2008年12月の地平線通信

■12月の地平線通信・349号のフロント(1ページ目にある巻頭記事)

地平線通信表紙

としも12月、ふり返ることの多い月だ。東京タワーがオープンして今月でちょうど半世紀になるという。1958年10月14日完工し、12月23日(天皇誕生日ですね)に完工式を挙行、正式オープンしたのだそうである。当時、私は18才になったばかりの、横浜の高校3年生だった。小説やマンガ、映画のテーマになるほど人気があるこのタワーのことをあまり覚えていないのは、多分大学受験の時期と重なっていたからだと思う。

◆当時の普通の家庭同様、余裕がなかった我が家では、大学に行くなら学費が安い国立大学、と決まっていた。はじめは一応本郷の大学をねらったが、受験科目が多いのがしんどくて「そうだ、二期校にすればいい」と直前、(そう、東京タワーが完工された頃)、外語大に針路変更した。8科目でなく4科目でいいのだから、これで随分気分が楽になったことを覚えている。何事もはじめはやや高めに目標を設定しておき、しんどくなりそうならハードルを下げられるようにしておくといいのかもしれない。

◆外語に入るなら英語ではないだろう、とロシア語と決めて受験した。ドストエフスキーの「貧しき人々」にぞっこんいかれてしまっていたのと、ソ連という広大なエリアへの好奇心があったのだ。15倍ほどの競争率だったと記憶するが無事40名の合格枠にもぐりこめたのは幸運だった。今では外語の7割は女子学生だそうだが、当時は40名のうち女子は7名だけだった。

◆語学のほうは、あまり真剣に向き合わなかった。山岳部に入って山ばかりの日々が始まってしまっていた。初めての夏山でバテバテになり(実際、同期生の一人は剣沢から“脱走”した)、金輪際こんなしんどいことやるものか、とその時は思ったのに、いつの間にかあの世界に戻りたい自分がいたのである。年間100日から120日は山に、同じ日数をトレーニングに、残りを学生の日々に、というような暮らしが何年も続いた。東京タワーのことなどまったく目に入らなかった。

◆横浜の家から歩いても行ける距離に、ロシア語のタチアナ・ボリソーブナという先生が住んでいた。授業でもお世話になったのだが、時折巣鴨に向かう、あるいは横浜に帰る電車で一緒になった。美しいタチアナ先生と話すのは楽しく、ほかの講義はさぼっても先生のロシア語会話の授業はできるだけ出席した。先生も私のことを気に入ってくれたらしく、お宅にもしばしばお邪魔した。先生はキシニョフ生まれのルーマニア人で、ソ連に対しては好感情を持っていなかったようだが、ロシアの文化、芸術には高い評価をされていたと思う。よくサモワールでジャム入りの紅茶をクッキーとともにもてなしてくれた。

◆後年、新聞記者になって、横浜の海クラ(「海事記者倶楽部」のこと。税関内にあった)を担当した時、タチアナ先生から学んだロシア語が大いに役立った。当時、登山家や旅人たちがヨーロッパに行くのには横浜、ナホトカを結ぶ「バイカル号」「ハバロフスク号」など「ナホトカ航路」を利用するのが普通だった。ソ連客船が毎週2便、往復していたが、その都度、高速ランチで沖合いの船に乗りつけ、話題となる人たちを探して入港前に取材をする。そんな時、船乗りたちと自由に会話を交わせることがいかに助けとなったことか。

◆「地平線会議」という活動に踏み出したのは、大学で登山とロシア語を学びはじめて20年たってからだ。何度か書いていることだが、1978年12月2、3、4の3日間、法政大学で「全国学生探検報告会」というのが開かれた。当時のメモ帳には渡辺久樹(日大)、浅野哲哉(法大)、吉田敏浩(明大)、河村安彦(独協大)、それに関野吉晴(一橋OB)などの、今も地平線会議の周辺にいる面々の名が書かれている。3日間、学生たち、OBたちとつきあったあげく、何度かの会合を重ね1979年8月17日、地平線会議は誕生した。

◆今号の通信で簡単に紹介しているが、昨年3月の報告者、「外語大・ウルドゥー語劇団」の仕事が一冊の本にまとまった。素晴らしいことだ。麻田豊先生のご苦労を察すると同時に、学生である時、あるいは若い身分の間にどこかに向けて漕ぎ出すことの大事さを思う。私の場合は山登り、そしてロシア語だったかもしれない。

◆来年は地平線30周年の記念の1年となる。東京タワーのように聳え立つ必要はないが、創造的な年となることを深く、強く願う。(江本嘉伸


先月の報告会から

ニッポンはじっこ紀行

西牟田靖

2008年11月28日 新宿区スポーツセンター

■旅の道のりは“なにか”へと繋がってゆく。『誰も国境を知らない』。これは西牟田さんの近著の題名であると同時に彼の強いメッセージでもある。そもそも、国以前に島であり、国境以前に海である。島とは、そこに暮らす人々にとって、人生を全うする世界そのものであり、海は生活の糧を得る場所でもあるはずだ。国境ってなんだろう…!? 暮らしのなかで実感することは余りにも少ない。「何故、彼は国境を知るようになったのだろう?」と自然と興味がそそられた。

◆「はっきり言って、狭い日本には興味がなかった」と西牟田さん。大学時代よりザックを背負って世界を見てまわる旅に明け暮れながらも、その先々で出会った人達の自国の素晴らしさを語る姿に触れるうちに、「もっと日本のことを知りたい」という想いに駆られるようになってゆく。その想いは30才を目前にして益々強くなり、2000年1月、それまでのライター生活に一区切りをつけ、日本を知るため、自分の今後を見つめ直すために、50ccのスーパーカブで旅に出る。真冬の北海道を文字通り七転八倒しながらたどり着いたのは、子どもの頃から地図を眺めては憧れていた日本のはじっこだった。その岬に立ち、「その先を見てみたい」と感じたその直感に赴くままに、樺太・台湾をはじめ国境を越えつつ向こう側を見る旅へとシフトしてゆき、更には日本の旧植民地を辿る旅へとテーマ性は深みを帯びながら広がってゆく。

◆2002年、地平線会議の惠谷治さんの「君は竹島には行かんのかね?」という投げかけに触発され、日本人1人で参加した竹島周遊クルーズで衝撃的な体験をすることになる。船が島に近づきデッキに出ると、横断幕を掲げたり記念写真を撮っては、愛国心で熱狂する韓国人達で溢れかえっていた。その異様な空気にいたたまれず、気がつくと「島を返せ〜! ここは日本のもんじゃい!!」と叫んでいる自分がいた。これまで領土問題に特別執着していた訳でもないのに、何故あの時あの様な感情になったのか? その感情を確かめるべく調べてみると、他にも北方領土などの「海を隔てて隣国と対峙している島々」があり、この国の膨張と収縮の歴史のなかで翻弄され続けてきたという島の事実を知る。彼の想いは“自分の肌で国境を感じることで、今の日本の姿を見つめ直すことが出来る!”という信念へと変わってゆく。かくして、西牟田さんの国境の島々を巡る旅は幕を開けたのであった…。

◆その島々は実に広範囲に分布していて、排他的経済水域を含めると日本の海の広さは世界第6位なのだそうだ。また驚くべきことに、それらを正式に表記している地図はこの国に存在していないという。他国との間で領有を争っている島(北方領土・竹島・尖閣諸島)、行き止まりにさせられた島(与那国島・対馬)、大海原にぽつねんと浮かぶ島(沖ノ鳥島・南鳥島)、他国の実質的な領土になったことがある島(沖縄諸島・小笠原諸島)。なかには人の住んでいない島、日本からは行くことの出来ない島もあり、とても一筋縄で廻ることは出来なさそうだ。

◆北海道の岬から望めた北方領土には、見えない壁が立ちはだかっていた。日本の旅行会社は一切関与しない姿勢をとっている為、ロシアの旅行会社との交渉の末、2003年の秋、2泊3日の多額なツアーを組み立てて樺太経由で上陸することに(2006年にも渡航)。国境警備隊基地、レーニン像やロシアの戦勝記念碑、日本領時代の家、拿捕された日本の漁船…。映し出された風景には過去と現在、国と国とが交錯するような空気が漂っている。ひっそりと佇むアイヌの墓を眺めていると、「日本固有の領土」と主張するこの国に対しても違和感を覚える。一方民家では“笑っていいとも”がテレビに映り、一部のエリアではドコモの携帯電話も通じる。それ程に近い島なのである。かの有名な“宗男ハウス”は普段がらんとしている。すでに島民の大半は二世、三世の人達。「3年前と比べて確実に立派な建物が増えていた」。返還運動の衰退に加え好景気も手伝って、最近ではロシア側の統治が進んできているようだ。ホタテを振る舞う「密漁者」の男性は優しそうな人だった。国後島と根室は漁業の経済的な事情から持ちつ持たれつの関係が結ばれていて、北海道の水産関係者のなかには現状維持を望む人もいるという。

◆2005年、韓国では一般向けの 「竹島上陸ツアー」が始まった。島根県が「竹島の日」を制定(背景には漁師による漁業権の切実な訴えがある)したことに対して、その僅か2か月後に韓国側が更なる実効支配を強めようと盛り上がってのことだった。もともとこの島には数万頭のアシカが生息しており、日清・日露戦争の時代には軍需の増加に伴い、隠岐の漁師と韓国の海女さんが、夏の間だけ共同の小屋を建ておなじ海でアシカ漁を営んでいたのだそうだ。敗戦後にアメリカ保守派の、日本を属国化する思惑から国際的な争いの場になっていってしまった。

◆ツアーの内容は東島のコンクリートで固められた僅かなスペースに20分程滞在するというもの。西牟田さん、今回は韓国人になりすまして乗船するも、警備隊員による日本人への警戒が強く肝を冷やす場面も。通訳がいたのにまともに話を聞くことも出来なかったという。そんな緊張感のなかで撮った写真には警備隊の基地の宿舎や有人灯台が。岩礁にはアシカの姿は一頭も見当たらなかった。このように外側(実効支配をしている国)から入ることは一見デメリットに見えなくもないのだが、「いろいろな立場から見つめてこそ、見えてくるものがある」と西牟田さんは語る。

◆沖ノ鳥島は東京から約1700km、ハワイと同じ緯度にある日本最南端の島。西牟田さんは、この最も難所と思われる島に行くチャンスを引き寄せた。2005年に運良く石原都知事の視察ツアーに記者として同行させて貰えることに。その情報を掴むタイミングがあと3日遅かったら、国境の島々の旅の実現は叶わなかったと思う程に、重要な渡航であった。船に揺られること50時間、エメラルドの大海原に立つ白波の内側にいきなり蜃気楼のように現れたその島はたった4畳半程の岩だった。その周りはテトラポットに固められ、台風対策のネットが設置されている。1988年に島が沈まない為の護岸工事を東京都が約300億円を費やして行い、今もなおこの国の200海里の権益を守ろうとしている現場なのであった。そこまでして守るべきなのだろうか?  西牟田さんは考える。

◆与那国島の北に浮かぶ尖閣諸島は明治時代より開拓され、鰹節やアホウドリで産業が支えられ戦前は百数十人が住んでいたが、戦争が始まり衰退していった。やがて島の所有権は開拓者の子孫からある資産家の手に渡り、現在は個人所有の上陸の許されない無人島となっている。漁船で近づくことすらままならぬ現状から、なんと西牟田さんはセスナ機をチャーターし、島の上空を旋回しながら見るプランを決行。険しい山、荒い海、狭い陸地。鰹節工場の石垣や以前の船着き場に生活の名残を見たものの“人がいなくなるべくしてなった島”という印象を抱く。日本と中国との間という微妙な位置になければ、この島も見向きもされないのではと思うと皮肉を感じる。

◆フランス革命以降、植民地は世界中に拡散し、戦後の線引きによって、“日本のはじっこ”にさせられてしまった日本周縁の島々を巡り、幾度も行き来を重ねては、時代が残した足跡に直に触れ、様々な矛盾のなかで今を生きる島にまつわる人々の想いに耳を澄ませてきた西牟田さん。その道のりは、七転八倒ではなく七転八起。生半可では貫くことの出来ない“政治的秘境”をゆく旅でもあった。領土問題解決への兆しは、未だ暗雲のなかにある。竹島で沸き起こった感情も嘘ではなかったが、「完全にどちらかのものと決めてゆく必要があるのだろうか?」。現地にいると、日本政府は自然に問題が風化するのを待っているかのように感じることも。本も出してみて、日本人の国境意識の薄さをひしひしと実感しているという(尚、この本を出すにあたって、彼は読みやすさを追求する為に13回も書き直したというからすごい。予備知識の乏しい僕でさえ面白い程にのめり込める力作である)。報告後、向後さんから彼の旅を「探検とは知的情熱の肉体的表現」(動物生態学者で『世界最悪の旅−−スコット南極探検隊』の著者チェリー・ガラードの言葉)と讃える温かいエールが贈られ、報告会の幕は降りた。

◆僕は彼の話に聞き入るうちに、沖縄で聴いた唄声が聴こえてくるような想いがしていた。目を凝らせば、向き合っている“いま”から辿れる“なにか”があるはずだ。「本当のことをしっかりと見てゆこう」とする彼の旅の核心に胸を打たれた。今回、西牟田さんが“自分達に繋がる大切な視点”を示してくれたことが何よりの贈り物であった。その先は何処へと繋がってゆくのだろう。彼の歩んでゆく軌跡から、さらなる光が降り注ぐことを心より期待している。(車谷建太


地平線報告会を終えて

「報告会と報告会のあいだ」

■自分の国の領土なのになかなか行けない日本の国境を片っ端から行って回った様子をレポートしたのが今回の報告会です。手段を尽くして行って回る過程を話すことで、日本の国境というなかなか見えない存在を浮き彫りにしようと思い、話させていただきました。自分なりに頑張って構成を考えたり、写真をそろえたりと準備をしっかりとやった上で報告会に臨んだのですが、参加していただいた皆様、楽しんでいただけたでしょうか。

◆前回、報告させてもらったのが2003年7月のことですから、今回の報告会までの間に5年あまりの歳月が流れたことになります。今回の報告会は自分自身がどのように変わったのかを知るいいきっかけになりました。興味があれば際限がなく追求してしまう思考・行動のパターンや胴長短足で目の細いちんちくりんな外見といった僕の基本的な部分はあの頃のままでしたが、自分の心のあり方がすっかり変わっていることに気がつきました。

◆前回、報告会をさせてもらったころの僕は井戸の底から地上を見上げているようなところがあり、エネルギーでいっぱいになっているのに表現する言葉を持っておらず、いつも焦ってばかりいました。しかし今回は心に余裕があり、前回の自分とは違う自分になったんだという手応えを話しながら得ていました。前回のように、あがってしまって自分を失い沈黙するといったことや考えを言葉で表せないもどかしさに嫌悪感を覚えることは実際ありませんでした。

◆報告会と報告会のあいだに経験したことを振り返ってみると、身の回りに大きな変化があったことに気がつきます。片っ端に旅をしていきテーマを浮き彫りにするという手法をある程度確立することができましたし、各メディアから取材されることで自己を紹介することに慣れました。取材を積み重ね、つらい執筆生活を何度か乗り越えたことでつかみ取った心の余裕といえるものかもしれません。

◆反省点は二つ残りました。それはスタートが遅れたことと、話の内容のペース配分がまったくうまくいかなかったことです。おかげで最後は尻切れトンボになってしまいました。僕がなぜ旅に出たのかというより、現場で何を見て、どういったことを体験したのかについての話をもっと話すべきでした。

◆次回、話す機会を与えていただけるときまでには話し方をもっと磨いておきたいと思います。(西牟田靖


地平線ポストから

冬まっしぐらの伊南でブログ「田吾作日記」開設しました!

■江本さん。沖縄での報告会お疲れ様でした。どれほど盛り上がったのでしょう……。本当に熱い熱い報告会の様子が通信から伝わってきました。いつも、通信からは勇気をもらい、そして自分の今を 考えるきっかけをいただいています。ありがたいです……。先日届いた通信で、大学生の書いた関野さんの報告会の記事を読み、とても勇気をもらいました。来春からの進路(仕事と暮らし)を迷っていた時だったので自分の気持ちに向き合うことができました。ありがたかったです。

◆実は、来春からも小学校で働くか、それとも家業を手伝いながら自分の進む道を選んでいくか? 考え迷っていました。そんな時に通信をみて、関野さんが報告会で言った「先の見えることよりも、先の見えないことをしてみたい」「そもそも上手くいかないことが当たり前」という言葉にハッとさせられて、何だか力がわいてきたのです。そして、そんな関野さんの言葉に力をもらっている、彼女たち香川大学生の心にもパワーをもらいました。

◆結果として、私は来春からの小学校での常勤の仕事を断りました。どのような動きになるかわかりませんが、民宿をはじめ家業の手伝いをしながら、自分の力で始められることを考えていきたいと 思っています。もちろん育児も今しかない体験だと思っているので大事な時間として健太郎に関わりたいと思っています。

◆そんなこんな、また人生の岐路にさしかかっていますが、地平線通信を読みながら、自分の選んでいる道に小さな自信を感じさせてもらいました。また、雪が降ったらたよりを届けたいと思います。江本さん、ふらっと遊びに来てください。

◆こちらは、11月20日頃に初雪が降りましたが、ここ数日の好天で降り積もった雪も消えました。通っている学校の校庭も地面が顔を出しました。太陽の光がある日は心も穏やかです……が、もうすぐ白く厳しい日々がやってきます。少し、私も季節の写真などをアップするブログ(田吾作日記)を書きはじめています……URLは、http://pub.ne.jp/tagosaku5/です。また、冬のたよりを届けます。(冬へまっしぐらの伊南から 酒井富美

マラソンの季節 その1
跳人(はねと)衣装で筑波マラソン!!

■こんにちは。ハセツネで捻挫した足首がまだ完治しない中、先日は山辺さんと2人でつくばマラソンを走ってきました。僕は恒例となったねぶた祭の跳人衣装での参加です。筑波は毎年夏に「まつりつくば」としてねぶたパレードを開催している、ねぶた祭との縁が深い街でもあります。まつりつくばは、関東で唯一、青森本場の大型ねぶたが使われる祭なのでお勧めですよ!

◆そういうこともあってか、跳人姿で走る僕に「らっせらー」の掛け声をかけてくる人が多く、苦しいながらも楽しく走ることができました。今年の参加者数は過去最多の13705名とのこと(10キロ含む)で、昨今のマラソンブームを実感させられました。中には結婚式の真っ最中にタキシードとウェディングドレスで走っている新郎新婦も。僕も山辺さんも完走すら怪しい“にわかランナー”ですが、5時間台前半ながらもなんとか走りきり一応の面目を保つことができました。跳人ランナーは、次は3月の24時間チャリティラン・ウォークに参戦予定です。跳人仲間募集中です。(杉山貴章

マラソンの季節 その2
初マラソンを27000人の「那覇」で完走!!

■12月7日(日)に行われた那覇マラソンに参加し、人生初のフルマラソンを完走してきました。天候は晴れ。朝は少し肌寒いように感じましたが、それでも気温は17℃。会場に近付くにつれ、その人の多さにビックリしました。今年は過去最高の26,973名が参加したそうです。私は今年の2月に西表島のやまねこマラソン(23km)に参加したのですが、その規模500名くらい。那覇マラソンは桁違いの大きさでした。

◆私のゼッケンナンバーは17236番だったので、スタートの整列もかなり後ろの方で、9時にスタートの鐘が鳴った後、スタート地点を通過できたのは、20分後の9時20分でした。少なくても500mは余計に走ることになるんじゃないかしら? しかも時間制限があり、中間地点の「平和祈念公園」まで12時15分までに辿り着かないといけないのです。コースは団子状に人が密集し、前に行くにも隙間を縫っていくしかなく、なかなか自分のペースで走れない。結局、中間地点まではこの状態が続き、かろうじて登り坂でペースダウンしてきた人々を横から抜いていくしか、制限時間に間に合うように走る方法がありませんでした。

◆そんなこんなで私は制限時間30分前の11時45分に中間地点を通過して、後半戦へ。後半は長い下り坂とただず〜っと平坦な道。この辺りからはだいぶ団子状の人の塊がバラけ始めるので自分のペースで走れるのですが、すでに足の疲労がピークに達していたので、走ったり、歩いたりの繰り返しです。

◆しかし辛くなった時にこそ嬉しいのが、沿道の声援と補給ポイント。補給については大会側が設定しているポイント以外にもたくさんの人々がボランティアで配給してくれるのです。バナナにサータアンダギー、黒糖に塩、お水にお茶にスポーツドリンクと沖縄らしい品々が本当に嬉しい配給でした。

◆またエイサーや太鼓、学校の吹奏楽部からおじさんバンドの演奏まで、心に沁みる応援がたくさんありました。本当に沖縄県南部地域の人総出の大会なんだな〜と噂は聞いていましたが、その盛り上がりに感動していました。そして、出発してから5時間。ようやくスタート地点の奥武山公園の陸上競技場の入り口にやってきました。涙をこらえて待望のゴール。結果は5時間14秒でしたが、とにかく最後まで楽しく走れたことが嬉しかったです。

◆那覇マラソンを走って感じたこと。まずは42.195kmを走れる丈夫な体を授けてくれた両親に感謝したこと。そして、自分の中に秘められたパワーに感動したこと。那覇マラソンで自分の体も心も完全燃焼したからか、心身ともに「空」になり、そしてシンプルになっている自分を感じています。確かに、体のあちらこちらは筋肉痛でガチガチではあるのですが、身体がとても素直になった気がします。初めてのフルマラソン。想像以上に素晴らしい体験と学びをもたらしてくれました。病み付きになりそうです。

◆沖縄県はマラソン天国の県でもあります。極暑の夏を除けば、ほとんど毎月どこかでマラソン大会があります。伊平屋島では夜に走るムーンライトマラソンがあり、渡嘉敷島では箱根マラソン並みにきついと言われるアップダウンのコースが楽しめるマラソンがあり、とそれぞれの土地ならではのマラソン大会があります。沖縄のマラソン大会だけで一冊の雑誌になっているほどですから。

◆まだまだ筋肉痛は抜けていないのに、もう次のマラソン大会に出る計画を立てたりしています。来年の2月22日(日)沖縄県の中部地域で行われる「沖縄マラソン」。平田大一さん演出の「肝高の阿麻和利」の舞台となっている勝連城もマラソンコースの一部です。12月末までがエントリーの締め切りですので、まだまだ間に合いますよ。沖縄の風に吹かれながら、マラソンを通して自分を感じる体験なんかもいいじゃないですか?(那覇 沼尻千春

★追伸:遅くなりましたが、地平線会議in浜比嘉の通信をありがとうございました。地平線会議に興味を持ってくれた沖縄の人が(参加できた人もできなかった人もひっくるめて)増えたことを、私は嬉しく思います。「また沖縄でやってくれたらいいのにな…」という声も聞いております。これから報告書なども作るとのこと、まだまだお忙しい日々が続くと思いますが、どうぞお体に気をつけてがんばってください。

■那覇マラソンには長野亮之介画伯も出走、3時間58分で見事完走した。また画伯が走って描いた「Coralway2008年11月/12月号」の特集「沖縄はマラソン日和」が話題となっている。


《通信費をありがとうございました》

◆その後、通信費をお支払いいただいた方々です。7、8月に入金された方もおられるのに、記録がずれてしまって申し訳ありませんでした。通信費は1年2000円ですが、複数年分払ってくださる方もいます。(地平線会議)

若木美枝/中橋蓉子/堀内満津枝/岩淵清/森住貢一/鰐渕渉/滝野澤優子/櫻井恭比古/和田美津子/妹尾和子/大井田ひろみ/菅沼進/足立洋太郎/小林天心/後藤正/新堂睦子/広瀬敏通(カンパ)

◆地平線会議を立ち上げた最初の頃、通信の発送、受付など厄介を引き受けてくれた一人に那須美智さんがいる。当時西堀栄三郎さんの秘書をやっておられた彼女の仕事ぶりは素晴らしかった。その那須さんから9日、書留が届いた。「ご無沙汰しております。報告会もずっとご無沙汰したままですが、江本さんや皆さんのご活躍は、送っていただいている通信で知ることができますので、紙面からいつも元気をもらっておりました。通信費を長い間お支払いしておりませんのに、ありがとうございました。この度、17年と8か月勤務した日本整形外科学会を定年退職し、郷里の倉敷に住居を移すことになりました。これまでの通信費としてお送りいたします。ご活躍をお祈りいたします」と、2万円が同封されていた。那須さん、ありがとうございます。お元気で。またお会いしましょう。(E)

先月の発送請負人

32ページと大部だったため、印刷、折りの作業は2日に分けてやりました。通信制作史上初のことです。ありがとうございました。

◆11月18日 森井祐介、丸山純、三輪主彦、関根皓博 江本嘉伸(5名)
◆11月19日 三輪主彦 関根皓博 森井祐介 古山里美 滝野沢優子 山本豊人 満州 藤原和枝 落合大祐 米満玲 杉山貴章 丸山純 江本嘉伸 久島弘 野地耕治 西牟田靖 松澤亮 長野亮之介(18名)


■比嘉小の名カメラマンたちから、手紙が届きました!

■先月の地平線通信の特集で、比嘉小学校で実施した「デジカメ教室」の模様を報告しましたが、その後生徒のみなさんと担任の金城先生から、お礼状が届きました。色鉛筆で彩色してくれた手紙を1枚ずつ見ていると、あの教室がきっかけで、みんなが写真に興味をもったり、いろいろと写真を撮ってくれていることがわかって、やってよかったなという思いがじわじわ込み上げてきます。いま準備している「地平線会議 in 浜比嘉島・報告書」でも、みなさんが撮ってくれた浜比嘉の風景をなるべく多く紹介したいと思っています。楽しみにしていてください。[丸山純

▼先日は、カメラのとり方を教えていただきありがとうございました。ピントをあわせてからシャッターボタンをおすことや、写しまちがえた時のさく除のしかたを教えてくださったので、僕は初めてデジカメを使うことができました。これからデジカメを使うことがあったら、今回丸山さんに習ったことを生かしたいと思います。どうもありがとうございました。(5年・山根仰慈

▼ぼくは、最初丸山さんの話をきいて、いい写真をとりたいなあと思いました。そして家にもちかえってすぐにとった写真は、魚の写真です。また、アップでとるのとふつうでとるのは、ちがうなあと思いました。また、スライドショーで見るのもちがうなと思いました。そして学校の日がきて音楽室で大きく写真をプリントしたらもっと上等になりました。丸山さん、カメラをかしてくれて、ありがとうございました。(5年・仲村颯

▼先日は、カメラのことの説明をしてくれてありがとうございます。ぼくも、カメラをかりたときに、「カメラで写真を写すのは、いがいにたのしい」と思って、ケータイでいま、ちょっとだけ写真を写しています。本当にありがとうございます。(新里翼

▼この間は、デジカメ教室をひらいて、僕達に写真をとらせてくれて、ありがとうございました。僕は全然デジカメで写真をとったことがないので、カメラを使い方を教えてもらう前は、写真をとるのはむずかしいと思っていました。でも、意外とそう作はかんたんでした。家に帰ってからは、虫や鳥や魚や花など、いろいろなものの写真をとりました。きれいに撮れなかったときもあったけど、うまくとれたときは、とてもうれしかったです。この学習で、僕は写真をとるのに興味をもちました。なので、これからは、自分でも写真をとっていきたいです。(鶴見孝一

▼地平線会議の時は、ありがとうございました。あれから、ぼくは家で写真をとったり、出かけた時にも写真をとりました。それで、丸山さんが言ったとおりにピントを合わせてやったら、とてもうまく写真がとれました。なので、とても感謝しています。カメラをかしてくれて本当にありがとうございました。(安里雄大

▼先月のデジカメ教室では、お世話になりました。その時私はいろいろと分かったことがありました。なので、休みの日などはデジカメをもち、分かったことをいかして、写真をとっています。(古喜屋れいな

▼ぼくは、10月24日〜26日にかけて写真を写してみて、デジタルカメラはあまり使った事がなかったので、初めはむずかしそうだったけれど、使ってみると、意外と簡単だったし、とても楽しかったです。10月24日と27日はありがとうございました。(6年・前兼久郁

▼この前はデジカメ教室でいろいろなことをおしえてくださり、ありがとうございました。デジカメ教室のおかげで、デジカメにきょうみをもちました。ぼくも好きな海や山をうつしたいです。ありがとうございました。(5年・新里勇磨

▼元気ですか? 私はとても元気にくらしています。私は、デジカメじゅぎょう、とても楽しかったです。デジカメじゅぎょうときいた時は、どんなしてやるんだろう? まちがったらこわいなと思ったけど、らくらくモードでやったのでかんたんでした。歌南より。(浜崎歌南

▼先月は、デジカメ教室でおせわになりました。私は、デジカメ教室がおわってから、おばさんのデジカメをかりて、ふうけいなどを写しています。私は、デジカメ教室の時よりうまくなりました。最近いとこの運動会でも、いっぱい写真をとりました。(山城朱羅) 


【担任の金城睦男先生から】

 ご無沙汰しております。沖縄では11月も半ばだというのに半袖生活が続いています。まあ普通のことではあるんですけど……。朝夕は少し肌寒さを感じていますが、気温22〜23度ぐらいでしょうか。それでもやはり肌寒いと感じています。

◆地平線会議が終わって、子どもたちの撮った写真をいくつか学校に飾っています。自分が撮った写真が飾られていることがとても嬉しいようです。「写真を撮る」ことが楽しいと感じ、家でも撮っている子もいるというので、本当に丸山さんには感謝しています。子どもたちに、教師の私では伝えることのできないことを教えていただき、いろんな視野を広げてくれたこと、良い機会となりました。

◆時間に余裕があれば、デジカメで何かを写してくる「宿題」なんてのもおもしろいかなと思いました。被写体を探す→写す→印刷→プレゼンテーションといった過程で取り組むと授業としても十分楽しめるのではないでしょうか……。

◆とりあえず今回は児童の写真を仕分けしたものを送ります。そちらはもう冬に近づいていることでしょう。風邪などひかないよう気をつけてください。[比嘉小学校 金城睦男


通信届きました
やってよかった、 ちへいせん・あしびなー!!

■すごい! 大作がどど〜んと届きました。ちょうど今日役員会でしたので早速役員に配りました。浜比嘉島のこと絶賛されてる! と喜んでました。区民に配れる枚数ですがおじいおばあは読めないよという意見が多数。どうしましょうかね。とりあえず小学校中学校の子供たちに配布しましょうかね。あとは関わった人たちに配りますか。鎌田夫妻に書いてもらうの忘れてました。あきちゃん(注:野崎晶子さん)の文章にはうなりました。一気に読んでしまいました、読みながら涙が出ました。やってよかったね、江本さん! この通信を読んでたらつくづくそう思いました。またみんなに会いたいです。ではおやすみなさい。(島は最近急に寒くなりました。冴えた空にオリオン座が輝いています。)(11月21日 浜比嘉島・外間晴美

あしびなー特集で 浜比嘉島に行った気分

■「あ〜、行きたかったなぁ、浜比嘉に」。そんな思いで「あしびなー特集号」を読みました。「島から」「参加者から」「スタッフから」の関わった人たちの「遊び・食・人・島への思い」等などさまざまな視点からの感想や報告内容が盛りだくさんで、浜比嘉の島の人たちと地平線会議の皆さんの一体感やパワーや楽しさがすごく良く伝わってきました。

◆しかも、私自身、現地に行けなかった残念な気持ちはあるものの、沖縄の青い空、青い海を想像し、地平線会議の知っている顔を思い浮かべ、自分もその場にいた気分になりながら読みました。(一番お金のかからない参加方法です!)私のように仕事の都合で行けなかった人、興味はあったけどなんだか一人で参加しづらいと思っていた人、家庭の事情や予算的なことなどいろいろな理由で参加できなかった人たちはたくさんいたのではないかと思いますが、「特集号」はそんな参加できなかった人たちにもイベントの情景が浮かんでくるようで、読み応えのある充実した内容でした。私以外にもきっと参加した気分の(安上がりな)人いるのではないですか? とにかく、天気にも恵まれ、大盛況でよかったですね。そして、お疲れ様でした。ところで、近い将来「うどん屋」や「カレー屋」が地平線会議で小ビジネス(裏ビジネス?)化したりして!?(藤木安子

★追伸:香川大学のクエちゃんとうめちゃんの報告会のレポートに感心しました。2時間30分の報告を、「国内編」と「インドネシア編」とに分けて分担、どちらの内容もわかりやすくまとめられていましたね。

あしびなーの民よ、 モンテディオ山形の J1昇格を祝おう!!

■「ちへいせん・あしびなー」には残念ながら参加できず、その日、地元の大学祭にでかけたら、あるゼミで平田大一さんの「肝高の阿麻和利」に遭遇。じつは、浜比嘉島と酒田はつながっていたのでした…。24頁に収まりきれない「あしびなー」の残したものを確かめにいつか浜比嘉島へ行きたいと思います。

◆話は変わって、モンテディオ山形(以下、モンテ)がJリーグ参加10年目にして初のJ1昇格を決定! モンテは企業ではなく公益法人が運営する山形県のサッカーチームで、予算の少なさはJ2でも下から1、2位を争うほど。昇格が決まった日、大阪の岸本さんからいただいたお祝いメールに「地元の人たちのサッカーへの関心がどれほど高まるか興味深く見てください」とあり、にわかサッカーファンになることを決意しました。

◆近くで試合がある時は、こっそりモンテも応援してください。モンテ勝利の暁には一緒に「スポーツ県民歌」を歌いましょう。(酒田 飯野昭司

注:スポーツ県民歌とは「♪月山の雪 紅いそめて♪」で始まる山形県民なら誰でも歌えるスポーツ讃歌。最近ではモンテ勝利の歌としても親しまれている。

★飯野さん、浜比嘉島の「本部」あて、新米10キロを送ってくれてありがとうございました。ほんとにおいしかったよ。(E)

「キムタカ」ハワイ公演、大成功でした!!

■前略 地平線会議の皆さん 沖縄の平田大一です。皆さんの真心からの義援金を胸に、11月23日のハワイ公演、団員スタッフ総勢120名余り、無事故で元気良く!大成功で帰って参りました。本当に、本当に!ご声援有難うございました。ハワイ沖縄県人会のジョン糸村会長をはじめ、多くのハワイの方々が最大の歓迎をしてくれて、その優しさに一番、勇気が出ました。「ウチナー口と日本語と、英語」のチャンプルーセリフも一応、聞こえていたようです。

◆そういう意味で来たる1月の10日、11日の「凱旋公演」は、「ハワイバージョン」を上演することにいたしました。観に来られる方、お待ちしております。それから、特別にハワイから届いた感想文の一部を紹介いたします。(南島詩人 平田大一

【ハワイからの感想文】

ハワイ沖縄センターでは、この18年間何百ものパフォーマンスが行われてきました。間違いなく、「阿麻和利」が1番です! 役者、ダンサー、バンドの皆さん、素晴らしかったです。作品全体が、力強く、感動的で、非常におもしろかったです……アロハ そして、最高の敬意を表して。(HUOA前会長:エドワード 久場)

ありがとうございました!

先月号で載せられなかった「地平線オークション in 浜比嘉島出展品」リストです(順不同・敬称略・記載もれご容赦下さい)。(地平線会議)

◆サッカーワールドカップ応援帽子(岸本佳則・実千代)/ミャンマーロンジー高巻腰巻&砂絵&普段着腰巻(向後元彦・紀代美)/冬のモンゴルセット[カシミヤ手袋&アルヒ小瓶&アーロール](江本嘉伸)/コールマンストーブ[ビンテージモデル](小森茂之)/キウィの人形(江本嘉伸)/ミャンマータイ式男性ズボン(渡辺泰栄)/山形国際映画祭パンフ&トートバッグ(飯野昭司)/山形国際映画祭バンダナ×4(飯野昭司)/おしんTシャツ(飯野昭司)/バードコール[1983年考案](広瀬敏通)/浜比嘉島での手作り箸&コマ[カンボジア産](広瀬敏通)/ラマレラ村クジラ模様のかすり肩掛け[インドネシア](小島曠太郎・江上幹幸)/野宿Tシャツペア(加藤千晶)/北欧セーターとオーロラ写真集(西沢栄里子)/タクマラカン砂漠のスウェン・へディンが踏んだ砂(向後紀代美)/沖縄八重山グッズ[稲わらボウキ&あだん葉小物入れ他](妹尾和子)/観測船しらせラストグッズ(永島祥子)/北京五輪直前マイ箸&ボールペンセット(岸本佳則・実千代)/泡盛古酒「主」&酒豪伝説(久島弘)/メキシコユカタン半島オンブレセット[ソンブレロ&ポンチョ](松澤亮)/特製あしびなーぐいのみ大5(緒方敏明)/特製あしびなーぐいのみ小5(緒方敏明)/金井重伝説マンガ(金井重)/ハンモック(金井重)/健康鍼灸セット(米満玲)/泡盛古酒「春雨」×2(拓洋・長濱多美子)/サイン入り帽子(賀曽利隆)/南米ピラルクのうろこ(藤原和枝)/オーストラリア大航海時代地図(河田留奈)/熊本名物からしレンコン(川本正道)/ジャガキッズパープル[自家製]×2 (掛須美奈子)/ペルーの島の手織りベルト(白根全)/グァテマラベルト(白根全)/グレートジャーニーレンズつきカメラ&サイン入り写真集(関野吉晴)/ケニアケープ&長江源流水&アラビアダウ船腰巻(山田高司)/ブータンルンタ&切手ホログラム(河田留奈)/ラオスルアンプラハンかすり布&おまけ絹糸(中畑朋子)/ヤクートウスリー川の隕石(原健次)/タイ口琴&小皿セット(中島菊代)/アフガンナイフ[ソ連軍の砲弾製](丸山純)/西部モンゴル・カザフグッズ&世界遺産の岩塩セット(山本千夏)/イヌワシコンロンの目隠し帽子(松原英俊)/ヒグマの爪(松原英俊)/四万十川エコランチボックスセット(宮崎聖)/地平線ハーリーTシャツ(外間昇・晴美)/スペイン[インカ]ワインボトル(三上智津子)/懐かしのオキナワンロック・マリーTシャツセット(藤田光明)/海宝式健康棒+Tシャツ×4(海宝道義)

◆落札合計金額187,700円は、ハワイ公演を控えた「肝高の阿麻和利」のメンバーにお渡ししました。

◆どなたかの差し入れコーヒー豆と遊上陽子さん出品の自家製コーヒー焼酎はスタッフ用として宿泊先に持ち帰り、おいしくいただきました。


祝・「一等三角點研究會」の会誌『聳嶺』!!

■ごぶさたしております。毎号地平線通信、盛りだくさんな内容、楽しく読んでます。ところで、今般同封いたしましたもの、小生が昨秋から会長をつとめます「一等三角點研究會」の会誌『聳峰』第一号です。そのミチの者には資料としても興味ある内容です。2008・12・6 大槻雅弘

★こんな便りとともに、102ページの立派な冊子が地平線会議に届けられた。大槻さんは何度かこの通信にも原稿を寄せてくれている山好き。「三角点は踏むものではない、タッチするもの」など教えられた向きも多いだろう。表紙には、南アルプス赤石岳の版画とともに「一等三角點研究會」会報『聳嶺 新世紀第一号』と書かれている。誌名の意味は「聳え立つ嶺」。一等三角点にはそういう聳え立つ山が多いからだという。ちなみに赤石岳は全国に1000ある一等三角点のうち日本一高い(富士山は二等三角点)。(E)

ウルドゥー語劇団の活動報告出版される!!

■昨年3月の報告者、「外語大・ウルドゥー語劇団」の仕事が一冊の本にまとまった。 《麻田豊・編「ウルドゥー語劇団2005〜07『はだしのゲン』インド・パキスタン公演の記録」。》  11月の地平線報告会で紹介され、20部が無料で希望者に配布された。新書版168ページの内容は、インド、パキスタンで「はだしのゲン」をウルドゥー語でやろうとした経緯、準備のどたばた、現地での予期しなかった出来事など、語劇に関心なかった人にも面白い内容となっている。巻末近く159ページからは8ページにわたり「地平線会議での報告」が特集され、大西夏奈子さんの書いた報告会レポートが全文紹介されている。何事もやれば、できる。とりわけ若い人に読んでほしい本だ。希望者は報告会で座員の一人、橋本恵さんをつかまえること。(E)

「島」づく日々━━「三宅島走行記」のはずが、何とUターン……

■12月5日夜、竹芝桟橋をでた「さるびあ丸」は三宅島に向かって快適に航行していた。私は2等船室で熟睡していたが深夜2時ごろ「三宅島はうねりが高く、接岸できないので、東京港にUターンします」との船内放送で目が覚めた。「ありゃりゃどうしよう?」と思ううちに船は朝日を浴びながらレインボーブリッジをくぐっていた。

◆私は6日に三宅島で行われるGEO(火山・地質)フェスティバルに参加するために船にのっていた。三宅島は70年代には何回か火山の観察で訪れていたが、83年の噴火、2000年の噴火による全島民避難などで行く機会がなくなっていた。05年に避難生活が終了し、帰島が許されたが、島の復興はまだまだだ。島の復興には島外の人がどんどん訪れてくれることが一番です、という話を聞いていた。英国のマン島をまねてバイクレースの島として売り出す構想もあるが、まだまだ大イベントをやるような状況ではない。島の人々はGEOフェスタのような小さくてもいいから長続きするイベントをやって欲しいようだ。

◆野鳥の会「アカコッコ館」の人たち、もと三宅高校の地学の先生が主催しているイベントだ。昔お世話になった身としては、多少の貢献ができるかなという思いと、こちらが本心なのだが、車がほとんど通らない道を走れるな、という思いが重なって船に乗ったのだ。まだ薄い亜硫酸ガスが残っているが、汗びしょびしょになれば温泉に入るのと同じだという勝手な解釈をしているのだが……。

◆ここで「三宅島で走ったぞ!」というレポートの予定だったが、それは先送り。「島へいってみよう」という思いは、浜比嘉島のイベントの余韻でもある。10月末に沖縄の島を訪れて以降、久しぶりに島への思いが膨らんできた。私は山岳部出身だが、自分で最初に企画した旅は宮本千晴さんにそそのかされた奄美の島々への旅だった。1月には河田真智子さんが主宰していた「ぐるーぷ・あいらんだあ」(地平線通信11月号に詳しい)の同窓会(1月24日(土)夕方)が奄美大島で行われる。それにも行くつもりだ。

◆奄美大島には1966年に行ったきり、もちろん船で。その後徳之島とか与論島に行く機会はあったが、ヒコーキの時代になっていたので名瀬港の入り口にある名所「沖の立ち神」は通り過ぎていた。同窓会が行われる「ばしゃ山村」の裏側の赤尾木湾は形が円形なので「これはきっと隕石孔だ!」などと論議をしていた。今インターネットで検索したら「昭和45年、日本で初めて発見された隕石孔で奄美クレーターという」と書いてある。「おいおい、その4年も前に私は見ていたのに!」奄美大島にはマングローブの森がある。その当時はサンゴ礁ばかり見ていたので、まったく気がつかなかった。もっと目をキョロキョロしていれば、いまごろ向後元彦さんに「奄美のマングローブはねえ……」と言うこともできたのに。

◆毎日が日曜日のわが身に、今の経済恐慌の実感はないが、「遊んでいては申し訳ない!」との思いは強い。しかし「来てくれる事で役立つんです!」と言う声が聞こえてきたことで、我が旅にも多少は大義名分がつきそうだ。三宅島の野鳥・地質等のイベントに行きたい人:アカコッコ館(シノキさん)に問い合わせて! 〒100-1211 三宅村坪田(三輪主彦

──ふしぎ連載 大江戸銭湯探検記 その4──
お江戸では、月にほぼ1軒の銭湯が廃業している

■お江戸東京の昨今の銭湯事情、月にほぼ1軒の銭湯が廃業しているそうだ。銭湯最多区は大田区で、最小区は千代田区。その千代田区内の全銭湯に12月1日、2日、入ってきた。全銭湯といっても、4つしかなく、それも皇居の周囲にある。東京のジョギング名所である皇居(周囲約5K)ランナーたちご用達の銭湯だ。

◆まず行ったのは、半蔵門の「バン・ドウーシュ」。国立劇場とワコールビルの間にあるマンションビルの1階。銭湯に欠かせない暖簾のない入口には、ホノルルマラソンはじめ、内外各地のマラソン大会の申込書が置いてある。番台ロビーも、脱衣場も、風呂も天井が低く、狭い。洗い場も11人分しかなく、浴槽は2m×2mというどこかの民宿並みの狭さ。開店1時間の4時だったので、さすがにランナーはおらず、ご近所の常連さんら6名。ちょいとアカ抜けした上品な高齢者たちだった。カタカナは、フランス語でシャワーという意味だそうです。

◆ここから歩いて30分、住所は内神田だが、大手町高層ビルの間にある「稲荷湯」。茶色いビル1階で、内部は普通の銭湯。まだ5時前なのに、走り終えたランナーレデイ5名が先客。久々に見たスポーツおんなの裸体、なかなかです。重油らしく湯が硬い、なんて。いつものカラス湯、あがって着ていたら、これからランナー3名がどやどやっと入ってきた。着替えて、荷物を預けて出ていった。番台のおやじさんが「行ってらっしゃい」。

◆ビル裏側に赤い鳥居の御宿稲荷神社があり、稲荷湯ってわけが判明。3番目は、「お玉湯」。神田駅から歩いて昭和通りを越えた岩本町。江戸時代の名所お玉ケ池跡の史跡近くの、こちらもビルの1階。5時すぎだったが、常連8名。竹やぶのペンキ絵がなかなかの風情だ。中は銭湯らしい造りで湯舟はふたつ。江戸の銭湯にしては熱くない湯がありがたい。ゆっくり入浴。

◆暗くなって外に出たら、お隣りがなんと「エモト食品店」。その前に大きな鳥居。懐中電灯をつけ由来板を読んでいたら、パトロール中のお巡りさんが「なにしてるんですか」、というので、神社の名前を知りたくて、というと、「金山神社」と教えてくれた。挙動不審だったのか。最後は、九段の「梅の湯」。こちらもビル1階の銭湯で入口には、「がんばれ 銭湯ランナー」ののぼりが立っていた。ここも銭湯らしい内装だった。ただ、ご常連客のみなさん、和服やブランドものの下着で、三ノ輪あたりの客との違いを目のあたりのしたのでした。現在204銭湯達成。(ナゾの田口幸子

コーナボン谷に17日間過ごして━━イエティ探し顛末 その2

■ネパールでイエティ探しをしていた角幡です。12月4日に帰国しました。この前のメールでもお伝えしましたが、高橋好輝隊長率いるイエティプロジェクトジャパンの捜索活動が終了した後、僕はもう一度イエティがいるというコーナボンの谷を訪れました。つまり、また、おんなじところに行ってきたわけです。雪に覆われた時期の方が監視しやすいのでひょっとしたらイエティが見つかるかもと思ったし、同時に僕はコーナボンに6度も通い雪崩で遭難死した鈴木紀夫さんの死にざまについて考えてみたかったからです。

◆熱気球で太平洋横断中に行方を絶った神田道夫さんを取材した時も考えたのですが、冒険家や登山家はなぜ死ぬかもしれないと思いながらも自分の目標を捨てきることができないのか、それが僕にとっては今、すごく気になるテーマです。鈴木さんが亡くなったのはもう22年前のことになります。彼の遺体は約10か月後に標高3750メートルの山中で見つかりました。

◆周囲の状況から当時は雪崩で死んだのだろうと結論付けられましたが、本当にそうなのだろうか、何か根拠が残っているのではないか、雪崩にあったのなら、なぜ安全な監視キャンプを離れ雪崩の危険な場所にわざわざ登ったのかなど、非常に多くの疑問がありました。鈴木さんは出発前、家族や友人に「今回は危ないかも」と不安を漏らしてました。コーナボンでは雪崩に襲われた経験もあり、その怖さを十分に分かってもいました。なのに、なぜ雪崩の巣のような斜面に突撃せざるを得なかったのか。そういった疑問を解決するためには、現場に行き、当時の状況を知る地元の住民に話を聞くことが必要だと思ったし、鈴木さんとおなじ場所にキャンプを張り、同じ時期に同じ場所で同じ行為を自分で追体験することで彼の心象風景に触れることができるのではないかと思ったからです。

◆僕はコーナボン谷に17日ほど一人で滞在していました。残念ながらイエティの姿や足跡を目撃することはできませんでしたが、幸運なことに鈴木さんが世話になっていた村の人に彼の最後について詳しい話を聞くことができました。彼がどのような場所でイエティを捜索していたか、どこでキャンプをして雪崩に巻き込まれたか、遺体はどこでどのようなかたちで見つかったかなど、かなり詳しいことがわかりました。彼は、遺体が見つかった場所より約600メートル高い4300メートルの台地にテントを張り、雪崩に襲われていたこともわかりました。

◆僕はその場所にも行き、周囲の地形を詳しく観察しました。台地の上はカール上の地形になっており明らかに雪崩の危険があると分かる場所でした。しかも、かつて彼が雪崩にあって九死に一生を得た場所からすぐ近くでした。そこに危険を冒してテントを張ったということは、彼の中に何か差し迫った事情があったのだと思います。あらゆる事実関係から考えて、それがなんだったのか、僕はある程度推測することができます。それは非常に無残な最後でした。

◆冒険家が死んだ時、彼がどのように死んだのか細かい事実が分からないとその冒険の行為を評価することはできないと思います。鈴木さんの場合は雪男捜索だけに打ち込んでいました。彼の死にざまを見つめることで彼の冒険はなんだったのか、彼は何を求めていたのか、彼の人生とはなんだったのかといったことが、僕にはなんとなく分かったような気がしました。行ってきて良かったと思います。

◆カトマンズに帰ってきてしばらくすると、バンコクの騒乱が発生し、飛行機を予約した日に帰れなくなってしまいました。代替チケットを確保するため、毎日のようにタイ航空のオフィスと代理店を回っていたので、のんびり観光することもできませんでした。なんとかデリー経由のチケットが確保できたので、僕なんかは比較的ラッキーだったのですが、他の旅行者は1週間も帰国が延びている人もいて、ちょっとかわいそうでした。でも、成田に着くと、なぜか飛行機に預けた85リットルのザックが届かない…。しかも、僕は馬鹿なことにそのザックに自宅のカギを入れっぱなしにしてました。しょうがないので、緊急時解錠業者を呼ぶと11500円もとられました。

◆今回の雪男捜索と鈴木さんの死を巡る旅については、そのうち書籍化したいと思ってます。(角幡唯介

ユーコン・クエストに向けて犬たちとトレーニング真っ只中!!

 09年2月、カナダのホワイトホースからアラスカのフェアバンクスまで1600キロの犬ぞりレース「ユーコン・クエスト」に再挑戦するマッシャー、本多有香さんの近況。

<1信>

■現在Nenana(ニナーナ)という小さな町のはずれにいます。昨日は−20度以下になりました。そんな気温は久しぶりで、体がまだ慣れていないせいか寒かった! 今日は−10度ほどで楽勝です。最近、犬のトレーニングでは20マイルを走っています。みんな怪我もなく調子いいので、無理せずあせらずこの調子でがんばりたいです。今のところの課題は、ビルという人に借りている犬たちが喧嘩っ早い性格なので、うまくまとめること! それとちゃんとしたリーダー犬を育てること!

◆12月の27日からGIN GIN200という200マイルのレースに出る予定です! ここで犬たちをレースに慣れさせ、それからキャンプトレーニングや山越えのトレーニングにかかります。レースというより、ただのトレーニングのようなものですので、結果は期待していません。いろいろと課題はありますが、ストレスを溜めないようにがんばっていくつもり。

◆車で1時間ちょっとのところにある大きな街(フェアバンクス)のスーパーにいくと、いろんなものが売っていることがわかりました。ただ、難点は高いこと! レースと普段のエサ代だけで、40万円ほど支払わなくてはならないので、ほしいものがあってもなかなか買えません。情けない!! 今年は、そのほかにオーバーコートやギャングライン(犬ぞりの犬とソリをつなぐ紐)など、いろいろ購入予定で、もしかすると借金まみれになっちゃうかも! ちょっと怖いです……。久しぶりにメールができてうれしかったです。日本語に飢えているみたい。それでは、また!(10月29日)

<2信>

■今日は雪が降っています! 関係ありませんが、全米で選挙もあります。昨日、カツ丼を作りました。パン粉を準備するのを忘れたので、生パンをポロポロに崩してパン粉代わりにしたら、お菓子みたいな食感でした。微妙にカツとは違う感じでしたが、好評でした。ユカは料理がうまい、と勘違いされていい気になっています。

◆私が日本にいる間、アラスカに置いておいた私のレース用の犬のエサ入れが、夏の間、誰かが使用して持ち帰ってしまったのか、数が減っていてショックでした。実はその皿、日本で百円均一の店で買った観葉植物用のプランターの下に置く受け皿です。犬のエサ入れとしてとても具合が良く、重宝していました。日本から送ってもらおうかとも思いましたが、送料が高いので無理。雪の中で見えるように青い色の皿で、5個も紛失してるんですよ。仕方がないので、バケツを買ってきて短く切って使おうと思います。もともと14個ジャストしかなかったので、買い足そうと思ってはいたのですが……。

◆明日は、大きな町に出かけます。食料、犬のスナップ、ライン、などなど出費しまくってきます。アメリカの経済に外貨で貢献です。それではまた!(11月5日)

<3信>

■今年は、雪が(去年に比べたら)あるので、トレーニングに移動しなくてすんでいます。距離は、長い日でここからオールドミントという村までの往復で52マイル走ったり、ヒルトレーニングといって坂道の練習も始めています。登りのときに使う筋肉は平らな道を走るときに使うものと違うので、必ずやっておかなくちゃなりません。で、下りもトレーニングが必要だったりします。スピードを緩めることや、怖がらずに下れるようになんですが。長距離レースはいろいろな条件での練習をしなければならないのですが、なかなか……。

◆相変わらず喧嘩っ早い犬たちで、不安だらけですが、とりあえずがんばります。今、一匹肩をいためたジミーという子がいて、その子の復帰に向けて毎日マッサージやら何やらをやっていましたが、よくなってきたのであしたから少し慣らしで走らせて見ようかと思っています。あ、百円均一のものは、先日舟津圭三さんが帰国するときに頼んだので、今月の中ごろに戻ってくるときには手に入ると思いますので、大丈夫です。ご心配ありがとうございます!!!(12月8日)


30周年記念の年、必入手!!
地平線カレンダーは、「作品」です

■何度かお知らせしていますが、通信では今月が最後のお知らせです。地平線会議名物、長野亮之介・絵師、丸山純・制作による「地平線カレンダー」、中にはまだ手にしていない方も多いと思います。単なるカレンダーとはまったく違います。しまった、と思う前に、1部でもいいから入手しておいてください。

 昨年同様、テーマは浜比嘉島。が、作風はかなり違います。題して『沖縄海風舞島楽覧記』。08年は浜比嘉島の動物がテーマでしたが、今回は、ハーリーやパーランクーの模様など、島の人と風物詩が描かれています。

★2009年は地平線30周年の記念の年、皆さん、部屋に是非「地平線カレンダー」を!! 

★頒布価格は1部あたり500円。送料は8部まで80円、16部まで160円(それ以上はご相談ください)。

◆地平線のウェブサイト(http://www.chiheisen.net/)から申し込んでください。 を設けましたので、ウェブサイトのページから「申込書」をコピー&ペーストしてメールソフトに貼り込み、必要事項を記入してご送付ください。葉書での申し込みも受け付けています(〒167-0041 東京都杉並区善福寺4-5-12 丸山方「地平線カレンダー・2009係」)。

◆お支払いは、郵便振替で。カレンダー到着後でけっこうです。いきなりご送金いただくのではなく、かならず先にメールや葉書などで申し込んでください。「郵便振替:00120-1-730508」「加入者名:地平線会議・プロダクトハウス」


■地平線はみだし情報

★驚いたことに「風呂なし野郎 創刊号」というのが発刊された。「風呂のない人による風呂がない人の為の風呂なしマガジン」だって。知りたい者は、かとうちあき氏に。100円か1000円らしい。(E)


[あとがき]

本人に言うと傷つくのでそっと言うが、我が家の麦丸は、通常の2倍の重さがある。もともと骨格も大きいが、甘やかされて育ったせいもあろう。運動は大好きで、散歩には朝夕2回必ず連れ出すが、土砂降りの天気はさすがに本人もいやがる。そんな時はそそくさと「トイレ散歩」だけやる。

◆きのう9日深夜も本降りの雨の中、小脇に抱きかかえて近くの小さな公園まで連れて行った。片手に傘をさしながらムリな姿勢で抱えていたせいか、降ろす瞬間、どうしたことか左手首をひねってしまったらしい。痛くて力が入らないのである。ちび犬の重さなんぞ知れたこと、と思っていたが、こちらの体力がゆっくり変わっていることをこんな時、思い知らされる。

◆今も動くことは好きなのだが、「軽やかに」走るということが次第にできにくくなっていることは確かだ。1500メートルを泳ぐことは自由にできるが、でもほんとうに「ゆるゆると」という感じなのだし。

◆長いこと認めたくなかったが、要するに爺いになった、ということだ。元気は元気でいいが、良き元気な爺いとは、いったいどんな状態なのだろうか、とふと考える。少なくとも「アンチエイジング」という言葉は、おかしいのではないかな。もっと味のある表現がありそうだ。

◆2008年も地平線通信を読んでくれてありがとうございました。森井さん、1年ご苦労様でした。来年2009年も、何か新しいことを見つける旅を続けましょう。(江本嘉伸


■今月の地平線報告会の案内(絵と文:長野亮之介)
地平線通信裏表紙

アマゾン河人情漂航譚

  • 12月23日(火) 18:30〜21:00
  • ¥500
  • 於:新宿区立新宿スポーツセンター(03-3232-0171)

「アマゾンの人達はイイヒトばっかりでした」というのは、宮川竜一さん(20)。大学の夏休みを利用し、今年8〜9月にアマゾン河上流域をイカダで航下した旅の印象です。宮川さんは今年の春休みにネパール〜インドを徒歩と自転車で走ったのが、はじめての本格的な旅でしたが、帰国して1ヶ月半後にはアマゾン行を決意しています。

アマゾンの旅は人との出会いに恵まれていました。出発地ペルーのイキトス偶然めぐりあった日本人に助けられてイカダを発注でき、航行中は食料をもらったり、民家に泊めてもらったり。時に郷愁にかられる心を癒してくれたのはペットのサル“しんいち君”でした。

結局、サシバエに刺された傷が悪化して、予定を切り上げましたが、終着としたサント・アントニオ・ド・イサでも地元の人に看病をしてもらうなど、最後まで人情に触れた3週間の川旅でした。

今月は宮川さんに初々しい旅の模様を語って頂きます。


通信費(2000円)払い込みは郵便振替または報告会の受付でどうぞ
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議(手数料が120円かかります)

地平線通信349特集号/2008年12月10日/発行:地平線会議/制作:地平線通信制作室
編集長:江本嘉伸/レイアウト:森井祐介/イラスト:長野亮之介/編集制作スタッフ:三輪主彦 丸山純 武田力 中島菊代 大西夏奈子 関根皓博 藤原和枝 落合大祐/編集協力 網谷由美子/印刷:地平線印刷局榎町分室
地平線Webサイト http://www.chiheisen.net/
発行 地平線会議 〒160-0007 東京都新宿区荒木町3-23-303 江本嘉伸方


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