今月の地平線通信は全32ページからなり、p.5〜28までの24ページ分が「特集 ちへいせん・あしびなー “地平線会議 in 浜比嘉島”を巡るあれやこれや」という特集になっています。あまりに膨大になるので、この部分を別のページに掲載しました。
深まる秋を分け入りつつ、こんにちは。ちへいせん・あしびなー、終わりました。いままで、日本のあちこちで地平線報告会をやってきたけど、今回はいろいろな意味で、思いの深い、今後2度と同じことはできないかもしれない、と感じる画期的な試みでした。そのことはやがて3週間になるというのに、いまなお身体にまとわりついている「はまひがの余韻」の重さで感じられます。苦労はあったけれど、やってよかった「ちへいせん・あしびなー 地平線会議 in 浜比嘉島」でした。
◆何よりも訳のわからない私たち地平線会議を迎え入れてくれ、一緒に行動してくださった平識勇比嘉区長、写真展の開催の場を提供いただき、25、26日とも精力的にリードしてくれた海の文化資料館の前田一舟さん、小学生たちのパーランクーを実現してくださった下地邦敏比嘉小学校校長、生徒たちと参加してくれた阿嘉秀勝浜中学校校長、パーランクーなど力強い島の芸能の力を披露してくれた山根清雄さんはじめヒガンチュのおとな、子どもの芸能者たち、沖縄国際大学の学生の皆さん、「阿麻和利」の生徒を連れて参加してくれた平田大一さん、舞台裏で道の草刈や食事の準備に汗を流してくださった比嘉の皆さん、そして、仲間でもあり、島んちゅでもあり、なお苦労を押し付けているであろう、ちへいせん・あしびなーの「根っこ」、外間昇・晴美さんご夫婦、散歩仲間のゴン、その仔のぽにょ、に心からお礼を申し上げます。
◆受付の記録と現場での推計では25日の初日に235名が参加したのをはじめ、26日の「はまひが・たんけん隊」に57名、ガチマヤー交流会に比嘉小学校の生徒さん含め150名、27日の比嘉小学校の講演に102名、3日間の参加者は延べ544名に達しました(実数では300名あまりと思います)。
◆自分が島んちゅだったらどう感じるだろうか、と実はずっと考えていました。30年も活動を続けてきた旅と冒険のネットワークです、と言われたって、わかるわけがない、と。そうか、まあいい活動なんだろうけど、ヒマだからできるんだね、と私なら言いかねないでしょう。事実その通りなのですから。でも、始まればお天気に恵まれ、早朝から深夜まで気合の入りっぱなしの3日間でした。何よりも島の人々が大勢参加してくれたことが嬉しかったのです。
◆とくに宣伝する気持ちはありませんでしたが、有力紙の「沖縄タイムス」は、初日の様子を社会面でカラー写真(南極観測2度の永島祥子さんがライギョダマシの魚拓を広げているところでした)入りで伝えてくれただけでなく、数日後には一面で「地平線会議」というタイトルの取材記者さんのコラムを、11月12日には地平線会議と琉球の文化を残す島との関わりを書いた私の文章を「論壇」で掲載してくれました。ほんの少し、私たちが何者であるか、なぜ浜比嘉島に集結したのか、わかって頂けたかもしれません。いろいろ反省はあるけれど、それなりの成果もあった、と今はほっ、とした気持ちです。
◆浜比嘉島にいた週末、面白い風景に出くわしました。小学生たちがデジカメを手に島のあちこちを走り回っていたのです。それは、地平線中核メンバーである丸山純さんが仕掛けた「デジカメ教室」の現場でした。12名の上級生たちは、なんとわずか4日間に2224枚もの写真を撮った、というから驚きです。この子どもたちの写真を是非すべて見てみたい。これらの写真は、今回のちへいせん・あしびなーの大事な足跡になる、と私には思われます。今から取り組む「報告書」(できるだけ読みやすいものにします)を含め、まだ仕事は続きます。
◆浜比嘉島で嬉しかったひとつは、あしびなーのチラシを壁に貼って盛会を祈ってくれていた、というシール・エミコさんからのメールでした。ほかにも事情あって参加できなかった人たちが多くいます。だからこそ現場の雰囲気を詳しくお伝えし、記録として残しておきたい、と今月は思い切って「あしびなー特集」を組みました。
◆22日夕、浜比嘉島に入った私たち先遣隊は、以後28日まで前栄田光子さんからお借りした「一軒家」と呼ぶ本部で“合宿生活”をしました。飯を炊き、看板や道案内表示板を作り、名簿をチェックし、毎日睡眠時間は3時間、という生活でした(ビールと泡盛のせいもありました)。庭には青いバナナがたわわになっていて、気になりました。いつ食べられるのだろうか、と。
◆とうとう帰ることになった28日、前栄田さんは私たちにひと束ずつ青いバナナをくれました。大きくて重いのを運んできたそのバナナ(16本も!)が今黄色く熟れて、食べごろです。毎朝バナナを食べて浜比嘉島を思っています。もう一度、皆さん、ありがとう。近くまたお会いします。(江本嘉伸)
<国内苦労編>
■沖縄・浜比嘉島での大きな集会を終えてわずか4日。10月に2回もの報告会を試みる地平線会議ってすごい。沖縄には行けなかったけれど、関野吉晴さんの話は是非是非聞いてみたいぞ。そんな思いで私は女子寮仲間のうめ(山畑梓)と共に香川県高松市から上京した。
◆この人たち、ここまでやるの!? 2008年7月号の地平線通信、関野吉晴さんと武蔵野美大の学生による「黒潮カヌープロジェクト」の報告を読んだ私の感想である。2004年から「新グレートジャーニー」をスタートさせた関野さん、「北方ルート」「南方ルート」の旅を終え、いま「黒潮カヌープロジェクト」と真っ向から取り組んでいる。インドネシアから沖縄までカヌーで渡る。旅の出発は2009年3月を予定しており、今回の報告はその準備作業についてであった。
◆とにかくすべて「手作り」が原則。カヌーの船体を彫る鉄器も自力製作するので、日本での準備作業が半端ではなかった。理科の先生を目指している私は、断然その過程に興味を持った。5キロの鋼を作るためにはなんと120キロの砂鉄が必要というのだ。どこで集めるんだろう。砂鉄集めの候補として当初江ノ島があがったが、イオウ、ナトリウム、チタン等の不純物が入っているため、たたら製鉄には向かないらしい。
◆千葉の九十九里浜なら純度の高い砂鉄が採れるということで、学生を引き連れて九十九里浜に向かった。スクリーンにうつる、黙々と砂鉄を集める怪しい集団…。画面を見ていると、うーん確かに怪しい。さわやかなサーファーたちとのコントラストに思わず笑ってしまった! 砂鉄120キロともなると1回や2回の採集では足らず、知り合いからニュージーランドの砂鉄を輸入したら? と心が揺れる誘惑もあったようだ。
◆3回目の採集の時、なんとサーファーの方が砂鉄の採れるポイントを教えてくれたそうだ! 真っ黒な砂浜で勢いに乗って砂鉄を集めた結果、目標を大きく超える150キロの砂鉄をゲット!!きっと関野さんや学生達の一生懸命さがサーファーに伝わったのだと思う。話の中で関野さんは、鉄の大切さについても教えてくれた。
◆ガラス、ゴム、プラスチック等には、私たち日本人はかなりお世話になっているが、それらに頼っていない人たちが世界中に多くいるという。しかし、鉄に頼らない人というのはいないのだそうだ。鉄は、ナイフ、武器、農機具に利用されている。さらに、地球内部の構成成分は主に鉄であり、地球の重さの3分の1を占めているそうだ。金よりも鉄のほうがずっと価値があるのだ。私は将来鉄の大切さを生徒達に伝えたいと思った。
◆プロジェクトに参加する学生のガッツには感心した。単位が出ないにも関わらず、全体では約200人の学生が参加しており、中でも元気な女性が多いとのこと! 特にカヌーの船体を彫る鉄器作りは気が遠くなるような作業のオンパレードだ。各工程で学生がチームを組み、黙々と大量の砂鉄を集めたり、火の番をしながら300キロの炭焼きをしたり、24時間耐久たたら製鉄をしたり…。参加したいという友人は私の周りにはまずいないだろう(うめくらいかな?)。
◆多くの学生がこのプロジェクトに参加する理由は何だろうか。まず、関野さんの人間的魅力である、と思う。「グレートジャーニー」という世界中を巡る壮大な旅をやり遂げた関野さんは、そのことを鼻にかけることなく誰に対しても気さくに話をしてくれる方である。実際私も緊張しながら話しかけた時、少年のような笑顔で応じてくれた。
◆さらに関野さんは、学生にチャンスを与えるということを意識しているそうだ。学びのチャンスである。例えば「鉄を作るためにどれだけの砂鉄が要るか、どれだけの木を切るか」を、考えるチャンスを与える。いままでは、学生が「旅に連れて行ってください」と言えば「若いときには一人で旅をするものだよ」とつっぱねていた。それが最近は次の世代に伝えなくてはいけないと思うようになったそうだ。関野さんの旅の壮大さ、人柄の良さ、学生にチャンスをという思いはしっかり学生に伝わっていることだろう。
◆関野さんによると、学生は「自分で何かを表現したい」「認めて欲しい」という気持ちが強いそうだ。確かに7月号の通信には、そういう学生たちの感動の心が溢れていた。当たり前のように存在する「生」の実感、「物」への感謝、「仲間」との絆。関野さんの大きなプロジェクトに巻き込まれながら、それぞれが違った視点で新たな発見をしているようだった。違った視点であるからこそ、個性が出てくる。「自分はどんな人間か」ということを表現し、評価されたいのである。私も学生のひとりとしてそう感じている。今書いているこの報告会レポートも自分を表現することのひとつであり、私には大きすぎるくらいのチャンスをいただいていると思う。講義だけでは学べないことを、私たちは求めているのだ。
◆準備から様々な困難にぶつかりつつも、決してあきらめない関野さんとそれに応える学生たちに励まされた気がした。ちょうど私は今年の教員採用試験に落ち、自信を無くしているところだった…。よしっ! あきらめないかぎり何でもできるぞ!! (クエこと 水口郁枝 香川大学4年)
<インドネシア苦労編>
■困難にぶつかった時、物事が上手くいかない時、皆さんはどう感じられますか? 先が見えない時、どのように消化しますか? 関野さんの報告はまさにそのようなことを考えさせられるお話でした。ここから報告会レポート、海外編です!
◆未だかつて誰も成し遂げたことのないインドネシアから沖縄までの帆船による航海。しかも道具、舟全て手作りで。関野さんの話は一言で言うと、「Clear」、明確だった。しかし、自然の中から素材をとって来て、自分たちでカヌーを作るというコンセプトの実現は容易ではない。便利なものは、どんどん浸透していく。一人がエンジンつきの船を使い始めるとそれは次第に普及し、帆で走る舟は消えてゆく。そんな中、帆船を、しかも沖縄までの航海に耐えるものを探すのだ。たどり着いたのが「パク−ル」である。
◆インドネシアで唯一10mを越える帆船を用いている民族がいた。スラウェシ島のマンダール地方に住むマンダール人で、「サンデック」という帆船のレースで知られる。関野さんは、この人々にひかれ、彼らの伝統的な舟である「パクール」を今回の航海のモデルとし、マンダール人たちと一緒に航海することにした。マンダール人を選んだ理由は「マンダール人を好きになったから」とはにかみ笑顔で言う。インドネシア側のリーダー役、29才のマンダール人ジャーナリストとの出会いが大きかったようだ。
◆船作りに重要なのは、第一に大木探しだ。丸太舟を作れるだけの木をあちこち探しまわる。やっと見つけた大木には大きな穴があったり、根の部分が四つ股だったりで難航した。さらにマンダール人グループと日本人グループのモチベーションは全く同じではない。大木を切り倒すのに、チェーンソーを使わないことを納得してもらうのには苦労した。この問題は熱意を持って接することで理解が得られたが、問題は今回の企画でのモチベーションである。
◆マンダール人にとって航海の目的は船乗りとしてのアイデンティティを守ることであり、「俺らがやらなきゃ誰が出来るんだよ」という感じ。一方関野さんとしては、この企画は日本とインドネシアの祖先を繋ぐことがメイン。「民族意識が高すぎるのにはちょっと引きを感じる」と話された。
◆船大工との間に生じた微妙なギャップ。さらに船大工の親方が給料をピンはねしたり、マンダール人同士意見が合わなくなったり、純粋に舟を作る問題だけではなく、人間模様もスムーズにいかない。解けないパズルを解いている状態に陥ってしまう。普段温和なマンダール人といえども、生活がかかると何でもOKでは行かないのだろう。
◆結局、2隻の舟を作ることで双方のギャップを回避することにした。日本側のコンセプトを守った丸木舟とマンダール人の伝統舟「パクール」を造ることで双方の言い分を盛り込むことにしたのだ。コストや航海のスピードが違うことのデメリットよりも、双方の納得行く形で航海できること、また海の状況で意見が分かれた時に二手に分かれられるなど、メリットの方が大きい。さらには、「ケンカしたら別れられる」ことも大きな要因だ。
◆「譲れない。意見があわない場面では、徹底的に喧嘩します。現場(海上)で喧嘩するよりは、陸上で相手のことを分かってから海に出たほうがいい」と関野さん。命がけの旅に「お友達クルー」では危険だ、というのだ。
◆そんなこんなで現在舟造りが進行している。マンダール人棟梁のすごいところは、舟造りに図面を引かない事。造りたい舟を要求すると、頭で図面を作って丸太にソレをそのまま写すように木の形を造り上げる。こうして何とか1月までには舟を完成させ、来年3月から8月の間航海を終えてしまう予定らしい。
◆前途多難のように見える新グレートジャーニーだが、関野さんに迷いはない。「先の見えることよりも、先の見えないことをしてみたい」。そして、上手くいかないことでいらいらしたりするよりも、むしろ「楽しんじゃう」「そもそも上手くいかない事が当たり前。いくら想定しても予想外の事が生じるのが普通」。私は思わず「なるほど!」と、うなった。世界を見てきた関野さんの懐の深さをこれらの言葉にうかがうことが出来る。一言一言が、何故こんなにも哲学的なのか。
◆関野さんの力強い歩みに気になったことがひとつあった。「判断を下すときに一番重要視する事は何か」ということである。この質問に関野さんは、「人を死なせたくないし、自分も死にたくない。だから判断は安全な方を選ぶ」とのこと。命が一番大事。関野さんの一言は本当に直球というか、一番大切なことを自然体で捉えていると感じた。
◆私は2年前、えも〜ん(江本)と四万十川で出会い、今回このようなレポートを書く大役を頂いた。「チャンスを逃さないことが大切」と、いつもえも〜んに教えて頂く。これから先、人生の迷路に入り込んでいくだろう。いかに自分が大切なものを明確に持って迷路を楽しむか。2時間30分の報告会で多くのことを知り、学び、考えることが出来た。私も地平線会議の方々のような素敵な笑顔が出来るようになりたいです! 「人生の大学」地平線会議との出会いに感謝! (うめこと 山畑梓 香川大学4年)
地平線報告会での報告が終わった後、再びインドネシアに戻って来た。カヌー造りを続行するためだ。クルーであるムサビの卒業生二人は舟大工や土地の人々に助けられながら丸木舟の粗削りとマンダールの伝統船パクールのための板作りを終えた。今月と来月は、日本までの航海に耐えられるように精巧な造りにするとともに、マスト、帆、アウトリガを取り付けなければならない。
来年4月からの航海は最低3カ月はかかる。インドネシア人との協働作業だ。文化も宗教も違う人間が狭いカヌーの中で、危険と隣り合わせの活動をする。本音の出し合いの中で、トラブルも多発するだろう。見方を変えれば、日本でも日増しにその傾向が強くなる、多民族共生社会の大きな実験場になるような気がする。
シーカヤックでベーリング海峡をはじめいくつかの海峡を越えた。しかし基本的には海に関しては素人だ。トレーニングも強化していかなければならない。インドネシア、フィリピンの国境近くではイスラム過激派や海賊の動きも活発だ。安全対策も検討しなければならない。日本まではまだまだ遠い道のりだが、久しぶりにワクワクする高揚感もある。(スラウェシ島にて 11月15日 関野吉晴)
■江本さま ご無沙汰してます。角幡です。現在、カトマンズにいます。以前、お話したイエティの捜索隊が先日終了し、戻ってきたところです。ダウラギリのふもとの3箇所にキャンプを張り、イエティが出現するのをテントの中でカメラを構えてひたすら待っていましたが、残念ながら目的であった撮影には失敗しました。ただ、メンバーがイエティらしき動物を目撃したり、他の動物のものとは明らかに違う細長い足跡をなんども見つけたり、それなりに成果があった遠征だったと思います。
◆面白い話もありました。往路のキャラバンで地元の村人にイエティについていろいろ質問したのですが、ある村の住民らはこの辺にイエティがいると言いだしたのは日本人だというのです。その日本人は20〜30年前に来て、イエティの写真を撮影して村人に見せたそうです。話の内容からしてこの日本人というのは、86年にダウラギリIV峰のふもとで遭難死した鈴木紀夫にまちがいありません。
◆鈴木はルパング島で小野田寛郎と接触した後、イエティを探すためにダウラギリの山中に6度も通いました。今回、僕らが監視活動を行ったコーナボンコーラという谷にです。僕が取材した限りで、登山ではなく雪男を探しにヒマラヤに出かけて遭難したのは彼だけです。僕は彼の人生に強く惹かれ、出発前から遺族や友人に取材を重ねていました。それだけに、現地では今でも鈴木のイエティ発見に対する執念のようなものが逸話となって残っていることに強く驚きました。
◆今回の隊としての行動は今日予定されている打ち上げをもって終了します。そしたら、僕はまたダウラギリの山にイエティを1人で探しに行くつもりです。イエティとされる動物がなんなのかはよくわかりませんが、何か妙なものがいるのは確かなような気がします。11月になると僕らが今回監視活動を続けてきた山の斜面は雪で白く覆われるはずです。地元のハンターはイエティは冬も山にいると言っていました。雪に覆われたほうがイエティは見つかるような気がします。
◆それに、僕は鈴木が死んだ季節に同じ場所に行ってみたいと思いました。鈴木は11月に雪崩で死亡しました。鈴木が自分を犠牲にしてまで固執したものが何だったのか、自分の肌で感じることでより深く理解できるような気がしたのです。シェルパは雇わず、鈴木の死体を発見したというハンターと一緒に現地に行こうかと思っています。もちろん、死ぬつもりはないので雪崩から安全な場所にとどまるつもりです。
◆11月下旬にカトマンズに戻ることになると思います。そしたら、またご連絡します。皆さんによろしくお伝えください。(10月18日 角幡唯介)
■“浜比嘉島で地平線会議をやる…”それは僕にとって、自分の旅の途上にある大きな出来事でした。旅を通じて津軽三味線と出逢い、地平線会議と出逢い、江本さんより「次の大集会は沖縄で」と聞いて以来、不思議なご縁が働いて、沖縄に足を運ぶ機会が増えました。三味線と共に訪れ、島の皆さんと触れ合う度に、音楽や唄の深いところを流れている不思議な力を感じ、「世界は(人は)唄によって、こんなにも繋がっているんだ!」という更に広い世界の認識が芽生え、新しい視野が開けたような感覚を強く抱くようになりました。
◆6月には比嘉のハーリー祭に参加させて頂き、垣間見た海と太陽と風、島に流れている時間、人々の営みの姿を心に焼き付けました。8月には僕の姉が同じうるま市に移住し、姉の三線の先生との素晴らしい出逢いもありました。
◆普段は東京の報告会場で顔を合わせている面々が、間近に迫る本番に向け島の一軒家に集結し、それぞれの持ち場を守り抜く姿は、ゴールを目指すハーリー舟の船員達の姿にそのまま重なる程の一体感を感じました。なかなか要領が掴めず、波に揉まれながらの全力疾走でしたが、要所では島の方々に支えて頂きながら、なんとか迎えられた本番当日でありました。
◆報告者一人一人の熱のこもったお話。島に生きる人達の誇りに満ちた芸能。それらの火を囲むように集まった人々の輪。その待ち望んでいた光景を目にしながら、津軽三味線の音色を奏でられたことはこの上ない喜びでありました。2日目のガチマヤー交流会での一席。浜比嘉の皆さんの温かい拍手に乗せられて“カチャーシー”を弾かせて頂いたのですが、気がつくと背後からは外間昇さんのお父さんである昇進さんの太鼓が鳴り響き、唄の名手・山根杉男さんが僕の演奏を引っ張るようにして唄い初め、手拍子に乗せて島の踊り手・山根清雄さんが目の前で踊り出した頃には、僕は自分が何処にいるのかわからないような、まるで唄の世界に入り込んでしまったような、夢のような不思議な感覚に包まれていました…。
◆ここ琉球は人と唄の十字路であり、自分にとって、ここから世界に繋がる扉が開いてゆく様な気がするほど、魅力的な大切な場所になってゆくだろうなと確信しています。この度は、浜比嘉島の皆さんに大変お世話になりました。有難うございました。『ちへいせん・あしびなー』が浜比嘉島で開かれたという事が、これから先になって、島の皆さん(そして子供達)をはじめ、全ての参加者にとって、実りある時間になっていくことを願っています。(東京 車谷建太 津軽三味線弾き)
■10月31日、地平線は関野さん出演というので行くことに。その前にまずは、ひとっ風呂というわけで、高田馬場の「福の湯」へ。駅から早稲田通りをちょいと行ったパチンコ店の裏側、宵の口でも薄暗い路地。中国の旧正月のような真っ赤な提灯の入口だ。
◆番台方式でなくロビー受付で、女湯の暖簾脇に水槽があり、なにやら軟体がゆらゆら動いており、ご主人に聞くと「よくわかんないけど、くらげの種類らしいよ」。とのこと。ノーベル賞効果で、「お客さんによく聞かれるんだけどね」
◆脱衣所も風呂場も狭いのに、意外や意外、客が多い。どこも客といえば、せいぜい5〜6名というのが昨今の銭湯実態なのだが、福の湯さんの、この日の客(但し女湯)は、なんと14名。都内銭湯の数は、最盛期の60年代の三分の一に減り、900軒を割っている。
◆シャワーだけでいいという風潮のようだが、棺桶みたいな自家用ユニットバスなんかより、銭湯の大きな浴槽のたっぷり湯につかることこそ「極楽、極楽」なのです。ここ福の湯は、壁絵の富士山もないし、洗い場も狭く、浴槽も2つしかない。それでも客の入りがいい。みなさん、ご常連客で、風呂からあがった後も、脱衣場でしばらくお喋り。
◆「駅のこっちの宗教、あれなんだっけ」、「幸福のなんとかよ」、「そうそう、あそこでね、明日、野菜安いわよ、コーヒーもタダだし、昼頃だと、お弁当もくれるわよ」。顔は厚化粧だけど、下着は巣鴨仕様の真っ赤なニットのおばあさん、大きな声で「でもね、あたしゃあそこの信者じゃないよ」、となんども繰り返していた。さあ、急いで地平線へ行かなくっちゃ。(田口幸子)
■10月16日〜22日、イタリアのトリノで開かれていた第11回シネマビアンテ国際ドキュメンタリー映画祭で「puujee」がオープニング上映され、2つの特別賞もいただきました。グリ−ンクロス特別賞(Green Cross Special Mention Award )とトリノ学生自治委員会特別賞(Special Mention Torino Provincial StudentCouncil)です。
◆シネマビアンテとは環境映画という意味で、限定されたテーマにもかかわらず、観客動員は2万人でした。グリーンクロス特別賞のグリーンクロスとは、世界各国に支部を持つ環境団体です。もう一つのトリノ学生自治委員会特別賞は、映画祭に参加しているボランティアの学生たちが選ぶ賞で、学生たちの支持を得られたのは望外の喜びでした。
◆最優秀海外ドキュメンタリーはニュージーランドのJustin Pemberton監督の「The Nuclear Comeback」。世界中の原発問題を扱った作品。最優秀イタリアドキュメンタリーは Cafi Muhamud 監督と Luca Cusani監督の共同演出の「Cry Sea」。ヨーロッパの水産資源の問題を扱った作品。他にも、ベルリン映画祭やカンヌ映画祭、カナダのホットドック映画祭など大きな映画祭にノミネートされた作品が目白押しでした。環境映画祭だけにストレートに環境問題を扱った作品が優秀賞に輝きました。
◆そのなかでは「puujee」は異色の存在でした。モンゴルのある遊牧民の小さな家族の幸福をグローバリズムが破壊していく怖さを描いているという評価もあったでしょうが、やはりプージェーの魅力が審査員や観客の心を捉えたと言ったほうが良いと思います。
★「puujee」が「Sandance's International library」 と「UCLAArchive's Research and Study Center」に所蔵されました。サンダンス映画祭で上映された作品は優先的に所蔵されるそうです。
★12月19日〜28日まで台湾の台北で開かれるCNEX Documentary Film Festivalに招待されました。映画祭の期間中2回上映されます。立冬も過ぎ、寒さが厳しくなります。みなさまご自愛ください。(puujee製作委員会 山田和也・本所稚佳江)
■[1信](浜比嘉島あてに)
沖縄は晴れてますか? みなさん集まってますか? 盛り上がってることでしょう〜♪「ちへいせんあしびなー」の案内を壁に貼って毎日見てました。行けないけど(悲しいな〜くやしいな〜(〉_〈))心は大好きな沖縄。大好きなみなさんと一緒にいさせてくださいね♪スティーブ「ボクも行きたかったよ〜」と(笑)。(エミコ 10月25日)
■[2信](編集長からのお見舞いメールに答えるかたちで)
最近の様子は、激しかった炎症がおさまり普通に歩けるようになりました(それだけで感謝いっぱいです♪)。合併症については様子をみている段階。筑紫哲也さんの訃報に大きなショックを受けると同時に癌の恐ろしさをあらためて感じされられました。深刻な日々の中で「大丈夫!」と「やっぱ現実からは逃げられないよね……」が行ったり来たり。スティーブは毎日(必死に)笑わせてくれます。その姿に涙がでちゃいます。心配してくださっている地平線の皆さんにも心からお礼を申し上げます。言葉がみつかりませんが、とにかくベストを尽くします。そして神に祈りたいと思います。(エミコより 11月17日)
★注:エミコさんは、故筑紫哲也さんの夜のニュース番組の特集「いのちのペダル」というドキュメントで何度も紹介されていた。
■江本様 ご無沙汰失礼しておりました。先月中にお便りする筈が上司の事故などもありのびのびになってしまいました。実は明日チベットに出発するのですが、その前に北海道西興部村猟区周辺のこの夏の報告をしたいと思います。
◆8月30・31日に村で「2008ヒグマの会クマフォーラム」が開催されました。ヒグマの会は狩猟者や研究者、一般市民ら約150人の会員からなる、ヒグマと人間のよりよい関係を考える団体です。ほぼ毎年、道内各地でフォーラムを開き、地域に根ざしたテーマの情報提供と議論の場を提供しています。単なる「保護論」ではなく、被害問題とその対策を考えたり、クマ猟についても必要なこととして議論しています。今回西興部村開催ということで、私は現地事務局を仰せつかりました。
◆今回のテーマは「担い手育成」。近年、クマを含む野生動物問題が増加する中でその保全と人間活動の維持の間のどこで折り合いをつけるかということが、全国的な課題となっています。一方で、野生動物対策の重要な担い手である狩猟者の数は減少しており、野生動物管理の専門家の配置や教育などの体制づくりが急務となっています。そこで今回は「ヒグマとの折り合いのつけ方〜担い手を考える」というテーマで、知床や道南など各方面からの話題提供をベースにヒグマとの共存とその担い手について考えながら、わが国の将来の野生動物管理の理想像について探りました。
◆続いて、9月1〜5日に私の所属する酪農学園大学の知床釧路湿原実習が行われました。30名の学生と、知床国立公園内のクマやシカが闊歩する真只中にあるユースホステルに泊まり込み、地元の知床財団にお世話になりワイルドな実習をしました。目玉は「エゾシカ市街地追い出し作戦」。
◆同公園ではシカやクマが人慣れ化し、隣接する市街地への出没や人とのニアミスが増加しています。事故が起きる前に野生動物と人間の生活圏を隔てようと、ウトロという人口1200人の市街地がぐるりフェンスで囲われました。しかし、この中にもシカが侵入し、庭木の食害などの問題が起きています。これを排除しようと、人壁をつくり人海戦術でシカを追い出す「市街戦」に参加したのです。
◆家屋や車をよけながら、なんとか数頭をわなに追い込み、町の外へ出すことができました。学生たちには野生動物対策の「現場」を肌で体験するいい機会になったと思います。自然との共存は決して楽ではないのです。知床を離れる時にはバスの中から、川でマスを食べるヒグマを観察することができ、世界遺産にもなった豊かな自然を満喫しました。
◆さらに、9月7〜13日は、西興部村で本学科集中実習第2弾、生態システム論実習が行われました。60人の学生が村の人たちにお世話になりながら完全自炊、一部テント生活も体験しながら、同村の生物多様性を把握することを目的に生物相を調べる実習です。特別な許可をえた昆虫、淡水魚、小型哺乳類の捕獲調査やクマやシカなど中大型哺乳類の観察・痕跡調査も実践しました。朝から晩まで続くハードな各種野外調査に明け暮れながら、学生たちはフィールドワーカーの入門ができたと思います。
◆その後もいくつかの野外実習を行い、9月下旬には10日間アメリカへ野生動物関係の学会参加と視察の旅に出かけました。さらに明日からは来年のチルー(チベットカモシカ)の生け取り調査の事前会議のため西安に行った後、予備調査のため青蔵高原鉄道にのってラサまで行ってきます。これについてはまた後日報告しましょう。(10月28日 札幌発 伊吾田宏正)
島の愛好家集団「ぐるーぷ・あいらんだあ」を10月12日の解散パーティをもって、無事「30年満期解散」しました。ほっとしています。この会は私が一人で始める時に、「30年」と決めて始めたものです。30年間のうち、21年間は重度障害を持つ娘の夏帆(なつほ)を育てながらの活動でした。それ以外に自分の島旅作家・写真家としての仕事もありましたので、決して楽な30年ではありませんでした。
「あいらんだあ」では、いろいろな活動をしました。河田自宅での飲み会に始まり、島に本を送る活動、島でのダイビングクラブ、島での写真展、フリージアの花染め島興し、親孝行ツアー、島を語る会、寺子屋、島の子を招待しての韓国への島ツアー、日本で怪我をしたトンガのラブビー選手の応援活動、災害応援や、台風お見舞いにもでかけて行きました。
どの活動を思い出しても、懐かしく、島人の顔が浮かびます。
あれをやりたい、こうしたいと思いつき、やり出してしまう私たちの行動をフォローしてくれたのは、いつも「受け入れてくれる」島の人たちでした。親孝行ツアーでは34人の参加ということで、町の手配でチャーター増便を出してくれたり、韓国の島ツアーではお年寄りが倒れて、異国の病院でドキドキしたり、トンガのラグビー選手の応援にはたくさんのお金が必要でバザーをしました。40年前の島の映画を上映する会では素人ゆえの失敗もありました。
あいらんだあの方針は、「来る者は拒まず、去る者は追わず」そして、会員、非会員の間に隔たりを持たないこととしました。
「キチンと終わらせよう」と、昨年あたりから編集長の清水良子と準備を進めていましたが、今年4月に夏帆が誤嚥性肺炎で入院し、その後、鼻から胃にチューブを入れての生活になり、機関誌「あいらんだあ」の発行が遅れて行きました。
解散時までに何とか2号同時に発行し、解散パーティーにたどりつきました。奄美大島からは前日まで海で泳いでいた魚と一緒に飛行機に乗ってやってきた人、大島紬の郷から来た人、仙台、大阪からも仲間が集まりました。パーティーは島のやり方で一汁一菜の持ち寄りです。私は、島の知人が作った大島紬を着用しました。
アフリカのナミブ砂漠で亡くなった会の顧問・国岡宣行さんの奥さんと息子さん二人もきてくださり、感慨深い思いでした。
「終わり」は「始まり」に戻ってゆくのだと感じられたからです。「終わる」ことの大切さを知りました。そこには、新しい出会いが生まれることをハッキリと見ました。「あいらんだあ」を続けてきてよかったと思えた瞬間です。
2009年1月には奄美大島での「あいらんだあ同窓会」計画も進行中です。
私は、これからは「一人の旅人として」島を歩きます。自分の仕事をまとめてゆく時期にもなりました。「島に住む幸せ」というテーマの写真展をやりたいし、島の人に教えてもらった「島の教え」を伝達する本を作りたいと思っています。
ライフワークとしての島との関わりは、これからもずっと続きます。「終わることの大切さ」「続けることの大切さ」を深く思うのです。(河田真智子)
■先月の通信でお知らせしましたが、長野亮之介画伯、丸山純さん制作による「地平線カレンダー」、2009年分が早々と完成しました。タイトルは『沖縄海風舞島楽覧記』。判型は例年と同じA5判(横21cm×縦14.8cm)。2ヵ月が1枚のカレンダーになっていて、それに表紙を付けた全7枚組です。頒布価格は1部あたり500円。送料は8部まで80円、16部まで160円(それ以上はご相談ください)。
◆地平線のウェブサイト(http://www.chiheisen.net/)から申し込んでください。 を設けましたので、ウェブサイトのページから「申込書」をコピー&ペーストしてメールソフトに貼り込み、必要事項を記入してご送付ください。葉書での申し込みも受け付けています(〒167-0041 東京都杉並区善福寺4-5-12 丸山方「地平線カレンダー・2009係」)。
◆お支払いは、郵便振替で。カレンダー到着後でけっこうです。いきなりご送金いただくのではなく、かならず先にメールや葉書などで申し込んでください。「郵便振替:00120-1-730508」「加入者名:地平線会議・プロダクトハウス」
◆地平線報告会の会場でもお求めいただけます。早期完売を目指して、どうかご協力を!!(地平線会議)
■サバイバル登山家、服部文祥さん、新著『サバイバル!−人はズルなしで生きられるのか』を刊行! ちくま新書 760円。平穏愛好家には要注意本。
10月以降、通信費(1年2000円)を支払っていただいた方は以下の方々です。中には、支援の意味の過分な額を寄せてくださった方もいます。どうもありがとうございました。当方の手違いで万一、記録漏れのケースもあるかと思います。その場合はお知らせください。(地平線会議)
大島亮太/小長谷由之・雅子/木下聡/前島啓伸/海宝道義・静恵/吉竹俊之/野崎晶子/下島伸介/古川佳子/李容林/中村易世/南澤久美/古橋稔/斉藤宏子/鳥居大地
以下の19名の方々に汗をかいてもらいました。ありがとうございました。
三輪主彦 車谷建太 松澤亮 森井祐介 久島弘 米満玲 宮川竜一 三上智津子 緒方敏明 落合大祐 江本嘉伸 白根全 杉山貴章 山辺剣 山本千夏 坪井伸吾 妹尾和子 長野亮之介 丸山純
「ちへいせん・あしびなー」への皆さんの思いが重なって、24ページの大特集となりました。通常の通信分含めると32ページ。原稿を書いてくださった皆さんにお礼を言います。
◆記念号なので沖縄に多めに送りたい、と部数も通常のほぼ倍近くにしました。1日では到底印刷できない分量なので、18、19日と2度に分けて印刷することに。特集の24ページ分は18日やることにし、「地平線特殊印刷機動隊」に特別出動してもらいました。森井祐介さんのほか、丸山純、三輪主彦、関根皓博の各氏と、あまり役立たない不肖私の5名。重い紙は三輪さんが車で運んでくれ、おかげで24ページ分は18日の早い午後には印刷終了の運びとなりました。
◆あらためてレイアウトをひとりで引き受けてくれた森井さんに感謝。実は、いったんは印刷業者に相談しかけたのだが、お金がかかるだけでなく何よりもいまの通信のかたちそのままにはなりそうもないと判断し、いつもの通りすべてを森井さんにお願いした次第。
◆ついでながら、これだけの量となると紙の重さが馬鹿にならない。この件では三輪さんが車を動かして積み込んでくれ、大いに助かった。あしびなー自体は、地平線の若手の奮闘がありがたかったが、最後のところはシニア組の頑張りが支えてくれた感じである。地平線通信、市場経済とまったく無縁のところで勝負している。(江本嘉伸)
ニッポンはじっこ紀行
「日本の国境の島まで全土が等スケールで描かれた地図を探してるんだけど、まだ見つけてないんです。あんまり需要がないのかなあ」というのは、ノンフィクションライターの西牟田靖さん。'02年に韓国で竹島周辺クルーズツアーに参加したのを機に、国境を意識します。「愛国心をあおる韓国に対し、沈黙の日本。国境を見ると、その国の今の勢い、国際的な立場、国民の気質なんかも感じられます」。 というものの、行くのが難しい国境も。日本最南端の沖ノ鳥島には、運良く都知事の視察ツアーに同行できなければ行く手立てはありませんでした。尖閣諸島も苦労しています。微妙な地域だけに、外務省から文書で注意を受けたことも。日本の国境巡りの結果、国境を4タイプに分類する試みなど、旅の記録は近著「誰も国境を知らない」に結実しました。今月の報告会では、西牟田さんに代表的ないくつかの旅の顛末を語って頂きます。 |
通信費(2000円)払い込みは郵便振替または報告会の受付でどうぞ
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議(手数料が120円かかります)
地平線通信348特集号/2008年11月19日/発行:地平線会議/制作:地平線通信制作室
編集長:江本嘉伸/レイアウト:森井祐介/イラスト:長野亮之介/編集制作スタッフ:三輪主彦 丸山純 武田力 中島菊代 大西夏奈子 関根皓博 藤原和枝 落合大祐/編集協力 網谷由美子/印刷:地平線印刷局榎町分室
地平線Webサイト http://www.chiheisen.net/
発行 地平線会議 〒160-0007 東京都新宿区荒木町3-23-303 江本嘉伸方
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