7月といえば、ナーダムである。毎年7月の11日と12日の2日間、草原の国、モンゴルでは国をあげて夏祭りに突入する。「エリン・ゴルバン・ナーダム」という言葉がある。「もののふの三つの遊び(ナーダム)」との意味で、「三つ」とは馬、弓矢、相撲の3競技を指す。古い昔からの伝統だが、モンゴル人民共和国となってからは、革命記念日の毎年7月11日と翌12日の両日を、国民の祝日としてナーダム祭りにあてている。
◆その伝統は民主化後「モンゴル国」となっても変わらず、毎年「革命記念日」に国家の最大のお祭りとして実行されている(県でも郡でもそれぞれの「ナーダム」がある)。開会式では5月の選挙で現職のエンフバヤルを破って大統領となったエルベクドルジが民族服のデール姿で開会のスピーチをした。その模様は東京でもウエブサイトを通じ音声とともに見ることができた。日本にいても、こんなに身近にナーダムを体験できるのだ、と感嘆する。
◆はじめてナーダムを見たのは1987年7月だった。BA(British Airways)機で成田を発った。向かったのはモスクワのシェレメチェボ空港。ここで3時間待ってアエロフロート機でウランバートル向けて「戻る」のである。当時、社会主義モンゴルへたどり着くのは簡単ではなかった。韓国経由はもちろん中国経由の便もなく、何かと時間、金がかかった。
◆何とか間に合ったナーダム初日、バトムンフ書記長の開会宣言で幕開けし、モンゴルでは「ブフ」といわれる相撲が始まった。緑のグラウンドに512人の筋肉質の男たちがあらわれた時は、一種のカルチャーショックを受けた。チョッキのような短い上衣にぴったりしたトランクス姿、美しいブーツ、帽子をつけたモンゴル力士の大集団は、壮観というしかなかった。
◆その場で互いに相手と組み合い、戦いが始まる。ご存知のようにモンゴル相撲では土俵がなく、手をついても負けではない。なので「ソイラフ(押し込む)」「アチフ(つかむ)」「トンゴロフ(ひっくり返す)」「ドンゴイルダフ(ひきまわす)」など多彩で、スピード感あふれる豪快な技が観客の目の前で披露される。
◆勿論、それでも長い勝負になることもある。いつだったかの決勝戦で、当時の常勝横綱、バットエルデネと対抗馬のムンフエルデネが、何と4時間に及ぶ大熱戦を繰り広げた。日がとっぷり暮れる中で、二人の戦いがいつ果てることなく続き、夜の10時、ついにバットエルデネが9度目の「国家チャンピオン」に輝いた。熱戦でも4時間は長い。さすがに「日本式に制限時間を決めたらどうか」の議論が起きたという。
◆その「日本式相撲」のことをモンゴル人が詳しく知ったのは、92年2月、バットバヤルら6人のモンゴル青年が来日してからだ。半年後、5人が渋谷の大使館に逃げ込み、3人は故郷に帰った。「体罰、とくに正座が我慢できなかった」あとになってその1人はそうもらした。バットバヤルも大使館に逃げた1人だが、その後奮起し、モンゴル初の関取に。今では国会議員となったあの“技のデパート”旭鷲山である。
◆12日から始まった大相撲名古屋場所の番付表が今回も送られてきた。東西の横綱を白鵬、朝青龍が張り、東の大関を日馬富士が占める番付表は何度見ても異様である。立会いのスピードで日本、変化と持久力でモンゴル。共通のスポーツとは言え、実は結構深い違いがある、というのに、だ。ついでながら、ことしのナーダム決勝は、長身で知られるウブルハンガイ県出身のウスフバヤルが4度目の優勝を飾った。
◆7月14日、関野吉晴たちの丸木舟「縄文号」が「パクール号」とともに無事マレーシア領からフィリピン領海に入った。4月13日にインドネシア・スラウエシ島をスタートして以来、海賊対策などいろいろあって、当初の計画からは大幅に遅れたが、無事航海を続けている。マリーン・ポリスの見守る中、伴走船の荷物をフィリピン側の船に移すのに時間がかかったようだ(白根全君がフィリピン側では頑張っているはずだ)。でも、2隻のクルー全員元気のようで、ほっとした。しばしパラワン島に沿って北上し、フィリピン到着は8月上旬になるだろう。
◆7月15日、メジャーリーグでオバマ大統領の始球式の後、9年連続出場のイチローが第一打席でヒットを打ったのに感銘を受ける。日本人が活躍するアメリカの野球を同時進行で日本で見られる時代である。少年時代、中日ファンのおやじに連れられて、モノクロテレビの野球を見るため、遠い食堂によく通ったことを思い出す。
◆スポーツの一瞬、一瞬に「時代」を感じる夏である。 (江本嘉伸)
■地図の空白などないと思われている今日このごろ。世界は隅々まで探索され、もはや知られざる地域などない、と人々は奢っている。だけどそんなのは怠け者の発言だ!と一喝する先達がいる。真なる探求者というのは、課題を見つけるのが得意らしい。地球には未踏の領域が残っていることを気づかせてくれるのは、いつだって探求者であり開拓者であり、そして挑戦者なのだ。人がまだ行ったことがない所へ、やったことがないことへ……。現代の探検家に必要とされるのは、そんな課題に気づく能力であり、それを実行する行動力なのだな、と改めて中村保さんの報告を聞いたあとに思ったりなんかした安東が、今回の話をレポートさせてもらいます。
◆第202回の報告以来2回目のご登場になる中村さんは、未だ写真に撮られたことすらない多くの未踏の山々の残る東チベットを30回にわたり探検し、その報告を日本だけでなく、欧米の山岳ジャーナル誌などに発信してきた。昨年はイギリス王立地理学協会からメダルを受賞!アフリカの父リビングストン、さまよえる湖のヘディン、南極点へ挑んだスコットやアムンゼン、エベレスト初登頂のヒラリーなど、世界の名だたる探検家が過去の受賞者に連なる。日本人の受賞者は初だし、これ以上の栄誉はないだろう。加えて、アルパインクラブ(英国)、アメリカ山岳会、ヒマラヤンクラブ、日本山岳会の名誉会員でもある。
◆ここから中村さんの話を記録しよう。もうじき後期高齢者なので、かみさんに潮時だから「やめなさい!」といわれてもやめられない!10月からまた探検に出かけるという。人が行ったことがないところをほっつき歩く魅力に夢中になっている。そんな中村さんが自己を紹介するとき、「自分はキセル登山家だ」という。一橋大学山岳部での学生時代は、北アルプス穂高岳滝谷の新ルート初登攀などでバリバリに活躍するクライマーだった。だけれど企業に勤めると、重工業の海外プロジェクトの企業戦士となり、登山には行けなくなった。そして退職して「東チベット」の魅力に夢中になり、再び探検の日々が始まる。未だに世界に知られざる幻の白い峰々への情熱が、学生時代の情熱を呼び覚ました。そんなわけで、学生時代と退職後にはあちこち山に出かけているのに、その間の期間が抜けているので「キセル登山家」というわけだ。
◆来場者には資料として東チベットの地図が配られた。そこには6000m以上の未踏峰が200以上記されている。欧米でもあちこち講演してきたが、海外の講演でこの地図を配ると、みんな驚くという。この未踏峰リストは欧米のクライマーの間で「こんなに未踏峰がある!」というバイブル的な存在になっているらしい。
◆学生のころは勉強もせずに探検の本ばかり読んでいた。大学山岳部では、山に登るってことは三つのことだと教えられた。それは行くこと、読むこと、書くこと。つまりそれは、事前調査、行動、報告の三つからなりたっているってことなのだろう。それを忠実に守ってきた。行動したらそれをレポートで発信し表現して、初めて探検と呼ばれる。行っただけだと、そこには原住民もいることだし、探検にはならない。
◆企業戦士として世界中に海外駐在していた中村さんは1989年に香港に赴任。そのときに観光気分で中国雲南省の麗江を訪れ幾度か足を運ぶうちに、これらの地域には現代においても写真すら撮られておらず、情報のない未踏の山々が残り、体系的にまとめた人がいないことに気づいた。東チベットにはまだ発見の要素が残されている。最後のフロンティアとも言えよう。そんな未踏の山々は美しい。スライドで山々の紹介が始まる。
◆東チベットの横断山脈周辺にはアジアの五つの大河、揚子江、メコン、サルウイン、イラワジ、ブラマプトラ支流ロヒト川が、150kmの狭い範囲を南北に流れている。その川と川の間には険しい山脈が連なる。プレートテクトニクス理論によると、5000万年前にインド亜大陸がユーラシア大陸にぶつかりヒマラヤの形成が始まり、その時に大陸に生じたシワが、この類まれなる地形となり、未踏の地域を残したわけだ。この地域に関する文献を参照しようとすると、100年近く前の古いものばかりにつきあたる。共産中国の支配下では長い間立ち入り禁止となり、深いベールに隠されてきたからだ。
◆欧米の植物採集家(プラントハンター)キングドンウォードや探検家ベイリーが通ったルートを、そのころの記録をもとに現代に探検する。それは昔の交易路「茶馬古道」で馬やヤクでキャラバンを組んで進む。そこを通る外国人は80-100年ぶりだったりする。目の前に現れる数々の山々。東チベットの山の特徴は、急峻に尖っていてヒマラヤ襞と大岩壁がそそり立つところにある。チベット最大面積の氷河「ラグ氷河」の奥地には30の峰峯があるが、海抜6882mの最高峰を含めてすべて手つかずの未踏峰だ。
◆深いゴルジュ(大渓谷)では、そそり立つ断崖絶壁に馬の通れる道がくり抜かれている。落ちれば谷底にまっさかさまだ。そんなルートを馬のキャラバンが進む。そして6000mの未踏峰がまた現われた。執念で撮影した山が次々に現れる。ドゥンリガルポ。この山の写真をとるだけのために3週間もかけたのだ。紹介される山のどれもが美しい。そんな数々の山の中で、中村さんの一番のお気に入りがネナン峰6870m。麓は氷河に覆われ、このあいだもアメリカ隊のチャレンジを退けた。
◆そんな未踏の山々の麓の村では、子供がたくさんいて、とってもフレンドリー。外国人が初めてきた!と村人に歓迎される。狼も撃退する獰猛なチベット犬。鳥葬の場面では肉団子(注:くだいた人骨をツァンパでくるんで食べやすくする)を分けてもらうために、おとなしく待っているハゲワシたち。冬虫夏草を取っている現地の人たち……。エピソードも豊富だ。そんな静かな村々の景色の上にも、未踏の山々がそびえている。“晴れ男”の中村さんが撮ったどの写真も蒼空をバックに雪の山々がくっきりと浮かび上がっている。欧米の登山隊に「おまえのカメラを貸してくれ!そしたらブルースカイの山の写真が撮れる!」と言われるくらい。
◆塩井の村では、川底から塩水が出ており天日で塩をつくっている。そこには温泉もあり、若いお嬢さんもたくさん入りにくるらしく、その撮影にも成功する。見つかってカメラを没収されるのもいやだし、ちょっと離れて500ミリの望遠レンズで大変苦労してとった写真なのだ。それって??と思うのだけど、中村さんの興味はただ山の記録だけではなく、麓の人々の生活文化まで留まるところを知らない。
◆ラサから東に向かっていた山々と人々のスライドショーも、チベット文化圏の一番東の端っこに迫ってきた。美人がたくさんいるので美人谷と呼ばれる町では、美人の写真が必要だ。泊まった宿のお姉さんに民族衣装を着てもらい、やらせだけど美人の写真なんかが披露される。とりあえずこれでスライドショーはおしまい。もはやあまりにもたくさんの未踏の美しき山々が紹介され、このレポートにいちいち書ききれない!
◆中村さんは65歳で仕事を退いてから日本山岳会に復帰するが、自分でテーマを見つけてプロジェクトを遂行することが好きな性質で組織を束ねるのは大の苦手。10年前にアメリカンアルパインジャーナルの編集長が日本にやってきて、日本の登山界は世界に孤立し情報の発信がない!と聞き、じゃあ俺がやってみるか、と日本山岳会の英文ジャーナル誌「Japanese Alpine News」を創刊し編集長となり、登山や探検・冒険・学術調査など日本人の記録を世界中に発信し続けてきた。(安東のシベリア横断も2004年と2006年号に載ってるよ!)地平線の報告レポートだって、英語で発信できると世界がきっと広がる。でもそれは大変なことなのだな。中村さんはそれをなしてきた。価値ある仕事である。
◆このジャーナルがドイツで本を出版している人の目に留まった。日本じゃ写真集は売れない。でもドイツではいい本は売れるという。1年半かかって写真集は完成した。50ユーロという安い価格が可能なのは、出版社のケルン大学医学部出身のサイコセラピストであるペドロ氏自らこの本つくりに夢中で、レイアウトも地図作成も色調整も自分で行なったから。中村さんは王立地理学協会でのメダル授賞式に完成したばかりのこの本を持っていき、プレゼントした。次にはいよいよ英語版の制作が待っている。
◆中村さんのライフワークは国境を越えていろいろなところでつながってゆく。探求の人は決してあきらめたりしない。フロンティアスピリッツとでも言うのだろうか。パイオニアワークと呼ぶのだろうか。地球にはまだ計り知れない謎があり、そこをロマンの領域と呼ぶ。探検はまだ終わっておらず、ぼくらはまだ道の途上にいる。未知なる山々は存在し、課題はあちこちに転がっている。新しい発見は、すぐそこで、君に発見されるのを待っているのかもしれないのだ。聞きに来た人々に、きっとそんな思いを持たせてくれた報告会だったのではないでしょうか。(辺境案内人・安東浩正 7月7日四川省成都より)
13年ぶりの地平線会議でした。
若者が多く活気にあふれた楽しいひと時でした。
高齢化の時代、これほど若者がたくさん集うのは地平線会議とケンブリッジ大学山岳会だけです。
日本山岳会の平均年齢は67歳、若手の入会者がないので、毎年1歳ずつ増えます。3年後は70歳、10年後には崩壊の危機に瀕するでしょう。人口予測ほど確かな統計はありません。
今年は後期高齢者になりますが、自分のことを棚上げして言います。
私の場合は、海外への発信と「ヒマラヤの東」踏査が車の両輪であり、見事に噛みあい多くの栄誉につながりました。
それを可能にしたのは常に「現場」に身を置いてオンリー・ワンを目指してきたことです。
第一線での仕事を継続することが活力の源です。
今年の秋も東チベットの未踏域を探査し、「チベットのアルプス」英語版の編集に専念します。手垢のついた言葉ですが「生涯現役」でありたいと思います。
江本さん、有難うございます。地平線会議の発展に乾杯!(中村保)
■桜が散って、今年もまた1年この病院で勤務するんだと信じていたある日の昼下がりに、発動された突然の辞令。なんだ?この異動は。看護師の俺が消防学校で何するの。上司も、何をするのかよく分からんが、異動予定者がキャンセルになったのでこっちに話がきたらしい。なんでも体育会系のタフなやつが欲しいというのだが、それ以上のことは分からん、と首をひねっている。消防はいったいこの俺に、何を求めようというのか。そもそも4月末の人事からして解せん。けれども宮仕えの悲しさ、発令されたからには業務内容が分からずとも行くしかないのが辞令。これで4か所目の職場か、厚生省、法務省、千葉県病院局、そして消防と、公務員コレクションがまた増えた。今度の職場はいったいどんなところだと思いながら着任したら。
◆学生たちに耳をふさぎたくなるような大声であいさつされ、校舎に入ろうとすれば、さささと寄ってきて靴をしまわれ、お茶にしますか、コーヒーにしますか、の問い合わせ。ある朝、お前が朝礼の当番だと校庭に押し出されたら、200人からの学生に「教官に向かってェー、頭アー、中」と敬礼で出迎えられて仰天。その威勢のよさに一瞬たじろいだが、こちらも負けてなどいられるかとばかりに教訓じみたことを一席ぶって、どうにかその場からのがれる、そんな日々が待っていた。
◆それから2か月、どうやら自分の職務が救急隊員の養成にあると分かったが、その大半はコンピュータとにらめっこの事務職。せわしげに動いていた現場から、机に座ったまま事務処理をひたすらつづけるという、180度転回した仕事内容に、さすがにこの歳になってとらばーゆは辛いわいと思いながらも、タダでは転びたくない。あわよくば内部を見届けて小説のネタにしてやれとばかり観察にいそしみ、やっていられなかったら辞表叩きつけるだけのことと開き直っている。
◆振り返ってみれば、二度目の世界一周から帰って15年、放浪癖が止まないこの俺に、よくもまあせわしない救急の現場が勤まったものだ。それにしても消防のことはまったくのど素人である。4月に任官したばかりの、18歳の若者にも遠く及ばない。国旗掲揚の手順も、移動の仕方も、帽子のかぶり方(そんなのあったんですね)も知らず、そのトンチンカンな振る舞いに失笑を買い、冷ややかな眼で見られていたが、自転車通勤の姿が認められて名誉挽回。
◆そこで寮の玄関に貼られた「体力は財産なり」を引き出して、なんだお前ら、大きなこと言っていながら鹿児島すら自転車で行けねえのか、たった1500kmだぞ、すぐそこじゃないか。200kmずつ刻めば1週間でたどり着ける距離だ、アメリカよりも近いだろが。それでも日本の未来を背負う消防職員か、俺より若いくせにたるんどるぞ、の一喝で見る目が変わり、ふたたび気をつけェー、敬礼ェー。いやー、このときほど自転車を続けていてよかったと感じたことはなかった。
◆救急隊やレスキュー隊を育てるのと同時に、任官したての若い消防職員を、半年間に渡って教育するのもこの学校の主たる役目。その彼らを初任科生といい、基礎体力を付けさせ、消防に関する知識を授けさせ、地域の災害に備える職員を全寮制のもとで育成する。どうりで俺が選ばれたはずだ。体育会系じゃないと勤まらん。
◆それにしても任官したばかりの若手たちの、その元気のよさと純粋さは見ていて実にさわやかだ。そしてその驚きを上回るのが、規律のよさとひたむきなその姿勢。どうみても、おまえら高校時代に停学寸前までいっただろう、なんてひと癖もふた癖もありそうな面構えの若者が、上官の命令に従い、きびきびと動く姿のなんとすがすがしいことか。ある日の朝礼で、某教官が帰宅時(月から金までが全寮制、週末は帰宅する)にアイスクリームを食べ歩きしていた学生を見かけたらしく、そんなことで消防職員といえるか、連帯責任だ、全員腕立伏せ50回と叫ぶやいなや、1割の女性を含む総勢113名の初任科生が、一斉に床に手をついた。
◆年々軟弱になっていく日本の若者たち。ニート問題の根本は、働かなくても生きていけるだけの社会的システムを構築してしまった行政と、働かない現状を容認してしまった保護者にあるような気がしてならない。ニートの彼らはむしろ被害者なのだが、日本の将来を背負わなくてはならない立場であることもまた事実。いずれその彼らに我々は将来を託すしかないわけだが、生きるために地をはう海外の青年たち、とくに3年徴兵の現実を回避できずに踏んばる韓国の若者に、はたして太刀打ちできるのかと悲観していたけれども、ここに未来の日本を委ねられる若者たちを発見した。消防が存在するかぎり、日本もまだまだ捨てたものじゃない。そんなわけで埜口主査(消防司令待遇)、5月より精神科救急の最前線から、千葉県消防学校に教官として着任しました!(看護師から教官になった埜口保男)
■4月19日、イタリアの長靴のかかと部分に位置する都市バーリをスタートした総距離約4500キロの国際大会「トランス・ヨーロッパ フットレース 2009」は、イタリア、オーストリア、ドイツ、スェーデン、フィンランド、ノルウェーの6か国を1日の平均約70キロ走り、6月21日、スタートから64日目、ヨーロッパ大陸最北端のノードカップ岬に無事ゴールしました。大会中の64日間、休養日はなく、制限時間内にゴール出来なければその時点で失格となる条件の中、参加者67名中45名が一日も休むことなく完走しました。私は途中足の痛みで休まざるを得なくなり完走には成りませんでしたがほぼ全行程を走破しました。
◆64日間の毎日は次のような繰り返しです。4時起床、寝袋、マット、その他すべての持ち物をまとめ、5時から朝食、ランナーとサポーター、その他大会関係者合わせて約100名、混雑します。食後荷物を運搬車に積んで、ほとんどのランナーは6時スタート、約10名の俊足ランナーは7時の時差スタート。コース、宿泊地により毎日の走行距離は異なりますが60キロから90キロを私の場合ですと8時間から13時間で走り、夕方ゴール。ゴール後、まず寝る場所を確保し、シャワー、洗濯、時には買い物、そして6時か7時から夕食。俊足ランナーはこれらを余裕持って出来ますが、遅速ランナーは何時もあたふたしていました。食後、記録の整理、明日の準備、手紙書き、酒飲み、歓談、……、9時消灯。これで1日が終わります。
◆イタリア、ドイツでは消灯時間になると室内は暗くなり眠りに就けるのですが、北緯60度を越えたあたりからいわゆる白夜になり、スエーデンの北極圏(北緯66度33分)以北、フィンランド、ノルウエーではほとんど太陽が沈まず、消灯しても昼と変わらない明るさでしたが、それでも昼間の疲れからか毎日快眠でした。しかし、ほとんどのランナーが夜中2、3回小用に立ちますので、トイレ入り口付近に陣取ることは禁物です。
◆宿泊はほとんどが、学校あるいはコミュニティーの体育館、早くゴールしたランナーが良い場所を確保するのは当然の論理です。夕食は体育館付属の調理場で準備してくれたもの、レストラン、ケータリング、テイクアウトなど様々ですが、毎回おなか一杯と言った感じで幸せな日々が送れました。毎日通常の食事の約3倍の熱量を摂取しなければ、連続して毎日70キロは、走れないのです。イタリア各地での夕食に出された固茹でスパゲッテイ・アルデンテは私の口には固く、小麦粉味がして苦手でした。
◆今大会では通称「ビールおじさん」がいて、ゴール後の希望者にはビールを1本1ユーロで分けてくれたこと、主催者がメールボックスを設置してくれたことが、ランナーにとっては非常に有り難く、特に飲兵衛ランナーにとってはゴール近くなると冷たいビールが楽しみになってきますし、私のように絵葉書を家族に送るのを日課にしている者にとってはポストを探す手間が省け助かりました。
◆コースのほとんどが大都会を避け、交通量の少ない農村部だったので各国の都市生活者の様子は解りませんが、ヨーロッパの農村部はまだアナログの世界で、日本ほど物は無いかもしれませんが、自然は残り、看板は殆んど無く、標識、電柱も必要最低限で景観は保全され、野の花は時期が来れば一面に咲いている光景を目の当たりにしました。
◆走りながら路上ですれ違う人々と目が合うと「おはよう」、「ハーイ!」と言葉を交わせる雰囲気。乗り物を含め性善説と性悪説に基づいた生活パターンの差を認識しました。今月の報告会では、フットレースの様子に加え、北緯41度から71度まで、64日間走りながら訪れた土地やそこに住んでいる人と土地の関わりをどう受け止めたか、「走り」によって感じられた「風」、その「風」を受けて自分の頬が感じる暖かさや冷たさをお話したいと思います。(2009.7.10 宇都宮・原健次)
■先月の報告会以後、通信費(1年2000円です)を払ってくださった方々は、以下の通りです。記載漏れで月遅れの掲載となってしまった方にはお詫びします。
◆高野孝子/八木和美/大野美和/坂口まさえ/小原信好/小原直史/桜井恭比古/小林天心/渋谷嘉明/前田良子/吉岡嶺二/上田喜子/岩野祥子
■「四国八十八ヵ所めぐり」を終えたあと、「西国三十三ヵ所」、「坂東三十三ヵ所」、「秩父三十四ヵ所」の「日本百観音霊場めぐり」を終えて昨夜(6月20日)、帰ってきました。これで我が「60代編日本一周」第2弾目の「巡礼編」が終了。125ccスクーター、スズキ・アドレスV125Gで76日間にわたり、16624キロを走ってきました。観音霊場の札所めぐりをしたおかげで、日本という国がますますおもしろくなりましたよ。十一面観音、千手観音、聖観音…と様々な観音さんたちに出会い、今は観音さんたちともずいぶん親しくなったような気分です。日本人の観音信仰への厚い心も知りました。
◆「西国33番」では第1番の南紀・青岸渡寺を皮切りに、札所をめぐりながら絶えず「西国」を意識して関西をまわりました。兵庫・岡山県境、兵庫・鳥取県境、滋賀・福井県境、滋賀・岐阜県境、奈良・三重県境と県境まで行き、「おー、ここまでが関西(近畿)なのか」とそのたびごとに関西圏を確認するのでした。「境を見る」というのはきわめて大事だということをあらためて教えられた気がします。
◆西国33番でひとつおもしろいのは、満願の第33番の華厳寺が関ヶ原を越えた「東国」(岐阜県・谷汲)にあるということでした。なぜだろうと不思議でならなかったのですが、中山道の滋賀県・柏原宿(ここが近江・美濃国境)にある成菩提寺を訪ねたときにその疑問が解けました。今ではほとんど人もいかないような寂れた山寺の成菩提寺ですが、最も栄えたという江戸時代初期の頃には64寺もの末寺を持つ大寺だったといいます。徳川家康の知恵袋、天海僧正が住職を勤めたこともあるような寺でした。その西国の東端にある成菩提寺末寺のひとつが谷汲の華厳寺だったのです。
◆「坂東33番」は第1番の鎌倉の杉本観音からまわりはじめましたが、さすが鎌倉、4番までが鎌倉とその周辺にあります。5番が小田原、6番が厚木、7番が平塚、8番が座間で、何と我が家(伊勢原)の周辺には4ヵ所もの札所があったのです。これなども新たな発見。自分の足元というのはなかなか目を向けないものですが、そこにこそおもしろいものが隠されてるという見本を見るかのようでした。坂東33番の札所は関東全域に散らばっていますが、東京都内にあるのは第15番の浅草寺(浅草観音)のみ。それは江戸幕府誕生以前の東京がいかに文化程度の低いところであったかを証明しているかのようでした。
◆「秩父34番」では札所をめぐりながら、秩父盆地をとりまく山々の峠まで行きました。そのたびに「峠の国・秩父」を強く感じたのです。満願の第34番は水潜寺。本堂(観音堂)に参拝したあと百観音の結願堂の前に立ち、手を合わせました。そのときは胸にジーンとこみ上げるものがあり、「西国」、「坂東」、「秩父」と百観音をめぐった様々なシーンが目に浮かんでくるのでした。
◆7月1日には「チベット横断」に出発します。バイクでのチベット横断というのは例がなく、(外国人にとっての)世界初を目指してきます。思い出すのは2008年2月29日のシール・エミコさんの報告会です。エミコさんが熱い口調でチベットを語ってくれたおかげで、その夜、すぐさま「チベット横断計画」をつくり上げたのです。あれから1年4か月後に実現にこぎつけることができました。エミコさ〜ん、ありがとう。8月上旬には帰国しますが、そのあと8月10日には「60代編日本一周」の第3弾目、「奥の細道編」に出発します。カソリ、芭蕉になりきって「東京→大垣」の「奥の細道」をたどってきます。(賀曽利隆)
■7月22日の46年ぶりの皆既日蝕の皆既帯の中心にある悪石、臥蛇などのトカラ(ワープロに文字がない)の島々が話題になっている。40数年前、私たちの間では大いに話題の場所であった。今は無人の臥蛇島に、当時住みこんだ稲垣尚友君は「臥蛇島金銭出納帳」というガリ版刷りの本を作った。今では貴重な資料で、私も大事にとって置いたはずだが……。
◆このころ私も今回の皆既帯の中にある喜界島で岡山大、法政大の探検部の人たちと一緒にウロウロしていた。これらの島々に日が当たることなどないと思っていたら、今回黒い太陽が当たることになった。いや地平線仲間としては、2008年夏悪石島の入り江に、2004年太平洋横断に出て不時着した神田道夫さん、石川直樹君の熱気球のカプセル部分が漂着したニュース(豊岡の植村冒険館に展示されている)が話題となった。
◆さて46年振りと騒いでいるが、皆既日食を見ることができるのはトカラ諸島、屋久島、奄美北部、喜界島くらいで、そこに行ける人は限られている。日本列島のほとんどの場所では一部が欠けた部分蝕しか見られない。部分蝕ならば私もこれまでに何回も見ている。1997年3月9日、京都から山陽道を走って広島の岸本佳則さん宅に向かっている時に見た。黒いゴミ袋の端を破って欠けた太陽をみながら、通る人に「日蝕ですよ!」と教えたが、汚い格好をしていたのでだれも興味を持ってくれなかった。
◆国立天文台などでは、ゴミ袋や下敷き、煤をつけたガラス板を通して欠けた太陽を見ないようにというキャンペーンを行っている。そんなもので見たら目を悪くするというのだ。私の目が悪いのは、黒いゴミ袋で太陽を見たためなのだ! 「それならどうすればいいの?」ヨドバシカメラ、ビックカメラなどで日蝕用のめがねを売っている。これを買うのが一番。「そのときだけじゃないか!もったいない!」
◆いやいや、日蝕なんて1年に2回ぐらいはどこかで起きている。来年の1月15日はアフリカ中部、モルディブ、インド、スリランカ、ミャンマーで金環蝕。西日本でも部分的に欠ける。さらに7月11日にはイースター島を含むポリネシア、チリ、アルゼンチンで皆既日蝕。すでにイースター島では受け入れ準備で盛り上がっている。2011年6月にも北日本で部分蝕。そして2012年5月21日、これは今よりもはるかに盛り上がるだろうが東京、横浜が中心の金環蝕。大騒ぎするならこの日だよ!
◆月が大きくみえる時、すなわち近いときが皆既日蝕、その逆の時には金環蝕がおきる。大きさの違いは地球の距離の違い。月の公転軌道は楕円軌道だ。月は大昔地球から飛び出し、現在も少しずつ離れている。ということはだんだん小さくなるので、そのうち(6億年ほど先だが)皆既日蝕はなくなり、金環蝕だけになる。
◆ところで日蝕メガネを買わなくても部分蝕を楽しむ方法はある。4月のエイプリルフールで丸山くん、久島くんが提案していたが、ピンホールカメラで欠けた太陽を写す方法だ。もっと簡単に林の中に入って葉っぱの間からもれてきて地面に写る像は欠けた太陽になっている。これも感激する。木漏れ日がないところでは使用したテレホンカードのパンチ孔をかざして、ピンホールを通して地面に写る太陽の像を見るのも面白い。もちろんピンホールを通して太陽を見てはいけない。写る像をみて楽しむのだ。東京での時間は午前11時前後。西のほうが少し早い。エイプリルフールではなく本当に地平線会議で日蝕のピンホール写真展を行わないかな?「いい写真は地平線通信に載せます!」ってのもいいんじゃないかな。(三輪主彦)
■美人の谷にいます。先月の中村保さんの報告に出てくる、ヒマラヤの東の一番端っこにあるチベット人の丹巴という街なり。でも美人は見かけないなあ。その中村さんの報告レポートを書いた安東です。10年ぶりにレポートを書きましたが、自分のことを書くよりも気を使いますね〜。成都で徹夜してその原稿をやっつけた後、その報告でも出てきた四姑娘山のトレッキングに顧客を案内してきました。ここのトレールはめちゃくちゃすばらしく、高山植物が満開です。
◆四姑娘は昨年の四川地震の震源に近く、昨年は訪れることができずに2年ぶりに麓の日隆の村を訪れたのですが、瓦礫の山と化したチベット人の建物や、屋根の落ちたホテルなど地震の跡があちこちに見られます。まだ観光客がこないので、ホテルも土産物屋も商店もことごとく閉まり、ゴーストタウンのごとく静まり返っています。
◆この村では死者は出てないのですが、観光客が来ないことによる経済的打撃は計り知れず。安東はよくここに来ていたので知人も多く、再会を楽しみにしてましたが、商売あがったりで遊牧にでも出かけているのか会えず……。あと10日もするとマツタケが取れ始めるそうです。安東は一度日本に帰りすぐに四川に戻り、今度はミニヤコンカ、エドガー、ヤラなど、これまた中村さんの報告に出てきた山々を訪れ、また日隆に帰ってくるので、そのときはマツタケ鍋だあ。
◆ここの急峻な地形に作られた道は土砂崩れも激しく、成都からここにくる峠がふたつ共に通れずに迂回して16時間かけて車でこの地域に入ったにもかかわらず、その迂回ルートも土砂崩れで通行不能になり、どうやって成都に帰ったものか……。なんとしても顧客を成都からの帰りのフライトに乗せねばなりません。ピンチです。こんな原稿を書いている場合ではないのではないか。どうする? そんなわけで、東チベットから突撃レポートでした。(安東浩正 7月11日 四川省甘孜チベット族自治州より)
★追記:8月2日〜7日までは恒例の青森ねぶた祭りですよ。ねぶたが始まらなければ日本の夏は始まりません。参加希望者は安東まで!
■江本さん、こんにちは。先日は通信にて「やまなみを走ろう!」のお知らせをありがとうございました。梅雨真っ只中の伊南で、時おり太陽も顔を見せてくれながら無事開催することができました。おかげさまで、予想以上の参加者(14名)が集まって下さり、半数は地平線関係者ということには「びっくり」&「感謝」です。私も初めての方にも来訪頂き、安東浩正さんを始め、妹尾和子さん、藤原和枝さん、田村暁生さん、山本豊人さん、李容林さん、河村安彦さんなど、本当にとてもいいエネルギーに包まれた二日間でした。
◆今回は「初めてのトレイルランニング!」という名の下に計画したこともあり、『民宿田吾作』の裏山でもある『久川城跡』をベースに初日は活動しました。二日目は伊南のシンボルでもある『尾白山』(おじらやま)を途中まで目指しながら、下りは小さな沢でリバートレッキングするなど、初心者には満足してもらえる内容となりました。
◆10月に第二回目を計画してます。詳細が決まったら、またお知らせを通信にお願いしたいと思います。来週(18日)には、家の前を流れる伊南川で『鮎釣り解禁』となります。これから夏本番の伊南ですが、朝晩は心地よく涼しい風に包まれています。ぜひ、遊びに来てください。(明け方の涼しい風を感じつつ伊南にて・酒井富美)
■今年の山スキーシーズンには山に殆んど入れなかった。自分が携わっている業界(注:工具の輸入関係)が昨年の秋から激変、市場の落ち込みから我々も銀座からつくばに移転せざるを得なかった。そんなこんなのあわただしい中で珍しくストレスから来る体調不良で、飲みなれていない胃薬やら喘息薬やら口内炎の薬やら薬だけで満腹になるほど飲みながら週末を地元で過ごすことが多かった。会社も少し落ち着きを取り戻したときはすでに春スキーのシーズンも終わりに近づいてしまった。体調は相変わらず……。山に登るのも喘息の吸入薬を携えての山で、まともな活動はできなかった。
◆14年前に構えた会津の小屋(「川小屋」と呼んでいる)の道を隔てた向かいに知り合いの杉林がある。間伐の手を入れなくなって久しい、その間伐作業をする代わりに材をもらえることとなった。まだ雪が残っているときに一気に10本ほど倒して小屋まで引きずって皮むきを行っている。いいリハビリだ!?これで何を作るかは模索中だが、山をすっきりさせることで気分も体もすっきりしてくるのは不思議だ。
◆東京から離れてしまったので報告会も少し遠のいてしまった。しかし先日、長野画伯の個展の初日に東京出張を兼ねて東京に住んでいる娘と待ち合わせてたずねることができた。まだ娘が赤ん坊のころしか知らなかった画伯と対等に応対しているのを傍から見ると時の流れを感じるなあ……!
◆そして、過日の地平線通信に会津でイベントが行われるとの記事があった。酒井富美さんが中心になって呼びかけているとのこと、頑張っているなあ、スイッチライフで第二の故郷としている土地のイベントには可能な限り出席しなくては、と 何も考えずにエントリーをした。トレイルランニング初心者講習会である。といっても運動不足の病もち……まともにレクチャーを受けたこともないまま自己流でこれまでやってきたアウトドアースポーツを矯正するチャンスと思って川小屋から参加した。
◆梅雨の中休みで過ごしやすい気候の中、アットホームなイベントであった。地平線関係者を含めほとんどがそれなりのトレイルランナー、といった格好で参加している中、駆け出しの市民ランナーといった体で気後れしながらの参加であった。とは言っても山を駆け回るのは気持ちいい、50年近く山や川を走り回っているから違和感がない、年甲斐もなく無邪気に遊んでしまうのは昔からのこと。そこにインストラクターからの助言で動きを意識できるのは意味がある。これはいい、アウトドアースポーツの講習会づいてしまいそうだ。いやに無邪気な年増の生徒がいたらそれは私かもしれない。(河村安彦 カヌーイスト)
■7月12日。明け方の雨はあがり、朝から夏全開の空がひろがる比嘉漁港は昨年以上の賑わいを見せている。“地平線ダチョウスターズ”。このチーム名を知る人は少なくない。「また来たねぇ。ちばりよ〜!!」挨拶を交わす度に地元の方々からの声援が返ってくる。
◆ここでメンバーを紹介しておこう。前回出場の外間晴美さん、長野亮之介さん、車谷建太に加え地平線会議から掛須美奈子さん、新垣亜美さん、山辺剣さんが新規参入(久島弘さんは今回は応援に)。そして沖縄在住の三宮健さん、野崎晶子さん、さらに長野さんの山仲間である塚本哲さん、平田裕子さんが加わり、今年のダチョウスターズは全員が内地の出身者で(比嘉ハーリーでは初めて)、半分が女性という編成(予選突破の前例無し)。我々は新たな歴史を刻むべく、大会に挑む。3日間の練習では体力温存を考慮し、終始ゆっくりと櫂を合わせることに専念。加えてスタートとカーブのイメージを焼き付ける。チームワークでは昨年を上回っている好感触。しかし、全速力での実戦はぶっつけ本番という運びとなった…。さてさて、どうなることでしょう!?
◆参加した「職域Bグループ」の予選は出場37チーム中、上位8チームが突破出来るタイムレース。前回同様、円陣を組み、長野さんの掛け声で気合いを入れる(これが思っている以上に士気を高める効果アリ)。船頭に三宮さん、掛け声は長野さん、舵取りにはベテランの山根成彦さんが同乗して貰えることに(通常、舵取りは島の方々からどなたかが引き受けてくれることになっている)。
◆皆、一様にやや緊張した趣。海面には真横からの風が吹いている。スタートの合図と共にダチョウ号はハイピッチで飛び出す。この本番での“風をきって加速する瞬間”がたまらない。長野さんの掛け声に合わせて、皆の櫂がひとつになってゆく。温かい声援のなか、最後まで力一杯漕ぎきり、隣りを走るチームを大きくリードしてのゴール。レース後の皆の表情はやはり輝いている。気になるタイムは…!?
◆なんと昨年、予選突破を果たしたタイムを3秒上回る2分16秒。信じられない思いだった。なにせ、前回は外間昇さんをはじめ、晴美さん以外は男性チームでのかなりのいいレースだったのだから。しかし、今回の出走チームのレベルは予想以上に高く、予選突破には及ばず(結果的に2分08秒が今回の通過ライン)、ダチョウスターズの今年のレースはたった一度で終わってしまった。皆の心のなかには、初参加者の多いこのチームで短期間でここまで走れる程に息を合わせられたという充実感と、「勝つ為にはあと何が必要か。」という想いが波のように揺れていた。
◆去年優勝の地元高校生チーム“カッチンバーマJr”は二連覇を成し遂げ、外間昇さんの地元ベテランチームは惜しくも3位という結果となった。照りつける日差しは僕らには少々強すぎたが、会場設営やウニの仕分け等、半ば冗談を言い合いながらも独特なリズムで進められてゆく準備は楽しく、このお祭りを通して、島の皆さんにまたひとつ幸せな時間を分けて貰ったような思いがした。「また来年も来いよ!」その一言がとても嬉しかった。
◆最後に、僕は大会後の民謡ステージに飛び入り参加して、皆さんへのお礼とご挨拶の気持ちを込めて、津軽三味線を弾かせて頂いた。弾き手と聞き手の間に、これほどまでに壁を感じないシチュエーションにはそうそう巡り遭えるものではないと改めて感じた。「来年もこの場所で舟を漕ぎたい!」そう思わずにはいられない、今年のハーリー祭であった。(車谷建太)
山辺「早く負けるとお客になってしまうので、最後まで選手として楽しい気分を味わう為に、来年は決勝で勝ぁ〜つ!!」
新垣「約一週間の島暮らし。とても濃い時間でした。ハーリーには櫂の使い方ひとつ、足のポジションひとつ、コツがあって、島の人達に教えて貰っているうちに、だんだん体で自然と一緒に暮らす島の人達の生活がわかってきた気がします。ハーリーの面白さ、かっこ良さはやってみなければ分かりません!!」
長野「去年よりタイムも上がり、最高のチームワークでした。来年は2分10秒を切って、予選突破!!」
掛須「練習で思った以上にバラバラになりかけました。本番は凄く楽しかった!腹筋と背筋を鍛えます!!」
塚本「悔しいです!ハーリーは、決して力だけじゃないと思う」
久島「今回は事前の調整不足により、応援にまわりました。気楽に観戦できると思いましたが、客観的に観察出来るが故に気をもむこと選手以上で意外に疲れました。来年は選手に復帰を目指して頑張りたいと思います!」
平田「地元の人のお祭りに参加出来たのも、いままで通い続けた地平線の皆さんと島の人達とのつながりがあってこそ。今回初めて参加できて、地平線の皆さん、浜比嘉の皆さんに感謝です。バンザ〜イ!!」
野崎「舟を漕げて幸せでした。やっぱり私は舟が大好きです!」
三宮「疲れました。来年はピッチを上げたいと思います。そしたら優勝です!」
外間晴美「ハーリーはこの一体感が病みつきになりそうです。島んちゅからの評判がとても良く、みんなちゃんと覚えていてくれて、「また来たのか!」とあちこちで声を掛けられ、島在住の私たちも鼻が高かったです!!」
外間昇「ヤマトンチュだけのチームというのは初めて。ハーリーの合宿するなんて、沖縄ではあり得ない。円陣を組んでいるチームも初めて、写真撮影しているチームも初めて。目のつけどころが違うなぁ!」
■地平線通信のみなさん、はじめまして。上智大学探検部3年の井口と申します。去年安東浩正さんにアラスカのことでお話を伺いに来てから(未だ叶わずの夢ですが)、数回地平線報告会や発送作業でお世話になりました。2月の終わりから4月の初めまで中国で「シャングリラ」をテーマに自転車ツーリングを行いましたが、その後目前の探検部の運営で手一杯になってしまい、連絡が遅くなったのにも関わらず、今通信に顔を出させていただいているのは恐縮の限りです。
◆アジア、できれば中国で自転車旅をしたい。でも、ただのツーリングでは、と思っていたところ中国には「香格里拉」(シャングリラ)と呼ばれる町があることを知り、そうだ、シャングリラを目指そう、と決めました。はじめは同期女子2人、男子1人の3人の企画でしたが、女子1人が家庭の事情で参加できなくなり、2人での実行となりました。ちなみに、同期男子は去年入部の一回生で、年は同じですが後輩のような立場でした。以下、報告です。
◆シャングリラとは、"理想郷・桃源郷・ユートピア"を指す。イギリスの作家、ジェームズ・ヒルトンが1933年に出版した小説『失われた地平線"Lost Horizon"』によって、理想郷の代名詞として世界に広く知られた言葉である。そのシャングリラが中国・雲南省に存在するという。しかし、そこ「香格里拉」は元々「中甸(ジョンディエン)」という名の町で、観光目的に近年改名されたものであった。本当のシャングリラはどこにあるのか……? 調べを進めていくうちに、シャングリラと呼ばれる場所は他にも存在していることがわかった。
◆外との連絡手段を洞窟を渡る小船しか持たない村「バーメイ村」、『失われた地平線』の本当のモデルではないかと言われる町「徳欽」、四川省の最後のシャングリラ「稲城亜丁」という3つだ。私たちは「シャングリラの検証」を目的として、この3つの町を目指しスタートした。2009年2月24日から4月6日までの42日間、総走行距離約1800km、ふたりの二十歳によるシャングリラ探しの旅である。
◆第一のシャングリラ、「バーメイ村」は雲南省文山にある。桃源郷伝説もありシャングリラに該当する要素が多い。この村は中国の地図にも「Google map」にものっておらず、場所を特定するのに苦労した。昆明から広南経由ではなく、高良から広西壮族自治区の猫街、古障鎮へ抜けるルートで9日間の道のりだった。
◆最初はとにかく道に迷った。2月28日、石林から師宗まで国道90kmの行程で、早めに着くだろうと予想していた。しかし、目安に一番近くの町「西街口」の場所を聞きながら行ったのが裏目に出た。聞く人3人中3人が全く別のことを言うのである。どうやらこの町は国道沿いになかったのだと後でわかったのだが、そのまま私たちは導かれるままに細い道に入り込んでいき、全く別の道に出てしまった。
◆そこには国道沿いでは見られない絵画のような緑と茶色の田園風景が広がっていた。その景色に感動を覚えながら、国道とは全く違う山続きの道と現在地がわからない不安であまり余裕がなかったので先を急ぐ。そしてやっとのことでたどり着いた宿のある町。しかし宿が空いていない。そこで町の人に声をかけるとあっという間に人だかりができた。まるで動物園のパンダになったような気分だった。この町は三河という町だという。
◆質問攻めにあっている内に、「どこから来たのか」と聞かれた。私ははじめ言うのをためらっていた。日本人だと言ったらなんと思われるかと不安だったのだ。しかし、町の人は「Japanese girl!!」と言って笑顔で歓迎してくれた。そして、宿の主がなかなか来ないというので、なんと一番先に声をかけた人・楊さんの家に泊めてもらえることになった。楊さんご一家も皆やさしくて、得体の知れない外国人の私たちにとても良くしてくれ、楽しい夜を過ごした。予定通りにいっていたら、なかった出会いだった。
◆それから、霧の中のジェットコースター坂道、自転車じゃ無理だと言われた泥沼道、吠える野犬、中でも高良から続く上り坂のドロドロダートで、お金がなくてロードバイクしか用意できなかった相方の自転車はついにノックアウトされ、そこから3日間自転車を押していくことになるなど、やっとの思いで到着したのが3月7日であった。
◆バーメイ村は不思議な場所だった。法利村の入り口から、出水洞の船着場で小舟に乗って長い洞窟を抜けると、切り立った山の間にぽっかり開かれた平地が現れ、中心の広場には家畜が往来し、子供が遊んだりおじいさんが木を切ったりしている。村には学校や公安、郵便局、病院もない。民家の外側には畑があり、家畜も牛・豚・鶏と食糧は村内でまかなっているようだった。少し前に観光地化されたようで、船頭の商業主義や大勢の中国人観光客がおり、すでにそこはシャングリラとは言えなかったが、静かで外とは違うゆったりとした時間が流れるどこか懐かしい場所だった。(2009.07.11 井口恵理 目下探検部部長)<以下次号>
<メモ>宿泊はテントではなく安宿泊。大きい町のドミトリー20〜30元、他では二人部屋20〜30元÷2、一番安いところは8元。かかった総経費は、日本での出費を入れると全部で15万円(うち航空券5万円)程でした。
■しばらくご無沙汰していました。南極帰りの、永島改め岩野です。もろもろありまして単身に戻り、住み慣れた関西に戻ってきました。暮らす場所、帰る場所の大切さを、思い知っている今日この頃です。引き続きモンベルに勤めていて、本社(大阪)広報部にいます。通勤に1時間以上かかりますが、住まいは奈良の大和郡山に求めました。すごく気に入っています。望みを全て叶えてくれる物件に出会えました。自由に使える畑があって、週末の土いじりが暮らしの大きな楽しみです。今日(7/5)初収穫のミニトマトを食べました。旨すぎず不味すぎず、まさに素人の初物という味でした。人もモノも縁だなあと感じます。今後ともよろしくお願いいたします。(奈良大和郡山住人 岩野祥子)
先月号で、「一通の手紙」として、30年前にアフリカで消息を絶った小林淳さんの父上からの書簡を紹介し、彼を知る宮本千晴氏に文章(「帰ってこない」)を書いてもらった。地平線会議発足前の話だが、小林君のことを知る人は、いまも少なくない。通信のこの文章を読んで、当時をよく知る二人、賀曽利隆、山田まり子両氏がそれぞれ一文を寄せてくれた。地平線会議はたかだか30年だが、地平線的な旅人の歴史は、ずっと続いてきたし、これからも続くだろう。若い挑戦者たちに、先人たちの足跡に少しでも関心を持ってもらいたい、と念じつつ、きのうの出来事を伝えておきたい、と思う。(江本嘉伸)
先月号の宮本千晴さんの「帰ってこない」には、激しく胸を打たれた。
宮本さんは小林淳君が東アフリカで消息を絶って以来、この30年近くの間、ずっと十字架を背負いつづけていたことがよくわかった。その宮本さんの背負った重荷の責任の一端はぼくにもある。いや、おおいにあるのだ。小林君は宮本常一先生が所長をされていた日本観光文化研究所(観文研)の若きメンバーだった。武蔵野美術大学の教え子だったこともあり、宮本先生は小林君には大きな期待をかけていた。彼は若くしてフィールドワーカーとしてのすばらしい素養を身につけていたからだ。
そんな小林君はいつしか目を世界に向けるようになった。とくにアフリカには興味を持ったようで、観文研でぼくは何度となく小林君にアフリカの旅の話をした。
「アフリカはいいぞ、おもしろいぞ!」
結果的にはぼくは小林君をアフリカへ、アフリカへとけしかけた。小林君はぼくのヒッチハイクでアフリカ全土をまわったとき(1973年〜1974年)の話に身を乗り出して聞くだけでなく、何度となくメモをとっていた。ほとんど交通費にはお金をかけることなくアフリカ大陸を駆けめぐったのだが、それを聞いて小林君は「そういうまわり方もできるんですか」といった驚きの表情をしばしば見せた。
交通費ゼロ、宿泊費ゼロ(野宿かもしくは村々で泊めてもらう)、食費も限りなくゼロ。わずかな所持金で徹底的にまわりつづけるというカソリ流の旅の仕方を小林君はヨーロッパからアフリカに渡って実践した。
北アフリカからサハラ砂漠を越え、赤道アフリカを横断し、東アフリカへと、小林君はヒッチハイクの旅を貫き通した。交通量が1日何台というようなルートも、ひたすら歩きつづけ、車が来るのを待った。アフリカでは車に乗せてくれても、そのあとで交通費を請求されることが多い。ぼくはそのようなときは、「一銭も払えないよ」といって車を降りるのを常としていたが、小林君も同じようにした。
小林君から届いた最後の便りは東アフリカ・タンザニア北部のアルーシャからのもの。ここまで来ればもう大丈夫というようなところだった。国境を越えてケニアの首都ナイロビに向かえばわずか1日の行程だ。アルーシャ自体が高原の観光都市で何か事件を予感させるようなところではなかった。
だが、小林君はそのようなアルーシャからの便りを最後に消息を絶った。
小林君が日本を旅立ったのは1979年3月19日。その1年半後の1980年12月19日にイタリアのシシリー島から船でチュニジアのチュニスに渡った。アフリカに渡ってから1年3ヵ月後の1982年3月13日にアルーシャに到着。そこから出された彼の手紙には、アフリカでの旅の足跡が書き示されていた。それには434日間で泊めてもらった家の数が94軒、乗せてもらった車の数は518台とあった。
確認できた最後の手紙(1982年3月18日付)には次のように書かれていた。
「タンザニア・ケニア間の国境(ナマンガ)通過は以前よりもだいぶ容易になったようですが、それでもまだイミグレーションとアルーシャ州警察発行のパミットが必要です。パミットをとるのにすこし時間がかかり、タンザニアは物価がおそろしく高いので、ぼくはパミットをとるのをやめて、ビクトリア湖を船で北上し、ケニアからウガンダに向かいます」
宮本千晴さんが中心になって観文研内に小林君の捜索本部ができた。
1982年11月15日、小林君のお父さん、弟さん、それとカソリの3名で「東アフリカ捜索行」に出かけた。東アフリカ各国政府の協力を得て、国境を徹底的にチェックした。その結果、小林君はタンザニアからは出国していないという確認だけはとれた。手紙にもあったビクトリア湖だが、タンザニア内のムワンザ港、ムソマ港、ブコバ港、さらにはタンガニーカ湖のキゴマ港をチェックしたが、小林君が船に乗った形跡はなかった。
小林君を発見できず、その足跡もたどれず、40日に及ぶ「東アフリカ捜索行」を終えて日本に帰ってきた。
あれから27年。お父さんはいまだに小林君の生存を信じ、いつ帰ってもいいようにと、小林君の部屋をそのままにしてある。そして宮本千晴さんも「生きて戻ってきてくれ」と悲痛な声を上げている…。(賀曽利隆)
■江本さん、長い、長いご無沙汰をいたしております。「地平線通信」を、お送り続けて下さってありがとうございます。毎号楽しみに拝読しております。それにしても6月の野元甚蔵さんの貴重な報告会には伺いたかったです。色々な方のコメントを通信で読ませていただき、その場にいたかった!と、強く思いました。ダライ・ラマの支持者がイタリアの友人たちに多い関係(注:まり子さんは札幌とフィレンツェを往復しつつファッション関係の仕事をしている)で、その関係の書籍を読む機会も多く、チベット関連の写真を撮り続けているカメラマンからの現在の惨状を知るにつけ、日本国内での報道があまりにも規制されていることに不満がありました。ここ、札幌でも小さな動きはありますが、ごく少数派です。
◆6月の通信では懐かしい賀曽利さんと千晴さんのお名前を拝見。さらに過ぎ去った時間の流れを、再確認せざる得ませんでした。その時間の中に小林淳君の失踪事件も含まれています。江本さん、私の手元にも小林君の父上からお送りいただいた3部の手記があります。半年前位、突然のご連絡で本当に驚きました。ページを開くと、いきなり自分の名前が登場したことにも…しかも…その後、恋人となる女性を紹介したなんて。信じられない。何も覚えていない自分でした。
◆薄情なようですが、その頃の自分はイタリアで過酷な状況下にあり、小林君からの複写された旅便りを受け取ったのは確か。オリジナルなものはなく、全てコピーされた形跡のあるものでした。現在もフィレンツェの自室に保管してありますが、今回文字化された内容と重複しています。お電話でもお話をさせていただいたのですが、父君の痛恨の思いに胸痛みました。会話の中では、30年という歳月が、まるで夢のように流れていきました。その後、父上へのお便りも書けないでいるのが、誠に情けない状況です。何処かで生きていて欲しいです。
◆私が観文研に勤めていた頃、多くの若者が世界各地に熱く旅立って行きました。その中には、今も「地平線通信」に登場する面々…若き日の賀曽利隆、関野吉晴、岡村隆、街道憲久そして丸山純、武田力、河田真智子…など、ジャンルの異なる旅人達がいました。そうした若者たちが自由に出入りできた空間が「観文研」でした。
◆年齢、性別、国籍を問わず、もちろん定職を持つ人は少なく、バッジや肩書きなしのフリーター集団の研究所でした。お腹を空かす若者に、所長の宮本常一先生から千円を預かってパン屋へ買い出しに行くのも度々。沢山の夢がゴロゴロ転がっているような不思議な世界。
◆その窓口に座っていたのが私でした。帰ってくる旅人から「旅の話」を聴くのが楽しみでした。それが送り出した者への最高の「お土産」だったのです。小林君も、その旅立って行った若者の一人でした。ただ、彼の場合は帰って来なかった。そして、その途中で私自身も1980年「観文研」からイタリアへ旅立ってしまいました。
◆ご無沙汰している時間を埋める事も出来ないことを知りつつ、ご連絡いたしました。PCは、目下レッスン中でなかなか上達しませんが、遅い目覚めをいたしました。「MACBOOK AIR」を持参して行ったり来たりしております。報告会の予定と、上京のタイミングが合わないため出席が叶いませんが、いつか必ずお目にかかれますよう……。(札幌にて 山田まり子)
■11月21日の土曜日、地平線会議30周年を記念するイベントを東京新宿区の牛込箪笥町ホールで行いますが、その日に向けて、琉球の踊りと歌を地平線仲間で、という試みが動きだそうとしています。
◆その第一回の集いが7月31日の金曜日夜に多分新宿区スポーツセンターで開かれる予定です。4月の地平線報告会の最後にダイナミックな踊りを披露してくれた蔵當慎也さん(20)が特別講師として来てくれることになっています。少しでも興味ある方、是非参加を!
◆7月31日18時30分、新宿区スポーツセンター2階大会議室(いつもの報告会場です)(このプログラム、妹尾和子さん、鈴木博子さんらが長野亮之介画伯と相談しつつ進めます)
■来月8月の17日は、地平線会議が誕生して30年になる日です。これまで毎月欠かさず地平線報告会を開催し、地平線通信を発行してきましたが、30年を記念して新たな挑戦を始めています。浜比嘉島での「ちへいせん・あしびなー」、比嘉小児童の写真展の開催、報告書の制作(目下進行中です)、ことし11月21日(土)に決まった記念大集会の開催などなどです。これらの記念の企画を実行するために、恒例の「1万円カンパ」を始めています。地平線会議は、会でもなんでもないので、発足当時もまず「1万円カンパ」をお願いして活動を開始しました。どうかご協力くださいますよう。今月までにあたたかい応援の心を頂いた皆さん方に、熱くお礼申し上げます。
■1万円カンパ振込み先:◎みずほ銀行四谷支店 普通口座 2181225 地平線会議 代表世話人 江本嘉伸(恒例により、カンパされた方々の名を通信に掲載して領収と感謝のしるしとする予定です。万一、漏れがありましたらご指摘ください)。
★斉藤宏子 三上智津子 佐藤安紀子 石原拓也 野々山富雄 坪井伸吾 中島菊代 新堂睦子 埜口保男 服部文祥 松澤亮 田部井淳子 岩淵清 向後紀代美 小河原章行 江本嘉伸 掛須美奈子 橋口優 宇都木慎一 原健次 飯野昭司 鹿内善三 河田真智子 岡村隆 森国興 下地邦敏 長濱多美子 長濱静之 西嶋錬太郎 寺本和子 城山幸子池田祐司 妹尾和子 賀曽利隆 斉藤豊 北村節子 野元甚蔵 北川文夫 小林天心 金子浩 金井重 古山隆行 古山里美 松原英俊 野元啓一 小林新 平識勇 横山喜久 藤田光明 かわのまさや 山田まり子 坂本勉 松田仁志
車谷建太 森井祐介 松澤亮 安東浩正 米満玲 江本嘉伸 久島弘 杉山貴章 田村暁生 落合大祐 妹尾和子 満州 武田力 埜口保男(以上の14名。毎月、印刷、発送作業に汗をかいてくれる方々、ほんとうに感謝です)
■たまに、「地平線会議の会員になるにはどうしたらいいですか?」という問い合わせを頂く。地平線会議は、会ではありません、と返事しながら、つくづく説明しにくいな、先方もわかりにくいだろうな、と感じる。ある意味、常識を離れて自由に、でも多少の責任は感じつつ30年やって来るうち、当初からのかたちが自然と定着した。
◆三輪さんが書いているように、7月22日は、46年ぶりの皆既日食です。次号の通信でおもしろい特集をしたい、と考えています。どこからでも「観察体験」をメールしてください。500〜1000字程度でお願いします。どのように日蝕を体験したか、がテーマです。
◆先月号の通信で何箇所かチェックミスがありました。[1]まず、7ページ下の「南会津トレイル・ラン」のお知らせ原稿、「若葉の眩しい伊南か」で後続が消えています。正しくは「若葉の眩しい伊南から 酒井富美」です。ふみさん、失礼しました。[2]9ページ、網谷さん原稿のあたまに「症候群」とあるのは、文中の「ギランバレー」の後につけるものです。[3]18ページの奥付の「地平線通信354号」/2009年5月13日」は、5月号のままでした。「地平線通信355号/2009年6月10日」が正しいです。以上、お詫びして訂正します。
◆フロントの題字イラスト、わかりますか? ハーリーで頑張った長野亮之介画伯が浜比嘉島の波にゆらゆら「地平線通信」の文字を。うるとらじーじのとともに、夏らしい傑作です。(江本嘉伸)
ウルトラじーじ欧州花追いラン
「日本では高山植物のイブキトラノオが、スウェーデンでは平地に咲いてるんだよ。地続きだった時代の名残りだねー」というのはウルトラランナーの原健次さん。大手企業でエコナ(サラダ油)等の開発に携ってきた化学者です。現役時代から始めた超長距離マラソンにハマりました。 今年4/19〜6/21に開催されたトランスヨーロッパフットレース'09ではバーリ(伊)〜ノルドカップ(ノルウェー)間4989kmに挑戦。スタート15日目に途中休場したため惜しくもルール上の完走はできなくなりましたが、2日後にラン再開。ゴールまで走り抜きました。 植物の知識に詳しい原さんにとって、今回のコースは花の咲く前線と共に北上する“旅”でもありました。ビールと花をこよなく愛し、お孫さんからはウルトラじーじと呼ばれる原さん。欧州走り旅の楽しみを語って頂きます。 |
通信費(2000円)払い込みは郵便振替または報告会の受付でどうぞ
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議(手数料が120円かかります)
地平線通信356号/2009年7月15日/発行:地平線会議/制作:地平線通信制作室/編集長:江本嘉伸/レイアウト:森井祐介/イラスト:長野亮之介/編集制作スタッフ:丸山純 武田力 中島菊代 大西夏奈子 落合大祐/印刷:地平線印刷局榎町分室
地平線Webサイト http://www.chiheisen.net/
発行 地平線会議 〒160-0007 東京都新宿区荒木町3-23-303 江本嘉伸方
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