2008年10月の地平線通信

■10月の地平線通信・347号のフロント(1ページ目にある巻頭記事)

地平線通信表紙

野湾市にあるコンベンション・ホール前の海辺は市民の憩いの場となっている。10月11日昼前、時間が来るまで、浜辺の椅子でレーズンがつくってくれたお弁当をご馳走になった。

◆おいしいねえ、と言いながら幸せな気分に浸っていると電話があった。偶然と言うしかないな。南会津の酒井富美さんからだったのだ。250回報告会を記念して伊南村(現南会津町)で「地平線報告会 in 伊南村」を実行したのは、8年と数か月前になる。桧枝岐歌舞伎の舞台を復元し、「川」をテーマとしたこの特別報告会、富美さんが頑張って大雨の中、盛り上がった。

◆「ちょっと待って。代わるから」と、電話をレーズンに渡す。ふたりはさすがに驚いた様子だった。ふるい仲間なのだ。詳しいことはレーズンこと沼尻千春さんの文章を読んでほしい。「すっごく行きたいけど、今回はこちらで盛会を祈ってます」と富美さん。いまでは彼の地で母親として教員として頑張っている。地平線会議はあの後さらに百回も報告会を重ね、いまは沖縄の浜比嘉島で350回を記念する(正確には353回になる)大集会を間もなく実現しようとしている。

◆浜辺からホールに戻り、席につくと、真ん中付近はオレンジのレイを首にかけた人たちで埋まっていた。ハワイ沖縄県人会の百数十人の皆さんがわざわざやってきていたのだ。やがて場内が暗くなる。現代版組踊「肝高の阿麻和利(きむたかのあまわり)」の開演である。

◆琉球王朝時代、勝連半島首里城に対抗、「謀反者」と歴史の中でとらえられてきた阿麻和利が、実は勝連の人々にとっては善政を敷いた勇気ある王だった、という視点で脚本が書かれている。「肝高」とは「志の高い」ことを意味する。大胆なストーリー展開の面白さもあるが、何といってもひきつけられるのは演者たち全員が、そして重要な要素である音楽のナマ演奏がすべて地元勝連半島の中高生たち、ということだ。

◆百名を越える出演者、踊り手たちの中におとなはひとりもいない。近年他のグスクとともに世界遺産に指定された勝連城(グスク)の模型を背景に、それぞれの役を堂々と演じ、歌い、踊る中高生たち。その姿に覚悟していた以上に心を揺さぶられた。これは、何なのだろう。一瞬たりともだれる場面がなく、出演者たちは時に観客の間に入り込んで踊り、歌う。

◆ことし8月はじめ、演出を担当する南島詩人、平田大一さんの「ひとり舞台」を、東京・広尾で見た。その時の平田さんの話と芸、そして特別出演した「阿麻和利」OB、OG3名の演技に強くひかれ、本番の舞台を見たくて宜野湾までやってきた。その思いは報われた。どうしたことか、少年少女たちの舞い、歌声、せりふを聞いていると次第に涙が溢れてくるのである。

◆はじめて沖縄を訪れたのは1976年、「アメリカ200年」の企画取材でだった。コザ(当時)のバー街で米兵相手の店を取材していたが、タクシーのラジオが「大久保逮捕」を伝えた途端、運転手に「すいません、空港へ」と方向転換を頼んでいた。大久保利春氏は当時丸紅の常務で、ロッキード事件で追求されていた。2月から始まったこの事件で社会部の遊軍記者だった私は丸紅を担当、事件の長期化の様相でひとまず別のテーマに手をつけ、沖縄まで来ていたのである。初めての沖縄への期待は大きかったが、日本を揺るがす事件に手は抜けない。滞在を一泊で切り上げ、帰京した。

◆あれから随分時間が経つ。数年前、2匹の犬を相次いで失い、呆然としていた私を沖縄に連れていってくれた地平線仲間の妹尾和子さんとその友人のおかげで短い間に随分勉強させてもらった。琉球の歴史と文化を学ぶ、というとかっこつけになるが、しまった、という思いがあった。チベットもモンゴルも大事だが、その前に琉球のことを深く感じているべきだった、と。

◆さんご礁のダイビングを楽しみ、美しい砂浜で寝そべる楽しみは、あとあとでいい。とりあえず、身近な地平線の若い仲間たちに琉球の深さを感じとってほしい。新聞記者時代に自分ができなかったことを、できれば青春のうちにやってほしい、とつくづく思う。そして、この11月にはハワイ公演を予定している「肝高の阿麻和利」、機会があれば是非一度見にいってほしい。

◆中高生たちの演技に感動した翌日、浜比嘉島に外間さん夫妻を訪ねると琉球犬のゴンがおやじになっていて、なんと生後1か月のブーちゃん(雄)、ぽにょ(雌)が迎えてくれた。小学校の下地校長も、区長の平識さんも笑顔で待っていてくれた。あやはし館2階の「海の文化資料館」では写真展が見事に開催されている。「ちへいせん・あしびなー」がともかく始まったのだ。(江本嘉伸)


先月の報告会から

地平線の彼方へ

森田靖郎

2008年9月26日(金) 新宿スポーツセンター

◆「地平線会議」という絶妙に魅力的なキーワードを初めて聞いた時、まだ見ぬ世界の広がりに心がふるえた。このネーミングは29年前の真夏、新宿・荒木町で当時20〜30代の若者たちが夜通しアイデアを出し合い、いくつもの案から絞り出されたもの。その若者、つまり地平線会議創設の中核メンバーの1人が、作家の森田靖郎さん。日本人の記録を活字に残そうと、年報『地平線から』初代編集長を5年間務めた人でもある。

◆森田さんの最新刊『悪夢』(光文社/2008年)は、報告会会場であっという間に売り切れた。私は400頁を一気に読んでしまった。すごく面白かった!!! 「地平線会議が歩んできたこの30年間は、世界にとっても激動の時代だった」と語る森田さんは、激しく変貌し続ける中国をずっと追い続けてきた。『悪夢』を読むと、森田さんが常に自分の生身と五感で現場取材を重ねてきたことが、知識のない私でもわかりぞくぞくしっぱなしだった。

◆報告会冒頭、今も未解決とされる餃子事件の舞台裏について突然森田さんが語り始めた。犯人は中国国内の黒孩子(ヘイハイズ。中国の1人っ子政策に反し、2番目以降に生まれた戸籍を与えられていない子供たちのこと)と言い切った森田さんの文章の衝撃は記憶に新しい(地平線通信08年7月号参照)。鍵となったのは毒が混入された餃子の製造日。「07/10/1」と「07/10/20」。前者は国慶節の祝日、後者は土曜日。製造現場に人が少ない日を選んだ計画的犯行かと、現地調査をした日本の警察は考えた。そうして容疑者にあがった55人の工場労働者を聴取し絞り込みが行われた。この時点で犯人が特定されてもよさそうだが、中国政府からの発表はない。

◆1人っ子政策を推進する中国は農村問題を抱える。容疑者とされた55人の多くは農村出身だが、近年、中国では富の格差が大きく開き、人口の5%が富を独占。北京オリンピックが決まった2001年以降、中国政府はオリンピック史上過去最大の総額4兆数千億円という大金を使ってきたが、国が巨大な夢を追い輝きを増す一方で、貧困に陥り転落していく農民の姿が陰にあった。2008年元旦施行の「雇用法」も本来の目的に反し、出稼ぎ労働者たちから仕事を奪う結果に。これが事件の引き金となった。

◆森田さんはある取材で、福建省アモイのそばにある海亀島という小さな島を訪れた。黒孩子のルーツを辿って来たのだ。出稼ぎでの若者の島外流出を防ぐため、労働場所として化学プラント工場がこの島に建てられたのは10数年前。結果的に発生した水質汚染が、島民の愛する海亀の卵に奇形をもたらし、工場への賠償請求運動が起きた。この運動を先導していったのが出稼ぎで島外にいた黒孩子だった。海外にも黒孩子の組織があり、その数3〜5千万人ともいわれる。組織は日本にも存在し、反日運動や一部は犯罪組織化している。中国にもともと戸籍がない彼らのアシは文字通りつかめない。国家プロジェクトの1人っ子政策が生んだひずみ。複雑な事情を含む事件だが、近いうちにある程度の発表はあるだろう、と森田さんは締めくくった。

◆さて今年、アメリカ西海岸での公聴会に出席した時のこと。テーマは“中国のインターネットは自由の道具か、弾圧の武器か?”。懇親会の席で中国と韓国の友人たちと酒を飲むと、竹島や尖閣諸島の話題に。両者から領土や歴史の問題についてクレームが飛ぶと、森田さんは即座にきちんと反論できなかった。この弱さは日本人の多くが共有する部分ではないか、と問う。北京オリンピックも影響し、中国や韓国でナショナリズム熱が高まり日本人だけが「国境なき世界観に浸って」浮いている今の状況を、森田さんは日清戦争前夜に例える。日清戦争での山縣有朋の「主権線を主張し、利益線を守れ」という言葉に出会い、これだなと思ったそう。対中ODA政策に“か・き・く・け・こ”があるとすれば、日本はこれまでカネ、機械、車を援助してきた。しかしこれからはまず大事なのが健康。餃子問題も、国家間の安全もそう。国境意識も含まれる。さらに最重要なのが志(信念)。つまり「身口意(しんくうい)、体と食と心」。“か・き・く”から“け・こ”へ脱さなくては、と話す。

◆ところで、年間平均2冊の刊行が20年間続いているハイペースに編集者も驚くそうだが、集中して仕事をするのは1日に1時間が精一杯。朝の仕事の後は、ぶらぶら。「仕事」と「遊び」のほかに「第三の時間」が森田さんにはある。ぶらぶらしながら原稿のことをぼんや〜り考えたりする。ぶらぶら用の喫茶店や飲み屋が家の周りに20数軒ある。釣りは「第三の時間」を周りの人たちに認めさせる、究極のぶらぶらの境地。

◆アマゴという川魚はとても繊細な性格。“渓流の貴婦人”と呼ばれ、淡白で美味だそう。そのアマゴを釣りに奥越へ行った時のこと。アマゴは自力で滝を上り上流へ行けないので、村人は柳で編んだ籠に稚魚を入れて上流まで運び放流する。そこで成長したアマゴを釣って食べる村人を見て「村の人とアマゴは共生しているんだなあ」と森田さんは思った。「自然界の生命体は自分1人では完結しない。誰かの助けとか、誰かと関連しながら完結するんだろう」。森田さんは釣った魚は必ず食べる。放さない。「僕らに食べられることで、魚は生命を完結する」。一度釣り針を飲み込んだ魚は、自分の力で生きていけないからだ。

◆再び本の話。40冊近くある自著の中で最も刺激的な作品はと聞かれたら、森田さんが選ぶのは処女作『上海は赤いバイクに乗って』(草風館/1987年)。当時は人民の中へ入ることも、彼らについて書くこともタブー。禁断の域へ足を踏み入れた森田さんは「もう後には戻れない」と思った。刊行時、読売新聞の最前線記者だった江本嘉伸さんが書評を書いている。「安下宿にころがりこみ、中国のナマの社会にだけ身をさらして、無頼の人たちと接してきた森田のレポートは、これからの私たちと中国大陸の関わりに大きな意味を持つ。複眼で捉えた中国、草の根の上海。そこには、この大陸がもっともっとどえらく面白い存在になるという予感がある」。自分がやっていることをここまで見てくれている人がいる。森田さんは嬉しかった。「僕は中国を書いたつもりはないし、専門家でもない。中国をフレームにして自分の生きている今の時代を書いてきた」。こうして森田さんの創作スタイルの原型が誕生した。

◆『悪夢』は、“人間の本性は善か、悪か? もし悪ならば、正義で征することができるのか?”という問いかけが最大テーマ。中国の古い哲学書によると、善悪の両方を繰り返し、成長する。「これからの時代もそういうものがあるんだろう」。欲望の世紀だった20世紀は、例えるならエネルギーを貪った動脈の世紀。欲があるから成長もある。一方、21世紀を例えるなら静脈の世紀。使い古した血液をサラサラにして地球に戻さねばならない。「その激動の時代の狭間を生きてきた地平線会議は時代の目撃者であり、新しい時代の立会人でもある」。これからの課題は、欲からどれだけ離れられるか。新しい時代の産みの苦しみだ〜、と笑う森田さんが、欲から離れる時自分なりに意識することが“タメ”だ。野生動物が、獲物目がけて飛びかかる直前に腰を屈め、獲物と自分のスピードの距離感を測る、あの姿勢。ゴルフや釣りやフォルクローレの師たちからも、上達へ一皮剥ける時に“タメ”を教えられた。「新しい時代の産みの苦しみには“タメ”が必要では? 何か新しいことをやる前には、時代の流れの距離感を測るために“タメ”がいる。少しばかり立ち止まり、そこへ乗り移る時代のスピードの変わり目を見極めるのもいい」。

◆四十九日の法要を人生にあてはめたら、区切りを迎える良いきっかけになるのかもしれない」と話す森田さんの人生には、7年毎に大きな節目があった(地平線通信2006年10月号参照)。そう考えると、還暦を過ぎた森田さん(見えません!)はもうすぐ四十九日、つまりエンマ様の公開裁判の時。ここを越えると無罪放免の域に突入することに。本物の行動を重ねてきた人の人生の区切りという言葉に、深い重みを感じた。

◆同様に地平線会議を誕生から5年区切りで考えると、来年の30周年が四十九日だ。そこを越えると自由奔放の域に入るのかも、と森田さん。バンザーイ! 森田さんは最後にこう話した。「地平線会議は都会の隅でアスファルトを突き破って咲く花のようだ。けなげで、強くて、可愛いもの。その花が育つには土と水と光が必要。土は裏方として報告会や通信を支える人たち。水は報告会へ行って話したり聞く人たち。光は時代やメディア。土と水がしっかりしているから、それほどメディアに脚光を浴びなくてもいいと思う。都会の隅っこでこれからも花が咲き続けていられるように、水を遣りに地平線に足を運んで欲しい」。

◆質問コーナーでは天安門事件と香港の九龍城の話題に。人生の半ばにさしかかる時期に立ち会った天安門事件は、歴史の裂け目としての強烈な印象を森田さんに与え、書く意識を一転させ、大きな転機となったほど。また、テレビの報道番組で取材した九龍城は、生きて帰れないと当時誰もが恐れたアンタッチャブルゾーン。潜入成功のニュースは香港の新聞で一面記事に。人間離れしたアヘン窟で森田さんが学んだのは、こっそり取材せず堂々と正面からぶつかること。九龍城で、4×5(シノゴ)の大型カメラを持ったカメラマンを見たやくざが、そのカメラマンに対して「こいつは真剣勝負の仕事をしている」と尊敬の態度で接したそう。それを見て以来、森田さんは相手がやくざでも大物でも、真正面から名乗り取材するようになった。

◆スライドが一枚もない。でもとても鮮やかでずっしり心に残る報告会。会場からのリクエストでフォルクローレの演奏も! 温かいメロディを奏でる森田さんは、5分前のハードボイルドな表情が嘘のように、おだやかに音楽の世界を歩いていた。私が報告会の間ずっと感じていたこと。森田さんが好奇心で手を伸ばしたものへの徹底した愛情だ。

◆2次会も大盛り上がり! 30年間、地平線会議とつかず離れず歩んできた森田さんは、老いと若さが同居し交互に顔を出してしのぎを削る世代の中で、さらに先の夢を語っていた。30年前生まれていなかった私はそれを見ながら、1979年8月17日の夜に若者たちが汗かき議論の限りを尽くして、この世に地平線会議を誕生させた瞬間を想像した。今から30年後、この都会の花はどんな咲き方をしているんだろう。何をしても自分が問われるんだと森田さんは話していたが、30年後の私たち若者も自分を問われているんじゃないかなと、気が引き締まる夜だった!(森田さんの作品を全部読みたい大西夏奈子

「好都合な真実」とは、地球のご利益(りやく)。〜報告会を終えて〜

 生来苦手としてきたのは、人前で話すこと、文章を書くことでした。もう一つ苦手がありました。音楽です。報告会後のフォルクローレは、恥の上塗りでした。ウオームアップ不足の盛り上がらないケーナは冷や汗ものでした。ともかく報告会では、ありがとうございました。久しぶりにわが家に帰ったように、寛いで話せました。 「アマゴを渓流の貴婦人と付け加えればよかったのに」と、二次会で江本さんに指摘され、アマゴの枕詞を忘れていたことに気づきました。忘れていたというと、キッシンジャーがニクソンを伴って訪中し、米中接近(この直後に私は初めて中国を訪れた)した時の話です。キッシンジャーの土産が「アメックス」でした。その後、中国はカネの亡者となったことを言いたかったのですが……。事件などを通して社会を見るには、表面の事実だけでなく、隠された真実をどれだけ自分で引き出すかが肝心で、決して「暴(あば)く」「抉(えぐ)る」ことではないと思っています。「引き出す」は、自分の「引き出し」だと、肝に銘じております。

 地球は温暖化を騒いでいますが、じつは過冷化社会です。熱力学に「相転移」という言葉があります。水が氷になったり、水蒸気になる時に、分子はひとつも変わらないのに体の「相」が変わります。零度の水は液体にも固体にもなり、水を零度にゆっくりと冷やすと液体のまま、これが「過冷却状態」です。そこでコップを叩くと、一気に凍ります。

 いまの時代、一夜にしてヒーローがバッシングされて、悪役になる「過冷却状態」です。朝青龍、亀田親子などがそうです。メールなどで、隠れた「イジメ」が蔓延(はびこ)るいやな世の中は、「過冷却状態」です。

 二次会では「好都合な真実」が再び話題になりました。ゴア元米副大統領らが書いた『不都合な真実』に納得がいかない、と私が話したことの第二幕です。二酸化炭素は地球上の悪者あつかいです。石油が燃料として発見されたのは一八五〇年代、そして二〇五〇年にピークアウトするといわれています。およそ四〇億年かけて変性されてつくられた化石燃料を、わずか二〇〇年で使い切ってしまうなんて、人間は身勝手すぎると思いませんか。地球に「不都合」があるわけがない、地球は悪くないのです。二酸化炭素と水蒸気に包まれた地球は常に十五度前後の温度に保つ「温室効果」があるのです。海水の「温まりにくく冷めにくい性質」が昼夜の温度差から私たちを守ってくれている。じつは、地球には素晴らしい「好都合な真実」があるのです。私は、これを「地球の力」「地球のご利益(りやく)」だと思っています。地平線会議の皆さんは、旅しながら数多くの「好都合な真実」を地球体験してきたと思うのですが……。風土性や時代性を感受するには間接的な情報も必要ですが、それ以上に直接的な体験、自然を直視する姿勢や感性が大切であることを旅人は誰も体で知っています。皆さんが得てきた「地球の力、地球のご利益」は、脱石油時代への産みの苦しみの「カーボン・オフセット」以上に値すると思いますが……。

 「いつ、どこで生まれるかで運命が決まる」とは、天安門事件の民主化運動のリーダーの言葉ですが、僕たちも、自分が生まれてくる時代を選べるわけではないのです。自分が選んだり、造ったりしたわけでもない時代と世界に投げ込まれた以上、「どうして自分がここに存在するのか」を意識して生きていくしかないのではと、つくづく思うのです。でも、いい時代に生まれてきた。石油のありがたさを十分に味わい、そして石油から脱する新しい時代を迎えようとしている。これほど、生きている証が残せる時代はこれまでも、これからもありえないだろうと思います。同時代に生きている運命的な出会いを感じながら、ありがとうございました。(森田靖郎


ちへいせん・あしびなー

ちへいせん・あしびなー、ついに開催!!!

地平線あしびなー
いよいよ本番です。ちへいせん・あしびなー、長い準備期間の末、ついに浜比嘉島でゴング!!です。プログラムはすでに先月の通信に同封したチラシでお伝えしましたが、あらためてお知らせします。

■参加費はいつもと同じ500円。
■食事代 2500円(アルコールは別)

【ちへいせん・あしびなー】プログラム

(時間設定 進行など変更あり)
<10月25日(土)>
会場:比嘉区公民館

◆《開会式》 13:30
●幕開けの踊り
◆《地平線報告会》13:50〜16:10
  A【地平線モノ語り・地球の遊び場からのおみやげ】
  B【一枚の写真かー継承するということ】
★休憩20分
◆《浜比嘉島に生きる》16:30〜17:40
★休憩30分(軽食)
◆《島から世界へ》 18:10〜20:00
●「平田大一の世界」
 沖縄で大評判の中高生たちによる舞台「肝高の阿麻和利(きむたかのあまわり)」の演出家。
◆《比嘉パーランクー》20:00〜20:20
◆《恒例・地平線オークション》20:30〜

<10月26日(日)>
会場:シルミチュー公園

◆《浜比嘉探検隊》9:30〜11:30
◆《ガチマヤー交流会+閉会式》正午〜
  ガチマヤーとは食いしん坊の意。

◇オプション
  《サバニ試乗会》午後
  希望者のみ、実費(1名2000円)で。

<10月27日(月)>
会場:比嘉小学校

   14時から。
◆《青い地球の川を旅して木を植えて》
   講師:山田高司

★この後、丸山純氏企画によるデジカメ教室に参加した上級生12名の作品が上映される予定。

■同時開催特別企画■
写真展『地平線発 in 浜比嘉島』

★期間:2008年10月1日〜10月31日
★場所:うるま市立海の文化資料館
  うるま市与那城屋平4 海の駅「あやはし館」2階
  098-978-8831 月曜と祝日は休館
★入館無料


賀曽利隆、浜比嘉島に向けてとーっくに、スタート!!

「浜比嘉島へ行くだけじゃつまらない。どうやって浜比嘉島へたどり着くか、が大事なんです」。8月の報告会でそう話した賀曽利隆さん、なんと10月1日には出発してしまった。6度目の日本一周をからめて浜比嘉島に乗り込むのだそうです。以下、電話でのやりとりです(E)。

[第1信]10月2日22時45分 伊豆松崎温泉から

 きのう10月1日、日本一周にスタートしました。海ルートで。今回が6回目の日本一周です。30代40代50代、それに島めぐり日本一周、そして去年の温泉めぐり日本一周に次いで6度目。四国を一周して九州に入り、沖縄に向かいます。今回はなんと125ccのスクーターです。12月20日までに終了し、23日から西アフリカへ行く予定。

[第2信]10月14日午後

 きょう熊本に着きました。伊豆から海沿いに走り、紀伊半島をまわり、和歌山からフェリーで徳島へ。時計回りに四国を一周し、いったん和歌山に戻って再び海沿いに下関を経て九州へ。スタートして13日で熊本まで来たわけです。東京から走った距離4000キロ。スクーター、調子いいですよ。17日の船で鹿児島を出て、トカラ列島に1島ずつ寄りながら、18日には奄美大島の名瀬へ。20日の船で那覇に向かい、21〜24日で本島を一周するつもりです。皆さんとは多分24日夕には会えると思います。では再会を楽しみに! あ、浜比嘉島の後は、九州に戻り、日本海側を直江津を目指します。


「次世代に如何につなぐのか」−浜比嘉島で語りましょう!

■ハイサイ! 皆さん。チムどんどん!な毎日、送っていますか! 南島詩人、平田大一です。今回の浜比嘉島での会議を、で〜じ楽しみにしている島人の一人です。そして、「ちへいせん会議」に関わる皆さんの「想い」に共感を寄せる、若者の一人でもあります。今、僕は、沖縄の子ども達が地域の物語を演じる舞台の「演出」を担当しています。この活動を通してつくづく思うことは(少し大袈裟になりますが)これからのこの国の、否! この地球にとってのキーワードは「次世代に如何につなぐのか」ということです。難しい問題ではありますが、考えこまず、踊りながら、歌いながらこの「未来につなぐ」活動を展開している、僕たちの取り組みを今回の浜比嘉島での会議の中で是非、ご紹介させて頂きますね。心からお待ちしております! 三拝云(みーはいゆー)(那覇 平田大一


沖縄にハブクラゲあり、ノーベル賞のクラゲについて思うこと

■自分の足で走るのが好きで日本、世界の各地を走っている。走っていると車では見えないモノが良く見える。富士山麓の蛍の乱舞、飯豊山系の薄暗いブナの枯幹に怪しく光るツキヨダケ、宮崎の夜、フェニックスに生えているヤコウダケ、吉見百穴、凝灰岩の横穴墳墓奥のヒカリゴケ、いずれも光る生き物だ。キノコ、コケの他にも光る生き物は昆虫、魚など沢山いる。なぜ光るのか。

◆たとえばホタルの仲間やホタルイカ、発光ゴカイでは雌雄の間の合図に、ウミホタルやある種の発光イカは敵への威嚇、敵からの逃亡に、チョウチョウアンコウは捕食動物の誘引に用いられている。いずれにしろ進化の過程で極めて効率よく光るシステムが作り出され、様々な目的に使われるようになったのだろう。

◆光る生き物で急浮上してきたのがオワンクラゲ、日本沿岸でも春から夏にかけて多く見られ名前の通り、傘は扁平なお椀を伏せた様な形をしている。水の母、海の月と書いて水母(クラゲ)、海月(クラゲ)と読む。太古の昔から人々は大海を悠々と漂う水母の姿に様々な想いを馳せて来たのだろう。このクラゲは水族館で見られる。代表的なのが世界一のクラゲ展示と自負する鶴岡市立加茂水族館の「クラネタリウム」、そして江ノ島水族館の「クラゲファンタジーホール」も素晴らしい。照明を暗く落とした部屋に幻想的な無数のクラゲが浮かび上がる。プカプカユラユラフワフワと何時まで見ていても飽きない。オワンクラゲの説明には刺激を受けると生殖腺を青白く発光させる発光クラゲとある。

◆今から約50年前、生化学(バイオケミストリー)の分野はまだ分子生物学、バイオの時代ではなくもっぱら生き物を構成する化学物質を分離し、精製し、純粋にして、その化学構造を調べるのが研究の主流だった。私の研究も毒タンパク質の精製から始まった。下村脩ボストン大名誉教授(注:10月8日ノーベル化学賞決定)は生き物から光が出ることに幅広く興味を持ち、なぜ生き物にとって発光が重要で、どの様な役割を果たしているかを考えていたようだ。

◆日本でウミホタルのルシフェリンという発光物質を研究したあと、ボストンの南にあるウッズホール海洋生物学研究所に渡りオワンクラゲの発光物質の研究をし、2つの発光タンパク質を見いだしている。その1つが紫外線の影響をうけて緑色の光を出すタンパク質だった。50年前の研究はこれで取り敢えずお終いだった。ウッズホール研究所は100年前、ペンシルバニア大学から派遣された野口英世が海産生物と毒蛇の関係を研究した所でもある。

◆下村氏にとって幸運だったのは、発見から30年後、今から20年前にこの緑色の光を出す発光タンパク質を使ってそれまで目で見ることの出来なかった細胞の中の働きを知りたいモノを光らせることによって確認する方法を他の研究者が考え出してくれたことだ。今では細胞の中の遺伝子が働いている場所や時間を簡単に調べることがこの技術によって出来るようになり、生命科学の根幹技術の一つになっている。私がかつて研究した毒タンパク質も細胞の仕組みを調べるのに使われてはいるが、根幹技術ではないのでノーベル賞への道程は果てしなく遠い。

◆生き物はどの様な仕組みで生きているのか、どうして病気になるのか、どのようにして死んで行くのか、生命科学に携わるものはより多くのことを知りたいという夢を持っている。昨今のいわゆる役に立つ研究、早く成果の出る応用研究が持てはやされ、地道な基本的な研究はおろそかになりがちだ。これらの研究を、基礎研究と称しているが、下村氏の研究からもわかるように、本当は基幹・基本研究だろう。文部科学省も方向性を間違えなければと願うばかりである。

◆来週は、「ちへいせん・あしびなー」に参加する。那覇から走って行けば5、6時間で着けると思うが、思案中である。浜比嘉島だけでなく、本島から平安座島までの海中道路ロードパークも幾つかのグスクも走ってみたい。沖縄の海にはその名もハブクラゲという毒をもつクラゲがいる。(原健次、栃木在住 ウルトラランナー 生化学を専門とする研究者で花王の「サニーナ」や「エコナ」の開発で知られる)


アジサシが飛翔する浜比嘉島は、
    故郷のような場所 あのラマレラのように!

■江本さん、先日の日曜日は私たちが住んでいる宜野湾市でお会いし、「ちへいせん・あしびなー 地平線会議 in 浜比嘉島」についてのお話を伺えてとても楽しかったです。参加できることを嬉しく思っています。

◆私たちが東京から沖縄に移ってきて10年になります。私たちの研究調査地は東インドネシアなので、毎年のようにインドネシアと沖縄を行ったり来たりしています。特に小スンダ列島のレンバタ島という沖縄本島とほぼ同じ大きさの島に15年間通い続けています。

◆沖縄に来て1年目に本島内を車で走り、ほぼすべての海岸を見て回りました。亜熱帯の島と熱帯の島、ともに海洋性気候という共通点がうかがえ、環境と暮らしの関わりを探るうえで参考になることが多いからです。そしてもうひとつ目的がありました。私たちにとって、調査地であるレンバタ島の南西岸にある小さな村、捕鯨をしているラマレラ村はいまでは故郷のような場所になっています。そしてここ沖縄でもラマレラ村のようにゆっくりと過ごせる海辺を持ちたいと考えたからです。残っている自然海岸が意外に少なかった中でいくつかの海辺が選ばれました。遠くは山原の東海岸、近いところでは読谷の西海岸、そして浜比嘉島です。

◆その中でも浜比嘉島は私たちが通う「とっておきの場所」となっています。集落と海とのつながりが見える場所として、アマミチュー、シルミチューの伝説のある島として、そしてかつてはザン(ジュゴン)が寄ってきた海として想像は大きく広がっていきました。ここには私たちにとってもうひとつ大きな楽しみと意味があります。6月にベニアジサシとエリグロアジサシが渡ってくるからです。浜比嘉島沖の小島に営巣して海上を飛翔し、ダイビングして魚を捕らえる姿が毎年見られます。この鳥たちは熱帯からの旅人です。赤道を越えたインドネシアから渡来すると勝手に決めつけています。

◆かつてレンバタ島ラマレラ村沖合で、何万羽ものアジサシが海上を渡っていく姿を見たことがありました。それはいつまでも途切れることなく続きました。クジラの来る海で見たその光景はあまりにも印象的でした。その時に、このうちの何羽かは沖縄まで渡り、浜比嘉島で毎年見ているアジサシはこの海からはるばる渡ってくるに違いないと決めたのです。

◆海はつながり、アジサシの知っている土地も結ばれています。海を回遊するクジラは世界中の海を知っています。世界を超えた営みを幾世代にもわたり繰り返し、いま目の前にクジラやアジサシが生きています。いま私たちも、彼らのように世界と世代を超えて継承していくものがあるような気がします。「ちへいせん・あしびなー」楽しみです。(宜野湾市 江上幹幸(ともこ)・小島曠太郎


浜比嘉島の周りの『原風景』、ありがとう!

■江本さん、地平線の皆さん、初秋お喜び申し上げます。2006年10月の通信に【沖縄から『古酒の旅』への誘い】のタイトルで書かせていただいた長濱静之です。この度、ご縁がございまして私の生誕地、旧与那城町屋慶名、その隣り島の旧勝連町浜比嘉島、合併後は、うるま市勝連浜比嘉島で「ちへいせんあしびなー」が開催されることを喜んでいる1人です。

◆江本さんとは今年も、泡盛を酌み交わしながら、5、6回お話する機会があり(妻が経営する薬膳・家庭料理「拓洋」がもっぱらの場でした)、浜比嘉島の話題から、4、50年前の原風景等について、しばしば話が弾みました。江本さんとの酔談は、還暦を迎えた私に50年前の、海で遊び続けた原風景を思い出させたのであります。

◆今のように石油備蓄タンクも、海中道路も、各離島に架かる橋梁も、浜比嘉大橋も、何一つもできてなかったころ、開発がされていなかったころの自然、原風景に私は「恐しさ」と「優しさ」と「豊かさ」を教えられたような気がしています。特に強烈に印象に残っているのは、1959年の伊勢湾台風、1960年のチリ津波です。当時11歳と12歳のころですか。その時の荒れ狂う自然の猛威のすさまじかったこと。目の前で、「何もなしえぬまま、ただ逃げ惑い、死んでいく、怪我する、何もかも流れ尽くす、平伏す人々のむなしさ」を、原自然の『恐ろしさ』を体感しました。

◆一方、平穏な自然のときは、てぃーだ(太陽)は、浜比嘉島のあがり(東の遠方)から昇り、今帰仁(なきじん)のいり(西の遠方)へ沈みます。太陽神へのロードを黄金色のてぃーだが昇り、時満ちて、眩しく、エネルギーの源泉として照り続け、海・野山にぬち(命)の恵みをもたらします。そして、一日の営みを終わろうとするその時、てぃーだは、人々を始め、生き物たちへの休息を与えるため、黄金色の輝きで癒してくれるのです。

◆その繰り返すリズムから、私は自然の『優しさ』を学んだような気がしております。東は、浜比嘉島、東北は平安座島、東南は屋慶名(本島側)に囲まれた海域は、イノー(礁域)と呼ばれています。サンゴ礁の生育する海域というか、白波打ち際からさざ波際までの間がイノーです。その広さは、昔風のウミンチュウ(漁師)から、1里(約4km)四方と伝えられました。その海域は、不思議に、1日に2度、真っ白な海底の砂地が、砂陸が浮きあがるのです。信じられないくらい多くの海水の量が満ち干くのです。

◆たとえば、満潮時、水深平均3mとすると、4km×4km×3mの量の海水が、プランクトンとともに出入りすることになります。又、東海岸太平洋の海流は、北から南へ流れていて、白い砂や海の物などが、浜比嘉島、津堅島、久高島等へ漂着するところでもあります。その島々は、神の島と言われています。その営みは、海藻、海草、ジュゴン、海ミミズ、車えび、ハマグリ、ぼら、たまん、みーばい等の海の産物を育てています。

◆そのころは、子供が砂陸に立ち、腰を振り振りして、足元を左右に動かしますと、車えびが飛び跳ね、手づかみができるほどでした。また夕方、潮が少しずつ満ちてくる頃、六斤缶(軍事物資の缶詰3.6Lサイズ)を両サイドをくりぬいて筒状にしたものを手に、忍び足でよく歩きました。魚を見つけると、魚の行き先にあわせて、スッ、と降ろす。するとその中にえびや魚が入っているのです。釣りは、自生している竹に糸を結び、釣り針は、針金でつくり、えさはヤドカリだと大漁でした。小遣いも少なく、情報も少なく、何もない島々でしたが、海は豊かな幸をもたらし、子供たちの冷蔵庫とも言うべきものでした。あの当時こそ、本当の『豊かさ』を体得したような気がしております。

◆そのような体験をいまの子供たちにもしてほしい、と思うのですが、肝心の原風景がなくなり、時にむなしくさびしい思いに駆られます。人類の新しい知恵で、あの自然が取り戻せるとしたら、地球に優しいアクションが必要なことでしょう。地平線の集いが、そのきっかけになるとすれば、幸いです。

◆しかし、浜比嘉島へのアクセスが、大いに便利になったということが、地平線会議の集いの開催理由のひとつであるとすれば、功罪いろいろあるなーと考え込んでしまいます。最後になりますが、参加者の皆様を現風景をはじめ、まだ心の里を忘れていない島々の人々が、お迎えすることと思います。私もご来島を心待ちにしております。江本さん、地平線の皆様、原風景殿、本当に有難うございました。(那覇 長濱静之


地平線の不思議なつながり…。沖縄でお待ちしてまあーす!!

■地平線会議の皆様、こんにちわ。今回、浜比嘉島で行われる『ちへいせん・あしびな〜』に現地スタッフとして関わらせて頂きます、レーズンこと沼尻千春が沖縄よりごあいさつ申し上げます。「ん? あんた誰?」という方から、「あれれ〜、レーズン沖縄に流れ着いたのね〜」と思う方まで様々な方が読まれていると思いますので、自己紹介をさせていただきます。

◆それにしても縁とタイミングとは不思議なものですね。今回、浜比嘉島で行われる会に関われるのも、いろいろな方たちとの出会いが縁を結んでくださったんだな〜と感謝しているところです。このなんとも壮大でロマンのある『地平線会議』という名前を初めて耳にしたのは、もう10年以上前のことだったと思います。思い返せば19歳の冬、2人の大事な人とお会いしたことがこの地平線会議へ導かれるきっかけになりました。

◆1人目は阪神大震災のボランティア活動で知り合い、その後私を妹のように面倒見てくださった酒井富美さん。ある年の冬、豪雪地帯・伊南村の富美の家に遊びに行った時のこと。外は1階をすっぽり覆ってしまうほどの雪。2人でコタツに入って暖をとっていた時、「そうだ、レーズンにお願いがある〜」と富美は南会津周辺の地図を持ってきました。「伊南村で地平線会議をやったんだけど、その報告書に載せる地図を描かないといけないんだよね〜。こ〜ゆ〜の、レーズンは得意そうだから……」と富美に言われ、まだ地平線会議がどんなものかもわからないままに、その地図を描かせてもらったのが地平線会議との初めての関わりとなりました。その後、富美の紹介で栃木県茂木にある自然体験施設で働いていた時にトレイルランナーの鈴木博子さんに出会い、後々沖縄にいる私と江本さんをつないでくれたのでした。

◆そして2人目の方は、私を雪山の世界に導いてくれた登山家の戸雅史さん。学生時代に所属していた野外教育団体の集いに行った時のこと。仲間の一人が「今日はすごく素敵な登山家が来るよ」と話してくれました。高校生の頃から山を登りはじめた私は、登山家と聞いてもあまり良い印象はなく、なんだか髭をはやした熊のような人が現れるんだろうなと想像していました。そこにマサが登場。さわやかなそしてやさしい人柄にすっかり惚れ込んでしまい、それからというもの、マサが主催するFOSのプログラムに足しげく通うようになりました。そして2002年秋、マサのガイドで訪れた屋久島で江本さんとお会いしたのです。

◆富美からも江本さんのお話は聞いていましたので、その素敵な方と屋久島でお会いできるなんて……と胸がドキドキしたのを今でも覚えています。その時、江本さんとご一緒したのはたったの1日。でもその1日の出会いを江本さんはしっかりと覚えていてくださり、鈴木博子さんから「レーズンは沖縄にいる」という情報を入手したのをきっかけに連絡をしてくれたのでした。そして、その連絡を受けたときに私がいた場所が沖縄県八重山諸島の一つ、小浜島。そう、今回の『ちへいせん・あしびなー』で講演をする平田大一さんのご実家である民宿で働いているときでした。

◆実は平田大一さんは大学の先輩にあたる方で、私が在学中に大一さんは卒業生として大学に招かれ、島の芸能を盛り込んだ『南島詩人一人舞台』を披露してくださったのでした。島人として島の自然と真剣に向き合って生きるその姿に、なんとも言えない衝撃が走りました。それから12年が経った2005年の秋、栃木の仕事を辞めるにあたり家の本棚を整理していた時、大学時代に購入した『南島詩人』の詩集を見つけ、キビ刈り援農塾の活動を知ったのでした。「一日で手の皮をむき、三日で肩の皮をむき、七日で心の皮をむこう(by 平田大一)」をテーマに行われているキビ刈りに、「これだ!」と思った瞬間、受話器を取り、小浜島の民宿に電話をしていました。そして翌年の冬、キビ刈りのために小浜島に渡ったことが沖縄に暮らす第一歩になったのです。そして今日に至る……わけです。

◆う〜ん、改めて縁とタイミングの面白さを感じてしまいます。(私事ですみません。)地平線会議の報告会自体は1〜2回しか参加したことがないのですが、地平線会議とはなんだかとても不思議なつながりを感じずにはいられません。今回の会議でも新たな出会いを通して、またどんな縁が結ばれていくか、とても楽しみにしております。一足先に浜比嘉島に入り、皆様のお越しをお待ちしておりますね。あいさつが長くなりましたが、どうぞよろしくお願いします。(那覇にて レーズンこと沼尻千春


ヒミツと驚き 地平線オークション!!!!

◆まだまだ先の話と思っていた「ちへいせん・あしびなー」が、いよいよ目前に迫ってきました。皆さん、押入れから夏服は引っ張り出しましたか? もし、その横で旅の土産などが眠っていましたら、それも一緒に‥。

◆「往復の飛行機代まで入れたら、とんでもない値段」のコピーに偽りなし! 「地平線オークション」は、脱・都内報告会の楽しみの一つです。さり気ない一品から内外のレアものまで、何が飛び出すか分からない。中には、一目見ただけでは「?」の品も。それが、説明を聴いて、「えーっ。そんな大切なモノ、手放していいの?」なんて驚きに変わるのです。出品物にまつわるエピソードは、しばしば一編の旅ドラマ。ささやかな品物にも、「うーん、どうしよう‥。えい、出しちゃえ!」という迷いがあったはず。競り人は絶妙の口調で煽るし、会場のヒートアップは当然ですね。地平線オークションは、出品者の思い入れや旅の一部を共有するための、「競売」に形を借りた儀式なのでしょう。

◆なので、私も何か出さなくちゃ。でも、びんぼー自炊旅の悲しさです。運搬能力ギリギリまで絞り込み、帰国時のセレクトに残った物は、ほとんどが台所用品ばかり。鎚あとの荒っぽい中華包丁。もう現地でもあまり見かけなくなった、小型タイヤ程もある輪切り熱帯樹の中華まな板。小型軽量のインド製圧力鍋は、保証期間を15年以上オーバーしているから、落札者に「自己責任で‥」と心苦しいお願いをせねばなりません。クロック&サーク(石製の叩き鉢と叩き棒)だって、「これで香辛料やコーヒー豆を挽いてみて下さいな、味が違うんだから!」とお奨めしても、多分、漬け物石で終わりそう。それぞれのご家庭に入ったところで、いずれの品にも、小利口で優れ物の国産品を押しのける力はありません。

◆という訳で、熟慮の結果、今回は小さなパック入りの小品を提供いたします。この『伝説さま』、カバンに忍ばせておけば、ポケットサイズの見かけによらず、ご隠居の印籠並に困った時の皆様のお力になれると思います。その実力を実感して戴くために、「今ならもう一つ!」じゃなかった、「特別付録」を付けました。こちらは、ちょいとばかりレア品です。某月某日、海外ならぬ都内は銀座のお店で偶然発見。衝動買い防止のため、体のあちこちに分散収納していた有り金を全て掻き集め、ゲットしてしまいました。さて、その正体は? 詳しくは会場で。(久島弘 貧困人生享楽的文化人)


写真展スタート! そして、宮本常一が歩いた浜比嘉島へようこそ!

■地平線会議のみなさん、はじめまして。うるま市立海の文化資料館の前田です。自治会長の平識勇さんのご協力のもと、今月の10月1日(水)〜31日(金)より特別企画「地平線発in浜比嘉島」写真展を開催しております。これまでの7日間開催中、その写真展には、うるま市立浜中学校の全生徒14名はじめ計596名見学にいらしています(10月8日現在)。

◆さて、浜比嘉島は地平線会議とゆかりのある島です。実は民俗学者の宮本常一先生が1969(昭和44)年に浜比嘉島へいらしています。宮本先生はその旅行記を『私の日本地図−沖縄−8』(同友社、1970年)におさめています。その当時、宮本先生は勝連町の浜比嘉島(現在のうるま市勝連)の他に与那城町(現在のうるま市与那城)にも訪れ、『宮本常一著作集』の1冊をサイン入りで寄贈されています。なぜ、宮本常一先生がうるま市の勝連半島にいらしたのかと言いますと、それには理由があったと私なりに推測しています。それは宮本常一先生の恩師であった渋澤敬三先生が1953(昭和28)年、沖縄戦災復興期成会の会長に就任した際に与那城町の漁村を訪ねています。宮本先生は渋澤先生の足跡を訪ねる意味でも、また渋澤先生から何か聞いていたものを確かめにきたのではないかと考えられます。そのエピソードは10月25日(土)のお話しでします。

◆さらに当日のお話では沖縄国際大学のアジア文化ゼミの学生たちと一緒に浜比嘉島を2006(平成18)〜2007(平成19)年に民俗調査した内容にも触れようと思います。その成果物は『みんぞく』第19〜20号として比嘉集落と浜集落の全世帯に無料配布しました。その2冊は総数768頁になり、主に村の概況、衣食住、生業、年中行事、人生儀礼のテーマで島の古老から聞き取りしたもの、観察したものを記録しています。それらの内容を踏まえ、10月26日(日)の探検にご案内させていただきます。それでは地平線会議のみなさん、心よりお待ちしております。(うるま市立海の文化資料館・学芸員・前田一舟


「写真展が私たちの手を放れて、浜比嘉島という琉球の神のすむといわれる島で開催されることに感謝」━━11年ぶりの写真展に寄せて

■1997年7月にスタートした旅する写真展「地平線発?21世紀の旅人たちへ」が、沖縄の浜比嘉島で「地平線発 in 浜比嘉島─新しい時代の旅人たちへ」となって2008年10月1日〜10月31日まで、開催されるという連絡を頂いた。地平線会議代表世話人の江本さんから一緒に送られてきたFAXには、会場になる「うるま市立海の文化資料館」の手書きの図面が。「この図面だけでは展示計画は難しいかも」と、書き添えられていた番号にすぐ電話をしてしまったのは、11年前の緊張感が甦ったからかもしれない。

◆額やパネルや、デジタルでデータ入力して吹きつけた大判のタペストリーなど、写真はその内容に合うように、大きさだけでなく、画一的にならないよう様々に工夫していた。額は自家用車で往復し、京都の額屋さんにお願いしたものだ。どの壁に何を掛けるか、展示計画はとても大事だった。クールに統一された写真展もカッコイイが、やはり地平線は有機的が似合うだろう。

◆写真展を最初に開催した東京・品川のO美術館には、会場の雰囲気作りに杉の切り株を置き、ジャーナリストの惠谷治さんが提供してくれた世界から集めたコーランの訳本多数を、わざわざ線路の枕木を調達してそこに置いて何か意味ありげに展示してみた。フォト・ジャーナリストの白根全さんがサハラの砂や、南アフリカの喜望峰で買ったと言ったか、とても美しい蜻蛉玉のような玉を展示させてくれた。また見た人は少ないかもしれないが、天井からは、雲をかたどったライトアーティストの作品を下げていた。

◆そんなもろもろの準備と並行して、掌サイズの写真集を編集製作した。印刷・製本の協賛をしてくれたのはあの凸版印刷だが、執筆、編集のすべてを同時進行でやっていたのだ。39人からの229点の35ミリやブローニーサイズのフィルムもあったと思うが、その一枚一枚からのスタートがこの写真展と写真集だった。

◆江本さんに写真展について書くようにと言われ、書き始めると当時のことが想像以上にリアルに思い出されてきた。読売新聞のコラムで地平線会議を知り、写真展をやりたいという、こちらの依頼はなかなか受け容れられず、「個の旅、行動者の視点をあくまで重視し、全体像を一定のコンセプトで統一はしない」と主張していた地平線会議側に、2人だけの零細会社に体力はなく、時間切れでもうやめようと思い始めたころ、惠谷さんが「やっちゃえよ」とひと言。そのひと言に支えられてたどり着いた写真展だった。この写真展のおかげで、地球の各地域や人々が圧倒的な勢いで私たちに近づいて来てくれた。地球がとても身近になった。

◆この写真展が私たちの手を放れて、浜比嘉島という琉球の神のすむという島で開催される。願い事が叶う島とインターネットにあった。「地平線会議 in 浜比嘉島 2008」と写真展が成功しますように。11年を経て、写真展を開催される文化資料館、写真を管理して頂いている「植村直己冒険館」、地平線会議に感謝いたします。(元NOVLIKA 影山幸一本吉宣子


地平線ポストから

「やっと本ができました!」

−「国境の島」という“政治的秘境”を旅して

■9月の末、拙著『誰も国境を知らない〜揺れ動いた「日本のかたち」をたどる旅』(情報センター出版局)がようやく出版されました。僕にとっては通算5冊目、約2年半ぶりの単著です。

◆この本の特徴を極めて大ざっぱに表すと「日本国内の離島をテーマにした旅の本」ということになります。離島といってもちょっと特殊な離島です。僕が目指したのは日本の果てにある「国境の島」なんです。これらの島へは思い立ってすぐに行けるものではありません。というのも「国境の島」は恵谷治さんのいう「政治的秘境」となっている島が多いからです。

◆近隣国との領土問題で揺れていたり、基地として利用されていたりといった理由で国家によって行けなくされている島が目立ちます。その上、地理的要因により行くのが困難な島もあります。僕はそうした島へ行くため様々な手段を使いました。交通手段の確保が難しい場所へ行くために、行政の視察に同行したり、外国からアプローチしてみたりといったこともやりました。ある程度行き尽くすまでに約5年かかりました。

◆「日本の国境の島」をテーマにして島を巡ることを始めたのは2002年です。韓国から月1、2回「竹島クルーズ」の船が出ているという情報を前述の恵谷さんから教わったのがきっかけでした。恵谷さんに情報を聞いたとき、僕は衝撃を受けました。まさか竹島へ行けるとは思っていなかったからです。と同時にそのとき「実際のところはどうなっているんだろう」という島に対する単純な好奇心が浮かび、僕を突き動かしました。

◆そうして2002年の10月、竹島行きのクルーズ船に乗ってみたのです。僕以外の乗客はほぼすべて韓国人でした。オープンデッキから竹島を目の前にしたとき、周りを埋め尽くす韓国人乗客は熱狂していました。ナショナリズムが船全体を覆っているような、そんな状態でした。韓国人の熱狂ぶりに反応したのか僕は僕で日本人として使命感のようなものに不意にとりつかれ、日本人として熱狂していました。

◆帰国後、船上で双方が熱狂した感情の正体が気になり、竹島と同じような境遇にある日本の国境に位置する島のことを調べてみました。するとそれぞれの島が地理的にだけではなく歴史的にも特殊な場所だということに僕は気がついたのです。そうして、しだいに「国境の島」というものに興味を覚えるようになり、実際に島をひとつひとつ回っていったのです。

◆竹島へ出かける以前は「日本の国境の島」という「政治的秘境」が、自分の旅のテーマになるとは思っていませんでした。ユルくてダラダラとした行き当たりばったりの貧乏旅行が自分のスタイルでしたし、そうしたスタイルは今後も変わらないと確信していたのです。しかし、恵谷さんに竹島クルーズの情報を教わり、実際に竹島に行ったことがその後、僕に「政治的秘境」にとり組ませるきっかけを作ったのです。

◆「国境の島」を巡る道のりは平坦ではありませんでした。ロシアに実効支配されている北方領土へは日本からは簡単には行くことができず、実効支配しているロシアを経由し、ようやく行くことができました(そして行けば行ったで、外務省から「行かないように」と要請する文書を渡されました)。

◆北回帰線よりも南にある日本最南端の沖ノ鳥島や激戦の島である硫黄島へは行政の視察など特別な訪島に同行し、ようやく行くことができました。日本が実効支配しているはずの尖閣諸島へは一般人の上陸が禁止されているため、行ってくれる船を見つけることができず、チャーターした飛行機で上空から眺めるにとどまりました。

◆旅は昨年の3月に終わったのですが、まだ僕にはやることが残っていました。それは「日本の国境の島」をテーマにした書籍の執筆作業です。そもそも日本の国境の島といってもすぐにピンとくる人なんていません。いかに興味を持って読んでもらえるかということについて相当考え抜きました。原稿の書き直しは4回、ゲラになってからの直しが9回。出版が決まったのが一昨年の春ですから出版までに2年半近くもかかってしまいました。

◆旅と執筆作業をそれぞれ数年ずつと本を仕上げるために時間と手間をふんだんに使いました。そうしたペースは、何もこの本だけではなく、前作・前々作からのスタイルの踏襲です。亀の歩みのような超スローペースで動くようになってしまいました。旅のスタイルも、行き当たりばったりの旅から目的を持った取材の旅へとシフトしつつあります。自分が進むべき方向がだんだん見えてきたことに喜びを感じます。

◆同時に、旅を始めた頃とは動き方や考え方がずいぶん変わってしまったことに少し危機感を覚えます。純粋に旅を楽しむことがだんだんとできなくなったような気がするからです。とはいえ、やっと霧が晴れ進むべき道が見えてきたのですから定まってきた路線を無理に変えるつもりはありませんが。(西牟田靖


「新一と僕はお互い毛繕いしあい、深い愛情で結ばれていった」

━━サルの新一と運命をともにした19才アマゾン1500キロイカダ下り顛末
★8月の通信に「見送る側」というタイトルで、アマゾン川イカダ下りに挑戦するM君について書いた。そのM君(日大芸術学部2年生、19才の宮川竜一君)がペルーのイキトス上流から、ブラジルのサンアントニオ・デ・イサまで約1500キロの旅を終え帰ってきた。10代のさわやかな大冒険! ぜひご覧あれ。(坪井伸吾)

■家族には船旅をすると言って出てくるつもりだった。だが、出発前に周りの友人たちにアマゾン川を1人イカダで下ってくると伝えると、親友の1人が、親には真実を伝えるべきだ、と言ってくれた。僕は出発前の夜に家族に告白をした。母親を泣かせ、出発数時間前まで反対されたが、それでも自分が利己主義者だと知りながら出てきたのだ。

◆今年の春休みに、2か月間ネパールとインドを徒歩・自転車で旅行した。ネパールの寺院で断食修行をしていたとき、ふと「どこかの大きな川をゆっくりと下ってみたい」と思ったのが発端である。帰国後、植村直己さんがアマゾン川をイカダで下られていた事を知り、「もしかしたら自分にも出来るかもしれない」と思った。アマゾン川イカダ下りの決行を夏休みと決めた僕は、アマゾンに関する資料を読みあさった。地平線報告会にも初めて出席し、南米に詳しい方に話を聞かせて頂いた。以前アマゾン川をイカダで下られた坪井伸吾さんには、以来大変お世話になっている。そして学校の図書館からスペイン語、ポルトガル語の教材を借り、資金作りの為、夜勤のバイトと両親に沢山の借金をした。

◆2008年7月21日、出発の朝、坪井さんとの電話を切ると、あまりの怖さに涙が出てしまう。成田から飛行機を3度乗り継ぎ、アマゾン河の流れるペルー・イキトスへ。憧れてきたアマゾン川だが、いざその大河を目前にすると急に怖くなり、尻込みしてしまった。宿泊したホテルで働く方に日本人のMさんという方を紹介してもらい、彼の知り合いの大工さんなどと早速その日からイカダ作りが始まった。石油ランプや蛮刀、蚊帳などの装備と燃料、イカダに積み込む食料、薬等を揃え、麻薬を密輸するマフィアがいると言うので、海軍へ行き通行許可もとった。

◆イカダを組むのに適したトッパという材木を使用し、それを頑丈な木のつるの様なもので縛る。4m×6mのイカダに1.6mの高さの屋根を取り付け、前後にはドアを設けて施錠できるようにした。前方には火を焚くための鉄の囲い、後方にはトイレまで作ってもらった。オールは、水をかく部分が直径50cmもある大きなものに4mの木の棒を取り付け、イカダの両端に設置した。イカダの名前はバルサNuestro Sueno号、スペイン語で「我らの夢」という意味である。

◆ウカヤリ川にマラニョン川が合流し川の名前がアマゾンとなる地点を始まる所とし、8月13日、お世話になった方達に見送られ、念願のイカダ下りが始まった。彼らの姿が見えなくなり「ついに独りになってしまったノ」などと思っていると、突然大雨が降り、今までに見たことのない大きな雷がバキバキと音を立て川が荒れる。アマゾンによる歓迎である。

◆食料は、米やパスタ等保存のきくものを中心にし、火は炭を使った。調理用バナナの100本位ついた枝も積んだ。水は市販の飲料水を40リットル積み、途中村や町につくと、補給した。カヌーでイカダへ遊びに来たおじさんに、獲れたての魚やマンゴーなどを頂いたこともあった。夜は風などによって岸へ寄せられた場合はロープでイカダを岸にくくり、そうでない時はそのまま流したが、船などが近づいてくると懐中電灯で存在をアピールする。もしもイカダに、その何倍もある船がかすりでもすれば旅はおしまいである。

◆イカダ下り2日目、飯の準備をしていると目の前に大きな立ち木が現れ、数秒後には激突した。3時間程、何度も水の中に落ちながら絡まった木からの脱出を試みていたら、通りかかったエンジン付きカヌー(ペケペケ)が助けてくれた。その後も、何度も木にぶつかった。夜中寝ているときに「ゴトゴトッ」という音と共にイカダが傾いたり、一度水中の木にイカダが乗り上げ、ひっくり返りそうになった時は肝を冷やした。それからは自分ひとりでどうしようもない時はペケペケに助けてもらった。浅瀬に座礁したとき、一家全員がボートから川に降り、イカダを押してくれたこともあった。彼らの優しさに感謝し、お礼に食料や少額のお金を渡した。中には、逆に自分たちの食料などを差し出してくれる人達までいた。

◆毎日、岸辺の危険地帯を避けるためオールをこいだ。だが、そんな疲れたときや寂しくなったときに癒してくれる存在がいた。子ザルの新一だ。出発前、イキトスの市場で買ったのだ。日本ならば数十万はするだろうが、ここで買えばニ千円ほどだ。他にもヘビやワニの赤ちゃんもイカダの中で飼育した。新一と僕はお互い毛繕いしあい、深い愛情で結ばれていった。

◆夜、立ち木の他に恐ろしかったのは蚊の大群だ。毎晩暗くなると長袖長ズボンに長靴を履き、軍手をして顔も布で覆うのだが、大量に発生している所では、何百万もの蚊による無気味な大合唱に恐怖を覚えた。しかしイカダが大河の中央を流れている夜は、蚊もおらず何とも言えなくいい気持ちになった。そんな夜は少しこった料理を作って食べた。料理はしたことがなかったが、失敗しても自分で作った飯はうまかった。外へ出ると、空一面に無数の星が限りなく広がっている。地球が丸いということを体で感じる事が出来た。満月の夜は、植村さんが言ったように本当に月明かりで日記が書ける程であった。僕はそんな夜、アマゾンの優しさに抱かれている気持になっていた。

◆8月22日、国境を越えてブラジルへ。ブラジルの海軍にも行き許可を取ろうとしたが、3日も待たされた挙句「モーター無しでは危険すぎる、許可証に判を押す事は出来ない」と言われてしまった。ブラジルへ入ると、2回警察が麻薬等を積んでないかとイカダに乗り込んできて、荷物を全て物色された。以前イカダ下りをされた山崎さんが、軍に同じように物色され、金を盗まれたと聞いていたのでドキドキした。

◆アマゾンには蚊の他にも沢山の吸血虫がいる。日中は緑色に光る口先のとがったハエや、針の穴程の小さな虫にも血を吸われた。それでも暑いのでパンツ一丁でいると夜中は虫刺されのあとが焼けるようにかゆくなった。このかゆみさえなければもっとアマゾンを楽しめるのにノいや、それは違う。これもアマゾンなのだ。しかし、そのうちそんな余裕のあることも言っていられなくなった。傷が化膿し、どんどん悪化していくのだ。痒みは痛みに変わり、骨までジンジンと痛む。それが少し動くと激痛が走るようになり、数日後には1日中痛むようになった。夜は眠るどころではなかった。そんなときは家族の写真を手に取ると、わんわん涙を流して泣いてしまった。

◆9月5日朝、ついにイカダ下りを断念することを決める。この日の日記にはこう書きなぐってある。「大切なのは、旅を成功させる事じゃない。親を大切にする事、皆を笑顔にさせる事だ。もうそれがわかった時点でお前はゴールしているのだ。もうどこでもいい、町についたら旅を終わろう」と。それからは蚊帳の中で横になり、岸に寄せられないことをただ祈っていた。ノ数時間後、外から子供の声がする。イカダは村のすぐ前を流れていたのだ。必死で助けを求め、ペケペケで岸まで引っ張ってもらう。「助かった……もう助かったんだ」。一人の男性が、焼いた魚を出してくれた。どこにでもある焼き魚だが、これほどうまい飯はなかった。虫が何十匹もズボンの裾から入り、足を刺す。しかし、自分はもう助かったと思うと、虫に刺される痛みすらおかしく思え、笑ってしまった。その夜はそこに泊めてもらい、翌日、ペケペケで2時間かけてサンアントニオ・デ・イサの病院へ連れて行ってもらい、その場で3日間の入院が決まった。

◆注射と点滴の日々が終わると仲良くなった看護婦さんとも別れ、助けてもらった村へ戻り数日間彼らと過ごした。面白かったのは、村の女性に「あなたの家は(トイレの)便器を持っているの!?」と聞かれたことだ。彼らはジャングルの中で、蚊に尻をやられながら用を足すのである。こんな質問が存在するのか、と驚いてしまった。また、わざわざ買っていた飲料水だが、彼らは雨水をそのまま飲んでいた。スコールになると、家の軒下に鍋やバケツを置いて水を集めるのだ。その水は少し甘く、自分が飲んでいた飲料水よりもおいしく感じられた。僕にとってこれは大きな発見だった。彼らは僕にとても親切にしてくれたので、イカダはこの村にプレゼントし、サルの新一もここで飼ってもらうことになった。

◆それからは船を乗り継ぎ、河口の町ベレンへ向かう。夏休みがもうすぐ終わるため、帰らないといけないのだ。一度、船の中にも荷物検査の為警察が入って来た。どこかで見たような嫌な顔の奴がいるな、と思っているとその警官に声をかけられた。「お前私を覚えているか」。彼は僕のイカダの中に乗り込んできた警官だったのだ。とたんに周りの乗客に僕がイカダ下りをしていたことが知られ、皆「お前はクレイジーだ」と言って驚いていた。ベレンへ着くと、再び飛行機を乗り継ぎ68日ぶりの成田へと帰って来た。母親が迎えに来てくれた事が何より嬉しかった。

◆残念ながら河口までイカダで下ることは出来なかった。しかし僕はアマゾン川に惚れ込み、更に深くこの川について知りたいと思っている。今回の旅で、僕は自分がアマゾンという偉大な存在を甘く見ていたことを知った。そして自分の行動を恥じ、反省している。自然に対し失礼な態度をとってしまったと思う。

◆僕の旅はまだ終わらない。少なくともまだ大量の借金が残っている。1か月以上前の虫刺されの跡は今はもう痛まないが、薬を飲んでいても毎日のようにかゆくなる。今後はアマゾンにて知り得たことを糧に、もっと謙虚に、毎日を精一杯生きたいと思っている。

◆そして利己的にやりたい旅ばかりやるのではなく、人に優しくし、散々泣かせた母を幸せにしたいと思っている。それが出来たとき、僕は再び挑戦に出たい。(宮川竜一


見つけた! 井戸水、薪だきという志の高い菊水湯

   ふしぎ連載 ━大江戸銭湯探検記その2━

■ようやく秋らしい季節になり、秋といえば祭りのシーズン。今年は、なんと根津神社と白山神社が同日祭礼というので出かけることに。なんたって、こちとらは江戸っ子、生まれは銀座の木挽町、お祭り騒ぎが大好きなのであります。

◆あいにくの雨だったが、本郷三丁目から本郷通りを歩いていくと、「菊坂は、どこですか」、と道を聞かれ、赤門手前で左に下る坂道(菊坂)をご案内していました。このあたりなんども足を運んでおり、ついつい案内したくなります。この坂の下の方に樋口一葉が住んでいたんですよ、なんて説明したりして。

◆道を尋ねた御仁は、坂の途中で目的の方向に行ってしまい、きょろきょろしながら坂をおりて行くと、左に大きな煙突発見。はっきりと文字が見えます。「菊水湯」。うーん、いいね、菊坂の菊水湯、ひとっ風呂あびていくか、というわけで184番めの銭湯は本郷の菊水湯。地平線のお仲間のSさんから、この銭湯の存在は聞いていたので、いつかは、と思っていたのだが、チャンスはすぐにやってきました。

◆菊坂からさらに石段でさがった旧道に面しており、唐破風のまさに銭湯らしい建物。のれんをくぐり入った脱衣場は、天井も高く、広いスペースだ。カギつきのロッカーがあるが、昔ながらの藤の籠が現役なのもうれしい。先客は4人。まだ8月に描きなおしたばかりという壁のペンキ絵、男湯と女湯の境にどかっと富士山。カラン(蛇口)24、シャワー2、茶色の漢方湯が売りのようです。

◆重油が主流の今、井戸水、薪だきという志の高い菊水湯でした。この後、白山通りの一本裏の旧道でみつけた煙突を頼りに「富士見湯」、「光楽湯」にも入り、数字をふたつあげ、186銭湯達成。江戸っ子はなんたって、銭湯よ、なのでした。(田口幸子


開聞岳山麓に野元甚蔵さんを訪ねました

■18号台風のあと、指宿の山での集まりを終え、里に下りてきました。翌朝、開聞岳行きの始発バスでいよいよ野元甚蔵さん宅です。「ごめん下さい」と一歩玄関に入る。初めての緊張はありません。なんとなくいいメ気モに包まれました。次女の菊子さんが「どうぞ、どうぞ」とおっしゃる声で、 飄々とした九一才の野元さんが現れました。お元気です。

◆私は正面の額に入った書、等観の署名に「あら多田等観さんですね」と思わず声に出してしまいました。野元さんが「そうです。『胡童向日 吹胡笳』、胡童は中国華北地域の子ども、その子が明るい日に向って吹胡笳、芦の葉を丸めたものを吹くのです」。あいさつもそこそこに、気分は一気に戦前のチベットに飛びます。「上の額の『真実一路』は長女の書の先生が、私の好きな言葉を書いて下さいました」。菊子さんは「真実一路はわかり易いわ」。私は「野元さんのお人柄そのままですね」と、もう昔からの知合いのような気分で、お部屋に入っておしゃべりが続きます。

◆「昨日はいとこ会とおっしゃってましたけど、野元さんは末っ子だったから、御兄弟のお子さんですか?」。「いや家内のいとこ会です。昔から家内と一緒にいつも出てました」。「奥さんは」。「亡くなってもう十年以上です」。「ずーっと菊子さんと御一緒ですか」。「三月までは勤めておりました。四月から家であれこれ、お弟子さんも来てる様です。家内に似て手先が器用で、洋裁も結婚式の花も造りますよ」。菊子さんのことからも、奥さんを偲ぶ優しい男性です。

◆あらあら、ゆったりと大きな犬が登場です。素敵なチョッキを着ています。「菊子さんの手造りですね」。「実は高齢だからと手術をしなかったら、どんどんお腹がふくらむので、傷口にパットも当ててるし、それでチョッキを着てるんです」。なんの話かわかるよという顔をして犬は、贅肉のない野元さんの脇にぺたりと、満足そうに坐りました。

◆時間は飛ぶように過ぎてしまいましたが、今回の旅に感謝です。いまも旅の、野元さんの余韻がひろがっています。(金井 重


あしびなーには行けませんが……

■「ちへいせん・あしびなー」当初は行くつもりで飛行機の格安チケットの手配もお願いしてみたものの、突然友人が難病に倒れ、今自分になにができるかを考え、キャンセルしました。家族だけでは24時間の付き添いローテーションがきついので、私もときどき病室に泊り込むことにしたのです。時間のある今だからできる、一番大事なこととして。

◆付き添いのない日は相変わらず月山に通っており、今年は山頂詣でが20回と過去最高に。最近初めて、秘所といわれる東西普陀落(西には直接行くのは自粛、近くの拝所のある山へ)行ったので、闘病中の友人の回復を祈り、エミコさんがまた旅に出られますように、そして山野井さんのクライミング復活、ついでに父や祖母が元気で長生きしますようにと祈って来ました。山頂神社も行くたびお願いしています。願い事多すぎるかな、と思いつつ……

◆まだ始まっていないけれど、今から「ちへいせん・あしびなー」の報告を楽しみにして、山と病室という二極生活中。(山形市 網谷由美子


3年前に登場、「白山神駈道」とは何か!?

■通信を送って頂くようになってもう10年、初めて投稿します。あ、ごめんなさい、2回目です。前号に第3回白山神駈道荒行走破大会参加者募集の囲み記事を載せて頂きました。読者の方からは参加はおろか問い合わせもありませんでした。「む〜、これではいかん」と江本さんに頼み込んでまた紙面をお借りしました。

◆あぁ、申し遅れましたが私は金沢市在住の66歳のおじ児読者です。今度、浜比嘉島で背中の丸いじいさんを見たらそれが私です。「白山神駈道? そんな道、地図にのっとらんぞ」と???の方がほとんどかと思います。そうです、3年前こつ然と出て来た名前なのです。でも、白山を領有している白山ひめ神社の承諾ももらっていますし、命名者のおじ児としてはその名がいずれ昭文社の地図にも載るものと確信しています(^^)/。

◆白山開山の1300年前、北側から加賀禅定道、南側から美濃禅定道、西側から越前禅定道の3登山道が出来ました。今日、ほとんどの人が越前禅定道途中近くの別当出合まで車で行き手軽に登っています。江戸時代まで白山登山と言えば加賀禅定道、美濃禅定道中心で登り千人、下り千人、山中千人の大賑わい、伝承・伝説ござまんと(沢山の金沢弁)の道でした。今の両道は交通の便無し、登り下りが多いやたら長い道のりに避難小屋・水場もろくに無し、だから人影も無しです。でも昔の人は困難を物ともせず歩いたのです。

◆ふるさと白山大好きおじ児は、由緒正しい古道に光を当て何とかもうちょっこり歩いてもらいたいのです。南北に長く連なる白山山系、2,702mの頂上をはさんで加賀禅定道18kmと美濃禅定道19kmが一本道となって続いています。加美両道を股に掛け、合計37kmを一気に歩き通す。これを神駈と命名、加賀から美濃へは順駈け、美濃から加賀へは逆駈け、標準コースタイム23時間強を一日で走破すれば荒行、二日なら難行、三日かけたら苦行と定義しました。

◆荒行なんて本当にやれるのかな〜、試して見ました。諸条件を考えれば9月がベスト、2006年9月、第1回白山神駈道荒行走破大会(逆駈け)を4人でやりました。言いだしっぺ64歳のおじ児も悲壮な決意で参加、朝3時に岐阜県石徹白登山口を出て夜の10時に石川県ハライ谷登山口に着きました。2007年9月に第二回荒行走破大会(順駈け)をやりました。65歳のおじ児もがんばりました。これでどちら側からもやれるとわかり2008年の今年、初めて全国発信して参加者を募りました。11名参加で8名完走。フランス人女性が一位15時間で走破しました。

◆唯一の3回目の66歳になったおじ児はアンカーを務め、朝1時に出て夜の9時少し前に着きました。アウトドア歴50年、自分の満足ばかり追っかけてきましたが、今は何か世の中に残ることをしたいと思って老骨にムチ打っています。地平線会議の方々の応援も期待しています。それは難行苦行を問わず「白山神駈道を歩いたよ、いい道だったよ」というお便りをいただくことです。来年は67歳、第四回荒行大会はお世話に回るつもりです。でも、大先輩の江本さんが参加されるのならもう一度がんばって見ようかな〜(^^)。(金沢 西嶋錬太郎


「東経116度39分」上のCG 、そして近況報告

■御無沙汰しております。通信で着々と沖縄イベントの準備が進んでいる様子を楽しく拝読しております。 ただ、やっと生後半年を過ぎた娘の春を連れての参加は難しいようです。

◆ヒマラヤでの遭難事故、やはり地平線会議に御縁のあった方が犠牲になられた由。ご冥福をお祈り申し上げます。御遺体がラサに降ろされた日に、欧州人がチョモランマ頂上に落下傘降下したとのニュース、人の冒険心は留まるところを知らないものだと改めて思った次第です。 渡辺一枝さんや長田幸康君は、北京五輪で注目されたチベット問題に対する興味を持続させようと頑張っておられますが、なかなか各種イベントに参加できないのは残念であります。

◆さて、遅れている次回作に関する言い訳と経過報告です。五輪大会の「開会式」、偽造騒ぎで注目されたCG合成の巨人が歩いたのは「東経116度39分」上の直線で、城市を貫くこの中心線はフビライが定め、明代には同一線上に風水と道教の呪いを込めてモンゴル封じの「景山」が造られましたが、CG巨人はそれを踏み越えて鳥の巣会場に達しました。大都は商業と宗教の施設が配置された政治的ディズニーランドで、周辺には5箇所の巨大な狩場が有り、今の北海公園の基となった巨大な港を抱える大陸と海洋を結ぶ世界帝国の中心地。フビライの時代にはチベット仏教、毛皮、駱駝、「鷹狩り」などの要素が欠かせません。

◆今年1月25日の報告会で鷹匠・松原英俊さんが、「青森の村の冬……ある日、上空に真っ白なタカが飛んでいる。そのまま林につっこんだ。急いで追いかけたら、30m先の木の枝に見つけた。……」と語ったと通信に記録されています。このシロハヤブサは「海東青」で、契丹帝国からフビライに到る歴史の鍵です。150年も長城の北に栄えた契丹帝国が金に滅ぼされ、高麗が大モンゴルに抵抗したのも、北の王たちが執拗に海東青の貢物を強いたからでした。もしかしたら元寇も……。

◆拙著『チベ坊』を応援して下さる人で、大学時代から日本の鷹狩りを研究している神主さんがおります。2年前にいわき市某所で鷹狩りの見学会を主催した方で、由緒ある諏訪流を伝承する山形県の沓沢朝治翁の弟子となった高木利一(福島県在住・建築業)さんという鷹匠を招いたとの事。鷹狩りの歴史から日本文化が万里の長城の南と北の両方から影響を受けた事が分かります。モンゴルと接触して無事だったのは日本とチベットだけですが、両国の歴史の違いは武家政権にあり、天皇家と公家が独占していた鷹文化を武士が奪うのが戦国時代。その前史に当たる鎌倉が新しい仏教の中心地になろうとした歴史の裏側に鷹文化が隠されています。

◆平将門は「新皇」に即位する時に契丹の耶律阿保機を先例にしたと『将門記』にあり、東北のエゾ、藤原三代、十三湊の謎、仏教と毛皮の関係も重要で、武士が月代を剃り始めるのが元寇直後なのは何故か?と次々と発見があり、どれも各分野で新境地が開かれている部門のようです。

◆シルクロードの北に「草原の道」、その北には「毛皮の道」、ロシアがタタールのくびきが外れた直後から東方拡大した目的も毛皮で、「毛皮の道」の下に豊富な地下資源が眠っているのを知らなかったモンゴル帝国は世界の毛皮利権を独占していたのです。また、相撲界で追放騒動を起こした3人の「ロシア人」力士、正確にはオセチアのオセット人で、チンギス汗の西征では「アス人」と呼ばれ、カフカス山脈の北麓に居た先祖の半分はモンゴル兵となってチャイナで大暴れ、残りは南のグルジアに逃げた歴史があります。

◆チベット僧パスパとフビライとの間には、オカルトと銭カネが生々しく絡み合う緊迫した関係があり、パスパの外交手腕で大都とパスパ文字とがほぼ同時に姿を現わすと巨大な翻訳センターが設置され、今の大蔵経の基礎になります。最初に信者になったモンゴル人はオゴタイ汗の次男ゴデン王子で、彼はインドからペルシアと欧州を経由して侵入したばかりのハンセン氏病に罹患し、それを癒したのがパスパの叔父であり師匠のサキャ・パンディタ。

◆五輪開催前にも愚かな偏見が今も残っていると暴露されましたが、チベットに負けずに鎌倉時代の日本には専用の療養施設を作った僧、叡尊と忍性がいました。雲南大理の攻略戦で南下したフビライ軍が、東チベットやベトナムを荒らした土産がペスト菌だった可能性が高く、ハンセン病と入れ替わりに中世の欧州で大惨事を起こしてルネサンスが始まりますが、グローバル化時代の今、「鳥インフルエンザ」のパンデミック感染が心配されているのと似ています。

◆長々と書いてしまいましたが、言い訳になったでしょうか? なかなか発送作業のお手伝いや報告会に顔を出せないことも含めてお詫び申し上げます。(10月9日 中村吉広 ふたつの桃にはさまれた春ちゃんの笑顔を添付して)


急告!! 『沖縄海風舞島楽覧記』早々に完成!!!

■長野画伯の筆による「地平線カレンダー」、2009年分が早々と今月の25日に完成します。今年に引き続いて浜比嘉島の風景を題材にした作品で、タイトルは『沖縄海風舞島楽覧記』。これまでとは画風をがらりと変えた、“画伯らしくない”意欲作も混じります。

●判型は例年と同じA5判(横21cm×縦14.8cm)。2ヵ月が1枚のカレンダーになっていて、それに表紙を付けた全7枚組です。頒布価格は1部あたり500円。送料は8部まで80円、16部まで160円(それ以上はご相談ください)。

●地平線のウェブサイト(http://www.chiheisen.net/)からお申込みいただけます。 を設けましたので、ウェブサイトのページから「申込書」をコピー&ペーストしてメールソフトに貼り込み、必要事項を記入してご送付ください。葉書での申し込みも受け付けています(〒167-0041 東京都杉並区善福寺4-5-12 丸山方「地平線カレンダー・2009係」)

●お支払いは、郵便振替で。カレンダー到着後でけっこうです。いきなりご送金いただくのではなく、かならず先にメールや葉書などで申し込んでください。「郵便振替:00120-1-730508」「加入者名:地平線会議・プロダクトハウス」

●沖縄の「地平線会議 in 浜比嘉」や東京の地平線報告会でもお求めいただけます。(丸山純


[通信費をありがとうございました]

 9月の地平線通信でお知らせした後、通信費をおさめてくださった方々は以下の通りです。ありがとうございました。地平線会議は「会」ではないので会費はありませんが、通信を発行し続けるための通信費は頂いています(1年2000円)。

恩田真砂美/田中良克/横山喜久/橋口優/高野政雄/ 加藤牧夫/嶋洋太郎/坂本順哉/松川由佳/寺沢玲子


■先月の発送請負人

森井祐介 三輪主彦 藤原和枝 村田忠彦 米満玲 緒方敏明 車谷建太 加藤千晶 落合大祐 江本嘉伸 チンバザル 片山忍 橋本恵 中山郁子 山辺剣 恩田真砂美 武田力 来てくれた順。今回も17名の人が汗をかいてくれました。ありがとうございました。


[あとがき]

いよいよ、浜比嘉島です。今号はこれまでの地平線通信で最も「沖縄発」の原稿が多い通信となりました。意識的にというよりは自然にそうなっていった感じです。書いてくれた皆さんに心からお礼を言います。

◆写真展についての影山・本吉さんの思いを読んでいて、胸がつまりました。きれいごとでつっぱってきた自分たちは、生き方の心意気という点でおふたりに負けた、という気がします。勝ち負けの問題なんぞではないことですが、私には素直にそう思え、いつか恩返ししたい気持ちが消えません。

◆斉藤実さんを覚えてますか? 太平洋を身体を張って漂流実験をやったあの海の冒険家です。夫人の宏子さんから「すっごく感激したので」とファクスが今朝15日未明に。クリスチャンの宏子さん、友人とフランスのルルドの巡礼に行ってきたそうですが帰路、友人が体調を崩し、ふらふらに。ビジネス・クラスの席にいたフランス人が席を譲ってくれ、なんとか元気に帰国できたことが嬉しくて、ということでした。

◆斉藤実さんについては先月末ふらり訪ねてきた吉川謙二さん(アラスカで永久凍土の研究をしている)が「一番刺激された人」と言っていました。沖縄でも漂流実験をやった斉藤さん、地平線会議の成功を祈ります、との宏子夫人の言葉を伝えます。(江本嘉伸)


■地平線はみだし情報

「関野吉晴公式サイト」http://www.sekino.info/ が先月リニューアルしました。


■今月の地平線報告会の案内(絵と文:長野亮之介)
地平線通信裏表紙

トラジャで海路の日和待ち

  • 10月31日(金) 18:30〜21:00
  • ¥500
  • 於:新宿区立新宿スポーツセンター(03-3232-0171)

日本人の来た道を探るグレートジャーニー、海のステージ進行中の関野吉晴さん。現在はインドネシア〜フィリピン〜台湾〜日本とつながる「黒潮ルート」を帆走と手漕ぎで辿る試みに着手しています。教鞭を執る武蔵野美大の教え子たちをスタッフ・クルーに迎え、舟造りの手道具を自作するところからスタート。今はインドネシアで舟の材料を調達しています。9月はラマダンで仕事が進まず、なかなか思うようにはかどりません。

浜比嘉報告会との豪華2本立て10月の報告会は、関野さんをお迎えし、「黒潮カヌープロジェクト」について語って頂きます!


通信費(2000円)払い込みは郵便振替または報告会の受付でどうぞ
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議(手数料が120円かかります)

地平線通信347/2008年10月15日/発行:地平線会議/制作:地平線通信制作室
編集長:江本嘉伸/レイアウト:森井祐介/イラスト:長野亮之介/編集制作スタッフ:三輪主彦 丸山純 武田力 中島菊代 大西夏奈子 関根皓博 藤原和枝 落合大祐/編集協力 網谷由美子/印刷:地平線印刷局榎町分室
地平線Webサイト http://www.chiheisen.net/
発行 地平線会議 〒160-0007 東京都新宿区荒木町3-23-303 江本嘉伸方


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