冬のある日、四万十川にいる山田高司に電話してみた。時には繋がりにくいのだが、すぐに電話に出た。「ちょうどよかったです。ここなら電話つながるから」。なんと彼は高さ10mのヒノキの木に 登って枝打ちをしているさ中だった。標高600mの山の中。山仕事は、山田の冬の大事な仕事のひとつだ。
◆地平線会議の発足当時19才、農大探検部の2年生だった山田は、思えば「地平線最年少組」とも言える存在だった。81年、アマゾン、オリノコ、ラプラタの三つの大河を航下する「南米大陸三大河川カヌー行」を仲間2人と実行。その後も中国、アフリカなど4000キロを越える大河を何本も下り、やがてチャドに住み着いて緑化活動に専念する。いつでもどこでも、困難なことも「遊びの心が大事」というのが持論で、今では故郷の四万十川で自然学校「四万十楽舎」の専務理事をしながら、子どもたち、時には学生を相手に毎月5、6回の講演をこなす。
◆「ここ10年、子どもたちがよく世界を知っていることに驚きますよ」と山田は言う。さまざまな情報が少年少女たちに広がっていて、たとえば環境問題についての知識は自分たちがガキだった時代に較べてずっと広い、という。地平線会議0才の時の一番若い仲間だった彼がいま、故郷の大地にしっかり根を張った仕事をしてることに感動する。
◆地平線会議が動き出して、30年が過ぎた。毎月、若い、新しい顔と出会えることは楽しく、この活動の裾野がゆっくりゆっくり広がりつつあることを思う。同時に、それは先鋭的なパイオニア・ワークを重視した当初の活動とは変貌してきたことの証左でもある。こういう方向を目指したわけではなかったのでは? 会議を立ち上げた初期の面々は、少なからずそう、違和感を感じているだろう。言いだしっぺの自分自身そう思うのだ。
◆ただ、長い時間かけて、こういうかたちが出来てきた、という事実は、ありのまま受け止めたい。はがき1枚だった地平線通信は今は、ページ数を増やし、毎月、北海道や沖縄の仲間にも届いている。通信をウエブサイトで読んでいる人も少なくない。ごく内輪のネットワークだったものがある程度普遍的な意味を持つメディアともなっている。それはメジャーになる、ということと少し違うと考える。本物を追いたい。その気持ちが今なお何よりも先にあるから。
◆地平線会議が探検・冒険年報『地平線から』を8冊までつくったが、初代編集長の森田靖郎が『地平線から・一八九〇』の編集後記で、「世界で初めての」とか「日本人として最初の」という形容詞をつけられない冒険者の発掘について、こう書いている。《記録とまったく無縁なところで行動をおこしている私的な冒険者たちの本物を知るには、それを、それを見る側が本物でなければ見ることができない。つまり、私たちが本物でなければ記録と無縁にいる本物の冒険者を見失ってしまう》−この文章はいまに通じるものだ。
◆先日、地平線会議をやろうと一緒に呼びかけた宮本千晴と、30年たった地平線会議について少し長い話をした。実は文章を頼もうと考えたのだが、まあまあ、と逃げられてしまい、以下のやりとりとなった。「あの当時は、今のようなゆっくりした変化が見えなかった」と宮本は言う。「皆、現役の気分が強かった。自分たちが前に切り開いてゆく、という自負があり、おごりがあった。自分たちが仕切り、若いヤツは自分たちについてくる立場、というような感じだったかな」「しかし、花の舞台にいるのはごく一時だけだよ」と、宮本は付け加える。「皆、暮らし向きのこともあり、多くの時間情けない動きをしている。志とは違う、しんどい思いをしながら生き、そっちの世界の価値観に流れてゆく人もいる」。
◆当初、私たちは活字の記録にこだわった。それを宮本は「いわば焦りだったと思う」と言う。「この活動を無駄にしたくない。何かを残したい、という気持ちが形にこだわらせた」と。そして、「一番ピンとくるものが 報告会の継続だったのでは」。地平線報告会300回を記念したフォーラムを見ての感想として宮本は、地平線会議が「継続的な『仲間』の場になったのだ」と書いている。《仲間ということば自体のいかがわしさに潔癖すぎて、「仲間という感覚の共有」の創造力の大きさや人間にとっての大事さを見逃していた》(04年12月地平線通信特集号)
◆「仲間」という言葉にいかがわしさを感じていた一人である私は、宮本と話してふっきれた気がした。本気で若い人とやっていこう。本物と本物をとらえる目をこれからも追い続けよう。静かなエネルギーをいま、あらためて感じている。30年後、かっての山田高司と同じ現在19才の君は何をしているだろうか。(江本嘉伸)
■地平線通信のNo.345(8月号)で坪井伸吾さんが書いた「見送る側」で、大学生のM君がアマゾンをイカダで川下りしたいという内容を読んだ。その記憶がまだ新しい2か月後に、M君こと宮川竜一君のアマゾンイカダ下りの報告が載っていた(通信No.347)。「あっ!あのM君、本当にアマゾンに行ってきたんだ。」となんだかワクワクしながら読む。「なになに!?サルの新一君?」私は、子ザルを旅の友にした、彼のユニークな川下り体験に興味がわいた。
◆報告会の冒頭、進行役を勤める坪井さんが宮川君から送られた1枚の絵葉書を読み始めた。「坪井さんへ。僕は、今、『アマゾン漂流日記(坪井さんの著書)』の116ページあたりにいます。毎日流木と風と戦っています...。イカダに乗って夕陽の中、食器を洗い、夢がかなえられて幸せだと感じます」という手紙の一部。宮川君がアマゾンの自然に感動している気持ちが表れていて、坪井さん曰く「アマゾンにいることを純粋に感動し、表現している内容に宮川君の素直な人柄がにじみ出ている」。
◆登場した宮川君は、最初に自身がアマゾンで撮ってきたビデオを上映した。ぶつかるとびくともしない流木との戦い。助けてくれる舟を待っている場面。そして、子ザルの新一君が顔や首にまとわりつき、舐めてくる。その愛らしいこと。私はその映像を見て思わず小声で「かわいい...」と発してしまった。映像があることで現地の雰囲気はよくわかったが、それにしても、固定カメラに話しかけるモノローグなど、まるでドキュメンタリー映画を見るようで用意周到な「発表」だ。
◆10数分間のビデオが終わり、アマゾンの旅の報告本番。2008年7月21日、成田から飛行機を3度乗り継ぎ、アマゾン川が流れるペルー・イキトスへ。そこである日本人と知り合い、イカダを組む人間を紹介してもらった。トッパという材木を頑丈な木のつるの様なもので縛ったイカダの上には1.6mの高さの居住部分。前後にドアをつけた立派なもの。後方にはトイレもある。
◆8月13日、イカダが出来上がり念願のアマゾン川単独イカダ下りを開始。憧れてきたアマゾン川だが、いざその大河を目前にすると急に怖くなり、尻込みしてしまった。目の前にある川はあまりに大きく、この先の不安や寂しさで涙がこみ上げてきたという。イカダは、1人用としては大きく、居住性はいいが操作性が悪く重かった。流木にぶつかってしまうと1人の力ではどこにも行けなくなってしまう。何時間も悪戦苦闘するが、最終的には通りがかったボート(ペケペケ)に助けられることが多かったという。民家にお世話になることもあり、川の上での一人旅とはいえ地元の人とも知り合い、辛いことばかりではなく、なかなか良い経験もしてきたようだ。
◆イカダでの川下りは、流木と座礁との戦いで、毎日のように流木にひっかかり、そして、座礁の繰り返し。そんなことが起きると自分の力ではどうしようもないことがわかり、落ち込んでしまう。精神的に不安定になり、悲しい気持ちになった。そんなときは、料理をしたりして気持ちを紛らわす。バナナをつぶして腐りかけた肉と一緒に丸めた“腐肉バナナボール”やプリンもどき!?など、奇妙な料理だ。
◆また、唯一持参した1本のカセットテープを聴いていたと言う。ビデオの画面でも流れていたその曲は、サザン・オールスターズだった。「落ち込んでしまったり辛い時でも、サザンを聴いていると旅の醍醐味を味わえる。そして今は、自分にとって旅の思い出の曲となった」と報告会が終わり二次会に行く途中に話してくれた。私の大好きな友人であり、今、癌と戦っているシール・エミコもサザンのファンであり、世代差はあるのに2人の共通点を見つけて、なんだか嬉しかった。
◆アマゾン川下りは、虫との戦いでもあった。大小さまざまなサシバエや蚊などの虫に無数に刺されて、足は化膿し始め痒みから痛みに変わり、最後には骨までジンジンと痛み出してきた。虫に刺された足は熱を持ち、半端じゃない痛みで、立つと、座ると、触ると、歩くと、とにかく何をしても痛い。動けない。会場で回覧された「アマゾン日記」には「痛い、痛い、痛い」と書きなぐってある。9月5日、川下りを途中で断念し、1500キロにわたるイカダ下りを終えた。最終的に近くの村に助けられ、病院に3日間入院することになった。助けられた村には、イカダをプレゼントし、新一君も飼ってもらうことになり、無事帰国した。
◆さて、そんなアマゾン挑戦をやってのけた大胆な宮川君、過去に繊細な一面があったことを告白した。「一点集中型」な性格という彼は大学受験を控えた高校3年生のとき、受験勉強に対してストイックになり、かつ精神的な弱さから自室で受験勉強中に頭にお茶をかけたり、ティッシュボックスに火をつけては慌てて消して我に返るなど、若干ノイローゼというか鬱気味だったという。
◆そんなある日、真夜中にパジャマ姿で外に出て走り出した。とにかくひたすらまっすぐ走った。辿り着いた公園で防寒着も着ておらず、寒さの中、「家だったら暖かい料理がある。あったかいお風呂もある。布団で寝られる」、「一歩外に出たらこんなに厳しい世界があるんだ。寂しい、寒い、腹が減っている。でも、そんな世界があることに感動した」と彼にとっては大きな発見だったという。
◆晴れて第一志望の大学に入り、1年生の夏休みに北へ向って歩いてみよう、と計画した。とにかく行けるところまで行こうと無銭での徒歩旅行だ。この旅では、コンビニの裏などに廃棄された(賞味期限切れの)お弁当などで空腹を満たしながらも旅を続け、厳しい“外の世界”を自ら体験しながら仙台まで行き、そして、仙台からはヒッチハイクをして青森の竜飛岬まで行くことができた。このことで精神的にも強くなり、また、人の温かさを感じることのできた旅になったそうだ。さらには、少しくらいカビが生えた食べ物でも大丈夫な(!?)強靭な胃腸に鍛えられたかな。
◆大学2年(2008年)の春休みには、ネパールとインドを徒歩(450km)と自転車(1000km)で旅をした。ネパールで5日間の断食修行をした時、この過酷な修行は何かしらの希望を持たないと乗り越えられず、このときに「自分にとって好きなことは何か」を(希望を持つために)あれこれ考えた。そして、その時「僕は、旅が好きだ」「川の旅がしたい!」と思いついた。
◆帰国後、早速、植村直己さんの本を読みアマゾンをイカダで川下りしたということを知り、その半月後にはアマゾン行きを決意したというから、この行動の早さに驚いた。5月には、坪井さんに連れられて地平線会議にも初めて参加した。後ろの席に座り指を銜えながら聞いていたが、まさか自分が憧れの地平線会議の報告者になろうとはそのときは思っていなかっただろう。
◆宮川君の報告会は家族、とくに母親への思いが溢れる点で、おそらく過去の地平線報告会とは異色だったのではないか、と思う。計画を考え始めた当初、家族に心配させないため「アマゾンで“船旅”をしてくる」とウソをついたが、親友から「親を裏切ってはいけない。」と忠告され、出発前日の夜、両親にイカダで川下りすることを告白した。もちろん父は激怒し母は泣いた。それでも、危ないことをしないことを約束し説得し続け、最後の最後に了解を得て日本を出発した。毎日携帯電話で連絡すること、が条件だったようだ。
◆報告会後半、再び坪井さんが登場し、まずGoogle Earthでアマゾン流域を紹介したが、興味津々の内容だった。自身がイカダ下りに挑戦した16年前の地形とまるっきり変わっていてどこが川だったか痕跡もなく、こうも変化してしまうんだぁと驚いた。さらに8月13日のイキトスエリアの気象データをもとに、宮川君が初日に遭った暴風雨をそのデータをもとに説明してくれた。気温や雨量、風速などがデータとして残っているため、「出発してすぐにスコールが入る。突風が来て、11分後には視界が10キロから500メートルと悪くなり、彼は暴風雨の中にいた。10分間で気温が9度下がり、かなり恐ろしい状態だった」など、初日に宮川君に起きた嵐の状況についてとてもわかりやすい解説だった。
◆さらには、アマゾンから携帯が通じることにビックリだったと坪井さんは言う。家族とは頻繁に連絡をとる約束だったとはいえ、通信状況の悪いエリアに行くことが多く、旅に出たら1、2週間連絡が取れないことが当たり前な地平線会議の常連組からは苦笑さえ出た。どんな場所でも携帯がつながるようになったこのご時世、どこでも携帯で連絡できると思うことのほうが“普通”の感覚になってきているのかもしれない、と私自身もびっくりした。
◆坪井さんは、川下り大会に参加したエピソードを交えてイカダについて話したが、面白かった。「イカダは、ほとんど自分でコントロールできないが、逆に言えば潔い乗り物かな。危険があっても回避できないからつっこむしか仕方ない。その覚悟で乗るしかない」と言うのだ。
◆宮川君の旅だが、断念することにはなったけれど、この旅で彼は、「大切なのは、旅を成功させることじゃない。親を大切にする事、皆を笑顔にさせることだ」と気づき、日記に記した。なんだか「格好いいこと言うな〜」と思ったけれど、実は、No.347の通信を読んだとき、19歳の男の子が旅をしたことで親に対する感謝の気持ちを素直に書いている部分に私は一番感動した。
◆最後に本人から「感謝したい3人がいます。」と言って、家族(ご両親と弟さん)を壇上へ呼び出し、ご家族の方にマイクを向け一言をお願いした。弟:「帰ってきて嬉しい!」と、いきなりだったにもかかわらず、弟君らしいコメント。父:「心配させられた。(アマゾンでは)いろいろな困難があったと思うが、本人に乗り越えていく能力があり、19歳の若さでなかなかやるな、大したことしたなと思った。息子であることを誇りに思う」母:「本当に心配だった。3日間連絡がないときがあり、坪井さんに相談もした。そして、いつでも飛べる(アマゾンへ行く)準備をしていた。彼の勇気は凄いと思うが、今後は何か社会貢献をして欲しい」さらに、「普通でいいと思った。誰でも出来ることをしてほしい。誰も出来ないことをするのではなく」と、母としての気持ちがこめられていた。
◆2008年最後の報告会は、いつもの常連さんに混じり、ご家族や多くの友人たちも来ており、予備の椅子でも間に合わないほどの盛況ぶりだった。冒険の話と共に「家族愛」を感じる、そして宮川君の友人たちの「映画作り」の場ともなった、いつもと一風変わった雰囲気の地平線報告会ではあった(藤木安子)
■地平線会議で報告をするという、かねてからの夢が叶った。旅を支えてくれた家族を始め、江本さんや坪井さん、話を聞いて下さった皆様に感謝したい。報告を終え、改めてエゴイスト冒険者ではなく、家族に心配ばかりかけずに自分の旅ができる様になりたいと思った。それは自分にとって都合の悪い情報を隠すという事ではなく、家族に心配をかけるという問題と誠実に向き合っていきたい。
◆当日は予想以上の多くの方に足を運んでいただいた。僕は皆に感謝の気持ちを述べたが、後で何故自分が「ありがとう」と言ったのかと考えてみた。それは今回の報告が自分にとって自己表現の場であったからなのだと思う。歌手が自分の思うことを詩にして歌うように、僕は旅をし、そこで見たものや感じたことを話した。そしてその歌を聴いた人がどこかでそれを口ずさむように、話を聞いて共感して下さった方が一人でもいれば、それほど嬉しい事はないのである。
◆報告会の打ち合わせの際、江本さんから一冊の本を頂いた。それは地平線会議の『地平線から』というシリーズの第8巻で発行されたのは19年前、その時僕はまだ一歳である。大変面白く2日後には殆ど読み終えた。そこにはその年の行動者の記録や、冒険者たちが各々の冒険やそれに対する気持ちを書いた文章が載せられている。今僕が旅をし冒険のことを考えているように、自分が生まれた頃も人はそれぞれの青春とロマンをもって冒険をしていたのだ。そこには、僕がほんの少し下っただけでヒーヒー言ったアマゾン川を、カヌーで遡行しようと挑戦した人もいた。また今年で30年目を迎える地平線会議だが、それが如何にして創られ、創立者たちがどのように支えてきたかが分かりとても興味深かった。
◆僕がアマゾンでの経験を話すと友人たちが「感動した」などと言ってくれる。人は、その人の内に元々あったものが、他の存在によって別の言葉や行動で表されたものを発見した時、感動するのだと思う。僕が旅に求めるものの一つもこれである。これからも旅をしていく中で沢山感動し、自分を再発見していきたい。
◆まだまだ僕には数えきれないほど沢山の、また果たすには計り知れない苦労を要するであろう夢がある。しかし夢を追い自分に挑戦し続ければ、いつの日か最高のロマンを手にすることができるのではないかと、今後の人生という旅に期待で胸を膨らませている。(宮川竜一)
■「ポルトガル語が話せる」「ペルー・コロンビア・ブラジル3国国境周辺の情報に明るい」「強盗やゲリラという単語に動揺しない」「情報をもらさない」「一人でも動ける」ほとんどCIA並の特殊任務だが、ブラジルアマゾンで音信不通となった宮川君を探すには、この条件をクリアーできる人に頼みたかった。
◆8月30日、宮川君のお母さんから電話があった。彼はご両親にはイカダ下りの事実は伏せて旅に出たはずだ。なのにその親御さんから面識のない自分に電話がくる。これはもう非常事態に違いない。覚悟を決めて受話器をとると「5日間、息子と連絡がつかない」という内容。もっと最悪の事態を想定していたので、正直ホッとした。
◆とはいえ今まで携帯でついていた連絡が途絶えているのも事実だ。咄嗟のことで返事に窮した僕は、「少し様子をみましょう」とだけしか答えられなかった。もし会話の中でお母さんが、立命館や早稲田の遭難事件に一言でも触れたら、もっと情報の提供はできた。だがまるで知らないとなると、不安でいっぱいのお母さんをさらに追い込む事実はとても話せない。ただ、心情的にはそうでもそんな情報操作をしてもいいのだろうか? もし可能性のすべてを話したらどうなる?
◆家族が事実の重みに反応し派手に動いた場合、マスコミに情報がもれ、今度は宮川家が無謀な若者の身内として世間から叩かれるな。16年前に立命館探検部の遭難騒ぎの際、彼らに情報を提供し当事者の端っこにいた身としては、二度とあんな光景は見たくない。探検部という盾がない宮川家にはもっと過酷な運命が待っているはずだ。
◆それから1日たち、2日たっても本人からの連絡はない。動きが取れないので、ともかく宮川君に起こりうる可能性をすべて書き出してみた。最悪は、FARC(コロンビア革命軍)による誘拐だった。嫌なことに3国国境周辺では、その可能性もゼロじゃない。どうする。天災か、人災か? もし遭難なら一秒でも早く動くべきだ。やはりすべてを知らせて家族に委ねるべきじゃないのか……。
◆しかし……言えないものは言えない。うわぁー、これはもう自分で動くしかない。と悩んだ末に出てきたのが冒頭の条件だった。知人でもっともこの条件に近い人。それはブラジル在住の釣りガイド、グランデ小川さんだった。小川さんは開高健氏のオーパ・シリーズにも出てくる伝説の釣師だ。祈る思いでメールすると、本人がすぐに近隣の町の市役所宛にFAXを流してくれた。その数時間後に宮川君本人から家族に電話が入り、事件は水面下で解決。ほへー、力が抜け、部屋でクラゲ状態になった。
◆さて今回の影の主役小川さんだが、宮川君のお父さんから、息子と一度会ってやってほしい、とのメールに対し「私は住所不定で、携帯もない。これからペルーアマゾンに3か月ぐらい潜伏します」という怪しげな返事を残し、密林へと消えている。(坪井伸吾)
■これがまあつひの棲處か雪五尺――ご存じ一茶のこの句には、淡い達観の背後に、深い悔悟や断念と、否応のない現実認識、その現実への肯定と微かな満足、そこはかとない残りの夢と覚悟など、さまざまな感慨が混在して秘められている。それらの思いの具体的な内容や、こうした句を詠むに至った俳人の生涯については、たとえば藤沢周平の『一茶』を読めば知りうるのだが、私が唐突にこの句を思い浮かべたのは、年末に江本嘉伸さんからかかってきた電話で、自身の30年を振り返らざるを得なかったからであった。
◆「地平線会議も今年で30年。俺の中にも、こんなはずじゃなかったという思いと、こんなものかという思い、いや、むしろ、これだったんだという思いが、それぞれにあるんだけどね……」。江本さんはそんな言い方で地平線会議の現状と来し方への感想を述べ、お前も設立メンバーの一人として、何か思うところを『地平線通信』に書け、と促した。そう言われても、最近は月々の報告会にもあまり出ず、多数を占める若い参加者たちとの接触もない身では、現状を云々する資格はもちろんのこと、ことさらに昔話をする意味もあるわけがない。ただ、江本さんが言う「こんなはずではなかった」部分が、私なりに分かるところもありそうなので、それだけを述べようかと思ったのだった。
◆これは以前にも書いたことだが、地平線会議のそもそもは、向後元彦さんらの「動アメーバ運動」や、その後の学生たちの「探検資料センター」設立の動きなどを源流や契機としつつ、まずは「日本人の創意に溢れた地球体験を、可能な限り追跡し、記録していく」ことを目的に設立された。行動のジャンルは問わないが、なにがしかパイオニアワークを追求する仲間が、他の仲間と体験の意義の認識や情報を共有し、それらの意識や情報を積み重ねることで、自らの行動の発展や深化が図れると同時に、社会へのインパクトも与えうると期待しての出発だったと記憶する。そのための具体的な展開が、一年ごとに人々の地球体験を網羅していく『地平線から』(年報)の発行と、月々の「地平線報告会」の開催だった。そして、結論的に言えば、このうちの『地平線から』が途絶えたことと、パイオニアたちの集まりといった「先鋭性」が、どこか曖昧になっていった(ような印象がある)ことが、江本さんをして頭の隅で「こんなはずでは……」と思わしめているのではないだろうか。
◆実際には、その後もさまざまな分野のパイオニアが世代を次いで続々と参加しているし、年報はなくなった代わりに、報告会ではそれら「ホンモノの行動者」たちの、以前にも増して中身の濃い話が繰り広げられているはずなのだが、もし、そんな負の印象が(他のオールドメンバーの頭にも)少しでもあるとすれば、それは私自身の弁解も含めて、この30年の己の変遷を語ることで説明がつくかもしれない。
◆紙幅がないので非常に粗雑な叙述になるが、私にはまず、先鋭的な行動者であることと、他の地道な日常業務の両立が能力的に無理だった。そのために、森田靖郎さんから『地平線から』の編集を引き継ぎながら職責をまっとうできず、その後の年報の消滅への遠因を(途中、白根全、樫田秀樹らの献身的で優秀な編集者が出たにも関わらず)作ってしまったのかもしれなかった。
◆そのころの私はといえば、ちょうどモルディブへの遺跡探査を挟んだ時期で、旅や探検の世界に戻ろうとして会社も辞めなければならない不器用さゆえではあったが、その探検も、のちにはライフワークとしたはずのスリランカの密林遺跡の探査が内戦などで途絶えがちになり、中途半端なまま年齢だけが増えていった。やがては生活のため再び多忙な会社員生活に戻ってしまって、要するにパイオニアにも、他の人々の支え役にもなりきれず、そのことが、本来行動者であり続けることで関わるはずだった地平線会議への距離を少なからず遠くしたことは否めない。私自身の「地平線会議」は、そんな己への「負の印象」を伴っていて、そこが江本さんの言う「こんなはずでは……」と素直に感応するのだ。
◆そんな私が、昨年新たにNPOの「南アジア遺跡探検調査会」を立ち上げたのは、会社員人生も残り少なくなり、見果てぬ夢は追いつつも、これから出来ることを、出来るところまで地道にやろうと思ったからではあるのだろう。そこにはもちろん悔悟や断念もあり、おれは所詮こんなものかと思い定める醒めた現実認識もあって、それでもいいから、少しでも探検家として歩み続けて、あとの仕事は、後輩たちや、これから出会う人々に任せようと本気で考えた結果でもあった。
◆「これがまあつひの棲處か雪五尺」――。さまざまな思いの中でそう詠みながら、じつはその後も多くの秀句をつくり続けた一茶を見習い、スリランカの密林や、江本さんの胸中に思いを馳せつつ、私は今もまたその句をつぶやいている。
■みなさ〜ん、あけましておめでとうございます。いよいよ「地平線会議」も大きな節目の30年目に突入しました。江本御大は「30周年だ!」と大張りきり。我々も負けずに盛り上がっていきましょう。
◆昨年のカソリの「60代編日本一周」ですが、年末の12月27日に終了。「西日本編」、「東日本編」を合わせ、80日間で1万9961キロを走りました。スズキの125ccスクーター、アドレスV125Gで走破したのですが、ノントラブルで走りきってくれました。みなさんが通勤とか通学、買い物などっで使うような小さなスクーターです。それだけに「やったね!」という気分です。
◆「西日本編」では何といっても「ちへいせん・あしびなー」の開催された沖縄・浜比嘉島が忘れられません。3日間に渡る地平線会議の拡大集会もですが、すみずみまで走りまわった浜比嘉島、浜比嘉島を拠点にしてまわった周辺の島々、そして与勝半島はとってもよかったですよ。
◆「東日本編」では道北の雪道、アイスバーンと闘ってきました。日本本土最北端の宗谷岬では猛烈な地吹雪に見舞われ、アドレスV125Gが飛ばされるというハプニングもありました。激しい勢いで雪がアスファルトを流れていくシーンはサハラ砂漠での砂嵐を思わせるものでした。
◆ツルンツルンのアイスバーンでは痛恨の転倒。それ自体はどうということのないものでしたが、ジャケットのポケットに入れた小型のデジタルで胸を強く打ち、あまりの痛さにしばらくは息もできませんでした。カメラはまったくの無傷でしたが、カソリはかなりのダメージを食らい、今だに痛みはつづいています…。アイスバーンも様々で、鏡のような顔が映るくらいのアイスバーンは「ミラーバーン」と呼ばれていることを知りました。
◆ところでカソリの「60代編日本一周」ですが、昨年の「西日本編」&「東日本編」は第1部。今年は同じくアドレスで第2部を走ります。その皮切りは「巡礼の旅」編。四国八十八ヵ所、ミニ四国の小豆島八十八ヵ所、西国三十三番、板東三十三番、秩父三十四の札所めぐりをします。つづいて「奥の細道」編、「北海道遺産」編、「島旅」編を予定しています。
◆最後の「島旅」編では伊豆諸島の三宅島、八丈島、青ヶ島、小笠原諸島をめぐったあと、再度、那覇に乗り込み、今度こそ八重山諸島をめぐります。昨年の「西日本編」では那覇から石垣島に渡り、日本最西端の与那国島や日本最南端(有人島)の波照間島などをまわるつもりにしていました。ところが、まさかの「那覇⇔石垣」のフェリー航路廃止で石垣島に渡れなかったのです。今回は貨物船でアドレスを石垣港に送る方法を考えています。那覇に着いたらもちろん浜比嘉島を再訪します。なつかしの民宿「ゆがふの郷」に泊まり、外間さん夫妻にもぜひともお会いしたいものです。
◆ぼくが初めて日本一周したのは30代になってからで、地平線会議が誕生する1年前の1978年のことでした。その日本一周が実に面白く、旅を終えたとき、「これからは定期的に日本一周をしよう!」と決心したのです。その決心どおり、「30代編日本一周」を皮切りに、10年ごとに「40代編日本一周」、「50代編日本一周」とつづけ、今回の「60代編日本一周」につづいています。その間にはさらに188島の島をめぐった「島めぐり日本一周」と3063湯の温泉をめぐった「温泉めぐり日本一周」をおこなっているので、今回の「60代編日本一周」は6度目の「日本一周」ということになります。ということでカソリの「日本一周」は地平線会議の歴史と軌跡を同じくしているのです。
◆これは偶然ではありません。30年前、地平線会議が誕生したとき、ぼくは集会(報告会)を担当しました。そのときの基本的な考え方は様々なジャンルの行動者たちの行動を多くの人たちに伝えるのと同時に、それをやる我々がより大きな刺激を受け、我々も行動し続けようというものでした。つまりは人のためではなく、自分のために集会を続けようとしたのです。ぼくがこうして6度に及ぶ「日本一周」を続けられたのも、多くの報告者の皆さんからもらったパワーのおかげだと思っています。
◆それにつけてもなつかしく思い出されるのは、地平線会議誕生のころの「ハガキ通信」です。ガリバン刷りのハガキ1枚に報告会の案内を書き、手書きの宛名カードを張って投函したのですが、出し終えるのはいつも深夜でした。あの「ハガキ通信」が今のような何ページもの「地平線通信」につながっているのかと思うと感無量です。この30年間、一度も途切れることのなかった地平線報告会&地平線通信。江本御大が胸を張って自慢するのも当然のことのように思われます。30年目の地平線会議、これを機にきっとまた、新たな地平に向かって旅立っていくことでしょう。(賀曽利隆)
■毎回の地平線通信送っていただきながらろくにお礼も申し上げず失礼を重ねております。沖縄での会合は何とも表現できない意義深い行事の連続でしたね。心より脱帽、感激しました。(鹿児島 野元甚蔵)
★『チベット潜行 1939』著者。ことし3月、92才になられる。
■あけましておめでとうございます。そして30年目突入おめでとうございます。我が家では地平線百科事典となっている『大雲海』をひっぱりだしてみました。
◆当分の間、子育て&住宅ローンレンジャーで「夢は枯野を駆け巡る」状態なので「アラ還で(あらうんど還暦)旅人アゲイン」を糧にしている私には100回目のシゲさんの報告を読み返してはほくそ笑んでいます♪
◆10年目あたりは河野兵市さん…私がちょうどバックパッカーで旅から旅へとふらふらウロついていた頃でした。たまたま河野さんの応援というか講演を聞く機会があって「焦げつく青春」が心にささったのをおぼえています。今頃、銀河系あたりをリヤカーで歩いているのでしょうか。
◆なぜかケーナを習いに行ったことがあってその時の長岡竜介先生からだったか…バイクつながりで地平線探犬部?の滝野沢優子さんからだったか…きっかけはよく覚えていませんが、私の地平線初体験は200回の東京ウィメンズプラザでした。ただただ逃げ出したくて旅暮らしをしていた私には「なんだ? この人達は?…うるとらショック!!!」って感じでした。なんか見てはいけないものを見てしまったような…パンドラの箱を開けてしまったような…。
◆その後、なんだか報告会もやらせて頂き…樫田編集長の時代に駄文も連載して頂き…(今回よくよく見たら20年目のあたりじゃありませんか! そんな節目の時にあんなアホな文章書いていたなんて…本当に申し訳ありません)…そして江本さんのフリーランス記念の集まりでは壇上でチューまでさせて頂きました(笑)。300回の時には、生後5か月の颯人を連れて行きました。
◆いろいろ書きたいことありますが、行動者たちの偉業の数々はもとより、通信の編集と発送作業、『大雲海』の制作、毎月の報告会、記念報告会や地方開催の報告会等々、いつも分担して力を合わせてコツコツ作り上げて30年間来たこと、今更ながら本当にすごいことだなと思います。あと最近思うのですが10代とオーバー60代が、ツドっているのも地平線だなぁと。
◆地球のある限り、地平線に向かう旅人でありたいなと思っています。PS.樫田さん! 清水の舞台から飛び降りる気持ちでの第2子おめでとうございます。しばらくお互い魔物はしまっておきましょう。(青木明美)
■新年快楽! 初夢はいかがでしたか? 昨年は世界情勢に翻弄された年でした。四川大地震、チベット騒乱、ネパール共和制移行などで、私のガイド活動もずいぶん影響をうけ、チベット圏には3回しか入れませんでした。9月にはカラコラムでの1か月の旅から戻ったイスラマバードで、危うくホテル爆破テロに巻き込まれるところでした。バンコク空港閉鎖時にも、カトマンズからのタイ航空をキャンセルしたり、世界は正義と建前が混沌とし、一寸先には闇が横たわっているかのようです。でも、関東と北海道で飛行船を操縦できたのは最高でした。あの浮遊感がたまらない!人生で最も楽しい瞬間でした。
◆今年は地平線30周年ですね。地平線といえば探検部。今年は間宮海峡発見200周年でもあります。幕末を迎えようとする近代日本維新への黎明期、一人のサムライが樺太の凍てつくツンドラを北上し、海峡の向こうに広がる大陸へと、遥かな想いを馳せていました。その男、間宮林蔵。欧米列強により世界地図が完成しつつある時代、「樺太は大陸か否か」という地理学上の謎に決着をつけ、シーボルトによってその名を世界に知られた日本探険史上未曾有の人です。
◆林蔵は樺太の地形を明らかにしただけでは飽き足らず、鎖国政策の幕府に打首覚悟で、海を越えて大陸の奥地まで探検しています。幕府の命というより、個人の衝動的ロマンにより、この発見は成されたといっていいでしょう。彼は日本の旅人の鑑なのです。実際、多くの旅人の目指す日本最北端宗谷岬では、サムライ間宮の銅像が旅人を迎えてくれます。その男に魅了され、4年前に凍結した間宮海峡を自転車で横断しました。零下30度で氷が割れ海に落ちるハプニングもありましたが、海峡は神秘のベールに包まれていました。
◆この海峡はカラフト犬による犬橇横断、遠泳での横断、スキー横断などが日本人に成されています。ドクトル関野吉晴さんもそうですね。今年、私は再びサハリンに戻り、まだ誰も成していない方法でこの海峡の再横断をたくらんでいるのですが、ロシア政情が封建的ソビエト時代にもどりつつあり、どうなることやら……。冒険者の前に立ちはだかる課題は、常にわからないことだらけです。ロシアは自由旅行が難しく、安東の冬季シベリア自転車横断時にも許可の問題で、軍隊に2回拘束されたほど。どっから手をつけていいのかもわからない。マニュアルがないですからね。
◆とりあえず新年はボルネオで迎えてきました。どしゃ降りの雨が降りしきる赤道直下の熱帯雨林ジャングルにも、まだ謎が秘められているようです。この地球に未だ解明されていないロマンのある限り、冒険は終わらない。今年もみなさんも、新しい発見がありますように!(安東浩正)
■あけまして、と「30周年 of Chiheisen」おめでとうございます。昔からいわれていることですが、まさに『継続は力なり』であります。地平線も偉いけれど、私の銭湯めぐりもたいしたもんです(自画自賛)。
◆さて、お江戸もようやく冬らしい寒い季節到来で、寒い日は、都電に乗って銭湯へ、ってなわけで都内唯一の路面電車、都電の沿線の銭湯へ。都電荒川線は都の西北早稲田から雑司が谷、大塚、巣鴨、飛鳥山、王子を経て三ノ輪を走るが、銭湯密集地は、荒川区町屋あたりだ。
◆まずは、熊野前駅近くの天徳湯へ。遠くから煙突も看板も見えたのに、それに休日でもないのにのれんもなく、玄関が閉まっていた。ならば次へ。商店街を抜け、尾久ゆーランド。煙突なしの重油焚き銭湯で、番台ならぬ受付はホテルのカウンター仕様。1階が男湯、女湯は3階。壁絵などなく機能重視の風呂屋。さっとすませて行った先は、やまと湯。破風づくりの建物で、玄関わきに松なんか植わっていて、中島みゆきが有線で歌っていたりして、これぞ銭湯。白樺林の壁絵を眺めながら、いい湯でした。
◆もひとつ、番台横に貼ってあった毛筆の書付。曰く、「銭湯のすすめー福澤諭吉」。『学問のすすめ』は日本人ならだれでも学校で教わるが、銭湯のすすめは、学校では教えてくれない。というわけでご紹介します。《銭湯に入る者は、士族であろうが、平民であろうが、みな等しく八文の湯銭を払い、身近に一物なく、丸裸である。また、同じ浴槽に入っているではないか。銭湯の入浴には、なんら上下の区別なし、平等であり、勝手に入って出ても自由である。》(原文のまま)。
◆帰りがけ立ち寄った本屋に、福澤先生の『背広のすすめ』(中公新書)なる本を見つけ、幅広くいろいろすすめた御仁であることを知った。(なぞの田口幸子)
■地平線会議30周年おめでとうございます。縁あり会議に参加させて頂いて10余年。北関東の県庁所在地に住んでいながら、最終バスが会議終了と同時刻で参加も儘ならず口惜しく思うこともあります。しかし、節目の伊南村大桃の舞台での報告会、300回記念フォーラム、浜比嘉島でのちへいせん・あしびなーなどでは人一倍楽しませて頂きました。
◆参加直後に「地平線の3バカ」?(特注:通常は、江本、三輪、賀曽利のことを指す)の方々とお知り合いになれ、お仲間に入れて頂いたのは私にとって幸運でした。パイオニア精神に富んだ皆様からは、様々な出会い、喜び、悲しみを分け与えて頂き、自分の可能性挑戦に対する勇気、最終的には自分を見つめ可能な限り歩みを進めることの大切さを教えていただきました。伊南村で森田靖郎さんが、少し生臭い鮭の皮の服をご披露された時には、人種、民族の多様性に驚嘆すると共に、それが魚文化、アイヌ民俗への勉強の始まりであり、鮭の皮は意外と強く硬いことを認識した良い機会でした。
◆地平線会議30年の今年、64才のウルトラランナーの私は再び、トランスヨーロッパ・フットレースに参加します。このレースは4月19日にイタリアの長靴にかかとに当たるパリ(アッピア街道の南の出発点)をスタートして北上し、オーストリア、ドイツ、スエーデン、フィンランドを経て6月21日のノルウェーの北極海に面したノールカプ岬にフィニッシュする64日間のランニングレースの国際大会です。
◆1日の走行距離は70から80キロで世界中から参加するウルトラランナーは70名です。大会期間中の宿泊はほとんどがその地の体育館で、持参のマットと寝袋で寝ます。前回、2003年のトランスヨーロッパ・フットレースにも参加しましたが、この時はユーラシア大陸を西から東に、リスボンからモスクワまで約5000キロでした。どこまで走れるかはわかりませんが、可能性への挑戦です。それではまた地平線会議でお会い致しましょう。(原健次 栃木)
■このところペンギンづくしの私&ダンナです。なので、この12月20日〜1月5日のニュージーランド(以下NZ)・レンタルバイク・ツーリングの旅でも、日程の半分の日数はペンギン・ウォッチングに費やしてました。NZ本島には、フィヨルドランド・クレステッド(日本語ではフィヨルドランド・ペンギン)、イエロー・アイド(キガシラペンギン)、リトル・ブルー(最小のコガタペンギン)、ホワイト・フリッパー(ハネジロペンギン)の4種が生息していますが、そのうち12月はちょうど子育てが終わって海に出っぱなしになってしまうフィヨルドランドを除く3種に会うことができました。
◆プライベートな保護区ではツアーに参加して見ましたが、そうではない保護区では、柵越しに時間無制限でペンギン観察ができ、ペンギン好きにはたまらない時間です。柵を隔てたすぐ向こうでヒナに餌を与えるキガシラの親ペンギンは、嘴の奥までググッとヒナに頭をつっこまれて、けなげです。
◆コガタのツアーは、日が暮れる夜9時ぐらいから11時ごろまででしたが、その後、駐車場に戻ると、その周辺にもペンギンたちがウロウロ。野生のペンギンが仕切りもない状態で間近にいるのです。ほんのちょっと手を伸ばせば届くぐらいのところを歩いていったのもいました。もちろん驚かせてはいけないので、私は不動状態です。フラッシュも禁止だし、星明かりしかないので、写真はそういう時は潔くあきらめました。
◆NZは半年単位×2回仕事をしていた国で、なつかしい国でもあります。でも、今回の訪問は15年ぶり。仕事で住んでいた南部のテ・アナウという小さな町は、新しい店や以前はなかった映画館などができて少々変わってはいましたが、雰囲気は15年前のまま。バイクで走って見る景色も変わっていません。
◆牧場づくしの風景に、ヨーロッパから帰化したルーピンやジギタリスの花々は岩山をバックとした草原に色鮮やかに生えて美しく、不思議なほど青い湖、森ではシダやコケが生い茂って瑞々しく、清流はどこまでも清らかで…。キャンプ場では早朝5時ぐらいから鳥たちのさえずりのシャワーで目覚めます。NZはやっぱり美しい国だと、改めて実感しました。今回見られなかったフィヨルドランド・ペンギンのリベンジもあるけど、またきっとNZに行きます!(節約主婦ライダー/古山もんがぁ〜里美)
■暦の巡りで冬の休みが早まり、初めて年末に屋久島へ出かけた。海に程近い川辺の宿に泊まり、翌朝窓を開けると水面がたぷたぷと豊かに揺れていた。多分満潮に近いのだろう。自然の変化が日常に溶け込む場所での暮らしと、自然を意識的に求める街での暮らしとに、しばし思いを巡らせる。
◆翌日は太忠岳(たちゅうだけ)という標高1497mの山に登った。「タッチュー」という「とんがり」を意味する沖縄の方言があるとたまたま出発前に某誌で読んだが、この山にもとんがった約40mもの「岩塔」がのっかっている。遠目から見ると親指をつきたてたように見えるその岩は、雨に浸食されて割れた断面が波打ちながら天に向かっていて、見上げる度心が大きく動かされる。
◆なまくらな生活がたたり、超スローペースで苔むした屋久杉の森や、ツガ・モミの巨木林を抜け、出発地点からするとわずか497mの標高差しかない山頂にやっとこさ辿り着いた(厳密には山頂はその岩の上なのだけど)。フラットで台座のようになっている大岩の直下で、ごろりとなって仰ぎ見る。ツララが下がるほど冷え込んでいるはずだが、冬の陽がふりそそぎ、ぽかぽかと心地よい。周囲には山々が連なり、海沿いの町がその向こうに見下ろせる。海・里・山・空、水・家・木・花・虫・動物…、さまざまな要素が頭の中でマクロになったりミクロになったりつながったり。
◆汗が引くとさすがに冷え込んできたので、上着を着込み、温かいお茶を入れてお弁当を広げる。年の瀬のせいか、振り返りモードになってゆく…。
◆2000年8月に屋久島を訪ねてから、気がつけば今年でなんと10年目を迎える。いろんなことがあったような、でも自分自身は代わり映えしないような。ちょうど地平線会議を知ったのも、屋久島に通い始めたのと同じ年だった。屋久島の扉をひとつずつ開けるのと並行して、地平線会議というもうひとつの新たな扉も開けてきたような気がする。ある意味敷居が高く、別世界のような印象を受けた地平線会議との距離が少しずつ縮まってきた感じがするのは、地平線会議自体がとどまらず変わり続けているということなのだろうか。
◆継続は力なり。されど、力をつける継続のさせ方というものがきっとあるように思える。自分が今続けているものに対して、見つめなおす時期に来ているのかもしれない。30周年を迎えている地平線会議にも学びながら、2009年は継続と変移を意識していきたい。天柱石と呼ばれる大岩の下で、そんなことを思った。(中島菊代)
■え〜〜〜、、、明けましてオメデトウございます! 地平線会議が30歳になる日、私は37歳になります。信じられません。今年は絶対に白髪染めをして若作りするぞ!!!
私のほうは、12月27日から200マイルのレースに出場し、めちゃくちゃいろいろありましたが(また犬が喧嘩しちゃったり……)何とかフィニッシュしたばかりです。気温がずっと−40度以下なうえに強風な場所があって、私の指先が真っ白く凍傷になってしまっています。たいしたことないのでそのうち治りますけど、ちょっと不便です。
今こっちは−43度で、寒すぎてトレーニングもできないし犬たちも犬小屋から出てきません。ところで今夜は大晦日なのでフェアバンクスで日本人が集まって宴会します!! そんなわけで、久しぶりにいっぱい飲む予定です。ひひひ そんなわけで、2月のレース、頑張ります。(アラスカ 本多有香)
■地平線会議、初代将軍江本様。新年、攻めましておめでとうございます。ワタクシ今年も年始から戦です。八王子城で初日の出を拝み、甲府城から富士山を眺め、武田家の菩提寺「恵林寺」を詣でたあと、信玄公を祀った「武田神社」にて今年の飛躍を祈願。風林火山を身にまとい、国宝松本城を攻め落とし、諏訪大社に戦勝報告をしたのち、上諏訪温泉で戦いの疲れを癒し、6畳一間の我が城に帰還しました!! 地平線三十周年は武者行列で祝いましょう♪ 今年もよろしくお願いします。(華の若武者・山辺剣)
■私は今でもお正月が大好きです。しかし今年のお正月は日本も世界も複雑でした。それでもひとりの町姥として、ちゃんと地元の氷川女体神社に初詣りをしました。そして7日には沖縄に向け飛び立ちます。
沖縄ですか、泳ぐんですか? いまなぜ沖縄なの? という声が聞こえてきます。実は10日から始まる「肝高の阿麻和利(きむたかのあまわり)、凱旋公演」の観劇なのです。
昨年12月、東京・中野で「ダイナミック琉球イン東京」が開催されました。主催はあまわり卒業生公演実行委員会です。10月の「ちへいせん・あしびなー」では演出家・南島詩人、平田大一氏の熱い語りと、熱演する生徒たちの組踊りに、会場は割れるような拍手と熱気に包まれました。
あまわりの感動にもっと観たい知りたい、そしてとことん本気で熱演する生徒たちが、卒業後どう歩みを進めるのか、東京の生活はどうしているのか他人事とは思いない気持になります。その卒業生たちが学校で職場で、新しい仲間も生れ、沖縄組も一致しての素晴らしい舞台でした。
自分の存在が場のエネルギーを高め、仲間の場とつながり拡がりを生み、新しいエネルギーとなって、この夜の舞台となったのでしょう。必要な事はすべて島で学んだ、という演出家平田氏の播いた種は着実に実り、観客の老若も一緒に昂揚し、肝高(志)が会場にあふれました。
「あっ」という間にあわまりの擒(とりこ)になった私は、勇壮な青年達の組踊りや平田氏の横笛に、萬の祈りの祝祭を感じていました。
マリ共和国ドゴン部落の体験です。イスラム文明から逃れるようにバンディアグラの断崖に、べったりとへばり着いて暮している人々が、広場と言えばここだけのほんとに小さい広場に集まり、死者の霊が天に昇るのを応援して踊ります。みんな目に見えないものとしっかり結びあっているのでしょう。夜を徹して踊ります。やがて気づいた時には私も輪の中で踊っていました。
古い旅の体験が、あまわり卒業生公演で目を覚ましました。
沖縄八重山群島の島々では、大海原を渡って外の世界からやってきて去る祝福の神「まれびと」を迎えて踊り明かすそうです。
復帰後も2〜3度訪沖してます。いつも私の都合のいい時間にでした。島の時間に合わせて訪れなければ、島の神々におあいすることはできないでしょう。秘祭なのですから。
よそからやってくる神との一体化が、世俗の権力や金力で薄くなった時代、歌舞音曲で伝えてきたのは芸能者でした。
日本の最果て、かつてはアメリカに占領され今も基地を取上げられている沖縄の島から、肝高の芸能が噴出しあまわりの演じる「ハワイ公演」が人々の魂を燃え上らせたのも、日本の発するチェンジ、世直しです。
私はいま、沖縄の海からの風、空気を深呼吸しながら、10日の「肝高の阿麻和利」公演のうるま市に向っています。(金井重)
■10月の「ちへいせん・あしびなー」でお世話になった比嘉小学校にヘディンの資料をお送りした。オークションで私が提供したタクラマカン砂漠の砂を競り落としてくださった下地校長に、なぜ私がタクラマカン砂漠に魅かれたのかを、わかっていただきたい、との思いからだ。図書館に子供向きのヘディンの本を探しに行き、出版元に電話したところ絶版とのことだった。それでコピーをとり、(もちろん一部です。著作権法にふれないように)お送りした。
◆また、平凡社の百科事典があったので、もしお役にたてるならとお聞きしたところ、快く小学校の図書館にいれていただけることになった。実はうちが狭くて本がはいりきらず、手放さなくてはだめだと家族にいわれていたのだが、販売した人も編集した人も知っているひとなので、困っていたのでした。
◆もう、退職したので時効だと思うが、大学入試問題の作成にも役立ってくれた大切なものでした。外間晴美さんが校長先生を紹介してくださってこんな素敵な関わりができました。校長先生は子供たちに本の内容を話してくださったとのこと。ありがたいことです。冒険や探検、広い世界の様々なことにこどもたちが興味を持つきっかけになるといいなあ。
◆私達が浜比嘉島に行けたのは、三輪夫妻が格安の飛行機や宿の手配をしてくださり、レンタカーの運転から会計係までそして、エコツアーをやっている教え子の紹介までしてくださったからでした。こんな調子で地平線のお世話を長いことしておられるんだなあとおもいました。また、長野さんはベトナムの村での音楽会でもオーガナイザーをしてくださり、すばらしい思い出になっています。なんで地平線にこんなにいい人があつまるんだ? ねえ、江本さん。(向後紀代美)
■あけましておめでとうございます。島はひっそり静かな新正月です。1月18日からTBSで日曜ドラマが始まるらしいですがそのロケを島内各地でやってます。全部浜比嘉ではなく今帰仁とかでも撮っているそうです。坂口憲二が主演のおまわりさんのドラマだそうで「本日も晴れ、異状なし」というタイトルだって。うちの前の道や吉本家や公民館の前のおうちや山根杉男さんの漁船が使われています。こないだうちの近くの空き家が突然「スナックなおみ」になっていてびっくりしました。3月までロケが同時進行であるそうです。うちのヤギも使ってくれないかなと密かに思ってますが。見覚えある風景が出たら浜比嘉を思い出してね。今年もよろしくお願いします。 (外間晴美)
★情報によると、沖縄の架空の離島・那瑠美島(なるみじま)を舞台に、この島に新しく赴任した駐在さんと島民たちのふれあいを描くヒューマンドラマのようですね。浜比嘉島は、ふるい文化を残す島だから撮影にはよく使われるようです。(E)
■「ちへいせん・あしびなー」の余韻は今なお続いている。オークションでは原健次さん出品のロシヤの隕石を手に入れ、モンゴルから駆けつけた山本千夏さんからは、現地の鷹匠手作りのイヌワシ用のフードと足皮をプレゼントされ、また慶良間の海で採集した大きなスイジガイとクモガイ。さらには「あなたの破天荒ぶりは地平線の中でも際立っています」という手紙と共に自宅に届いた藤原和枝さんからのアマゾンの巨大魚ピラルクのウロコ。これらの地球や宇宙からの珍しい品々に囲まれていると自分がまるでいきなり物持ちのお大尽にでもなった気分だぜ。当分の間はこれらの品々をながめて幸せな時間をすごすことができるだろう。
◆そしてそれにも負けないほどの楽しみが11月号の32ページにもわたる『ちへいせいあしびなー特集号』だ。参加者やスタッフの実に様々な感想を読むと、あの沖縄での楽しい思い出が鮮やかに蘇る。これまでは通信を読んでいても「こんな凄い体験をしてきたのはどんな野郎だ」「こんなユニークで面白い文章をものにするのはどんな女だ」と名前で推し量ることしかできなかったが、これからは沖縄で出会った地平線の面々の顔を思い浮かべながら読むことができ、今後ますます読む楽しみがふえそうだ。フロントページから最後の編集スタッフに至るまで余すことなく目を通し、面白い文章は何度も読み返している私は、間違いなく愛読者ベストテンにはいるのではないだろうか。「うまいヘタではなく、本当の文章を書いてほしい」という江本さんの言葉に励まされて、私も恥ずかしげもなく駄文を寄稿しているが、私に筆を運ばせるものは背後にある多くの生き物、大きな自然の力なのだろう。
◆こんな大いなる野生へと私を導いてくれた一冊の本がある。『デルスウ・ウザーラ』(アルセーニエフ著)である。シベリアの猟師だったデルスウは人生のほとんどを森の中ですごし、トラやノロジカ、クロテンなどあるゆる動物の動きを熟知し、森に生きる全ての知恵や技術を身につけていた。しかし、やがて年老い、目も体も不自由になり、獲物をとることさえ満足にできなくなった。友人であるアルセーニエフが町の中に快適に暮らせる家を用意してやるが、町には住めないと安全で安穏な暮らしを捨てて森の中に帰っていく。そして最後には森の中で匪賊に殺されてしまうのだが、この鮮烈な生き方に全身が身ぶるいする。森の中でしか生きられなかったデルスウ。滅びへの道を、かくも鮮やかに指し示してくれたデルスウは、私の内に永遠に生きている。(松原英俊)
■10月末、浜比嘉島で行ったちへいせん・あしびなーに参加してくれた比嘉小学校の児童から地平線会議と講演した山田高司さんに宛てて、手紙が届いた。小さな学校からの大きな便り。お二人の文章を紹介します。これらの内容はすべて「ちへいせん・あしびなー」報告書に収録させてもらうつもりです。比嘉小の皆さん、ありがとうございました。(E)
10月26日(日)に、シルミチュー公園でたくさんの人のまえで、パーランクーをおどりました。うんどう会の時と、同じくらいの人数がいました。きんちょうしたけど、おどりおわってきんちょうがとけました。みんなからはくしゅがもらえたので、とてもうれしかったです。そしてつぎの日に体育館で山田さんのお話をききました。地球がだんだんよごれてきてるということや、ごうとうにおそわれて、パンツいっちょになったこととかがとてもいんしょうにのこっています。カヌーでたびをしながら、地球のことをしらべているので、すごいなあーとおもいました。
ひが小学校4年 池原 流星
10月27日、たいいくかんで、たのしいおはなしをきかせてくれてありがとうございました。
ブラジルのおともだちは、くつを一そくしかもっていないからかわいそうだとおもったよ。雨がふってくつがぬれたら、はくのがないからです。またおはなしをきかせてくださいね。
ひが小1ねん1くみ ひがりょう
■読売新聞の記者江本嘉伸さんから、電話がかかってきた。1979年、大学二年の夏休みがせまっていた。面白い集まりがあるので来いと言う。関東のおもだった大学探検部のチーフリーダーに声をかけているらしい。我が東京農大探検部は三年生がチーフリーダーをやる慣例だったが、三年生がいなくて、二年の私がチーフリーダーだった。きっかけは、前年の関東学生探検会議。これを江本さんが取材して、世界の隅々まで出かけだした日本の旅人の記録を残していこうというのが趣旨らしい。あの頃から、江本さんの声はソフトだけれど内容は強引な命令調を帯びていた。そして、まだマラソンは始めてなく、パイプで紫煙をくゆらせ、目の奥には憂いがひそみ、今程輝いてなかった。
◆よう分からんが、行かにゃ、なるまい。行ってみると案の定、僕は一番の若造で、小さくなって黙って聞いていた。何しろ土佐の辺境から上京して1年半、まだ標準語がしゃべれなかった。大学探検部、山岳部のOBで、まっとうな就職をせず、放浪者に近い辺境研究者、辺境志向のライター、カメラマン、テレビディレクター、AD等々、マスコミの隅っこで仕事している、食えないプロの卵たちが集まった。
◆もちろんバリバリのプロフェッショナルもいた。その多くは民俗学者宮本常一さんを慕って、日本観光文化研究所にたむろしている人たち。その世話役的存在で息子の宮本千晴‘あむかす’編集長と若衆頭的存在の向後元彦(農大探検部)先輩もいた。噂に聞く、日本の探検冒険界では名の知れた人が多く、まばゆいばかりで百花斉放に花開く観があった。向後さんは、じゃあまた皆でビンソンマッシフ登山でもやるかと、南極の未踏だった最高峰を目指した頃の話を始め、次々と趣旨と関係ないアイデアを出す。千晴さんが、阿吽の呼吸で、的を得たような、得ないような相槌を打つ。
◆二人の話はまるで禅問答。真面目な早大探検部OBの伊藤幸司さんがぎょろ目を回しながら、それを真剣にメモに取る。同じく早大OBの戦場ジャーナリスト恵谷治さんが、トレードマークのレイバンのサングラスをしたまま、通りを歩けば、人はよけて通る強面で、当時通っていたポリサリオ解放戦線の話を始める。バイク冒険王、賀曽利隆さんが、地球印のニコニコマークみたいな笑みで、バイクで走ったアフリカの話で受ける。皆つりこまれる。
◆関学探検部OB森田靖郎さんや法大探検部OB岡村隆さんが、業界用語に専門用語、はたまた、はやりのカタカナ語まじりで、いかにも知的な話をする。チンプンカンプン。こんな調子でそれぞれ自分勝手に自分のことばかり話している。忍耐強くか、あきらめてか、しかめ面の江本さんと、都立大山岳部OBで都立高校理科教師の三輪さんが、その柔和な笑みで、趣旨を話してまとめようとする。
◆どんなことをやるのか、名称はどうするかで、また、分かったような、分からんような、わけ分からんことを言う百家争鳴状態。あちこちで、話は飛び火し、ばらばらに話が盛り上がる。まとまらない話し合いは、枝葉の話がまた枝葉を呼んで、地を這う植物のようで上に伸びていかない。海のものとも山のものともつかない会は、その後も回を重ね、8月には、地平線会議と名前がつき、月一回の体験者報告会をし、通信を出すことになった。
◆その頃、私は探検部仲間と日本最大の激流、 黒部川を下っていた。2年後の南米三大河川カヌー航行に備えて、激流練習の集大成だった。その年の秋には、第一回目の報告者として三輪主彦さんが、トルコの登山と暮らしの話をした。講演料はなく、講演させてやるのだからと、一万円の寄附を取られたそうだ。あの制度は今でも続いているのだろうか? 少なくとも、月一回の講演会と通信は、一度も欠かさず今日まで、30年続いている。驚異的持続力。懲りない地球体験者は、あとを絶たないということ。
◆長く続いてきた理由を考えてみた。もちろん、煙草をやめてマラソンを走ってきた以上に続く江本さん(終身代表世話人)の驚異的持続力と年とともに増す包容力に拠るところが大きいが、続き広がるコツは、最初の会で露呈していた、自分勝手が基本だからだろう。 真の自分勝手者は、相手の自分勝手を尊重する。地平線に集う人たちは、収入はともかく個人事業主が多く、基本的にアウトローだ。信頼はするが依存はしない。大体、講演者から講演やらせ代を脅し取るなんて、ヤクザみたいだ。
◆敬意を評して言うのだが、アウトロー地球やくざ集団のようなものだ。または、国境なき遊び人団。京大の人類学とサル学の祖、故今西錦司氏のファミリーのように、「結束は鉄より固く、人情は紙より薄い」。地平線ファミリーが、植村直己冒険賞の常連なのは、このあたりが秘訣。30年たち、浜比嘉島で、多くの若いメンバーに会い、ずいぶんハードルが低く広くなったと感じた。もちろんいい意味で。これからも森川海雲の水のめぐりのように、続き、広がり、繋がり、流れていくには、ここが鍵だろうな。(四万十住人 山田高司)
■明けましておめでとうございます。昨年は春と秋に二つの生命がやって参りました。男児ばかり5人の孫を相手に猫の手暮らし、年頭の計画は全て順延になってしまいました。今夏改めて地中海まで、欧州縦断を目指します。(鎌倉 吉岡嶺二 シーカヤッカー)
■あけましておめでとうございます。最近、通信にちょくちょく顔を出させていただいている香川大学のうめです! 只今私は大阪の実家よりメールを送らせていただいております。年末に世界的な大波乱があり、そのまま新年に突入しましたね!! 大波乱の幕開けとなりましたが、気は持ちようで、自分をしっかり持っていればなんとかなる……保証はありませんが、地平線通信を読むたびに、自分をしっかり持つことで人生豊かに過ごせると思う今日この頃です。
◆今年で地平線会議創立30周年ということですが、私が地平線会議と出会ってからわずか2年、まだまだこの組織(?)の全貌が見えず、地平線会議の奥深さを感じています。特にえも〜ん、四万十川で流れている私たち(くえ=水口郁枝・うめ)を拾ってくださって、色々な学びの場の提供や、相談にものっていただけました。その中で、自分のすることに自信を持ってすることの大切さを教えていただきました。
◆通信を読んでいても、中には不安な面があるととしても、みなさん自分の進む道を切り開こうと、まっすぐな気持ちが伝わってきます。通信を読むと、必ず自分を感化させる物があって、自分も頑張るエネルギーがもらえます。
◆通信は、えも〜んを始め、地平線会議を引っ張って下さっている方々がこのエネルギーを紙に集約し、それを発信している。中々集約するなんて出来ることではないと思います。これは「不定形文化遺産」に値するのではないでしょうか!? 魅力のある心を持っている人たちには自ずと人が集まってくるのでしょうね。しかもその人達もまた魅力的で!!
◆浜比嘉島での出張地平線会議のことでも感じたことですが、人と人は繋がりとは、とっても不思議でそして大切で、いかに広げたり、深くしたりするかが、人生を豊かにするキーなのだと思いました。こんな素敵な人々と出会えた地平線会議に感謝です。合縁奇縁の繋がりで、これからも地平線会議の仲間でいられ続けたら光栄です。まだまだ未熟な私ですが、今年もなにとぞ、よろしくお願いいたします。
◆ P.S えも〜ん、実は、大学院で、留学することを考えています。今奨学金の申請を出しているところなので、必ず行ける保証はありませんが、奨学金をとって海外進出を目指します!!また決まったら報告しますね! それでは、今年もよろしくお願いいたします。(うめ、こと山畑梓 香川大学4年)
■昨年は、お手紙・本を頂きまして本当にありがとうございました。これから、力強く生きて行きます。そのためにも地平線の皆様の御健康をおいのりします。(下関 河野典子)
■たかしょーこと杉山です。遅ればせながら、明けましておめでとうございます。年末は"野宿野郎杯"と称して三島から掛川までの110キロを徹夜で歩き通し、治りかけていた捻挫をまた悪化させてしまいました。おかげで正月はどこにも出かけず、実家でのんびり過ごすことができました。24時間歩き通したお台場チャリティーの体験からも走るよりもひたすら歩く方が性に合っているのかもと感じている今日この頃です。本分である夏のねぶた祭に万全の体勢で挑むためにも、今年こそきっちり足のケアをしたいと思います。すでに思うだけになりそうな気配もありますが。昨年のあしびなーに続き、今年は地平線会議30周年記念ということで今から楽しみにしています。どうぞ今年もよろしくお願い致します。(杉山貴章)
■ガザのホロコーストで年が明けた2009年。敢えて「めでたい!」と言いたくなりますな。シオニストがとかイスラム原理主義者が、という前に「愚かな人類」と言うべしとは思っていましたが、この愚かな暴走はどこに向かうのでしょうか。思えば30年前、地平線会議がスタートした1979年は、ソ連軍のアフガニスタン侵攻という、今日に至るまで続く壮絶な混迷が始まった年でもありました。30年という歳月が流れても、愚かな人類はいまだ何一つ歴史に学ぶことなく殺戮を繰り返し、惨状と憎悪の連鎖だけを増殖させてきたようにも見えます。そんな現状に絶望するのは簡単ですし、その最先端がテロに走るのはもっとも実際的な反応かもしれません。が、もし愚かさに対抗し得るものがあるとすれば、それは「知性」ではないでしょうか。
◆「探検とは知的情熱の肉体的表現」というチェリー・ガラードの言葉は、地平線の大先達である向後元彦氏からよく聞かされた至言ですが、この場合まず前提になっているのは知的であること、でしょう。情熱はスポーツだろうがギャンブルだろうが恋愛だろうが、誰しもが持ち得るものであり、いくつになっても燃え得る対象です。知的情熱という場合、要求されるのはそれを裏付ける知性であり、行動を担保する教養でしょう。
◆てなわけで、今年のテーマは知的レベルアップを図ること。昨年は合計5か月近くペルーに長居して、前5000年紀の形成期神殿遺構の調査に関わってきました。写真撮影など記録だけではなく、環境や技術を意識したその成立過程の検討が課題の一つです。同時に、構造主義の原点に立ち戻り、100歳を超えた知の巨人レヴィ・ストロースに再アプローチすること。さらには、スペイン内戦とその後のフランコ独裁時代のスペイン社会の再検討もあります。
◆スペインでは内戦の真っ只中、フランコ将軍が最初に成立させた立法議案のひとつがカーニバルの非合法化でした。1937年2月3日に国民戦線が発布した軍命令により、スペインではカーニバルの開催は30年間に渡り公的に禁止されてきました。ファシストの独裁者は何を恐れて祝祭を封じたのか、祝祭の本質が見え隠れしている史的状況の考察はカーニバル評論家に課せられた使命でもあります。グローバリズム経済の崩壊と政治の停滞は1930年代を彷彿させるものでもあり、気分は癒し系ファシズムへと向かいつつあるこの大状況を読み解くのにも、スペイン内戦は面白いテーマになりそうな予感があります。
◆いずれにせよ、もっとも避けるべきは思考停止でしょう。年末のアマゾン少年の報告会には絶句しました。アマゾンを未開の原始境と位置づけたのは、ルーズベルト大統領時代の米国の対ラテンアメリカ政策によるものであり、近年のアマゾン流域における最大の懸案事項は、源流域での砂金の過剰採掘による水銀汚染です。水俣の20年分をわずか1年で不法投棄している状況に、初々しいパフォーマー少年は何と答えるのでしょうか。昔も今も、出来る側と出来ない側、出かけて行く側と出かけられる側の関係性は変わっていません。30周年を迎える地平線会議は、さらなる過激な行動と知的な刺激がせめぎ合うオープンな場を提供していって欲しいものです。(ZZZ-全 白根全)
■この原稿を会津の小屋で書いている。昨年末28日まで三日間続いた猛吹雪で一気に1m以上積もった。晦日から一人でやってきて雪かきと屋根の雪下ろし。深々と積もる雪を見、ジャズを聞きながら静かに年を越して珍しく原稿書きなんかしているもんだから妄想の世界に引きずり込まれそのまま眠って元旦早々風邪を引いてしまった。
◆昭和54年4月6日発行の『アサヒグラフ』を引っ張り出して持ってきた。この号に“未知への挑戦:全国七大学探検部の調査レポート”が掲載されている。ぶら下がり健康機なんかの広告が載っているんだから時代を感じさせるなあ。
◆北大のインドビルホール族調査・法政浅野哲哉君のインドの食文化調査・同じく法政のスリランカ遺跡調査・慶応のモルディブ民族調査・早稲田のタイ民族調査・千葉大のパプアニューギニア民族調査・京都外大のガンジス川流域調査行に混じってカナダマッケンジー川の私の旅もこのアサヒグラフに載っている。他校と違って一人体育会系だな。
◆当時からどこの大学探検部でも活動の基礎技術として川下りをやっていた。マッケンジー川は、日本でやっている川下りの延長のつもりだった。母校(注:獨協大学)の探検部は自分が入学したときには既に廃部になっていた。新設校なのに数年も続かなかったということだ(この伝統は改めて作った探検部も受け継ぎ、自分が卒業した後すぐ廃部になったそうだ)。
◆丁度、連絡を取り合っていた関東学生探検会議(確かそのような名前と記憶する)は関西学生探検会議と合同で全国学生探検会議というイベントを企画していた。1978年の活動報告を全国規模で行うという。帰国した私は皆の熱気に浮かされてなんだか知らないうちにそのイベントで発表する機会をもらった。イベントが終了し打ち上げの席で今まで見たことのないおじさんたちが気炎を上げていた。知っている人は、私の旅の日記を読んでくれたE本御大のみ、一見只者ではない大人たちの気炎に圧倒されてしまったが、地平線会議の発足には全く関っていない。
◆親の仕事を手伝うためすぐに会社勤めをしたが、趣味で川下りは続けていた。川の師匠と時間を見つけては日本中の川を下っていたが、そんなとき地平線会議の案内をいただいた。どうも1回でもこの病気にかかると抜け出せなくなるらしい、社会人3年目にしてまたマッケンジーに舞い戻ってしまった。1983年には新婚旅行にかこつけてまたマッケンジーに行った。そんな自分をいつも傍から見てくれているのがE本氏であり地平線会議だった。先の新婚旅行後も夫婦そろって報告させていただいた。
◆3年前だった。母校の後輩でマッケンジーのヘアーインディアンの部落を中心に活動している田中勝之君の報告を聞きに行った。立て続けに彼の後輩、多胡光純君の空から見たマッケンジーも聞きに行った。探検部の後輩といえないのは前述した通り、改めて探検部を立ち上げてしっかり活動しているらしい。同じ川を同じ大学の人間が線・点・空と違った視点で見てるなんて素敵じゃないか。次はどんな視点が現れてくるんだろう。
◆2回目のマッケンジーを下る前のことだ。行きつけのカヌーショップのオーナーから、ユーコン川を目指して活動している北大生が来る、と聞いた。彼らとはユーコンフラットで会えるだろうと村はずれの土手にキャンプを張って情報を待っていたが、筏くだりの彼らは迷路状になっているユーコンフラットの村から遠く離れた水路を流され、会えなかった。彼らの1人がおなじみ長野亮之介画伯で、帰国後地平線会議で初めて会った。
◆カヤックで日本一周の吉岡嶺二氏とは師匠主催のツーリングで会った。まだ30代だったがバリバリのエリート社員だった氏は手軽に地元で遊べるスポーツとしてカヤックを選んだ。確か「網代初島経由伊東」のカヤックツーリングで初めて会ったと記憶する。そしてその場に法政のインド食文化を発表した浅野君もいたのだった。吉岡氏は、社会人の休日を利用して地元の腰越海岸から尺取虫方式で定年までかけて日本一周を果たし、今は海外まで足を伸ばして着実に夢を現実に変えている。
◆社会人になっても自分のスタイルを確立すれば探検とまでは言わないまでも新鮮な視点で活動できるのだ。これからも新鮮な視点を皆に届けてください。今年も刺激をもらいにお伺いします。(河村安彦)
■みなさん、あけましておめでとうございます。2009年は、私にとって初めての本の発売とともに始まる、嬉しい新年の幕開けとなりました。江本さんからの情報でご存じの方も多いかと思いますが、 『ウィ・ラ・モラ オオカミ犬ウルフィーとの旅路』(偕成社)です。
◆2004年カナダの旅を終えてすぐに参加させていただいた300回記念大集会からちょうど4年、同じ年月を経て、旅日記として綴っていた文章がようやく本という形になりました。その間、ウルフィーとラフカイには2回の出産で7匹の子供が生まれ、昨秋にはそのうちの1匹が8匹の子犬を産んで、ウルフィーたちはジジババになり、私たちもとうとう曾じいさん曾ばあさんになってしまいました。もうびっくりですね。子犬たちはみんな本当にかわいくて、そしてこうしてどんどん犬家族の縁が広がっていくのも嬉しいなあと思います。
◆石川直樹くんが紹介してくれた編集者と本作りに関わった2年間、私はヨーロッパにある学校に入学して半分学生になり、八ヶ岳に引っ越してかつさん(注:田中勝之 千恵さんのご亭主)とふたりで炭を使った新しい仕事を始めました。変化はいつも思ってもみないようなチャレンジを運んでくるので、この2年私は本当によく泣きました。そしてそれ以上に笑って、たくさんの喜びを感じることができた日々でもありました。カナダの旅の物語を大切に思い本にしたいと願ってくれた編集者、デザイナーさん、最大の理解者でありサポーターでもあるかつさんと一緒に本を創り上げることができたことに、今は感謝の気持ちでいっぱいです。2009年、ウィ・ラ・モラとともに、今歩いている道をじっくり丁寧に進んでいきたいと願う、新たな一年です。(八ヶ岳山麓より 田中千恵)
■08年は、2月に試みた冬期サバイバル登山、6月に800メートル競走で2分6秒、8月の南アルプス全山サバイバル縦断、10月に400メートルで54秒、そして、11月はちくま新書『サバイバル!』という年でした。なんとも平和です。岳人6月号の黒部奥山廻りの記事も、自信を持って世に送り出したのですが、売れ行きには貢献せず。09年は40歳になりますが、惑っています。
◆「30周年最初の報告者だから」とおだてられ、1月23日の金曜日に地平線会議で話す予定です。上記の件だけを報告してもいいのですが、地平線の皆さんを信じて、建前なしで自分の表現行為が登りなのか日本語なのか、情けない自分から目をそむけず、本気の告白をしてみようかと思っています。本来、表現行為とはその行為そのもので完結するべきじゃないんですかね? 登山や冒険を文字表現に還元したり、報告したりってなんですか? 自己顕示欲のひと言では完結しません。一緒に考えてみませんか? もちろん、夏冬の新しい登山報告と、狩猟の成果なども交えて進めるつもりです。(服部文祥)
■70年代後半、関東のいくつかの大学探検部が、自分たちの活動の拠点になるような共同の「場」を作れないか、との想いから「探検情報センター設立準備委員会」なる名称のもと、定期的な会合を持っていた。
◆こういう長ったらしいネーミングは、学生運動の残り火がまだくすぶっていた時代のセンスである。会合の場を提供してくれていた法政大学も、極太の朱色文字で殴り書きされた左翼アピール文の垂れ幕やポスターや立看板で校舎の壁は埋め尽くされ、時にはハンドマイクのシュプレヒコールがとどろき、校内にはどろどろした熱気がわだかまっていた。
◆私たちは活動のひとくぎりとして78年12月に「全国学生探検報告会」を企画した。その準備過程で江本さんにも出会い、そこに集まってくれた人を中心に翌年には地平線会議発足、という流れになるのだが、私自身はその流れにはほとんど関わっていない。報告会の直前、冬合宿の下見に出かけていた探検部の仲間と後輩が南アルプスの峡谷に車ごと転落。ひとりが首の骨を折るという重症を負い、主将だった私は事故処理や見舞いにあれこれ走りまわらねばならなかった。
◆すぐに年が明けて卒業試験。出席日数も試験準備も不足の科目がいくつも残っており、このままでは留年決定だ。さすがに暗澹たる思いで大学へ行くと正門が閉まっている。学生運動のあおりで試験は中止、すべてレポート提出に変更になったとの張り紙。これでまんまと卒業できてしまった。
◆卒業はできたものの、就職活動とは無縁で、測量助手、運送屋、英会話教材販売、建築現場など手当たり次第に働いては旅の資金稼ぎの日々がつづいた。しかし四畳半一間とはいえ、東京に住んでいるとお金はずるずると生活費に消えてゆく。なかなか旅に出る資金が貯まらず、いらいらと歯ぎしりするような日々を送っていた。学生時代、徹夜の地下鉄工事が一日わずか5,500円。おまけに1米ドルが250円以上もした。旅の資金を得るには現在の数倍の努力が必要だった。
◆旅に命は賭けないまでも、旅する人は、みな多かれ少なかれ人生の一部を賭けていたのではないだろうか。地平線会議でも心を打つのはその人の生き方そのものだ(最近の私でいえば鷹匠の松原英俊さん、犬ぞりの本多有香さんなど)。探検部員や地平線会議の、探検的活動の記録を残したいという欲求も、記録の背後に人の生き方が強く投影されているからだ(たんなる旅日記的な記録なんか読みたくない)。
◆さて、なんとか旅の資金もでき、卒業の翌年、80年1月にネパールとインドに出かけたら、カルカッタで法政大学探検部の大場由隆君にばったり会った。大場君はインド洋のラッカディブ諸島への入域を目的に一年間休学してインドにやってきたのだ。おまけに旅先にまで地平線会議設立の趣意書やパンフレットを持ち歩いていた。
◆酒を飲んで騒いでいただけの私たち学生レベルの活動が、江本さんを中心にした一般社会のレベルでの活動につながったことに感動した。すぐにでも参加したかったが、インドから帰国したのが4月で、5月から8月までは北海道をトラックでまわって竿竹の行商。これで資金を稼ぎ、9月からは南米に出かけてしまった。ようやく地平線活動に関われるようになったのは、南米から帰った翌年3月以後のことだ。それにしてもインドにまで地平線会議を広めようとした大場君はえらい。岡村さんもいい後輩を持ってますね。(渡辺久樹)
■あけましておめでとうございます。 正月に久しぶりに姪(1才2か月)に会ったら、ふらつきながらもすっくと自分の足で立って歩く姿に驚かされました。昨年の正月には、ただ転がっている物体のような赤ん坊だったのに、すっかり人間らしくなっていて、子供の成長って早い! とすっかり目尻が下がりっぱなしの叔母(29才5か月)です。
◆昨年は、会社を辞め、結婚し、引越し…と、大きな決断があった一年でした。最近思うのですが、人生はほとんどハプニングで形作られているみたいです。思いもしなかった出会いや心境の変化によって、数年ごとに未来予想図に修正が加わっていきます。私の場合、心配性で何かと先行きを考えてしまうわりに、出会いがしらに別の列車に飛び移ってしまうようなところがあって、ときどき思いもしなかった場所に行き着いてしまったのではないかと我ながらびっくりしています。
◆会社を辞めてよかったことは、「このまま会社にいていいんだろうか」と悩まなくて済むようになったことです。この先はできる仕事を、心を込めて、ひたすらにやるだけです。また、結婚してよかったことは、「私は果たして結婚するのだろうか」と考える必要がなくなったことです(笑)。どうやって仕事と両立できるだろうかなどと皮算用することもありません。楽になりました。あとはその時々でうまくバランスをとりながら家族と自分の両方を大事にしていくだけです。
◆仕事に始まって仕事に終るような毎日からドロップ・アウトして、この数か月、「暮らすこと」「食べること」「生きること」と、やっときちんと向き合えたような気がしています。それから、「新聞記事」ならばいくらでもすらすらと口をついて出てくるのに、「自分の言葉」をほとんど失いかけていた自分とも。
◆地平線会議は今年で30周年ですね。ということは、地平線より2日だけ早く生まれた私も夏には三十路(!!)になるのですが、この30年間に降り積もらせたたくさんの落ち葉をしっかりと足元に固めて、そろそろそこにすっくと立ち上がりたいものです。今年も記事を書きます。とりわけ、地方が疲弊していると言われる今だからこそ、地方のキラキラした部分をしっかり発信していけたらと思っています。(大分 菊地由美子)
★而立(じりつ) 30才のこと。
■江本さん 明けましておめでとうございます。私は2008年の反省もしていなければ、2009年に向けての目標なんかも全く考えていないうちに年が明けて数日が経過していることにすでに言い様のない危機を感じながらこうしてパソコンの前にいます。時はのんびり屋を待ってなんかくれませんね、当然ですが……。
◆私と同じ年くらいの我が○○荘(江本さんに家賃のことを言ったらすごく喜ばれた、あのアパートです)。日陰だしすきま風吹くしでとても寒いです。寝袋で寝ています。屋外で寒いのは納得できるのですが、なぜ屋内がこうも寒いのか、疑問です。そんなことはいいとしまして、2009年…連日報道されているように、時代は百年に一度の不況なんて言われていて、私のような一就活生には非常に辛い時期なのかも分かりません。でもマイナビやらの就活サイトでは求人が何万件……でもないけど、やっぱり求人はあるんですよね。
◆私は先延ばしにしたのか、より辛い道を選んだのか、まあたぶん前者なんですが、今回は(も)年齢のハンデもありますし、しっかりと自分の足で就活し、たくさんの人の話を聞こうと思っています。恋焦がれるような会社や仕事と出会えればいいなあと思っていますが、地平線の方々のように、冒険で喰っていけている人々の前ではなんだか就活している自分が情けない、というか敗北感に似たものを感じるのも事実です。でも宮原さん(注:20008年7月の報告者)も一度は社会に出たし、今あせる必要はないのだ……と願いたい。
◆先月の報告者の宮川君、私は彼と年も近いし、私自身春まで放浪の旅をしていたこともあり、ものすごく共感できる部分がありました。辛いけど、やめたいんだけれど旅を続けることの意味とか、結局続けていることの不思議さ、私も考えました。すごく楽しそうだったこと、家族を思う気持ちを素直に言えること、なんかもうすでに結構うらやましかったです。2009年は地平線30周年の年ですね。がんばって、みなさんにへばり付いていきたいと思います。今年もよろしくお願いします。(橋本恵)
■江本さん、地平線会議30周年おめでとうございます! 地平線会議が産声をあげた時、私は小学4年生で、ちょうど自立心が芽生えた頃。あの頃から世界を舞台に活躍していた行動者たちがいたということもさることながら、それから毎月欠かさず報告会を開き、この通信を発行してきたという事実に、あらためて驚かされます。
◆ここ湘南でも、たった3人のママたちの思いが多くのボランティアを動かし、LOHASをテーマとした大がかりなイベントを継続して開催している例があるのですが、きっと地平線会議も、江本さんを中心としたごく少数のメンバーの献身によって長年支えられてきたのだと思います。自分が行動していた時以上に、育児のためにローカルでしか動けない今の方が、その存在の大きさが身にしみて感じられます。
◆ところで、昨年8月に第2子を授かったばかりで、あいかわらず自分の時間はないに等しいのですが、初めて江本さんたちみたいに「走ってみたいな」と思うようになりました。きっかけは、村上春樹氏の「走ることについて語るときに僕の語ること」を興味深く読んだこともあるのですが、一昨年子供と鎌倉の山を歩いたときに「鎌倉アルプストレイルラン大会」という道標を見かけたこと。後で思い出してネットで検索したところ、ちょうど2月の大会に向けて募集されているのを発見。産後のたるみきった体をしぼるにはうってつけと思い、さっそくエントリー。その直後に定員に達するという、まるで走ることが運命のような展開に、週末夫の協力を仰いで、ぼちぼちトレーニングを始めています。
◆暮れにとうとう不惑の大台に乗り、身体的な衰えへの焦りもあります。産後一気に増えた大量の抜け毛と白髪&歯茎の後退にショックを隠せない日々。でもなにより40になって変わったなあと思うのは、長生きをしたいと痛切に思うようになったことです。昨年2月に母を看取ったおかげで、ヒマラヤでごろごろ転がっている死体を見ていた頃より、ずっと死を身近なものとして感じるようになりました。産褥期に実母がいないというのは、想像以上に大変なことだったので、生まれたばかりの娘が将来出産する時になんとしてもサポートしてあげたい。そう考えると、子供に命拾いさせてもらっているようなものです。その子供たちにもいつか地平線会議を知ってもらいたいので、江本さん30年で満足しないで、もっともっと長く続けてくださいね!(大久保由美子 「今日も鎌倉アルプスを20km走って来ました。走るにはいい季節ですね!」と付記して。)
■年の暮れで失業し、宿舎もおわれて途方にくれる人たちを新聞やテレビが報道している最中、私は都内某所で地平線会議のおじさんたちと餅つきをしていた。といっても餅をついているのはKAI宝さんと若者たちで、おじさんは口を出すだけで手足は動いていなかった。「お餅をついて寒さに震えている人たちに配るんだろう」と思わせる書き出しだしだが、その時私は餅を配ろうという思いはまったく浮かばなかった。周りには世の中の経済状況とは関係なく、いたく気楽な生活を送っているおじさんばかりだった。
◆地平線会議をはじめた30年前、私はトルコにいて収入はほとんどなく、貧乏だった。KA曽利さん、E谷さんたちは「超」貧乏人だった。しかしそれだからこそ社会のひずみ、偏見、希望などというものがよく見え、いろいろ発言できた。地平線会議は世界で「あるく、みる、きく」をして、その情報を発信する場だった。MIYA本さんに「アメリカには学ぶものはもうなにもない、希望はアジアだ」と言われたのを思い出す。この思いが世の中にもっと伝わっていれば、今のような醜態はなかったろうに。
◆今私はワーキングプアーの若者たちを横目に、「東京マラソンに向けて12月には400kmも走ったぞ!」と威張るような生活をしている。石原都知事の東京オリンピック招致の一環で行われるマラソンなんか、昔なら反対運動に参加していたはずなのに「グジャグジャ言わずに目先のことを楽しもうよ!」という勢力に丸め込まれている。私は地表を這い回る視点から世界、社会を見てきたつもりだった。しかし最近は地に足が着かず、傍観者的、高みの見物者になっている。
◆いつも走り回ってばかりいる徘徊老人化した私だが、30年経った「地平線会議」にも同じような症状が出ている。長い年月やっていると、だんだん膠着化し、周りが見えなくなる。最近の地平線報告会は「敷居が低くなってとけこみやすくなった!」といろいろなところで言われる。確かに毎回大勢の人たちが来てくれ、財政も潤って(?)いる。しかし私はあまり面白くない。なぜなら、昔は危惧していた「カルチャーセンター」化しているからだ。「楽しい旅の報告会」とか「こんな旅はいかが?」などはすでに旅行社や文化センターでもやっている。私は目先のお気楽旅行しかできないが、若者は人生をかけた旅をやって、その報告をして欲しい。さらに来てくれた人たちは、「そんなもの旅じゃない、ただの旅行だよ!」とかいろいろな批判をして欲しい。
◆30年前は私も「地平線会議」も若者だった。若者は社会を牛耳っている年寄りが大嫌いだった。自分たちに都合のいいシステムを作って、その上に胡坐を書いてのうのうとしている嫌な奴らと思っていた。皆さんに現金をばらまくから言うことを聞けという総理大臣、クビにしたのはうちの社員ではなく派遣会社の社員だなどとうそぶく財界総理など権力者がその代表だ。しかし考えてみると今の私も似たような世代で、若者、弱者虐待システムの上でのうのうと生きている。私自身も、また地平線会議も若者に嫌われる年代のはずなのだ。
◆しかし最近の若者達は、妙に物分りがよく、おやじ趣味に浸ったりする。自分たちの置かれている視点に立てば、おやじ達は糾弾の対象でしかないのに、唯々諾々と現状追認し、目先の小さな楽しみに浸っている。それはじいさん、ばあさんの楽しみで、それを侵略しないでもらいたい。若者はもっと大きな視点、広い場所で楽しみを得て欲しい。
◆地平線会議30周年! 地平線会議がメジャー化し、一種の権威も着いてきた。行くさきは、一大カルチャーセンターになりそうな気がする。今年は先に進むのではなくこれまでを振り返り、総括していく年にしたほうがいい。しかし今の時代立ち止まったらすぐに追い越されるし、再び走り出すのは難しい。まだこの先闇雲に突っ走るのか、硬直化した年寄りの脳みそではいいアイディアは浮かばない。硬直化していない地平線会議に集う若者たちに期待するしかないかな。(三輪主彦)
■江本さん、地平線30年おめでとうございます。私が魚食文化の会を始めて15年ですから、その倍の時間。とてつもない気がします。人生のなかの30年は、決して短い時間ではありません。そして人の心は変わり行くものですから、30年間地平線会議が続いたということは何なのでしょう。地平線に来れば何かがある、仲間に会える、という気持ちをみんなが共有してきた結果の30年なんでしょうね。
◆私が20年前、奥多摩で江本さんと三輪先生に会ったときもそうでした、まだ地平線が何なのかもわからなかったけれど、何かにひき寄せられるように来てしまった、という気分を今も覚えています。それが何だったのか、今はわかります。「視点」です。何の規則もない自由な会なのに、確かな視点がある。報告者にも、特別企画にも、そして時には参加者にもその視点が求められるのが地平線会議。私はそう思っています。報告会でお魚事情を話させてもらったのはもう10年前になりますが、これは私の誇りです。
◆新年早々、下田へ行っていました。横浜が開港して今年で150年ですが、下田は先駆けること5年前に開港し、日本最初の米国総領事館が置かれました。日本を開国させたペリー、初代総領事のハリス、黒船に乗ってきた軍人や学者たち。仕事として日本まで来た人たちですが、その思いは冒険心にあふれていたことが、さまざまな記録から読み取れます。そして彼らは日本についてたくさんの記述を残し、それが日本という国のイメージを世界へ発信することになりました。フジヤマ、ゲイシャの日本はここに始まります。
◆冒険、探検の記録は、読む者をワクワクさせます。未開の地にどんな人たちがいるのか、どんな暮らしがあるのか。ここで気づくのですが、冒険の記録というものはあくまでも旅人側の視点であり、記録される側の視点ではありません。現地に密着したといっても、記録される側は異議申し立ての機会もなく、書く側の一方的なものですね。ただ、記録される側においては日常がつづいているだけですから、他者がある一時期のその村を記録してくれることは、結果的に地域の姿を活字化する、客観視できるという大きな意味がある。たとえ一方的であっても、それはやはり意義あることなのだと改めて思い至りました。
◆私はいま、時間を見つけては漁村を歩いています。漁業という産業は実に多彩です。大きな船の遠洋漁業、中ぐらいの船の沖合漁業、小さい船の沿岸漁業に分かれています。とはいえ沿岸漁業ひとつとっても多種多様な漁法、形態があり、その土地ならではの味わい深い魚食文化があります。魚の加工法や利用法があります。それらがいま、風前のともし火になっている、漁師にとって魚価は安く経費は高い、後継者はいない、資源がさまざまな事情で悪化している……。
◆この実態を前に、いったいどのように記録すればよいのか。記録する前に働きかけが必要なのではないか。立ち止まり、考えこんでしまうことばかりですが、「日本の漁業にはいままで視点がなさすぎた」というのが私の一番の問題意識であり、かかわりつづける原点なのです。漁業と漁村を、人が生きる場所、生きていく産業として継承していくために、せめてあと15年はがんばらねば、と思う新年です。今年もよろしくお願いします。(佐藤安紀子)
■江本さん、ご心配をおかけしてすみません…。体調をこわしやすく正直、生活するだけで精いっぱいの毎日です。弱々しい、氷のガラスのような…。
実は11月ごろから精神的に病んでしまい何もしたくなくなり、誰とも会いたくなくなり、うつ状態になっていました。ほんとドラマとかに出てくるような症状です。唯一できたのはテレビをぼ〜っと見ること。江本さん、こんな時期も大切ですよね?? きっとおそらく、多分…。
今はとりあえず心と体に逆らわず、あわてず、おだてずあるがままの命の流れを感じてゆこうかと思っております。
もしかしたら神様が、これからの私に必要な新たなものに気づかせようと、試されてるような気がするのです。
謹賀新年☆良い年となりますように☆今年もよろしくお願い致します☆蘇生の年☆エミコ また連絡いたします。■四万十ドラゴンラン今年もやります!!(主催:四万十ガイア自然学校 協力:四万十楽舎) 昨年は4月と10月(10月は2泊3日での黒尊=四万十で一番きれいな支流=編)の2回やりましたが、今年の第一段は3月26日から31日までの5泊6日です。黄色い菜の花と紫のキシツツジ満開の頃です。徒歩、自転車、カヌーそれぞれ2日ずつです。参加料金は例によって、語呂合わせで、40010(四万十)円。4月1日はオプションで、えもーん(四万十での江本さんの愛称)の好きなサーフィンと磯釣り、ロッククライミングができます(寒くなければシュノーケリングも)。
◆昨日(1月6日)、春のような陽気の下、聖(宮崎、四万十ガイア自然学校代表。浜比嘉島にも参加した青年)くんと到着地視察がてら、クライミングしてきました。20〜30mの高さの岩壁が、四万十河口近くの岬にあり、スラブ、リッジ、チムニー、クラック、トンネル、オーバーハングがこじんまりとある、楽しいゲレンデ発見。登り口は岬の突端の岩のテラス。絶好の磯釣り場でもあり、近くの浜は美しい白砂の浜でサーフィンのいい波がきます。1日でサーフィン、磯釣り、シュノーケリング、ロッククライミングを潮騒のバックミュージックで楽しめます。場所は例年のゴール地点の反対側の名鹿(なしし)の浜です。
◆詳細は山田のブログ、「山田隊長日誌」(http://yamadatakashi.blog98.fc2.com/)で、写真入りで出していきます。また「四万十楽舎」のホームページの表紙「ドラゴンラン2008春のアルバム」で、去年のドラゴンランの写真が見られます。河口の浜の波打ち際での、えもーんの豪快な転覆連写写真もあります。問い合わせは、山田(ケイタイ090-4972-4373)、あるいは、四万十楽舎0880-54-1230まで。(山田高司)
■30周年にあたり、いくつかの活動を計画しています。一つは、「ちへいせん・あしびなー」報告書の制作。島の人々、参加者、都合で参加できなかった方々にも楽しめるユニークな「あしびなー物語(仮称)」の制作、発行です。カラーを含め100ページ近くのものを想定しています。報告書は、できれば浜比嘉だけではなく、沖縄の皆さんに多く送りたい、そのために2000部を予定しています。
◆また、3月には比嘉小学校の皆さんによる「写真展」を計画しています。場所は、「地平線発」をやってくれた、あやはし館2階の「うるま市海の文化資料館」。詳しくはまたお知らせします。
◆09年秋には、8月17日に満30年となる地平線会議の記念大集会を東京で開きます。10月か11月です。会場の予約が原則半年前なので、まだ日時などは未定。テーマについてもいろいろ話し合いながら焦らず、面白く意義ある企画としたいです。
◆報告書の作成費、発送費、記念集会の会場費など、これらのことを実行するためにお金が必要となります。そういう事情で皆さんに地平線会議恒例の「1万円カンパ」をお願いいたします。勿論、必要な分があればいいので、無理はしないでください。
◆地平線会議は、会組織ではありません。会員も会長もいません。規約もありません。報告会参加費と通信費は実費として頂いていますが、会費はありません。なので1979年の発足当初「1万円カンパ」をお願いして立ち上がりの活動資金にあてました。200回記念大集会の時も300回の時もお願いし、おかげでそれぞれ内容ある企画を実行できました。カンパのお金は大事に保存し、それらのおかげで昨年のちへいせん・あしびなーも実行できたのです。
◆振込みは以下の口座にお願いします。◎みずほ銀行四谷支店 普通口座 2181225 地平線会議代表世話人 江本嘉伸 恒例により、カンパされた方々の名を通信に掲載して領収と感謝のしるしとする予定です。(地平線会議)
12月の地平線通信でお知らせした後、通信費をおさめたくれた方々は以下の皆さんです。万一記載漏れがある場合はお知らせください。通信費は1年2000円です。
高世泉/宮崎拓/藤本亘/谷脇百恵/山崎真和/上延智子/小尾靖/福原安栄
32ページと大部だったため、印刷、折りの作業は2日に分けてやりました。通信制作史上初のことです。ありがとうございました。
■森井祐介 車谷建太 海宝道義 安東浩正 井口恵理 橋本恵 亀山峻伍 松澤亮 緒方敏明 杉山貴章 藤原和枝 江本嘉伸 米満玲 満州 久島弘 妹尾和子 山辺剣(計17名)
★作業後、今回も海宝道義さんが腕をふるってくれました。 メニューは <ほにゃらかうどん・海宝流特製ベーコン入りのレタススープ・燻鶏・スクランブルエッグ・たけのこの浅漬け・生姜の砂糖漬け・豆乳レアケーキ・生キャラメル> 海宝さん、ありがとうございました!! 今年も、時に不意打ちしてください。
■メールに350号の原稿が入り始めたのは10日の夜、いつもより少し早い。新年号で頁数が多いというので江本さんは早くから原稿を送り込んでくれた。
◆地平線通信作りに係わって、皆さんの書いたものは江本さんの次に私が目にすることになる。活字になる前に読めるのは係りの余録だ。誰の書いたものでも、面白く、楽しく、またときには心を打つものがあり、つい読みふけってしまうことも度々だ。
◆これらのものを「地平線通信」としてまとめ、皆さんの手元に届けることができると思うと力が入る。頁を繰る皆さんがどんな表情で読まれるのか……と考えると、深夜に亘る作業も苦にならない。
◆あしびなーの特集号、この350号と大勢の皆の心の丈を届けることができたと思うと、通信作りもまんざらではないなと思う。
◆私の住まいがかわり、通信作りがやり易くなった。印刷する前にプリントアウトしたものを編集長が目を通してくれるというのはとても気が楽になる。それでもけっこう間違えていることがあり、発送作業に来ている人達から「まあ、いいでしょう」と慰められ、今に至っている。というわけで今年もがんばります。(森井祐介)
■09年も、皆さん、森井さんの応援で読みごたえのある通信を発行していきたい。、今年もよろしく。(江本嘉伸)
シアワセへのサバイバル
「僕のヒーローは、デルスー・ウザーラですね」というのは、“サバイバル登山家”の服部文祥さん。黒沢明監督が映画でも描いたデルスーは、シベリアの森に棲むナナイ族の、実在した猟師です。彼のように自分の生きる自然環境に溶け込み、動植物を捕え、喰らい、飲み、眠る生活の比重を、現代社会の中でどれだけ高められるか? 服部さんがのめりこんでいる「サバイバル登山」はその試みといえます。もともと、ヒマラヤ登山隊に参加した際に感じた「他人に荷物を運ばせて山に登るズルさ」をいかに解消するかというテーマから始めた方法論。深めるほどにいろいろな悩みも。 「サバイバル登山は誰でもできるけど、技能は必要。その点では求道的です。要は、カッコイイ人間になるための僕なりのアプローチ。最終的にはヒトとして幸せに生きるとは、どういうことかを模索してるのかも…」。四十にして惑いまくっているという服部さん、地平線報告会2度目の登場の今回は、「登山と表現」をテーマに、聞き手の生き方も問われる話が展開します.覚悟してまいられよ!! |
通信費(2000円)払い込みは郵便振替または報告会の受付でどうぞ
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議(手数料が120円かかります)
地平線通信350特集号/2009年1月14日/発行:地平線会議/制作:地平線通信制作室/編集長:江本嘉伸/レイアウト:森井祐介/イラスト:長野亮之介 編集制作スタッフ:三輪主彦 丸山純 武田力 中島菊代 大西夏奈子 関根皓博 藤原和枝 落合大祐/編集協力 横内宏美 網谷由美子 後田聡子/印刷:地平線印刷局榎町分室
地平線Webサイト http://www.chiheisen.net/
発行 地平線会議 〒160-0007 東京都新宿区荒木町3-23-303 江本嘉伸方
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