2009年10月の地平線通信

■10月の地平線通信・359号のフロント(1ページ目にある巻頭記事)

地平線通信表紙

10月7日。朝7時の東京の気温は16.7℃。長袖でないと肌寒さを感じる朝である。最高気温は20℃の予想というから、秋まっただ中の涼しさだ。今年は残暑が短かった、とつくづく思う。9月初め、モンゴルから帰った時はかなりの猛暑を覚悟していたが、ついにクーラーを使うことはなかった。

◆秋はさびしいが、澄んだ冷たさの気配がいい。なんて言っていると台風が登場した。「非常に強い」台風18号が北へ進んでいる。7日正午現在、九州の南は広い範囲で暴風雨圏となっていて、明日8日には2年ぶり本州に上陸する可能性がある。

◆最大風力45mという台風は我がマンションにとっても脅威だ。10月1日から20年ぶりの大規模改修工事が始まったところで、5階建ての建物の半分まで足場組みが終わったばかりだからだ。1979年8月の確か1日、新宿御苑に近い閑静な大京町から飲み屋街のこの建物に移った。大京町の狭いアパートで地平線会議の発足については何度か会合を持っていたが、実際に名前が決まり、発足したのは1979年8月17日、荒木町のこの家で夜を徹しての話し合いの末だ。考えてみればここに住み始めた直後のことである。

◆以来30年あまり。夜の飲み屋街の風景にこんな場所によく住めますね、とよく言われるが、意外に静かで慣れてしまえば快適な“隠れ家”である。気がつけばいつの間にかマンション管理組合の理事長の立場になっていて、今回の大修理の発注責任者でもあるのだ。今朝もこの通信を作りながら工事の人や掃除のおじさんとしばし台風対策を相談する。

◆大雨や台風の時は、麦丸の散歩がひと仕事だ。家でトイレをさせるしつけをしなかったので、旅に出てない時は、雨が降っても槍が降っても日に2、3回は連れ出す。今朝も小止みを待って荒木町界隈を散歩したら同じような境遇のチワワ2匹と遭遇、キャンキャン吠えられた。困った顔のおばさんと挨拶を交わす。

◆チワワといえばピース君だ。奈良にいるシール・エミコさんがお姉さんから預かっている3才の雄。ピースの存在がどんなにエミコさんの心を支えているか私には想像できる。先月の通信で本人の短いメールを紹介したが、エミコさんはいま、辛い状況にいる。そのことを8月29日、1年ぶりに再開したブログでこう書き出している。

◆「長い長い間、ごぶさたしてすみませんでした!!みなさんのあたたかい応援によってこの一年、癌再発の治療と療養に専念してこれました。(中略)みなさんと笑顔で再会できる日を心から、心の底から楽しみに、支えにしてきました」次の言葉が重かった。「しかし、先月、癌が再々発してしまいました...。今は、正直、言葉も失せ...ただ、告知からのこの一ヵ月間、自分なりに精いっぱい心の整理をつけてきたつもりです。(涙)なので、『今、生きている証』として、ブログを再開させていただきたいと願います」。混乱の中でエミコさんの決意が伝わってくる文章だった。

◆ガン再々発の告知を知ってから今日まで、何回かエミコさんと連絡をとることができた。メールを書き、伴侶のスティーブに様子を聞きながらだ。地平線の仲間の気持ちを代表する気分もあり、いまできることがあれば小さなことでもいい、力になりたい、と思ったのだ。ガンが発症した9年前にも、1年前再発した時にも感じなかった絶望、自分の「弱さ」をエミコさんは淡々と訴える。弱さなんかではない、と言いたいが黙って聞く。

◆『最高の人生の見つけ方』という映画のDVDを観たあと、彼女はブログに自分の『The bucket list』を書き込んだ。bucketとは、棺おけのことで、直訳すると『死ぬ前にすることリスト』。「海に面したレストランで、スティーブと赤ワインを飲んで笑う」「旅の写真を全部見なおす」「桑田佳祐さんを間近で見たい。握手してほしいな♪」「ケアンズ(注:スティーブと出会った場所)へ行く」「スティーブが80歳になるまでのクリスマスカードを書いておく」「お世話になった人と会い、お礼を伝える」がエミコさんのリストだった。そしてこう結んだ。「映画のように、もしあなたが「余命半年」といわれたら?? bucket listに何を書きますか」

◆私との話の中でもう一つ付け加えた。「みんなと会って《北京》(注:通信発送作業の後で行く中華料理店)の餃子を食べたいです」。そうか。来てもらおうか。本気でそう考えた。10月7日、エミコさんの命を考えながら私は1才齢を重ねた。(江本嘉伸


先月の報告会から

ALWAYS 十字路国の夕日

三輪主彦

2009年9月25日 新宿区スポーツセンター

■今月の報告者は、記念すべき報告会第一回目の報告者であり、長年にわたり世話人をされている(でも、ご本人曰く「雑用させられていた」)、すんごい人、三輪主彦さんだ。私にとっての三輪さんは、ある月の報告会にアキレス腱を切っちゃったとひょこひょこ来られたと思ったら、翌月にはマラソン大会に出たなどと笑っている、謎だらけの方。何を聞いてもいつも煙に巻かれてしまう。でも今回、ついにその謎が解き明かされる(かもしれない)! 私の胸は高まるのだった。

◆そんな中、まず会場に、留守番電話を使った1回目の「地平線放送」が流された。それは地平線会議が発足し、第一回目の報告会をするというお知らせで、三輪さんの元教え子、菅井玲子さんが声を担当している。次に、2回目の「地平線放送」。丸山さんがこれの印象が強過ぎてその後の報告内容を全く覚えていないと言う、三輪さんの有名な「一万円演説」だ(「話をするなら一万円」と宮本千晴さんに言われ「そんなに貰えるなんて!」と第一回目の報告者になったのに、貰うのではなく一万円を払わされてこれから喋ります、という内容)。

◆都立高校で地学の先生をしていた三輪さんが、トルコに一年の交換留学したのは、1978年、34歳の時。翌年にその時の滞在が「アナトリア高原から」と題され、第一回で報告された。それから30年――。今年行ったトルコは、奥様と友人夫妻と一緒の「快適旅」。まずはイスタンブル(トルコ文字では「イスタンブール」とは読まないそうです)に降り立った。「トルコが変わったのか、それとも私が変わったのか」。お話は、30年前と今を行ったり来たりしながら、進む。

◆印象に残ったのは、若かりし三輪さんの写真。現地に馴染み日本人に見えない。この時はいつも疲れていた、と三輪さん。なぜなら毎日20キロは歩いていたから。お金がなく交通の便が悪かったのもあるが、行きたい所には大変な思いをして行った方がいいように思っていたのだ。そしていつも恐ろしい目に会っていた。少し町外れに行くとしばしばでかい犬が出てくるが、ある日ついに噛まれた。すると「悪かったなあ」、飼い主が一晩泊めてくれたという。

◆今年、30年ぶりに黒海沿岸地方へ。昔行くのに苦労した崖の上のスメラ修道院に奥さんを連れて行き、感心させようと思ったが、面影はもうない。道は整えられ、建造物は修復されていた。他にも、木造家屋ばかりだったトラブゾンの町は高層ビルが建ち並び、人口は10万人から30万人へと増えていた。田舎町で人口が3倍になる……。それだけの人を雇える産業とはなんなのだろう? 少し見ただけでは判らなかったそうだ。

◆ハイウエイも驚く程に整備され、高速バスがびゅんびゅん走っている。高級で感動的なバスに乗り、途中下車してハイウエイ上にポツンとあるホテルに泊った。途中下車したのは、世界遺産のハットウシャに行く為だ。そこでは、紀元前にヒッタイト王とラムサスII世が戦い、ヒッタイトが勝ち、条約を結んだ文書が発見された。同じ文書がエジプトのカルナック宮殿にもあった為、その戦争が事実であると証明されたのだという。三輪さんは30年前と同じ場所でたくさんの写真を撮っており、比べると、王様のレリーフは現在の方が浮き彫りがはっきりしているし、岩に書かれた文字も昔はほとんど見えなかったのが、今はよく見える。手を加えているのだ。トルコでは、ハットウシャのようにトルコ人の祖先が作ったものではないのに、自国のものとして誇っている遺跡が多くあるそうだ。

◆さて、ハイウエイ上のホテルから、かつて留学していたアンカラの地へ向かおうにも、そばにバス停はない。しようがないから高速バスをヒッチハイクすることにした。奥さんは慣れていて「どれを止めようかなあ」。でも友人には「三輪さんと行動すると、ヒッチハイクまでしなきゃならないのか」と驚かれたという。アンカラの町もきれいになっていた。昔スラム街だった所にも各家にパラボナアンテナがつき、衛星放送まで観られるのだ。

◆30年前に着いてまず泊まったホテルを再訪してみると、残っている。そこで最初に覚えた言葉は「アナフタール(鍵)」だった。鍵がなければ部屋に入れないのだから当然だ。通った大学や住んでいたアパートの跡地にも行った。アパートの下には煙草屋がありよく遊びに寄った、と懐かしそう。当時、町にはまだ馬車も走っていたし、冬は石炭でもうもうとしていた。それだけ聞くとのんきだが、他には―。ポリスの戦車が町中に並び、軍のもあった。戒厳令が敷かれもし、出歩いていると本当に発砲された。1979年元旦の新聞の一面に「左翼と右翼の戦いで、1170人殺されちゃった」というような内容が書いてある、そんな時代だったのだ。

◆でも、宗教については日本と似た雰囲気があったそうだ。98%がイスラムだったが、なまぐさイスラムが多く「融通がきく所がいいなあ」。

◆今回、多少言葉を聞き判ったのは、自分が習った言葉が消えているということ(三輪さんの留学時には、アタチュルクによる言語改革の流れで、左翼系の「純粋トルコ語」が主流だった)。最近は、保守(イスラム寄り)系のトルコ語のほうが強くなっているのだ。町中を見ても、スカーフを被っている女性が増えている。当時、トルコ人は日露戦争でロシアを破った「日本が好き」と言われていた。

◆とはいえこんなことも。1979年3月の早朝、アパートに知人が駆け込んできた。「お前の国が戦争を始めた! 早く帰って軍隊に行け!」。念のため日本大使館に行くと、始まったのは中国とベトナムの中越戦争。日本は中国の一部だと思われたらしい。現在、ロシアと接近しているトルコにとって、日露戦争は過去のものだろう。黒海沿岸の目覚ましい繁栄にはロシアの影響がありそうだし、ロシアとの接近はイスラム化の流れにも関係しているのではないか、そう三輪さんは考えている。

◆「快適旅」といえば、ビールだ! 飲みたくて、売っているお店を探す。「お前はなんだ?」「ブッティストだ」「よし、トルコは民主主義の国だから売ってやる」。でも昔は裏路地で普通に売っていたし、飲んでいた。ラマザン(訛ったのが「ラマダン」)が始まっても「病気の人、妊婦、旅人は食べてよいとコーランにもある。僕はラマザンに入って病気になった。病気にはビールが効く」、なんておおらかだった。

◆が、現在はもっと厳しいようだ。皆見えるところでは戒律を守っており、かなり強制が入っていると感じる。イスラム化を押し進めると、トルコ政府が望むEUには入りにくくなるはずなのに……。久しぶりに見たトルコは、大きく動いていた。

◆冒険家は大変だから「旅行家」がいいと思う三輪さんの目指すものは、「円熟旅行家」だ。「旅人とわが名呼ばれん初しぐれ」などと、今頃は芭蕉の境地に至っている予定が、まだなんにもなれていないという。例えば、向後元彦さんのマングローブの活動のように、旅で色々な人にお世話になったものを返したいという気持ちが、三輪さんにはあった。でも、向後さんも「まず自分が楽しいから」一生懸命やったそうだ。中近東でのアラビアのロレンス然り、向こうの人に大きくインパクトを与えることが果たしていいものか。結局、考え至ったのは、「お返ししよう(とだけ)しても、ロクなことはないのかもしれない」。「だって、賀曽利隆はずーっと動き回っているだけで、お返しなんてこれっぽっちも考えていないじゃないか」。

◆最近、三輪さんは祖先の山(と勝手に思っている)「三輪山」に登った。そこに熱心に祈りながら裸足で登っている人達がおり、聞いてみると、「お山を汚してはいけないから」。試しに裸足になり登ると、青竹踏みよりも気持ちがいい! こういうのって、誰の役にも立たないけど迷惑にもならないから、いいのかもしれない。もちろん下りは痛いので靴を履いた三輪さんは、「祈りってなんじゃろなー」と考えるのだった。「あの人達も、なまくらイスラムみたいに、他ではお酒飲んで遊んでるんだろうなー」とも。「きっとあんまりなんにもしちゃいけないんだろうな」。

◆その思いから、学校の教科書の副読本に「なんにもしないで山に寝ころんでみよう」というのを書いてみたら、大変不評だったという。でも、それを熱心に実践するのも「しない」を「する」ことになり、よくないような。塩梅がムツカシイのだ……。飄々としながら悩める三輪さんが、唐突に「これでおしまい」と見せたのは「彼岸花」の写真だった(また、煙に巻かれちゃった!?)。それに触発される形で、円熟期に入った地平線人(?)はどうしたらいいのかと、江本さんや向後さんが話され、会場は盛り上がる。

◆最後に、金井重さんがきめた。「旅をする人は永遠に旅をしなければならないのよ。何かをしようとか、影響を与えようとか、そういう事を考えちゃダメ。見た人が勝手に影響を受けるのね」「林住期は誰だってできる。遊行期の旅をどうするのか。私は今それに動き出しているの。誰の為でもない、自分自身の為に、自分の旅をやっていくのよ」

◆これから三輪さんは、どのように「円熟」されて行くのだろう。例えば、重さんのお年になった三輪さんは、なにをされているのだろう。次々現れる三輪さんの魅力的な謎を、腰を据えて解き明かしたい! と、思った次第です。(トルコの歴史に付いて行けず、書けず、ごめんなさい。三輪「先生」はちゃんと説明してくれたのにー。加藤千晶


報告者のひとこと

旅のプロは返上し、年寄りのプロに転進するゾォー

■決められた時間内にパフォーマンスをし、あとは観客、聴衆に判断してもらうのがプロの演技、競技だ。地平線の報告会も同じように旅のプロの自己表現の場だと思い続けてきたので、時間内に自分の旅を総括しようと十分準備をした。色の変わった30年前のスライドをスキャンするだけで相当時間を費やし、スライドは10回以上並べ替え、話の内容も順序だてておいた。しかし実際には私の座右の銘「努力はほとんど実らない!」のごとく、情けない話に終わった。

◆30年前の報告会は、「1万円を出して話させてもらった!」という話だけが残っているが、報告内容に感心した人もおり、手作りの旅のメモからトルコのガイドブック、トルコ語本が出版された。当時自分には伝えたいことが一杯あり、充実したパフォーマンスだった。今回事前準備に3倍時間をかけたにもかかわらず、何を伝えたかったか不明だった。

◆年寄りの話は、こたつにあたりながら「あの時はねえ!」がいいので、大勢の人様の前でしゃべるのはやめたほうがいい。プロはその時、その場が大事で、後からこんな言い訳はしない。旅のプロは返上し、年寄りのプロに転進するゾォー。(三輪主彦


地平線ポストから

“尺取り虫方式航海術”から、ヨーロッパ運河旅(カナルカヤック)へ━━私のカヌー人生

■本年7月3日、南仏ローヌ川河口の町サンルイ・ド・ローヌに着いて、“北海から地中海へ、欧州縦断2000キロのカヌー旅”が終わった。この間、[1]パリ〜アムステルダム(逆コースを北上)、[2]パリ〜リヨン、[3]リヨン〜サンルイ・ド・ローヌ、さらに地中海をマルセイユまでの3回(孫誕生という事情で1年のブランク)に分けた。全57日、4年がかりの旅の出来事について、詳しくは報告会でお話しさせていただくことにして、ここではどうしてカヌーを漕いでヨーロッパを目指したかについて記しておく。

◆カヌーを漕ぎ始めたのは32年前、39歳の時である。高度成長というすっかり風化した言葉の時代、東京通いのサラリーマン暮らしをしていたから、たまの休日に遊べるものはないかと見付け出したのが、ファルトボートという折りたたみ式のカヌー(正式にはカヤック)だった。

◆昭和54年の文化の日、ふとした思い付きで、まる1日漕ぎ続けたらどこまで行けるのだろうかと、自宅前の鎌倉腰越海岸から出発した。夕刻、30キロ程先の国府津の浜に着いた。随分進むものだとわれながら感心して、翌月国府津から再スタートし、師走の海を西に向かい真鶴岬を回り切った。以来、まだ行けるまだ行けると会社の休日を利用して、“尺取り虫方式航海術”という全く自己流のやり方で、本州、九州、四国、南北海道と漕ぎ進んだ。リタイアしたのは8年前だが、その時点で残っていた北北海道、沖縄本島を夫々一気に漕ぎ、日本一周9600キロ、五大島周航が23年間の301日を要して終了した。

◆日本の海岸線をたどりながら、やがてこれが終わったら、次は世界の大河の一本位はやってみようと考えていた。地図をにらんで探し出したのが、北米五大湖から大西洋に向かうセントローレンス川1200キロである。

◆翌年からオンタリオ湖畔のキングストンから北米大陸東端のガスペまで、お節介なほどに親切なカナディアンに助けられた2夏35日間の旅になった。この間での最大のトラブルは、川の中洲から荷物一切を艇ぐるみ流失し、コーストガードの警備艇が出動し回収してくれたこと。この「事件」は警察署の広報官が書いた記事が翌日の『ケベックジャーナル』紙に載ったため、その先しばらくは寄港したマリーナで大歓待を受けた。警察署の裏庭を借りてテント泊したことも「この町で一番安全な場所で寝ていった日本人」として紹介されていた。

◆また最大の収穫は運河旅(カナルカヤック)のきっかけが出来たことである。モントリオールの急流域のバイパス運河を体験したことが、次のヨーロッパ運河へ“渡り島方式”ならやれるだろうという新たな目標に繋がった。

◆欧州運河の水路は、自然河川と人工運河を結んで総延長5万キロ、遠くモスクワにも及ぶという。200年前ナポレオンの命令で造られた水路は健在であり、今もって重要な交通路として、大型のバージ(運挺船)が航行し、一方でキャンピングクルーザーが旅していくレジャールートにもなっている。地形の高低さを調整し、船舶が安全航行出来るように造られたのがロック(フランス語ではエクルーズ、日本語では関門)である。

◆欧州縦断ルートでは実に332カ所の関所を越えなければならなかったが、カヌーのエクルーズ通過が基本的に認められているのかどうかは、今もって分からない。カヌー一隻でも、当然のように通してくれる所もあれば、大声で追い返され已むなく担いで越えた所もあった。だがそれでも各国からのボート船団に交じってエクルーズを越えていくのはカナルカヤックの醍醐味、様々な出会いがあった。

◆また川岸から声をかけてくれたベルギーのグランシヤ・エチエンヌとは不思議な縁になった。その夜は久々に彼の家のベッドで休み、翌日はオプショナルエクスカーションになって、アルデンヌ高原の奥深くルクセンブルグ近くまで川下りに案内してもらった。そして、翌年のブルゴーニュの旅にはぜひ同行したいという連絡がきた。運河の入口の町ミジェンヌで落ち合い、ディジョンまでの8日間は、レジーヌ夫人が荷物を積んで車で伴走してくれての同行二人、いや三人の楽チンな道行だった。

◆さて、最終地マルセイユでカヌー一式を送り返した後は、プロヴァンスを満喫しパリに戻り、ドーヴァーをフェリーで渡ってロンドンに向かった。来年からはイギリス、先ずはロンドンから10時の方向に250キロのバーミンガムを目指して行く。グランド・ユニオン運河、産業革命の道である。出発地の確認、BWW(英国水路局)の訪問、運河地図の購入と準備万端整った。なんともまた、エチエンヌが、楽しみにしていると言ってきた。はるばる欧州へエトランゼーの一人旅と思っていたのが、思わぬ展開になったものだ。

★エチエンヌは現在は古書店の主人だが、元々は高校の歴史の先生だったという。寄り道をしてはミュージアムやシーザーの遠征の旧跡を訪ねたられたのもラッキーだった。(吉岡嶺二 永久カヌーイスト)

重度の高山病の状態でラサに到着すると、あまりの空気の濃さに驚かされました━━カソリのチベット横断報告

■この半年あまりというもの、ほとんど家にいなかったので、地平線会議の報告会にも行けませんでした…。シール・エミコさんの2008年2月29日の報告会が大きなきっかけとなった「チベット横断」には、7月1日に出発しました。北京から西安へ。西安から中国製のバイクで蘭州→嘉峪関→敦煌とシルクロードを走り、敦煌からチベット高原に向かっていきました。

◆西安を出発してから9日目、青海省のゴルムドに到着。ここから青蔵公路(国道109号)でチベットのラサへ。その間では崑崙山脈を越えていきます。憧れの崑崙。標高4767メートルの崑崙峠に立ったときは、「おー、崑崙!」と、喜びを爆発させました。さらにそのあと、標高5010メートルの風火峠を越えたのです。いよいよ5000メートル級の峠越えの開始です。

◆風火峠を下ったダダ(トト)では長江との出会いがありました。長江最上流部のダダ(トト)川にかかる青蔵公路の橋が、長江最初の橋ということになります。が、この夜は最悪。ダダの町の標高は4521メートル。「長江源賓館」に泊まったのですが、高山病にやられ、息苦しくてほとんど寝られませんでした。横になれないのです。仕方なくホテルのロビーのソファーに座っていました。この格好だと、すこしは楽に息ができるのです。

◆ダダを出ると、青海省とチベット自治区の境、標高5231メートルのタングラ峠を越えていきます。続いて標高5170メートルの峠越え。高山病にすっかりやられてしまったので、何とも辛い峠越えとなりました。眠れない、食べられないという重度の高山病の状態でラサに到着すると、あまりの空気の濃さに驚かされました。高山病は一発で治り、普通に歩けるようになり、普通に食べられるようになり、普通に寝られるようになったのです。といってもラサの標高は3650メートル。富士山ぐらいの高さはあるのですが、4000メートル、5000メートルの世界から下ってくると、まるで天国のような低地に感じられたのです。

◆ラサからシガツェ、ラツェを経由し、標高5248メートルのギャムツォ峠を越えてチョモランマのベースキャンプへ。標高5000メートルのロンボク寺に泊まったのですが、その日の夕方、チョモランマにかかっていた雲はきれいにとり払われ、その全貌を見ることができたのです。モンスーンの季節でチョモランマを見るのはほとんど無理だといわれていただけに、もう狂喜乱舞で夕日を浴びたチョモランマを見つづけるのでした。

◆ティンリで泊まった日の朝は快晴。目の前の平原の向こうには標高8201メートルのチョーユーが聳えたっていました。神々しいほどの山の姿。その左手には標高7952メートルのギャチュンカン。チョモランマも見えていますが、堂々としたチョーユー山群に圧倒され、ここでは脇役でしかありませんでした。

◆ティンリからは標高8012メートルのシシャパンマへ。ヒマラヤ8000メートル峰の奇跡はさらにつづき、チベッタンブルーの抜けるような青空を背にしたシシャパンマの主峰を見ることができたのです。シシャパンマの大山塊を左手に見ながら走り続けます。雪山の白さ、間近に見える氷河の白さはまぶしいほどでした。そして「チベット横断路」の新蔵公路(国道219号)のサガの町に出ました。

◆新疆ウイグル自治区とチベット(西蔵)を結ぶ新蔵公路は劇的に変りました。すっかり道がよくなっているのです。何本もの川には橋がかかり、川渡りをすることは一度もありませんでした。ヤルツァンポ川と別れ、標高5216メートルのマユム峠を越えると、聖山のカイラスが見え、聖湖のマナサロワールも見下せます。チベット西部のアリ地区に入ると、何と舗装路が延々とアリ(獅河泉)までつづいていました。

◆アリからは最後の5000メートル級の峠越え。崑崙山脈の標高5248メートルの界山峠を越え、チベットから新疆に入っていきました。K2の登山口のマザーを通り、4000メートル級、3000メートル級の2つの峠を越え、タクラマカン砂漠のオアシス、カルグリックへ。そこはチベット高原とはあまりにも違う世界。熱風の吹きすさぶ一望千里の大砂漠を走り抜けていくのでした。こうして西安を出発してから31日目の8月11日、中国最西端の町、カシュガルに到着。全行程7000キロの「チベット横断」、というよりも「中国横断」の旅でした。シール・エミコさん、おかげで「チベット横断」ルートを走り切ることができましたよ。

◆「チベット横断」から帰国するとすぐに「奥の細道紀行」に出発。東京から大垣まで約1ヵ月をかけ、250ccバイクのスズキST250で8600キロを走り、芭蕉の「奥の細道」の足跡をたどったのです。芭蕉の世界にひたる毎日にはたまらないものがありました。10月1日には「北海道遺産」をめぐる「北海道一周」に出発します。そのあとは「八重山諸島」、さらには今年2度目の中国の「上海→広州」へとつづきます。さー、行くぞー!(賀曽利隆

サラリーマン生活を終え、山の世界に戻ることに決めました

■皆様、お久しぶりです。地平線で過去2度ほど発表させていただきました、世界七大陸最高峰登頂の山田淳です。ほら、野口健さん、石川直樹さんに続いて登ってた東大生、覚えてませんか?(いやあ、こういう自己紹介は不本意なんですが、これが一番思い出して頂き易いか、と。) 世界七大陸最高峰を登った後は、登山ガイドとして、キリマンジャロやネパールの山々、富士山、南・北アルプスなどを登っていたのですが、2006年に大学を卒業した後、就職し、山の世界から離れておりました。が、3年半の短いサラリーマン生活を終え、山の世界に戻ることに決めましたので、是非報告させてください。

◆そもそも、私がほぼ天職であろうと感じていた登山ガイドを辞めてサラリーマンになった理由は、ガイドを続けていても、自分が山の世界でやりたいことに近づけない、という思いからでした。私がやりたいこととは、これまでに私が山で学んできたこと、得てきたことをきちんと伝えていき、より多くの人に山の魅力を知ってもらい、その中で登山の正しい知識を伝え、事故を減らすこと。登山人口の拡大と登山リテラシーの向上です。

◆ガイドを続けていくと、自分の周りのコアなお客様のリテラシーは向上するし、自分の周りの山に登ったことの無い人を連れて行くことも出来る。小さな意味では自分の目標としていることが出来ていました。ただ、それは600万人と言われている、日本の登山人口全体からすると小さな一歩にもカウントできない。何か、大きな動きに昇華させたい、と考えていました。しかし、学生の延長で登山ガイドを続けていて、ビジネスのビの字も知らなかった私は、何をどう考えてよいのか見当もつかない。そこで1度会社に入ってしっかり修行しようと決め、マッキンゼーというコンサルティング会社に入社しました。

◆会社に入って3年半。と、言っても韓国に1年、アメリカに半年いたので、実質日本で働いていたのは2年ですが、非常に充実した生活を送りました。クライアントの企業に入りこんで問題解決をする、というコンサルタントの仕事自体、非常に楽しく勉強にもなり、時に自分が会社に入ったそもそもの理由を忘れて、目の前の仕事のみで頭が一杯になっていたこともありました。仕事は多忙を極め、朝日と共に帰宅、2時間ほど寝て出社、などということも多々ありました。が、それでも、飽きることもなく充実した毎日を過ごしていました。

◆そんな中、今年、2つのきっかけがありました。1つはトムラウシでの事故。ああいう事故を無くすための活動をやりたい、と思っていた私は、はっと初心を思い返しました。何も、ガイシケイのサラリーマンとなって六本木でカッコよく働くために山の世界を離れたのではない、何をやるために、何を学びたくてサラリーマンとなったかを考えなければならない、と。

◆2つめは、久々に自分で企画した富士登山。ガイド時代に登ってきたお客様たちやその他色々な人たちに頼まれて久々にガイドをやり、やっぱりこれだ、と。大きな動きを作っていく中でも決して大枠だけを捉えて現場を知らないようではいけない、つまり、人を連れて山に登るという基本的なこと、これは自分の根底に流れるものだし、現場を離れてオフィスで登山を語るようになってはいけない。一方で、そうなりかけていた自分にも気づき、やはり現場に戻ろう、と決めました。

◆そんなわけで、来年から登山ガイドに戻ります。幸い、3年以上離れていた今でも私と登りたいと熱望してくださるお客様がいて、来年の予定について話し、年明けにはアコンカグア、春にはブータン、もしかしたらマッキンリー、秋にはパタゴニアに行くことになりそうです。戻っていきなりガイド仕事があるのだからありがたい事です。その合間で、国内の登山もやります。あとは登山の魅力を伝えるべく色々な動きを画策中。せっかくビジネスの世界に3年もいたのだから、そこで学んだことも登山の世界で試してみたいと思っています。ただ、なにせ、ブランクが結構あるので、今は体力づくりと追いついていない知識の蓄積に奮闘中。

◆また、地平線会議にも顔を出します。1歳半の私そっくりのジュニアを連れて行きますので、是非よろしくお願い致します。(山田淳

平均標高4500mの高地に本当に洞窟があった!

■いつも色々とご配慮いただきありがとうございます。メコン源流からきのう帰国しました。今回の探検は平均標高4500mの高地に本当に洞窟があったというところが成果でした。出発前の資料では25キロ説や800キロ説がありました。実際に現地でのヒアリング結果でも「ラサまで通じている」とか、「タングラ山に出口がある」などと現地遊牧民だけでなく政府関係者までもが語るため、此方まで徐々に信じたくなる気分でした。結果のほうはこれから報告書に纏めて当地の人民政府関係機関(意外と期待しているため)、海外の洞窟関係機関に報告する予定です。(10月2日 北村昌之

短信

■09年夏、剣岳の主となった新垣亜美さん、9月には町に下りてくるはずだったが、電話あり。「真砂沢ロッジに移り、下山は10月15日となりました」と。この小屋は豪雪の剱岳八ッ峰(やつみね)1峰直下の剱沢真砂沢合流点(1,780m)にある沢の中の建物。以前はなかった。

「第4回スポーツグランプリ」受賞報告

■今年6月26日の地平線会議で「チベットのアルプス」の話をさせて頂いた自称・老年探検家の中村保です。年末12月には後期高齢者の仲間入りをします。この度、9月26日に天皇陛下御在位20年記念・第64回国民体育大会(国体)の開催地・新潟で「第4回スポーツグランプリ」を受賞しました。長年私の探検・踏査行をサポートしてくれてきた家内と一緒に出かけました。

◆グランプリ授与の趣旨は『長年にわたりスポーツを実践し、現在も継続して活動され、中高年年齢層の顕著な記録や実績を上げるなど、国内外で高い評価を得た方に対して、その功績を讃え表彰する』というものです。山岳部門の受賞は今回が初めてで、日本山岳協会の推薦のお陰によります。評価の対象は18年にわたる山岳の探査と記録・地図の内外への発信です。表彰状には次のように書かれています。

◆「あなたは永年にわたり登山に親しみながら日々研鑽に努められ未知の東チベット踏査探検を18年の長きにわたり続け探検地図を作成するとともにその地図を初めて世界に発信した功績により英国王立地理学協会から日本人で初めてバスクメダルを受賞するなどのご活躍は広く国民に感動や勇気を与えました。よってここにその功績を讃え日本スポーツグランプリを授与します。平成21年9月28日 財団法人 日本体育協会 会長 森喜朗」

◆今回の受賞者は水泳・ラグビー・テニス・馬術・卓球・重量挙げ・陸上競技・山岳の部門から9名が選ばれました。年齢は74歳から103歳までの「生涯現役」組です。御臨席の天皇陛下とお話する機会も賜わり、東チベットに関するご質問に対してラサの東のチベット辺境についてお話をさせて頂きました。陛下は中国青海省(東チベット圏と一部イスラム圏)との位置関係についてご関心がありました。皇太子殿下のご興味についても触れさせて頂きました。

◆アスリートでない私ではありますが、喜んで頂戴しました。記者会見では「山岳」は競技ではなく多様性のある分野であり、記録や勝負を争うスポーツではないと前置きしたうえで、観客のいない舞台での未踏域探査記録を内外へ発信し「オンリーワン」を目ざした結果が評価されたことが嬉しいと話しました。

◆このような栄誉を頂くことができた背景には「日本山岳会」「横断山脈研究会」というベースキャンプがあり、良き仲間に恵まれたこと、その素晴らしさと幸せを実感しています。実はこういう賞があることは私自身知りませんでしたし、登山や探検・冒険関係の人たちは知らないと思います。その反応の一端として、日本を代表する国際的なクライマーで、わたしが一番尊敬する坂下直枝さんからの嬉しいメッセージを紹介させて頂きます。(中村保


 中村さん、「第4回スポーツグランプリ」受賞、おめでとうございます。不明にして、このような賞があることを知りませんでしたが、オリンピック金メダリスト、三段跳びの織田幹雄さんとか、旧姓前畑の兵藤秀子さんとかは別格として、有名選手でも、長くスポーツを続けられる方は、少ないようです。ボストンマラソン優勝者の山田敬蔵さんや君原健二さん達は、今なお生涯現役選手として、活躍しておられるようで、後進の皆さんには大きな励みとなるように思います。改めて考えてみると、74歳を越えて、なおスポーツを実践するのは、かなり大変な事業ですね。本人の健康な肉体はもちろんですが、なお挑戦しようとする強い精神、そのスポーツにかける深い情熱、それを可能ならしめる経済的な基盤と、そして家族・仲間のサポートなど、これらすべての条件を満たす必要があるのですね。中村さんはまさにこれらの条件を見事にクリアされ、その上、実践の中身に価値があり、その表現・伝達方法も素晴らしいわけですから、受賞も当然のことと存じます。二日前の土曜日、岩場であった54歳のMさんから話しかけられましたが、彼曰く「若いやつが登れるのは、当たり前ですよ。年取ったオヤジが登り続けるのが、カッコいいんですよ」とのことでした。遥か先を行く先達の活躍は、私達にとって、本当に励みになります。中村さんのご説明の、「登山は競技ではなく多様性のある分野である」ことが、私達を登山に引きずり込んだ魅力でもあり、また、長い間続けられる理由でもあると思っております。私の後輩が、ヨセミテのエルキャピタンの難しい壁を登ったとき、「岩と雪」に発表した手記の題名が「垂直のクルーズ」というものでしたが。今秋の東チベット踏査行、自在のクルーズを楽しんできてください。また、素晴らしい山々の写真を楽しみにしております。

 “カッコいい”、中村さんの74歳現役とグランプリ受賞に乾杯!! 坂下直枝」》

「やまなみを走ろう!」を、再び秋の里山でやります

■秋真っ盛りの伊南からこんにちは。伊南川沿いに広がる田んぼの稲穂も黄金色になり、稲刈りも足早に進んでいます。 刈り取られる前に、この風景を目に焼きつけなくては…… と、秋を楽しむ心から少しずつ冬を待つ心に変化しているようです。なんだか今年は紅葉が早そうな気配です。

◆さて、お知らせです。夏に開催した「やまなみを走ろう!」を、再び秋(10月末)に開催します。 7月は、鈴木博子さんに御世話になりました。そして今月末のイベントは三輪主彦さんにガイドをお願いしての開催です。ホントに地平線会議には頭が下がりっぱなしです。

◆今回は、南会津の伊南川周辺の旧道やあぜ道、土手などコースを探し見つけながら本格的なトレイルランニングというよりも、里山の風景を眺め山間の秋を感じながら田舎道を楽しんでもらいたいと思っています。興味のある方は以下のページをご覧になって下さいねhttp://tagosaku-ina.com/event/index.html

では、お目にかかれる方との再会を楽しみに。(伊南の大いちょうの紅葉を楽しみにしている酒井富美・大いちょう紅葉の写真は民宿田吾作http://www.tagosaku-ina.com/index.htmlにあります)

敷居は低く、でも志は高く

■約5年前から地平線会議って何? という質問を地平線報告会とは無縁、でも探検・冒険的行為に興味を示す方から受ける機会が増えている。その際に過去の報告経験者のわかりやすい事例として、関野吉晴さん、斉藤政喜さん、石川直樹くん、のような近年大きな媒体露出の多い名前を挙げながらよく説明する。だが内心は、江本嘉伸さん、松原英俊さん、田中幹也さん、のような玄人好みの名前を出したいのだが、やはり前者のような世間一般では有名人のほうが話は通じやすい。

◆僕は斉藤さんの雑誌記事で約20年前(の中学生頃)から地平線の存在は知っていたが、今年8月の報告者の山崎哲秀さんが同様に20年ほど前から知りつつも無縁だったと聴くと、僕も10年前にアジア会館の報告会(安東浩正さんの初回)に初めて潜入するまで感じていた敷居の高さが障壁だった。

◆しかし最近、地平線通信でも30年前から深くかかわる老練なおじさま方が「若手」と書くように僕と同年代より若い面々、とりわけ06年に現れたミニコミ誌『野宿野郎』編集人で、四六時中のらくらしながらも何気にここ3年の地平線への貢献度は高い加藤千晶嬢が呼び水となって「新しい人」の参入が進み、敷居が徐々に低くなっている感がある。

◆そんな最近の報告会内外の「若手」の台頭による新陳代謝は、三輪主彦さんが今年1月の通信に書いた「報告会のカルチャーセンター化」という憂慮もわかるが、僕は良いことだと思う。というのも、06年初冬から続いている(毎月の報告会終了後に会場直近の公園で野宿する)地平線野宿党の面々から主に、報告会の良い点とともに批判的な、ぶっちゃけると「最近の報告者や通信の寄稿者には偏りがある」という意見も出るのだが、このような賛否両論ぶつかるオフレコの言い分がもっと活かされるといいのに、と思うため。

◆とはいえ、僕が今年5月に07〜08年の厳戒下のチベットなどを自転車で旅した田村暁生(大学時代の後輩)の報告会を独自に主催したときにも痛感したが、手弁当で30年以上も多種多様な報告会が毎月継続されていることに、その生命線である代表世話人の江本さんの人脈の広さとともに敬服する。

◆また、これまで報告会はいつも新参者の感覚でひいき目なく聴きたいと思い、通信への寄稿も旅の達人ばかりの読者に向けた言葉が備わっていないうちから書くのはおこがましいと思って控えてきて、地平線と一定の距離を置いてきた単なる聴衆のひとりの僕でさえ06年からブログなどでひとまず自分の守備範囲内で旅の報告を始めたのも、このホンモノの旅人集団が発する熱にやられたからである。

◆一度触れると衝動的に何か行動を起こしたくなるこの熱は良くも悪くも厄介だ。ただ、田村のような「若手」のなかにも志は高い(まさに“肝高”?)、革新的な発想と行動力の塊はまだまだ埋もれているはずで、僕がよく知る野宿党内を見ても報告者として表に出るべき人は緒方敏明さんほか数人いると思う。今後の地平線はもっと新陳代謝が進み、むしろ敷居はどんどん低くなるべきだ。

◆それによってあまり内輪ネタに走らずに外部からの刺激をもっと加え(最近は慣れたが、10年前の僕のように敷居の高さ=内輪的な雰囲気が苦手な人もいるだろう)、拙い部分は引き続き目の肥えた聴衆が愛のあるツッコミを入れ、今後も報告の送り手・受け手ともに毎回何か収穫のある、志をより高められる場であってほしい。人生を懸けた大挑戦よりも小さなことからコツコツやる僕は、せめて報告会通いで旅人の多様性をより理解しなければ、と肝に銘じている。

◆今年から服部文祥さんに興味が湧いたという報告会と無縁の友人に先日、地平線の解説付きで『サバイバル登山家』(みすず書房刊)を貸したのだが、旅人の一生においての劇的な一大事や集大成に巡り合う機会の多いこの稀有な集まりを、引き続き身近な関係から正確に伝えていきたい。報告会には特に06年以降は毎月通っているにもかかわらず、その会場や各種催事で「君(僕のこと)は誰?」とよく言われる存在感の薄さを逆手に取って持ち味にして、今後も同じ距離感を保ちながら粛々と報告会に潜入し続けようっと。(藤本亘 地平線会議歴はこっそり10年)

「ありがとうとは言われたけど、すまなかったと詫びてはくれなかった」

■9月13日に父が肺炎による呼吸不全で73歳で逝った。その3時間ほど前に病院から呼ばれて、子供達を連れて病室に行った。私と息子(5歳)の手を取って、涙を一粒流していた。看護師に促され、息も絶え絶えの声にならぬ声で、酸素マスクをよけて「ありがとう(来てくれて)」。喉を指さしながら「苦しい(息が出来なくて)」と訴えた。そして「タバコが吸いたい」と言ったのが、父の言葉を聞いた最後だった。

◆私が子供の頃、父は登山靴や野球のスパイクを作る靴職人だった。町の小さなスポーツ用品店の奥には靴の木型が沢山ぶら下がった2畳くらいの仕事場があった。床には靴底のゴムや皮を削ったカスが散乱し、ボンドだらけの手で前掛け姿の父が椅子に座って靴を縫っていた。

◆今年の春に、もう来年は無いかなとふと思い立ち、父が草野球の監督として、審判員として、長年携わった軟式野球連盟の新年会に車いすの父を連れていった時、見る影もない姿の父に同情したのか「親父の作ったスパイクを35年経つけどまだ持っているよ」と言ってくれた人がいた。

◆父が靴を作らなくなって何年たつのだろう。父の靴でないとダメなんだと言ってくれたお客さんがいたのは子供心になんとなく覚えている。そんな人たちがヨーロッパアルプスから持ち帰ったそれぞれ見かけない色合いの3つの石鹸大くらいの石を子供の私が「海外土産が石ころなんて」と言ったら「これをザイルにぶら下りながら切り出して持ち帰るなんて一歩まちがえれば死ぬくらい大変なことなんだ」と父は最後までずーっと大事に持っていた。

◆職人気質の父は口下手で気弱な田舎者だった。酒を飲んでは度々暴れた。うちはパトカーが1週間に10日来る家と言われていた。魔法瓶やテレビはいつも最新式だった。父が投げて壊すからだ。ドアや戸はそういうものがぶつかった穴を超特大のシールを貼ってふさいでいたので、カラフルというかヘンテコだった。父が暴れた時にいつでも逃げられるようにパジャマを着たことが無かった。逃げ遅れて青タンだらけで、遠足に行けなかったこともある。2階の物干し竿に足から逆さ吊りにされて、お巡りさんに降ろしてもらった事もある。雪の中、裸足で飛び出してひどい目に遭ってから、私は枕元に靴を置いていた。いつもいつも死んでくれないかとか、殺してやりたいと思って成長した。

◆そんな父とは10代後半からは努めて疎遠にしていたが、父が55歳の時に長年の不摂生で脳卒中に倒れ、不自由な体になり、子供の頃からの恨みつらみはあったが、母はもう亡く、一人娘なので仕方無く、父のために家を借りて同居した。相変わらずのDVだった。私が嫁いでからは独居だった(週2回1時間ずつヘルパーさんが介護保険で来ていた)。そして昨年8月に脳梗塞を起こし、もう独居は無理と医者に言われた。夫は引き取るしかないだろうと言ってくれた。

◆でも私はそんな事はごめんだった。父は私の幼い頃と何ら変わっておらず、体の不自由度がすすむにつれ、輪をかけて我儘になっていた。父に対し積年の恨みを持ちながら、住宅ローンを抱えて仕事を辞めることもできないし、子供たちはまだまだ手がかかる。そんな状況では今度こそ介護殺人にもなりかねないと思った。施設を探すことにした。もちろん特別養護老人ホームしか行くところはないが、空いているわけもなく、どこの病院に入院しても看護師や同室の患者に暴言を吐いたり、物を投げたりする(その度に米つきバッタのように私が謝るはめになる)父が特養待ちの間につなぎの老人保健施設(老健)の6人とかの大部屋でうまくやっていけるわけがない。

◆老健は最大3か月しか置いてくれないから(自立支援施設だから。自立出来ない要介護4・5でも自立支援てすごく変だ。)特養が空かない限り(だれかが死なない限り)いろいろな老健を3カ月クールでグルグル回るのだ。1つの所には3か月以上いられない特養待ちの放浪の浪人暮らしだ。(こんな制度でいいのか厚生労働省!)やっとのことで個室のグループホームの空きを見つけた。

◆このグループホームという施設。老人の場合は認知症でかつ要支援2以上と診断されないと入れない(父は認知症のレベルとしては物忘れ程度で軽度のまだらボケだったので、会話はいたって普通だったし、意識もちゃんとあったから、見学に行ったとき、うつろな目で徘徊しているおばあさんや、夕方になるとリュックをしょって帰ろうとするおじいさんを見て、こんなところに入るのかとショックを受けていた。後にこんな爺捨て山に捨てやがって、とののしられたことからも本意ではなかったようだ)。

◆簡単に言えば老人の独身寮。法律でワンユニット9部屋(認知症の老人9人)までと決まっていて、6畳くらいのワンルームが9部屋と共同の食堂・トイレ・洗面所・浴室があって、食事やトイレ、洗面、風呂はスタッフが必要なら介助してくれる。食事やおやつは手作りで、リクリエーション(手遊び、折り紙、歌など)や散歩や買い物にも連れていってくれる。御誕生会もクリスマス会もおせち料理だって出る。

◆部屋は個室でプライバシーがあるし、雰囲気はアットホームで私が入りたいと思ったくらいだ。もちろん夢のようないいことばかりではない。父の場合、体が不自由で布団から自力で立ち上がれないので、ベッドを用意して下さいと言われた。でも介護保険はグループホームで全額とってしまうので、介護保険適用の介護ベッドの使用は出来ませんといわれて、電動ベッド(12万円。安いものは3万円くらいからあったが、落下や床ずれなどのリスクを考えてまあまあレベルのものにした)を自費で購入した。

◆自費レンタルだと、5,000円/月くらいだった。病院の通院も、介護保険はグループホームで全額とってしまうので、グループホームの認定病院以外は身内で付き添って下さいと言われた。認定病院というのは、内科・歯科程度で、それ以外の検査やリハビリは入院させるか、付き添わなければいけなかった。フルタイムで仕事を持っていて、子育て中の私にはこのリハビリの付き添いというのは時間的にきつかった。お金さえ出せば私が付き添わなくても、介護タクシーを手配してもよかったが、病院での待ち時間などに父が耐えられずに問題を起こすのは目に見えていた。

◆その間にもいろいろ持病やらなんやらで入退院をくりかえし、 問題児の父はベッドにベルトで拘束され鍵を掛けられていた。そんなわけで入院するたびにどんどん歩けなくなり、認知症も少しずつすすんでいった。2歳の娘はどんどん言葉をおぼえ、歌ったり踊ったり、日々目覚ましく成長していく。まったく対照的な二人を同時に見るのはなんとも複雑な思いだった。

◆グループホームには特養や老健にあるような機械浴(専用の椅子やベッドに寝たまま入浴できる)の設備はなく、少し広めの家庭の風呂だ。介助してもらいながらでも浴槽をまたげなければ入浴はできない。歩けなくてもせめてつかまり立ち(立位)ができなければ入浴やトイレは無理だ。他人とうまくやれない父にはなんとしても個室のグループホームにいさせてもらわないと…そのためには立位だ。なんとか時間を作って精一杯リハビリの付き添いをしていたが、5月下旬に父が癇癪をおこして病院の駐車場で私はまた子供のころのように父に殴られて蹴られた。

◆「磯子のじいじに殴られちゃったよ。もう金輪際いやになった。磯子のじいじとバイバイしてもいいよね」と愚かにも5歳の息子に親を捨てる相談をした。息子は「僕が仕返しにぶってやる!ぶたれれば痛いってわかるから、もうじいじはママの事ぶたないよ。下のじいじ(同居している舅)はみんな(家族)がいるけど、磯子のじいじはひとりぼっちでかわいそうだからバイバイしないであげてよ」と言われた。

◆この世に生を受けてたった5年、だれも教えてないのにこんな風に考えて言える息子。父は70年以上も生きているのにと一層腹が立ち、息子には悪いが私はそれから父に一切会いに行かなかった。もうなにもかも関わるのが嫌になり、財産なんてありはしないが身の回り品購入のための小遣いの出し入れをしてやるのも嫌で成年後見人の申請までした。

◆どんなに尽くして親孝行しても、もっと○○してあげればよかったと思うものだと母を亡くしている私はわかっていた。虐待を受けている子供が、どんなに虐げられても疎まれても、そのひどい親にとりすがって、愛を求めてまとわりつくことも知っている。でも、もういいと、本当に「もういい」と思った。私は親を捨てたという十字架を背負ってこれからの人生を生きていくことを決めた。

◆父が危ないと連絡が来たとき、会うべきか…逝ってからでいいか…なんて馬鹿な事を!と怒られそうだが正直どうしたものかと考えあぐねていた。夫が「ここで会いに行ったからって、なんだ親捨てなんて言ってたくせにとかって誰も思わないよ。明美が行きたいと思うならみんなでお別れに行こう。行かないと決めたならそれはそれでこれまでの事を考えれば仕方ないと思うし」と言った。

◆そしてわたしは冒頭で述べたように会いに行った。その夜はまるで洗車機の中を通っているような豪雨だった。忙しく動くワイパーを見つめながら、DVを受け続けた子供の頃、大人になって父のためにと思ってがんばっても裏切られ続けた日々の事が走馬灯のようによぎった。そして病院の帰り道に「ありがとうとは言われたけど、すまなかったと詫びてはくれなかった」とぽつりと言った私に、運転してくれていた夫は「えっ?」と言ったきり黙ってしまった。そうか…私は父に詫びてもらいたかったんだ…だけど「娘に今までの所業を詫びてこと切れる」そんなのは所詮TVドラマの中の話で、現実は呼吸不全で息ができないのにタバコが吸いたいと言われたんだ。トホホ(笑)

◆たらればの話だが、父が芝居でも本意でなくてもいいから、愛されるかわいい年寄りであったら、看護師にもグループホームのスタッフにも親切に優しく丁寧に扱われたに違いない。それ以前に父が大切な父だったら、施設に入れずに私は仕事を辞めて献身的に父の介護をし、かわいい孫たちに囲まれてもっと長生きしたかもしれない。娘にも看護師にもグループホームのスタッフにも匙を投げられ、なかば放置され、歩けなくなり、心も荒み、治療も拒否して寝たきりの厄介者になったのは父が自分でまいた種なのだ。「かわいい年寄り」は一種の長生きの処世術だ。

◆グループホームのケアマネが言っていたが、頑固で偏屈な人はボケても頑固で偏屈。おとなしくて優しい人はボケてもおとなしくて優しい人なんだそうだ。もともとの性格はボケても大差ないという事のようだ。父が問題ばかり起こして、病院やグループホームから呼び出しばかりくらっている私に、頑固で偏屈な舅が「俺も明美のお父さんみたいになるような気がする」と高らかに宣言。やめてくれ〜お義父さん。実父だけでもうたくさんだよぉ(笑)(11月は息子と娘が揃って七五三の青木明美

論考
日本人の旅の質は向上したのか━━「ホールアース」という名のアメリカ発のカタログ本がそそのかしたもの

■はなっから横文字で申し訳ないが、ホールアースという言葉に反応する人がどのくらいいるだろう。1969年の18歳の春に山岳部の仲間が持ってきたA3ほどのどでかい「The Whole Earth Catalog」が、当時、ベトナム反戦運動とヒッチハイクの無銭旅行にはまっていたぼくに与えた影響はたしかに大きかったのだと思う。その1年後には66センチのニッピンのキスリングを背負って南インドの僻村で暮らし始め、そのまま約10年をアジアの旅暮らしに過ごしてしまった。地平線会議30年史の脇を寄り道ばかりして歩いてきたぼくの目を通して、この30年の日本人の旅の質がどのように変遷したのかを見てみよう。

◆ホールアースという名のアメリカ発のカタログ本は自分たちの手で世界を変えられると信じていた世界の若者たちにバックパックというスタイルや未来と自分をつなぐ手法を教えてくれたのだったが、この本にそそのかされたぼくのアジアの旅の最終章は79〜80年、カンボジア難民キャンプでの戦場ボランティアだった。

◆このときの活動がきっかけになってのちに、82年、民間で「国際緊急援助隊」を作ったのだが、それは今、JICA・外務省直轄の機関になっている。81年に帰国したぼくは1982年に「ホールアース自然学校」をつくった。この自然学校は現在3000校といわれる日本の自然学校の最初の1校だといわれる。自然学校は人と自然をつなぐだけでなく、人と社会、人と人もつなぐプログラムを提供する。その手法は観光の一形態にも見えるので、国内で自然学校という名が聞かれなかった当時は、体験農場とか体験観光と言われることもあった。現にJTBやKNTなど旅行会社各社とも提携してきたので、あながち間違いではない。

◆でも、どうも「観光」という言葉が気に入らない。それには狐と狸のような観光業者と観光客の関係が見え隠れしてしまう。1985年にこれまでの観光とは異なる新しいコンセプトを作ろうという「東京観光人倶楽部」というものに参加してから、ようやく自分のしようとしているスタイルにめぐり合った気がした。これはいわば、今日のエコツーリズムの走りのような運動体で、「豪雪地での雪下ろしツアー」など、視点や価値観を変えることで新たな価値を創造しようというものだった。

◆その後、自然学校の活動自体が自然環境と地域文化を活かす体験を主な活動スタイルにしているエコツーリズムなんだという理解が広まり、1992年からエコツーリズム研究会を作って、今に至っている。実際、2006年の自然学校の全国調査でも70%近い自然学校がエコツーリズムに取り組んでいる。

◆戦後の観光業の隆盛は日本の地域社会に大きな恩恵をもたらして、科学技術や産業の発展とは異なる魅力を大いに発信した。全国津々浦々の市町村に観光協会が組織され、観光看板やパンフ類が見えない地域など無くなってしまった。でも何ごとにおいても過ぎたるは何とかで、観光の質の劣化は同時進行してきて、ついには観光業自体の価格破壊や自壊をもたらして国内どの地域を歩いても観光施設の廃墟が累々とつづいている。

◆しかし世界に目を向けてみると、鉄鋼、自動車、造船などの重工業に走ってきた国々もいつの間にか観光立国しており、途上国のほとんどすべては観光産業の収入が国の経済を支えている。世界観光機関WTOも21世紀の主要産業のトップに観光業を挙げており、11%の伸び率を予測している。お節介だがWTOは日本にも言及して、日本観光業の潜在可能性は75兆円と試算しており、20兆円に留まっている日本観光業の現状にはっぱをかけている。

◆面白いのは、WTOが世界のエコツーリズム分野が30%も伸びると言っている点だ。これは名所や料理を競うパック旅行の世界から、人と人の出会いが効果を生み出す旅への質的な転換が世界的に進行していることを指している。日本で衰退しているのは大型観光バスで忙しく回る周遊旅行など効率化、大型化を目指してきた団体旅行であり、むしろ個人自由旅行は安定した人気を保っている(これも近年、苦戦状態だが)。

◆でも現代の個人旅行は団体ではないという意味しかないケースが多く、「笑顔とあいさつ」といったホールアースカタログが紹介してきたバックパックの世界とは程遠い。それは旅の時間だけオープンマインドになるというほど器用じゃないから当然の話だ。言い換えれば、現代の社会や暮らしに「笑顔とあいさつ」のような温かみのあるノーマルなコミュニケーションが消えてしまっているからだろう。

◆地平線会議に集う若い人達にはさいわい、「笑顔とあいさつ」を自然体で出来る人が多いようだ。でもその彼ら彼女らが地平線から離れるとどれだけ、柔らかい心を保ち続けていられるか、心許ない。社会はつねに何かを欲し、何かを葬っていくが、近未来に限ってみれば、日本でも今後、エコツーリズムが表す対面型の体験や感動共有のような質を持った旅が強い訴求力を持ってくるだろう。

◆でもそれが可能であるのは、社会で当然のように「笑顔とあいさつ」が機能していて、街でも田舎でも人の存在感を感じていられることが欠かせない。そうするために、地平線会議という変わったコンセプトに共感を持つ若者が増え続けることが重要なのだろうし、自然学校がますます増えていくことなのだろうと手前味噌で思う。(広瀬敏通

森田靖郎のページ
観夢土下座 9から0へ、僕らの次の一手

 「9」のつく年は波乱(チャイナ9シンドローム)が起きる。2009年8月、政権交代を確かめ、私は香港に旅立った。リーマン破綻による金融危機から一年、世界の金融界がどのように変ったか。死亡保険金をめぐる「死亡債」に投機筋の間で新たなマネー戦争が起きていた。「原油が再び上昇、大豆は高値、銅は上がりっぱなし」。マネー市場は一年前となにも変っていない。「グリード(強欲)」といわれ拝金主義の墓碑銘となったリーマンの尻拭いに、公的資金というマネーが金融市場に戻ると、鳴りを潜めていたハゲタカ……金融トレーダーが巨額の富を掻っ攫っている。懲りない連中だ。マネーとはなんだ!

 「社会を破壊する最も効果的な方法は貨幣を破壊することだ」と言ったのはレーニンだ。「資本家というのは、貧困を解消する方法を紙幣を印刷することしか頭にない」とは、30数年前初めて訪れた中国で老共産党員から聞いた言葉だ。「アメリカの凋落」「雇用なき回復」そして「日本の空洞化」、この一年でわかったことだ。

 私は、『地経学で読む爆走中国』(原書房刊)を出したばかりだ。30数年の定点観測を地経学という視点で脱石油文明社会の産みの苦しみを追い求めたルポである。原因と結果は一致する。今の自分を見たければ、過去を遡ればいい。明日の自分を知りたければ、今の自分を見ればいい……今日の積み重ねが将来の結果を招く。「僕らの来た道ゆく道」を「未来のルーツ」という定点観測から積み上げた「仮説・21世紀の大予言」だ。

 中国が日本を追い抜く(GDP)のは時間の問題である。時価総額で10兆円を超える企業は世界に34社ある。アメリカの16社はいいとして、日本はトヨタのみなのに中国が5社もある。時価総額とは、「他社を買収できる企業力」を表している。気がつくと、日本の企業は次々と中国企業に買収されているのか。国家の成長点を政治、経済、文化さらに環境などでより柔軟に分析するのが地経学である。戦前の日本は地政学に則り、資源と食糧を求めて大東亜共栄圏を建設しようと太平洋戦争に突入したことを反省して生み出されたのが地経学だ。グローバル経済では有効な手法だと思う。地経学的に見れば、リーマン後、アメリカは社会主義的に規制を強め、一方、中国は外需から内需へと消費拡大の方向を転換させ、市場を歓喜させ資本主義化を強めた。国家統制がまだまだ強い中国は、政策の決定から実行まで間髪を入れないスピードで金融危機「暗黒郷」から一足早く抜き出た。

 経済が与える影響力では、日本は5年前2位だったが、30位まで落ち込んだ。わずか5年で一流国が三流国へ突き落とされたのだ。理由はわかっている。

 日本のお家芸ともいえる「モノづくり」が盗まれているのだ。「産業スパイ」によって、高度成長を成し遂げた金型など匠の技術が次々と盗まれている。輸出が落ち込むアメリカ市場の穴埋めに、「ボリュームゾーン(膨張する市場)」を目指して中国市場へと乗り出す日本企業は、そこで「コスト戦争」に立ち尽くす。「コストより品質」で買われていた日本製を凌ぐ中国製(日本の技術を盗んだ?)が「地産地消」に立ちはだかる。モノづくり大国・日本がここでも衰退している。「国家のために、いくつ愛を裏切れというのか」。中華街構想の裏で蠢く産業スパイを扱った小説『引き裂かれた街〜池袋チャイナタウン〜』(次回作)、小説でしかここまでは書かないリアリティに期待してほしい。

 「若手にはアイデアがない」「古手は疲れている」中間管理職の嘆きだ。最近の学生の就職人気ランキングのトップは、JR東海、JR東日本で、手短なところで折り合いをつけている。「内向き、下向き、後ろ向き」は、IT頼りの「想像力貧乏」のツケだ。「若者に夢がない」のは、過去も未来も熱っぽく語れない、言葉に力のない国や企業のリーダーの非力の現れである。日本人本来の個性を目覚めさせるには、正しい歴史観と領土意識で、毅然としたナショナル・ヒストリー(自分史)を語ることだろう。戦後、日本が独立を回復したのは「サンフランシスコ平和条約(1951)」によってである。いつの頃からか、この条約の第11条だけを抜き取り、「日本は東京裁判を受諾して国際社会に復帰した」がまかり通っている。東京裁判を受諾したら、南京大虐殺や日本がソ連に侵略したこともすべて勝ち組の言い分を認めることになる。外務省が、「東京裁判の判決を受諾した」と翻訳すべきところを「東京裁判を受諾した」と誤訳したことで、その後の日本の外交は肩身が狭くなり中国や韓国の言いなりになっている。

「中国に飲み込まれずに日本が生き残る方法」を探るために、WBC(ワールド・ベースボール・クラッシック)で日本が二連覇したのを思い浮かべた。

 「Dream Big Think Small Act Big」信念をもって理想を高く、緻密に計算して、行動する時は失敗を恐れずに大胆に……。新しい時代へ「次の一手」を僕らは問われている。地平線会議の30年に、「観夢土下座(カムトギャザー)」。(森田靖郎 作家)


急告!! 地平線会議からのお知らせ

 すでにお知らせしたように、地平線会議発足30年を記念して以下のように大集会を開きます。題して「躍る大地平線!!」。

 以下のような内容です。タイトル、出場予定者などは目下変更あり。最終的なプログラムは11月の地平線通信で詳しくお知らせします。

★期日:2009年11月21日(土)「地平線会議30周年記念大集会」
★場所:新宿区牛込箪笥(たんす)区民ホール(都営地下鉄大江戸線牛込神楽坂駅上)
★参加費 未定(1000円+?)
★おもなプログラム 12:00開場 12:30 オープニング

 第1部 「大自然に生きる」
 「地平線会議が誕生した1979年、30年後にこんなテーマで報告を聞くことになるとは 誰が予想しただろうか。しかし、いまや私たちにとって切実なテーマだ。
  松原英俊(鷹匠) 服部文祥(サバイバル登山家) 関野吉晴(探検家)
  聞き手 長野亮之介
 第2部 関野吉晴と教え子たちの「黒潮カヌープロジェクト」
  関野吉晴 佐藤洋平 前田次郎
  聞き手 江本嘉伸
 第3部「あれから30年−日本人の旅の現在地」
 さまざまな立場、世代の人に聞く、日本の旅の裏側、本音
  進行:岡村隆
  H.T(日本エコツーリズムセンター代表) K.H(ルポライター) A.A(2児の母 元ツアーガイド) Y.A(山岳ガイド)ほか
 第4部 「記録すること、続けるということ」
 年報『地平線から』の刊行に象徴されるように、「記録する」ことに情熱を注いだ地平線会議の30年間。地平線会議とは何であるのか。明日はどこへ行くのか。世代を超えた「地平線人」が語り尽くす。★誰が登場するか、当日まで秘密
  進行:江本嘉伸

★そして、そして、
 《特別プログラム2つあり!!》
 [1]幻の「品行方正楽団」が再び大集会にレベルアップして登場!!
 [2]新結成の“地平線ダンサーズ”による「ダイナミック琉球・地平線バージョン」がついに公開される! 昨年浜比嘉島で行った「ちへいせん・あしびなー」に出演してくれた高校生たちの踊りに刺激されて「11.21」に向けて結成された20数人の踊り手たち。がベールを脱ぐ。さて!?

■2次会 近くの2次会場で賑やかに。恒例のオークションもある。

<当日、3つのお楽しみあり>

■今度の大集会では、以下のように3つの制作物が進行中。丸山純氏が中心となって制作中。

[1]《地平線あしびなー+わたしたちの宝もの合本写真集》
08年10月、浜比嘉島で行った「ちへいせん・あしびなー」に加えて、比嘉小児童たちによる写真展成果を合わせたビジュアルな内容。貴重な記念本となりそう。

[2]《地平線通信・報告会予告集》
地平線通信に毎月掲載される報告会の案内を集めたイラスト集。おもしろいタイトルをつける予定。長野画伯が担当したもの以外も収録し、30年の活動記録とする。

[3]《地平線カレンダー2010(これは間に合えば)》
いつもの体裁の地平線カレンダー。今回のテーマは、この9月に画伯が取材した沖縄のエイサーのさまざまなシーンになる予定。


■11月の通信発送について

 地平線通信の発送を11月7日の土曜日17時30分からいつもの榎町地域センターで行います。水曜日ではなく、土曜日ですのでお間違いないよう、早めに告知しておきます。大集会が11月21日(土)なので通信制作も早めとしました。


[通信費をありがとうございました]

■先月の通信以後、通信費(年2000円です)を払ってくださった方々は以下の通りです。8月の報告会場でお支払い頂いた方の名を9月の通信で記録しなかったこと、お詫びいたします。今後も万一記載漏れがありましたらご連絡ください。また、9月号の「水島浩・安子さん」は、「水島治・安子さん」が正しいので訂正します。

荒川紀子/石原卓也/山本和也/内藤智子/久保田賢次/高城満/向後元彦・紀代美

1万円カンパ御礼

■「地平線30周年」を記念するイベントの実行、関連する印刷物制作のために「1万円カンパ」をお願いしています。どうか趣旨お汲み取りの上、ご協力くださいますよう。今月までにあたたかい応援の心を頂いた皆さん方に、心からお礼申し上げます。

■1万円カンパ振込み先:

◎みずほ銀行四谷支店 普通口座 2181225 地平線会議代表世話人 江本嘉伸(恒例により、カンパされた方々の名を通信に掲載して領収と感謝のしるしとしています。万一、漏れがありましたらご指摘ください)。

★09年10月6日現在カンパ協力人リスト。
斉藤宏子 三上智津子 佐藤安紀子 石原拓也 野々山富雄 坪井伸吾 中島菊代 新堂睦子 埜口保男 服部文祥 松澤亮 田部井淳子 岩淵清 向後紀代美 小河原章行 江本嘉伸 掛須美奈子 橋口優 宇都木慎一 原健次 飯野昭司 鹿内善三 河田真智子 岡村隆 森国興 下地邦敏 長濱多美子 長濱静之 西嶋錬太郎 寺本和子 城山幸子 池田祐司 妹尾和子 賀曽利隆 斉藤豊 北村節子 野元甚蔵 北川文夫 小林天心 金子浩 金井重 古山隆行 古山里美 松原英俊 野元啓一 小林新 平識勇 横山喜久 藤田光明 河野昌也 山田まり子 坂本勉 松田仁志 中村保 中山郁子 河野典子 酒井富美 シール・エミコ 平本達彦 神長幹雄 岩野祥子 藤木安子 広瀬敏通 山本千夏 村松直美 神尾重則

[先月の発送請負人]

■地平線通信358号(9月号)の印刷、発送に協力してくれたのは、以下の11人です。先月に続き折り機が不調で、手折り作業が加わりました。皆さん、ありがとうございました。
森井祐介 車谷建太 後田聡子 杉山貴章 山辺剣 落合大祐 米満玲 久島弘 江本嘉伸 武田力 松澤亮


[あとがき]

■先月、少しふれたが、この通信の制作過程では「通信ML」というメーリング・リストが活躍する。メンバーは下記にある編集スタッフの面々。私が送り込んだ原稿をチェックし、文章や数字の間違い、などを指摘してくれる大事なツールだ。今回、そこでのやりとりが5000回を越えた。へええ、皆でこんなに書き込み続けたのか? と少し不思議な気分。

◆2002年12月2日、丸山純君が [tsus:00001] 「地平線通信 ML、スタートです」と書き込んだのが第1号だから、以来ざっと7年たったことになる。ここ数年は毎月の原稿量が増えていることとも関係しているのだろう、大した数のやりとりだ。スタッフの仕事にあらためて感謝するとともに日頃の地道な作業を通信を読む皆さんにも時に知っておいてほしい、と思う。

◆MLというのは双方向のやりとりだから、直接ものを言える良さがある。が、多数になったら大変だ。当時「事務的な連絡や通信・報告会の内容の打ち合わせ、原稿のやりとりなどにとどめる」との約束事があったと記憶するが、その程度がいいのだろう。

◆「11.21」に向けていろいろな人が動いている。時に辛いこともあるけれど、なんという楽しいネットワークなのだ、と思う。(江本嘉伸


■今月の地平線報告会の案内(絵と文:長野亮之介)
地平線通信裏表紙

ロックを越えろ!

  • 10月23日(金) 18:30〜21:00
  • ¥500
  • 於:新宿区立新宿スポーツセンター(03-3232-0171)

「ロックを越えるのが、カナルカヤックの楽しいところなんです」というのは吉岡嶺二さん。休日を生かした“尺取り虫方式航海術”で日本の五大島(北海道、本州、四国、九州、沖縄)一周9600キロを23年がかりで漕いだ、サラリーマンカヌーイストの草分けです。

8年前にリタイア後、カナダのセントローレンス川1200キロを航行。このとき運河航の面白さに目覚めました。「今でも水運の交通路で川が生きているから、いろんな生活の様子を目にできるし、出会いも多いんですねー」。ロック(仏語ではエクルーズ:水門・閘門)通過さえクリアできれば、より水路網の発達した欧州へと夢はひろがりました。

この夏、4年がかり57日間でヨーロッパ縦断2000キロを完遂。時にロック越えのため陸を迂回し、また3.3kmの運河トンネルを通ったりと、人工河川の醍醐味を味わいました。次はイギリスへと準備中。

今月は吉岡さんに、カナルカヤックの楽しみについて語っていただきます。日本ではまだ、知られていない新ジャンルの旅に乞御期待です。


通信費(2000円)払い込みは郵便振替または報告会の受付でどうぞ
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議(手数料が120円かかります)

地平線通信359号/2009年10月7日/発行:地平線会議/制作:地平線通信制作室/編集長:江本嘉伸/レイアウト:森井祐介/イラスト:長野亮之介/編集制作スタッフ:丸山純 武田力 中島菊代 大西夏奈子 落合大祐/印刷:地平線印刷局榎町分室
地平線Webサイト http://www.chiheisen.net/
発行 地平線会議 〒160-0007 東京都新宿区荒木町3-23-303 江本嘉伸方


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