2008年6月の地平線通信

■6月の地平線通信・343号のフロント(1ページ目にある巻頭記事)

地平線通信表紙

6月7日午前5時、3年ぶりに福山城をスタートした。長い距離は久しぶりだ。「大人の走り」をしてみせるぞ、と心に誓うが、さて、そんなことできるのか?

◆本州と四国を結ぶ瀬戸内の橋は3本ある。「しまなみ海道」はそのひとつで、広島県尾道を起点に、向島、因島など6つの島を経て愛媛県今治市をつなぐ。瀬戸大橋など他の2ルートと違って人と自転車が通行できるのが素晴らしく、ここにいち早く目をつけた海宝道義さんの眼力はさすがだ。

◆「海宝ロードランニング」が企画する数々の“名作”の中でも屈指の人気のこの大会「しまなみ海道100キロ遠足(「とおあし」と読む。交通ルールを守り、16時間内に自力でゴールにたどり着くのがルール)」、ことしは1109名がエントリーした。平均年齢は男46.7才、女45.2才。最高齢ランナーは男83才、女71才。

◆途中橋から眺める瀬戸内の海が好きで、もう5回完走しているが、ことしはめでたく10回目となると聞いて参加した。どういうわけか雨に見舞われたことは一度もないそうで、きょうも雲はあるが晴れ。

◆恵谷治の故郷である尾道まで来ると、瀬戸内の青い海を横目に最初の登りが始まる。「しまなみ海道」は橋をつなぐ道だ。どの島に渡るのにもまず橋まで登り、渡り終えると必ず下り道が待っているのである。最初の「新尾道大橋」を渡り、向島に入る。もう22、3キロ。予想通り左足が痛んできた。去年北アでやってしまった左足首の捻挫が響いて、今回は最長でも15キロしかトレーニングできていない。だから「大人の走り」なのである。

◆頑張らない、いつでもやめる、しかし存分に楽しむ、の3つを実行すること。アキレス腱断裂と激しい腰痛に見舞われたライバルのM輪は最初の20キロを列車で稼ぎ、ハイライトの島と橋をつなぐルートはしっかり走る、という憎いやり方で先に進んでいる。おし、大人だっ、と30キロあたりから歩き出した。

◆途中、歩いている年配のランナーに追いつき、数キロ話しながら併歩する。お歳は?と聞いたら「83です」。わぁ、最高齢ランナーの浜田さんだ。いい機会とばかりいろいろお聞きする。走り出したのは65才の時。身体の歪みに気づき、自分でいろいろ工夫して歪みを直してきたそうだ。「歪みはダメですね。それまでの人生はダメだった」。いまも鉄棒などを使っていろいろ矯正しつつ筋力を鍛えている。きょうは時間内はムリかも、と言いながら次のエイドでは走り始め遠ざかってしまった。83才だよ!

◆因島大橋を渡ると、目の前でみかんを絞ってくれるエイドがある。やっと3分の1だな。のろのろ行くとそれだけ風景がよく見えるので、発見があちこちにあって楽しかった。多々羅大橋に登るあたりでケータイが入った。「どこにいますかあ? いま、大橋を見ながらオールあげてますよおぉ!」シーカヤックで伯方島に来ているという今治在住の通称みかんさんだった。「お台場24時間チャリティーラン・ウォーク」に参加して以来の仲間だ。こんなところで海から呼びかけられるとは、人生はつくづく楽しい。

◆結局、61キロで諦め、みかんさんの車に拾ってもらい、最後には夕闇の瀬戸内を念願のフェリーで今治へ。夜は名物の焼き鳥で乾杯した。83才の浜田さんは結局16時間を20数分超えただけで、ゴールしたそうだ。エベレストにまたまた登った三浦雄一郎さんと言い、すげえ!、後期高齢者!

◆翌日は高松へ。2年連続四万十仲間の香川大生2人の案内で、「アートの島」として知られる直島に渡った。日曜日なので島の夜は早い。辛うじて入手した島の焼酎を手に埠頭の突端に3人座りこみ、夜の瀬戸内の海を眺めながら、何時間もあれこれ楽しく、時にしんみりと話が弾んだ。

◆人間は、つくづく出会うようにできている、と思う。先月の報告者、永島祥子さんと出会ったのも2年前、シール・エミコの奈良の家に行き、モンベルの辰野さんに紹介メモを書いたのがきっかけだった。エミコさんのチャレンジ・アワードの授賞式で司会進行をやったのが永島さんで、その時、決まったばかりの南極行きを知ったのだ。エミコさんちに行かなければ、永島さんに出会うこともなかったかもしれない。

◆9月にはいよいよ最終コースの旅に出発だな、頼まれているラジオ局の件で一度話さなければ、と思っていたら当のエミコからメールが入った。6月14日昼前。「残念なお知らせ」??……(13ページ参照)。エミコさん、こうなったら本気でもう一度奇跡を起こそう。あなたに命の一部をあげたい、と思う。多分、みんなも同じ気持ちだ。(江本嘉伸)


先月の報告会から

南極デスマッチ

永島祥子

2008年5月30日(火) 新宿スポーツセンター

■地平線通信史上初!? 1年以上にわたり連載されていた「南極レター」。毎月、遠い南極から届く越冬隊の知られざる生活あれこれにわくわく。これを書かれている永島さんってどんな方なのだろう? と、興味津々だった人は多いはず。かく言う私もその一人(というかすっかり永島さんファン)。なので「江本さんにまず自分の話をして欲しいと言われたので、話します」と、少し申し訳なさそうに永島さんが自分の事を話し始めた時は待ってました!、とかけ声をかけたい気持ちでした。

◆野山を駆け回って遊ぶ子供だった。人づきあいが苦手で、自然の中にいるのが好き。人に接することなく出来る仕事をしたいと、入学した京大では地球物理学を専攻したそう。しかし、授業が難しくてさっぱり判らない! 最初に勧誘された競技スキー部に入部すると、初合宿から帰ってきた5月には「もう勉強はいいや、4年間スキーをやろうと決めていました」というからすごい。すっかりスキー三昧の大学生活を送り、4年生になると他の人が就職活動する中、研究室の教授に「冬はスキーをします」と宣言。秋に卒論を終わらせ、シーズン丸々練習に打ち込み、ついには国体に出場!!「しかしとことん自分を追いこんで煮詰まってしまい、楽しくなかったし、よい滑りが出来なかった」。

◆その後、親や指導教官に勧められ大学院に進んだ永島さん。スキーは楽しく滑ることにし、山にも行った。2度目の国体に出場すると、前よりよい滑りが出来、スキーを通し「なんでも楽しくやったほうがいい」と学んだそう。さて「南極越冬隊」との出会いは、たまたま同じ研究室の女の子が南極で使用している、世界的にも数少ない重力計を使った研究をしていたことだった。彼女のところに最初に南極に行くチャンスがあるよ、という話が舞い込み、「一人じゃ不安だから、一緒に越冬しよう」と誘われた。「南極にいつか行ってみたい、がんばって勉強しよう!」と永島さん、勉強に開眼。すると「いつか」はすぐに来て、42次隊(00年出発)に参加することになった(この時の体験については今回は話されなかった)。

◆帰国後(大学院に復学。博士後期過程を終え、博士号を取得した後)、モンベルに就職。研究は嫌いではないものの、研究者という世界で生きていくことに自分が向かないと感じたからだという。30歳、新卒でも中途採用でもない就職活動では「道を外れる大変さ」が身にしみたけれど、「それでも、自分のしたくない仕事はしたくないという思いが強かった」。

◆今回、48次隊(06年11月出発)で2度目の越冬することになったのは、06年7月にかかってきた1本の電話から。「南極に行ってくれないか?」隊員は普通1年前に決まるのに、よっぽどのことだ。欠員が出て経験のある永島さんが必要だ、と頼まれたらしいが、その時永島さんは結婚1年目、モンベルの広報部に異動、石川県と大阪での2か月の研修を終え、もうすぐ家に帰れるというタイミングだった。「正直、その頃は早く家に帰りたくて仕方がなかった」(2次会で永島さん談)けれど、電話があった夜じっくり考え「自分の気持ちとしては行きたい、と決めました」。

◆というわけで、家族と会社のOKももらい、地圏隊員、野外副主任として48次隊35人の一人となった永島さん。ようやく南極での報告話となる。「南極観測は国家事業です」という説明や、隊の組織図、南極の地理の表示の後、写真がたくさん。今年でお役ご免となった「しらせ」(「しらせ」を運航する海上自衛隊の南極観測に対する貢献はもっと評価されてもいいんじゃないか、と永島さんは言う)に昭和基地。他には、たたんでも2.8m、重さ14kgもある「ピラミッドテント」。モンベルが改良したくて、うずうずしちゃいそうな一品だが「嵩張るし、寒いけど、南極らしくて結構気に入っています」。それから、42次隊で冬明けのもっとも寒い季節に内陸へ燃料デポの旅行に行った際、ひと月半、共に行動し、そこで生活させてもらった思い出の車「SM112(えすえむ、ひとひとふた)」や、隊員たちの後方に「SM100」という、一番大きな雪上車を12台もずらり集結させた迫力の写真も。

◆極地での野外活動についての話になって、少し口調が変わった。細かなケースはここではふれないが、いろいろな厄介があるらしい。普段はまったく安全に見えても、ひとたび悪天につかまれば、何があるか判らない南極だ。気ままな行動は許されることではない。まして永島さんの役割のひとつは「安全管理」。時には厳しい決断をせざるを得なかった、と噛みしめるように話す。

◆その後は「沈まぬ太陽」の(地平線すれすれを太陽がぐるっと一周している!)写真が登場。夏の白夜は夜がなく「残業し放題」とのこと。夏期間中は、やるべき作業がくさるほどある。そう、「南極レター」にも書かれていたけれど、永島さんは「残業の女王」だったのだ! コンクリ打ちに励む永島さんの写真、なんだか生き生きして見える。

◆夏も終わりに近づく2月1日は、越冬交代式。47次隊と向かい合い、48次隊が全権を委譲される瞬間の写真もあった。15日には最終便がしらせに戻り、48次隊だけの生活に。3月になると、海が凍り始める。「私はやっぱり白い世界が好き」

◆その頃、休日に「遠足」が企画された。計画書を見ると、目的地は往復4時間程度はかかりそうな場所。天候が荒れれば1日帰れないこともあるかもしれない。なのにある専門家が2人とも参加するという。その間に基地でなにかあったら、どうするのか。「1人は基地に残ってほしい。みんなで話し合わないうちに、前例を作らないで」と主張したが、計画は通ってしまった。当日は天候が悪く結局途中で引き返すこととなったが、「もしそれ以上進むと決まったら、自分は1人を連れて戻るつもりだった」という。

◆「おかしい」と思ったときにその場でひとつひとつ解決していくこと。うやむやにしない。これをきちんと繰り返して越冬を進めていくことが本当に大切なんです、と永島さんは言う。マニュアルが効く場所じゃなく、皆で考えていくんだ。永島さんが言い出さなかったら、どうなっていたのだろう。ぐっと聞き入ってしまう。

◆しばしの休憩を経てさあ、後半。まずは、基地内で作っているかいわれの写真と隊員が日替わりでマスターになるというバーの写真。このバー、お酒が飲み放題なのだ!(と言っても、みんなのお金で買い込んで来ているからだけど)。そして、6月のミッドウィンターのお祭り。太陽の昇らない極夜を乗り切ろうと開かれる、年に一度の大イベントだ。巨大露天風呂に風船ジェスチャーゲーム、仮装ディナーと楽しそうな写真が次々に。それはまるで「大人の文化祭」。「南極では、どこまで真剣に遊ぶのか、というくらい真剣に遊んだ」と永島さん。

◆最も気温が下がる8月になると、南方(90キロ先のスカーレン)へのルート工作が始まった。一度の観測旅行は8人ほどで行われるが、35人1度は連れて行けるよう調整しながら、永島さんはリーダーとなり、7つの計画を立てたそう。10月には50cmの氷の上を「道板」を使って雪上車を通すことも(2台は通れ、3台目は別ルートを探したそうです)。この月は天気が悪く、スライドに映された気象のグラフを見ても、ほとんどが風速10メートル以上。待機か行動か、決めるのが、一番難しい状態だ。初日の宿泊予定地から予定通りには行かず、2つ目の宿泊地で3日間のブリ停滞。やっとの思いでスカーレンまで辿り着くも、翌朝5時にはスカーレンを出発し、時速10キロの雪上車で9時間、ブリザードの合間をぎりぎりぬってなんとか基地へ帰ってきた。後からしか判らないことだけれど、この時の判断はよかったと思う、と永島さん。

◆12月中旬になると、49次隊が到着。難しい旅行も終わり、少し気が楽になった。しかしこんな濃密な時間が南極では毎年繰り返されているのか。なんだか、くらくらしちゃう。1年を通し、160日間も野外におり、野外が越冬の中心と言ってもいいくらいだった永島さん。勿論、本来の仕事以外にも熱心で、ずーっと海に仕掛けをし続け、狙うは「ライギョダマシ」。12月4日、念願の日本新記録(138cm、35キロ)を釣り上げた。最後に、その、大きすぎて慌てたあまり左右逆にとってしまったという魚拓を開帳して、報告終了。永島さん一人では掲げられず、江本さんがいそいそと前に出る。「大きい!」と驚く江本さん(と会場一同)に、永島さんは「なんか臭い」と、ぽつり。南極から持ち帰って、初めて開いたんだそう。

◆会場には南極関係の仲間も駆けつけており、旦那さんの姿も! 今は日本の生活に戻るので精いっぱいという永島さんだけど、次はなにをされるのか。また南極に行かれることもあるのかな。自然にも、人にも、自分にも、しっかりと向き合い、一つ一つ全力で対していく永島さんにほれぼれ。引き込まれ、あっという間に時間が過ぎてしまった、報告会でした。(加藤千晶 「野宿野郎」編集人)

[報告者のひとこと]

■「地平線報告会」が無事に終わってホッとしています。実は外部の講演会(報告会)で南極の話をしたのは初めてでした。42次隊で行った後は、大学のゼミで報告をした以外は特に講演依頼もなく、私の方も何もなくてラッキーというくらいで済ませてしまいました。

◆42次隊では訳分からず南極に行って、いろいろな経験をして、見て、学んで、考えて、さてこれからどういう進路をとろうかということも含めていろいろと悩みました。42次隊での活動を通して、初めて南極観測に対する自分なりの印象を抱いたわけですが、その中で今でもはっきりと覚えていることが、南極観測で日本が何をやっているのかということを、身近な人に、そして国民に、もっときちんと伝えなければならないという思いでした。

◆48次隊で行くことが決まったとき、3つのことを決めました。ひとつは、依頼された観測をきちんとこなすこと。もうひとつは、隊の安全管理(暗に頼まれた事柄でしたが南極に行く決意を固めた最大の要因でした)。そして最後のひとつが、南極観測の広報でした。報告会でもお話ししたように、昔から人付き合いが得意だったわけではありません。人前に出たら出たでそれなりに何とかなってしまうのでほとんど信じてもらえませんが、人前に出ることも、話すことも、メディアに出ることも、決して好んでやりたいことではありません。

◆でも、25歳だった私が27歳で帰ってきた42次、31歳だった私が33歳になって帰ってきた48次、その結果として、女性初の2回越冬経験者。たった足掛け8年のことですが、それなりの年月を経て、その間に知人の数も幅も増え、自分自身の意識も少しは成長しました。

◆好きとか嫌いとか、得意とか不得意とか、そういうことを越えてやった方がいいこと、自分にしかできないことがあって、そういうことはやらなきゃならない、もう逃げてばかりはいられない、と感じています。望んでなったわけではない初の2回越冬女性ですけれど、現時点では日本の中で1分の1なんですね。そのことはやっぱり自覚しなきゃダメだと思っています。

◆初めて公の場で話した地平線報告会。思ったとおり、伝えきれないこともあったし、伝えたいニュアンスで伝えられないこともありました。いろんな意味で不十分でした。でも、やらせてもらえてよかったし、やってよかったです。これからどうしていくか、正直言って、再び悩んでいます。でも、ひとつだけ決まっています。私にできることとやった方がいいことはやっていこうと思っています。これから少しずつですが、報告会や講演会で南極の話をする機会があります。まずはそれをがんばりたいと思います。(永島祥子


地平線ポストから

=冒険王カソリの提案=
「沖縄報告会に大いなる夢を! まず浜比嘉島にどうやって行くか、今から考えよう!!」

■みなさ〜ん、お元気ですか。ぼくはこのところ1日24時間、机に張りついていますよ。というのは昨年11月の報告会で話した「300日3000湯」の「温泉めぐり日本一周」の単行本用原稿を書いているからです。上下巻の2冊になりますが、発売予定日は9月1日、そのあとのサイン会も決まっています。ところが原稿の方はやっと上巻分が終わった程度。ということで、なにがなんでも…の気分でやっています。ちなみにタイトルは『賀曽利隆の300日3000湯日本一周』(昭文社)。定価は1600円。報告会にも来てくれた桑原さんをキャップに昭文社の精鋭たちが作業を進めてくれています。3か月も先のことですが、なにとぞご愛読のほど、よろしくお願いします。

◆それと「300日3000湯」の報告会では「カソリ捕獲失敗」の話をしてくれた「uzakiyo」さんが「カソリブログ」を立ち上げてくれました。題して「賀曽利隆 ON THE ROAD」。カソリの40年間の旅の軌跡を満載にしようと意気込んでいます。URLはhttp://kasori.blog25.fc2.com/です。これにはぼくがこの40年間で旅した日数や距離、旅した国の一覧、一連の海外ツーリング、「温泉めぐり」や「峠越え」の全データなどが入っています。このきっかけとなったのは三輪さんが「地平線通信」に書いてくれた「カソリデータ」です。それを見てぼくは「おもしろいなあ!」と思いました。さすが三輪さん、目のつけどころが違う。それをさっそく「賀曽利隆 ON THE ROAD」でパクらせてもらったという次第です。「カソリの新・峠越え」や「シルクロード横断」の連載などもありますので、ぜひとものぞいてみてください。

◆「uzakiyo」さんは電子書籍の「アイレボ」で「i-revoブックス」をやっています。先日はカソリの20代編の3部作、『アフリカよ』、『極限の旅』、『歩いて出会って六大陸』の3冊を電子書籍化してくれました。いまではまったく手に入らない本がパソコンで読めるようになったのです。「アナログ人間」のカソリとしては、ただただもう驚くばかりです。

◆さ〜て、ここからが本題です。10月25日〜26日の地平線会議の沖縄での報告会ですが、何をさしおいても「行こう!」と思ってる方はきっと多いことでしょう。ぼくもその1人。必ずや行きますよ。浜比嘉島での報告会の内容などは江本さんらに譲るとして、問題はその行き方なのです。ポーンと飛行機で那覇に飛ぶことだけはしたくないのです。もっともっと頭と体を使って、浜比嘉島への往復旅を楽しみたいのです。

◆東京駅から列車で行くのもアリかなと思ってます。往路は新幹線で鹿児島へ。そこから船で那覇へ。復路は鹿児島から日豊本線→山陰本線→北陸本線で新潟へ、そして東京へと、そんな列車旅ができたらいいなあ!なんて夢みてしまいます。それと沖縄報告会に合わせての「日本一周」もアリかな。そのときは鹿児島からトカラ列島経由で奄美大島の名瀬に渡り、そこから那覇へ。報告会のあとはさらには八重山諸島へ。石垣島から台湾というルートも考えられるな…などなど、際限なく夢はふくらんでいきます。

◆ぼくは2001年から2002年にかけて「島めぐり日本一周」をしました。50ccバイクを走らせ、14か月をかけて日本の島、188島をめぐりました。その中でもとくに忘れられないのは沖縄の島々。沖縄本島を含めて33島をめぐりました。最南端の波照間島や最西端の与那国島にも渡りました。この島めぐりの沖縄で今回の舞台となる浜比嘉島に出会ったのです。海中道路から浜比嘉大橋を渡って入った浜比嘉島はまるで別世界。島には浜と比嘉の2つの集落があるので浜比嘉島ですが、浜も比嘉もともに古い沖縄の姿を今にとどめるような、そんな集落のたたずまいでした。

◆浜では「東(あがり)の御嶽(うたき)」、比嘉では「シルミチューの洞穴」に行きました。「東の御嶽」では旧暦の6月28日と8月28日の年2回、「シヌグ祭り」がおこなわれます。海に生きる島なのに、時化(しけ)を祈願するという何とも不思議な祭りです。「シルミチューの洞穴」は琉球の開祖、アマミチューとシルミチューの住んだ洞窟だといい伝えられています。ここは沖縄を代表する聖地のひとつ。浜比嘉島はそれほど古い歴史を持った島なのです。今回は「カソリ本」の宣伝をさんざんさせてもらったので、最後にもう1冊。このときの「島めぐり日本一周」は『50Mバイクで 島の温泉日本一周』というタイトルで小学館文庫の1冊になっています。多分、まだ手に入ると思います。いい本(!?)なので、ぜひとも読んでみて下さい。

◆ということで、みなさ〜ん、「沖縄報告会」に向けて、大いなる夢を見ようではないですか。浜比嘉島に行けば、浜比嘉島でおおいに語り合い、そして泡盛で酔いつぶれれば、きっと新たな地平が開けますよ!(賀曽利隆


=沖縄こぼれ話=
「マブイ、落ちていませんか?」

 地平線会議の沖縄大集会まで4か月になりましたね。沖縄に通い続けて10余年、彼の地で教わったこと、驚かされたことは数多くありますが、マブイもそのひとつです。沖縄でおなじみの「マブイ」、ご存知ですか? 漢字で書くと「霊魂」。生きている人の魂のことで、漢字は重々しいですが、実際はもう少し軽いニュアンスで語られる印象です。

◆私が最初にマブイを意識したのは10年近く前、沖縄の人と電話で話をしていたときでした。共通の知人に話題がおよび、私が「○○さん、最近元気ないですよね」と言うと、「だからね、マブイ、落ちてるさね」という答えが相手から返ってきたのです。マブイが落ちている!?

◆以前にも、覇気をなくした人について、「彼は御願不足(うがんぶすく)だから」と沖縄の人がコメントするのを聞いたことがありました。そのときは御願不足、つまり先祖への祈り、供養が足りないことが、その人の生気を奪う理由になること、それが30代の人の口からさらりと語られることに驚きましたが、こんどはマブイが落ちたことが理由? その後、沖縄で何人かに尋ねてみると、マブイを落とした経験のある人が案外多く、さらに驚いたのでした。

◆どんなときにマブイが落ちるかといえば、驚いたときや転んだときが多く、運転中にネコをひきそうになって急ブレーキをかけたときにマブイが落ちたという話は何人かから聞きました。落ちたままにしておくと、生気、精気が奪われ、そこに悪霊が入り込むので、なるべく早く拾って戻すのが基本。これが「マブイ込(ぐ)み」といわれるもので、落ちた場所で行うのも基本。「マブヤー、マブヤー、ウーティクーヨー(魂よ、ついておいで)」などと口にしながら、手を使って戻るように促します。

◆本格的なマブイ込みには、塩やサンを持って行くことも。サンとは、ススキの葉を3本束ねて結んだもので、沖縄ではお弁当などにもよく小さなサンが入っています。これは魔よけ。葉の先が尖っているので、悪霊が逃げていき、食べ物の場合は腐りにくくなります。1本ではなく3本束ねているのは、威力が何倍にも増すため。また、マブイを落とした本人が現場へ赴けない場合は、その人の洋服を持って行き、そこにマブイを包み込んでくることもあるそうです。

◆マブイ込みは、ユタ(巫女)に頼む場合もあれば、自分たちで行う場合もあり、そのへんはけっこうフレキシブルかもしれません。子どものマブイはとくに落ちやすいそうで、落ちたら大人がすぐにマブイ込みをします。「子どもの頃、よく落としたわよ。毎日でもマブイを落としたかった」と語っていたのは、戦後の食糧難のときに子ども時代を過ごした60代の知人。ほとんどイモしか食べられない日々のなかで、マブイを落としたときだけ白いごはんが食べられたという。マブイ込みをした後、お母さんは子どもにごちそうを食べさせながら「ほら、白いごはんあげるよ、お菓子あげるよ、だから出ていかないでね」とマブイに語りかけていたそうです。

◆他にも面識がない人から「あんた、マブイ落ちてるさね」といきなり言われておののいた人の話や、家にやって来た人が、その家の主のマブイが落ちているのに気づき、主の洋服にマブイを戻しておいた話なども聞いたことがあります。ユタをはじめ「サーダカ」とよばれる霊感が強い人たちは、マブイが落ちているとすぐにわかるらしいのです。ほらほら、最近やる気が出ないあなた、心配になってきましたか。マブイが落ちていませんか。

◆じつは私も落としちゃったかなあという経験があります。だいぶ前になりますが、ある日、職場の上司に声をかけられました。「和ちゃん、マブイ落とした?」と。「ええ……? やっぱり落ちていますかね」と聞く私に、「うん、落ちてるみたいだけど」と遠慮がちに答える上司。沖縄関係の仕事をしていることもあり、私の職場ではマブイは比較的身近な存在。心当たりは、うー、あるといえばあるのでした。

◆その2週間ほど前、交差点ですっ転んだのです。洋服が擦り切れて悲しくなりましたが、グループ行動だったし、なんといってもそこは交差点だったので、そのときは急ぎ立ち上がって信号を渡り、何事もなかったように歩きました。なんだかやる気が出ない自分の状態に気づいたのは、それから1週間ほど経った頃。力が入らないというか、心ここにあらずというか、腑抜けというべきか。上司に指摘されたということは、傍から見てもそんな状態だったということでしょう。

◆さて、落としてしまったのであれば拾いに行くべきなのですが、私がマブイを落としたのは、札幌でした。先輩の結婚式に参列するために札幌へ行き、その帰りに駅前の大きな交差点で転倒してしまったのです。結局、数か月後に仕事で札幌へ行く機会があり、そのときに現場へ赴き、恥ずかしいなあと思いながら、その場でしゃがんで「マブイ込み」をしてきました。それで調子が一気に戻ったという記憶もないのですが、気持ちがすっきりしたのは確かです。

◆さて、このマブイ、「落とす」ともいいますが、「落ちる」という表現もよく使います。本人の意志とは関係なく、勝手に落ちちゃうマブイ。もちろん、落ちたら大変! なのですが、落とした人が責められるようなことはありません。調子が悪いのは自分のせいではなく、マブイが落ちたから。落ちてしまったなら拾えばいい。これって、沖縄らしい「自分も人も追い詰めない」人間関係、考え方に通じるような気がします。いろいろな意見がありますが、私はこういう考え方がけっこう好き。マブイにまつわる話、沖縄の人に聞いてみるとおもしろいと思います。(妹尾和子


[浜比嘉便り]

[沖縄はハーリーの季節です!! 行け!地平線チーム!]

■はいさい江本さん、先々週からここ与勝地域では毎週末どこかの港でハーリー祭が行われてます。今日は平安座島のハーリーに行って来ました。梅雨明けはまだですがいい天気に恵まれました。ハーリー後の余興の「沖縄相撲」がめちゃ盛り上がり興味深かったです。その沖縄相撲についてはまた後日。

◆さてハーリー祭とは、木製のサバニ舟に漕ぎ手10名と舵取り1名が乗り込み港内の決められたコース約400mを周回し競争するという海んちゅの祭典です。一般的に 「子供ハーリー」「レディース」「職域AB」の部があり、「転覆ハーリー」の部があることもあります。転覆ハーリーというのはコースの途中でわざと船をひっくり返らせ、漕ぎ手は立ち泳ぎしながら船を起こして再び乗り込みゴールするという高度な技が必要な競技です。最近はできるチームが少なくなりあまり行われません。

◆昔は旧暦5月4日がハーリーの日だったそうですが、今は梅雨明け後の日曜日に行うところが多いそうです。糸満などは今でも頑なに旧暦を守ってハーリー祭が行われており、学校も休校になるそうです。ここ比嘉区は旧暦5月4日(今年は6月7日でした)は「御願(うがん)バーリー」といって区民によるハーリー舟競争を海の神様へ奉納しノロと共に大漁と航海の安全を祈願する行事を行い、「本バーリー」は29日の日曜日と決まりました。

◆「御願バーリー」が終わった途端「本バーリー」に向け島人はそわそわし始めます。メンバー集めや練習(にかこつけた飲み会)などで仕事そっちのけの毎日となります。ハーリーは大抵どこでも3位までは賞金が出るので各地から強豪チームがエントリーしてきます。特に職域AAは賞金が高く、自艇持ち込みのセミプロ集団がやってきます。その漕ぎ姿はうっとりするほど見事に揃い無駄がなく、さすがという感じです。自衛隊や米軍海兵隊なんかも職域Aです。自衛隊の中でも精鋭の「水中処分隊」はいつも上位に入る強豪チーム、筋肉モリモリの集団です。しかし! 筋肉があるだけではダメなのだ!

◆ダンナの同級生チームなんかすごいですよー。このおじさんたちはただ者ではない。白髪頭のおじさんたちが若いもんチーム相手に次々と勝ち進み、比嘉ハーリー職域Bでは去年も一昨年もなんと準優勝。(なぜ優勝できないかというと悲しいかな…決勝まで体力がもたないらしい)。強さの秘密は気心知れた幼なじみのチームワークでしょうか。ハーリーが近づくと毎日のように仕事終わった後の夕方から港に集まり練習です(練習後の飲み会が楽しみで集まるらしいが)。まあどんなにベテランでも、練習が大事ということなんでしょうねえ。

◆オジサンが子供のように夢中になる年に一度の祭典、ハーリー! 一度漕いだらハマりますぞ! 今日、地平線会議チームのエントリー済ませてきました。やるからには賞金狙いましょう! アスリート絵師長野画伯や、炎の津軽三味線弾き車谷くんはじめ強者たちが駆けつけてくれるそうですから、期待していて下さい! 地平線会議の名前を比嘉に轟かせるゾー!(甘いかなあ 6月16日 浜比嘉島発 外間晴美


[頼りがいのある船体に惚れ惚れ−『しらせ』見学してきましたっ!!]

■6月1日、永島さんからも案内のあったしらせの一般公開に行ってきました。最終日ということもあってか来場者は結構多く、家族連れで来られている方々も大勢見られました。乗組員の方達はみんな親切でついつい質問攻めにしてしまったのですが、みんな丁寧に答えてくれました。そんな中で印象に残ったことをいくつか報告。

◆しらせを見てまず感じたのは、思っていた以上に大きいということ。3月にお台場で宗谷を見学したばかりであり、しらせについてもデータ上のスペックは知っていましたが、実際に目にするとその頼りがいのある船体に惚れ惚れしてしまいます。しかしよく見ると船底付近には無数の傷があり、航海の苦難が忍ばれます。艦内の通路には記念の盾や表彰状、写真などが飾られており、しらせの25年間に渡る活躍を見ることができました。

◆98年にオーストラリアのオーロラ・オーストラリス号を救援した際にお礼として贈られた同艦の絵もありました。そのオーロラ・オーストラリス号が今年出発する第50次隊の輸送に使われるというのは少し感慨深いものがあります。

◆親に連れられて見学に来ていた子供達が元気になるのは、やはり甲板とブリッジ。特に男の子は操舵用の機械類や間近に見るヘリコプター、甲板の四輪バギーや雪上バイクに目をキラキラさせていました。子供の時分にこういうものに接する機会があると、理系離れなんてことにはならないのになぁと思うのは、私自身の経験から。ちなみにヘリ内部の見学は子供のみで、ちょっと悔しかったです。目のキラキラ具合では負けない自信があったのですが。

◆乗組員の方と話したついでに観測隊の人々の印象を聞いてみたところ、みんなとにかくタフだったとの答え。激しい揺れに動揺することもなく、船酔いする人も少なくて驚いたそうです。しらせの乗組員は夏作業の手伝いもするという話でしたが、その際もやはり観測隊員のタフさに驚かされたとのことでした。

◆過去の隊員や乗組員の方も多数来場なさっていたようです。その中で、たまたま第10次隊(しらせではなくふじの頃)で越冬に参加したという方にお会いし、当時の様子をお聞きすることができました。例えば基地の建設時、コンクリートが即乾性なので水平を取ることができないためジャッキを大量に並べて水平な土台を作ったとか。それから隊員の間で行われる「南極大学」は当時から行われていたそうです。それから、基地の郵便局には歴代の記念切手が大量に置いてあったとか、ロッテから提供を受けたガムの箱がそこら中に転がっていたなど、永島さんの話と共通する部分も異なる部分もあって非常に興味深かったです。

◆その他、雑多なことをいくつか。しらせのため池(汚水槽)で飼っているバクテリアの名前は「バクちゃん」。食堂に「目安箱」を発見。恐怖の理髪屋「タイガーカットハウス しらせ本店」のキャッチコピーは「失敗と絶望という名の星のもとで鋏と櫛を手に添える??まあいいか!」。永島さんにもオーロラの写真を見せて頂きましたが、しらせではオーロラが発生するとそれを告げる艦内放送が流されるそうです。そして大勢の乗組員が一斉に外に出てきてみんなで空を見上げるとのこと。

◆さて、気になるしらせの今後ですが、まだ決定ではないものの現状保存という形での引受先としていくつか手が挙がっており、どうやら解体は免れそうだとの話です。見た目にはまだまだ元気そうに見えますが、砕氷のために負荷のかかる船底や推進軸などは相当に傷んでいて、航行はおろか補修無しでは繋留保存も難しい状態とのこと。なんとかその姿を留めて欲しいと思います。また今回が最後の一般公開とのことでしたが、8月くらいにまた公開があるかもしれないとの話も聞きました。今回見逃した方も、もしかしたら次のチャンスがあるかもしれません。(杉山貴章


[長い横揺れ 岩手・宮城内陸地震!!]

■昨日(14日)の朝、休日出勤のため車に乗ろうとドアを開けた瞬間にグラッときて、比較的ゆっくりとした横揺れがかなり長く続きました。数日前に「今月下旬に山形で大きな地震が起きるという噂がネットや口コミで広がっている」という新聞記事を読んだせいか、もしかしたら大きな地震かもしれないと思い、家に戻ってテレビをつけると、震源の岩手県南部では震度6強、山形県内では震度5弱〜震度4(酒田は震度4)とのこと。

◆私の職場では、震度4の地震が発生すると被害状況等を把握するため指定された職員は出勤することになっています。今はその役ではありませんが、ちょうど出勤するところだったので職場に駆けつけると、すでに来ていた人が電話で連絡をとっている最中でした。その後、続々と出勤してきて平日以上に騒々しい職場になりました。とりあえず私も担当の工事現場に電話をかけましたが、地震による通話制限のため携帯電話は使えず。数回かけてようやく連絡できたものの、震度4で通じないようでは災害時に携帯電話は使えませんね。

◆新聞やテレビで報道されたとおり、震源近くでは橋が落下したり大きな土砂崩れが発生したようです(工事現場で作業中に土砂崩れに巻き込まれて亡くなった方は山形県人でした)。4月から道路工事を担当することになり、今年度は長さ120m程の橋を一つ架ける予定です。実は明日から会K検査があるため橋の構造計算を調べていますが、これがなかなか難しい。

◆道路橋を設計する基準は大きな地震のたびに変更されていて、とくに兵庫県南部地震(阪神淡路大震災)以降、地震に対する設計の考え方が大きく変わりました。以前は、いわゆるプレート境界型の地震だけを想定していましたが、今は内陸直下型の地震時も考慮した設計をするようになっています。したがって、最近の橋は簡単には落ちないはずですが、実際に落下した橋の映像を見るとやはり不安になります。

◆橋に限らず、どんな構造物にも寿命があります。エアフォトグラファーの多胡さんが撮影した瀬戸大橋の寿命は100年だそうですが、一般的な橋の耐用年数は40〜60年くらいと言われています。もちろん、60年経ったらすぐに壊れるわけではなく、適切な管理をすればそれ以上にもつし、逆にそれ以下で壊れることもあります。

◆最近、N○Kテレビの特集番組でも放映されましたが、橋の維持管理が行き届かないために落橋したり通行止めになっている橋が全国的に増えているそうです。新しい橋(道路)を造る予算は欲しいけれど、管理に予算をかけない(予算がないからかけられない)からですが、このままだと通れない橋が増え続けます。道路特定財源の一般財源化が問題になっていますが、こうした社会資本の維持管理にその予算を振り向けたらいいのにと思います。

◆今回の岩手・宮城内陸地震はもちろんですが、先月中国・四川省で起きた地震被害も対岸の火事とは言えませんからね。さて、明日16日は新潟地震(中越地震ではなく1964年に発生した大地震)があった日。44年前のあの地震が我が人生最大の地震(今の震度基準だと酒田は震度6強か)ですが、できればあれ以上大きな地震には遭いたくありません。ところで、沖縄は地震が少ないようですが、実際はどうなんでしょう。10月に浜比嘉島へ行くつもりなので気になります。(6月15日・山形県酒田市 飯野昭司

★飯野版はみ出し情報:サッカーJ2のモンテディオ山形が破竹の6連勝で現在2位。ついにJ1昇格か?

「すさまじいサイクロンの現場。今からビルマに行ってきます!」

■いつものようにカミさんとの二人旅(60歳をすぎてから、年に数回、世界各地を旅している)。ビルマ(ミャンマー)のサイクロン被害を知ったのは、そんな旅の途中、ビルマ国境にちかい雲南省・謄沖の町で、だった。「事件」はそれだけではない。1か月の旅のあいだで、なんと5つもの「大事件」がつづいたのだ。連日、50いくつか見られるテレビ局―CCTVと地方局、衛星放送でみることができる―の画面は、すべて事件一色になった。

◆旅先と、そこで知った事件を列挙する。[1]福州では“山東省の列車転覆事故”、[2]謄沖では“ビルマのサイクロン被害”(前述)、[3]大理では“胡錦涛主席の日本訪問”、[4]香格里拉(シャングリラ)と飛来寺――標高6740mの梅里雪山の雄大なパノラマが展開する――では“オリンピック聖火のチョモランマ登頂”、[5]麗江では“四川省大地震”。

◆それらの「事件」は、むろん中国だけでなく、日本でも、いや世界中でマスコミをにぎわす大ニュースとなった。四川省はぼくらの旅の予定にあったので、おおくの友人、知人にも心配をかけた。

◆ビルマの「事件」はもっと身近な、切実なできごとだった。この10年、東京海上日動という損保会社とパートナーシップをくみ、現地のNGOと協力して、地域住民のマングローブ植林を支援してきたのだ。現地には多くの友人・知人がいる。かれらは無事なのか。植林したマングローブはどうなっているのか。

◆ビルマとぼくの関係は、1962年英印汽船でカルカッタにいく途中、ラングーンに上陸したときまでさかのぼることができる(町には銃をかまえた兵士があふれていた。思えば、この年から軍政がはじまったのだ)。つぎが90〜93年、UNDPの依頼でおこなったマングローブ植林技術の開発。

◆現地調査を含めてわずか3年でマングローブの植林技術が取得できたのは、2つの要因からだ。ひとつはぼく自身の10年をこえるアラビアでの経験。もうひとつは、パートナーである森林局の10年におよぶ失敗の歴史。ふたつの経験が重なり、そして両者の熱意があって成功への道がひらかれた。これらの経験で得たものは、心優しい多くの友人たち、「足るを知る」地域社会と人びと。軍事独裁とは対極にある人たちだった。

◆バングラデシュはサイクロン被害大国である。だが隣国のビルマにはサイクロンはこない。80年代に一度きたことがあると聞いたが、それもたいした被害はなかった。ところが今回はちがう。帰国後に知ったその被害は、中国のTV報道では知りえなかった深刻なものだった。軍政の国営放送での発表では死者7万7738、行方不明者5万5917(人的被害は四川大地震を上回る)。サイクロンが上陸し、通過経路となった被害の中心は、われわれのプロジェクト地域(イラワジ河口域)だった。

◆現地NGOの仲間からのEメール画像は、TV、新聞などのニュースでは知り得ないリアリティがあるものだった。すさまじい家屋の崩壊。ボガレでいつも泊まらせてもらう森林局のゲストハウスは跡形もない。われわれの拠点のひとつビョンムェ島のゲストハウスは無惨にも屋根がとばされていた。どれほどの強風が吹いたことか。プロジェクトが支援したいくつかの小中学校校舎も完全に崩壊、もしくは一部崩壊。限られた枚数の写真ではわからないが、住民の家屋(掘っ立て構造のニッパハウス)が壊滅的な被害をうけたことは容易に想像できる。

◆植林したマングローブは折れたり倒れたりしていた。だが、その生命力で、やがて復活することが期待される。崩壊した家屋もやがては立て直すことができるだろう。だが、修復不可能なのが人の命である。Eメール画像で見た幼児の死体は目をおおうばかりだった。裸の姿で泥まみれになってころがっていた。こうした死者が何万、もしくは10数万になった現実は、考えるだけでも恐ろしい。

◆明日(6月12日)から10日間の日程でヤンゴンに飛ぶ。集まった義捐金をとどけ、また、これからの支援活動をどうするか、を話し合うためである。(6月11日 向後元彦


「使い終わった天ぷら油、くださ〜い!」

−カメラマン山田周生のとてつもない挑戦

■自分では自分のことを「私ぐらいまともな人間はいない」と密かに思っているが、私のことを知る人間でそう思っているヤツは極めて少ないらしい。その私が、「やはりあいつはヘンだ」と思う筆頭にあげるのがデザート・カメレオン、じゃなかった、デザート・カメラマンの某・山田周生というヘンなヤツだ。

◆パリ〜ダカール・ラリー25年間の取材経験を誇る、多分おそらくきっとメイビー日本で一番サハラ砂漠をよく知る男だろう。バイクや四輪でラリー参加者をはるかに上回るハードな取材をこなし、さらには自らラリーに出場して完走や入賞も経験している、業界では名の知られたデザート・キラーだ。地平線報告会に登場(注:91年5月28日の139回報告会 当時は山田「秀靖」だった)して、砂まみれ地球体験話をしてもらったこともあった。

◆ヤツと知り合ったのはもう20年以上前のことだが、そのころからヤツのヘンさは尋常ではなかった。砂漠に憧れたあげく、東京の下宿の畳の上に砂を撒いて、その上に寝袋を広げて寝ているという伝説の持ち主だ。その昔、原チャリでサハラ砂漠に出撃した折りには、砂漠のど真ん中ですれ違ったこともあった。それだけでもくりびつてんぎょ! だが、こちらの顔を見るなり「遅いじゃん」と言われたのにはマジで驚いた。こいつ、何考えてんだ? 50ccだぞ。4.5馬力だぞ。平均時速15キロの原チャリだぞ……。

◆まあ、ミニバイクでサハラを越えようというのも非常識かも知れないが、それに向かって遅いと言うヤツの気が知れない。以来、ヤツはまともではない知り合いリストのベスト3に常時ランクインするようになったのである。そんなヘンなヤツが始めたヘンなプロジェクトに巻き込まれて、ヘンなことに付き合うはめになってしまった。これも日ごろの悪事のたたりか、ご先祖さまを大事にしない天罰か、泣きつかれると拒めない気弱な性格がつらい。エコロジーなんぞ大っ嫌いとうそぶいている私に向かって、「使い終わった植物油を精製すると、ディーゼル燃料ができるんだよね。車の後ろに積めるプラントを開発して、行く先々で天ぷら油をもらいながら地球にやさしく世界一周するんだけど、一緒に行かない〜?」なんぞと言って擦り寄ってきた。こいつ、何考えてんだ?

◆「バカだというのは知ってたけど、ここまでバカだとは思わなかった」というのは、グレートジャーニーを始めるに当たって、ドクトル関野氏が計画を関野夫人に打ち明けたときの反応で、業界では名言として記憶されている。私の場合も、ヤツがヘンだというのは知ってたけど、ここまでヘンだとは…。まともでないヤツは多いが、それにしても尋常ではないことをたくらんだものである。

◆車載可能な超小型プラントを開発するのに約2年。ほとんど私費を投じて、トヨタのランドクルーザーの後部に、タンクやパイプの入り乱れた複雑怪奇なプラントが組み上げられた。タンクの上から使用済み植物性廃食油を入れて、メタノールなどの触媒を加えて反応させ、イオン交換樹脂膜でろ過しうんぬんかんぬんでディーゼル燃料が下から出てくる。完成とは程遠く、テストしながら走るというのがその実態だ。ドライバーとナビゲーター、メカニックの3名で、燃料作りから油集め、広報から記録まですべてをこなすハードな旅でもある。人間が納まるスペースはほぼないに等しく、個人装備はデイパック1個パンツ2枚おやつは500円までと、厳しく制限されている。

◆使用済みの植物油は産業廃棄物として処分されるが、行く先々で揚げ物をしたご家庭から捨てる油をもらって燃料を自給自足し、旅をするという移動形態はたしかに斬新だ。6000人からひとり1リットルずつ廃食油をもらえれば、それで世界一周ができる計算だという。昨秋、カナダからスタートしたバイオディーゼル・アドベンチャーは北米大陸を横断し、ポルトガルからユーラシア大陸横断にかかろうとしていた。ふと気が付くと、6月はブラジルにいるはずの私も、なぜかユーラシア大陸最西端のロカ岬に立っていたのだった。

◆てなわけで、主筆E本氏より、ようやく完成した子供向けカーニバル本(福音館の月刊たくさんのふしぎ6月号『カーニバルがやってきた!』)の紹介をせよ、というお達しであったが、話はカーニバルからポルトガル〜モロッコ〜スペイン方面の天ぷら油ツアーへと迷走してしまった。どこまで到達するのか、話は来月へ続く。(6月14日 ZZZ白根全@リスボン)

★『月刊 たくさんのふしぎ カーニバルがやってきた!』(福音館書店 700円)、大人にとっても役に立つ、いい本です。カーニバルとは何か、実によくわかる。写真も豪華。書店で見てください。(E)

[マッシャー有香の海外移住のための英語お受験]

■こんにちは! 先日は、ビールをいっぱい飲ませて頂き、ありがとうございました! 今回の上京の目的は、IELTS(アイエルツ)という英語のテストを受験するためでした。これはトイフルのイギリス版という感じのものです。ただ、トイフルのようなマークシートと違いすべて筆記である為、リスニングの問題などでは理解していてもスペルが分からず(そういえば普段は書かないので曖昧でしかない、ということを初めて知りました)、ライティングではどうなっているやら??? かなりやばいです……。

◆このアイエルツは、オーストラリアやカナダといったイギリス系の国への留学もしくは移住を考えている人達が受けねばならないもので、私もこの「半年アラスカ・半年日本」生活をそろそろ止めてちゃんとあっちを拠点にしたいと考えての受験です。アラスカは所詮アメリカです。どうしても厳しいグリーンカード(永住権)の壁。毎年あるグリーンカードくじに応募してはいますが、日頃の行いがたたってちっとも当たりません。

◆そこで、少しは壁の低そうなカナダを考えたわけです。というか、実は私、アメリカ人と比べるとカナダ人の方が日本人に感覚が近いからか、好きなんです。アラスカでだっていろいろと知り合った素敵な友人がいるし、もうカナダよりアラスカの方が長く住んでいますが、それでもなお、最初に行ったイエローナイフや、ドーソンシティーやホワイトホースの友達はまだ付き合いがあり、しかも気心が知れているのです。

◆カナダ移住計画、また英語を勉強してやり直します……。(あ、あとフランス語も!…先は長いです!)今度は9月にまたアラスカへ行きます。江本さん、その前に飲みましょうね(江本さんのおごりで)!!(汗 本多有香


[ダルハンいいとこ、モンゴル選挙!!]

■江本さん、地平線会議の皆さん、サインバイノー? モンゴルは30度を超える猛暑になったり、屋根が吹っ飛ぶくらいの砂嵐や吹雪になったりとなかなか天候が安定しません。モンゴル人に「夏の雪」と呼ばれるポプラの綿毛が街中ふわふわしているので、夏の到来ってことなんでしょうね。

◆さて、私は5月中旬からモンゴル第二の都市ダルハンというところで暮らしています。ウランバートルの十分の一程度の規模のこじんまりとした工業都市で、治安もよく、公園や見晴らしの良い丘などデートスポットがたくさんある素敵な街です。今回は仕事で長期間来ることになったので、(シェパードの)ソートンも連れてきています。ダルハンに住んでいるモンゴル留学時代の友人が預かってくれています。

◆彼女とは5年ぶりの再会だったのですが、持つべきものは友、ですね。ソートンは、私と同年代の夫婦が2人で建てた広い庭付きの一軒家(赤い屋根のとてもかわいい家です)で彼女の小学生の2人の子供たちと仲良く元気いっぱい快適に暮らしています。むしろ、ウランバートルにいた時よりも恵まれた環境です。

◆仕事は朝から晩まで忙しいのですが、一緒に仕事をしているオジサンたちも行き詰ったときに気分転換をしたいらしく、「犬を連れてきなよ」と言ってくれるので、時々フィールドにも連れて行きます。仕事は休みにならないけれど、土日は泊まりがけでソートンに会えるので安心です。仕事の内容はダルハン市の水供給システム改善の無償援助プロジェクトの基本設計です。水源となっている地下60mの井戸からくみ上げる新鮮で良質なミネラルウォーター(水質調査済み!)を毎日たっぷり飲み、川沿いの草原で羊のホルホグ(蒸し焼き料理)や塩茹での内臓などピクニック気分も味わえる楽しい仕事です。

◆4年に一度の国会議員選挙の投票日が6月29日と迫ってきているので、都市部の大きな看板は宣伝ポスターで占められています。元旭鷲山関はウランバートル市のソンギノハイルハン区から民主党公認で立候補。ダルハンでは3議席をめぐって19人の立候補者が出ています。横綱・朝青龍がシャリンゴルというダルハン近郊にある金鉱山会社の社長でもある立候補者の宣伝ポスターでがっちり握手のツーショットで写っていますが、また日本の相撲協会で物議をかもしちゃうのかしら?

◆2004年の選挙は与野党入り乱れての投票者へのギフト作戦、誇大公約、人民革命党に偏ったマスコミ報道、ふんだんな選挙資金にものを言わせての人気歌手によるキャンペーンライブなど、いろいろと賑やかでしたが、今回の選挙はそういったお金にものを言わせる選挙戦が封印されているため、無料コンサートもなく、前回に比べると拍子ぬけです。

◆とはいえ、投票日まで残り2週間。ダルハン市の空き地や広場に椅子を並べて街頭演説をやっていたり、候補者のポスターをべたべた貼っていたり、政党の旗をはためかせた乗合バスやタクシーが市内を走り回るなど活気づいてきました。町の人に聞いてみても、支持政党はバラバラ。ダルハンでは無所属立候補者も多く、最後の最後までわからない感じです。

◆昨日、久々に1泊2日でウランバートルに戻ったのですが、断水していた上に、長期間家をあけて料金を払ってなかったら、電気と電話とインターネットを止められていて、首都に帰ってきたのに不便な生活を強いられました。特にインターネットがなかったのは致命的! 実は今年の5月から、エイビーロードという海外旅行情報誌のウェブ版で、海外ガイドとしてモンゴル情報を毎週連載させていただいているのですが(URL:http://ab.ab-road.net/CSP/GID/GID0411.jsp?guideId=00070)、初の締切破りをしてしまいました。

◆友達もたくさんできたし、移住も視野に入れようかな?と思うくらいダルハン市を気に入っています。一時期閉鎖されていた工場も再開したり、中小産業パークと呼ばれる工場群が建設中だったりと街全体が成長エネルギーに満ち溢れているのを感じます。今はまだ水道の水も塩素消毒されていないので不安もありますが、日本の無償援助プロジェクトの実施が決まれば、水も安全、発電所もあり、電話もインターネットもウランバートル並みで空気がきれいで渋滞も酔っ払いもいない素敵な街となります。

◆そのためにも私たちが一所懸命がんばってよい計画設計をしなければいけません。あと10日間ほどで調査が終了します。ソートンにマイクロチップ装着をしたので来年の冬ぐらいに連れて帰れそうです。これから夏本番。今年は去年の分まで元気でがんばります。今年は8月1日にアルタイ山脈の方では皆既日食が見られるなど、面白いことがてんこもりです。というわけで、モンゴルでお待ちしております。(6月17日 ダルハン発 山本千夏


《 讃岐国元気女子報告》

[その1 「徳島〜香川の90kmを歩き貫け!」]

■私先月号のドラゴンランで登場した、香川大学のうめです。空手大学に所属しております。流派は剛柔流。丸腰・掴み・投げアリの実践武道でございます。「しまなみ海道100km遠足」に出たえも〜ん(四万十ドラゴンランの仲間)が香川に立ち寄ってくれて話を聞くうち我が空手部の「90km遠足」のことを紹介したくなりました。

◆我らが空手部には毎年10月頃、徳島大学から香川大学までの約90kmを歩く「貫歩」という行事があります。10月のある日、「往復買うなよっ!」と先輩にどやされて電車で徳島へ。午後1時、胴着に着替えた部員は徳大の門前で「全員円陣になって!!!気合突き10本!!!」「エイッ、エイッ…」もちろん注目の的、知り合いがいなくとも気になります。そして白装束はいざ香川大学へ!

◆途中、コンビニや広場で休憩しながら足並みを揃え、11時間程歩くと、「引田駅」に着きます。ここで監督・OB方からの有難い炊き出しが!!! そして再び出発すると、途中、徳島大学 空手道部さんに出会います。そう、香大が徳大を出発したと同時に徳大は香大を出発していたのです。徳大空手部は同系統の流派。前もって日程を合わせ、途中ですれ違うのです。「おっす!」「おっす!」っと深夜12時ごろ道のど真ん中で挨拶し、お互いの無事を確認すると、爽やかに「お気をつけて〜」とお互い自分たちの部室を目指して歩き始めます。

◆ここからは自分のペースで歩きます。深夜は星がとても綺麗です。田舎なので、遮る物も明かりもありません。落ちてきそうな星を見ていると…夜が明け今度は睡魔との闘いです。気づいたら道路!?歩きながら寝ていることもよくあります。市街地に近づくと、普段歩き鍛えていない部員達は道の凸凹に憤ったり、自転車のおばちゃんに行く手を塞がれ頭に来たり…。この時、すでに胴着による羞恥心はかけらもありません。

◆到着は大体早い人で17、8時間、遅くて26、7時間ほどです。因みに、私は大体22時間ぐらい。部員中4番ぐらいでゴールします。最後はもう歩くのが嫌で走っちゃいますが…。こういう長距離は女性の方が耐性があるのかも知れません(笑)。みんなが感動のゴールを果たしたら、今度は香大の門前で円陣になって気合突き10本! 知り合いがいようが、見られようが気にもなりません!!

◆貫き歩くことを通してみんな考えることは沢山あるようです。ある先輩は、「一歩は大事やぞ! 一歩は小さいけど、しまいには90kmや。何事も小さいことの積み重ねだ」と悟りを開いておられました。そして、黒帯には「一歩」の文字が。こうして貴重な経験が出来る香川大学空手道部の恒例行事。何より、素敵なことに運賃が片道しかいらないのです!!!

[その2 食事つき月1万円! 素晴らしき  若草寮暮らし]

■「今日寮食何やった!?」「ほんま!?じゃぁゲットしにいこ!」とある寮のお風呂での会話。地平線会議の皆様、一体何が始まったのかと思われましたか? わたくし、通称「うめ」は、大学入学当時から寮生活を営んで早4年目のいわゆる「おつぼねさん」です。「寮生」は互いに友人というより家族。以下私たちの些細な日常を報告します。

◆まず、一番始めの会話、これは「寮食ゲッター」の発言です。寮には平日(長期休暇除く)の夜に寮食が出ます。250円/食の満腹ご飯です。そして、AM12時には残っているもの全て「余り」となります。これを狙って寮生がAM12時に食堂へ終結し、インジャン(注:ジャンケンの関西方言)で勝ち抜き、次の日の糧にするのです。みんな先輩も後輩も関係ナシ! 真剣勝負ですよ!

◆ところで、我が「若草寮」はその名からかけ離れた外観です。友達にはよく「あれって廃墟じゃなかったの!?」っと…失礼な!! 確かに、山の古びた校舎みたいやけど、収容人数80人のたくましい建物ですよ!! ただし、4人部屋。個人には《一畳のベット・机・タンス》のみ。まさに触れ合い生活! 毎日合宿みたいです♪ 泣きたいときはトイレに個室があるので平気です。

◆さあ、イメージしてください。懐かしい古い学校の校舎、校舎の端の階段付近に水道・トイレそして縦に長く廊下があって教室が並んでいて…その教室を開けると…4人部屋。机・ベット・タンスが4列並んでいます。おお、ベットの上には洗濯紐にかかった洗濯物が。あぁタンスに入りきらない荷物がベットの横にはみ出てる…。これじゃぁ譲り合わなきゃベットの間通れへん!っとこんな感じです。みんな工夫しながら荷物をコンパクトに抑えてます。っが、はみ出てしまいます。寮は4階建て、部屋数は各階に5部屋=20人。プライバシーという言葉なんて寮の辞書にはありません。

◆建物は古いですが、中身はとっても活気があふれてるんです! 人も虫もとっても元気! 夏はムカデの添い寝なんてウルトラサービスや、主にムカデっちやゴキちゃん、クモ〜ンにネズりんなどがメンバーで、やるかやられるか! です。天井からのムカデ空中サーカスならぬ落下、タランチュラ様のクモが立体アートに…うぉっ、動いた! 山の生き物はBigばかり。私たちも負けじと強くなります。

◆テストの前は皆で勉強、起こし合って朝まで粘り、ダイエットは皆でビリーズブートキャンプに入隊。共同テレビでみんなで笑い、共同食堂で楽しく食事! 個食っていう単語も索引には無いですねぇ。

◆掃除やゴミ出し、寮の運営まで全て自分たちで責任を持つ自治寮。大変な問題もしょっちゅうあります。冷蔵庫の物もたまに無くなってます。でも、みんな持ちつ持たれつ生活しています。中にはその生活が合わずに、出て行ってしまう人もいますが、それでも元は寮生。通じるものがあります。生活環境は決して自慢できませんが、極めつけは、なんと寮費が月々1万円前後(寮食を食べて)。そして家族が増えるときたら「寮っていいなぁ」と思います。まだまだ面白いことは尽きませんが、今回はこの辺りで…。華の女子大生ではなく、鍛えられた女子大生。こんな生活を学生のうちに経験できて、私は大満足です。あぁ、卒業したくないなぁ…。 (Sence of wonder がモットーです! うめこと香川大学農学部4年 山畑梓


《「探検NPO」を設立しました。ご参加を!》

岡村 隆

■皆さん、ご無沙汰しています。岡村隆です。このたび南アジアの未知の遺跡に関して、その探検や調査や研究、保護や国際協力を主目的とする特定非営利活動法人(NPO法人)を設立しましたので、江本さんのご高配により、この場をお借りして、ご案内と参加呼びかけをさせていただきます。

◆周知のように、仏教やヒンドゥー教など世界宗教の発祥地であるインドをはじめとして、南アジア諸国には古くからの優れた文化や人々の生活を偲ばせる遺跡が無数に残されています。それらの遺跡は、各国の貴重な歴史遺産であると同時に、国の枠を超えた人類共通の文化遺産として世界的にも貴重な存在であることは、いまさら言うまでもありません。

◆ところが、そうした重要な文化遺産でありながら、それらの遺跡の多くは、いまだ現代科学の光が当てられないまま、人手を阻む大自然の中に放置されている現状にあることはあまり知られておりません。調査や発掘、修復が進み、観光地化されて有名になった遺跡がある一方で、研究者や予算の不足、自然の障壁、戦乱など、地域特有の様々な理由から調査が進まず、存在さえ確認できないまま捨て置かれている貴重な遺跡が各国ごとに多数あり、それらは当該国の努力だけでは調査できない状態にあるのが実状です。

◆それら未解明の遺跡を、当該国の人々に代わって、あるいは協力して調査研究し、明確な文化遺産として世に導き出すことはできないか??そう考えて、私たちはこれまで、主にスリランカやモルディブで活動してきました。1969年以来、法政大学探検部を派遣母体に、現地の政府考古局や大学、地元住民などの協力を得ながら、密林に埋もれる多数の遺跡(仏教遺跡や水利施設遺跡)を発見、調査し、その結果を報告書にまとめて出版するなど、長い年月をかけて地道な努力を重ねてきました(地平線報告会でも何度か発表させていただきました)。

◆そして、その成果の一部は、私たちの調査遺跡をスリランカ政府が保存・修復対象遺跡に組み入れたり、私たちの積み上げたデータをもとに調査計画を策定するといった形で実を結びつつあります。私たちは、こうした動きをさらに推進するため、活動母体と活動枠を広げ、現地機関との連携を強めることなどを目的にNPO法人を設立しました。これは活動人員にも能力にも限界のある一大学の課外団体とそのOB組織という枠を完全に取り払い、広く有意の人々を集めて活動を活発化させ、現地機関の調査・研究活動とも恒常的に連携できる組織を創設しようというもので、単に学問研究の発展に資するというだけでなく、民間団体による国際協力の新たな形を提示することを目指した動きであると自認しております。

◆法人は今年に入って東京都から認可され、2月末に法務局の登記を済ませましたが、実態は(人手不足、人材不足ということもあって)まだ助走を始めたばかりという状態です。5月に豊島区民センターでインド考古学(および文化人類学)の小西正捷・立教大名誉教授による公開講演会を開いたぐらいで、これから皆さんに呼びかけて、定例の研究会(参加自由)や年2度ほどの公開講演会(シンポジウム)、機関誌の発行、ホームページの充実などを図り、来年には広く募った新しいメンバーで、スリランカの密林かモルディブの島々での現地活動をしたいと考えています。

◆遺跡探検・調査にはODA基金などの公的助成を申請する予定ですが、ゆくゆくは現地に遺跡の保護管理施設や資料館などを兼ねた宿泊可能な研究センター(誰でも利用できる調査基地)を作ったり、一般の人のスタディツアーや地元の住民福利にかかわる活動をしたりできればいいなと「夢」を広げているところです。もちろん、これらは能力に限界のある私や、少人数の仲間でできることではありません。また、これは難しい「学術団体」ではありません。南アジア地域や、遺跡や、探検や、仏教などに興味のある人が、自分にできることをやるという姿勢で多く集まり、その力と知恵が可能にしてくれる世界だと思います。

◆私の究極の願いは、だれか志のある方々(とくに地平線会議に集うような方々や若者たち)を中心に、多くの人が、この団体を「乗っ取って」新たな活動を展開してくれることです。そのために、まずは会員になっていただける方々を募集しています。参加資格は一切ありません。法人の運営に議決権を持つ正会員が年会費1万円、賛助会員が同3000円です。詳しくはホームページ(まだ貧弱ですが)をご覧ください。直接、岡村にお問い合わせいただいても結構です。

◆NPO法人「南アジア遺跡探検調査会」ホームページhttp://sarers.web.fc2.com/ 岡村電話 03-3996-8140、090-2919-6359 です。どうぞよろしくお願いいたします。


[シール・エミコさんからのメール]

■シール・エミコさんからメールが届いた。思わず、椅子から立ち上がってしまった。地平線会議のみんなで応援するぞ! との気概をもって、以下、エミコさんの近況をお伝えします。(E)
[その1](6月14日昼前メール)

 江本さん、エミコです。

 残念なお知らせをしなくてはなりません…。
 癌が再発しました。今後のことは主治医とよく話し合っていきます。
 世界一周についてはいまのところ先がまったくみえない状態。
 やはり癌には勝てませんね…。(苦笑)
 新たな困難、スティーブと前向きに進んでいきたいと思います。
 どうぞ見守っていてください。

 これからは治療に専念いたします。
 とりいそぎお知らせまで。

エミコ&スティーブ・シール
2008/06/14

[その2](直後、電話での質問に)。

 言われたのは、きのう(13日)午後です。先生が今まで見たことのない表情で話し出されたので、ああ、と思いました。ことしは春ぐらいから調子悪くて…。

 いつもの先生に診てもらったのですが、再発、転移、って話を聞きながら頭が真っ白になりました。最後の旅は当分延期です。9月21日出発予定でタイ行きの航空チケットもとってあったんですけど。再発ですから今回は正直、怖いです。でも、この7年間が奇跡だったんですね。ありがとうございます。通信のこと、江本さんにおまかせします。

[その3](6月15日朝メール)

「奇跡を信じて」
 江本さん、お電話うれしかったです。これからのことを考えると不安でいっぱいですが、余命半年と言われ今日まで生きてこれたことこそが奇跡だったと思うので感謝したいと思います。もう一度復活できるように最善を尽します。地平線のみなさん、どうか見守っていてください。[シール・エミコ]

[その4](6月17日夜 電話で)

 大学病院で詳しい検査をしてから入院することになると思います。以前のエネルギーがいま自分の中にない感じです。正直自信なくて…。でも、奇跡をもう一度信じるしかないんです。いま(サザンの)桑田君の歌聞きたいです。8月のお別れコンサート、行きたいなあ。江本さんから頂いた2つの言葉、忘れません。すっごく勇気もらいました。元気になったらカラオケ、また行きたいなあ。
 皆さんによろしく。


[地平線会議からのお願い]

 10月25、26日に予定している「地平線会議 in 浜比嘉島」の参加者リストを早めにつくろうと思います。プログラムの内容に関わるのと、宿、食事の手配上できるだけ早めに人数を知りたいからです。

 詳しくは近く書きますが、簡単にでもメールで教えてくださると助かります。
 勿論、事情で参加できなくなることはまったく構いませんので。/p>

 以下のアドレスによろしく。
  


[通信費をありがとうございます!]

 先月以降、通信費を支払ってくださった方々は以下の通りです。
 カンパをくれた人もいます。ありがとうございました。万一、記録漏れがありましたら教えてください。(地平線会議)

広瀬敏通/入江俊郎/安東浩正/村田忠彦/柳沢美津子/酒井富美/田中雄次郎/大矢芳和/水口郁枝/山畑梓/平本達彦/遊上陽子/加藤秀宣

■先月の発送請負人

三輪主彦 関根皓博 関根五千子 森井祐介 車谷建太 米満玲 安東浩正 海宝道義 久島弘 中山郁子 松澤亮 江本嘉伸
<うどん、おいしゅうございました。ありがとうございました。ご苦労様でした。>


[あとがき]

乱雑な私の仕事場だが、スティールの棚がどっしり座っているのが実に安定感あっていい。資料部屋にあったこの棚は、シール・エミコさんが地平線報告会のためにスティーブとともに上京した折、手伝って移動させてくれたのだ。こういう作業が大好きなのだそうで、実際、手際の良さには舌を巻いた。近くまた来てほしい、と思っているところに辛いメールだ。

◆「地平線通信 257号」(2001年4月15日付け)のフロントをエミコさんが「人間はなぜ、ガンになるのでしょうか? それは専門家も即答できないそうです……」との書き出しで書いている。あの時はまだ、彼女が再び世界一周旅を続行できる日が来るなんて思ってもみなかった頃だ。それがどんどん快復していって、いつの間にか3度も長い自転車旅をやってのけている。

◆ことし9月に出て、いよいよ来年春最終ゴールとなるはずだったが、再発と診断されたのなら何年先に延ばしてもいい。辛い時間はあっても、あれほどタフなエミコのことだ。今回も奇跡を起こしてリカバーできると信じている。大好きなスティーブがいるのだし。緑の野菜にあふれた奈良の家にまた遊びに行くぞ、エミコさん。(江本嘉伸)


■今月の地平線報告会の案内(絵と文:長野亮之介)
地平線通信裏表紙

ビルマの荒神

  • 6月27日(金) 18:30〜21:00
  • ¥500
  • 於:新宿区立新宿スポーツセンター(03-3232-0171)

「丁度ボク等が行ってた場所が直撃を受けたみたいなんだ」と言うのはNPO法人ACTMANG(Action For Manglobe=アクトマン)のエコツアーで何度もビルマ(ミャンマー)を訪れている三輪主彦さん。今月の通信で向後元彦さん(アクトマン創設者)が書いているように、今年の5月3日にビルマを襲ったサイクロンは、イラワジ河口域に未曾有の被害をもたらしました。

その後、ビルマはどうなっているのでしょうか。今月は三輪主彦さん司会のもと、現地から帰国直後の向後さん、そして横浜国大博士課程の大野勝弘さんをお迎えします。大野さんはイラワジ河口域をフィールドにマングローブを研究しており、現地の様子を知悉しています。

被害の現況、救援・救護活動の状況、国際支援の現状、そして郡政府当局の対応など、機になることは山積されています。世界各地で自然災害が頻発している今、環境問題との関連も知りたい。必聴・必見の報告会乞御期待。


通信費(2000円)払い込みは郵便振替または報告会の受付でどうぞ
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議(手数料が120円かかります)

地平線通信343/2008年6月18日/発行:地平線会議/制作:地平線通信制作室
編集長:江本嘉伸/レイアウト:森井祐介/イラスト:長野亮之介  編集制作スタッフ:三輪主彦 丸山純 武田力 中島菊代 大西夏奈子 関根皓博 藤原和枝 落合大祐/印刷:地平線印刷局榎町分室 地平線Webサイト http://www.chiheisen.net/
発行 地平線会議 〒160-0007 東京都新宿区荒木町3-23-303 江本嘉伸方


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