2008年4月の地平線通信

■4月の地平線通信・341号のフロント(1ページ目にある巻頭記事)

地平線通信表紙

んにちは。この通信のフロントの題字が毎号毎号、変わっているのはご存知と思う。我らが地平線イラストレーターはありとあらゆる知能を振り絞り、新しい題字を生み出してきた(以前は1年間同じ題字で通したこともある)。勿論、まったく読めないこともあるが、それは大したことではなく、むしろいかに読ませないか、を画伯は愉しんでいるようなところがある。ただはっきりしているのは「字」というより断然「絵」の要素が強く、その月の報告会のテーマと関わる何かを描いていることだ。3月号はシカ、2月号は向かい風、1月は野鳥たち。報告会に参加した人はなんとなく会場の雰囲気が思い浮かぶと思う。

◆で、今月。ご覧のようになんと聖火リレーの風景が登場した。わからせないどころか、わかり過ぎて困るほどのホットな話題である。3月24日アテネで採火された北京オリンピックの聖火は、31日に中国をスタートし、カザフスタン、イスタンブール、サンクトペテルブルグと運ばれ、欧州へ。冒頭のロンドンで妨害を受け、8日のパリでは、相次ぐ体当たり攻撃に数キロ走った後は、ランナーともどもバスで輸送されてしまった。大西洋を越えて明日10日に聖火リレーを控えるアメリカでも前日から大々的な抗議行動が始まっている。日本でも4月26日、長野市の善光寺をスタート、18.5kmを80人のランナーが聖火をつなぐ予定だが、すでに善光寺には抗議の電話が殺到していると聞く。平和であるべき聖火リレーがいまや「中止すべし」の声も出る前代未聞の事態なのである。

◆国を消され、さらに固有の文化も抹殺されようとしている人々が、「3月10日」のチベット蜂起(1959年のこの日中国軍に抗議してチベット人が立ち上がった)49周年の記念日に、国際世論に訴えるにはこの瞬間しかない、と命がけで行動に出たのだ。その意志をつぶすわけにはいかない、そういう思いに駆られた人が多いのは不思議なことではない。

◆以前にも書いたと思うが、新聞記者になったのが1964年の東京オリンピックの年だったので五輪とは少し縁がある。東京では結果的に日本の金メダルラッシュとなったレスリングを担当し、72年冬の札幌冬季五輪でもトワ・エ・モアの「虹と雪のバラード」を聞きながら、スケート、ジャンプ、フィギュアなどの競技場を駈けずり回った。社会部で国際的な話題を担当する遊軍記者の立場にいたのと言葉がわかるというので80年のモスクワ五輪にも行かされそうな気配だったが、この時は我がままを言わせてもらった。チベットに行きたかったのだ。

◆1980年、中国が初めて外国にチベットを開放した。先陣を切って日本山岳会がチョモランマの登山許可を得、私の属する新聞社が後援することになった。オリンピックよりそちらに断然ひかれたのである。エベレストそのものには5年前に南面のネパール側から対面している。何よりもチベットの人と風土を自分の目で確かめたかった。

◆いわゆる「政府招待所」のほかはホテルなど1軒もない時代だった。僧院など文革の破壊行為の傷跡があちこちに無残に姿をさらし、寄り道はまったく許されない旅だったが、ラサのジョカン寺周辺はじめやはりチベット人の世界は魅力的だった。チベットの文化はしぶとく生き残っている、と感じた。

◆2年後、ドキュメンタリー撮影チームの一員(新聞記者は許可されなかったのでスチール・カメラマンとして参加した)に入れてもらって、今度はかなり綿密にチベットの人々の暮らしを取材することができた。勿論漢族幹部の監視下でだが、それでも遊牧草原の一部始終、ヤルツァンポー流域の農村地帯の暮らし、森林に覆われた東チベットの炭焼きや狩り、ラサやシガツェの大僧院の僧たちの修行などとつぶさに接し得た3か月は、私の生涯の宝物となった。チベットが遊牧というよりは農業を主体とした経済圏であることを理解したのもこの時である。何よりもこの地で長い時間をかけて培われてきた文化の多様さ、宗教心の深さに圧倒された。

◆モスクワ五輪はソ連軍のアフガン侵攻に抗議する日本を含む多くの国のボイコットで低調だった。あれから28年たって開かれる北京五輪もある意味で、半世紀以上にわたるチベット文化への侵害が世界にさらされたことで、開催に黄信号が灯った、と言えるだろう。ダライ・ラマとは何度かお会いしているが、人として信頼に足る高潔な方だ。なぜ国際世論がこれだけ盛り上がったのか、賢い中国人が冷静に分析しようとしないのが何とも不思議である。

◆最後に題字に戻って、時々聞かれる「EAIBCK」の意味。「Edited & Issued By Chiheisen Kaigi」です。(江本嘉伸)


先月の報告会から

鹿撃ちサバイバル奮闘記

伊吾田宏正

2008年3月27日(木) 新宿スポーツセンター

■エゾシカ。私は、何となし「見るもの」だと思う。しかし伊吾田さんにとっては「研究対象」であり「獲物」でもある。報告会当日、まだ雪深いという西興部(にしおこっぺ)村を早朝に発って駆けつけてくれた伊吾田さん。堂々たる存在感、はっきりと落ち着いた声。パワーポイントを用い、淡々と自らの背景や取り組みについて講義をしてくれた。伊吾田さんは、「害獣を資源に」をテーマに掲げた、実践研究者なのだ。

◆まず西興部村にたどり着くまでの来し方を紹介。横浜市大では探検部に入部、ヒマラヤ6000m峰にも登っている。4年在学時、クマに興味を持ち、更にマタギサミットに参加して影響を受ける。大学院への進学を目指したが、院試に失敗。それが幸いして(?)、北海道知床で、ヒグマやエゾシカの生態調査等を行う調査員という仕事に就いた。調査員時代、現東京農工大の梶光一教授(当時は北海道庁)にエゾシカ調査に誘われ、エゾシカの魅力にやられてしまう。エゾシカを研究対象として、東大大学院、北大大学院を相次いで修了し、その間に狩猟免許も取得した。

◆エゾシカだけでなく、野生動物全般と人間社会との軋轢が激化している。農林業では、ようやく実った作物を鳥、イノシシ、シカ、クマ、サルなどに食べられる被害額が毎年200億円弱に達する。人自身が襲われたり、交通被害に遭う動物も増えている。都道府県レベルでこれに応ずる制度は整備されつつあるそうだが、過疎化や狩猟者の減少のため、現実には対応が難しい。

◆いまや狩猟者は「絶滅危惧種」とも揶揄されるほど少なく、全国で20万人以下と言われている。日本では、狩猟について考えたこともないという人が多いかもしれないが、北米や北欧では盛んに行われているようだ。伊吾田さんは、全米一の狩猟好きの州であるモンタナ州のホームセンターに銃や弾丸が並んでいる写真を見せてくれた。それが良いとか悪いとかではなく「狩猟を身近にしている人たちもいる」ということだ。

◆狩猟するのは、日本では少数派だ。野蛮な行為あるいは必要悪のように、ネガティブな印象をもたれるかもしれない、と伊吾田さんは憂いた。そして野生動物の価値について、多角的な視点から説明してくれた。伊吾田さんは10年ほど前から狩猟を始めた。大きなシカを獲った時には「体全体の細胞が活性化されるようだ」と学者の顔ではなく、カブトムシを捕まえた子どものような笑顔で話してくれた。鴨を獲れば、家族や友人と鴨鍋に。蝦夷雷鳥はブロイラーの10倍くらいおいしいそうで、年越し蕎麦の出汁にする地区もあるという。

◆マタギやアイヌ文化にも狩猟はつながるが、その他にも様々な意義がある。曰く経済的価値、社会的価値、生態学的価値……釣りをする少年と狩猟する大人。そこに差はあるというのか。「両者と同じ線上に、山菜採りもあるのです」と言われると、否定できない説得力だった。人は狩猟しながら進化を遂げてきた。狩猟者の役割は、森の番人であり、農業と共存することである。狩猟者は獲物を追い、自らの糧を得る。それは動物に農地を荒らされるのを防ぐことにもなる。彼らがいなくなれば、人間と動物との関係が崩壊してしまう。それは大変困ったことなのだ。

◆伊吾田さんは、理想的な野生動物の保護管理におけるポイントを教えてくれた。第一に、適正な個体数管理と被害対策。第二に、持続的な資源利用。ここでいう資源とはシカやクマなどの野生動物のこと。獲りすぎず放置しすぎず、という姿勢で狩猟すれば、動物の数も適度に保たれる。第三に、地域住民による管理。第四に、狩猟の見直し。最後に、そのための体制作りと狩猟者の養成。伊吾田さんはこれら5点を実践研究している。そのフィールドが西興部村だ。

◆明治開拓期、エゾシカは良い獲物だった。官営のシカ肉缶詰の工場があり、海外に輸出していたほどだったとか。ところが乱獲と大雪の影響で絶滅寸前となり、禁猟に。しかし、今や過保護政策、生息地の変化、暖冬、狩猟者の減少などの要因が重なり、増え過ぎの状態だという。北海道でのエゾシカによる農林業被害額は現在、年間数十億円にのぼる。増え過ぎたせいで年間千件以上の交通事故が起き、国立公園など自然植生が破壊されることもある。

◆平成10年から北海道はエゾシカの保護管理計画を行っている。目標は、平成5年道東部に20万頭いるとされたのを、10万頭までに減らすことだ。しかし、狩猟者の行動をエゾシカが学んだり、狩猟者が減少したりしているので、計画通りに事が進まない。そこで、エゾシカを「害獣」と捉えるのではなく、「資源」と見直し、個体数の目標値を上げて、持続的にこれを利用しようという動きがでてきた。シカ肉はおいしいし、高タンパク・低脂肪・ミネラル豊富だそうだ。角や皮は工芸品の材料としても優れている。

◆平成16年、西興部村は村全域を猟区に設定した。村はエゾシカの越冬地になっているし、酪農のための牧草が彼らにも餌場を提供しているので、好猟区なのだ。なにしろ狩猟界では「Big Game」と呼ばれて人気がある。伊吾田さんは、新たに設立されたNPO法人西興部村猟区管理協会で中心となって活動。現在は弟さんが職員となり新婚の奥様(すでに狩猟免許を持たれた)の助けを受けて村民とエゾシカの共存および地元ガイド付きの安全な狩猟ツアーを提供することを仕事としている。

◆村に新たな収入も生まれた。1日の入猟者数、仕留められる頭数を規定し、車に乗って移動するガイド付きの狩猟ツアーは昨年までの4年間で、延べ84人を呼び、382頭のシカを得た。関東からの入猟者が57%を占める。ホテル宿泊費なども含めて、4年間で3000万円の経済効果があったそうだ。狩猟ツアーのほか、初心者向けの狩猟セミナーや地元小学生への環境教育授業も実施している。東京農工大では実習の一環として村を訪れ狩猟見学するそうだが、その中の有志が「狩部」を設立したというから驚く。

◆徐々に客数も伸びているが、NPO法人として課題は多い。つまり、絶妙なエゾシカの個体数調整を行い、高度な技術を要するハードな仕事をしてくれる人手を得、非狩猟期にセミナーを開くなど経営の安定化を図ることだ。その一つ一つが難しく、多くの支えを必要とするものだろう。しかし、ここで伊吾田さんたちが踏ん張ってくれなければ、日本独自の鳥獣地域主体管理と人材(狩猟者等)育成制度の整備のモデルがなくなってしまう。

◆報告の後の質疑応答はいつにも増して活発だった。会場に駆けつけた梶教授(伊吾田さんをエゾシカに導いた人)やその学生が紹介され、梶さんは伊吾田さんたちの活動が、国内で唯一、狩猟者を育て、エゾシカを食べて活用している場だと、その重要性に改めて言及した。江本さんが「根底にある問題として日本人の食に対する意識を変える必要があるのでは。そのためにどうすればよいか」と問う。これには自らも狩猟者であるサバイバル登山家の服部さんが応じた。服部さんは、仕留める時の「体が騒ぐ感覚」を伝えることだと話した。狩猟の魅力はそこにあるようだ。

◆このあたりから会場の話題は「捕獲することへの抵抗感」を中心にしたものに。私は、肉も魚もおいしく食べるのに、それを殺す段階はパスしている。動物の血を流すのは何だかイヤ、というこの気持ちは何なのか。手を上げた金井重さんは、それを「作られた罪悪感」と切り取り、狩猟するほうが、無理して作られた食肉(ブロイラー等)を食べるよりずっといい、と語った。まあ、その通りだ。自分の手で殺さなくても、肉や魚は食べられる。だが、服部さんが話すとおり「獲物を仕留め、解体して、それを食べる楽しさを伝えていく必要性」もあるだろう。伊吾田さんは、狩猟だけでなく「ツーリズム全体の中での狩猟」と位置づけて、その楽しさを広めていきたい、と会場の議論を受けた。

◆最後に「銃があると撃ちたくなる気持ちが生まれるのでは」と心配する声が出て、報告会の雰囲気は少し変わった。銃社会・アメリカの現実を見るまでもなく、それは誰にもわかる怖い側面だ。しかし、動物を殺した経験があれば、無差別に人を撃つことをためらう可能性も生まれるかもしれない。二次会も含め、これまでに銃を手にして獲物を得た人たちは、それぞれの体験をとても楽しそうに話していた。エゾシカでも何でも、獲るからには、食べるなり何なり、有効に活用したいものですね。

◆狩猟免許はないけれど、西興部村でのんびりしたい。きれいな写真だった。村のホテルで名物のシカ肉料理を頂き、シカ肉缶詰をお土産に買って帰ろう。(後田聡子 4月から桜美林大学大学院 国際学研究科 言語教育専攻 日本語教育専修1年)

[報告者のひとこと]

 3月の報告会のその後、僕は毎週末を北海道西興部村で過ごしています。日に日に雪が融け、フキノトウやフクジュソウが顔を出す中、麻酔銃でシカを生け捕りして発信器をつける調査に没頭しています。彼らは警戒心の強い生き物で捕獲作戦は困難を極めていますが、昨日記念すべき1頭目が奮闘1か月目にして漸く捕獲されました。地域資源としての村内のシカの行動を把握するため、今後さらに追跡個体を増やしていきます。ちなみに今夏憧れのチベットでチルーという有蹄類を生け捕りする調査にも参加することになり、彼の地の動向が気になるところでもあります。

◆さて、今回の報告で言い尽くせなかったことのひとつに、「野生動物を殺すということ」の意味があります。野生動物と人間の軋轢が問題となっている昨今、その対策としての社会的意義はある意味分かりやすいかもしれません。しかし、人類にとってのその根源的な価値を、狩猟経験のない方達に言葉で伝えるのは難しいでしょう。多くの現代人にとって野生動物を捕獲することに、経済的または生存的意義は希薄です。しかし、いち狩猟者としての私にとってそれは人生の重要な位置を占めています。

◆こちらの存在にまだ気づいていない獲物に向かって、風向きを考え、茂みや起伏を利用しつつ、静かに忍び寄るとき。絶好のチャンスに、全身の細胞が活性化しているのを感じながら引き金を引く瞬間。渾身の射撃が急所を外れ、逃げられた獲物の、僅かに残る血痕と足跡を辿る緊迫したドラマ。追いついて止めを射すクライマックス。動かなくなった獲物の体温と深い瞳の色。自分より重い獲物を山から下ろす困難を乗り越えた達成感。整然なる構成を解体しながら、良質な肉塊を取り出していく充実した過程。家族や友人とその滋味あふれる料理を味わう至福。これら、狩猟者に許される体験は、人類の進化の長い歴史の中で私達が自然の一部として営んできた根源的な行為に他ならないという意味において、私達がこれを愉しむことは極めて価値のあることだと私は思います。皆さんも狩猟をしてみませんか?(伊吾田宏正)


地平線ポストから

[飛べ! ヒコーセン!]

 こんにちは! 安東@北海道大樹町からです。ここは日高山脈の麓で、牧場以外には何にもなさそうなのどかな田舎なのですが、飛行船の巨大な秘密基地があるのですよ。宇宙開発でお馴染みのJAXAが、高度数万メートル上空に巨大無人飛行船を常駐させ通信基地として使う「成層圏プラットフォーム計画」のために作った基地です。ヒコーセンですよ、ヒコーセン! 人が搭乗できる飛行船は日本に2隻しかなく、その秘密基地をお借りして、そのうち一隻を組み立てていたのです。作業開始して3週間、ついにヘリウムガスを注入し、巨大なハンガー内で飛行船が浮上しました。充填したヘリウムガス代はなんと1600万円也!

◆来週この基地を飛び立ち、いったん九州へ向かい日本を往復縦断します。とくにアドベンチャーでなく、JAXA(注:宇宙航空研究開発機構)の計画とも関係なく、広告をつけて飛ぶお仕事ですが、15人のクルーはイギリス、スウェーデン、エクアドル、シンガポールなど世界各国から集まった飛行船のプロフェッショナル達。ぼくもアメリカの飛行船運営会社に雇われ、大型トラック数台で飛行船着陸施設ごと移動しながら日本を旅するのです。なかなか面白い仕事ですよ。まあ飛ぶのはパイロットで、ぼくが搭乗しているわけでないのですが。

◆ちなみに今日は人類が初めて空に飛び立って81952日目。1783年のパリで気球に乗って初飛行した人がいるのです。作ったのがモンゴルフィエ兄弟、飛んだのはド・ロジェという人。この瞬間こそイカロスの神話時代から続く大空への夢の実現と、新たな人類の空への探険と冒険の始まりでした。1852年には蒸気機関をつんだ飛行船が登場。1929年にはツエッペリン号が世界一周に成功。本格的な飛行船時代が来て大西洋路線などあちこち定期航路ができました。ところが1937年にヒンデンブルグ号が炎上、みなさんも白黒の映像で見たことあると思います。突如飛行船時代は終わり、空の主役は飛行機に取って替わられました。

◆超音速で航空機が雲の上を駆け抜け、人類が月まで達する時代。スピード狂と効率のこの時代に飛行船は時代遅れかもしれません。でもだからこそ面白いのです。ちなみにもう一隻の飛行船は遊覧クルーズをやっていて、1時間半でおひとり15万円!という破格のお値段ですが、それでも需要があり飛行船が存在しうるのは、なんといってもロマンがあるんですよ、ヒコーセンには!

◆空を飛ぶことそのものが冒険だった時代を彷彿させる気球と飛行船。そうですね、太平洋を熱気球で横断しようとした神田道夫氏を忘れてはいけませんね。当初搭乗予定の石川さんや安東だけでなく、あの世界最大の熱気球スターライト号の製作は、20人以上の地平線の若い連中も関ったのですから。神田氏は太平洋半ばで機体名のとおり星になってしまいましたが、あの執念には驚くべきものがありました。前述の人類初飛行のロジェもドーバー海峡横断時に墜落し初の空の犠牲者となり、イカロスもリリエンタールもサンテグジュペリもみんな空に散りました。神田氏も大空の殿堂の仲間入りです。

◆人類の飛行へのロマンは、空の青い限り永遠に終わらないのです。もしどこまでも広い空を頭上に感じたならば、しばし作業の手を休めて空を見上げてください。あなたの街の上空にも、もしかしたらぼくらの白地に青い模様の飛行船が飛んでいるかもしれないですね。関西は4月下旬、東海は5月上旬、関東は5月下旬くらいかな。6月中旬にまた北海道に戻って任務終了です。

◆ところでチベットが大変なことになっています。今現在、数万、数十万、いや数百万人のチベット人が、恐怖の中で過ごしていると思うと心が痛い。中国はオリンピック招致の約束として、人権問題の改善や外国人未開放地区をなくすとしていました。ぼくら自転車野郎に関係するのですが、チベットはほとんどまだ未開放で約束は守られていません。報告会によく来ていたユーラシア自転車横断中の田村さんは、雲南とチベットの境で足止めを食いコース変更を余儀なくされています。先々月、スティーブ&エミちゃんのチベット走破の報告がありましたが、今はとても走れる状態ではありません。

◆安東は自分の冬季チベットを自転車走破した本(『チベットの白き道』)でも、チベット独立問題に触れてきました。去年はチベット文化圏に10回はツアーの仕事で訪れ、とくにラサの貧富の差の拡大、人々の宗教心が以前より増していることを感じていました。6月末からチベットは高山植物のシーズンになり、今年もツアーの仕事が始まるはずでしたが、今の状況では難しいでしょう。今年はぼくは失業ですね。でもそれよりも親しいチベット人の友達がどうなっているか心配です。去年、お寺で歓迎してくれた僧侶たちや、五体投地していた人たちはどうなったでしょう? チベットを平和に自転車で走れる日が来ることを祈ります。僧侶たちと笑顔でダライラマの話ができる日が来ることも。(4月5日・安東浩正)


「種子島探検隊、広田遺跡に立つ
   金井 重

 時間とは不思議な妖怪。腸が煮えくり返る怒りも、胸が張り裂けるような哀しみも、時間がたつとそんな時代もあったね、となります。時代の流れに流されてこの辺まで流れてくると、気になる「十牛図(注‥じゅうぎゅうず・禅の悟りにいたる道筋を牛を主題とした十枚の絵で表したもの)」の第十図「入廛垂手(にってんすいしゅ)」の影響でしょうか。自ずと故郷が懐かしく、今年の旅は、日本を歩こうと決めていました。

 ある日、種子島セミナーが開かれ出かけます。会場は大勢の人。宇宙センターの方も島出身の落語家も出席。帰りは地酒も島焼酎も当るくじがついてました。私は空くじなしの部で、カラ芋(薩摩芋)を三本頂きました。

 その後「あの時説明のあった島体験ツアーはどうなりましたか」と電話を入れると「参加者が十数人集まっています」「私も参加です」。よかった間にあってホッと受話器を下すと、すぐベルが鳴り「おいくつですか」「歳ですか?

 ○○才です」「エーッ、大丈夫ですか、砂糖きび刈りも歩く日程もあります」「あーら大丈夫よ。砂糖きび刈りも疲れたら見学するし、歩きも大変な時は折返し点で待ちますから」。本人が太鼓判を押しました。調子にのって「帰りのチケット、伸ばしたいのですが」「そんな勝手はダメです。今まで三つの地区の観光センターが、やっと一本になりこの企画には県の助成金が出ています」なるほど種子島といっても郵便は届きません。鹿児島県○○郡○○町○○番地です。

 名前を「種子島探検隊」に変更していたツアーは、毎日の充実度満点でした。昨日は砂浜の美しい東支那海に面した十五キロの長浜海岸を歩きましたが、この日は太平洋に面した海岸を歩き、広田遺跡の砂丘にたどり着きました。教育委員会の若き男性が、「この砂を見てください、白い点々が混じっているでしょう。これは貝ガラです。この砂のために人骨がそっくり損傷なしで発掘されたのです。成人男子で一五〇センチちょっと。女子は一四〇センチちょっと。日本人としては低いですね。この人骨は海南産の貝製の装身具を身につけ、どの人骨も額と頭の後がピタッと平らです。後天的にそうしたと思われます。この年代より後の広田人の遺跡はなく、どこから来て、どこに行ったのでしょうか謎です」 「その頭の形の人、マヤ族です。中米グアテマラで出会いました。」と私。説明をしている男性は情熱をこめて話していますから、このズーズー弁は大声で制止されましたが、私も始めて出合った広田人の謎にわくわくしてしまいました。そして南米エクアドルのグアヤキル博物館では、縄文時代と同じ土器にびっくりしたものです。ここの出土品は博物館ですから目の前にしてはいませんが、海からの風をうけこの砂丘に立っていると、静かな感動が胸いっぱいに拡がりました。

    広田遺跡に立つ

  海に入る 広田川ぞい 砂丘かな
         貝砂のバリア 弥生期広田人

  波の音に ながき眠りを 守られし
         装身具残す あやしき遺跡

  広田人 いずこに消えし 音もなく
         貝の耳かざり 腕輪語らず

 初めからプログラムにあった砂糖きびから黒糖づくりでは、浜田黒糖生産組合におじゃましました。砂糖きび収穫率日本一の種子島で現在も黒糖まで仕上げる数少ない組合です。

 まず畑で砂糖きびを刈り、工場で皮をはぎ、しぼって煮つめる、攪拌して黒糖に仕上げる全工程を、四人ずつに分かれ交替でさせて頂きました。

 作業は全部手作業。十二〜三人で和やかに進行しています。男も女も土地の言葉で和気あいあい。ここに働きにくるのが楽しみだそうです。労働の喜び、労働の楽しさがここにはありました。非常に楽しい体験でした。

 島では畑が大きくないから機械化が難しい。高齢化・後継者難で見通しが立たない人も多いそうです。建築関係者が土地を買上げ、大規模な生産工場にする動きも出ていると言います。

 島を歩けばどこにでも立派な舗装道路が走り、大きな体育館や真新しい施設が堂々としてます。今まで島で仕事と言えば公共事業でした。これからは国の交付金が少なくなるので、建築業者も次を考えているのでしょう。自治体も団塊世代の島移住や、観光事業の振興に力を入れ始めたようです。

 島が今日まで美しい海岸や畑、緑を維持してきたのは、島に住む人々の日々の営みがあってのことでした。

 グローバル化の中で、島の人々の暮しを基本に、島の特徴をどう生かし発展させるのか、この難問、しみじみ考えさせられました。

 さて最後に地元の人もまだ知らない秘密もあります。ちょっと掘ったら化石がざくざく、しかもちょっと掘っただけでそのまんまになってる島の化石群、その古さ一千六百万年前。怪しく光るカキ貝化石です。

 あちらからなら?

 という場所で、パッと手にした品格の化石は全長十五センチ、重さ五七グラム。月に行きたしと思えど、月はあまりに遠かりき。かくて一千六百万年前の化石に二礼二拍手。心澄める日々です。


[天空の旅人 春の瀬戸大橋を飛ぶ!]

 3月、僕は瀬戸大橋を飛んだ。瀬戸大橋は本州(岡山県倉敷市)と四国(香川県坂出市)を結ぶ本州四国連絡橋のひとつで、2008年4月、全長9.4kmの「瀬戸大橋」は開通20周年を迎える(着工から9年6か月後の1988年4月10日完成)。

◆今まで天空の旅は自然が対象だった。今回その対象が巨大構造物になった。そのときの風に乗り、その時の光を捉え対象を表現する、これが僕の撮影だ。僕のとる飛行ラインは何にも縛られないことにその楽しさと深さと難しさがあると自負している。瀬戸大橋。対象は国家事業としてさんざん撮り尽くされ、おきまりの構図も存在している。何をどのように表現するか。こと今回はそのことを考え始めると、僕の飛行ラインはいままでにない迷いが発生していた気がする。

◆案の定、撮影take 1は圧倒的な橋の大きさにヤラレタ。確信を持って飛び込めたラインは一本も空に描くことができなかった。撮影現場を端から見たならば、風に吹き飛んだコンビニ袋が長さ10km弱の巨大な橋と戯れているように写ったに違いない。撮った映像をプレビューするとセスナやヘリで撮ったものとさほど変わらない、眠くなるような映像が映し出された。僕はそのテープを捨てた。take 2に向け、僕は構造物を撮るという考えをやめた。大切なのは空間。対象を取り巻く空間を捉えてこそ、対象の意味に近づける。いつもの思いへとシフトした。

◆take2。僕は橋から遠ざかり橋のたもとの集落へ翼を走らせた。岡山側の橋の起点となる下津井の漁港では潜水漁や底引き船で賑わっていた。「たこ」が名産であたりには蛸壺がゴッソリところがっている。きっと入港する船が落とし物をするのだろう、沢山のカモメがたむろしている。橋脚のかかる櫃石島の西側には無人のビーチとブッシュが広がり人影は無かった。東側に向けると集落と漁港が広がっていた。瀬戸内海は西風が一年を通じ吹き続ける。そのため島影となる東側に暮らしが根付いていることを後に知った。次に橋脚のかかる小さな小さな岩黒島では、漁を終えた潜水夫のお父さんと微笑み遊ぶ小学生の子供達と出会ったりした。

◆激しく潮流が渦巻く海へも向かった。超低空を行くと波立つ潮流と風がぶつかり乱流を作ることを知った。少し高度を上げると潮流を大きく捉えることができた。潮流は大きく円を描き、その中央の波立たない海に魚はたむろしていることが集まる釣り師の船から伺えた。島々が点在する海域へ向かうと「こんな空間があったのか」と改めて日本自然美の懐の深さを知ると同時に、瀬戸大橋の存在する空間の凄みを見た。幸運にも大潮の引き潮の時のみ現れる「海の道」とも遭遇した。誰の足跡もつけられてない柔らかい白い砂の道と透き通る海のコントラストはなんとも愛おしかった。

◆自由に飛行ラインを描き、瀬戸内を構成する要素一つ一つに迫るなか、旋回するたびに僕の目にはチラリチラリと瀬戸大橋が見え隠れした。僕の中にある「橋は隔絶された大地と大地を繋ぐもの」という認識は崩れ、生活感あふれ、躍動する空間のすぐそばを瀬戸大橋は静かに走り抜けている。いつしかそんなふうに僕は瀬戸大橋を捉えるようになっていた。撮影は夕景や橋のライトアップの時間まで及び、無事クランクアップ。その思いが結果8本のテープに収まった。つまり8回フライトできたということだ。1回で決めなければならないことが多かった中でこれは自分の中で「やった!」と思える仕事となった。

◆余談となるが瀬戸大橋の寿命は100年と知った。一つ丸が少ないのではと疑ったが現代技術の粋をあつめ建設されたこの橋の寿命はあと80年。その命を延ばす努力はなされているが1000年も2000年も耐えうるものでないことを知った。橋のある景色、橋のある島景色を望むことをできるのは今を生きる僕たちだけかと思うと、この空間の見え方もちょっと違って見えてくる気がした。

◆毎回のことではあるが、今回の撮影も岡山県、香川県はじめ多くの人の理解と協力があって成立したことを改めて感謝する。さらにずっと船で伴走してくれた“瀬戸内の生き字引き”、地元漁協の西野隆久さんがいたからこそ、僕は思いきり飛ぶことに集中できた。とても勘のいい人で潮流と飛行ラインとを上手く読み、船を操る様に僕は何の不安を感じることは無かった。重ね重ね感謝する。(4月5日 多胡光純)

追記:4月中旬よりマダガスカル島、飛んできます。詳しくは後日。


[瀬戸大橋シナリオ風紹介]

★多胡君の今回の仕事、岡山県中心の放映だったので見ることができた人は少ない。 岡山に住む藤田光明さんがシナリオ形式で書いてくれたので転載する。(E)

瀬戸大橋
料金の高さから派生する様々な問題も抱えていますが、今回は映像美を追求した番組でした。(岡山発・藤田光明)

早朝、岡山・児島側から飛び立つ

 「広いなあ 瀬戸内海は!」
瀬戸大橋に沿って飛ぶと思わぬ風の影響
下津井の漁港

たごっちの履歴

「景色が橋をも飲み込んでしまっている」

海面すれすれ超低空飛行
大潮で潮の流れが速い
海の底が見える

瀬戸大橋の解説
上が道路、下が鉄道 列車が走っていく

斜張橋 白鳥が羽を広げた姿
その下の岩黒島 約90人が暮らす漁業の島
トラフグの養殖

橋の中間地点 与島パーキングエリア
古い灯台 明治5年

橋の下は国際航路 900隻/日
海面から橋まで65m 巨大タンカーや客船も通れる
フェリー(神戸−新居浜)と平行して飛ぶ

坂出工業地帯 四国へ
ケーブルを支える186mの塔の上
讃岐富士が見える

「力があふれている空間 元気もらうような……いい時間 瀬戸大橋の時間」

夕方再び離陸

夕焼けの瀬戸内海
橋の下を海面すれすれに

「瀬戸内がオレンジに染まっていくよ」

「年に何回有るか分からないような綺麗な夕日で
人それぞれがそれぞれの思いで眺めていると思うんですね
こんな空間にこの人たちは暮らしてるんだ 生きてるんだ
自分もこの景色を一緒に見たんだ
うれしさが最高潮に上がりますよね」

手を振る子供たち

夕闇迫る中、橋の上空を飛ぶ

■参考までに「料金の高さから派生する様々な問題」ってどんな? と、藤田さんに聞いたところ、以下のような解説でした。
<瀬戸大橋の通行料金は、早島−坂出 普通車往復で8200円(開通当初は9200円)。通常の高速道路と比べても距離あたりの料金は割高です。4月5、6日は架橋記念半額割引(ETC装着車のみ)で、通常の1.5倍の利用量だったそうです。四国在住の弟は岡山に帰省するときはいつもフェリー。流通業者も急がないときはフェリーを使うようです。そのほか「四国側からは見れば企業誘致、地域格差の元凶になっている」とか「社会的インフラが生かされてない」という声も。「橋脚の島」となったところでは過疎の問題が出て、観光業界はブームが去って廃業するところもあります。>

[梅里雪山にチベットの人々を思い、大久保由美子さんの文章に母の死を思う]

■梅里雪山…数年前に…たしか写真展の告知か何かが世話人メールに載った時に初めて聞いた名前だった。なんだか胸の奥がザワつく響きだった。今回TVになると聞いて、ザワザワがよみがえって来た。番組は先月の通信に制作秘話として小林さんが書いているとおり、とても丁寧なつくりと私も感じた。それにハイビジョン映像はうちの10年もののTVのそれも録画でも、とても美しい風景だった。(とてもいい番組なのに、今が旬の小栗旬君をナレーションに起用しても視聴率はとれないものなのですね。)

◆番組を見ている間、ある場面では「ツアコン」だった時の辺境の高地旅を思い出した。またある場面ではチベットを旅した時のタルチョのはためく峠の冷たい風や360度の空、におい、過酷な天候や自然を思った。

◆そして私はある時は「親」だった。またある時は「子」だった。ご遺族のお一人が「親が反対したって…息子は行きたくて行った。…それが私のよりどころ」とおっしゃっていた。親に反対されようと旅立つ子だった自分。となりで寝息をたてる我が子たちもいずれは、自分の意志で旅立っていく事もあるにちがいない。それを送リ出す親になるのか…なんて少し思ってしまった。

◆これは「梅里雪山 十七人の友を探して」も読まずにおれるものか!と手にしたものの、結構ずっしり…最近、絵本と育児本と生協の社会情報誌くらいしか読んでない。脳がだいぶ衰えているので読破できるか心配だったが、あっという間に読んでしまった。通信の読者はほとんど読んでいるだろうが、中には私のような人いるんじゃないかな?遭難の事実や捜索の模様の記述はもちろんのこと、東チベットの事、土地の人々との出会いふれあい、沢山のきれいな写真がとてもよかった。

◆最近のチベットの事件を見聞きするたび、チベット仏教のこと。聖地のこと。漢族とのこと。商業経済の波。いろんな事を思い出したり、考えさせられたりします。争いには犠牲者が出て、その人には家族がいるんだよなって…

◆村長さんのお嬢さんが日本に留学されたとの事。都会に染まっても故郷の空を忘れないで!都会は空気は汚いし、異国の水や食事で体調を崩さないことをお祈りします。地平線の人は真面目でまっすぐな人ばかりだけど、小林尚礼さんは本当に尊敬します。今後のご活躍お祈りしています

◆地平線ポストの大久保由美子さんのブログを読んで、平成2年に胃癌から脳に転移して脳内出血で逝った母(63歳)との最後を思い出した。まだ23歳だった私は、まさか人がそんなにあっさり死ぬとは知らなくて、これから長い長い闘病生活があるんだろうから、沢山お金がかかるんだろうな。高い治療でも、薬でもじゃんじゃん使ってあげられるようにがんばって働かなきゃとおもって、昼はOL、夜は銀座のホステスをして、あくせく働いていた。酒乱でDVの父とは離婚していたから、母一人娘一人だった。

◆胃癌の手術をした大学病院は、開腹してリンパに転移のある末期の患者だとわかると「もうここでは診れませんから、次の病院を紹介します」と言って、どんなに母が懇願しても、救急車で運ばれてみても、診てくれることは無かった。紹介された病院は、近所で「あそこに入るとみんな死んじゃうのよぉ」と言われている病院で、なんでそんなヤブ医者に母を預けなければいけないのかと憤ったが、後で考えてみれば大学病院で診てもらえない患者が回されるところなんだから、そこの病院がヤブなのではなくて、助からない患者が来るから「みんな死んじゃう」わけだった。

◆母はその病院に入院するのがいやで、しばらくうちで痛みと戦っていたが、ある日、自分で荷物をまとめて入院した。私が病室を出ようとすると母は「メロン食べたいなぁ。網目のついた高いやつ♪」と言った。ほとんど食欲もなく、食べられなくなっていたのに、そんな事を言った。私は「わかったよ、帰りに買って、明日もってくるね。これからバイト(ホステス)だから明日の朝はたぶん寄れないけど、会社の帰りに夕方もってくる。おいしいの買ってくるから楽しみにしてね」と言ったのが最後の会話になった。

◆翌日の午前中、会社に危篤の電話が入った。入院した翌日に脳内出血を起こし意識不明になった。死ぬ人は自分の死期がわかると聞いたことがある。母には癌の告知はしていなかったが、母は症状などからわかっていたのかもしれない。家の書類袋には私が困らないように、生命保険は○○に電話。預金は○○銀行。などと書いたメモが証書や通帳などとともに入れてあった。そんなわけで、最後までほとんど一緒にいてあげることはできなかったなぁと、ちょっと思い出し泣きをしてしまった。

◆母が亡くなった後、初めての葬儀のばたばた、焼却炉のドアが閉まる時の気持ち(もう母には会えないんだ、母の顔も身体ももう見ることも触れる事も出来ないんだ)、お骨になってしまった母の骨を拾う気持ちになれなかった事(親戚に促されて拾ったけど…)、私生児の兄と異父姉との遺産相続のどたばた、信じていた兄に実家から追い出される、やっとの思いで墓地購入などの一連の騒ぎがおさまるまでの1年余くらい、ゆっくり涙を流して母を思うなんてこともできなかった。

◆私は母が40歳の時の子供だ。母は「私は長生きしないから、親がいるうちに親の言う事はよく聞いておけ」と口が酸っぱくなるほど言っていた。一緒にいた年月は短かったかもしれないけど、母は私に、一人で生きていくすべを一通り教えてくれたと思っている。「育てたように子は育つ」とあいだみつをさんが書いていた。いろいろ反発もしたが、育ててくれたように育った気がする(母は不満かもしれないが、こんなもんだ)ってことは〜我が子ふたり育てたように育ったらキャ〜やばい(笑)

◆大久保由美子さん、この度はご愁傷様でした。輪廻転生 ご安産お祈りしてます。(青木明美)


[海岸はごみで大変、多胡さん、できれば空から見てみてくださあい!!]

■毎月通信を楽しみに拝見しています。10月には浜比嘉島で地平線会議が計画されていると知り、いいなあ、ぜひ参加したいものだ!と沖縄好きの血が騒ぎます。日頃は受身一方ですが、今日は少しだけ自分の活動についてお便りします。

◆犬の散歩ついでに街なかのごみ拾いをしてみたのがきっかけで、今ではどっぷり、JEAN(クリーンアップ全国事務局)という環境NGOで海に漂着するごみ問題に関わっています。国際海岸クリーンアップという、市民参加による漂着ごみ調査を続けていますが、動機は単純、きれいな海やおいしい魚介が好きだから、です。

◆ダイバーでもサーファーでもなく、海辺出身でもありませんが、浜歩きをして流木や貝殻を拾ったり、ぼんやり波を見ているとほっとします。しかし! 30年くらい前までは地域住民が年に1,2度清掃すればで充分きれいだった海岸も、プラスチックのごみだらけ。特に、八重山諸島周辺をはじめとする東シナ海と、北部九州から青森にかけての日本海沿岸の状況が深刻です。

◆海のごみは、海流や風の影響を受け、日本の各地に偏在して漂着しますが、日本では皮肉なことに過疎化や高齢化の進んでいる地域(特に離島)の被害がひどく、拾う人手がない、回収しても島では処理できない、本土に運ぶ費用も地元負担という三重苦になっています。自然に戻らないものを大量に使い捨てる現代の生活からでるごみが、川を通って海へ来ているのですが、一般的には漁業やレジャーのごみばかりだと思われています。

◆仲間とともにJEANの活動をはじめて、はや18年が過ぎました。自分たちで清掃やごみ調査をするほかに、漂着ごみ問題で困っている地域からご相談をうけたりして、あちこちに伺う機会があります。先日も企業の社会貢献のお手伝いで、西表でのクリーンアップに行きました。集落から遠く、島の人もなかなか清掃できずにいたという海岸は、見渡すかぎりごみごみごみ。150名のボランティアが、2時間かけて清掃できたのはわずか150メートル、集めたごみをバケツリレーで路上まで運びあげるのに2時間半を要しました(回収量は80トン)。

◆作業後、浜は見違えるほどきれいになりましたが、防風林(アダンの繁み)の中はトゲがあって入ることができず、浜辺の何倍ものごみが堆積しています。拾いきれなかったごみは紫外線で劣化し、無数の破片と化し、見えないほど小さくなっても存在し続けます。専門家によれば、海水をろ過して取り込む生き物の体内からも、微細なプラスチック片が見つかっているとのこと。

◆自然の楽園といわれる北西ハワイ諸島周辺では、日本から流出したごみによってアザラシやコアホウドリなどに、絡まりや誤食の被害を与えています。自然にかえらないごみを出すのは私たち人間だけなのに。

◆ごみさえなければ、白く続く砂浜、目の前の青く澄んだ海、マングローブ林の緑、と見飽きることのない美しい光景が広がっています。この清掃に、偶然にもJICAの研修の一環で島にいらしていた向後元彦・紀代美ご夫妻が、参加してくださいました。向後さんたちがマングローブの植林活動などを進めているインドネシアの海辺でも、最近はごみ問題が深刻になりつつあるのだそうです。西表でもマングローブの根元に絡みついたレジ袋や漁網などは、木肌を傷めてしまい、枯らしてしまうと問題視されていました。

◆日本政府も、ようやくこの問題に対して重い腰を(すこしだけ)上げつつありますが、まだ解決への道のりは遠いです。まだあきらめないで続けようと思えるのは、やっぱり海の魅力(食べ物含む)と、ごみ拾いついでのビーチコーミングの楽しみがあるから、かな。

◆私のひそかな野望は、多胡さんに日本の海岸線をぶうーんと飛んで、鳥目線で漂着ごみの実態を撮影していただく、というものです。環境省では、2007年に初めて海ごみ問題に総額3億5千万円!の予算がつき、全国の7箇所11海岸で調査と清掃が行われています。大手のコンサルが受託して、いろいろなことをしており、なかにはセスナによる空撮で漂着状況を把握、というものあるのですが、セスナでは高度が高すぎて海岸線に山ほどある生活ごみはぜんぜん写らないのでした。委員会でなんども手法の欠点を指摘しているのですけど。多胡さんにぜひともそれを代わっていただけないものかと夢みています。(小島あずさ クリーンアップ事務局代表。1998年、「ホクレア号」のナイノア・トンプソンを初めて日本に招いた女性。地平線とはその頃から)


[特攻隊の映像を頭に叩っこみ、激しい凍傷にもめげず冬季カナダ自転車走破1100km]

■やっと終わりました。 冬季カナダ中央平原縦断1100km。期間70日間。さて、1100kmといえば、ウルトラ・サイクリストなら2日間の距離。夏のコンディションなら速い人で1日600km走る。どうしてそんなに日数費やしたの? その前に…いつもとちがっていたところが2つある。 ひとつは、酷い凍傷を患った。顔面、手の指数本、足の指10本全部が凍傷。とりわけ足の指は酷く、終えたいまでも足引きながら歩いている。もちろん真っ黒。でも切断は免れた。

◆そもそも日本を発つ3日前の富士山で顔面凍傷を患ったのだ。カナダではスタートして4日目に早くも1週間の入院。日数の半分を凍傷のための入院と通院、抗生物質投与、点滴投与に費やした。ちなみに1か所の病院ではない。退院したら(完治しないまま)北上、そして凍傷悪化でまた入院、を4回くり返す。医師からの猛反対は毎度のこと。でも、マイナス40度だろうが凍傷で指が真っ黒だろうが自転車旅なら続けられることを証明できた。厳冬自転車旅において死の危険はほとんどないともいえる。

◆もうひとつは、旅立ち前に「神風特攻隊」の映像を10日間、何百回も観つづけた。強さとは何か。困難とは何を意味するのか。旅立ち前の思い(疑問)が、そのまま今回の旅の支えになった。特攻隊の生き様からすれば、指を失うことくらいどうってことはない。厳冬の自転車旅なんてたいしたことはない。

◆「神風特攻隊」の生き様には賛否両論あろう。彼らにしても自分の意志でやっているわけではない。それでも「神風特攻隊」の生き様が、モチベーションを高めるのに役立ったのは確かだ。そして人は死んだあとでも、その人の精神は生き続ける。早死はムダではない。いやいや、治療のため町で長期滞在が続いたので、楽しいことも多かった。北へゆくほど物価が上がるカナダ。安いホテルでも1泊1万円はする。病院の外にテント張らせろ(滞在費セーブのため)と言ったら、アジア並みに安い部屋をさがしてくれた。

◆またカナダの治療費は信じられないくらい高額。治療が長引くにつれて、病院には内緒にしてタダで診てくれる医者があらわれた。病院から高価な薬をパクってきてくれたり。一部では入院まで無料。ちなみに治療費に関しては最終的に、海外旅行保険が全額降りたが。 極北の人たちはホスピタリティーにあふれていた。気分転換に町でもっとも高いレストランに行ってもタダにしてくれた。町でただ一つの華僑のチャイニーズ・レストランでは、何度行ってもついに一度もお金を受け取ってくれなかった。金儲けに走る華僑(失礼!)で、こんな体験ははじめてだ。

◆カフェでコーヒー一杯で時間をつぶしていると、誰かしらが食事をもってきて(おごって)くれた。町を歩いていると知らない人からでも「具合はどうだ?」とよく声をかけられた。最後の方は、自転車乗れるのは1日2時間が限界になってしまった。痛さと冷たさのために。1日2時間漕いで、3日休養(もちろんテント)して、をくり返す。幸い、いたるところにアイスフィッシングの小屋が点在していたので、世話になった。こんな、尺取虫のような超ウルトラ・スローペースで2か月半も費やしたおかげで、これまで見れなかった世界が体験できた。来冬もこんな旅したいな。来週帰国します。(4月5日 田中幹也 痛々しい凍傷の写真を添付して)

★「こんな体調で厳冬・富士山よりさらに極寒の地へ行ったところで、勝算があるとは思えない。それでも行かねばならない」と言い残してマニトバ州北部の平原に旅立った田中幹也。強風の冬富士に連続5週、山麓駅から歩いて往復した根性はさすがだが、なんと特攻隊の映像を何百回も見てモチベーション高めての挑戦だったとは驚いた。別のメールでは「求めているのは『成果』ではない。求めているのは『己の可能性を限界まで出し尽くす』こと。そして自分は『まだ何も成し遂げていない』という焦燥感が行動を支えている」とも書く。うーむ。そういう男を優しく遇したカナダの人々は田中を修行僧とみたのかもしれない。田中幹也よ、富士山信仰を爆発的に発展するきっかけをつくったあの高名な修験者、食行身禄(じきぎょう・みろく1671-1733)の生き方を少し調べてみては?(E)

[春、6畳一間の暮らしがスタート! 地平線通信、結構、読まれているみたいです]

■新年の地平線通信に「新聞記者を辞める」との身辺雑記を寄せたところ、社内外で若干の波紋があった。「辞める前に書いちゃまずいだろ」云々との反応だ。社内でほとんど公にしていなかった段階で書いていいのかなと思ったが、「大丈夫、地平線を読んでいる新聞記者なんてほとんどいないから」との江本さんの言葉を信じてしまった。僕の数少ない社内人脈で読んでいたのが3人、あと、富山支局時代に同期だった毎日新聞の記者から「おまえ、辞めるらしいな」との電話があった。地平線通信、結構、読まれているみたいです。

◆仕事の方は現在、有給休暇の消化中。正式退社は6月だが、仕事は3月いっぱいで終了した。実は退社を決めてからが忙しかったのだが、中でも熱気球で太平洋横断に挑戦した神田道夫さんの遭難が最後の大仕事になってしまった。今年1月31日に栃木県を離陸したときの光景は今も目に焼き付いている。炎に照らされた赤と黒のスターライト号は、暗闇に灯された巨大なろうそくのようだった。彼は太平洋上空8000メートルという、誰もが理解できない異常空間に足を踏み出したのだ。

◆「あー、本当に行っちゃったな」と隣の人がつぶやいた。僕も同じ気持ちだった。あー、いっちゃった。その言葉の裏には「もう、この人に会うのは最後かもしれない」という思いと、ある種の感動みたいなものがあった。飛び立つ直前、神田さんから陽気な笑顔が消え、にらみつけるかのように見送りの人たちの方を見つめてこくりとうなづいた。死を覚悟してもなお、それをやらなければならない男の顔を見た気がした。そして、本当に行方が分からなくなった。

◆僕は神田さんのことを日本では傑出した冒険家だと思っていたのでずっと取材してきたが、世間では彼がどんな人か知る人はあまりいない。「無謀なことに挑戦する風船おじさんみたいな変な人」。この程度の認識ではないか。なにせ「冒険をする」と大まじめに話したらクスッと笑われるようなお国柄である。神田さんへの偏見の前に冒険に対する理解がない。大人がすべきことではないと思っている。だからこそ、彼がやろうとしたこと、やってきたことを分かってもらおうと記事を書いた。遭難から2か月以上たち生存している可能性はゼロに近い。米国沿岸警備隊が捜索を打ち切った時点で夕刊で大きく報道し、埼玉県版では3月下旬、特集を組んで神田さんの足跡と彼の冒険についての解説記事を載せた。これが実質的に新聞記者としての最後の記事となった。

◆最近、埼玉県草加市に引っ越した。フリーのライターになるといっても、実質、無職に近い。これまでのような無駄遣いは減らさないといけないと思い、縁もゆかりもないが、都心に近く家賃だけは安いこの町に決めたのだ。ユニットバス付きの六畳一間のワンルーム。月4万円。部屋は片づけていない段ボールが山積みでなんとか寝る場所だけはある。朝食を作り、部屋を片づけ、新聞を読み、洗濯をして、夕食を作ると一日が終わる。たった数日間だが、「今日も何もしていない」と自己嫌悪に陥った。仕事がなくなったことに対する不安感と、部屋の狭さによる圧迫感がないまぜとなって襲ってくるのだ。

◆社会とのつながりが切れたことが突然怖くなり、知り合いにやたらとメールをだしたり、とにかく人に会わないと、と思って取材めいたことをお願いし、予定が合わず先延ばしにされてうろたえたりした。今、自分が一番しなくてはいけないことは何かと真剣に考えたあげく、誰かと結婚して将来の不安感を共有する相手を見つけることだと思い至り、ちょっといいなと思って何度かデートしていた相手に交際を申し込んで断られたりもした。

◆でも、いいこともあった。2週間くらい前から悩まされてきた座骨神経痛に伴う右足のしびれが山に行ったら治ったのだ。北アルプス・笠ヶ岳の雪稜を登ってきたが、最初はうまくあがらなかった右足も登っているうちに気にならなくなった。雪が重くやたら疲れた登山だったが、帰宅しても症状は出ていない。なんだかよく分からないが、肉体を酷使すると痛んだ部分が治ることもあるようだ。生活のリズムもつかめてきたし、いけるところまで行ってみようという気分になってきた。今後の予定もある程度固まってきた。8月にネパールに行き、できれば冬にもう一度、ヤル・ツアンポーの峡谷を訪れたい。来年以降は裸で戦うパプアの独立ゲリラも取材したい。それをいかに文章にまとめるか、その能力が僕にあるのかはまだ分からないが、楽観的な性格が天から授けられた唯一の才能だ。なんとかなるだろうとは思っている。(角幡唯介 まだ朝日新聞記者)


[新学期、授乳しながらまた小学校へ]

江本さん。お元気ですか? 東京は満開の桜も見ごろを終えた頃でしょうか? こちらは、ようやく庭先の球根が小さい芽を出しはじめました。昨日と一昨日には春の雪に見舞われ辺り一面真っ白になってしまいました(^_^;)。本当に雪国の春はまだお預けのようです。私も母親になりもうすぐ1年が経ちますが、実は一昨日から地元の小学校で働き始めました。まだ授乳は続いているので昼休みには家に戻ったりしながら働かせてもらっていますが、久しぶりの勤めに、いい緊張感を感じています。なかなか上京のチャンスをつかめていませんが、いつも通信から刺激をもらっています。有難いです。また再会できる日を楽しみにしています。(4月3日 春を待つ村から  奥会津 酒井富美より)


[伊吾田宏正さんと西興部猟区の取り組み]

■今回、私は初めて地平線会議に参加した。しかし、報告者の伊吾田さんには随分お世話になっているので、特に緊張せずこられた。卒業研究で西興部村猟区を調査地にさせてもらったから。正しく言えば西興部村猟区の取り組みに参加した学生を対象とさせてもらったのだ。なんでまたそういう経緯になったのか。

◆大学2年の時、ひょんなことから西興部村猟区の「新人ハンターセミナー」に参加することになった。大学の先生から飲み会で、「北海道でシカのことやってるところがあるんだけど、行く?」と聞かれ、野生動物に興味はあったが知識はほぼ皆無の私は、“北海道” “シカ”というキーワードだけで「はい、行きます!」と即答した。

◆その後、狩猟がどうたらと詳しい説明を受けたが、狩猟? 日本でやっている人がまだいるんだーぐらいの印象で(すいません)まさか自分が卒論で狩猟をやるとは微塵も思っていなかった。そんな私がセミナーで初めて伊吾田さんにお会いしたのだ。セミナーでの体験はどれ一つとっても初めてのものばかりだったが、伊吾田さんの猟区に対する熱い想いはばしばし伝わってきた。

◆体験は全て新鮮な驚きだった。同時に、自分のなかで妙にしっくりくるものがあった。実際にハンターの方にお会いし、狩猟の現場を見、獲れたシカを解体・調理を体験したことで、あぁ私たちが普段食べてるものってこういう段階を経て、私たちの手に入るのだなという、実感・感謝の気持ちがこみ上げた。そしてこのような体験は重要だと感じたのだ。

◆だから、西興部村猟区を調査地に選び卒論を書くことにした。西興部村猟区の試みを少しでも広める手助けをしたかったのだ。「新人ハンターセミナー」に大学の実習で参加した学生を対象に、今の学生が狩猟に対してどのようなイメージを持っているのか、そのイメージはどこから持ったものなのか、実際に新人ハンターセミナーに参加したことで狩猟に対するイメージがどう変化したのか、そして狩猟をやってみたいと思ったか、などアンケートと聞き取り調査を行った。

◆調査結果は卒業論文として大学側に受理されていて近くそれを加筆・修正して改めて学会誌に投稿するつもりなのでここでは割愛する。が、西興部村猟区の取り組みが参加者たちに大きな影響を与えたのは確かだった。参加した学生の中から有志で「狩部」なるものが設立されたのもそのひとつだろう。狩部の部員は、狩猟免許を取るために互いに情報交換をしながらお金を貯めながらがんばっているみたいだ。まだまだ少人数であるが、そういう狩猟に対して熱い心を持った若者がでてきてくれたのは、伊吾田さんの熱い想いが伝わったのだなと思う。

◆そんながんばっている西興部村猟区だけれども、まだまだ抱えている問題は少なくない。今の経営の主体は伊吾田さん弟夫妻に任せられているが、経営状況は厳しい様子だ。私はこの取り組みがもっと広まってほしいと願っているが、現実はなかなか厳しい。西興部村猟区だけじゃない、野生動物保護管理の分野っていうのは、概してお金がない。市場経済のなかで、なかなかお金に直結するお仕事ではないからだろう。とってもとっても重要な仕事なのに。

◆だから、今度私がしたいことは、こういう分野で働いている人たちが安心して仕事ができるそんなシステムを作っていくことだ。私の中でのキーワードは「エコツーリズム」。西興部村の取り組みも、エコツーリズムの一つとして捉えられるのではないかと。だがしかし、キーワードだけで、そんなシステムどうやって作るんじゃい?! と私もまだまだ考え中です。勉強する中で、私のできること探していきたいと思います。そして、間接的でも西興部村猟区の手助けになっていったらいいななんて思っています。

◆西興部村での体験は、私の人生を考える上での転機になりました。そんな体験をさせてくださった伊吾田さんに大感謝です! ありがとうございます! これからも応援しています。(野田江里 4月から首都大学東京 地理環境科学研科 観光科学専修)


[父が元気で91歳の春を迎えました]

■江本さん、お元気ですか。こちら指宿は、朝寝坊の桜がやっと満開に向けて咲き出しています。冬の冷え込みが続かない当地では桜の開花が遅いのです。さて、3月22日は父甚蔵(注:野元甚蔵さん。『チベット潜行 1939』著者。幼少のダライ・ラマが初めてラサに入る際、その行列に遭遇している)の91歳の誕生日でした。昨年5月、9月と2回入院したものの復活、が、大晦日に風邪でダウン。1か月近くかかりましたが、貧血で気を失う事もなく、元気にこの日を迎えることが出来ました。父も笑いながら、以前京都の佐藤長さん(注:京大名誉教授 チベット学。野元さんと北京時代に面識がある)から「君は逃げ足が早く、悪運が強いからな」と言われたのを、事あるごとに言っています。

◆現在は、新聞にチベットの記事があると、切り抜いてファイルしている父です。ただただ、平和のうちに収まればいいのにと…。私はこの3月で20年近く勤めた会社が閉まり、暫くゆっくりしたいと思っていますが、怜(11才4か月のビーグル犬。3才の頃農薬入りのものを食べたらしく痙攣の発作を発症)も頻繁に痙攣がありますので、父にも今まで同様、「老人が看る犬介護」を頑張ってもらいます。江本さんも時間が取れましたら、またこちらにもいらして下さいね。それではまた。kikkoでした。(4月5日 開聞岳の麓から 野元菊子)


[外間さん家の子になりたいっ!!]

■浜比嘉島の外間昇さん・晴美さんの所に、お邪魔してきました! 3月に1か月間の春休みをとり、沖縄をぐるり旅行しようと、うきうきとしていたわたし。浜比嘉島にも行くといいよ、と江本さんが晴美さんに連絡してくださり、お邪魔できる事となり、さらにうきうきわくわく。

◆しかし沖縄への道は遠かったのです! さあ念願の休みとなって、初日は「お台場チャリティーラン」に参加。走るとみぞおちが痛いので、「こんな所が筋肉痛に!」と、きゃっきゃっと喜んでいたら、実はそれが胃潰瘍でした。胃潰瘍なんて熱血サラリーマンの専売特許だとおもっていたのに……。胃カメラを飲んだり食べ物に気を使ったり、初めての経験はおもしろいにはおもしろいのだけれども、痛いし、しんどいし、イヤになっちゃう。最初の一週間をじっと横になって過ごし(膨大な量のマンガを読む)、次の一週間を少し出歩いてはこりゃだめだと横になって過ごし(さらに読む)、やっとこさ沖縄に行けそうだ、となった頃には休みは残り10日間となっていました。とほほ。

◆飛行機に乗ると気圧の関係か胃が痛くなるので、気圧ってすごい! と、感動です。よろよろと那覇空港に降り立った時には、ああ、わたしは沖縄にやっとたどり着いたのだと、涙が流れました(うそ)。まずは国際通りのそばにあるゲストハウスに宿を取り、ぷらぷらと市場付近を散歩した所、食料品やお土産なんかを売っているお店の中、古本屋さんを発見。椅子を勧められ座ると、「市場の一日をここで眺めるのはおもしろいよ」と店主さん。気づいたら翌日も翌々日も、わたしはそこに入り浸り、店番をする事になっていました。

◆古本屋さんの隣はスクガラスなどを売っているお土産屋さんで、向かいは鰹節を売っている乾物屋さん。市場の周りのお店は道側に棚を出して商品を並べる構造の為、すぐには閉められない。小さいので、一人でやっている所が多い。なので、ちょっと用があるとお隣に「お願いしますね」と店番を頼みます。わたしも頼まれ、食べたことのないスクガラスを懸命にアピール。が、1つも売れない。店のおばさんが帰ってくると、すぐ1つ売れる。しょんぼり本を売ることに専念するが、本もちっとも売れない。半径5メートルくらいの場所をぐっと身近に感じられた時、胃の痛みは気にならなくなっていました。

◆これはちょっと、動けるかも知れない。そんなわけで、古本屋さんの自転車を借り、那覇から浜比嘉島へと向かうことに。いつも通勤で仕方なく乗っている自転車だけれど、久しぶりに漕ぎ、しかも初めての場所となると、嬉しくって仕方ない。沖縄特有のゆるい坂をのんびりと上り下り、海風を気持ちよく受けながら海中道路を走り、にやにやと半日ほど。たどり着いた時、浜比嘉島は輝いて見えました(ほんとう)。

◆初対面でどぎまぎするわたしを、優しく迎えてくださったのは晴美さんとゴンくん。周辺を案内していただいてから、牧場へ。そこにはヤギとアヒルと鶏と春休み中の島の子供がわさわさ。そして昇さんが!ハイキングコース(遊びに来られた長野さんが最初に木を切り、ヤギが通って道となったそう!)に連れて行ってもらい、展望台から報告会の会場になるかもしれないという海のそばの広場(広くってたくさん集まれそう!)を眺め、みんなで泊まっても大丈夫という秘密のキャンプ場所(気持ちよく寝られました!)を教えてもらいました。

◆夜、外間家には自然とお隣さんやお友達が集まって来て、庭のテーブルでお夕飯。作ったりもらったりの採れたての食材で作られたご飯は、晴美さん曰く「買っていない物率・沖縄産率」が100%の事も多いそうです。食後には大きな七輪に火を熾し、沸かしたお湯でお茶を飲みます。薪は山から拾ってくる、無駄なものはなにもない、と昇さん。(この七輪と薪で焼いた朝の食パンの美味しいこと!)

◆翌日も牧場にお邪魔させてもらい、ヤギを放牧させる昇さんにくっついて山をあっちへこっちへ。一匹一匹、性格が違うヤギを見ていると、ちっとも飽きません。好きな葉っぱも食べ方も、みんな違うみたい。山にいる時ヤギは、どんな気分なのかしらん。周りが全部ご飯だったら興奮しちゃいそう。嬉々としてひたすらに、葉を食べているヤギ。ああ、わたしもヤギになりたい(ような気もしてくる)。

◆毎日のように遊びに来ているらしい子供達に「おばさん、あっち行こうよー」などと遊んでもらったり、子ヤギの抱き方を教えてもらったり。あっという間に、でも穏やかに時間は過ぎて行き、「毎日が、楽しいよ」「ここにいればすぐに胃潰瘍なんて治っちゃう」と笑う晴美さんが、とても眩しかった浜比嘉島でした。

◆そうだ、昇さんは2月の通信に久島さんが書かれた「うんこ! うんこ! うんこ!」がすごく面白かったそう。糞土師の「野糞3点セット」に対抗して、昇さんの「選定バサミ」。ハサミさえあればなんでも山から調達できる、と仰っていました。(昇さんはどんな木にだってするする登ってしまうのです!)ヤギの好物でトイレットペーパーにも最適という、オオバギの葉を教えていただき、わたしは早速その夜、テントを張った浜辺で、寝る前のおしっこをするのに使ってみたのだけれど、確かに柔らか。(「うんこ」だけでなく、「おしっこ」の時もオオバギは使えそうです!)

◆そうだそうだ、江本さんは「東京のムツゴロウさん」と島のみなさんに呼ばれていましたよー。10月が今から待ち遠しいです。ゴンくんを可愛がられる、江本さんが目に浮かびました。ま、まさに、ムツゴロウさん!(外間さん家の子になりたい、加藤千晶)


[来たれ! 四万十へ! 浜比嘉にも行くぞ]

■お世話になります。昨日、4月3日、50歳になりました。19歳で地平線会議に出会った頃は,無茶な活動ばかりやっていたので、50歳まで生きるなどと,考えてもいませんでした。いつでも、死ねる覚悟はしても、人生設計など考えても来ませんでしたが、こうなったら、100歳まで生きるつもりで長期の夢計画を構想中です。豊かな青春、楽しい熟年となるように。といって、今すぐ階段ですっころんで、金玉かちわって死ぬかもしれませんが。メメントモリはいつも頭の片隅に置いてきたので、死はいつ来ても、ハイさようならの覚悟はできています。

◆4月26日からの、「四万十ドラゴンラン」の参加ありがとうございます。地平線会議の江本さん、ホールアースの広瀬敏通さん、観光進化研究所の小林天心夫妻など、豪華メンバーになりそうです。4月1日に、前回のメンバー、ロクさん、聖、キッド、みっちゃん、しほちゃん、隊長(山田は最近四万十でこう呼ばれています)で、四万十上流窪川のココねえ(こころちゃん)宅に集まって、作戦会議を開きました。参加者の経歴に圧倒されぬよう、気を引き締めました。万全の準備をと思っていますが、何事も、おおざっぱな高知でも、特にゆるい幡多人気質ですので、心配もあります。

◆現在参加希望者は,10人です。あと、8人のゆとりがありますが、地元の楽しいアウトドアマン達 (医者、消防士、役場職員、大工、その他変なひとくせ者達)も参戦しそうなので、地平線の方も是非いらしてください。人生に余裕のある60代を今後のターゲットにと考えていますので、是非アドバイスが欲しいのです。では、四万十で! 10月の浜比嘉島・地平線、四万十から仲間と参戦するつもりです。(4月4日 四万十住人 山田高司)

「四万十ドラゴンラン2008」は、高知県・四万十川流域を源流から河口まで196キロを自転車、カヌーで下るエコツァー。
  ★期   間:2008年4月26日〜2008年5月1日
  ★参 加 費:40010円(5泊6日・保険料含む)
  ★申込み締切:2008年4月15日
  ★申し込み先:四万十ガイア自然学校
    郵便番号:786-0316 
    住所:高知県高岡郡四万十町大正中津川624-1
    電話:0880-28-5758 FAX:0880-28-5758

地平線ポスト…南極便り

『南極レター』No. 23(最終号) 2008/03/18

[新緑が見たい。小鳥の声が聞きたい。雨の中で傘をさしたい。それと、スーパーで買い物をしたい。おいしいパンが食べたい。美容院に行きたい。居酒屋で飲みたい……]

■みなさん、こんにちは。最後の南極レターです。1年4ヶ月の長きに渡り、お付き合いいただきまして、まことにありがとうございました。シドニー入港まであと2日になりました。長かった船旅ももう終わります。帰りの船では、クジラの本を何度か眺めて、本物のクジラも何度か見て、せいぜい3種類なのに同定できずにまた本を見て……という思い出ができました。その他いろいろありましたが、なぜかクジラが一番印象に残っています。

◆今まで、船で酔うことはそれほどありませんでしたが、今回の船旅ではよく酔っていました。もう暴風圏も過ぎたので大丈夫です。「越冬どうでしたか?」と、越冬が終わって初めて誰かに会うとだいたい聞かれます。「しらせ」の人にも、49次の人にもずいぶん聞かれました。原稿でも、「1年の越冬を振り返って、まとめ的な記事を書いてください」と依頼されたりします。最後のレターなので、その答えのようなことを書くのがいいのかなとも思いましたが、まだ難しいようです。考えなければならないいろんなことが、まだ頭の中で整理しきれていません。

◆机に向かって文章を書き始めると、書きながら考えて整理されていくのですが、今回の航海は酔っ払ってしまったので文章を書くモードに持っていけませんでした。ですので申し訳ありませんが、帰国して会ったときにでも聞いてみてください。まだ「うーん……」と言っているかもしれませんが。。第一弾、頭の中整理バージョンは、モンベル会報誌「OUTWARD」40号で見られる、と、思います。

◆まあそれにしてもこの1年4か月、「南極観測を少しでも多くの人に伝えたい」と思いながら、よく文章を書き、写真を撮ったものです。その都度試行錯誤し、締め切りに終われ、大変だったし、なかなか満足のいく文章や記事は書けなかったけれど、ひとつの仕事としてそこそこの期間、モノを書くこと・記事を作ることにじっくり取り組めたことはとてもいい経験になりました。カメラマンがいないので写真も自分で撮らねばならず、「あー、自分の写真を雑誌に載せるのかぁ」と不安に思いながらも、なんとか……なりましたね。

◆ひとつ分かったことは、技術も必要ですが、いいレンズはもっと必要ですね(笑)。さて、だらだら書いていても仕方ないので、そろそろ筆をおきます。帰国したら、桜が見たいです。今から、日本を想像してわくわくしています。山に入りたい。新緑の緑が見たい。小鳥の声が聞きたい。雨の中で傘をさしたい。それと、スーパーで買い物をしたい。おいしいパンが食べたい。美容院に行きたい。居酒屋で飲みたい。……財布を忘れないようにしなくちゃね。帰国して出会った時、ぼーっとしているかもしれないけれど、そういうときはそっとしておいてください。お願いします。あさって入港したら、私も船を離れ、ほとんど帰ってきません。メールは3月25日に最後にチェックします。でももう、返事をするのも大変なので(笑)、急ぎでなければ帰ってからでいいですよ。それでは、お会いできる日を楽しみにしています。ありがとうございました。永島祥子@しらせ

[サラダ、サラダ! 帰ってきました!]

■久々の日本は、オーストラリアより違和感がありました。多くの人が暗い色の服を着て、暗い表情をしていたからかな。季節の違いもあるでしょうか、秋の入り口のシドニーでは人々は明るい色の服を着て、道ですれ違う一期一会の人々とも笑顔でHi! と挨拶を交わしました。道が分からず困っていると、Can I help you? と自然に声をかけてくれました。

◆南極で暮らし、オーストラリアに寄って祖国に帰ってきてみたら、なんだか人々の表情が幸せそうではなく……地球レベルの旅の終着点(東京)で真っ先に包まれた空気の中で、「なにも日本で暮らさなきゃいけないわけじゃない……」と反射的に思ってしまいました。その後、大阪〜小豆島〜鹿児島〜熊本〜福岡 と旅しましたが、都会から離れれば離れるほど、人々の表情は明るく、服の色も空も明るくなりました。少し安心。東京の人はもう少し明るい色の服を着ましょうか。

◆さて、私自身はというと、人に「暗いなあ」なんて言えるほど明るくはなく(笑)、旅に出ていたのも、一番の目的は祖母に会いに行くことでしたが、次の理由はひとりになりたかったからです。何もしないつもりで一人の時間を過ごそうと思いました。南極ボケというのか南極病というのか知りませんが、何がどうと説明はできないけれどもダメなんです。長時間人と話せば疲れる、人の話を長時間聞くのも疲れる、短時間で多くのことをインプットされると頭がパンクする、人と接したいと思わない、生きるっていう根本的なところで悩んだりもします……社会復帰は難しそうだなあ、と思いました。

◆旅先で接する人々との関わりは、社会復帰へ向けてのリハビリのようなものでした。ほとんど目を覚まさないのに生き続けている祖母の存在は、私に何か教えてくれるような気がしました。それにしてもいい季節に帰ってきました。どこに行っても桜が咲いています。桜は毎年当たり前に咲いて、見る人も当たり前に見るんだと思いました。近頃は食料品が高騰し生活に響くようだけれど、南極マヒの私にそんな実感が訪れるのはもう少し先のようです。スーパーに行くと、魚コーナーで魚を見ては喜び、野菜コーナーでわけぎ、水菜、ほうれん草、カイワレなんかをかごに入れては嬉しくなります。前よりサラダをにぎやかに作るようになりました。そんなこんなで、まだ地に足が着いていないというか、シャボン玉に入ってふわふわ浮いているような感じでいますけれども、現実は甘くはないのでそろそろ社会復帰します。この1年もまた、興味があります、自分がどう変わっていくのか。少なくとも明るい色の服を選んで着ようと思います。(4月8日 永島祥子)


[社会人として週末初仕事は、公園の花見でだんご売りでした!]

■江本さん、こんにちは。先日の地平線報告会、私自身は二度目の参加でしたが、とても楽しい時間を提供していただきまして、本当にありがとうございました。伊吾田さんとは以前に、狩猟の研究を一緒にやらせていただいた事もあり、また研究室の仲間や梶先生も参加されていたので、今回はまるで学校にいるような、不思議な気持ちで参加させていただいておりました。

◆江本さんと初めてお会いしたのも、山形で行われたマタギサミットででしたね。たまたま夕食で近くの席に座っていたため、江本さんや長野亮之介さんとお話する機会があり、その後は深夜までお酒を飲んだのも今となってはとても良い思いでです。その後、私の研究室の梶教授と、江本さん、長野さんが古いお知り合いだった事を知り、驚きました。だって凄い確率ですよね!

◆あの時たまたま江本さんとお会いし、地平線会議においでと言ってもらわなかったら、知り合う機会の無かった方たちと、こうして共に同じ話を聞き、課題に向き合い、そして楽しいお酒を飲む! なんてことなかったのです。毎回、様々な経験をされてきた方々と知り合うことができ、嬉しく思います。

◆思えば、学校の長期休暇を利用して出かけていた一人旅では、親友と呼べるまでに仲良くなった人もいます。人と人の出会いは何か不思議なご縁によるのだな……と改めて思ってしまいます。毎月のお話を始め、そういった人と人とを結びつけるような事を長年されてきた江本さんは、本当に凄いなって勝手に思っています^^。そして、そのような場に自分もいることが出来ることが、嬉しいです。

◆4月から、それまでの長い長い学生人生が終わり、社会人としての生活がスタートしました(ちょうど今、最初の一週間を終えたところです)。まだまだ人生のスタート地点に立ったばかりですので、これからも多くの人と知り合い、話を聞き、そして自分の見識を高めていきたいと強く思います。毎月の地平線会に参加するのを楽しみにしています! これからも、どうぞ宜しくお願いします。(深澤敦子 4月1日から東京都公園協会勤務。5日の週末初仕事は公園の花見でだんご売り。「朝から、夕方までおだんごを売ってきました! 疲れたけれど、楽しそうな人たちを見るのは、楽しかったです」)


[通信費をありがとうございました]

 地平線会議は「会」ではありませんので会費は取りません。ただし地平線通信は、通信費(1年2000円)で支えられています。以下は先月の通信に掲載できなかった支払い者リストです。郵便局へ振込んで払ってくださった方の中には2月振込みの方もおられるのに、掲載が遅れたことお詫びします。5000円、1万円とまとめて振り込まれた方にはお礼申し上げます。万一漏れていたらどうかご連絡ください。(地平線会議) 平野泰巳/林与志広/新垣亜美/村松直美/尾形進/三羽宏子/奥田啓司/石田昭子/野々山富雄/香川澄雄/白井省三/金子浩/比留川輝雄/梶光一/伊吾田宏正/伊吾田順平

■先月の発送請負人

森井祐介 関根皓博 三輪主彦 加藤千晶 山辺剣 江本嘉伸 米満玲 三上智津子 ご苦労さまでした。


[あとがき]

■毎月、今月は少し軽めでいいかな、と思いつつ地平線通信の制作に入るのだが、不思議なことに次々に面白い原稿が届いて、出来上がる時には結構な文章量になっている。それもどの内容も読ませてくれるのが嬉しい。長短は関係なく、重厚である必要はまったくない。あえて言えば、ほんものが出ていればいい、かな。

◆そういうわけで、通信の制作はなかなかドキドキして楽しい。これはレイアウトを一手引き受けしてくれてる森井さんも同じ意見だ。最後の1日はふたりの間で頻繁に電話のやりとりをし、掲載の順番、見出しの直し、などについてこまかい決定をする。そして刷り上がった印刷直前の紙を榎町地域センターの近くに引っ越したばかり(私のところも近い)の森井さんが自転車で持ってきてくれ、昼飯を取りながらもう一度チェックをする。

◆この記録は日本の21世紀の一断面を知るための手がかりとして100年後も残るだろう、という漠たる思いを持っているので、通信制作に手は抜けない。チベット、モンゴルなどをテーマにする時、100年前に先人が書き残した記録が、どれほど切実なものか、骨身に沁みているからでもある。

◆10月末の「地平線 in 浜比嘉島」を目指して、少しずつ少しずつ輪が広がりつつある。今月は胃潰瘍などという不似合いな病気になった加藤千晶さんが楽しいレポートを書いてくれた。外間さん、お世話になります。今後も密偵を送り込みますからねっ。(江本嘉伸)


■今月の地平線報告会の案内(絵と文:長野亮之介)
地平線通信裏表紙

西蔵から響く木霊(こだま)

  • 4月22日(火曜日) 18:30〜21:00
  • ¥500
  • 於:新宿区立新宿スポーツセンター(03-3232-0171)

北京オリンピックを巡る政治・社会問題の中心に“チベット”が見え隠れしていますが「チベット問題は人権問題と捉えたい」というのは世界有数のチベット民俗学者、貞兼綾子さん。

1959年3月17日にダライ・ラマ14世(チベット精神文化の最高指導者)がインドに亡命して以来、中国当局によるチベットへの締めつけは厳しさを増しています。特に言葉や文化への圧力が強い。表現手段を奪われたチベット人が長年月に渡って感じてきた苦難、怒り、不満が一連の抗議行動に滲出しているのです。「でも、一部のにわかチベットサポーターの中国批判に巻きこまれないでいたい。政治や経済とは分けて、“宗教・表現の自由の危機”を訴えたいんです」と綾子さん。

現在、ラサの大きな寺院で厳戒体制下におかれた僧侶達には、食料、薬品などのライフラインが満足に届かない状況です。中国全土で55〜56ヶ所に抗議行動と弾圧の動きがあります。今月は、今あるチベット問題と、そこに至るチベットの生き方について貞兼さんに語って頂きます。必聴必見です!


通信費(2000円)払い込みは郵便振替または報告会の受付でどうぞ
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議(手数料が120円かかります)

地平線通信341/2008年4月9日/発行:地平線会議/制作:地平線通信制作室
編集長:江本嘉伸/レイアウト:森井祐介/イラスト:長野亮之介  編集制作スタッフ:三輪主彦 丸山純 武田力 中島菊代 大西夏奈子 関根皓博 藤原和枝 落合大祐/編集協力・柏木彩子/印刷:地平線印刷局榎町分室 地平線Webサイト http://www.chiheisen.net/
発行 地平線会議 〒160-0007 東京都新宿区荒木町3-23-303 江本嘉伸方


to Home
to Tsushin index
Jump to Home
Top of this Section