の広州を経由し、雲南省の昆明に至る全長2600キロの国道だ。

◆福建省に入るとわずかに田園風景を見たが、すぐにアモイへとつづく市街地に入っていく。さらにそれが泉州から省都の福州へとつづく。広州から福州までは1220キロ。福州からは国道104号→国道320号で上海まで行くのだが、その間もほぼ同様で、なんと「広州→上海」2200キロ間がメガロポリスになっている。「ボストン→ワシントン」、「東京→大阪」などを上回る世界最大のメガロポリスといっていい。

◆人口1600万の上海は世界一の工業生産地帯、長江デルタの中心都市。広州からつづいた大気汚染も途切れることはなく、ついに中国では抜けるような青空を一度として見ることはなかった。民族の存亡にもかかわるようなすさまじい大気汚染なのだが、それをあまり気にも留めない中国人に驚きを感じた。

◆福建省でひとつうれしかったのは、空海の中国上陸地点である霞浦に行けたことだ。郊外の赤岸には「空海大師記念堂」が建っている。それにしても空海は強運な人間だ。804年の第17次遣唐使船に乗ったのだが、4隻のうち2隻は嵐で沈没。空海の乗った船は沈没をまぬがれ、この地に漂着。空海は上陸の許可が下りるまでの40日間、霞浦に滞在した。なお、そのときの4隻のうち1隻だけは予定通り、寧波港に到着。その船には最澄が乗っていた。アドレスでは4月、5月にかけて「四国八十八ヵ所めぐり」をしたので、自分の頭の中では四国と中国がつながった気分。次ぎの機会にはぜひとも、霞浦→福州→長安(西安)と空海の足跡をたどろう。

◆福建省からセッ江に入り、楽清でひと晩、泊まった。その翌日(12月10日)のことだ。朝から雨が降っていた。50キロほど走ったところでゆるやかな峠を越える。時速6、70キロで2車線の峠道を上り、ブラインドになった左コーナーにさしかかった。すると何と雨で滑り、スピンしたトラックが自分の目の前に飛び込んできた。絶体絶命のピンチ。「あ、やったー!」。その瞬間、次ぎ次ぎに頭の中から指令が飛んでくる。「目をつぶるな」、「ここでは死ぬな」、「どうすれば助かるか考えろ」。トラックが自分の目の前で横向きになって止まるのと、アドレスで突っ込むのとはほぼ同時だった。すさまじい音とともにアドレスは吹っ飛ばされた。

◆衝突の瞬間、ぼくは一瞬たりとも目を閉じることなく、目をカーッと見開いたままトラックに突っ込んでいった。そのときどうすれば助かるか、それだけを考えていた。トラックの中央部には人間が滑り込めるスペースがある。そこに賭けたのだ。転倒し、右手、右膝で受身をとりながら、ものすごい勢いで滑り込んだ。その結果、思惑通り、そのスペースにすっぽり入り込むことができた。トラックを降りてきた運転手はぼくの姿が見えないので、顔が青ざめるくらいの恐怖心を感じたという。さらにそのあとトラックの下から這い出してきたのでさらに恐怖心は増し、膝がガタガタ震えたという。

◆それにしてもラッキーだった。トラックが止まるのと、それに衝突するのはほぼ同時だったが、ほんの1、2秒という、わずかな時間差があった。トラックの方が先に止まったのだ。この「1、2秒」でいろいろなことが見えるし、いろいろなことが考えられるし、いろいろなことが実行できる。そのおかげで助かったようなもの。それともうひとつラッキーだったのは、トラックの側面には日本のような巻き込み防止のバーがついていないことだった。百戦練磨のカソリ、全身を強打したのにもかかわらず、右手で防御し、頭だけは打たない。

◆すさまじい痛みの中で道路上に立ち尽くし、警察が来るのを待った。その間にいろいろなことを考えた。12月10日が自分の命日になってもおかしくないような状況だったが、こうして生き延びられたことに感謝した。「生きている!」という実感。だが、すぐに考え直した。「いや、生きているんではない。生かされているんだ」。ぼくはこのとき悟りの境地に入ったかのような心境になった。何か、目に見えない大きな力によって守られ、「オマエはまだ生きていろ!」といわれたような気がした。「そうか」。「自分にはまだまだやりたいことがいっぱいある。よし、次は中国一周だな」と、事故現場で「中国一周計画」をブチ上げるのだった。

◆中国警察の動きは速かった。10分もしないうちに2台のパトカーがやってきて、事故現場を調べ、すぐに楽清市大ケイ鎮の市民病院へ。右手、右膝をやられたが、骨には異常ナシ。右膝を2針縫う程度で済んだ。次に警察署で事故調書がとられる。トラックの運転手が「すべては自分の責任です」と最初からいってるので、ここでもまったく問題ナシ。まるで警官が裁判官でもあるかのように、運転手は賠償金として5000元(約75000円)を払うようにと命令した。調書に右手人差し指で捺印したあと、運転手は「私には子供が4人いまして…」と泣きついてくる。一人っ子政策の中国で、何で4人も子供がいるの?といいたかったが、まあ、仕方ない。病院代の2000元を払うということで和解した。

◆事故でメチャクチャになったアドレスだが、それは前面のみ。エンジンのある後部はまったく無傷。エンジンもかかる。そんなアドレスに乗り、グローブのように腫れあがった右手でハンドルを握り、天台、紹興、杭州と通り、翌12月11日14時45分、上海に到着。広州から2252キロだった。(賀曽利隆

突然に、左の頭頚部にドンという一撃が走った
−山のドクター“雪崩”埋没生還記

■外科の手術は虫垂炎に始まり虫垂炎に終わるといわれる。炎症の少ない虫垂炎は基本的手技で容易に処理できるが、炎症が高度となると難易度の高い手術となり、あらゆる手術手技が試されるケースが少なくないからだ。同様に、富士山であれアルプスであれ、夏と冬、晴天無風と暴風雪といった自然条件によって、登山の難易度には雲泥の差が生じてくる。とりわけ雪山では、あらゆる経験と技術が試される状況が出現し、応用力が命を左右することも稀ではない。パーティーの構成メンバーの力量によっても左右されるだろう。非日常の空間には予想を超えた危険が潜んでいるのである。

◆片山右京さんのチームが富士山で遭難した翌日。新宿から白馬に向かうバスの車窓から望む富士は、何事もなかったかのように白く秀麗な姿を見せていた。不帰の客となったメンバーの一人とは旧知であり、夢半ばで幽冥境を異にする無念さを思いながら、非情な富士を眺めていた。中央高速からみる富士は、纏わりつく雲一つなく、山頂からは螺旋の雪煙が舞っていた。

◆この日、北アの八方尾根では、都岳連が主催する初心者のための安全登山教室が開催された。山の医学についての講義をするために私も参加していた。二日前まで雪はほとんどなかったという兎平の上部。一気に2m近い新雪で厚化粧をほどこし、雪はさらに深々と降り続いていた。ここでは、三種の神器(ビーコン、ゾンデ、スコップ)を用いた訓練や埋没体験などが行われた。八方池山荘に上がって宿泊の予定であったが、雪崩の危険があることから、宿は白馬山麓に変更された。

◆「雪崩に埋没したときの生死の分水嶺は15分といわれます。デブリに埋没した時間経過と生存率の検討からは、このゴールデンタイムで救出された人のほとんどは生存しています。死亡例は致命的外傷によるものです。内部にできる呼吸空間─天使のエアポケット─があれば生存時間は延びますが、長時間では低体温症が漸次進行してゆきます」夜に予定されている講義ではそんな話をするつもりでいた。

◆テレマークで下山した私は、スキーを担ぎながら六花の舞う白馬の街路を、宿に向けて歩いていた。すると突然に、左の頭頚部にドンという一撃が走った。不意に強い衝撃に襲われたのである。咄嗟には何が起きたのか全く判らなかった。暴漢に襲われたのか? それとも心血管系のアタックに襲われたのか? 一驚を喫する瞬時の間に、「バットで殴られたような頭の痛みは、くも膜下出血に特徴的」という教科書のフレーズを思い出していた。「もう一発、頭にきたら終わりだな、頭を守らなくては」と思いながら、防御態勢をとろうとするが叶わない。頭に続いて膝をへし曲げるような重圧を下腿に感じていた。スローモーションのように倒れてゆく自らの身体が、ぼんやりとした意識の中で映し出された。

◆やがて、辺りは煙霞に覆われて視界が利かなくなった。聞こえていたような気がする瀑とした音は遠くなり、静寂に包まれた。事態をのみ込むことが出来ぬまま、異変に身を任せるのみで、なす術はなかった。一瞬、意識を失っていたようだ。一撃を喰らってから、崩れてきた雪に埋れたことを感知するまでは、随分とタイムラグがあった。体を動かそうとするが、金縛りに遭ったようで身動き一つできなかった。肉体的な恐怖感はなかったが、「このままでは危ないな」と漠然と感じていた。

◆ほどなく、駆けつけてくれたメンバーの声が聞こえてきた。強烈な打撃を食らって埋れていた頭部の雪を掻き分けてくれたのである。口や鼻を塞いで窒息するような状況は免れ、すぐに思考と視界も開けてきた。しかし、自力で這い出すことは到底不可能であった。雪に埋もれた四肢を掘り起こしてもらい、抱きかかえられながら起き上がった。そこで漸く事態の顛末を理解した。歩いていた道路は完全に雪で塞がれ、見上げると1m近くつもっていた屋根の雪はすっかり滑り落ちていたのである。

◆よくいわれる走馬灯のようなライフ・レヴューはなかった。瞬間的に危機的な状況を察知し認識する暇がなかったのかも知れない。それでも、ゆっくりとした時間が流れるように感じたのは、自分の脳内の時間意識が自動的に操作された結果だろう。時間意識は脳内現象であるからトリキーな操作が行われても不思議はない。それはパーフォーマンスの向上という自己防衛に繋がる反応なのに違いない。脳にある140億といわれる神経細胞は、複雑な回路を作り、神経伝達物質を介したネットワークを形成している。危機的な状況(事故や病死)で、記憶のリピート現象が起こるのは、混乱に陥った脳のネットワークが作り出す幻影とも考えられる。

◆それにしても、山で実際に雪崩に巻き込まれたら、エスケープのためのどんな対処が可能というのだろうか。あの凄まじい圧力と衝撃、そしてフリーズしてしまった体を思い返すとき、自らの力で打開できるチャンスは限られていることを思い知る。埋まるも浮かぶも、全ては神の思し召し、インシャラーの世界。講義では「ダメと思っても諦めずにあがくこと、泳ぐようにして本流から逃れること」を強調してみたものの、浮かび上がるための「天使の翼」や呼吸空間を確保する「天使のエアポケット」を得ることは、神が降りてこなければ叶うことではあるまい。アクションをとる余裕のある情況が与えられたとすれば、それは天使の微笑み。微笑み返しを八百万回してもまだ足らないだろう。

◆山の中ではなく、麓の商店街で雪崩に遭った間抜けな講師は笑いもの。それでも笑い話ですんだから幸いである。埋もれたときに覚悟した膝の損傷や骨折は大丈夫であった。この夜に開かれた山の医学の講義もどうにかこなせたことから、脳へのダメージもさほどではなかったようだ。翌日は再び雪山に入ることができた。危機的な状況から脱出したあとに抱く、よりよく生きようとする感情は、多くの人にとって自然に生まれてくるもののようだ。まっさらで道のない雪原をスキーで歩きながら、詩人の金子みすずさんの「つもった雪」というタイトルの作品を思い出していた。

◆上の雪、さむかろな。つめたい月がさしていて/ 下の雪、重かろな。何百人ものせていて/ 中の雪、さみしかろな。空も地面(じべた)もみえないで/

◆まさに雪が金子さんで、金子さんが雪であるような詩である。自然と自分とのあいだに生まれてくる一体感は雪山の魅力の一つであろう。しかし、けっして雪崩に埋れてはなるまい。上を向いて歩こう♪♪ 屋根雪崩という想定外のアクシデントに見舞われたものとしては、坂本九の歌のタイトルほど「予防のための処方箋」を的確に提示しているものはないと思う。懐かしい歌を口ずさみながら(笑)、皆さんも気をつけて。最悪の状況の中に置かれたときに、最善のカードを選び出し、生還へのシナリオを描けるか否かの分水嶺は、当事者の責任と資質と経験、そして天使の微笑みに懸かっている。臨床医がクランケを、登山家が自らを犠牲にして証明してきたように。(神尾重則

「とにかく生きて帰ってこられてよかった」
−ツァンポー川からの脱出−

 新聞記者をやめ、探検の世界に自分の道を探っている角幡唯介さんが、学生時代からの目標であったチベット、ツアンポー峡谷の完全踏査に単独で挑戦、1月5日、命からがらラサに戻った。以下、ラサから届いた少し長めのホットな報告。

■今回の目的はギャラという村からザチュという村にいたるツアンポー峡谷核心無人地帯、約70キロの完全踏査でした。ギャラからポーターを雇い峡谷沿いにあるというふみ跡をたどり、僕が前回2002年に探検した「空白の5マイル」と呼ばれる伝説的未探検地域(「注」参照)につなげるというものです。このルートの完全踏査は過去に多くの探検家が挑み失敗してきただけに、極めて挑戦的なものでした。

◆しかし無許可で挑んだことから旅はいささかスリリングなものになりました。訪れた村々でことごとく村人がポーターとして協力してくれなかったのです。無許可旅行者に協力したことが警察にばれたら逮捕されるというのです。中国の辺境地帯には携帯電話が普及しており、簡単に警察に通報できることが背景にありました。

◆やむなくギャラの村からいきなり単独での挑戦となりました。峡谷沿いにあるというふみ跡は、時々見つかるのですが、20〜30メートルも歩けばやぶの中に消えて見失ってしまいます。結局、ひどいやぶをこぎ、腐った植物に覆われたがけを登り、いやになるくらい懸垂下降を繰り返して前進するしかありませんでした。

◆「空白の5マイル」の入り口付近に到着したのが、ギャラを出発してから16日目のことでした。計画ではここまで8〜10日の予定だったので、ひどい遅れです。食料は18日分を日本から用意してましたが、それに加え現地でチャパティや米を購入したので、この時点で残りの食料はまだ一週間以上はありました。

◆「空白の5マイル」の入り口付近は約1000メールの岩壁がそそり立っており、ここを突破できるかどうかが計画段階からの課題でした。1924年に英国の探検家が超えているので何とかなるだろうと思っていましたが、現場に到着してみると、彼が越えたと思われるルートは崩壊しており、完全なオーバーハングになっていました。おそらく1950年に起こったアッサム大地震の影響だと思います。しかもその日は、珍しく大雨。岩壁は濡れ、ここを越えることは絶望的に見えました。やむなく岩壁の南に位置する3700メートルの峠を越えることにしましたが、悪天候はその後四日間も続き、ふもとの岩穴で停滞せざるを得ませんでした。

◆冬のツアンポー峡谷には前回の挑戦を含め通算で3か月滞在していたことになりますが、こんな悪い天気は初めてでした。岩穴で待っている間、本当に峠が越えられるのか、ひどく不安でした。地元の人は冬にこの峠は越えません。地図を見るとえらく急峻な地形のところを越えなければならないようです。もちろんアイゼンもピッケルも持ってませんでした。しかしギャラに戻るだけの食料はもうないので、峠を越えるしかないのです。この天候待ちの時から僕の目標は「空白の5マイル」につなげることから、生き延びてツアンポー峡谷を脱出することに変わりました。

◆ついに天気が回復し峠越えに挑みました。雪はひどく深く、石楠花のやぶは相変わらず濃く、最悪でしたが、青空が広がり気分は悪くありませんでした。全身がずぶ濡れになり、途中で一泊。翌日も晴天は続き、ラッセルは腰までありましたが、なんとか昼過ぎに峠を越えました。その日は峠から800メートル下った氷の谷の岩陰でビバーク。このビバークで足の指が凍傷になりました。

◆食料はもはや1週間分あるかどうかでした。なんとかこの谷をずっと下ったところにあるルクという村にたどり着き、食料を調達することにしました。村の近くまでいけば道もはっきりしてくるだろうから、おそらく数日で着くはずだと思いました。しかし、いくら進んでも道ははっきりしません。時々見つかるのですが、ひどく荒れていてやぶに覆われています。おかしいなと不安を抱えながらそれでも村を目指しました。この頃になると、体は完全に疲労の状態を超え、衰弱していました。足はふらつき、ちょっとした斜面でも手をついて這いつくばらないと進めない状態でした。

◆峠を越えて5日目、ようやくルクの村に到着しました。しかし、なんと村は廃村になっており、朽ち果てた家が立ち並んでいるだけでした。でもこのときはまだ絶望的な気持ちにはなっていませんでした。ルクの村からツアンポー川の対岸に別の村が見えたからです。地図をみるとガンデンという村でした。ルクの村から川に下り、橋を渡ればその村にたどり着けるはずでした。この日は廃墟となった家でビバーク。水も無い状態でした。

◆翌日ふらふらになりながら川を目指しました。たくましかった足は枯れ枝のように細くなり、肋骨が浮き出て手でなでると打楽器のような乾いた音がしました。数時間後に川に着いたときの光景を忘れることが出来ません。川は一直線に上流に向かって開けていたのですが、そこに橋はなかったのです。このときはもうだめだと思いました。獣道をたどり下流部も見渡しましたが、やはり橋はありません。残りの食料は米四合と調味料少々。目的地であるザチュまでは、おそらく村々が廃村になっており道が荒れているので1週間はかかると思われました。

◆衰弱しきった体ではとてもたどり着けるとは思えません。それよりは、と僕はこの時、ツアンポー川を泳いで渡ることを決心しました。ツアンポー川はずっと激流が続いているのですが、この辺りだけは流れが緩やかで、なんとか泳ぎきれるのではないかと思ったのです。そしてどこから泳ぎ始めようかと場所を探していたとき、二本の細い黒い線が川にかかっているのを見つけました。ロープブリッジがかかっていたのです。

◆これを見たとき、助かったと思いました。ロープブリッジをわたるための滑車は、もちろん持ってませんでしたが、なんとかダイニーマ製の6ミリロープで代替システムを作り上げ、ロープが摩擦で切れないかドキドキしながら一時間かけてわたりきりました。そして翌日ガンデンの村に到着しました。ギャラの村を出発して、それは24日目のことでした。

◆村についても旅はすんなりと終わりませんでした。この辺境中の辺境ともいえる小さな村で、ついに警察に身柄を拘束されたのです。生き延びたことで開放的な気分になっていたし、それにこんな小さな村に警察がいることは想像の範囲外でした。結局、翌日、休むまもなく移動を命じられ、3日間のトレッキングで車道沿いの村に行き、そこで警察車両に乗せられ、山道を2日間移動。警察官と一緒に雪の峠を歩いて越えて、下りたところでさらに別の車に乗せられ、八一という大きな町の警察に連れて行かれました。幸運にもわずか500元と簡単な取調べ、「今度来たら刑務所にぶち込む」という脅しを受けただけですみました。

◆とにかく生きて帰ってこられてよかったです。僕もこれまで登山や海外でいろいろな経験をしてきましたが、これだけ生きるということを強く認識させられたことは初めてでした。旅は計画通りには行きませんでしたが、様々なハプニングを乗り越えて、一人でツアンポー峡谷を脱出できたことに、今は深い満足感を抱いています。 なんだか長々と書いてしまい申し訳ありません。日本に帰国して皆様にお会いできることを楽しみにしています。(角幡唯介 1月6日ラサにて)

注1:ツアンポー峡谷の探検は19世紀後半から本格化しましたが、1924年にイギリスの探検家フランク・キングドン−ウオードによる踏査が最高潮を迎えます。彼の目的は当時ツアンポー峡谷にあるといわれた幻の滝を発見することにありました。ウオードは今回僕が出発したようにギャラの村からツアンポー峡谷沿いを探検し、巨大な岩壁を越え虹の滝と彼が命名した滝に到達します。そこから先は進めず、一度峡谷を離れ、今度は下流から上流を目指しました。彼はツアンポー峡谷の核心無人地区のほとんどを踏査しましたが、それでももっとも険しい区間は確認できませんでした。彼は自分が確認できなかった区間を5マイルと推定し、そこにはもう滝はないだろうと報告しました。そして90年代に入り、ウオードが探検できなかったこの5マイルをめざし、主にアメリカ人の探検家たちが精力的に入り込みました。アメリカ人たちはこの5マイルを「ファイブ・マイルズ・ギャップ(空白の5マイル)」と呼んだのです。僕が2002年に単独で探検したのはこの空白の5マイルでした。この時の探検で僕は空白の5マイルをほとんど踏査しつくしていたので、今回は成功する自信がありました。

注2:日程 11月17日成田→北京 18日北京→西安 19日西安→西寧 20日ラサ到着 29日ラサ→八一 30日八一→トゥムバツェ 12月2日トゥムバツェ→チベ 3日チベ→ギャラ 4日ギャラ出発、ツアンポー峡谷を単独で踏査 20日 空白の五マイル手前に到着 27日 ガンデン村に到着し、ツアンポー峡谷脱出、警察に拘束 30日ポミ−メト間の車道に到着 1月1日警察車両で移動 3日 4300mのガロン・ラという峠を越え、ポミから八一へ連行 4日八一の警察署で取り調べ 5日解放されラサへ 8日帰国

注3:持っていた装備 ザイルは8ミリ40メートルのクライミングロープと6ミリ40メートルのダイニーマ製スタティックロープ2本。ザック全体の重さは22、23キロ。

「Man of Blue Sky」の禁断の東チベット行
−未踏の氷河と6000m峰を目指して5,000km(09年10月12日−11月17日)−

■「禁断の」と書いたのは、2009年秋の東チベットでは外国人が未開放地域に入ることが厳しく規制されたためである。3月にはチベット自治区創設40周年記念行事に反発するチベット仏教徒の騒動が警戒され、ダライラマ14世が新中国の弾圧を逃れてインドに亡命した1959年から40年経っても不穏な動きに当局は神経を尖らせた。10月には中華人民共和国成立60周年祝賀行事の円滑な遂行のためラサでは10月1日の国慶節の前後3日間は外国人の移動をも禁止するほどの厳戒態勢を敷かれた。この厳しい規制は外国人のみならず中国人にも及んだ。

◆こうした状況の中で外国人の旅行者は川蔵公路や青蔵公路などの幹線道路だけを通行する観光旅行しか許可されなかった。未開放地区へ入る許可証を旅遊局・外事局・西蔵軍区からもらっていても、公安当局は外国人が幹線道路から外れて行動することを禁止した。2009年の秋は神戸大と武漢地質大学の日中合同登山隊がカンリガルポ山群第二の高峰KG2 6805mの初登頂に成功したのが唯一の成果である。

◆ほかの外国登山隊は許可問題があるため敬遠した。踏査隊も同様で、大阪の城隆嗣さんたちのグループは、国慶節をはさんで雲南から東チベットに入りゴルジュの国の玉曲と念青唐古拉山東部・波堆蔵布の未踏の谷をターゲットにして、ことごとく公安に阻まれてなす術なく帰国せざるを得なかった。結果4,000kmもの無駄なドライブに終わった。我々3人の老年隊と同じ念青唐古拉山東部の金嶺の大氷河を目指したスイス人と英国人のペアーは、我々が着く2日前に辺覇の公安から追放されてなすことなくラサへ引き返した。

◆ラサを出てラッサに戻るまで、我々の5週間の旅の間で外国人を見かけたのは2回だけである。日本人には会わなかった。例年では考えられないことであった。城さんたちは29回も公安のチェックを受けたと聞く。我々も宿泊したすべての県庁所在地と郷(県の中の行政単位)でガイドが公安に出頭し、時には日本人メンバーが呼び出しを受けた。

◆こんな厳しい環境の中で我々は許可問題をクリアーし多大な成果を持ち帰ることができたのは「強運」の賜物であった。実に優秀なチベット人のガイドが付いてくれたこと、例年にない好天に恵まれたことで効率よく計画が進行し、短期間に四つの未踏の谷を踏査することができた。なかんずく、ガイドのアワンの理解判断能力、英語力、情報収集能力、公安警察との交渉能力に負うところが大きかった。

◆そして、“My camera produces blue sky. As always I found peaks shining before mylenses” 今度の探査行でも「Man of Blue Sky」であることが立証された。

◆ちなみに我が老年隊が踏査した未踏地域は次の四つの谷である。
1.念青唐古拉山東部 易貢蔵布の支流・尼屋曲−アイガゴン氷河とその周辺
2.念青唐古拉山東部 易貢蔵布の支流・夏曲−金嶺地区のマライポ氷河とその周辺
3.カンリガルポ中央部 パルン蔵布の支流・秋朗蔵布の源頭
4.念青唐古拉山東部 パルン蔵布の支流・波堆蔵布の玉仁の北側
中村保

その浜の砂鉄からたたら製鉄で鉄を作り、工具を仕上げ、インドネシアで舟を完成させ、フィリピンまで航海するに到ったのだ

■地平線会議の皆様、新年明けましておめでとうございます。昨年の地平線30周年大会ではお世話になりました。今年は5月から夏にかけて、縄文号、パクール号のフィリピン〜沖縄の航海を予定しています。また、お陰様で「僕らのカヌーができるまで」の映画館での公開も決まりました。詳細は未定ですが4月中旬の上映になりそうです。正式に決まりましたら改めて報告させて頂きます。

◆年も暮れた12月28日、フィリピンに保管してある舟の状態を調べ終えて、僕は帰路についていた。成田空港へと徐々に近づく飛行機の窓から、年末の華やかな街の灯と、夜の闇に沈む九十九里浜を食い入るように見つめていた。自分達の旅はこの眼下に広がる海岸から始まったことを想い、胸が急に熱くなった。その浜の砂鉄からたたら製鉄で鉄を作り、工具を仕上げ、インドネシアで舟を完成させ、フィリピンまで航海するに到ったのだから。その時ふと、このプロジェクトは詩のようなものかもしれないと思った。

◆しかし、この旅はただ浮世離れしていた訳では無く、時代というものは常に隣合せにあったはずだ。インドネシアの小さな村で、丸木舟を造る為に大木を切り倒した頃、オバマ大統領の誕生を嬉々とした顔の村人から聞いたことは妙に記憶に残っている。一方で航海中にバジャウの人々と出会った時は、漂海民という生き方を今の時代がまだひっそりと許容していたことに、その豊かさを感じた。着陸する飛行機の騒音の中で、バジャウの娘が漁へと舟を漕ぎ出す時の、うねるような銀河の星々の下に響かせていた澄んだ歌声を思い出していた。

◆2010年を迎えた元旦の朝、鎌倉の海岸にいた僕は、南から打ち寄せる波の遥か先の島々を想っていた。先程まで、初詣に集まる人達や偶然気付いた部分月食を眺めていた自分に、昔持っていた感覚とは異なるものを見つけていた。自分がこの旅から何かを得たとするなら、新年を迎えるお祭り騒ぎのような人の営みと並行して、インドネシアの海や森に生きる人々がいて、太陽や月といった存在までもが同じ時に確かに在るのだと、リアルに感じるようになったことではないだろうか。ふとそんなことを思って、日の出前の冷え切った浜で一人熱くなっていた。この当たり前のことだけれども、不思議な同時性を秘めた世界に、以前とは異なる視線で興味を持ち始めていた。

◆関野さんはこの旅を通して色々な気付きを得てほしいと良く言っています。自分は物事を咀嚼するのに人より時間が必要な性格ですが、少しずつ旅で感じたことが整理されてきているようです。最後に航海でお世話になっているGJ応援団の皆様、白根全様、いつも支えて下さっている地平線会議の皆様に、改めてこの場を借りてお礼をさせて下さい。今年も何かとご迷惑をおかけしてしまうと思いますが、どうぞ宜しくお願い致します。夏に良い報告ができるように精進したいです。(海のグレートジャーニー遠征スタッフ・佐藤洋平

そんな簡単に学校をつぶせるんですか? まさか?
−比嘉小学校廃止の危機!!

■ブログにも書きましたが江本さんにも送ります。今日1月10日、浜区と比嘉区の合同学校廃止反対集会が浜中学校の体育館で開かれました。同じ日に宮城島と伊計島でも決起集会が開かれました。宮城島には700人以上の人が集まったそうです。浜比嘉でもたくさん集まりました。琉球新報社、沖縄タイムズやテレビ朝日などマスコミも来ていました。

◆うるま市教育委員会が突然ホームページで発表した、このあたりの四島の学校を廃止するという素案を私達が知ったのは、ちょうど比嘉小学校の子供たちから「ありがとう集会」に招待され歌と手作りのメダルのプレゼントをもらった朝でした。校長先生からコーヒーをいただきながら、「学校にまだなんの話も来てないけれどホームページにこんなことが出ている」と校長先生がホームページをコピーしたものを見せてくれたのです。

◆比嘉小学校は30人の生徒がいます。この人数はここ数年大きな変化はありません。浜中学校は14名。昨年複式学級を解消しました。まだまだ廃止されるような人数ではないと思っていました。

◆一昨年の12月に教育委員会から「学校適正化に関する意見交換会」というものがもたれました。市は学校をなくそうと考えているのかと、私達は危機感を持ちましたが、その時の説明では「まだまだ白紙で今は意見を聞いているところ」と担当者は言っていたので安心していたのです。それが、それから一回の説明会もないまま突然ホームページに出た「素案」。とても具体的でこれは素案とはされていても誰が見ても「最終案」です。

◆内容は来年3月で四島の小学校と中学校は廃止し、小学校は平安座島に、中学校は本島の与勝中学校に統合するというのです。統廃合の理由は「複式学級の解消」。生徒には平等に教育を受ける権利がある、というのです。複式学級がすべてだめなのか?じゃあ四島の学校に成績優秀な子供が多いのはなぜか。イジメもないし授業について行けない子供もいない。登校してこない友達がいるとみんなで朝迎えに行くので不登校もできません。小さな学校はたくさんのいいところがあるのです。

◆今日の反対集会には市会議員も6名ほど来て下さいましたが、なんと、学校統廃合条例はまもなく2月か3月の議会にかけられ、可決された場合は素案通り進むだろうというのです。地元議員は全力でがんばると言ってくれましたが、もし可決されたら学校は本当につぶされる? 信じられません。住民との説明会は今までたったの一回だけで、1年たったある日突然素案を発表し、そのたった3か月後の議会にかけて、もし通れば、100年の歴史を持つ地域の大事な大事な学校が消えるのですか? そんな簡単に学校をつぶせるんですか? まさか? 信じられない思いで反対集会から帰ってきました。

◆うるま市教育委員会のやり方はあまりにも常識からかけ離れています。でも島でも母校が消えるかもしれないというのに、反対集会に足を運ばない人もいる。子供が少ないんだから仕方ないさ、という人もいる。沖縄の人は上が決めたことに逆らわない体質があるのか知らないけどなんかこっちがいらいらするくらい反対のアクションをしないし盛り上がりがない。昔からアメリカや日本政府からいいようにされているから?

◆でもここであきらめたら島の将来はないのです。年寄りしか住まない島になり数年後には無人島になるでしょう。これからなんとか島を盛り上げていこうと思っていた矢先にこんなこと、絶対許さない。絶対あきらめない。私達はずっと浜比嘉島に住むんだから、学校は絶対守るぞ。学校は地域の中心ですよ。夢がたくさん詰まっている。島に住宅が増えれば移り住む人は必ずいる。学校を学区をなくしたオープンスクールにすれば通わせたいという家族は必ずいる。

◆島には可能性がまだまだあるのに、うるま市はまったく島のほとんどを外資系リゾートホテル化しようとしたり学校をつぶそうとしたり、島をなんだと思っているか! こんなことが通るとは到底思えない! 沖縄に来てすっかり丸くなったと言われる私ですが、今回はホントに頭に来てます。もちろんアホ教育委員会と、そして無関心な島んちゅに。まずは議員をなんとかしないと! 可決されたらおしまいです。どうしたら議員を動かせますかね? 江本さん。署名活動はくーみーのパーラーで集めていてもう200人くらい集まりました。立て看板もあちこちに立てました。私達にできるのは今このくらいです。

◆あと1週間後、比嘉区芸能祭がうるま市芸術劇場で行われます。皮肉なことに教育委員会との共催で、キャッチフレーズは「島の伝統文化を継承しよう」です。学校をつぶそうとしておいて継承しようとは笑っちゃいます。では今日はこの辺で。(浜比嘉島から 外間晴美

またまた厳冬カナダへ

■あけおめサンコンさん!! 昨年は、傭兵関連の本やフランス外人部隊の手記を読みあさった1年だった。やる気のある人の大半が早死にするシビアな世界。あるいは無事帰還しても多くは、精神になんらかの障害をきたす。戦争云々の是非はともかく、自らの意思で激戦地に足を踏み入れる彼らからは、多くの刺激を受けているのはたしかだ。物事に本気で取り組むとは、どういうことなのだろうか。人の強さと弱さを考えさせられた1年だった。

◆年末年始は、恒例の突風の厳冬・富士山へ。この正月は寒波の襲来でこれまでにないほどの猛烈な突風に見舞われた。4回登頂(4往復)の予定だったが、山頂に立てたのは2回。あとの2回は、すさまじい突風で8合目より進めず断念。でも、時間が余ったので、5合目のまったく日の当たらないガチガチの氷の上にテントを張り、本を読んでいた。不思議と読書に熱中できる環境なのだ。たとえば、傭兵関連やフランス外人部隊の本を大量に担ぎ上げ、厳冬・富士山で1カ月くらいキャンプするのもおもしろいかもしれない(笑)。

◆1月末からは、またまた恒例の厳冬カナダへ。これまで30か国以上の国を訪れているが、いまだに厳冬カナダを越える魅力ある土地には出会っていない。厳冬カナダの自然はまだまだ奥深い。今回訪れるのは、3年連続訪れているカナダ中央大平原。ポツリポツリと先住民の村があるほかは、まっ平らで何もないところ。それでも、毎冬が予期せぬアクシデントの連続。思い出深いドラマが生まれている。今回は何が起きるのかな……。(田中幹也

雪のカナダから、おめでとうございます!

■ごぶさたしてます。地平線通信送ってくれてありがとうございました。それに『月世見画報』とカレンダーも! 最近気温高めなんですが、それでも今日はマイナス24度。そんな中で南の島の緑の植物が描かれたカレンダー、全くの別世界で感激です。通信もこれからじっくり読ませてもらいますね。

◆カナダのホワイトホースでホテルの仕事をしながら、ユーコン・クエスト再々々挑戦の日に備えてお金を貯めている日々です。こちらに来て約半年ですが、まず丸太を買って家を作りました。5.5メートル×3メートルほどの小屋です。友人に助けてもらって自分で建てたんです。費用は90万円ほどでした。電気はなく、ソーラー・バッテリーで明かりを取ります。水道もないのでホテルから水を運んでいます。暖房は薪ストーブ。毎日この小屋からホテルまで50キロを通うのですが、運転は好きだから大丈夫です。

◆ユーコン・クエストですが、今年からスタートの日程が早まって、2月の第1週(6日)になりました(今までは第2土曜日でした)。狙いは、クエスト後にアイディタロッドに連続挑戦するというマッシャーが増えているため、双方のレースを盛り上げよう、ということなんです。ランス・マッキーの連続優勝の効果というところです。

◆今年のクエストですが、かなり面白いです。ランス・マッキー(4回連続優勝)とハンズ・ガット(3回連続優勝)が出るのですから。今年はどちらが勝つのか? さらにそこへ前回2位で、しかもぎりぎりまでランスに詰め寄ったケン・アンダーソンと、去年2位で、2時間のペナルティさえなければ完全に優勝していたヒュー・ネフが今年は優勝をばっちり狙っています。そのほかにも、思わぬ伏兵が現れてもよさそうなメンバーで、見逃せません!!

◆そんなクエストを、今年はNHKが追う事になりました(ワンダーワンダーという番組だそうです)。日本が誇る世界の舟津圭三さんが解説をしてくれるので、かなり詳しい内容になるかもしれません。私は、友人であるヒューのお手伝いを、ドーソンからする予定です。ということで、個人的にはヒューに勝って欲しいところです。あ、私の子犬たちは元気でトレーニングにいそしんでいます。やっぱりうちのわんこ(全部で8頭)は世界一。(カナダ・ホワイトホース 本多有香

天俐との初めての正月

■あけましておめでとうございます。昨年の夏に天俐を出産してから、異次元空間にでも入ったかのような不思議な時間の中で生活をしていると、休日もへったくれもなく、ましてお正月なんてものも考慮されません。こちらがどれだけ夜更かしをしようが、疲れようが、産まれたばかりの生命は朝寝坊も一休みも許してはくれません。ノンストップで成長をとげるのが目下の使命ですから、産んでしまった以上付き合うほかないらしいです……。

◆自分たちもこうやって大きくなったんだと知らしめられているようで、両親に、「はぁ、お世話になりました」と思わざるを得ない日々です。そんなつきっきりな生活も今だけだとは分かってはいるものの、私の人生を譲る気はなく、天俐には苦戦をしいております。先月、京都で行った展示会では、当初の私たちの計画は、たごっちの全面協力で4日の会期は乗り切れるとふんでいたのですが、天俐は3日目でギブアップでした。最終日は搬出もあって、親子3人、一家総出での出勤でした。次の日はずっと一緒にべたべたと過ごしてしていたら、幸せいっぱいの顔をしてほっぺもつやつやしてきて、あんなに小さな体で全身で一生懸命訴えていたんだなぁと思うと、いやぁ、かわいそうなことをしました……。

◆そんな年末を過ごし、新しい年を迎え、4月からは私が仕事に復帰するために保育園に預けられてしまう天俐と蜜月を過ごすべく、この3か月間は清く正しい産休をしよう!と固く心に誓ったのです。要するに、仕事的な用件があっても、天俐と一緒に行動すればいいってことだと勝手に解釈しています。そうやっているうちに大きくなって、そのうち仕事も手伝ってくれるんじゃないかと密かに大いに期待しているワケです。

◆子どもの世話はしていますが育てているという概念は全くなく、相乗効果だと思えます。心が痛むというのがどういうものかを理解させてくれたのは天俐です。彼女がもたらしてくれたものの一つに過ぎませんが、そうなるともっと真面目にやらんといかんという気になります。あんまり我が子で遊んでいる場合ではないかと……。

◆今月に入ってから離乳食も始めました。口をあんぐり開けて喜んでなんでも口にします。くいしいんぼうが立証され、おしゃべりも公認されているし、遊びに来てくれた地平線のみんなには、わんぱく間違いなしの太鼓判までもらっています。まぁ、たくましく育ってくれれば、なんでもいいです。ちょっとぐらいワルな顔してても、いつまでも下ぶくれでも、べつにいいです。その存在だけで人を喜ばせることができたり、私たちを成長させることができたりする特殊能力を今は思う存分発揮してほしいものです。(京都 多胡歩未

「いやあ、好き勝手しててもシアワセはくるもんだなあ」
−屋久島ののさん、ついにゴールイン

■ご無沙汰してます、屋久島の野々山です。この春、どうやら結婚に漕ぎ着けそうです。相手は、え〜、ちゃんと人間です。決してゴリラではありません。直接、受け持ったわけではないが、屋久島に来たお客さん。3年のお付き合いの末、やっと身を固めることになりました。なんで3年もかかったかと言うと、まだ学生だったんです。と言って、まだ10代とか、さすがにそこまで犯罪的に若くはないですよ。仕事を辞めて医療系の専門学校に行き、この春に国家試験を受けるので、それまで待ってたわけなんです。

◆資格は言語聴覚士という、食べたりしゃべったり、聞いたりすることに関係するリハビリの仕事。屋久島でも当然、必要なことですが、まだ国家資格としては歴史が浅く、需要はいまひとつの状況。なんとか、屋久島に根付いて欲しいと思います。結婚という、今まで経験したことのない、というか、女の子と付き合ったことのほとんどないオレが、これからこの歳で、まったく知らない世界に突入するわけでして、不安は沢山あります。

◆住み慣れた山ん中の家も出ることになりそうです。ってオレがマリッジブルーなんて似合いませんが。屋久島でもご多分に漏れず、不況の波が押し寄せてきてます。それでもこれまで以上にガンバって、彼女を守り、いい家庭を作っていきたいと思います。いやあ、好き勝手しててもシアワセはくるもんだなあ。いやいや結婚はあくまでスタート、これからが大切なんですよね。ま、とにかく15歳下の若いヨメさん貰います。すみません。(屋久島住人 野々山富雄

信大山岳会の輝き、22年ぶりのネパールで感じたことども

■久しぶりのネパールだった。初めに訪れたのは、1962年、もう半世紀ちかく前のことになる。次が67年、77年、そして4回目がつい先頃の10月だった。最後の訪問から22年がすぎていた。

◆ネパールにはさまざまな想いがある。が、ここでは最近の訪問、信州大学山岳会創立60周年の記念事業に参加した感想をいくつか述べてみたい。まず驚いたのは66名という参加者の多さ、それと信大のヒマラヤにたいする衰えない意欲である。パーティーは4つにわかれた。第一チームは信大山岳会のエース田辺治をリーダーに8名から成る本格的な登山隊。目的のひとつとしたヒムジュン(7092m)からヒムルンヒマール(7126m)の縦走は果たせなかったものの、同山群のネムジュン(7139m)北西壁の初登攀、そしてヒムルンヒマールの新ルートからの登頂を果たした。

◆第二チームはアンナプルナ2峰の北に位置するマナン・ヒマールをめざす。数座の6000m峰登頂を視野にいれていたが、登頂できたのはピサン・ピーク(6091m)。だがaこれもメンバー6名中5名が還暦をすぎていることを思えば「えらい」と云わざるをえない。第三チームはアンナプルナ山群一周トレッキング。220kmを16日かけて歩いた。19名のメンバーの多くが還暦を過ぎた年配者だった。

◆それら3つのチームは“あるく・のぼる”だけでなく、学術調査の側面もくわえていた。つまり大学の付属研究所、山岳科学総合研究所と協力して、高所医学と氷河・水系の水質・水の循環機構の調査をおこなったのだ。

◆カミさんの紀代美とぼくが参加したのは最後の第四チーム、33名という大部隊だった。これもまた大半が“還暦過ぎ”とみうけられた。このチームには“小川勝追悼”という冠がついていた。じつは信大山岳会々員でもないぼくが―弟の利彦は会員―参加した理由のひとつが小川勝との関係なのだ。

◆小川について少しだけ紹介しておきたい。かれは、いうなれば、信大のヒマラヤ遠征の草分け。67〜68年、半年間におよぶネパール・ワンダリングをした(メンバーは5名)。それが契機となって、信大はネパールに以後10回の登山隊を派遣することになる。ぼくは、その昔、小川たちにネパール行のアドヴァイスをしたらしい。だが親しくなったのは、それから10年が過ぎた、ヒマラヤとは縁のない沙漠の国クウェイトで、だった。

◆小川はオイルマネーが湧くこの国で貿易をやろうとやってきた(旧ソ連、北欧をふくめて1年半の旅だった、という)。一方ぼくはマングローブ植林を研究すべくクウェイトに滞在していた。小川は、残念ながら、64歳のときに、道半ばで亡くなった。感動したのは、かれの遺言である。3000万円(と聞いた)の遺産が信大山岳会に寄付されたのだ。

◆その一部が今回の7000m峰をめざした若い隊員への経費補助にもなっている、という(よけいなことだが、さほど金持ちでもなかった小川の意志を認めた、夫人の岩津よしゑさんの偉さ、小川への愛情の深さ、に感銘を受けたのはぼくだけではなかったろう)。

◆追悼式はポカラの南ジャナクプルのナラヤニ河畔の“関根メモリアルガーデン”でおこなわれた。関根倫雄は都立武蔵高校山岳部のぼくの後輩、信大探検部の設立者でもあり、92年、ゴサインクンドに激突したタイ航空事故の犠牲者だった。メモリアルガーデンは信大関係者の「共同墓地」にもなっていた。本多勝一さん(京大探検部創立者のひとり)の仲間だった伊那谷出身の山田哲夫信大教授をはじめ何人もの人たちの名前が刻まれている。そして、そのすぐ近くが66年12月、この川で行方をたった、ぼくとともに農大探検部を設立した渡辺紘雄の終焉の地であったのだ。

◆信大OBの吹く尺八の音色と読経の声を聞きながら、ぼくは先に逝った仲間たちのことを想いだしていた。カナダ北極圏の凍てつく海で、東海大学探検部の若者たちとともに行方を断った宮木靖雅(AACK)―かれとの出会いもネパールだった―、ナミビア沙漠の自動車事故で死んだ国岡宜行(農大探検部設立の仲間)と山内孝治(農大探検部OB)。アラビアで親しかった秋元一浩(信大山岳会)…。

◆ぼくはすぐに70歳になる。これまでに何回も死を寸前に感じたことがある。いや、むかし話はいい。過去は過去、これからなにをするのか、が大切だ。今年5月に訪れたエジプトの砂漠を想いだす。草木ひとつない砂漠。だがそこは、9600万年前、体長30mの恐竜が闊歩したテチス海の浜辺だった。近くには原始クジラの化石が300体も発見されたワディ・ヒタンがある。そこには4000万年前のマングローブの地下部(根系)の化石がどこまでも続いている砂漠だった。

◆目をあげる。遠くにはアンナプルナ山群がかすんでいた。このヒマラヤもまた、5000万年前、インドとユーラシアが衝突し(テチス海が消滅して)形成されたものなのだ。ヒマラヤ・テチス海・沙漠・マングローブ。それらがひとつの線上にならぶ。エジプトでは数人の古生物学者・生態学者と親しくなった。かれらと協力して「マングローブ古生物学の冒険」ができる。ぼくの人生では“ヒマラヤ・南極最高峰・マングローブ林再生”についで4番目の冒険になるだろう。いまは亡き仲間たちとの会話をしながら、次なる冒険への期待がいっぱいの自分が嬉しかった。(向後元彦

■明けましておめでとうございます。

地平線通信全予告全集は発信以来30年もの間、世界中各国各地の見聞記を丁寧に記録なさって、それぞれ見聞を広める思い、敬服に耐えません。また、送って頂いた写真展『地平線発 21世紀の旅人たちへ』は、229点の貴重な写真を興味深く拝見させていただいています。ありがとうございました。(指宿市 野元甚蔵

選手としてというより山を楽しく走るトレイルランナーとして認めてもらいたい、そしてその楽しさを伝えていきたい

■ご無沙汰しております、鈴木博子です。トレイルランニングに出会い、自然のエネルギーの虜になって6年近く経ちました。“楽しい”という純粋な気持ちから無我夢中で走ってきたこの数年。思い返してみるといろんなことがあり、いろんな気持ちの変化がありました。

◆2009年という年を思い返してみます。トレイルランニングをすることによって楽しいと感じられること、新しい自分を発見できること、そして何よりすごく好きだと感じられることでのめりこんでいった世界ではありますが、やっていくごとに見える景色や目指す世界が当然ながら変化してきました。

◆以前猛烈にあった自分の人生をかけた趣味、トレイルランニングへの情熱は明らかに落ち着いています。世界のトレイルを走りたいという願望はおとろえることがないのですが、レースのために我武者羅に走る、トレーニングをするといったことはなくなり、より自然に近づいたような気がするからです。

◆周りの期待や思惑とは裏腹に選手としてというより山を楽しく走るトレイルランナーとして認めてもらいたい、そしてその楽しさを伝えていきたいと思うようになりました。昨年、トレイルランニングを通してたくさんの人と触れ合う機会がありました。

◆自分が好きでやってきたことを人に伝えていくということに最初はすごく躊躇し、違和感がありました。“ただ好きで山を走っているだけですから……”という思いだったからです。実際早くなるためにトレーニングをしたり、頭であれこれ考えたりはしていなかったです。でも、実際ツアーをやってみると、トレイルランニング未体験の人たちにお話をしたり、伝えたいことは山ほどあって、想像以上に楽しいものでした。

◆自分が経験してきたことが自然と身になり、技術となり、知識となっていたのです。体験してもらって「すごく楽しかった」「何か新しいものを発見できました」などと言ってもらえるとほんとに嬉しいと感じましたし、思いが伝わったときの喜びは益々トレイルランニングを好きだと思えるものにしてくれました。楽しさを人と共有する楽しさ。自分が好きなことを人に伝えようと思うのではなく、楽しんでいる世界を少し見てもらう、体験してもらうだけで言葉でなく伝わるものだと勉強させてもらいました。

◆昨年夏、世界最高峰のトレイルランニングレースの一つと言われる「ツールドモンブラン」166kmに参加してきました。前々から出てみたいと思うレースだったからです。いくつかのサポート、たくさんの人の応援が嬉しかったのですが、それに応えたいと自らプレッシャーをかけていたのでしょう、スタート前から激しい胃痛に襲われ、不安の中のレースでした。

◆美しい世界を見たい、走りたい、足が勝手に動いていくという自分の走りに戻るまでに20時間くらいかかり、前半大変苦しいレースになりました。「結果」そのことを意識せずに早くはならないことは知っていますし、結果が自分の楽しみを増幅させてくれるのも知っています。でも、そこへのアクセスを間違ってしまったのです。

◆本来私は結果を意識して走るのではなく、自然と協調すること、無心でそこにいることでいつの間にか足が動いているという自分でも不思議な力に動かされて走っています。頭でアレコレ考えるのではなく、体が赴くままに走る。だけど、残念ながら私にとって不似合いな“結果”を意識したレースだったのでしょう。昨年参戦したその他のレース、アメリカBishop100km、日本山岳耐久レース、ニュージーランドkepplercharenge60km、も何かしらの体調不良を抱えたレースでした。

◆日本山岳耐久レースに関してはレースに対する楽しみな気持ちも失い、怖さの中でのレースだった気がします。後悔というよりも、よく考えさせられたという印象です。スポーツをはじめ、何をするにもメンタルはフィジカルを上回るほど重要な要素です。メンタル次第でよくも悪くもなります。それは人それぞれ持っていき方が違うでしょうし、内容も違うので自分にあった環境と考え方を知る必要があります。

◆接骨院の先生に言われたことがあります。「仕事や家庭、私生活で不安要素があれば、それは全部体の変化や走りに繋がる」と。確かに昨年はトレイルランニング以外に不安定なことばかりでした。メンタル面で迷いが多く、考え、悩み、焦り、苦しみました。だからその言葉がすんなり納得できました。まずは自分の環境を整える、それは目に見えるものではなく、自分の心に揺るがない芯をもつことなんだと思いました。

◆今年もまた何本か海外レースに出ようと計画しています。自分でわかっていてもなかなかメンタルをコントロールできない時もありますが、自分の“やりたい”気持ちを大切にクリアーしていきたいと思います。迷ったとき、ほんのちっちゃなことで解決できたり、ほんの少しの気分転換で快復できたりします。やっぱり人に会うことで大きなエネルギーをもらいます。

◆また前を向いて走っている地平線メンバーに力をもらいにいきます。よろしくお願いします。とりあえずツールドモンブラン、去年やり残してきたことをやってきたいと思います。そして、引き続き大好きなトレイルランニングを人に伝え続けていきたいと思います。(鈴木博子 トレイルランナー)

[四万十ドラゴンラン、今年も!!]

■地平線会議の皆様へ 四万十の山田隊長です。あけましておめでとうございます。今年も四万十ドラゴンランやります。四万十流域の野外遊び仲間でつくった四万十ガイア自然学校主催。6月4、5、6日、四万十でも一番の清流黒尊川の源流から海まで。この時期は源氏ホタルが最も華やかです。いつもの4万10円のとこ3万5千円で大サービス。そのかわり、先着15人。

★日程(案)6月4日(金)土佐中村駅7時30分集合、8時発(送迎車で)9時30分、若葉橋登山口より黒尊川源流沢登り(屋久島の渓谷をコンパクトにしたような渓谷美です)。黒尊川源流点にて昼食、ゆとりがあれば三本杭山まで登山(天気がよければ石鎚山まで眺望できます)。若葉橋からは自転車で奥屋内到着。清(さや)いろの里(集会所を改築した民宿、釜風呂あり)泊。黒尊川のホタル見学。6月5日(土)自転車で四万十川本流との合流点へ。カヌー練習し、ここからカヌー行。昼食を取り、16時、佐田沈下橋(四万十川最下流の沈下橋)着。川辺のコテージ泊(四万十ガイア自然学校代表宮崎聖経営)。屋形船でホタル見学ツアー 6月6日(日)自転車で四万十川河口の下田到着。昼食後太平洋一望の丘で解散式。

★関西方面からは夜行バスがあります。京都八条口21時発、中村駅着7時5分(往復17600円)大阪梅田発22時55分(往復16700円。これを使えば、6月3日の夜出て、6月7日の早朝に帰れます)。

★10月は8〜11日。四万十川の由来の一説、四万(しま)川から海まで、今年の大河ドラマ「龍馬伝」でもでてくる龍馬脱藩の道を通ります。こちらは、たぶん参加費通常の4万10円。詳細は今後詰める予定です。

★私のブログ「山田隊長日誌」(検索してみて)の1月2日に2008年四万十ドラゴンランの江本さんの珍道中の模様を掲載中。(四万十住人 山田高司

「MOTTAINAI」〜2010年中国の旅〜

 舞台演出で共演者や舞台美術を生かすも殺すも、主役の立つ位置で決まるという。「9」のつく年(ナイン・シンドローム)は波乱が起きる。日本で政権交代が起きた。主役が代わり、立つ位置も変った。2010年、新しい時代の主役の立つ位置は「K」である。民主党が掲げる「子供」「環境」「雇用」の3Kセットが経済効果を生み、観客(国民)を沸かせるだろうか。中国をフレームにすると日本が見える。僕は舞台(時代)を俯瞰するために「2010年中国の旅」を思い立った。

 「初めての中国の旅」と同じルートをたどった。30数年前、初めて訪れた中国は文革の真っ只中で舞台でいえば暗転のような状態であった。片道72時間の列車の旅で、共産党の工作員は「資本主義なんて糞の役にも立たない」と、一人芝居だ。「地球上には人類を養うだけの土地と資源がある。誰かが一人前以上に食糧や資源を奪ったらどうなる?」「足りない人が出てくる」。僕は、一言だけ台詞を言った。あれから30数年、中国は未曾有の経済発展を遂げた。中国は世界の舞台で主役の座を奪う位置まで登りつめた。

 僕が訪ねた村々では「毛語録」の代わりに「財神」が奉られ富が神様である。一人当たりGDPが3000ドルを超えると消費ブームが起きる。国家資本主義といわれる政府主導の市場経済化による工業化の波が押し寄せる農村で奪うようにモノが売れている。そして僕が訪れた後、三つの村が外国人に閉ざされた。「一線を越えた?」取材で、僕のパートナーだった三人の案内人がその後行方を断った。中国には4億人を越すネット人口がいる。その反面、10数万人のネット警察がネットを検閲し密告している。僕が案内人と交わしたメールを政府が検閲していたのだろう。閉ざされた村のことを、ここでは書けない。

 習近平国家副主席が来日(09・12・14)した時、側近に三人の案内人の安否を確かめるように頼んだ。

 時代の産みの苦しみを確かめる「2010年中国の旅」は、僕に新しい時代の到来を告げていた。僕らは高度成長、バブルとその崩壊に立ち会い、ポストモダンつまり国境なき世界観に浸ってきた。時代は、「ポストモダン」から「ポストグローバル」へと動き始めていることを、アーティストのゲルマン氏が掲げていた。ゲルマン氏がいうポストグローバルとは地域からの発信である。グローバル化が停滞する社会でローカル・カルチャーが繁栄し始めていることだ。その力となっているのがインターネットである。ソーシャル・ネットワーキング・サービスなどのサイトが、世界観をみんなで共有することでなくローカルからのコミュニティを世に送り出している。ネット社会が臨界に達した時のリバウンドとして、ローカル・カルチャーつまり地域文化あるいは土着文化が発信されていた。

 僕はローカル文化の一つ日本の伝統文化に出くわした。二つの日本語が国際語となっているではないか。「OMAKASE」(おまかせ)という国際語をニューヨークの日本料理店で聞いたのではない。金融ビジネスの場面で「OMAKASE」が使われている。黙って座るだけで客の満足感を満たす日本人の智恵と経験と自信に満ちた思いやり文化が世界のビジネスの中心街で受け継がれ始めている。ウォール街の証券マンが顧客に「OMAKASE」を連発しているではないか。もう一つ、国際語となったのは「MOTTAINAI」(もったいない)である。ケニアのワンガリ・マータイさんが、ありふれた日本語を地球環境問題の現場から発してくれた。

 僕は昨年11月に『引き裂かれた街〜池袋チャイナタウン・プロジェクト』を発表した。池袋チャイナタウン計画の陰で暗躍する産業スパイの実態を描いた。小説でなければ、ここまで事実を書かない。池袋チャイナタウンは横浜中華街や神戸の南京街とは違う。関帝廟も派手な門構えもない。観光の街ではなく、ネットワーク・チャイナタウンと呼ばれている。『引き裂かれた街』には、日本を三流国(経済が与える影響力)に突き落とした“見えない隣人”黒客(ハッカー)たちが登場する。中国はこれまでのローエンド(労働集約型)から高付加価値のモノづくり大国へ脱皮を目指している。日本の企業や技術・人材を求め産業スパイが蠢いている。有り余る外貨準備高で日本に進出して日本人をリクルートし、技術食いのために企業買収をする「走出去(外に出る)」という国策のひとつの作戦である。この国は中華思想こそグローバル化だと考え違いをしている。

 自動車は生産、販売ともに世界一、ノートパソコン生産台数が世界シェアの8割、デジカメの5割を中国が占めている。中国は2039年にアメリカをも追い抜くという。

「アジアという混沌(カオス)が日に日に失せていくのが、近代なのか……」。「冒険」「探検」「秘境」などが死語になりつつあるなか、「地平線の旅人」は時代感覚にもっとも鋭敏な地球ローカルからの発信者であることに気づいた。いつの頃からか地平線通信の表紙ロゴが「地平線」とともに国際語「CHIHEISEN」を表記している。(森田靖郎・作家)


[通信費をありがとうございました]

■地平線会議は会ではないので会費はありませんが、通信費は頂いています。先月以後、通信費(年2000円)を払ってくださった方々は次の通りです。中には数年分、まとめて払ってくれた方もいます。万一記載漏れがありましたらご連絡ください。

 林与志弘/宮崎拓/土屋守/鳥山稔/谷脇百恵/上延智子/北川文夫/尾形康子/山本奈朱香/入江俊郎

1万円カンパ御礼

■「地平線30周年」を記念するイベントの実行、関連する印刷物制作のために09年1月以来「1万円カンパ」をお願いしてきました。あたたかい応援の心を頂いた皆さん方に、心からお礼申し上げます。大集会当日、追加のお祝いを下さった森国興さん、中国で交通事故に遭遇しながら見事生還した記念に、と追加カンパしてくれた賀曽利隆さんにも重ねてお礼を申し上げます。皆さんのご協力は、30周年記念大集会の実行、『月世見画報』の制作、「あしびなー報告書」の制作、発送(2月には完成の予定です)などに大きな力となってくれました。カンパはいったん終了し、今後、志を頂いた場合は随時その方の名を通信に掲載させていただきます。ありがとうございました。(地平線会議)

《10年1月12日現在カンパ協力人リスト》
★斉藤宏子 三上智津子 佐藤安紀子 石原拓也 野々山富雄 坪井伸吾 中島菊代 新堂睦子 埜口保男 服部文祥 松澤亮 田部井淳子 岩淵清 向後紀代美 小河原章行 江本嘉伸 掛須美奈子 橋口優 宇都木慎一 原健次 飯野昭司 鹿内善三 河田真智子 岡村隆 森国興 下地邦敏 長濱多美子 長濱静之 西嶋錬太郎 寺本和子 城山幸子 池田祐司 妹尾和子 賀曽利隆 斉藤豊 北村節子 野元甚蔵 北川文夫 小林天心 金子浩 金井重  古山隆行 古山里美 松原英俊 野元啓一 小林新 平識勇 横山喜久 藤田光明 河野昌也 山田まり子 坂本勉 松田仁志 中村保 中山郁子 河野典子 酒井富美 シール・エミコ 平本達彦 神長幹雄 岩野祥子 藤木安子 広瀬敏通 山本千夏 村松直美 神尾重則 香川澄雄 白根全 尾上昇 橘高広 笠島克彦 吉岡嶺二 藤本慶光 長谷川昌美 村田忠彦 海宝道義 麻田豊 ウルドゥー語劇団 川島好子 稲見亜矢子 森国興 遊上陽子 坪井敬子 宮崎聖・直美 花崎洋 谷脇百恵 川本正道


短信

■服部文祥さんの新著『狩猟サバイバル』(みすず書房 2400円+税)好評発売


■『地平線月世見画報−地平線通信全予告面集 1979.9.28〜2009.11.21』好評販売中。A5判・本文288ページ。1ページに2点ずつ地平線通信に掲載された案内を収録。◆頒布価格:1冊1000円。送料:2冊まで160円、4冊まで320円。6冊まで480円。◆申し込みは、ハガキに「氏名・郵便番号・住所(建物名も)・電話番号・部数」をご記入のうえ、「地平線・月世見画報制作室」(〒167-0041 東京都杉並区善福寺4-5-12 丸山方)まで。地平線会議のウェブサイトからも申し込み可。◆支払い方法:本が届いてから、郵便振替「00120-1-730508」、加入者名「地平線会議・プロダクトハウス」へお願い。通信欄に「月世見画報代金」とご記入を。

[先月の発送請負人]

1月号の地平線通信の発送に駆けつけてくれた皆さんは、以下の通りです。28ページと大部だったので助かりました。ありがとうございました。

◆関根皓博 車谷建太 森井祐介 新垣亜美 江本嘉伸 松澤亮 久島弘 古山里美 落合大祐 山辺剣 緒方敏明 米満玲 三上智津子 村田忠彦 杉山貴章 安東浩正 野地耕治 坪井敬子 坪井友子 坪井伸吾 妹尾和子 武田力 埜口保男 (計23人)


[あとがき]

■新年第1号も、いろいろな人が発信してくれて、多彩な内容となった。きつめのレイアウトをお願いすることとなった森井祐介さん、今回もいやな顔をせず仕上げてくれ、頭が上がらない。

◆新年早々、いろいろな仲間が顔を出した。映画「僕らのカヌーができるまで」のムサビOB、OGたちとは上映会をどう盛り上げようか、について熱っぽく話し、ヨーロッパを走って縦断したあの健脚の「うるとらじーじ」こと原健次さんは、ガンで暮れに胃を摘出したと聞いて心配していたが、奥様とふらり現れ、相変わらずの元気で安心した。

◆サッカーで4-1で勝ったことで意気揚々の三輪さんは、もう要らないから、と私がほしがっている小型のパソコン(残念ながらバッテリー無しの)を持ってきてくれ、12月の報告者の今利紗紀さんはお母さんの娘時代のものというウールの着物姿で登場したので驚いた。陸上、スキーでならしたアスリートが着付けも自分でできるという。美しかったです、着物姿。それにしても、我がレパートリーやや反省、エモカレーだけではなあ。

◆先日の通信で《ケーナを始めたのもちょうど30年前です》の文章、書き手の名が消えていました。勿論、ご存知の「ケーナ奏者・長岡竜介」さんです。お詫びして追記します。

◆今号から加藤千晶さんに編集スタッフに入ってもらいました。(江本嘉伸


■今月の地平線報告会の案内(絵と文:長野亮之介)
地平線通信裏表紙

タテとヨコのハイ・ブリッド

  • 1月26日(火) 18:30〜21:00
  • ¥500
  • 於:新宿区立新宿スポーツセンター(03-3232-0171)

「私の場合はヨコの旅がないと、タテの旅も成立しないんですよ!」と言うのは気鋭の登山家、谷口けい(36)さん。ヒマラヤのカメット山(7756m)南東壁新ルートの登はんを認められ、昨年4月に登山界のアカデミー賞といわれる「金のピッケル賞」を日本人女性として初受賞した実力派です。

明治大学生時代は自転車部でツーリングに目覚め、社会人になってからはアドベンチャーレース、山岳耐久レースやアイスクライミングなど様々なアウトドアの大会で頭角を現してきました。「子供の頃から“冒険”に憧れていました。山登りも、ピークは目的ではあるけどクライミング自体は未知の世界に足を踏みいれるための手段かもしれない」と、けいさん。「登山口に行くまでの横移動の旅が大切。知らない世界でいろんな人と交流するのが楽しいんです。それがないと垂直の旅(=登山)の魅力もうすれちゃうかも」。

今月は谷口けいさんにタテヨコの旅の醍醐味を語って頂きます。迫力の映像にも乞御期待!


通信費(2000円)払い込みは郵便振替または報告会の受付でどうぞ
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議(手数料が120円かかります)

地平線通信362号/2010年1月13日/発行:地平線会議/制作:地平線通信制作室/編集長:江本嘉伸/レイアウト:森井祐介/イラスト:長野亮之介/編集制作スタッフ:丸山純 武田力 中島菊代 大西夏奈子 落合大祐 加藤千晶/編集協力:米満玲/印刷:地平線印刷局榎町分室
地平線Webサイト http://www.chiheisen.net/
発行 地平線会議 〒160-0007 東京都新宿区荒木町3-23-303 江本嘉伸方


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