2009年9月の地平線通信

■9月の地平線通信・358号のフロント(1ページ目にある巻頭記事)

地平線通信表紙

9月4日午後、車はニンジャたちのいる場所を求めて中央県の草原を突っ走っている。前方から軽トラが1台。合図して止まってもらい、道を尋ねる。「オレたちのいた所はきょうはダメだよ。誰もいない」タバコをふかしながら軽トラの運ちゃんが言う。「深夜午前3時だぞ、いきなり警察がやって来てみんな、追い出されたんだ」軽トラの荷台の道具類のわきで毛布にくるまって寝ていた2人の男が起き上がってこちらをいぶかしげに眺める。皆、ニンジャだ。

◆少し進むと別の車が止まっていた。5人ほど男たちが乗っている。「隣のセレンゲ県から来た。でかいのが出たと聞いてやって来たんだ」。彼らはあまり道を知らないらしく、なんと私たちの車の後をついてくる。ほどなく前から白い乗用車がやってきた。「金の採掘場まで客を送り届けてきたところだ。ここからの距離? 91キロあるよ」客とはニンジャたちのことだ。この運転手はタクシーの役割をしているのだ。

◆市場経済の道まっしぐらのモンゴルに出没する「ニンジャ」の存在を知ったのは数年前のことだ。石炭、銅、ウランなどモンゴルの地下資源は今や世界的に注目されているが、その中でモンゴル人自身が関心を持ったのが金である。国やロシアの企業が経営する大きな金鉱の周辺で、無許可で金を採掘し、現金に換える人たちが急増している。さきほど「でかいのが出た」と言っていたのは、金が大量に出た、との意味だ。

◆遊牧民も多く、中には土曜日になって車で通う“週末ニンジャ”もいる。彼らは、携帯電話を活用し、情報をつかんで動く。日本の忍びの者にたとえて「ニンジャ」と呼ばれるようになった彼らの現場を見てみたい。強い好奇心と使命感に駆られての旅である。途中、美しい草原でひと息入れる。とっておきのヤギ肉がこんな時、すごいご馳走になる。

◆前夜、プージェーの家を関野吉晴、山田和也監督らと訪ねた時、祖母のスレンさんと親族たちは貴重なヤギの石焼きでもてなしてくれた。帰り際、用意周到な私は「お土産に頂いてもいいですか?」と、隠し持った大きめのタッパーウエアにヤギ肉をごっそり詰めさせてもらったのだ。草原を移動中に食べる肉は、ほんとうにおいしい。「うまい!」と運転手さんも夢中でかぶりついている。スレンさんちの皆さん、ありがとうございました。

◆草原の彼方に赤く土が掘り出された跡が見えてきた。クレーン車やショベルカー、トラクターがあちこちに停まっている。どこから引いたのか滑り台状の設備に激しく水を噴出させ、土を洗っている作業の現場も。ウランバートルの西方200キロのザーマル。「92年以前は何もなかった」という草原に不思議な町ができていた。以前は3000頭の鹿が棲む豊かな森があったという大自然は、金鉱山の発見で一変した。

◆ガソリンの匂いが漂う町のあちこちに「disco」「karaoke」「hotel」などの看板が掲げられ、車が走り回る。さながらアメリカ映画でお馴染みの「西部の町」という雰囲気だ。いまでは人口3000人。小さな宿に部屋を取ると、折りよく隣の一室に4人のニンジャたちがいた。彼らの“仕事場”はこの町ではない。ここから20キロ離れた金の採掘現場に通っている。わけを話して協力を頼んだ。

◆翌5日朝、4人グループの1人に乗ってもらい、いよいよ現場へ。小1時間ほど走ると、小高い山に突き上げるいく筋もの谷が見えてきた。谷の入り口付近には何十台もの車が停まっている。その先に大勢のニンジャたちが働いていた。深い穴を掘り、そこからシャベルで掘り出した土をベルト状の簡易選鉱機に撒き、選別する。最後は、篩(ふるい)をゆっくりまわしながら水をかけ流し、底に現れてくる小さな金を採集する。

◆「小量でも必ず出てくるから続けている」と、ボルガン県から来た30代の男は言っていた。顔も手足もほこりで真っ白。夏の間は警察さえ来なければ徹夜で働き、町の宿に戻って休養する日々。過酷な現場だが、1か月で250-300万トゥグルク(大体20万円ほど)を稼ぎ、故郷で待つ家族に仕送りしている。許可証なしの採掘なので警察が来たら山に逃げるしかないが、できれば「あと10年は稼ぎたい」という。

◆今回のモンゴル行は、チンギス・ハーンの故郷、ヘンティー県で続いている日本考古学者たちによる「アウラガ遺跡」の取材がそもそもの目的だった。チンギスが生きていた頃の“都市遺跡”。久々の現場は興味尽きなかったが、あわせてプージェーの村での上映会、そしてニンジャたちの現場、と駆け回ることができたのは、取材者冥利に尽きることだった。「草原と星の国」だけでないほんもののモンゴルをなお見続けたい、と思う。(江本嘉伸


先月の報告会から

アバンナットを駆け抜けろ!

山崎哲秀

2009年8月28日 新宿区スポーツセンター

■まさか山崎さんがこれほどまで話し続けるとは思っていなかった。珍しく不在だった江本さんから、山崎さんが話につまるようなら質問を入れて、彼らしさを引き出せとの指示を受けていたが、突っ込みを入れる隙間すらなかった。モンベルチャレンジアワード授賞式の講演では、緊張しすぎて記憶がない、と言っていたので、報告会当日も大丈夫かな、と気になっていたのだ。

◆山崎哲秀さん(42歳)はもともとは植村直己さんの影響をまともに受けた、“植村チルドレン”の1人だった。植村さんとの出会いは高校1年生のとき。植村さんマッキンリー遭難の報に接し、なぜ世間がこれほどまでに騒ぐのか不思議に思ったところから始まる。ちょうど本屋で植村さんの名著「青春を山に賭けて」を見つけ、これかと読んでみて衝撃を受けた。そしてすぐに自分もやってみたいと思い、翌朝5時に起きてトレーニングを始めた。

◆高校卒業後は何かに挑戦したい、と周囲の反対を押し切り京都から上京。山岳会に入会し、アルバイトしながら山登りの日々。半年後に東京から新潟を経由して京都まで750キロを14日で歩いている。「頭より先に体が動く」と言うとおり、とにかく行動が早い。徒歩旅行の次はいきなり19歳でアマゾン河イカダ下り、しかも単独でだ。自作イカダは雨季のアマゾンで1週間後に転覆。流木につかまっているところを現地民に助けられ奇跡的に生還。懲りずに翌年再挑戦して44日という驚くべき速さで5000キロを下っている。

◆その頃、かつての同級生たちは進学、就職と進んでおり、誰も山崎さんの行動を理解してくれなかった。それでも山崎さん自身は目標に向かっているという自負があり、それはとても気持ちのよいものだったという。「みんなは私を不可解なヤツと呼んだ。そして私の意志は海だった」。講演会のたびに語られ、ホームページの扉にも使われている、サン=ジョン・ペルスの詩。山崎さんはこの詩に癒されてきた。これは独自の道を歩く地平線の人々にも共感できる気がする。

◆そしていよいよ次はグリーンランドだ(この時点で山崎さんはまだ21歳である)。まずはアルバイトで貯めたお金で夏のグリーンランドに下見に入った。目指すは「グリーンランド内陸部単独縦断」。しかしデンマーク政府が単独行の許可を出さない。山崎さんはここで植村さんの足跡を追えなくなる。植村さんは過去の実績を評価された特例だったのだ。

◆負けずに22歳の冬に再びグリーンランドに出向くが、冬の極地は勢いだけでどうこうできる場所ではなかった。マイナス37度の現実に恐れをなした山崎さんは逃げ帰り、先生無しでこの地に挑むのは無謀と反省。翌年、日大隊のサポートとして植村さんと北極点到達を競い合ったグリーンランドのシオラパルク村に住む、大島育雄さんに手紙を書き、弟子入りを認められる。

◆村でエスキモー生活のノウハウを学んだ山崎さんは28歳で北極点単独徒歩到達を目指すが、実際に踏み出してみるとまだまだ力不足で3日で撤退せざるをえなかった。時は1996年。河野兵市さんが北極点に到達する前年で、世の中にはまだ僅かばかりだが、ホンモノの「日本初」という冠が残っていた。それからの10年はあっという間だった。極地研究所名誉教授の渡辺興亜先生はモンベルの受賞式で、この10年は山崎君の修行時代である、と位置づけしていた。卓越した極地での技術を持ちながら、それを生かせる場がまだ見つかっていなかった。

◆エスキモーと生活を共にしていく中で、山崎さんはやがて犬橇が現地での活動に理にかなった乗り物であると気づく。そこでその技術を学び、同時に犬橇による物資の運搬能力を使い、渡辺先生に紹介された雪氷研究者と現場に入るようになる。氷河掘削で氷のコアを持ち帰る極地での調査活動は予想外に面白く、1995年と98年に北極圏にあるスバールバル諸島で氷河学術調査隊に参加。

◆01年と02年にはカナダのローガン山。03年にロシアのベルーハ。04年にアラスカ、マッコール氷河。06年にカムチャッカのイチンスキー山。加えて04年には北極とは反対の極である南極観測隊にも参加している(ちなみに国家事業である南極観測隊は、コックが2人いて、3食の心配がなく、お酒も飲み放題で、自分の人生の中で最上の日々だったそうだ)。

◆山崎さんの熱意と誠実な人柄が、周りの人間を引き寄せて、その渦の中で道が見えてきた。犬橇と極地での研究が結びついたとき、それは山崎さん独自の活動スタイルとなり、長らく自分を縛り付けてきた植村さんの幻影から、ようやく解放された。

◆現在、山崎さんはさまざまな研究者と組んで「アバンナット北極圏環境調査プロジェクト」を実施している。これは2006年から15年にわたる壮大な計画で、北極圏を犬橇を使い人の目線から環境調査しようというものだ。10年というスパンは環境問題の調査は単年度では成果が上がらない、という経験則をふまえている。

◆地球温暖化という時代の流れが皮肉にも、山崎さんに活躍の場を提供した。例年10月下旬には北極入りし、夏の間につながれて筋肉の落ちた犬達を再び鍛えなおし、太陽が上がる3月に向けてトレーニング。並行してすべてが手作りのこだわりのソリや道具の整備に入る。自分で作ればどこが壊れやすいかも分かる、と当たり前のように山崎さんは言う。その通りだ。だが実際に、そこまでできる人は稀だ。

◆しかしいくら準備に力を入れても自然の猛威の前にはなすすべがない。地球温暖化の影響か、グリーンランドのシオラパルクとカナダ側のエルズミア島の間に横たわるスミス海峡は2003年以降凍ったことがなく、現地の人間も犬橇で渡った者はいない。「アバンナット計画」は、この海峡を渡るところがスタートなのに、最初から先に進めないのだ。海氷の状態は悪く、06年には山崎さん自身も犬たちを犬橇とともに流氷に流されて失ってしまった。そこで08年5月にはカナダ側のレゾリュートに拠点を移し、同年11月からカナダ側で活動を開始している。

◆山崎さんが北極に通いだして20年。その間にシオラパルク村の生活はどんどん近代化し快適になった。91年にランプの生活だった村に93年には発電機が設置され、電気が灯り、数年前にはケータイ、そして今は子供達が室内でTVゲームをするほどになっている。生活の質の向上に伴いゴミも増えるのだが、焼却炉を作る資金がなく、ゴミは野積みにされる。

◆アルコールやドラッグも入り込み、新たな問題もおこってきた。それでも異文化との共存ができずエスキモー文化を破壊したカナダに比べると、デンマーク政府の下にあったシオラパルクにはまだ伝統が生きている。

◆そこで学んだこと、教えてもらったことを山崎さんは日本の若者に伝えたいと考えている。今後の活動としては国家のプロジェクトとしてしか参画できなかった北極に、民間の人間を呼び込み環境問題について一緒に考えてもらう。そのために民間の観測隊を組織することが夢だ。

◆僕が最初に山崎さんと出会ったのは、まだ活動のスタイルが確立する前だった。その頃の山崎さんはまっすぐすぎる情熱が刃物のようで、ひとつ間違えばその刃で自分自身を切り裂いてしまいそうだった。今回レポートを書くのにいろいろインタビューしていくと、本人にも思い当たる節があるようで「記録を残すことにとらわれていたからかも」と言っている。

◆「自分は冒険家ではないです」。誰かに話すとき、かならずその前置きをして話す山崎さん、でもその魂は死んではいない。その証拠に「アバンナット(イヌイット語で「ブリザード」の意)計画」には、ちゃーんとグリーンランド縦断も北極点到達も入っている。これって本当に調査のため? それと報告会の場では言わずにおいたけど、山崎さんを全力で応援している南極観測隊で知り合った奥さん(山崎さんの1次前、第45次観測隊員でフィールドアシスタントをしていた)のことも講演会では言おうよ。(山崎哲秀応援団の坪井伸吾


報告者のひとこと

ようやくここにきて「自分の北極」を語れるようになりました

■8月28日の報告会ではありがとうございました。なんとか無事に話を終えることができました。事前打ち合わせでは、江本さんからは何度も電話を頂き、丸山さん、長野さん、坪井さんからも「地平線会議に参加するのは、目の肥えた人たちばかりだから、分かりやすく喋るような野暮な説明はいらないから、本音でどんどん話していいから」とのアドバイスを頂きましたが、どこまでそれに近づけていたか……。

◆話がヘタでもとりあえず流れだけはわかるようにと、400枚を超える写真を並べて、半分誤魔化して?しまった感じです(笑)。地平線会議には初めての参加でしたので、まずは自分がどういう気持ちで、20年以上も北極で活動を継続してきたのか(北極での自分の方向性を見つけるに至ったか)を、分かってもらおうと思いました。

◆これまで北極で活動してきた中で、表に出るのは避けてきました。通い続けるだけでたいしたことをしているわけでなく、また人前に出るのが苦手なことも一つの理由ですが、北極での方向性をはっきり言えなかったこともあります。

◆でも10年、20年と続けるうちに自分の北極活動の方向性や志向が明確になり、ようやくここにきて「自分の北極」を語れるようになりました。また11月から出かける予定です。(山崎哲秀


地平線ポストから

ラマザンの夜、“犬死”の恐怖で走った町
━━30年ぶりのトルコ旅行━━

 8月の22日、イスタンブールのガラタ橋のレストランに入った。お昼なのにお客はだれもいない。「ご他聞にもれず、この国にも不況の波が押し寄せている!」と勝手に解釈した。しかしこの日はイスラム教徒にとっては神聖な「ラマザン」月の始まりだった。ラマザンの昼間は食べ物も水も口にしてはいけない。唾さえも飲み込めないほど厳しい行をする。イスラム暦は太陰暦なので、季節と月は関係なく進む。今年は真夏の30日間が9月、すなわちラマザンになった。夏は昼間が長く暑いので断食はつらい。街中のレストランは異教徒の旅行者用に空いているが、恨めしそうな彼らの監視の中で食べるほどの勇気はない。しかし30年前、トルコでこんなにまじめに断食はしていなかった。政教分離の世俗主義政府のもとでは融通がきいたのだが……。

 日が暮れてから外出して驚いた。ブルーモスクの前は立錐の余地もないほどの人波。芝生の上、舗道の上ではご馳走を広げた家族づれが賑やかに談笑している。昼間人の気配がなかったレストランはこの時とばかりに詰め込んでいる。私たちが入る隙間はない。ラマザンの昼間は断食だが、夜になると食事はオーケー。昼間食べられない分を夜に一気に食べる。ラマザンの30日間、昼間だけの観光客は「トルコ人は無気力で、経済も落ちこんでいるなあ!」との印象を持つことになる。

■センチメンタルジャーニー

 30年ぶりに黒海沿岸の町トラブゾンに行った。コンスタンチノーブル(現在のイスタンブール)を首都としていたビザンチン(東ローマ)帝国は1204年に身内であるキリスト教徒の十字軍に滅ぼされた。その時の亡命政権がトレビゾンド帝国で、本家滅亡後の1461年まで存続した。現在のトラブゾンにはその頃の遺構、遺跡が残っている。スメラ修道院は、40kmほど離れた山の中の断崖絶壁にへばりつくように作られた建物だ。私はマチュカという集落から歩いてそこを目指していた。当時も車が通れる道はあったはずだが、貧乏旅行者としては15kmの道を歩く他はなかった。大きな犬に追いかけられ「犬死」を思った。今なら犬よけスプレーを持って走って行くだろうが、当時はまだ「走り旅」の発想はなかった。苦労して断崖の修道院へたどり着いた感動を伝えたくてわが奥様を案内した。しかしマチュカまではハイウェー、その先15kmも快適な舗装道路で、僧院下にはしゃれたホテルまである。さらに道路は伸び、絶壁の修道院まで車の迂回路がついている。「すばらしい所ね!」との奥様のお言葉。長く重い歴史を背負い、陰陰滅滅とした僧院の姿は過去のもの。しかしこれほど明るく、観光客で賑わう遺跡とは思っていなかった。思い出はいつもそんなものだ。トルコの田舎町だって当然変化しているのだ。

■黒海沿岸ハイウェー

 トルコ人は親日的だという。日露戦争で小国日本がトルコの仇敵ロシアをやっつけたからだ。30年前のアンカラにはトーゴ百貨店やノギ通りがあった。今回トラブゾンの乗り合いタクシーの運転手が、古い遺跡を指して「ヒロシマ!」と言った。最近反米団体主催の原爆投下の映画会が行われたらしい。「それは65年前の話だ!」(これぐらいはトルコ語で言える)と言った。彼らには日露戦争など遠い昔、明治維新を参考にしたとアタチュルクへの尊敬も薄らいでいる。お隣の反米で金持ちロシアに関心が高まるのも時代の流れ。

 黒海沿岸の田舎町には不自然な両替所がいくつもある。アヤソフィアの下を走る道路は片側3車線のハイウェー、これが黒海沿岸の町をつないでいる。トルコ経済はEUに加盟する実力を持っているが、田舎町をこれほど優遇する余裕はない。トルコがEUに加盟するとロシアは地中海への出口を西側諸国に押さえられるので、トルコをひきつけておく必要がある。ロシアの天然ガスをトルコ経由でヨーロッパに送る巨大パイプライン計画をちらつかせている。世俗主義からイスラムへの回帰、EUが嫌うスカーフ女性の増加なども、この動きと関連がある。この30年間の日本や世界の変わり様はものすごい。8月30日、日本にだって大変化が起きた。

 私の思い出の中の場所や人は変化しない。30年前も今もトルコ人は親日的だ、そう思いたいけど彼らはもう前に進んでいる。誰もが変わる。変わらなけりゃいけない!

■何を根拠にその変化を見いだすか? 31年目の地平線報告会で話させてもらいます。(三輪主彦

「出た!!」私の体中の血がざわつく。それは200キロ近くもあるような大物……大雪山ヒグマ観察行報告

■8月も終わりになって一週間ほど時間がとれたので、北海道の大雪山にヒグマの観察の旅に出かけた。電車やバスを乗り継ぎ、登山基地となる層雲峡には夕方になってようやくたどり着き、その日の塒は「層雲峡プリンスホテル」ではなくて、その隣にあるユースホステル……でもなくて、そこから300m離れた病院の廃屋である。

◆私はこうした登山のための宿となる廃屋を各地に持っている。この病院がいつ閉鎖したのか知らないが、かなり大きな建物で、診察室やベッドのある病棟、医者が寝泊りする部屋等があり、鍵のかかっていない入り口から堂々と入った私は受付に貼られているリアルな内臓解剖図やハンガーにかけられた医者の白衣等に少々嫌なものを感じながら、閉めきられて空気が生暖かくよどんでいる部屋を患者を見まわる医師のように点検してまわる。

◆すると驚いたことに先客がいたのだ。待合室と思われる大きなガラス張りの明るいホールに、どこから入り込んだのか一羽のキジバトが外に出られずにウロウロしているではないか。さっそく捕まえて食おうかとも思ったが、食料はまだ十分持っているので外に放して助けてやることにした。泊った病院の近くの森では夕方エゾシカの親子に遭遇し、翌朝にはヒグマの真新しいフンも見つけ、さっそくキジバト救出の効果があらわれたかとワクワクする。

◆黒岳に向かう登山道で何度もシマリスが顔を見せ、ホシガラスもガァーガァーとしわがれ声で啼きながら飛び回る。一汗かいてたどりついた黒岳山頂は360度の展望で大雪の山々が一望のもとに見渡せる。五色岳、北海岳、北鎮岳、凌雲岳、その広大な山並みはあちこちに大きな雪渓が残り、ハイマツやコケモモ等緑の低い草木におおわれ、ウラシマツツジがもう赤く紅葉し景観に鮮やかな色彩を加えていた。

◆ヒグマは夏になると溶けた雪渓の後ろに出る柔らかい草を食べに高山に登ってくるのだが、この絶景のどこかにヒグマがうろついていないかと双眼鏡で必死に捜す。時々遠くの雪渓上の黒い岩やハイマツの黒い茂みがヒグマに見えたりして一瞬「ドキッ」とさせられる。一時間ほど黒岳山頂で粘った後、あきらめて先に進むと、白雲岳山頂の下のガレ場で岩の間から「ピチッ、ピチッ」と鋭い鳴き声が聞こえてきた。ナキウサギだ。しばらく粘ってみたが、出てこないので心残りだったが先を急ぐ。なんといっても、今回の山行の最大目的はヒグマなのだ。

◆白雲岳避難小屋には昼近くに到着し、小屋にザックを置いてさっそくヒグマ捜しに出る。小屋近くの高台に登ると高根ヶ原の高原台地や遠くトムラウシの山頂まで見渡すことができた。双眼鏡で小屋周辺の草原や池塘などを捜し、小屋の西斜面に残る雪渓に目を向けた時、いきなりヒグマの大きな姿が双眼鏡の視界の中に飛び込んできた。

◆「出た!!」私の体中の血がざわつく。それは200キロ近くもあるような大物で、頭から肩にかけて金色でおおわれ、肩も高くもりあがっている。しかもなんとその後ろには2頭の子グマがついてきているではないか。私からは100m位の距離があり、恐怖はない。むしろヒグマに遭えた喜びと興奮で体がふるえるようだ。私の存在に気づいていない親子の行動は実に天真爛漫で、子グマは何度も立ち上がって相撲を取ったり、雪の上をころげまわったりする。母グマはそれをいとおしむかのように子グマを見つめ、時々自分も雪の上に寝ころんで子ども達の遊び相手をしてやる。

◆雪渓の上で20分位も遊んだ後、雪渓を登り、沢のくぼみのハイマツ帯に入り込んだ。私の方からは見えない。私も登山道をまわりこんで、ヒグマの見えそうな方へと移動する。すると今度は沢の右岸の平坦な草地で草をむしるようにして食べている親子の姿を発見した。今度は50m位の近さだ。まだ気づかれてはいないが、かなり危険な距離だ。近くの岩陰に身をひそめ、15倍の双眼鏡でのぞくと、ヒグマの荒い毛並みも手で触れる近さに見え、今にも迫ってきそうな錯覚さえ覚える。

◆親子は徐々にではあるが、草を食べながらこちらに近づいてくる。緊張感が高まる。今回は、熊撃退用の熊スプレーを用意しているが、クマが突進してきた場合、冷静に5mという近さで正確にクマの顔面に噴射することができるだろうか。40mの近さまで迫ったところで熊スプレーの安全装置をはずし、近くの大きな岩に登って応戦する覚悟を決める。子グマたちは無心に草を食べているが、母グマは時々顔を上げて鼻で匂いをかぎ、周囲を警戒する様子を見せる。とその時、何かを見つけた母グマが「コフッ」と小さく鳴いて子グマを近くに呼び寄せ、子グマを先に歩かせて私と反対方向に去って行った。

◆遠くの尾根から下ってくる登山者を見つけたのだ。「クソッタレ!」と思いながらもヒグマとの衝突を避けられホッとした気持ちもどこかにあった。この親子グマは、翌日も翌々日も避難小屋の近くの草原や雪渓の上に現れ、その興味深い生態を見せてくれた。ヒグマを追い求めた夢のような野生の旅は、私の心の奥に深く刻まれた。(松原英俊

三線弾きながら鳥肌がたつのを感じる瞬間━━誇り高き比嘉エイサー

■今年の旧盆は9月1日から3日でした。お盆初日(旧暦7月13日)はウンケーといい、ご先祖たちがあの世から帰ってくる日で、各家庭ではお迎えの準備です。そしてお盆最後の日(旧暦7月15日)はウークイといってご先祖があの世に帰る日。親類が集まり仏壇はご馳走であふれ、打ち紙(あの世のお金)を燃やしてうーとーとーして(「仏壇に手を合わせる」「祈る」意味)ご先祖たちを送ります。

◆エイサーを踊るのもこの日です。道ジュネーと言って各家庭を一軒一軒廻り仏壇に向かってエイサーを踊ります。比嘉は100世帯くらいあるので4班に手分けして廻ります。夜8時頃スタートして道ジュネーが終わるのは夜中12時くらいです。そのあと港に面したエイサー広場で全員で演舞します。ここの比嘉エイサーは知る人ぞ知る伝統あるエイサーで、今こそ若者が不足し衰退の危機ですが昔の栄華を語らせたら止まらないというくらいの誇り高きエイサーなのであります。

◆54年前、全島エイサーコンクールで連続優勝した伝説のエイサーは今も大切に踊りつがれています。今はエイサー祭りに出演したりジャスコで踊ったりと外で演舞することはなく、島の中でウークイのためにだけ踊られている比嘉エイサー。私達夫婦もジウテー(三線弾き)で毎年参加させてもらっています。ここ2〜3年は見物人も増えている気がします。今年は夏休みも過ぎ平日なのにもかかわらず、観光客やエイサーファン、新聞社や市の観光課なども来ていました。

◆10月18日のうるま市ふるさと祭りにぜひ出演をというオファーも来ています。他にはない独特の特色を持った比嘉エイサー。踊り手はパーランクー(エイサーで使われる小さな太鼓)とゼイ手踊り、他に大太鼓とドラ鐘打ち。小さな子供から70代のおじいまで、老若男女が心をひとつにしてノンストップで八曲、約40分間ぶっ通しで演舞です。その間、パーランクー隊列の見事な変化やうねりが起きていく感じ、盛り上がっていくのを感じるとき、私なんかも三線弾きながら鳥肌がたつのがわかります。昔栄華を誇った時代を知るおじいおばあは「まだまだだね」といいますが、みんなで頑張って継承して行きたいと思っています。

◆昨日9月4日も「ワカレアシビ」といって「あしびなー」とエイサー広場で締めの演舞がありました。そのあと広場で満月の下エンドレスの打ち上げがあり、今日はなんだか疲れと寝不足でぼおっとしています。今は牧場でヤギ達には勝手に草を食べに行けと放してあづまやで昼寝してました。風が気持ちよくて、いい気分。

◆そうそう。今年のお盆はご存知のように亮之介画伯と車谷君が来ています(彼等のミッションは比嘉ではなく平敷屋の取材だそうですが時間をやりくりしてこっちにも来てくれてます)。今晩は平敷屋から戻った亮之介さんたちと宴会だ。ではまた。(9月5日 浜比嘉島から 外間晴美

又吉健次郎さん、沖縄タイムス賞文化賞受賞!!

■先日、那覇で又吉健次郎さんとお会いしました。地平線通信の読者である又吉さんは、琉球王国時代から続く銀の装飾工芸「金細工(カンゼーク)」の職人。伝統的な結び指輪、房指輪、ジーファーとよばれるかんざしの3つを作り続けています。御年78歳。お肌つるつるのかわいいお方です。

◆10年前に初めてお会いして以来、首里にある「金細工またよし」の工房に何度かおじゃましていますが、タンタンタンタンと銀を打つ音が響くその工房は不思議な魅力にあふれています。年季の入った道具類、県内外からのさまざまな訪問者を自然に受け入れる雰囲気、お弟子さんも含め交わされる会話の広がり……。住宅街にあるその小さな工房が、時空を超えて世界に開かれている、世界につながっている印象を受ける、といったら大げさでしょうか。地球儀に又吉さんの工房がマークされた絵が思い浮かぶのです。それは、好奇心旺盛で聞き上手、ユーモアがあって、誰に対しても謙虚な又吉さんの人柄が醸し出すものが大きいと思います。

◆今回は、又吉さんが受賞された「第53回沖縄タイムス賞文化賞」(7月1日に受賞式)のお祝いの食事会のつもりでしたが、結局、ご馳走になってしまいました。首里にある八重山料理店「潭亭(たんてい)」の食事は、美しくて滋味深く、まさに金細工のようでした。

◆ちなみに、私はかつて訪沖30回記念に、又吉さんのところで結び指輪を作ってもらいました。今回は100回目の沖縄。記念品は作りませんでしたが、いい思い出ができました。やっほー。(妹尾和子

天俐(あまり)誕生! ━━親ばかにはなりたくないので、こっそり「下ぶくれの天使」と呼んでいます

■江本サンと電話で話す度に、「子どもと話しているみたい」と言われ続けている私も、とうとう母になりました。8月14日、27時間の陣痛の後、自然分娩で産まれました。検診時の推定体重よりもさらに大きく、約3700グラムのメガベイビーでした。なんでそんなに育ってしまったのか、首をかしげるばかり。私はというと、7月の最後の最後まで、arumitoy始まって以来の忙しさでのんびり肥えているヒマなんてなかったのに! 私の体重は最後の2か月は増えず、赤ちゃんだけはどんどん育つ始末。8月から産休に入って、たっぷり3週間休んでから出産に挑もうと思っていたのに、結局産休は10日しかなく(事前に入院した為)もろもろの所用に追われ、ちゃんと産休をやったのは4〜5日だったような気がします。

◆のど元過ぎれば熱さを忘れるのは本当で、陣痛の最中は「こりゃ1人で打ち切りやわっ」と思ったけど、今となっては、次回はもっと耐えられるハズなんて思えてしまいます。出てきた子はぽちゃぽちゃで、ムチムチで、髪の毛はフサフサで、他の新生児達と比べると、ウチの子だけ月齢が違うんじゃないかと思えるぐらい大きいし、顔もしっかりしています。ほっぺに落ちそうなぐらい立派な肉が付いていて全体的におにぎりみたい。髪の毛が海苔で。親ばかにはなりたくないので、こっそり「下ぶくれの天使」と呼んでいます。

◆天俐(あまり)と名付けました。広く賢くのびのびと上を目指す生き方をしてほしいという思いです。天空の天を使った?と言われますが(注:父のエア・フォトグラファー、多胡光純は「天空の旅人」の異名も)、これ、本当に偶然なんです。ちょうどいいや、使っちゃえって。

◆1か月が経過しましたが、あちらは成長が早くて参ります。1か月で身長が3センチ伸びるなんて! そりゃ、毎日顔が変わるし、授乳の度に重いと感じるようになるし、昨日までしなかった事を、今日急にしたりするワケです。今後、脳が急成長する時期が来るらしいので、その時の変化に私たちは果たしてついていけるのかなー。きっと昨日と同じ対応では乗り切れないんだと思います。

◆ウンチやおならをしたいときは、必死でウンウン頑張ります。オジサン顔負けの大きなおならやゲップも彼女にとっては大切な儀式の一つです。オッパイに貼りついて、ゴクゴク吸って、出すもの出して、寝る毎日ですが、3頭身の小さい体で一生懸命生きようとしているのが分かります。

◆母親の実感はなんかあまり感じません。でも最近になって、天俐を抱っこしている写真を見た時、あぁ、この赤ちゃんの母親はこの人なんだー。それって私やんっ! と感じた次第です。1か月検診が終わって、外出が解禁になりましたので、これから外に出る機会が増えるとまたさらに自覚が出てくるんだと思います。子育ては楽しもうと思っていますが、私の人生と、たごっちの人生と、そして天俐の人生が上手くリンクするような3人の生き方を探っていこうと思います。あぁ、どうか理想が現実でありますように! 下ぶくれの天使のイラスト添付します。(多胡歩未 「arumitoy」店主)

オラ! スペインの小さな町からこんにちは!

■初めての海外、前日になって「もしかしてこれって結構大きなこと?」っと「留学」という現状を初めて理解した香川大学のうめです。ごぶさたしております。そんな私ですが、初めてのフライト、つたない英語で何とか今、スペイン、カディスに来て2週間になるところです(8月26日に到着、新学期は9月1日)。オラ! 実際に学校に通い始めてまだ1週間ほどですが、すっかりいごこちの良い環境に馴染めています。

◆お昼が2時で、1日に2回ほどブレイクタイムをとる習慣にも、日暮れが夜9時過ぎだという日常にも慣れてきました! でも、夕食10時というのにはまだ慣れません……。現在、カディスの街から離れた小さな町、プエルトリアルというところに住んでいます。町のなかで一個しか信号が無いくらい田舎な所です! 目が合ったら「オラ!」っと気軽に挨拶し、とってもにこやか♪ そして、親切です

☆ スペイン語の話せない私に、ゆっくりとスペイン語で話してくれます(まだゆっくりでもわからないんです。ごめんなさい)。

◆もちろん本業の大学での研究もしています。みんな、本当に親切に教えてもらえるのと同時に、フリータイムはめっちゃフランクに会話してくれて、本当に恵まれています。毎日研究室に楽しく通っています! これから12月の末までの四か月間、もっともっとスペイン語と英語を覚えてこの地で深い絆を築くことが最大の目標です!(あ、あと勉学。。)それでは、みなさん、Hasta luego! (スペイン・プエルトリアルから 山畑梓

(注:「オラ!」は「Hi!」のこと。「Hasta iuego!」は「see you again!」、編集部一同侃々諤々の議論でした。)

「タイミングと、相性の問題なんだよなあ」━━学生のふりして、北海道ひとりヒッチ旅

■こんにちは! 8月の後半、北海道を旅行して来ました。これからしばらく、「さいはて」で野宿をしてみる旅行をしていこうと思っていて、今回は北の方に行ってみたのです。青森県の大間岬(本州最北)から函館に渡り、ほぼ外周を時計回りに半周ぐるっと巡る形で、宗谷岬(最北)、納沙布岬(最東)へ。移動手段は今までほとんどやってこなかった、ヒッチハイクです。28歳になっての初心者。大丈夫なのだろうかとドギマギでしたが、なんだかとっても面白かった。

◆やはり、乗せてくれる人乗せてくれる人に「学生さん?」と聞かれます。「いや、働いてるんです」とは答えるものの、ついつい具体的な年齢を云う事は巧妙に避けようとする私……、ずるい。野宿旅行もそうですが、必ずそういうことをやっている人間は「=学生さん」と見られます。3年前の私ならめげたかもしれないけれど、もう、ふてぶてしさを身につけた。「幾つになっても、好きな事するのだ」、なーんて思い……つつも、乗せてくれた人がジュースやご飯を奢ってくれたりなんかすると、非常に恐縮してしまうし、複雑なのでした(だって、お金がないわけじゃないんです! いや、あんまりないんですけど……)。

◆ヒッチハイクは、スケッチブックに適当な行き先を書いて(その方が判りやすくって止まってくれやすい気がするし、親指を立てるポーズはこっ恥ずかしいのもあり)それを車に向けて見せながら、ニコニコしてみたり、ぺこっと拝んでみたり。行き先は、30キロ先がいいのか、200キロ先がいいのか。などと、色々と試行錯誤しながらだったのですが、判らずマイナーな所を書いてしまったら不思議に思って止まってくれたり、ぼーっとしていたらその姿が哀れに見えたのか止まってくれたり、予測がつかず面白い。

◆感覚として判ったのは、「これ」という決まり手はないみたいだなあ、ということでした(まあ、でもやっぱり女の人がやった方が止まってくれそう。それとここ数年、北海道でヒッチハイクする人は減少傾向で、物珍しさから今はチャンスのようです!)。タイミングと、相性の問題なんだよなあ。どの車が止まってくれても、私がやったのでその車が止まってくれた(もちろん、別の人がやったら、別の車が止まってくれる)、というように思えるのです(とはいえ、誰でも乗っけてくれるだろう乗せ慣れた方もいらっしゃいますが)。それって、そのまま旅行の面白さなんじゃないだろうか、なんて思ったり。

◆ヒッチハイクの定番・トラックの運転手さん、昆布の買い付けに出張中の金沢の乾物屋さん、お葬式に行く途中のおばさん(びっくりしたのですが、別れ際に「しんみりしなくてよかったわー」と云われほっとしました)、色々な方にお世話になりました。まったくもって人任せで、ままならない感じが新鮮だったのですが、しかし車って速くって、びっくりです。北海道の車は、特に速い。1時間乗せてもらうとだいたい80キロ進んでしまうのです!

◆今まで旅行というと徒歩か自転車(ママチャリ)で、1日の移動距離は最大100キロという感じだったので、ものすごく違和感(自分で動いていないのも変な感じ)があり、1日3台、移動は300キロまで、なんて決まりを作り、急いで移動し過ぎないようにまでしてしまいました(なんて偉そうなのでしょう!)。

◆そういえば、バイクも当てにしようとヘルメットを持って行ったのですが、ツーリングする人達は積んでいる荷物が多く2人乗りなどできず、玉砕。でも唯一の例外は座席が広い(長い?)アメリカンタイプのバイクだと教えてもらい、無料のライダーハウスに泊まった時にせっせとナンパし、一度だけハーレーに乗せてもらうことができました。そのバイクが、130キロで車を追い越した時には、死ぬかと思った。ああ、生きててよかった。という訳で、現在、久しぶりに旅行ができて、私は元気で幸せです。いひひ。(加藤千晶

━剣岳秋景━
小屋の周りの草は黄色に染まり、ベニバナイチゴの赤い実があちこちになっています

■江本さん、モンゴルからお帰りなさいです。すっかりご無沙汰してしまいすみません。こちらの北アルプス剣岳山小屋生活は、すでに秋編を迎えています。小屋の周りの草は黄色に染まり、ベニバナイチゴの赤い実があちこちになっています。ブルーベリーも実を付けはじめました。穏やかな時間がなんだか日本じゃないようです。

◆昨日から久々の休暇(3連休)なのですが、昨日の午前中は雨と風で小屋に閉じ込められていました。小屋から1時間弱登った別山乗越(約2700m)では、積雪1センチ。風が強く特に寒かった4〜5日前には剣岳山頂付近の岩や鎖に「エビのしっぽ」ができていたらしいし、秋と一緒に冬も来そうです。

◆今日は快晴。母が室堂へ遊びに来たので、近くをのんびり散策しました。写真は本日の室堂周辺(奥大日岳)。青い空と黄色い草が秋らしいですね! 山小屋バイトも残り3週間、深まる秋と冬の訪れを楽しみます。ではでは!(9月14日 剣岳にて 新垣亜美

ナゾの芸術家、緒方敏明さんの個展を見に和歌山に行こう!!

■とっても凄いのにケンキョな人たち、が集う地平線会議の中でも、「腰の低さとシャイな点で、彼の右に出る者はない」と、万人が認めるナゾの人、自称『オガガ』こと緒方敏明さんの個展が、今月26日から、和歌山市内の画廊で開かれます。会場のレトロビル内2階の喫茶店で、常設展示の作品が一足先に見られる、と聞き、先日、行ってきました。皿、花器、小さなオブジェなどなど、種類は様々ですが、いずれもノーブル。ひっそり佇んでいるのに物語を秘め、今にも何かを語り出しそうな気配です。ああ、こういう作品を作るために、彼は生まれてきたんだな、と納得しました。寿命を削っての制作活動は、たぐい稀な感性を与えられたが故の宿命かも知れません。フシギの人、オガガ氏の心象世界に遊ぶ、滅多にない機会だと思います。会場の西本ビルも、彼の作品を置くにふさわしい、時代と気品を感じさせる建物です。みなさんも、ぜひ覗いてみて下さい。[地平線オガガ個展応援団・ひろべい久島


■緒方敏明展 「とり の とぶたかさ」
■会期:9月26日(土)〜10月12日(月)
 休廊日=9/30、10/6・7
■時間:午前11時〜午後6時
■会場:小野町デパート
■住所:和歌山市小野町3ー43西本ビル
■電話:073ー425ー1087
■交通:南海電鉄『和歌山市駅』より徒歩8分
※9月26・27・28の3日間は、作家在廊予定です。
※関東からなら、JR和歌山駅行きの夜行バスも便利です。

★「趣味なんじゃないかと思うくらい、いつもくよくよしている緒方さん」★

■「オガティブ」という言葉があります。これは緒方さんが自分を表す専門用語で、ネガティブよりさらにネガティブしている状態を表しています。緒方さんは趣味なんじゃないかと思うくらい、いつもくよくよしている。そして手紙魔で、いろんな人に「長文くよくよレター」を送り付けているようです。私は緒方さんを、3年前唐突に送られて来た手紙を通して知り、どんな人なんだろうという興味からその時の作品展を見に行きました。作品は、自分の深い深い所へ下りて行きただ一つを選んで帰ってきたというように、潔くって。でも優しくって。あのくよくよレターの人が! と驚くと同時に、でも納得するような不思議な心持ちでした。その後、本人を知るようになってからも、その思いは変わりません。緒方さん、どうかくよくよしながら、スゴイ作品を作り続けてください。今回も楽しみにしています。(もうひとりの応援団 加藤千晶

スリランカ遺跡調査で大いなる成果!

■先週、スリランカから無事帰国しました。今回は当初の目的だった仏像を「発見」することができました。またスリランカ最大規模と思われる「ソロウワ(暗渠式水路)」を見つけることができて、大いなる成果を上げることができたのではないかと自負しております。私たちのことが、地元紙の「The Island」にも載りました。以下のオンラインをご参照ください。

http://www.island.lk/2009/09/10/news6.html

10月中旬(10月17日または24日)には、報告会を開く予定ですので、もしもご都合がつくようでしたら、ぜひいらしてください。ワスゴムワのジャングルには、まだまだ多数の遺跡が埋もれているようです。来年度も引き続き今回の探査を継続したいと考えております。(9月15日 執行一利)

■通信357号「北ア・剣岳から」を読んで投稿します

 昨年、ちへいせんあしびなーにわたしと一緒に参加した通信回し読み読者満仁崎幸世さん、この5月3日五竜岳東谷山尾根から転落死亡しました。落ちた距離1500m落差750m。

 五竜岳から黒部S字峡に下り剣岳を越えて馬場島に下る登山2日目の朝でした。30年来の岳友の一瞬で消えた命、リーダーはわたし、その後ぼう然としています。そうこうするうちに9月21日の第4回白山神駈道荒行走破が迫ってきました。これまで彼女の強力なサポートがあってやってこれた取り組み、今年は気が重くあれこれの実務にとりかかっています。とりあえず浜比嘉島でお世話になった皆様におくればせながら訃報をお伝えします。

 なお、遺骨の一部を中国の彼女の友人たちが四川省巴朗山峠に埋葬します。峠を通過する際に冥福を祈っていただければ幸いです。(8月22日 石川県 西嶋錬太郎

★賀曽利隆さんと明け方まで比嘉の海で盛り上がっていたお二人を思い出します。ご冥福を祈ります。(E)

GPSやコンパスも使わず、星と太陽、島影を頼りに移動しました━━関野吉晴の「縄文号」マレーシア、フィリピン航海、そしてモンゴル報告

 8月31日、台風と一緒に帰国しました。8月5日に航海は終了しました。

 7月中旬にフィリピンに入って以来、南風が吹く日が多くなり、順調に距離を延ばすようになりました。「JOMON」も「PAKUR」もそれほどのダメージもなく、活躍してくれました。8月5日、フィリピン、パラワン島の北にあるコロンという港町に到着しました。マニラまで300kmある。ここからは大きな波とうねりのある南シナ海を北上します。台風も多発します。今年の航海はここまでにしました。来年、再びコロンを出航して、日本列島に向かう予定です。

 最初の予定では今年の7月下旬には沖縄に到着している予定でしたが、思ったように風が吹かず、風任せの2艇はゆっくりと、休み休み進みました。南半球のスラウェシ島を出発したカヌーは赤道を越え、北緯12度までやってきました。南半球でも北斗七星は見えるが、北極星は見えません。やっと北極星の見えるところまでやってきました。遅れてはいるが、大きな事故もなく、やって来ました。

 ほとんどカヌーの上で、ごろんと横になって寝ていました。4か月の航海で寝食はほとんどカヌーの上でした。GPSやコンパスも使わず、星と太陽、島影を頼りに移動しました。

 アブ・サヤーフ(イスラム過激派)や海賊の出没する海は乗り越えました。しかし今までは熱帯の静かな海だったが、これからは大波、強風の吹く東シナ海に入ります。風、潮に逆らわず、「待ちながら」進めば、来年の今頃は日本列島に着いているだろうと思います。

 仲間が帰国した後、マレーシアに戻って、漂海民あるいは海のジプシーといわれているバジャオ(インドネシアではバジョと呼ばれている)のところに戻りました。彼らの中で、医療活動をしながら、ミトコンドリアDNAのサンプル採取をしていました。その分析結果で彼らと日本人との関係、あるいは周辺民族との関係、彼らがどのようなルートで今の土地までやって来たのか分かるはずです。

 バジャオはインドネシア、マレーシア、フィリッピンの国境地帯で国境を無視して自由に行き来している。パスポートもIDカードも持たず、国籍も持たない。子どもたちは学校に行かず、家族や海が彼らの先生です。杭上家屋に住む者も多いが、舟を家として暮らしている者もいます。

 他の地域でも、狩猟採集民や遊牧民に惹かれたように、海でも漂泊する民に魅せられてしまいました。

 9月2日から山田和也監督の報告にあるように、モンゴルに行きました。プージェーの祖母スレンさんに映画「プージェー」を見てもらうためです。スレンさんは遊牧地を引き払い、町に住んでいました。元気なので安心しました。大きくなったプージェーのいとこバーサとも会えました。しかし、5年ぶりのモンゴルでしたが、遊牧民のおかれている状況はよくなっていません。スレンさん一家もすべての馬を失い、ヒツジも減り、困窮状態にあります。尋ねるのをひかえていたプージェーの父親の件もスレンさんから、「この10月に15年の刑を終えて刑務所から出所してくるんですよ」と打ち明けられました。私が「服役中に働いた分の給料は刑務所から出る時に支払ってもらえるんですよね」と尋ねると、スレンさんは「いいえ、刑務所で食事を出してあげてるのだから、それだけでもありがたいと思えと考えているんですよ」と言っていました。そのため出所者の再犯率は高いようです。また、この件ではスレンさんは冤罪をほのめかしていました。

 私たちに頼り過ぎることのないよう配慮しながら、出来る限りの支援をしたいと思っています。 (関野吉晴

350km?もあるチベット洞窟探検へ

■ごぶさたしております。農大OBの北村です。10年ぶりにメコン水源地域に行ってきます。今回は洞窟探検です。一説には350kmもあるという話ですが、なにせチベット人しか入ったことがないので、その全貌はわかりません。しかし未知数が多いほど、やりがいがあります。今回は中国人サポーターと私だけなので安全には充分気をつけて行ってきたいと思います。それでは又お目にかかる日を楽しみに。(青海省西寧にて 9月2日絵葉書で 北村昌之

《エミコさんからのメール》
 8月17日、何人かから「おめでとう」メールを頂いた。地平線会議誕生日を祝ってくれてのことだ。そのうちの一通を。

■《30周年、心から「おめでとうございます!!!」そして、ひとつのくぎり「どうもお疲れさまでした!!」これからも素晴らしい仲間と共に延々受け継がれていくことでしょう。貴重な今日に、どうしても一言お祝いを入れたくメールさせていただきました。昨年のサザンのこと、思い出します。体調のことはまたあらためてご連絡いたしますね。》(8月17日 シール・エミコ

 実は、8月初め、別のメールをもらっていた。

《江本さん、暗い知らせですみません。癌が再々発したようです…。詳しいことはまだわかっておりません。明日から精密検査がはじまります。正直、かなり、ショックです。癌との冒険はまだ深い峠の中。まだまだつづきそうです。(涙)》

 そういう状態の中からのお祝いメールだったのだ。8月末、エミコさんは自分のブログを久しぶりに再開し、支援する友人たちにガン再々発を伝えた。でも、当然のことながら毎日書ける状態ではない。皆からの応援メールにも応えられない。今は、そっと見守っていてほしい。そんな心境のようだ。またも厳しい治療を受けることになるのか。命の戦いが続く。(E)

「puujee」のモンゴル上映会がようやく実現しました!!

■地平線会議で応援していただいた「puujee」のモンゴル上映会がようやく実現しました。「puujee」は07年にモンゴルのテレビ局ntvで放送されたのですが、事前の通知がなく、プージェーの家族は見逃してしまいました。ちなみに製作委員会には放送するということさえ知らされていませんでした。それ以来、モンゴルでの上映はpuujee製作委員会にとっては最も大きな宿題になりました。

◆日本全国でのロードショーから海外の映画祭へと上映の輪が広がるにつれ、肝心のプージェーの家族への報告上映ができていないことに製作委員会は忸怩たる思いを抱き続けていました。関野吉晴さんがプージェーの祖母スレンさんの消息を常に把握していましたが、上映会に不可欠である地元の協力者が見つからないまま時が流れていきました。

◆そんな時、在日モンゴル人のお祭ハワリンバヤルで「puujee」を上映してくれたガイアネットの芹澤正信さんと知り合うことが出来ました。去年の夏、その芹沢さんが偶然プージェーの祖母スレンさんと出会います。芹沢さんの案内役であったバリド・アンフバヤルさんがntvで放送された「puujee」を観ていたこともあって、上映会の諸手続き、諸手配を引き受けてくれることになりました。

◆8月末、グレートジャーニーを続行中の関野さんがマレーシアから帰国。9月2日、関野さんに製作委員会の本所と山田、友人の平田さんを加えて日本を出発。現地ではモンゴルで取材活動中だった江本さんが駆けつけてくれました。9月3日、ウランバートル市内で上映。モンゴルのメディア、日本に興味のある学生や市民、在モンゴルの日本人の方々、総勢50名ほどの観客でした。

◆上映後にQ&Aセッションが行われましたが、観客からの第一声が出るまでに長い沈黙があり、重い空気が流れました。「puujee」は変わりゆくモンゴルについて批判的な立場に立っているので、当事者であるモンゴルの人には心地よいものではないはずです。5分ほどたって、現地の日本語雑誌を編集、出版している方が製作の経緯について質問してくれたことをきっかけにようやく感想や質問をいだくことが出来ました。

◆モンゴル国営放送の記者から、「モンゴルの現状を世界に知らせてくれて感謝する。ぜひ国営放送で放送したい」という申し出があり、ウランバートル大学で教鞭をとっている日本人の先生からも大学で上映したいという申し出がありました。その午後、プージェーの祖母スレンさんのもとに向かいました。スレンさんにとって実の息子のような存在になっている関野さんも5年ぶりの再会です。スレンさんは関野さんの到着を今か今かと待っていたのでしょう。車が門の前に止まると同時に出てきてくれました。関野さんの頬に頬をよせて涙ながらに挨拶するスレンさんの表情には嬉しさ、懐かしさだけではない複雑な感情が現れていました。そのわけを関野さんは別れ際に知ることになります。

◆スレンさんとプージェーのいとこのバーサ、叔父さんのセルチンさん、それにバーサのお母さんの前でDVD上映が始まりました。外では、親戚の方々がご馳走の山羊の石焼きの準備をしてくれています。画面の中で生き生きとした動きを見せるプージェーと母のエルデネチメグさんの姿にスレンさんとバーサは泣きっぱなしでした。少しほっとしたのは、プージェーの大人びた言動が画面に映る度にスレンさんとバーサが可笑しそうに微笑を浮かべたことです。プージェーのあの毅然とした物の言い方や振る舞いを家族も愛していたのです。

◆上映後、バーサは関野さんの問いに、将来は日本語を話せる警察官になりたいと答えました。プージェーを殺してしまった自動車事故を取り締まる警官になりたいという自分の夢にプージェーの遺志をあわせたのでしょう。泣いたり、笑ったりの忙しい小さな上映会は、心からのおもてなしの山羊の石焼きで幕を閉じました。

◆翌日はプージェーが通っていた小学校の近くにある文化会館で上映を行いました。体調が悪く最近はほとんど家から出ていないというスレンさんが会場まで来てくれましたが、残念ながら映画が始まる前にバーサに伴われて帰ってしまいました。プージェーの同級生や後輩、先生がた、村の人々、およそ200名が観てくれました。

◆ただ、若者たちにとって遊牧生活は見慣れた光景で、映画は退屈だったのかも知れません。上映終了後、早々と会場を出ようとする生徒達に、プージェーの同級生だけは残ってくれないだろうかと、関野さんが呼びかけました。9月に高校3年生になったばかりの同級生、およそ40名が残ってくれました。プージェーも健在であれば、高校3年生になっていたのです。

◆関野さんとの問答が始まりました。学生たちの全員が遊牧民になる気はなく、半数は都会に出て大学に行きたいという希望を持っています。遊牧はきつい仕事なのでやりたくないが、牧場で家畜を飼うのだったらやってもよいという学生もいました。若者にとって伝統的な遊牧生活は既に過去のものになっているようです。

◆プージェーの墓参りを終えた関野さんにスレンさんは悩みを打ち明けました。娘と孫を失い、働き手がいなくなったスレンさんの遊牧経営は瀕死の状態になっていたのです。牛は8頭残っていますが、馬はぜんぶ盗まれ、700頭いた山羊、羊は60頭にまで減少してしまっていたのです。経営悪化は04年頃から始まっていたのですが、スレンさんは関野さんに訴えることをずっとためらっていたそうです。

◆「puujee」製作委員会はスレンさんを支援する方法を検討中です。関野さんはスレンさんだけではなく、悪化している遊牧民の現状に対して何ができるのか考慮されているようです。この件については改めて報告いたします。(山田和也

テレビ取材の現場、そして義父のこと━━サラワクの熱帯林を訪ねて

■9月7日、マレーシア・ボルネオ島サラワク州の熱帯林から帰国した。テレビ番組制作の手伝いで滞在は2週間弱と短かったが、テレビ取材のあり方について考えた滞在となった。

◆今月下旬、民放某局で、自然と共に生きる世界の10以上の先住民を特集する番組が放映される。うち一つに、東南アジア最後の森の移動狩猟民「プナン人」が登場する。サラワクの人口約180万人のうち、30前後の民族からなる先住民はその半数を占めるが、森に最も依存して生きるのがプナン人だ。だが今、政府の定住化政策により、その人口1万6000人のうち、家をもたずに森の移動生活をするのはわずか300〜400人。

◆さて、報道番組は別として、私がこの類の番組に協力することはもうない。なぜなら、テレビはあらかじめ決めていた絵を撮るため、「作る」という演出を積み重ねるからだ。それがいい悪いではなく、私には馴染まない。たとえば、なぜ、出会ったばかりの人々に「服を脱いでください」「時計も外してください」と要請するのか。テレビは、できるだけ「原始的な先住民」を撮りたかったのだ。

◆また、プナン人が夜中にある動物を仕留めて持ち帰った。テレビは、翌日、村人が吹き矢を飛ばし、木の上に登っていた人がその動物の遺骸をタイミングよく木から落とし、「吹き矢で仕留めた瞬間を撮った!」風の演出をした。もっとも、夜目が効いて足も速いプナン人の夜の狩りへの同行は無理なので、この手法は再現映像としてならアリだ。だが、再現でないものを作るのにはウ〜ンと考えた。

◆20年前なら、森を3日歩いて「移動プナン人」に会えれば早いほうだった。だが今は、伐採用道路を利用し、町から車で奥地に行けることで、歩いて数時間で会うのも可能だ。5年前、私は車から降りて歩いて5分で会った。今回も歩いて2分。でも、テレビは「ようやく会えた!」との絵が欲しいため、別の日に、ディレクターが「まだ着きません!」と疲れ果てた声を出しながら森を歩く撮影が行なわれた。

◆あらかじめ作っていた、枝や葉を組み合わせて作るプナン人独特の道標(たとえば「我々はイノシシを獲りにこの方角に向かった」など)を発見し、現地ガイドが「あ、プナンのサインです!」と安堵する……。プナンの子どもはじつに好き勝手に吹き矢の練習をする。だが、カメラの前では、なぜか大人が付きっきりで指導している。ジャングルにあるのは獣道だから、プナン人は縦一列で歩くのに、そこが河原ということもあったが横一列で歩かせる(これは地元ガイドが「不自然だ」と縦一列に直した)。

◆プナン人をしてプナン人の生活を演じさせるという手法を手伝うことは、気持ちよい滞在につながらなかった。おそらく、テレビ番組の「世界xx」とか「xxワールド」も同様の手法なのかな。なんだか素直に見れなくなりそうだ。ただし、今回の番組で、プナン人の主食である、サゴヤシから澱粉を取り出す作業だけは演出ほぼゼロ。民族学的にも史料価値の高い映像だと思う。番組名と放送日時を知りたい方は、yhv01733@nifty.comまで連絡ください。

◆ついでにもう一つ。私はサラワクでは「コレ(豹)」と呼ばれている。20年前に初めて訪れたカヤン人の村で、私を「息子にする」と宣言した男性マリアン=サギンが名づけてくれた。当時推定60歳代の高齢に関わらず、村一番の働き者で、いつも藪を切り開き、焼畑の農作業に勤しみ、魚とりにも出かけ、大人の太ももくらいの幹なら、ナタのただの一振りで切り倒し(!)、孫をカゴに入れて背負い、イノシシのようにゆうゆうと丸太橋の上を歩いていく。森の申し子とも言える存在だった。

◆1987年、義父は、木材伐採に反対して道路封鎖を行い、42人の村人と共に逮捕され2週間を牢で過ごした。義父にとって、森こそが自分を活かしてくれるすべてなのだ。私は義父と共にその森を歩き、川を渡り、滝を登り、焼畑に従事し、森の中の手作り小屋で寝食を共にし、自然の恵みの多くを教えてもらった。

◆異変は10年ほど前からだ。義父の両膝に水が溜まり出し、通常の3倍くらいの大きさに膨れ上がった。ついには痛みを発症し、かばって歩くうちにO脚となってしまった。そして、2,3年前からは森での営みが難しくなった。今回のサラワク行きの準備をしている8月中旬、村人から連絡が入った─「君のお父さんがミリ市の病院に入院した。こっちに来たらすぐに見舞いに行け」。あ!会えるのは今回で最後だ。私は、そう直感した。

◆見舞いに行ったのは9月4日。そのとき既に、これ以上の治療は無駄だからとの病院の方針で、義父は、ミリ市に住む末娘の家で暮らしていた。その玄関を開けると、ベッドに横たわる義父は既に寝たきりになっていた。「アメイ(お父さん)!」と話しかけても何の反応もない。その数日前からそうなってしまったようだ。

◆末娘の家には、親戚知人が常時20人くらいは訪れ、人によっては何日も滞在していた。だが感心する。誰もが義父を気遣うが、だからといって、しんみりしていない。そこには、「これが自然。しかたがないよ」といったある意味、もうそれぞれが何十回も同様の経験をしていることから根付いた、人の死をごく自然に受け入れる空気が流れていた。

◆冗談を飛ばす人は皆を笑わし、久しぶりに会った者同士はここ数年間の近況を話し合い、小さな子どもたちは勝手に遊び、メシは大人数でワイワイ食べる。いつもと変わらぬ日常が、死に行く者の身近で展開する。これでいいのだ。義父はその空気に安心しているはずだ。日本に帰る前日の夜、「アメイ、握手しよう!」と呼びかけると、義父の右手がゆっくりと上がってきた。私がそこにいたことを分かってくれていた……と思いたい。

◆11月下旬、サラワクを再訪したい。義父と出会ったそのカヤン人の村で、いろいろな先住民が集まり、伐採、プランテーション、ダム開発などを話し合う大集会がもたれる。夜は、飲め、歌え、踊れの大宴会は間違いなし。これは本来、義父たち42人が逮捕されたのと同日の10月29日に、89年から毎年行なわれていた集会だが、10年前が最後だった。だが、森を潰す開発が目白押しとなっている今、10年ぶりの開催が決まったのだ。ただし、子どもたちにも来て欲しいので、学校休みの始まる11月下旬に日程が組まれる。

◆そのときには、義父はこの世の人ではないかもしれない。だが、1989年のあの第一回集会の「勇者の行進」で、第一勇者として民族衣装に身を包み力強く踊りながら行進した、あの義父の姿を覚えている者としては、こういうタイミングで開かれる集会にはただ身を置きたい。

◆寝たきりになる直前まで、義父は病床からこう叫んでいたそうだ─「街は俺のいるところではない。俺を森に帰せ! 帰してくれ!」これを聞いて私は理解した。義父は森で生きることがただ「好き」だったのだ。好きなことで一生を貫きたかったのだ。11月にまた会えればいいのだが。(樫田秀樹


[通信費をありがとうございました]

 先月の通信以後、通信費(年2000円です)を払ってくださった方々は以下の通りです。万一記載漏れがありましたらご連絡ください。

 尾形進/小高みどり/林隆史/永井マス子/水島浩・安子/塚田恭子

「30周年記念大集会」のお知らせと1万円カンパ御礼

■8月17日、地平線会議は、30才の誕生日を迎えました。1979年9月にスタートした地平線報告会は今月で365回を数えます(1か月に2回報告会をやったこともあり、通信の号数より報告会の回数のほうが多い)。ともかくも休むことなく、続けてきた地平線会議の活動をいったん振り返り、明日に向けて新たな一歩を踏み出すため、きたる11月21日の土曜日、東京・新宿区牛込箪笥町地域センターで「30周年記念大集会」を行います。

 現在、長野亮之介実行委員長を中心に意欲的なプログラムを練り上げているところです。来月の通信で詳しく発表するつもりです。また、この日に向けて、丸山純さんの力作《地平線あしびなー報告書+写真展「わたしたちの宝もの」報告書(合本 A4判カラー・約120ページを予定)》を刊行する予定です。このほかに地平線30年を記念するサプライズ出版も計画されています。どうかご期待ください。

■30年を記念するいくつかのイベントのために「1万円カンパ」をお願いしています。どうか趣旨お汲み取りの上、ご協力くださいますよう。今月までにあたたかい応援の心を頂いた皆さん方に、お礼申し上げます。

■1万円カンパ振込み先:
◎みずほ銀行四谷支店 普通口座 2181225 地平線会議代表世話人 江本嘉伸(恒例により、カンパされた方々の名を通信に掲載して領収と感謝のしるしとする予定です。万一、漏れがありましたらご指摘ください。)09年9月15日現在カンパ協力人リスト。

★斉藤宏子 三上智津子 佐藤安紀子 石原拓也 野々山富雄 坪井伸吾 中島菊代 新堂睦子 埜口保男 服部文祥 松澤亮 田部井淳子 岩淵清 向後紀代美 小河原章行 江本嘉伸 掛須美奈子 橋口優 宇都木慎一 原健次 飯野昭司 鹿内善三 河田真智子 岡村隆 森国興 下地邦敏 長濱多美子 長濱静之 西嶋錬太郎 寺本和子 城山幸子 池田祐司 妹尾和子 賀曽利隆 斉藤豊 北村節子 野元甚蔵 北川文夫 小林天心 金子浩 金井重 古山隆行 古山里美 松原英俊 野元啓一 小林新 平識勇 横山喜久 藤田光明 河野昌也 山田まり子 坂本勉 松田仁志 中村保 中山郁子 河野典子 酒井富美 シール・エミコ 平本達彦

[先月の発送請負人]

地平線通信357号(8月号)の印刷、発送に協力してくれたのは、以下の16人です。ありがとうございました。
車谷建太 松澤亮 森井祐介 関根皓博 加藤千晶 坂出英俊 安東浩正 古山里美 井口恵理 満州 江本嘉伸 野地耕治 落合大祐 杉山貴章 米満玲 妹尾和子


[あとがき]

■この通信の原稿をすべて「通信ML(メーリングリスト。編集制作スタッフに読んでもらってチェックしてもらう仕組みです)」に送りこんだ時点で、日本は大きな歴史の転換点を迎えていた。自民党の麻生政権が退き、鳩山由紀夫新首相の民主党政権が誕生したのである。いろいろな意味で意味の深い転換点であると思う。「政治」とはそもそも何か。そんなことも考えたくなる「変化」であり、万一仮に民主党がうまくいかなくなることがあっても、今までの自民党の再生だけはあり得ないだろうから。

◆ひとつのことをやり遂げるには大きなエネルギーが要る。昨年は浜比嘉島での「ちへいせん・あしびなー」を実行するのに精一杯の1年だった。ことしは、その報告書を完成させ、11月の30周年記念大集会を迎える。これまた大きな試みだが、仲間たちに「あしびなー」の時ほどの気負いはないのが面白い。

◆私のような古手が頑張ってはいるが、その一方で地平線会議の風景はとっくに様変わりしつつある。そのあらわれのひとつがこの通信の発送の現場だ。毎号の「先月の通信請負人」リストを時折じっくり見てみてください。

◆エミコさんに、静かな声援を。(江本嘉伸


■今月の地平線報告会の案内(絵と文:長野亮之介)
地平線通信裏表紙

ALWAYS 十字路国の夕日

  • 9月25日(金) 18:30〜21:00
  • ¥500
  • 於:新宿区立新宿スポーツセンター(03-3232-0171)

「トルコの道路にはぶったまげたよ!」と言うのは三輪主彦(かずひこ)さん。記念すべき第一回地平線報告会('79年9月28日)の報告者であり、ご存知の通り地平線会議世話人として長年私達をフォローしてくださっています。30年前のお題は「アナトリア高原から」、高校教師の国外研修制度で一年間トルコに滞在した際の見聞録でした。その後何度も訪れていますが、今年は30年ぶりに黒海沿岸地方を訪れました。

「まずしい農業国というイメージだったけど、いまはロシアと仲良くして、工業も発展してる。昔は嫌ロだったけどね。ロシアとアラブが関係がよいせいか、国内でイスラム勢力が強くなってきたのも大きな変化だねえ。30年前は脱イスラムで“トルコ”のアイデンティティを強化する流れが最高潮だったんだから」と三輪さん。かつて道路すら無く、歩いて訪れた場所を縫って走るハイウェイの存在に、トルコの歩んだ30年を思いました。

「昔は欧州とアジアの十字路と呼ばれた国だけど、いまだってロシア、アラブとEUとか様々な文化の十字路だね」という三輪さんに、30年ぶりのトルコ報告をして頂きます。乞御期待!


通信費(2000円)払い込みは郵便振替または報告会の受付でどうぞ
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議(手数料が120円かかります)

地平線通信358号/2009年9月16日/発行:地平線会議/制作:地平線通信制作室/編集長:江本嘉伸/レイアウト:森井祐介/イラスト:長野亮之介/編集制作スタッフ:丸山純 武田力 中島菊代 大西夏奈子 落合大祐/編集協力:網谷由美子/印刷:地平線印刷局榎町分室
地平線Webサイト http://www.chiheisen.net/
発行 地平線会議 〒160-0007 東京都新宿区荒木町3-23-303 江本嘉伸方


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