5月13日午前5時30分、麦丸がぺろぺろなめるので目が覚めてしまった。2時間しか寝てないんだぞ、お前だってねむいだろうに。しかし、確かに起きるべき時間ではあった。ようやく今号の地平線通信は出来上がりつつあるが、この原稿書きが残っているのと、もう一つ重要な任務が今朝はあるのだ。思いついて麦丸をいつもより早めに連れ出して早朝の町を散歩し、8時過ぎ、自転車で四谷出張所9階にある四谷区民ホールに向かった。
◆すでに人々が集まっていた。大丈夫だろうか、と緊張する。8時30分、抽選のための赤い整理札が配られる。素早く並んだので私のは「3番」だ。なんだか幸先がいい気がする。
◆地平線会議が動き出して30周年になるのを記念して、昨年秋の「ちへいせん・あしびなー」、比嘉小学校の写真展、それにこの地平線通信を支えてきた長野亮之介画伯の初個展を祝う「5.16 地平線のゆうべ」(これは、面白いです)などいろいろなことを実行している。その集大成というか、この30年を考え、祝うお祭りを11月末頃、やるつもりだ。場所は、可能なら300回記念に使った牛込箪笥区民ホールで土曜日に。
◆その新宿区の区民ホール(四谷区民ホール、牛込箪笥区民ホール、角筈区民ホールの3か所)の利用受け付けが半年前にあたるきょう13日なのである。希望者が多いので、原則抽選となる。区内に住む桜井恭比古さん(5年前の大集会で見事「1番籤」を引き当てた功労者)、埼玉から米満玲さんも通信制作に追われる私を心配して駆けつけてくれ、3人固唾をのんでその瞬間を待った。
◆9時になり、「1番」の人から順番に白い札の入った紙袋に手をつっこむ。3番手の私がつかみだしたはなんと「17」だった。つまり16人の人が私の前に指名権を行使するわけである。これはやばい。せめてひと桁数字がほしかった、と少し弱気になる。しかし、次々に立って袋に手を入れる人の数が40、50、60人と増えてゆくにつれ、気持ちが変わった。最後に90人という数字を見て「17」というのは相当いい位置なのではないか、と強気に転じる。単純な性格である。
◆土日を中心に次々にカレンダーが埋まってゆく。しかし、もしかしたらどこか1日ぐらい残りそうだ、とドキドキしていると「17番の方」と呼ばれた。ボードを見よ! はじめからほしかった「11月21日の土曜日」はまだ「空き」ではないか。3人で思わず、小さな歓声を上げた。かくして地平線会議30年記念大集会は「2009年11月21日(土)全日@牛込箪笥区民ホール」と決まった。
◆5月は世界最高峰から登頂のニュースが次々に伝えられる月だ。商業公募登山隊の隆盛で今年も多くの登頂者が誕生するのだろうが、エベレストの日常化というのだろうか、この10年ほど、登頂のニュースがすっかり関心を持たれなくなってきたことを痛感する。登ってはいるのだが、ごく個人的な出来事にとどまっている。そのことは、人類の行動史の上で何らかの深い意味を持つのではないか、と感じている。
◆ちょうど50年前の1959年3月、中国登山協会の男たちがチョモランマに登ろうとしていた。実はダライ・ラマを護ろうとするチベット市民の抵抗に火がつこうとしていた時で登山どころではなかった。登山家たちはひそかにピストルと手榴弾をしのばせてラサの町を歩いた、という。ダライ・ラマの脱出でチベット人たちの苦難が始まり、その流浪の旅は今年ついに半世紀を迎えた。私たちの多くはチベット人たちへの深い同情を抱いているが、身近な歴史に踏み入れることは少ない。
◆エベレストの話題と並べるのは気がひけるが、4月19日の日曜日、久々に薩摩半島の先端に聳える開聞岳(924m)に登った。2年半ぶり、4度目の登頂である。頂上周辺はごつごつとした黒い岩があちこちにある。開聞岳は活火山である。貞観16(西暦874)年大噴火した際、噴煙が天を覆い、灰や雨が砂のように降ったという。360度の景観を楽しみながら、山麓山川町(現指宿市)の野元甚蔵さんの家に帰る。
◆野元さんはダライ・ラマが4才の頃、ラサでその行列に遭遇した稀有な旅人である。モンゴル人になりすませてのチベット潜行だった。私は「西蔵漂泊」という2巻本を書くために野元さんとお会いして以来、その人柄にひかれもう20年近くおつきあいさせてもらっている。私たちの地平線会議が30周年になることもご存知で、嬉しいことに「地平線会議の皆さんなら行きましょう」と言ってくださった。いま92才。ダライ・ラマのチベットで当時22才の日本青年が何を感じたか、5月は70年前の貴重な証言者に鹿児島から来て頂く。(江本嘉伸)
■記念すべき360回目(ぐるっと一まわり!)の報告者は、本多有香さん。今年2月、カナダのホワイトホース〜アラスカのフェアバンクス間を走破する世界最長の犬ゾリレース「ユーコンクエスト」(従来、もうひとつの長距離レース「アイディタロット(アンカレッジからノームまで1800キロ)」が世界最長の犬ゾリレースと言われていたのだが、近年GPSの発達により実はユーコンクエストの方が距離が長いことが判明したそう)に出場したマッシャー(犬ゾリつかい)だ。東京〜那覇間とほぼ同じ1600キロを、10〜17日間かけて犬と人の力だけで旅する…限りなくシンプルで、最高にロマンにあふれたレース。地平線通信に載る近況報告を楽しみにしていた方も多いはず。
◆アラスカでの永住権を持たない有香さんは、ツーリストビザをとり、アラスカと日本を半年ごとに行き来する生活を2002年から続けている。日本では資金稼ぎのアルバイトに奔走する毎日。花火師、カニ売り、ひげ剃り売りなど変わったアルバイトも多数経験しており(有香さんの面白アルバイト歴は通信346号に)、今は塾講師がメインだ。なんと有香さん、日本にいる半年間で、レース関連の費用200万円を稼ぐ。
◆かかる費用は、犬のエサ代が半年間で40万円。ユーコンクエストのエントリー代が15万円。1つ1ドルのブーティー(犬用のくつ下)代がざっと10万円。寒冷地用のリチウム電池が5〜6万円。ほか獣医検診代、注射代、ガソリン代など。ちなみにユーコンクエストの優勝賞金は3万5000ドル、優勝しても元はとれない。
◆実は有香さん、4年前の報告では一生懸命話した結果、なんと20分で全てを話しきってしまった。そこで「今回は時間稼ぎのために大量に用意した」というスライドが始まる。アイスフィッシング、ウサギ罠猟、大きなリンクス(山猫)の解体(肉は白身でおいしい)、飛行機から写した真っ白いアラスカの大地…。有香さんの世界が、じわじわと会場に広がっていく。
◆足が長くて好奇心旺盛な子犬たちの写真を見ながら、犬の解説。犬ゾリで主に使われるアラスカンハスキーにも色々と種類があり、有香さんが特に好きなのはオーロラハスキーと呼ばれる犬種だ。鼻が長めで目が青く、ちょっと短毛なのが特徴。レースに強い犬は血筋が重要なので、品種改良が進んでいる。
◆次々と装備が紹介される。ほとんどのマッシャーが手づくりしているというソリは、トネリコ材という野球のバットと同じ丈夫な素材で、各部は衝撃を和らげるためにフレキシブルに動く。スポンサーのカリマーに特別に作ってもらったというスレッドバッグ(そりを覆うバッグ)は、全長165センチと中で眠れるくらい大きい。気になるソリの中身でユーコンクエストで携帯が義務付けられているのは、寒冷地用の寝袋、エサや枝を切るための手斧(全長56センチ以上)、スノーシュー、レースオフィシャルからもらうデトブック(獣医用の本?)。有香さんは今回のレースでスレッドバッグが破れて手斧を落としてしまい、スペアを受け取ったため減点となってしまった。ほか、クッカー、おたま、エサ入れ(実は100均で買った鉢受け)とソリは荷物でいっぱいだ。チェックポイントが少ないため、ソリに乗せるエサも多く重い。荷物は最低限に削る。犬の薬は用意するが、自分の分はまあいいや、と持たない。
◆フリース素材で着せやすい構造のドッグコート(犬用コート)も、スポンサーのカリマーと一緒に型紙から作った。メス犬の乳首、オス犬の大事な所が凍傷になりやすいので、有香さんはビーバーの毛を縫い付けたり、風よけをつけてみたり、犬を寒さから守るために工夫している。エックスバックというハーネスは、背中がバッテンになっていてソリを引く力がでる。レース中はハーネス擦れをさけるためにも、同じものを使い続ける。「遠足には履きなれた運動靴で、みたいな感じで」。
◆犬の運搬に使うのはドッグトレーラー。写真で紹介されたのは1匹ごとに部屋がある2輪のトレーラーで、車で引くタイプ。犬たちは車でどこかに連れて行ってもらうのが大好きで、よろこんで乗りたがる。降りるときも飛び降りてしまうので、1匹ごとに抱きかかえる。犬の体重は20キロから50キロもあるので、ちょっとした大仕事だ。
◆トウヒの森を走るトレーニング風景を見ながら、犬ゾリの説明。基本的に14頭でひく。最初の1、2頭がリーダー犬で、マッシャーが出す右・左・ストップ・ゆっくり・早くなどという指示を理解し、コマンドとしてチームを導く。しかし先頭を走るのは犬にとっても負担が大きい。子犬の頃から適性を見て、できる子を訓練していく。次の2頭がスイングドッグ。マッシャーのコマンドを聞き、リーダーを助けて走る。そこから後ろの犬たちをチームドッグと呼ぶ。さらにソリに一番近い犬をウィルドッグと言い、力が強く、ソリの音を気にしないで走れる犬を選ぶ。ソリのコントロールに最も関わるポジションなので、たとえば狭い道では自分だけでなくソリのことも考えて走ってもらう必要がある。ウィルドッグがレースのポイントになると聞き、大切なのはリーダーだけじゃなかったんだなあと感心。「犬も人間と一緒。小1の子どもと同じで騒ぐんだけど、クラスをまとめる先生みたいな感じです」
◆チェックポイントには、フードドロップと言って犬や自分の食べものや電池、着替えなどを先送りしておく。犬のエサはチャムサーモン、キングサーモン、ビーバーの内臓(脂肪分が多い)、ドライフードなど。凍った状態で用意しておき、雪を溶かして作ったお湯であたためて与える。チェックポイントに着くまでも、基本的に2時間に1回程度はエサをあげるという。
◆「あ、装備がまだありました!」と取り出されたのは、練習用の皮のグローブ、ソリと犬を繋ぐバンジーというゴム、そしてアラスカのネイティブに作ってもらったという有香さんのコート。フードの顔周りには、白と黒の2種類の毛が使われている。外側は風を通さない白いオオカミの毛、内側は水に強いウォルヴェリン(クズリ)の黒い毛。6万円くらいしたという。中はダウンだと水分を吸って寒くて使えないため、人工の綿。汗をかいて止まることを繰り返すという面でも、レースは過酷だ。いよいよユーコンクエスト本番。
◆マイナス30度と、寒い中スタート。あれ、スタート地点ではためくユーコンクエストの旗、後ろを振り返る犬の姿に見覚えが? そう、有香さんの報告会の案内が載った通信のタイトルだ。さすが長野画伯。29チーム中女性は6チーム。最初のチェックポイント「ブラバン」の街まで160キロ、13位。チェックポイントでは、マッシャーも、ハンドラーも、チェッカーも、みんな疲れて机につっぷして眠っている。異様な光景。チェックポイントでは、犬にコートを着せてわらの上で寝かせる。マッサージをすることもある。
◆有香さんは6時間走り6時間休むペースで進む。冬、高緯度のカナダ・アラスカの日照時間は1日わずか5〜6時間。ほとんどが暗闇の中でライトをつけての走行となる(あとで聞いたのだが、お祭りなどで売っている光るリングを犬の首輪につけたそう)。ラスという板に反射板がついた目印を頼りにコースをとる。しかし経験ある犬は道を覚えており、前のチームのにおいを辿っても進めるという。
◆有香さんに犬を貸してくれたビル・コッターも、同じコースを300マイルだけ走るレースに出場していた。ビルのソリを追う有香さん。実は、急きょタイレンという犬をリーダーに育てるため、レース中にトレーニングしているのだ。有香さんが今回最も危惧していたのはリーダー犬不足。様々な事情によりオリーブオイルという1頭しかリーダー犬を借りられなかった。しかもそのオリーブオイルが怪我のため不調で、何とかごまかしながらレースを進めていたのだ。
◆今年はあたたかかったため、川がオーバーフローして危険な箇所もあった。クエストという言葉通り、冒険の旅だ。そして標高差1000メートルの「恐怖のイーグルサミット」。山越えが4つもあるアップダウンの激しいコースのユーコンクエストだが、レースも700マイルを過ぎ、犬も人も疲労困憊のときのイーグルサミットは最も辛い。写真では2人のマッシャーが助け合いながら進んでいる。今年は3チームがリタイアした。ここで有香さん、なんと自分が先頭になり、犬たちをひっぱって歩いたという。しかし、やはりきちんとしたリーダー犬なしではレースを続けることができず、イーグルサミットを越えた所でリタイアを決定。ユーコンクエスト3回目の挑戦は、走行距離1382キロ、ゴールのフェアバンクスを目前にして幕を閉じた。
◆時間がいっぱいになり、この日は、過去2回の挑戦についての話は聞けなかったが、マッシングとは何か、という現場でなければ知り得ない貴重な話を存分に披露してくれた。たとえば、レース中は凍傷を防ぐため、6時間走行している間に水を2リットルも飲むという。お湯の入った魔法瓶は手づくりのマットで包んでも口が凍ってしまうため、ドリルで穴をあけてストローを挿す(ストローは湯気で凍らない)。
◆250枚ものスライドが終了し、続いて3月に放送されたTV番組の一部が上映された。質問コーナーではテンポよく次々と手が挙がったが、1つだけご紹介。「レース中、トイレはどうするの?」という質問に、有香さんは生き生きと答えた。「犬を止めるのは何だから、ソリにのったままします。後ろに人がいないか確認して、まっすぐな所でハンドルを握ってこんなかんじで…(と実演)。コートでおしりが隠れるから大丈夫ですよ」飾らない、面白い、不思議なキャラクター(報告会の最中、私の視界には有香さんが報告会の前に飲んだビールの空き缶がしっかり入っていたし、二次会終了後、江本さん宅にて31時=朝7時=まで飲み続けた!)。
◆テレビ番組で映った有香さんの部屋に、54歳で亡くなられたというお父様の写真が飾られていた。若くして人生の短さを知ったことが、有香さんの原動力になっているという。実は私もこのレポートを書いている最中、父が事故で急逝するという思いもがけない事態に遭遇した。まだ信じられないし、寂しさと、今後の予定をいくつか変更しなければならない悔しさとで複雑な心境だ。本当に当たり前のことだけれど、過ぎてしまった時間は戻らないし、今はただこれまで以上に今とこれからを大切に生きていきたいと思う。(新垣亜美)
■「成功したユカには興味がない、6月から移住を考えているなら尚更このタイミングで報告すべきだ!」と江本さんに国際電話で何度か口説かれ、うっかり出ることになったのですが、その後の重圧は結構あって…。
◆なにしろ江本さんってば、「何の心配もしていないから。」と言った後に「今年は地平線30周年で尚且つ今回は記念すべき360回目なんだ。」なんて言い出すんです。言葉には出さなくても、続きは「わかってるんだろうな?」ってことなのです。
◆前回(注:2005年7月報告会)の『20分で終わった恐怖』が蘇り、「時間を稼ぐぞ」てな気持ちで写真を多くしてギアをいっぱい持ってきて台本を作って...必死でした。報告前に関係者から写真が多すぎると危ぶまれていましたがまだまだ油断できないとさえ思っていました。
◆自分自身の話しをするのが苦手なので、終始「犬ぞりとは」という内容になってしまい、レースでの出来事は話さずじまいでしたが、なかなか知られていない犬ぞりについて、かなりの情報をたくさんの人に伝えることができた気がして、今では色々持ってきてよかったと嬉しく思っています。
◆自分が育てて訓練して作ったチーム(犬達)と大自然を走り、キャンプして進む旅の楽しさは、私にとって本当にかけがえの無いもので、簡単ではありませんがその分喜びも大きいものです。私はやっぱりずっとこれをやり続けたいと思っています。
◆最後に、酒の力が必要だった私に麦酒を提供してくださった江本さんの優しさと寛容さに心酔しつつ、画伯の書いた犬達の絵を握りしめ、5月26日にカナダへ出国します。私の拙い話を聞いて下さってありがとうございました。飲むときは是非誘ってください。(本多有香)
■みなさん、お元気ですか。ぼくは昨夜(5月10日)、「四国八十八ヵ所めぐり」の巡礼から帰ってきました。出発したのは4月1日。東京からスズキの125ccスクーター、アドレスV125Gを走らせ、和歌山からフェリーで徳島に渡り、第1番の霊山寺を皮切りに阿波→土佐→伊予→讃岐というルートで第88番の大窪寺までの八十八ヵ所をめぐってきたのです。
◆巡礼の装備一式は第1番の霊山寺でそろえたのですが、白装束をバイクのウエアの上に着、輪袈裟を首にかけ、諸々のモノが入った頭陀袋を肩にかけるという格好でアドレスに乗りました。白装束の背には「南無大師遍照金剛」とお大師さん(空海)の尊号(宝号)が墨書きされています。「同行二人」と書かれた頭陀袋の中には数珠と経本(般若心経)、線香、ローソク、納経札、納経帳、それと本尊の御影保存帳が入っています。頭陀袋には鈴をつけてるのですが、そのチリーン、チリーンという音は心に響き、耳に残るものです。
◆どのようにして巡礼するかというと、札所に着くとまずは山門で合掌します。見事な山門の札所が多いのが特徴です。次に手洗いで手を清めます。この手洗いも見事な水口のものが多いのです。鐘をつけるところでは鐘をつき、まずは本堂を参拝。線香とローソクをあげ、自分の名前を書いたお札を納め、賽銭(すべて100円と決め、100円玉にしました)を入れ、合掌したあと般若心経を上げるのです。その前には「をんさんまやさとばん」と3度、真言を唱え、般若心経を1巻あげると、本尊の真言をやはり3度、唱えるのです。
◆たとえば本尊が釈迦如来像だとすると「のうまくさんまんだぼだなんばく」、弥勒菩薩像だと「おんまいたれいやそわか」、薬師如来像だと「おんころせんだりまとうぎそわか」といった具合です。これと同じことをお大師さんをまつる大師堂でもするのです。
◆本堂と大師堂での参拝を終えると、納経所に行き、納経帳に朱印をもらい、墨書きをしてもらうのです。本尊の御影(墨絵)を保存帳に差し込んでいきます。これが300円。八十八ヵ寺では1寺あたり500円ということになります。合計すると4400円です。最初はたどたどしくあげていた般若心経も空海の修行の地、土佐に入ったころからは自分でいうのも何ですが、じつに上手に上げられるようになりました。最後に第1番の霊山寺に戻り、お礼参拝をし、徳島からフェリーで和歌山に戻り、高野山を参拝。金剛峯寺と奥の院で最後の納経をし、「四国八十八ヵ所めぐり」を終えたのです。
◆その間ではじつに多くの人たちと出会いました。忘れられない言葉も数々あります。第34番の種間寺近くの民宿「徳丸館」で泊まったときは50代の女性と一緒になりました。ご主人を病気で亡くし、すっかり打ちひしがれていたとのことですが、友人にすすめられるままにお遍路の旅に出たそうです。すると目に入るものすべてがうれしくなり、空を見ては笑い、川の流れを見ては笑い…で、ご主人を亡くして以来、初めて笑った自分を感じたとのことです。
◆第46番の浄瑠璃寺前の旅館「長珍屋」では50代の男性と一緒に大広間で食事をしました。その人は末期ガン。バリバリの会社人間だったということですが、末期ガンを宣告され、余命いくばくもないといわれたときは目の前が真っ暗になったそうです。それを機にお遍路の旅に出たとのことですが、すっかり変った自分を感じたといいます。遍路旅に出て「有難さ」がしみじみとわかったとのこと。食事の有難さ、人の親切の有難さ。そのきわめつけは朝、起きたときだといいます。目が覚めたとき、「あー、自分はまだ生きている!」と心底、有難くなり、思わず手を合わせるといいます。この「有難い」という気持ちを持ったおかげで、「(寿命が)少し延びているようだ」といってました。
◆「四国八十八ヵ所めぐり」はまわり終えると、2度目、3度目とやりたくなるそうです。10度目ぐらいはザラ。ぼくが今回、出会った人では60回目という人が最高でしたが、100回記念だとか150回記念、200回記念という石碑も見ました。
◆今回のぼくの旅は「60代編日本一周」の第2部。その第1弾目の巡礼編。「四国八十八ヵ所」にとどまらず、島四国の「伊予大島八十八ヵ所」、「小豆島八十八ヵ所」もめぐりました。明後日(5月13日)には再度、出発しますが、つづいて「西国三十三ヵ所」、「板東三十三ヵ所」、「秩父三十四ヵ所」をめぐります。6月20日には帰ってくる予定ですが、そのあと7月1日には「チベット横断」に出発します。(賀曽利隆)
■江本さん、こんにちは。連休はいかがお過ごしでしたか。こちら伊豆は、みかんの花の季節を迎えました。いよかんにはっさく、甘夏にニューサマーオレンジ、夏みかんに温州みかん……。それらのぷっくらとした白い蕾がいっせいにほころび、星のような形をしたかわいい花が顔を出して、甘く爽やかな香りに包まれています。
◆この連休、私は伊豆の家で(注:筆者は週末伊豆暮らしの日々)友人や家族を迎えつつ、ひとりの時間は庭で石と格闘していました。引っ越すまで知りませんでしたが、伊豆半島東海岸のこの八幡野の辺りは、大室山の噴火による溶岩地帯。そのため、地面を掘ろうとすると、すぐにガチンガチンガチン! 石にぶつかります。
◆この地で生まれ育った曽祖父が『古稀回想』(昭和38年発行)と題して半生をまとめた本の中に、この地における開墾とは、「火山の噴出物をとり出して周囲に石垣をつくり、石にはさまれた僅かの土を集めることである」と書いていますが、まさに、ひいおじいちゃん、そのとおりです!
◆このところ私が格闘している石は、これまでで一番の大きさ。両手を軽く広げたほどの幅があり、まだ全貌は見えませんが、ガマガエルのような形です。この石をなんとか掘り出したい。大小のスコップや鍬を駆使し、汗をかきかき周囲の石を少しずつ取り除いていますが、カエルくんはびくともしません。なぜ掘り出すかって? それは畑を広げるためでーす。小さな畑づくりのために、これまでにいったいいくつの石を掘り出したことか。
◆それゆえ、石は売るほどある! と常々叫んでいる私ですが、先日、曽祖父の記したその本を読み進めていたら、かつて実際にその石を売っていたという話が載っていました。太平洋の荒波を真南にうける荒磯のある半農半漁の寒村でありながら、「土地のものは、あまり困りもしないでのんびりと暮して来た」。それは「ボク石とり」という「特殊のかせぎがあった」からだと。
◆「ボク石とは火山の噴出した溶岩でここの山中到るところにあるのだが、この形のいいの、複雑に凹凸のあるものなど、庭園に使い頃のを拾って出荷するのである。村の機帆船につんで、東京に出すのであるが、誰の山でもかまわない。ボク石とりのフレが大声でまわると、誰彼を問わず、背負いこをしょって出かける。そして海岸に運ぶ。(中略)浜に並べられた各自のものを、船主はものによって適当に値をつけ、金を払うこともあるが、多くは米や、醤油や日用品で支払っていた。」と記されていました。
◆そのほか、この地でみかんを栽培するようになったきっかけや、昭和36年に伊東より南へ向かう鉄道が開通したことで、この一帯が観光地として脚光を浴び、土地が高騰していったことなども具体的な価格の変遷とともに記されていました。地平線会議の活動や報告会に集う人々に触れて感じることでもありますが、記録を残すってすごいですね。
◆そして最近、私は石と向き合いながらときどき考えます。「ふるさとって何だろう?」「この地域のために自分ができることって何だろう?」と。まあ、一番の要因は「肝高(きむたか)の阿麻和利(あまわり)」でしょうね。地平線通信でも何度か話題になっている、沖縄本島うるま市の子どもたちによる舞台ですが、初めて「肝高の阿麻和利」を見たときのショックは忘れられません。
◆見終わったあと、十年来の友人である、その舞台の演出家・平田大一さんに感想を聞かれ、咄嗟に「嫉妬した」と答えたのを覚えています。出演者と一緒に歌い踊りたいという思いにも増して私を打ちのめしたのは、舞台上の子どもたちから静かに、けれども激しく、あふれるように伝わってきた、自分たちが暮らす土地への思い、誇りのようなもの。彼らは、ふるさとの英雄である阿麻和利のことを生涯忘れず、勝連城を心に抱いて生きていくのだ、それはなんて強い心の支えになるのだろうと羨望と同時に嫉妬心を覚えたのです。くー。
◆その後、「肝高の阿麻和利」や八重山の小中高生による舞台「オヤケアカハチ」(こちらも大一さん演出)に関わる人たちと交流するにつれ、「地域のために」という意味の言葉を何度も耳にするようになりました。自分が学生のとき、そんなことを考えたことはなかったです。ふるさとへの誇りは“感動体験”によって育まれる、と大一さんはいいます。いかに子どもたちに“感動体験”を与えられるかが大人に問われているのだと。そして、ふるさとに根を張ることが、世界に羽ばたくことにつながると。
◆この夏、東京に「肝高の阿麻和利」と「オヤケアカハチ」の舞台がやってくると聞いて、ぜひ多くの人に見てほしいと思いました。出演する子どもたちだけでなく、観客にとっても“感動体験”になると思うので。それぞれ100人規模での沖縄・八重山からの大移動なので準備は大変ですが、東京公演事務局の藏當慎也くんを中心に卒業生や心動かされた人たちが準備、サポートをしていますので応援をよろしくお願いします。って、すっかり広報担当のようになってしまいましたが、お許しを!
◆あ、最後にひとつ、ささやかな夢の話。大量に出土した石を利用して伊豆の家の庭に石釜をつくりたいと思っています。(妹尾和子)
■ご無沙汰しています。冬からずっとバックカントリースキー三昧の日々が現在進行形で続いているため、なかなか報告会にも顔を出せない状況です。「バックカントリースキー」とは、いわゆるスキー場のゲレンデではなく自然の雪山へ潜入し、山スキーやテレマークスキーなど、かかとがあがるビンディングを装着したスキー板の裏にシール(滑り止め)を貼り、ガシガシ登ってシュプールのない斜面を滑り降りるというものです。冬山登山の装備やGPS、雪崩対策の3種の神器なども必要なので、誰でも気軽にできるわけではありませんが、バックカントリーを知るとスキー場で滑る気がしなくなるほど充実感があるんですよー。
◆スキー場がオープンしている間はリフトを利用してそこから登り出すパターンが多く、安達太良山系、吾妻山系など福島県の山を中心に、東北全域を徘徊しています。そうそう、1月後半には安達太良山近くの船明神という超マイナーな山で田部井淳子さん一行にもお会いしました。ご健在で何よりです。
◆4月以降はほとんどのスキー場は閉鎖されるし、近場に雪のある山も少なくなるので遠征も多くなります。GWは燧ケ岳、鳥海山などを滑ってきました。雪不足と言われているものの、山にはまだまだたっぷり雪はあったので、今月末まではこんな生活が続きそうです。今シーズンのスキー日数は現在のところ53日。いったい何日まで記録が伸びることやら。なぜ、こんなにスキーをしているのか、と呆れる諸氏が多いでしょうが、ひとえに自分の旅をするためなのです。本音を言うと毎度スキーに行かなくてもいいと思いながら、休日のすべてをテレマークスキーに費やすほど夢中なわが夫に付き合ってあげているのです。
◆つまり、今のうちにしっかり義務(?)を果たしておけば、海外へ1人で出かけるときも言い出しやすいというわけです。「オマエだけずるい。オレも仕事辞めて一緒に行く」と言われないように。前例があるだけに毎回ハラハラです。まったく、旅好きの伴侶を持つと気苦労が絶えませんね。そんなわけで「地平線犬倶楽部」の活動再開の件も、昨年11月に江本さんに約束しておきながら放置してしまいました。スミマセン。そろそろ動き出そうと思います。具体的には何をするのか決まっていませんが、6月になっても何の活動もしていないようなら、みなさん、叱咤激励してください。よろしくお願いします。
★PS 今月号の「旅行読売」にカンボジアの記事を書いています。メキシコも記事の候補になっていたのですが、メキシコにしないで本当によかった〜、と胸をなでおろしています。4月初めに寿司職人としてメキシコの日本食店に呼ばれて行った友人も帰国。この件でメキシコの印象が悪くなってしまったかも、と残念です。大好きな国なので。(滝野沢優子 地平線犬倶楽部会長)
[1信]江本さんこんばんは。僕は今、高知と愛媛のちょうど境目にあたる松尾峠の大師堂にいます。足摺岬からスタートして90キロほど来ました。今夜はここで弘法大師に見守られながら一泊します。GW限定のお遍路を始めて4年、そのうちこの土佐の"修行の道場"に3年を費やしました。3年の間に、地平線会議に出会えたことももちろん大きな嬉しい出来事でしたが、プライベートではショックなことがいくつかあり、峠を登りながらそれが思い出されて思わず涙が出ました。
◆僕は遍路をするときはすっかり"お遍路さん"に成り切ろうと心掛けていて、白装束に金剛杖、同行二人そうして気持ちが入り込むと自然と般若心経も口をついて出るし、道端の地蔵仏にも手を合わせるようになるし、見える世界が変わってくるように感じます。そうでないとただのバックパッキングと何ら変わりなく、遍路である意味があるのかとさえ思います。
◆しかし今回に限ってはなかなか気持ちがその"お遍路さん"に成り切れず、ただ歩くだけの2日間。いつもならすぐ入り込めるのですが、2年間のブランクのせいか、長距離歩くことに慣れてしまったせいか、はたまた野宿慣れし過ぎたせいか。今日になり、今回ひとつ目になる札所(39番延光寺)を打ってやっと気分が入ってきました。この状態になってようやく自分の中のいろいろな気持ちに真摯に向き合えるようになります。もう日程の半分が終わってしまいますが。明日から伊予の国です。(5月4日 杉山貴章)
[2信]今夜は愛媛の十夜ヶ橋という橋の下にいます。修行中の弘法大師がここで寝たという伝説の橋です。遍路中に橋の上で杖を突いてはいけないという決まりがあるのですが、それはこの橋の伝説が元になっています。
◆さて今回の遍路中によく聞いたのは、最近外国人のお遍路さんが増えているという話です。僕も何人か会いました。彼らは英語で書かれた遍路のガイドブックを使っていました。とある縁で話をしたオーストラリア人の夫婦は、特に古い標石が気に入ったようで、何百年も前に書かれた道標が今もそのまま残って使われているのが素晴らしいと言っていました。
◆古い標石に加えて、現在は歩き遍路マークと呼ばれる目印がそこら中に貼り付けられており、また古い巡礼道の手入れも地元ボランティアの手で頻繁に行われています。そうやってみんなで文化を残そうとしていることに感心していました。僕も全く同感ですが、何よりも外国人の彼らが遍路という日本人にすら少々分かり辛い文化を高く評価してくれていることをうれしく思いました。
◆日本人が海外の文化に触れるとき、現地の人々も同じように感じてくれているのでしょうか。だとすれば、我々としても彼らの文化に真摯に接するべき義務があると改めて感じました。僕がもう少しまともに英語ができたら彼らが興味を持ちそうな遍路に関する話をもっとしてあげられたのですが、拙い語学力では叶わず、それが心残りです。でも長い行程の中で自然といろいろなものを感じとってくれることでしょう。この十夜ヶ橋には通夜堂もあるのですが、今夜はあえて橋の下で寝させてもらうことにします。(5月7日)
[3信]9日に四国遍路から戻り、その足で今度は群馬県安中市で行われた「安政遠足 侍マラソン」に参加してきました。碓氷峠を登る30キロのマラソンは遍路で疲労した足にはなかなかきついものでしたが、熱中症気味になりつつも恒例のハネト姿でなんとか4時間で完走を果たしてきました。お遍路歩き200キロとあわせて230キロ。四国にせよ群馬にせよ、徒歩での移動が基本であった古来の人々の苦労が少しだけわかった気がした連休でした。 (5月10日)
■今年もまた、桜舞い散る弘前城にやって参りました。恒例の津軽三味線全国大会に出場し、4年ぶりの団体戦の優勝。個人戦では入賞は逃すも、これまでの自分の成長と、これからの自分の展望を感じられる実りある大会となりました。
◆ここ弘前では“津軽富士”の愛称をもつ、津軽の人々によって唄われ、愛され続けてきた山があります。10年前、はじめてこの地に来て以来、どこからでも望むことの出来るその素朴で雄大な姿を津軽の心の象徴として刻み込んできました。そして今回10年目にして、そんな岩木山に改めてしっかりと挨拶をするような心持ちで大会に挑みました。今度はこの山から、世界を見渡してみたいという気持ちが込み上げてきたのです。というのも昨年、沖縄での現地の人々との触れあいが、僕にその先の世界を示してくれているように思えたからです。これまで自分が歩んできた道のりはどこへと繋がっているのか。本土〜琉球〜台湾〜大陸へ。この場所から辿ることのできる『人や唄によって踏み固められた道のり』への強い興味が、いつしか芽生え始めて来ています。
◆ただただ心惹かれるままの直感的本能的衝動の延長線には、なにか自分にとってとてつもない大切な世界が待っていてくれているのではないだろうか。逢えるべき人たちに逢い、そこで何かを交換する。人と人、文化と文化が出逢い向き合ったとき、そこにはお互いに共鳴するものと、対象のなかに映る自分自身との出逢いが必ずある。それこそが常々想い描いていた自分の旅のビジョンでした。
◆今年は、三味線を旅の杖として、まずは台湾を少し歩いてみてみようと考えています。この日本でいつか歩いていたどこかの風景から繋がる道のりと、三味線を弾きながら描いていた心象風景が、旅をイメージしたこの瞬間から、その先の地で重なり始めているのを、津軽の地で感じています。果たして、自分の音色をどこまで風に乗せることが出来るのか。人々とどこまで気持ちを通じ合わせられるのか。そこから何が見えて来るのだろう。まだまだ好奇心は尽きることがありません。(津軽三味線弾き 車谷建太)
■こんにちは。比嘉小学校の金城です。沖縄ではGWが終わると梅雨の時期になるのですが、今年はまだまだ梅雨が始まらなく、毎日暑い日が続いています。新学年度がスタートし、そろそろ慣れてきた頃ではありますが、私は、今年度は3、4年生の担任となり、新しい児童を迎え1ヶ月過ごしてきました。写真展に参加した児童とは、あまりふれあう機会もなくなり、少し、寂しさを感じていますが、3、4年生で子供っぽさも見られる児童と毎日を過ごしています。やはり、高学年とは少し違う様子に戸惑っています。
◆さて、前回お話ししたように、地元の沖縄銀行の安慶名支店というところで、子どもたちの写真展が開催されています。やっとその様子を写真に撮ることができたので送ります。スペースが限られているので、2週間間隔で写真を取り替えて展示するとのことでした。私の家の近くなので、知り合いがそれを見ていい取り組みだと感想を言っていました。
◆結構いろんな人の目に触れる機会となったのでよかったと思っています。子どもたちが実際にその写真展を見ることは無理なのですが(平日しか見れないのです)写真で紹介しています。報告書の作成等でまだまだ忙しい時期ではあると思いますが、季節外れの風邪など引かないよう用心してください。何かありましたら連絡ください。また聞きですが、区長さんによると、写真展、病院でもやる予定があるらしい、とのこと! また、何かありましたらお知らせします。(5月11日 金城睦男 比嘉小学校教諭)
■昨日は、5月5日、子どもの日。都内の銭湯では、この日は「菖蒲湯」です。冬至には「ゆず湯」、他にも、季節、季節で「りんご湯」、「ラベンダー湯」、「バラ湯」なんてえのもあります。特別の湯だからって、料金は同じ450円。入浴料金といえば、東京が最高値で、いちばん安いのは鳥取県で350円。入浴料金は、豆腐一丁と同じ、だったとか。煙突で銭湯がさがせたのは、昔のこと。いまじゃあ都内の銭湯の三分の一は、重油焚きなんだそうです。去年の原油値上がり時には、都や区から補助金が出ました。それでも廃業する銭湯があとをたたず、この2年間で77軒もの銭湯が店じまいしたそうです。廃業した銭湯跡は、駐車場、マンションというのが定番です。
◆定番といえば、銭湯の壁絵、ペンキ絵、タイル絵とがありますが、圧倒的に多いのが富士山。湯気の向こうは富士の山というわけで、三保の松原からの富士山、伊豆西海岸からの富士山、次に多いのが北海道の大沼公園、最近では、浦島太郎と龍宮城、魚が泳いでいる水族館、東海道の浮世絵なんていうのもあります。
◆銭湯評論家の町田忍さんによると、夕日(沈む)、紅葉(落ちる)、猿(客が去る)ということで、壁に描いてはいけない三禁絵で、そういえば、見たことがありません。もうひとつ、町田さん情報、江戸では、番台が、関西では銭取番というとか。わかりやす。実は、この6月、銭湯の達人検定が行われます。なぜか世の中検定が流行っているようですが、落ち目の銭湯をなんとか盛り上げようとの検定です。たとえば、銭湯の経営者だった有名人は? 答えは福澤諭吉。
◆さて、9月から9回連載させていただいた銭湯の達人による雑文の総集編です。9回分を熟読された読者は、検定合格まちがいなし。という次第で、お後がよろしいようで。「願はくば 江戸のゆめぐり この先も 頑固に続ける 老いの楽しみ」(5月6日 讃湯家 でもナゾの田口幸子)
■江本さま。唐突ですが、沖縄の離島に行ってきます。えっ、なんで島旅なの? あるいは、今度はダイビングでもはじめるの? そう何度も訊かれましたが、今回の旅にテーマはありません。いっぽうで沈没(安宿で旅仲間とおしゃべりして飲み明かして)ともだいぶちがいます。地平線通信に飛び交う沖縄情報に触発されたのもあるかもしれません。一言で言い表すのが難しいのですが……。
◆ここ十数年、厳冬季の山岳地帯や雪と氷に覆われた無人地帯の踏破に取り組んでいる私ですが、じつは島旅もけっこう好きなのです。これまで訪れた主な島だけでも、ざっとふり返ってみます。北海道・利尻島(高校時代の初一人旅。厳冬季に歩いて島一周)。伊豆諸島・御蔵島(未登の大岩壁を狙ったものの連日の大シケで島にすら渡れず、三宅島の待機で終わりました)。屋久島(最近は仕事がもっぱらだけれど、最初はもちろん一人旅。世界遺産になる前は静かでした)。天草諸島(連日の五月晴れに透き通るようなブルーの海が印象的)。
◆インドネシア・小スンダ列島(珍獣コモドドラゴンをまじかで見ました)。バリ島(観光地だけれど、水平線に沈む夕日は見る価値あり)。カナダ・ソルトスプリング島(カナダでも有数の降雨量ゆえに、屋久島のような苔むした深い森。マイナスイオンの宝庫)。カナダ・クワドラ島(100パーセントの確率でヒッチハイクできる平和な土地)。カナダ・コーモラン島(霧雨のなかで見た先住民の巨大トーテムポールが印象的)。
◆いずれも仕事で訪れたのは含まれておりません。これらの島旅は一見何の脈絡もないけれど、一つの共通点があるのです。何かが一段落したときです。自分の挑戦が成功したとき。自分のなかでこれまで大切にしていたものを捨てたとき。島旅を境に何かが変わったと断言はできないけれど、ただ島旅が自身のなかで一つの節目になっているのはたしかです。ある意味で島旅は自分のなかでの充電期間でした。
◆厳冬季カナダ中央平原を完遂、帰国して1か月弱。次なるテーマは見えてきません。かといって焦りも感じません。沖縄の離島では、ただ滞在して目の前の光景を感じ取ればいいのです。気負っていると見逃してしまうものがあります。肩の力を抜いてはじめて見えてくるものがあります。そうした日々のなかで、心にしぜんに浮かんできたものを、追い求めてゆけばいいのではないかと思います。かぎりある人生、やりたいことやワクワクすることを思いきってトライしなければ損です。自分の可能性を追求し、新たなる自分を創り出してゆきたいと思います。というわけでこれ以上言葉遊びがつづくと本末転倒になってしまいます。とにかく梅雨入り前の沖縄へ行ってきます。(5月7日 田中幹也)
■ゴールデンウィーク前半の4月25日から29日にかけて屋久島に行ってきました。初日は、東京から屋久島までの移動で終わり、早めに宿にチェックイン。翌朝、宿から歩いて行ける距離に「滝つぼが海(滝が海に直接落ちる)」のトローキーの滝があり、早起きして朝食前に散歩がてら滝見。朝食後は、路線バスに乗って終点の大川の滝へ。ここは、滝つぼ近くまで行けるのでマイナスイオンをたっぷりと浴び、その後は再びバスに乗り、千尋の滝や竜神の滝に行き、滝三昧の1日となりました。
◆滝三昧の後は、翌日の縄文杉登山に備えて登山口から一番近い安房という町にある宿へ移動。素泊まりの宿ですが、宿から歩いてスグのところに小料理屋を営んでおり、夕食はそこでいただくことに。宿の宿泊者は、座敷での相席となりましたが、皆、一人旅。美味しい料理と三岳(屋久島の焼酎)、そして初対面の人たちと旅話を楽しみつつも私を含む3人は、明日、縄文杉登山へ行くため深酒せずに退散。
◆翌朝は、4時30分に起床、頼んでおいたお弁当を受け取り、同じ宿の男子2人と一緒に路線バスで縄文杉の入り口である登山口へ。到着後、軽く準備体操をして、6時15分、イザ出発! まずはトロッコ道からスタート。アップダウンのない平坦なトロッコ道は、私にとっては快適、快適。片道約11キロの道のりの大半はこのトロッコ道ですが、新緑が鮮やかで景色を楽しみながら、また長年そこで息づいている木々から英気をもらっている感じがして、気持ちよくそして飽きることなく歩けました。
◆そのトロッコ道が終わるといよいよ山道となっていきます。ウィルソン株や大王杉などの大物に出会いながら山道を登っていくと、その先に待望の縄文杉がありました。もっと過酷なのかと思いきや「アレ!? もう着いちゃった?」、登山口から休憩を入れつつ歩くこと約4時間で到着。山道になってからの登りはきつかったのですが、もっとハードかと想像していただけに到着したときの実感でした。
◆今は、直接触れることはできず「展望台」なるものがありますが、そこを上がりいよいよ縄文杉とのご対面。存在感たっぷりの縄文杉は、大きく貫禄がありオーラがでているように感じました。圧巻です。感動です。ゴールデンウィーク前半ということもあり、縄文杉を見るための展望台は思っていたほど混んでおらず、写真を撮るのも忘れてしばらくそこで見とれていました。
◆翌日は、海がめの産卵で有名ないなか浜やのどかな田園風景の中を歩くこと30分のところにある横河渓谷にも行きました。人がほとんどおらず川と緑と空の色が美しい渓谷で、川の音を聞きながら大きな岩に寝転び1時間ほどぼーっとしてました。
◆屋久島最終日は、「もののけの森」としても知られている白谷雲水峡へ。森の奥には、太鼓岩があり、そこからの展望は絶景でした。屋久島の自然を思う存分堪能してきました。(藤木安子 エミコさんとオーストラリアで遭遇した元ライダー)
■江本さん、こんにちは! 前回ご報告したランニング事始めですが、思いのほか続いております。昨年8月に生まれた娘のお産を手伝える体力をつけたいと思って、今年から走り始めたわけですが、どうやら40の手習いに走ることを選ぶ人は多いようですね。この歳になると、目に見えて練習の成果(=タイム短縮)が出る趣味の存在はなかなか貴重で、その点ではかつて流行した百名山ブームに乗る中高年の気持ちが少しわかったような気もします。それに登山もそうですが、腹式呼吸のように一定のリズム運動をすると、脳内ではα波が発生し、血中ではセロトニンが増えるそうなので、その効果のせいもあるのかもしれません。
◆知らなかったのですが、今やトレイルランニングはブームのようで、レースでは山屋を見つけるのが困難なくらいランナーに人気のあるイベントとなっており、1日で募集が終了するレースも珍しくありません。「鎌倉アルプストレイルラン大会」を皮切りに、今まで3つのレースに出てみたのですが、女性のみなさんのファッショナブルなことといったら!ひらひらしたミニスカートなぞも定番のようですが、私にはどうにも手が出ません。
◆残念なのは、先の百名山ブームでもそうでしたが、トレイルの集中酷使が自然破壊につながるということで、エントリーしようと思っていた大会が中止に追い込まれるという事態も発生していることです。今まで山に縁のなかったランナーが、自然の中を疾走する気持ちよさから、次第に自然を大切にする心を育むということもあると思うので、トレイルランニングにおけるモラルの確立が急務といえるでしょうね。
◆それにしても、数時間先のことしか考えられないほど始終テンパり状態の育児生活の中で、(家族に大迷惑をかけながらですが)自分の時間が持てるということは最高の贅沢です。で、走っている間何を考えているかというと、「つまらないことで子供を怒るのはやめよう」とか、「子供のあの態度もあの言動も、すべて私を映している」など、ほとんどが育児への反省なのだから、ふだんいかに自分を省みる余裕がないかということを表しているようです。
◆一時的なものだとわかってはいるのですが、地平線会議のように、もっとスパンが長く、視野の広い事柄にも思いを巡らせる時間を持てるようになりたいものです。といいつつ、テンパり生活も悪くないのですがね。(大久保由美子)
★(あの登山家がついにランナーに!、と大いに気になった編集長の質問に答えての追記。)
『参加したのは、鎌倉アルプストレイルラン大会(20.8km)、青梅高水トレイルラン(15km部門)、ハセツネ30(30km)です。ロードですが、湘南月例マラソンにも参加しています。再来週末には、赤城山トレイルランレース34kmに出場予定です。(詳しいことは、ブログでもレポートしています! http://blog.livedoor.jp/climbery2/)
一応目標は10月のハセツネ本戦(注:奥多摩一周山岳耐久レース)、11月の湘南国際マラソンフルを考えていますが、志賀高原50kmや信越五岳100kmなど魅力的な大会がいろいろあって迷ってしまいます』
■5月1日から5日まで。安東気球隊に参加させていただきました。能登モンベルイベントにてお客さんに気球体験を楽しんで頂くため。能登に向かう前、まず渡良瀬遊水池で気球の点検をして短いフリーフライトを行いました。ぼくは気球を見るのが初めてで球皮の大きさに驚きました。
◆その後仮眠して能登へ夜中到着。能登羽咋の浜で気球を上げます。繋留飛行。ハイエース三台を支点にロープで繋留しました。組み立てや収納を手際良く行うのは大変ですが、音が無い浮遊感が実に気持ちよいです。空を飛ぶ夢の感じに似ている。建物も車も人も、す〜っと小さくなっていく。
◆5ミリほどの人がおもちゃのようだけど、とても精巧にこちらに手を降って動いている。まるで本物みたいだと思う。本物だけど。降りてくるとまた大きくなる。自分がレンズになったみたいで面白い。気球は5メートルくらいの中空に静止することもできる、そしたら地上にいる中ぐらいの大きさの人と会話する。
◆子どもたちが大喜びだったのは、こちらも嬉しかった。大人の方々もかなり楽しんで下さった様子。幸いにも全日程気球を上げることが成せました。午後風が出て気球を上げることが出来なかった時間は、隊員らはシーカヤックで遊んだ。安東さんはカヌー・自転車・クライミング複合トライアルに参戦、つい本気になってしまい優勝しました。本でしか見たことの無い方々が何人もいらっしゃって…シェルパ斉藤さんと安東さんの対談など盛りだくさんでした。辰野さんが安東隊のテントへ遊びに来てくださいました、差し入れごちそうさまでした。
◆最後に渡良瀬でもう一度フリーフライトを体験しました。草木すれすれから高度600メートルまで、安東さんの見事な操縦で快感世界に浸ることができました。時速6キロほどで利根川土手までの飛行。窓から道から田畑から人が見上げている。お互いの表情が確認しあえるほどの高度をゆっくりと通過する。地上から犬に吠えられる。
◆安東さんに「とりあえず愛想良く笑顔で手を降ってみたら」とか言われる。ほんとだ、手を降ったら、畑のおばさんが思いっきり手を降ってくれた。地平線会議からは鈴木博子さん、米満玲さんたちが参加しました。気球楽しい! この面白さを秘密にしてだれにも言いたくないくらいに楽しい。すてきな時間をありがとうございました。(彫刻家 緒方敏明)
巷では今ブタから発生した新型インフルエンザで大騒ぎになっているようだが、5月初めのこの時季、東北の山野には一斉にフクジュソウやミズバショウ、カタクリの花々が咲きみだれ、人々もこぞってコゴミやタラの芽、ウド、ウルイ等の山菜を求めて山に分け入る。
私の場合も山菜採りをかねて、南から渡ってきたオオルリやキビタキ、サシバ等を観察し、鷹の餌にするヘビの捕獲に励むのが恒例になっているのだが、昨年の丁度今頃、私は思いもよらぬ相手に苦しめられ長い闘いを余儀なくされていた。
それは新緑も鮮やかなとてものどかでうららかな日だった。その日飼い犬のサクラ(柴犬の雑種)を車に乗せて山菜採りに出かけた私は、途中の道端で車にはねられて死んでいる中型の動物を見つけた。すぐに車を止めて駈けよってみると、それはタヌキの死体で、いつものように鷹の餌にしようと素手で足をつかんで車の中に放り込み、あらためて山に着いてからその死体を点検してみると、少し痩せぎみで首筋や脇腹あたりの毛がかなり抜け落ちている。これはタヌキがよくかかる疥癬ダニですぐにヤブに放り込んで捨てた。
その後2時間ほど山を歩きまわってタラの芽やウドを採って車に戻ると、なんだか体がかゆくなってきた。ヤブの中を歩いたのでウルシにでもかぶれたのかなと思いながらポリポリ掻きながら自宅に戻り、夕方サクラの散歩に出かけると何とサクラも10m歩くごとに立ち止まり、後足で首筋をポリポリ掻きだす始末。それでもまだはっきりとは疥癬ダニと疑わず、春先で毛の抜け変わる時季なので、それでかゆいのかなと思い様子をみることにする。
しかしかゆみはしだいにひどくなり、最初腕位だったのが胸から腰、やがてももやふくらはぎまで体中に広がっていくような気配をみせる。風呂に入ってもかゆみはおさまらず、寝床に入っても体中を掻き続けていた。うー、かゆい。ボリボリボリ。それでも眠ることができないほどのかゆみではないため、まだそれほど事態を深刻に受けとめてはいなかった。
翌朝サクラを散歩に連れ出すとやはりまた10m進むごとにボリボリやる。私も体のあちこちがかゆいがサクラもいかにもかゆそうだ。2人で歩きながらボリボリ、ボリボリ。食事中もボリボリ、本を読んでいてもボリボリ。体中に引っ掻いたあとの赤アザが残った。
さらに翌日、サクラのかゆみもいっこうにおさまる気配はなく、むしろ激しくなっていくようで、首筋や脇腹を集中的に足でボリボリ掻く。気を付けてみるとその部分の毛が抜け、肌が露出しうっすら血さえにじんでいるではないか。さすがに鈍感な私でもここまできたら疥癬ダニに間違いないと判断するしかなく、30キロ離れた町の犬猫病院に連れていくと、すぐに疥癬ダニと診断し、「これは注射でしかなおらない」とのこと。サクラの注射代1万5千円をとられて帰宅したが、サクラはタヌキと同じイヌ科なのでわかるが、疥癬ダニは人間にもうつるものなのか。それとも私だけが特別イヌ科に近い動物なのだろうか。
それから3日ほどで注射がきいたらしくサクラのかゆみはとまったようだが、私のかゆみはあいかわらずとまらない。ボリボリ、ボリボリ。それでもなお病院にもいかず薬もつけようとしないのは単なる病院嫌いというだけでなく、けもののような本能でもあるのだろうか。これまでも山や海で毒のある様々な生き物に咬まれたり(マムシ)、刺されたり(スズメバチ、ハナヒレカサゴ、ゴンズイ)しても平気でいられるのは、私の肉体が自然の毒に適応してきているのだろうか。今でもニワトリから私の体に移ってくるシラミに時々取り憑かれるが全く平気の平座だし、ノミなど何十年も会っていないから会いたくて仕方がない。
そしてしばらくの間続いたかゆみも、とうとう根負けしたのか2週間後には、フッとウソのように消え去った。疥癬ダニは、これまでのカやアブ、ブヨ等比べものにならないほど強力な相手だったが、私は負けなかったのだ。「注射でしかなおらない」といわれた相手に私の体は耐え切ることができ、あらためて虫にも強い自分を実感していた。
しかし、この後さらなる恐ろしい悲劇が待っていようとは…。飼育しているニワトリが次々に原因不明で死んでいくのだ。まさか鳥インフルエンザでは…!!(以下次号 山形県 鷹匠 松原英俊)
■こんにちは、えもーん。クエです。今の時期、静岡県ではお茶の緑が鮮やかですが、早くも一番茶の収穫が終わりを迎えようとしています。私は香川大学の「若草寮」を卒業し、4月から故郷島田市の中学校で理科の講師をしています。実家の手伝いもせず、毎日朝5時半に起床し、夜9時から10時に帰宅する。そんな生活を続けています。
◆講師といえども、正規に採用された教員とほぼ変わらない忙しさに目がまわっています。何もかもがわからないという不安な気持ちと、大学生活からのあまりの生活の変化に涙することもあります。仕事を始めて1か月は全く周りが見えませんでした。
◆そんなときに、えもーんからの電話、とてもうれしかったです。私のことを気遣って下さり、社会人としてのアドバイスもいただきました。生徒を見よう見ようとしすぎて、周りが全く見えていない自分に気がつきました。本当にありがとうございました。今の決まった生活の中で、自分の世界を狭めてしまうことが怖いです。
◆視野を広くもつこと、そして大学での出会い(グリーンツーリズム・四万十ドラゴンラン・地平線会議...)をこれからも大切にすること。これからの自分のエネルギーになっていくと思います。(水口郁枝)
■ゴールデンウィーク中は、一日も休まず、碁会所にいた。といっても、趣味ではなく、れっきとした仕事。新宿駅南口にある「新宿囲碁センター」が私の仕事場だ。碁を打つのは楽しい。が、それは同じようなレベルの相手に恵まれてのこと。「碁仇は憎さも憎し懐かしし」などという川柳や「笠碁」という碁好きを主人公にした落語もある。
◆碁の仕事に携わることになったのは、入り浸っていた高田馬場囲碁クラブのマネージャー、碁界の言葉でいうと「席亭」から手伝わないかとさそわれたのがきっかけだった。当時勤めていた印刷会社のリストラで失業中だった私は、一も二もなくその世界に飛び込んだ。好きな碁で食べていけるというのは、とても魅力的だったから。
◆しかし、実際には碁を打つことはなかった。200人も入る高田馬場囲碁クラブでの仕事は、碁を打つことではなく、来店する顧客の人柄を早く知ることだった。皆それぞれに好みがあり、性格的に合わない人や碁風の極端に違う人は対局させてはならないからだ。気に入らないと相手をポカリと殴ってしまう人、マナーが悪いからと途中でやめてしまう人など…。碁が強い弱いということよりも、人柄を把握して対局を楽しいものにするのが仕事だった。
◆そのころ(平成2年)は囲碁人口は多く、土曜の午後などは順番待ちの列ができるのが普通のことだった。しかし、最近囲碁人口は減少し続け、インターネットによる対局が簡単になり、区や市町村など公共施設が老人向けに碁盤などを用意して無料で開放するなど、いわゆる碁席にとっては非常に厳しい社会情勢になった。廃業、縮小というニュースが伝えられても驚かなくなった。
◆現在勤めている新宿囲碁センターでは、碁を覚えたいという人たちを対象にした初心者教室の講師を務めている。20年前は初段くらいであったが、長く打ち続けるうち最近では四段…といっても自称なのだが…ぐらいの腕前…で、どうやら初心者の相手が務まるようになった。
◆2年ほど前、江本さん、また、自転車旅人の埜口保男さんが新宿囲碁センターに現れ、それぞれ1局づつ対局した。江本さんは「しばらくぶりだから…」といいながら対局したのだが、結構打てるという感じ。埜口さんもきっとどこかで打っているという印象だった。
◆最近NHKのドラマに囲碁が登場する。そのせいでもないのだろうが、碁を覚えたいという人が増えているように思える。ボケ防止など、脳の老化を防止するのに、いろいろと考える碁が適しているということなのだろうか。碁は、19×19の盤の上に、いかに自分の絵を描くことができるかというのがテーマである。そのためには理論と感覚、それらを裏付ける思考がどうしても必要になる。そのところが、脳の活性化に繋がるということではあるまいか…。(森井祐介 地平線通信レイアウト局長)
4月の地平線報告会の最後で平田大一さんに育てられた若者が飛び入り参加した。藏當慎也君、20才。8月東京公演が予定されている「肝高の阿麻和利(きむたかのあまわり)&オヤケアカハチ」のアピールだったが、狭い報告会の場で突然CDをかけ、踊りだしたのには参加者一同、呆然とし、やがてその見事な踊り、動きに賞賛の拍手が鳴り響いた。藏當君、ありがとう! 「ダイナミック琉球」という演目だったが、素晴らしかった。夏8月。まだキムタカを見ていない方々、この機会に是非是非「自分のために」舞台を見てください。私は馬たちを駆使する「ジンガロ」というフランス人たちの公演(かなり高額の)を見たことがあるが、「肝高の阿麻和利」の感動のほうがはるかにはるかに大きかったことを付記しておく。東京公演を成功させようと、孤軍奮闘している藏當さんに原稿を書いてもらった。(E)
■先日は、地平線会議へと参加させて頂き、ありがとうございました。踊りや告知までもさせて頂き、感謝しております。ありがとうございます。
◆沖縄の子ども達が演じる舞台「現代版組踊」は、地域の伝承や偉人伝、エピソードなどに光りをあてたローカルコンテンツによる物語で構成し、沖縄に根差した独自の手法で「教育」や「地域おこし」の先進的事例として、これまでも知る人ぞ知る「圧倒的感動の子ども舞台」「奇跡の舞台」と評され演じられてきました。
◆出演者100名余りの舞台は、それだけでも一大行事。ましてや、演じる子どもは全てが素人、舞台制作を担うスタッフも子ども達のお父さんやお母さん、そして卒業生ということにも関わらず、前代未聞の約150回の公演、10年に及ぶ継続事業、観客動員数約9万人、頂いた賞も多数。その躍動する生命の舞いに、演者が子どもであることも忘れ、毎回、称賛の拍手と歓声が鳴り止まない舞台としても知られることになったのです。
◆昨年は、あまわり10年祝い記念事業として、ハワイ公演を実現することが出来ました。浜比嘉島にて行われた地平線会議へ平田氏と共に、「肝高の阿麻和利」メンバーがワンシーンを演じさせていただきました。ハワイ公演へのご協力など、地平線会議の皆さまに大変お世話になりました。この場をお借りし、もう一度感謝させていただきます。ありがとうございました。
◆さて、今回の東京公演は、「現代版組踊(げんだいばんくみおどり/沖縄の古典芝居「組踊」の様式を現代風にアレンジした新作舞台)」を生み出し、この舞台の総合演出を担当する平田大一の代表作、沖縄本島うるま市の「肝高の阿麻和利」と八重山諸島の悲劇の英雄「オヤケアカハチ」の二つの作品を一挙に上演することになりました。演じるのは、うるま市/八重山の小・中・高校生の子ども達です。
◆そして、その舞台を支えるメンバーは、舞台を卒業し東京へと渡った卒業生が率先し後輩達が東京へきて最高の体験ができるよう、チケット販売やPR活動へと励んでいます。また、その舞台の活動に心をうたれた東京の応援団の皆様のご協力にて東京公演を実現しようとしております。ぜひ一度 、子ども達の頑張る姿や真剣な眼差し、子ども達を支える大人たちの姿を見に会場へ足をお運びください。
●現代版組踊「肝高の阿麻和利with東儀秀樹公演」2009年8月19日(水)開演:19時
●現代版組踊「肝高の阿麻和利」2009年8月20日(木)開演:13時(昼の部)/開演:19時(夜の部)
●「現代版組踊 オヤケアカハチ〜太陽の乱」2009年8月21日(金)開演:19時
●会場:東京厚生年金会館(東京都新宿区新宿5-3-1)
■東京公演HP:http://amaaka-tokyo2009.jp/(ここでチケットの申し込みが可能です。)
■ことしのゴールデン・ウィークは4月29日から5月2日まで4日間かけて、名古屋市と金沢市を結ぶ「さくら道」に挑戦しました。4月29日午前7時東海バス名古屋営業所をスタート、この時点で今回の挑戦を伝え聞いた20数名のランナーが来てくれました。
◆「さくら道」は、ご存知の人もいると思いますが、名古屋、金沢間を走る名金線のバスの車掌をしていた佐藤良二さんという人の思いを記念したジャーニー・ランの道です。このラインを桜でつなごうとさくらの苗木を手配し、植樹を続けたのですが、ご本人は道半ばに亡くなりました。私は1994-2003年までの10年間、270キロとなるこのコースを走る「ウルトラマラソン」を企画主催し、10回とも多くのランナーが参加してくれました。
◆私自身も16年前にこのコースを走っていますがその後は大会を運営する側にまわったため、走る機会はありませんでした。もっぱら走ってもらう立場にいた私が、今回もう一度自分で走ろう、と思いついたのは、自分の年齢(もう65才です)、家族のことなど考え、思い出深い「さくら道」を走るのは今しかないぞ、と気づいたからです。
◆そう決心したものの、トレーニングは1日にせいぜい10キロ走るのがせいいっぱい。金沢まで4日間かけることにし、(ウルトラマラソンの時は「48時間内」でした)名古屋からは仲間が車で付き添い、いつでも途中で乗ってもいいよ、と言ってくれました。
◆ほぼ国道156号に沿って走るのですが、1日70キロは、さすがにラクではありませんでした。初日は岐阜県美濃市の「みちくさ館」までなのですが、1日で足の裏が痛くなりました。ただ、ずっと一緒に走ってくれる仲間がいたことがどんなに励みになったことか。当時のことを思い出しながら、感無量でした。2日目は、岐阜県郡上市の高鷲商工会前まで、3日目は富山県の五箇山、と計画通り進み、我ながら感心。多分股関節をよく動かすことに慣れているせいだと思いますが、実は私は歩いても結構早いんです。山口県から来た西村さんという奇特な人がずっと私の後について走ってくれましたが、「海宝さんはうしろ姿がいい」と、言うのです。うしろ姿。うーん、確かに言われてみれば、左右のバランスが良く、上体があまり揺れていないと感じます。これは多分日ごろシニアの皆さんと一緒に「サーキットトレーニング」をしているおかげと思います。
◆毎日予想外にいろいろな人が一緒に走ってくれるので、途中でやめたり車に乗ったり、ということは考えられなくなってきました。歩きを取り入れながら走り続け、5月2日午後6時過ぎ、ゴール。なんと270キロを自分の足で完走できました。連日の好天ですっかり日焼けし、顔も腕も皮がむけてぼろぼろですが、素直に嬉しかったです。スタートからゴールまで14名の仲間がつきあってくれ、うち3名は私と一緒に全行程を走りました。ありがたいのは友です。以上、「さくら道完走報告」でした。今から16日の「地平線・長野さんの夕べ」に向けて仕込みを頑張ります!!(海宝道義)
「トランス・ヨーロッパ フットレース 2009」に参加するためヨーロッパに発った原健次さん(64 地平線通信4月号参照)が奥様にあてた絵葉書がコピーされて地平線会議に届いた。4月19日、イタリアの長靴のかかと部分の都市バーリをスタートして、イタリア、オーストリア、ドイツ、スエーデン、フィンランド、ノルウエーの6か国を北上し、6月21日ヨーロッパ大陸最北端のノードカップ岬を目指す64日間、総距離約4500キロの大会。原さんはローマ観光中、ウエストポーチから手帳と財布を盗まれるという災難に見舞われたが、気を取り直し、4月19日予定通り参加67名の一人としてスタートした。以下、序盤の様子を葉書から。(E)
■「今日でスタートして3日目が終わりました。今日までで200キロ、ゆっくり走っています。走っている道路はブドウ、小麦、アーティチョークの畑がずっと広がっていますが、道の端には、日本で言うシュンギク、アザミ、ムシトリスミレ、ポピー、コンフリー、アザレア、フウロソウ、ブタクサ...などなど沢山咲いて、それらの写真を撮りながら走っています」(4月21日)
■「今日4月25日で7日目が終わりました。(中略)毎日は4:00起床、採尿、荷物整理、5:00朝食 終了後トラックへ荷物運搬、6:00スタート、あとは9〜12時間走る、到着後、採尿、シャワー、洗濯、記録 6:00〜7:00ごろ夕食(レストランが3分の2位、スパゲティは何時も固く、私にとっては美味しくない。時々夕食時にワインが出る。その間記録整理、9時消灯、ねる」(4月25日)
■「今日4月28日で10日目が終わり、とりあえず第一目標はクリアです。すでにスタート7日目に3人、9日目に1人リタイアしましたが、日本人は今のところ全員OKです。私もゆっくりと7-8割が走り、2-3割が歩きのコンビネーションで行っていますので、多少の疲労以外は身体的トラブルはありません。今日10日目でこれまで右手に見えていたアドリア海に別れを告げ、内陸部に入りました。内陸に入る少し前で、歴史的に有名なカエサルがローマに攻め入る時に渡った『サイは投げられた』のルビコン川を渡りました。そんなに大きな川ではありません。夕食はパスタ、スパゲティが多いのですが、茹で方が固く、当地ではアルデンテと言って、皆美味しい、美味しいと言っていますが、私にとっては茹でたりなくて、芯があり、小麦の味がしてちっとも美味しくありません。早くイタリアを脱出してドイツのジャガイモが食べたいです。今日は出前一丁を見つけてもらい、一息つきました」(4月28日 通算18通目のはがき)
★14日目の5月2日、体調不良でリタイア。詳しくは次号で。
■GW終盤の満月の夜、「青山ロックンロールショー」に出かけた。忌野清志郎の葬儀式に。
◆連休初日の夜、テレビが悪い冗談を言う。「忌野清志郎さんが亡くなりました」。ケータイに友人たちからメールが入る。眠れなくなり、インターネットでニュースを探した。出ていた。でもやっぱり悪い夢を見ているよう。現実味がない。You Tubeなど見ながら夜をやり過ごした。
◆翌朝のテレビでも何度か報じられていたが、長くても2〜3分で終わってしまう。こんなに重大な出来事なのに。コンビニでスポーツ新聞を買いこんだ。大きく出ていた。でもそんなニュースも2日間限りだった。お別れは突然やってきて、すぐにすんでしまった。
◆誰にも似ていない声と歌にぶっとんでから、もう四半世紀以上経つ。圧倒的なライブパフォーマンスに惹きこまれ、それとはあまりにギャップのある佇まいにどこか共感した。清志郎と会わなければ、今とはぜんぜん違う自分になっていたと思う。その間、清志郎はずっと清志郎だったとも言えるし、変わり続けていたとも言える。本気で続けるということは、変わっていくということでもあると思えた。自分のイメージにとらわれることなく、いろんなものをひょい、と越えてゆくような姿は、なんだか風の中で気持ちよさげに揺れながら揚がる凧のようだった。
◆葬儀式当日、午後1時30分頃最寄り駅に着いた。さっそく誘導されて、大勢の人たちと気が遠くなるほど並んだ。1人で来ている人もいれば、家族連れも多い。花束を持っている人もいる。すぐそばで広がる青山墓地の緑に救われながら、少しずつ進んだ。やがて日が暮れてきて、今日中に帰れなくなる心配も出てくるが、もうどうでもよくなってきていた。
◆ようやく葬儀所に入ってもなおジグザグと列は続いた。設置されたギターを持つ巨大なウサギ(清志郎がよく描いていたキャラクターのひとつ)が夜の帳をつんざくように浮かび上がり、参列者を歓迎している。もちろん清志郎の歌が流れている。紅白幕が下がる献花台にたどり着いたのは午後7時30分。カラフルな花々にとりまかれて、今年の正月に撮ったという、ノーメイクの写真が笑っている。祭壇の前は小さなステージに見立てられ、愛用のギターや自転車などが置かれていた。配られたバラの花を捧げ、お別れとお礼を言って、その場を離れた。受付でもらった遺影のポストカードには、「イェー!! 感謝 For You!」と、本人の筆跡で印刷されていた。さまざまな立場から送る人たちの想いが、そこに集結していた。
◆並んでいる間に配られた会葬者カードの裏に、こんなようなことを書いた。『ライブに行く度に、「おまえはどうなんだい?」と(言われている気がして)、やる気を注入してもらっていました。これからどうすればいいのか途方に暮れています…でもがんばります。夢を忘れずに。今までありがとうございました。また会いましょう。 おんなじ時を過ごしてきた清志郎さんへ』。
◆でもやっぱりまだウソみたい。忘れられない今年のGWとなってしまった。(中島菊代)
69年1月、東大安田講堂の陥落は一つの時代の終わりと始まりへのリセットだった。代わって日米安保を庇護にパックス・アメリカーナの潮流が高揚し、消費文化が勃興する80年代を迎えようとしていたその前夜、1979年夏に地平線会議が生まれた。
「シラケつつノリ、ノリつつシラケる」世情に背を向けた、行動的な詩人たちの悪場所であった。
「言いだしっぺは、必ず何かをやること」「人のやることに文句はつけない」「やりたいことをやる」地平線会議には、こんな気風があった。
思い起こせば、時代と数字には大いなる関係がある。とくに「9」がつく年は、歴史の裂け目のように乱世だ。プラス・マイナス・ゼロの「0」へリセット(再起動)する「9」という数字が、時代を動かしたのだ。
中国の現代史は1919年の「五・四運動」から始まる。1929年の世界大恐慌は資本主義を脅かし、共産主義の台頭のきっかけとなった。1939年、ドイツ軍がポーランドを攻撃、第二次世界大戦が勃発した。1949年、中華人民共和国が成立する。チベット動乱は1959年に起き、キューバ革命もこの年だ。1969年は、東大安田講堂の攻防戦をピークに70年安保闘争は一気に終息した。中国の改革開放「社会主義市場経済」が始まったのは1979年である。1989年に世界を震撼させた天安門事件が起こる。ベルリンの壁が壊され東西冷戦が終結したこの年に、昭和が終わり平成となった。1999年に大世紀末があり、そして2009年、百年に一度ともいわれる世界同時不況に見舞われ、新しい時代の産みの苦しみにもがいている。
「9」は、一方に偏りすぎた不均衡を正負する役割を持ち、「0」から始まる新しい時代を生み出す分岐点でもあり、時代を超える分水嶺でもある。
1979年夏。まだやり残したことがあるからと、80年代へ分水嶺を越せない僕らは地平線時間にリセットした。あれから30年、地平線会議の30年だけではない。僕らは、時の流れが未来志向と原点回帰を同時に起こすことを実感として受け取った。「フューエル(燃料)」「フード(食糧)」「ファイナンス(金融)」の3Fの危機は、卵を積み重ねたら危うい状態「累卵(るいらん)」であったことを教えてくれた。いっそ壊すのか、あるいは繕いながら次世代へと受け継いでいくのか……。次の時代は向こうからやって来ない。自ら現状を整えて、ムリ、ムダ、エゴを避けて、時代の到来を仕向けなければならない。「築巣引鳳」という中国の諺がある。鳳を迎えるには、巣を築かなければならない。「僕らの来た道」を辿り、「僕らの行く道」を求めて、「未来のルーツ」を見出すために私は旅立った。(『チャイナ9シンドローム』近く発刊)
時代を憂う一人、日本共産党の志位委員長が「わが亡きあとに大洪水来たれ」を引用していた。グーグルで検索するとマルクスの『資本論』一巻「労働日」に出ているのがわかった。贅沢三昧の妻に、「バチがあたるぞ」と、ルイ15世が説教すると、「死んだあとに災難が来てほしい」と、ポンパドゥール夫人は「ノアの洪水伝説」を持ち出した。マルクスは、ポンパドゥール夫人を資本主義者にたとえたのか、さらに検索してみた。「“大洪水よ、わが亡きあとに来たれ!”これがすべての資本家およびすべての資本家国民のスローガンである。それゆえ、資本は、社会によって強制されるのでなければ、労働者の健康と寿命にたいし、なんらの顧慮も払わない」と、マルクスの言葉は原点回帰へのリセットを促している。
グーグルはなんとも便利な頭脳を持っている。居ながらにしてこれだけのことが瞬時にわかった。だが、便利さにはしっぺ返しがあることを思い知らされた。米グーグルは権利者の許可なく700万冊以上の書籍をデータベース化していた。ところがである。私の書籍数冊もデータベース化されていた。グーグルには、ネットは公共という傲慢さがある。わが著作権物を削除するように、グーグルに意思表示した。
アメリカで見たテレビ番組「30days」は、人間を裸にしてリセットしていた。30日間、視聴者が例えば「刑務所生活」を体験する番組だ。あるクリスチャンが「イスラム教徒」になって30日間暮して、ムスリムと共生していたのはリアリティよりパロディだ。
キャスターは、孔子の話にある「天国と地獄」を引用して番組をコメントしていた。「地獄に行って来た人の話だ。その人は、宴会場へと誘われた。ご馳走を前に1メートルもの長い箸を持って料理をつついている。誰も長い箸を使いこなせず、せっかくの美味しい料理を口にすることなく、死に絶えた」。次に天国に行って来た人の話だ。「その人は、宴会場へ行った。皆が1メートルもの長い箸を持って料理を堪能している。見ると、料理をつまんだ箸をお互いの口に入れあって満腹そうに喜びで満ちていた」
孔子の「天国と地獄」は、グーグルでは検索できなかった。
30年を振り返ってみて気づいた「生野暮熱鈍(きやぼねつどん)」。「生真面目で、野暮で、熱っぽく暑苦しい、鈍臭い人間たち」、地平線会議へ最大の褒め言葉だと受け止めてもいい。(森田靖郎・作家)
■地平線イラストレーター、長野亮之介画伯初の個展「百顔繚乱展」が、5月12日、東京・東中野駅前の「ポレポレ座」1階ギャラリーでスタートした。
読売新聞に描き続けているカラー連載の原画、林業雑誌の表紙、そしてこの地平線通信など大きく三つに分けて画伯の仕事が紹介されているが、とりわけ注目されたのは、この日のために新たに制作された、少年時代の夢を描いた大型の力作。この絵を見るためだけでも会場に足を運ぶべし。
詳しく紹介するスペースはないが、ともかく見せ方の工夫が素晴らしく、相当盛りだくさんな内容なので通常のイラスト個展と思って行くと、びっくりする。こんなにいい仕事ばかりやってきたのか、と羨ましいくらいだ。
初日は19時からオープニング・パーティーが開かれ、長野画伯の広い交友を示す各界の仲間たちがこの壮挙のスタートを祝って乾杯した。
個展は24日まで、開かれている。(E)
日時:2009年5月12日(火)〜5月24日(日)
火〜土:11:30am〜11:00pm
日:11:30am〜6:00pm
月曜日定休
会場:Space & Cafeポレポレ坐
東京都中野区東中野4-4-1
03-3227-1405
JR東中野駅西口・徒歩1分
都営大江戸線東中野駅A1出口・徒歩1分
長野亮之介君が地平線通信に初めてイラストを描いたのは1984年12月です。以来、実に25年。その功績は測りようもないほど大きい。
地平線通信を長く支えてきた画伯の初の個展を盛大に祝いたく、5月16日の土曜日を「地平線お祝いデー」として、18時から21時まで会場のギャラリーで賑やかに祝います。地平線会議30年を記念するイベントのひとつととらえ、丸山純氏の演出でかなり濃い集まりになります。遠くの方々も是非ご参集を! ただし、絵をゆっくり見たい方は当日早めに来るか、平日に再度足を運ぶべし。
『地平線のゆうべ』参加費:1ドリンクつき1000円。海宝道義さんの特別協力でおいしいものが用意されます。追加ドリンクは各自で。
18:00〜…オープニング演奏(長岡竜介さんと品行方正楽団)
18:15〜…もうひとつの亮之介的世界
女性誌から企業広報、大学授業まで
18:30〜…描かれた側からの逆襲 part 1
地平線通信に似顔絵を描かれた人たちから、ひとこと
19:00〜…乾杯(音頭:金井重さん)〜飲食と歓談
19:25〜…演奏(長岡竜介さん・車谷建太さん・品行方正楽団)
19:35〜…短編映画「愛のマラソンランナー」上映
画伯の結婚披露宴で上映された問題作!
19:50〜…地平線通信クロニクル(画伯による技法解説付)
これまでのエポックとなる作品上映
20:05〜…描かれた側からの逆襲 part 2
20:40〜…似顔絵制作の実演・実況中継
アイデア出し〜着色まで、秘法公開
20:55〜…画伯より挨拶
■先月の報告会以後、通信費(1年2000円です)を払ってくださった人は以下の通りです。まとめて5000円を振り込んでくれた方もいます。
藤田光明/荒木利行/鹿内善三/小河原章行/川島好子/網谷由美子/北川文夫/金子浩/北村敏/加計千穂
■比嘉小児童の写真展の開催、報告書の制作、記念大集会(秋に予定)の開催など地平線会議30周年の記念行事のために恒例の「1万円カンパ」を始めています。浜比嘉島でのイベントには最小の経費であたりましたが、それでも地平線会議としての出費は少なくありませんでした。制作中の報告書も、良き記録として残るものにするべく、ある程度のお金はかかる予定です。どうかご理解ください。早速、あたたかい応援の心を頂いた皆さんかに、熱くお礼申し上げます。(地平線会議)
★斉藤宏子 三上智津子 佐藤安紀子 石原拓也 野々山富雄 坪井伸吾 中島菊代 新堂睦子 埜口保男 服部文祥 松澤亮 田部井淳子 岩淵清 向後紀代美 小河原章行 江本嘉伸 掛須美奈子 橋口優 宇都木慎一 原健次 飯野昭司 鹿内善三 河田真智子 岡村隆 森国興 下地邦敏 長濱多美子 長濱静之 西嶋錬太郎 寺本和子 城山幸子 池田祐司 妹尾和子 賀曽利隆 斉藤豊 北村節子 野元甚蔵 北川文夫 小林天心 金子浩 金井重
★1万円カンパ振込み先:◎みずほ銀行四谷支店 普通口座 2181225 地平線会議 代表世話人 江本嘉伸(恒例により、カンパされた方々の名を通信に掲載して領収と感謝のしるしとする予定です。万一、漏れがありましたらご指摘ください)。
■以下の18人の方々が4月の地平線通信の印刷、封入、発送作業に汗をかいてくれました。ありがとうございました。
関根皓博 海宝道義 車谷建太 松澤亮 森井祐介 藤原和枝 本所稚佳江 米満玲 新垣亜美 江本嘉伸 長野亮之介 坂出英俊 杉山貴章 田村暁生 落合大祐 埜口保男 武田力 三輪主彦
■長野亮之介画伯の個展「百顔繚乱」のオープニングに立ち合わせてもらって、お世辞抜きで変化に富んだ、味わい深い作品群、と感じた。ひとつひとつのイラストにかけた画伯の感性、脳内回路を想像してみるのも楽しい。私は乾杯の場で彼のことを「日本の誇り」と言い切ったが、本音である。積み重ねるものの良さ、ということも絵のひとつひとつを見ながら考えたりもした。
◆内緒話だが、16日の「ゆうべ」で初公開される映画「愛のマラソン・ランナー」は、抱腹絶倒の傑作だ。私は1985年に見ているのだが、今回そっと再見してみてすでにこの作品が日本の現代史ともなっていることに驚いた。各2、3分ずつ9部構成から成るストーリー。内容はいっさい言わないでおく。ただ、彼が映画と深く結びついた青春を送ってきたことがあらためてわかった。
◆14ページの案内でも書いたことだが、個展そのものは、是非16日の「ゆうべ」とは別の時間にじっくり見ることをおすすめする。作品もギャラリー構成そのものも相当こった展示なので騒々しい場で見ないほうがいい。
◆何かとイベントづいている地平線会議。フロントにある通り、秋の大集会が11月21日の土曜日と決まった。これまた本気で面白いものにしたい。遠慮せずに若手の奇抜な知恵と汗を!(江本嘉伸)
ノムタイがチベットで見たこと
チベットの精神的指導者であるダライ・ラマ14世がインドに亡命して、今年でちょうど半世紀になります。そのダライ・ラマがまだ4才で、王としてラサに入城した'39年10月、一行の行列に遭遇した日本人青年がいました。野元甚蔵さん(92)です。 日本陸軍特務機関員として当時チベットに“潜入”していた野元さんは、鹿児島出身の農業青年でした。満州を経て、内蒙古でモンゴル文化を学び、ノムタイ(本を持つ人)という名を持っていた野元さんは、現地でたまたま特務機関から声を掛けられ、思いもよらなかったチベット行きを決意します。シガツェに向かう活仏の一行に混じり、モンゴル人になりきってチベットへ。農村部を中心に、チベット農業と周辺文化の貴重な見聞を広めました。時は太平洋戦争前夜。“伝説のチベット潜行”は現代史の貴重な証言です。 今月は鹿児島から野元さんにおいで頂きます。地平線報告史上最高齢の野元さんのおはなし、くれぐれもお聞きのがし無きよう。 |
通信費(2000円)払い込みは郵便振替または報告会の受付でどうぞ
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議(手数料が120円かかります)
地平線通信354号/2009年5月13日/発行:地平線会議/制作:地平線通信制作室/編集長:江本嘉伸/レイアウト:森井祐介/イラスト:長野亮之介/編集制作スタッフ:三輪主彦 丸山純 武田力 中島菊代 大西夏奈子 関根皓博 藤原和枝 落合大祐/編集協力:米満 玲/印刷:地平線印刷局榎町分室
地平線Webサイト http://www.chiheisen.net/
発行 地平線会議 〒160-0007 東京都新宿区荒木町3-23-303 江本嘉伸方
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