2004年から、太古の時代に人類が日本列島にやって来たルートを辿っている。数多あるコースの中で主要な3コースを選んだ。シベリアからサハリン経由で北海道に来るルートは宗谷海峡をカヤックで漕ぎ渡って終わった。ヒマラヤの山麓を通って一旦インドシナに落ち着き、その後中国、朝鮮半島経由で日本まで来るルートは今年の初めに終わった。
◆春にインドネシアに行った。そこからフィリピン、台湾経由で日本までやって来た黒潮ルートを帆走と手漕ぎで辿るための下調べをした。どこで、どのようなカヌーを作るか決めるためだ。スラウェシまたはレンバタ島のどこかで、丸木舟を作ることは決まった。三角帆を立て、ダブルアウトリガーを付けることも決めた。しかし日本の縄文時代には幾つもの丸木舟が発見されているが、熱帯のインドネシアでは太古の舟は見つかっていない。現在使われているカヌーは、小さなものまたはレースのために開発されたものを除いてほとんどがエンジンを動力としている。
◆そのため、インドネシアから日本列島にやって来るルートは沖縄本島で区切ることにした。日本列島では縄文カヌーが見つかっているので、沖縄より北は、縄文時代にあった素材と技術で造ることにした。したがって石斧か貝斧作りから始めることになる。しかしインドネシアから沖縄までは「素材をすべて自然から自分で探し出して作ること」にした。そう思って周りを見渡してみると、自然から自分で作り出したものは一切ないことに気付く。セーターは自分で編んだという人も羊から毛を刈って編んだわけではない。実はこの縛りを徹底すると厳しいことが分かった。
◆現在の地球上で、こんな縛りで生きている人は一人もいないからだ。アマゾンやアフリカの奥地でも、赤ちゃんは間接的にだが、鉄製の刃物の恩恵を受けていない人はまったくいない。アマゾンで外部と接触せずに生きている人たちでもナイフ類は持っている。本当に必要なものは誰かが持っていかなくても交易で入っていくからだ。そして一旦鉄製の刃物を使ってしまうと石器時代には戻れない。
◆インドネシアのスラウェシ島の南、スラヤール島で2000年前のドンソン文化の銅鼓を見た。そこには丸木舟ではなく、板を積み上げて造った構造船が描かれている。おそらく鉄を使っていただろう。私もインドネシアで作るカヌーには鉄器を使うことにした。しかし自然から自分でとってきて作らなければいけない。幸運なことに日本には宮崎駿の「もののけ姫」にも出てくるたたら製鉄が残っていた。日本刀は新日鉄や神戸製鋼産の鋼では作れない。砂鉄から作らなければならない。
◆早速5月から九十九里浜で砂鉄集めを始めた。たたら製鉄を指導してくれた東工大の永田和宏氏から、120kgの砂鉄を集めるように言われた。斧、鉈、ちょうな、ノミなどを作るためには5-6kgの鋼が必要だが、そのために必要な量だという。3-40人の学生、卒業生に手伝ってもらって3日間かかった。たたら製鉄には松炭が必要だ。ただ東京近辺では300kgの松炭を作れない。森は広がっているが、杉か桧で、それで炭を作ってもたたら製鉄では使えない。岩手北部で300kgの炭を焼いた。そのためには3トンの赤松が必要だった。たった5-6kgの鋼を作るために、それだけの量の木を伐採した。
◆6月初め、武蔵野美大の金属工芸学科の工房で、26時間ぶっ通しで、たたら製鉄をした。たたらでできた、溶岩のような「ケラ」を奈良の刀匠河内國平さんのところで、鋼にした。それを今和歌山の新宮の野鍛冶、大川治生さんのところで工具にしている。
◆これらの工具をもって7月21日にインドネシアに向かう。帆走のトレーニング、海でのサバイバル技術を磨きながら、カヌー作りをする。カヌー造りは年内いっぱいかかるので、実際の航海は来年の4-8月を予定している。
◆今回のプロジェクトには3人の日本人青年と3人のインドネシア青年がクルーとして参加する。いつものシーカヤック時の相棒、渡部純一郎を含めて8名で航海する。今まで私の旅に同行したいという若者はたくさんいたが、「若い時は一人旅をしろよ」と言って、すべて断って来た。今回は50年後も生きる若者に、クルー以外でも様々な形で参加してもらい、様々な気づきをして欲しいと思った。そして、多くの若者が準備作業に加わっている。アジアの抱えている問題を自分の目で見て、耳で聞いて、共に考えていってもらいたいと思っている。(関野吉晴)
■5月初め、ミャンマーにサイクロン(台風)が上陸し、大きな被害が出ているとの報道があった。そのすぐあとに四川省の大地震があったこと、ミャンマー政府が援助を拒んだこともあって、大災害らしいが詳細はほとんど伝えられなくなった。私は被害が大きかったエヤワディー河口デルタでマングローブ植林の手伝いに何回か通ったことがある。状況はどうなっているのか向後元彦さんに聞くのが一番いいと思い、ACTMANG(マングローブ植林行動計画)に電話したら、現在中国あたりを旅行中で、まもなく帰ってくるはずと留守を守る須田さんが言う。
◆現地を一番よく知っている向後さんにミャンマーの状況と今回のサイクロン被害について話してもらおうと考え、インターネットで詳しく見るとエヤワディーデルタの西側の方が被害が大きいようだ。現在はマングローブ研究者で、長くミャンマーでNGO活動を続けてきた大野勝弘さんの話も聞いておきたい。そう思って今回の報告会を企画した。向後さんの話は放っておくと三千大千世界へ広がってしまう。司会者の私は、それを引き戻して時間通りに終わらせる役目も担っていた。
◆最初40分は大野さんに話してもらった。パワーポイントを駆使して、的確でスマートな発表だ。おじいさんがビルマ戦線にいたこともビルマに関心を持った要因の一つだった。「ビルマの竪琴」、ビルマのお坊さんは歌舞音曲はやらないので野外演奏は作り話だろう。「ソウ・ナンダー(そうなんだ?)!」という女性の名前、ミャンマーとビルマ、文語と口語の違いで、昔から正式国名にはミャンマーが使われている。日本は欧米経由のビルマ、ラングーンを使っていたが、1989年軍事政権が国名の英語表記を「Union of Burma」から「Union of Myanmar」に改称したことで日本もミャンマーと言うようになった。欧米ではまだ「ビルマ」を使う国がある。当局を気にしてミャンマーと言う人も、海外に出るとビルマと言う人もいる。
◆野生のトラやゾウがいるバングラディシュの国境地域で村落開発の仕事をしていたが、交通手段はないので、自前のモンキー(超小型バイク)を小舟に乗せて島々を行き来した。あとで「国境地帯をバイクで走った日本人は大野さんが初めてですよ!」とバイク王、賀曽利隆さんがお墨付きをくれた。毎朝イスラム寺院からのアザーン(朝の礼拝の呼びかけ)で目が覚める。このあたりは仏教徒だけでなくイスラム教徒、ヒンドゥー教徒、また多くの民族も入り交じっている。それらの間には明らかな差別がある。デルタの古い村では森の中、のんびりと穏やかに豊かな生活をしている。大野さんは人のつながりを大事に、「足るを知る人々」に共感を覚え、NGO活動を終えて帰国後も、マングローブ研究者としてこの地域に頻繁に通うようになっている。その地域がいくつかの村ではほぼ全滅の被害を受けていることを聞き、心傷む心境だ。
◆エヤワディーデルタの状況がわかったところで向後さんの登場。私は向後さんがパソコンを駆使するとは思わず、密かに写真を用意しておいたのだが、慣れた手つきで画像、文書を映してくれた。向後さんはつい先日ヤンゴンのNGOに義捐金を届けてきたばかりで、画像は現地スタッフがとったサイクロン通過直後のものだ。「見たくない人は見ないでください。でもこれが現実です」。クリークを行くボートの中から岸辺に放置されたままの死体がいくつも見える。着の身着のままに残された現地の人には埋葬をする力も残っていない。
◆私たちが使わせてもらっていたボガレーの森林局の建物も壊滅的な被害を受けた。植林地域の建物も多くは損壊した。しかしビョンムエ島の建物は屋根が飛んだだけで、本体は残っていた。2004年にスマトラ沖地震の揺れを感じた建物だ。あの時も周りは大変な被害だったが、そこは波もあがらなかった。ここは安全な場所なのだ。我田引水かも知れないが、ここの被害が小さいのはマングローブ林のおかげだろう。石油のないヤンゴンの町の燃料として切り払われたエヤワディーデルタのマングローブ林だが、このあたりではACTMANGとFREDA(現地NGO)の努力によって再生復活している。
◆葉はほとんど飛んでしまったが、倒れてはいない。ほんのちょっとサイクロンの中心から離れていたおかげで、デルタ西部に較べ被害は少なかった。もちろん比較の問題で、被害が未曾有であったことは確かだが。マングローブ林の再生がまだの場所、水田が広がっている地域の被害は大きい。ただでさえ貧しいこの地域で米がとれなくなったら、またさらにひどい状況になるだろう。
◆二人は報告の後、質問に答えてくれた。各国の支援を拒んでいる軍事政権はメチャクチャで、自分らのことしか考えていない。恐怖政治をしいているので本音を話すことはできない。自分らのことしか考えていない政府だ。しかしこの軍事政権だが、一つだけいいことをした。聴衆のみなさん「なに言うの!」と意外な顔。「それは経済成長を止めたことだ!」と向後さん。「経済が成長すれば、人々の幸福度はどんどん減る」。ビルマの人たちは、皆一様に「自分は幸せだ」という。GDPの高い日本人に同じことを聞いたら、ほとんどが「幸せではない!」と答えるのではないだろか。
◆ブータンの「国民総幸福量」GNH(Gross National Happiness)と似たようなものかという質問に、ちょっと違う、と向後さん。ブータンのように国王様が仕掛けたものではない。仏教の影響も大きいが、ミャンマーにはイスラムもヒンズーもおり、彼らは皆根底にアニミズム精神を持ち続けている。身の回りの小さな神様に常に感謝の精神を持つ。これが「利他の心」につながるのではないか、と向後さんは言いたかったようだ。
◆向後さんの話はスケールが大きく、さらにミャンマーの人たちが持っている仏教の精神について話が広がっていった。私の役目は三千大千世界の迷路に入った話を「small is beautiful」の世界に引き戻すことだ。サイクロンで困っている人のためには我々は何ができるのか、との質問には信頼のできるNGOに義捐金を届けることで、現地のみなさんを応援していることを示したい。「途中でピンハネされそうだが、大丈夫なのか?」「それが問題で、大きな組織ではできない。現地スタッフを送って、ちゃんと末端まで届くか検証しているNGOが活動している。その人たちに託そう!」 という事でとりあえずは締めくくる。そのあと二次会で向後ワールドにとっぷりと浸った。(三輪主彦)
■報告会でミャンマーのことを話した。まとまりのある報告をする難しさを改めて感じた。網羅的な国の紹介にならないように,私の見たミャンマーを知ってもらおうとしましたが如何だったでしょうか。
◆「ビルマ/ミャンマー」再論。どちらを使っても政治的なにおいを避けづらい。残念なことだ。国や人を呼ぶたびに政治的主張をするつもりもない。普段は話し相手と同じ呼称を選んでいる。書きものではこの手は使えないので,国一般はミャンマー、最大民族にまつわることはビルマで…。
◆「援助は民衆に届いているのか?」が、報告会での関心事の一つだった。当局による援助の中抜きについては、数多く報道されている。問いにはYesともNoとも答えられる。要するに目減りする程度の問題か。送金や換金にはミャンマーの法律による法外な(苦笑)手数料やロスが発生する。また物資の調達や管理が大掛かりであれば利権も生まれる、誤魔化しも横行する。公的な大掛かりの経路でミャンマーを援助すると目減りする割合はより大きいと思う。勿論多くの人々に支援が届くのだが…。
◆「ビルマ社会の特徴」として人間関係の重要さをあげた。人をだましたり裏切ったりすると終いには地獄に落ちるのだ。お寺の参道や仏堂には、地獄の凄惨な光景が絵やレリーフで掲げられている。道に反した人間は血の海でもがき、針山で串刺しになり、逆さづりにされ身体を鬼に刻まれている。多くはヘタウマだが不信心な私でもゾッとするリアリティがある。傍らには澄んだ眼差しで鎮座する仏像。子供のころからお寺に連れられ、長い間様々な仏事に関わってきた彼らだ。多くの日本人に比べれば,仏様の説く「人の道」が心の底に根付いている。援助をピンはねしているビルマ人に、穏やかな末路はない。
◆「人間関係」は「縁」とも言える。利権や誤魔化しによる目減りを避けるには、監査や報告が確実な団体を通じて支援することだが、縁をたどるのもミャンマー支援には相応しい。仲間や友人をたどり、縁あるミャンマーの人達を信頼し応援しよう!縁がなければ…?ご心配なく。日本政府は、私の・あなたの13億円をすでに拠出している。大半はまともに使われているはずだ…と信じよう。そして「ミャンマーが面白そう!」と感じたら一度行ってみよう!良い縁がきっとできる。(大野勝弘:http://bikatsu.spaces.live.com/)
■短い時間で話せなかったことが多い。今回は2つの話題を用意していた。ひとつは緊急報告、“サイクロン・ナルギル”被害の悲惨さ。死者7万8000人、行方不明者5万6000人(軍政発表)――そのように新聞が報じても、実感がともなわない。だから、あえて、死体累々の写真をみせた。目を覆いたくなっただろうが、すこしは現場に近づけたのではないか。
◆もうひとつの話題は、ミャンマーとの長いつき合い。国際世論において、たしかに、この国の評判はわるい。だが、それとこの国に住む人びととを同じに考えてはならない。たとえば米国をみてみよう。ベトナム戦争しかり、アフガン攻撃しかり、イラク占領しかり、国家としておこなった悪行は数知れない。にもかかわらず米国民すべてを悪く考える者はいない。
◆ミャンマーも同じだ。軍事独裁政権と一般庶民とは違う。ミャンマーを訪れた者の多くが証言する。なんで人びとがこんなに優しいのだろうか。その秘密をさぐりたい、と願ったことが10年の植林支援にもつながった。
◆回答のひとつは“amya weide”(功徳を分かち合う)というお経、短いものなので書いてみよう。「アーロン、アーロン、アーロン/アミャー、アミャー、アミャー/ユドー ム ジャパ コンロウ/タードゥ、タードゥ、タードゥ。」訳せばこうなる。「(善行をおこなった者がまわりの者に伝える)みなさん、みなさん、みなさん/分かち合います、分かち合います、分かち合います/わたしの功徳をどうぞお受け取りください/(そして周りの者の合唱)(あなたの善行を)いただきました、いただきました、いただきました。」
◆輪廻転生。功徳をつめば来世にはよい生まれ変わりが待っている。興味深いのは“amya weide”によって功徳を分け合う相手である。人間に対しては善人だけでなく悪人に対しても、人間以外ではすべての生きとし生けるものに、そして山や樹木に宿るナッ(精霊)に対しても……。
◆人類、とくに先進工業国、の活動の結果として“地球環境問題”がおきた。人類の生存がおびやかされている。われわれはこの“amya weide”の教え―いうなれば「宇宙愛」―をいま一度熟考しなければならない。ミャンマーの民衆の英知に学びたい。(向後元彦)
大きな夢を抱くことがめっきり少なくなった。「寝床に就くときに、翌朝起きることが楽しみ」という自分を、つくづく幸せだと思っている日々である。
先日、二十世紀初頭に書かれた「報知新聞」(一九〇一年一月二日・三日)の「二十世紀の予言」という記事を見て、その先見の明に驚いた。
「自動車の世……(中略)。馬車は廃せられ、之に代ふる自動車は廉価に購ふことを得べく< また軍用にも自転車及び自動車を以て馬に代ふることとなるべし。従て馬なるものは 僅かに好奇者によりて飼養せらるゝに至るべし」
将来エアコンの発達や電信売買つまりネット社会の到来まで見通していたが、人為的に排出する二酸化炭素が気象変動を起こすことは予言し得なかった。融ける氷に立ち尽くす北極グマの映像を見せられ、「産業革命以前の生活に戻せばいい」と言う評論家もいる。北極の海氷が融けても海水面は上昇しない。「温暖化で、氷が融けている」は映像の暗数だ。体感的に国民の危機意識を煽っているにすぎない。寒冷気でも南極大陸の端の氷は融解することは学者なら誰でも知っている。海洋の水温は過去三百年の平均値よりも低い。三千年単位で見れば「太陽の活動の周期で温暖期」の地球はそれほど異常ではないのでは……。
九十年代、日本人の物質的満足度はピークに達した。物質が余っているのに「節約」を口にするのは、「心の満足」を与えない政治の無力を国民に「環境」という言葉で犠牲を強いているだけだ。汗水流してこその、「働き甲斐」を提供すべきなのだ。私は、最近、厚生労働省で行われた公聴会でヒアリング対象者となった。外国人労働者の移入について質問の集中砲火を浴びた。森喜朗元首相や中川秀直元党幹事長ら約八十人の議員が名を連ねる「自民党外国人材交流推進議員連盟」のある議員は、「労働者不足の日本の危機を救うには、海外からの人材を受入れる以外はない」と、人口の一割にあたる一千万人以上の移民が必要だと主張する。「働かない日本人」に代わって「安価な労働者」を受入れる「移民社会」が「二十一世紀の日本の生きる道」なのか。その一方で、働くほど貧しい「ワーキング・プア」の現状を訴えた人がいた。私は「格差ではない落差の社会現場」の報告をした。格差はいつの社会にもある。学歴、出身地、経歴など、格差にはそれをバネにして頑張ろうという向上心を生むことはある。落差は欺瞞と不信を生み出すだけである。だが、落差は違う。落差社会を生むのは、カネの分配の不公平感が生み出す「金原病」が原因である。
いつの頃からか、「カネのために働く」ことを憚(はばか)る風潮がある。豊かさのなかで、「働く」ことを奪われた。産業革命によって、人や牛、馬の労働が機械に奪われたように、ネットやケイタイ電話が日常化し便利と引き換えに肉体労働は廃れていく。子供のころ、大人たちは汗と油にまみれて働いていた。「貧乏人は正しい」「金持ちは間違っている」と、肌で感じたものだ。仕事場から肉体労働を奪われた若者は、ジムで汗を流す。昼休みにジョギングするサラリーマンがいる。「もう肉体の使い道がないからボクシングでもやるか」六十年代の寺山修司の言葉が、いま胸につかえてくる。
未開封の中国製冷凍ギョーザから「メタミドホス」という毒性の強い農薬成分が検出され、三家族合わせて十人が下痢など中毒症状を訴えた事件が日本中を震撼させた。私は、ある機関から犯人探しを命じられた。一部には食品テロという見方も出たが、政治的な犯罪性は実証されなかった。じつは「働く」ことを奪われた者の犯行だった。
「労働契約法」によって中国の労働者の権利が保障され、雇用主は施行(〇八年一月一日)前にベテラン工員などを大量に解雇するなどした。毒入りギョーザ事件は工場側から一方的に解雇され「働く」ことを奪われたある工員らの報復だった。工員を辿ると「戸籍のない黒孩子(ヘイハイズ)」だった。一人っ子政策で、戸籍に載せられない第二子、第三子など、「この世に亡き者たち」の犯罪だった。「オカチャンのためならエンヤコラ、もひとつおまけにエンヤコラ」と、丸山明宏(現・美輪明宏)の『ヨイトマケの唄』は肉体労働の有難さを歌った名曲だったことを思い知った。
地平線会議が三〇年を迎える。一九七九年から二〇〇八年までの三〇年間は、地平線会議だけの三〇年ではない。「僕らの来た道・僕らのゆく道」を照らす灯台の光跡でもある。地平線会議を、植物の生育に喩えてみた。植物が成長するには、土と光と水がいる。土は、地平線会議の土壌を作り上げた人たちである。光は世間つまりメディアを含め時代や社会である。そして、月一回の報告会にやって来ては「水」を遣る人たちがいる。地平線会議は、三〇年もの間、さして脚光を浴びることなく都会の片隅で咲きつづけてきたのは土と光と水のお陰である。健気(けなげ)で、力強く、可愛い……、手作りで汗を流してやって来た肉体労働の賜物だ。これからも人知れず、汗を流して咲きつづけていくことを願っている。(作家 森田靖郎 小説『悪夢』(光文社刊)を、近く発刊!)
■スピーカーから流れるテンポの良いカチャーシーに乗せての痛快なアナウンス。混じり合う太鼓の音と声援は競い合う2艇の舟に向けられている。さながら運動会のような賑わいに包まれて、初めて目にするレースに心が弾む。
◆今日(注:6月29日の日曜日)は浜比嘉島の夏の到来を告げるハーリー祭。“地平線ダチョウスターズ”とは晴美さんの呼びかけに集まりし仲間達に地平線より名乗りを挙げた長野さん、久島さん、竹内君(先月の報告会が初デビューの旅する絵描き)、車谷(この4名は舟すら見たことのなかった素人)が加わった新星チーム。体格も個性もそれぞれの船員達が、海人の男気を賭けた戦いに挑むのだから面白い。
◆大会本番までの2日間、僕らが夕方の港に集まると、竜の模様が施された木造の舟が夕日を浴びて乗る者を待っていた。それにしても、先人達が漁を営んできたこの夕空の美しい静かな海にサバニで漕ぎ出すことは、何より嬉しく心地良く、感慨深いものがあった。しかしながら、今回は速さを競うレースである。限られた時間のなかで、勝つためのポイントを詰め込まなければならない。後にも先にも大事なことは「櫂を合わせて漕ぐ」ということ。その為にも全身を使っての操作が必須なのだが、焦る程に腕に頼ってしまい、余計な負荷がかかり、300mのコースを一本こなすだけでも相当な体力を奪われる。「(細身の)久島さんがバラバラになるのでは!?」と囁かれるなか、前日の日暮れまで特訓は続いた…。
◆今回出場する職域Bグループでは、地元の比嘉地区はもとより本島からも集まった腕自慢の24チームのうち上位タイムの8チームが本戦に駒を進める。僕らは青いユニフォームに着替えて出走を待つ。このユニフォーム、海宝さんより頂いた「宮古島Tシャツ」に長野さんと竹内君が前日の夜更けまで、必勝の想いを込めて浜比嘉アレンジに仕上げた逸品で、背中にダチョウのマークがキラリと光る。
◆僕らの隣を走るのは“ホテル浜比嘉”チーム。去年このチームに僅かな差で負け予選突破を逃しているだけに、晴美さん達はリベンジに燃えている。ここで円陣を組み、マエストロ長野さんの大きな掛け声に皆の声と心が一つに重なる。こんなに気合いを入れているチームは他には見当たらない。間もなくアナウンスが入り、いざ舟に乗り込みスタートラインについた。
◆前方に浮かぶ折り返しのブイがはっきりと見えている。ピストルの合図に何かが解き放たれる感覚を覚える。いいスタートだ。皆の呼吸が見事に揃っている為、櫂が驚く程に軽い。ガガッとテンションが集まったところで船頭昇さんの「せーの」という掛け声に「ハイ!」と皆で櫂を合わせると舟は更にグングンと直線上を加速してゆく。カーブに差し掛かると長野さんが「イチ、ニ!イチ、ニ!」とリズムを刻む。悪くない折り返しだ。隣の舟がまだ曲がりきれていないのを確認したところで更に昇さんのスパートが入る。舟が一つになる一体感に底知れぬ喜びを噛み締めながらのゴール。手を挙げて歓声に応えようと目をやると、そこにはゴンの姿が!
タイムは約9秒差をつけての2分17秒81。なんと上位6位で予選突破してしまった。
◆緊張からの安堵感、興奮の覚めやらぬままに本戦の準々決勝へと突入してゆく。ここからはタイム争いではなく一騎打ちの勝ち抜き戦。気になるのはやはり対戦相手。「俺、くじ運悪いんだよなぁ」と呟きながら監督長野さんが見事に引き当てたのは優勝候補、地元の高校生チーム“カッチンバーマJr(勝連浜Jrの意)”。相手に不足はございません。今し方掴んだばかりの全感覚を駆使して、最高のレースをしようと胸を張って立ち向かう。スタートからゴールまで、ほぼ頭のなかは真っ白。皆の呼吸と掛け声と眩しい程に青い海と空の残像だけが記憶に焼き付いている。結果は逆に9秒程離されての敗退。しかし、皆本当にいい顔をしていた。大人も子供のようになってしまうこの祭りの魔法に完全にかかっている。
◆決勝戦は昇さんが掛け持ちで参加しているベテラン同級生チーム“情熱浜比嘉22”vs“カッチンバーマJr”の地元対決。これだけ世代が離れているにもかかわらず、同じ土俵の上で繰り広げられる一歩も譲らぬ一進一退の大接戦の迫力を目の当たりにしていると、いわれようのない熱いものが込み上げてくる。優勝は“カッチンバーマJr”。表彰式では健闘が讃えられ、“ダチョウスターズ”に特別賞としてビールが贈られた。皆で呑んだその味の格別だったこと!
◆この祭りに一貫して流れている一体感はなんだろう。「櫂を合わせる」という海と共に生きる潜在的なリズムが、皆で暮らしてゆく独特な「間」と重なってあらゆる場面に反映されているような想いがした。いざ呼吸を一つに合わせることの難しさ、奥深さを肌身をもって教えて貰えたような気がする。そして、共に櫂を漕いだ素晴らしき船員達に「ありがとう」と言いたい。漕げば漕ぐ程に楽しくなるハーリー。来年はもっと練習を積んで、この浜比嘉島に帰って来たいと思う。(車谷建太)
■浜比嘉島、比嘉区の今年のハーリー大会日程が6月29日に決まったのは6月初頭でした。地平線会議はチームエントリーを決めていましたが、何しろギリギリのスケジュール決定。その時点で確実に行けると手を挙げた人はいません。でも秋の浜比嘉島集会のために、ハーリーに出て、少しでも地平線の名前を地元にアピールしたい。ふたを開けてみると、応援も含めて内地から6名参加。2日間の猛特訓を経て、目標の予選突破を果たしました。
◆チーム名の「地平線ダチョウスターズ」という名前は、外間晴美さんの命名。名前だけですが監督役となった私(長野)が、かつて坊主頭にしたときに晴美さんがつけたダチョウという渾名に由来しています。メンバーは地平線らしくユニークな寄せ集めチームとなりました。漕ぎ手として、三味線弾き(車谷)、貧乏研究家(久島)、イラストレーター(長野)、アーチスト(竹内)、農家(外間昇・晴美)。応援団に編集者(妹尾)、北海道から来てくれた会社員(掛須)という顔ぶれはかなり異色ですね。
◆他の漕ぎ手も、与那国馬の繁殖にトライする若者、ガイド、カヌーイスト、映像クリエイトスタッフと、皆沖縄に魅せられて内地から移り住んだ人たちです。ハーリー大会には島の外からエントリーする人も少なくないのですが、ダチョウスターズほどユニークなチームは他になかったのでは。秋の浜比嘉報告会開催へ向けて、気持ちの良いスタートを切ることが出来たと思います。
◆さて、10月の本番まで3か月余りとなりました。現在プログラムを練っている最中です。沖縄は内地とは文化のギャップも大きく、壁を感じることもあります。なかなか手強い。その分、面白いものになりそうな予感もします。地平線報告会イン浜比嘉のタイトルは「ちへいせん・あしびなー」と決めました。「あしびなー」とは琉球語で「遊びの庭」というような意味です。どんな「庭」になるのかお楽しみに。(長野亮之介)
■「おいっ、地平線からチームを出すぞ」と聞いた時は、「貴重なカロリーを、何も舟遊びで消耗しなくても‥。10月の報告会まで温存しとけばいいのに」と私は醒めておりました。それが、どういう心境の変化かメンバーに。現地入り後、日頃の運動不足からくる動悸・息切れは、せっせと飯を食って突出させた下腹部(晴美ちゃんの見解は「それって栄養失調症じゃないの?」)に備蓄したスタミナで乗り切り、もう一つの難題、船の腰掛け板が私の薄い尻の肉越しに骨盤を直撃し、その痛みで漕ぎに集中できない、という悩みも、履いていたサンダルをクッションに敷いて切り抜けました。
◆即席かつ混成ながら、レースまでの僅かな日数で、乗り手を含むチーム全員の連帯感は急速に高まりました。そして臨んだ本番。力の限りを尽くした2本は、漕ぎ終えた後も実に爽快でした。浜比嘉の皆さん、ありがとうございます。あのハーリー・ハイを味わいに、来年も行きます。その時はよろしく!(枯れ木も海の賑わいの久島)
■5月30日の地平線報告会に初めて参加しました。その際、浜比嘉島ハーリーに誰でも参加できると聞き、新参者ですが、仲間に加えて頂きました。僕は今年の3月まで教師として、埼玉県の本庄第一高校という私立の高校に勤めていましたが、絵描きとしての自分の時間を確保するために辞職を決意し、4月から5月まで、屋久島と沖縄への旅に出ました。その時に出会った旅の仲間に地平線会議の存在を教えてもらったのが報告会参加のきっかけです。
◆今回、地平線会議のメンバーとして参加させて頂いて、とても充実した時間を過ごす事ができました。初日の練習ではなかなか全員の息が合わず、一生懸命漕いでいるのにスピードが上がらない状態が続きました。そして、何度も改善を重ねていくうちにスムーズに漕げるようになっていきました。2日目の練習の最後の1本がかなりいい状態で終わり、本番の予選でチームの息と持てる力が最高点に達したように思います。今まで苦労して漕いでいたのが嘘のようにスムーズに、テンポ良く漕げました。そして、漕いだ力が何倍にもなってスピードに変換されているのがわかりました。
◆メンバーの中から口々に歓喜の声があがり、気分がハイになっていました。最高に気持ちよく終わる事ができ、また機会があれば是非出場したいと思いました。僕のような新参者も同じメンバーとして扱って頂き、ありがとうございました。(竹内祥泰)
■まさかのベスト8.気分は優勝だ。来年もチバリヨー! (外間昇)
■こりゃあ、来年も継続できそうだゾー! 来年は3位入賞だ!!(外間晴美)
■ヤッタゼ!! ダチョウスターズ!! 来年はユーショー! (長野亮之介)
■1信:ずっとパンタナールに居て、ピラニア釣りをしたり鰐のいる川に入ったりの自然を楽しんでいました。今、ポルトベージョというアマゾン川の支流の街にいます。ガイドブックには載っていないのでカタコトスペイン語が全てです。ネットがない所ばかりにいるんですが携帯は使えるんですよ。藤原和枝 7月5日 携帯メール
■2信「いまマナウスです」
マナウスは思った以上にハードです。街は貧しい人が多く暗くなると外には出られません。ネットもすごく不便な上、ここは携帯がつながらないです。明日からアマゾンのジャングルに入ります。いろいろメールしたい事がありますが、ブラジルの不便を痛感しています。もう少し楽に書ける所に行ったらまたメールします。藤原和枝 7月8日
■今や、あんどんの油をなめるろくろっ首にでもなったような気がする今日この頃。リスボンから始まったてんぷら油旅は、ただひたすら油集めとバイオディーゼル燃料製造の単純作業の毎日で、正直いって3日で飽きた。集まった廃食油をペーパーフィルターで濾し、天かすなどの不純物を取り除くのだが、やたらに作業効率が悪い。同時進行で作業時間を短縮できそうなものだが、そういう知恵は働かないらしい。
◆てなわけで、ジブラルタル海峡を越えてモロッコに渡り、カサブランカからマラケシュ、ワルザザード、エル・フードとカスバ街道を走破して、サハラ砂漠の入り口まで到達。証拠写真を撮っただけでスペインに戻り、マドリッドまで合計3週間。ほとんど知的興奮も、精神的高揚もないまま、狭いナビシートに押し込められたバイオディーゼルの旅は終了となった。まあ、シベリア経由日本まで、旅はまだまだ先が長いが、走っていれば嬉しいという実体を確認して、しみじみ思ったものだ。世の中にはヘンな奴は多いが、やっぱりこいつ(注:てんぷら油旅を実行中のカメラマン山田周生氏のこと 先月号地平線通信参照)ヘン!
◆ちなみに、ひとつだけよけいなお世話で現状報告しておくが、某・マクドナルドの廃食油は、まったく使い物にならなかった。最初の段階で、ペーパーフィルターを通らないほど不純物が多く溶け込んでいる。この油で揚げたマックフライポテトとかを食べていると想像すると、かなり不気味なものがあります。別に営業妨害の意図はございませんので、悪しからず。(帰国後5泊6日の超短期滞在で、ペルーのリマに逃亡したZZZこと白根全)
★白根全写真展『Festa Brasileira』のお知らせ★
日本人ブラジル移民100周年記念・日本ブラジル交流年記念事業として、これまで撮りためてきたブラジルのカーニバルなどお祭りの写真を集めて、写真展を開催する運びとなりました。リオ、サルバドール、レシーフェ、オリンダのカーニバルと、アマゾン河中流域のパリンチンス島で行なわれる熱帯林の奇祭ブンバ・メウ・ボイ、そしてマラニョン州サンルイス市のサン・ジョアンの祭り、合計60点で構成。
■会場:リトルワールド野外民族博物館 ミューズギャラリー
愛知県犬山市今井成沢90-48 Tel:0568-62-5611
■会期:2008年7月19日より8月31日まで
■協力:福音館書店
■6月21日と22日、シールエミコさん宅を訪問しました。この日にお邪魔することは、4月から決まっていて「畑仕事が溜まってるから、草むしり手伝って〜」と言われていました。行く前に何度か電話でお話したところ「やる事いっぱいで忙しいし、体調も悪くてヘコんでんねん」と言っていたので「行ったら本当のお邪魔になるかも?」と思いましたが「遠慮せず来てね」と言われ、そのまま遠慮せず「草をむしりに」行ったおバカなワタクシであります。
◆再発のことは当日聞きました。なんで?エミコさんのような優しくて頑張ってる人がなんで??今でも信じられません。エミコさんはガンが再発したこともありますが、世界一周が延期になったこと、そのため2年前から計画していた『笑み基金』をネパールに届けられなくなったことで、モノ凄く落ち込んでいました。さらに、世界一周中に大家さんが家を改築することになっていて、旅行が延期になり引っ越さないといけないこと、入院すると畑がほったらかしになること、雑誌の連載を中断することなど、一度にいろんなことが起こって、なにから手を付ければ良いやらわからなく困っていました。
◆しかし、夜、いきなりモンベルの辰野さんが「140万円のメロンや!食べよ食べよ!!」と豪快に登場。メロンを食べながら今後のことを話し合うことに。内容は「なにをおいても、早く入院して治療を受けること。あとのことはなんとかなる」といった感じのお話でした。辰野さんの心からの言葉に触れ、エミコさんの表情に明るさが戻ってきました。
◆入院はまだですが、やはり体調がすぐれず、痛みを感じる日もあるようです。引っ越しや畑より、なによりも大事なのはエミコさんの命。早く治療を受けて元気になって欲しいです。元気があればなんでも出来る!メロンも食える!!(華の若武者 山辺剣)
以下、モンベル広報部から。
下記の方法で、支援金と応援メッセージを受け付けています。皆さまからの支援金はすべて「お見舞い」としてシール・エミコさんにお届けし、治療費などに活用いただきます。
応援メッセージ宛先 郵便、FAX、メールで受け付けています
宛先:株式会社モンベル 広報部「シール・エミコ支援」係
住所:〒550-0013 大阪市西区新町1丁目33-20
FAX:06-6531-5536 (「シール・エミコ支援」係)
メール:
■「失われた地平線」という映画をご存知ですか? 1937年に公開されたアカデミー賞受賞作なので、レンタルDVDでも名作コーナーに必ずある映画でしょう。題からしていかにも地平線会議にふさわしそうですね。
◆内容はイギリスの外交官を乗せた飛行機が、ヒマラヤの雪の中に不時着、そこでチベット人たちに助けられ、彼らの街「シャングリラ」に招かれるのです。そこは餓えも病気も戦争もない、生きることが喜びである理想郷。そこには200歳以上の老ラマ僧がいて、「あなたが来るのを待っていた。あなたにすべてをゆだねる。シャングリラの未来と運命を…」と言い残してこの世を去るのです。
◆その伝説のシャングリラに安東は来ています。えっ?実在するの?ですって!ええ、6年前から実在しています。中国雲南省北部のチベット族の街に。雲南といえば安東の第二の故郷。この街に来たのは、雲南大学の留学生だった1995年に、真冬のチベット高原を自転車で走りきった後に寄ったのが初めてでした。そのころこの街は中甸と呼ばれ、本当に何もない寂れた街でした。観光産業発展のために街の名を変えたのは、2002年のことです。
◆このシャングリラ、実は最近の地平線会議でもおなじみの地域になってきました。たとえば先月の報告会で、向後さんの話の中で出てきた梅里雪山もこの地域にありますし、今ガンと戦っているシール・エミコ&スティーブも、昨年のチベット自転車走行時に、この街に長く滞在していました。つい数ヶ月前にも、ユーラシア自転車横断中の田村さんがこの街でチベット暴動のために先に進めずに足止めを食っていましたね。
◆ぼくは今回、幻の花「青いケシ」を探し求めるツアーのリーダーとして、この地域にやってきました。100年前にイギリスの植物学者キングドン・ウォードがここで初めて青いケシを発見した時の本「青いケシの国」は戦前から和訳され、それで日本の登山愛好家の間で伝説の花として知られているのです。ぼくはここには幾度か訪れていますが、高山植物の咲き乱れる今の季節は初めてなので、その幻の花が見つかるか心配でした。でもありました! 標高4000m以上の高地に悠々と咲く姿! ケシ以外にもサクラソウやエーデルワイスなど色とりどりの花々であふれた高原は、まるで桃源郷のようです。
◆この十数年で雲南もずいぶんと変わりました。雲南はもはや秘境ではありません。ここも世界遺産に指定され劇的に変化しています。残念ながら経済発展に浮かれるこの街は、理想郷とはほど遠い気がします。でも確かにちょっと昔まで、この周辺にシャングリラはありました。7年前に安東がこの地域の未踏峰、梅里雪山や白茫雪山などの登山調査のために村々を訪れ滞在した時、人々は本当に素朴で、ちょっと歩けばすぐに家に招かれ、あちこちでお酒をご馳走になり、村の中をおちおち散歩もできないほど歓待されたものでした。そこは本当にシャングリラのような地域でした。
◆さて、その映画のラストシーン。一度下界に戻った主人公が、再びシャングリラを目指して、幾度も嵐に押し戻されながらも、不屈の精神で人跡未踏の雪の山の彼方へ挑みます。そしてついに再びシャングリラにたどり着き、何ものにも変えがたい満ち足りた表情で、物語は終わるのです。ぼくにはわかります。全ての目標をそこに定め、ただがむしゃらに立ち向かい、ついにそこに達したときの思いが。チベット高原を自転車で走りきり故郷の昆明にたどりついたとき、シベリアを走りきりレナ川の水面に自分の姿を見たとき、雲南の未踏の山頂に到達したとき、数百キロ走りついに青いケシを発見したとき…。この映画には、探検家、冒険家の精神に相通じるものがあります。われわれひとりひとりの心の中にシャングリラはあります。I believe it because I wantto believe it. みなさんも、きっとその理想郷を発見できますように。(雲南省迪慶チベット族自治州香格里拉(シャングリラ)県にて 7月12日 安東浩正)
PS: もうすぐ夏ですね。夏といえば祭りです。祭りといえば青森ねぶた。今年も地平線の仲間十数人で青森ねぶたに参戦します。ハネトの役で誰でも参加でき、すべての人が主人公になれる祭り、それがねぶたです。祭りは8月2日から。この夏、燃え尽きてみたい人、青森で待ってま〜す。7月20日発売のサイクルスポーツ誌に安東が4ページ紹介しているので、参考にしてくださいな。今年もやるゾー。ラッセラー!
■江本様 サインバイノー? こちらは、総選挙開票に抗議するデモに端を発した非常事態宣言は解除され、表面上は平穏な日常生活を取り戻しています。知り合いの在留邦人が抗議デモが「暴動」に変わった現場で、後頭部に投石を受け、頭蓋骨を陥没骨折の重傷で日本に緊急移送されたり、剣道の教え子でもある機動隊員も傷を負ったりで、あの無血改革を実現した民主化後18年目の惨劇に戸惑いを覚えています。
◆1日だけで終わってしまった装甲車の出動、武装警官や軍人が完全武装で市内を巡回する姿は、一体、誰を誰から守っているのか…? メディアも非常事態宣言によって、モンゴル国営ラジオ・テレビのみの放送で、面白くもない映画やくだらないトークショーの垂れ流しと、一方的に革命党が被害者になっての党幹部のインタビューなどばかり。これが情報統制というものか、と空恐ろしく思っています。
◆私はデモの最中は、現場には行っていないのですが、翌々日に現場に行ってみました。不思議なことに放火現場は、モンゴル国営テレビが報道しているような「延焼」で焼けたとは到底思えない文化宮殿の一部も焼けていました。放火現場は不思議な躁状態のイメージがあり、体制に対する怒りや憎悪といったものは感じられず、被害にあったというものも、抗議デモをやっていた人たちではなく革命党に有利なものばかりが「消失」しているのです。
◆馬頭琴楽団や交響楽団などの楽団員は楽器や舞台衣装、貴重な楽譜の原本、音源の原版などを破壊、略奪されたり、燃やされたりで壊滅状態。国立ギャラリーもモンゴル絵画のコーナーはめちゃめちゃで、一体何点が焼失、何点が盗まれたのかもわからない状況だそうです。文化芸術方面にまで、民主化要求、不正選挙の糾弾をしている人たちが攻撃の対象にするというのは、考えづらいですよね。
◆私はモンゴル国の民主化の申し子的にモンゴル語の通訳として、この国に育てられ、誰にも負けないくらいのキャリアを積む幸運に恵まれました。そして、その民主化を成功させたのは、民主化勢力の当時の抗議デモをしていた民衆だけでなく、無血改革を成し遂げた当時の革命党幹部の判断もあったのだと思います。権力に与みすることもないし、迎合するつもりもありません。ただ、私はこの国が民主化したこと、市場経済化に踏み切ったことは間違っていなかったと信じたいし、どれほどの混乱があったとしてもモンゴル国民は自主独立のために、民主化を実現していくと固く信じています。
◆ともあれ、モンゴルはもう危険なことはありません。そもそも非常事態宣言を出してあんなにものものしくしなければいけなかったのか? 5名の命が失われ、今でも死線をさまよっている人たちがいることは重く受け止めなければいけないけれど・・・。
◆先月の通信。エミコさんのガン再発は残念な報告ですが、あの素晴らしい笑顔と内なる清らかなエネルギーを発散している彼女は今回もきっと打ち勝ってくれると信じて応援しています。弱気こそ自分をくじき、蝕む悪の根源だと去年の自分が悪いほう、悪いほうに落ちていった体験から思います。ガンにかかるということは、それとは比べ物にならないほどの衝撃と絶望感や無力感があるかもしれないけれど、でも、友人である私達がエミコさんは絶対乗り越えられるということだけを信じ、祈ることでエミコさんがよい方向に迎えればと願っています。
◆いろいろ書きましたが、ともかく、私は10月25、26日の浜比嘉での地平線会議を楽しみに、仕事の調整をつけています。モンゴルからの私をメンバーに入れておいてくださいね!! (ウランバートル 山本千夏)
驚いた。砂鉄探しから、炭焼き、ふいご作り、そしてたたら操業まで、若者たちが日本の各地を歩き、文字通り汗を流して道具をつくったという。それも気宇広大な仕事だ。皆、「黒潮カヌープロジェクト」に名乗りを上げた関野吉晴さんの教え子たち。斧、鉈、ちょうな、ノミなどの道具は、すべてインドネシア−沖縄間をドクトル関野たちを乗せて帆走するダブル・アウトリガー・カヌーを造るための工具なのである。黒潮カヌープロジェクトとは何か。どのように学生たちの仕事は展開したのか。7月21日の関野さんの出発を前に、作業にあたったメンバーに工程ごとに書いてもらった。素晴らしいイラストを描いてくれた竹村東代子さんはじめ、貴重な記録を皆さん、ありがとう!(E)
■武蔵野美大油絵科卒の佐藤洋平です。地平線会議の皆様、しばらくご無沙汰してすみません。昨年の秋より、関野さんの「海のグレートジャーニー」にクルー候補という形で関わらせていただいています。最近は3月下旬〜4月中旬にインドネシア・スラウェシ島の調査に同行し、5月〜7月は船体を彫るための鉄器づくりをメインに準備を重ねてきました。7月下旬から再びインドネシアに行き、半年程滞在して舟づくりや操船トレーニングをする予定です。ここでは鉄器づくりの最初の工程、鉄の原料となる砂鉄を集めた時の話を中心に書かせていただきます。
◆…鉄器をつくるにあたり、日本古来の「たたら製鉄」を行うことになったのだが、その為には良質の砂鉄が大量に必要だった。砂鉄にも幾つか種類があり、山を崩して採る山砂鉄、川に堆積する川砂鉄、海岸の浜砂鉄の三つに分けられる。たたら製鉄には不純物の少ない山砂鉄や川砂鉄が良いとされている。ただ、自分達が砂鉄を集めるにあたり、山や川で砂鉄を採取することは法律の問題や時間的に難しかった。(山や川で勝手に土砂を採取することは禁止されている。)近場の海岸の砂鉄では何処が良いか、たたら製鉄に詳しい東工大の永田和宏先生に伺うと、九十九里浜のものが比較的不純物が少ないとのことだった。また、最終的に鉄器の鋼を数キロつくるためには120キロの砂鉄が必要だと聞いた。
◆去る5月6日、一回目の砂鉄集めが九十九里浜の最北に位置する飯岡海岸で行われた。参加者はむさ美の学生、卒業生に芸大生を含め30名以上となった。海辺で観光客が遊んでいる中、若者達が磁石片手に下を向いて砂鉄と格闘している姿は青春を無駄遣いしているようでなかなか滑稽だった。地元の人も気になったようで、飯岡に製鉄工場があったことや、夏には波打ちぎわの純度の高い砂鉄が乾燥して採れることも教えてくれた。しかし肝心の砂鉄は皆数時間で集めるのに飽きてしまって、目標の120キロには程遠かった。
◆大学に戻ってから砂鉄集めの新たな候補地(より純度の高い砂鉄が採れる場所)を探している中、九十九里浜を撮っている小関与四郎氏の写真集を見る機会があった。その本には真っ黒な砂鉄の浜の写真があり、2回目の砂鉄集めはそこに記された一ノ宮海岸に決定となった。
◆5月17、18日に九十九里浜の南端に位置する一ノ宮海岸、東浪見海岸で砂鉄集めが行われた。今回も30名程の参加で、夜はまだ寒い海岸で野宿して一日中砂鉄を採りまくるという強行軍になった。しかし1日目、2日目と一ノ宮海岸で採取を続けたが、120キロに達するのは難しそうだった。そんな中、地元の人やサーファーから、より南側の東浪見海岸に真っ黒い砂鉄の浜があることを聞いた。半信半疑でその場所に向かったが、果たしてそこには青黒く、うっすらと光った浜があった。磁石を使う必要の無いくらい純度の高い砂鉄の砂浜だった。皆今まで上手く採れなかった分、ゴールドラッシュに湧いた人達のように大興奮で、あっという間に目標以上の150キロを集めてしまった。この砂鉄が後に鉄器へと姿を変えることになる。
◆今この原稿を鉄器づくりの工程で最後に訪れる、和歌山県の野鍛冶の大川さん宅で書いています。2か月前にはただの砂鉄だったものが、目の前で斧やナタやノミになっていく姿には感動させられます。鉄の美しい輝きに魅せられる一方、この鉄器達をつくる為に必要だったものの多さに驚かされています。鉄は大量のエネルギーの消費を対価に存在できる物質だということを知りました。また沢山の指導者や協力者のお陰で鉄器が完成したことに今とても感謝しています。(武蔵野美術 =以下「ムサビ」= 大学07年油絵科卒 佐藤洋平)
■昼間の作業に疲れ全員が寝静まった深夜1時。静かに戸を開け外に出ると、吐息に白い息が混ざる。真っ暗な夜道を懐中電灯の光をたよりに炭焼きの見回りにいくのだ。昼間に作った「伏せ焼き」(炭焼き)に異常が無いか、係になったものが確認に行く。炭を焼いているところに近づくと、湿り気を帯びた強い木の香りがする。懐中電灯で照らすと光の先に速度のある煙が絶え間なく出ている。あんなに煙が出ているのに、全く音がなかったのが不思議だった。
◆伏せ焼きは地面に縦200cm横70cm深さ50cmの穴を掘ることから始まる。穴に木を並べ、上部から着火、穴と同じサイズ程のトタン板を被せ、上にこんもり土をのせフタをつくる。穴の手前側には火力を上げるための口をあけ、逆側には煙突をつくる。着火後は、2日後の朝までゆっくり燃やし続ける。伏せ焼きは人類が炭焼きをはじめたときの原始的な手法である。今回私たちはタタラ製鉄に必要な炭を得るために炭焼きをしている。タタラ製鉄に必要な炭は、黒炭の中で最大の火力になる赤松の炭。その炭を得るため、東京から車で10時間、岩手県北部にあるバッタリー村を訪れた。製鉄に必要な炭は300kgその大部分は大きな土釜で作る。大きな土釜で焼く炭は全行程で10日程かかるため、釜出しの際に再度、村に来ることになった。そのうちの40〜50キロは、炭を知るために伏せ焼きという手法で焼くことにしたのだ。
◆炭作りの方法の中でも伏せ焼きは難しいものではない。しかし、準備する道具があったり、火をつけてしばらくは見回りが必要だったりと手間と時間がかかる。特に焼き始めの1晩目は火が元気で空気を欲するので、穴上部の土のフタをよく壊す。深夜に上部のフタが壊れていないことを祈りながら見回りに行くと、土のフタにヒビがはいり煙と火が出ている。土のフタが壊れると、そこから空気が中に入り、喜んだ火が暴れて炭を灰にしてしまう。そのため、1晩に2回以上はヒビを土でふさぎ、土のフタを修復しなければいけない。
◆手間はかかるが、それゆえに学ぶことが多い。そして、作った炭はさまざまところで役立つ。炭は暖房や炊事に使用する。また、炭の灰で金属を磨いたり、食器を洗ったりできる。畑にまけば植物の栄養剤に。畑の防虫剤には、炭を焼く途中の煙から得られる木酢液をまく。炭を使った生活をしてみると、あまりに多目的可能な素材で驚く。炭は他にも沢山のことを教えてくれた。火、木、山のこと。モノづくりと素材と人の関係。
◆私はモノづくりと素材と人の関係に興味があり、以前から個人的に調べていた。この黒潮カヌープロジェクトでタタラ製鉄すると知ったときに、たまたま火や炭、人や環境、素材について調べていたこともあり、このプロジェクトに参加することになった。武蔵野美術大学ではデザインを学んでいる。ゆえ、このプロジェクトは私が学校で学んでいる領域から少しだけ縁遠い。しかし、モノづくり、素材と人の関係を肌で感じていると、その言葉以上にもっと大きなことが学べる。現代の経済のこと、人のこと、環境のこと、そのどれもが繋がっていることがわかる。このプロジェクトに参加して以来、そんなことをいつも感じている。それは、人が生きるための基本的な知識である。
◆人は昔、里山と共に生活するのが常だった。山を手入れし、そのお礼に山から素材を借り、炭などを作る。その炭を囲炉裏にくべ、仕事で疲れた体を炭の暖かさで癒す。その優しいあたたかさは囲炉裏に人を集める。たまに聞こえるパチッパチッという炭が割れる音がするが、炭は周囲の音を吸い込むように静かに燃える。その中心には深い橙色があり、その色は目をつぶっても目に残る。炭のあかりは、そこに集まるものの目の奥に静かに燃えうつる。(武蔵野美術大学視覚伝達デザイン学科4年 鈴木純一)
■僕の平衡感覚はその時すでに奪われていた。冗談か笑い事のようなことが、一つ一つ実行され現実になっていく。鉄器作りを砂鉄集めから始めると聞いた時の呆れにも似た感覚は、いつの間にか極めて純粋な探究心へと変わっていた。送風機に頼りたくない。そう思い、ふいご作りに名乗りを挙げた。たたら操業の日まであと7日。残された時間はそうなかった。
◆長野県に実験で使われたふいごがあるという。大工さんの指導の下でふいごを作り操業の日までに持ち帰る。それが僕に与えられた任務だった。予定では5日間で出来上がるとのこと。着替えと食料を積んで車に乗り込んだ。緑生い茂る山道をゆく。いくつトンネルをくぐっただろう。意気込みと重圧が入り交じる長い道のりだった。
◆その日の夜、僕は東京で設計を練っていた。長野での制作は困難だと判断して帰ってきたのだ。収穫はふいごの写真と仕組みのメモだけ。設計と作業手順を練り上げるのに丸1日が費やされ、制作に取り掛かる事が出来たのはその翌日。ふいご作りを申し出てからすでに4日が経とうとしていた。
◆作業は木工を専攻する山田明子とともに行われた。寸分の狂いも許されない慎重な作業だ。神経を使う分、疲労も激しい。相方の仕事が気にかかる。梅雨入り間近の6月、不安定な天気が続いた。たたら操業の日は翌日に迫っていた。
◆ふいごは風を送る装置だ。棺くらいの箱に可動する踏み板でふたがしてあり、内部空間は2つに隔てられている。シーソーのように動く踏み板によって左右の空間の空気が交互に押し出され、絶え間なく風が送り出される。吸気口と排気口には弁があり、交互に開閉するようになっている。踏み板は支点を中心に弧を描いて動く。その円弧にピタリと合うように鞴の内部側面は曲面になっている。少しでもズレると踏み板は動かない。その調整に多くの時間が費やされた。作業場の傍らには水洗いした砂鉄が新聞紙の上で乾かされている。時折の日差しに鈍く黒光りして、僕らを見張っているようだった。ふいごは半日遅れてやっと完成した。極度の疲労と出来上がった安堵からか山田は涙した。気丈に振る舞おうとしてもなお溢れ出る涙を見られまいと、しばらくの間どこかへ隠れてしまった。
◆ふいごをたたら場に運ぶ。40人もの人が集まっていた。ふいご踏みは5分ともたない重労働だ。夜通しの作業のために多くの人に呼びかけたのだ。ふいごを炉と連結し準備が出来た。4人の番子が構える。点火と同時にひと踏み目を入れる。重い。もくもくと立ち上がる煙。踏み板の摩擦音が何より気がかりだ。「わっしょい、わっしょい!」向かい合う番子同士でお互いを鼓舞するように声を張り上げる。炉の上に立ち上る炎とみんなの熱気。たたら場は祭と化した。拍手をし木を鳴らし、バケツを叩き歌を歌う。初めて出会った者たちの間に生み出された膨大なエネルギーに飲み込まれ、それまでの疲労も忘れて僕は声を張り上げた。何かに取り憑かれたかのように一心に鞴を踏み、炭を割り、炉を見守った。炭の粉で真っ黒の頬に汗が滴る。仕事を終えた番子は皆誇らしげだった。
◆たたらを終えたふいごは見違える姿になっていた。炭にまみれ幾度もの修理を経てつぎはぎになったふいごもまた誇らしげだった。(08年ムサビ基礎デザイン学科卒 前田次郎)
■どこから来たのかすら分からぬものを食べ、着て、生かされている現実。実感のない世界に生きることに限界を感じ始めた矢先、このプロジェクトを知った。かけがえのないこの時を、共有したい人々と出会った。
◆6月7、8日の2日間、大学の金工工房で砂鉄120キロと炭20俵をもとに、東工大の永田和宏氏と奈良の刀匠河内國平氏の指導の下、たたら製鉄が行われた。自分たちの手で集めた砂鉄と炭が、日本に古来より伝わるたたら製鉄の技術で炭素濃度0.4%以上の鉄の塊、けらに生まれ変わる。
◆まず作業は炉づくりから始まった。煙突をつくる要領でレンガを積み上げていき、中に高温で溶けた鉄の寝床となるよう炭を敷き詰める。次にふいごと炉を繋ぎ、炎が呼吸し易いようにレンガの隙間とふいごからの風を調整し、炎の高さや色などを見つつ、砂鉄と炭を炉に入れる時を待つ。砂鉄は10分毎に投入し、最初の2回が1キロ、3回目以降が1.5キロ。1操業で計30.5キロ必要となる。炭は毎回2キロずつ砂鉄投入後に補充する。鉄を鍛える段階で加工し易いように、鉄を含むガラス質の「のろ」を何回か出し、5〜7キロの「けら」ができる。たたらの炎は美しい。朝日から夕日へと移り行くすべての色がそこにはある。途中ふいごの調子が悪くなり、風の送風を何度かモーター機で代用することになった。モーター機は一定の風量を均一に炉に送り込むが、ふいごからの風とは違い、ふいごを踏む番子の息づかいと一体になっていた炎の踊るような呼吸は止み、人もどこか元気がない。
◆たたらの操業は計4回で、夜も寝ずの作業が続く。それは丁度3回目の操業のときだった。みんなの疲れもピークに達し、炉の強度的にも限界に近づき、あちこちにほころびが出始めていた。自分のこころの焦りが炎や周りの人々に伝わる。炎の温度はどうか、空気は十分に行き届いているだろうか、のろはうまく流れ出て、けらはうまく出来るだろうか…。こころを静めようとして空を見上げたとき、そこには神棚があった。御幣が鏡を挟んでかすかに揺れている。河内氏の言葉がふと頭をよぎった。「ひとつひとつ違う子やから」。鉄と火の神金屋子様に見守られ、人は歌い風を生み、鉄は火の玉しずくとなって、炎と炭に抱かれ一つになる。そこではすべてが生きていた。ひとりでは何も生み出すことは出来ないことに気がついた。そして静かに受け止める。白い静寂の世界に響く人と炎の息づかい。炎の踊り易いように炭の場所を決め、呼吸し易いように風を送る。
◆4回目の操業が終わりに近づいている。昼過ぎ、光に包まれた工房にはたくさんの人がいた。ボタンひとつできれることのない繋がりを人々の顔にみた。永田氏と河内氏、学生たちの手によって、炉は壊され、赤く輝く「けら」は確かな重みとともに取り出される。水に入れてもなお激しく動き、一瞬のうちに水は熱湯と化した。はかりの目盛に視線が集まる。針は7キロを指した。膨大な労力と時間には代え難い何か大切なものを授かった気がした。時に追われ実感の伴わなかった世界が私の中で動き出す。「金屋子様は女の神様で、炉は子を授かる場」。炎と人のやさしい音色はいつまでも私たちの耳に響いている。(ムサビ日本画学科2年 西野由璃子)
『眠気と半ばやけくその熱気に包まれて、約20kgの「ケラ」が生み出されました。「ケラ」は金の母と書き、安産のお守りにもなるそうです。』日本画卒業生 えかき 竹村東代子
■学部の卒業制作をきっかけにドキュメンタリーという表現手法に興味を持ったのが今年1月。学部時代多くの影響を与えてくれた関野先生がグレートジャーニーの最後を、学生を巻き込んでやらかそうと言う。これに乗っからない選択肢は私にはなかった。親に頭を下げ、大学院に進みモラトリアムを延長、黒潮カヌープロジェクト撮影班としてこのプロジェクト参加を志願し、ここまで実にめまぐるしい4か月を送った。現在は鉄器づくりパート、映画全体の総合演出を任せて頂いている。
◆今回は鉄器をつくる過程で刀匠・河内國平氏の工房にお世話になった話を書く事にする。たたら製鉄で取り出した「ケラ」を、純化し鋼に鍛える作業を河内さんに依頼することになった。私の河内さんとの最初の出会いは、取材準備の過程で手に取った、氏の著作『日本刀の魅力』の中だった。「「なんで今頃、まだ刀を作ってんねん」と、よく聞かれる。「正宗」が残ってる。「一文字」が残ってる。闘いや。」「名刀に会うとうれしい。出来そうな気がするからなぁ。鈍刀に会うたらいややなぁ。これも出来てしまいそうになる。」ものづくりを生業とし生きて来た彼の深い言葉の数々に、私は深い感銘を受けた。今回の取材でお会いできることを心待ちにしていた。
◆名古屋から電車に揺られ、辿り着いた奈良・東吉野の山奥。刀鍛冶の仕事場は木炭の焼け付いた黒とコンクリートの湿灰色と、重くも澄んだ独特の空気があった。私たちが九十九里で集めた砂鉄は、ここでいよいよ鉄の姿になる。河内さんが金敷の前に座り、すぐ左手にある炉に木炭が投入される。炉に併設されたふいごを弟子がゆっくりとひく。炭が燃える音、ふいごをひく音。たたら場とはうって変わって静かな雰囲気だ。徐々に火が強くなっていく。やがてケラを投入。カーテンが閉められ仕事場は真っ暗に。炎の色で温度の変化を把握する為だ。河内さんは炎の変化をじっと見つめている。弟子達は木炭を割り、ふいごをひき、温度があがっていくのを待つ。やがて炎が猛り、色が紫から橙に変わる。そこでふいごを弟子と河内さんが交代。弟子達は炭をわりながら待機。ふいごの音が徐々に勢いを帯びる。
◆カンカン! 河内さんが鎚で金敷を叩く。その音に即座に反応し、鎚を構える弟子達。「向う鎚」の構えだ。「向う鎚」とは、……その行程も今では殆ど機械が代役を果たし、向う鎚の風景は消えつつあるそうだ。釜の温度が上昇するにつれ、河内さんのボルテージがあがっていく。高まる緊張感。鉄は熱いうちに速やかに打たなければならない。河内さんが気合いの一声をあげ、「ケラ」を一気に取り出す。それとほぼ同時に弟子達は鎚を振りおろす。パン!! 爆発音と共に火花が噴水のように散った。「それ! そや!」河内が叱咤しながら、打つポイントを指示、弟子はそこめがけて振り下ろす。そのポイントを正確に打ち抜くことが求められるのだが、日の浅い彼らはまだまだうまく打てない。その度に河内の怒号が飛ぶ。弟子達はそれでも必死に7kgの鎚を持ち上げては振り下ろし、独特の金属音がカン、キン、カン、キン、繰り返されていく。
◆――やがて温度の下がった「ケラ」は火の中へ戻され、また十分な熱を帯びるのを待つ。その間、また静の時間が訪れる。静と動の繰り返し。向こう鎚は何度も繰り返される。私達も挑戦させていただいたが、狙った場所を打つ事がいかにむずかしいことか。「どこを打っとんじゃ!」河内さんに叱咤されながら、一朝一夕では成し得ない業を知る。繰り返しになるが、河内さんのことばには、ものづくりを生業として生きてきた職人ならではの深みがある。美大出身の私たちにとってその言葉の一つ一つは、刺激的で影響力の大きいものだった。インタビューの中で「向う鎚なんてやっているのはうちくらいやないかな。今は機械でも同じような事ができる。」と一言。私は前々から疑問に思っていた。では伝統工芸とはいったい何なのだろう。機械がやれていることを人間がしがみついてやる意味はどこにあるのだろうか。時代がその技術を必要としないのだとしたら、伝統とは何の為に受け継がれるべきなのだろう。河内さんは続ける。「だけど向う鎚を通して、弟子を教育してるんやね。弟子が今どういう状態か。集中しているのか、散漫なのか、成長しているのか。向う鎚を通して知るんや。」そういわれて私はなるほど、と思った。弟子とのコミュニケーションの場として向う鎚は成立しているのだ。そこが伝承の場であり、先人が後進にしつけや、心を伝える場なのだ。伝統工芸とは、その技術は元より、その過程にある知恵や人との関わり方を伝え続けているのかもしれない。自然から材料を採りすぎない事だったり、和を生むコミュニティのつくり方だったり。そう思ったら、なんだか全てに合点がいった。現代文明が急ぎ足で走るあまりこぼれ落ちた、大切な部分。その断片がこの向う鎚ひとつに見て取れる気がした。伝統工芸という炎は東吉野の山奥に、小さくともまだ絶える事なく燃え続けている。(ムサビ視覚伝達デザイン学科大学院 江藤孝治)
■3月8日私はバイトを終え、プロジェクトメンバーと国分寺にて集合し、そのまま新宮を目指した。国分寺から10時間、夜通し車を走らせた。なぜ新宮を目指すのか?それは自分にも分からなかった。「このままではいけない、なにかが謎」その思いが私とこのプロジェクト、さらに新宮を繋いでいた。明くる日の朝8時過ぎ、新宮にハイエースは到着した。関野さんと既に待ち合わせていた野鍛冶・大川さんの第一印象は「いい人そうな人」だった。
◆私は東京人を貧乏気質であると思う。日本人の文化人は文化人として、貧乏人は貧乏人としての自覚を持って生きていけないのか? 外世界の貧乏な人々は貧乏である事を自覚し、それでもなお幸せそうに(私にとっては)生きているように見える。だが日本では、貧乏人は金持ちであるかのように見栄を張り、それに負けんようとして金持ちはさらに見栄を張っているに過ぎないと思う。「セレブ感」という見栄張りは、必ずしも自分の立場を受け入れていくというライフスタイルとは私には思えない。そんな中、私は大川さんを絶滅危惧種である野鍛冶の生き残りというイメージで捉え会いに行った。
◆しかし実際に大川さんと会い、大川さんは私の思いを気にもかけず(というより知った事ではないという感じで)鉄を、鉄の状態を、鉄の形の事だけを考えている姿を私達に見せつけた。私は日頃、私の家族、友人、(自分を含む)社会、それらを平等に捉えながら生活したいと思っている。しかし新宮に到着した時点で、私は『社会の中の絶滅危惧種野鍛冶大川さん』というイメージしか持てずにいた。私は大川さんの仕事を見て、彼は人がいいとかストイックとかそういう次元を超え、鉄が好きな人だと思った。私にとってその姿こそが大切なのだ。社会情勢、環境問題、現代社会、洞爺湖サミットを考える際、自分(家族、友人、恋人そして社会)をちゃんと考える事が回り回って自分の人生を考える事となり、社会の問題をちゃんと見据える事となると思う。「何をやるか」その事自体が問題ではない。素直に何ができるか?それが切実な問題だ。少なくとも大川さん、大川さんの奥さんは素直に、社会の仕事と自分の仕事を同等に捉えているように思えた。社会を考える事とそれを捉えている自分を考える事が同じ事なのだ。それが大事で大切であると彼らの姿で共感させられてしまう。大川さんが鉄を叩くという事は私にはそういうパワーを持っていた。ただ単に鉄に関して大川さんはスーパーマンだった。(07年ムサビ油絵卒 現在東京芸大大学院油彩1年 加藤翼)
■今年も夏がやってきた。3日間は保つだろうと思ってつくった味噌汁は次の日には表面が真っ白に。早く夏の感覚に慣れないと大変なことになりそう。そんな私をよそに、大学の畑(実験農場)の野菜たちは蒸し暑い気候にうまく順応し、日々成長を早めている。今育てているのはオクラ、ズッキーニ、バジル、唐辛子、大豆、エゴマ、スイカ…である。全て種から育てているものだ。土はもともとそこにあった土に雑草や腐葉土を混ぜたもので、特にこだわって土作りからというような手間のかかったものではない。
◆それでも、大きい石は取り除いたり、マルチに藁を敷くくらいはしている。私以外にも常時3・4人畑で作物を育てているが、栽培する作物や育て方は人それぞれ。ただ共通しているのは、化学肥料は使っていないこと。畝をきれいにつくっている人もいれば、私のように植えてある所と歩く所を最低限わけただけ、雑草は極力抜かないようにしているので雑草なのか作物なのか見分けがつかないような畝もある。畑の広さは3坪程度なので一人が育てられる作物は限られているが、大学の授業やアルバイトの合間を縫って畑仕事をしている私たちにとってはちょうど良い広さ、十分な広さである。大学の余った土地が、それが黙認であれ、与えられているのはとても有り難いことである。
◆私は黒潮カヌープロジェクトで食班のリーダーとして関わっていく予定でいる。食班はクルーが航海中に食べる行動食兼非常食を日本で調達(食材の採集から加工まで)をする役割がある。自然からとってきたものを使うというのが今プロジェクトのコンセプトであるから、山・川・海(+道端)でとれる食材を使う。大学の周辺を見渡してみても、意外と食糧になりそうなものがあるではないか。梅、びわ、ドングリ、コナラ…。
◆現代は、スーパーやレストランに行けばいくらでも(お金があれば)食べたいものを好きなだけ食べることができる。その多くが加工品である。私もスナック菓子やコンビニのおにぎりを食べて育った。部活が終わってお腹が空けば、おのずとコンビニに足が向いた。しかし今は食べ物が機械的に作られていることに疑問を感じている。食べ物を機械的に扱うようになった背景には、忙しい毎日を送る人々の生活が横たわっている。私を含めこのプロジェクトに関わる人は、現代の豊かな生活を実感をもって直視することになるだろう。(ムサビ基礎デザイン学科4年 小池真代)
■新潟県北部、山形県との県境に山熊田という集落がある。古くからこの地に伝わるしな織りの技術・思想と、その土地の人々の生活を学ぶ為、一年のうち3日間だけ許されたシナ剥ぎに同行させて頂いた。
◆林道に車を止めて道の脇から山に入り、薮を手で払いながら歩いて行く。6月の湿った蒸し暑い空気で、着ている服がじとっと肌に張り付く。先頭を行く大滝カツスケさんは確かな足取りで、前を見て歩く。後ろに続く11人の大学生は山の急な斜面に手こずり、段々と間隔は開いていく。カツスケさんはのろまな私たちに気を使ってくれているのだろう。ゆっくりと、たまに後ろを振り返りながら歩みを進める。
◆途中で一度休憩をとった後更に登り、視界が開けたと思ったら、すぐ近くにシナの樹はあった。その周辺に3、4本、集まって生えている。斜面から少し傾いてスッと伸び、空に向かって枝を広げていた。控えめな感じがした。荷物を降ろし、皆がカツスケさんに注目した。樹の側面に2カ所、ナタで20センチ程の傷がつけられた。その傷口から樹皮と木質(木の内部の固い部分)の間に木の丸みに沿わせてバールを入れ、身体全体を使って徐々に樹に喰い込ませて行く。ナタでつけた2カ所の傷口を貫通させると、次はバールの両端を持ち、足を踏ん張り腰を入れて押し上げる。グッ、とカツスケさんが力を込める度に、シナの樹の皮は身体から分かれて、内部の白い木質を現していく。
◆「この音がしないと駄目、この音がしないとシナ織りとしては使えない」。カツスケさんはそう言い、私は樹に耳を近づけてみる。剥がされていく樹皮から、確かにミリミリという囁きのような、かすかな、しかし手応えのある音がした。乾燥した表皮を剥かれたシナの樹の幹は、人の肌よりも数段白い肌色で、発光するように美しく、樹液が滴るほど潤っていた。しんとして立つ樹の姿からは想像もできないほどに、樹皮は簡単に幹から分離した。ある程度まで隙間ができれば、あとは樹皮を引っ張ればどんどん剥ける。ずるずる剥ける樹皮、現れてくる生の木の肌。地面ギリギリの所まで引っ張ると、「全て剥いてしまうと始末が悪い、婆さんが嫌がる」と言ってナタで樹皮の根元の部分を切断した。
◆シナ剥ぎの工程としてはこの後、その場で固い樹皮と柔らかい靱皮とに分け、靱皮を持ち帰る。乾燥させた後、灰汁炊きし、数枚の帯状の繊維が重なっている状態のものを清流に晒しながら一枚づつ剥がす。糠につけて漂白し、また乾燥させる。この状態のものを保存しておき、集落のおばあさん達はそれぞれの家で、毎日少しずつこれを細く裂き、一本一本を繋いで長い糸にする作業を行う。その細い糸に撚りをかけ、機織り機で織った布がシナ織りである。
◆去年(平成19年)の秋ごろ、大学の関野吉晴研究室で、私は初めて「海のグレートジャーニー」の話を聞いた。舟の帆に使う布などの繊維製品を自然素材から作るパートを、リードする人が決まっていないと聞いて、「是非わたしが!」と手を挙げた。私は現在、武蔵野美術大学に通い染織を学んでいる。店舗で購入した材料を素材として用いることで起こる表現の限定に反発し、以前にも植物から糸を作り布を織ったが、それはやはり既知の工芸品のようなものでしかなかった。
◆自分たちの手で自然からものをつくる。その過程で何を見ることができるだろう。生きている植物を伐り、加工し、2枚の帆と数百メートルまたは数キロメートルもの縄を作る。そしてその帆と縄を使って作られた舟に乗って、友人達が海を渡って日本に帰ってくる。私たちの手によって大量に作られ、山と積まれた縄、航海する舟の姿。今から目に浮かぶ。予定通りなら1年後には現実になる。黒潮カヌー終着地点の沖縄で、私ははらはらしながら舟の姿を海の向こうに探しているだろう。(ムサビ工芸工業デザイン学科4年 田中里子)
■私は美術大学で本やポスターなどの視覚で伝えるデザインを学んでおり、今回のプロジェクトには、企画書の制作という役割で主に関わっています。カヌーを作ったりという、モノの制作を牽引するのではなく、それを陰で手伝ったり、ちょっと引いた視点から見ている一人だと思います。その視点から自分がこのプロジェクトに参加して感じたことや目的としているものを書きたいと思います。
◆このプロジェクトには、過去の人々がどのように生きていたのかを肌で感じたり、美大生が日々行っているものづくりを素材から考えたり、と興味深いテーマが含まれており、それを示すかのように多くの学生が参加しています。クルーや制作リーダーと共に制作を進めていく仲間が沢山いて、常に新しい交流が生まれていることもこのプロジェクトの特徴だと思います。それぞれの人が興味のある分野や自分の得意とする分野で力を発揮しながら、有機的に進んでいるイメージを持っています。
◆その有機的で一見形の見えにくいものを見えるようにするのが企画書を制作する自分の仕事だと思っています。プロジェクトが大きいので、全体が見えにくかったり、グループごとの活動が見えにくくなりがちです。企画書があることでメンバーが共通の認識を持つことができるようにしたいと思って作っています。また、企画書を作る過程で、不明瞭だった部分が分かり、参加メンバーがプロジェクトについてのよりクリアーな展望を持つお手伝いにもなっているのかなと思っています。
◆それからプロジェクトに関る中で「知る」ということについて考えることが多くあります。企画書で言えば、情報を形にするというのは、内容や背景を知らないと出来ません。既にある情報を再編集することも必要です。何かを作るということは、それを理解することなのだと感じています。それは航海にむけたカヌーや道具の制作でも同じなのではないかと思います。過去の生活やものづくりを「知る」ための良い方法が作ることなのだと思います。それでこそ読む文献、見る資料にも現実味が宿ります。作る中での発見も多くあります。そのような意味で、このプロジェクトは航海という目標を据えた、ダイナミックな学びのプロセスなのではないかと思います。(ムサビ視覚伝達学科4年 保田卓也)
こんな船ができる予定。カヌーの帆が風に押されると反対方向に体重をかけたりして、船を安定させます。』日本画卒業生 えかき 竹村東代子
現代史研究会・日本ビジュアル・ジャーナリスト協会(JVJA)共催
★期 日 7月21日(月・休日)14:00〜17:00 (13:30開場)
★場 所 明治大学リバティータワー3F 1032教室
★参加費 資料代1000円 先着順(266名)
★報告者
野町和嘉(写真家)「チベット・砕かれた仏の国」
野田雅也(フォトジャーナリスト)「チベット騒 乱はなぜ起きたのか」
渡辺一枝(作家)「チベット人の暮らしと文化」
★問い合わせ JVJA事務局 090-6101-6113
先月の報告会以降、通信費を払ってくれた方々は以下の通りです。通信費は1年2000円ですが、何年分もまとめて払ってくださる方もいます。ありがとうございました。
なお、記載漏れもあるかと思いますので、思い当たる方はどうかお知らせください。(地平線会議)
菊池民恵/向後元彦・紀代美/町田優子/河田真智子/鈴木博子/高城満/岡朝子/宮本千晴/小川玲子/山本豊人/大江章/水落公明/松原英俊 /一柳百/吉岡嶺二/高橋千鶴子/柏木彩子/(株)砂漠に緑を
海宝道義 関根皓博 天野 古川育子 三輪主彦 森井祐介 村田忠彦 橋本恵 町田優子 緒方敏明 藤原和枝 車谷建太 チンバザル 満州 江本嘉伸 加藤千晶 久島弘 松澤亮 長野亮之介 妹尾和子 永島祥子 米満玲 落合大祐(なんと23名も!)
★古川さんはパラオ住民。ダイビングのインストラクターをやっている三輪さんの教え子。チンバザル青年は、江本が子供時代から知っているモンゴル人。4月から早稲田大学に留学していて、近くなので手伝ってもらいました。今回は貴重な貴重なサプライズが。5月の報告者、永島祥子さんがなんと南極の氷を持ってきてくれたのです。お茶、特別製のウィスキー、泡盛などで乾杯しましたが、数万年かけて凍った氷のその音のいいこと!ありがとうございました。(E)
1979年8月17日。その日が我らの地平線会議の誕生日であることは何度も書いてきた。9月に第1回の地平線報告会をスタートさせ、以後一度も途切れることなく、報告会を開いている。会場はアジア会館から何か所か変わり、スライド中心だった画像がパソコンを駆使しての表現に変貌したが、それでいいのかどうかは別にして、参加費の500円をはじめ手弁当スタイルのやり方は当時とまったく変わっていない。
◆勿論、時代は動き、新しい世代が次々に加わってくるから空気は変わっている、と思う。が、たとえば6月の報告会を見ても、進行役をつとめた三輪主彦は1979年9月の第1回報告者だし、報告者の向後元彦は地平線言いだしっぺのひとりだし、聞き手にまわっていた宮本千晴、賀曽利隆、関野吉晴、河田真智子、そして今号の通信で「僕らの来た道、ゆく道」を書いた森田靖郎もしょっぱなからの仲間だ。
◆もう還暦をだいぶ越えた、あるいは身近になったシニアたちに共通する不思議な“現役感”。それは森田の言うように「さして脚光を浴びることなく片隅で咲き続けてきた」成果と言えるかもしれない。行動に踏み出すには個人の強い意志が必要だが、触発されてとんでもない世界に入り込む場合もある。関野が仕掛け、ムサビの青年たちが本気で取り組んだ黒潮カヌープロジェクトは、その稀有な現場だ。書いてもらったのは9人だが、メーリング・リストには実に280名もの学生たちが参加しているという。
◆その時期の最高の報告者を選んできた(つもりの)地平線報告会。今月、350回目を数えることを素直に喜びたい。(江本嘉伸)
蒼天に幟を立てて
今年4月10日、ネパールの憲法制定選挙に日本人が立候補しました。自ら2年前に立ちあげたネパール国家発展党(NRBP)を率いて戦ったのは宮原巍(たかし)さん。日大山岳部出身の74才。山好きが嵩じてネパールに魅せられた山男です。 '69年には(株)ヒマラヤ観光開発を設立し、世界最高所に建つ「ホテル・エベレスト・ビュー」を建設しました。40数年に及ぶネパール生活を経て'05年にネ国籍を取得し、今回の出馬に至ります。 この選挙後、240年間続いた王政が廃止され、「ネパール連邦民主共和国」と国名も変えたネパール。新制国の未来に寄与すべく、インド国境地帯で三千キロにも及ぶ遊説を行った宮原さんでしたが、結果は完敗。比例代表でもわずか0.01%の得票に終わり、国政の第一党はネパール共産党毛沢東主義派(マオイスト)となりました。 今後ともNRBPを立て直して国に尽力したいという宮原さん。今月は宮原さんにネパールの魅力と、激動の情勢について語っていただきます。 |
通信費(2000円)払い込みは郵便振替または報告会の受付でどうぞ
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議(手数料が120円かかります)
地平線通信344/2008年7月16日/発行:地平線会議/制作:地平線通信制作室
編集長:江本嘉伸/レイアウト:森井祐介/イラスト:長野亮之介 編集制作スタッフ:三輪主彦 丸山純 武田力 中島菊代 大西夏奈子 関根皓博 藤原和枝 落合大祐/印刷:地平線印刷局榎町分室 地平線Webサイト http://www.chiheisen.net/
発行 地平線会議 〒160-0007 東京都新宿区荒木町3-23-303 江本嘉伸方
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