ひな祭りの3月3日は、浜比嘉島の民宿「ゆがふの郷」で朝を迎えた。昨夜は浜の食堂「海人(うみんちゅ)」に平識勇区長、下地邦敏校長、外間昇・晴美夫妻、それに東京組の丸山純、武田力、私が加わり、店の看板三姉妹がつくってくれた魚料理、沖縄そばに舌鼓を打ちながら、今回丸山純君の仕掛けた写真展が何とか開幕に漕ぎつけたことに乾杯した。しかし、宿に戻ってから丸山君は事前に送り込んであった大型プリンターで傷のついた写真をさしかえるプリントアウトするなど今日も徹夜に近い状態だった。
◆外間さんちへ行ってコーヒーを一杯ご馳走になり、すぐゴンの散歩に行く。ゴンは大喜びですっかり大きくなった娘のぽにょ(まだ5か月ぐらい?)も自分も連れてけ、と大騒ぎだ(翌日は2頭を連れ出して散歩した)。外間さんちはヤギ牧場の世話で大忙しの上、晴美さんは10月の時と同じく写真展の準備を献身的にやってくれていて、わんこの散歩まで到底手がまわらない。私のような者でもゴンを元気よく連れまわすことでは少しは役に立つのだ。
◆会場に行き、丸山君を中心にきのうできなかった地図パネルの制作など作業の続き。きょうは小学生たちが来る午後4時をオープンとしましょう、と海の文化資料館の前田一舟さんと話しているので、それまでぎりぎりの準備が進行する。丸山君の目は充血したままだ。昼前、下地先生が迎えに来てくれ、私は浜中学校へ。きょうは参観日で、小学校の先生たちも中学の授業を参観する、滅多にない機会なので一緒にどうですか?と連れて行ってくれたのだ。1、3年はそれぞれ5人ずつ、2年生は1人休みなので3人で理科の授業だった。これほど少人数の授業風景は初めてなので、非常に考えるところ大きかった。
◆この後、比嘉小学校へ行く。ありがたいことに私にも給食が用意されていた。3月3日なのでちらしずし。魚料理と汁椀がつく。1階廊下に7段のお雛様が飾られている。その前に全校の生徒が座り、先生から話を聞き、桜茶とお菓子を味わった。「この花はきょうのひな祭りの集いのために女生徒が摘んでおいてくれたものですよ」と女先生が生徒たちに説明している。沖縄では1月末に桜は満開となるのだ。「寒緋桜」と言い、本島北部の八重岳をスタートするかたちで北から南へ桜前線が移動する。
◆写真展会場に戻るとほぼ展示は完成していた。4時、テープカットの簡単なセレモニーがあり、ちへいせん・あしびなーと同じく幕開けの「かぎやでぃ風」の三線と歌が外間夫妻、6年生の前兼久郁君、古喜屋礼奈さんの4人によって奏でられた。ああ、よくここまで持ってきたな、丸山よ。去年の秋にはまだ誰もこの瞬間を想像できなかった。2月26日の報告会当日、久島君以下が真剣にパネル制作に頑張った場面を思い出す。丸山君が強調する通り、つくづく誰ひとり欠けてもできなかった、ある意味“奇跡の写真展”であり、子どもたちに刺激されて地平線会議がいつの間にかこれだけのことを自分たちでできる力を身につけていたことが、少しまぶしくも感じられる。
◆帰京してしばし来日中のモンゴルからの客人につきあい、黒潮カヌープロジェクトの映画を興味深く見、「お台場ぐるぐる」に参加して夜の東京の海を歩く。3月16日には日本エコツーリズムセンターの集まりに参加し、写真展のチラシを世話人の皆さんに渡した。大いに関心を持ってもらったようだった。
◆08年夏、広瀬敏通さんに誘われて四万十の山田高司君とともに私も世話人となった。エコツーリズムについて深い知識を持たないまま自分やっていることとエコツーリズムをどう関連づけていいのか迷う気分ばあったが、何度か世話人の会合に出席するうち、共通する問題意識のようなものがあるな、と気づいた。
◆浜比嘉島での「ちへいせん・あしびなー」、今回の子どもたちの写真展などに、ここに集まる人たちは自分たちのことのように理解してくれるところがある、と感じる。全国各地のいわゆる「限界集落」と呼ばれる地域が抱えている問題、高年齢の人々が今や動物たちに脅かされている獣害の問題などに敏感で、何かできることがあるのではないか、そのために行動したい、と考えているからだろうか。
◆14日土曜日、嬉しいことがあった。奈良にいるシール・エミコさんと電話で長い話ができたのだ。そのことはあとがきで書く。(江本嘉伸)
■2008年2月26日に、岡村さんはNPO団体「南アジア遺跡探検調査会」に法人登録を済ませた。報告会当日はちょうど1年目の誕生日だ。宮崎県出身。受験誌に法政の探検部がインド洋のモルディブ諸島に遠征隊を出す、と書いてあったことから法政大学の探検部に入部。が、モルディブ探検の話は新入生を呼び込むためのいわば誇大広告だった。しかも1965年にイギリスから独立したモルディブは、独立間もない状態で民間人は誰も入れない。ならば行くべし。
◆現場に押しかければなんとかなるんじゃないか、と大学3年生の時、仲間3人とスリランカへ。そこにあるモルディブの大使館との交渉は難航したが、日本大使館の後押しを受けつつ3か月大使館へ通った結果、特例として入国許可がでた。
◆モルディブでは半年間過ごした。活動内容は、民族調査のまねごとだった。たいした成果は出せなかったが、3か月間入国交渉をしていたスリランカのほうで大きな収穫があった。スリランカ政府の観光局を訪ねたところ、スリランカでも探検の地はある、スリランカで一番大きなマハウェリ川を下るのはどうか、ジャングルのなかに、未発見の仏教遺跡がある、と提案されたのだ。
◆ゴムボートで川を下ったが、転覆などで計画は失敗した。帰国すると部員の遭難事故があり、探検部は一時休部に。部の再建にはきちんとした活動で成果を残そう、と考えた。スリランカのジャングルの遺跡というのは目的もはっきりしているし、調査隊をつくろう、と決意。モルディブから帰ってきて4年後、1973年にスリランカの仏教遺跡の調査隊を組織。7人の隊員で出かけた。
◆外務省や、現地の新聞社の協力もあり、現地の人たちが、猟や蜂蜜を採りに行った時の遺跡の目撃情報を基に、安全のため鉄砲撃ちを雇い、勘を頼りにジャングルに入った。遺跡を見つけ、地表に現れている建造物を測量。(発掘の許可はなかったため測量のみ)。その時は30数か所を測量し、形状を記録した。その時岡村さんは、このスリランカの仏教遺跡の調査を一回で終わらせる予定だった。
◆しかしその時出入りをしていた日本観光文化研究所にデータを持っていったところ、そこで先輩の探検家の方々から、「これは一回で終わるものではない」と言われる。ともかく報告書を出そう、ということで1975年に2回目の調査。76年には後輩たちが調査に行き、その2回分も報告書になった。このようにかたちになり始めたことでスリランカのジャングルの仏教遺跡からだんだん離れられなくなってきた。
◆1983年以降、スリランカは内戦状態になり、入国できなくなるが、その間も仲間うちでの研究は続けた。そして間はあいたものの、4次隊。驚いたことに調査地域が、開発のためジャングルもろとも消えてしまっていた。その後、ヤラ国立公園の近くにフィールドを移し、そこで遺跡を次々見つけ、測量調査をした。
◆1985年から島の南東部の調査。しかし再び内戦になり中断。その時釈迦三尊像を発見した。この発見の意味は大きかった。その遺跡のデータと場所の情報をスリランカ政府に渡し、帰国。内戦後、スリランカ政府から遺跡の再調査に取り組むため、日本の法政大学に一緒にやってくれないか、という要請が来る。遺跡の場所を掴んでいるOB中心の調査隊が現地に入った。しかし遺跡は破壊されていた。
◆1982年の朝日新聞にヘイエルダールが、無人島の密林に古代の太陽神殿を発見、という記事が載った。岡村さんは直感的に、違う、これは仏教遺跡に違いないと確信、それからすぐモルディブへ入り、遺跡の現物を見た。ヘイエルダールの発見は大々的に報道されていたので、毎日放送が植村直己さんを探検隊長として現地に入った。岡村さんはデータを持って帰る途中に、植村さんたちと会ったという。日本で立教大学教授の小西正捷さんにデータを鑑定してもらい、これはピラミッドではなく、仏舎利塔の遺跡だということが判明する。こうしてヘイエルダールの論が荒唐無稽だと、証明できた。その時のいきさつは筑摩書房『モルディブ漂流』に詳しい。
◆一方ヘイエルダールの『モルディブの謎』の訳本も同年出版された。見解が全く違う本が同時期に出たわけだが、ヘイエルダールの本の解説の部分で、訳者が「異論がある」と岡村さんの仕事を評価しつつ紹介、「ヘイエルダールを論破」と書かれた。気になっているのは、ヘイエルダールの本に日本人が下手な発掘をして遺跡を荒らした、という記述があり、(これは毎日放送のチームの仕業であった)これが自分と誤解されていないか、ということだ。どこかではっきりさせたい、と岡村さんは言った。
◆それ以降、モルディブの遺跡とも関わることに。そして30年もなぜこのように活動を長くやってこれたのか、という話に。まず初めに、現地の人と自然に惹かれたということ。「風が吹くとな、遺跡の赤い石が少しずつ削られて、密林の上を舞っていくんだ。かつて栄えた人々の暮らし。その証しがだんだんと空にね」。朽ち果てた遺跡を見て、無常というものを感じたという岡村さん。40度を超える、温度計が振り切れてしまうところでの作業は辛いが、瞬間、瞬間の楽しみがあったという。やはり現場それ自体が魅力的であったことは大きいと思う。
◆次に、自分を炊きつけてくれた周りの人々、若い芽を応援してくれる人の存在。先に述べた先輩冒険家たちの存在だ。一度行って、戻ってきた時に2回目が出るかどうか。2次隊、というものが非常に重要だという。最後に仲間の存在だ。自分の意識がそちらに向かないときでも、仲間たちは集まって研究会をやり続けたりした。
◆「仲間ってすごい大事。学生時代に遠征隊として行ったがそれっきりな人、フィールドをその他の地域に変えた人、それでも、残って、こだわってやっている人たちがいて、関係をずっと保ってきた。そういうことで繋がってきたから、たとえ10年くらい間があいてもまだ続けている、やっているよ、ということが言える。」
◆10年前だからといって、過去のことにはならない。それはむしろ過去のことにはしない、という意識のほうが大きく作用するのかもしれない。岡村さんが紹介してくれたスライドの中で、20才、35才、50才のそれぞれの岡村さんが現地で活動している様子が紹介された。なるほど、この3枚のスライドだけで説得力抜群だ。
◆岡村さんたちは今まで自分たちがやってきたことを考える。発展性がない。永遠同じことを繰り返している。マングローブをテーマに環境問題に転じた向後元彦さんのように、別の形で展開したり、ステージを変える、ということをやっているわけではない。これでいいのか? 果たしてこれはパイオニアワークなのか? 出口を求めよう、着地点を決めよう、という話になり、出た結論がNPOのかたちをつくる事だった。
◆我々だけでやっていては、先細りだし、我々も年をとるし、後継者が育ってきているわけでもない。これからはやることの対象も、もっと派生させ、やる人も限定しない一般の人たちの力もいれて、もっといろいろなことをしよう。そういう思いでなんとか去年の発足にこじつけた。現在の活動の内容としては、南アジアの未調査の遺跡の調査活動、研究活動、住民のために井戸を掘る、遠征のたびに学用品を寄付、古着を配る、など。
◆地域自体をもっと広げていくことや、スリランカ仏教遺跡の調査研究センターみたいなものが建てられないか、などいろいろ模索している。遺物の保管もしたいし、文化財の保管、陳列もある。やることは多いが、動きはなかなか遅いらしい。「だれかこの、私たちのグループを乗っ取ってくれる人はいませんか。乗っ取って、私たちの手から奪い取って、別の動きにしてくれませんか?」 発足1年にして乗っ取って発言の真意は何?
◆話は岡村さんの探検論へ。これは会場にいた人誰しもが聞きたかったことと思う。地理的空白がない時代になった今、その雰囲気を味わうことはスリランカではできるが、そんなものは非常にちっぽけであるという。探検というものは、ひとつのテーマを持って、テーマを追いかけることではないか、テーマの企画力がパイオニアワークと関わってくるのではないか…。
◆探検と冒険の違いとは何かについては、「探検というものは、100%安全でないといけない。探検とは、行為だけで完結するものではなくて、目的をどれだけ達成できるか、そしてそれは「報告」に表れると思う。現場に行って調べて、もって帰って、みんなに分かる形で説明する、という作業」。
◆2次会で岡村さんに聞いてみた。日常と冒険の折り合いみたいなものをどこでつけたのですか。岡村さんは、「それは僕も考えているところで、凡人にとっても探検・冒険とは何か、ていうもう一つのテーマみたいなものだよね。それも考えている一つのことなんだけど」と言った。岡村さんは決して凡人側の人ではない。そしてこの言葉の意味を考えてしまう私こそが凡人であり…。ああ、こういう話になると頭がぐるぐるしてくる。それとも意識的に自分で答えを出すことを先延ばしにしているのかも。地平線に来ている方々に聞きたい。あなたは24歳の時、何を考えて、何をやっていましたか?、と。(橋本恵)
■調べてみたら、地平線報告会で報告をさせてもらうのは1993年の第164回報告会以来、実に16年ぶりのことだった。しかも前回の報告テーマは「スリランカの遺跡探検・研究25年」。なあんだ、その25年が40年になっただけで、ほぼ同じことを、年の功で少し整理された頭と、少し巧くなった口でしゃべり直しただけじゃないかと自嘲の思いもないではない。いや、むしろ語りたい「探検」の中身への純真で率直な思いと、それを誇って他者に伝えたい思いとは、己の生きる世界が狭かった分だけ前回のほうが強かった気もする。
◆旅や探検で、それを実行する主体、すなわち行動者が、エネルギー源となる「ある感覚」を持つのは当然であろう。サバンナや砂漠を吹き渡る風、木漏れ日の揺らぎ、雪原の静寂、朝の目覚めごとに聞く鳥の声、触れ合う人々の心と、曰く言い難い現場の匂い……。そこになにがしか「発見」の喜びや充足感が加われば、旅や探検は確かにその人のものとなり、行動を続けさせる熱源とはなるのだろう。
◆しかし、話を聞く側、あるいは行動者を送り出して迎える側から見たときに、こと「探検」に限って厳しく言えば、それら個人の「感覚」や「主観」などはどうでもよいのだ。探検は主体的行為ではあっても決して「主観的」な行為ではなく、あくまでも社会や歴史に作用する営みである。プロセスではなく結果が第一で、その「結果」も、自ら客観化できて「新たな価値の付加や創造」が伴わなければ、大した意味は持ち得ない。
◆そう信じているからだろうか、今回の報告会での私の話は、自己満足的な「感覚」の「喜び」などは極力語らず、行為そのものと「結果とその先の可能性」だけを、己もろとも客観視して語ろうとしたあまり、潤いもワクワク感もない半端なものになった感じが否めない。そんな話を、(かつて「旅と探検」の講義を受け持っていた大学の学生たちよりはるかに熱心に)聞いてくださった皆さん、本当にありがとうございました。ついでに、お話しした新NPO「南アジア遺跡探検調査会」へのご参加、よろしくお願いいたします。いえ、こちらではもう「探検とは何ぞや」などと固いことばかりは言いませんから。その先にある多様な可能性を、新メンバーとともに目指して動きますから――。
■今回の会終了後、何人かの方に岡村さんの発表の感想を尋ねてみたのだが、おおむね好評だった。さすがに話のうまい岡村さんだけのことはある。ひとつだけ岡村さんの話に不満がある。謙遜を込めての話だとは思うが、30年以上にもわたって遺跡探査活動を続けてきたことを、「マンネリである」、「発展性がない」と決めつけていたことである。たしかにひとつのことを延々と30年も続けてくれば、マンネリになることもあるだろう。しかし、スリランカの遺跡探査に関しては事情が異なると思う。
◆ゾウやクマ、コブラやインドオオトカゲなどの野生動物がウヨウヨしているジャングル、小高いところへ登って下を見下ろすと、はるか地平線まで広がっているうっそうとした広大なジャングル。そしてその下には、まだ「未発見」の遺跡が人知れず眠っているジャングル。南米のアマゾン川流域とは比較にならないかもしれないが、それでもこのような地域が、日本の北海道よりも小さな島国(総面積65,610平方キロ)に残っているというのは、一種の奇跡であるかもしれない。そしてこのフィールドに出会ったことは、とても幸せなことだと思う。
◆私たちは過去7回、スリランカの密林地帯に遺跡探査隊を派遣したが、それでもまだまだ密林の中には「未発見」の遺跡が残されたままだ。ガラ(岩丘)の上で風化した仏塔跡、20メートル先も見えないような密林の中に打ち捨てられた石柱群、足の部分が土中に深くうずもれた仏像や菩薩像、こうした遺物が人知れず、今もジャングルの中に打ち捨てられた状態で残っているのである。これはある意味で、古典的な意味での「地理的探検」のフィールドではないだろうか。地図の空白がなくなり、人工衛星から地球の隅々まで見渡せる今の時代に、ワクワク・ドキドキさせてくれる場所、それがスリランカのジャングルではないかと思う。そして、こうした場所が残っているからこそ、私たちは30年以上にわたって密林遺跡探査隊を派遣し続けてきたのであり、またこの活動をより発展させるために、一般市民に広く開かれたNPO法人を設立した所以でもある。
◆さて、ここからは少し宣伝になるのですが、私たちのNPO法人は今年と来年の夏にスリランカへ「密林遺跡探査隊」を派遣する予定です。北東部のマハウェリ川中流域、ワスゴムワ国立公園が対象地域で、スリランカ政府考古局との合同調査を予定しています。関心のある方は、ぜひ以下のホームページにアクセスしてください。なお私事ですが、私は明日(3月7日)からスリランカへ行きます。農村調査が主目的ですが、今夏の探査予定地の偵察や現地諸機関への根回しなどもかねています。4月11日には、今回の偵察報告をNPO法人主催で行う予定です。詳しくはこれもホームページをご覧ください。南アジア遺跡探検調査会: http://sarers.web.fc2.com/index.html(執行一利)
■江本さんこんにちは。吉成慧恵です。昨日は地平線会議、ごくろうさまでした。そして、たくさんの人の前で紹介していただいてありがとうございました。報告会が終わり、ふと後ろを振り返った瞬間、老いも若きも男も女も…みんな同じ、ちょっとかっこいい顔をしていて、悔しかったです! 岡村さんの、30年間も同じ気持ちでモルディブに通い詰めるなんて(しかも仕事をもっていて)そんなの「好き!」って思ったもん勝ちパワー以外の何ものでもなくて!! 場所は違っても、自分のもってるフィールドがぜんぜん違っても、何かつながっているものがある。学校はいつかは卒業しなくちゃですが、いつでも帰ってこれる地平線会議のような場所があるという事を(江本さんを通じて)スウェーデンに渡るギリギリセーフのところで出会えて、そして東京行きの夜行バスに飛び乗ったのも……ああ、このパワー、なにかにぐっとつかまれて、気づいたときにはもうactionを起こしているこれが、地平線会議の力なのかなと。そして、もうわたしの探検は始まってます! わたしはちょっくらスウェーデンへ行ってきます!(岩手から、吉成慧恵 2月27日)
★スウェーデンにお嫁入り直前、思い立って地平線報告会に初参加!
■カラファテはパタゴニア地方に特有の低木で、夏も終わりのこの季節になると、あちこちに小さく蒼い実がなっている。口にするとちょっとすっぱいけど、パタゴニアの風の大地の味がする。この実を食べた旅人は、この土地に再び帰ってくる、と言われているそうだ。
◆ぼくは今、アルゼンチン南部のパタゴニアにある、その植物名が由来のカラファテの街にいる。秀峰フィッツロイへのトレッキング基地として知られる街だ。パタゴニアに入ったのは一週間前。実はさらにその一週間前にはグリーンランドにいた。どちらもお客様をご案内するツアーガイドのお仕事だけれど、グリーンランドなんてまるっきり極北であり、これより北といえばもう北極しかない。日本からのツアーなんて年に一度あるかないかの、地球上最北の究極のツアーといっていい。オーロラが広がる夜間には零下45度まで下がったのだからほとんど冒険で、ジャコウ牛のハンバーガーがけっこううまかったりする。
◆一方、南米大陸最南端パタゴニアより南となると、やっぱり南極しかない。一般的なツアーとしては最南の旅といっていい。旅行業界に添乗員多しと言えど、最北と最南を連続してこなすなんて、史上初ではないだろうか? 飛行機だってグリーンランド→コペンハーゲン→東京→アトランタ→サンチアゴ→プンタアレナスと片道で実質飛行42時間で地球を一周。氷山漂う極北の海から、マゼラン海峡を見下ろす丘まではるばる地球を飛んでくると、ちょっと気分もセンチメンタルだ。
◆昨日はチリ領のパタゴニアからジープで国境を越えてきたが、ここはどこまでも荒涼とした大地が地平線まで続いている。はるか道の彼方から黒い点が近づいてくる。それは荷物を満載した自転車で、ひとり走り続けるサイクリスト。そのシルエットがかっこいい! やっぱり自転車で旅している連中はすごいと思う。ぼくだって本来サイクリストなんだけど、今は車で移動しているのがもったいない。今度は自転車を持ってこなきゃな、と思いながらそのサイクリストにすれ違いざまに手を振ると、どこか西洋人のセニョリータで、彼女はぼくらにピースサインを残して走り去った。
◆ところでみなさんのゴールデンウィークのご予定はいかがですか? 石川県の海岸で5月2・3・4日に、アウトドアメーカーモンベルの毎年恒例のイベントがあります。安東はこのイベントで熱気球にお客さんを乗せる係留飛行のアトラクションを行う予定です。何人か地平線の人にも手伝いに来てもらいます。気球ってのはどこのイベントでも大人気で、子供だけに制限しなくちゃいけないこともあるくらい。フリーフライトと違って、ロープで地面と繋がれているので、ちょっと上昇して降りてくるだけなのだけど、それだって子供たちには大冒険。
◆このイベント、エミちゃん&スティーブも毎年自転車のアトラクションで来ていたのだけど、今年は来られないみたい。来年は元気な姿を見たいな。他にもシェルパ斉藤さんとか南極にいった永島祥子さんとか、地平線でお馴染みの人もいるし、気球とかカヤックとかを楽しみに、家族で遊びに来てくださいな。詳しくは「トライ&キャリー」でWEB検索!(辺境案内人安東浩正)
■ユーコン・クエスト3度目の挑戦で初の完走を目指していた本多有香さん、日本時間の2月28日朝、レース最終ステージの「Mile 101 dog drop」で、ついに続行を断念、参加29チーム中11番目の棄権となった。1000マイル(1600キロ)の総距離のうち、864マイル(1382キロ)地点。もうゴールのフェアバンクスは目前、コースの86%を走りきっての末の無念のリタイアだった。
3月16日、カナダにいる本多さんに電話して聞いたところでは、難関の「EagleSummit」という山の登り(1000メートルの標高差!)では犬が動けず、本多さん自身が先頭に立って歩くことになったそうだ。リーダー犬はチームをよく知っていて、トレイルを探す能力にたけた犬のことで、マッシャーによっては9頭ものリーダー犬を擁している者もいるそうだ。最後の「Mile 101」で棄権を決意した時はその地点のスタッフたちが号泣、「つられて私も泣いちゃいました」。(E)
★3月29日13時45分から、フジテレビの「ザ・ノンフィクション春休み特番」の『オーロラに恋して』なる番組に本多さん、登場する模様。ただし、主役は本仮屋ゆいか。
■世間は“100年に一度の危機”に揺れているが、山形には100年に一度(かもしれない)のうれしいニュースが続いている。その一つは、モンテディオ山形。J リーグ加盟10年目で初のJ1昇格が決まったのは昨年12月。その喜びに浸りながらも、強豪ひしめくJ1で果たしてやっていけるだろうか…と心のなかでは不安を抱いていた。ところが、3月7日のJリーグ開幕戦(アウェイ)では、GK川口を擁するジュビロ磐田に6-2という大差で歴史的勝利を収め、14日のホーム開幕戦では激しい雪のなか、名将ストイコビッチ監督率いる名古屋グランパスを相手に一歩も引かず接戦の末0-0の引き分け。まだ2戦しか闘っていないが現時点で3位という好成績は、スポーツ評論家はもちろん、地平線会議きってのサッカー通である岸本さんでさえ想定外だったに違いない。
◆サッカーチームはどこも地域密着型だが、他のチームは株式会社(企業)が運営するのに対し、モンテディオ山形は公益法人(社団法人山形県スポーツ振興21世紀協会)が運営母体で、運営形態からしてもまさに山形県/県民が支えるチームなのである。J1の平均運営費が30数億円と言われるなか、今期のモンテディオの運営費はその1/3程度(J2に在籍していた昨年までは5億円強)しかない。14日の名古屋戦から選手のユニフォームの胸に赤い「つや姫」のロゴが付いたのにお気づきだろうか。「つや姫」は県が開発した新しいお米の名前(先月末に命名されたばかり)で、スポンサーは県とJAグループである。また、モンテディオのホームスタジアムはサッカー専用ではなく、平成4年の国体用に建設された県の陸上競技場を使っている等々、チームをめぐる環境はお世辞にもよくないが、これはこれで山形らしいとも言える。企業スポーツが次々と撤退していくなかで、地方都市が支える小さなクラブチームがどこまでがんばれるか、注目しできれば応援してほしい。…などと偉そうに言っているが、実はサッカーのことはほとんど知らないし競技場に行ったこともない未熟者。とりあえずファンクラブには入会したので、いつ競技場デビューしたらいいか、岸本師匠にメールでアドバイスをいただいているところである。
◆嬉しいニュースのもう一つは、庄内を舞台にした映画『おくりびと』。『おくりびと』はモントリオール世界映画祭でグランプリを受賞したのを皮切りに国内の主要な映画賞をほぼ独占し、とうとう日本映画初のアカデミー賞外国語映画賞まで受賞してしまった。賞を取ったからいい映画だとは限らないが、すぐれた内容でしかも地元で撮られた作品が高い評価を受けるのはやはりうれしいもの。『おくりびと』は納棺師という地味でどちらかと言えば敬遠されがちな死に関わる職業を描いている。日本独自とも言われる納棺という儀式や日本人の死生観が外国人の目にどう映ったのかはわからないが、尊厳をもって死者を送ることに対して共感を得られたのではないだろうか。
◆『おくりびと』の舞台が庄内である必然性はないと思っているが、脚本を書いた小山薫堂さんは「山形(庄内)に書かせてもらった」と話している(小山さんは田口洋美教授が在籍する東北芸術工科大学に設置される新しい学科の学科長として4月から就任予定)。映画には鳥海山や月山はじめ庄内の自然も助演しているので、未見の人はぜひ映画館に足をお運びください。
◆映画といえば、「山形国際ドキュメンタリー映画祭2009」が10月8日〜15日に開催される。ドキュメンタリー映画はその時代を映す鏡。11回目を迎える今回もコンペティションには1000本を超える作品の応募が予想されているが、どんな作品が上映されるか今から楽しみにしている。前回の映画祭で「アジア千波万波」のグランプリ(小川紳介賞)に輝いた作品『長江に生きる ビンアイの物語』が現在、渋谷ユーロスペースで上映中(〜3/27)。中国の三峡ダムを描き国際的に高い評価を受けた映画はほかにもあるが、一人の女性(ビンアイ)を通して三峡ダムを描いたこの作品は胸を打つものがあり、かなりおすすめの一本である(これまで3回観ているが今日は渋谷でも観てきました)。貴重な紙面を使ってお国自慢のような話を書いてしまったが、100年に一度のこと(かもしれない)ので許してください。ともあれ、今年は山形の年になりそうなので、皆さんぜひ山形へ! (飯野昭司 山形県酒田市)
■写真展「わたしたちの宝もの─比嘉小12名の児童が撮った浜比嘉島のいま─」がついに3月3日、オープンを迎えた。華やかなテープカットに子どもたちも興奮した。三線の演奏がオープニングに花を添えた。展示会などのオープニングに三線が演奏されるということはここ沖縄でも珍しい。オープニングといえば幕開け、幕開けといえば沖縄では「かぎやでぃ風」という発想で即実現させた。仕掛け人はすっかり沖縄流に溶け込んでしまった外間晴美さんである。結果的に格調高いものになった。しかも6年生の前兼久郁君と古喜屋礼奈さんそして外間夫妻のコラボであるところがまたよかった。
◆展示にもかなりの工夫が見られた。作品一つ一つに解説や、撮った場所を地図に示したり、テーマ毎に作品を分けるなど、展示会前の膨大な準備作業をやり遂げた丸山純さんには本当に頭が下がる思いである。2、3日前から浜比嘉島に泊まり込んで準備を進めてくれたのであるが、前日に会った時から丸山純さんの目は充血していた。それでもオープニングの時間ぎりぎりまで作業は続けられた。
◆オープニング当日、あやはし館の二階からみえたのは大潮で完全に潮が引いた海の風景であった。海底にあった白い砂が砂丘のように広がり、大小の石のじゅうたんが敷かれ、波で浸食され逆三角形になった岩が所々に現れていた。浜比嘉島周辺のもう一つの顔である。あやはし館は、屋慶名と平安座島を結ぶ海中道路の中央地点にある。海中道路といっても海の中をトンネルが通っているわけではない。道路が出来るまでの交通手段は渡しの船か、このように潮の引いた時を見計らって運行されたアメリカ軍から譲り受けた大型トラックであった。徒歩で渡ることもできた。ただし潮の流れを読めず命を落とした人も多かったらしい。
◆さて、オープニングが終わり、子供たち、父母、学校職員、あやはし館の前田一舟さんの見守る中、子どもたち一人ひとりの作品の紹介が始まった。疲れを感じさせないさわやかな口調に子どもたちは感動していた。もちろん傍で聞いていた私たちも、その解説と子どもの感性を鋭く見抜く力に感銘を受けた。もちろん褒めてもらった子どもたちは大満足であり、大きな自信を得たのは言うまでもない。
◆「わたしたちの宝もの」の一つは郷土浜比嘉島である。二つ目は多くの力を頂いて完成した作品である。三つ目はこのような立派な写真を撮れたという自信である。これはオープニングで子ども達に贈った言葉である。
◆海中道路一つをみても、先人の生きる姿なしには語れない。あやはし館がここに建てられたのもそのようなこととは無縁ではない。そのような意味から子どもたちの撮った写真は子どもたちの作品であるという事以上に何かを語り続けるのかもしれない。(下地邦敏 比嘉小学校長)
■3月3日ひな祭り。午後4時に「写真展 わたしたちの宝もの」のオープニングセレモニーを行いました。会場に着いた子どもたちからは即座に「すごい!」と感嘆の声が聞かれ、写真に見入っていました。会場にはすでに数人の方が写真をのぞき込んでいて、セレモニーが始まる頃には子どもたちの顔にも少し緊張が見られていました。テープカットから三線の幕開け、これには実際に数名の児童にも参加させてもらい、貴重な経験をさせてもらいました。
◆その後に、丸山さんから一人一人の児童に対し、講評を伝えてもらったのですが、子どもたちの心に自信を持たせるようなすばらしい講評で、一人一人自分の撮った写真の前で行ったのですが、照れながらも満面の笑みでその講評を聞く姿が普段学校では見ることのできないことだったのでとても印象的でした。その後全体の集合写真では、新聞記者の方もお呼びしていたので、まるで、芸能人にでもなったかのようなフラッシュの嵐とインタビューにも驚かされました。
◆沖縄県の中の一離島のごく普通の子どもたち12名。明るく、素直で、それでいてウーマクー(やんちゃ)で、どこにでもいそうな12名の子どもたち。地平線会議in浜比嘉島における「デジカメ教室」がなければ、こんなに子どもたちが脚光を浴びることもなかったことでしょう。江本さんをはじめ、丸山さん、地平線会議の皆様との出会いがなければ実現することのなかった写真展。この出会いに改めて感謝する次第であります。
◆私は教師として、学校生活の中で、学ばなければならない学習以外にも、いかにしていろいろな経験を積ませ、一人の人間としての視野を広げ、成長させてあげることができるかと常日頃思っています。しかし、日常の忙しさにそのことを忘れてしまうこともあるのですが、「経験が人を育てる」ことを身をもって感じてもらいたいと思い、子どもたちと接しています。だからこそ、今回の写真展への参加が、どれほど子どもたちに貴重な経験となったかを感じてもらえたらと思います。
◆また、それを感じる心を持つよう語りかけていこうと思っています。子どもたちの感想にも、「浜比嘉島を知ってもらいたい」とこの写真展で島をアピールできることに喜びを感じる子もいれば、「これからもっといろんな人、物、場所をとっていきたい」と新しい世界へ目を向ける子もいて、今回の写真展を開催することで、子どもたちの視野を大きく広げてくれたと側で見ていて感じました。
◆今回の写真展を開催するにあたり、特に丸山さんには本当にお世話になりました。毎日のようにメールでやりとりしながら、忙しくしている丸山さんの様子を想像し、本当に頭が下がる思いでした。ご尽力に心から感謝しています。次は、是非、校内で写真展を開催しようと思うようになりました。私も、写真という新しい子どもたちとの関わり方を学ばせてもらいました。ありがとうございます。
◆まだまだ写真展は続くのですが、これからどういう反響が返ってくるのか楽しみです。きっと大成功に終わると思うのですが、たくさんの子どもたちの笑顔を見ることができたことと、喜び、心から満足していた姿を見ることができたことが何よりの成功だったと感じています。保護者の方からも感謝の言葉がたくさん贈られていて、家庭における子どもたちの見方もまた変わったのではないでしょうか……本当にありがとうございました。何度いってもいい足りないくらい感謝しています。(金城睦男 比嘉小学校教諭)
■丸山純さんからの携帯メールで目を覚ましたのは午前6時16分だった。タイトルは「何と欠航です」。出張先の沖縄市のホテルでパソコンを立ち上げてスカイマークのウェブサイトを見ると、「乗務員急病のため欠航」とある。
◆ほんとうなら1週間前に終わるはずだった仕事が、現地の都合でのびのびになり(その間2往復した)、3度目の沖縄出張に来る前の日、「えっ、じゃあ手伝ってよ」と当然のごとく丸山さんに頼まれて、仕事のスケジュールを頭に描きながら、まだ行ったことのなかった浜比嘉島に思いを巡らせていた。
◆徹夜で準備をしてきた丸山さんが、山ほどの荷物を抱えてANA便で那覇空港に現れたのは、1時間遅れて11時近くだった。写真展会場のあやはし館で外間晴美さんと落ち合い、まず3人で昼食。ごはんが見えないほどの海ぶどうに地元で獲れた刺身が乗っているあやはし丼は絶品で、翌日の昼食メニューもこれにしたほどだった。
◆写真展の会場を見ながら、これからやることを丸山さんに聞かされて、膨大な作業量に頭がくらくらしてきた。それでもやらなきゃ終わらない、今日中にどこまでできるかが勝負だ。まず、12人の児童が1枚ずつ自分で選んだ大伸ばしの写真を、展示位置を決めながら配置した。そこへ地平線会議が選んだ各自4枚ずつを仕分けしていったが、合計60枚あるはずのパネルが1枚足りない。それでも丸山さんは慌てなかった。なんとプリンタ(しかもプロ仕様のかなり大型のもの)まで送ってあったのだ。
◆翌日の作業量を考えると、これだけではとても間に合わないので、パネルを展示する順番も決めた。3人で「その写真は上に広がりがあるからいちばん上だ」「いや下がいい」と、1枚1枚のパネルを手に取り、勝手な講評をしながらの楽しい時間でもあった。
◆翌日、私は本業を午前中に済ませ、昼過ぎにあやはし館へ行った。丸山さんと晴美ちゃんがかなりのパネルを仮止めしていたので、会場はもう写真展の雰囲気が出ていた。間もなく江本さんも現れ、様子を見に来てくれた金城先生(展示する写真で見ていたので一目でわかった)には会場四隅にある大きなパネルにラシャ紙を貼っていただいたが、さすがにこういう作業は手慣れていてあっという間に終わってしまった。江本さんとふたりで、その上に写真を貼っていただいたが、これをお願いできただけでもずいぶん助かったと思う。
◆その次の日、私は写真展の初日を見ることなく帰京したが、細かいところまで気を配りプロデュースだけで終わらない丸山さん、それを現地で支える外間昇さんと晴美ちゃん夫妻、海の文化資料館の前田一舟さん、比嘉区長で民宿ゆがふの郷の平識さんご夫妻、比嘉小の下地校長や金城先生、いざというときには底力を見せてくれた江本さん、仕事の予定をずらしてまで写真展の準備に合わせてくれた(?)私の客先などの協力なしには、今回の写真展を開催することはできなかっただろう。ほんとうにみなさんご苦労様でした。(武田力「3月中にもういちど沖縄出張があるので、そのときしっかり見てきます」)
■3月15日、2週間ぶりに会場に来た。開会直前のことは知っているが開会してからは、今日が初めて。展示会場に入って最初に驚くのは、壁一面所狭しと貼られている写真の多さとさまざまな色の鮮やかさだ。2週間前、準備のときにも全部の写真を見ているはずだが、こうやって改めて見てみると、ものすごいインパクトがある。午後になって見学者が来だしたが、みんなあっさり通り過ぎてしまうので、入口で声を掛けてみた。こどもたちが撮った写真だとわかると、興味を示しゆっくり見てくれるようになった。1か月間あるとはいえ、これだけのものをここだけで終わらせてしまうのは惜しい気がする写真展会場からの速報でした。(3月15日 海の文化資料館展示会場にて 武田力)
■沖縄はうるま市の「海の駅あやはし館」へ行ってきました。海の文化資料館で開催中の比嘉小学校の子どもたちの写真展「わたしたちの宝もの」を見るために、です。いやあ、すばらしかったです。昨年10月に「ちへいせん・あしびなー」でお世話になった浜比嘉島。その島の暮らしや風景、人や生き物など、色とりどりのたくさんの写真が散りばめられ、「浜比嘉2008年10月」の小宇宙ができあがっていました。
◆「こんなアングルあり!?」と、マイってしまうカッコイイ写真も多数あり、展示されている作品すべて、比嘉小学校の5、6年生12名の撮影であることに改めて驚かされました。一人5点ずつ撮影者別に展示されていましたが、特に大きくプリントされているのは、撮影者本人が選んだベストショット。陽光を受けてきらめく海や、あかばなー(ハイビスカス)の蜜を吸うツマベニチョウのアップなどインパクトのある写真が並んでいました。なぜその写真をベストに選んだのか、また写真を大きくプリントしてもらっての喜び、写真への興味がわいたことなど、写真に添えられた子どもたちの感想も興味深く拝読。
◆さらに、丸山純さんの講評が、展示作品を際立たせ、会場全体をぐっと引き締めているように思いました。この写真展を開くきっかけとなった「ちへいせん・あしびなー」での「デジカメ教室」。その講師を務められた丸山さんが、一人ひとりの作品に丁寧であたたかなコメントを添えているのです。
◆それぞれの撮影傾向を分析したうえで、展示作品1点ずつについて、撮影時刻の記録(デジカメならでは!)も踏まえながら、光や色の加減、構図などその魅力を具体的に説明。さらに撮影のアドバイスも。高台から集落の風景をとらえた写真について、何十年か後にはとても貴重な記録資料となるでしょうと書かれていたのも印象的でした。すごいなあ、丸山さん。びっくりです。
◆この写真展が、比嘉小の5、6年生の子どもたちの心に残り、これから生きていくなかで何かあったときの支えになってくれたらいいなあと思いました。一緒に見に行った鈴木博子ちゃんともども感激して会場を後にしました。写真展の開催に向けて尽力された方々に感謝です。資料館の方の話では、たくさんの人が見に来られているとのこと。こちらもうれしくなりました。(妹尾和子)
■朝晩は涼しいですが、日中はだいぶ陽射しがきつくなってきた今日この頃です。写真展は大盛況です。今日覗いて来ましたが、なんと17日12:00現在の入場者1521人、一日平均108人という記録的な数字とのこと。そして感じるのは、入場者はだいたいがすぐに出るのではなくじっくりと時間かけて見て帰っていくなあということです。結構展示の準備が大変だったけど、報われますね〜。子供たちにとってもいい思い出になったことでしょう。本当に丸山さんはじめ地平線会議のみんなありがとう! 浜比嘉のみならず沖縄に地平線会議が残したものは大きい! と思います。
◆地平線あしびなー効果で、実は今月末から比嘉の女性有志が中心となり、野菜や海産物、手作り菓子や民芸品などを売る市を始めることになりました。あしびなーのイベントでいろいろな料理やお菓子やらを出して皆さんに喜んでもらったのがきっかけで、今後またこういうことをやっていきたいねという声があがり、じゃあやりましょうということで私が比嘉のねーねーたちに声をかけ、すでに昨年春から屋台パーラーを始めたくーみー達と一緒に始めることにしました。
◆ただいま準備に忙しくしているところです。うちも、すすきでほうきを作ったりそてつの実でキーホルダー作ったり、島唐辛子の泡盛漬け、ハーブオイルなどを作り商品として売るつもりにしています。先月長野さんが報告会の場で宣伝してくれたそうで、その注文いただいた分もただいま制作中! ありがたいことです。頑張って作るからね〜。
◆島の素朴な素材で作ったものが都会の人達に喜んでもらえ、なおかつお金になるなんて最高ですね。まもなく島特産のモズクも収穫に入ります。モズクの販売もやるつもりなのでお楽しみにしていてください。うちのパッションフルーツも花が咲き出して受粉作業に追われています。7月にはたわわに実る予定ですのでこちらもお楽しみに。
◆なお市はみんないつも笑いが絶えない場にしたいということで「笑福(われーふく)い市」と名付けました。その時々の旬の野菜や果物をちょっとでも、週末は毎週出すつもりなので浜比嘉にきた際は買いに来てね。また市では今後、観光案内や民芸品の製作体験、三線教室などもやっていきたいなと思ってます。(3月17日 浜比嘉島 外間晴美)
■「写真展をごらんになっての感想を書いて下さい 比嘉小5・6年より」と書いたノートが海の文化資料館の展示室に置かれている。武田さんは、そこに書かれた、参観者たちの感想をメモしてきてくれた。おもな内容を紹介する。
《3/4》
◆しゃしんてんを見て、みんなうまくとっていたので、すごいなぁとおもいました。[1年1くみ あさとりの]
◆しゃしんてんを見てじぶんのしゃしんがうつっていたのでうれしかたです。[1年1くみ 田ばみずき]
◆じぶんのしゃしんもうつっていたのでとってもうれしいです。[1年ひがりょう]
◆たのしかったです。[山しろりゅうと]
◆比嘉小の5、6年生はさすがカメラマンですね!! 次は○○○○先生の写真もとってネ!!
◆ちょっと帰りみちで寄りました。皆どれも楽しく個性的な写真ですね。みなさん、これからも島のいいところ、たくさんうつしてね。[from 赤のおばさんより]
◆すばらしい写真! すばらしい風景! さすがです! 比嘉小のみなさん!!(ようちえんから6年生まで!) みんなの楽しそうな表情の写真をみていると、みんなが、ひとりひとりが、幸せなんだなぁとうれしくなりました。地平線会議のみなさん、浜比嘉島のみなさんにも感謝です。ありがとう! 感動しました。[3/4 ― さんしんの日]
《3/5》
◆せっかく沖縄へ来たのに、大雨だ。それをおぎなってあまりある沖縄の写真。いいですね![リスケ]
◆許田からここまで大雨の中を自転車でやって来ました。危うく沖縄が嫌いになるところでしたが(笑)この写真で助かりました…[D.C.C]
《3/6》
◆カメラを手にして一生懸命とっている姿が目にうかぶようです。きっとプロカメラマン(笑)になってシャッターをおしたんでしょうネ!! どの写真もすばらしくて何度もみていたらあっという間に1時間も経ってました。またみにきたいです。[仲村あさみ]
《3/7》
◆たくさんのキレイな写真ありがとう。みんないっぱい宝物があるんだね。これからもドキッとするような画をとって下さい。[KAZUOH]
◆子どもたちのとてもすてきですばらしい写真を見せてもらいました。私も写真をよく撮りますが、あらためて写真のすばらしさ、そしてなによりも浜比嘉島のすばらしい自然に感動しました。
《3/8》
◆沖縄のいろいろなものを写してるから、すごいと思います!
◆子供たちの写真展、とてもすばらしい作品だと思います。子供たちの笑顔、そぼくさ。そして自然そのまんまずっと残してほしいものです。みなさん、ありがとうございました。
◆がっこうのみなさんよく
がんばりましたせんせいがたも
よくがんばりました
わたしのたのしかたところは
えがおです[まついりこ5さい]
◆のどかな浜比嘉島、美しい海の色、元気な子供達。楽しく、なつかしく見せて頂きました。ありがとうございます。きっといい想い出、そして将来、立派なカメラマンになることでしょう。楽しみにしています。[仲原]
◆とてもいいさくひんでした。わたしも、しゃしんにうつりたかったです。それは、ざんねんでした![仲原克実]
《3/9》
◆雄大君の写真がとてもすばらしい。[観光客より]
《3/11》
◆撮影の仕事の合い間にここに立ち寄ったのですが、子供達の写真展におどろきました。すごくステキ!! とりたい時にとりたいものをとり続けてください! 感動をありがとう。[伊藤麻由子]
◆カメラの目線がすばらしかった 拍手[名前判読できず]
《3/13》
◆また、写真が見たくて2度も来ました。子どもたちの写真の笑顔を見ていると… なんだか、心がとても癒されました。何度見てもすばらしいですね。写真はず〜っと残るから、宝ものですね。[Chizuru A]
《3/14》
◆今日は嵐のような天気でした。ありのままの沖縄が見れました
◆子どもたちの写真を見てイヤなことも忘れました。おもしろかった。また見に来ます。
◆神戸から来ました。沖縄は初めて!! 子供達の写真から、のどかなすばらしい沖縄を見る事ができました。元気で笑顔の子供達。すばらしい写真を見せてくれてありがとうございます。[2児のママより]
◆とっても素晴らしい写真ですね!! 素直な気持ちで撮影した事が伝わってきて、浜比嘉島のすばらしさがまた一段と伝わります!! 感動しました!![高宣昭人]
◆子供達の豊かな視点あふれる作品達に本当に驚きました!! 浜比嘉と子供達のすばらしさを再認識!! とっても楽しめました、[西條敏子]
◆みんな、浜比嘉島の自然の様子が上手にとれていてすごな〜と思いました。とても楽しめました。写真展を見れて良かったです。[比嘉小の卒業生]
◆写真は心を語るのだと思います。浜比嘉での想い出がよみがえります。2008年10月、この日から私の沖縄好きがはじまりました。いい写真をありがとう。[神奈川県秦野市 地平線会議 鈴木博子]
《3/15》
◆みんなのしゃしんが楽しくて、ぼくが5年生になって、こんな、べんきょうがあったら5・6年生みたいなしゃしんをとりたいです。[2年1組 西浜輝海]
◆素晴らしい写真でした。その写真に対しての題名があればさらにいいかと思います。写真をとった子供がどう感じてとったのかが知りたいので、ぜひ、題名をつけてください。[宮城真也]
◆すばらしい写真です。これくらいうまく写真がとれたらいいなと思います。[比嘉彩乃]
◆おもしろかったです。いい写真ばかりで。馬をとったつるみくん、けいすけえらいっ![カマダマコト]
◆素てきなしゃしんばかりでびっくりしました。さすが浜比嘉の子どもたちっ!! よい写真を見ることができて、感動しました[鎌田千佳]
◆リーダーの行き届いた心やさしい教えは、とても感動しました。尚、このリーダーについていった子供たちの感性におどろきです。ほんとにすばらしい展示会です。この中から写真家が出ることを祈ります。私が撰ぶベスト3として、玉城圭輔君の(1)、浜崎歌南さんの(1)、古喜屋礼奈さんの(1)を挙げておきます。[長濱靜之]
■友人のカメラマン・山田愼二さんと「デジカメK太倶楽部」という活動を始めて、もう4年になる。それまで私たちは年に1〜2度、カメラメーカーの広報部がマスコミの記者・編集者向けに主催するカメラ教室のお手伝いをしてきたのだが、写真を撮るおもしろさや楽しさをもっと広く社会にアピールしていきたいという思いがしだいに募って、デジカメ教室の「出前」をやるプロジェクトを立ち上げたのである(「K太」とは「ケータリング=出前」のこと)。2004年の夏に私がパキスタン北部の2つの小学校でやってみたのを皮切りに、小学生から大学生、社会人までを対象にした講座やワークショップを年に何度かずつ実施してきた。
◆そのなかでいつも痛感させられるのが、子どもたちの撮る写真の素晴らしさだ。カメラを手にするのはほとんど初めてのはずなのに、どうしてこんなに自由な発想でシャッターを押せるのだろう。写真とは技術や知識ではないということを、毎回いやというほど思い知らされる。さらに、撮影されたカットを順に見ていくと、その子の個性や生活環境がじわじわと浮かび上がってきて、とても興味深い。同じパキスタンの片田舎でも、戒律の厳しいイスラーム社会と多神教のカラーシャ族とでは、撮ってくる写真の雰囲気がまるで異なるのだ。
◆そんな経験があったので、遅ればせながら昨秋の「ちへいせん・あしびなー」に参加することになった時点で真っ先に、浜比嘉島の子どもたちにカメラを貸し出してみたらおもしろいのではないかというアイデアが思い浮かんだ。そして、4日目のプリント実習で各自5枚ずつプリントしてもらったとき、期待していた以上の写真が次々とプリンターから吐き出されていくのを目の当たりにして、思わず歓声をあげてしまった。この感動をこのまま放置しておいてはいけない、私たちが見ているだけではあまりにももったいないと、強く感じさせられた。
◆もちろん、これだけの写真を撮ることができたのは、浜比嘉島が美しい自然に囲まれているということが前提にある。しかしそれ以上に、子どもたちが印象的な場所を的確に把握し、それを誇りに思っていることがうかがえて、うれしかった。後日、浜比嘉島を再訪したとき、島内をあちこち歩き回って子どもたちが立ったと思われる撮影地点を確認してみたのだが、漫然とシャッターを押したのではなく、それぞれ工夫しながら、ここぞという瞬間を撮っていることがよくわかった。たとえば比嘉の集落をグスクからはるかに見下ろした郁(かおる)君の作品は、下生えや灌木が伸びているため、柵の上によじ登って撮らなければあのようには写らない。強風に吹き飛ばされて崖下まで落ちそうで、私はついに柵のてっぺんに立ってファインダーを覗くことはできなかった。礼奈さんの一連の作品も、タイムスタンプと見較べてみると、ちょうど昇ってきたばかりの朝日に照らされる瞬間を狙って、わざわざ早起きして撮っていることがわかる。
◆また、みんながショックを受けた名作、圭輔君による崖と木のシルエットも、日を変えて同じ被写体を何度も撮りに出かけて、結局、一番最初に撮ったものを選んでいる。今回の写真展の中核は、地平線会議が選んだ各自4点ずつと自選1枚からなる、計60枚の作品群だが、その大半を、秋のプリント実習のときに彼ら自身がすでにプリントしていた。限られた時間のなかで的確に「いい写真」を見つけ、さらにそこから「これしかない」というベストショットを絞り込んだ眼力には恐れ入る。
◆3月3日に始まった写真展「わたしたちの宝もの」もそろそろ折り返し点だが、すでに1500人もの方々が訪れているそうだ。これまでデジカメK太倶楽部としてはデジカメ教室をやっただけで写真展まで手がけることはできなかったが、今回こうして実現してみると、デジカメ教室+写真展という組み合わせは、子どもたち自身が刺激を受けるという教育的な効果に加えて、その土地の持つ価値を再発見し、地域の文化を共有して活性化させる大きな力になりうると、まざまざと感じさせられた。日本国内だけでなく世界各地でも、この手法が生かせるのではないだろうか。私も、2004年のワークショップで撮ってもらった写真をいかにしてパキスタンで展示するか、考え始めている。
◆今回展示している写真や解説パネルなどは総計180点ほどになるが、子どもたちの自選作品12点を大判プリントしてもらった以外は、すべて私が手元のプリンターで印刷したものだ。パネル貼りも、先月の報告会の前に有志が集まって、切った貼ったを繰り広げて仕上げた。写真展を新たに開催するとなるとずいぶんお金がかかりそうな気がするが、まったくの手作りでこんな楽しい、多くの方に見てもらえるイベントが実現できたというのは、地平線会議にとっても大きな自信になる。
◆紙数の関係でここでは個々のお名前を挙げることができないが、写真展を支えてくださった多くのみなさんに深く感謝したい。誰一人欠けても、この写真展は実現できなかった。そして何よりも、私たちにこんな体験をさせてくれた12人の子どもたちに、心からありがとうと言いたい。(丸山純)
■トリニダード・トバゴはカリブ海の東南端に浮かぶ島国だ。トリニダード島とトバゴ島から成り、1962年にイギリスから独立した。サイズでいえば千葉県ほど、人口は川崎市ぐらいの小さな共和国である。アフリカから拉致誘拐されてきた黒人奴隷の子孫に加え、奴隷解放以降にサトウキビ・プランテーションの労働力として導入されたインド系、アラブ系、中国系などが暮らす多民族国家でもある。
◆コロンブスの第3次航海の際に「発見」され、トバゴ島の名が「タバコ」の語源になったことや、デフォーの「ロビンソン・クルーソー」の舞台となったことぐらいしか歴史には登場しないが、実はこの国、文化レベルの高さでは古くから注目を集めてきた。「カリブ海学派」と称される歴史学派の始祖エリック・ウイリアムズや、インド系移民のノーベル文学賞作家V・S・ナイポールなど、幾多の逸材を輩出してきた国としても名高い。アートの分野でも、例えばラテン・リズムの雄カリプソや、廃物のドラム缶を利用して開発された20世紀最大のアコースティック楽器スティール・ドラムを生んだ故郷として広く知られている。
◆なぜかこの島、イギリス系でありながらカーニバルのレベルの高さでも突出したものがある。ブラジルと並ぶカーニバル2大勢力の一方を担っており、中身の濃さは小さな島国というハンディキャップも軽くぶっ飛ばすエネルギッシュなものがある。ワールドカップや五輪開会式など大規模イベントの華麗な総合演出で知られる舞台芸術家ピーター・ミンシェルも、この国のカーニバル文化が育んだ世界的に著名なアーティストの一人だ。
◆さてさて、20年間の歳月を費やしてラテンの祝祭空間を漂ってきたが、主だったラテン系カーニバルは全制覇達成。今年からヨーロッパ方面に転戦するか、はたまたラテン2周目を攻略するか、大いに悩むところがあった。結論はやっぱりカーニバルはラテンでしょってなわけで、栄えある2周目の初っ端はやはりトリニに決定。ただし、小さな島国に大量の観光客が押し寄せるため、フライトと宿は前年9月までに、がお約束だ。昨年暮れの段階で、超高値安定のチケットと宿の予約はぎりぎり滑り込みで確保できた。
◆入国にはビザが必要となるが、日本にはトリニ大使館がないため、コモンウエルス・カントリー(英連邦)つながりでビザ申請はイギリス大使館が代行している。そろそろ申請をと、必要書類をネットで調べて思わずひっくり返った。過去半年分の銀行預金通帳出入金記録、往復フライトの予約証明、就業証明etc、そのすべてに日本語が一言でも書いてある場合は、翻訳会社による英文の翻訳とその証明書まで必要となっている。あげくに、過去10年分のパスポートも提出ときた。おいおい、こりゃまずいぜ。
◆現役も含め3冊すべて、増刷したあげくに全ページが出入国のスタンプやビザで埋め尽くされ、もう自分でも説明不能な怪しさである。グレートジャーニーのサポートで、1日にヨルダン〜エジプト間2往復とか、こりゃ当然テロリストと疑われてもしょうがない。スーダンやらキューバ、シリアなどの純正テロ支援国家の渡航歴も残っているし、取材とかいっても言い訳にはならない。しかも、提出した書類はすべてマニラの英国大使館で一括審査ときた。
◆申請書類は英国大使館ビザ・センターに提出するが、まず申請日時を予約しないと受け付けてももらえない。あげくに、この事務所自体が民営化されているらしい。応対したのは中国系のおねえさん。日本語がヘタで何やら意味不明のため、途中から英語に切り替えての申請となる。イギリス英語とアメリカ米語のニュアンスの違いを確認したかったのだが、フリーランスとセルフ・サポート、またはセルフ・エンプロイの英米の温度差は解読不能のまま。通常は5勤務日で発給とのことなので、まあ大丈夫であろうと読んでアプライしたのは、出発予定日の3週間前だった。ところがどっこい……(続く) ZZZ−全(カーニバル評論家)
■キューバ後、メヒコの東に沿ってマヤの遺跡を訪ね歩きました。20年以上前のナショナルジオグラフィックで見て以来の夢、ボナンパク壁画は期待を裏切らない素晴らしさでした。そのまま、ジャングルのラカンドン族の村に泊まり、裸足のラカンドンの青年チャンキンと二人で歩いたジャングルトレッキングでは、密林に眠るマヤの神殿が現れてまるでインディ・ジョーンズの世界でした。
◆メヒコの下からグアテマラに入り、インディオの人達の市の曜日に合わせて移動し、華やかな民族衣装が例外なく豊満な身を包み、彼女らのパワー溢れるやりとりに思わず引き込まれて山ほどのトマテを買ってしまったりしました。グアテマラのハイライト、ティカル遺跡から国境越えしベリーズ入り。これも長年の憧れのブルホールでのダイビングでは、鮫に囲まれて大感激でした。藍から漆黒の海底を見ながらのホバーリングは実に幻想的でした。
◆ベリーズの南プンタゴルダから対岸のグアテマラへ渡り、そしてホンジュラスへ。サンペドロスーラ、メルカドの中の宿はインドもびっくりの汚さ。敢えて泊まってみるとビールご馳走してくれたりと居心地は悪くなかったです。ぎゅうぎゅうコレクティーボに積み込まれ、再度グアテマラ、サルバドルと来ています。
◆確か、20年程前は悲惨な内戦中で間違っても近寄れない国だったんですが、米ドルを通貨にしたりとアメリカに可愛いく接しているのが功をそうしてか、道路など整備され旧市街の外には素晴らしいショッピングモールが出来ていたりと予想とは随分と違っています。何より、人々が温かく日常的にお世話になってしまっています。そして、バスのお兄さんのスーパーハンサムな事、旅は1か月を過ぎましたが全然日本に帰りたくならない毎日です。(サンサルバドルから 3月7日 藤原和枝)
★3月7日、榎町地域センターで「黒潮カヌープロジェクト」の若者たちが制作中のドキュメンタリーが木田沙都紀さんの司会進行で上映された。丸木舟カヌー「縄文号」ができるまでを「鉄」(上映時間35分)「縄」(33分)「食」(26分)「カヌー作り」(56分)と、テーマ別にオムニバスとして構成された映画。非常に面白い内容だった。関野吉晴さんを慕って動き出した青年たち、すでに十分いい仕事をやりとげている。航海のスタート予定は4月。海賊の出没など難題はあるため、慎重に対処するとのことだが、ともあれクルーは3月10日、インドネシアに向かった。(E)
■まるで大きな水面に波紋が広がっていくように、ある人が発した言動がじわじわと辺りの人に影響し、やがては多くの人々に浸透してゆく。
◆7年前、武蔵野美術大学の2年生だった私は、関野吉晴さんの文化人類学の授業で見る未知の世界に胸を躍らせていた。ある時モンゴルへ行きたいと関野さんに相談したところ、江本さんを紹介して頂くことになった。多忙の中「関野の頼みなら仕方ない」と快く面会を承諾してくれた江本さん、一学生に世話をしてくれた関野さんのおおらかさに私の心はじんとした。
◆黒潮カヌープロジェクトとは、関野さんのもとに集ったムサビの学生、卒業生を中心とする探検支援組織である。美大生ならではの手先の器用さと純粋な探究心を合わせ持った不特定多数の有志メンバーたちは、それぞれが関心を持ち得意とする分野を活かしながら、カヌーづくりをきっかけとした多岐にわたる活動を繰り広げている。プロジェクトの中では関野さんに次ぐ年長者である私の役割は、この集団が活動しやすい環境をつくること、不在である関野さんの意志をメンバーに伝えること、そしてそれらによってプロジェクトを充実した方向へ導くことである。
◆「自然から素材を採ってきて自分たちでつくる」という壮大なテーマを掲げた私たちは、昔ながらの生活を今に伝える人々のもとを幾度となく訪れた。昨年夏、10人のメンバーが、兵庫県北部の山奥にある「あ〜す農場」に1週間程お世話になった。ここは一家の主、大森昌也さんが提唱する「縄文百姓」の精神をもとに、食料の99%を自給し、水力発電とバイオガスを利用した生活を営んでいる。国内外から百姓体験をしに訪れる者も多く、現在は6人兄弟の末っ子、双子のあいちゃん・れいちゃんがこの家を切り盛りしている。2人とは仕事や食事の合間にとぎれとぎれいろいろな話をした。「うちらはただ生活しているだけやから」──百姓としての生き方について話をしていた時、れいちゃんがそうつぶやいた。人間が一生の中で、自分のからだで体験できることは限られている。だから私たちは足りない分を他者の体験を通して知ろうとするのかもしれない。プロジェクトを通して出会った人々の、その生活様式や、彼らからこぼれ出る言葉の端々から、私たちはたくさんの「気付き」を得た。
◆大勢で一つの物をつくり上げていくという事はとても難しく、時にわずらわしさを覚えることもある。けれども一人一人の体験が縒り合わさって形作られていくものごとは、個人の想像を優に超えた多面的な魅力をまとう。本来なら出会うはずもなかった人々が結びつき、濃密な時間を共有し、互いが互いを刺激し合い関係を深めていく。様々な形で足跡を残してくれた人たちに想いを馳せる事のできるような、そんな人と人との繋がりを大切にしたプロジェクトに育てていきたいと願います。(木田沙都紀 黒潮カヌープロジェクト・マネージメント担当)
■3月の声をきくと、「もうすぐ春ですね」、というわけで、暖かくなりました。しかし、あちらモンゴルでは、まだ朝晩はマイナス20度の酷寒。月暦による新年のご挨拶に行ってきました(2月25日)。民主化20年を迎えたモンゴルの首都、最近増えたのがなんとサウナ。
◆いくつかのホテルにサウナが出来たということは聞いてはいましたが、今や金持ちの間で流行っているんだそうです。友人からあまり清潔でないので、やめなさい、と強くいわれ、体験できませんでした。もともと草原のゲルで暮らす人たちは、日本人のように湯船にどぼっとつかるような入浴の習慣はありません。
◆さて江戸の銭湯のサウナ事情を少々。サウナのある銭湯とない銭湯、まあ半々くらいでしょうか。そのサウナが無料という所と、有料とがあります。金町湯―蒸気サウナで無料、浅草橋の弁天湯―スチームサウナで無料、鶯谷の萩の湯―200円、巣鴨湯―2時間・時間限定で500円などなど。サウナ目当てのお客さんは、いわゆるスーパー銭湯へ行ってしまい、普通の銭湯のサウナは集客にはつながっていないようです。
◆また、品格のある由緒正しい銭湯、たとえば、足立の大黒湯(The King of SENTO)や御徒町の燕湯(建物が文化財指定)などでは客寄せ目的のサウナなどありません。脱衣場の向こうの庭の池で、大きな鯉が泳いでいる、そんな風情を残しています。
◆名前が気になり、先日行ってみた吉原のアクアプレイス旭(旧旭湯)でのこと。玄関もネオンサインがきらきらしていた7階建てビルの1階がお風呂屋さん。古い建物を改築した際に名前を新しくしたとのこと。サウナ(160円)でご常連らしき粋な女性、「京都ではね、脱衣場の笊が四角なのよ、東京では丸いけれど」、と違いを教わった。着物をたたんで入れるので、四角なんだそうです。銭湯物知り検定試験を、という声が愛湯家のあいだで出ています。京と江戸の銭湯事情の違い、しっかりメモしておきました。(なぞの田口幸子)
★今年も海宝道義さん主催の「24時間チャリティラン・ウォーク」(通称「お台場ぐるぐる」3月7、8日)には地平線会議の面々が大勢参加したが、異色の挑戦が目立った。昨年までリレー専門だった妹尾和子は「50キロを目標に」24時間ソロの部に出走、見事55.5キロを踏破した。昨年130キロをマークした加藤千晶は今年は82.5キロにとどまり、中山郁子は85.5キロ、杉山貴章は最長の123キロを走り、坪井伸吾の“ライバル”李容林はけっきょくがんばって102キロを走った。12時間の部に出た橋本恵は51キロ。ねここと、中島菊代率いる「のらねこ」「やまねこ」の24時間リレーチームは、それぞれ150、153キロを、関根五千子率いる「ネコの手クラブ」(メンバーの三輪主彦は今年は指導にまわった)は144キロを記録した。今年もエイドを目いっぱい楽しみながらのお台場ぐるぐるだった。(敬称略)(E)
■昨年末の報告会の2次会で李容林さんと話す機会があった。彼女はそのとき、自分はいろんなことに挑戦したい。だからまずはお台場チャリティラン・ウォーク(船の科学館の周囲1.5キロを無限に回り続けるマラソン。通称お台場ぐるぐる)24時間の部に出ると言った。この宣言にはしびれた。これぞまさに有言実行である。ぐるぐる個人には6時間、12時間の部もあるのにいきなり24時間。しかも彼女は過去にリレーに出ているから、その挑戦の無謀さも分かっている?はずだ。彼女の話を聞いているうちになんだか僕も24時間に出たくなってしまった。
◆正月に李さんから年賀状が来たので、やる気にさせてくれたお礼もこめ、僕も出るよ、負けないぞ、と返事を書いた。もちろん本気ではなく、単なるウケ狙いのつもりだったのだが、これが思わぬ展開につながった。李さんは通信の発送作業にその年賀状を持ってきて「坪井サンからライバル宣言された」と言っているとの噂を耳にしたのだ。えーと、どうしよう?
◆ぐるぐる当日、李さんはめっちゃマジだった。走っているときに話しかけると「しゃべらせて私を疲れさせる作戦ですか」と言われ、深夜になると「坪井サン、なぜ寝ないんです!」と何度も詰め寄られた。そんなこと言われても困るのだ。僕は李さんと勝負してるんじゃなくて、自分の目標100キロと勝負しているのだ。
◆と、最初は思っていたのだが、50キロを越えたあたりから李さんを意識せずにはいられなくなった。なぜって彼女はいつまでたっても僕から5周遅れ(7.5キロ差)でついてくるのだ。なぜだ。全く練習してなさそうな彼女がなぜこれほど走れるのだ。60、70、80、になっても差は変わらない。80を越えたあたりで右膝の関節が痛みだし、足を引きずりだすと、なんと歩いている彼女に2周も抜かれてしまった。これは、もしうっかり休憩室で寝たりしたら彼女に負けてしまう。こうなったらガチンコ勝負だ。僕は練習もしないエセランナーではあるが、一応北米を単独で走りきったキャリアはある。ここで彼女に負けるとあまりにもカッコ悪いではないか。
◆そうこうしているうちに目標の100キロは超えた。もうこれ以上やると、関節痛が後遺症になりそうだし、仕事に影響が出るのは間違いない。正直止めたい。でも李さんはまだ舞台の上にいる。今、僕が止めたらヘタしたら負ける。というわけで最後のフンバリは彼女のおかげである。結果は109.5キロ。それにしても驚くべきは李さん。もしかしたらすごい素質の持ち主なのかもしれない。(坪井伸吾)
■郁ちゃん(注:中山郁子)からは「疲れたら食べて寝ればいいんだから楽!楽!楽しいよ♪」と言われてたけどマラソン大会で走るのは学生以来。フルを走った経験は無し。勢いで申し込んじゃったもののちょっぴりの不安と期待を抱えた大会当日の朝。会場に着いてみると前日から24時間の部に出ている仲間たちが着々と歩きまたは走り(!!)続けている。私は6時間の部で8日午前9時出発!!たかしょーさん(注:杉山貴章)に「今日の目標は?」と聞かれて「フルマラソン!!」と最初の2時間くらいは調子に乗っていた。知り合いのトレイルランナーが手を振りながら飛ぶように駆け抜けていく。走るって楽しい☆
◆ところが3時間めに入ってふくらはぎの筋肉が勝手に動き出した。危険だ〜!!と思いながら結局1時間くらい歩く。同じピンクのゼッケン(6時間の部)の人達はほとんど走ってるので焦った。たくさんの人と抜いたり抜かれたりひたすら進むうちに色んな背中を覚えてきた。毎周追い抜いていく人、黙々と歩き続ける人、散歩のように会話を楽しんでる人。性別も年齢もそして走ってる時間さえも皆違うので後姿に見える雰囲気や疲れも様々。最後はもう自分との闘い。とにかく1時間に4周(6キロ)と腕時計を見ていた。
◆そして6時間はあっけなく終わってしまった。記録証が届いた。「記録37.5キロ」今年中に今度はフルマラソンに出てみたい。走るって楽しい事を思い出したから。最後に海宝さんごちそうさまでした。パスタもぶどうもおいしかったけどベーコンを食べ損ねたから来年は24時間に出ます。(米満玲 目下報告会受付主任)
■江本様 ご無沙汰しております。今年は年明けからずっと地平線会議の報告会の報告者が充実していて、海外在住者としてはうらやましい限りです。さりげなく、30周年という節目の年のテンションをあげていってるのかなぁ、なんて。
◆さて、ウランバートルも日が長くなり、吹雪と雪解けを繰り返しながら確実に春へと季節が変わってきています。去年のうちに解決したかったのに、年越ししてしまい、さらにモンゴル暦の丑年までに、と思ったのにそれもかなわず、もう今年もこのままずるずるいっちゃうんじゃないか、といらいらし始め、相手の誠意のなさに、堪忍袋の緒が切れて、「相手と刺し違えてでも解決させる」と自分でもびっくりするくらいの気迫で相手弁護士に迫ったところ、事態が急速に進み、昨日(3月11日)に相手方がついに会社の保有株の譲渡に合意し、彼らが不当に差し押さえていた車両も取り戻すことができました。他にもコンピューターとかいろいろあったんだけど、細かいことは言いません。私も個人の預金や相手方から未回収だった債権分を放棄して株を買い取る形にする、ということで、少なからぬ痛手を受けました。とはいえ、裏切り者といつまでもズルズルしているよりは、金で解決できることなら、さっさと片付けちゃおうと思い切りました。
◆結構大金だったので、自分ももうちょっとウジウジしちゃうか、と思ったのですが、株譲渡契約(私にとっては縁切り状!)の前に、差し押さえられていたフジテレビの「あいのり」で使ったラブワゴンというマイクロバスとモンゴル中を一緒に駆け回ったデリカに無事な姿で再会できた感激で、お金のことはどうでもよくなっちゃいました。2年ぶりにタクシーや乗り合いバスではなく、自分の車に乗ってウランバートルの街中の渋滞をすり抜けていくのは最高の気分で、まるで自分に翼が生えたみたい。
◆「これからはいつでも好きなときにどこへでも旅ができる」という思いは、モンゴル撤退を具体的に検討していた私の弱気を蹴散らしてくれました。車の点検は、視界3mという吹雪の中で行ったので、ドライバー君たちには大変だったと思いますが、「今日、取り返さなければ、またいつチャンスが来るかわからないから、やろう」といってくれたことが嬉しかったです。こういう仲間を大切にして、また一からやり直そうって心機一転、外は叩きつけるような吹雪でも、心は晴れ晴れ、風弱く快晴!って感じでした。
◆モンゴルに戻ってきてから、相手方のこの謀反の張本人から嫌がらせの脅迫電話が連日連夜かかってきていて、いつ情報部に拘束されるのか、税務署の手入れで全財産没収されるか、などと不安な日々を送っていました。犬の散歩もいつ車に突っ込まれるかわからないから、リードもうかうか外せず、ソートンにも不自由をかけました。
◆この闘いで自分が得たものはとても大きかったです。彼らのルールで行うことになったゲームには完敗。叩きのめされましたが、結果的に人生における勝利の栄冠は私に輝いたと信じています。
◆というのも1年9ヶ月ぶりに直接対面した彼らは、人相がものすごく悪人面になっていて、私は一瞬では彼らを認識することができないほどに歪んでいたのです。金の亡者ってすごい!こんな薄汚い人たちと一緒にいたら、この毒、うつるかも!と思うほどいやーなオーラ。5年近く一緒に、辛いときも楽しいときも一緒に活動してきた仲間がお金への執着心と私への憎悪でこんなにも面変わりしちゃったことが気の毒でなりませんでした。あらゆるものへの執着を断ち切ること、憎むべき相手を慈愛で受け止め許すことは実行するのは難しい気がしていたのですが、実際は簡単でした。
◆彼らは最後の最後まで私を憎み、恐れ、罪悪感から目をそむけて頑なになろうとしているようだったので、「これっきりで終わりにしよう。車を返してくれてありがとう。これまで一緒にがんばってくれてありがとう。もう二度とお互いの人生の邪魔をせず、お互いの繁栄と成功を祝福しあおう」と指きりげんまんを提案して、相手の小指に私の小指を絡めて、「ゆびきりげんまん」を歌ったところ、ようやく笑顔がこぼれました。ああ、よかったな、って心から思えました。一度でもお世話になった人が、私に対する憎悪で、いつまでも頑なにこだわり続けるようでは、真に闘争を終えることはできないな、と思っていたので、私にとっては、最高の終息です。
◆2月にあった在留邦人女性殺害事件以降、ウランバートルを引き上げるビジネスマンや日本語教師が相次いでいます。私も経済混乱や外国人に対する搾取政策(取れるところから取ってやろうという狙いが見え見え)にうんざりし、モンゴルを舞台にするにせよ、日本に拠点を構える計画を立てています。これは、会社のゴタゴタが解決したら、そうしよう、と思っていたことなので、なんとか年内に実行したいところです。ただ、身を寄せようと思っていた実家から、壮絶なソートン受け入れ拒否という反応があったので、日本にも帰るところがなくなっちゃったから、こちらも新拠点を構えての、まっさらなスタートとなります。今、インターネットで物件を探し、スカイプで不動産屋さんと交渉しているところですが、モンゴルにいながら、こういうことができちゃうってすごいことですね。大型犬なので、そう簡単には理想の物件にはめぐり合えないのですが、この2年間、どんなときでも私を支えてくれたパートナー・ソートンと共に日本とモンゴルでがんばっていこうと思っています。モンゴル航空が大型犬でも輸送費が15000円相当となったことが心強いです。
◆文字通り、すってんてんなので、私が自分で維持管理も運転もできない車は友達に売却し、活動資金の穴埋めにしながら、日本政府のODAプロジェクトの手伝いをしながら、自分の活動を軌道修正していきます。今は闘いすんで腑抜け状態ですが、年度末のレポート翻訳やら厳しい税務監査などやるべき仕事は山積みです。長い間、地平線通信でもとりあげていただいた私のモンゴルでの闘争顛末記はあっけない幕切れだったけれど、精神的な試練の旅は実に素晴らしいかけがえのないものであったようにも思います。地平線会議の応援し、見守り続けてくれた仲間たちに心からの感謝。モンゴルにお越しの際はぜひ、サポートさせていただきたいと思います。モンゴルも春間近。心機一転の新しい旅立ちにふさわしい季節です。
◆ほんと、こんなに心が軽くなるなんて、びっくりです。敗戦処理は大変だけど、それでも、平和が戻ったことで笑いが止まらなかった、といっていた今は亡き祖父母たちの気持ちがちょっとだけわかったような気がします。これからはちょくちょく日本でも仕事していきたいです。都内で大型犬飼育可の賃貸物件があったら、ぜひ教えてください。とびつきます。いろいろとご心配いただき、また温かい応援のお言葉をありがとうございました。江本さんにも大感謝です。取り急ぎ、大喜びの敗戦報告まで。(山本千夏@ウランバートル)
地平線イラストレーター、長野亮之介画伯初の個展「百顔繚乱」が5月12日から24日まで、東京・東中野駅前の「ポレポレ座」1階ギャラリーで開かれます。地平線会議を長く支えてきた画伯の初の個展を盛大に祝いたく5月16日の土曜日を「地平線お祝いデー」とし、会場で賑やかに集まることを考えています。 どうか、遠隔地の方々今から予定していてください。詳しくは、後日。(E)
■2月の地平線通信でお知らせした後、通信費をおさめたくれた方々は以下の皆さんです。万一記載漏れがある場合はお知らせください。通信費は1年2000円です。
吉成信夫/天野賢一/小林祐一/岸本佳則・実千代/河田真智子/斉藤孝昭/原健次/大槻雅弘/島田利嗣/中島恭子/中澤和子/菅原強/石川美文/西嶋錬太郎
1月号の通信でお知らせしましたように、比嘉小児童の写真展の開催、報告書の制作、記念大集会(秋に予定)の開催など地平線会議30周年の記念行事のために恒例の「1万円カンパ」を始めました。早速、皆さんからあたたかい応援の心が届き、地平線会議の仕事を支えてくれています。当面以下の方々が協力してくれました。熱くお礼申し上げます。(地平線会議)
★斉藤宏子 三上智津子 佐藤安紀子 石原拓也 野々山富雄 坪井伸吾 中島菊代 新堂睦子 埜口保男 服部文祥 松澤亮 田部井淳子 岩淵清 向後紀代美 小河原章行 江本嘉伸 掛須美奈子 橋口優 宇都木慎一 原健次 飯野昭司 鹿内善蔵 河田真智子 岡村隆 森国興 下地邦敏 長濱多美子 長濱静之 西嶋錬太郎 寺本和子 城山幸子
★振込みは、通信費の郵便口座ではなく以下の銀行口座にお願いします。◎みずほ銀行四谷支店 普通口座 2181225 地平線会議 代表世話人 江本嘉伸(恒例により、カンパされた方々の名を通信に掲載して領収と感謝のしるしとする予定です。万一、漏れがありましたらご指摘ください)。
森井祐介 関根皓博 三輪主彦 松澤亮 車谷建太 山辺剣 橋本恵 満州 坂出英俊 村田忠彦 新垣亜美 宮川竜一 落合大祐・理人 江本嘉伸 米満玲 加藤千晶 中山郁子 杉山貴章 武田力
★休日なのに老若あわせて20名もの人が駆けつけてくれた。会報とか通信の発送で黙って20名も来てくれるところはあまりないそうだ。皆さん、ありがとう。
■2月26日の報告会当日、写真展「わたしたちの宝もの」のパネル制作作業を丸山純さんの指揮で行った。これは実に大事な仕事だった。大阪から駆けつけたてきぱき作業の岸本実千代さん、落合君やたかしょー君、千晶さんは仕事を抜け出しての汗かきだった。画伯、久島、緒方の3名はゲージュツカというべき仕事ぶりで、学校から駆けつけてくれた淳子さんの手際もよかった。「誰ひとり欠けてもできなかった」と丸山君は言っていたが、ほんとうにそうだった。皆さん、ほんとうにご苦労さま! 以下、参加者リスト。(E)
◆丸山純 長野亮之介 久島弘 緒方敏明 関根皓博 加藤千晶 落合大祐 岸本実千代 杉山貴章 米満玲 車谷建太 長野淳子 江本嘉伸 三輪主彦
■奈良にいるスティーブと時に電話で話す。浜比嘉島から帰った今回は、久しぶりだったので話が弾み、「エミコさんに話す体力があったら、一度電話に出て、と伝えておいて」と言った。翌日メールがあり、久しぶりにシール・エミコさんと話ができた。
◆状態はけして楽観できるものではないが、週1回病院に通いながらじっと家にいる。エネルギーが持続しにくい状態のようだ。でも、1週間ほどお姉さんのチワワ2匹を預かった時、すごく元気になった、という。「ワンちゃん、てすごいですね。可愛くて可愛くて、一瞬子どももこんなに可愛いのかな、って思った」。ほんと、自分のわんこを持ちなさいよ、エミコさん。
◆前からモンベルの辰野氏から買いなさい、と言われていた車をつい最近買った。中古の軽自動車、すべて手動のふるいタイプらしい。「病院通いがおかげてラクになりました」
◆本来なら来る4月1日、エミコさんたちは奈良の東大寺にゴールインし、ふたりで20年続けてきた地球自転車旅を終える予定だった。それがガンの再発という厳しい事態に延期されたままだ。
◆皆が心配しているから、気分のいい時にたま声を聞かせてね、と言うと「みんなの気持ちをいっぱいもらっていることでは、ガンちゃんにお世話になってる、って思うんですよ」と言っていた。少し長く話したので多分疲れが出たと思う。しばし休んでね、エミコさん。(江本嘉伸)
半径10キロの大宇宙から
「旅先で仲良くなった人が、どんな所に生活しているのか知りたくて飛ぶんです。オレが飛べるのはせいぜい半径10kmなんだけど、空から見るとあの人はこういう世界の中で生きているのかって、友だちの頭の中の地図が見えてくるんですよ」と言うのは、エア・フォトグラファーとして活躍している多胡光純(てるよし)さん。 モーター・パラグライダーを駆使し、スチールとムービー両面で国内外の空からオリジナルな映像を発信しています。マッケンジー河(アラスカ)からスタートした“天空の旅”。この4年間は、NHKの仕事等で主に国内50ヶ所を飛びました。なかでも知床には3度通い、この3月には流氷の撮影を終えたばかり。上空での体感温度はマイナス30度にもなる苛酷なフライトでしたが、知人の漁師さん達の宇宙が見えてきました。 「オレはフォトグラファーである前に旅人でありたい!」と多胡さん。今月は気鋭の旅人に、プロとしての4年間と、これからの旅について語って頂きます。乞御期待 |
通信費(2000円)払い込みは郵便振替または報告会の受付でどうぞ
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議(手数料が120円かかります)
地平線通信352号/2009年3月18日/発行:地平線会議/制作:地平線通信制作室/編集長:江本嘉伸/レイアウト:森井祐介/イラスト:長野亮之介/編集制作スタッフ:三輪主彦 丸山純 武田力 中島菊代 大西夏奈子 関根皓博 藤原和枝 落合大祐/印刷:地平線印刷局榎町分室
地平線Webサイト http://www.chiheisen.net/
発行 地平線会議 〒160-0007 東京都新宿区荒木町3-23-303 江本嘉伸方
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