8月の最初の日を、荒川小屋のテントで迎えた。南アルプスは入山以来、ずっと雨。前日も荒川前岳(3068m)からの下りで激しく降られた。ずぶ濡れ状態で小屋に着いてテント張りを届けると、こちらの様子を見て、近く取り壊す予定の古小屋ならどうぞ使っていいですよ、と言ってくれた。連日の雨に嫌気していた身にありがたい言葉。甘えて古小屋の中にテントを張り、しばらくぶり雨を恐れず、熟睡した。
◆翌1日、テントをたたみ、ゆっくり赤石岳を目指した。吹きさらしの大聖寺平に出て、はたちの冬山を思い出す。山岳部のリーダーだった私は「小赤石尾根から荒川三山」という目標を設定し、仲間たちと猛烈な風が吹き抜けるここ大聖寺平を抜けて悪沢岳(3141m)に登ったのだ。そして、48年経った今、不思議な感慨と共に小赤石岳を経て、赤石岳(3120m)に登頂する。いつかガスに包まれ、視界はきかなくなっていた。またも雨が降りだした……。
◆何度も縦走をしたことのある北アに較べて南アルプスでは長い縦走をやったことがない。だから、神戸に住む4歳若い山岳部仲間のTから相談を受けた時は、よし、やろう、と即決した。ご存知のように梅雨が明けない状態が続き、結局2日遅れの7月27日新宿を出発、初日は雨の中を白根御池小屋まで登った。
◆白根御池−北岳−間ノ岳−熊の平−塩見岳−三伏峠−荒川岳−赤石岳−聖岳−上河内岳−茶臼岳−光岳という長大なコースを縦走する計画だ。日程は、予備日を入れて10日。テント山行だから、食料は工夫して、お湯を沸かして乾燥米に注げば食べられるジフィーズを中心とした。それでもテントを担ぐ相棒のザックは20キロをだいぶ越えている。私のは軽めだがそれでも17、8キロはあるだろう。
◆雨なのに日本第2の高峰、北岳(3193m)までは大した賑わいだった。流行りのツァー形式の“団体登山”がここでも目立つ。しかし、間ノ岳(3189m)以降は静かな山となった。熊の平のテント場など雨中ただ一張り状態。視界が悪く、私にとって初めての塩見岳(3047m)もガスの中でただ通過しただけだ。三伏峠に向かう途中、大事な標識を見落として違う方向に下り続けてしまった。気付いた時は、夕暮れが迫っていた。高度差500メートルを登り返すうち暗くなり、ビバークすることに。テントを張って1リットルの水を大事に使いつつ、ふかふかクッションのきいた森のベッドで安らぐ。雨の中でも、人間のいない、森の隠れ家のようなこのサイトは、思いがけず素晴らしかった。
◆道迷いのハプニングで半日遅れで登った、センチメンタルジャーニー的な赤石岳。現実は厳しく下り始める頃にはまたも激しく雨が降り出し、百間洞山の家に着いた時は土砂降り状態に。この日も雨の中テントを張り、夕食は奮発してツァー登山の一行にまじり、この小屋名物のトンカツ定食を頂いた。夜半、豪雨となった。バケツをひっくり返したような雨にも耐える相棒の新品テントの強靭さに感嘆する。「こりゃ、ダメだな。停滞しよう」と相棒と話し、入山6日目にして停滞日に。
◆当然、ツァー一行も動けないだろう、と考えたが、午後テント場から5分ほどの小屋を訪ねて驚いた。皆、強い雨の中を出発したという。予定通りに動かないといろいろな不都合が生じるのはわかるが、それにしてもこの悪天に?である。7月のトムラウシ山の悲惨な遭難を思わず連想した。日本のあちこちでこういう「もしかしたらやばい状況」が頻繁に起きているのだろう、と推測できた。それって、ほんとうにいいのか?
◆最後の3000メートル峰、聖岳(3013m)を越えると、居心地のいい聖平のテント場だ。相棒といつものように500円のビールで乾杯する。さすがにばてた。が、ここまで来たら、行くしかない。8月4日、上河内岳を登ると、なだらかな、天国のようなお花畑に出た。茶臼岳を経て、いよいよ樹林の中を光(てかり)岳(2591m)目指して登る。穏やかなルートと予想していたが最後の急登が意外にきつかった。何度もザックを背負ったまま岩に載せて休む。静高平という小さな草原に出ると素晴らしい水場があり、ここから光小屋のテント場まで15分ほどだった。
◆光岳の頂上は樹林帯にあった。南アルプス主脈テント縦走を9日がかりでやりとげたのだ。この秋、69歳になる年寄りとして、「地平線会議30年」を迎えた夏の、ささやかな記念碑ともなった。(江本嘉伸)
■昨年秋、沖縄浜比嘉集会でサバニ(帆船)の試乗体験があった。その時、同乗のガイドさんに港いっぱいに干している網はどんな魚用かと尋ねたら、彼は答につまり、代わりに隣に同船していた原健次さんが「あれは魚じゃなくモズクの養殖用の網なんです」と教えてくれた。
◆その後、集会会場の公園で「干潟でカウボーイのようにロープを投げている人たちは何を採っているのだろう?」と参加者と話していると、背後から原さんが現れ「あれはタコ漁なんです」とまた教えてくれる。いったいこの人の知識はなんなんだろう。網やタコ漁は僕が魚に興味があるからひっかかるもので、そうでなければ目の前にあっても見えないはずだ。そんなマニアックなモノまで原さんは僕より先に発見し、僕が気づいた時にはすでに答えを見つけていた。これでは同じ場に同じ時間いたとしても吸収できる知識の量に膨大な差がでる。今回の報告会を聞いて、ますますその思いを強くした。
◆現役時代は大企業でエコナ(サラダ油)等の開発プロジェクトのリーダーであり、オーケストラのビオラ奏者であり、そして超一流のウルトラランナー。現代のレオナルド・ダ・ヴィンチのような原健次さんは昭和20年の3月生まれ。5月出産の予定が戦争の混乱の中での早産になり、子どもの頃は小柄で運動も得意ではなかったそうだ。18歳から大学オーケストラでビオラを演奏し、大学生の頃に登山にはまり、社会人になってからはテニスときて、初マラソンは47歳。走り出した理由は、お腹が出てきたので運動しなくては、というありがちなものだった。ところがそこから先がすごい。
◆たまたま本屋さんで見つけた雑誌「ランナーズ」に掲載されていた「あなたも6ヶ月でフルマラソンが走れる」という記事の通りに練習したところ、初マラソンがいきなり3時間20分(これは驚異的なタイムです)。それ以降、タイムを短縮し続け50代になってから市民ランナーの目標であるサブスリー(3時間を切るタイム)を達成。それと並行してウルトラマラソンにもはまり、100キロ、250キロ、660キロ、そしてついにギリシャのスパルタスロンまで完走。ウルトラマラソン界でも、その名をとどろかすことになる。
◆それだけの脚力をほこる原さんの口から「フルマラソン(42.195キロ)はしんどい」という言葉が出たときには、えっ? と思われた方も多いと思う。これは人によって違うかもしれないが、ウルトラはフルほどタイムがすべてではないからだ。ウルトラなら疲れれば歩いてもいい。その余裕がさまざまな世界を見せてくれる。
◆たとえば時間をかければ自分の足でどこまでも行けるということを知る。他の交通機関とは違う目線で、景色を眺める。原さんの場合は事前にその地域の歴史、地理、植生、風土、その他もろもろを頭に入れてから走る。そうすることで楽しさが増すと言う。走り始めてから20年間で100キロ以上のウルトラを300回走った原さんにとって「走る」ことは、もはや食事や睡眠と同じ生活の一部だ。
◆モットーとするのは「継続は力」。43歳から走り始め、64歳で4500キロもの超長距離マラソンを走るこの人が口にすると、「その通りです」と言うしかない。そしていよいよ話は今回の報告会、トランスヨーロッパフットレースである。
◆このレースはイタリアの南部アドリア海に面した長靴のかかとの辺りの町バーリーからスタート。オーストリアでアルプスを越え、ドイツからフェリーでスウェーデンに渡り、スカンジナビア半島を北上、フィンランドをかすめ、ノルウェイの北端ノールカップまで4489キロを64日間、一日平均70キロを走る。レース中は10キロごとに食べ物、ドリンクを置いたエイドがある。
◆参加費用は約100万円。参加者は世界から67名(日本人14名)。プラス、ランナーのサポーターやエイドのボランティアを含めて総勢120名。ルートは「ルートおじさん」と呼ばれる人が自転車で先行して、道路標識や道に行き先の目印を付ける。宿は学校の体育館やバンガローなど。宿の場所とりは重要で通路やトイレやイビキのうるさい奴のそばは避ける。ただ原則早いもの勝ち。毎朝4時に起床。5時に朝ご飯。6時にスタート。一日の終了後、シャワー、せんたく、6時半に晩御飯。9時に睡眠。を64日間繰り返す。一日も休みなどない。
◆たとえどんなに疲れても、その生活についていけず、最低時速6キロで計算された一日のタイムをクリアーできなければ競技者としては失格となる。参加者はもちろん一流ランナーばかりだが、その中にも実力差はあり、時速10キロを超えるトップランナーと制限時間ギリギリで走るランナーの所要時間には、およそ倍近い開きがあり、遅ければ遅いほど休息時間も睡眠時間も減っていく。
◆以上の条件は誰がみても過酷であるし、かつての大陸横断マラソンランナーの講演会や書物には、その厳しさ苦しさがかならず出てきた。2004年の「ランアクロスアメリカ」完走者である瀬ノ尾さんの記録などは読んでいるこちらまで苦しくなり、もう止めてくれ、と言いたくなったほどだ。原さんがいくら飛びぬけたランナーであったとしても、苦しい場面もあったはず。それは話のどこかで出ると思ったし、また聞きたかったのだが、原さんはまるで語らない。ランニングの最中に6000枚もの写真を撮り、一日もかかさず家族にハガキを書き、各地で催されたランナーの歓迎イベントもランニングのあとに楽しめる、ということは、やはり余裕だったのだろうか。ウルトラランナーでもある江本さんが、その点を問うと、「余裕はありました」と即答されたのには驚いた。
◆原さんの見つけたもののひとつにカロリーと排泄物の話があった。スライドに映されたのはピザやサラダ、ボリュームたっぷりの肉料理。報告会の日は晩御飯にありつけるのが9時半ごろなので思わずよだれがでそうな料理の数々。しかし冷静になって疲労困憊した状態でこの料理をしっかり食べられるのかと自分に問いかけるとその自信はない。原さんいわく、毎日70キロを走る体を維持するためには、普段の3〜4倍は食べないといけない。そのために食事の際には量はもちろん、エイドでもなるべく高カロリーなものをとる必要がある。
◆不思議なのはそれだけ食べてもウンコの量はさほど変わらない。しかしオシッコの量は3倍になる。このために昼間は10キロに2,3度、夜中に3度トイレに行く破目になるという。この現象を科学的に説明すると、糖分からATP(アデニシン三リン酸・生きるため、走るためのエネルギー源)を作るときに、水と炭酸ガスが出る。この結果3倍食べれば3倍のオシッコが出るのだそうだ。こんな話は「走る研究室」と呼ばれる原さんでなければできない。
◆後半は、好きな花、環境、リサイクル、食糧自給率、素晴らしい自転車道、歴史、と原さんの知的好奇心が存分に発揮された話になった。イヌ専用のウンコ用のゴミ箱が公園にあるという話では江本さんが喜び、食い意地のはった僕は高級品のアミガサタケが道端に生えており、それを採取しながら走るランナーがいた、という話が面白かった。これだけ多岐・高密度の話なら、会場にいた人たちもおのおの楽しめたに違いない。
◆終了直前、もう一人のトランスヨーロッパ参加者、菅原強さん(65歳)が江本さんに紹介され、「私も42歳から走り始めました、若い人はこれからです」との心強いコメントをいただく。それをうけて原さんが「昔は難行苦行だったウルトラが、今では楽しい。少なくてとも70歳までは大丈夫」と同じく力強い答。
◆運動不足で腹が出てきたサラリーマンが、40歳を過ぎてから始めて、頂点にたどり着けるスポーツなんてフツウでは考えられない。ウルトラマラソンの世界は万人に開かれているのだ。ただ忘れてはいけないのが一歩踏み出してからあと。「継続はチカラなり」だ。その言葉を実践している原さんはこの通信がみなさんの手元に届くころには南米ペルーのインカトレイルを走っているはずだ。(最近さぼりっぱなしのジャーニーランナー、坪井伸吾)
■行ってみないと分からないことがあるという軽い気持ちと、持ち前の好奇心に駆られて64日間、4500キロの走り旅。ヨーロッパを南から北まで自分の足のみで走るトランスヨーロッパフットレースを手段にした放浪の旅で感じたことを日本の現状に対するやや辛口コメントを交えて報告させて頂きました。テレビの旅行番組の確認の旅ではなく、自分の足でヨーロッパの大地を歩むのはある意味では大変なことのように思われたかもしれませんが、本人にとっては日常生活の延長で、毎日毎日の積み重ねで何とかなる位にしか思っていませんでした。
◆旅先ではその地の気候、風土に合わせて毎日70キロ、80キロも走っていると身体が勝手に変わってゆきます。そして自分の体、頭、感性が変わってゆくのが面白かったです。頭を働かせ、脳を活性化させることも旅の楽しさのひとつだと思います。味、音、匂い、臭い、空気、湿度の感じ方が変わってゆくのも、車、鉄道、飛行機の旅とは違う走り旅の醍醐味でしょうか。ドイツでのビール、ジャガイモは何度もお代わりしたくなるくらい美味しかったのですが、帰国して同じドイツのビールを飲んだらそれ程でもありませんでした。肉中心の食事ではからだが野菜を欲しがっているのでしょう、サラダが出た時には無意識に大盛りにしていました。空気の乾いた夏のヨーロッパ、10キロおきのエイドステーションで好く飲んだレモンティーの味が、周りの風景とともに蘇ります。
◆走りながら、ヨーロッパのランナーと話しながら感じたことは、日本人はなぜ自然を常に意識しているかということでした。自然を常に意識できること、日本人として誇りに思いました。それは四季の変化がはっきりしていて、自然災害が多い風土に因るからでしょう。スウエーデン、フィンランドは国土の7割が森林で、その利用、活用は見事です。日本の森林も面積ではほぼ同じですがかなり荒れています。日本の文化や美意識を支えてくれた自然をもっと大切にできないかと感じていました。
◆話忘れたことを2つ。食事にはゆで卵をはじめ卵料理もサーブされましたが、ヨーロッパの卵の黄身は日本の卵のようには黄色くありませんでした。にわとりの飼料に卵黄着色色素が添加されていないからです。ヨーロッパの人はどちらかといえば訛りのある英語を話します。外国語は下手な方がお互いによく分かり合える?と感じました。
◆最後に「地平線通信」のウルトラじーじを描いていただいた長野画伯、その傑作をみて宇都宮から是非にと駆けつけてくださった家族、友人たち、デジカメ音痴の私の写真をアレンジしていただいた丸山さん、それに発表の機会を与えていただいた江本さんに感謝致します。明日からペルーのインカ・トレールを走りに行ってきます。(原 健次)
■江本嘉伸様、地平線会議の皆様へ、お元気ですか? 縄文号、パクール号はお蔭様でフィリピン、Palawan島のPuerto Princesaという街に到着しました。この街は、Palawan州の州都なのですが、山と海に囲まれた、落ち着いた美しい土地です。
◆マレーシアまでは穏やかだった海もフィリピンに入ってからは一日一日天候が崩れ、大きく荒れるようになりました。帆や縄など舟の全てのパーツは天然素材から出来ている為、水に少し弱く修理しながらの旅が続いています。今期は台風の影響を避けPalawan諸島北端のCaronという街まで進み、以降日本までの航海は来年春から再び行うことになりました。
◆個人的なことですが、今日(7月24日)、26歳の誕生日を迎えました。沢山の人のお世話になりながら、今この時、この航海に参加できていることをとても幸運に思っています。また地平線の皆様と飲んだり、話せたりする日を楽しみにしています。(2009年7月24日 PuertoPrincesaにて 佐藤洋平 Palawanの美しい絵葉書で)
★追記:縄文号、パクール号は8月5日、パラワン島北端のコロン(Caron)に到着、今年の航海を終えた。佐藤君らクルーはいったん帰国する。
■こんにちは。お元気ですか? ラサに着いて10日目です。予定ではカン・リンポチェを拝みに行くはずだったのですが、資金不足の為断念致しました。ラサは雨が少なくて日照り続き。暑くて昼間はとても外へ出る気がしません。ついでにあちこちで散水ついでの水遊びをしているので、そんな時に通りかかるとタライいっぱいの水をザンブリ浴びせ掛けられたり、噴水に落とされたりする危険性もあるので出歩かないに限ります。街の人々も太陽が沈む夜8時位になって、漸く落ち着いてコルラに出発というカンジです(この北京時間、ホントどーにかして欲しいです)。こんな酷暑のラサ、目立つのはなんと言ってもみどり色の人々。24時間体制で頑張っておられるようです。朝と晩にはバルコルを逆行しつつパトロールし、昼間は辻辻で様々なグッズ(消火器とか特注の棒とか玉が出る筒とか)を手に四方に目を光らせています。時々ケンカを止めたりなどもしてご活躍のご様子。ジョカン前の広場には休憩所兼生活相談や旅行相談にまでのって下さる大きなテントを設置中。その様な相談をする人がいるかどうかは不明ですが…。でも、さほど緊張感は無いようで、チームによっては談笑したり、密かに鼻歌を歌ったりしてる人もいるので、こちらも少々和やかな気分になります(?)。早く元いた場所へお戻り願いたいところですが、まだまだご奉仕なさる気満々なようです。ホテルのパソコンは日本語を入力出来ないので、仕方なく携帯メールにしました。読みづらくてすみません。またメールします。くれない色よりみどり色が圧倒的に目立つラサより横内ひろみでした(きのうの日食、バスで郊外の寺に向かっていた時間だったので、観察できませんでした)。(7月23日 横内宏美)
■こんにちは。ダンナと一緒に夏休みでスイスに来ています。先月の発送作業の時にお話した通り、はるみさん&クルト(注:2000年2月「シベリアタンデムラン」報告者)宅を拠点に10日間の旅行です。ツェルマットからはマッターホルン、ミューレンという小さな村からはアイガー、メンヒ、ユングフラウヨッホの山々が間近に見られて、大感動です。でも、移動中などでも、ほんとうにどこへ行ってもスイスの景色には感動しっぱなしです。ニュージーランドのトレッキングにハマり、そこは色々なコースを歩いたり、トレッキングの会社で仕事もしていたくらい気に入っていた私ですが、本場のアルプスには参りました! 氷河を抱いた4000m級の山々が連なる圧巻の景色には、勝てません。高山植物の花畑も、日本のもきれいだと思ってましたが、スイスアルプスには負けました〜。でも、交通機関や食事などの値段はびっくりするほど高いので、庶民が気軽に行くには向かないですね。ただ、今回ははるみさんが現地の人じゃないと手に入らない格安の列車のチケットを苦労して取ってくれたため、ものすごく助かりました。昨日までの4日間は、それであちこちを訪れました。今日はクルトのお家泊まり。実は今日ははるみさんの誕生日で、庭にある小屋でバーベキューを楽しみます。観光地も素敵ですが、クルトのお家(借家)も素敵なんですよ。築70年の木造のシャレータイプのお家で、アイガーなどがテラスから遠望できます。はるみさん、メールは苦手なので、「江本さんによろしくお伝えください」とのことです。(7月24日 節約主婦ライダー古山里美)
■窓からアイガーが見える! しかも新宿駅南口から見える富士山ではなく、高島屋くらいな勢いで見える。そんなホテルに日本のビジネスホテル並みの値段で泊まれるなんて、スイスに感動しました。ところで、新宿駅からはもう富士山なんて見えませんでしたっけ? (普通のサラリーマン、古山隆行 7月24日)
★追伸:スイスのお話の続きです。スイス滞在の最後の土日は、はるみさんとクルトも一緒に車でキャンプに出かけました。その近くでは、通常のガイドブックには掲載されていないトレッキングコースも歩きました。標高1550mのPragel峠から出発し、標高2319mのSilberenの山頂を巡る、ループコースです。牛や羊の牧場を通り抜け、氷河の山を向かいに眺めつつ、アルプスの色とりどりの高山植物の花が咲き乱れる草原のルートは、山頂へ近づくにつれ、石灰岩の岩場をたどるルートに変わります。残雪(万年雪?)もありました。下りの最後はまた草原に変わりましたが、途中でヤギの群れと遭遇。写真を撮ったら、そのあと何故か私たちにまとわりついてくることに。下りで勢いづいたまま走りよってくるヤギに頭突きされそうで、内心ちょいと怖かったりして…。ダンナは一度腕に頭突きされました。私が立ち止まると、カッパに噛み付いてくるのにも、困りました。結局、途中に何度かある家畜止めの柵もヤギ達はどうにかくぐり抜け、ゴールの峠の駐車場までおっかけてきたのでした。ヤギのおかげで、『ペーター』の気分がちょっと味わえたかも。あとで、現地の人に、子ヤギをなでると付いてくる、ということを聞きましたが、ダンナがその行為をしていたので、今回の事態が起こったようです。さて、無事に帰国はしましたが、最後の最後、成田でひっかかりました。私とダンナのザックが麻薬犬の興味をひいたとのことで、別室で取り調べ! もちろんそんなものとは無縁なので、それほど詳しく荷物検査もされずに解放されましたが、思い当たるフシと言えば、2年前のアイルランドか!? 最後に泊まったバックパッカーの部屋(男女相部屋)が怪しい雰囲気で、お酒やタバコの匂いが充満してました。もしかしたら、そこで麻薬を誰かがやってて、部屋に持ち込んだ私たち2人のザックにその匂いがしみ込んだのかも? 麻薬犬はそんな匂いも嗅ぎ分けるそうです。(古山里美)
■一年以上にわたって準備を進めてまいりましたNPO法人南アジア遺跡探検調査会が派遣する「スリランカ密林遺跡探査事業」隊が、まもなく出発の日を迎えます。ここまでがとても長かったようでもあり、またあっという間でもありました。
◆すでに先発の2名がスリランカへ向かっておりますが、私も8月1日に旅立ちます。コロンボでの考古局との打ち合わせの上、準備を整えてBC予定地のヤックレ村へ移動し、10日から本格的なジャングル内での探査活動を始めます。事前の情報収集にて、密林内には2体の釈迦坐像が埋もれていることが分かっていますので、この遺跡の探査から着手する予定です。探査予定地のワスゴムワ国立公園は、今まで本格的な考古学調査がまったく行われていなかった地域であるため、数多くの「未発見」遺跡が埋もれていることが予想されます。
◆ゾウや熊、毒蛇などの多くの野生動物が生息する国立公園内は、危険がいっぱいですが、ジャングル歩きのワクワクするような醍醐味は、とても日本で味わえるものではありません。9月はじめには帰国しますので、そのときには今回の体験をお話できると思います。(執行一利)
夏!!といえば、断然ロックフェスです。毎年8月の第1週の週末に茨城県のひたち海浜公園で行われる「ROCK IN JAPAN FESTIVAL」。今年で10回目ですが、私は6回めの参加。もちろん、埼玉の自宅から自転車で約12時間、つまり1日がかりで駆けつけます。会場に着くと朝9時から夜8時半までキャンプ泊しながらの3日間。幾つものステージに次から次へアーティストが登場。大空の下いつ何処にいても歌声が流れてくる♪ ステージの近くまで駆けつけ日射しを浴びながら盛り上がる。永ちゃん(*1)とタオルを投げ。グループ魂(*2)の下ネタ歌詞に大笑い。サンボ(*3)と一緒に歌い。OAU(*4)に浸り。ホルモン(*5)で頭を振り。Ken Yokoyama(*6)に感動。ユニコーンではじけて。疲れたら木陰でかき氷を食べて昼寝。元気になったらDJのヒット曲で踊っちゃう。地ビールで遠くから眺めつつの夕食。小雨の後には虹も架かる。3日目の夜の最後に花火……。翌朝テント一式その他を自転車に積んで元気いっぱい出発!!。陽炎の水戸街道。夕陽を追いかけ汗とホコリだらけで夜さいたまの自宅に到着。「楽しかった。また来年も!」(米満玲)
★編集長向けの「注」(*1)矢沢永吉 (*2)阿部サダヲ、宮藤官九郎その他 (*3)サンボマスター(*4)OVERGROUND ACOUSTIC UNDERGROUND(ブラフマンというバンド+2名) (*5)マキシマムザホルモン (*6)横山健
「ごぶさたしています。訳書ができました」と、新刊を添えて。ライアル・ワトソン著『いのちの教室 アフリカの大地が教えてくれたこと』(PHP研究所 1200円)〜戦士とイボイノシシと英知の物語〜
■地平線会議30周年大集会に向けて、「ダイナミック琉球」の踊りの練習が始まりました。7月31日(金)の夜に新宿スポーツセンターで開催した1回目のワークショップには、見学を含め地平線関係者13名が参加。皆さん、やる気に満ちているのか(?)スタート予定時刻前に始まるという気合の入りよう!
◆そもそも「ダイナミック琉球」とは何なのか? ですが、08年に沖縄で上演された舞台、現代版組踊絵巻「琉球ルネッサンス」のテーマソングとして作られた曲で、沖縄ではオリオンビールのCMでおなじみ。作詞は舞台の総合演出担当の平田大一さん、作曲はジャンルを超えた楽曲制作で注目を集めるイクマあきらさん(この8月にその名も「ダイナミック琉球」というアルバムが全国発売に)。舞台「肝高の阿麻和利」の中高生をはじめとして沖縄各地で踊られている、いま一番人気の曲です。浜比嘉島での大集会「ちへいせん・あしびなー」で、うるま市の中高生が歌と踊りを披露してくれた曲といえば、思い出す方もいらっしゃるでしょうか。
◆そのあしびなー以来、「肝高の阿麻和利」の舞台に関心をもったり、平田さんのワークショップに参加したりして刺激を受け、「自分たちも踊りたい!」という思いを秘かに抱いた地平線仲間が中心となり、今回、畏れ多くも「地平線30周年でダイナミック琉球を踊ろう」という企画が誕生しました。東は長野亮之介さんと鈴木博子さん、西は村松直美さんと中島菊代さんが言い出しっぺ。私もそのひとりです。
◆先日の1回目のワークショップでは、あまわりの卒業生に直接教わる機会がもてました。8月19〜21日に予定されている「肝高の阿麻和利」「オヤケアカハチ」東京公演のスタッフとして関東に滞在している3名(藏當慎也さん、具志堅智美・真未さん)の卒業生が来てくれたのです。
◆「ダイナミック琉球」の振り付けを担当した慎也さんと智美さん、そして浜比嘉島で踊ってくれた真未さん(今春高校を卒業)の指導がとても上手で驚きました。とはいえエイサーや空手、琉球舞踊、ダンスの動きを取り入れた、スピード感のある「ダイナミック琉球」の踊りは結構難しく、正直なところ私は全然ついていけず、自分のキレのない動きに暗澹たる思いになったわけですが……。でもでも、負けずに地道に自宅でDVDを見ながら練習を続けていると、少しずつできるようになるわけで、それが最近の喜びです(練習用DVDおよび落合大祐さんが撮影してくれた記録画像がありますよう!)。
◆11月の本番に向けて、「ダイナミック地平線」の次回の練習は9月の予定です(8月は自主練、および東京公演を観て刺激を受ける月)。「なるべく大勢の人と一緒に舞台で踊って、その感動体験を共有したい」という鈴木博子さんの言葉のとおり、みんなで楽しく踊りたいと思っています。子どもから人生の先輩まで、多くの方々の参加をお待ちしています。練習日程のお知らせを希望される方はでご連絡ください。(妹尾和子)
★ワークショップへの参加費として、ひとり500円の負担(大学生以下は無料?)をお願いしています。(妹尾和子)
■僕は日大の芸術学部で演劇を勉強しているのだが、最近は芝居や学校行事などが忙しくなかなか地平線に顔を出すことが出来なかった。つい数日前も、授業の一環で公演する芝居のオーディションを受けて来たところだ。長い間試行錯誤し、表現することやモノを作ることの困難さを学んだアマゾンイカダ下りのドキュメンタリー映画の編集も、最近になってやっと方向性も決まり、今年中には完成できそうだ。
◆よく旅の事を人に話すと、「大学生のうちにしか出来ないからね」などと言われるが、僕は大学卒業後にこそ旅をしたい。在学中の長期休暇は長くて2か月程、僕はもっと長期間の旅の中でいろんなものを見たいと思っている。だから今は芸術作品を通しての自己表現方法を探していこうと思っているのだ。
◆最近、『地平線から1983』という本を読んだ。前島幹雄さんがサハラ砂漠を横断された時の記事が載っているというので、江本さんにお願いして貸していただいたのだ。前島さんの記事のほかにも、関野さん・丸山さん・森田さんによる少数民族についての対談、紺野衆さんと永瀬忠志さんの「サハラをこなすにはラクダかリヤカーか」という対談、ドラム缶での「漂流実験失敗記」等はとても面白く、いずれも僕が生まれる何年も前に書かれたものだが、中でも「星と砂の1万5000キロ走破」という樫田秀樹さんの文章には感動した。心に残った文章はコピーをして、いつでも読み返せるようにしてある。
◆今月の報告者、山崎哲秀さんには実は以前お世話になったことがある。去年の7月、アマゾンへ行く前に情報を集めていた際、坪井さんが僕と同じ年齢の時に一人でアマゾン川をイカダ下りされた山崎さんを紹介してくれ、三人で会ってくれたのだ。残念ながら彼の報告の日、僕は芝居の本番を迎えており行くことはできないが、通信でのレポート等を楽しみにしている。
◆明日は家族みんなで三浦海岸へ遊びに行く。中1になる弟と磯遊びをして、夕方には花火をして帰ってくる予定だ。旅行中に「親孝行したい」と誓ったことを、少しずつ実現していきたいと思っている。(2009.8.7 宮川竜一)
■初めまして、山崎哲秀といいます。現在、大阪府高槻市に在住。1967年生まれで間もなく42歳になります。この度、8月28日(金)の報告会で話をさせて頂くことになりました。「地平線会議」の存在は以前から知ってはおりましたが、自分が報告をさせてもらえる立場になるとは全く考えていなかった、遠い場所でした。北極に魅せられて、ひっそりと活動を継続しているうちに、気がつけば20年以上の時間が経過していて、現在も憧れの北極で活動を続けています。移動手段は古くから伝わるイヌイットスタイルの犬橇です。僕は冒険的な記録を打ち立てていくようなタイプではないことは自覚していますが、北極への想いは誰にも負けないつもりです。自分から北極を奪われたら、何も残らないです。
◆2006年からは「犬ぞりによる−アバンナット−北極圏環境調査計画」というプロジェクトを立ち上げ、2015年までの10年長期計画に取り組んでいます。冬期の半年間は現地で活動し、夏期の半年間は次シーズンの準備のため日本に帰国するという生活をこの3シーズン続けています。地味な継続した活動ですが、この度「第4回 モンベル チャレンジアワード」という大きな賞を頂きました。そういった目線で評価してくれる企業があるのかと、自分でも驚いているのが正直な心境です。人前に出るのが本当に苦手で、話はヘタクソですが、当日はどうぞ宜しくお願い致します。(山崎哲秀)
■第二のシャングリラ、「徳欽」は雲南省迪慶チベット族自治州にある。『失われた地平線』の記述と地形が似ており、ここからチベットに入るので少し期待ができる。3月11日大理から白馬雪山の峠越えを含め18日まで、8日間の道のりで、相方の自転車も昆明で運良く復活し意気揚々とスタートした。中国で猛烈に印象に残っているのはトイレだが、もうひとつが犬だ。中国の犬は基本的に放し飼いで、私たちを地の果てまで追いかけてくる。街中でつながれている猫を見かけた時はなんとも理不尽に思ったものだった。
◆上り続きだった香格里拉から、3400mから2000mまでの下り坂を60km/hで爆走する。中国の道はスケールがでかくて、上りも長くて辛いが下りの爽快感は日本では味わえないものだ。ただガードレールなし・ピンカーブだらけの道なので、調子の乗りすぎには要注意である。その後の橋に公安がいた。どうやら徳欽で大雪が降ったらしく、自転車では行くのはやめろと言われた。「凍死」という言葉に、一度は徳欽行きをあきらめかけた。
◆しかし、どうしても自分の目で見なくては諦めがつかず、峠の手前まで行ってみた。すると、路面に雪はなく向こうから来るバスも普通タイヤで走っているのだ。これは行くしかない。峠越えはとても苦しく辛いものだったが、峠から見る雪山の風景は絶景で来てよかったと何度も思った。4200mからの下りはもちろん喜びの雄叫びを上げながらの爆走だった。徳欽は秘境の要素は全くなく、車の通りが多いふつうの一地方都市であった。ただ今回の道のりで多くの“チベット”に触れて、チベットに魅了されてしまった。香格里拉はチベットに行きたいと思わせる場所であった。
◆第三のシャングリラ、「稲城亜丁」は四川省甘孜チベット族自治州にある。シャンバラ王国との異名もあり、一番の本命の場所であった。しかし、この時突然外国人への通行規制がかけられたのである。2009年3月、「チベット動乱」より50周年の記念式典に対する暴動への警戒から外国人の締め出しを行っていたのだ。私たちは何とかして亜丁に行きたいと、乗り合いタクシーに乗り中国人に紛れて四川省入りを試みたが、公安の検問で香格里拉に戻ることを余儀なくされてしまった。亜丁に行くことは叶わなかった。
◆人為的な障害であったため尚更悔しかったが、残りの日にちは瀾滄江沿いに自転車をこいで大理まで戻ることとし、新たな出発にチベットの酒である青コウ(禾偏に果)酒で乾杯をした。瀾滄江沿いの3月25日から4月1日までの8日間は、一日110km前後の走行で、事前に全く調べていなかった道であったためある意味一番の探検であった。この辺りの町はまさに「天空の町」で、町に入る前に尋常でない上り坂が待っているのである。
◆穴からヒュウヒュウと風が吹き上がる「天空のトイレ」もあった。旧州の飲食店では隣の席の人たちと一緒にごはん食べて、一緒にお酒を飲んで、皆で酔っ払いになった。私はつぶれる相方をよそにおじさんたちと飲み続け、翌日二日酔いで大変な目にあったことも今となってはいい思い出である。体調を崩しながら、雨の中泥水をかぶりながら走り続け、ようやく大理にたどり着いたときの感動はひとしおであった。もう、漕がなくていいんだと(笑)。
◆失われつつあるシャングリラ―これを今回の旅で実感させられた。バーメイ村の観光地化に加え、亜丁も観光業の発展により多くの観光地が開発されたという。今回、日数の都合で行くことができなかったが、梅里雪山の麓の「雨崩村」も観光地として多くの人が訪れる場所だ。観光地になることが一概に悪いことだとは言えないが、バーメイ村は観光客によって捨てられたゴミが広場に沢山散らばっていたし、観光客のために村人が踊りを披露するなどのサービスもあって、何とも言いがたい気持ちになった。
◆計画段階で安東浩正さんにいろいろアドバイスを受けたのをはじめ今回の旅にはいつも人の助けがあった。乗継の北京で道に迷った時、見知らぬ町に迷い込んでしまった時、道がわからず途方に暮れている時、道を教えてくれた人、宿のおじさん、飲食店のおばちゃん、旅先で出会ったツーリスト、みんなとても親切でやさしくて、私は中国が、雲南が大好きになった。人の助けなしでは、ここまで走りきることはできなかっただろう。自転車とは不思議なもので、走り終わったあとはいつも当分乗りたくないと思うのだが、しばらくすると自転車に乗りたくてたまらなくなるのだ。次はどこへ行こうか、今も計画中である。(井口恵理 上智大学探検部部長)
7月22日は、日本での46年ぶりの皆既日食だった。時間は午前10時〜正午。ただしほとんどの地域は部分日蝕で、「皆既」が見られる、と事前にわかっていたのは国内では小笠原海域と、鹿児島〜沖縄間のトカラ列島海域だけ。多くの日食ハンター、ツアー客、天文ファンが「皆既ベルト」に殺到したが、あいにくの悪天で大成果とはいかなかったようだ。その一方、日常の場で貴重な瞬間を堪能した人々も少なくない。その時あなたはどこでどうやって太陽を見てましたか? 以下、海外含め各地の地平線仲間から寄せられた日食レポートを特集する。(E)
■「友達と一緒じゃないとイヤ」小学校4年生の娘、友子のたったの一言で旅行のハードルはとてつもなく高いものとなった。友達って……、じゃ何、小学生の女の子二人を僕が連れていくの? それともその子の家族とスケジュールを調整する? 堪忍してよ。「オマエは勘違いしとる。旅とは旅先で出会う新たな人間関係を楽しむもんである」と説教してやりたいところだが、これから遊んでくれなくなると困るので、家族連れが泊まりそうな宿を探した。
◆見つけたのが本部半島の今帰仁海辺の宿、HPの案内では夜にはゆんたく(宿泊者の懇親会)、シーサ作りもありとなっている。これはいい。ここで気の合いそうな親子連れを見つけて、翌日一緒に日食観察をすればいい。そもそもこんなイベントは感動を共有できる人がいないとつまらない。世界を旅しているときに、一人でよくそう思った。今回予定では21日に那覇でレンタカーを借りて、今帰仁まで走り、22日に日食観察、それから「ちゅらうみ水族館」でジンベイサメを見て、浜比嘉島まで移動。23日、外間さんに案内してもらい無人島をシーカヤックで散策、24日の16時に羽田着。そのまま速攻で地平線会議に出て、報告会レポートを書く。とかなりハードな3泊4日。子どもが途中で体調を崩し、スケジュールが狂ったら大変だ。ちゃんとついてこいよ、友子。
◆しかし問題は友子の体力以前にあった。レンタカーを借りたはいいが車の運転が久しぶりすぎて分からんのだ。エンジンをかけて動き出した瞬間にピコーン・ピコーンと警告音が。「お父さん、何か音してるよ」と言われ、原因を探るとサイドブレーキを引いたままだった。カーナビも分からないので「僕は運転に専念するから、オマエがしろ」と命令すると、友子はちゃんとセットするではないか。意外と使えるな、コイツ。
◆さらに途中のパーキングエリアで車を止めるとキーが抜けない。なぜ、と友子に聞かれ「電気系統のトラブルかも」ともっともらしく答えたが、実はパーキングにギアを入れないとキーが抜けないのを知らなかっただけ。もろもろのミスは嫁さんにバレると怒られるので、サーターアンダーギーで友子の口止めをする。
◆宿は海辺の細い悪路の先、陸の孤島のような場所にあった。台風が来ると、まさにそうなるらしい。テレビをつけると天気予報では沖縄本島以外の地域では悪天候の予報。結果としては、友子の我侭に救われた形となる。翌朝、宿所有の天体望遠鏡が庭にすえられ準備完了。数家族が見守る中で午前9時半ごろ、太陽は上部から欠け始めた。東急ハンズで買った日食サングラスでじっくり観察。1500円もして、ナメてんのか、と思ったが、これは使える。そうこうしているうちに、薄気味の悪い涼しい風が吹き出し、なんだかすごく不安な気持ちになってきた。妙に静かだ、と思ったらセミが泣き止んでいる。気温の低下を感じたので、確認したくなり、ザックについている温度計を外して持ってくると、33度あった気温が30度に落ちている。
◆誰かが「虹だ」と叫んだので、見上げると太陽の回りを丸い虹が二重になって取り囲んでいた。待てよ、これって天体ショーなんかじゃないぞ。この大きな天体の流れに一瞬でも想定外のズレが起こったら、それを止められる者は誰もいない。僕らはいま、その時に近づいているかもしれないんだぞ。小さいハトサイズの鳥が飛んできて、パラソルの天辺にとまった。鳥は明らかにうろたえていて、空を見上げては、人間の方を見る、という動作を繰り返している。「何!何なの、教えて」と言っているようだ。
◆ドキリとして、思わず隣にいたお姉さんに教えるが、「はぁ」と関心がなさそう。なんだよ。この変な、空気感じてよ。自分だけは安全圏にいるって、なぜ思えるの。イキモノとしての感度が鈍ってるんじゃないのか。なんだか人より、この陸の孤島である宿の周りのイキモノの方に一体感を覚える。まるでノアの箱舟のようだ。気温はさらに下がり27度に。周囲は今まで経験したことがないような変な暗さに包まれる。10時53分、日食のピーク欠け率93%。もう太陽はすでにヒモ状だ。にもかかわらず地上は暖かく、太陽の偉大さを肌で感じる。正直怖い。「予報どおりに、星たち、ちゃんと動いてね。頼むよ」と祈るような気分だ。
◆いきなりずっと犬小屋に隠れていた臆病そうな犬が激しく吼えた。犬の目線を追うと二人の地元のおばあが崖の下から現われた。おばあたちは盛り上がる僕らの横を無言で通り抜けると、薄暗い海に当たりまえのように入り、海草をとり始めた。むー、悠久の時の流れの中にいるな、この人たちは。こっちの方が僕なんかより遥かに自然と一体になっている。友子のことなんか忘れて、妄想していたが、ふと気づくと、友子は望遠鏡に映った鮮明な日食の模様をデジカメに納めようと賢明の努力をしていた。そのおかげで我が家のデジカメにもちゃんと記録は残っている。コイツは僕なんかより役に立つのだ。
◆「友子よ、オマエは日本の常識はお母さんに教えてもらえ。そこからはみ出している部分は僕が教えてやるよ」。長くなりすぎたので浜比嘉の話は省略。外間さん、お世話になったのにごめんなさい。(坪井伸吾)
■7月22日は終わってしまった。完全な日蝕を見ることも無く。屋久島は1日、ほとんど雨でした。たまに小降りになっても雲は重く、とても太陽は見えない。屋久島はここのところ「日蝕フィーバー」で大変でした。というほどでは、実はありません。悪石島ほど、交通アクセスも悪くなく、宿も多い。島人特有の「なんとか、なるだろ」という雰囲気でした。もちろん大変な方々も多かっただろうけど。
◆正直、どんな状態になるのか、想像もつかなかった。昨年のバカみたいな観光客の多さから見ると、今年はお客さんも減りましたよ、屋久島。さすがに世界的不況の影響でしょうか? それでもやはり「世界遺産の島で日蝕を」と大勢の方が訪れました。宿や交通機関の予約は、大変だったようだけど、逆にそれで入込み数が限定されたからか、それほどの大混乱はないようでした。縄文杉コースも、まあ、こんなもんかなあ、という感じ。とにかく待ちに待った皆既日蝕。もちろん、その日は山の仕事も休み。お客さんなんかにかまってられない。オレがこの目で見たいんだ!
◆ところが、その日に限って怨みの雨。屋久島はね、ここんところ、ず〜っと晴れだったんです。カラ梅雨で、雨も少なく、農家はヤキモキしてた。で、やっとの恵みの雨が、ちょうど日蝕の日! そりゃねえだろ。島の南、海中温泉がある平内に、朝6時半には出発。平内までは1時間半ほどで着くが、もしかして渋滞でもしたら、と、早出したわけです。どういう状況になるのか、予想もつきませんからね。しかし、ずっと雨。観測器具のセッティングも出来やしない。風は強いが雲が途切れることはなく、文字通り暗雲立ち込める中、一緒に行ったメンバーも沈み気味。
◆太陽が欠け始めたはずの9時半ころもなんの変化もナシ。多少、小雨になっても、太陽は顔を出してはくれない。そしてついにその完全に、お日様が隠れる時間。あたりはだんだんと薄暗くなってきた。なるほど、これか! でも、夜のように真っ暗になるほどじゃない。その時、吹くと言われる風も、もともと強風だったから、特別には感じず。動物も、鳥が1羽飛んでたが、異変を感じて騒然とする、というわけでもない。
◆そのうちに皆既日蝕の時間は終わり。あたりはまた明るくなってくる。だけど、もともと薄暗い雨の日だから、感動的に変わるというほどでもない。ガッカリだなあ。何年も楽しみにしてたのに。2012年には金環日蝕が東京でも見られる。でも、全然、違うそうだ。完全に隠れた黒い太陽、見てみたいなあ。来年はイースター島で見れるとか。
◆ところで、ここで完全に自分の話なのですが、来年、ついに身を固めることになりそうです。まあ、オレのことだから、最後までどうなるか、わかりませんが。で、本当はカノジョとふたりで日蝕見たかったんだけど、先方は現在医療系の国家資格を取るため実習中。屋久島には来られなかった。なんかひとりで見ちゃうのも、ちょっと心苦しかった。だから日蝕ダメだったのも、仕方ないかな。
◆そこで、もし、出来るなら、新婚旅行でイースター島、行けないかなあ〜。また「世界遺産の島」で日蝕の雪辱戦をする! でも、それこそ、観測希望者殺到で、とても行けないだろうなあ。だいたい、それまでオレの結婚話が持つか、どうか。だけど、もしそれがダメになっちゃったら、どんなに金かかっても、イースター島、行ってしまおうか。(屋久島住人 野々山富雄)
■7月22日、指宿から菊子です。天気予報通り、今日の天気は日食を見るのには分厚い雲が次から次へと開聞岳からやってきて、太陽を隠しています。我が家のある指宿は「日食率97%」。命綱つけて海に身を出せばダイヤモンドリングが見えるかも……と冗談を言えるほどの所に住んでいるというのに……。
◆10時50分、鹿児島市の甥から見えたぞ、とのメールあり。10時57分、すっかり日食を諦めて家の隣にある菜園でオクラについた虫をとっていたら、だんだん暗くなってきて……。ああいよいよか、お天気がよければ見れたのにと思っていたらTEL。急いで家に帰ると江本さんからでした。ん?見えない日食の様子を書け、とのこと。
◆11時鹿児島から父甚蔵と3人で日食を見ようとかけつけていた義姉が庭に出て空を見上げ、続いて私、2人で車のボンネットにもたれて見ていると雲の切れ間に見えた!! すでに日食が後半にかかり、上の方に切れそうなうすい太陽が見えたのです。雲が厚いので日食グラスも5個もあったのに真っ黒で何も見えず、結局肉眼でしか見えませんでしたが、目の悪い父にはかえって見やすかったようでした。
◆11時15分、我が家で2回かえったつばめの大家族が大さわぎしながら空を飛び、あんなに静かだったセミたちもいっせいに鳴きだして感無量!!きれいな日食を期待してあきらめ、ちらっと見えたあの日食もまた、心に残る大イベントでした。そんな私たち3人が大さわぎしている中、お向かいさんの家族はこちらには背を向けたまま、いつも通りさつまいもの出荷作業を続けているのでありました。(野元菊子 野元甚蔵さん次女)
■7月21日の午前9時、釣り船(19トン)で鹿児島・枕崎港を出港した。目指すはトカラ列島の諏訪之瀬島である。5時間かけて島に到着したあと船中泊。そして翌朝島に上陸し、皆既日食を見る予定となっていた。
◆直後から3メートル以上の高さはあろうかという高波に見舞われ、水面に浮かぶ木の葉のように船体が揺れる。安定しない天秤のようにゆっくりと左右に傾き、加えて、乱気流に巻き込まれた飛行機のように急下降する。船はほぼ満員、クルーもあわせれば15人が乗り込んでいた。畳を6枚並べたような縦長の船室に折り重なるようにして乗客たちは寝そべっている。その様子はまるで密航船の趣きだ。クーラーが効かず、誰しもが汗だくになっている。
◆出港して30分ぐらいたったころ、拷問を受けているかのような叫び声が聞こえ始める。外見がタコ入道のような50代のフリーカメラマン氏が吐いている。吐くために起き上がり、吐き終わると横に突っ伏す。そしてまた吐くために起き上がる。何度倒れても起き上がってくるタフなボクサーのようだ。次第に酸っぱい胃液と汗が入り交じる饐えた臭いが船室を覆っていく。僕を含め半数ほどの人がたちまち嘔吐する。
◆様子を見かねた船長は出港して約4時間後、「ここいらで一回休んじょらんか」と言うや否や船をどこか陸地に横付けした。船が完全に停止するのを待ち後方のデッキから外の様子をうかがってみる。コンクリートでできた小さな岸壁が見える。口永良部島の北側東部に位置する湯向港に着岸していた。ここは屋久島の西12キロに位置する活火山と温泉が名物の島で、人口は約150人。目的地の諏訪之瀬島まではあと半分ある。
◆「今までは序の口。鼻歌を歌っていても着ける。しかしこの先はもっと揺れる。進むかどうかは休憩してから考えましょう」と船長は言う。その日はフリーカメラマン氏をのぞくメンバーが船内で一泊した。フリーカメラマン氏は集落にある民宿に飛び込み離脱した。翌朝6時に起きたとき、船は同じ場所に停泊したままだった。波は前日よりもさらに高い。船はトカラ行きを断念したらしい。約2分と諏訪之瀬島の3分の1以下の時間だがここでも皆既日食が見られるという。贅沢は言ってられない。観念し、日食が始まる9時半すぎ、撮影機材を手に岸壁にあがる。二重三重の厚い雲が覆っている。上部の雲は白くて薄く、一番下の雲は黒くて厚い。風は強い。背丈の高さ以上ある三脚が飛ばされそうなほどだ。
◆船が停泊する岸壁に約30人皆既日食を見に来ていた。ほぼ島外の人。太陽がどこにあるのかわからないためか観測者の視線はバラバラ。日食グラス着用の人は2、3人しかいない。昨日、別れたフリーカメラマン氏は岸壁にいない。どこにいったのだろうか。10時50分すぎ、急激に暗くなり始める。厚い雲に覆われているため太陽は見えない。56分ごろ空は日没直後のような暗さになり、10軒ぐらいしかない小さな集落の街灯が灯る。先ほどまで盛大に鳴いていた蝉の声が聞こえなくなる。温度計は30℃のままだが、体感気温は2、3℃低い。
◆皆既日食に入ったらしい。ダイヤモンドリングが見えるわけではないので視覚的には実感に欠ける。11時を過ぎると空は急激に明るくなる。夕方と勘違いしたのかトンボが大発生。蝉は再び鳴き始めた。ほとんどの観測者が撤収し終わった11時半すぎ、僕はまだ機材の撤収が終わらずもたもたしていた。
◆するとそのとき不意に5割ほど欠けた部分日食が薄い雲ごしに顔を覗かせた。これではおぼろ月ではなく、まさにおぼろ太陽だ。ダイヤモンドリングや黒い太陽は見られなかったが、部分日食を見られたことでなんとか元がとれたような気がした。心が少し満たされた。12時半、枕崎へ向けて出航すると僕らが島を離れるのを待っていたかのように晴れ間が船の窓から差し始めた。あと二時間早ければ、黒い太陽を見られたのだが、天気に文句をつけても仕方がない。船室から窓の外を恨めしい気持ちで眺めることしかできなかった。
◆皆既日食のあった日から5日後、フリーカメラマン氏に皆既日食当日どう過ごしたのか、電話をして聞いてみた。皆既の瞬間を湯向から車で15キロの距離にある島の中心地、本村で迎えたという。民宿の車で連れて行ってもらっていた。そして皆既になる瞬間、雲が切れ、ダイヤモンドリングを目撃したというのだ。湯向と本村は山を一つ越えただけの場所。同じ島で明暗を分けてしまった…。フリーカメラマン氏が嘔吐しまくったのは僕ら他の乗客を出し抜くための作戦だったのだろうか。成功談を耳にしたとき、そんな邪推をしてしまった。(西牟田靖)
■7月22日の日食、北アルプス剣岳近くの一服剣(2618メートル)で見れました!ちょうど9時30分から1時間休憩だったので、アルバイト先の山小屋から少し登って観察。天気は久々の晴れ。日食のあいだだけガスがかかり、そのおかげで太陽が細い三日月のような形になるのをハッキリと肉眼で見ることができました。
◆風の音ひとつせず、雄大な山々の上に広がる空で太陽の形が変化していく風景は、とても印象的でした。ちなみに、剣岳に登ったお客さんは日食に気付かなかった方がほとんど。空より岩に夢中だったようで、もったいない!
◆ところで近況報告です。7月なかばから3か月の予定でここ剣岳の山小屋に来ています。もちろん、仕事です。素晴らしい自然に包まれての日々。不慣れなことは多いですが、良い環境でとても気に入っています。今までで一番ショックだったのは、8月はじめに起きた滑落事故。朝の掃除中に連絡が入り、オーナーが救助に飛び出して行きました。亡くなった方は前日に普通に食事をして、おみやげを見て、楽しく過ごしていたのに。命ってこんなに一瞬で消えてしまうんですね。5月に亡くなった父のこともあり、あらためて一所懸命生きようと思いました。
◆心を動かされる出会いもあります。昨日までお母さんと二人で泊まっていた小6の女の子モモちゃんは、幼稚園のときに行った尾瀬で山が好きになり、丹沢や北ア、南アをガンガン登っているそう。「山が好き! 登るのが楽しい!」というまっすぐな瞳と笑顔に、なんだかじーん、としてしまいました。モモちゃんのために頑張っている、山登り初心者のお母さんもすごいです。彼女が登る日は朝から雨と風で、行くのを諦める人も多かったのですが、モモちゃんとお母さんは「行けるところまで」と言って9時過ぎに出て行き、無事に登頂してきました。心の中で拍手してしまいました。
◆他にも何十年も山小屋をやっているオーナーやネパール人シェルパの石垣職人さん、山岳警備隊の方々などと話したり生活を共にし、自分の価値観が少しずつはっきりしてきました。よく「山好きな人は山小屋バイトはしない方がいい。山に行けないから」と言いますが、私にとってはいい経験になりそうです。あと2か月弱。立山に初雪が降るころまで、美しい景色の変化と、ここへ来る人々からたくさんのパワーをもらって頑張ります!(剣岳夏の住人 新垣亜美)
■中国四川省甘孜チベット族自治州に聖山ヤラはある。チベット世界を形成する九つの聖山のうち、カイラスにつぐ第二の聖山とされる。標高5800mとたいして高くはないが、独立峰なので辺りから突出していて、カイラスのように異様な雰囲気を持っている。
◆日蝕の日、我々はそのヤラのベースキャンプを目指して歩いていた。前日の夜まで晴れていて、聖山の上にさそり座が出ていたのだが、翌朝はあいにくの空模様。場所が場所なので情報もなく、日蝕が始まる正確な時間も、どれくらい欠けるかもわからないけれど、四川省の一部で皆既日食となるので、ここでも相当欠けるだろう。
◆朝9時をすぎたくらいかな。雲が濃くなったのか、雨が降りそうだなんて思っていると、急激に暗くなりこれは夜じゃないかってくらい。やあ!これは日蝕じゃないか! 何も知らずにこの現象がおこると、人も動物もびっくりするだろうな。日蝕のためにチベットに来たわけじゃないけど、太陽は見えずとも十分に実感できたって感じでした〜。
◆さて、今回のトレッキングツアー、かつてないほど波乱に満ちていました。今年の東チベットは雨の多い異常気象で、あちこちの道路が崖崩れで通行止め。度重なるルートの変更、バスも途中で動かなくなるし、連日ほとんど寝る暇もなく、あやうく帰国便に間に合わないところでした。とくに昨年の四川大地震の復興シンボルでもあった橋が崩れ落ちたニュースは日本でも報道されたくらい。暫定道路が帰国便へのタイムアウトぎりぎりで作られ、暗闇の中でチャーターした小型車が疾走する景色は、まるで映画の逃亡シーンであるかのよう。
◆なんとか成都空港にたどり着けたときは、現地ガイドは泣いていたくらい。海外を案内するときは、どこの国でも現地ガイドがいて、2人で協力して予定の行程を遂行していくのだけど、今回は2人で東奔西走しまくりでした。でも4000m峰に全員登頂できたり、幻の花を見つけたり、めったに見れないミニアコンカが蒼空の下に輝いていたりですばらしいこともたくさん。
◆悪運も幸運も使い尽くしたかのようなツアーで、めちゃくちゃたいへんだったけど、こんなに楽しいツアーもかつてなかったかもしれない。終わりよければすべてよし!(安東浩正、青森ねぶた臨時キャンプ場より。一週間続いた夏祭りも今日が最終日。夏は終わった……。8月7日)
■数年前から楽しみにしていた屋久島での皆既日食が終わった。週間天気予報では晴れマークだったのが数日前から突如雨マークに変わり、当日雲が重く垂れ込めていても、ぎりぎりまで希望を捨てず、パソコンのあるお宅にお邪魔して雨雲の動きを見守った。いよいよもう空を見上げる時刻になり、見晴らしのいい所を目指した。空は暗く、風がビュービュー吹いていて鳥肌が立つほど肌寒かったが、それがもともとの天候によるものなのか、日食だからなのかはわからない。
◆そのうち闇がどんどん降りてきて、海と里を飲み込んで、やがて夜になった。こんなに暗くなるとは思っていなかった。眼下遠くで街灯がネックレスのように連なって点る。圧倒的な4分間が、あわわわ、と驚いているうちに過ぎ去っていった。これでしかも太陽が黒いなんて……昔の人が畏れたであろうことが実感を伴って想像できる。気がつくと風は止んで、寒さも感じなくなっていた。新月の日は再生の日とも言われるが、今回強烈な再生の場に居合わせたような気がする。ちなみに、屋久島でもちらりとその黒い太陽を拝めた地域がある。永田、という海亀の産卵数日本一の浜がある所だ。島の中でも皆既の継続時間が2分51秒と短い場所であったが、結果的に、子ども連れで特に移動を考えなかった人や、どうせなら、と自分の好きな場所に行った人なんかが見られたと聞いた。
◆今年の夏休みは皆既日食があったので、屋久島行きを2度に分け、いつものように山や海に身を置いた。屋久島に通って10年目の今年も、大きな自然を感じながら、楽しく過ごさせてもらった。でも、新聞に入山規制の記事が載ってから、よく周囲の人に「屋久島の登山道って観光客が増えて荒れ果ててるねんて?」と言われるようになった。悲しい。トイレの問題や人気ルートの人口密度の問題はあるが、荒れ果ててなんて、いない。聞けば、記事に載っていたような入山規制の具体案は固まっていないとのこと。今後を見据えた対策は必要になってくるにしろ、こうしたマスコミの勇み足にコントロールされず、しかるべき人たちで、最善と思われる道を選んでほしいと願う。
◆ぼやきついでにもうひとつ。縄文杉ルートの途中に中が空洞の巨大な切り株があって、その中からある角度で空を見上げると、外の景色がハート型に見えることがここ数年で話題になり、ポストカードなどにも使われるようになった。先日お土産物屋をのぞいていると、菓子折りの包装紙にその写真が使われていたのだが、横に「このハートをふたりで見上げると、恋が成就すると言われている」みたいな言葉が添えられていて仰天した。……言われていないと思う……。(屋久島病のねこ こと中島菊代)
■朝日新聞でルーブル展の特集記事を組んでいたので、見に行きたくなったけど、一人じゃつまらないので誰かを誘おうと考えたらルーブル展会場の近くに住んでいる岸本夫妻の顔が浮かんだ。メールすると実千代さんとLUNAさん(村松直美さんのこと)と19日に行くことに。ルーブル展は古代エジプトから近代までのコレクションで見ごたえがあった。
◆さて日食とルーブル展の接点は、会場隣の大阪市立科学館に寄ったときに日食グラスを売っていて、3人で購入したということと、科学館のプラネタリウム上映でも日食のことに触れていたということだけなのです。しかし、日食グラスを買ったので俄然日食を見る気持ちが高まってきたことは事実。天気予報が気になって、当日の朝まで何度もインターネットのお天気サイトを開いてみました。22日、岡山の当日はうす曇で、観察にはちょうど良い感じでした。
◆10時40分ごろに研究室の建物の玄関前で日食グラスで観察していると、通りかかる学生や先生が見せてくださいと寄ってくる。そのうち、化学系の先生は何やら黒いフィルムを持ってきて観察している。これってニュースなどでしてはいけないと言われているやつかと思いながらも、理系の大学、事実の観察が優先するのです。正規の日食グラスを持っているのは4人くらいでしたが、観察したのは総勢100名を超える人数になったと思う。たぶん学内の別の場所でも、同様の観察会が数箇所で行なわれていたのだと思う。私の日食グラスも30人くらいには見てもらえたと思っています。日食グラスは840円で効果絶大でした。一緒に購入した実千代さんとLUNAさんは大阪なので、多分見ることができなかったろうとお察し申し上げます。
◆日食グラス越しにコンパクトデジカメで撮影したものをブログに載せていますので関心ある方はご覧下さい。
http://geocities.yahoo.co.jp/gl/midorikawahito/view/20090722 時刻は左から10:40, 10:55, 11:10頃の3枚をつなげて表示しています。(岡山 北川文夫)
■一年以上前から、高校時代の地学部の後輩達がトカラへ行く手段を探していたが、狭き門だということがわかり、直前になって茨城県で部分日蝕観測をすることになった。ちょうどそのころ、私のメキシコ出張が決まり「ひとりでメキシコで日蝕を見るぞ!」と宣言して旅立った。
◆ところが、メキシコと日本の時差は14時間。ということは、日蝕が起きている7月22日の午前中は、メキシコでは前日の夜ではないか!! 数日前から東の空に明けの明星と並んで、だんだん細くなる月を見ながら、月が見えなくなったときに地球の裏側で起こる天文現象に思いを馳せた。
◆日蝕の日、仕事を終えてホテルに戻ってきたら、ちょうどNHKの国際放送で特番をやっていた。悪石島の嵐や、屋久島が曇っている映像を見て、トカラへ行かなくてよかったんだろうと思った。でもこの特番、ちょっとやりすぎだと感じたのは私だけだろうか。日蝕は天文現象の中でも特別なものではあるけれど、ほかにもおもしろい天文現象はたくさんあるし、天文ファンとしては、日本の多くの場所で天の川が見えなくなっていることなんかを、NHKで取り上げてくれたらいいのにと思っている。
◆ちなみに、後輩達は雲の薄い場所を求めて福島県まで車を走らせ、薄い雲越しではあるが、部分日蝕の写真撮影に成功した。(メヒコ・マンサニージョにて テキーラを飲みながら 武田力)
■7月22日午前10時半ごろ、自宅マンションを出たところで「アッ!」と思わず声をあげました。よそ見運転の自転車の男性がフラフラと今にも電柱に飛び込もうとしています。男性の視線の先を追うと、曇り空に昼間の三日月のような太陽。薄い雲がちょうどいいフィルターとなって、肉眼でもハッキリと日食の様子を確かめることができました! そのまま、散歩でお世話になっている大分川の川原で観測。大分では最大9割が欠けたそうですが、漠然と期待していた一瞬の夜というより、空一面が薄暗く静まり返った印象でした。太陽と月の動く一瞬のタイミングで一変してしまう空の景色に、不思議な感情が沸いてきます。
◆それは、雲の間に見え隠れする太陽を眺めながら、通信で知った小林淳さんの旅が頭に浮かんだためでした。記事を読んで私がまず思い出したのは、インドの安宿などで見かけた、行方不明者の情報を呼びかけるチラシです。何か事件や事故に巻き込まれたのか、自分の意思で消息を絶ったのかは知るべくもありませんが、かの国の旅行者の中にそうした若者が何人も(もしかしたら何十人も)いるという事実は衝撃的でした。驚いた、というより、意識して見ないようにしてきた旅の暗部を直視してしまったようなバツの悪さがそのときには残りました。
◆とはいえ私はまだ若く、旅の熱にうなされていたようなところがあったので、それをいったん心の隅っこに放り投げて、何も見なかったかのように旅を続けました。でも、後になって、彼らと自分の間に何か違いはあったのだろうか、と思うことが何度もありました。極地を旅するような冒険家でもない、普通の旅人にも起こりうる出来事で、ほんの少しのタイミングの違いで自分もそうした一人になっていたのかもしれない、と。そんなわけで、小林さんの記事も他人事とは思えないようなところがありました。彼は私や、私の友人であったかもしれないし、彼のお父様は私の母親であったかもしれないという考えをどうしても拭い去ることができません。危うい「幸運」という綱の上を渡って今の自分があるけれども、何かが少しズレていただけで、旅の景色は一変していたかもしれない。そんな考えを思い起こさせる記事でした。
◆それでもなお、私たちは、私は旅を続けるのでしょう。地平線の仲間にはよりアクティブな旅をしてほしいとも願っています。ただ、大切な人が増えれば増えるだけ、自分は危険を孕んだ旅に対してより慎重に、そして臆病になっていくのではないかな、との予感が頭をかすめた日食観測でした。(大分 菊地由美子)
■日食楽しみにしていたので、休憩時間に会社の屋上までダッシュで行きました。すると、辺りはすでに暗く、太陽光線の影響か、オーロラが舞い、無数の隕石が地上に墜落。街は火の海と化し、炎が七日七晩燃えさかるような天変地異をイメージしていたのですが、僕が実際に屋上から見たのは、ただの曇り空でした。数時間後、再び辺りが暗くなったので、時間差か!?と期待しましたが、ただの日没でした。ガッカリ3年分です。(山辺百万石より)
■朝から曇りで、日食が始まる時間になっても太陽は見えず、あきらめモード。完全に油断しているところに、電話が。「曇りでだめっぽいですねー」と話しながらベランダに出て空を見上げたら、ちょうど雲の切れ間、小さなすき間から太陽が一瞬見えた。
◆江本さんからの電話はタイミングよかった。あのとき、一瞬すき間から見えなければ、あきらめていたかもしれない。その後気をつけて見ていたら、雲の動きにつれて、ちょこちょこ瞬間的に何度も見ることができた。日食眼鏡など準備していなかったが、薄い雲越しだとまぶしくなく、くっきりと形が確認できた。
◆朝からずっと曇っていたので、暗くなるとか涼しくなるとかの変化はなかったが、月の満ち欠けを早送りで見るような変化を楽しめた。以前見た部分日食より、ずっと大きく欠けておりました。(山形市 網谷由美子)
■日食の日、私は奄美に住む友人宅で日食を見るはずだったのに……。実際は仕事……。しかし、46年ぶりの日食、見た〜い! 山口でも89%欠けるなんて聞いたら見たくて見たくて。
◆そしてその日、人間ドックの胃透視の介助係だった私は検査の合い間に日食を見ることができましたよ〜!! 感動でした。もちろん日食用めがねなんて持ってませ〜ん。失敗して真っ黒になったレントゲンフィルムを使えば、しっかり欠けた太陽を見ることができました。自然って、すごい!って感動した日でした。(下関市 河野典子)
■計画は2年前から。トカラ列島を旅して種子島在住の川南さんと知り合った。15トンの漁船「美咲丸」(定員14人)を操る男前の生粋漁師。49歳。「皆既日食、見たい!」「お〜、俺の船でどんどん南下しよう!」。以来、電話、メール、ファクスで計画を練る。東京、大阪、九州から山仲間の参加が決まり、「前日正午きっかりに鹿児島港南埠頭集合」の号令一発、オンナ9人に、その亭主2人が勢ぞろいした。記者、役人、弁護士、写真家、その他その他。平均年齢、うーん、50歳ってとこか。付け加えるなら伝えられるツアー会社の料金に比べて申し訳ないようなお値段で。
◆明るい洋上を風を頬に受けて行くこと約4時間。種子島到着。浜の見晴台に案内されるとそこにはすでに船長奥さん、漁師仲間方によるバーベキュー準備あり。炭火で土地の貝、「陣笠」「亀の手」「穴子」がじゅーじゅー。甘〜い島のとうもろこし、黄色くねっとりしたサツマイモ。もちろん島の焼酎も。美咲丸僚船の日蝕客(=鹿児島の高校の理科先生たち)もいっしょに海風に吹かれて日没まで盛り上がる。このあと島の温泉に案内されて、さらに夜は宿舎にとあてられた元小学校・現公民館の体育館にてまたも大宴会。島のオトコ衆には若いころ、東京で警官だった人、自衛隊員だった人が多い。「葛飾署でさあ」「それで結局島に戻った。島はいいよぉ」「だけど東京も懐かしいねえ」。焼酎びん累々。
◆翌朝当日。朝、種子島は雨。似たような客がいた船はほとんどが出航見合わせの中、われらは「見えなくてもともと」と8時ごろに断固出航。港を出ると3mの波に、小船は小気味よいほど揺れる揺れる。全員酔い止めを飲んではいたが何人かは「G」したみたい。波の迫力ってすごい。後で聞けばまれに見る荒れ振りだったというが、そこは海知らず。むしろその圧倒的な物理的パワーに半ば恍惚……だった。
◆われらが船長は少しでも雲が明るい方向へと船を繰り、同時にあちこちの僚船に電話をかけて状況を聞く。懸命に可能性を探っている様子。波の尾根に押し上げられ、谷にどーんと落ちながらしぶきを受けて走ること2時間あまり。種子島南南東約20キロ地点に達する頃、雨もやみ、、上空がかすかに明るくなる。でもなあ、こんなに雲が厚いからなあ、無理かもねえ、とみなが自分に言い聞かせているような気分のとき、操舵室の上にいた後輩記者(♂)が、「せっちゃん、うえうえ、みて〜」と叫んだのだ! うわ、朧月ならぬおぼろ太陽が、思ったよりずっと高い角度にいた! クロワッサンみたいな形でにび色に浮かんでいるじゃないか! おお〜、と船上はどよめき、気づいた船長がエンジンを切る。
◆とたんに、海上は静かになり、あとは風と波の音、それに写真家ねえちゃんが押すシャッター音がカシャカシャとせわしげに響くだけ。みんな無言。いよいよ皆既、というとき、ああ、またも太陽は雲に隠れてしまったが、私にとってその直後こそが忘れられない。船は木の葉のようにゆれる。あたりが急激に夜のような闇に包まれ始める。とたんに世界はモノトーンになり、我々は白黒映画の中。波は黒々とうねっている。超現実的な空間に風がひんやりしてきた。360度、何も人工物はない。広い空と海の間に存在しているのはわたしたちだけ。
◆突然、「われわれはいずこより来たりて、いずこへ往かんとす」という言葉が浮かぶ。本当にわたしとはなにものなのか。第一、「今はいつ?」。実は白亜紀なのだ、と言われても信じるしかないような。だれが、「今は21世紀なんだ」と確信させてくれるのか。「ここは太陽系外の星なのだ」と言われても。いや、「あの世」に来ちゃったのかも。なにもない。たしかなものはなにもない。
◆突然、船長がボーっと汽笛を鳴らし、我に帰る。と、またも薄日がさして、これまたクロワッサン。さっきと角度が逆。あああ、いま、月の影が太陽を横切ったのだなあ、と深く深く納得。色彩を帯びた現実世界が戻ってきた。
◆不思議な感慨に打たれて帰港。聞けば島に残った人たちは厚い雲で太陽のかけらも見えなかった由。ただ、暗闇はここにも落ちてきて、センサー付きの街灯がいくつか勝手に光りだしたそうな。
◆神秘なものに打たれて敬虔な思いに浸ったはずが、夜はまた「見られてよかったね〜」大宴会。ご当地自慢の焼酎が出て、おかあちゃんたち手作りの料理が出て、大満足、大疲労。公民館二階の畳敷き広間に、みんなで修学旅行のようにごろ寝して、熟睡したことでした。
◆翌日、皮肉にもきれいに晴れ上がった海原を、漁船に送られて再び鹿児島港へ約3時間。イルカの群れまで現れて、元気のよいジャンプご披露。こうなると揺れる船の切っ先に立って「ひとりタイタニック」をせずにはいられない。麦藁帽子が風で後ろにひっぱられる。髪の毛がばさばさ流れる。あああ、不思議世界から戻ってきたなあ、という感じ。島で2泊2日。島の人と一緒に自分の中の古代人の血を確認した旅でした。(北村節子)
■田中千恵さんの「ウィ・ラ・モラ オオカミ犬ウルフィーとの旅路」(偕成社)増刷決定! 東京新聞などで紹介されたほか、近く図書新聞でも大きく取り上げられる予定。
地平線会議は1979年8月17日に誕生し、翌9月に第一回地平線報告会として、トルコ遊学から帰ったばかりの三輪主彦さんによる「アナトリア高原から」を開催しました。その告知は、電話回線を利用した「地平線放送」と葉書通信で行い、報告会は以後、もっぱら青山1丁目のアジア会館で開かれました。
その後アジア会館の改修を期に、会場は新宿区内に移ることになります。
場所は変わっても、地平線報告会自体は、今月に至るまで一度も欠けることなく、開かれてきました。
8月17日に特別なことはやりませんが、30周年を記念して、この秋、大集会を行います。11月21日の土曜日。場所は300回記念集会をやった新宿区牛込箪笥地域センターです。(都営地下鉄大江戸線 牛込神楽坂駅 A1出口徒歩0分)
詳しいプログラムは目下調整中です。決まり次第、お知らせします。
どうか今から11月のカレンダーに書き込んでおいてください。地方の方々が多く参加できるよう、土曜日としたのです。
■先月以降に通信費(年2000円)を払ってくださった方は以下の通りです。万一、漏れがありましたらご指摘ください。
上田喜子/高橋千鶴子/松原英俊/青木茂/中村保/橘高
■この8月17日、地平線会議は、ちょうど30年の誕生日を迎えます。1979年8月17日、青々しい心で発足を決めた時、中核メンバーは全員30代でした。当時「1万円カンパ」をお願いして活動を開始しました。以来、毎月欠かさず地平線報告会を開催し、地平線通信を発行してきましたが、30年を記念するいくつかのイベントのためにあらためて「1万円カンパ」をお願いしています。昨年秋の浜比嘉島での「ちへいせん・あしびなー」、この春の比嘉小児童の写真展の開催などで80万円余りを地平線会議として出費し、なお報告書の制作、ことし11月21日(土)に計画している記念大集会の開催などで費用がかかる見込みです。どうか趣旨お汲み取りの上、ご協力くださいますよう。今月までにあたたかい応援の心を頂いた皆さん方に、お礼申し上げます。
■1万円カンパ振込み先:◎みずほ銀行四谷支店 普通口座 2181225 地平線会議代表世話人 江本嘉伸(恒例により、カンパされた方々の名を通信に掲載して領収と感謝のしるしとする予定です。万一、漏れがありましたらご指摘ください)。
★斉藤宏子 三上智津子 佐藤安紀子 石原拓也 野々山富雄 坪井伸吾 中島菊代 新堂睦子 埜口保男 服部文祥 松澤亮 田部井淳子 岩淵清 向後紀代美 小河原章行 江本嘉伸 掛須美奈子 橋口優 宇都木慎一 原健次 飯野昭司 鹿内善三 河田真智子 岡村隆 森国興 下地邦敏 長濱多美子 長濱静之 西嶋錬太郎 寺本和子 城山幸子池田祐司 妹尾和子 賀曽利隆 斉藤豊 北村節子 野元甚蔵 北川文夫 小林天心 金子浩 金井重 古山隆行 古山里美 松原英俊 野元啓一 小林新 平識勇 横山喜久 藤田光明 河野昌也 山田まり子 坂本勉 松田仁志 中村保 中山郁子 河野典子
地平線通信2009年7月号の印刷、発送に協力いただいた方々は、以下の人たちです。いつも協力ありがとうございます。
森井祐介 関根皓博 海宝道義 櫻井恭比古 古山里美 江本嘉伸 鈴木博子 安東浩正 山辺剣 米満玲 久島弘 杉山貴章 埜口保男
■「日食」についての思い出は、皆さんいろいろあるだろう。私の世代では、ススをつけたガラスで太陽を見たというのが定番だが、どうやらそれは目には良くないらしいですね。でも、簡単に便利な日食グラスなど入手できなかった時代、そう忠告する人は少なかった、と記憶する。見たいものは見る。好奇心が断然優先するのである。
◆今回、新宿でも雲の晴れ間に一瞬、欠けた太陽を見ることができたらしいが、残念ながら、私が外に出た間は、見えなかった。その無念を含めて全国の皆さんに日食体験記を書いてもらった。中には北アルプスや、チベット、メキシコからの目撃情報も含まれるのが地平線会議の楽しいところだ。皆さん、ありがとうございました。
◆フロントに書いたように南ア縦走なしとげたのはいいが、実は後遺症は予想以上だった。足がむくんでずんどうのようになり、押すとへこんだまま。身体はやたらにだるく、何をする気も起きない。それでいて食欲だけは犬のように(失礼!)あるのだ。なんだかひもじかった現役の学生時代を思い起こしてしまった。
◆そんなわけで、地平線会議は今月から31年目に突入します。大事なことは、先人の知恵を奪いつつ、今いる人がやりたいことをやる、ということだと思う。(江本嘉伸)
アバンナットを駆け抜けろ!
「イヌイットの“生きる力”に惚れちゃったんですねぇ」と言うのは山崎哲秀さん(42)。受験戦争に悩んでいた16才の時に、マッキンリーで消息を絶った植村直己さんの生き方に衝撃を受けました。18才で東京〜京都を歩き、20才でアマゾン川筏下り。21才でグリーンランドへと、植村さんの足跡を辿っていた山崎さん。単独行の許可が難しいグリーンランド徒歩縦断の夢を追いながら北極圏に通ううちに、犬ゾリとその背景の先住民文化に出会います。 「犬ゾリをはじめてから植村さんから離れられて、自分の道が見えてきたんです」と山崎さん。極地研究者たちとの出会いから第46次南極越冬隊参加を経て、犬ゾリと環境調査を合わせた旅のスタイルを確立します。このアバンナット(イヌイット語でブリザード)15年計画の3年目を終えたばかりの山崎さんに、極地の魅力と計画の夢を語って頂きます! |
通信費(2000円)払い込みは郵便振替または報告会の受付でどうぞ
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議(手数料が120円かかります)
地平線通信357号/2009年8月12日/発行:地平線会議/制作:地平線通信制作室/編集長:江本嘉伸/レイアウト:森井祐介/イラスト:長野亮之介/編集制作スタッフ:丸山純 武田力 中島菊代 大西夏奈子 落合大祐/印刷:地平線印刷局榎町分室
地平線Webサイト http://www.chiheisen.net/
発行 地平線会議 〒160-0007 東京都新宿区荒木町3-23-303 江本嘉伸方
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