2009年6月の地平線通信

■6月の地平線通信・355号のフロント(1ページ目にある巻頭記事)

地平線通信表紙

6月10日、関東甲信越はじめ北海道をのぞく日本各地は、いよいよ梅雨入りした。あじさいが美しい季節。路地裏にひっそり咲いているのがいいが、「あじさい寺」のようにいろいろな色のあじさいが咲き乱れる庭や散歩道も素晴らしい。花言葉に「移り気」とあるのは、次々に色が変わることから来ているんだそうですね。

◆5月の地平線報告会、野元甚蔵さんの登場でいつもとはひと味もふた味も違う空気が流れた。チベット関係のフォーラムや拙著『西蔵漂泊』の出版記念会などこれまで何度か上京くださった野元さんだが、地平線会議の報告者として話してもらうのには、さらに大事な意味合いがあった。日本とチベットの現代史の証言者として若い旅人たちの前に立ってもらいたい。野元さんの話を聞くことでひとりひとりが歴史への関心を深めるきっかけになるかもしれない。そんな思いがあった。

◆この通信の中で金井重さんが書いているように、はじめはほんの少し、この92才のチベット旅人を若い人たちがどのように受けとめるだろうか、と気になった。案ずる必要はなかった。詳しい経緯は、報告会レポートと参加者の文章を読んでほしい。

◆野元さんがどのようにしてチベットに入ったか、報告会では話す時間がなかったので、この際補足しておく。野元さんがチベットに向けてたどった道は、インド北部のカリンポンからシッキムを抜けてギャンツェに出るルートだった。立場上自分の通過した場所の地名を詳しくは書き残していないが、当時密かにとったメモの中に「パーリ」「サマダ」などを通過した、としているから、矢島保治郎が二度目にチベット入りした時、あるいは河口慧海がラサを脱出した際にとったと同じ道だった、と思われる。このルートは当時チベットとインドを結ぶ最もポピュラーなルートだった。

◆『チベット潜行1939』の野元さんの文章によれば、馬に乗って山あいの道を進み、「鼻骨が痛くなる」などの高度の影響をあったものの他に大きな困難もなく、5日目チベット圏のチョモ(矢島は「ジョモ」と表記した場所)という村に着いた。「完全にチベット領内に入ったのだが、特別な感慨が湧かないのはどうしてだろう」と、その日の感想を書き留めている。

◆7日目に羊毛の集散地として知られるパーリに着いた。ヒマラヤ越えルートについて野元さんは、こう報告している。「随分きついこともあったが、ヒマラヤの山道が殆ど石畳で舗装されていたのは意外だった。かって英国軍がチベット侵入のとき舗装されたものと聞いた」

◆チベットがロシアと急接近していったことに焦った英国は、1904年ヤングハズバンド率いる軍隊を派遣、チベットに侵攻、ギャンツェまで軍を進め、武力でチベット政府を威嚇した。チベット軍はこれに抵抗、ギャンツェの要塞を砦に激しい戦いが続いた。結局、英軍(といっても、ほとんどインド人かネパール人だった)が勝利し、ダライ・ラマ13世はモンゴルに脱出した。野元さんがたどった道は、この当時の整備されたヒマラヤ越えの道だったのだ。

◆ギャンツェを経て、野元さん一行が目指すシガツェに到着したのは、カリンポンを発って16日目、1939年5月24日だった。「ヒマラヤ越え以来、初めて見る広々とした大盆地である。麦畑の間に緑の樹林に囲まれた大小の農家が散在している」。シガツェ一帯はチベットの穀倉地帯として知られる。農学校出身の野元さんがラサではなく、この地に住んだことは、いろいろな意味で貴重なことだった。

◆たとえば、「土地が甚だしく乾燥しているので行われている独特の農法」について、次のように伝えている。「春になると河の水を畑に引いて、湿りを与えたあと一度鋤き返し、更にもう1回水を引いてから種を蒔く。発芽してから収穫するまでは度々灌水する」「農作物は、麦、豌豆、菜種、大根等で春から秋にかけての一毛作である。そこで、一枚の畑に二種以上の種子を同時に蒔くことが多い」。詳しい報告を紹介し始めたらきりがない。チベットと日本の歴史を考える貴重なきっかけを与えてくれた薩摩の偉大な先達にお礼を申し上げます。

◆絵描きや写真家にとって「個展」というのはどんなに大事なことだろうか、と思う。が、その「個展」をこんなに仲間たちが楽しんでしまう、というケースは滅多にないだろう。5月16日、東中野のポレポレ座カフェで開かれた《百顔繚乱展−長野亮之介の顔仕事!!・地平線の夕べ》の場にいて、しみじみそう思った。ともかく、画伯本人と淳子さんは勿論、全参加者が心と体のすみずみまで全開して楽しんだ、という感じなのだ。単に長年地平線のために似顔を描き続けたことへの感謝、のレベルではないぞ、これは。そんな驚きをこめて、今号は野元さん、画伯をめぐる二大特集のかたちとなった。(江本嘉伸)6月10日、関東甲信越はじめ北海道をのぞく日本各地は、いよいよ梅雨入りした。あじさいが美しい季節。路地裏にひっそり咲いているのがいいが、「あじさい寺」のようにいろいろな色のあじさいが咲き乱れる庭や散歩道も素晴らしい。花言葉に「移り気」とあるのは、次々に色が変わることから来ているんだそうですね。

◆5月の地平線報告会、野元甚蔵さんの登場でいつもとはひと味もふた味も違う空気が流れた。チベット関係のフォーラムや拙著『西蔵漂泊』の出版記念会などこれまで何度か上京くださった野元さんだが、地平線会議の報告者として話してもらうのには、さらに大事な意味合いがあった。日本とチベットの現代史の証言者として若い旅人たちの前に立ってもらいたい。野元さんの話を聞くことでひとりひとりが歴史への関心を深めるきっかけになるかもしれない。そんな思いがあった。

◆この通信の中で金井重さんが書いているように、はじめはほんの少し、この92才のチベット旅人を若い人たちがどのように受けとめるだろうか、と気になった。案ずる必要はなかった。詳しい経緯は、報告会レポートと参加者の文章を読んでほしい。

◆野元さんがどのようにしてチベットに入ったか、報告会では話す時間がなかったので、この際補足しておく。野元さんがチベットに向けてたどった道は、インド北部のカリンポンからシッキムを抜けてギャンツェに出るルートだった。立場上自分の通過した場所の地名を詳しくは書き残していないが、当時密かにとったメモの中に「パーリ」「サマダ」などを通過した、としているから、矢島保治郎が二度目にチベット入りした時、あるいは河口慧海がラサを脱出した際にとったと同じ道だった、と思われる。このルートは当時チベットとインドを結ぶ最もポピュラーなルートだった。

◆『チベット潜行1939』の野元さんの文章によれば、馬に乗って山あいの道を進み、「鼻骨が痛くなる」などの高度の影響をあったものの他に大きな困難もなく、5日目チベット圏のチョモ(矢島は「ジョモ」と表記した場所)という村に着いた。「完全にチベット領内に入ったのだが、特別な感慨が湧かないのはどうしてだろう」と、その日の感想を書き留めている。

◆7日目に羊毛の集散地として知られるパーリに着いた。ヒマラヤ越えルートについて野元さんは、こう報告している。「随分きついこともあったが、ヒマラヤの山道が殆ど石畳で舗装されていたのは意外だった。かって英国軍がチベット侵入のとき舗装されたものと聞いた」

◆チベットがロシアと急接近していったことに焦った英国は、1904年ヤングハズバンド率いる軍隊を派遣、チベットに侵攻、ギャンツェまで軍を進め、武力でチベット政府を威嚇した。チベット軍はこれに抵抗、ギャンツェの要塞を砦に激しい戦いが続いた。結局、英軍(といっても、ほとんどインド人かネパール人だった)が勝利し、ダライ・ラマ13世はモンゴルに脱出した。野元さんがたどった道は、この当時の整備されたヒマラヤ越えの道だったのだ。

◆ギャンツェを経て、野元さん一行が目指すシガツェに到着したのは、カリンポンを発って16日目、1939年5月24日だった。「ヒマラヤ越え以来、初めて見る広々とした大盆地である。麦畑の間に緑の樹林に囲まれた大小の農家が散在している」。シガツェ一帯はチベットの穀倉地帯として知られる。農学校出身の野元さんがラサではなく、この地に住んだことは、いろいろな意味で貴重なことだった。

◆たとえば、「土地が甚だしく乾燥しているので行われている独特の農法」について、次のように伝えている。「春になると河の水を畑に引いて、湿りを与えたあと一度鋤き返し、更にもう1回水を引いてから種を蒔く。発芽してから収穫するまでは度々灌水する」「農作物は、麦、豌豆、菜種、大根等で春から秋にかけての一毛作である。そこで、一枚の畑に二種以上の種子を同時に蒔くことが多い」。詳しい報告を紹介し始めたらきりがない。チベットと日本の歴史を考える貴重なきっかけを与えてくれた薩摩の偉大な先達にお礼を申し上げます。

◆絵描きや写真家にとって「個展」というのはどんなに大事なことだろうか、と思う。が、その「個展」をこんなに仲間たちが楽しんでしまう、というケースは滅多にないだろう。5月16日、東中野のポレポレ座カフェで開かれた《百顔繚乱展−長野亮之介の顔仕事!!・地平線の夕べ》の場にいて、しみじみそう思った。ともかく、画伯本人と淳子さんは勿論、全参加者が心と体のすみずみまで全開して楽しんだ、という感じなのだ。単に長年地平線のために似顔を描き続けたことへの感謝、のレベルではないぞ、これは。そんな驚きをこめて、今号は野元さん、画伯をめぐる二大特集のかたちとなった。(江本嘉伸


先月の報告会から

ノムタイがチベットで見たこと

野元甚蔵

2009年5月22日 新宿区スポーツセンター

■河口慧海・能海寛・矢島保治郎・多田等観……。明治から昭和にかけて10人の日本人がチベットに潜行した。そしてその中の1人であり、昭和の難しい時代にチベット入ったのが、今回の報告者、現在92才の野元甚蔵さんだ。それらの事を私は、今回の報告会が予告されるまで、殆ど知らなかった。およそ70年前!近代史の教科書に書かれてもおかしくない様な事をされた方が目の前にいる!

 そう思うとすごく不思議な気分。貴重な機会に、緊張です。

◆立ちあがり挨拶をすると野元さんは、そのまま座らず話し始めた(途中で頼まれ、お座りに。ものすごくお元気!)。鹿児島県の開聞岳の麓の農家、時々漁師の家の三男坊として生まれる。農業高校を卒業したのは、関東軍により中国に傀儡国家の「満州国」が「五族協和」のスローガンと共に建国され、3年が経った頃。同郷のツテを辿り満州(の天津)の特務機関で、中国の情報を書き写すという仕事に就いた。数か月後、声がかかった。「蒙古に行かんか?」。

◆当時の国策として、モンゴル語を話せる若い人を育成することがあった。18才だった野元さんにとってモンゴルに行く事は、まさに「冒険」。しかし一晩考え、「どういう所か知らんけど、若いうちだ、やるだけやってみよう」。

◆野元さんを含め4人の青年が1人ずつ草原のモンゴル人のゲルに預けられ、一緒に生活を始めた。内蒙古のアバカから50キロ程離れた、資産家の役人・ニマメイリンの所に迎えられた野元さんは「ノムタイ(野元が訛って。ノムはモンゴル語で「本」、「学のある人」を意味するとのこと)」と呼ばれ、家族の一員のように生活をした。半年程で日常会話を喋れる様になり、ニマ家の人達とも仲良くなって、冗談も云える様に。だが会話よりも困ったのは、文字の勉強だ。持ってきたノートは2冊だけ。新たに入手はできず、同じノートに鉛筆→万年筆→墨と書いてゆき6冊分として使った。

◆20歳になった時、懲役検査の召集状が来た。検査は北京で行われ、まずは張家口に行かなければならない。ニマメイリンに馬を貸してくれるよう頼むと、血相を変えて「ダメだ」、「兵隊になんかなったら死んでしまう!」。当時、日本には兵役の義務があり、徴兵検査を受けないと「非国民」として厳罰が下される。けれど、野元さんはモンゴル語でそれを上手く説明する事ができなかった。

◆家の人が寝静まった夜、歩き始めた。星で方角を、犬に吠えられればそばに民家があると知る。狼と間違えられ、鉄砲の音が響いた。その時、「闇夜の鉄砲避けられぬ」という諺が浮かんだという。翌朝、ニマ家の家族たちが慌てて探しに出た。「止められた時は憎らしく思ったけれど、後から思えば、本当に可愛がってくれていたんじゃろうと、感謝の気持ちです」。

◆その頃の野元さんの写真がうつし出された。若々しく、前頭部を剃り、後ろの髪は束ね垂らしている弁髪姿。当時のモンゴル人の男性は、多くが弁髪だったそうだ(弁髪は満州族の習慣で1911年の辛亥革命で清朝が崩壊した後は不要だったはずなのに、奥地では根強く残っていたのだろう、と江本さん)。

◆すっかりモンゴル人風の野元さん。検査で疑われないように「特務機関の者だ」という証明書を書いて貰い、夜行列車で北京へ向かった。しかし日中関係は非常に緊張しており、中国の検閲は厳しい。野元さんは個室を利用し、念のため証明書を蒙古靴と防寒靴下の間に隠した。途中警乗兵が来たが、出発前に奮発したチップが効いたのかボーイが追い払ってくれ、事なきを得たという。

◆検査の後、一年半暮らしたニマ家からブリヤート部落に移る事になり、今度はそこでロシア語が堪能なダシニマ氏との10か月程の共同生活が始まった。モンゴル語と日本語を教え合い、集落の子供達にもモンゴル文字や日本語を教える毎日。そんなある日、ダシニマ氏が「チンギスハーンの伝記を蒙古語で書いてみないか?」と言う。「とても無理」と断ると、にっこり笑って「物事はやってみないと判らないでしょう」。初めは間違いだらけだったが「慣れと云うのは恐ろしいもんで」、最後にはほぼ満点で書ける様になった。野元さんが後に「蒙古語1級」に受かったのがわかる話だ。一方、ダシニマ氏もその後日本に留学し、再会した時には流暢な日本語を話せる様になっていた。「そういう嬉しい思い出もあります」と、本当に嬉しそう、楽しそう。一語一語、大切な思い出を紐解く様に、野元さんのお話は続く。

◆モンゴル人は大のお酒好き。ある日所用に行き、一緒に来てくれた男性に小遣いを渡した。そして馬を並べての帰り道──。「バクシー(先生)!」と呼ばれ見ると、男性は懐から白酒の瓶を出す。貰ったお金で買ったのだ。一口目を呑んでくれと譲らないので、口に含んでみたら…「これがもー!焼けつく様でした」。それからも「バクシ!」「バクシ!」と瓶が空っぽになるまで、呑み合いは続く。本当はまったくの下戸の野元さん、「よく馬から落ちず家に帰れたものです」。

◆小休止の後、いよいよチベット潜行の話に。当時日本にチベットの情報はまったくなかった。誰か若者を潜入させよ、との指令が上部から出たようだ。折りから北京に滞在していたシガツェのタシルンポ寺の高僧・アンチンホトクトが帰郷するところだった。この機会にモンゴル語の達者な若者を「お供」としてチベットに、との指示が出たのだろう。

◆今度はチベットに行かんか、と野元さんに白羽の矢が立った。野元さん曰く、自分は一緒にモンゴルに入った4人の中で一番苦労したので選ばれたのではないかなあ。道中もチベット滞在中も、アンチンの秘書だった王明慶氏が野元さんの面倒をみてくれた。

◆「ヒマラヤ越えも省略しまして……」と残念そうに野元さん(本当に貴重なお話ばかりで、時間が全然足りないのです!)。ここからは、ダライラマ14世に絡んだ話に。野元さんがチベットに潜行した1939年というのは、ダライラマ13世の転生者である14世が見つかり、故郷の青海省からラサに入った年。ラサで14世の行列を拝観した、ただ1人の日本人が野元さんなのだ。

◆シガツェで王氏の家に逗留していたある日、中国で仕入れた品物を捌く為にラサへ行くという彼に同行。2週間近くかかる険しい行程を進み、初めてチベットの首都ラサに足を踏み入れた。そして滞在中、まだ4才の14世の行列に遭遇する。歓迎の人波の中、覆いのかかった4人担ぎの輿の中に14世はいた。外から見たってどんなお顔かは判らない。それでも集まった人々は拝み、満足して……。その時の情景が伝わってくる。野元さんのお陰で私は、自分にはただ遠かった70年前のチベットの事が、少しだけ身近に感じられるような気がした。

◆その時はお顔が判らなかった14世に、40年後、再び会う機会が訪れた。講演で鹿児島市に訪れ、西郷墓地に参拝されたのだ。「ああ、この方がダライラマなんだな」と人だかりの後ろで見ていたら、側近の人が「野元さんですね?」。「ハイ!」と進み出ると、14世は「あの時の行列に」と懐かしそうに、固い握手。その時の感激というのは!

◆逗留しているホテルにも来る様にと云われた野元さん。見晴らしの良いホテルの2階、桜島を背にし14世は「ニコッ」とほほえまれた。チベット潜行のことを「なぜ本にしないのか?」と聞かれたので、「自分がチベットに行って帰って来れたのはすべてチベットの人達のおかげ。もし本にしたらその人達にどんな迷惑をかけてしまうか判らない」と答えたという。すると、14世は何遍も頷かれた。そして、「日本もチベットも仲良くしていこう、とお別れしたわけです」。

◆2001年になって、野元さんは『チベット潜行1939』をまとめた。他の9人と違っているのは、当時のチベットの「農業」をしっかりと見て記録した事だ、と江本さんは言う。会場では14世から貰ったという指輪と数珠。そして昔、野元さんが関東軍に提出した極秘の報告書「入蔵記」のコピーが回された。現代のチベットに詳しい長田幸康さんのお話、遥々駆け付けてくれた野元さんのご家族の紹介の後、「今まで生きてきて一番大事なのは、『人と人との付き合い、信頼関係』だと思うんです」、と野元さんは言った。92年という年月の重み、鹿児島弁、そしてなにより、お人柄──。シンプルな言葉が胸に迫り、私はあわや泣きそうになってしまった。「それを伝えたかったんだけど、話が下手だし、頭も悪いし……」そう心配する野元さんに「とんでもない!」とばかりに、会場の拍手は暖かく、いつもより長く長く続いた。最後に「お互いお元気で。又、お会いしましょう」と云われると、またお会いするまではがんばるぞ!と若い私の方が奮起させられる。すっかり「野元さん」に魅了された、報告会だった。それから、私は思ったのだ。もっと歴史を勉強しなければ。その上で、もう一度チベットに行ってみたい、と。(昔、なにも勉強せずにチベットに行った事のある、加藤千晶


報告者のひとこと

70年前の私の体験が若い皆さんの少しでもお役に立ったのならこれ以上のことはありません

■地平線会議でお話しした時は少しも疲れを感じなかったのですが、その後千葉の長女のところで数日過ごし、鹿児島の自分の家に帰った時は、さすがに、ほっとしたというか、ちょっと疲れが出ました。いい経験をさせてもらいました。実は、どこでどう話を切り替えていったらいいかわからないままお話しし、話し終わった時は、なんとも自信が持てなくて、一緒に連れて行った娘たち二人が恥ずかしい思いをしたのでは、と一瞬気遣ったのです。

◆だから、あんなに皆さんのあたたかい拍手に包まれるとは思いませんでした。話し終えた後、若い皆さんが列をつくって私ごときの署名を喜んでくれ、握手を求められるなんて、想像もしないことでした。これまでチベットをテーマに何回か講演会やフォーラムに出たことがありますが、地平線会議の集まりはそれとはまったく違う雰囲気でした。

◆あの日、会場に入った時は、こんなに広い部屋で、と驚き、半分も席が埋まるだろうか、と心配しましたが、あとで聞くと椅子が足りなくて後ろで立っている人もいた、とのこと。それだけの方々が集まって下さり、ほとんど私語もなく話しを聞き入ってくださったこと、そして、思った以上にお褒めを頂いたことが嬉しいです。

◆70年前の私の体験が若い皆さんの少しでもお役に立ったのならこれ以上のことはありません。話しましたように、私の体験は実に多くの方々に助けられて、のことでした。危ない目にあいそうな時、どうにか切り抜けてこれたのは、すべて他人さまのおかげです。出会い、というものはほんとに素晴らしいですね。私の場合、家族にも恵まれました。離れて暮らしている子どもたちも皆気を遣ってくれて、ありがたいことです。

◆それにしても地平線会議、30年も休むことなくこうしたことをやってこられたとは、大したものですね。毎月の地平線通信を読んで(目が悪くて全文は読めませんが)、地平線会議にはいろいろな人たち、仕事も立場も年齢も性も違う人たちがそれぞれ一所懸命にやっていることにほんとうに感心します。今回報告会に出して頂き、一層その思いを深くしました。

◆これだけ多彩な人たちを一つにまとめているのは、並大抵なことではないでしょう。それをまとめている江本さんがすごい、とあらためて思いました。ありがとうございました。(野元甚蔵


報告会・その後

野元甚蔵さん、ありがとうございました

■日本人が初めてチベットの都ラサに足を踏み入れて100年目の2001年、江本さんを中心として「チベットと日本の百年」というフォーラムが東京で開催された。

◆19世紀末から20世紀初頭は、インドを既に手中に収めていた英国、南へと勢力を延ばしたいロシア、混乱期の清、そして大東亜共栄圏をめざす日本と、各国がそれぞれの思惑でチベットを目指していた時代だ。想像しただけでもクラクラする「歴史の本」の中にあるそんな時代にチベットを目指した10人の日本人がいたのである。

◆明治・大正期に河口慧海・能海寛・寺本婉雅・成田安輝・青木文教・矢島保治郎・多田等観の7人、そして昭和に入っては野元甚蔵・西川一三・木村肥佐生の3人である。明治・大正は仏教の原典や冒険、昭和に入ると軍の要請による情報収集というように時代とともに目的は変化していくのだが……。

◆その10人のうちの最後の2人がこの「百年フォーラム」に出演して くださった。当時84歳の野元甚蔵さん、そして同時代にラサ潜入を果たした西川一三さんもご健在で(08年2月逝去された)、歴史の生き証人の発する言葉に、チベットと日本をつなぐものが100年も前から確かに息づいていることに感動したことを鮮明に覚えている。

◆野元さんはモンゴル人に扮してタシルンポ寺(チベット第2の都市シガツェにある大僧院)の高僧の一行に紛れてチベット入りし、1年半をシガツェやラサの有力者の庇護の下で過ごした。弁髪姿の若かりし日の上品な写真にも目をうばわれた。何しろ、弁髪などという言葉は「歴史の本」の中の言葉なのにそのご本人が目の前にいたのだ!

◆一方、西川さんはモンゴル僧として数年間を、ラサのデプン寺や各地で暮らし最下層のチベット人を見つめた。そのせいかこのフォーラムで「チベット人は大嫌いだ!」と言い放って、会場を驚かせた。私自身は目が点になりながらもチベット好きばかりが集まっている場でそう言い切る西川さんの勇気に一本とられた気分になった。さすがの無頼漢。南国・鹿児島で暮らす野元さん、雪国・岩手在住の西川さん、どこをとっても対照的なお2人のこれまた対照的な「チベット観」が圧巻だった。

◆「百年フォーラム」から8年、その間2度お目にかかる機会はあったが、今回、久々にナマ野元さんにお目にかかり、変わらない話し振りと足取り、そして、記憶の鮮明さに再び驚かされた。非常に達者だというモンゴル語をお聞きできなかったのが心残りではあるが、報告会当日にご自分で作ったという竹ペン(チベットの伝統的な筆記用具)や紙に書かれたチベット語を拝見して嬉しくなった。以前はチベット語は忘れたようなことを仰っていたそうなのだが、それは謙遜だったことが判ってしまった♪

◆また、1980年にダライ・ラマ14世と鹿児島で再会(1度目はナンと法王が4歳の頃!)された時に法王より賜ったというプラチナ台に山珊瑚の指輪も手に取らせていただいた。もの凄い大サービスである。そして、今日居合わせた人はなんとラッキーなことだろう。チベット関係の集まりではあまり語られることのなかったチベット以前の経緯が語られ、野元甚蔵という人物の生き方が一筋の線としてつながった。野元さんの鹿児島弁が心に滲みる(この朴訥とした鹿児島弁なくして野元さんはありえないと思う)。

◆国策に翻弄された青春時代を飄々と語られる姿、帰国後、世話になった人々に迷惑が及ぶことを懸念し、長い間、記録に残さなかったという信念、最後に語られた「出会いを大切にしなさい」という齢92の大先輩の言葉に、人生を肯定して折々をせいいっぱい生きなさいと背中を押されたような気がした。

◆物事をあるがままに受け止めるといった野元さんの素直な姿勢が、巡り巡ってモンゴル語を学習した時にもチベットでの生活にも、日本に戻られてからのダライ・ラマ14世との再会時のエピソードにも顕著に現れている。今日はチベットのお話を伺うはずだったのだが「生き方」のコツをご教示いただき、私にとってはかけがえのない日となった。

◆野元さんのチベット行から今年でちょうど70年。命がけで何年も費やさなければ辿り着くことのできなかった先駆者たちの時代とはうって変わって、日本を発った翌日にはラサに到着できる。チベットはなんと近くなったことだろう。しかし、チベットの中国化は年々進み、それに抗議の声をあげた昨年3月以降、チベットは限りなく遠くなってしまったような気がする。できることなら、野元さんが過ごした時代のチベットにタイムスリップしたいと願うのは私だけではないだろう。(田中明美

一期一会━━今、この文を書いていても、報告会会場での話が甦り、野元さんの優しさ、義理堅さに涙が出そうになる

■ウィキペデイアで調べると「一期一会」とは茶道に由来することわざで、もしかしたらもう二度とは会えないかもしれないという覚悟で人には接しなさい、という意味と説明されている。今回の報告会には、僕も最初からその覚悟で臨んでいた。なにせ事前に江本さんより「鹿児島在住の野元さんが東京に来るのは滅多にないよ」と聞かされていたからだ。

◆そもそも野元さんとはどういう人なのだろう。通信に書かれた元陸軍特務機関員という肩書き。江本さんの語る穏やかな人柄。仕事と人格は別物だから、穏やかな特務機関員というのは矛盾しないはずだ。なのに自分の中でそのふたつがどうしてもかみ合わない。まだ江本さんですら知らない野元さんの別の顔が、地平線という特殊な空気を持つ場の中で出るのでは、という密かな期待もあった。

◆世間話のように事実を力むことなく話す野元さん。しかしその一言一言はすべてが誰にも語れない歴史のヒトコマだった。そしてキーマンが現われることである日いきなり決まってしまう、野元さんのモンゴル行きやチベット潜入。運命というのは本当に不思議だ。

◆後半、ダライラマ14世との鹿児島での再会の話はもうたまらなかった。なぜこの人が人ごみの後ろから、ダライラマを覗かなければならないのか。国は野元さんの体験を何ひとつ評価することもなく無かったことにしているのか。他人事ながら悔しくてしかたない。

◆しかし当の本人は世間の評価などまるで求めていず、なんだか幸せそうだ。などと勝手に心乱れていると、野元さんがチベットでの出来事を人に話さない本当の理由があかされた。ダライラマの付き人の手配で翌日ホテルで会った二人。ダライラマが野元さんに、なぜ記録を本にしないのか、と問う。それに対する野元さんの答えが「自分が日本に生きて帰ってこれたのは、モンゴル人になりすました自分を見つからないようにかばってくれたチベットの人たちのおかげである。まだ存命中であろうのその人たちが私にしてくれたことを、情報として出せば世界がその人たちをほうっておかないだろう。私が話せば世話になった彼等の恩をあだで返すことになる」。

◆なんという……。今、この文を書いていても、報告会会場での話が甦り、野元さんの優しさ、義理堅さに涙が出そうになる。結局、ダライラマの「もういいのではないか」のひと言に背中を押されるように野元さんは原稿書きに打ち込む。もし野元さんがダライラマをこっそり見にいってなかったら、付き人が野元さんに声をかけなかったら……。これこそまさに一期一会の出会いだろう。そして野元さんの締めの言葉も「人との出会いのありがたさ」だった。(坪井伸吾

すばらしい92歳!! チベットの霊気が野元さんの手をとおして、私にも流れ込んできましたよ

■すばらしい92歳ですね。なぜ野元さんがチベット入りメンバーとして選ばれたのかも分かった気がします。選んだ人に見る目があったし、それだけの若者だったんだと実感しました。いまの時代には想像もできないようなチベットへの厳しい旅。そのうえ身分も国籍も偽っているのですから、いつもハラハラドキドキだったことでしょう。その旅のことを、実に楽しそうに話す野元さん。こういう肚のすわった日本男児がいた、いまもカクシャクとしておられるというそのことだけでもうれしくなる報告会でした。

◆1980年、鹿児島でダライ・ラマとかわされたという会話がまたよかった。なぜ、旅の記録を書かないのですかと聞かれ、私のチベット潜入には多くの人の手助けがあった、その人たちに迷惑がかかってはいけない、と潔く話す野元さん。それに対しダライ・ラマが「もう、いいじゃないですか」。時間が過ぎた、状況もかわった、私もあなたも年を重ねた、というさまざまな思いがこもる一言に、ダライ・ラマという人がなぜ、多くの人から敬愛されるのかもわかった気がしました。野元さんがダライ・ラマ様からいただいたという山サンゴの指輪とお数珠。手に取り、ふれさせていただき、チベットの霊気が野元さんの手をとおして、私にも流れ込んできましたよ。感謝します。

◆そんな野元さんを現代史のなかから発掘した江本さんもエライ! 会場でカメラを構えていたお孫さんと少しだけお話ししましたが、「江本さんとはよーく遊んだんだ!」と言っていました。取材対象のご家族からそんなふうに言われるなんて、なんていったらいいかな、取材者冥利に尽きる! 江本さんにも感心して帰ってきました。(佐藤安紀子

人柄はちゃんと伝わる。人そのもの生身の人間の力ですね

■江本さん、5月の地平線会議よかったですね。大勢集まった若い人たちが静かに最後まで熱心に聞いてくれたことに感激しました。人柄はちゃんと伝わる。テレビとは違うよ、人そのもの生身の人間の力ですね。

◆実は私どきどきしていたのです。去年わずか2時間ちょっとお邪魔した(注:重さんは九州の旅の途中、開聞岳の麓の野元さん宅を直撃した)だけなのに、他人のような気がしません。折角上京して話してくださるのに、集まった人たちがちゃんと受けとめてくれるか緊張してました。ほんとによかった。

◆もひとつおまけがあります。前の席の若い女性に“ここいいですか?”と声かけて座ったら「しげさんですか、私は江本さんの家と近所です。犬の散歩でお会いしてます。そしてしげさんの原稿ワープロにうちました」。私はびっくり仰天。まあ江本さん、すみにおけない(すみにおいたことないけど)、こんな若い女性とあいさつしてちゃっかり用事もたのんでほんとに怪しい男性です。(金井重

ありがとうございました。やはり本を読んだだけと、実際にお会いするのとでは皮膚感で伝わってくるものが全然違いました。

■こんにちは。仙台の渡邊と申します。先日は野元甚蔵さんの報告会に参加させて頂きましてありがとうございました。ご著書は拝読していたのですが、まさか当のご本人のお話を直接伺える機会が訪れるとは思ってもいなかったので、平日ですが頑張って仙台から上京致しました。

◆お話された内容はご著書の中味を簡単になぞるようなものでしたが、話し方の節々から伝わってくる野元さんの実直なお人柄に大変感銘を受けました。お話の最後に、「心を持って接すれば気持ちは伝わるということを私は彼らから教わりました。滞在中も色々な人に助けてもらいましたし、それがなければ私一人の力ではとても無理でした。その後の人生を有意義に過ごすことができたのもその教えがあったからです。私はそれを教えてくれたモンゴル人、チベット人に大変感謝しております」 というようなことをおっしゃっておりましたが、入蔵前に等観から助言された、「いつ、どこにおいても人と交わるには誠をもってせよ。」の言葉を現地でも忠実に守られた野元さんだからこそ成し得たことなのだろうと思います。

◆やはり本を読んだだけと、実際にお会いするのとでは皮膚感で伝わってくるものが全然違いました。個人的には私の祖父が戦前、北京放送局(北京広播電台)に務めており、昭和19年当時は徳勝門大街に住んでいたそうなので、雍和宮近くにお住まいだった野元さんとは大陸的な距離感ではご近所だったのかなぁと不思議な気持ちになったり、自分もかつて訪れたことのあるカリンポンやシガツェの往年の様子に思いをはせたりと、あっというまの2時間でした(また余談ながら野元さんは帰国後、「入蔵記」を届けに再び仙台の等観を訪ねておりますが、その当時等観が下宿していた林香院というお寺は私の自宅からそう遠くないところにあるので自分の住んでいる町とのちょっとしたご縁も感じたりしました)。

◆本当はアパカ出身の内モンゴル人の知人にも声をかけていたのですが、残念ながら急だったので今回は参加できませんでした。 ノモタイはまだまだお元気そうなのでまたいつかお話を伺える日が来るかもしれません。その時は彼らも誘ってノモタイの“完璧な”モンゴル語を聞いてみたいと思います。最後にこのような機会をあたえてくださった江本様並びに地平線会議の皆様方、本当にありがとうございました。感謝を込めて(仙台にて 渡邊崇拝)

亡き母が待ち望んでいた『チベット潜行1939』

 5月22日92才の父が妹と上京し、地平線会議の皆さんの前で記憶を確かめるように話し始めました。大丈夫かな、と妹と少しドキドキしながら後ろの席で聞いていましたが、家族というのは、こういう場合、大体オーバーに心配するものかもしれません。皆さんがお世辞でなく真剣に聞き入ってくださっていることに安堵し、無事話し終わった時は、父を讃えたくなりました。

 「人様に受けた恩を忘れてはならない。大切なのは真心」物心ついた頃からいつも耳にしてきた、父の言葉です。モンゴル、チベットでの話を聞くようになってからその言葉が思っていた以上に深い意味があったことに気がつきました。大変な思いをして無事に帰国できて後に母と出会い、現在自分たちが存在していることに、大げさですが震えるほどの感動を覚えます。

 父は昭和19年の正月、母幸子と結婚しました。中国から一時帰国してお見合いし、会った途端「この人となら一緒になりたい」と思ったそうです。娘である私から見ても仲のいい夫婦でした。まわりの人たちから「甚蔵さんは仏様のような人だ」「幸子さんは優しく、きれいで朗らかだ」などと言われると、相手を思う二人のまんざらでもない表情が思い出されます。思春期のころの私は、この両親を悲しませるようなことだけはしてはならない、と思ったものです。

 「財産はないけれど家族という暖かい財産がある」と父はよく言います。私たちもその言葉に素直にうなずきます。家族の仲のよさは私たちの小さな自慢なのです。でも、口惜しいことに呼吸器系が弱かった母は、平成7年、家族に見守られて旅立ってしまいました。

 父が苦労して得た体験の記録について、母は、私にはよく口にしてました。「お父さんが体験してきたことを小さな冊子でいいから残してほしいね、子どもたちのためにも」。

 「小さな冊子でいいから」という母の願いから江本さんとの出会いがあり、父自身も並々ならぬ努力をして『チベット潜行1939』という立派な本が平成13年完成しました。その最初の一冊は、父の手で母の仏前に供えられました。

 今回、東京に来て、その本が完売した、と聞きました。それだけの人に読まれたのだ、と父はむしろ嬉しそうでした。

 私は地平線通信の愛読者です。父の報告をこの通信で読めるなんて思いもしないことでした。江本さん、地平線会議の皆さん、ありがとうございました。(中橋蓉子 野元甚蔵長女)

もうひとつのチベット潜行報告━━田村暁生自転車11000キロ旅から

■5月末、都内で田村暁生君のチベット自転車旅報告会が開かれた。田村君と初めて会ったのは、確か地平線会議310回目報告会で安東さんの「チュコト半島春景色」の時だった、と思う。二次会の「北京」で、いつ仕事をやめて旅に出るかそんな話をした。そして彼はその時の話通り、チベットまで自転車旅をして帰ってきた。以下、そんな彼の旅報告をお伝えする。

◆田村君はタイから旅を始め、ラオスを経由して中国雲南省へ入り、大理に到着後、シャングリラを経由してラサを目指した。ところが大理に滞在していた昨年3月、ラサでチベット人による抗議行動が発生し、シャングリラからラサへのルートは公安による検問の厳しさから諦めざるを得なくなった。

◆チベットへ行くルートを探し、成都へ向かう途中、四川大地震が発生。当時、田村君は地震の発生を知らず、峨眉山市に到着した時街が妙に賑やかでお祭りでもやっているのかと思ったという。ボランティアとして、成都から車で2、3時間くらいの場所にある被災地へ向かったものの、中国政府からの人員、物資は余るほどあり、結局田村君たちは何もすることがなかったという。

◆チベット行に備えビザ取得のため一時帰国。成都に戻り、今度は多くの被災者を出した北川県へ瓦礫の整理に行く。中国の建物は地震への対策がなされてなく、レンガを積み上げてモルタルを塗っただけなので地震でバラバラになるという。写真には鉄筋らしいものは見当たらなかった。家が跡形無く文字通り瓦礫の山になっている写真はとても印象的だった。

◆6月24日、チベット開放がニュースになり、いよいよ成都からラサへ自転車で出発。ところが出発3日目にして、公安に捕まり追い返されてしまった。チベットから来たライダーの話を参考にして、今度はゴルムドまでは列車で行き、そこからは自転車で進むという戦略を取った。とにかくチベットへ。

◆ゴルムドから5000m級の峠をいくつも越えて、夜中に公安の検問を突破し、無許可の旅人であるため通報を恐れてなるべく宿には泊まらずキャンプで川の水を飲みながらラサを目指した。これだけ厳しい自転車行をしながら、本人は内容を誇張することもなく、話を淡々と進めた。そして、8月6日ラサに到着した。オリンピック開催の2日前だった。何ヶ月も待った瞬間であったはずだ。チベット暴動、四川大地震、オリンピックによる厳戒令、本人の力だけではどうにもならない、大きな力に翻弄された行程だった。ポタラ宮を見たときは安堵感でいっぱいだったという。

◆当時ラサはものものしい状態で、武装警察が町の至る所に待機しており、建物の屋上など高いところからも銃を持った警備兵が町を監視している状態だったという。オリンピックを応援する様子はあまり無いのがチベット人の本音だったようだ。

◆33日間ものラサ潜伏を経て、いよいよ旅のクライマックスとなるカイラス山に出発。カイラス山への1500kmの道程でも5000m級の峠を越え、夜中の4時に検問を突破し前進した。ペンク・ツォを横に見ながらサガへ進むと、そこで公安に捕まり200元を要求されたという。パルヤンからはほとんど定住者がいない地域。荒野を抜け、野営を繰り返し、峠を越えて、そしてとうとうカイラス山が見えた。

◆本人としては、まだかまだかと待ち焦がれた末に、初めて見えたときのカイラス山ほど美しく見えたものは無かったという。カイラス山の周囲50kmを一周し、グゲ遺跡、ツェンダを経てバスでアリへ。アリからはバスに自転車が乗せられず、結局1300mのネパールのカトマンズへ下りていった。乾いた荒野から緑のみずみずしい空気に変化して行ったと言う。このカトマンズで田村君の大きなうねりに翻弄された約1年間の旅は終わった。

◆会場には67名もの人が集まった。彼は大手セメント商社の仕事を辞して夢であった旅を実現し、さらりとモルタル会社に再就職している。旅の苦労を少しも感じさせない彼の態度は、現代の若者らしく気負いが無い。

◆五月の報告会で野元甚蔵さんのお話を伺った。70年という長い時間が若い頃のチベット潜行の経験をより貴重なものにしていた。野元さんから発せられる言葉の一つ一つが連なる真珠のように思えて、一言たりとも聞き逃したくないと思った。戦争という波乱の時代の中で翻弄されながらも、チベットの地を踏み、そしてその経験を後の人生の糧とした野元さん。時代を経て今なお大きな問題を抱える現代のチベットを旅した田村君。その二人がチベットの大地での経験を通じて繋がり、地平線会議と言う場で出会い握手をした。野元さんにとってダライラマとの出会いが後の人生に大きな影響を与えたように、田村君の「チベット自転車潜行」が彼の人生にどのように影響していくのか今後に注目していきたい。(山本豊人


地平線ポストから

7月4、5日、南会津トレイル・ランにようこそ!!

■江本さん。こんにちは、ご無沙汰しております。南会津(伊南)も、ようやく初夏を感じる季節となり時々、半袖になっては上着を羽織りつつ短い夏を楽しんでいます。さて、今回は伊南で開催する小さなイベントの紹介とお誘いです!イベント名は「〜初めてのトレイルランニング〜やまなみを走ろう!in 南会津」です。その名の通り、南会津の山を舞台にトレイルランニング(入門編)を味わってもらいたい!というものです。現地ガイドは地平線でも時々登場・活躍している鈴木博子さんです。webでの案内ページも出来ました。
http://tagosaku-ina.com/event/index.html

ご覧になって下さい。7月4、5日と日にちは迫っていますが、少人数でも実施したいと思っています。ぜひご都合と興味がOKな方はご連絡下さい。7月といえども朝晩は涼しく、伊南川のせせらぎも心地よい季節です……ぜひ、お待ちしています!(若葉の眩しい伊南から 酒井富美

1頭のメスのケラマジカは、トラブル続きの旅を一瞬にして心に残る美しい旅に変えてくれた━━鷹匠の沖縄サバイバル日記

<前月号に続く>
■一昨年はタヌキからうつされた疥癬ダニのため体中がかゆくなったのだが、鷹を飼っている私にとってそんなことよりもはるかに恐ろしいのは強毒性の鳥インフルエンザだ。東北地方でも十和田湖のハクチョウに見つかり、各地でハクチョウの餌付けを中止したりしたのだが、渡り鳥による感染はなかなか防ぐのが困難なようだ。そんな時だ。自宅で飼っている鶏が次々に原因不明の変死をしたのは。

◆雪もまだ大量に残っている3月初め、鶴岡市街に住む人が鷹の餌に17羽の鶏を持ってきてくれた。白色レグホンやウコッケイ、チャボ、小シャモ等で、玄関先の金網のケージの中に入れて飼ったのだが、なんと持ち込まれた翌日から次々と死に始めたのだ。最初に4羽、次の日に2羽、また次の日に2羽と死体が増えていった。何の傷もないのに何故。これまで狭いケージの中で他の鶏から押しつぶされたり、テンやアナグマ等に襲われたりして死んだことはあったが、今回は原因がどうしても分からない。

◆考えられるのは鳥インフルエンザしかない。もしかして、すでに罹病した鶏が持ち込まれたのでは……。やはり保健所に連絡しなければならないのか。しかし陽性が出たら間違いなく鷹も処分される。鷹を殺すわけにはいかない。鷹と山の中に逃げなければならないのかと悲壮な覚悟を決めようとした時、あることに気がついた。

◆それは死んだ鶏が小シャモだけの一種類に限られていたことだ。何故小シャモだけが……。死んだ小シャモを手に取って調べてみると、胸をおおう羽毛が他の鶏に比べて非常にうすい。これは早朝のまだ氷点下にも下がる寒さで死んだのに間違いない。次々と死んだ謎がとけ、ようやく安堵の胸をなでおろしたが、私にとってまさに肝をつぶすような事件だった。

◆さて、以下は最新の話。安い航空券を手に入れ、5月29日から8日間の日程で沖縄の座間味島と阿嘉島のサバイバルキャンプに旅立った。しかし、この旅があれほどトラブル続きの旅になるとは……。まず出発からつまずいた。釣り道具屋でヤスを購入し、古いゴムを新しいのに替えてもらおうとしたのだが、おやじの手際の悪さから、飛行機の出発時刻に遅れそうになり「このヤスでいい!」とあわてて別のヤスを買い求めたのが失敗の始まりだった。

◆まず最初に訪れた座間味島で、いざこのヤスを使おうとしたところ、ゴムがかたすぎてなかなか引っぱることができない。ゴムを強く引いていきおいよくヤスを飛ばさないと、魚の堅いウロコにはなかなか刺さらないのだ。またヤスが命中しても深く刺さらないのでは、暴れてすぐに逃げられる。ほとんど使い物にならないヤスを買った自分を呪い、しからばと泳ぎながら釣る「見釣り」に切り替えたのだが、私の仕掛けでは手に負えない大きさの魚がかかり、今度は糸を何度も切られる始末。

◆特にハマフエフキ(沖縄の高級魚)は70cm近い大きさで一瞥しただけで糸を切って逃げられてしまったが、今まで見た中で最大の大きさに口惜しさも忘れて呆然とするしかなかった。悪いことは続くもので、今度は貝を捜して泳ぎまわると、大きなクモガイやホラガイ、タカセガイ等を見つけることができたのだが、いざ焼いてみるとそのほとんどが身の入っていない空の貝というありさまだった。

◆しかし、サバイバル生活をする者としては、どうしてもその日に食べる分ぐらいの食料は確保しなければならない。なんとか30cm大のハナアイゴやオジサン、スズメダイ、ベラ等の小魚もつかまえて食べていた。

◆ある日、中型のハリセンボンとネズミのような顔をしたコクテンフグをつかまえた。ハリセンボンは沖縄ではアバサー汁等で食べられているが、特に肝はカニミソに似た濃厚な旨みがある。また今回初めて食べるコクテンフグもプリプリした身でなかなかおいしい。身を食べ終わったあと、肝臓に手をつけようとしてふと手が止まった。

◆「これは危険なんじゃないか」−私の本能がささやいていた。迷った末に肝は食べなかったのだが正解だった。後で島の観光案内所に置いてある『沖縄の海水魚図鑑』には、はっきりとコクテンフグの肝臓は有毒と記されていた。

◆その後も泳いでいる最中にシュノーケルの排水弁が突然こわれ、海水を大量に飲み込んだり、ヤスのゴムが切れたり、阿嘉島に行くフェリーに乗り遅れたりとトラブルが続いた。 阿嘉島では自然が色濃く残る北浜(ニシバマ)海岸近くにテントを張り、ベラやクマドリ等の魚をつかまえ、ウミガメやアカエイとの出会いを楽しんだのだったが、コノハズクやホトトギスが啼く深夜、用足しにテントから出た時、すぐ近くの林道を逃げていく動物の影に気づいた。

◆星あかりだけの暗い中だったが、お尻が白っぽいのだけは確認できた。懐中電灯を持って追いかけ、林道からそれてヤブの中に入ったらしい獣をライトで静かに捜す。「いた!」林道から7〜8m入ったヤブの中で、こちらに顔を向けて立っている。見えるのは首から上だけだったが、ケラマジカ(阿嘉島等にわずかに生息する天然記念物)に間違いない。ライトに照らされた2つの目は青白い光を放ち、こちらを凝視しているようだ。今まで草を食べていたのだろうか、時々舌を出すしぐさも見せる。そして、やがて2、3分ほどで奥のヤブの中に去っていったが、その音も立てない優雅な身のこなしはまるで貴婦人のようだ。旅の最後に出会ったこの一頭のメスのケラマジカは、トラブル続きの旅を一瞬にして心に残る美しい旅に変えてくれた。(松原英俊

ツブ貝にはご用心を━━突然、やばいことになった体験報告

■5月下旬、日本海沿岸で鳥の調査の出稼ぎ仕事中、巨大ツブ貝の味噌煮と竹の子ご飯を昼に差し入れにいただいた後、事件は起こった。それはたいそうおいしかったのだが……食べて30分くらいでめまいが。立ちくらみ? なんだろう? 変だなと思ったが、最初は吐き気もなく、くらくらするだけなので、車で休んで様子を見ていたが、どんどん悪化。体を起こすとしんどくてたまらず、目も開いていられない。

◆手足も力が入らなくなり、「なにかやばいことになっている!」。差し入れをしてくださった方は、他の場所に移動。携帯は通じない。「脳梗塞かも?」とセルフチェックしてみるが、両手足ともしびれて力が入らないから、たぶん違う。心臓、呼吸は大丈夫そうで、すぐには死なないと思いながらも、あまりの具合の悪さにさすがに心配になった。

◆意識がはっきりしているのに、体が動かなくなる……うっ、ま、まさかギランバレー症候群(注:筋肉を動かす運動神経が障害され、四肢に力が入らなくなる急性・多発性の病気。網谷さんは最近この病気にかかった知人の看病に通った経験がある)なんてことはないよな? 食べた直後に症状が出たということは、貝か? 大きなツブ貝を勧められるまま二個も食べた。

◆「ツブ貝で酔うことがある」と聞いたことがある、と自分で言いながら食べていた。これが「酔う」ということか? 車を降りてわざと吐いて、水をたくさん飲んだが、確実に症状は悪化し、「酔う」なんて生易しい状態ではなくなった。上から車が降りてくる音がしたとき、車につかまりやっとやっと立ち上がり助けを求めた。「具合が悪いです」と告げた後崩れ落ち、激しいめまいから嘔吐。もはや歩けず。

◆今の症状がおさまるのか、要治療なのかこの時点では全くわからなかったため、なすがままに助けていただいた。一般道に出ると救急車に移され地域の大きな病院に緊急搬送。脳外科と耳鼻科の先生がチェックするが、首をかしげる。「ツブ貝を食べたので、貝の毒かもしれません。毒があると聞いたことがあります」と自己申告。MRIにかけられたが、結局脳に異常なしと判明。検査の間に脳外科の先生がツブ毒を検索して「症状が一致する」と。MRI受けている間に症状が楽になってきたことも一致。食後30分で症状が現れ、通常数時間でおさまる。死亡例はないと書いてあり、医師もおいらも一気に安堵。

◆二日くらい経過入院という話もあったが、歩けるくらいに回復した午後7時に退院。ちなみにツブ貝の毒は、神経毒で、加熱しても分解されません。細菌性の食中毒とは違います。治療しなくてもよくなるが、けっこう急激に具合が悪くなるので、食べてすぐに運転していたら事故につながるかもしれない。唾液腺を除去して食べましょう。(山形 網谷由美子 鳥調査専門家)

原健次さん、スウェーデンを疾走中!

イタリアからノルウェーの北端まで4500キロを走る「トランス・ヨーロッパ フットレース 2009」に出走している原健次さん(栃木県 64才)、14日目の5月2日体調を崩してリタイアしたが、5日間休んだ後、5月8日再びレースに復帰し、走り続けている。いったんリタイアしたため「トランス・ヨーロッパ フットレース」のランナーではなく、ステージレース・ランナーの資格での走り旅。正式な記録にならないだけで、走っていることに変わりはない。中抜けした5日間を除いては順調に走り続け、オーストリア、ドイツを走り抜け、5月21日スエーデン入りした。以下、ご自宅に届いた41通目のはがき。

■5月28日も無事終了。今日で日本を発って50日目。ドイツでの走りを再スタートして21日が終わりました。リタイア者17名のうち、私のように連続して走っているのは4名で、2〜3名が時々走っていますかが、残りは帰ってしまいました。今日泊まっているMORAという町は、北緯61度で、かなり北で夜の10時過ぎまで明るく朝は2時過ぎにはもう活動ができる状態です。スウェーデンを三分の一以上北上していますので、陽が出ないと非常に寒いです。今日は途中でヒョウが降り、寒さに震えました。スウェーデンに入ってからの朝食、夕食は、ジャガイモ、インディカ米の蒸したもの、シチュー風、牛肉、サケのソティー、サラダ、それに今日の朝食はなんとスイカが出て、毎回お腹一杯です。

地平線会議発足当初、アフリカで消息を絶った小林淳さんのこと

 6月初め、一通の手紙が届いた。

 《先日は「地平線会議」通信をお送り下さりありがとうございました。
 ほとんど通読させていただきましたが、特に昨年10月の浜比嘉島での「ちへいせん・あしびなー」に参加した多くの人たちの感想や報告が大変興味深く、また感動させられました。
 「地平線会議」という壮大な名前は息子の旅日誌の中でも出てきましたが、この通信による、その意味するところがわかったような気がします。30年続けられているということですが、息子が我が家を旅立ってから30年になります。
 若い人たちがしたたかに、そして生き甲斐を持って世界をかけ巡っている旅の姿に感銘を深くしました。
 貴会のますますの発展を祈念し、地平線会議30周年の記念行事のため息子に代わり、カンパを送らせていただきます。
 お会いすることはないと思いますが、ご健勝にてご活躍ください。
 小林淳  父 小林新》(6月1日消印書簡)


 地平線会議が誕生した当初、目的のひとつは探検・冒険年報の発行だった。その創刊号である『地平線から1979』に「無名の旅・小林淳」という文章が載っている。
 小林淳(あつし)。武蔵野美術大学油絵科卒、当時27才。宮本常一氏の教え子で卒業後も就職せず、日本観光文化研究所のスタッフとして民族調査を目的に日本各地を歩く。周防猿まわしの会の発足とともにその活動を映画に記録するスタッフの一員ともなった。そして、1979年3月、かねて計画していたアフリカへの旅を決行する。
 タイ、マレーシア、インドネシアと東南アジア諸国をまわった後、80年12月、アフリカのチュニジアに渡った。以後、サハラ砂漠の国々をめぐった小林はアフリカ入りして1年3か月後の3月タンザニアに入国、3月17日、メルー山麓の町アルーシャに着き、「キリマンジェロに登ります」との3月18日付けの手紙を最後に消息を絶った。
 アフリカ行について相談を受けていた賀曽利隆が、小林の父、弟と3人で現地捜索に向かった。残念ながら足取りはつかめなかった。その経緯は『地平線から1982』に「東アフリカ捜索行」として賀曽利が書いている。
 小林は、実によく文章を書いた。3年あまりの旅で日本の家族や友人に914通の手紙、はがきを書き送っている。父親には旅日誌を随時送ったらしい。父は、最近になってそれを3部から成る「小林淳の旅日記」としてまとめ、私のもとにも送っていただいた。
 お礼にここ数か月分の地平線通信をお送りし、いまも地平線会議をやっています、と書いたところ、冒頭の手紙を頂いたわけである。
 父上としては、地平線通信に登場する若い旅人たちの文章に、あるいは27才で見送った息子の姿を重ね合わせることがあったのかもしれない。お気持ちをありがたく受けさせてもらう。
 私自身は小林個人を深くは知らない。彼をよく知る宮本千晴にお願いして、30年前、日本を発った青年の姿を書いてもらった。そういう若者がいたのだ、ということを地平線の新しい人たちに知っておいてほしくて。(江本嘉伸)

帰ってこない  宮本千晴

 その頃休日の夕方になるとよく自転車に乗った小林君が黙ってわが家に現れた。たいていは休日の夕方で、わが家の唯一の接客スペースであった台所の食卓の椅子に黙って座っていく。

 とくに話すことがあってのことではない。わたしが伝えうるわずかなことは彼自身すでに十分心得ていた。最近目にすることになった日記からすると、自分の方から話しておきたいことはあったと思う。しかし同時に話しても意味がないこと、来るべき時間の中を実際に歩いてみるしか意味のある答えは得られないことも分かっていた。そう感じさせる寡黙であり、静けさであった。帰るのはいつも夜中すぎ、自宅へは野猿峠を越えて1時間半ほどかかるといった──30年と半年あまり前、もう寒い頃の話である。彼はアフリカヘの長い旅立ちの日を数えていた。その後1月ほど各地の何人かの人たちと似たような時間を過ごし、タイから始まる長い旅に出た。

 それから1年10カ月ほどして小林君は目的地のアフリカに入る。さらに1年5カ月ほどして消息を絶つ。

 彼からの便りによって、ところどころで枝やループを延ばしながらゆっくりと南下し、北に転じていく様子は多くの人が知っており、安心していた。アフリカでの6割の夜は100軒におよぶ家々のお世話になり、どこでも子供たちと遊んでいた。

 だから、だろう。1982年の3月中旬以来便りが間遠になっていることを真剣に心配した人は少なかった。親御さんたちが耐えきれなくなって、あちこちに問い合わせはじめるまでは。遅ればせながらお父さんと賀曾利君とで捜索隊を編成し、消息の分かっていたアリューシャから足跡の追跡を試みたが彼がアリューシャを出て1週間ほど先でそれらしい姿が消えた。ご両親の納得できない長い日々がはじまった。

 私は自分を冷たい部類の人間だと思っている。北極で死んだ磯野哲志君たちの場合は、生きているかもしれないと思う間はいてもたってもいられない気分だったが、死そのものは自然に受け入れることができた。しかし小林君の死についてはなんだかいまでも受け入れきれていない。彼の女性の友人の一人は彼の足跡がたどれた最後の日まで次第に明確になる事件の予知夢で入院までしていたし、理解はできないが、否定はもっとできない現象は以後もつづいた。

 受け入れられないというのはそういう話とは関係ない。単純に、出かけていっても死なないでくれよ、死ぬなよ、というだけの話である。出かけよといっておいて、死ぬなというのは矛盾である。死にたくて死ぬわけではない。死のリスクは出かけることの一部なのだ。でも、生きて戻ってきてくれ。


百顔繚乱展・地平線のゆうべ

祝う人の気持ちが会場を満たした、心に残る夕べでした
━━百顔繚乱展 「長野亮之介の顔仕事」!! 地平線のゆうべ顛末

■受付で1000円を払い、ドリンク券付き入場券を受け取る。長野画伯のイラストと文字で作られたゴールドのチケットは、もぎられるのが惜しい気になるできばえだ。さらに「お土産」として、「亮之介的小宇宙遥覧」という冊子をもらう。地平線通信に掲載された報告会予告イラストの縮小版259点がずらりとプリントされている。今までの報告会の日付・タイトル・報告者のリストもはさみこまれていて、四半世紀に渡る地平線報告会の歴史と、それを支えてきた長野画伯の仕事ぶりが一望できる(さすがの丸山純さん作)。

◆まだ開始時刻前の会場に入ると、力仕事になると聞いていた設営はすでに終わり、並べられた70脚ほどの椅子を取り囲むように、三方の壁面に展示された作品たちから、存在感がたちのぼる。近付いてタッチや色使いを見るうち、準備や打ち合わせをする周囲の慌しさが遠のき、「ワールド」に引き込まれていく。大きなマニ車みたいなものがあり、側面のスリットから中をのぞきつつ回すと、内側に描かれた個々の絵がつながって動き、終わらない(ちょっとシュールな)ストーリーが筒の中で繰り広げられた。「ゾートロープ(ギリシャ語で命の輪)」と言うらしい。アニメーションの原型だそうだ。7階の事務所では、海宝さんが担当スタッフとともに、ごちそうの準備を着々と進めている。

◆座席も埋まった18時過ぎ、進行の丸山さんが「地平線のゆうべ」の幕を開けた。オープニング演奏はもちろん、品行方正楽団。長岡竜介さんののびやかなケーナと、それに合わせたメンバーの鳴り物の音色が、参加者の間を縫うようにして広がっていった。

◆スクリーンに画伯によるイラストが映し出された。題して「アナザー・サイド・オブ・リョーノスケ」。画伯が何で食べているのかを追求するコーナーである(実は、浜比嘉島で行われた「ちへいせん・あしびなー」の打ち上げの席で、失礼にも「何で食べてるんですか?」とご本人に聞いてしまったわたしには、ありがたい企画であった)。読売新聞映画評のイラスト、キャノン販売やリクルート社のリーフレット類に描かれた似顔絵、林業の本の表紙、大学講師時代の講義のレジュメと学生の評価結果(エコツーリズム論)、月刊「望星」の表紙や挿画、「旅の手帖」のイラスト、本の装丁・挿画、週刊誌のイラストなどなど、多岐に渡る仕事ぶりが、ご本人の解説付きで披露された(ほんと、失礼しました)。

◆続いて「描かれた側の逆襲」として、かつて通信に描かれた人たちからスピーチが贈られた。スクリーンにはもちろん掲載された似顔絵が登場し、出てきたご本人と思わず見比べてしまうのだった。マングローブが頭から生えている向後元彦さん、蛇に絡まれたパンダみたいな岡村隆さん、ウルトラマンな海宝道義さん、そして最後に、寅さんな金井重さんがスピーチの後乾杯の音頭を各国語で取り、お待ちかね、海宝亭心尽くしのごちそうタイムになだれ込んだ。

◆お腹が空いてしまうのをこらえてメニューを紹介すると、サンマ寿司・サンドイッチ(フランスパン&生ハム&チーズ)・スモークサーモン・牛肉のカルパッチョ・燻鶏(ブルーベリーソース添え)・豆乳ゼリーなど。豪華満腹メニューにみな大満足。テーブルの周りは常に大賑わいだった。

◆お腹も満たされ、程よくアルコールも入ったところで、品行方正楽団再度の登場。今回は場所柄太鼓が使えなかったものの、温かな演奏に心が和む。続いて車谷建太さんの津軽三味線が会場を引き込み、次のプログラムに導いた。

◆「愛のマラソンランナー」である。伝説の、である。亮之介さんと淳子さんの結婚式で上映された、友人たちで作った15分ほどの短編映画(もちろん2人が主演)に会場が沸いた。代表的な感想をひとつだけ紹介する。「淳子さんかわいい!」。

◆「地平線通信クロニクル」が始まった。地平線通信のイラストの変遷を追うものだ。画伯初の報告会イラストは、1984年12月28日に行われた高野久恵さんの報告会に向けたものだった。佐渡島から(なんとフランス経由で!)駆けつけた高野さんがお祝いの言葉を贈った。その後も噂になったイラストやお気に入りのイラスト、いつもと異なる画材を使ったもの、パソコン画、紹介文がなく絵のみで内容を表現したもの、デフォルメが話題になったもの(画伯にはそう見えているらしい)などが、作者自らの説明のもと紹介された。会場にいる人の似顔絵が出てくると、必ず照合されてしまうのがまた愉快だった。長野さんが不在のときにイラストを担当した三五康司さんも登場し、当時の絵が紹介された。

◆「描かれた側の逆襲パート2」として、熊沢正子さんが自著の装丁について心情を訴え、実は会社の先輩だった久島弘さんが語り、通信に唯一画伯の似顔絵を描いたことのある北村節子さんが、読売新聞映画評の仕事に関するエピソードもまじえたメッセージを贈った後、似顔絵制作の実演・実況コーナーに。ビデオカメラを通して映し出されたのは、江本嘉伸さんの例の似顔絵。着色までの技を、興味津々で見守った。

◆宴もたけなわ。ここで最後に質疑応答……ではなく、サプライズ(あるいは更なる逆襲)を。仕掛け人は江本さん。先の北村さん作品以外、誰も描いたことのない画伯の似顔絵をどーんとプレゼント。久島弘さん、中島菊代、緒方敏明さん、北村節子さん、加藤千晶さんの作品が順にスクリーンに映し出されるとともに、原画が贈られた。締めに地平線会議を代表して藤原和枝さんからお祝いの花が渡され、長野夫妻の挨拶へ……。

◆作品群が展示されている壁面のちょうど中央に、1枚の大きな絵が飾られていた。今回の個展のために描き下ろしたものだそうだ。男の子がランニングに下駄ばき姿で「シェー」をしていて、バックにアトムやキングコングなどが描かれたその絵は、自画像だそうだ。淳子さんの締めくくりの言葉の通り、長野亮之介さんのカラフルな心中は、まだまだわたしたちを楽しませてくれそうだ。祝う人の気持ちが会場を満たした、心に残る「地平線のゆうべ」だった。(中島菊代


浮世落語・流行り風邪にちゃんと罹りますように

久島イラスト

「どうしたヒロ公、くたびれた顔して」「あ、兄貴。流行り風邪にやられちまって」「なんでぃ、神戸で豚でも喰ってきたか」「それが、『地平線熱』ってヤツらしいんでさ」「知ってるぜ。去年だったか、琉球国のどこかで島中が大騒ぎになったってアレかい」「さいわい亮性で熱は出ねぇんですが、燃え尽き感がヒドくて‥」「そいつは厄介だ。棚の薬箱にタケダの風邪薬があるから呑んどきな」「ウワサじゃ、タケダ屋の大旦那も赤い顔でロレツが危なかったそうで」「なら、隣りに丸山わくちんがあるだろ」「そっちはもっとヤバいって話ですぜ。アネゴ衆や若衆、品行方正の一座まで、うっかり呑んだのが運のツキ、みんな仕事も手に付かず‥」「そうか。薬がダメなら、そこのミワ神社のお札でも持ってきな」「あそこの神主も熱に浮かれてウワゴトを」「じゃ、伴天連のカミサマはどうだ」「かそりすとも総ナメでさ」「おう、手に持ってんのは人相書きか」「こいつが流行り風邪の正体の、宇井留守って野郎で」「道理でワルの顔してやがる。町で見かけたら俺が懲らしめてやるぜ」「よっ、兄貴!」「おメェ、何だかヤケに楽しそうだな」「『エモ憑き』つって、罹ると、えも〜ションがハイになっちまうんでさ」「おメェの陰気なツラには願ったりじゃねえか」「ただ、腹が苦しい」「腹に来るのか」「いやね、ご馳走三昧のカイホーで、しこたま食っちまって」「こら! オレにも罹らせろ」「もう流行りの峠は越えたらしいや。でも、10年ごとの周期が、この秋に来るってウワサですぜ」「おい!」「へい!」「さっきの人相書、寄越せ!」「何になさるんで」「決まってンじゃねぇか。神棚に上げて朝晩拝むのよ。ちゃんと罹りますように、ってな」(註:このヒロベイ久島による人相書き解説は、「地平線通信」146号P4をテキストに使用しました)


「後ろ姿」からの出発――『望星』表紙絵の変遷
岡村隆(月刊『望星』編集長)

■長野亮之介画伯の絵が月刊『望星』の表紙を飾るようになったのは2003年の7月号からだった。10年以上続いた大家・長尾みのる氏の「綺麗な絵」に続いて、筑紫哲也氏が画面に映るテレビ受像器を荒縄で縛るなどの「あざとい写真」で勝負してきた表紙が、わずか2年半でアイデア切れとなり、もう一度イラストで行こうと決めたとき、頭に浮かんだのが亮之介の絵で、恐る恐る頼んで、描いてもらうようになったのだ。

◆恐る恐る、というのは、もちろん画伯の権威やご機嫌や、高い画料を恐れたのではない。地平線会議の身内として知る画伯の「あの絵」(分かりますよね)が、実直この上もない(と思われる)『望星』読者に受け入れてもらえるかどうか、期待の半面、そこが不安で、恐る恐るの依頼となった次第であった。そんなこちらの不安を知ってか知らずか、「大人の恋文入門」という特集テーマに沿って、画伯が描いてきた最初の絵が、昔の赤い郵便ポストの裏側で星空に向かって恋の弓引くキューピットの後ろ姿という「可愛い怪作」。これが意外にも(失礼!)好評で、私は安堵の胸を撫で下ろしたのだが、一方で、画伯はそれ以後、「後ろ姿」の画家として『望星』の読者に受け入れられていくことになる。

◆画伯が、実は案外な抒情派でもあると私が実感したのはいつ頃だったか。日ごろのつきあいゆえの色眼鏡が外れてみると、画伯の絵こそは最初から『望星』のコンセプト向きであったのだと確信が湧き、私はときに絵の相談だけでなく特集の内容や方向性までをも相談するようになった。それと同時に、画伯の絵が「後ろ姿」から次第に「前向き」となり、とくに子どもの表情が、それまで見たこともない素直さで描かれるようになっていった。それというのも、要は、元来多才で器用な画伯が、こちらに合わせてくれたに過ぎないのだろう。だが、やがて中島敦や岡本太郎や坂口安吾の顔を描く画伯の筆には、異様な鋭さも混じるようになり、そこに「挑戦」の匂いも嗅ぐ小心者の私としては、再び「恐る恐る」の昔を思い出さざるを得なくなっているのも実情だ。

◆昨冬、札幌の書店で『望星』のバックナンバー展に併せて、表紙絵の「原画展」も開催したが、これには画伯の北大時代の友人たちも来てくれたという。そこに並んだ絵の「変遷」は、雑誌の姿勢の変遷も自省させて感慨深いものだった。初登場から、すでに丸6年。次号で73点目になる画伯の表紙絵だが、画伯には、厳冬の時代に地吹雪に見舞われている雑誌と心中してもらうつもりで、100点目、いや、それ以上を目指してもらいたいと思っている。

長野画伯とのチャリンコ旅

■1980年代後半から90年代前半にかけて、長野亮之介とは、よく自転車で一緒に旅をした。中でも一番長かったのは、89年秋の韓国ツーリングだ。地平線会議で知り合い、そのイラストのタッチに魅せられて、初めての自著の表紙をお願いしてから一年あまり。少しずつ、プライベートでの付き合いも多くなっていた時期に、「韓国、一緒に走らない?」「あ、いいねえ」と、今では考えられない即断で計画がスタートした。そこへ、「ちょーっと待ったァ! おれも行くぜ」と、ご近所仲間の神谷夏実も参入し、三十代初めの男女三人隣国珍道中となったわけだ。

◆当時の韓国は、今と違って、日本より20年くらい時代が戻った雰囲気。簡易シート掛けした屋台の並ぶ市場や、中庭を小さな部屋がぐるりと囲む伝統的な下宿屋、未舗装の国道で草を食む牛など、見るものすべてが懐かしく、かつ新鮮で、そこを、ほとんど韓国語を解さない不思議な三人組は、自転車を漕ぎながら、もさもさと旅していったのだ。全行程は一週間と少しだったような気がする。帰国後も、しばらく三人の韓国熱は冷めず、地平線仲間を集めては、キムチ鍋パーティを開いたっけ。亮之介の奥方の淳子さんと私は、市場で買ったチマチョゴリを着て。

◆その翌年だったかも、亮之介とまた、一週間くらいの北海道ツーリングをした。そのときは、画伯は画伯らしく、あちこちで自転車を止めてスケッチブックを広げていたのを覚えている。彼は毎日、公衆電話を探しては、淳子さんにラブコールを入れていた。あるとき、私は多少のいたずら心もあって、途中でその電話を代わってもらい、「ご主人を連れ出して、あいすみません」と言ってみた。すると、淳子さんは「いやあ、くまさんなら、全然いいよ」。全幅の信頼を得ていることはうれしかったけれど、なんか、ほんのちょっとだけ、さびしくもあるような私なのだった。……以上の旅の話は拙著『チャリンコ族はやめられない』(山海堂)にも出ている。あの、表紙がいくぶん著者に愛されていない本である。理由は……見ればわかるって。せっかく、中に「美男美女の長野夫妻」が登場しているのに!(熊沢正子

未来を暗示する森や川、そしてゴジラやアトムに囲まれ、幸せそうな長野少年の「顔」!!

■ずーっと長い間、この日を待っていた。亮之介さんの絵がずらりと並んだ光景を見たいと思っていた。年の初めに個展の話を耳にし、とうとうその日が来た!と、ワクワクした。「地平線の夕べ」の当日、少し早めに会場に到着。ぐるりと壁にかかった数々の「顔」。真ん中には、ランニングに半ズボンのシェー姿の少年が。亮之介さんの自画像だ! 未来を暗示する森や川、そしてゴジラやアトムに囲まれ、幸せそうな長野少年の「顔」。

◆「夕べ」には、報告会でもめったにお会いできない、本物の「顔、顔、顔」が! 10年ぶりの「顔」もあって、私はずいぶん浮かれてしまった。たくさんのスピーチの中、北村節子さんの「亮之介さんの絵には毒があるけど、文章に毒が足りないのよ〜」という話には、「ふむふむ」頷いたりも。こんなにたくさんの人を集めてしまう人柄だものなぁ……

◆読売新聞連載の、毒のある「顔」達は、それぞれに魅力を放っていた。これからも、続いてほしいし、書籍としてまとまったものも手にしたい。みんなそう思ってるはず。そして、次回の個展には、あの素敵にお茶目な自画像のような、キャンバスに描かれた「絵」が並ぶことを期待している。(岐阜高山在住染織家 中畑朋子


浮かんだイメージは、なぜか「アラジンと魔法のランプ」でした

ねこイラスト

■「長野さんの作風から遠く離れて、いっそメルヘンな毒っ気を目指そう」……などと、わけのわからないコンセプトで、お絵かきに着手。最初に浮かんだイメージは、なぜか「アラジンと魔法のランプ」でした。下描きの段階では、頭にターバン巻いてランプから出てきている、というものでしたが、描いているうちにどうしても「武田さん」になってしまう……なんで?? 何度か試した末それはあきらめて、私の印象にある長野さんを描きました。キーワードは山仕事・描く・森・空・海や川・マラソン・猫(太鼓も加えようか迷いつつ)。出てきたストーリーは「森が喜べば画伯も喜ぶ」。

◆画材は耐水ペンと水彩クレヨン。丸山さん曰く「お姫様のような」顔色の長野画伯になってしまいましたが、メルヘンだから、よいのです。ねらいどおりです(笑)。と言いながら、「地平線のゆうべ」で披露された実技は、参考になりました。「鉛筆描きのあと、一旦白絵の具をかぶせるのかぁ〜」。「顔色は単一にせず、濃淡をしっかりつけたらよいのね〜」。

◆久しぶりに画伯のお顔を拝見し、今のイメージはなぜか「龍」です。次回の個展を楽しみにしてまーす!(中島ねこ


浜比嘉島からのメッセージ(「ゆうべ」の最後に読み上げられた)

■まもなく梅雨入りの沖縄の小島から、おめでとうのメッセージを送ります。このたびようやく長野画伯の個展が開催されるそうで、本当におめでとうございます。まったくりょうのすけさんという人はプロの絵描きらしくない人で、頼まれるといやと言えないから貯まるのはお金ではなく人脈や友人ばかりらしい。そんな神様みたいないい人が多くの友人の尽力で個展を開くことになったと聞き、本当に嬉しく思っています。

◆地平線会議をはじめモンゴル、森づくり、映画、マラソン、などなど、きっと今まで培った奇天烈リョウノスケワールドが広がっている楽しい個展なのだろうと思います。晴美とは地平線会議で出会い、キャンプしたり映画に行ったり、近年は五反舎で森林の手入れ(間伐や枝打ち、道づくり)にはまり、いろんなこと教えてもらいました。

◆四年前に晴美は沖縄に嫁いで来ましたが、私達夫婦は奥さんの淳子さんのおかげで結婚したようなものですし、こちらの暮らしはりょうのすけさんがちょくちょく遊びに来てくれて樹の伐採や牧場のヤギ小屋作りやらホーストレッキングの道づくりやら庭のテーブル作りやらチェーンソーの目立てまであれこれ手伝ってくれたおかげで今快適なスローライフを送っています。だから長野夫婦には足を向けて寝られません。本当に感謝しています。

◆あ〜今すぐ駆けつけて三線弾いてお祝いの嘉利をつけたいところですが、なにしろこちらはヤギ達32頭(一昨日にまた子ヤギ産まれました!)にアヒル20羽、黒豚二匹に犬三匹がメエメエブーブーワンワンとうるさいので一泊旅行もままなりません。ですので東京の個展の次はぜひ、海の駅あやはし館で個展を開いて下さい。その時はお手伝いしますから! こっちにもりょうのすけさんのためなら私達夫婦はもちろん、一肌脱ぐ友人がたくさんいますから!まっちょんど〜! では盛会をお祈りします。「かりゆしぬあしび うちはりてぃからや ゆぬあきてぃ てぃだぬ あがるまでぃん」 意味は淳子さんに聞いてください。(浜比嘉島から 外間昇・晴美

10人乗りカヌー「チヌリクラン」を描いてくれた、画伯デビュー作『地平線通信62号』

■折りしも、その日5月16日はフランスより帰国した日でした。新型インフルエンザが国内でも発病したと成田で健康チェックを済ませ、昼近く東京入りしました。夕刻、東中野ポレポレ坐へ。懐かしい面々の間を短い挨拶と共にかき分け、壁面に向かいました。

◆長野さんの原画を観るのは初めてです。まず、色の美しさ、そのバランスの良さに、描かれている人、その眼が語る人となりに釘付けにされました。丁寧に描かれたその一枚一枚に、描く人と描かれる人の対話がありました。長野さんの地平線デビュー作となったハガキ通信は、私にとりましても忘れることのできないものです。

◆1984年11月、初めての一人旅。初めて台湾、東南海の孤島、蘭しょ島のヤミ族(現在ではタオ族とも呼ばれる)の村を訪れました。そこで偶然にも、10人乗りカヌー「チヌリクラン」の製作に立ち会うことができました。長野さんは赤、白、黒に塗られたそのカヌーを、私の感動を知るかのように、ハガキいっぱい伸びやかに描いてくれたのでした。

◆思えば、ここまで30年近く、地と人と出逢い、その連なりの今日。地平線会議は集う人の知恵と和の織りなす場。離れてもふと戻れる……それが地平線のフトコロの深さなのかも知れない、そう思うのです。すてきな会に作り上げて下さった皆様に感謝です。海宝さんの心のこもった美味しいお料理と共に、楽しいひとときでした。長野さん、おめでとう! そして、ありがとう!!(佐渡島 高野久恵

奇跡の品行方正楽団全員集合!!

■16日は、終日楽しすぎて堪能しきりでした! 普段会えない遠方の皆さんと再会できたのも嬉しかったです。改めて、長野さんそして淳子さん、本当におめでとうございます!! イキイキカラフルな作品の数々と多くの人の手弁当で作り上げられたという会場空間がぴったりマッチして、幸せで温かい活気いっぱいの雰囲気で、長野夫妻そのものだなあ〜と思いました。

◆16日のイベントでは全てのプログラムが本当に面白くて、すごおいなあ〜〜と思ってばかりでした。丸山さんをはじめとする、スタッフの皆さんのセンスと情熱に圧倒されました。海宝さん、ご馳走ぶっとぶほど全てが贅沢で美味しかったです! それから衝撃的に印象深かったです映画「愛のマラソンランナー」。なんといっても25年の月日を感じさせない、長野さんと淳子さんの今の若さには驚きデス。

◆幕開けでは、品行方正楽団の演奏をさせていただきどうもありがとうございました。電車が動かず到着が危ぶまれた長岡竜介さんファミリーが間にあって、南米滞在中で音信不通だった白根全さんが楽器片手に突然の帰国、会の開始30分前に奇跡的に全員集合しました。ホッ。急いでミーティングをして、会場は映画館のそばなので控えめにやれることを探し、ケーナ演奏の長岡さん以外はマラカス隊になりました。シャカシャカ。演奏内容を何も知らない長野さんと淳子さんも土壇場で巻きこんでしまいましたが、今思えば長野さんたちは主賓なのにスミマセンでした。(でもバンマスなのでいいですよねっ!) 

◆と、16日の感想を言い出したら興奮よみがえり延々続きそうなのでここまでにします〜! すばらしい個展をお祝いする大事な一夜に参加させていただきどうもありがとうございました! 嬉しかったです。繰り返しになりますが、本当におめでとうございます!!(大西夏奈子

五感が一斉に喜んだ感じの『ゆうべ』でした

■先日の『地平線のゆうべ』めちゃくちゃ楽しかったです! あんなに素敵な会はなかなかないと思いました。五感が一斉に喜んだ感じでした。品行方正楽団の体に心地よい音楽、魂のこもった海宝さんのお料理、そして長野画伯の頭の中をのぞいたような、生命をもった作品群。あの日の空間全部が一つの作品となっているように感じました。後日、改めて展覧会に足を運びました。一つ一つの作品は「作品」なのだけど、描かれた人物がそこにいるような感覚になるのが不思議でした。どんなにデフォルメされていても、モデルさんと似てしまうのは本当に、痛快です。長野画伯の素晴らしい才能だと思います。(三羽宏子


長野さんの足が、思ったよりも「長くない」ことに気づいてしまった……

千晶イラスト

■準備では丸山さんの必殺仕事人ぶり(もはや人間技でない!)に恐れ慄き、海宝さんのお御馳走をつまみ食いしてニンマリ、会場の作品を観て惚れぼれ。会が始まってみれば、知られざる長野さんのお仕事あれこれに感心し、古くからの友人が長野さんを褒めたり茶化したりするのをわくわく。すごく楽しませて頂きました。それから、お蔵出しの『愛のマラソンランナー』を観ることができたのが、嬉しかった。

◆スクリーンに映る若かりし頃の淳子さんに「カワイイ!」と目が釘付けだった私ですが、他にも観ていて気づいてしまったのです。若かりし頃の長野さんの足が、思ったよりも「長くない」ことに。「あれっ?」と今の長野さんをまじまじと見ると、身体のバランスがよいから長く見えるだけで、実はそんなに長くないのかも……。困ったぞ、私は慌てました。「長野さんファン歴」の短い私めが、プレゼントの似顔絵(失敗して4コマ)を描かせて頂けるだけでドキドキなのに、さらに「長くない」だなんて!

◆思えば、視力の悪い私は、いつも恋するように「遠く」から長野さんを眺めておりました。颯爽と現れ、報告者の紹介をする長野さん。そして疾風のように去っていく長野さん(適当)。たとえ2次会でお傍にいれたとしても座っているから、足見えなかったし……。話変わって、淳子さんが会の最後に「こんな男と一緒にいれて私は毎日楽しいです」と挨拶された時、私は、云われた長野さんよりも云った淳子さんの方に惚れぼれとしてしまった。どちらかと云うと、あの瞬間から、私は大の「淳子さんファン」です。(移り気な、加藤千晶


画伯が大作家や超売れっ子になれずに、いまだに毎月地平線通信のイラストを描いてくれる理由

■地平線通信からは想像できないかもしれないが、長野亮之介画伯の原画はとてもなまなましいものである。奔放な筆の勢い、塗り重ねた繊細な色、ホワイトを分厚く塗って修正した輪郭……。絵の細部を見つめれば見つめるほど、画伯の荒々しい息づかいが聞こえてくる。こうした原画ならではの魅力をたっぷりと味わえた点でも、この個展は大きな意味があったと思う。

◆今回、会場に展示しきれない数多くの作品を見てもらえるようにと、これまで地平線通信に載ったイラスト260点を全部そろえて、スライドショーとA4判のアルバムを用意した。その過程で、せっかくの原画展なんだから、絵そのものをもっと際立たせなきゃと思い立ち、画像処理ソフトを使ってイラストからタイトルや文章を全部削除して絵だけにしてみたのだが、新旧いろいろな作品で試してみても、どれもなんだか物足りない。やはり地平線通信のイラストは、絵もタイトルも文字も不可分に結びついて成立しているものであるのを痛感させられた。

◆このことは、画伯の画風を考えるうえで、とても示唆的だ。画伯の絵を見て誰もが感じるのは、そのほとばしる才気だろう。デフォルメの仕方だったり、大胆な構図だったり、小道具の心憎い使い方だったり、絵によってまちまちだが、「お見事!」とつい声をあげたくなることがよくある。まさにアイデアの塊なのだが、絵だけでなく、その脇に置かれたタイトルや本文を読むことではじめて、その絵に込められたアイデアがさらに深くわかってくる。地平線通信にしろ、月刊『望星』の表紙にしろ、何かお題を与えられてそれをひとひねりもふたひねりもしていくのは、画伯の十八番だ。

◆しかし、それが逆に画伯の弱点にもなる。アイデアが湧いてこないと、まったく手が動かないらしい。今回の会場の正面に掲げられた50号の大作「亮之介1964」も、額だけ先に完成していて、5月の連休に入る頃までほとんど真っ白だったと聞く。地平線カレンダーも、いつもはらはらさせられ通しだ。これでは、オシゴトとして付きあう担当編集者はたまったものではない。画伯が大作家や超売れっ子になれずに、いまだに毎月地平線通信のイラストを描いてくれるのは、そんなところに理由があるのだろう。

◆与えられたテーマをどんな料理にして出してくれるのか、有能なシェフとしての画伯の活躍ももちろん楽しみだが、彼が自分で本当に描きたい世界はどういうものなのだろう。近い将来、画伯が自分ひとりでゼロから築き上げたオリジナルな絵画世界を見せてもらいたいと願っているのは、私だけではないはずだ。(丸山純


「出し切った」という、とても清々しい展覧会だと思います。優れた展覧会は世に数多くありますが、フェアな空間を成立させてゆくということは、なかなかできることではない

緒方イラスト

■長野さんの展覧会、単に人を描写してるんじゃない、「人物を描いている」ということが、あらためてよくわかりました。それは、地平線会議や林業関係だけではなくて、映画の俳優にしても「長野さんの想う個人」を描こうとしてるのが、わかりました。ぼくの、ほんとうの個人的なお気に入りは「三冊の旅のスケッチノート」。持って帰って何日もかけて観たかったくらいです。ここでも長野さんは「人物(個人)」を描いてる。もう 一生会うことも無いかもしれない旅先の人の まさに「その人」を描こうとしている。

◆長野さんの真摯な姿勢が育んだ会場空間、鑑賞者が、それぞれに好き好きに空間をトリミングして観ることができました。全体の色彩に感じ入り そして一点に近づいて作者の息吹に震える。「出し切った」という とても清々しい展覧会だと思います。優れた展覧会は世に数在りますが、フェアな空間を成立さしてゆくということは、なかなかできることではないと思います。

◆そして、初個展が回顧展と成っているのがさらに素晴らしかった。もっと 長野さんにお話しを聴きたかったのですが、あまり話せなかったです。4回会場へは行ったのですが。まず、作品を観るのに時間がかかりました。っていうか、まだ全部見切ってないです。スケッチブックも、頁にぜんぜん時間を割けなかったし。スケッチブック一冊観るのに一週間くらいは最低かかると思うし。あのスケッチブック一冊で展覧会が開催できそうな内容だと思うほどです。また、展覧会が終わって落ち着いて いつか、長野さんの時間の許すときに、聴かせて貰おうと思います。

◆あと、ぼくは単純に「嬉しかった」です。というのは、だれの展覧会ででもですが、表現空間が成功している現場に居ると、うまくいって「良かった」とおもう。と言うか 自分の作品や表現で無くてもそういう現場をぼくはなんだか誇らしく感じるのです。(緒方敏明


今思い返しても何だか夢のようで、綿のような柔らかい感情が会場に溢れていて、足が地に着かなくてフワフワして歩いていた記憶があります

■「百顔繚乱展」の観客数は、芳名帳上のカウントで延べ480数名でした。思っていた以上に大勢の方に見ていただき、ありがとうございました。本人が一番ビックリしています。個展の準備にあたり、これまで描き散らかしてきた過去の仕事を、はじめて振り返りました。それで改めて確認したのですが、25年に渡って地平線通信に描き続けてきた仕事、そして地平線会議との関わりそれ自体が、色々な意味でイラストレーターとしての私の核を形成しているのだと思います。

◆主にマスコミ媒体に掲載されてなんぼ、と言うイラストレーターの仕事は、誰が実際に見てくれているのかは判りません。少なくとも担当編集者一名は見てるけど……と思うくらい。でも、地平線通信は、「読者」の顔が全国に何十人と思い浮かびます。昔から見続けている人も多く、顔を会わせれば感想や文句も忌憚無く言ってくれる人達です。これまで地平線会議の仲間にはずいぶん色々なアドバイスをもらいました。

◆通信の絵をきっかけに画材を変えたことも有ります。逆に言えば、手を抜いても、肩肘に力が入っても、見抜かれてしまう、結構怖い場かもしれません。こうしたフィードバックがあるから、「次は画風を変えてE本さんを驚かせてみたい」とか、「似てないかもしれないが、こんな描き方もあるぞー」など、たとえギャラをもらう“お仕事”が途絶えたときでも、絵を描くモチベーションを維持できたのだと思います。

◆約80名が参加した「地平線のゆうべ」でも、大勢の地平線人脈に支えられていることを実感しました。イベントを仕切った丸山純さんは私が地平線会議に出入りを始めた頃から頼りにしている兄貴分。通信イラストを最も厳しく見守ってくれている一人だと思います。その丸山さんが構成し、地平線の若手を動員して作り上げたイベントは暖かくて素敵でした。身内の「品行方正楽団」の見事なオープニング、海宝さんの心のこもった料理も素晴らしく、みんなが楽しそうだったのが印象的です。

◆今思い返しても何だか夢のようで、綿のような柔らかい感情が会場に溢れていて、足が地に着かなくてフワフワして歩いていた記憶があります。泣きそうな瞬間もあったのですが、柄じゃないからグッと我慢しましたよー。

◆個展では目の前で私の絵を大勢の人が見ます。どの絵をどういう風に感じたのか、その場で感想を言ってくれる方も多い。初めて会う方でも、顔を見ながら話してくれるその一言一言が、ものすごいエネルギーになりました。考えてみれば地平線通信という「場」でも、そんな力を長いスパンでずっといただいてきたのかもしれません。謝謝。(長野亮之介


手八丁、笑顔八丁。

北村イラスト

 このほどお江戸にやって来て、人気を博した阿修羅像。6本の腕を虚空に伸ばして深く静かな憂い顔ですが、各腕に小道具を持たせて、憂い顔を陽気な笑顔に変えたら、それがナガノリョーノスケ像ではありますまいか。

 林業わざ師、和太鼓パーカッショニスト、愛猫家、愛犬家にして自然食推進派、その他その他。そしてもちろん本業イラストレーター。多才、手八丁と言うべきか、器用(貧乏?)というべきか。

 新聞社でデスクをしている時に、夕刊カラーのファッションページに「なにかねえちゃん服以外の要素がほしいな」と考えました。映画ファッションはどうだ? でも映画写真の著作権や肖像権はハードル高し。よし、イラストでいこう。そういや、いたいた、映画に詳しいイラストレーターが。というわけで画伯にお願いしたコラム「銀幕一刻」がもう13年という長寿です。ヒットでした。

 宮沢りえちゃんもトム・クルーズもひしゃげて描いて、それでも似ているのはなぜ? たぶん画伯の脳には凡人とは違う画像変換装置が内蔵されているのでしょう。ひしゃげて描かれた地平線同人が怒らないのはなぜ? たぶんあの笑顔にたぶらかされるのでしょう。

 いつか画伯が描いた「自画像」を見て笑いたい。ちゃんとひしゃげなさいよ。(北村節子


比嘉ハーリーは7月12日に決定!

■梅雨というのに天気がいい沖縄です。3月末に始まった週末市は、天気にも恵まれ楽しく忙しくやってます。市で売るのは今が旬のモズク、ぜんざいにかき氷、揚げたて天ぷら、畑でとれたゴーヤや青パパイヤなどの無農薬野菜、うちは山で採れたキクラゲ、浜で拾った貝殻やそてつの実で作ったアクセサリー、毎朝の焚き火でとれる「木灰」(鍋や手を洗ったり、沖縄そばをつくるのに重宝)、あひる玉子の薫製、そしてパッションフルーツ! 今パッションフルーツは収穫の最盛期に入り、市の目玉商品になってます。地方発送もいたしますよ。さて旧五月四日も過ぎハーリーの季節到来です。比嘉ハーリーは7月12日に決定しました。地平線ダチョウスターズは今年もエントリーをするゾー! 参加希望の方はダチョウ隊長こと長野さんまで申し込みを! 今年も熱く燃えましょう!(浜比嘉島 外間晴美

★今年も地平線チームが参戦!!

 長野亮之介リーダー以下、久島弘、車谷建太、新垣亜美 掛須美奈子さんら本土組が外間夫妻ら比嘉メンバーと合流して「地平線ダチョウスターズ」が参加する。昨年は惜しくも優勝を逃したが、抜群のチームワークで活躍が期待される。参加・応援希望者は画伯へ。
《1万円カンパ御礼》

■地平線会議は1979年8月17日に誕生し、この8月に30年の節目を迎えます。これまで毎月欠かさず地平線報告会を開催し、地平線通信を発行してきましたが、30年を記念して新たな企画を実行しています。浜比嘉島での「ちへいせん・あしびなー」、比嘉小児童の写真展の開催、報告書の制作(目下進行中です)、ことし11月21日(土)に決まった記念大集会の開催などなどです。これらのイベントを実行するために、恒例の「1万円カンパ」を始めています。どうかご理解いただき、協力くださいますよう。早速、あたたかい応援の心を頂いた皆さん方に、熱くお礼申し上げます。

■1万円カンパ振込み先:
◎みずほ銀行四谷支店 普通口座 2181225 地平線会議 代表世話人 江本嘉伸(恒例により、カンパされた方々の名を通信に掲載して領収と感謝のしるしとする予定です。振り込みの確認に時間のかかることがあります。万一、漏れがありましたらご指摘ください)。

<09年6月現在カンパ協力人リスト>
★斉藤宏子 三上智津子 佐藤安紀子 石原拓也 野々山富雄 坪井伸吾 中島菊代 新堂睦子 埜口保男 服部文祥 松澤亮 田部井淳子 岩淵清 向後紀代美 小河原章行 江本嘉伸 掛須美奈子 橋口優 宇都木慎一 原健次 飯野昭司 鹿内善三 河田真智子 岡村隆 森国興 下地邦敏 長濱多美子 長濱静之 西嶋錬太郎 寺本和子 城山幸子 池田祐司 妹尾和子 賀曽利隆 斉藤豊 北村節子 野元甚蔵 北川文夫 小林天心 金子浩 金井重 古山隆行 古山里美 松原英俊 野元啓一 小林新

[通信費をありがとうございました]

■先月の報告会以後、通信費(1年2000円です)を払ってくださった方は以下の通りです。万一、記録漏れあれば一報ください。

中橋蓉子/奥田啓司/宮寺修一/高野久恵/金井重/阿佐昭子/長田幸康・田中明美/渡邊祟/滝村英之/水落公明/松川由佳/川名真理

【先月の発送請負人】

森井祐介 米満玲 関根皓博 新垣亜美 村田忠彦 杉山貴章 江本嘉伸 武田力 満州 (以上の9人)

★この日に限って印刷機の調子がおかしく、途中で印刷できない状態に。なぜか紙が溢れ出してしまう。森井、関根両氏に若手の杉山君が延々と頑張り、どうにか正常に戻したものの、できたのは封入まで。結局近くにお住まいの森井さんのご好意でお宅に全員お邪魔して続きの作業をやりました。


[あとがき]

■フロントで書いたように、野元甚蔵さん、長野亮之介初個展の話題で賑やかな通信となった。とくに5人のにわかイラストレーターが競演してくれた「画伯似顔5態」を、どうしてもこの通信も載せたいと思い、レイアウト局長の森井祐介さんにムリをお願いした。成果はご覧の通りです。

◆小林淳さんの父上からの手紙、嬉しかった。そして、もう30年たつんだ、と感無量だった。歴史というと大げさだが、野元甚蔵さんの体験に限らず地平線会議30年の周辺史からも学ぶものはいろいろある。

◆シール・エミコさんから、久々にメールをもらった。痛みが出る時は辛いだろうに健気な内容。《いま、姉の子犬ピースくん(2歳半)をあずかっています。麦丸を思い出させるかわいらしさで、心がポカポカ♪笑顔をもらっています。体調の方は、副作用が悪化し出血と痛みで一時は救急病院へ駆け込んだのですが、今は薬で落ちついています。痛みから解放されただけで「有難いことです」と手をあわせる自分がいます。早く回復報告をしたいのですが、まだ時間がかかるみたいです。「精いっぱい頑張っているから」と、みなさんにお伝えくださいませ。毎日、小さな幸せを3つ数えながら過ごしています♪(5月28日 エミコ)》

◆チワワのピースからもらう小さな幸せ。エミコさんのあの笑顔を想像する。みんな、あなたの笑顔を待っているよ。(江本嘉伸


■今月の地平線報告会の案内(絵と文:長野亮之介)
地平線通信裏表紙

チベットアルプスへのラブレター

  • 6月26日(金) 18:30〜21:00
  • ¥500
  • 於:新宿区立新宿スポーツセンター(03-3232-0171)

「ネナンという6800mの山があって、4300mの所に氷河湖があるんだ。そこから望む山容がもう、綺麗というか、なんというか…」と熱く東チベットの脊梁山脈への思いを語るのは中村保さん(73)。この12年で約30回の現地踏査を重ねてきました。企業人として香港に駐在中、たまたま足を伸ばしたチベット。未だ世界に知られざる白い峰々の姿に出会い、学生時代に山岳部員として探検に焦がれた心を呼び覚まされます。。

アクセスも悪く、情報も少ないからこそ、より魅かれ、チベット・アルプスを体系的に調べるライフ・ワークが始まりました。ロシア製の地図と仏語文献を頼りに、ひたすら歩きます。まだ途は半ばですが、研究成果は英文報告書にして世界に発信しています。その業績を認められ、昨年、英国王立地理学協会からバスクメダルを授与されました。

今月は中村さんにチベットアルプスの魅力と、情報発信の重要性についてお話しして頂きます。


通信費(2000円)払い込みは郵便振替または報告会の受付でどうぞ
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議(手数料が120円かかります)

地平線通信355号/2009年6月10日/発行:地平線会議/制作:地平線通信制作室/編集長:江本嘉伸/レイアウト:森井祐介/イラスト:長野亮之介/編集制作スタッフ:丸山純 武田力 中島菊代 大西夏奈子 落合大祐/編集協力:網谷由美子/印刷:地平線印刷局榎町分室
地平線Webサイト http://www.chiheisen.net/
発行 地平線会議 〒160-0007 東京都新宿区荒木町3-23-303 江本嘉伸方


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