2008年5月の地平線通信

■5月の地平線通信・342号のフロント(1ページ目にある巻頭記事)

地平線通信表紙

害はいつ、どこで起こるか分からない。今朝(12日)の新聞の一面には中国の四川省で、大地震が起こり、1万人もの人が亡くなったという記事が載っている。中国では1976年に唐山市で大地震があり、24万人が亡くなり、94%の家が倒壊した。その時は自力で建て直すとし、外国人の立ち入りを禁じた。唐山の旧市街は跡形なく消え去り、その周辺が整備されて新たな町が作られ十数年後にはじめて公開された。今回は直ちに地震の状況が伝えられてくるのは中国もなかなか成長をしたという感がある。

◆世界の国々と対等に互していくためには当然のことだが、お隣ミャンマーではまだまだ秘密のベールに閉じこめられ、何が起こっているか訳が分からない。5月3日に大型のサイクロンがエヤーワディー河口デルタ地帯を襲い、もと首都であったヤンゴン周辺でも、デルタ地帯でも高潮などの水害で数万人の死者が出ている模様だが、政府は外国人の支援を拒否しているのでニュースはほとんど伝わらない。

◆だいたいミャンマー、ヤンゴン、エヤーワディー「それはどこの話?」と言われそうだ。ちょっと前までビルマ、ラングーン、イラワジ川のことで、「ビルマの竪琴」で日本ともなじみの深い国の話だ。国名の変更、突然の首都移転など軍事政権が強権的に行ったが、外国だけでなく国民も知らされていなかった。それはさておき、災害はいつかは起こる。それは防ぎようがないが、その後が問題だ。国、政府は、国民の安全を守るのが一番の仕事。直ちに状況を把握して、救助、援助ができないなら、そんな集団は国とは言えない。今のミャンマー情勢はとても国際社会の中の国とは言えない。外国からの人道援助も受け入れないなど、かたくなな態度をとる政府なんて、ぶっつぶしてしまいたい。

◆そんなことをブツブツ言っても、現地で助けを求めている人たちには何も通じない。ともかく何か行動を起こさなければ、彼らを見殺しにしてしまうことになる。地平線会議の発起人である向後さん、宮本さんたちマングローブ植林計画(ACTMANG)の人たちはエヤーワディー河口で、現地のNGOのグループと組んで十数年にわたって植林活動を続けている。私も何度か同行し、04年12月のスマトラ沖地震津波の時にもそこにいて、デルタ地帯の状況を見てきた。

◆今回もっとも被害が大きいと思われるボガレー地区まではヤンゴンから一応陸路の交通が通じているが、それよりも海に近い地方には陸路交通はなく、小舟での通行しかない。マングローブ植林の基地であるオクポクインチャンという村にはコンクリートの土台を持つ建物はNGOのキャンプしかなく、住民の住宅はほとんどニッパ椰子で作った掘っ立て小屋だ。雨季には村中に乾いた地面はほとんど見えなくなる。

◆そんな低湿地だから、サイクロンが襲ったらあっという間に家はすっ飛び、地面は水没する。960hPa程度のサイクロン(日本では台風とよぶ)なら吸い上げで海面は50センチほど上昇する。さらに高潮の影響で数メートルの波が押し寄せたと考えられる。数十キロの範囲に5m以上の高台がない場所では逃げる場所もない。カドンガニという古い漁村の対岸の新しい村は跡形もなくなっているという。何日か一緒に過ごした現地スタッフ住民の人たちの顔が浮かぶ。彼らは今どうしているのか、何も伝わってこない。

◆条件の悪いこんな地に住む人たちは民族紛争などで脱出して来た人たちが多く、政府はもともと面倒見が悪い。中央の人たちにも実態は知らされていない。ともかく実態を世界に知らせ、自助努力を援助する行動をしなければならない。現地には被災をしたが、連絡の取れるNGOの仲間がいる。私は何もできないが、とりあえず募金に応じることで、彼らの動きの手助けをしたい。中国の地震も大変なことだが、あちらはまだ国や政府が存在している。ミャンマーの方は、頼りにする国そのものが邪魔な存在という悲惨さだ。

◆今、私は有明海の諫早干拓地にいる。地元民たちが命がけで反対してきた干拓を、日本国政府がギロチンと称する堤防締切工事で実行した場所だ。先日の聖火リレーではチベットの問題がクローズアップされた。国とはいったい何なのか? 考えずにはいられない今日このごろだ。(三輪主彦)


先月の報告会から

西蔵から響く木霊(こだま)

貞兼綾子

2008年4月22日(火) 新宿スポーツセンター

 チベットと中国の関係が世界的注目を浴びた4月、チベット学者の貞兼綾子さんの報告会が開かれた。貞兼さんは、30年以上に渡りフィールド研究を続けている民俗学者。その方が何を語ってくれるだろうと、100名以上の参加者が集まった。中には、渡辺一枝さんや長田幸康さんを始めとするチベット通の顔も多くあった。

◆話はまず、過熱するマスコミ報道から。ラサで「暴動」の起こった3月14日を境に、チベット問題に関するメディアの表現が変わった。それまでチベット問題を正面切って扱うことはタブーだったが、そのタガが一気に外れたのだ。チベット問題が毎日報道されるようになった。だが、情報源は中国発のものが多く、チベットで本当に行なわれていることはほとんどわからない。そんななかで真実の報道が2つあったという。ラサのジョカン(大昭寺)と甘粛省のラプラン寺で、中国が実施した外国報道陣のメディアツアーの前に、僧侶が現状を「直訴」した映像だ。彼らにどのような厳罰が待つか、想像するだけで恐ろしい。僧侶は命を賭けて何を伝えようとしたのか。

◆マスコミは3月14日をチベット「暴動」とするが、実はその前の3月10日に事は始まった。この日は「ラサ蜂起」49周年の記念日。チベット人が毎年集会を開く日だ。今年もデモが行なわれたが、オリンピックの年の当局はすばやく制圧した。その火がくすぶり続け、14日に市民による激しい抗議行動として燃え上がったのだ。1959年のラサも燃えていた。中国側の策略に対し、ダライ・ラマの命を守ろうとするラサ市民が決起して、多くの血が流れた。それが3月10日のラサ蜂起だった。直後の17日、ダライ・ラマはこれ以上の流血を避けるためにインドへ向けて亡命する。チベットで3月に動きが起こったことには、必然の理由があったのだ。

◆中国政府は「チベットは歴史的に中国の一部である」というが、それは本当だろうかと貞兼さんは問う。1949年、中華人民共和国が成立、チベットは中国の一部と宣言した。1951年にはラサに侵攻して、17条の協約をチベット政府に押しつけた。宗教もチベットの政体の継続も約束され、また当時国連が定めた民族の自決権も保障されるはずだったが、それらは徐々に崩れ、終には消滅した。それ以来、人権と文化の抑圧が続いている。

◆歴史的には元(モンゴル族)と清(満州族)の時代に、中国とチベットが近づいたことはあったが、「一部」になったわけではない。元の時代はチベット仏教を介して施主とラマの関係になり、清の時代は中国側の全権大使2人をラサに置いたものの支配される関係ではなかったという。歴史学者の間では、「一部である」という中国の主張には何の根拠もないと言われている。歴史の検証が必要だと、貞兼さんは言う。

◆話は、貞兼さんが歩んできた道に移る。大学卒業後の1974年、28歳のときにネパールの大学へ民族学専攻で5年間留学した。チベットの研究をしたかったが、当時は文化大革命の中国に入ることができず、ヒマラヤに暮らすチベット系民族を研究対象にして、ネパールを広く歩いた。会場では、当時のモノクロの貴重な写真が上映された。それから現在まで、フィールドワーク主体の研究者としての活動が続く。上映写真では、温暖化による氷河湖決壊の問題や、探検家・関野吉晴さん(会場にいました)との旅なども紹介された。

◆数あるエピソードの中でも特に心に響いたのは「5秒だけの会話」。四川省デルゲへの道、カンゼ(甘孜チベット族自治州/今もっとも抵抗運動の激しい地区の一つ)郊外で、農作業をやっていたチベット人の男が漢語で何度も話しかけてきた。貞兼さんが「わからない」とチベット語で言うと、「ダライ・ラマはお元気か」とチベット語ですばやく聞いてきたという。漢族かどうか確かめていたのだ。貞兼さんもわずか5秒ほどで返事をした。その頃ダライ・ラマは、遠いインドの地で体調を崩されていた。男の気持ちに胸の詰まる思いがしたという。また別のとき、ラサのノルブリンカで、チベット人ガイドの説明を聞いていた。何度もやり取りをしていると、男は突然英語に変えて「私たちのことは外の世界でどう伝えられているのか」と聞いてきた。貞兼さんが手短かに答えると、男は何もなかったかのように観光の説明に戻ったという。こんな一瞬のやり取りが成立するのは、貞兼さんがチベット語を使いこなし、かつ相手に信頼されるからだろう。

◆ネパールの亡命チベット人のキャンプに、お世話になったお爺さんを10年ぶりに訪ねたときのこと。キャンプでは唯一のラサッ子。相変わらず質素に暮らしていた。なぜと聞くと「ダライ・ラマが国へ帰ろうと言ったら、すぐに出発するんだ。身軽なほうが良いさ」と答えた。どんなに時代や環境が変わっても、チベット人には脈々と伝わるアイデンティティーがある。転生者として認定された直後の少年カルマパ17世の写真が映った。貞兼さんは「次のチベットの星」と言った。

◆講演の後半は、再びチベット問題に戻った。チベット文化圏全図が映され、抗議行動が起こった場所が赤い点で示された。4月5日の時点で赤点は50ヶ所以上。チベット亡命政府によると、死者は少なくとも140人、拘束されたのは3000人から4000人に上るという。その数は日に日に増えている。これは「飛び火」ではなく、もともと火種があって自ら燃え出したものだ。聖火リレーにも言及した。長野でどのような行動をとるか、日本人は問われているという(幸いひどい暴力はなく、善光寺で静かに祈る姿が印象的だった)。そして、聖火リレーの天王山はチョモランマ。ヒマラヤの高峰は、チベット人にとって神と同じ存在だ。彼らはどういう思いで聖火を迎えるのか、中国政府は人間としていけないことをしているのではないかと、貞兼さんは語る(5月8日に聖火は登頂。最後に掲げたのはチベット人女性だった)。その他にも、遊牧民の定住化政策などは人権蹂躙だという。そう語ったとき、貞兼さんの目が赤くなったように見えた。心が泣いているようだった。「私は、チベット固有の文化を守りたい。支持したい。学者としてそれをつないでゆかねばならない。私たちが理解することが、チベット人の力にもなる」と力強く言った。

◆わずか600万人程度のチベット人口に対して、13億人の漢族の圧力は圧倒的だ。果たしてチベット問題の解決などありうるのだろうか。それに対して1つの可能性を示してくれた。チベット問題について漢族がブログに書いたり、批判の声明をだす中国知識人が増えているそうだ。そんな中国内部からの動きが、1つの希望ではないか。そして、外の人がそれを理解することが大切ではないか。そう貞兼さんは言った。

◆講演終了時には、立見が多く出るほどの来場者数だった。重いテーマに質疑は活発ではなかったが、渡辺一枝さんが昨年のカンリンポチェ(カイラス)に巡礼者がほとんど来なかった異常事態を紹介して、当局による行動規制の疑いを示唆した。江本さんは、オリンピックの終わった9月以後にチベット問題がどうなるか注視したいと語った。関野さんは、貞兼さんがローカルチベット語を短期間で習得する能力を紹介した。

◆貞兼さんにとって、今回ほどチベット問題を強く語ったのは初めてだという。これまでは、チベット人の知り合いに危害が及ぶのを恐れて、公の場での発言は控えていた。チベットをとり巻く環境は変わりつつある。それは、僧侶たちが命を賭して声を上げたからに他ならない。その後にどんな結果が待つのか承知しながら、それでもなお勇気を出し、人間の尊厳を賭けて立ち上がった。そこには多くの犠牲がある。チベット問題への関心が一過性のものではなく、継続するように、私たちは努力してゆこう。(小林尚礼 梅里雪山からのチベット人留学生を応援しています)

[報告者のひとこと]

《Now let us return to Tibet(さあ チベットへ帰ろう)》

■報告会にてチベット問題についてお話する機会を得た。その世界に身をおくものとして、タイムリーに願ってもない場をいただいたと感謝している。この日の後、4月25、26日の長野、5月6日は東京での集会やデモに参加して、チベット人の人権及びチベット文化を擁護する立場から、サポーターたちの列に加わってFREE TIBET、加えてFREE CHINAの声を張り上げた。

◆北京五輪がカウントダウンに入るのと並行して世界中でこのような集会やデモが日を追って激しくなると予想するが、一方で、チベット人による過激かつ静かなキャンペーンも進行している。59年ラサ市民の決起の精神を喚起し、非暴力によって故国をとり戻そう! という「チベットへの行進The March to Tibet」だ。参加者は亡命チベット人がそのいづれかに属している5団体の有志たち。年齢20才から60才以上の主に男性。

◆今年3月10日にダラムサーラを出発。100人で行動を開始したが、すぐにインド警察に阻止拘束され、その後ももう一度阻止され、キャンペーンのスローガンも幾分ソフトになったようだ。しかし、行進は後続の者たちや釈放された者も後に加わって今も続いている。行進の模様はほぼ毎日インターネットサイトにアップされている。時折参加者のプロフィールなどを挟みながら、通過した地方の人たちとの交流の様子などが写真付きで報告され、グーグルの地図で追跡できるようになっている。ムービーカメラも同行している。

◆これを書いている5月9日、行進60日目、インド北部ウッタラクンド州ナイニタルNainitalまでやってきた。クマオン地方の一角。かつての大英帝国治下のリゾート地だ。メンバーはこの日、48名が加わり総勢313人になった。一行の行く手にはユネスコの世界自然遺産に登録されているナンダ・デヴィ峰やキャメット峰を擁する山岳地が対峙する。チベット自治区との国境線は目前だ。この先どのルートからアプローチするのか? 先頭は一行の最年長者の一人、67才の男性。彼がチベットから脱出したルートを辿っているのかも知れない。

◆この西からの行進隊のほか、東からも出発しているはずだ。あるいは全く別のルートもあり得る。地平線会議のみなさんにも注視していただきたい。タイトルは「the March to Tibet」への祈りの詩から。

◆長野画伯のNo.341の裏面イラストは永久保存にするつもり。(貞兼綾子)


地平線ポストから

[チベット報告会その後・長野報告]

■4月報告会の二次会で、その週末、聖火リレーに合わせて長野に行くことを話題にしていたら、ちょっと席を外している隙に、渡辺一枝さんと報告者の貞兼さんが私のクルマをヒッチハイクして同行することに決めてしまっていた。けしかけたチベ友の横内宏美さんも、一緒に行くことになった。

◆聖火リレー前日の金曜日。貞兼さん、ギザギザの妙義山に喜んでいる。あの山は何時間で越えられる、と車中でずっとしゃべっている。一枝さんが隣で眠そうにしているのがかわいそうだが、眠っているのかと思いきや、ときどき相づちを打っているので、素晴らしい人だ。そもそも長野に行くことにしたのは、懇意にしているStudent for a Free Tibetの人たちが、チベット人は聖火妨害なんて考えていない、そんなに怖い存在ではないと示すために、リレー前日に長野市でセミナーイベントを行うのを、手伝うつもりでいたからだ。

◆長野に到着早々、SFT日本代表のツェリン・ドルジェさんが県庁でマスコミ向けの記者会見を行い、夜には長野だけでなく全国から来た大勢の人たちがイベントに集まってくれた。貞兼さんにも急遽、報告会の内容をたった5分の超ダイジェストで話していただき、一枝さんにもチベットのありのままの風土や人々のことを伝えていただいた。「怖い人たち」をチベット人に期待していたマスコミのイメージが、これで180度変わったのではないかと思う。

◆一夜明けると、早朝から善光寺の参道が五星紅旗で埋め尽くされ、打って変わって緊張した雰囲気になっていた。続々とやってくる中国人留学生の貸し切りバスに混じって、在日チベット人も善光寺に到着。聖火リレーの開会式会場を返上したお坊さんたちに出迎えられた。山門を過ぎたところで、在日チベット人会代表のカルデンさんが立ち止まってお経を唱え始めると、他のチベット人もそれに続き、境内にチベット語がこだました。感動的な光景だった。

◆テレビ取材のヘリコプターが開会式上空を舞う下で、本堂では今年3月10日以来チベットで亡くなった人たちの追悼法要が行われ、チベット人・中国人あわせて64名の氏名が善光寺のお坊さんに読み上げられた。この模様は携帯を通じて、米国が運営するチベット語放送、RFAに生中継され、チベットやダラムサラでも聞くことができたという。

◆法要の後、ツェリンさんと急いで聖火リレーのコースへ向かう。聖火が通過した後の大門交差点では、中国人留学生とチベット支援者の声援合戦が始まっている。長野駅前へ迂回する聖火を先回り。ランナーや随行車の人たちに横断幕を掲げて「チベットに自由を、チベットに人権を」とアピールしようとするが、立ち並ぶ中国人留学生に阻まれてままならない。

◆かろうじてランナーがやってくるのに間に合ったが、その後、留学生に取り囲まれて、罵声を浴びながら、テレビのインタビューを受けるはめになった。リレーゴール地点の若里公園に集まったチベット支援者の中には、貞兼さん、一枝さんはもちろん、地平線報告会でよく見る顔もたくさんあった。あいにく冷たい雨の中だったけれど、この熱意はきっと世界中に伝わったと思う。(落合大祐)


      
Now let us return to Tibet

Ki ki so so lha gyalo!
Victory to the Gods of Tibet!

O Tibetan brothers and sisters, we have not met for a long time.
We are returning, we who have long wandered in foreign lands.

O you first sipa (origin) gods of Tibet, send us escorts
We need trusted guides to help us across the many passes and valleys.

O you first sipa goddesses, do not be distracted.
Open wide the gates of the great snow mountain wall.

You thirteen first sipa goddesses of our gur songs, sing us a verse.
It will make the journey shorter across the many passes and valleys

You twelve terma (treasure) goddesses please sing the refrain.
Raise our spirits and make us joyful as we march through the wilderness.

Any thoughts of turning back have been abandoned on the road behind
Our feet compel us to march forward to Tibet.

Lhasa, abode of the gods, gathering place of our people,
The capital city of all Tibetans, more precious than life.

Friends, do not offer the welcome chang right now,
There will be time enough for us to meet, drink and rejoice.
Let us first greet the Buddha Jowo at the Jokang Temple.

■これはラクラ・ツプテン・チュダル・リンポチェがチベットマーチの仲間へ送った「チベット帰還への祈り」をジャムヤン・ノルブが英訳詩したもの。(貞兼)


「行ってきました長野 北京オリンピック聖火が通る」

金井 重

◆4月22日夕の地平線報告会、貞兼さんのハートフルな話が魂に響きます。「も一度26日のゼッケンを見せてください」。彼女は「友人を殺すなセーブチベット」を掲げてくださいました。
 私長野に行きます。
 カヌーで渡った川、何日も泊めて頂いたアニ・ゴンパ(尼僧院)、地元の人達と一緒にお祈りし、お祭りの宗教舞踏にも出会った日々、あの楽しい日々は思い出なのか、いま、今日の問題なのだ。私が行ってどうなるのか、そんなあと先の計算はいらない、私は行くと決めたのだから。帰宅して夕刊を読む、とりあえず「善光寺が出発式辞退」の記事を切り抜く。

◆4月23日 新潟行新幹線の中で昨夜の切り抜きを読む、ウーンこれは25日に長野に着いてないと、朝、善光寺のチベットで亡くなった人の追悼供養に参加できない。友人たちとの新潟での予定を25日長野着に向けて調整しました。

◆4月25日 新潟からのバスは長野にお昼に着きました。駅の観光案内所で宿探しです。ありました、駅前ホテルです。荷物を下ろしてまずは善光寺さんです。おだやかな春昼、表参道をゆっくり歩き、大きなカメラの男性に声をかけます。報道関係の方ですね、あ、産経さんですか、明日は善光寺と聖火のスタートが同じ時間ですね、あなたはどちらに行きますか、「両方行きますよ、自転車で追いかけます」そして借りてきたのでしょう、古い自転車を引っぱって行きました。駅でも報道関係者らしい人達を見かけました。いまはまだ春うららですが、いよいよの感が迫ってきます。

◆お寺の境内で青いジャンパーの人達に出会いました。あれ、中国の警備は辞退したという記事を見たが…と思いながら声をかけました。台湾人グループでした。「私達は大法好だ、中国にいる仲間達が弾圧をうけている」。さんざん話しているうちやっと合点がいきました。日本のことですから、もう今は報道されていませんが、大分前に報道された法輪功の人達です。ここ善光寺にお参りしバス一台はいま名古屋に向かったと。あーら明朝はチベットの人達がここにきますよ、同じ中国の弾圧をうけているのだから一緒になれればよかったね、と言ってみました。彼らは一緒にいるところを写されたらすぐ中国政府に逆宣伝され暴力派にされてしまう。そうすれば中国在住の人達が困るという。ウーンとにかく集まれば危ないのだ。今の中国では。日本でもか。帰りは散歩かたがた今夜の会場を下見してもどりました。

◆夜集会場に入ると、なんと受付で配布する資料をセットしている、貞兼さんと一枝さんがいるではありませんか。しかも集会が始まると、彼女たちがそれぞれチベットの実情の大事な語り部でした。私は今夜、チベットの青年(難民二世)と対談する女性から「シゲさんお元気でお変わりありませんね」と言われてしまいました。「どこでお会いしましたっけ」とお聞きして「ダラムサラですよ」。彼女は熱心に、セーブチベットの活動をずっと続けているのに、なんということ、赤くなってしまいました。

◆集会にも報道の人達が大勢いきています。これを機会にチベット問題たのみますよ。集会の後まだ熱気の残る会場で今夜の質問者に声をかけます、「あなたの発言よかったわ、善光寺さんがトーチの出発点を辞退し、弾圧されてるチベット人の法要を市民として喜んでいる、パネラーの皆さんから発言おききしたい。素晴しいと感心しましたよ」。若い女性は「上がってしまいました。そうですか、ありがとう」と明るい笑顔で。私も嬉しくなって帰りました。

◆4月26日 朝刊をみる予定でロビーに下りてきたら外では大きな赤旗がゆれ、「中国はひとつ」の叫び声が飛び交っています。道路いっぱいの人です、しかも次々と人と赤旗が集まってくるのです。とにかく善光寺めざして歩き始めました。善光寺の本堂前ではチベットの人達が並んでお経をあげています。本堂での供養も始まりました。チベット人の名前と年齢がよみ上げられ、いつまでも続きます。こんなに大勢の人かと無念の思いに体がふるえます。法要の後思い思いのプラカードを持ってトーチの終点まで、途中途中の大きな赤旗と叫び声に挑発されながら歩きました。

◆聖火リレーの終点に全員が集結した頃から、時々雨が降り風も冷たく、しんしんと冷えてきました。それでも全員が「チベットの自由」を、と約2時間、完全に聖火リレー集会が終わるまで立ち続け、訴え続けました。市民も入れない形だけのリレー集会の終わりでした。形だけ大きな赤旗と片や真摯な叫びを、世界中で見る人にはくっきりと見えたでしょう。聴く人にははっきりと響いたことを確信して、散会しました。

◆今までの私は、世の中が変わるということは形でない、数でない、ひとりひとりが変わることだと思っていました。今回の聖火リレーでは、均一の恐ろしさをしみじみと感じました。大きな赤旗で、数でおごり、迷いのない均一の恐ろしさ。いろいろな人達いろいろな生活と文化を感じられない、交じり合う楽しさを知らない、つぶすのも平気という恐ろしさです。これからの道は、交じり合う故に我あり、の道だと強く思いました。

 中国は ひとつの騒音 赤旗の 津波がおそう チベットの自由を

 チベットの 自由を僧侶を 帰せの列 民族服の 女性につづけり

 ふり回す でかい赤旗 でかい顔 でかい声だし 中国はひとつと


[空から見た海のゴミ━━小島あずささんの呼びかけに応えて] 

■小島さま はじめまして、Air Photographer の多胡光純です。341号通信「海岸はごみで大変」の記事読み、瀬戸大橋のロケで感じたこととつながりを感じてます。すぐに感想をと思い。

◆瀬戸大橋のロケは3月に行われましたが、事前に2度ほど瀬戸大橋を訪ね、いろいろと確認や調整ごとをしました。その時、点在する島々や無人の白いビーチがキーとなってやっとこの瀬戸大橋プロジェクトは成立すると踏み、撮影にGOサインを出しました(この時点では撮影候補の島への上陸はしてなかった)。

◆3月、ロケが始まりました。フライト直前の最終の点検(撮影地に新たなるワイヤー類の有無など)をすませるため、漁船で瀬戸大橋や対象となる島々を巡りました。島を遠目に望むと青い海、白いビーチ、黄土色の岩、そして緑のジャングルが目に映ります。これぞ瀬戸内海、これが決めのショットだ、と飛行ラインをあれこれ考えながら船での下見に意気揚々でした。

◆がしかし、だんだんと島に近づくにつれ、アレ、アレ、アレレ? 僕の目に映り込んだのは小島さんの仰る島に漂着したゴミ、ゴミ、ゴミです。コンビニ袋はじめ、ペットボトル、プラゴミ、空き缶、発泡スチロール製品、漁業装備などなど。さらには自転車、バイクまで。なんでこんなに。波打ち際にゴミが幅1m位の帯をなしビーチをブロックするように堆積しているのです。ゴミは潮の満ち引きに関係しているのでしょう。ゴミの帯が3重ぐらいにビーチを彩り、最後の一重はビーチとジャングルの境にでき、気合いの入ったゴミはジャングルの中深くまで入り込んでました。

◆ビジュアルが破綻している。撮影にならないと僕はガックシ。海に点在する小島や漁船を超低空でパスし、ビーチに進入、波打ち際を舐めるようにかすめ、そして海に向かいパンするとドーンと瀬戸大橋。といった、撮影プランがあっさり崩れたのです。せめて飛行ラインだけでもゴミを無しにと、場当たり的な発想でスタッフ総動員で拾い集めたりしましたが、その量は途方もなく、また案内してくれた船頭さんは「ゴミは毎日漂着するけん、無駄じゃ」の一点張り。

◆ここらへんには財団があるようでそこが定期的にゴミを集めるような話があったり、社会学習で小学校にゴミ拾いをお願いすると言った発想を持ち出す人がいたり。撮影を翌日に控え、僕らはゴミの帯を目の前にモラルと正義感と仕事とが絡み合った何とも言えない心境になりました。じゃ、他を撮影対象にと島を巡りましたが大なり小なりゴミはありました。ゴミが皆無な島はありませんでした。

◆船に揺られながらゴミのない空間なんて地球上に存在しないんだ、そんな心境に変わりました。瀬戸内海の島に漂着するゴミは島の西側にその大部分が漂着しているように見えました。それはこのエリアが西風がメインの土地であることと、潮の流れがそうしているのだということです。風の影響を受けない島の東側には人里が展開し、ゴミは比較的少なかったです。ゴミを拾う人がいるのと、風の関係だと思います。

◆翌日からの撮影は、ゴミのあるがままの状態で行いました。この空間はそんな一面も持ち合わせているんだ、と気持ちを入れ替えて。ただ、小島さんが仰るように八重山諸島をはじめ綺麗な海、いいなと思われる島はこんなゴミの現実も内包しています。実際、モーターパラグライダーで飛ぶと、本当によくゴミが見えますし、超低空ではしっかりとレンズを通して写り込みます。

◆最後になりますが、海があり、島があり、人の暮らしがあります。その空間と同時に展開しているゴミの現実はこうなんだ、ということを一連で表現することには、微力ながら賛同できることであると考えます。(2008年4月17日 多胡光純 出国前、乱文乱脈申し訳ないです。)


[多胡さんからの返信、励まされます]

■江本さま、多胡さま 思いがけず、多胡さんからのご感想をいただき、うれしい驚きでいっぱいです。地平線通信にごみのことなんて、場違いかなあと思いましたが、江本さんからのお誘いをいただき書いてみてよかったです。私も瀬戸内海沿岸には、何度か足を運びました。無人島へごみ調査で行ったときには、釣り人セット(=弁当・飲料容器・えさ容器)と生活ごみの山に唖然としました。瀬戸内の環境に詳しい方によれば、海岸の向きによって多少の差はあれどこも似たような状況だそうです。撮影にならないなあと、愕然となさった多胡さんのお気持ちは察するにあまりあります。

◆京丹後の網野町に、琴引浜という鳴り砂で有名な浜があります。人工構造物(テトラポッドなど)がほとんどなく、海岸が道路からかなり下がった位置にあって電線も見えないので、時代劇のロケ地としてよく使用されるそうですが、スタッフの撮影前の仕事はごみ拾いなのだとか。地元の守る会によって、頻繁にごみ拾いが行なわれていますが、瀬戸内の漁師さんの言葉どおり、毎日新たな漂着があるのでした。

◆環境省調査時の空撮では、セスナだったので高度がありすぎ、大きなものしか写らないですし、植生の中に入り込んだり、海岸沿いの斜面に吹き上がっているごみも写りません。海洋探査艇「しんかい6500」が日本海溝近くで、マネキンの首やスーパーのレジ袋が沈んでいるのを撮影しています。南極にも、大陸から1000キロ以上はなれた海洋島の海岸にも、ごみが。川を、船で水面からの視点で眺めると、川岸に張り出した木の枝にはレジ袋の白い花が咲いています。カヤックで無人島の海岸ゴミ清掃をしているボランティアもいるんですよ。

◆人の暮らしから出たごみですが、人の手が簡単には及ばないところにまで入り込んでしまいました。なんとかしたいと思いながら、決め手となるような解決策は見出せずにいますが、多胡さんからのご感想で励まされています。多胡さんが空から送ってくださる映像と、ご自身の感動のこもったコメントを、これからも楽しみにしています。(小島あずさ 4月20日)


[マダカスカルでの見聞−小島さんへの2信]

■小島さま 多胡です。マダガスカル島撮影より戻りお返事読みました、ありがとうございます。今回、僕が飛んだマダガスカルでは幸いにもゴミで撮影に悩まされることはありませんでした。むしろ、僕らが飲み干した空きペットボトルは、水を保管できる貴重な容器として子供たちから要求される場面に毎日遭遇しました。

◆こんなこともありました。空になった1.5Lのペットボトルをコーディネーター兼ドライバーのマダガスカル人は車の窓からポンポンと道ばたに放るのです。投げ捨てかと一瞬眉をひそめましたが、それは容器を必要とする人々への彼なりの心遣いだったのです。ところ変わり、扱い変わればゴミもまた生きるのだと。それでも土に還らないゴミほど厄介な物はないといえます。

◆といったところが帰国すぐのところの感想です。ゴミの現実を知ること、知らせることがゴミ問題への啓蒙、さらにはゴミを出来るだけ出さない生活につながると考えます。それでは、またです。(2008年5月6日 多胡 無事帰国しました。)


[300マイル子犬たちと走ってきました!]

■今、新潟の実家に居候中です。無事アラスカから戻りました。今年は4月に久しぶりに“TAIGA300”という300マイルのレースに出て、子犬をトレーニングしてきました。やっぱりレースは楽しくって、出てよかったです。1月からずっとビル(注:今年のユーコンクエスト出場者、昨年は同レースでビル氏が本多さんの ハンドラーを務めた)とクエストの準備やトレーニング、そしてクエストのハンドラーをしてきて、もうビルはお腹いっぱい、というくらいびっちり朝から晩まで一緒でした。しばらくあのじいさんの顔も見たくない頃の帰国で、本当に幸せです(笑)。

◆これからまたバイト生活です。そして来年クエストに挑戦します。ただ、どの犬舎に行くか、どの犬を使うのかでまだ悩んでます。ビルのハンドラーとしてセカンドチームの犬を無料で借りていくか、リック・スウェンソンあたりにお金を出して良い犬を借りていくか…。冷静になって一番良い方法を考えるにはちょうどいい距離があるので、秋までにあせらず考えてみるつもりです。(本多有香 4月18日)


《天空の旅人 マダガスカル島を飛ぶ》

■4月、僕はマダガスカル島を飛んだ。11年ぶり、今回は空から旅した(前回は探検部仲間と自転車)。単刀直入の感想は、「こんな空間があったのか!」と、上空で叫ぶいつもの決まり文句が、飛ぶやいなや出てしまう空間だった。何よりの証拠に、離陸して2分後にはREC ONし録画を開始。通常、離陸後はパラとエンジンの安全を確認し、シートポジション、カメラポジション、そしてアイリス(絞り)を決め、撮影対象までブーンと飛びながら適切な高度を選択したりと、録画まで20分〜30分は時間が経つものである。今回の撮影では対象が17km先にもかかわらず、それが飛ぶやいなやのレックオン。目玉に映りこむオレンジの土、グリーンのジャングル。原色の大地は色が飽和していた。撮影の詳細は5月31日放映の「空から見た地球 あなたの知らないこの星の奇跡」(テレビ朝日21時〜23時、僕はマダガスカルの空撮協力)をご覧になって頂きたい。要素の多い番組でどの空撮映像をどんな長さでチョイスされるか分からない。だが、一つ言えること。それは、今後僕が飛んでいく空間の大道はマダガスカル、そしてアフリカにガチッとシフトさせていきたいと考える。感触は掴んだ。白い翼と翼を操る本人が激しく飛翔する大地はアフリカにある、今はそう言い切れる。マダガスカル島縦断空の旅、アフリカ縦断空の旅、必ず実現させる。(5月8日多胡光純)


四万十ドラゴンラン報告

《山田高司と若者たちの挑戦》

 『流域にダムがない日本最後の清流』と形容されて全国に名を轟かした四万十川は、源流から河口まで196kmを四国の脊梁山脈を分水嶺に大きく蛇行して流れていく。かつて、その様を一望できる山の伐採場に腰を下ろして眺めていた男がいた。眼下には、四万十の川筋を埋める白い川霧が遥か源流まで大きく蛇行してさながら、巨大な白い竜が黒い大地に横たわっているように見えた。この白い龍身を頭から尻尾まですべて人力で踏破する体験を四万十の子ども達にやらせてみたい。この川の流れ行くさらに先、足摺で生まれ育った男は山田高司。地平線会議ではすでに幾度か登場している。

◆現在、四万十楽舎の運営の傍ら、ナイルの会や緑のサヘルの活動に手を染めている山田高司は、東京農大探検部時代の1981年、郷土の志士、坂本龍馬のごとくに大海の向こうに夢を描き日本脱出を果たした。帰国して郷里で四万十楽舎という野外教育の社団法人の専務理事となった山田が山仕事の折りに発想して生まれたのが『四万十ドラゴンラン』だ。

◆今春は通算3回目のドラゴンランだが、助成金なしで独力で実施する初めての企画となり、たまたま四万十川を愛する志しを持つものが集まって、『四万十ガイア自然学校』を立ち上げるタイミングに重なったために、この新団体の設立記念イベントというかたちで行われることになった。かくしてGWに5泊6日196kmのドラゴン体内を駆け抜ける計画が実行された。

◆参加者は山田の青年期からじつに30年の付き合いになるエモーンを筆頭に、50〜60代のタフな面々に連なり、最年少が香川大の女子大生。通常のイベントよりはおやじ連中は体育会的な顔ぶれが多いが、しとやかな女性もいて、ドラゴンランの肉体酷使度をちょっと測りかねた。私個人は体力調整などいっこうに出来ないまま、仕事に追われてこの日を迎えてしまった。

◆集合初日は源流となる江戸時代からの禁伐の山「不入山」登山。四万十の名所ともなっているせいか、林野庁が過剰な整備をしてすっかり公園風。「秘境」はなかった。ここを精一杯の想像力を駆使して、役人が人工的にする以前の秘境の姿をイメージ再生。日本はこうした風景が多すぎないか。

◆2日目3日目がMTBでのツーリング。計130kmを自転車で稼ぐ。上流域は小さな集落を縫って車もめったに出会わない道を行く。山あい、谷あいに数軒から10数軒の小さな集落が次々と現れる。現在、高齢化率50%以上の[限界集落]が全国に7873集落、近い将来消滅!する可能性のある集落が2641集落ある(国交省2006)。今、目の前に現れる集落は例外なく「限界集落」だろう。

◆ところが国交省のデータやマスコミのトーンで描かれる「限界集落」はさびれ、廃れたイメージだが、私がいま見ている集落はまったく違う。田畑の畦はきれいに刈り込まれ、生垣や花壇には季節の花が咲き競い、家々の敷地内にはゴミ一つなく整頓された様子が伺える生きた暮らしの姿だった。かつて日本のそこかしこにあった穏やかで、つつましい誇りある村の暮らしがある。くたびれきった「限界集落」というのは東京やその近郊の暮らしを言うんじゃないか。

◆いよいよ、4日目から四万十川にどっぷり漬かるカヌー下りとなる。昨年はエモーンが初っ端から沈をして伝説を作っていたが、今年はさて。往時と比して山が荒れて透明度がなくなったという四万十だが、上中流域はなかなか美しい。薫風に乗って流域を黄緑に染めつくすスダジイなどの花の香りが川面に充満し、夢のようなパドリングとなった。

◆ところで、ドラゴンランとは人力によるチャレンジ型のイベントのつもりでいたが、その素顔の一つは連日連夜の山海の珍味と酒宴であった。初日からエモーンカレーが座を沸かせたが、それに続くエモーン鍋、鹿肉、猪肉、干物、カツオタタキ、野草てんぷら、キノコ、ピザ、チャパティ、刺身etc、ここには書き切れない。さらに、乱入と称して、連夜、ご馳走を持ち込んでくれた地元のおいちゃん、おばちゃん、仲間たちとの語らい、四万十楽舎の歌姫みっちゃんコンサートなど、参加者とスタッフの体力の限界を試すかのごとき振る舞いには、深い感謝とともに脅威を感じたものだった。

◆さて、最終日の6日目。いよいよ海に出る。ところが下流域は潮のせいもあり、流れは上流に逆流している模様で、追い討ちをかけるように海風が強く、必死のパドリングに遅々とした艇の進み方だった。予定していた上陸地点は河口の内側で海まで出ない浜だったが、あいにく工事による立ち入り禁止に。全行程を撮影していたNHK四万十支局にとっても禁止地点への上陸では絵にならない。

◆幸い、山田隊長の下見で外海に出ることがOKとなり、みんなは盛り上がった。向かい風に抗してテトラポットの横を漕ぎきると、いよいよ海に出た!河口なので沖に持っていく力が強く、港の突堤を回って、浜に向かおうとする木の葉のようなカヌーは散々翻弄されつつも、ようやく次々と浜に向かい始めた。

◆さて、浜では6日間われわれのすべての世話をしてくれたスタッフたちとTVカメラが待機し、一艇づつ、波を越えて上陸する……はずだったが、浜で波に飲まれて沈する艇が続出。とりわけ、エモーンは沈した後も水面から顔を上げず、浜ではあわやと色めき立ったが、なんとトレードマークのメガネがバンドをしてたにも拘らず、波に奪われてしまい、それを探していたのだった。とにもかくにも全員無事に全行程を漕ぎきった達成感とスタッフたちへの感謝をこめて浜での乾杯となった。これを撮影したNHK氏は感激して、四万十ガイア自然学校のボラスタッフになる決意をしたらしい。

◆四万十の高知県幡多地域ではいま、エコツーリズムを通した地域興しが動いており、その核の一つがこの誕生したばかりの四万十ガイア自然学校だ。代表、副代表はともに地元出身の若き四万十のホープ、宮崎聖と岩本一男。彼らを支える強力なチームとともに、この新しいウェーブを見守っていこう。(広瀬敏通 ホールアース自然学校代表)


 四万十川で2年続けて元気な香川の大学生たちと会った。進路に悩みつつ2か月分のアルバイト代にあたる費用を何とか工面しての参加。小林天心、原健次氏らシニアも颯爽たるものだったが、若手の2年連続乱入は、チームを大いに盛り上げた。その頑張りぶりにエールを送るつもりで一言ずつ書いてもらった。(E)

[ドラゴンランで得た2つの財産]

 去年初めて四万十川で出会ったえも〜ん。去年、今年の2年間で計13日しか一緒に時間を過ごしていないのに、すっかり仲間になっていました。そのきっかけは全て四万十ドラゴンにあります。始めて参加した去年、当時大学3年生でした。

◆四万十ドラゴンランとは、「四万十川を源流から海に流れ着くまでを人力で、下っていこう」という企画です。人のスピードで、四万十川の流れを五感を使ってで感じることが出来るのです。そこには普段の生活では決して触れることのない世界が広がっています。一週間かけて川を下るということ自体が壮大で、普段の生活を忘れてしまうワンダーワールドでした。1年目は帰宅してからも1週間はドラゴンボケなる余韻に浸っていました。ドラゴンランでは1週間の経験と、さらにそこでの人脈という2つの「財産」を私は手に入れられたのです。

◆そして一年、大学4年生となり、大学院進学について他大学を受験したいけれど、行き先を決めきれず、頭を悩ませていました。そこに今年もドラゴンランのお誘いがかかりました。当初は参加を悩みました。しかし、前回の経験から今じっと悩んでいるよりも参加したほうが何かが見えてくるはず、もし進路について何も開けなくとも、これから先の人生において必ず財産となる「何か」を得られると結論を出しました。

◆そして、やはり、素晴らしいモノを秘めた参加者の方々、スタッフの方々、そして企画と出会いました。四万十川に乗って、川の話、何でもない話、真面目な話、皆で歌ったり、時には自分の世界に入って考え事をしたり…。とにかく触れ合うことが刺激でした。ドラゴンランのメインはその企画だけではなく、その中で触れ合うもの全てが醍醐味なのです。そして、スタッフの方々の柔軟な対応で、その年での自分たちの「ドラゴンラン」を組み立てることが出来るのです。

◆四万十ドラゴンランを軸にいろいろな人が触れ合って、その和が広がっていっています。その証拠に、去年よりもドラゴンランに対する差し入れが多い! 2年連続いじられキャラ…いや、アイドルえも〜んともこうして知り合うことができた四万十の縁。これが一番素敵なものだと思います。(うめ こと山畑梓 香川大学農4年 木質生化学専攻 日々、未知との遭遇チャンスを狙って常にアンテナ張っています!)

[思考がマイナスに傾いた時は、ドラゴンランの事を思い出します]

 エモーン!! お元気ですか? 私は今、教育実習の真っただ中です。二日後に理科の授業をします。朝の会や帰りの会の話でさえたどたどしいのに、授業なんてできるのかな…。思考がマイナスに傾いた時は、ドラゴンランの事を思い出します(特にエモーンのメガネ海底失踪事件)。思い出して、一人でニヤッとしています。

◆2008年のドラゴンランには、参加するかどうか迷っていました。参加するには就職活動、研究室、バイトなどを休むことになるので、いろんな人に迷惑をかけます。決心がつかないまま、申し込み締切ぎりぎりの夜、ウメクエコンビでみっちゃん(注:四万十楽舎事務局長・歌姫)に電話で相談しました。電話をかけたところ…既に参加登録されていました。さすがみっちゃん!! 行くしかないと思いました。

◆前回の参加者、スタッフのみなさんと感動の再会を果たし、私のドラゴンランは始まりました。今回の参加者さんたちも、キャラクターの濃い〜! ダンディー! キューティー! な人たちでしたね。毎日おなかが痛くなるくらい笑っていたと思います。四万十川とドラゴンランのメンバーには本当に癒され、元気づけられました。

◆カヌーはやっぱりいいですね。自分が四万十川と一体になるような感覚は、自然に生かされているということを実感します。カヌーを漕ぎながら、いままでの自分を振り返ってみたり、エモーンを始め人生の先輩方に自分の悩みを聞いていただいたりしました。かけてもらった言葉一つ一つが、今の私を動かしています。

◆最終日。カヌーで太平洋に投げ出されたとき、感動の中にワクワクする気持ちと不安な気持ちが揺れていました。今の自分の状況に似ているかも知れません。やってみたいと思う気持ちと自信の無さが、行ったり来たりしています。まだまだ悩める21歳ですが、自分の枠を決めずに頑張りたいと思います。でも凹みすぎたら四万十にいくぞー!! その前にウメと東京行きを計画中です♪ またお会いできることを楽しみにしています。(クエこと水口郁枝より 香川大学農学部4回生 「ドラゴンラン・キューティー」。ちなみに「ダンディー」に選ばれたのは広瀬敏通氏)

「海はどこにありますか?」

 GWに突入しようとする4月下旬、私は高知発須崎行きの鈍行列車に乗っていた。今日から、四万十川196kmを源流から河口まで徒歩、自転車、カヌーを使って制覇するというドラゴンランに挑戦するのである。もともと体を動かすのが大好きな私は、ちょっとしたきっかけでこのアドベンチャーの開催を知り、速攻で参加することを決めた。また、全国的に最後の清流といわれている四万十川の現実をこの目で見てみたかったということもある。

◆どんな人と出会えるのだろう、体力は大丈夫だろうかという楽しみと不安の入り混じった気持ちでワンボックス席に座っていた。鈍行列車ということもあり、乗客はまばらで、窓の外は静かな田舎の風景が続いていた。須崎にもうすぐ着こうという頃、ある駅で8分間の停止があった。一人の乗客が列車から降り、プラットホームで何かを探しているようにあたりを見回していた。誰かに似ていた。

◆乗客は再び列車に乗り、車掌に「海はどこに見えますか?」と尋ねた。私は耳を疑った。しばらく沈黙があり、再度その乗客は「海はどこにありますか?」と尋ねた。車掌は困惑したような声で「え?海はここからは見えないですよ」と答えた。その後の2人の会話はよく聞き取れなかったが、乗客は少しがっかりしたような様子で席に戻ってきた。標準語だから観光客なんだろうな、こんな所で海なんか見えないのに…。ん? まさかね…。この時、少しだけ何ともいえない予感がした。

◆再び、列車が走り出した。すると、その乗客が今度は携帯電話で話し始めた。間違いメールを送ってしまったと、焦った様子で、しきりに同じことを繰り返していた。どこかに海を見ながら旅している、と送信してしまったらしい(後で知ったのだが「予定稿」というのだそうだ)。

◆須崎駅に着いた。列車から降り、お手洗いを済ませ、集合場所に向かった。すると、そこには例の乗客がいた。私の予感は的中した。これから4日間行動を共にすることになるムツゴロウ似の「えもーん」こと江本嘉伸氏との一生忘れられない出会いだった。(河野裕子 高知県の川の現状に心を痛めているはちきん)

注:初めて四万十に行った時、左手に海を見ながら電車で行った印象が強く、須崎までに見えるだろう、と勝手に思い込んでいた。須崎港はすぐ近くだし。にしても、そんなやりとり見られていたとは(汗)…。(E)<はちきんは、いごっそに対する土佐の女性の呼び名)

[鷹匠日記]

「ミズナラの巨樹に眠るクマよ、来年も再来年も会いに来るぞ」

■里では道端にもうフキノトウが出始めているというのに、この標高が1,000m近くもある森の中はまだ1m以上の残雪に覆われ、樹々の芽ぶきもまだまだ先のようだ。

◆ここはコマクサの群落で有名な秋田駒ケ岳連峰の北にそびえる乳頭山(1,477m)。天気は快晴で風もほとんどなく、朝からクマタカのヒノト号と狩りのため山に入ったのだがまだ獲物の気配すら感じられない。この森は太いブナの原生林が広がり、降雪量も多いため小さな雑木や笹ヤブは雪の下敷きになり、タカにとっても見通しのきく絶好の狩り場となるのだが、2時間以上歩いた時点でも古いウサギの足跡がわずかに残されていただけで他の動物の足跡もほとんどない。

◆月山でも今年はウサギが少なかったがこんなほとんど人の入らない山奥でも動物は減っているのだろうか。わずかにコガラやゴジュウカラがブナの枝を渡り、タカの仲間のノスリが頭上に飛んできて旋回していったがヒノト号は全く関心を示さない。一度だけ獲物に対する反応を残して手から飛び立ったが、それは沢沿いの急斜面を横切っていた私の足元からくずれ落ちた雪玉が丁度ウサギが逃げる時の真白なお尻のように見えたからだ。

◆がっかりしながら高い木の枝に止まったヒノト号を呼び戻し、再び雪に覆われた谷や小沢を注意深く獲物を捜して歩く。昼近くなりかなり高くまで登り、そろそろブナ帯からアオモリ トドマツの亜高山帯に移ろうかという時、前方の斜面の雪の上に残された大きな足跡に私の目はくぎづけになった。「クマだ!」一瞬にして判別したその足跡は私の手の平をふたまわりほど大きくしたもので、くっきりと爪の跡までついている。まだ新しい。しかも大グマだ。

◆思わず緊張し周囲を見回してみたが、まだ芽ぶき前の見通しのいい森の中はただひっそりと静まりかえっていた。足跡から判断して夜中か早朝に歩いたものに違いない。私はためらうことなくこの足跡を追いかけてみることにした。これまでもクマの姿や足跡を見つけた時には、必ず追いかけて観察を繰り返してきたがこれは私の本能みたいなものだ。日本の唯一の猛獣といえるクマは私にとってどうしても会いたい特別な存在なのだ。

◆武器といってはいつもタカ狩りの時もっていく山刀(先の尖ったナタ)しかないのだが、ヒノト号ももしクマを見つけたらその素晴しい視力で私に教えてくれるに違いない。足跡は丁度人間が歩いたような歩幅で谷を渡り、少しずつ上の方に向かっている。ブナの木に登って新芽でも食べていないかと前方の木にも注意しながら追いかける。1時間近くも追跡しただろうか。クマの足跡が高い尾根に向かっているのに気付き、尾根を越えられたらもうあきらめて本来のタカ狩りにもどろうと思っていた。しかし足跡は尾根に登る手前のゆるい傾斜面に立つ一本の大木に向かい、それからその大木の周りを半周してからその木の根元の雪の上で消えていた。私は念のため木の周りを一周してみたが、足跡はそれ以外周辺の雪のどこにもついていない。クマはその木に登ったのに間違いない。それは直径が約80cmほどのミズナラの大木で、よくみると幹が地上から5m位のところで空に口を開けてぽっかりと空洞になっている。さらに注意してみるとミズナラの堅い樹皮にもわずかだが登ったような爪跡があり、空洞になっている穴の入り口にもクマがかじったような跡がある。偶然にも私はクマの冬ごもり穴を見つけてしまったのだ。

◆私はクマが穴から飛び出てくるかもしれない危険も忘れて、そのミズナラの幹にそっと触れてみた。この幹の中、ほんの数十cmの近くにクマがいる。それは私にとってゾクゾクするような嬉しさだった。

◆乳頭山の山奥深く、ブナの原生林が広がるミズナラの樹洞の中で長い冬を過ごす野生の命。これまでもイヌワシと並んで最強の猛禽である野生のクマタカとヤブに隠れてわずか20cmの距離で向きあったことがあるが、その時に感じたのと同じような不思議なときめきと激しい喜びが体中を突き抜けていた。

◆その後静かにそのミズナラから離れ、樹洞がよく見えるように斜面を少し登り、30m位離れた所に横たわっていた倒木に腰をおろして1時間ほど観察を続けた。その間にクマは樹洞から出てくることはなかったが私は十分満足だった。またこのミズナラに来年も再来年も会いにこよう。そしてこのミズナラもクマもこの森で長く長く生き続けてほしいと強く願った。

◆その後再びタカ狩りを続け、大分山を下った谷の斜面でヒノト号が毛変わりを始めたばかりの大きなウサギをつかまえ、この日は私の人生の中でも忘れられない一日となった。(松原英俊)


[見事なウサギ!!狩猟本能全開の生き物たち−鷹匠の狩を追って]

■自然と自分との関係に限界を感じ始めたのはいつからだろうか。無雪期の登山道を行くお気楽単独山歩きを始めて15年。山への憧憬は変わらず蓄積された風景はただただ美しい。だが自然はもっと厳しく無慈悲であろう。が、一歩踏み出す勇気もない。そんな時、以前から存在自体が気になっていた鷹使い・松原英俊氏を訪ねてみた。自ら一匹のケモノのように山野を歩く氏の世界を覗いてみたいと、月山山麓雪洞泊まりの狩りに同行させていただいた。

◆雪洞を取り巻く森には様々な鳥が息づいていた。音楽的なドラミングの余韻を残していったキツツキ、飛行と急降下を繰り返し求愛を成功させたノスリ、闇に溶け込むふくろうのつぶやき。遠くから感じるだけの野生は抽象的でロマンティックである。だが私は背後に潜むむき出しの野性にずっと緊張していた。今宵は鷹とひとつ屋根の下で眠るのだ。しかも放し飼いの状態で。

◆恐る恐る雪洞内を覗くと、ろうそくの灯りに照らされた雌クマタカ「丁(ひのと)号」がじっとこちらを見据えた。広い森で見た時より随分大きく見える。180度回転する首をしきりに動かして獲物を追い、腹をすかせてビービー金切り声を上げていた姿とは対照的に置物のように静止していた。暗さと狭さで活動しないのだという。私と鷹の緊張関係は依然変わらないのに距離だけがぐっと縮まる。鷹に足を向けて眠る、とてつもなく不思議な夜だった。

◆翌朝目覚めると度肝を抜かれた。なんと鷹の首がない!見たこともないが恐竜の卵のような姿だ。熟睡した鷹はやや膨らませた羽の中に頭を仕舞い込む。片足も上げて一本足で眠る。しかも起き始めはその状態のまま腹に力を入れて鳴くものだから、巨大な卵が呼吸しているかのような異様さ。翼を広げた勇姿とは裏腹のものぐさな格好に愉快になった。

◆今日こそは鷹の勇姿を見て収穫の時を迎えたいと期待をかける。それにしても前を行く氏の歩みは片手に鷹を据えているにも関わらず速い。高所から見下ろしうさぎの足跡に目を凝らす。鷹は人の8倍の視力としなやかな首で辺りを見回す。狩猟本能全開の生き物たちだ。小高い丘で別れ、私は杉林の下へ降りて勢子をすることになった。「ウリャウリャウリャッ!!」。木の根元に潜むうさぎを驚かすため奇声を発して巻き上げていく。何度か試みた後で先の丘に登るが氏の姿がない。遠くから聞こえる声を頼りに近づくと好物の果物をほおばっていた。傍らの鷹は羽を大きく広げて肉をついばんでいる。まさか…。「肉にひもがついてるだろ」。おとり用の肉と知り、がっくり肩を落とした。

◆しかし次の瞬間、氏がザックから取り出した白いものに釘付けになった。「大物だぜ!!」。手渡されたうさぎはずしりと重く、純白の毛が日の光に輝きながら宙を舞った。「今まで逃げ延びてきたからここまで大きくなったんだ」。身体の大きさは勝者の証し。ついさっきまで躍動していた命が絶えた哀しみをふと覚えた。目を転じると近くに大きな穴が開いている。

◆ことの顛末はこうであった。私が下山した直後、鷹は反対側の斜面に獲物を見つけ飛び立った。最初の攻撃に失敗して木に止まり、その後2度に渡って飛びかかったという。すばしこいうさぎはうまくかわし、結局雪の中に潜ってしまった。鷹の負けである。ところが獲物を見てしまったもう一匹の狩人が許さない。スコップを取り出し掘りまくること半時間。ついに手中に収めたというから脱帽だ。しかし本番を逃した悔しさから「2対1は不公平」と抗議するも「終わりよければ全てよし」と満面の笑顔を見せるだけ。なんたって今期初の収穫だから喜びもひとしおである。こちらもうさぎ汁にあやかるべく東京への朝帰りを決めた。

◆下山途中に分厚い皮グローブをはめて「据え」を体験させていただいた。一晩を共にした鷹への愛着からではなく、逆にどんなに怖いか感じてみたかったのだ。据えてみると案外大人しい。だがすぐにむき出しの野性を感じた。人の交代にはおかまいなく、飢えた目で獲物を追い続けている。嘴にはついばんだばかりのうさぎの毛と血が生々しく付着していた。野生動物の置かれた厳しい環境への絶え間ない緊張感がひしひしと伝わってきて、どう関わっていいか分からず心安らかになれない。数分もたたぬうちに手がしびれてきた。この生き物と目的を同じくして山に分け入る氏の世界はやはり計り知れない気がした。

◆仕留めたうさぎは3,380gもあり、氏にとって歴代2位の記録となった。玄関先での吊るし切りは滑らかな刃さばきが見事だった。ロースやレバーは刺身、臓物や足、皮を除いたブツ切り肉はウサギ汁となって食卓に並んだ。初物を前にご家族の顔もほころんでいる。刺身はあっさりしていて臭みがない。大根・豆腐・ねぎを加えてみそ仕立てにしたうさぎ汁はいいだしが出てとてもおいしかった。氏おすすめの脳みそも口に含んだ。鷹狩りへの同行は、美しさとは違う、緊張感と野性味あふれる記憶を私に与えてくれた。(横浜市 杉原まゆ 松原さんの狩に07年9月以降4回にわたり同行、ロシア関係の旅行会社勤務)


[その後報告――ウルドゥー語文化交流活動]

■地平線通信338号(2008年1月号)で予告したとおり、3月15日から4月5日までの3週間、「インドでの新たなる文化交流プロジェクト」の基礎を築くべく、大学院生と卒業を控えた学生を連れて調査旅行に出かけてきた。

◆今回の旅のそもそもの始まりはというと…2006年12月、アメリカ発のとあるメーリングリストで、インドの女優シャバーナ・アーズミーから流されたアメリカでの舞台公演案内を読んだことだった。演目は「カイフィーと私――カイフィー・アーズミーとショーカット・カイフィーの言葉で」。さっそくインターネットで検索するとWebサイトがあった(www.kaifiaurmain.com)。シャバーナの父親で詩人のカイフィー・アーズミーの詩とその妻で「私」ことショーカット・カイフィーの自叙伝をもとに作られた舞台だ。

◆カイフィー・アーズミー(1918年−2002年5月10日)のプロフィール。詩人、ヒンディー語映画挿入歌の作詞家。社会主義に夢を託した進歩主義詩人でインド共産党員。「私は隷属状態のインドで生まれ、独立した世俗国家インドで生き、そして、神が望めば、社会主義のインドで死を迎える」と常々語っていた。妻のショーカットの自叙伝「想い出の小路」はウルドゥー語で著された作品で、2006年にニューデリーで出版されている。この舞台、2006年5月9日の初演からこれまでに、インドはもとより北アメリカ巡回公演など世界各地で計40回も上演されている。僕がすぐに読んだのはパキスタン版。これが去年2月のこと。

◆読み始めたら止まらなくなり、一気に声に出して読了した。著者の60年前の「恋物語」部分が圧巻。旧習にとらわれない自由な考え方が今の時代でも新鮮だ。昨年度のゼミの1コマでこの自叙伝を読むことに決めた。印パ分離独立前後の政治・文化背景のもと演劇界や映画界について詳述されている。内容がおもしろいので、夏休みには院生と日本語に訳す(神が望めば、今年7月までには研究室から刊行予定)。

◆当然のことながら、翻訳作業の最中に疑問点が数多く出てきた。特に食べ物を中心とした事物。それも半世紀前の事物だ。それに、著者ショーカット・アーパー(アーパーは姉さんの意)から翻訳許可も正式にもらわなければならない。調査旅行の名称は「カイフィー・サーハブの足跡をたずねて」。カイフィー・サーハブの故郷の北インドはウッタル・プラデーシュ州アーザムガル県ミジュワーン村やその他のゆかりの地、カイフィー・サーハブの名前が冠された道路や公園などもくまなく訪問する計画を立てた。

◆そして年末、あることに気がついた。これが調査旅行の2つ目の目的となった。例年、「外語祭」では各専攻語の1年生が料理店を出し、2年生が語劇を上演することが伝統となっている。ウルドゥー語専攻も本格炭焼きカバーブを提供する。そこで得た純益はこれまでもさまざまなNGOに寄付してきた。しかし、どれもウルドゥー語に直接関係したところではなかった。そこに現れたのがカイフィー・サーハブがミジュワーン村で立ち上げた「福祉協会」。年末に「ここだ!」とひらめいた。外語祭での料理店は毎年必ず開店する。純益は毎年必ずあがる。なら、毎年この福祉協会に寄付しよう。

◆こんなことを僕は夢想している。毎年、ウルドゥー語専攻の学生が北インド各地を旅行しながらミジュワーン村を訪問し、福祉協会がおこなっている縫製・刺繍教室、コンピューター教室、女子カレッジなどを見学し、寄付金を届けると同時に、同時代を生きる若者として何をなすべきかを考える。言語学習、異文化理解、そして国際協力。これらをどう結び付けるかは、今後の学生たちの腕の見せ所だろう。理論よりまずは行動を、と訴えたい。

◆そして今年の3月5日、シャバーナ・ジーからの返信メールが届いた。面会も可能で、ミジュワーン村での宿泊も可能とのこと。予定どおりミジュワーン村のカイフィー・サーハブ宅に泊まり、多くの関係者に面会できた。初回の寄付金は微々たる金額で恥ずかしい限りだったが、シャバーナ・ジーからは「その心(emotion)が大切」との言葉をいただいてきた。カイフィー・サーハブの詩全集の名前を冠した急行列車「カイフィヤート」号にも2駅間30分ほど皆で乗車してきた。

◆よくよく考えてみると、カイフィー一族とは以下のようなつながりができるのではないかと思う。詩人カイフィー・サーハブの文学と社会活動を通じて、その妻ショーカット・アーパーの映画と演技(日本でも上映された「踊り子」「熱風」)など)を通じて、その娘でインドを代表する女優シャバーナ・ジーの数々の映画と演技を通じて、その夫君ジャーヴェード・アフタルのウルドゥー語による映画挿入歌の作詞を通じて、東京外語大ウルドゥー語専攻がつながる。そう、言語、文学、映画、音楽がうまく結びついた。異文化を理解する上で欠かすことのできない要素だ。さて、次の冬か春、誰が寄付金を届けに行くのだろう?(麻田 豊)


「一等三角点には座るな、タッチせよ」

■2004年12月、元日本山岳会会長齋藤惇生氏から「江本さんを京都北山へ案内して欲しい」と電話があった。江本さんとの初対面は、その京都北山だった。どんな方か全く知らなかったが、後で知ってびっくり地平線会議と言う組織の代表者のエライ人であった。その時北山を案内し、今西錦司ゆかりの山小屋で囲炉裏を囲みひと時を過ごした。

◆明くる年の11月、再び京都で山行を共にした。その時は、京都の西に位置する愛宕山、龍ヶ岳、地蔵山に登り、祇園の山屋の溜まり場で山の四方山話に話が弾んだ。その内容は地平線通信313号に江本さんが書かれている。

◆日が経って、今年の2月に通信費を送ったとき「一等三角點研究會」の大将になったので、今年は精を出して一等三角点にタッチしますとチラッと書いたら、「大槻さん、いっぺん“三角点”のこと書いてください」と。三角点は好きやし「ほな、短こてええのやったら書きまっさ」と、言うことになりました。

◆で、「三角点とは何ですネン」と問われたら「位(くらい)はあるし戸籍もある四角い石を三角点と言いますネン」と、まず答えます。山に登ると、よく山頂で見かける20cm程頭を出している四角い石である。時々、登ってみたがどこがテッペンやねん、と判らん時がある。今は、エベレストでも頂には捧のようなものが立っているらしいが、山頂の印とは何だろうと疑問を持つ人はあるだろう。地図を見ると、全部ではないが山の高い所に△の中に・が入っている印がある。その印が三角点なのだ。

◆では、三角点は何の為にあるのだろうか。ご存知の方もおられるでしょうが、これは地図を作る為に三角形の1辺の両端から目指す地点との角度を求めて、他の2辺の距離を計算して三角形を形成した場所に、四角い柱石を設置された物である。真上から見ると十字の形が刻まれて、その十字の中心が経緯度と高さを表しているのである。

◆基本的には、南面に等級が左書きに、その下に「三角点」と縦に彫ってある。これが三角点なのである。関心ない人にとっては、山の上で休むのにちょうどお尻を下ろすのにいいものかも知れない。

◆では「位」とは。三角点にはまず、一〜四等の等級があり、更に御影石(花崗岩)で作られた柱石は、等級により大きさまで違うのである。一等は18cm角、二・三等は16cm角、四等は12cm角となり、等級が下がる程小さくなる。そして設置されているところは、まず、日本経緯度原点から一辺が45kmの間隔の三角網を一等三角点に、一等の補点を25km、次に二等8km、三等4km、四等2kmの間隔で、全国を次々に三角形で網の目のように設置しているわけだ。ちなみに一等三角点は、972点あり二等5,062、三等32,423、四等68,616と全国に107,073点(2008.3.31現在)もある。

◆こうしてみると一等三角点は数も少なく、相互間の見通しの利く見晴らしのいい高い山や独立峰、例えば前穂高岳・木曾御岳山・伊吹山等にあることがわかる。しかし、45km〜25kmが見通せるということから、必ず高いところばかりとは限らず、琵琶湖の湖岸にもあるし、東京の町のど真中には東京原点もある。一番高い一等三角点は富士山でなく、南アルプスの赤石岳にある。と、言うことで三角点には、等級があり大きさの違いがあり数が違う。一等三角点には一等なりの「位」があるのだ。

◆次に「戸籍」のことであるが、それぞれの三角点には『点の記』というものがある。A4版の横書きに書かれているそれには、こと細かに三角点の生まれた年月日から土地の所有者、誰がそこの場所を選び三角点の石を何時埋めて観測したのかという、人間と同じように戸籍とでも言うべきものが一目瞭然に判るように記されている。

◆記載されている項目を列挙すると、1.点名2.図名3.冠字選点番号4.標識番号5.所在地・地目6.所有者7.測標の種類・埋設法8.選点・選点者9.造標・造標者10.埋標・埋標者11.観測・観測者12.自動車到達地点13.歩道状況14.徒歩時間(距離)15.三角点周囲の状況16.その他17.備考18.要図であり、枠外には調整年月日と多岐に亘っている。

◆ひとつ北アルプスの前穂高岳一等三角点の「点の記」を例示しよう。主なものを拾い上げると1.穂高岳2.1/20万高山1/5万上高地3.館 第7号4.長野県安曇野郡安曇野村大字上高地字横尾ヨリ上堀?4969番地・山林6.林野庁(長野営林局・松本営林署)8.明治26年8月1日・館潔彦10.明治28年10月11日13.登山道(幅1.0m)(河童橋〜岳沢ヒュッテ〜紀美子平〜前穂高岳)14.約5時間(6.5km)調整平成6年12月15日と記載されている。

◆これを見ると、既に明治28年に三角点が設置されたことが判るし、その頃は今のように山名も奥・北・西・前穂高岳と呼ばれていなかったのが「点名」が穂高岳となっていることからも読み取れる。こうして「点の記」を知るとその山の歴史を別の角度から知ることが出来るのである。

◆昭和52年に山岳小説家の新田次郎が『劒岳・点の記』を著してから、それまでマニア以外知られていなかった「点の記」について、どういうものかが知られるようになった。これが、近く映画化されると言うことで私としては上映されるのが待ち遠しい限りである。

◆世間にはいろいろな熱中マニアがいるもので、972点ある一等三角点を959点登っている人がいる。残る13点は、無人島8点と自衛隊の演習地1点あと北海道が4点で今年中に10点を目指したいと。「一等三角點研究會」という私の會の山形歳之さんである。日本で一等三角点を一番多く登っている人である。《大槻雅弘 京都住人》


[ミャンマーのマングローブ植林仲間に支援を!]

■すでにご承知だと思いますが、5日のサイクロンはもろ我々のマングローブ植林対象地(行政区としてボガレ・タウンシップに含まれる)を襲いました。幸いいまのところ関係者の人命被災の報は入っていませんが、対象地への出入りに際してボガレでいつも1泊する森林局のゲストハウスも、活動の基地とするためオポクインチャンに我々が建ててフルに利用されていたステーションも、修復をサポートした学校も倒壊したようです。

◆調査研究基地兼エコツーリズム受け入れ拠点として建てたビョムウエーのステーションの屋根も飛んだらしいとか。われわれの植林プロジェクトに参加している村々の被害はまだ見当もつきませんが、劣化しているにせよ、植林にせよ、ほとんどがマングローブや陸生の林やヤシ林の中にあるので、マングローブをはぎとって水田化してしまった地域に比べて人命の被害は案外少なかったのではないかと希望的観測をしています。

◆といっても全域が海抜ゼロメートル地帯です。しかもサイクロンの中心が海岸線より内側を東進しました。南寄りの風と気圧低下で異常な高潮に襲われ、人家も舟も家畜も食料も水もまともな状態で残っていないことはほぼ確実です。幸いボガレタウンシップのうちマングローブが残存する地域は国有林であり、したがって森林局が強い管理権を持っており、カウンターパートであるNGOの FREDA(Forest ResourceEnvironment Development and Conservation Association)は森林局と協力しながら村々の社会開発としての植林活動を推進し、そのための組織とシステムを作ってきています。

◆だからヤンゴンにもボガレにも現場の村々にもささやかながら信頼できる仲間と規律がある。きっと救助や復旧に手を貸すことができると思うのです。ということで、ACTMANGも出せる資金の用意をしていますが、それではとうてい10年間近くの施設投資の復旧にも及びません。支援募金の窓口を用意しましたので、よろしくお願いします。文中のDr. MMTは元森林局職員、元FREDAスタッフ、ACTMANG現地スタッフで、横浜国大の持田教授のところで博士号を取った、現場でスタッフや村人たちから一番信頼されているわれわれのプロジェクトの要の人材です。また現地との連絡役をしてくれている大野君は現在横浜国大で勉強中ですが、国際マングローブ生態系協会職員で、ミャンマーのマングローブの研究でマスターとドクターを取った仲間。なお、向後は中国旅行中でまだ不在です。(宮本千晴 5月8日)

★郵便振込み
名称:マングローブ植林行動計画
口座番号:00130-2-561776
連絡先:03-3373-9772

To: "C.Miyamoto"
Sent: Thursday, May 08, 2008 11:31 PM
Subject: Re: Are you safe ?

Dear Miyamoto San,

Thanks for your mail. Ohn San, Win Mg San and I myself still survive.
Our FREDA/ACT staff also survive. But, their properities such as house, boat etc; were lost. Kindly help our people as much as you can.
We need our Japanese friends's kind donation, whatever it is.
People face with a lot of trouble for the moment.

I will go to project area the day after tomorrow for saving our people.

Our Project offices in Oakpo and Byone mwe were destroyed by storm.
Our plantations also were destroyed. I am investigating the situation.

Later I will tell you. Bye for now.
Take care.
regards,


[浜比嘉便り]

「沖縄はうりずんの季節です」

■はいさい、島のあちこちで可憐な月桃の花が咲き始めました。沖縄はうりずん(注:旧暦2月から3月にかけての季節をさす言葉。春が終わり夏の到来を知らせる)の季節、もうすっかり夏の日差しです。そしてまもなく梅雨入りです。

◆ゴールデンウイークは清明祭も重なり島はとてもにぎやかでした。清明祭とは、親族がお墓にご馳走を持って集まり先祖供養する日です。ふだんは一人暮らしで仏壇を守っているおじいおばあの家に、この日は各地から子供や孫がたくさん集まりみんなでピクニック気分で墓に出かけます。墓は山の上とかにもあるので、この日ばかりはヤギたちは放牧しないでおきました。天気がいいのに外で遊べずヤギたちは不満気味でしたがね。

◆ゴールデンウイークには久しぶりにカヌーツアーの仕事も入り忙しくしてました。カヌーで無人島に渡り一泊するツアーです。いつもはうちは日帰りツアーが担当なので、久しぶりの一泊ツアーです。ヤギたちの世話は私が担当、昇は夕飯と朝飯の食材に鍋や食器、ハンモックテント、水などをカヌーに積み込みお客さんを連れて漕ぎだしていきました。ゆっくり漕いで約一時間で無人島に到着です。浜比嘉島の海もきれいだけど、無人島に行くと全然違うのです! 昔は人が住んだこともあったらしいですが、今は実は自衛隊の演習地。でも浜で遊ぶぐらいはノープロブレム。昇は得意の焚き火で料理の腕をふるった模様。翌日無人島から戻ったお客さんたちは牧場でやぎたちと遊び、海も山も楽しかったと帰って行きました。

◆さて、いつも牧場の話ばかりですが、浜比嘉島のウリはやはり海! めちゃきれいですよ! 今はモズクのシーズンで、ちょっと浜に行けばどっさり採れます。モズクが終わると今度はウニのシーズン到来です。沖縄の「シラヒゲウニ」デカいし美味い! 本当です!ハーリーの時には食べられるかも? ハーリーは海人の祭典です。3位までには賞金も出るよ!(無理だろうけど)めちゃ燃えまっせ! 地平線チームでエントリーするからね〜! 皆さんぜひお越しください!

◆追伸:一昨日(10日)、馬に乗りに来た東京からきた女性、なにげなく話していたら、この間地平線会議に行ったそうです。報告者は松原英俊さんだったそうです。浜比嘉島は去年秋にも来て、浜比嘉ファンになったんですって。私と地平線がつながっていること知らないで行ったそうです。さらに今年秋に浜比嘉で大集会あると知り、とてもびっくりし、また嬉しがってました。河田留奈さんという方、報告会にまた行くと思います。(浜比嘉島 外間晴美)


[地平線通信からもらった元気]

 江本さま こんにちは。お疲れ様です。いつもいつも通信を読ませて頂いております。いつだったか…。私、江本さんに「通信の発送を止めてください」ってお願いしたことがありました。が…。私(手紙)ことを無視しているように、ずーっ、と送られてきています。

◆とても大切だった主人と離婚して1年になります。離婚の話がでてから約4年になります。娘が1才になったばかりの時の離婚話…。納得できず、心が決まらず、決心するまでに3年たちました。今は母、娘2人の生活です。離婚を決心したのは1年前。私が子宮ガンで手術をした時です。子供(当時4才)を残して死にたくない。せめてあと5年…、いや…、なんてパニック状態でした。が、彼にはもう精神的に頼れなかったのです。

◆子供が産まれる前は、よく山に登ったり、外国に旅に行きました。皆さんのような素晴らしい旅ではないけれど、楽しかったのですよ。今、娘との生活、娘もたくましく生きてくれています。最近になって、元気がもどってきました。ずっと読んでなかった地平線通信をひっぱり出してきて読んでみましたら、さらに元気がいただけました。

◆山田高司さんの「命のアンテナを磨く旅」や「夏帆さんハタチ」の河田真智子さんのことは今の私に元気をくれました。シール・エミコさんの「1月は心が沈む…」は、私も子宮ガンを1月に手術したり入院したりだったので、よーく解かります。今生きていることが、キセキ…。そう思って仏様の教えにも耳を傾けています。

◆いつだったか、通信を江本さんが止めてくださっていたら、私は今のような元気になれなかったかも。顔を合わせたことのないみなさまとこの通信でつながっていることが、今、喜びです。止めないでいてくださった江本さんに感謝です。今後も元気パワー、いただきます!! 生活が変わり、いまだパソコンさえ買えずにいます。メールはできませんので、手紙でお許しください。通信費同封します。たぶん4年分くらい…。(下関市 河野典子 1万円を添えて)


[通信費をありがとうございました]

 先月以降に入金してくれた方々です。と言いながらだいぶ前、たとえば1月に振り込んでくれているのに通知の手違いで今号になって掲載する結果となってしまった方もいます。すみませんでした。他にも掲載漏れの場合があろうかと思います。どうかご連絡ください。通信費は1年2000円ですが、数千円、1万円とまとめて払ってくださる方も少なくありません。ありがとうございます。(地平線会議) 菅沼進(1/8に入金)/秋元修一/小森茂之/北村昌之/藤原謙二/戸高雅史/小山田美智子/河野典子/吉竹俊之/長田幸康・明美/妹尾和子/鶴田幸一/永島祥子/長濱静之・多美子/山上一郎/渡辺一枝/渡辺久樹/八木和美/川島好子/長田乾/前田良子/北村敏/池田祐司/滝村英之

■先月の発送請負人

森三輪主彦 森井祐介 関根皓博 藤原和枝 車谷建太 久島弘 米満玲 松澤亮 野地耕治 江本嘉伸 関根五千子  ご苦労さまでした。


[あとがき]

■フロントに三輪さんが書いている通り、災害は突然やって来る。東京にいても震度3程度の地震にはしばしば遭遇するが、これは余震であり、間もなく強烈な揺れが来るかもしれない、と時に覚悟する。恐怖を克服するために予防線を張る感じだが、何度も重ねることで多少本番に備えている気がしている。

◆同じようなことを時々、飛行機に乗っている際に意識する。520名が死んだ1985年8月の日航ジャンボ機墜落事故。あの時、乗客は死を覚悟してふるえる字で家族や愛する者にメモを書き残した。自分もいつそういう場に遭遇するかわからない、と思うのである。鉄の固まりが落ちないのがおかしい、とどこかで諦めている。

◆長野市で聖火リレーが行われた日、四万十川源流にいた。ドラゴンランの仲間に、夕食後のひととき、チベット問題とは何か、話をさせてもらった。新聞、テレビが大きく報じた日に、こういう場所でチベットのことをテーマにする時間もあっていい、と思ったのだ。後で「ドラゴンランでチベットの話をお聞きして以来、テレビや新聞でチベットのことが出ていると反応するようになってしまいました」とメールをもらい、よかった、と思った。

◆四万十川の山田高司隊長ほかから救命胴衣がいかに大事か、ということを私は教えてもらった。泳ぎができる、できないは関係ない。自分だけは大丈夫、と信じこんでいても時には膝程度の深さの流れでも足を取られてあっさりと死ぬ。こういう死は徹底的に避ける責任がある。

◆今月の報告者、永島祥子さんの話で是非とも聞きたいのは、南極暮らしの危険について、だ。私たちのまわりに、絶対安全なんてない、まして南極は、と思うのだ。(江本嘉伸)


■今月の地平線報告会の案内(絵と文:長野亮之介)
地平線通信裏表紙

南極デスマッチ

  • 5月30日(金) 18:30〜21:00
  • ¥500
  • 於:新宿区立新宿スポーツセンター(03-3232-0171)

「仕事も日々の生活も、常になんかと格闘してる感じでしたよー」。南極での暮らしをこう語るのは永島祥子さん(33)。第48次南極越冬隊で、'06年11月〜'08年4月の約一年半、地圏(地学)観測隊員として、主に地震とGPS観測を担当しました。永島さんが越冬隊に参加するのは二度目。とはいえ慣れたもの…とはいきません。「任務も違うし、マニュアルはあっても自然相手だから、どう遂行するかは現場判断。狭い基地内で35人の生活も、顔ぶれでこんなにも雰囲気が違うのかとびっくりしました」と永島さん。今回は“野外副主任”という役割りを与えられ、個人的に“安全管理”をテーマに設定。仕事に大きな比重を占める野外作業や遠征の旅で、安全を最重要視したリーダーシップを取るように努めました。不便なことがあたり前の世界で格闘した一年半に祥子さんの自己採点は?

今月は、まだ南極日焼けさめやらぬ永島さんに、知られざる南極暮らしのAto Zを語って頂きます。


通信費(2000円)払い込みは郵便振替または報告会の受付でどうぞ
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議(手数料が120円かかります)

地平線通信342/2008年5月14日/発行:地平線会議/制作:地平線通信制作室
編集長:江本嘉伸/レイアウト:森井祐介/イラスト:長野亮之介  編集制作スタッフ:三輪主彦 丸山純 武田力 中島菊代 大西夏奈子 関根皓博 藤原和枝 落合大祐/編集協力・横内宏美/印刷:地平線印刷局榎町分室 地平線Webサイト http://www.chiheisen.net/
発行 地平線会議 〒160-0007 東京都新宿区荒木町3-23-303 江本嘉伸方


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